2018年2月18日 (日)

『眩(くらら)~北斎の娘~』

 昨秋放映されたこのNHKの単発ドラマを録画しておきながら観そびれていたので、ようやく観た。葛飾北斎(長塚京三)と娘のお栄(宮崎あおい)の絵師としての葛藤の物語である。

 お栄(後に葛飾栄泉)が最期まで北斎を看取り、しかも絵師として北斎の片腕だったことはよく知られている。受け継がれた才能があったのだが、しかし父であり師である北斎の高みは際立っていた。そういう尊敬と劣等感が同居する存在が、歴史に名を残すような巨人の横に必ずいたはずである。『アマデウス』でのモーツアルトとサリエリの場合はもっと残酷だったけれど。

 天才葛飾北斎の自由気ままさが描かれると共に、お栄の心の揺らめきが我がことのようにこちらに伝わってくる。父を越えることは不可能である。その中で自分が何を生きがいとして見出すのか、そこからどんな宝物を掘り出すのか。

 眩をくららとは普通は読まない。彼女が発見したのは光と影である。レンブラントがその光の意味を誰よりも強く理解して絵を描いたように、お栄も光があるから影があることを真の意味で気付いた。光に眩み、影を見つけ、さらに影に浮かび上がる光を見つけたのである。

 技術的には劣っていても、北斎はお栄の陰影を意識したその絵に一目置いたのである。

 誰もが知っている光と影の意味を一段高いレベルで感得したとき、お栄は北斎のくびきから脱することが出来たのではないか。晩年のお栄の満ち足りた表情にそれが現れていたように思う。

 宮崎あおいはやはり名女優である。役柄から、ほとんど化粧らしい化粧をせずにいたと思うが、それでもその魅力はいっそうキラキラしていた。

 滝沢馬琴を野田秀樹が演じていた。北斎とは喧嘩別れをしていたが、中気(脳卒中)で倒れた北斎を真っ先に見舞い、寝たきりになることに甘んじようとする北斎を罵倒するシーンは圧巻であった。

 北斎の妻であり、お栄の母である小兎(こと)役を余貴美子が演じていた。彼女は夫や娘の絵師としての思考が全く理解できず、もちろん理解しようともしない。倒れた北斎の面倒を見ることに喜びを感じている姿が鬼気迫る。いい役者が揃って名作ドラマとなっている。

 観てからすぐに消去してしまったのだが、話をしたらどん姫に観たかったといわれた。もう一度再放送しないだろうか。そういえばNHKのオンデマンドで観ることが出来るはずだ。調べてみよう。

久方ぶりの爆睡

 私の睡眠時間は6~7時間、寝に着く時間によって眠りに入るのにかかる時間が大きく異なる。早い時間に寝るほどスムーズに眠れ、眠い時間を過ぎてしまうと眠れなくなったり、寝てもすぐ目が醒めてしまう。最近は夜更かしが多く、そうすると夜中の一時二時に再び起きてしまって、眠れなければ起きている、という繰り返しが続いていた。

 もともと長時間眠るということは風邪でも引かないかぎりない。前夜にどん姫と鍋を囲み酒を飲んだせいで夜更かしをしたその反動か、昨晩は八時前に眠くなったので布団に入り、上原ひとみのピアノを聞きながら目を瞑っていたらあっという間に眠っていた。

 夜中の二時頃目が醒めた。いつもならそこから眠れなくなる。そのときもそうだったけれど、胃腸が少し不快な気がしたので胃薬とついでに医師の処方してくれている睡眠薬を飲んだ。

 目覚めたら十時前であった。10時間以上眠るのは年に二三度しかないことで、しかも目覚めがさわやかであることは本当に久しぶりだった。さいわい寝過ぎても眼が腐るようなことはなかったようだ。

 一回頭がリセットされたようである。やはり十分眠ることは心身に良さそうだ。ボケ防止にとどん姫にもらったサプリメントも多少いいほうに作用してくれていると思う。外の風は冷たいが日差しはどこか春の気配である。部屋は多少片付いていて掃除もしたばかりだから居心地もよい。散歩にでも出かけようか。

 昨日、羽生選手の演技の中継をどん姫と二人で観た。会場を安倍晴明のように支配し、魅了していた。感動した。彼の掲げる日の丸も彼と一緒に輝いていた。

2018年2月17日 (土)

豪雪と寒がり

 豪雪でしばしば名前の出る山形県の大蔵村は私の父の出身の村の隣村である。大蔵村の肘折温泉といえば地元では湯治場として有名で、私も何度か訪ねている。その肘折温泉から北上して峠を越えたところが父の生まれ育ったところ。もちろんそこも豪雪地帯で、むかしは陸の孤島だったという。

 そんな寒いところの生まれなのに、父は人一倍寒がりだった。寒冷地の人は部屋を暖かくして冬をやり過ごすから、却って寒がりになるのだろうか。冬、仕事で北海道を回ったとき、大きなストーブを中心に家族や近所の人が集まり、氷下魚(こまい)やするめをあぶったりお茶を飲んだりしていた。その部屋は25℃をかるく越えて暑いくらいで、中には半袖の人もいた。その部屋の隣の部屋ではミカンが凍っていた。冷蔵庫は凍らせないためにある、と地元の人は笑っていた。

 大蔵村の豪雪をテレビで見て父を思い、その雪の中で暮らしたのに寒がりだったことを思い出していた。その父のふるさとから古口という処が近い。古口は芭蕉が最上川くだりをしたところで、「五月雨を集めて早し最上川」の句はここで詠まれている。雪が溶けたらあの辺をまた訪ねてみたい。

