2017年8月19日 (土)

不穏

 ニュースを見ていると世界が不安定化しているのを感じる。トランプなどという人物が登場してアメリカ大統領になってしまったことがこの不安定化の一つの要因か、などとも思うが、それは原因というより結果なのかも知れないと思ったりする。世界が不安定化しているからこそ彼のような本音をむき出しにして恥じない人物が大統領になれたのではないか。

 さいわい日本はまだそれほど不安定化しているように見えない。日本人は他人事として世界で頻発する異常な事件を不安な気持ちで眺めているだけである。それだけ安定して平和な国だということであって有難いことである。

 世界が不安定化することをチャンスととらえる人びとがいる。世界はもう袋小路にいるのだから現在の秩序は一度崩壊させた方が良いと内心で思う人たちである。そういう人たちはますます人びとの不安を煽り立て、パニックになって狂気に走る人間を送り出そうとする。変革こそ正義と思う人びとである。

 これから世界の不安定化がますますエスカレートしていくのか、それともこれではいけないと人びとが気がついて再び秩序を取り戻そうとする動きに向かうのか、私には皆目分からない。過去の歴史を見れば、そのような不安の時代の結果として戦争が起こった。戦争の惨禍が人びとをパニックからようやく覚醒させて、これではいけないと思わせ安定を求めさせる。

 何のことはない、現在の世界はそのくりかえしのなかのまさにある局面、つまり戦争直前の時代にいるということなのではないのか。恐ろしいことであるが、誰かがこれを止めることが出来るとも思えない。悲観的だが、自分が巻き込まれないことを願い、神に祈ることしか一個人に出来ることはないのだ。

 日本のマスコミは正義のための変革を唱える人びとの尻馬に乗り、体制を不安定化させることを正義と信じてますます偏った報道を行うだろう。知らず知らず社会の不安定化をあおり、戦争へ大衆を追い込むだろう。まさに彼らが昭和の前半に行ってきたことを、いま同じ様にたどっているように見えてしまうのは私の妄想か。

 民主党が政権を取る前、マスコミはこぞって自民党の非を鳴らし、国民に政権交代後の夢を見せ、国民はそれに乗った。その結果がどうなったのか。まともな記憶力のある人びとはそれを忘れていないから、再び民進党に夢を見ることがないのは幸いである。あの頃の自民党は確かにひどかった。再び自民党があの時代のお粗末な党に戻ってしまっているのかどうか。

 安倍政権におごりがあり、能力に欠ける大臣をはじめ、知名度だけで人間的に問題のある議員を抱えていることは事実である。しかしこの政権の時代は、国民にとって、特に若者達にとって幸福な時代であるように見える。失業率は過去最低であり、飢えて死ぬ人間はまずいない。救いを求めれば救われるシステムはほぼ適正に機能している。

 マスコミや野党は不完全な部分だけを取りあげてすべてが機能していないが如く言い立てるが、この世に完璧なシステムなど存在しない。不完全な部分をどう解消していくかを問題にするなら建設的だが、不完全をただ言い立ててシステム全体を否定する姿勢は社民党的で、社会にとって害をなすだけである。同じように見えて全く違う問題提起の仕方なのである。いま民進党が旧社会党を抱えたまま存続することで、この悪弊を脱することが出来ないまま衰退しつつある。

 社会を不安定化させるかさせないかは、全否定か問題解決のための不備指摘であるかによる。共産党は本質的に革命を目指す党である。それを指摘されると必ず否定してみせるが、党是からその根本を外すことはしない。そもそもが全否定の党なのであり、それは徹底的に首尾一貫している。そのような党と共闘すること自体の是非が分からない枝野氏のような人が党首になるとしたら、民進党の命脈は尽きるだろう。

 いまマスコミや野党は問題点をあら探しして、それをいい立て続けている。問題点があることを明らかにすることは良いことである。しかしそれが問題解決のためではなく、政権を否定し、システムを否定し、社会体制全体を否定することに知らず知らず向かわせようとしているのであれば大問題である。

 彼らは変革を夢見る。変革にはまず社会をゆるがし、不安定化させる必要があり、それこそが正義だと確信している。せっかくの日本の安定と平和をゆるがそうとしているのは誰なのかをよくよく考える必要がありそうだ。

2017年8月18日 (金)

あなめあなめ

 天明の大飢饉のときにみちのくでは餓死者が大量に生じた。『菅江真澄遊覧記1』でその餓死者たちの白骨の山を見た菅江真澄が思わず「あなめあなめ」とつぶやいたことを引用した。その「あなめあなめ」の意味をあとで説明する、と書きながら後回しにしていたのでここに書いておく。「ブログ記事8/15付け・飢饉の餓死者(『菅江真澄遊覧記』より)」

 在原業平がみちのくを旅したとき、夜更けに女の声が聞こえてきたので野原にさまよい出ると、そこには髑髏が転がっており、「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ」と髑髏が歌っていた。

 「あなめ」とは、「ああ眼が痛い」という意味である。髑髏の眼窩には薄(すすき)が生えており、それが秋風が吹くと揺れて眼窩をこするのが痛い、と嘆いていたわけである。

 この髑髏が小野小町のものであることを知り、在原業平が薄を抜いてやると声は止んだという。

 小野小町には美女であるが故の美女変相の話がある。絵物語になっている。絶世の美女である小町、やがて歳とともに容色が衰えていき、老婆となり、死に、死体は腐爛し、朽ち果て、最後は白骨となる。人の世の無常を表す絵物語である。

 それと在原業平の伝説が組み合わさってこのような「あなめあなめ」の話になったのであろう。業平は髑髏の歌う「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ」に対して「小野とは言はじ薄生いたり」と返している。

 その意味は薄が生えているくらいだから小野(小さい野原)とはいえない、ということだが、もちろん小野小町を掛けているわけである。

 菅江真澄は白骨を見、この歌を思い出してつい「あなめあなめ」とつぶやいたわけである。

最初は別だけど

 強い毒性を持つヒアリが全国で見つかっている。たまたま見つかったけれど、実はかなり以前から日本にやってきていたということだろうか。それにしても突然これだけ頻繁に見つかりだしたのも不思議だ。ニュースを見ていると、ほとんど中国から移送された貨物に付いてきたようである。

