2018年1月17日 (水)

こだわる

 むかしは文字通り乱読だった。面白ければそれで好いと思って、手当たり次第に面白そうな本を読んだ。当然エンターテインメントの本ばかりだから「ああ面白かった」で終わりである。めったに心に残る本に出会わなかった。だから特定の作家をまとめて読むなどということはほとんどなかった。

 せいぜい集中して読んだのは芥川龍之介くらいか。そのおかげで、あとで今昔物語に導かれたのは幸いであったが。そのあと高校時代に友人が父親の井上靖全集を持ちだしてきて勧めてくれた。全部で10冊を超えた全集を次から次に楽しみながら読んだ。初めての全集読破であった。さらに今度は日本文学全集や世界文学全集を読みまくったが、たいてい読み飛ばしでほとんど覚えていない。しっかり読んだのはヘルマン・ヘッセとホフマンくらいかもしれない。

 今は小説でもエッセーでも一人の人を集中して読むことが多くなった。ある程度食傷するまではそれが続く。だから気にいるとその人の本をまとめ買いしたり買い集めたりしてしまう。そうしてすべて読み切る前に他の人の本に移ってしまうから、読み残しの本が当然どんどん増えてしまうのである。

 いま新刊を読むのに並行して、それらの読み残しの本やむかし傾注した人の本をまた読み直している。最近は梅原猛を読み直しているところだ。すでに五六冊読んだけれど、まだしばらく続きそうだ。若いときに読んだ感想と、今の感想は同じでもあり、またずいぶん違うところもある。

 その違いは読み方が多少は深くなったということだろうか。それはそのまま自分自身が若いときの自分ではないことの証でもある。なんとなくそのことを感じることが面白い。

 何かを考えるとき、あちこちきょろきょろしてばかりいては考えがまとまらない。だから本もある程度こだわって定点観測のように同じ本を読み直すことも良いものだと、このごろ感じられるようになった。乱読に明け暮れた若いときの私が聞いたら驚くだろう。

 読み返したい人たちの本が棚に並んでいる。それらを列記していけば、私という人間がどういう人間か分かる人には分かるかも知れない。機会があれば主なものをここに書き出すこともあるだろう。別に隠すことではないし。

葉室麟『大獄 西郷青嵐賦』(文藝春秋)

Dsc_5054

 維新前夜までの西郷隆盛が描かれている。まだ西郷吉之助であり、西郷隆盛とは名乗っていない。ラストはよんどころない事情で奄美大島に暮らして(藩命による島流しとはされていない)いた西郷が、島妻の愛加那と子を残して、再び幕末の風雲の中へ踏み出すシーンである。これは文藝春秋に連載されていたもので、最後が昨年の六月号であるが、このあとも書き続けていたのだろうか。それならば完結せずに絶筆になっているのかもしれない。

 始めのほうで、薩摩藩島津家のお由羅の方騒動の話が少しだけ語られている。このお家騒動については若い頃読んだ海音寺潮五郎の『二本の銀杏』という小説で承知している。西郷隆盛といえば海音寺潮五郎(鹿児島県出身)である。そして江藤淳も西郷隆盛に詳しい。

 この小説で描かれている西郷吉之助は明るく強く理想に燃えている。そして友である大久保一蔵もそうであったけれど、時代が彼らを変えていく。全体としては、西郷吉之助が敬慕する島津斉彬と、それを恐れる井伊直弼の争いが描かれていく。実際は西郷吉之助、福井藩(松平春嶽)の橋本左内らの一橋派と井伊直弼の腹心である長野主膳らが朝廷をめぐって争うことになる。そして旗色の悪くなった井伊直弼の断行したのが安政の大獄だった。

 安政の大獄の嵐が吹き荒れる中、島津斉彬は急死する。健康だった斉彬が急死するのは、父親の島津斉興による毒殺だったとこの小説では断定している。これは小説家の空想ではない。まさにお由羅の方騒動では不思議な急死があいついで起きているのだ。しかも斉彬の子どもたちは次々に死んでいる。前藩主の島津斉興とお由羅の方が、お由羅の方の子どもである島津久光(斉彬の弟)に実権を移そうとしたとしてもおかしくないし、井伊直弼の恫喝で、島津斉興が藩のためとの口実で、息子の斉彬の毒殺を指示したことも十分あり得るのである。
 
 西郷隆盛は少し理想化して描かれすぎてきたように思う。西郷隆盛を知る人ほど彼の魅力に取り込まれるようだ。そういう意味ではこの小説もその傾向がある(主人公だからしようがないのである)。とはいえ幕末の朝廷と幕府内の動向がとても分かりやすく絵解きされていて読みやすい。多分西郷隆盛のすごさ、清濁併せ呑む怖さはこの小説のあとに描かれていくはずで、それが読めないらしいことに残念な思いがする。

 葉室麟様、ちょっと亡くなるのが早すぎます!