 このブログはイッペイさんの「落写 落書」というブログの「つらら」から連想したことを書いた。

雪の阿蘇

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今朝はどうせ二日酔いでブログが書けないと思うので、繋ぎに少し前の写真で御茶を濁す。

五年前の晩秋に阿蘇に行ったときの、雪で薄化粧した阿蘇。

地震や噴火、大雨と阿蘇はいろいろあって今もおさまっていない。このときは火口まで行けたけれど、以前周遊できた遊歩道のほとんどが通行止めだった。薄着だったのでとにかく寒かった。

2018年2月16日 (金)

片付ける

 散らかしているつもりはないのに、閑居していると部屋が雑然としてくるのは不思議なことだ。

 昨日は新酒の汲み立てを瓶詰めした酒をお裾分けした方々から、届いたことの連絡と礼の電話やメールを頂戴した。こちらも縁がつながることの嬉しさを感じさせてもらった。お礼を言いたいのはこちらのほうである。

 今日は気晴らしに郡上にでも出かけるつもりだったが、娘のどん姫から「今晩帰る」とメールがあった。朝寝坊のどん姫にしては珍しく、早朝のメールである。まさか朝帰りではないと思うが・・・。バカ親の心配は果てしがないのである。

 となると部屋を多少は片付けて掃除もしなければならないし、鍋の材料などを仕込まなければならない。いい潮時なので出かけるのを中止し、準備をすることにする。どうせ最終電車で帰るらしいので、お迎えする仕度が調ったら夕方一眠りしておくことにしようか。どうせ明け方まで飲むことになるのである。酒はある。

『MYTHICA』

 『ミシカ』は映画のシリーズで、五部作となっている。マレク(メラニー・ストーン)という黒魔術を使う少女が奴隷の身から黒魔道士として成長していき、ついには悪の権化のゾアロクを倒すという物語である。

 それを二日がかりで観ていた。まさにRPGゲームのような展開で、圧倒的に強力な敵に翻弄されながら、仲間の助けを借りて絶体絶命のピンチを切り抜けていく。そもそも彼女は悪に染まった存在であり、ゾアロクにとっては必要不可欠な存在でもあるという設定は、ときに仲間の不審を買い、ときに彼女を窮地から救う。

 マレクという少女が遂にゾアロクに取り込まれたときこそが最も敵を倒すチャンスにつながるという逆説に面白みを感じた。そのときゾアロクによって何と神々は死ぬのである。そこでは神よりも人間のほうが永遠であると登場人物によって語られる。神は人間によって存在できるといわんばかりの説明は、アメリカ映画らしい。

 マレクを演じたメラニー・ストーンの意志の強そうなあごの張った顔、大きな目の持つ目力(めぢから)は役柄にふさわしい。

 映画五本分の時間をこのシリーズに割いてちょっと疲れた。

 観ている間にいくつも既視感のある映像が連想されたのだが、メモしていなかったし、晩には少し余分に飲んだのですべて忘れた。その連想からいろいろ書きたいことが頭に浮かんだのだが、いまさらもう一度観る気はないので残念なことである。

 ちょっと気分転換に外に出かけないと危ない気配がする。ゾアロクに取り込まれかねない。

2018年2月15日 (木)

「国格」を落とす?

 本日のネットで見た韓国・中央日報の記事の表題。

「歪んだ愛国心・・・韓国の『国格』を落とすサイバーテロ」

 韓国のショートトラックの女子選手(チェ・ミンジョン)が失格になったことで銅メダルとなったカナダの選手(キム・ブタン)に対し、ツイッターやインスタグラムにハングルと英語で暴言や侮辱など数千件のコメントが書き込まれた。それをサイバーテロと指摘しているらしい。

 記事ではカナダオリンピック委員会とカナダ警察が動きだしていると報じている。

  四年前のソチオリンピックでも、女子のショートトラックで韓国のパク・スンヒと衝突したイギリスのエリス・クリスティに対するサイバーテロがあったそうだ。繰り返される非理性的・反人格的「サイバーテロ」は韓国のインターネット文化の悪習で、人身攻撃と魔女狩りから歪んだ愛国心による悪質なコメントをする、さらにはネットでさらし者にすることも行われているという。

 韓国に限らずどこの国にもこのような「歪んだ愛国心」や「歪んだ正義感」の持ち主はいるけれど、韓国の場合は少し度がすぎているようだ。「国格」とは国の品格のことをいっているらしい。韓国の反日言論にはしばしばその「国格」を落とすものを感じさせることがあり、日本人は辟易している人が多いと思う。

 今回のオリンピックを南北統一のきっかけにしたいという思いが文在寅大統領には強いようだ。それは分断国家という悲運を何とか解消したいという国民の悲願をかなえたいからだろう。しかしそのオリンピックで、「国格」を問われるような「歪んだ愛国心」を見せれば、ターゲットにされた選手の属するカナダやイギリスの国民は韓国をどう見るか。書き込みを行った人々は味方を増やすべきときに見放される行動をとっていることに気がついているのだろうか。それは愛国心とは相反するものだろう。ヘイト集団が愛国心を標榜しながら国を貶めているのに似ている。

 この前のブログに韓国の国難の懸念について書いたが、それは悲観的に過ぎる予言だと思いたい。しかし国や文明が衰退するとき、その原因は外部的要因ではなく、たいていが内部的な要因によるものであることは歴史が示しているとおりである。

 このような「サイバーテロ」に対して批判的な気運が盛り上がることを韓国のために願いたい。

(注)「サイバーテロ」とは本来この中央日報のいうような使い方とは違う意味で、社会的な破壊を目的としたものを言うことは承知しているが、此処では中央日報の文脈に沿ったまま使用した。