 もともとは南米原産のアリであるが、中国から、または中国経由の貨物に付随することが多いのは、それだけ中国の検疫や駆除がいい加減だということを表しているのだろうと最初は思っていた。

 しかし、まさかとは思うが、日本で騒ぎになったのを知って意図的に荷物にヒアリをしのばせているなどということはないだろうなあ。今回狭山市で発見されたヒアリの女王アリなど、コンテナからとり出した荷物の梱包のなかから見つかっている。わざと入れたと勘ぐるのは考えすぎか。

 餃子に農薬を入れて送ってくる国だからなあ。

 そういえば武装漁民を乗せた大量の漁船群が尖閣諸島に向かっているらしい。中国政府は正式に尖閣諸島海域での漁を許可したそうだ。関連してさまざまな嫌がらせを繰り返すことになりそうだ。それに対して日本が強硬な態度に出れば、それを口実にさらに行動はエスカレートするだろう。やくざの手口である。

2017年8月17日 (木)

さびしくもあり・・・

 娘のどん姫は昨日の朝、そして息子は今朝、自分の住処に帰っていった。盆休みは終わりである。いろいろな話をしたけれど、話したいと思っていたことのほんの一部しか話していない気もする。子どもたちの話を聞くよりも、つい自分の話が多くなってしまうのはいつものことである。話し足りない思いが次に彼等が来ることへの待ち遠しさにつながる。

 いつも以上に連日よく酒を飲んだ。二人とも若いからよく飲みよく食べるので、私がひとりで食べ過ぎることはない。おかげで思ったより体重が増えていないのは幸いである。今回はあまり手のかかる料理は作らず、席に座る時間が確保できるスピード料理を数多く用意したのは正解であった。冬なら鍋だから下ごしらえすれば坐ったままですむから便利だ。

 それでも独り暮らしの自由気ままというわけにはいかないから、わが息子と娘とはいえ気を遣うことはつかう。だから彼らがいなくなってさびしくもあり、いささかほっとしているところもある。

 どん姫のくれたひとり用の電気サイフォンでコーヒーを淹れて一息ついている。ちゃんとした入れ物がないのに気付いた息子が、コーヒーが酸化しないような簡単な抜気式の豆入れをネットで取り寄せてくれた。むかしもらってしまい込んでいた手動式のコーヒーミルを引っ張り出して来たので、これからは豆を買ってきたらその都度粉に挽いてコーヒーを淹れることができるようになった。ちょっと贅沢な気分を楽しめるのである。ありがとう、子どもたち。

 来週弁護士事務所で最終打ち合わせをしたら、しばらくぶりに東北地方に旅に出ようかと思っている。まだ細かい訪問先はなにも決めていない。今回は移動よりは滞在を考えている。格安の湯治宿に一カ所に二泊とか三泊しながら、温泉と読書三昧をしようといまからわくわくしている。

2017年8月16日 (水)

無責任

 リーダーはチームの責任を負う。責任者はその責任を引き受けることで権限も与えられている。

 昨日の終戦記念日に、NHKがインパール作戦を特集していた。いつもブログを拝見している方々の中にもこの番組について言及されている方が見受けられた。それぞれのご意見についておおむね賛同する。

 日本は国家として戦争責任者を裁くことをしなかった。連合国による東京裁判というかたちで戦犯を特定し、彼等の罪で戦争が起こった、彼等が悪くて国民は悪くなかったというかたちで収めてしまったから、本当の日本人自身による戦争の反省はなされていない。

 それがゆがんだかたちで顕れているのが自虐史観なのではないかと思う。特にA新聞をはじめとする大手新聞社は、戦争へ国民を煽り立てる役割を担っていたのに、それについての反省を私はあまり見聞きしていない。何しろ戦犯が悪い、そして国家が悪かったという論法で自らの責任をあきらかにせずに口を拭ったままである。

 その姿は、あの慰安婦問題についての誤報を指摘され続けても抗弁し続けて、30年も過ぎてからようやく自らの非を認めざるを得なくなった姿に重なる。戦争反対を叫びながら、明日また戦争に国民を煽らないという保証はない。

 インパール作戦が如何に無謀で兵士の命をないがしろにした作戦であったのか。それは番組でも報じられていたように、補給をまったく想定せず、敵の武器や食糧を奪って補給せよなどという命令に顕れている。各方面軍の師団長が敗勢必死で作戦の遂行は不可能と報じてきているのにインパール作戦を遂行した総責任者である牟田口中将はそれを弱腰であるとして罵倒して、つぎつぎに師団長の首をすげ替えた。

 当初三週間の予定の作戦が頓挫したのに作戦中止の指令が出たのは四ヶ月も過ぎてからであり、泥濘のジャングルのなかを食糧もなく、マラリヤや赤痢にかかってつぎつぎに兵士は死んでいった。驚くべきことに戦闘で死んだ兵士よりも病死や餓死の兵士の方がずっと多いという惨状だった。

 番組が牟田口中将ばかりに作戦の責任を負わせているという指摘をしている方もあったが、私の見る限りでは当時の東条英機以下のトップも含めての司令部全体の精神論の横行する無責任さもきちんと言及していたように思う。

 ただ、あのときに牟田口中将のすぐ側にいた斉藤中尉という人の
残した克明な手記がインパールの実態を明らかにしているとして、番組はそのことにウエイトを置いていたので、日本軍そのものの問題について突っ込み不足だという指摘になったものと思う。

 この番組を息子と二人で観た。ラストに斉藤小尉が生存していることが明かされ、自分の手記を見ながら過去を思い、感極まって絶句している姿が強烈にこちらの胸に迫ってきた。

 息子に「戦争反対を謳うなら、このような番組こそが必要だろうな」と語った。インパール作戦とガダルカナルの惨状については、学生時代から知っておくべき戦史だと思っていたので、いろいろな作家のいろいろな立場の文書で繰り返し読んだ記憶がある。そこで学んだ自分の記憶していることを息子に話したけれど、そういう意味では終戦記念日にふさわしい夜になった。