 昨日発表された芥川賞に若竹千佐子さんの『おらおらでいぐも』が選ばれた。つい先日読んだばかりで、このブログに取りあげたところである。なんとなくわがことのように嬉しい。

2018年1月16日 (火)

セキュリティ

 セキュリティといっても、デジタル世界のセキュリティのことではない(もちろんデジタルセキュリティは悩ましい問題である。何しろその仕組みがさっぱり分からずに利用しているから、その危険性はあたかも魔物の如く恐ろしく感じられる)。

 温泉にときどき行く。日帰り温泉だったり、安い民宿温泉だったり湯治宿だったりすることが多い。そこでは何しろ鍵が不備であったり、なかったりする。カメラ一式、パソコン、もちろん財布やカードは大事なものであり、失いたくない。

 そういう宿で盗難のおそれを問うと、「いままでそんなことはなかったし、そんなおかしな客はここには来ませんよ!」などと一笑に付される。ところが風呂場などに「最近脱衣場荒らしが出没しているので貴重品に注意!」などと貼り紙があったりするのである。

 むかしはたいした持ち物もなかったからフスマだけでドアなどない部屋に平気で泊まっていたものだった。失うものがない時代が気楽で懐かしい。しかし世の中には見つからなければ悪いことをするという輩が必ずいるものである。たまたまそんなものに遭遇しないと誰が言えるのか。

 そうしてきっちりとドアの閉まる宿に泊まるようになっていく。次第に宿泊費もかさむ宿に泊まることになるわけで、金にゆとりが無い境遇になっているのに却って金がかかるのはつらい。

 そんな宿なのに、脱衣場に鍵のかかるボックスを置いていないところも多い。脱衣籠にただ鍵をほうり込んでおくしかないのである。これでは部屋の鍵の意味がないではないか。私は長湯である。露天風呂があれば露天風呂でゆっくりする。そんなときに脱衣場が気になり出すとおちおちしていられない。

 最近はどこの温泉宿も日帰り入浴を受け入れているのである。そのような人のなかにおかしげな人がいない保証があるだろうか。こっそり鍵を持って行かれて荷物を盗まれて、そのまま逃げられても誰やら分からない可能性もある。

 そうしてつまらないことを気にかけていると、温泉でゆっくりすることができなくて何しにいったのか分からない。私は出来る場合には、たいてい帳場かフロントに鍵を預けるようにしている。それを一笑に付されるのであるが、自己防衛による安心は何より大事なのである。

 温泉宿は須く、ちゃちでも良いから鍵付きのボックスのある脱衣場にして欲しいものである。まあ悪い奴は目をつければどうとでも悪さをするのだろうが、出来心を押さえる役には立つだろうし、こちらもゆったりと風呂に入ることができる。

批判

 全員が賛成する意見は見直した方が良いという。批判的な意見は必ずあるもので、それがないことこそが問題だ、という。

 それを逆手にとって田嶋陽子に孤軍奮闘をさせているテレビ番組もあるが、なに、あれは田嶋陽子自身が自分の役割を弁えて演じているだけだ、という辛口の意見もないことはない。

 センター試験の当日の列車が事故で遅れ、パトカーが受験生を試験会場まで送ったという話がニュースで報じられていた。よかったな、というのが大方の素直な感想であろう。

 そのパトカーの所属する警察署にも賛辞の電話が寄せられたという。ところがその中に、「税金の無駄遣いだ」と苦言を呈する人など、少数の批判の意見も寄せられたという。

 そんな意見があっても報じられなければ誰も知らないので報じなければ良いものだが、知ればそのことを考えてしまう。警察の業務としては、確かにいささか逸脱しているといえないことはない。当然本来の業務があればそれを優先するだろう。しかし事件を放置して受験生を試験場に送ったということではないようである。

 「税金の無駄遣い」という批判は正論なのだろうか。警察は市民のために働いていて、それに対して税金が使われている。受験生も市民であるから、困っていれば助けるのは別に差し支えないだろうと思うのが正常である。受験生は列車の遅れで試験に間に合わなくなることを胸がつぶれる思いで心配していただろう。その気持ちが誰にも分かるからパトカーの行為を多としているわけである。