日本大百科全書の説明をお借りすると、

インターネット上で行われるテロリズム。警視庁のサイバーテロ対策協議会では、以下のように説明している。「重要インフラストラクチャーの基幹システムに対する電子的攻撃または基幹システムにおける重大な障害で、電子的攻撃による可能性が高いもの」「一般的にはコンピュータ・システムに侵入し、データを破壊、改竄(かいざん)するなどの手段により、国家または社会の重要な基盤を機能不全に陥れる行為」。
 インターネットを通じて個別のサーバー(データを送信する側)やパソコンに侵入して情報などを奪う行為である「サイバー攻撃」(クラッキング)の一種で、政治的な意図をもって大規模な破壊行為を行う場合をサイバーテロとよぶことが多い。攻撃対象は政府や大企業のシステムである。「アノニマス」とよばれる国際的なクラッキング集団の示威行動や、政府の機密情報を盗み出してそれを新聞社などに開示する「ウィキリークス」の活動をサイバーテロに含めることもある。中国人民解放軍がアメリカや日本の政府のシステムに組織的に繰り返し侵入するなど、実行者が国家機関の場合もあり、安全保障問題に直結するようになってきている。

衰退の兆し?

 アメリカのGM(ゼネラルモーターズ)といえば世界一の自動車会社だったこともある。しかし海外の自動車会社などとの競争に負けて2009年に倒産し、アメリカの国有会社となった。つまり政府の支援で生き延びたわけだ。2013年には政府から株式を買い戻し、国有化は解消された。

 そのGMの韓国での生産会社・韓国GMがこの数年ずっと赤字が続き、負債額(現在総額3兆ウオン)が膨らみ続けている。韓国の自動車会社は中国のTHAADの報復により販売不振ではあるが、外資系の韓国の自動車会社はその中で善戦している。それなのにGMは不調だと伝えられていた。

 そのGMが韓国政府に支援を要請しているというニュースがひと月前くらいからたびたび報じられてきたけれど、このたび突然韓国内の四つの工場の一つである群山工場を閉鎖するとの通告がGMから韓国政府にあった。

 韓国政府は閉鎖決定の前日に連絡を受けたとして「一方的な工場閉鎖の決定に深刻な遺憾の意を評する」と表明した。しかし問題は閉鎖するのが群山工場だけとは限らないことだ。場合によっては撤退もあり得るという。不採算を解消する目処が立たなければ、撤退するのはある意味で当然であるからだ。中国への拡販が見込めず、韓国を拠点にすることの利が失われていると判断すれば一本道だろう。GMは当然中国に生産拠点があるからそこへ注力することになる。

 韓国には自動車の内需がアメリカや中国や日本ほどない。輸出しか拡販の道が無いのである。日本では韓国車は売れない。中国への輸出も困難で、アメリカトランプ政権は輸入車にさらに冷たくなる可能性が大きい。

 そもそもはGMが破綻したのは競争力のある車を投入できなかったからだとも聞く。だから他の外資系の会社よりも韓国で苦戦していたのだろう。さらに韓国は労働組合の力が強い。韓国の自動車会社は内外問わずに生産性が低いという。さらに労働者の賃金はアメリカよりも高くなっており、労働争議によるストもしばしばあって生産に支障をきたして来た。

 総合的に考えて、抜本的な対策案が見出さなければ撤退やむなしという判断は必至である。これは韓国の自動車会社も同様で、生産性の低さ、コストの高さが収益を圧迫している。それは同時に販売価格の上昇を招き、競争力の低下をもたらす。収益が上がらなければ設備投資もできないから競争力のある新車の開発も困難になる。貧すれば鈍する苛酷な世界なのである。

 GMはそれを体感してきたのに打開策を見出せず、韓国政府に支援を求めた。アメリカ本国のように支援されると期待していたのだろうか。それとも工場閉鎖の口実作りだったのか。

 韓国内のGMの四工場すべてが閉鎖されると30万人が職を失うと推算されている。そして残った韓国内の自動車会社がGM撤退のおこぼれにあずかる可能性はあまりない。唯一労働争議の減少や賃金の調整が期待されるくらいか。

 韓国の労働争議は労働者のためという名目でありながら、今までの例から見て(造船会社の労働争議など)帰属する企業の破綻が見えていても強行するところがあるのではないか。此処からは妄言であるが、企業の破綻は正義であると内心で考える北朝鮮に使嗾されたと思うしかない人々が労働争議を主導している処が見られる。

 しかもそれを強く支持するのが文在寅政権であるのだから、当然GMは支援など受けられるはずもなく、これから韓国の製造業全般は同様の試練を受けることになる。雇用が失われ、製造業が衰退することはすなわち韓国の衰退でもある。

 オリンピックのあとに低迷する国の例も多い。大きな公共投資が一度打ちきられるのであるから必然的なのだが、韓国にはそれに加えての問題点があるようだ。韓国はサムスンだけで国を支えられるのだろうか。サムスンの後ろには中国の競争会社の足音が聞こえているのではないか。

 これは中国や北朝鮮にとって韓国を取り込む大チャンスとうつっていると思うのは考えすぎか。

2018年2月14日 (水)

借金

 私の親は金の貸し借りで余程嫌な思いをしたことがあるのだろう。私が子どものときから「金は借りたり貸したりするな、どうしても義理で貸さざるを得なかったらやったと思え」「金を借りる人は困っているから借りるので、困っている人が返せるはずはない」と繰り返し言っていた。借金は人間関係を壊す、とはよく言われることだが、それを痛感したことがあるのだろう。