 日本のトップの無責任体質は牟田口中将に象徴されるけれど、それは原発事故の時の東京電力のトップや、東芝、三洋電機のトップの姿にそのままつながっているような気がする。原発事故の時の菅直人首相や枝野氏の時々刻々変わる言動にもそれを見たと私は思っている。日本が日中戦争、太平洋戦争を真に総括できないままであることが日本のトップの無責任体制を生み出しているという点は間違いない事実であると考える。

 当たり前のことだが、責任者は責任をとらなければ責任者ではないのである。

2017年8月15日 (火)

飢饉の餓死者(『菅江真澄遊覧記』より)

 (天明四年八月)十日 朝早く(鰺ヶ沢を)出立する。高い家の二階にならんで、戯れうたを歌う女がいた。この村のゲンボ(この地方で安女郎をこう呼ぶ。鰺ヶ沢は港で、遊女がたくさんいた)という遊び女であるという。

 道をしばらくきて浮田というところへでた。卯の木、床前(にと津軽群森田村)という村の小道をわけてくると、雪が消え残っているように、草むらに人の白骨がたくさん乱れ散っていた。あるいは、うずたかくつみ重なっている。頭骨などの転がっている穴ごとに、薄(すすき)や女郎花(おみなえし)のおいでているさまは、見る心持がしない。「あなめあなめ」とひとりごとをいったのを、うしろの人が聞いて、
「ごらんなさい、これはみな餓死したものの屍です。卓天明三年の冬から四年春までは、雪のなかに行き倒れたもののなかにも、まだ息のかよう者が数知れずありました。その行き倒れ者がだんだん多くなり、重なり伏して道をふさぎ、往来の人は、それを踏みこえ踏みこえ通りましたが、夜道や夕ぐれには、謝って死骸の骨を踏み折ったり、腐れただれた腹などに足をふみ入れたり、その臭い匂いをご想像なさい。
 直も助かろうとして、生きている馬をとらえ、首に綱をつけて屋の梁にひきむすび、脇差、あるいは小刀を馬の腹に刺して裂き殺し、したたる血をとって、あれこれの草の根を煮て食ったりしました。荒馬の殺し方も、のちには馬の耳に煮えたった湯を注ぎ入れて殺したり、また、頭から縄でくくって呼吸ができずに死なせるといったありさまでした。その骨などは、たき木にまぜて焚いたり、野をかける鶏や犬をとらえて食ったりしました。
 そのようなものを食いつくしますと、自分の産んだ子、あるいは弱っている兄弟家族、また疫病で死にそうなたくさんの人びとをまだ息の絶えないのに脇差で刺したり、または胸のあたりを食い破って、飢えをしのぎました。人を食った者は捕まって処刑されました。人肉を食ったものの眼は狼などのようにぎらぎらと光り、馬を食った人はすべて顔色が黒く、いまも生きのびて、多く村々にいます。
 弘前近くへ娘を嫁にやっていた女があって、戸の娘が、自分の母はこの年の飢饉にどうしているか会いたいと、道のりは一日のうちに歩いて行けるところなので、夕方近く着き、互いに無事をよろこびあった。そのあとで母のいうことに、お前がまるまると肥えているようだ、食べたら、うまさはかぎりないであろうと戯れていうのを、娘は母の空言ではありながら薄気味わるくなって、母の寝たすきをうかがい、ひそかに戸をおし開けて夜の間に逃げ帰ったという話もあります。
 このような世間のありさまの恐ろしさは、みな人間のなすわざとも思われません。まるで、羅刹、阿修羅など悪魔のすむ国などが、このようなものではないかと思われ、死ねるものならば死んでしまおう、生きてつらい目にあう苦しさよりもと諦めましたが、天の助けか、わたしどもは藁を搗いて餅とし、葛蕨の根を掘って食い、いままでの命をながらえてきました。今年も先日の暴風に災いされて、農作物が被害を受けました。またも飢饉になるのではないかと案じられます」
 と泣きながら語って、別の道に去って行った。この話は真実であろうか、本当にありとあらゆる家はみな倒れ、ある家は骨組みばかりで、柱だけが立っているのを見ながら、過ぎ去った日の惨状をしのんだ。

 森田、山田、相野、木造を過ぎて、岩木川にでた。綱を引いてわたす船渡しである。この夜は五所川原というところに泊まる。

 菅江真澄が「あなめあなめ」と独り言を言った、その意味が分かるであろうか。小野小町伝説を知る人は承知であろう。このことについては項を変えて説明する。

2017年8月14日 (月)

想像するとシュールだ

 韓国が徴用工の像をソウル市内のどこかの駅前に設置したそうだ。どうやら日本大使館前の慰安婦像のとなりにも置く計画が進められているらしい。ソウル市内を走るバスの座席に、慰安婦像の等身大のレプリカが乗せられて市内を走り、ソウル市長がわざわざ視察しに出かけたという。

 いまにバス停や駅前に、つぎつぎに慰安婦像と徴用工の像が建てられかねない気配である。誰もそれに表だって反対できないのが韓国という国らしい。反対すればもちろん親日的売国奴と決めつけられて社会的に糾弾されることになるであろう。

 さらに像の設置がエスカレートすれば、各会社の門前の左右に慰安婦像と徴用工の像の設置が暗黙の強制となり、さらにさらにエスカレートして各家々の門前にも慰安婦像と徴用工の像を置くことが当然となるであろう。見わたすかぎりに像が建ち並ぶさまを想像するとシュールだ。

 それが韓国にとってどんな意味があると考えているのか、もはや理解不能である。そもそもどんな利益があるのだろう。利益は像の制作会社にだけはあるであろう。しかしチョコレート会社の思惑でバレンタインデーが盛り上がるのとは意味が違う。

 唯一明らかなのは、そんな韓国にまともな日本人は誰も行きたいと思わないだろうということだ。中国人の観光客も減少しているというし、韓国を訪れる外国人のリピート率は日本を訪れる客のリピート率と比べて格段に低いという。一度行くともう行きたくないという人がもう一度行きたいという人よりはるかに多いということだ。

