2017年10月19日 (木)

服を買う

 来月初めから雲南省へ旅行に行く。着ていく服がないわけではないが、この10年ほとんど同じ服で出かけているので、ずいぶん久しぶりに服を買おうかと思ってあちこち物色した。

 どこへ行っても売り場が広くてしかもいろいろな店が軒を並べている。ふだんときどきウインドーショッピングでもしていれば、あんな風なものが欲しい、などと見当もつくのだろうが、なにもイメージがないのである。本を買うときと違って、服のほうから「あなたに似合うはずだからこれを買って!」と呼びかけてくれないのである。だから途方に暮れてしまう。

 人がみたら何でこんなものを買ったの?と思われるようなものを買わないようにしよう、というのが私の選定基準である。実際に買ってしまえば人が何をいおうがまったく意に介しないのであるが、買う前は少しは気にする。気にするのは実は他人に対してではなく、自分に対してなのだろう。

 それでとにかく思いきって(迷うのにうんざりして)上着と薄いセーター、そして靴を購入した。十年ぶりくらいの散財で、カジュアルのものにこんなに金を支払ったことは記憶にない。でもこの服や靴も十年以上着るし履くのは間違いないから、無駄遣いというほどのことではない。

 しかし買って帰ってそれらを眺めながら、これでよかったのかなあ、と少し不安になっているのである。どうせ何を着ても似合わないのだから同じなのに。

 こういう買い物は苦手である。

個性と差別

 差別とはなんだろうか、むかしからずっと考えている。人は自分が他人より優越であると自覚することに快感を感じるものらしい。その優越である理由が本人の手柄ではなく、なおかつ劣等とみなされたものに正当な理由が存在しない場合、差別というようである。問題は「正当な理由」にあり、なにを正当とし、何を不当とするかであろう。アリとキリギリス(イソップの原話はアリとセミらしいが)の話で、アリが冬にうちひしがれているキリギリスを蔑むとき、それを差別と呼べるのか。

 個性とはなんだろう。生まれた国、民族、家族、そして能力は生まれたときから与えられたもので、成長する中で刷り込まれる文化や知識はその境遇の中で限定される。男であるか女であるか、頑健か病弱か、好奇心旺盛か無関心か、社交的か内向的か、努力する性格か怠け者か、さまざま多岐に、それこそすべてにわたって人は自分以外の人と異なる。数学が得意な人まったく受け付けない人、語学が苦手な人得意な人、能力もそれぞれみな違う。美醜もあり老若も違う。すべてを含めて個性というのであろうか。

 それならすべてにわたって人と人は違い、個別のことについて差が厳然とあるのである。その優劣はどんな物差しを持って来るかの違いだけである。では差別はいけない、みな平等である、ということはどういう括り方によって成り立つ言説なのだろう。個性の差と差別をどこで区切るのか。

 優越感と劣等感は人間の本質に根ざすもので、それがあるかぎりその区別は永遠にあいまいではないか。世の中は区別があいまいなことが普通であり、しかしながら明らかに不当な差別というものがあるのも事実である。不当なものがしばしば正当を侵食する。それが理性によって正されてきたのが人間の歴史だろう。

 ところが同時に区切りが正当に食い込みすぎるとマスコミの言葉狩りのような異常な事態になる。言葉狩りはときに差別の隠蔽に繋がる。死を恐れるあまり死から目を背けて死の隠蔽が行われたために死が軽んじられてしまうように、差別は却ってひそかに増幅されていないか。

 差があることすら認めないような世界は、あの毛沢東思想が吹き荒れた文化大革命時代を想起させる。その理路を詳しく語るにはまだ考えが浅いようであり、うまく説明できなくて申し訳ない。

2017年10月18日 (水)

どうしてこれほど変わるのか

 先日の高速道路での殺人事件以来、あおり運転や強引な割り込みなど、危険な運転がたびたびテレビで取りあげられている。それを見ていると危険運転が急に増えたのかと思ってしまう。

 これはもともと危険運転をする人が多かったのに話題にならなかっただけなのだということは承知しているが、問題は事件直後のニュースでは、あおられるなど危険な運転を体験したり見たりした人の割合が四割弱だったのに、昨日今日のニュースでは七割近くの人が体験したり目の当たりにしたと答えているということだ。

 どうしてこんなに違うのか。質問の仕方が違うのかもしれないが、それによる差とは思えないほどの違いである。同じようなことを聞かれて、以前は何とも思っていなかった人が、ニュースで繰り返し見聞きしてやはり問題だと気がついたということだろうか。しからばそのような人たちは自分自身がそのような行為をしていたか、する可能性のある人かもしれないなどと勘ぐってしまう。それは危険運転する可能性をもつ人がそれだけ多いという証でもあると思うとぞっとする。

 私はしばしば車で遠出するので年間2~3万キロ走る。前にも書いたとおり、自分の反応速度に自信がないから車間距離を十分にとるように運転する。だからあおられたり強引な割り込みをかけられたりすることはたびたびある。そういうときは危ない人で危険な人が側に来たと判断してその車からなるべく素早く離れることを第1に考える。やくざなどの暴力組織の人間だと想定して避けることにしているのである。

 逆に低速で追い越し車線をずっと走り続ける軽自動車など(しばしば枯れ葉マークや女性ドライバーのことが多い)を見ることもある。周りが見えていないし、多分バックミラーなどほとんど見ていないだろう。あおられても無視しているようにしか見えないのは、多分後ろを見ていないから平気なのだ。本人は速度を出さずに安全運転をしているつもりだろうが、回りのドライバーの感情を波立たせて全体を危険にさらしているとも言えるなあ、と眺めることもある。

 女性ドライバーというのは半分が平均よりも運転が上手である。そういう車は気持ちが良いほどスムーズに走る。そして残りの半分は周りが見えず、自分勝手で余裕がないようである。突然右折や左折してびっくりさせられる。それを事前に読み取って、不慮の事態に備えて回避するのも安全運転の基本だろう。気をつけていればすぐ分かるものである。

 景色を楽しみ、いろいろなことを考えながら、しかも周りの状況を観察して安全をはかるのであるから、運転は頭を使うものである。だからそれが年齢とともに出来なくなって危ういと感じだしたら車を処分して列車やバスの旅に替えようと心に決めている。いまのところだいじようぶだと思っているが・・・。

