2017年9月24日 (日)

佐伯泰英『空也十番勝負青春篇 恨み残さじ』(双葉文庫)

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 坂崎磐音の息子・坂崎空也の武者修行の旅での十番勝負、第二番である。第一番では、自分に無言の行を課したまま、よそ者を拒否する薩摩に入り二年間を生きのびた。その空也も十八歳になり、前回では薩摩を出ている。この巻は薩摩潜入のときに世話になったゆかりの人の多い、となりの人吉藩に戻っての話である。

 薩摩で尋常の勝負で倒した示現流の酒匂兵衛入道の一刀につけ狙われ続ける空也だが、この巻の最後でその子息のひとりと対峙する。

 居眠り磐音シリーズが終了した時点で佐伯泰英はもう読まないと決めていたのに、なじみの坂崎空也が動き出せばそのあとを追わないわけにはいかない。十番勝負が終わるまではつき合いが続くようである。空也は父親の磐音や母のおこんの性格のいいところを継いで、おおらかでいながら自分に厳しく、当然人に好かれることになる。しかし彼が選んだのは修羅の道である。

 彼の命を救い、彼を慕う薩摩の重臣のお姫様も前作に引き続き登場して、なかなか楽しめた。どうも坂崎親子とは縁が切れそうもないようだ。

映画「モーガン プロトタイプL-9」2016年アメリカ・イギリス

 監督ルーク・スコット、出演ケイト・マーラ、アニャ・テイラー=ジョイ、ミシェル・ヨーほか。

 遺伝子操作で新しい種の人間を生み出す研究所で事故が起こる。モーガン(アニャ・テイラー=ジョイ)と名付けられた新種人間の少女が研究員に襲いかかって傷つけたのである。そこへこの研究を進めている企業から緊急事態対処のためにリスク管理官のリー・ウェザース(ケイト・マーラ)という女性が派遣されてくるところから物語は始まる。

 事態を確認するための心理学者のシャピロ博士の到着が遅れるとの連絡があり、リーは独自に調査を開始する。この研究所が何をしているところなのか、その研究の過程でなにがあったのか、事故はどうして起こったのかが次第に明らかにされていく。研究員たちへの聴き取りで、モーガンは研究所の人々に愛されており、彼らは皆今回の事故に対してモーガンに同情的であることが分かる。 

 やがて博士が到着、モーガンに対して博士の聴き取りが始まる。さまざまな質問に対して答えていくモーガンだったが、博士はそのそつのない回答では彼女の本質が見えないと判断したのか、次第にモーガンを混乱させる質問へエスカレートしていく。無表情で生気のない様子だったモーガンの中でなにかが起こっていることを感じさせるが、博士はそれに気がつかない。

 突然その悲劇は起こる。

 緊急事態に対処するための手順は決められており、所長であるルイ・チェン博士(ミシェル・ヨー)の指示でそれが実行されるはずだったが・・・。

 それからモーガンの暴走が始まり、リーの必死の追走が始まる。リーは過去にも同様の事態に遭遇したことがあることがほのめかされる。ついにモーガンを追い詰めたリーだったが、身体能力に上回るモーガンの反撃で苦戦する。絶体絶命となったリーはどうするのか。

 ラストにプロトタイプL-9の意味が明らかになる。このことに気がついているとラストもなんとなく予想がつくが、気がつかないほうが衝撃の事実に驚くという楽しみが増すであろう。
 
 モーガン役の少女の無機的な表情が化粧とはいえ不気味である。もともとは表情豊かな可愛い少女だったことが過去の映像で明かされていて、皆がモーガンを愛している理由も分かるのだが、自分が人間ではなく研究生物であるということを知るほどに、彼女の中でなにかが増殖し、なにかが壊れていったことが想像される。これは普通の人間が閉じこめられて実験材料にされたとしても同じ反応を示すのではないか。

 リー役のケイト・マーラはいろいろな映画で見たことがあるが、どんな映画のどんな役だったかはっきり思い出せない。調べたら、ルーニー・マーラのお姉さんだという。ルーニー・マーラといえば、あの「ドラゴン・タトゥーの女」のリスベットを演じていた女優だ。なるほど強烈なイメージのある姉妹である。

 ミシェル・ヨーが脇役で登場している。ミシェル・ヨーといえば「グリーン・ディスティニー」での印象が忘れられない。知的なイメージのこの女優が活劇を演ずるのに驚いたものだ。「グリーン・ディスティニー」の意外な女優といえばチャン・ツィイーで・・・と話を拡げていくときりがないのでここまでとする。

 まあまあおもしろい映画であった。

2017年9月23日 (土)

人間嫌い

 人にはしがらみがあって、社会で生きて行くにはさまざまな人間関係を避けることは出来ず、わずらわしいことが多い。

 モリエールの戯曲『人間嫌い』では、レトリックを駆使して本心を隠してつきあう社交界にうんざりし、毒舌で相手をやり込めるアルセストが、その社交界で男たちを手玉に取るセリメーヌに一途に恋い焦がれ、振り回されるさまが描かれているが、本当の人間嫌いはアルセストなのかセリメーヌなのか。セリメーヌがアルセストをにくからず思っていることが明らかになったあと、アルセストは社交界を離れて一緒に隠遁しようとセリメーヌをさそうが、峻拒される。

 人間嫌いは人里を離れて隠遁するものらしい。日本でも人付き合いを避けて隠遁することにあこがれた人は多い。旅に漂泊した人たちもおなじだろう。

 とはいえ孤独で暮らせば人恋しくなるのが人間であろう。そのときに自分を偽らずに話せる相手であれば会いたいと思う。もしかしたら人間嫌いほど人恋しい人であるという逆説も成り立つかもしれない。アルセストがセリメーヌを必要としたように。しかしセリメーヌはにくからず思っているアルセストすら必要としない。だからどちらが人間嫌いか、と思うのである。

 本物の人間嫌いを自称する中嶋義通翁が、人間嫌いの要諦を『「人間嫌い」のルール』という本で、十項目にまとめている。

①なるべくひとりでいる訓練をする
②したくないことはなるべくしない
③したいことは徹底的にする
④自分の信念にどこまでも忠実に生きる
⑤自分の感受性を大切にする
⑥心にもないことは語らない
⑦いかに人が困窮していても(頼まれなければ)何もしない
⑧非人間嫌い(一般人)との「接触事故」を起こさない
⑨自分を「正しい」と思ってはならない
⑩いつでも死ぬ準備をしている