 海外からの観光客が、慰安婦像と徴用工の像をずらりとならべた韓国を訪問して何を感じることだろう。反日を学んで帰ってくれると韓国の人びとは思うのだろうか。

 そのような像は確かに魔除けの効果があることは間違いがない。鬼畜である日本人を韓国から追い払う効果があるだろうから。

 いまに日本と商売をしている企業は、韓国で売国会社と非難されるかも知れない。それならそれを見越してそろそろ韓国に足場を置く日本の企業は撤収を検討する必要があるだろう。まともな会社ならたぶんもう準備は進めていることだろう。気がついたら韓国に日本の企業はいなくなるに違いない。魔除けの効果が出ることになるわけで、韓国にとっては願ったりであろう。
 魔物として韓国から退散した日本は、韓国なしで生きていかなければならないという試練をたぶん乗り越えることであろう。半島と無関係というのは有史以来なかったことであり、想像を絶する苦境であるが、案外なんでもないことかもしれない。頭を永遠に下げろ(何しろ「千年経っても許さない」、と大統領自らが公言している国である)といわれるよりは気持ち的に楽になる。経済的な損失とプライドは比べようがないけれど、お金のためにプライドは捨てられないのが矜持というものであろう。

内田武志・宮本常一編訳『菅江真澄遊覧記1』(東洋文庫64)

 東北地方などの海岸や峠で菅江真澄の石碑を何度か目にした覚えがある。どんな人なのだろうと思っていたが、数多くの日記体の紀行文を残していることを知り、一度は読んでみたいと思っていた。

 東洋文庫は本棚にけっこう並んでいるが、ほとんどが中国関係の本である。だから東洋文庫に菅江真澄の遊覧記が収められているのを知ったのは、百目鬼恭三郎の本で紹介されているのを見てからだ。あわてて東洋文庫の目録を確認したら全五巻で収められている。

 名古屋の大型書店や古本屋では端本しか見つけられなかったのでアマゾンで調べると、書店はばらばらではあるが全巻揃えられる。手配して入手し、先月末くらいから一日10頁くらいずつ楽しみながら読んだ。

 楽しめるけれど読みにくい。原文ではなく現代語訳されているので、読めることは読めるのだが、原文が擬古調のやまとことばにこだわって書かれていることと、やたらに歌(和歌)が散りばめられているせいかもしれない。なにより肝心なところにふりがながなかったりすると気持ちが治まらない。注も不要なところに詳しく、分からないところにはなかったりする。調べても分からなかったのか、当然知っているはずのことを私が知らないのか。

 それでも後半に入ると、それに慣れてきたせいか読み進む速度が上がってきた(ただ雑に読んだだけだが)。リズムがつかめた気がする。同じような時期に、同じように東北や北陸を歩き回った橘南𧮾の東遊記(東洋文庫では『東西遊記全二巻』に収められている)を比較のために読め始めているが、こちらは原文(正し現代仮名遣い)だが総ルビ付きで、原文なのに却って読みやすい。原文そのものが分かりやすいからかも知れない。こちらは日記体ではなく、項目別の小文を集めており、訪問先や時間順になっていない。旅で経験したり聞いた話、見たものを事項ごとに思いつくまま書き連ねてある。

 二つの紀行本を比較したかったのは、天明の大飢饉についての記述である。天明三年(1783)に始まり繰り返し全国を襲った飢饉は、特にみちのくに地獄の惨状をもたらした。

 あとで菅江真澄の遊覧記のその部分を一部紹介するつもりだが、彼は津軽まで歩き、そこから蝦夷地(北海道)に渡るつもりだったが、飢饉のために三年待つことになるのである。

 菅江真澄は三河地方(愛知県岡崎)出身らしく、もともと白井秀雄と名乗っていた。薬学者であり、医師であって国学にも傾倒して交遊した人は数多い。若い頃より各地を旅して歩いたが、31歳の時(天明四年)越後を経て奥羽地方へ旅立つ。そして75歳に秋田県の仙北郡で没するまで、ついに故郷へ戻ることがなかった。

 この本の冒頭は編訳者のひとり、内田武志による菅江真澄の伝記風の紹介である。内田武志は生涯を菅江真澄の研究にかけた人であり、血友病と闘いながらほとんど寝たきりのまま研究を続けた人だという(1980年死去)。名前を連ねている宮本常一は監修的な役割であったのかと思われる。

 菅江真澄は多量の文書を各地に残しており、紀行文も再三書き直している。それでも当然あるはずのものが欠けている部分があり、のちに発見されるものもあるので、研究は続けられているようだ。

 ここに挙げられている地名を元に、彼が訪ね歩いた神社や寺、旧跡をたどる旅がしてみたいと思っている。これから詳細をノートに作り直そうと思う。面白い。

2017年8月13日 (日)

バカなことを

 どんな動物も子孫を残すためにせっせと交尾に励む。たいていの動物はその発情の時期は限られているが、人間は年中発情が可能な特殊な動物だという。

 人間は子孫を残すためよりも快感を求めて行為するから、とめどがなくなりがちで、それをコントロールするために恥じらいという心の働きも備えている。

 「不倫」「不倫」と世間は喧(かまびす)しいが、欲望が人より強くてコントロールの甘い人間をやり玉に挙げて非難するのは古くからの大衆の大いなる娯楽である。

 勝手にすれば好いと思いながら、特に不快感を感じるのは、人のセックスをひたすら追いかけて、それをネタにして正義漢面をする連中である。人の下半身のことにばかり意識を集中させてそれを暴露することに夢中になる人間がいても需要があるからでかまわないが、それは下司である。レポーターというのはこの世の醜業の最たるものだと思うが、それが正義漢面しているのが不快なのである。

 またそれを話題にしながら得々と人のあるべき姿が論じられたりすると虫酸が走る。何のことはない、うらやましいだけではないか、などと思ったりする。知名度や金がある人間が不特定多数のお相手とのチャンスが多いことは確かだろう。金も知名度も優れた容姿もない人間がやっかむのは当然だが、それを人倫で論じるのは恥ずかしい。

 マスコミが多くの時間と経費を割いてそれを報じてコメントしているのを見るとバカではないかと思う。そしてそれをわざわざブログに書くのもバカなことであるのだが。

2017年8月12日 (土)

自家中毒

 自家中毒とは主に子どもに見られる症状で、食中毒のような嘔吐感を伴うことが多い。血中に脂肪が分解して生ずるケトン体という物質が多量に作られ、それにより代謝異常が起こる症状であるが分かっているが、なぜケトン体が多量に作られてしまうのか、明確ではない。過度なストレスがあると自家中毒が起こることが多いことが特徴である。心的要因が大きいのだ。多くはおとなになると共に改善する。