 危険運転をする人間は、あまりニュースを見ない気がする。そしてもし見たとしても自分のこととして考えたりしないのではないか。これだけ社会が警告を発しても、それほど危険運転が減るとは期待できないだろう。危険運転で事故を起こした人間の言い訳を聞けば分かるではないか。みな相手が悪いのである。

 とにかく触らぬ神にたたりなし、いっそう注意してドライブを楽しむことにしようと思っている。

再配分とは何か

 10/16の拙ブログ「単純に考えて」に対してコメントをいくつかいただいた。その中のけんこう館様からのコメントに対して返事を以下のように書いた。そのことでさらに自分の考えを書き足してみた。

「政府を悪者として印象操作することが正義だと思い込んでいるマスコミ人がいるような気がします。本当に困っている人をどう助けていくか、という視点からではなく、こういう貧しい人がいるから政府は悪者だ、というだけです。貧しい人を一人もなくすることなど不可能です。どうしたらそれを少しでも減らすか、そのためにみんなが何を我慢しなければいけないのか、それが忘れられています。
みんなが豊かで金持ちになることなど出来ないのです。
 貧しい人が救われて楽になるということは、我々が少し貧しくなるということにほかなりません。世界の富の偏在が少し均されたからアメリカの白人は貧しくなったと感じていますが、彼らを見て貧しく見えますか?貧しかった中国人が豊かになれば、日本人の豊かさは当然損なわれるのです。仕方がないでしょう。」

 私はどちらかと云えば保守思想の持ち主と言えるかもしれないが、安倍政権を全面的に支持しているわけではない。当たり前であるが是々非々である。しばしば一部マスコミや野党が社会の問題を政権の批判の材料にして安倍政権打倒を叫んでいるが、問題点に目をつぶって擁護しようなどとは思わない。

 しかしながらその批判が問題点の改善のためのものではなく、政権打倒のための批判に終始し、しからばどうすべきか、何が出来るのか、という対案なしにただ非難に終始していることに不快を感じている。

 貧富の差があることは悪ではない。豊かであることにはいろいろな理由があり、貧しいことにも理由がある。問題は理不尽で極端な差である。それが時間をかけてゆるやかに是正されれば理想である。そのためにどうすれば良いかを考えるのが政治だろう。一気に差をなくすようなそんなに上手い方法はまだ世界のどこでも見つけられていない。

 欧米や日本が豊かな暮らしを謳歌することが出来たのは、実は世界の貧しい人々がいたからであると私は考えている。その貧しかった東南アジアや中国の人々が豊かになってきたのである。欧米や日本が昔通りに豊かな暮らしが出来ないのは当たり前ではないか。それを以前よりも豊かでなくなったのはアベノミクスの失敗だ、と決めつけるのはいささか単純に過ぎないか。

 アベノミクスに問題もあるであろう。しかし経済は日本だけで廻っているのではない。他の国とくらべて日本だけが国民が貧しく飢えているのなら非難されて然るべきだが、私はどちらかと云えばそこそこ旨く廻っているように思う。

 みんながバブルの時代のように豊かさの実感を持てないから失敗だ、と言っているなら、それは妄言であろう。貧しかった人が豊かになれば、豊かな人が少し豊かでなくなるという程度で世の中は良いのである。

 中国は低賃金と人口ボーナスで一気に豊かになった。ただ、日本以上に貧富の差を残したままではあるが。賃金の上昇はGDPの上昇をはるかに超えている。しからば中国の競争力は一気に低下するだろう。しかも人口ボーナスもそろそろ底をつく。

 こうして選手交代で東南アジアやインドが豊かになっていくだろう。本物のグローバリズムというのはそういうことだろう。もはや世界はみな繋がっている。アメリカだけが豊かさを維持するようなグローバリズムなど偽物だ。そんなものはローカリズムである。

 アメリカ人が昔の豊かさを取り戻せるようにする、と約束して大統領になったのがトランプである。そんなこと出来るわけがないのである。もしどうしてもそうすればアメリカ以外の世界が再び貧しくなることになる、歴史のねじを逆に回そうというのか。世界が不安定化するだけである。現にそうなりつつある。

 それなら政治の優先順位はみんなを豊かにすることではないだろう。貧富の差の最底辺で自らの力ではどうにも生きていくのが困難な人を救うことであろう。それを再配分の最優先にすること、国民はそれを当然として了承することだろう。

 世の中は不公平に出来ている。人の能力や運には差があるから不公平をまったくなくすことは出来ないのである。困っている人を政争の具にするべきではないし、経済を正義を以て論ずるべきではない。これを選挙の候補者の選別のポイントにしようかと思う。

2017年10月17日 (火)

留守電

 携帯を持っているので、固定電話をかけることはほとんどない。ほとんどの知り合いには携帯の番号を伝えてあるから、それらの人から固定電話にかかることもない。

 リタイアしてから在宅することが多くなったので電話に出る。固定電話かかってくるのは、ほとんど勧誘や売り込みなどの電話であった。それらの電話はしつこい。うんざりするほどしつこくてこちらの電話を切らせない。強引に切るとまたかかってきたりして、しかも口調がだんだんおかしげになって気持ちが悪い。

 そこで電話には出ないことにして、在宅でも留守電のままにした。先方がどうしても必要な電話ならば必ず連絡を残してくれる。ほとんどが留守と分かるとそのまま切れるから多分必要な電話ではない。

 しばらく電話が鳴らないと思っていたら、このごろ急に頻繁に鳴るようになった。留守電のメッセージとともに切れてしまうのは相変わらずだ。稀にアンケートらしき自動電話があり、何番を押せ、だとか何とかいっている。それもこちらの必要のない事項についてのもので、怪しげであるから無視する。

 それらの電話は匿名でありながら一方的に押しかけるもので、名乗らず用件も明らかでないものはこちらに不要のものと断定することにしていて実際に何の不都合もない。

 一時期息子や娘の友人を騙って電話してくる者がときどきあった。友人であれば本人と連絡が取れないはずはないのであり、適当にあしらっていると怪しいことがおのずから分かって来る。あとで子供達に聞いても心当たりがないという。本当に油断がならない。