 どうであろうか。世の中のしがらみを拒否する代わりに自分が拒否されても何とも思わない覚悟がいりそうだ。いささか軟弱ながら、ほとんどいまの私の生き方に当てはまる。ただ、非人間嫌い(一般人)との「接触事故」を起こさない、という項目だけは守れそうもない。孤独に強いつもりだけれど、人恋しいときもある。それでは真の人間嫌いにはなれないのであろうか。別に進んでなりたいわけでもないけれど。

伊豆 天城越え

 NHKBSで再放送の「新日本風土記・伊豆 天城越え」を観た。2012年11月放送のものだという。

 最初に川端康成の『伊豆の踊子』の舞台としての天城越えが紹介されたのは妥当なところだが、そこで挿入された映画が高橋英樹と吉永小百合出演のものだった。何度もリメイクされているけれど、私のイメージでは三浦友和と山口百恵の出演したものである。この映画が封切られた当時、私は女性の多い映画館に行くのが照れくさくて、高校生だった妹(山口百恵と同学年である)を連れて観に行った。

 このときの映画で踊り子である山口百恵とおなじ一座の、病弱な少女役を石川さゆりが演じていたことをご存じだろうか。その石川さゆりが、のちに「天城越え」という歌で一世を風靡したことに私は深い縁を感じるのだが、誰よりも石川さゆりがそれを実感しているのではないか。

 番組では「天城越え」の歌の作曲をした弦哲也が、作詞家の吉岡治の思い出とともに歌を作った当時の話を述懐していた。いい歌である。以前石川さゆりがこの歌の歌詞を見て、強い抵抗を感じた話をしていた。ヒットしたのが信じられなかったようだ。しかしそれだけ思い入れもあるだろう。彼女には山口百恵に対するライバル心も人一倍あっただろうし、映画のときに脇役を与えられた記憶も残っていたと私は想像するのである。

 ところで歌の「天城越え」は、不倫の歌だとか、セックスの歌だとかいう解釈があるらしいが、私は松本清張の小説『天城越え』を下敷きにしていると確信している。しかし番組はそういう解釈を取らないようであって、最後まで松本清張の小説を取りあげることがなかった。番組のタイトルと小説のタイトルが同じなのである。言及しないことに私は不満だった。

 松本清張の『天城越え』はテレビドラマになり、少し後に映画化された。天城越えをする少年が出会う女を演じたのが、ドラマでは大谷直子、映画では田中裕子だった。私はNHKのドラマのほうが感情移入した。あのときの大谷直子が忘れられない(そういえば先日観たドラマ『人質の朗読会』で久しぶりに大谷直子を見たことを思いだした)。歌の「天城越え」にこの女の情念が歌い込まれていると考えると歌詞の意味が胸に響くのだが、新日本風土記では松本清張の小説に言及しないのが不満なのである(しつこいな)。誰も関連を言わないから私の勝手な解釈なのだろう。

 若い頃同僚達と伊豆の下田へ旅行に行ったのだが、あいにく私だけ急な仕事で下田へ向かうのが夜中になった。真夜中に車で峠越えをしたら、まったく灯りがない。月もなかったから真の暗闇である。それがめずらしくて、車を停め、真っ暗闇の山の中で外に出てみた。シーンという音が耳に聞こえたあの晩のことをいまでも思い出す。

 一度歩いて天城越えをしてみたいものだと思いながら、ついに果たせていない。半日あれば越えることが出来るそうである。行こうと思えば行けるのだが、さて、もう少し若いときだったらなあ、などと自分に言い訳しながら番組を観ていた。

2017年9月22日 (金)

理由は外貨か

 8月の中国から台湾への旅行者が、蔡総統になって初めて前年同月比で5.2%増加して90万人を超えたそうだ。それに対し、日本からの台湾訪問者数は7.9%減少して17万人あまりだったという。

 台湾では、今年の日本人の年間の訪問者の目標を200万人においているのだが、それが危ぶまれる状況だという。ちなみに2016年に日本を訪れた台湾人の総数は約430万人、不均衡を是正したいところなのであろう。

 ただ、台湾からの旅行者数が多くなりすぎて、日本から台湾への航空券のチケットが入手しづらいという事情も背景にあるらしい。やって来た人はたいてい帰るのだから当然だ。

 日本政府観光局によれば、8月の中国から日本に訪れた旅行者は前年同期と比べて2.1%増の約82万人、単月の新記録だという。ちなみに訪日外国人旅行者数は20.9%増の約248万人で8月としては過去最高とのことである。

 そんなとき、中国政府が旅行会社に対して口頭で日本行きの観光ツアーを制限するよう通達を出したという報道があった。既に年間の旅行者数の取り扱い人数については制限がかけられていて割当制が実施されているが、既に旅行会社の一部は割り当て分一杯まで販売済みであり、事実上の販売禁止に近い措置ともいえる。

 中国は10月1日からの国慶節の連休で日本への航空便はほぼ満席。中国から日本へ来る観光客の4割が団体客で、それが制限されると影響がどうなるのか心配されているそうである。

 理由について、外貨の流出を制限することを目的としている、と見られているらしいが、いったい観光客がどれほどの外貨を持ち出しているというのだろうか。中国の保有外貨は巨額であるから心配ない、と中国政府は胸を張っていたのではなかったか。旅行客の持ち出す外貨で揺らぐほど外貨保有高が危うくなっているのだろうか。

 8月の単月だけ見て、中国人観光客の伸びが2.1%で、外国人全体で20.9%の伸びであったことから見て、日本としては中国人の団体旅行客が減っても、韓国のように観光地で閑古鳥が鳴くような事態にはならないようで安心して良さそうだ。

 中国の言論統制、情報管理が厳しくなっていることを少し前に書いた。中国人旅行者が日本に来れば、自国の問題点に気がつくことも多いであろう。そのことが習近平としては不都合だ、と考えての措置のような気がするが、どうだろうか。

丹羽宇一郎『死ぬほど読書』(幻冬舎新書)