「税金の無駄遣い」という批判には、特定の誰かに個別的に税金を振り向けるのは不平等であるという論理が見えるがどうだろうか。しかしさまざまな事案に警察が対処したら、当然それは個別的な税金の投入になる。そんなことを斟酌したら何も出来なくなってしまう。

 確かに受験生の問題は、自己責任で対処すべきだというのは正論かもしれない。サービスの枠を拡げていけば際限がなくなる。不要の110番通報や身勝手な救急車の要請などが問題にもなっている。そういうものとして今回の善意を解釈したのかもしれない。

 それでも、良いではないか、よかったではないか、と思う人が大半である日本社会は健全だと私は思い、批判する人がいることに驚くのである。

2018年1月15日 (月)

角井亮一『物流大崩壊』(宝島社新書)

Dsc_5044

 帯に「ネット通販は破綻する!」とある。なぜ物流は崩壊するのか?なぜネット通販は破綻するのか?と思うだろう。しかし著者はそんなことを訴えたくてこの本を書いているのではない。そもそも「なぜ」と問うた時点で、問われたことはすでにほぼ事実だと認めたことになるので注意が必要だ。

 ネット通販の急拡大によって、物流量が急増していることは誰にも実感として理解できることであろう。そのことでネット通販の物流を担う宅配便がパンク寸前の状態であることは、ニュースで大々的に取りあげられたので承知の人が多いはずだ。かといってネット通販の拡大はまだ途上であり、更に拡大し続けることはほぼ明らかなことでもある。

 だから物流業界がそれに対応できなければ「大崩壊」や「破綻」が起きるという危惧は根拠のないことではない。しかし世の中は予想できることには対処をするものだ。この本はそのような現実の物流の状態の分析を詳細に行った上で、その問題点を明らかにし、さらにさまざまな対処法を物流業界や通販会社が行っている事例を列挙したうえで、著者の考える物流の効率化と増大する物流に対応するための方策についての提言を行っている。

 思えばむかしは郵便小包か運送会社しか荷物発送を頼める場所がなかった。料金は高いし、梱包に対しても注文がうるさいし、しかもいつ着くか業者任せであった。それを打破したのが佐川急便であり、続いたヤマト運輸であった。既得権益を守ろうとする既存の運送業者からの抵抗は凄まじく、大変な苦労をしたことは伝説になっている。

 しかし既得権益にあぐらをかいている業界は、競争に曝されれば意気地がないものである。世の中の必要があっての宅急便の出現に対抗しようとしても頭がついていかなかったのであろう。そもそも既存の運送業者は会社から会社への荷物の配送を仕事として認識しており、個人向けの配送など歯牙にもかけてこなかったのである。

 そのような一大変革があった。そしてネット通販が次第に一般化し、アマゾンが日本に上陸したことで新しい大変革が始まったのである。物流が増えれば利益も増えると期待して、宅配会社は価格競争によってシェア確保、拡大を図った。しかしそのために配送運賃の低下が進みすぎて配送料が増えても利益が確保できない、または赤字になってしまうという本末転倒の事態になってしまった。

 このシェア維持のために過当な価格競争を行い、赤字になってしまうという愚かな事態は、私も営業としてさまざまな業界で目の当たりにしてきたので良く解る。利益が取れない価格を設定することは自社に対する背信行為だという認識がないのは、繰り返すが愚かなことである。その話について詳しく話し出すとまた別の話になるので今回はここまでとする。

 その過当競争による採算悪化のツケはどこに向けられたか。ご存知のように宅配便のドライバーに向けられたのである。過重労働で伸びない賃金が彼らを疲弊させている。ついに彼らも悲鳴を上げて会社に抵抗したのである。そしてアマゾンに対して値上げを申し入れて拒否された佐川急便はアマゾンから撤退した。そのあとを引き受けたヤマト運輸は短期ながらついに赤字に転落した。扱い量が増え、ドライバーに過重労働を強いた上に利益がないのでは踏んだり蹴ったりである。

 宅急便のドライバーはもともととても忙しいので若くないと務まらないと言われている。それでも給与がけっこう高かったからみな意欲的に働いていたのである。それがそれほど高給でもないのに過重労働では、ドライバーの需要は増えていても、なり手が増えない。