 私の固定電話しか知らない親類やいま疎遠の友人もないことはないので、すぐに固定電話をなくす予定はない。そして相変わらず留守電にしておくのも変わらない。繰り返すがそれでいまのところ何の不都合もない。

映画「ザ・シューター 極大射程」2007アメリカ

 監督アントワーン・フークア、出演マーク・ウォールバーグ、マイケル・ペーニャ、ダニー・クローバー他。

 マット・デイモンと同様サル顔のマーク・ウォールバーグは好きな俳優である。原作はスティーヴン・ハンターのスワガー・シリーズ三部作の一つ『極大射程』。スワガーシリーズはこの『極大射程ともう一作読んだはずだが題名を忘れた。スワガーシリーズは好評だったので、さらに新作がいくつも発表されているらしいが読んでいない。

 スナイパーの話といえば、単身でマフィアに戦いを挑むマック・ボランシリーズが有名で、私も10作目くらいまで読んだが、マンネリ化してきたのでそこでやめたがずっと続いているらしい。今回のラスベガス事件にこの辺の影響が全くないといえないが、アメリカ人の銃に対する感覚が多少分かる。

 狙撃手として戦地にいたスワガーは予期せぬ事態により戦地に置き去りにされる。行動を共にしていた親友をそのときに失うが、辛くも脱出する。除隊したスワガーは山中に一人で暮らす。そこへジョンソン大佐と名乗る将校が訪ねてきて、ある依頼をする。

 この辺の出だしはなんとなくシュワルツェネッガーの「コマンドー」を思い出させるが、ここでは闘いはない。依頼というのは、大統領の暗殺計画の情報があり、スワガーに、狙撃されるならどこなのか調査して欲しいというものだった。政府の依頼は断りたい気持だったが、国のためといわれると断れないスワガーであった。

 そして可能性のある場所を特定したスワガーは現場に立ち会うことになる。万全の警備体制の中、推定通りの場所から狙撃が行われるが、撃たれたのは大統領ではなくすぐ側にいたエチオピアの大司教だった。

 なぜ狙撃を阻止できなかったのかスワガーが不審を覚えたとき、一緒にいた警官が突然スワガーに銃弾を浴びせる。瀕死の重傷を負ったスワガーは必死で逃げる。彼は狙撃犯として追われる。罠にはめられたことに気付いたスワガーはとにかく生きのびるために死力を尽くす。その逃走のシーンはノンストップで迫力満点である。

 追われたスワガーの反撃が始まる。ここからは胸のすく展開が続く。復讐譚はおもしろい。ましてや世界に指折り数えられるような狙撃手が知能を駆使して反撃するのである。罠にはめた組織は大量の部隊を繰り出してスワガーを追う。

 組織の背後にいる黒幕を追い詰めていくのを見ているのは痛快である。しかし正義のためと盲信しておかしな人間が社会に復讐を始めたらどうなるのか。スワガーが常に理性的であることは幸いであるが、そうでない人間は山ほどいる。

2017年10月16日 (月)

柚月裕子『盤上の向日葵』(中央公論新社)

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 映画『砂の器』を観て感動した。原作の松本清張の小説は映画を観てから読んだ。

 ストーリーは違うけれど、似ていると思った。そしてその読後の感動も同様のものがあった。六百頁弱のこの本を、昔なら一晩で読むところだが、今回は一日半で読み切った。

 将棋に詳しい人なら多分私よりも何倍も楽しめるかもしれない。将棋の着手がたくさん出てくるが、頭の中に将棋盤を持たないし、自分で棋譜を置くほどの能力もない。著者はどれほど将棋の知識があるのだろうか。プロの棋士の協力の下に書かれたようだが、天才棋士の着手が創造されていることに驚きを感じるし、将棋を知らない私がこれほど興奮させられたのである。

 刑事二人が天童駅に降り立つところから物語が始まる。天童は将棋の駒の産地であり、まさにその天童でタイトル戦が行われているのだ。これは『砂の器』のラストシーンを思い出させるといえば、分かるひとには分かるであろう。私は大学が山形だし、父の出身も山形なので、天童には何度か行ってよく知っている。知っている場所が描かれるとちょっと嬉しい。

 埼玉県の山中で白骨化した死体が発見される。そこでは伝説の名人の作である将棋の駒が同時に発掘された。その身元の特定が進められると同時に捜査が開始される。しかし該当する失踪者は全く見つからない。手がかりはその名駒のみ。その名駒はこの世に七組しかないことが判明している。その名駒の所在の確認が進められ、それぞれに駒にまつわる逸話が語られていく。

 それと並行して、ある少年のドラマが語られていく。母親を喪い、父親と二人暮らしなのだが、ほとんど面倒を見てもらえないどころか虐待も受けているその少年は、見かねた老夫婦に影ながら支えられてけなげに生きていく。老夫婦の元教師の夫は趣味の将棋を少年に手ほどきしていくうちに、少年に天性の才能があることを知る。しかも少年はIQ140という並外れた知能の持ち主でもあった。

 少年を奨励会に入れてプロの棋士にするべく老夫婦は父親に働きかけるが拒絶される。将棋のプロになることを断念した少年は幾多の苦難を経て成長し、地元の諏訪を離れて苦学して東大に入る。

 そして彼はたまたま出会った真剣師(賭け将棋師)に魅入られていく。

 捜査の進展と少年の成長が二つの変奏曲のように互いに共鳴し合って物語が展開されていくのだが、それが『砂の器』の物語のようなのである。

 帯には「実業界の寵児で天才棋士、本当にお前が殺人犯なのか?」とあるが、真相は最後の最後に明かされる(ミステリーだから当たり前か)。そして少年が母の面影として幻視する向日葵の意味が父の虐待の理由と重なったとき、彼の心の中で何が起こったのか。

 将棋を知らなくても問題なく楽しめる、将棋をテーマにした小説である。対局シーンの緊迫感、緊張感は文句なしに素晴らしく、大いに楽しめた。主人公に感情移入して胸が熱くはなるが、ただし帯にあるような「慟哭のミステリー!」というのはややオーバーか。