 先般、拙ブログで「歴史認識の違い」と題して丹羽宇一郎氏の文章を批判的に取りあげた。だからというわけではないが、たまたま書店で彼の書いたこの本が目にとまったので、読んでみることにした。帯によれば、彼はビジネス界きっての読書家だそうである。本人を知らずに(以前別の本も読んでいるのでまったく知らないわけではない)批判的な物言いをしているので、ささやかな印税に協力したのだ。ところでこの本の著者印税は中国からの私費留学生の支援その他に全額寄付されるそうだ。

 それにしても死ぬほど読書とは凄まじい。なによりそれが気を惹いたのである。死ぬほど読書といえば、寝食を忘れ、髪振り乱し、目は血走り、本以外には目もくれないという、狂気を感じさせるような読書家を想像する。しかし丹羽宇一郎氏の外観は温厚な紳士で物言いも穏やかである(ちょっと皮肉めかしたところが感じられるが、私の思い違いであろう)。いくら読書家でも死ぬほど読書している人とは思えない。

 読み終わってみれば、なるほど死ぬほど読書家だなあ、とはまったく思わなかった。普通の読書家である。これこそ看板倒れであろう。題名が本の売れ行きを左右するというから、出版社の作戦は功を奏したわけである。

 冒頭に、朝日新聞への21歳の男子大学生の投書が取りあげられている。主旨は、「読書はしなければならないものか?」と問いかけるものだ。私なら即座に「したくなければ読書などしなくてもよい」と答えるだろうなあと思って読み進むと、結局丹羽氏も同じことを書いていた。何事も、したくないのに我慢して無理にやってもおもしろいものではない。

 しばしばそれをすることでどんな得があるのか、とか、どんな役に立つのか、と問うことで、やらない理由にしようとするする輩がいる。やりたくなければやらなければいいので、やらないことで失うもののツケをあとで払うのは自分なのである。損得でしか世の中のことを考えられないようになっている自分に気付けない不幸は、取り返しがつかない。

 まあ読書というのはそのことを気付かせてくれるところがあるけれど、気付くために読むのではなくて、読んでいると気付くものなので「読書はしなければならないものなのか?」と問う人間には分からないだろうなあ。

 いま世の中はすべて損得である。得になることを優先する。どうしてそれがいけないのか?子どもまでがそう問う。読書は損得とは別のもので、極論すれば趣味であるし、おもしろいからするものだし、おもしろいと思わない人には不要のことだ。

 損をしてもいいのだ、などということを私が知ったのも読書によってだった気がする。

 この本の話に戻る。この本に書かれていることはほとんど「その通りだ」と共感するものであった。そして彼が伊藤忠の社長として経験したさまざまな話も多少は知っていたけれどあらためて感心させられた。

 さはさりながら、である。読み終わってだから何なのだ、という思いがした。自分が読む前と読んだあとにこの本からなにかをもらった気がしない。読書は著者から読者への贈与である。それがただのエンターテインメントでもいい。おもしろかった、という体験を贈与されたのである。

 著者の丹羽宇一郎氏は書評を信用しないのだそうだ。私は信頼できる書評は信用する。書評を読めばその書評を書いている人のレベルが分かるものである。それをたびたび目にしていれば、その人の書評の信頼性が確定して、本を購入するときの参考にすることも多い。

 いまこの世には本があふれている。すべて自分の眼力だけで本を選ぶことは難しい。目利きを信頼することは私には必要だと思っているから、書評をまとめた、本のための本が手元にたくさんあるし、それを繰り返し読んで、その中で気持が動いた本を取り寄せることも多い。

 丹羽氏が書評を信用しないと言い切るからには本人がよほどの目利きなのであろう。

 この本には彼の読んだ本が少なからず取りあげられているが、残念ながら、とりあげられたその本を私も読んでみようと思うものが見当たらない。小説もけっこう読んでいるらしいから、多分私が読みたくなるような本もたくさん読んでいることと思うのだが、そういう本は取りあげていなくて、どうだ自分はこんな本を読んでいるんだぞ、という匂いのする本が取りあげられていることが多いのだ。そういう本は応接室の棚に飾っておいてくれ!

 とても善いことがたくさん書かれている。でも私には自慢に見えない自慢話に読めてしまった。この人と肌合いが合わないのだろう。正直一途を信条に生きてきた、と言いきるところにそれを感じるのだ。正直に生きられるほど強い人なのであろう。人はそれほど正直に生きられない。正直に生きる人は強い人で、そしてときに鈍感である。

大輪盛登『書物列伝』(筑摩書房)

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 著者の大輪盛登(おおわもりと)は書評紙「図書新聞」の編集者で社長である。先代の社長の田所太郎が訳あって自死(1975年)したために社長となった。その「図書新聞」に連載していた書評コラムをまとめたものがこの二冊の本である。もともと田所太郎が担当していたものを生前に引き継ぐよう言われて書き出したもので、1976年から1983年までのものが収められている。1931年生まれの彼も、1990年に死去しているからいまから見れば短命である。

 この本に取りあげられている本で、私が読んだ本はほんのわずか(10冊くらいか)である。この本が出版された1085年からそれほどの間もなく読んだはずで、書評に感ずるものがあればその本を次々に読んでもいいのだが、この本の書評をきっかけに本を買った記憶があまりない。

 書評だけで感心してそこで終わってしまうという不思議な書評本だともいえる。でもその本を本屋で探そうと思わない。ちょっと毛色の変わった特殊な本が選ばれていることが多いことも確かだし、当時私が好んで読んだジャンルとも違っていた。いまならもう少し興味が動いたかもしれない。

 当時の文系の人の特徴として、左翼的な平和主義に徹したスタンスの世界観が肌合いに合わなかったのかもしれないが、その博覧強記とぶれない姿勢には一目置いて、この本をきちんと全部読んだ覚えがある。今このようなレベルの高い書評を書ける人はいるのだろうか。命がけで本を読んでいる気配を感じた。目配りといい読み込みの深さといい、とてもかなわない。レベルが違うのである。