 これは本来の自家中毒についての説明だが、私には韓国の反日が自家中毒症状を引き起こしているように見えている。

 自国の国内に、国の屈辱の象徴である慰安婦像をつぎつぎに建て、日韓合意という、世界に公表されている国と国との約束を国民の気持ちが伴っていないという理由で反故にすることを当然として、マスコミも政界も盛り上がり、すでに戦時中のことは全て解決済みとした日韓条約も、個人の補償は別であるとして三菱重工を訴えた訴訟で、韓国の裁判所はその訴えを認めるというあり得ない判決を下した。

 朴槿恵の父親の朴正煕大統領の時代に結ばれた日韓条約では、当初日本はドイツにならい個別補償を提案していたが、韓国側がその補償は韓国政府が国家として行うので、国に賠償金を払って欲しいと要請されてそれを受け入れたという経緯がある。韓国国民の個別補償は韓国政府が行うと明記されているのだ。かわりに日本が韓国に残した施設や権益全てを放棄することで合意している。韓国はその賠償金で漢江の奇跡といわれる復興を成し遂げて今日がある。

 韓国映画『軍艦島』は事実と異なる部分が多い。確かに苛酷な労働があったことは事実だが、その時代の炭鉱労働とはそういうものだったし、朝鮮人だけがことさら苛酷な労働を強いられていたわけでもなく、また強制的に徴用されていたわけでもない。高給が得られることから自発的に働いていたのである。待遇は良く、日本の一般国民よりはるかに豊かだったのだ。

 この映画について問われた菅官房長官が「事実と異なる創作映画だと考える」と穏やかに答えたことに私は同意する。この映画ですら、韓国内ではマスコミも国民も声を揃えて「親日的な映画だ」と非難している。当時の日本人はもっとひどい人たちだったといいたいのであろう。その非難に対して、監督は「親日的とされるのは心外だ。この映画は骨の髄まで愛国・反日映画だ」と反論していることからも、誇張された反日映画であることが明らかなのに、韓国は親日と見做すのだ。

 日本がナチスよりも悪逆非道であったと思い込んでいるのが韓国なのだろうか。いや実はそうでもないらしいと気がついているらしい。だから韓国から日本に来る観光客はますます増加している。そうして自分たちが思い込まされていることが違うと感じているのだ。

 しかしそうなるとほとんどアイデンティティとして刷り込まれてしまった反日が崩れてしまい、精神の安定を失うことを恐れているのではないか。だから戦後70年を過ぎてますます反日が強化され、幻想が膨らんでいる。それを私は自家中毒と見做すのだ。すでに反日は日本が原因ではないのである。自ら生み出した毒で自らが嘔吐に苦しんでいる。韓国が反日で得るものなどなにもない。

 過去、韓国の反日に迎合、または助長する日本のマスコミもあったが、特殊な日本人を除いて韓国の反日にうんざりして相手をしなくなったのを見て、マスコミも迎合することが少なくなった。読者を失うのは身の破滅である。彼等の正義などそんなものである。

 日本が反論する気も失せて、相手にもしてくれなくなってきたことから、韓国の自家中毒はさらに悪化しているのかも知れない。皮肉なことに、日本でヘイトをする人間はある意味で韓国の自家中毒の解消に役立っているのである。何しろ反日の相手をしてくれるのである。だからヘイトは二重に愚かなのである。

 ところで中国は、伊藤博文をハルビン駅で暗殺したテロリスト(韓国では英雄)安重根の像を韓国に寄贈したそうだ。安重根の像はすでにハルビン駅前の安重根記念館に一体置かれていて、それと同じものらしい。これも日本大使館の前にでも置くつもりなのだろうか。この記念館はあの朴槿恵が反日を旗印に中国と異常に親密になったときに、習近平が建設を約束したものだ。

 その後中国は韓国がアメリカのTHAAD設置を認めたことに反発して情勢は一変し、事毎に韓国に対して嫌がらせをしているが、安重根の像を贈呈するような、韓国がよろこびそうなことをどうしてしたのだろうと思っていたが、韓国の自家中毒を悪化させるための、時間をかけた遠回りの悪意が秘められているのかも知れない。中国とはそういう国である。

 韓国の反日という自家中毒は言葉通り自分自身を蝕んで何の利も生み出さない。それでもそれに囚われているのは、北朝鮮の脅威、いまにも起こりそうな戦禍に対する恐怖から眼を逸らすためのものだ、という解釈もある。しかしそれは理由ではなく結果のような気もする。

2017年8月11日 (金)

楽しい呑みすぎ

 昨日は昼過ぎに車で息子が帰省してきた。朝、混むと思って5時頃に広島を出発したけれど、大事なものを忘れたので一度ひきかえしたために、結局渋滞にはまることになった。京都あたりではずっとのろのろ運転だったそうだ。

 愛車のアクセラをついに買い換えたという。白いロードスターだそうだ。盆休み中はマンションの来客用駐車場はくじ引きになる。くじ引きの日には用事でいなかったので、駅前の駐車場に置いてもらった。だからその白いロードスターをまだ見ていない。

 それでも昼過ぎにはやって来たので、二人で映画『レヴェナント 蘇りし者』を観た。ディカプリオ主演の凄まじいサバイバル復讐映画だ。映像が素晴らしい映画だという評価は承知していたので、見るのを楽しみにしていた。私も息子も大自然の映像の素晴らしさと、描かれるドラマのすさまじさに圧倒された。大迫力の素晴らしい映画だ。

 ディカプリオはもともと好きではない。ところがいい映画に出ていることが多いので、ずいぶんの本数を観ている。俳優として素晴らしいからオファーもあるのであろう。この映画でディカプリオの評価を「好き」に変えることにした。それだけの映画である。

 そのあと息子と呑んだ。つまみは居酒屋風に品数を揃える献立にした。シシトウの醤油煮、オクラのおかか醤油和え、真鰯の煮付け、厚揚げの煮物、息子のみやげのママカリの酢漬け、玉葱と挽肉のパイ風卵とじなどである。酒はビールのあとに、広島から息子の持参した「雨後の月」ブランドの純米大吟醸「吟風咏月」と云う酒を飲む。フルーティな酒である。フルーティすぎるくらい香り高い。「雨後の月」は広島の飲み屋では「賀茂鶴」より一般的な酒だそうだ。知らなかった。