単純に考えて

 安倍首相の演説で、自民党安倍政権の成果として完全雇用を謳っていた。正規社員の求人が求職者に対して1倍という今までにない状況となっていることを誇っているのだ。たしかに諸外国で、若者の失業率が社会不安に繋がるほど大きいことを考えれば、それは素直に誇っていいことである。

 しかし、いわゆる団塊の世代がいっせいに定年に達して年金暮らしに入りつつあるいま、企業は人手不足になっている。定年になる世代の人数と、新たに就職しようとする世代の人数は大きく違う。退職によって出来る穴のほうが大きいのであるから当然の現象である。これが果たして安倍政権の手柄と言えるかどうか。

 野党は一所帯あたりの消費額が低下していることをあげて、アベノミクスの失敗だといいたて、庶民には好景気という実感がないのは、貧富の差を増大させて大企業のみが儲かる政治をしているからだと主張している。

 これも単純に考えてみれば、ある程度の高給を取っていた団塊の世代の人たちが定年になって退職すれば、年金暮らしとなって収入は激減するのであるから、一所帯あたりの年収が低下するのは当然である。先に挙げたように退職する人のほうがこれから就職する人よりずっと多いのだから平均すれば当然の結果である。

 しからば野党の言い分もいささかおかしい。

 このように自分を誇ったり相手を非難する理由が、社会的な必然(団塊の世代の退職)で生じていることならばどちらの言い分もあまり意味をもたない。

 いま政治に求められるのは再配分の適正化であろう。年金生活者が増えすぎれば実際に就業している人からの社会保障費の徴収割合が増えすぎてしまうことは当たり前のことだろう。しからば、年金者に対する支払い額を少しずつ調整するのは仕方がないことである。年金は自分が支払ったものを返してもらうという制度ではないことは繰り返し伝えられているが、それが理解できないか、聞く耳を持たない人が多いようだ。

 制度を維持できなければ破綻してしまうのだから、調整するのは必然である。過去、年金局が恐ろしいほど年金を浪費した。そのときには支払われる年金よりも徴収する年金費のほうが多かったし金利も高かったから打ち出の小槌のように金が湧いてくると錯覚した馬鹿者たちがその金を無駄遣いした。

 団塊の世代は着実に年をとり、少子高齢化が進んでいるのは誰にでも明らかなことで、予想がつくかつかないかという問題ではない。それなのにそのための対策を怠ったばかりでなく、浪費したのである。責任者の責任は極めて重い。それなのにその責任をとらされて牢屋に入ったという人間を知らない。あまつさえあの年金不明事件である。

 しかし過去を言い立ててもその金が戻ってくるわけではないのだから、分配を見直すしかないではないか。年金生活者に我慢を強いることになっても仕方がないと、自分が年金生活者として覚悟している。心ある人はそれなりに手立てを講じて生きているものだ。年金暮らしになったら生活レベルを引き下げて、無駄遣いを減らし食いつなぐしかないのである。それでも生きていくことすら出来ないような状況の人々に対してセーフティネットを整備するという手立てしかないではないか。

 マスコミがマイクを向ければ「生活が苦しい、やっていけない」と泣き言を言う人ばかりがテレビで報道される。「生活が楽で愉しく暮らしています」という人を見たことがない。私の廻りには友人知人近所の年金暮らしの人たちがいるが、つましいながらニコニコと暮らしている人のほうがずっと多いのに不思議なことだ。

 人はマイクを向けられると泣き言を言うのが日本の場合はひとつの礼儀だと思っているところがある。謙遜である。世の中には楽に暮らしている人など昔からそれほど多くはなかったので、これからはますますそうなるだろう。その人達を楽にしてあげます、などという政治家の言葉を聞きながら「嘘つき!」と思う。

 グローバリズムが豊かさを失わせた、という話は別の話なので、いまは控える。

2017年10月15日 (日)

好みではない

 映画「GOEMON」2009年を観た。これも処分しようとした録画ディスクの中から拾い出したものだ。

 監督・紀里谷和明、出演・江口洋介、大沢たかお、広末涼子、ゴリ、奥田瑛二、要潤、他豪華出演陣(有名どころだけをあげていってもきりがないほどである)。監督の紀里谷和明自身も明智光秀役で出演している。

 安土桃山時代が時代背景に設定されているが、そこに紀伊国屋文左衛門(江戸時代のひとである)が突然登場したりする。衣装もセットも豪華絢爛、しかも時代考証など一切無視しているからハチャメチャである。そもそも現実世界ではなく、異世界の話になっていると想定すればこれはこれで楽しめないことはないであろう。

 こういう映画は本当は嫌いではない。そしてこういう映画に夢中になる人も少なからずいるだろう。

 しかし観終わった印象からいえばがっかりである。私の好みではない。荒唐無稽の中に何か筋が見えればいいのだが、何も感じないのである。ただ豪華キャストを使い(例えば貧民の少年の病母役で出演する鶴田真由は誰だか分からない汚れた姿で登場し、その直後に斬り殺されてしまう。出た瞬間に目がきらりと光って、あっ鶴田真由だと思う間もなくである)、金を使いまくって特撮を駆使し、歴史を無視し(しかもときどき帳尻あわせをするからせわしない)、人はバッタバッタと死に、血しぶきは飛び散り・・・。

 このあとこの紀里谷和明という監督の作品はほとんど作られていないようである。この映画もそれほど流行らなかったのだろう。なんとなく見覚えのある名前だと思ったら、宇多田ヒカルの元夫なのであった。

 霧隠才蔵役の大沢たかおは好い。江口洋介は飄々とした役をするのに向いていない。

 この物語に司馬遼太郎の『梟の城』がネタになっていると感じたが、どうか。

原因と責任

 福島第2原発の事故について福島地裁が東京電力、日本政府双方に対し、事故対策を十分に行わなかったとして賠償を命じた。

 従来、ともすれば地震、そして津波を予測できたかどうかで責任を論ずる風潮をおかしなことだと思っていた。地震や津波がいつどこでどれだけの規模で起こるのか、分かったか分からなかったという話になったら、そんなもの分かるはずがないということになるのは明らかで、無意味な愚かな判断理由である。