 月賦もローンも嫌いであった。それも借金だと考えていたし、確かにその通りである。だから大きな買い物でもすべて現金払いに決めていた。家を買ったときも現金である。

 私も若いころ人に金を貸したことがある。一度は同僚への小金の一時的な融通で、約束の期限に遅れたけれど返済された。しかし私はその同僚に、どんなに困っても二度と貸さない、と通告した。返済が遅れたからそう言ったのか、二度目を受け入れたら繰り返し受け入れることになるからそう言ったのか自分でも分からない。多分わずかな金なのに、その同僚を見るたびに金のことが頭に浮かぶのが不快だったからだろう。

 借りるほうは理由があって借りている。こちらはゆとりがあるから貸している。借りている方が負い目があるはずであり、貸しているほうが立場は優位に見えて、実は貸しているほうに催促しにくいという負い目が生ずるのは不思議なものだ。

 もう一人は当時とても世話になった先輩で、多少まとまった金を貸した。そのときは貸したけれど多分返済されないだろうと思っていた。あとで知ったが、たくさんの人に借りていたようだ。金銭的にルーズな人だが、魅力的でいろいろなことを教えてもらった。

 結局会社を辞めることになった。貸した金はもちろん惜しいとは思ったけれど、でもやったものだと諦めてもいたのでそれほど傷つかなかった。その人との縁が切れたことの方が惜しかった。

 一年後だったか二年後だったか、ひょっこりその人が訪ねてきて貸した金を返してくれた。退職金やそのあと働いた金などで、借りた金を返して歩いていて、私がようやく最後だという。私は返された金の中から餞別としてなにがしかを彼に渡した。そしてどんなに困っても二度と貸さないこと、それを承知ならその後もつき合いを続けることを伝えた。

 そのときは尾羽うち枯らしていたが、次に会ったときは立派な身なりをしていた。会うたびに浮き沈みの激しい生き方をしていることが分かった。十数年前に会ったのが最後でそれから音沙汰がない。

 両親が私に教え込んだように、まことに金が絡むと人間関係は損なわれる。金にきれいに生きるのは難しいものだ。自分ではちゃんとしているつもりでも人にどう見えているのか自信はない。そもそも私は割り勘で飲み食いしても飲む量や食べる量が人より多いから、それだけでも不公平であることにときどき気がつくが、それを厳密にすることは出来ないものだ。こだわりは関係をギクシャクさせる。

 眞子様の婚約相手の小室家の借金報道を見ていて、互いの言い分が大きく食い違うことは何も不思議ではなく、当然だろうと思っている。ただ問題は借りたかもらったかしたほうにその自覚のないことが、貸したつもりの側の怒りを呼んだことだけは分かる。まことに金のやりとりは人間関係を損なうものであり、そのとばっちりはひとを不幸にするようだ。

2018年2月13日 (火)

大不況

 ある雑誌に載っていた堺屋太一氏のコラムに、2020年の東京オリンピック後に日本は大不況になると予言されていた。公共事業が止まり、少子化の影響が今以上に顕在化するのだという。まず医者が余り、不動産が需要不足で暴落する。

 医者はそれほど余っているのだろうか。老人が増えればそれだけ医者は必要になりそうだが、それ以上に医者が増えているということか。医者が余ると健康な人にも不安をあおって病人扱いしようとするというが、分かる気がする。建康なのに自分は具合が悪いかもしれないと思う人は案外多いから、不安をあおられれば病人の仲間入りするだろう。ますます医療費が増える。

 何ごとも現状に対しての対策しか行われないのが行政で、ほんの少し先の未来に顕在化しそうな問題に対しては、分かっていながら目を背けた結果を国民は引き受け続けてきた。もしそのための予算を立てようとしても今はまだ不要だとして野党は反対するのではないか。だから常に対策は後手に回るし、結果的に二度手間、三度手間になる。正論は常にコストがかかる。

 とはいえそう悲観していると、案外それほどでもなく終わることも多い。役人はみなが罵倒するほど馬鹿でもない(本当は賢い)から、それなりの手立ては講じているらしく、日本はそれほどの破綻なしに何とか廻っている。

 堺屋太一が心配するほどのことはないだろうと私は楽観しているところもある。前回バブルがはじけたときも、私にはまったく関係が無かったから、またはじけると脅されても他人事なのである。バブルがはじけるといっても、お金や土地のようにそもそも投機の対象にするのはいかがなものかと思うものを売り買いしている人が困るだけのことだと思っているのである。もちろんはじけないほうが景気がいいらしいから、おこぼれもあるのであろう。はじけないほうがいいが、多分はじけたくてはじけているわけではないから仕方がないのかもしれない。そのときはおこぼれもなくなるので、つましく暮らせばいいだけである。餓死するほどのこともないだろう。

問題点

 問題があると自覚したときに、その問題を解決するために何が必要か考える。そのとき問題点を明らかにすることが問題解決の手がかりとなる。

 しかし問題点が明らかになることばかりではない。問題があることには気がついていても問題点があいまいなことの方が実は多い。そうなると不安になる。

 ところでそもそも点とは何か。簡単な国語辞典で引いてみると、小さいしるし、しるしをつけて示すこと、答案の評価、抽象的にそれ以上は細かい部分に分けて考えない思考の対象物、事項・こと等々。とても意味が多岐にわたっている。

 面白くなってきた。点とは英語ならpointか。そこで英和辞典で調べてみる。驚くことに国語辞典の点よりもずっとたくさん意味がある。主な語義は、物の先端、位置、程度、時間、要点、要素、単位、動作だとある。それぞれの語義についてさまざまな意味とその用例が書かれている。