この中で私が読んだ本を記録しておく
佐藤信夫『レトリック感覚』
江國滋『読書日記』
多田道太郎『自分学』
河合雅雄『森林がサルを生んだ』
紀田順一郎『古書街を歩く』
巌谷小波『こがね丸』
森銑三『瓢箪から駒』
奥本大三郎『虫の宇宙誌』
野崎昭弘『詭弁論理学』
寺田寅彦『寺田寅彦随筆集』
とりあげられた数百冊の内、読んだ記憶のあるのがたったこれだけなのである。

2017年9月21日 (木)

歴史認識の違い

 元中国駐在大使の丹羽宇一郎氏が、「日本の北朝鮮への対応、戦前を彷彿とさせる」という文章を東洋経済オンラインに載せた。その文章を韓国の中央日報が詳しく取りあげていた。

 丹羽氏は「満州事変をきっかけに反日感情が触発され、その後15年間に及ぶ日中戦争が始まった」「力対力で解決しようとすれば必ず戦争になる」と主張し、北朝鮮強硬論一辺倒の安倍首相を正面から批判しているそうだ(中央日報からの孫引きなので不確か)。

 歴史を振り返れば、第一次世界大戦以後、青島周辺のドイツ支配地を攻撃して日本は戦勝国となり権益を得た。第一次世界大戦のどさくさの中、日本は中国に対華二十一カ条の要求をして強引に受託させている。

 そもそもの反日感情はここに端を発している。それまでは日本への留学生も多く、日本に対してそれほど強い反感を持たなかった中国の知識人たちは、一気に反日となった。それは戦争終了後五・四運動で大きなうねりとなって拡がった。丹羽氏の言う満州事変は1931年、五・四運動は1919年であるから、反日感情が触発されたのが満州事変であるという丹羽氏の認識は、私にはいささか変に思える。

 それにいまの北朝鮮を見て、歴史を知る人ならば太平洋戦争前の、まさに満州事変前後の日本の姿を思い浮かべるのが普通だろう。国際連盟で非難を浴び、そこから日本は脱退した。連合国は日本に対してABCD包囲網で経済封鎖を行った。アメリカは日本に石油を売るのをやめた。見方によれば日本は暴発に追い込まれたのである。アメリカと戦っても勝算などないのは明らかなのに強がりを続けた。

 そもそもがそのような制裁を受けるような行動を日本が中国大陸で行ったからそのような事態を招いたのである。日本を正当化は出来ないが、当時の日本人の多くは制裁を加える連合国側に悪を見ただろう。

 それが妥当な歴史認識ではないか。それに対して丹羽氏が、北朝鮮に対して強圧的である日本政府に当時の日本の姿を見るというのは同意しかねる。私から見ると、北朝鮮に融和的である中国におもねる意図がこの人にはどことなく見え隠れするのである。

 どういう弱みが中国に握られているのか、それとももと伊藤忠の総帥として、中国にある会社の権益を護る必要でもあるのか。言い過ぎを承知で勘ぐりたくなる。本人のせいではないが、この人が中国大使の時、乗っていた車に付けられてい日本国旗を暴漢に奪われた。抵抗しようとする同乗の係官を止めたともいう。あのとき日本国民に彼が謝罪したという記憶がない。時の政権だった民主党が中国政府に強く抗議したという記憶もない。

 犯人はあとで捕まったが、悪いいたずらだった、で済まされた。明らかに計画的な犯行だったと思われるにもかかわらず、である。

 あそこでずいぶんと脅しでもかけられたのだろうか。北朝鮮への対応を日中戦争当時の日本の満州での行為をなぞらえて批判する、というのはどう考えても歴史認識というよりも別の意図があってのことのようにしか見えない。

 そしてそれを嬉しそうに取りあげる韓国の中央日報の意図も、紹介だけではないように思えるのである。

感情を優先させろというのか

 朝日新聞デジタルで民進党党首の前原氏の言葉が取りあげられていた。

「安倍さんの好きにこれ以上させていいのか」
「私は政策も国家像も大事だけれども、根底にあるのは怒りです」

 前原さんが怒っているのは安倍さんに対してであるらしいけれど、それ以外にも、山尾志桜里議員の不倫騒動や細野氏をはじめとする離党者など、かずかず怒りを覚えることがあるであろう事はよく分かる。

 怒っているのは前原さんだが、いま彼がこう語ったということを朝日新聞が取りあげる意図はなんだろうか。国民ももっと安倍首相に怒りを覚えるべきではないか、と言いたいように感じた。怒りがあまり感じられないことに焦れているのだろうか。


 この時期に政策や国家像よりも怒りを持て、というのは来たるべき選挙の際には政策などを冷静に見ることよりも感情を優先させて投票しろ、などとまさか言いたいわけではないだろうとは思うが(多分そう言いたいのだろう)。

看板倒れ

 ブログを自己流のアーカイブにまとめ直している。ブログをそのままプリントアウトすると本文以外のものが入ってうるさいので、本文だけ月別のアーカイブにコピーして貼り付ける。これだと日付の若いほうから順に出来るので読み直しやすい。写真はテキストではないのでそのままではコピーできない。個別に画像のコピーという作業で貼り付ける。そのときに自分の好みで写真のサイズを大きくしたり縮めたりしてレイアウトを調整する。

 二三ヶ月前から始めていたけれど、ちょっと飽きたのでしばらく中断していた。再開していま2012年の途中である。せっせと駄文を書いているので分量が多いし、つい読み直して誤字や段落の切りかえの調整をしているのでなかなか先へ進まないのだ。それに私と意見の似ているところがあるものばかりなので読んでいて分かりやすい(当たり前だけど)し、おもしろい。

 私のブログは中国ウオッチと旅の記録と読書記録を看板に掲げている。過去のブログを見ると、中国関連のニュースをよく取りあげている。日本ではあまり考えられないような呆れる話が多い。ニュースソースは、ほとんどがニフティかヤフーの海外ニュースである。

 ところが最近のブログではそのような記事があまり取りあげられていない。看板倒れなのであるが、その理由はそもそものネタが激減しているからである。ニフティやヤフーの中国のニュースは、半分が台湾の記事になってしまった。中国本土のニュースは、政治や経済ネタが多く、市井の、呆れるような、日本ではあり得ないようなめずらしいニュースがほとんど見当たらなくなっている。