 今回の判決が画期的なのは予測の可能性ではなく、予測は科学的にされていたから、それに対して万全な対策をするべきであった、そしてそのことを怠った責任が東京電力、政府双方にあると断じたことである。歴史的にも巨大な地震と津波が起こったことが記録にあり、それを想定しないのは明らかに間違っていたとしたのである。

 残された裁判などでも同様の判断が下されることを願う。古来日本では責任の判断が甘いことでさらなる災厄を生んできた。日中戦争などの軍部の暴走もその結果といっていいと思う。出来れば特定の個人にもその責任を負わせるべきであると考える。

 それにしても、原告側が、これで原発をすべて停止させることに繋がる、と快哉を叫んでいるのを聞いて少し違和感を感じた。

 いままでは原発事故の原因は地震と津波である、と言う視点から、それを予測できたかどうかで争われてきた。それが今回の判決は、そもそも地震と津波を想定して対策を講じるべきであった、というもので、事故の原因は地震と津波というよりも、対策を怠った者にある、としたのである。

 理屈でいえば、対策をきちんとすれば今回の原発事故は回避された可能性が大きい、と結論づけたのだ。しからば原発そのものの存在が否定されるような判決ではないのである。現下の情勢で原発を肯定するのは難しいが、原発事故を起こし、原発反対をここまで盛り上げさせたのは東京電力と政府であるということなのだ。その点で私は全面的にこの判決に賛同する。

 この事故を以て原発反対をするのは筋違いで、反対をするなら廃棄物処理の困難さ、人間の不完全さによる完璧な原発管理の困難さこそが原発反対の理由でなければならない。

 今回の判決では政府の責任を認めたのである。そのときの政府は誰だったのか。そもそも原発に反対だった民主党が政権を担っていた。しからば政権を取ったら従来以上に原発の安全管理について徹底的な見直しをしたのか。そこの部分に何ら自己反省なく、政権を追われたとたんに正義の御旗の如く原発反対を叫ぶ彼らに責任はないのか。  

 突っ込みどころだらけの意見(自分で自分にいくらでも反論できる)なので、御批判は甘んじて受ける。

2017年10月14日 (土)

映画「センター・オブ・ジ・アース」2008年アメリカ

 監督エリック・ブレヴィブ、出演ブレンダン・ブレイザー、ジョシュ・ハッチャーソン、アニタ・ブリエム他。

 子どものときからのSF少年で、ジュール・ベルヌの『海底二万哩』や『地底探検』、コナン・ドイルの『失われた世界』などを始め、ハインラインやクラークの少年向けの小説を読みまくった。SFの話を始めると長くなるのでここまでとする。

 この『センター・オブ・ジ・アース』という映画は、『地底探検』で描かれた世界を映像化しようとしたものである。ベルヌの『地底探検』の物語は真実であると信じる探検家マックスが消息を絶って10年、その弟トレバー(ブレンダン・ブレイザー)とマックスの息子(ジョシュ・ハッチャーソン)が、マックスの残した資料から地底への入り口がアイスランドの火山であることを突き止める。

 マックスと共同研究をしていた博士がアイスランドにいたのだが既に死去しており、その娘(アニタ・ブリエム)を案内人にして、火山へ向かう。

 こうして地底に誘われた彼らが地底世界で体験する物語がこの映画なのだが・・・荒唐無稽ここに極まれりの映像が次から次に繰り広げられる。あまりのばかばかしさに、却って腹立ちが突き抜けてしまい、ばからしさを楽しむことになった。でたらめもここまで徹底すると素晴らしい。そういう場合にはブレンダン・ブレイザーという俳優は適役である。

 ブレンダン・ブレイザーもジョシュ・ハッチャーソンも嫌いなタイプの俳優である。ジョシュ・ハッチャーソンをどこかで見たことがあるなあ、と考えていたら、「ハンガー・ゲーム」にでていたことを思い出した。この映画のときにはまだ少年だったのだ。アメリカ映画で描かれる少年少女は怒りを覚えるほど自分勝手で非知性的であり、たいてい廻りに迷惑をかけ倒す。多分実際にそうなのだろう。この映画のジョシュ・ハッチャーソンはそれほどひどくない。ひどくないけれど、見るからに生意気な顔をしているからそれで十分なのである。

 この映画には続編「センター・オブ・ジ・アース2」があり、そちらはだいぶ前に見ている。そのときにも同様の感想を持った。だから前作が見てみたかったのだが、捨てようと思ったディスクの中に録画があったのである。

 これで心置きなく廃棄することが出来る。

中山七里『ネメシスの使者』(文藝春秋)

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 熊谷市の郊外で女性の刺殺死体が発見される。炎暑の中、発見までに時間が経過していたので腐敗が始まっており、凄まじい腐臭の中での現場検証が始まる。 発見が遅れたのはその女性が近所とほとんど交渉のない独り暮らしだったからだ。

 室内は物色された気配がなく、怨恨によるものである可能性が高い。しかもそこには血文字で「ネメシス」と記されていた。ネメシスとはギリシャ神話の女神で、「義憤」あるいは「復讐」の神といわれる。

 やがて彼女は通り魔殺人事件の加害者の母親だったことが判明する。だから近所との交際がなかったのである。通り魔に襲われて殺されたのは若い女性と少女、出刃包丁でのメッタ刺しであった。そして今回の死者もそれを模したような殺され方だった。この通り魔事件の犯人は死刑が当然と思われていたのに無期懲役の判決がくだされ、服役中である。当然警察はまず被害者の遺族を訪ねる。

 やがて「ネメシス」の血文字が残された第2の殺人事件が発生する。殺されたのは殺人事件の加害者の父親であった。しかもその事件も犯人は死刑が当然と見られながら死刑を免れて服役中である。殺害方法もその息子の犯行を模している。これによって被害者の遺族ではなく、死刑を免れた犯人を司法の代わりに制裁するために正義の味方を自認する第三者が「ネメシス」である可能性が高いとみなされることになる。

 死刑判決が当然なのに、死刑を回避した判決を下した裁判長が同一人物であることが分かる。彼の身辺が警護されるとともに、同様の判決の事例の見直しが始まる。やがてその中のある事件の加害者の家族から不審人物につけ狙われているようだ、と言う知らせが入る。