 運送業界全体でもドライバーの不足が深刻になっている。特にオリンピックに向けてその資材運搬のためにドライバーが向けられているために、一般流通のドライバーが不足し始めている。更に深刻なのが、高齢ドライバーの退職がこれから一気に起こるという事態である。いわゆる団塊の世代の退場がドライバーにも起こるのは必然である。ベテランドライバーの大量の退場である。

 それらすべての問題を抱えた物流業界がこのまま手をこまねいていれば「大崩壊」や「破綻」が起きるのは避けられないのであるが、ではどうするのか、というのがこの本のテーマであり、ネット通販の恩恵をこれからも我々が受け続けるにはどうするのが良いのかを考えさせてくれるのがこの本なのである。

 もちろん再配達の問題についても詳述されていて、なるほどさまざまな対策のアイデアがあるものだと感心させられるはずである。

2018年1月14日 (日)

久しぶりに

 正月前後に録りためたドラマやドキュメントがたくさんあって、それらを次々に観ては消去している。ドラマでは『相棒』や『科捜研の女』の新作や再放送がたくさんあった。それ以外にも観たいものがあるが、きりがないのでその二種類だけに限定している。その再放送の中にはすでに観たことがあるものも多いのだが、観始めると面白いので、犯人が分かっているのについ最後まで観てしまう。

 こうしてこのところ忙しいのである。娯楽に忙しい、などと言っていると御仕事に忙しい現役の人たちに申し訳ないが、このような娯楽はもっとも金のかからないもので、リタイアした人間には有難いのである。

 それでもいささかテレビを観るのに飽きてきた。テレビに飽きたら本を読めば良いのであるが、不思議なことにテレビに食傷すると本を読む意欲も減退するのである。

 北側の寝室をオーディオルームにしていて、そこで音楽を聴く。なかなか良い。しかし生来の貧乏性で、黙って音楽を聴いているだけでは手持ちぶさたである。その部屋は同時に遊び部屋でもあり、Windows-XPの古いデスクトップパソコン(もちろんセキュリティのためにネットは切断してある)がゲームマシンとして現役で稼動している。音楽を聴きながら、ここで囲碁やマージャン、シミュレーションゲームである大戦略ゲームなどで遊ぶ。

 最近は囲碁を楽しむ程度だったが、ずいぶん久しぶりに大戦略(お気に入りはキャンペーン版で、何度やったか数え切れないほどだ)をやり始めたら、夢中になってしまってやめられない。最適のシナリオや部隊配備はすでに頭に入っているので、必ず勝ち進めることが出来るのであるが、自軍の損害を最小にして敵を完膚なきまでに叩くという、アメリカ軍的な戦いを続けて快感を感じている。

 何百回目かの完勝に向けて、いま世界平和のために進軍中である。

前回の若干の補足

 孤独は寂しいもので、寂しい思いがつのることはつらいものである。そこでは、人は話し相手がいないことに耐えられずに自分自身との会話を始める。話しかける私と話しかけられる私は同じ私であるが、話しかけられる私は今現在の私であるとは限らない。過去の私であったり、未来の私であったり、こうでありたい私であったりする。

 そして更に孤独が深まれば、まさに今の私にそのような私たちが語りかけてくるようになる。こうしてさまざまな私たちが語りかけ、語りかけられて、それらがジャズのセッションのようであるような、にぎやかな孤独の世界が語られているのが、『おらおらで ひとりいぐも』という小説である。

 そういう会話の積み重ねが考えを深めていく。主人公の桃子さんという老女は、死んだ亭主もそう言っていたというように、もともとものごとを考えることが好きである。考えは自分の枠を越えられない、というのは間違いである。考えは自分の枠を越えるのである。そうして思考が深化すれば自分自身の枠も拡がっているのである。

 そうしてついに孤独の寂しさの極地を突き抜けたとき、自分自身がすべてのしがらみから解き放たれた自由な存在であることに気がつく。すでにうすうす桃子さんはそれに気がついていたけれど、それを真に悟るのである。

 そのとき彼女の目に映る世界は活き活きとして祝福に満ちている。老人であること、孤独であることは不幸せか?そうではないかもしれないことを気づかせてくれるという意味で、この本は素晴らしいのである。私は桃子さんに心から共感する。そしてこの本は、読んだら誰にでも分かるだろうが、久米宏の言うように「ゲラゲラ笑って読む」ような本では絶対にない。

2018年1月13日 (土)

若竹千佐子『おらおらで ひとりいぐも』(河出書房新社)