 これはどういうことだろうか。

 中国はそのようなおもしろいことが起こらない、当たり前の国になったのだろうか。しばらく行っていないから断言できないけれど、そんなはずはないと思う。日本に来ている中国人観光客を見ていてもそんなに中国人が変わったとも思えない(多少行儀がよくなってきている気はするが)。

 それならそのようなニュースをヤフーやニフティが取りあげるのをやめたのだろうか。エンタメのコーナーでどうでもいいニュースを山程取りあげているところを見れば、そんな選別をしているとは思えない。

 となれば中国という国がそのようなニュースを流すことを許さないのだろうと容易に想像が付く。面白おかしく取りあげられることを嫌っているのだろうか。問題があればそれを報じ、それを見ておかしなものは直していく、という効用もあろうはずなのにそれを許さないのだろうか。

 中国政府が言論の封殺を強力に推し進めているらしいという気配は、中国に興味のある人ならばたいてい強く感じているはずである。中国からブログを発していた、もなさんのブログは、ふだんの中国の生活を伝えていただけなのにどうも当局に嫌われて不愉快なことになったらしい。

 当然生活の中で問題点があればそれも伝えてくれていたから、そんな些細なことが不都合と取られたのだろう。悪口だと取ることはあるかもしれないが、日本人が中国が嫌いでいながら中国で生活するはずがないではないか。悪意がないことは読めば分かるのにそれに目くじらを立てる中国の言論統制の恐ろしさを感じる。習近平という人はとても怖い人だと思う。

 そういうわけで中国ウオッチを看板に掲げながらそのニュースが最近少ないのは、理由があるのである。

2017年9月20日 (水)

プリペードカード

 マンションに隣接してそこそこ大きなスーパーがある。だからたいていの食糧や日用品はそこで買えるので便利である。そのかわり買い物に行くことで自動的に多少の運動になる、ということがない。

 そのスーパーのポイントカードが間もなく廃止になる。そのかわり(くどいな)プリペードカード方式に変更になる。もちろん現金も使えるが、そのときはポイントは付かない。昨日このカードの変換を行った。手続きをして、機械に現金を投入し使えるようにする。貯まっていたカードのポイントはもちろん引き継がれる。

 早速いくつか買い物をしたけれど、財布を出す必要がないからとても便利である。ただ、不都合なことがある。大きなお金をくずすのに便利だったし、細かいお金を消化するのもスーパーのレジというのは便利なものだったが、それが出来なくなる。

 そういえば、調べるのが便利なのでジャランで宿の予約をすることが多いのだが、こちらも最近はカード決済の宿が増えている。大きなお金を持ち歩かずに済むのでありがたい。音楽ソフトもアマゾンで買った本の代金もなにもかも、こうしてだんだん現金支払いが電子化していく。

 切符もカード、スーパーもカード、いまに何でもカードになりそうであるが、いったい自分がいくら使ったのか、財布の中を見ただけでは分からないようになっていく。わずかな蓄えと年金のみの限られた金で暮らさなければならないのだけれど、お金の管理が難しくなりそうである。

 やや不安ながら何とかこなせている金の管理も、頭のおとろえとともに次第に困難になっていくとしたら、実体のない電子マネーをきちんと把握し続けることが出来るのだろうか。

 世の中は便利になっているように見えるが、本当だろうか。便利になったことで捨て去った不便さの中に、本当は捨ててはいけないものがあるような気がしている。それがなにかぼんやりしていてよく分からない。

 実体のない不安というのはそもそも実体がないのだろうか。

飯野の風穴(橘南𧮾『西遊記』より)

 日向国霧島山の西北の方に飯野という所あり。ここに大なる穴有りて、時々風を吹出だす。昔より其奥を知るものなし。ある年、那須大右衛門という武士、飼なれし犬を引つれて狩に出でしが、ふと殊にすぐれて大なる鹿一つを狩り出し追かけしに、其走(は)する事風の如くすみやかにして、逸物の猟犬なりしかど追付けかねて見えしが、とある山ぎわにいたり、鹿犬ともに見うしない、いかに尋れどもさらに見えず。声のかぎり犬を呼びしかど、ついにかえり来たらず。大右衛門大いに怪しみ、日暮るるまで草をわけてたずねさがせしかど、たずね得ずしてむなしく家に帰りぬ。年久敷飼置きし寵愛の犬なれば、行方しれずとて扨置くべきにもあらず。殊に又、大右衛門こそ鹿に犬をとられしと人に指さされんも口おしきわざなりとおもいめぐらすに、その夜もいね得ず、明日をおそしと再び飯野にいたりて又たずね求むれども、いずくをそれというべきたよりもなければ、只呆然としてあきれ居りたりしが、つくづくとおもえば、此見渡し広き野原にて見うしなうべきようやあらん。只いぶかしきは此風穴の中なり。鹿の逃入りしにしたがいて、我犬も追い入りしならん。さあらばいかなるあやしき事かありて、我犬の害にあいしもはかり難し。いで此穴に入りて実否を見とどけんものをと思い、いそぎ家に帰り、縄よ、松明よと、しきりに穴へ入るべき用意をなす。妻子朋友此体を見て、大いに驚き、「むかしより底のしれざる彼風穴、いかなる変事あらんもはかりがたし。わずかに壱疋の犬のために此身を軽んずる事ひが事なり」と、口々に諫め、妻子などは泣沈みて留めしかど、大右衛門さらに聞入れず、皆々にいとまごいをなして、彼風穴におもむきぬ。ぜひなくも皆々従い行きぬ。