 事件当初から犯人の意図を見抜いた埼玉県警の渡瀬警部は、判断に迷う警察組織上層部を尻目に、手順を踏みながら打つべき手を的確に打ち続け、ついに犯人を確保する。

 信じられない意外な真犯人に誰もが絶句するが、自供と証拠は完璧であり、犯行は疑いようがない。それなのに渡瀬警部はかすかな違和感をぬぐえない。

 やがてその違和感の正体が分かったとき・・・。

 「どんでん返しの帝王」と言われる著者の面目躍如の結末である。小説の中で「死刑」についての論争が詳細に何度も繰り返される。本当に著者が語りたいのはそのことだったのかもしれない。死刑廃止論者と存置論者の意見を知ることが出来る。あなたはどうか。

2017年10月13日 (金)

佐々木譲『真夏の雷管』(角川春樹事務所)

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 『笑う警官』に始まる道警シリーズの最新刊。シリーズであるからお馴染みのメンバーが登場するが、過去の話はあまり書き込まれていないから、この小説単独で楽しむことが出来る。彼らの人間関係に興味があればシリーズを最初から読むといい。外れなしの緊張感のある警察小説を楽しめることを請け合う。

 札幌市内の雑貨店での少年による万引き、郊外の園芸店での窃盗、それら些細と思われた個別の事件が互いに絡んでいることが判明していく中で、一刻を争う緊急事態が見えてくる。

 想像力が推論に繋がり、確信に変わる人間と、証拠がないから動かない人間とのせめぎ合いが緊迫感を盛り上げていく。もちろん主人公達は優れた能力の人々だから的確に動くのだが、彼らはある理由で閑職に追いやられていてなかなか組織を動かすことが出来ない。

 それでも彼らをバックアップする上司もいて、ようやく犯人もその目的も明らかになるのだが・・・。

 札幌駅での攻防が手に汗を握らせてくれる。犯人の犯行を阻止できるのか否か。阻止できなければ大惨事となるかもしれないのだ。犯人の鬱屈、その鬱屈を晴らすための理不尽な犯行計画。このような人間はめったにいないけれど、実は紙一重の人間で世の中はあふれている。

少しは良くなるだろうか

 自分では他人に不快を与えたり、怒りを感じさせるような運転はしていないつもりである。ただ、車間距離を十分とることにしている。自分の反応速度は自分が思っているほど敏速ではないことを知っているからだ。その余裕を持った車間が腹立たしいのだろうか、後ろから煽られたり危険な幅寄せをされたり、車の直前に衝突すれすれのように割り込まれることがたまある。そういうときはこわい思いもするし腹も立つが、バカモノを相手にしても仕方がないと思って、譲ってその車と距離をとることにしている。

 高速道路で、追い越し車線でなく、走行車線で制限速度で走っているだけなのに後ろにぴたりとつけてくる車がしばしばある。追い越し車線は空いているのに、である。しばらく煽っておいて一気に抜いていく。それだけならいいが、抜いてすぐに直前に割り込み、こちらにブレーキを踏ませる。顔は見えないけれど笑っている気配を感じる。

 昨日、ニュースやニュースバラエティを観ていると、運転中にこわい思いをしたことがあるドライバーの話やその映像が次から次に紹介されていた。インタビューした人のうちどれほどの割合の人がそのような経験をしているのだろうか。報じられたものはそのような人だけを選んだものではなく、まともなドライバーのほとんどがそのような経験をしているように思うがどうだろうか。

 専門家によれば事故が起きないかぎり、ドライブレコーダーによる証拠の映像があってもそのような危険運転を処罰することは出来ないらしい。法律はそのようなバカモノを想定していないのだそうだ。

 今回の事件(事故ではなく、明らかに殺人事件である)で、このような危険行為をする運転手に対するペナルティをもうける気運が盛り上がらないだろうかと思うが、その線引きは難しいから法律を作ることは無理だろう。それではドライブレコーダーはいままでどおり、事故が起きてからの事実の確認のためだけにしか役立たず、事故を減らすことに繋がらないということか。

 人の車の尻にぴたりとつけてきて煽ったり、幅寄せをしたり、直前に割り込んだりする人間は、多分運転が普通の人より上手いのだろう。少なくとも本人はそう思っている。そしてそれを誇示しようとしているようだ。

 人は他人を支配することに快感を感じるし、支配されることに不快を感じる。道路上で、俺のほうがお前よりも上である、と言うアピールをしたがるのは、一時的にせよ相手を支配した気分を味わうということで、その快感が病みつきになっている輩の行動であろうと推察する。

 そんなことでしか自己アピールが出来ない人間というのは、実は現実の世界では他人に認められることが少ない人間で、内心に劣等感があふれているのだろう。自分の不遇は自分自信が原因であることに薄々気がついているから、自分は劣っていない、と言うことを確認したくてそのような危険な行動に出るのではないか。

 そして自分は勇気がある、あいつより俺のほうが勝れている、と思いたいその思いが、自分の危険な行為によって相手が引き下がることで一時的に叶うのだろう。脅しで相手を屈服させることが出来たことに快感を感じて笑うのである。

 今回の事件は、相手を拝跪させたい欲望のエスカレートした末のものだろう。相手を謝らせ、自分の優位を知らしめることに夢中になって惨事を引き起こしてしまったが、本人にはその自覚すらなかったことは、犯人に対するインタビューで明らかにされている。恐怖と暴力で、謝る理由のない人を謝らせようとする行為に、なんとなくどこかの国やそれを支持する人たちに似たようなものを感じてしまうのは考えすぎか。

2017年10月12日 (木)

欲が出る

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 コーヒーか紅茶だったらどっちを飲む?と訊かれれば、紅茶と答えてきた。コーヒーが嫌いなわけではなく、お茶が全般に好きだからだ。

 美味しいコーヒーを飲むと当たり前のことだが美味しいと思う。インスタントよりもコーヒー豆から自分で煎れれば美味しいことはコーヒー好きの人の家や喫茶店のコーヒーを飲んで分かっている。