 話がはずんだのでとめどがなくなり、そのあとジンレモンの炭酸割りをぐいぐい呑む。息子の瞼が次第に降りてきて、半分寝た状態で私の話を聞いている。先に寝せる。疲れたのであろう。長時間運転にか、私の長話にか知らないが。

 私はそのあとも燗酒などを飲んでしまった。おかげで今朝は少々酒が残ったが、楽しい酒は二日酔いにはならないのが不思議だ。

 息子は夕方から豊田の友人と合流し、泊めてもらったあと明日から北陸へ小旅行に行くといって出かけた。若いから元気である。帰ってくる頃には娘のどん姫もやってくるので、また酒盛りなのだ。

2017年8月10日 (木)

昨日は

 昨日、旅行会社との打ち合わせ中に、携帯に宅急便から届け物の連絡があった。果物なので今日中に届けたいという。別に用事もあったが、急ぐことでもないのでそのまま帰宅。間もなく荷物が届けられる。

 弟から梨が送られてきた。早めに出来る幸水である。さっそくむいて食べてみると果汁たっぷりでとても甘い。弟が帰宅する頃合いを見計らって礼の電話をする。この梨のお礼がなくても電話しようと思っていたところである。

 昨日は母の命日なのだ。一昨年の8月9日の夜明け前、私の兄弟たち、そしてその子どもたち、さらに孫たち(母にとってはひ孫たち)が見守る中で母は最後の息をひきとった。

 すでに三回忌は済ませてあるが、盆にはお坊さんがきて経を上げる。今年は行けないことなどを弟に伝えたかったのだ。妹の家族は来るという。弟の家族の消息などを聞く。互いに酒を飲みながら話しているから少し長くなる。

 盆があけたら8月末には遠出をする予定であり、その足で弟の家に泊めてもらうことにする。そのときに両親の墓参りをするつもりだ。弟の家族は盆明けに大洗や那珂湊などに一泊旅行に行くという。

 間もなくわが息子がやってくる。

テレビ三昧(2)

 少し前のWOWOWドラマ『山のトムさん』。原作は石井桃子、あの名作『のんちゃん雲に乗る』の作者だ。映画化されたときの主役は鰐淵晴子。子どものときに見たので詳しいことは覚えていないが、母親役は原節子だった。『山のトムさん』のトムさんとは猫のことである。作者と覚しき主人公ハナ(小林聡美)は東京暮らしをやめて、娘と二人で田舎暮らししている友人(市川実日子)の元で暮らし始めている。そこにハナの甥のアキラが加わり、四人の暮らしが淡々と描かれていく。

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 あの『パンとスープと猫日和』のスタッフと出演者が作ったドラマであり、脚本が群ようこ、音楽が大貫妙子であるからその雰囲気が分かろうというものだ。盛り上がりはほとんどない。そのふんわりとした世界を楽しむか、何だこれは!と思うか、評価は人によって大きく別れるだろう。私は猫が好きだし小林聡美が好きだから自然体の演技を見ているだけで気持ちが好くて癒やされた。

 台詞も観客に聞かせるような気配を完全に絶ち、ただ普通に暮らしているなかでの会話になっている。市川実日子のクールなやさしさが見るたびに好きになっていく。もたいまさこが田舎の雑貨屋の女店主で出演しているが、いてもいなくても好い存在を、楽しそうに演じている。この人が空や彼方の山をぼんやり見つめる立ち姿が好い。

 ほとんどなにも事件らしい事件が起きない(アキラが面倒を見ているヤギが逃げたして、近所の畑を荒らすという事件はあるが、それもそういうことがあったというだけであり、激怒したというその人達は登場しない)ドラマの極地の作品だった。田舎暮らしに対するあこがれはあるが、自分のペースで生きられるとはいえ、生き物相手であるからサボることが許されない日常を引き受けるのは、怠け者の自分には無理かなあ、などと思う。

 そういえば、彼女たちの暮らしを取材にきた女性記者が、手伝うというのでお米を研ぐシーンがある。何と彼女は泡たて用の攪拌棒でお米をかき混ぜていた。これで二人の子どもを持つ母親だというのだ。たぶん石井桃子の体験した実話ではないか。松居一代なら、グッジョブというかもしれないが、主人公達はあっけにとられていた。

 これもWOWOWのドラマ『人質の朗読会』(2014)。原作は小川洋子。小川洋子と云えば『博士の愛した数式』を思い出す。これは映画化され、寺尾聰と深津絵里が出演していた。不思議な小説を書く人で、短編集を持っているが、まだ完読していない。『人質の朗読会』には久しぶりの大谷直子が出演している。

 ラジオ局の記者(佐藤隆太)は、尋ねてきた女性(波瑠)から録音データを託される。南米でテログループに日本人が襲撃されて人質になり、監禁され続けるのだが、その様子を盗聴していたときのテープから起こされた音声データであった。

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 人質たちはどのような日々を暮らしたのか。やがて人質のなかに作家がいることから、気力が萎えるのを奮い立たせるためにそれぞれの人の心に強く残っている出来事を文章にして、それを順に朗読するという試みを始める。

 こうしてその出来事を通してそれぞれの人間の人生が、つまりその人そのものが描かれていく。本当に人の人生はさまざまである。この人質のなかに女性(波瑠)の母親(大谷直子)がいたのである。

 ラストに記者(佐藤隆太)はこの盗聴を続けていた兵士のひとりに会いに南米まで出かけていく。ここで渡されたものは、プロローグで兵士が拾い上げた文字の書かれた一枚の板だった。人質たちは政府軍の強行突入の際に全員亡くなっているのである。彼等は死んだが残された音声データは彼等の生きた証として残されたのである。人が生きたということの意味を考えさせられた。

2017年8月 9日 (水)

慣れたのか

 毎年友人達と三人で海外旅行に行く。弥次喜多道中だが、気の置けない仲間なのでこの上なく楽しい。今年は私が幹事で中国の雲南省へ行くことになっている。旅行会社からようやくほぼ手配が完了したとの知らせがあり、最終確認の打ち合わせのために夕方名古屋駅前の旅行会社へ行った。