 大右衛門は腰に細引きの綱を付け、覚ある壱腰を帯し、左の手に松明をともして、「もし穴の底より此の綱を引かば、急に上に引きあぐべし」と約束して、ついに穴の中にぞ入りにける。すぐさま下る所もあり、又斜に行く所も有りて、やや深く下る程に、地やわらかにて綿のごとく平なる所にいたり付きぬ。松明を以てこれを見れば、木葉落入りて年久敷なり、朽たるが積りてかくやわらかなるなりけり。此所より奥は、穴少し細く成りて、左右にわかれたり。いずれの方に入るべきと、地に耳を付けて聞き試むるに左の方の穴の底と聞こえて、かすかに犬の鳴くように聞こゆ。さらばとて左の穴に入る。其深き事限りなし。漸々に入るにしたがいて、犬の声たしかに聞こゆるにぞ、悦びいさみていそぎ下る程に、其犬大右衛門の裾に飛付きけり。是我主人の来たるを知りて、力を得て悦べるなり。其所に落付きて見るに、我犬は恙なし。其地しばらく平にして、向うには大河流れり。「怪敷(あやしき)ものあらば出来たれ」と怒りののしりしかど、答うるものも無ければ、久敷居るにもあらずとて、犬を抱きようように匍いのぼる。千辛万苦して、ようようもとの二道にわかれたる木葉ふりしきし所まで帰り上りぬ。此所よりは道急にしてのぼりがたければ、下げ置きし綱に犬をからめ付けて、其綱を下より引動かせしかば、上には待ちもうけたる事なれば、いそぎ手ん手に綱をたぐりあげしに、犬ばかりを引あげたり。驚きあやしめど、此犬かく上り来るからは、大右衛門も恙なしとさとりて、又綱を下しやりぬ。今上げたりし犬又しきりに穴に飛入らんとするを、人人縄もてきびしくからめ付けて入れず。此犬主人のいまだ上り来たらざるを以て、気遣いて又穴の内に入らんとせし也。大右衛門も綱の下り来るを見て、みずから綱をからみて引き動かせしに、人々悦びいそぎ引あげて、再び死せるもののよみがえる心地して、恙なかりしを悦びあえり。鹿の行末はついにしれず。うたがうらくは、此穴の内、住所なれば逃入りしを、犬の追い入りしにや。大河より奥は犬も翼なければいたり得ずして残れりと見えたり。犬よくものいわば、其時のようすもしるべきにと、人々おしみあえり。すべて薩州領の人はかくのごとく生死をかえり見ず勇猛の気諸国に勝れたり。

2017年9月19日 (火)

ぐっとくる

 酒を飲みながら、「老いは青春と同様に希望であること、昼間見えなかった星の光が見えるようになる黄昏の希望であること」などという文章を読むとぐっとくる。

 夕方、汗をかくために一時間ほど買い物がてら散歩した。マンションに戻ったら救急車がいる。私の棟の前である。そのままエントランスで見ていたら担架に乗せられた人が目の前を通り過ぎた。


 老齢の女性である。はだしの足が血で汚れている。救急隊員が話しかけてやりとりしている。トイレで倒れたらしい。「いつ頃倒れたのですか?」という問いかけに「ずっとトイレにいたので分からない」と声は細いけれどもしっかりした返事があった。


 見覚えのあるようなそうでもないような人だけれど、独り暮らしなのだろうか。見送って階段を上がったら、着替えらしきものを詰め込んだ紙袋を下げた、五十がらみの女性が降りてきた。見かけない人であるが病人の身内であろう。


 なんだか他人事に思えない気持であった。

整理

 家の中が雑然としているのは、もともと怠け者である私の家だから定常状態である。とはいえあまりにも収拾がつかなくなって久しい。ものが必要以上に多いのである。死ぬまでに使い切らないことが明らかなものがあふれている。誰かにさしあげてもいいが、私にはもったいないと思うものでも、他人にはもらって迷惑なものばかりだろう。

 捨てる基準を、子どもたちがそれをもらってよろこぶかどうかに置くことにしようかと考えている。まず大型ゴミに該当するものを列記してみると、ずいぶんたくさんある。何年どころではなく、十年も二十年も使わなかったものがある。なくて突然困ることはない。とりあえず取っておく、から、とにかく捨てる、にスイッチを入れ直さないと家の中の整理など不可能なのだ。

 それらに続いて蔵書の処分を決行しようと考えている。七八千冊あった本も断腸の思いで処分し続けて、いまは多分三四千冊に減っているはずだ。それをさらに二千冊くらいに減らしたいと思っている。それくらいなら棚にすべて並べることができるだろう。いまは納戸や物入れに押し込んでいて、場所ふさぎになっているだけだ。もう一度読むかも知れないという思いが、もう読むことはないだろう、に変わりつつある。人生は短い。しかも読書のスピードと集中力の持続が低下している。

 ミステリーや時代小説は既にほとんど処分した。残している小説類は中国が舞台のものが多い。これに手をつけるとたちまち数百冊減少する。残していた葉室麟もそろそろ退場願うしかないか。迷うのはエッセー類である。これは気が向いてまた読むことが多い。本は捨てるというよりブックオフなどに引き取ってもらうので、多少の小遣いにはなる(実際はほとんど金にならないけれど)し、誰かが読むかも知れないと思えば本に対して疚しい気持は多少緩和される。のこるのは古典と歴史書が中心になるだろうか。

 それに合わせて部屋のレイアウトをほんの少しいじろうかと思う。そのためには本箱を移動しなければならないから、本の処分は必須の作業なのである。レイアウトの変更を考えるとなんだかわくわくする。なにか好いことがありそうに思うのである。

 願わくばルンバが掃除できる部屋にしたいものだが、夢に終わりそうである。整理することすら夢に終わらないように、早めに取りかかることにしよう。

小康状態

 だいぶ前から眼がときどき不調になる。霞んだりぼやけたりするのは酷使による疲労の故だと思いたいが、ときどき眼の中に説明しがたい違和感があるのが不安なのである。

 一年前に飛蚊症と共にその兆候があったので検査をしてもらったら、病理的な異常は見当たらず、年齢相応の衰えであろうと診断された。病院に行っても又同じ結果のような気がする。

 一日二日あまり眼を酷使せずに、なるべく音楽を聴いたりして過ごすと、あまり違和感はなくなり、眼の疲れも軽減する。いまはそういう意味で小康状態である。それでも来月初めの定期検診で念のため再検査してもらうかどうか迷っている。検査はどうしても糖尿病との関連からの検査になっているような気がする。器質的なものをもっと詳しく診てもらうことにしようかとも思う。でも下手になにかが見つかって中国旅行(11月のはじめだからまだ間があるが)に行けなくなったら、などとつまらぬ心配をしている。

 ようやく旅行の日程が確定し、今週支払いと最終打ち合わせに旅行会社に行く。そろそろ陽気もよくなったので、散歩を再開し(ずいぶんサボってゴロゴロしてばかりいる)、体力を取り戻さないといけない。海外旅行には体力が必須なのである。