 問題点とか問題のポイントというときに、それは極小のある収斂するものという意味ではないようである。そもそもは問題そのものの重要で基本的な事柄を問題点というらしい。だから問題点は点に絞るものではなく、具体化することなのかもしれない。ノートに書き出せるようになれば問題はかなり明確になる。

  問題点を絞るとは、問題点とあまり関係の無いものを脇に置くことで雑音を減らしていくことなのだ。しかし逆にあまり問題を先鋭化してしまうのは問題の捉え方としては解決に遠くなるのかもしれない。

 不明確な問題について問題点を絞れないと不安になるけれど、問題が不明確では解決案も立てられないから、しばらく棚上げにするほうがいいようだ。手に負えそうもないことは棚上げにする、ただし漠然とした問題意識は念頭に置いておく、それが私のような横着者にとっての楽に生きる生き方かも知れない。 

 実は不安があって、その不安の原因となる問題とは何かを考えていたら、なんだか犬がしっぽを追いかけてくるくる回っているような話になってしまった。

2018年2月12日 (月)

飲み疲れ

 昨日の新酒試飲会は期待以上の楽しいものとなった。友人の一人が美しい夫人を伴ってきたからである。もちろん試飲会に参加するくらいであるからお酒をたしなむ。私が酒飲みであると評価するのは美味しそうに飲むひとである。昨日宴席に集ったのは確かに酒飲みばかりであった。

 いつもより少し早めに行った。年々盛会になって、場所取りが大変なのである。さいわい狙っていた風の少ない日当たりのいい場所が確保できた。初めてのことである。むかしよりだいぶ酒の器が小さくなった。だから汲み立ての新酒を入れてもらうために何度も往復しなければならない。これで適度に酔うので、面倒だけれどちょうど好いのかもしれない。

 少し買いすぎたかなと思ったつまみもラストにはきれいに片付いた。みなよく食べよく飲む。なごりを残しながら三十分かけて駅まで歩く。遠いのである。行きよりも格段に強くなった北風が頬に痛い。伊吹は雪雲に蔽われ、いわゆる伊吹おろしが吹き抜けていく。しかしいい酒はその程度で醒めたりしないのである。

 名古屋に戻り、最近恒例にしている牡蠣のがんがん焼きを楽しむ二次会に突入。冬場、名鉄デパートの屋上をビニールシードで囲った宴席で、がんがん焼きを食べ、そして今度は生ビールをガンガン飲む。談論風発、次第に何をいっているか分からない状態になり、些細なことで爆笑する。わけも分からず楽しいのだが、傍で見たら馬鹿みたいかもしれない。

 後はあまりよく覚えていない。

 しかし今朝は二日酔いではない。心地よい飲み疲れが残っているだけである。いい酒は悪酔いしないのである。

2018年2月11日 (日)

石原慎太郎『凶獣』(幻冬舎)

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 こういう事件ものを扱ったノンフィクションはあまり読まない。しかしこの池田小の事件を起こした詫間守については、その残虐で理不尽な行為があまりにも理解不能であるがゆえに、なんとなく理由付けを求めてしまう。しかも石原慎太郎がそれを詳細に調べて書いたらしいと思えば多少興味が湧こうというものだ。

 一読して感じるのは、どうしてこのような反社会的行為を繰り返し繰り返し起こし続けてきた男がずっと野放しになってきたのかという社会に対する不信感であろう。彼は突発的に池田小事件を起こしたのではない。その伏線とも言うべき事件を山のように起こし続けてきたのだ。もしかすると大きな事件を起こす犯人はその前に犯罪を繰り返しているのではないか。彼だけが特別例外的ではないのだろう。そう思うと、とても恐ろしい。

 加害者ばかりに手厚い人権主義がもたらした不条理だと思いたくないが、被害者たちにとっては確実にそうとしか思えないことだろう。

 書かれている内容が極めて不快なので、なおさら石原慎太郎の文章の理解しにくい部分が気になる。以下にいくつか本文中から抜粋する。別に違和感がないという人も多いのかもしれない。それなら私の方が少し歪んでいるのか理解力が劣っているのか。

例1(12頁)
 となればわれわれは人間の存在なるもの、その態様の在り方を一体何に依頼し期待したらいいのだろうか。その相手が人間なる生物を創造した神というなら、誕生した後、自らの将来を自らで規定しきれぬ人間の人生には所詮人間当人の意思は及びきれぬということなのだろうか。

(意思が及びきれる人生とは何か。そんなこと長く生きた石原センセなら妄想だと承知ではないのか)

例2(59頁)
 とまれ私としてはこの地上に生命を付与して私たちを存在として与えた神のいかなる意思が詫間守という一人の男を使役した異形な事実を事実としてたどることで、人間の宿命についてせめても納得を得られればと思うのだが。

(この文章をすらすらと読み取るだけの力が私には無い) 

例3(71頁)
 後になって二人の結婚生活が彼女の思いもかけず荒廃してしまった中で離婚を思い立ち実家に逃れて戻った時、彼女は自分がなぜあんな男に魅かれ結婚に踏み切ったのかを自分に問うて思い返してみた。

(とにかく句読点が少ないので主語がどこにかかるのか分かりにくいし、助詞の使い方に癖があるので読み難いのである)

例4(110頁)
 そこには人生なるものの誰が、何が仕組んだのかうかがい知れぬ、如何なる人間の想像も超えた神秘ともいえる感情の仕組みがうかがえる。詫間にとっての彼女との出会いは余人から眺めれば何百兆分の一の可能性といえたのかもしれない。

(人類はすべてあわせても七十億人くらいしかないし、人類発生以来すべて足しても絶対に一兆を越えることもない。何百兆分の一とはビヒィズス菌も含めてか?こういう非科学的で突拍子のなさは疲れる)