 三時過ぎの日盛りに出かけたので、最初は熱気で顔が膨れるような気がしたけれど、思ったほどはげしい汗はかかなかった。暑さにようやく身体が慣れたのかも知れない。

 旅行の件もこれで一段落したし、家庭裁判所の審判もこちらから異議を申し立てするような結果ではなかった(おおむねこちらの言い分が認められた)ので一段落である。明日には息子が帰省してくるので、いろいろな用事が片付いて良かった。あとは部屋の片付けと掃除、そして酒の肴の買い出しである。明日の午前中にやることにしよう。

 明日の晩は息子とゆっくり飲める。嬉しいなあ。

 ところで旅行会社の窓口になってくれたお姉さんは、私と誕生日が一緒だそうだ。「初めて誕生日が同じ人と会いました」と嬉しそうに言うのでこれらも嬉しくなった。私はほかに二人同じ誕生日の人を知っている。

自分では分からない

 しばらくぶり(と云っても数日ぶりだが)に「ひるおび」を観ていたら、キャスターの恵俊彰がますます気になりだした。以前からレポーターやコメンテーターの言葉に自分の言葉をかぶせる傾向があったけれど、それがますますひどくなっている。特に出先のレポーターの言葉は技術上ワンテンポずれるから、少しだけ待たないと会話が成立しない。そんなことは長年キャスターをやっているから恵氏も承知のはずだが、ほとんどメチャクチャである。

 お笑い出身(もちろんホンジャマカとしていまも現役)ではあるが、お笑いの突っ込み役をキャスターとしてもやっているつもりなのだろうか。この番組は昼の時間帯としては最も人気が高いらしいけれど、最近だんだん批判が多くなり、視聴率も下がり気味だという。コメンテーターに落語家や赤ちゃんしゃべりの女流作家など、わけの分からないことをいい、見るに耐えないのが並んでいたりして、私が観るのをやめることにした理由でもあるが、番組自体がかなり劣化しているようだ。もともと恵俊彰自体は嫌いではなかったのにどうしたことか。本人には自分の状況は分からないのだろうか。

 外は猛暑だが、出かけさえしなければクーラーの効いた部屋のなかにいるから快適のはずである。それなのにボーッとしている。スランプで集中力を欠いているらしい、などと自分で言い訳している。なにかが空回りしている気分なのだ。しかし、待てよ、と思ったりする。そもそもボケの始まりとはこんな空回りなのではないか。集中力を失い、世の中を紗のカーテンを通して見ているような実感のなさというのは、まさに脳の働きの衰えなのではないか。

 自分では分からない。

やることがあるのに

 やらなければならないことがあると、それではないことに夢中になる。ふだんはそれほどでもないのにやめられなくなる。

 まにあわなくなりかけてあわててやらなければならないことをやるからやっつけ仕事になる。考えたらむかしからそうだ。親にせかされれば「いまやろうと思ったのに!」と決まり文句を言ったものだ。

 いまはせかしてくれる誰もいない。

2017年8月 8日 (火)

テレビ三昧(1)

 眼の調子が少し回復してきたのでテレビを観る。暑くて出かけるのが大儀なので家でゴロゴロしてテレビを観る。頭が空回りして、本を読む集中力がなくなっているのでテレビを観る。家の中の片付けや掃除などの雑用をしなければならないと思いながら、その気にならないのでテレビを観る。

 とはいえ普通の番組はCMだらけなので観ない。最近はNHKまで番宣という名のCMが氾濫し始めた。だからリアルタイムで観るのはNHKのニュースくらいで、ほとんど録画してから不要部分を飛ばして観る。これでかなりの時間の節約になる。それだけ無駄な部分が多いということだ。
 
 『相棒』シリーズや『科捜研の女』シリーズをだいぶ消化したと思ったら、再び連日の再放送である。すでに観たものもあり、観ていないものもある。観たものかどうか実際に観てみないと分からない。始まってすぐ判断がついてすぐ消去することもあるが、このシリーズはたいてい面白いので、そのまま観ているとつい一度観たものでももう一度最後まで観てしまう。これではきりがないのである。

 WOWOWの海外ドラマは韓国もの以外はたいてい面白いが、今は録画するものをとことん絞り込んで『リゾーリ&アイルズ』のラストシーズンのみにしている。NHKのドラマもいまは単発以外は全て録画しないことにしている。『伝七捕物帖』の第2シーズンは田中美佐子が出ているから観たいけれどこれも断念した。

 こうして何とか古い録りためたドラマや映画に取りかかれるようになったところである。藤沢周平のドラマなどを立て続けに観た。BSフジの『遠いしあわせ』『冬の日』『果たし合い』など、なかなか配役も良いし出来もよくて楽しめた。現在は山本周五郎の原作を毎週放映しているけれど、配役がお粗末で出来も悪く、最初の頃は我慢して観ていたけれど、時間の無駄なので観るのをやめた。

 同じく北大路欣也の『三屋清左衛門残日録』も良かった。原作は藤沢周平の作品の中で私が一番好きなものである。NHKは以前これを『清左衛門残日録』としてシリーズで放映していた。こちらは仲代達矢主演でみさ役のかたせ梨乃が良かった(北大路欣也版では麻生祐未)。私はNHKの仲代達矢の方が原作のイメージに近い気がして好きであるが、北大路欣也も悪いわけではない。

 思えば大好きな北原亞以子の『慶次郎縁側日記』シリーズも隠居老人の話である。NHKでドラマ化したときは高橋英樹が慶次郎を演じていた。上に上げた『果たし合い』でも主人公(仲代達矢)は隠居老人のようなものである(この場合ちょっと違いはある)。これらの初老の主人公が、自らの衰えとたたかいながら次第にそれを受け入れていく姿に共感を感じている自分がいる。同時に衰えたりといえど立つときは立つという気概は失わないところにも感動するのだ。

 そういえば、父はよく口ぐせのように「死してのち已む」と云っていた。 
(つづく)