2017年9月18日 (月)

人生のやり直し

 人生が二度あれば・・・というフレーズの入った井上陽水の歌がある。

 人生をやり直すことができたなら、というのは古来からの人間の願望らしい。確かにあのときにこうしていれば、と思い出すことは数多い。悔いばかり残る人生を送ってきたのは私だけではないだろう。

 でも私は人生をもう一度やり直したいと思わない。人生はやり直しがきかないから輝いているのだ、などと聞いた風なことを言うつもりはない。あんまり輝いていなかったことは自分が一番よく知っている。

 けっこう運良く過ごしてきたと思う。これからなにがあるか分からないけれど、多分それほどひどいことにならない気がしている。ときどき、どうなってしまうのかと背中に冷や汗の流れることや、あとはどうなってもいいから逃げ出してしまいたいことがあった。それに正面から立ち向かったのではなく、いつの間にか何とかなっていた。思い返すと、二度とあんな思いはしたくないというのが本音だ。

 意気地なしで怠け者の自分が、よくもまあ生きのびたものだと胸をなで下ろすことが多いのである。いまこんなに脳天気でいられるのは、運が良かったからだとしか思えないのであり、もう一度人生をやり直したら、多分いまより悪い結果になりそうな気がする。

 もちろんやり直したいことがないわけではない。しかしそれをやり直したら、それ以上に災厄が降りかかる気がしているのである。人生をやり直すなんてごめんだ。

映画「クリムゾン(2015)」2015年アメリカ

 監督シェルドン・ウィルソン、出演ステファニー・ハント、サラ・ダクディルほか。

 ホラー映画は好きではないのについ観てしまう。三流カルトのホラーには突っ込みどころが多くて、いちいちここが変だ、台詞が陳腐だ、などと独り言を言う(さすがに口には出さない・・・いまに声に出すようになる気がする)のが実は楽しいのかも知れない。

 嵐のハローウィンには恐ろしいことが起こり、たくさん人が死ぬ、という伝説のある島へ三人の姉妹が渡ろうとしている。両親を交通事故で失い、頼るのは島に独りで暮らす叔母だけだったのだ。一番下の妹エマは両親と車に同乗していたが、奇跡的に助かっている。そのとき両親が事故で炎上した車の中で焼かれていくのを目の当たりにして精神を病んでいるらしい。その治療のためにも叔母を頼るしかないのである。

 明日はハローウィンである上、いままさに嵐がやって来ようというときに、フェリーで島へ渡ろうとする三人を見た若者が、いま島へ渡るのはやめたほうがいい、と警告する。何かを知っているらしい。一番上の姉サラはしっかり者だが支配的である。真ん中のマーリーは直感で行動するタイプで、島へいくのはいやだといいだすのだが姉のサラに押し切られる。いつの間にかエマの姿が見えなくなる。彼女が問題(つまり足手まとい)であることが分かる仕掛けである。隠れているときに恐怖に耐えかねて叫んでしまうタイプだと分かる。実際にラスト近くで魔物を引き寄せてしまうことになる。

 島に渡ると人影が見当たらないが、彼女たちを見ている視線を感じる。島の人びとは息をひそめて恐怖の時間をやり過ごそうとしている気配である。しかしこの時すでに恐ろしいことがつぎつぎに起こっていたのだが、彼女たちは知らない。

 彼女たちの車が叔母の家の近くで突然ガス欠を起こす。しかも再びエマの姿が消える。エマには不思議な能力があるらしい。夢で過去や未来が見えてしまうらしいのだが、それをうまく言葉にできない。そのために不可解な行動をとるのだろう。なにかの気配を感じてパニックになる姉妹だが、ようやくエマを見つけて叔母の家に向かう。

 そこで叔母の車を見つけた姉のサラが見たものは、眼をえぐられ、血まみれになった叔母の死体だった。あわてて叔母の家に逃げこむのだが、そこへやはり血まみれで命からがら逃げてきた女が転がり込んでくる。なにかが起きている。

 こうして恐怖が高まっていくのだが、その元凶の正体が登場してしまうと恐怖は消滅する。えたいが知れないから怖いのである。

 こうして三人は逃げ惑うことになるのだが、島には死体が累々、生き残ったわずかの人も生きのびるのに必死なために却って恐怖を呼び寄せていく。果たして三人姉妹はハローウィンの終わるまで生きのびることができるか。彼女たちに迫るものを倒すことができるのか。

 しかし気がついてみたら嵐がやって来ないのである。雲行きの怪しさはずっと漂っているのに雨すら降らない。嵐のハローウィンに事件が起こるという伝説は嘘だったのか?多分俳優たちが雨に濡れるシーンを嫌がったのであろう。
 
 伝説と魔物の姿がまったく整合性がないのもいただけない。おかげで怖くないホラーを観ることになって、いろいろと突っ込みどころ満載の映画を楽しませてもらった。カルト映画にしては映像と俳優の演技はそれほどひどくなかったのは救いである。

2017年9月17日 (日)

またニュース雑感

 釜山では反日団体が日本公使館前の慰安婦少女像のとなりに徴用工の像を設置し曄としているらしい。地元自治体がその対応に苦慮しているという。そもそも外国の公館の前にこのような像を設置することは法律に違反しているのである。しかしこれを撤去することは民意に反するから騒動になることは、一度慰安婦像を撤去したときの騒ぎで自治体も身に沁みて知っている。それらの像を毀損しようとする者も少なからずいる。いま、自治体は像を護ることに注力せざるを得ない状況に追い込まれている。

 自治体が法律に違反する像を黙認するだけにとどまらず、護らざるを得ないというのが韓国の実情だ。法律の上に民意という名の反日団体が君臨しているようだ。法律が民意を反映していないというなら法律を改正することである。法律をそのままにしたまま民意で法が枉げられるのならそれは無法である。ところが韓国では法を護るべき裁判所が法を自ら枉げて民意におもねる。司法界に北朝鮮シンパが跋扈しているという噂は本当か。

 (私がいつも拝見している「のんびり生きる」というブログがある。ここに韓国の問題について別の素材で書かれていた。参考になる。このブログはポチッともいいね!もできないしコメントを書く欄もない。しかし非常にクールで地に足のついた内容なのでいつも敬意を払って読ませてもらっている。)