Dsc_5043

 第54回文藝賞受賞作だそうである。著者は63歳の新人。55歳のとき、小説講座に通い始めて8年後にこの小説を執筆し、話題作となった。

 不思議な題名を書店の棚で見つけて手に取った。東北弁だとすぐ分かったのでその意味も見当がついた。迷わず購入した。一読、この本が傑作であることを感じた。

 表紙の写真は帯を外してある。帯が装丁を邪魔しているからである。帯の裏には久米宏と上野千鶴子が賛辞を寄せている。その久米宏の賛辞は・・・

「ゲラゲラ笑いながら読み始める
   音読すると更に可笑しい
   女74歳、僕は73歳
    潜行して読み進める、嗚呼、嗚呼
          読了しての感慨・・・内緒」

 何と虫酸の走る文章。久米宏が憎みたくなるほど嫌いになる。もともと好きではないが・・・

 この本をゲラゲラ笑いながら読む神経が理解できない。彼が異常でなければ、私がおかしいのか?ただ、音読することを勧めていることは正しい。正しいけれど、どれだけの人がこの文章を語るように音読できるというのだ!

 著者の若竹千佐子は遠野の人、この文章の東北弁は本物で、余程聴き慣れている人でなければここに書かれている言葉をそのまま聞き取るのは難しい。それでも多分たいていのひとはこの小説を読むことが苦労なく出来るはずだ。それが著者の力量なのである。

 ためしに「おらおらで ひとりいぐも」という題の由来と思われる文章を以下に抜粋する。

「体が引きちぎられるような悲しみがあるのだということを知らなかった。それでも悲しみと言い、悲しみを知っていると当たり前のように思っていたのだ。分かっていると思っていたことは頭で考えた紙のように薄っぺらな理解だった。自分が分かっていると思っていたのが全部こんな頭でっかちの底の浅いものだったとしたら、心底身震いがした。
 もう今までの自分では信用できない。おらの思っても見ながった世界がある。そごさ、行ってみって。おら、いぐも。おらおらで、ひとりいぐも。」

 東北弁と標準語が混在しているのだが、その書き分けが絶妙で、少しも破綻がないのは神業である。

 私は学生時代を四年間東北で暮らし、友人も多いから津軽弁以外は全く苦労なく標準語のように聞き取ることが出来る。だからこの本の東北弁はほぼ九割以上は語り言葉として聞き取ることが可能である。それはこの本を理解する上でとても有利に働いていると思う。

 亭主に先立たれた独り暮らしの老女の独白がえんんと続くが、老人であることとはどういうことか、人生とは何か、孤独と自由についての鋭い直感に充ち満ちている。

 読みやすいし、あまり厚い本ではないからすぐ読み終えることが出来る。そしてもう一度最初から読みたくなるはずだ。お薦めの一冊。

終わりの始まり

 私は澤田ふじ子の時代小説のファンで、彼女の作品はかなりの数読んできたが、いま手元に残してあるのは『公事宿事件書留帳』のシリーズのみである。このシリーズは、平岩弓枝の『御宿かわせみ』のシリーズと並んでその小説世界の登場人物となじみが深い、愛着のあるものである。

 その『公事宿事件書留帳』は幻冬舎の文庫のシリーズで揃えているが、新作がでているはずなのにしばらく書店で見当たらないので残念に思っていた。不思議に澤田ふじ子の本を揃えている書店が少ないのである。昨年できた名古屋駅前のゲートタワーに三省堂がオープンしていて、先日息子とぶらついたら、第二十一巻と第二十二巻が書棚に並んでいる。新作がとっくに出ていたのである。

 しかもその第二十二巻の帯には「菊太郎、最後の事件。人気シリーズ完結編」とあるではないか。著者になにごとかあったのかと思ったが、そうではなくて著者の意思で完結させたようである。

 シリーズの完結は愛読者としては残念なことであるが、どこかほっとするところもある。そのことこそが著者が完結させる理由かもしれない。

 まだどちらも読み始めていないのだが、第二十二巻のあとがきを澤田瞳子が書いている。この澤田瞳子という人の時代小説を店頭で見かけて、澤田ふじ子の新作だと思って買おうとしたことがある。しかし別人であることに気がついて棚に戻した。ただ同姓の作家でまちがえやすいなあとそのときは思っていた。

 ところが今回あとがきを読んで、彼女が澤田ふじ子の娘であることを初めて知った。そのあとがきで、澤田瞳子がこのシリーズを将来継承することを考えていると知り、なんだか嬉しくなった。平岩弓枝の『御宿かわせみ』が『新・御宿かわせみ』で登場人物を世代交代させて、江戸時代から明治時代に時代を移したように、世代交代させることを構想しているようである。