 少し前からコーヒーを積極的に飲むようになった。インスタントコーヒーである。インスタントでも値段がいろいろあって、やはり値段のいいものは多少美味しい。そんな話をしたら、娘のどん姫がひとり用の電熱のサイホン式コーヒーメーカを持って来てくれた。せっかくだから隣のスーパーの一角にあるお茶屋でコーヒー豆を売っているので、挽いてもらってそれを淹れて飲むようになった。たしかにインスタントとは明らかに違う。

 しかし一日何杯も飲むわけではないから飲み始めと最後では味が変わってくる。密封して缶に入れているけれど、湿気を少しずつ吸って劣化するのだろうか。それを聞いた息子が減圧密閉式の専用の缶を買ってくれた。だいぶいい。

 そこで、ふとむかし友人からコーヒーのセットをもらったことを思い出した。コーヒー豆を挽くための手回しのミルと、アルコールランプを使うサイホンのセットである。アルコールランプは火を使うしアルコールを準備しなければならないから面倒だ。しかしミルは使えるではないか。良く捨てずに残していたものだ。

 今度は豆のまま買うことにした。自分で豆をガリガリと挽いて、挽き立てを淹れて飲む。こころなしか旨い気がする。豆のままだと劣化が遅いのだろう。ずっと美味しい。

 ところがそのミルの作りが少し粗雑で、豆の挽き加減があまり旨くコントロールできない。その上砕けた豆のかけらが少し飛び出すし、どこかから挽かれた粉がもれるから廻りに粉が残って、いちいち掃除しなければならないから不満である。

 いまは電動式で挽き加減を調整できるミルを買おうかどうしようか思案している。ビックカメラなどを見に行くとそういう器具がびっくり(それでビックか)するくらいいろいろと並んでいる。眺めていると欲しくなる。

 多分間もなくその電動ミルを買うことだろう。そのつぎは何だろう。豆にこだわり出すのか。

ときには必要

 個人的なことで安眠が損なわれ、医師に睡眠薬を処方してもらう事態になった。それには理由があり、このブログにもたびたび泣き言などを書いたが、それをあらためてここで書くつもりはない。裁判ざた(と言っても調停や審判の段階までのことだった)になったその案件は既に一応の結論は出たので、睡眠薬は不要になったと判断し、夏以来処方から取り除いてもらっている。

 ところがなかなか睡眠が安定しない。早めに寝付こうと思うほど眠れない。夜更かしが当たり前になってしまった。それなのに朝はずいぶん早くから目が醒めてしまう。だから気がつくと昼間横になってうたた寝することがしばしばとなる。そうなるとまた夜寝付きにくくなる、と言う悪循環である。

 規則正しく寝なければならない、という強迫観念が睡眠を却って妨げる。横になって目を瞑れば、瞬時に寝ることのできた昔が懐かしい。もちろん深酒をすれば寝付きやすくなる。しかしそれは質の良い睡眠ではないといわれる。

 どうも精神の空回りがおさまっていないらしい。仕事をしていたときは、そのことを考えると脂汗をながすような焦燥に駆られる事案を抱えることもあったけれど、安眠できた。眠れないなどというのは年に数日のことだった。あまり精神の空回りなど感じないし、何事にも集中できた。

 睡眠の質が悪い日々が続くとテンションは下がるばかりである。旅に出て発散すれば改善することもあるけれど、集中力を欠いているときには数年前のように不慮の事故を起こしかねない。自分をもう少し立て直したいと思って部屋のレイアウトを変えてみたり、散歩をしてみたり、いろいろと汗を流してみたけれど、思ったほどの効果はまだない。

 そこで残っていた睡眠薬を飲んで寝てみた。

 寝付きには少し時間はかかったけれど、朝までぐっすり眠ることが出来た。まだ二晩だけれど、多少頭のもやが薄れた気もしている。

 睡眠薬もときには必要なこともあるのだとあらためて思った。

2017年10月11日 (水)

葉室麟『孤篷のひと』(角川書店)

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 茶人・小堀遠州の晩年の静謐な生活を描きながら、彼が戦国末期からいままでに出会った幾多の人々が回想されていく。それは彼の目指す茶のこころへの道のりであり変遷である。

 千利休の弟子たちのひとり、古田織部の弟子である小堀遠州は千利休の孫弟子ということになる。戦乱の世の茶と泰平の世の茶の違いとは何か。それは千利休や古田織部にもかすかに見えていたものであり、気がつくと小堀遠州が選んだのはその境地に到る道だった。

 伊達政宗や、藤堂高虎(遠州の岳父である)などの武人の茶に実は深い思いが込められていたこと、それを茶を通して受け取っていくことが遠州の役割だったのか。

 数々の歴史的転換点での茶席のエピソードの数々の積み重ねが、その時代そのものを語るという仕掛けになっている。これは時代小説ではなく、茶を手がかりにした歴史小説なのである。

 遠州は作庭家としても知られる。それを通して皇室とも関わった。そこには秘話も語られている。それが事実かどうかは知らないが、時代に翻弄される人間達の哀しみを心底知るものこそが茶のこころを知るものだと遠州は悟る。それは著者のこころということだろうか。

 葉室麟には茶人、華道、絵師、彫刻師などの人々を取りあげた小説がいくつかある。普通の時代小説のようにすらすらと読むというわけにはいかないので、読了に時間がかかることが多い。この本も数日かかった。そんな本があと何冊か残されている。読んでみれば読後感はとてもいいのだが、ちょっと後回しにしたくなるときもある。

悪かったと思っている、と言った

 追いかけ回し走行を邪魔して、ワゴン車に乗った家族の車を追い越し車線に無理矢理停めさせたところ、トレーラーに追突されて家族の中の両親を死亡させ、姉妹に怪我を負わせるきっかけを作った男が、なぜそんなことをした、と問われて「腹が立ったから」と言い、「なにか言いたいことがあるなら聞こうと思って停めさせた」と言ってのけ、両親が死んだのは「悪かったと思っている」と答えたそうだ。

 些細なことで腹を立てたらしい。そもそもが人に迷惑になるようなことをしていたことを注意されたか、追い抜かれたかしただけのことがきっかけであろう。そのようなおかしな人間はそこら中にいるから、不快だったりこわい思いをしたことのある人は山ほどいることだと思う。私もそういう思いを何度もしたけれど、引きずると不愉快なのですぐ忘れることにしている。