 それほど厚い本ではないし、難しいことが書かれている本ではないけれど、しばしば文章に引っかかってしまってこちらはかぎ裂きだらけになった。これが石原慎太郎という人の個性なのか老化したための劣化なのか。

 詫間守は最後に獄中結婚をしている。四人目の妻である。その女性は強固な死刑反対論者で、売名のためではなく、宗教的信念のもとに獄中結婚したそうだ。売名行為としか思えないけれど獄中結婚の申し込みを打診した女性は複数あったという。

 なんだかその異常性に寒気を覚える話である。この世には地獄に通じる穴がところどころ口を開いているらしい。被害者も浮かばれないだろう。

 結局詫間守について何か理解が進んだか?残念ながら全く理解は出来ないままだし、それ以上に世の中の不条理の恐ろしさを思い知らされた。見たくないもの、知りたくないものを見てしまった気がする。

2018年2月10日 (土)

待ち遠しい

 明日は待ちに待った年に一度の新酒試飲会。そこで桶から絞りたての新酒を飲む楽しみもあるけれど、その日に久しぶりに友人に会うことがなにより嬉しい。

 人間生きていれば多くの人と縁が出来る。去る者があれば長く続く縁もある。それがずっと続くことの不思議さを思う。

 事情があって遠方に離れている人との縁を繋ぐために、絞りたてを密栓したその酒(火入れをしていないし、発酵で出た炭酸が封じ込められているので密栓が必要なのである)を送る。毎年しているそのことも楽しい。ついたよ、ありがとうの声が聞けるからだ。毎年ささやかなその送付先名簿を更新する。そして過去送っていたのに必要のなくなった人を偲ぶ。

 酒蔵の庭にパレットやプラスチックケースをお借りしてちょっとしたテーブルと椅子とさせてもらう。名古屋駅で一度全員集合し、デパ地下(此処では高島屋のデパ地下)でつまみを調達する。すべて割り勘である。毎年のことなので、そのための準備をする。

 テーブルに敷くビニールシート、それを押さえる両面テープ、両面テープを切るハサミ、割り箸、濡れタオルと乾いたタオル、割り勘計算用の手帳とボールペンなどなど。遠方から来る友人もいるので、幹事である私が用意する。

 送付先の名簿のプリントアウトは酒蔵の社長夫人に渡す。毎年のことなので先方も了解である。用意するものも全部調えた。あとは明日の天気次第である。寒さと雨だけが心配だが、なに飲み出せばすべてを忘れて談笑し、酩酊する。

 明日、遊園地に行く前の子どもみたいにわくわくしている。ああ、今晩寝れるかなあ。

 気がついたら歯医者の予約時間を大幅に過ぎていた。連絡したらもう今日は一杯だという。謝って予約を取り直した。済まぬことであった。カレンダーにちゃんと書いておいたのに・・・。

曽野綾子『人生の退き際』(小学館新書)

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 週刊ポストに連載中のコラム、『昼寝するお化け』の中から最近のものをまとめて加筆修正したもの、と巻末にある。『昼寝するお化け』はハードカバーになったものをシリーズとして揃えているが、最近は新書になったのだろうか。この連載もずいぶん長く続いている。

 新しいから夫君の三浦朱門の晩年やその死後のことが書かれている。三浦朱門がなくなったあとどうしているのだろうと思っていたけれど、曽野綾子は曽野綾子としていままでどおりに生きているようだ。彼女の母、そして三浦朱門の両親を自分の家で看取り、最後に夫を看取ったわけである。

 晩年の老人の世話をし続け、そして自宅で最期まで見届けるというのは並大抵のことではない。それを四人も看取ったというのだから、素直に頭が下がる。そのことだけでも彼女に一目置くべきである。しかし彼女はその苦労などほとんど語らないし、当たり前のこととして淡々としている。

 ここには、彼女がそれはどうか、と首をかしげた世の中のことなどもさまざまに語られている。彼女の価値観は今までにかなり私にも刷り込まれて(エッセーばかりを五十冊以上読んでいる)シンクロしやすくなっている。そうだそうだと頷くことが多い。それでも、なるほどそういえばそうだなあ、と新しいものの見方に気付かされる。自分が如何にミーハーであるか思い知らされるのである。

 彼女を毛嫌いするリベラリストは多いが、そのことこそが私がリベラリストに懐疑的になる理由でもある。リベラリストは自由にものを考えられずに固定観念でものを見ているのではないかと思うことがしばしばある。素直に、なるほどそういう考えもあるなあ、と思うことが苦手な人が多いようである。それはリベラルか?

 世のなかにはあってはならないことがしばしば起こるけれど、それを如何ともしがたいこともまたしばしばである。そこに人間の愚かさ浅ましさがあるのだけれど、その愚かさ浅ましさが自分にもあることを自覚しないと、すべて社会のせい他者のせいにするようになる。そのことを彼女は情け容赦もなく指摘することがあるので、リベラリストには不快なのだろう。

 御年八十六歳にしてこの文章である。この次に読んでいる石原慎太郎の文章がいささか老齢による劣化を感じさせるのとはあまりにも違う。精神の自由度の違いか、政治家という激務を経ると心身の劣化も早いのか。

 彼女の健在を喜びたい。そしてなるべく遅い幕引きを願う。

2018年2月 9日 (金)

少し動く

 寒くて家にこもっていることが多かったけれど、少し気温が上がったのでついに床屋に行く。刈り上げてもらう。これで3ヶ月以上持つ。襟足さえ伸びなければ、別に伸びたままでもかまわないのだが、さすがに自分では襟足を切ることも剃ることも無理なので床屋へ行かざるを得ない。