 澤田瞳子の作品を読んでみなければならないなあ、と今思っている。それよりもまず、この二巻を楽しむことが先であるが、他に読みかけの本が何冊も脇に積まれて順番待ちをしていて「割り込むなよ!」と文句を言いそうである。忙しいなあ。

2018年1月12日 (金)

揚げ足をとる

 ネットで海外ニュースを見る。外国語は全く駄目なので、翻訳されたものを読むことになるのだが、しばしばおかしな言い回しに引っかかる。特に韓国のニュースの翻訳に首をかしげることが多い。誰かが翻訳しているのか、それとも自動翻訳なのか。その翻訳に問題があるのか、もともとの言い回しが日本語に変換しにくいものなのか。

 中央日報のコラム「危険水準に達した韓国の専門家冷遇風潮」という記事から例を挙げる。

 モグラ叩きのハンマーのように経済主体が交替で叩きまくるのは青瓦台(チョンワデ・大統領府)参謀の過度な欲に見える。

 ・・・過度な欲?意味分かりますか?

「アマチュア外交」という汚名を被っても専門外交官の代わりに英語の下手な政権に近い人事を相次ぎ海外公館長に送り出す意地も専門家軽視の万華鏡だ。

 ・・・送り出す意地?専門家軽視の万華鏡?

 実際、歪められた専門家のせいで怒っている人が少なくない。

 ・・・歪められた専門家?たぶん専門家によって歪められた・・・という意味であろうか。

 全文は1/12(金)6:04中央日報日本語版を参照ください。

 結論は、「それよりさらに重要な教訓がある。トランプや文在寅政府に必要な徳目、圧倒的な専門性に対する尊重と謙虚だ」という末尾にある。

 ちゃんと専門家の意見を聞け!ということらしい。

 こういう粗雑な文章を読んでいるといちいち引っかかってしまって苦痛なのだが、あえて面白がるようにして我慢している。

上向き

 昨日は気分転換に散歩をし、トイレ掃除、台所回りの掃除をした。そういうことをする気になるのは気分が上向きであることの証だが、そういうことを意識的にすることが気分を上向かせることにつながっているとも言えるのである。

 そのあと『夢千代日記』全五回を休憩を入れながら一気に観た。出だしのタイトルバックの山陰線の風景に武満徹の音楽がかぶさって、一気に物語の世界に取り込まれる。特に余部の鉄橋の風景は、今はもう見ることはできないものなので感興を催す。

Dsc_0084

 今の余部橋梁。右端の鉄塔があえて昔のものを残したもの。

 やはり吉永小百合は好い。意識的にほとんど聞き取れないような小声で台詞を語り、それでも集中して聴いていればかろうじて分かるという絶妙な演技で、夢千代という女性のはかなさを印象づけている。

 このドラマについては何年か前にこのブログで詳しく語ったことがある。今回特に感じたのは、林隆三の演じる刑事の強引さこそが山陰の湯里という温泉町のひなびた雰囲気とそこに吹き寄せられた人々の互いに寄り添い支え合うぬくもりを引き立たせているということであった。

 刑事は犯人を追い詰めてとらえることこそが正義を貫くことだという信念のもとに強引に人々の生活に踏み込んでいく。彼にはそれぞれの人にはそれぞれの抱えている哀しみがあることに気がつくことができない。彼は夢千代たちとの関わりの中で最後にそのことの意味と彼の正義との重さの違いをとことん思い知るのだが、そのときには彼自身がさまざまなものを失っていることに気付かされる。

 本当のやさしさは哀しみの先にあるということをあらためて考えさせてくれる。そして正義とやさしさの重さの違いも(そもそも比べられるものではないという反論もあろうが)。

 気力が低下しているときに観るには重いドラマだけれど、その分だけ微妙な台詞や演技の中に、より繊細に感じることができた気がする。何度観ても良いドラマだ。このドラマの続編である第二シリーズ、第三シリーズの再放送を切に望みたい。

 湯里(ゆのさと)という温泉は基本的に湯村温泉を舞台としているが、同時に浜坂という海岸の町も重ねられている。実際には少し離れているけれど、ここではひとつの町のように描かれている。ともに私の好きな町で何度も訪ねているが、それはもちろんこのドラマのイメージが強烈にあるからである。

2018年1月11日 (木)