美人

 顔の造作が整っている人は美しい。出来れば肌もきれいであれば申し分はない。美人は三日見ていると飽きる、などといわれるが、飽きるのは理由があると思う。

 あまり整いすぎている美人は冷たく見える。微妙なアンバランスがありながら全体として調和していたりすると魅力が加わる気がする。人の顔が決して左右対称ではないのはじっと見ていると分かることで、真ん中に鏡をおいて右も左もまったく同じだったら、もしかしたら気持ちが悪いかも知れない。韓国の整形美人は、確かに整っているけれど、少し気持ち悪く見えるのもそんな理由だろうか。本来自然であるはずのものが人工的だと違和感を感じるのだろう。

 顔のかたちそのものが整っているかどうかは本人の責任ではないが、かたちとして美しい人がそれほど美しく感じられないで、美人ではない人がとても魅力的で美しく見えたりする。これは写真では分かりにくい。

 人には表情というものがある。本人の反応が表情として顔に表れる。それが活き活きとしている人は美しい。計算ずくの媚びというのもあるけれど、計算ずくに見えさえしなければそれは魅力である。

 若いときには見た目の美しさに目が行って、表情の魅力に気がつきにくかった。いまは活き活きとした表情の女性に美しさを感じる。若いときにそうだったら良かったなあ、と思ったりするが、結果は変わらないだろう。昔も今も見るだけである。

 先日『サワコの朝』でギタリストの村治佳織さんの美しさに目を奪われた。彼女のグラビア写真をたびたび見て、美しい人であることは知っていたけれど、映像としてみたのは初めてだ。表情の輝きを感じて本当に美しい人だと思った。

 女は愛嬌、などというと矢が飛んでくるかも知れないけれど、どう言われても愛嬌のある女性こそが美人であり、当人にとっても回りの男にとっても幸せであることは揺るがない真実のように思う。

 それは松居一代や泰葉を例に出すまでもあるまい。

風が涼しい

 昨晩の台風は台風らしい台風であった。あけがた、窓を開け放つと北側からの吹き戻しの風が強く吹き抜けていく。久しぶりに朝の風が涼しいと感じた。今朝は富山あたりでまだ活躍しているようだ。

 台風がいつまでも衰えないのは、海水温が高いことでエネルギーが日本に近づいても供給され続けるからだという。それならば温暖化が止まらない限り同じようなことがおきる。台風の発生する場所がだんだん日本に近いところに移っているようでもある。日本は次第に亜熱帯化しているのだろう。

Dsc_0196 石林

 昨夕旅行会社の女性から電話があった。観光先とスケジュールを決めて依頼していた秋の雲南省の旅行の最終予約の連絡が、まだ現地の旅行会社から来ないのだそうだ。こちらが連絡がないことを気にしているだろうと察して電話をくれたらしい。何度か打ち合わせで会っているので台風を話題にして互いに軽口をきく。ころころと明るく笑う彼女の声を聞いてなんとなく気分が晴れた。

 そういえばしばらく誰とも口をきいていなかった。ふだんなら盆前に小旅行くらいに行って、旅先で見知らぬ人と会話をするところだが、ちょっとした雑用がランダムに続いていたのでずっと家にいる。おかげで金がほとんどかからずに暮らしているのは好いのだが、もの言わぬは腹膨るるわざ、という通り、物理的にも精神的にもたまらなくてもいいものがたまっている気がする。子どもたちの来るのが待ち遠しい。

Dsc_0305 麗江にて

 旅行といえば、海外に行っても日本食を求める人がいるようだが、私はずっと現地食が続いても平気である。特に日本食が食べたくなったりしない。これが現地駐在ということになれば話は別だろう。仕事で中国の日系企業に勤める人を訪ねたことがしばしばあったが、よく日本食の店で会食することを希望された。たいてい一人か二人で頑張っている人が多かったから、日本語で会話して日本食を食べるいうことがとても嬉しいことなのだと言われた。

Dsc_0426 玉龍雪山

 旅行や出張でする食事と、現地駐在で食べ続ける食事は違うようである。あまり食べるものにこだわらない私でも、食べられないと思えば懐かしく思い、食べたくなる日本食というものもあるかもしれない。友人達との旅行ではまず日本食を食べない。誰も日本食が食べたいなどといわない。それが平気な連中だから楽しいともいえる。何しろ精一杯異国を楽しみ、里心を忘れることの出来る元気ななかまであることがありがたい。

 雲南省は中国の田舎料理ばかりで、素朴だがやたらに辛いものや塩っぱいものはないから結構いける。海の魚がないのは仕方がないが、なければないでもかまわないのだ。いまガイドブックを眺めて楽しみの予行演習をしている。

2017年8月 7日 (月)

台風近づく

 ここ、名古屋の北でも朝から雨が断続的に降っていたが、昼頃から強い雨に変わってきた。昨日から風は梢を揺らし、その揺らぎ方も強くなってきた。これから急激に強くなるおそれがあるという。

 テレビの台風情報を見ていたら、わが街にも避難準備警報が出された。私の住むマンションの周囲はもともと田んぼだったところであり、川(新川)からも近い。豪雨のときには水が新川の堤防を超えることがある。川に近い人は万全を期して非難した方が良いだろう。

 実際に何度か川の周辺で洪水被害があったけれど、住まいのマンションはいままでまったく大丈夫であったし、場所的に駐車場も冠水することはないと思う。

 それよりも心配なのは停電である。むかしはこういうときに停電することがあったものだ。いまはめったに停電などしないけれど、何でも電化されているから、万一停電すると大変だ。この暑いのにエアコンは使えないし、テレビを見ることも出来ない。電灯がつかなければ夜は食事の仕度も出来ない。冷蔵庫が停まったら大変だ。マンションの水道も電気が止まるとタンクからの給水が出来ないはずだ。

 そういえば将来ガソリン車は禁止になって電気自動車になるというが、発電所に何かあったら自動車はいっせいに使えなくなるわけである。そのときはどうするのだろか。ガソリンなら運べるが電気は緊急車両で運ぶことも出来ない。電源車が活躍することになるのだろうか。それは想定されているのだろうか。

 不謹慎ながら、子どものときのように天変地異にはちょっとわくわくするところがある。ときどき強い雨を窓越しに眺めながら、いっそのこともっと降れ、などとちらりと思ったりしている。

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