 他人など眼に入らず、迷惑であることに気がつかない人間は、そのことを指摘されたり注意されるとすぐキレる。自分がバカにされた、つまり否定されたと感じるようである。そもそも怒りの閾値が格段に低いのだろう。

 できればそういう人とは関わりを持ちたくないと誰しも思うからみな触らぬ神にたたりなしで避けて通るのだが、そのことがかえってそういう連中の快感や全能感を生んでいるのかもしれない。

 ものごとは結果で判断される。人が何人も死傷したのである。その責任は厳しく追及すべきである。逮捕されたというニュースに当然だと感じた人は多いだろう。このような怒りにまかせて大きな災厄につながるような行為を厳しく罰することは、社会に警鐘をならし、怒りを正当化する者たちに歯止めとして働くという社会的効果もあるはずである。

 一度暴力が幅を利かせる社会になり出すと歯止めが利きにくくなる。世界を見ればそれがよく分かるではないか。常に暴力の芽は発芽しようとする。そのことに対して制裁が多少過剰であっても、その芽を摘むことになるということに同意する人は多いのではないか。

 リベラリストはそれに反対するだろう。リベラリストがしばしば過剰な制裁を嫌うのは、彼らがふんだんに戦いの言葉を使用するのと同様不思議なことである。暴力を毛嫌いするはずのリベラリストが犯罪者の権利を声高に主張することに首をかしげている人は多いだろう。リベラリストが国家権力を増大させないことと暴力阻止のための制裁強化の弾力的運用の否定を同列に論じようとすることだろうことは想像に難くない。

 しかし私は今回逮捕された男に対して、国民の多くが覚えた怒りをマスコミはもっと盛り上げていいのではないかと思っている。

2017年10月10日 (火)

隠すより顕れる

 野党の一部は安倍政権は隠蔽体質であると非難する。モリカケ問題について説明責任を果たさず、それをリセットするために今回の解散をしたとして非難した。

 国民はなるほどそういえばそうだ、と思って自民党以外の党に票を投じるのか、それとも他のどの党に政権を渡しても、いまの野党はあの民主党よりマシとは言えない、あのときの二の舞になりかねないからやはり自民党に票を投じるしかないと思うのか、どう判断するかが今回の選挙の結果を左右するだろう。

 私から見れば、開かれた都政を謳いながら、ちっとも開かれていない小池都政を見、そして希望の党の動向を見ていれば、ちっとも小池さんは開かれていないとしか思えない。自分に都合の悪いことを隠すについては安倍政権と変わらないか、もっとひどいのではないかと思ったりする。

 しからば立憲民主党はどうか。枝野氏については、あの東日本大震災のときの菅直人内閣の官房長官として、福島第2原発事故の報告に汗を流していた姿を覚えている人が多いだろう。あのとき、菅直人は国民に知らしむべき情報を隠蔽したために、国民、特に避難民は右往左往した。だから枝野氏が発表することは次々に変更されて、いったい何が起こっているのかわけが分からない状態が続いた。

 炉心溶融が起きているのではないか、という問いにそんなことはないと言い続けていたことを私は記憶している。実は東京電力も感直人氏も当初から承知していたことはあとで判明した。

 枝野氏はそれを知らされていなかったから、説明が変わるたびに汗を流して苦労していたかに見えたが、実はすべて知っていたのであろうといまは思う。そうでなければただのバカである。しからば隠蔽体質で人のことを舌鋒鋭くののしるのはまともな人間なら恥ずかしくて出来ないはずである。

 それが平気で出来る人なのだ、と私は見ているから彼を信用しない。隠しても必ず露見するものである。それを世間では隠すより顕れる、という。いまは暴き立てるのを正義の行為として褒めそやすから、味噌も糞も同格に叩かれる。そして人はそのことをすぐ忘れる。

 今回の選挙では選択肢が自ずと限られていて、消去法で選ぶしかないことになる。とはいえ選挙では人を選ぶのであるから、いくら消去法と言っても、箸にも棒にもかからないものを選ぶわけにはいかない。ところが自分の選挙区にしばしばそういう候補者しかいなかったりするから情けなくなる。

 もう少しマシな中選挙区に戻したほうがよくないか、などとつい思う。そのほうが選択肢が増える。ただ、大選挙区などにすると、知名度が高いだけのおかしな人間が当選する確率が高くなるから、これは願い下げである。無能力のタレント候補などはもういい加減にして欲しい。

 さあ、我選挙区には誰が立候補したのだろうか。そして何を謳っているのだろうか。

井波律子『中国文学の愉しき世界』(岩波現代文庫)

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 吉川幸次郎や桑原武夫に師事し薫陶を受けた井波律子女史は、私の敬愛する中国文学の研究者で、気がついたら書棚に彼女の本が20冊を超えて列んでいた。

 最初に世に出たのは竹林の七賢について書かれた『世説新語』などを論じた『中国的レトリックの伝統』(講談社学術文庫)という本で、まことに魅力的な本だった。彼女の原点だろう。

 この本では、そこから展開していった女史の興味の赴くところが、宝箱から次々に宝物を取り出すように語られている。ここには張岱(ちょうたい)についてもたびたび取りあげられている。私のブログでもこの張岱の『陶庵夢憶』(岩波文庫)のことをたびたび取りあげている。私が無人島に五冊だけ本を持参するとしたら、必ずその中に入る一冊なのである。

 実はこの本を読み始めて、あまりに私の中国についての興味の赴くところと重なることに驚いて、はっと気がついた。この本をむかし読んだことがあるのだ。本棚を探したらハードカバーの同名の本が立っていた。それに新たに書き下ろしたものを加えて文庫にしたのが今回購入して読み始めたこの本だったのだ。

 この本に導かれて次々に中国の志怪小説などを読むようになったのである。私の原点のひとつであるこの本を十数年ぶりに読んだ。なんだか堂々巡りしているような気もするが、廻りながら出だしよりは少し高みにいるように思っている。

 中国文学の入門書としては最高の本であり、今回文庫になって入手しやすくなったのであるから、興味のある人はぜひ手にとって欲しいものである。ただし、現代中国の文学は語られていない。

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