自分だけは別だと思うらしい

 文在寅大統領の支持率は相変わらず高いが、それでも当初よりはじわじわと落ちているようだ。歴代の大統領の支持率を見ると、左派系の大統領ほど当選後初期の支持率が高いようで、朴槿恵大統領は当初低めの支持率から、反日親中国寄りの政策が奏功したのか次第に支持率を上げている。

 しかし政権末期には逆にすべての大統領の不支持率が高率になっていることは驚くほどである。韓国の大統領は一期五年と決まっているから、支持率が下がったから退陣したのではない。国民の多数から、よく頑張った、ご苦労様という声をかけられた大統領が一人もいないのである。 

 いや、ねぎらいの言葉よりも罵声を浴びせられた大統領ばかりというのが大方の印象であろう。そして退陣すると本人または身内が司直に訴えられ、安楽にその後の余生を送っているとはいえない。朴槿恵大統領に至っては任期中に弾劾を受けて牢屋にいる。

 どの大統領も自分が前車の轍を踏み、罵声を浴びせられることになることなど予想していないようである。自分だけは別だと思わなければ大統領になど立候補しないだろう。

 はたから見ているとその繰り返しに例外のないことが分かるのに、韓国ではどう思われているのだろうか。祭り上げるのも引きずり下ろすのにも明確な理由があると韓国の国民は言うだろう。

 しからば私はそのような引きずり下ろされるようなことをしないで国民のために頑張る、と思って次の大統領は立ち上がるのであろう。恐らく文在寅大統領もそう思っているはずである。

 しかし好事魔多し、国民は期待が高ければ高いほど些細なことで期待が裏切られたと受け取る。支持率の高い文在寅大統領が政権末期にどうなるのか、初めて例外的に拍手で送られる大統領になるのか、高みの見物をしたい。

 たぶん突然坂を転げ落ちると思うけれど。反日をはじめ、他人のせいにすることを正義として刷り込まれた国民は、あらゆる不満の矛先を大統領に向けるだろうことが明らかだから。それでも次の大統領が出てくるだろう。自分だけは別だと思って。

自分を疑う

 正月の酒を酌み交わしていたときに息子と言い合いになった。貴乃花についての意見が違ったからである。私が滔々と自分の見方の根拠を話していたら、「何で正月早々お父さんと(息子は親父などと呼ばずにちゃんとお父さんと呼ぶ)こんな言い合いをしなければならないんだ?お父さんはワイドショーの見すぎではないか」とさとされた。

 私は貴乃花についていろいろなことを知っており、自分なりに考えてきて、自分の貴乃花に対する判断は自分のものであると思っていた。しかし息子にそう言われて返す言葉がなかった。私が息子に一生懸命語っていた貴乃花についての評価は、はたして本当の自分の考えなのか、ワイドショーに刷り込まれた考えなのか分からなくなったからだ。

 息子から見てワイドショーの受け売りみたいに聞こえたなら、多分そうなのかもしれない。それにそもそも正月に口角泡を飛ばすような話題でもないものを話題としたことこそワイドショーの見すぎによるものだと言うしかないではないか。

 自分の考えだと思っていたものが実は自分がそう思わされていたのかもしれないと自分を疑うことをしないでいると、情報の量だけでものを判断してしまうおそれがある。ワイドショーは話題の取り扱いの優先順位が最近は異常であると感じながら、ぼんやり見ているとだんだん洗脳されていくおそれがある。マスコミの恐ろしさである。

 そんなささいな言い合いはあったけれど、もちろん息子とはわだかまりなど全くなく楽しい酒を飲んだ。息子にはいつもこうして教えられることが多い。親が言うのも何だが、なかなか大人なのである。

 ワイドショーは見ないつもりが、暇に任せてテレビをつけっぱなしにしているうちについ見すぎていたようだ。見るより見ない方が良いこともある。情報を取り込むと同じくらいボンヤリと考える時間も必要なので、暇なときは時間をそんなもので埋めないように心がけようと思っている。

2018年1月10日 (水)

絶不調

 本日は頗る厭世的な気分。めったにないことで、やり過ごすしかない。そういえばほとんど家にこもりきりである。しかし出かける気にならない。

 仕方がないから何もしないでゴロゴロしていることにする(ほとんどいつもそうだけれど)。ブログのネタはないこともないけれど、文章にまとめられない。

 私のことなのでこういう気分は長続きしない。明日には元に戻るはずである。

 そういえば昨夕スーパーに行ったらあまりの野菜の高いことに驚いた。しかも品揃えが少ない。翌日(つまり今日)が久しぶりの休業日なので、売りきりをするらしいが、それなのにほとんど値引きになっていない。買いたかったものが半分も買えなかった。豆腐まで買えなかった。