 格別安くてその分手抜きだから短時間で済む床屋は隣町にある。安いことと時間が短いことが共にかなえられるというのはまことにありがたい。行きは名鉄電車で、帰りはさらに遠い本屋経由でぐるっと遠回りして歩いて帰る。ほぼ全部で一時間ほどの散歩になる。

 帰ってすぐにトイレ掃除をして、シャワーを浴びる。早足で歩いたから汗をかいたのである。さらにざっと風呂場の掃除をして排水口の毛髪などの汚れをいつもより丁寧に除去してさっぱりする。体重がだいぶ増えていたけれど、これで少しだけ軽くなった。

 増えたのはほとんど水分である。何しろ緑茶中国茶紅茶コーヒーをがぶがぶ飲みながら、しかも夕方からはビールを飲んでゴロゴロしていたのである。とにかく水ぶくれ分だけは早めに落とすことにしよう。月末には定期検診なのでそれに向けてそろそろ体勢を整える必要がある。

 明日は雨だという。明日は歯医者を予約してある。ますます噛み合わせが狂いだして、アゴのちょうつがいが絶不調である。少しは調整できるのだろうか。

 オリンピックにはあまり興味が無いので、結果だけ見れば十分である。まわりが騒がしいときには却って静かに本を読むことが出来るという天邪鬼なので、うるさいのはありがたい。

 明後日は新酒試飲会で友人と待ち合わせて酒蔵に行く。どん姫も誘ったのだが、連休で行けないという。連休は書き入れ時であり、客が多いから休めないのである。彼女は最近美味い日本酒に目がないから「行きたい!」と言っていたので残念である。行けばおじさんたちにもてることは確実であったのに・・・。

 明後日は雨の予報だったが、朝のうちに上がるという予報に変わった。戸外での試飲で、雨に降られたらさんざんである。三十年以上の間に三度ほど雨または雪というときがあったが、おおむね天気には恵まれている。

 なんだか頭もさっぱりしたし、いろいろ予定がこれから続くからごろごろもしていられなくなってきた。ちょっと気分的に前向きになりつつある。人間はあまり暇すぎてはよくないのだ。

石井遊佳『百年泥』(新潮社)

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 先日読んだ若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』が芥川賞を受賞したことで、やはり受賞作というのは優れた作品に与えられるものなのだと再認識した。

 書店で「芥川受賞作」と帯のついた本を見つけた。それが今回読んだ石井遊佳『百年泥』である。今回の芥川賞は二人が受賞している。この小説は奇妙な味わいの小説である。インド南部のチェンナイが舞台。ある企業の日本語教師としてやって来た主人公が目の当たりにした不思議なインドが語られる。

 うかつなことに、出だしの部分からしばらく主人公が女性であると気がつかずに読んでいた。

 彼女がインドへやって来た理由が語られる中で、彼女の特異な性格が浮き彫りにされる。彼女の見るこの世の中は普通の人とは少し違うようである。違うのは日本にいたからで、インドではその違いは違いともいえないものになる。そもそもインドは全く違う世界だからであり、日本の常識は通用せず、その特異さは千差万別、奥行きと広がりは全く見通せない。

 だから彼女にとってインドは居心地がいいかと云えば、彼女は即座に否定するだろう。しかしあるがままにインドを見る彼女の視線を通して眺めるインドは、いささか信じられないものすら、インドならそんなこともあるよね、と納得させられる世界である。インドは何でも呑み込み、呑み込ませるのだ。

 私がただ一人敬慕する姉貴分のひとはインドか好きで、もう六回以上行っている。インドは一度行くと病みつきになる人と二度と行くまいと思う人がいて、女性にインドに魅せられる人が多いという。巻末の著者略歴にインド在住とあるから、著者もその一人なのであろう。

 生徒の一人、デーヴァラージという青年の強烈なキャラクターが物理的なパワーで迫ってくる。それが感じられれば主人公と同化してインドを感じることが出来るし、この小説を堪能することが出来るということだ。

 この本には章立てがない。だから当然目次はない。話に切れ目がなく、独特のリズムに乗せられて、一気に読む本なのである。何しろ百三十頁足らずという短さであり、長編と云うより中編の小説なのである。

 むかし読んだダン・シモンズの『カーリーの歌』という小説を思い出した。その小説もインド(カルカッタ・いまはコルカタ)が舞台で、その不思議な世界がこれでもかとばかりに語られている。記憶に残るのはグチャグチャネチャネチャしたイメージである。それが皮膚感として残る凄まじい小説で、忘れがたい。

 こちらの『百年泥』は文字通り泥である。チェンナイは百年ぶりの洪水でアダイヤール川の堤防が決壊して濁流に襲われる。洪水が引いた朝、彼女の目にした泥の光景が物語のメインである。

 この泥は人の意識の混沌という泥でもある。そこから人はさまざまな物をひきずり出す。ずるずると引き出されたものは当たり前のことなのだが、人によって違って見える。まさに主人公が目にしたものは彼女自身の混沌である。そしてそれこそが彼女のインドである。

 繰り返すがこの小説はリズムに乗って一気に読むべし。インドだったら別に不思議でも何でもないと思って、奇妙なこともすべてそのまま受け入れながら読むべし。夢幻の時間を過ごすことが出来るだろう。

2018年2月 8日 (木)

ザシキワラシ

 いま長い話を読む集中力を失っている。そこで宮沢賢治の童話や、柳田國男の『遠野物語』などを拾い読みしている。

『遠野物語』から座敷童の話を一つ(原文のまま)