 韓国の出生率の低下が止まらず、当然のことに新生児が減少しているという。2015年の出生率が1.24、2016年が1.17、2017年の推計が1.03だそうだ。推計はあくまで推計だけれど、これは異常な数字である。ちなみに日本の出生率は2016年で1.44。

 韓国では出産した両親に養育費として支給する補助金を一桁上げようという検討が行われているという。養育費教育費に金のかかる韓国の実情が出生率の低下の一因だと考えての施策であろうか。

 生物は危機になると出産が増える。子孫を残すために本能的にそうなる。それなら韓国の出生率が低下しているのは、韓国は危機ではないということなのだろうか。北朝鮮の危機は韓国と関係ないと確信しているのか、経済危機が迫っているというのは妄想で、韓国は豊かさが持続すると国民は確信しているのか。

 もし韓国の将来に不安がありながら、それでも出生率が低下し新生児が減少しているのなら、韓国国民の本能は壊れてしまったのか。もしかしたら本能よりも強い抑制が働いてしまうほど将来に対する不安があるという危機的状況か。それなら金をばらまいたところで新生児が増えることはないだろう。

 イギリスのオックスフォード人口問題研究所は、この数字を解析して「地球上で真っ先に消え去る国は韓国である」と指摘しているそうである。

 そうなるのはずいぶん先であるけれど、その前にその対策として北朝鮮との統一を「本能的」に模索するかも知れない。半島統一は韓国に経済的に大変な危機をもたらすが、それこそ本能にスイッチが入るきっかけになるかも知れないではないか。

ニュース雑感

 昨晩は寝付けないので、ごそごそと起き出していろいろなことで遊んでいたら朝になり、明るくなったとたんに眠っていた。昼前にようやく起き出して、開けた窓から入ってくるひんやりした風を気持ちよく感じている。台風はまだ名古屋から遠いので、風は樹木を揺らすほどでもない。雨もぱらつく程度のようだが、これから雨風が強くなるのだろうか。

 ネットニュースを見ると民進党の離党についてさまざまな報道や個人的なコメントがある。今後も離党が続くのではないかという意見が多い。今のままでは選挙を戦えないと考える議員から離党していくとの情報もある。だから自民党やその周辺で衆議院の解散が取りざたされているのか。確かにいま総選挙をすれば民進党はさらに衰退するだろうが、不要な解散をすれば、自民党に対しての風当たりも強くなる。当たり前のことである。それでは加計問題や森友問題の報復としか見えないし、実際にそうであろう。そんなことをしている場合ではないだろう。安倍首相には軽挙しないでもらいたいものだ。

 民進党を離党した細野氏たちは日本ファーストの会を立ち上げた若狭氏たちとの合流を模索しているようだ。数という勢力を頼むには合理的な考えのように見えるが、果たして政治的な信条は共に闘えるほど近いといえるだろうか。若狭氏には(もともと小池都知事にも)やや危ういものを感じている。言っていることは華々しいが、実務となるとかなりお粗末であることは事実が示している。

 何がお粗末か。責任を引き受けようという様子が見えないことである。築地の問題でも、オリンピック会場の問題でも、一体あれは何だったのか。何かを選び、何かを捨てれば必ず非難が起こる。その非難を引き受けられずに、つまり傷がつくのを恐れただけのように見えるのである。都庁の職員達のあいだでは小池都知事の人気があの石原元知事よりはるかに低いという。実務に疎く、実務をする人をきちんと見ることができていないということの表れだろう。

 すぐに力のある新党を立ち上げたい気持ちは分かるが、ここは隠忍自重して独自の少数政党から、つまり一から始めるほうがよいと私は思う。国民は見ている。若狭氏はスタンドプレーで結局自滅するキャラクターにしか見えない。合流をしないことで、選挙だけのための合流に参じようという議員を選別し峻拒すべきであろう。いまは合流を急ぐべきではないと思う。そうして初めて民進党という烏合の衆から離党した意味が生きるのではないか。

ここからあとで追加
 ひるのニュースで衆議院の解散が行われるらしいと報じられていた。朝寝をしていたので知らなかった。

 もう民進党は叩く値打ちもないのに何だかなあ。一番よろこぶのは共産党かも知れない。

2017年9月16日 (土)

しゃれた言葉(使ってみたい言葉)

 大輪盛登氏の『書物列伝』を読んでいると本人や彼が書評している本からの引用などで、気の利いた文句が目にとまる。本来は前後の文章がないと意味が変わってしまうことも多いのだが、それを承知でいくつか拾い直してみる。

 変わることは美徳なのか、変わらないことこそ美徳なのか。非人間的に加速されている現代の変化のなかで、人間的経験が、古い時代とくらべ、どれほど頼りないものになりつつあるか。

 確かパペーゼに、劣等感、別の名は野心、そんなことばがあった。自分が劣っていることを認めるのは痛苦だが、その痛苦をバネとする、いわば劣等学が澱みがちな思考を活性化させる。 

 ことばが正確すぎ完成に達してしまうと、人は沈黙するほかなくなる。ことばには、人それぞれに読み込みが可能な、正確すぎない部分があったほうが楽しいようだ。

 現在はすべての人のものだが、過去をどうするかはそれぞれの人間にゆだねられている。

 人を哲学に赴かせるのは悪妻や歯痛ではなく、束の間の人生に「永遠」を恋い求める眼差しである。

 死は死者のものではない。死は残されたものの問題なのである。

 賞は観客の熱い視線を集める見世物に似ている。この見世物の舞台で、人は落ち着きを失い、はしなくも人間的脆さを露呈するようだ。

 優れた歴史叙述はことさら物語らない、物語らずともおもしろいということを、あらためて感じさせる。ヘーゲルは「民衆も政府も歴史から何も学ばなかった」と書いた。歴史に学ぶものは多い。歴史は学ぶものだが、たのしめるものでもある。人間がいるからである。すぐれた歴史の叙述は、人間への深い共感を秘めていなければならない。

 芝居というのは、世界を見ることであり、その世界の、目には見えるが気づかれていない特徴を明るみに出す「根源的な社会学」であるらしい。

 きりがないのでこのへんにしておく。

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