 ザシキワラシ又女の児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門と云ふ家には、童女の神二人いませりと云ふことを久しく言伝へたりしが、或年同じ村の何某と云ふ男、町より帰るとて留場(とめば)の橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢へり。物思はしき様子にて此方へ来る。お前たちはどこから来たと問へば、おら山口の孫左衛門が処から来たと答ふ。此から何処へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答ふ。その何某は稍(やや)離れたる村にて、今も立派に暮らせる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思ひしが、それより久しからずして、此家の主従二十幾人、茸の毒に中(あた)りて一日のうちに死に絶え、七歳の女の子一人を残せしが、某女も亦年老いて子無く、近き頃病みて失せたり。

 このすぐあとに、ザシキワラシに言及しないかたちでこの茸中毒の話が語られる。

 孫左右衛門が家にては、或日梨の木のめぐりに見馴れぬ茸のあまた生えたるを、食はんか食ふまじきかと男共の評議してあるを聞きて、最後の代の孫左衛門、食はぬがよしと制したれども、下男の一人が云ふには、如何なる茸にても水桶の中に入れて苧殻(おがら)を以てよくかき廻して後食へば中ることなしとて、一同此言に従ひ家内悉く之を食ひたり。七歳の女の児は其の日外に出でて遊びに気を取られ、昼飯を食ひに帰ることを忘れし為に助かりたり。不意の主人の死去にて人々の動転してある間に、遠き近き親類の人々、或いは生前に貸しありと云ひ、或いは約束ありと称して、家の貨財は味噌の類までも取去りしかば、この村草分の長者なりしかど、一朝にして跡形も無くなりたり。

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 この女の児はどうして助かったのか。ザシキワラシが助けたのだろうか。そもそも災いはザシキワラシがもたらしたものか、それとも災いを感知してザシキワラシはこの家を離れたのか。

 それにしても人間の浅ましさはどうか。主人の死んだばかりの家に上がり込んで物を奪っていく姿を想像するとおぞましい。

 さらにこのあとに、孫左衛門が村には珍しい在野の学者であったこと、それが変人として噂され、狐と親しんで庭の中に稲荷社の祠を建てていたことなどが語られている。このことがザシキワラシに嫌われた理由とでも云うのだろうか。そのような因果関係についての推察は語っていない。

 ただ、長者一家が、毒茸にあたって死んだという事実があったと云うこと、そういえばそのときにこんなことがあった、と噂されたことからこのような言い伝えが残されたのであろう。

夜更かしは良くない

夜更かしは良くない。生活のリズムが狂う。狂ったリズムは立て直すのに時間がかかる。体調も崩しやすい。


テンションも下がる。テンションが下がると部屋が片付かなくなって汚らしくなる。

人生は楽しい!!・・・・か?

大きな鉢の中でパセリが繁茂している。そのパセリが寒さのせいだろうか、周辺から枯れ始めている。ある程度の寿命があるものなのだろうか。

落花生が大好きである。中国産の殻付き落花生の大袋が安く売っていたので買って食べている。歯の治療途中で隙間があり、挟まると痛い。痛いけれど食べるのがやめられない。終日お守りをしているこたつの周辺にむいた殻や渋皮が散らかる。ちゃんとゴミ袋に入れているつもりなのにどうしてこんなに散らかるのか腹が立つ。腹が立つのにやめられない。食べ過ぎた上にお茶やコーヒーをがぶがぶ飲むので、腹が張る。気がついたら体重が急に増えた。自分が膨張したみたいな気がする。中身は水ぶくれした落花生である。

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私自身も水ぶくれしている。

苦戦をあえてしてみる

 皮を切らせて肉を切るとか、肉を切らせて骨を断つ、とか云う。

 何度も書いているが、大戦略シリーズというシステムソフトの戦争ゲームが好きで、何種類がもっている。特に好きな「大戦略マスターコンバット2」というゲームはこの二十年くらいの間に二百回をかるく越えて楽しんでいる。何しろキャンペーン版(進展に伴い、ストーリーが分岐していく)なので終了に多少時間を要する。

 これを楽しむためにNECのWindowsXPデスクトップパソコンをだいじにだいじに使っている(もちろんXPパソコンはネットと切り離してある)。何しろこのゲームには64ビット版がないのである(出たらすぐ買う、古いゲームだけれどすぐ買う)。こういうシュミレーションゲームは反射神経の必要なアクションゲームと違い、年をとってもじっくり遊べるのだ。

 二、三度やると飽きるので、数ヶ月間を置く。先日久しぶりにやってみて完勝した。私の場合は皮も切らせず骨を断つほどにこのゲームに習熟している。ほとんど損害を出さずにゲームをすすめることが出来る。何しろ敵の行動パターンは知っているし、必要最低限の最適の装備もほぼ承知している。戦費を使いすぎるとあとで苦しくなるから、最新兵器への過剰な転換を繰り返したりせず、必要な範囲にとどめるのがコツだ。

 しかしあまり勝ちパターンを知りすぎるとマンネリになる。最適コースを外して、あえて苦戦を楽しむという楽しみ方もある。今回は海戦の得意なロイヤルネービーのキャラクターを救い出して陣営に加えるという必勝コースを選ばない。指揮官は陸戦の得意なキャラクター、空戦の得意なキャラクターなどに別れており、航空機を陸戦方の司令官に配備しても力は半減する。しかし艦船は海戦の得意なロイヤルネービーが指揮すれば無敵だが、他の指揮官では苦戦を強いられる。うっかりすると敵にぼろぼろにされてしまう。

 今回はあえてその苦戦コースで皮を切らせて肉を切る緊張感を味わっている。ちょっとストレスフルだが、やり直しが出来るのが現実と違うところ。何しろゲームなのである。

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