 気分はどうあれ、食べなければならないというのは人間は面倒なものだ。 

 今日は絶不調である。とはいえこんな駄文が書けるだけマシか。

2018年1月 9日 (火)

音楽を聴く

 ハイレゾ音楽を聴きだしたら、イージーリスニングジャズもいいなあと思うようになった。それを話したら、どん姫が「上原ひろみと綾戸智恵がいいよ」と教えてくれた。

 今日はなんとなく本を読んだり映画を観たりする気にならない。

 そこでどん姫の言葉を思いだして、e-onkyoから二人のアルバムを購入してダウンロードし、早速聴いてみた。上原ひろみのピアノは心地よい。あの大阪弁のおばさんとしてのイメージしかなかった綾戸智恵もぐっとくる。

 やはり音楽はいい音で聴くほど良いみたいだ。オーディオ装置のグレードがついエスカレートするというのが分かるような気がする。もちろんある程度の音量があってこそでもある。とはいえ野中の一軒家ではないから限度はあるが。

 しかしボンヤリ音楽を聴いていると、オーディオ用の新しいアンプが欲しくなる。今は、ハイパワーだが古いヤマハのAVアンプをオーディオ用に転用しているのだ(かなりいい音で聴けることは聴ける)。そんな贅沢をするゆとりはないが、それでもけずるものをけずればいつかはかなうかもしれない。夢見るだけでも楽しいものなのだ。スピーカーだってもっと良いのが欲しいしなあ。若いときにもっと無駄遣いをしないで残しておけばよかった。宝くじも買わなければ当たらないし。

梅原猛『癒しとルサンチマン』『亀とムツゴロウ』(文藝春秋)

Dsc_5037

 ともに『思うままに』という題名で東京新聞に連載されていた随筆をまとめたもの。1990年代後半に書かれていて、その間に著者は胃がんで入院し、手術している。ガンは二回目であったが、発見が早く、今回も事なきを得たという。

 自己顕示欲が強いように見える著者も、入院の後の文章はこころなしか自省的に感じる。
「自分のよって立つ立場に対して少しも批判の目を向けない批判は真の批判とはいい難い」という言葉が記されていて、これは自分に対してではなく、当時社会主義国が崩壊してた後の状況に対して無自覚的な社会主義を標榜してきた人々に対する苦言であるが、そこに著者自身に対する内省がないとはいえない。

 今、小学校や中学校では日本神話は教えられていないから、日本神話について知らない日本人がほとんどとなっている。著者によれば、神話が学校で教えられないのは、戦後の日本の歴史学が津田左右吉の説を定説として採用したからだという。記紀神話は自己の政治権力を神聖化しようとした六世紀の政治支配者の虚構であるという説である。

 かつて記紀神話は万世一系の日本の国体の尊厳さを示すものだとして国家主義者によって利用された。津田左右吉の説はこのような国家主義的な歴史観に対する批判としては有効であったので、戦後の歴史学は国家主義的歴史観への警戒感から津田左右吉の説を金科玉条としてそれに対する批判を許さなかった。

 戦争に反対だから戦争に対して論ずることを反対したり、憲法を守るために憲法に対して論ずることも許さないというのが戦後の状況であり、日本神話についても同様に扱われたと著者は見る。

 その津田左右吉の説を前世紀末からの世界的な啓蒙主義や懐疑主義的歴史観の産物ではないかと著者は問いかける。はたして津田左右吉の説は正しいのか。

 こうして記紀神話の内容を取りあげながら、津田左右吉の説を批判していく。確かに古事記で語られている日本神話は、時の政権の正当性を意図していると決めつけるのは無理があるように思われる。色眼鏡で見さえしなければ、読めばそれが分かるはずである。

 ただ、そこで古事記を書いたのは柿ノ本人麻呂ではないか、という仮設を持ち出すのが著者の真骨頂である。その仮説の根拠は語られているけれど、私にはどうもそのまま受け取れない気がする。この暴走が著者らしいといえばそうなのだが、それを面白いと思うか、そこでばからしくなって本を放り出すか、人によって違うだろう。

 私は首をかしげながらも楽しんでいる。

 たくさんある文章のほんのひとつ取りあげてもこのように面白いし考えさせてもらえるのである。漱石論、環境問題、思想哲学論、古典など、多岐にわたってさまざまに浮かんだ考えをそのまま文章にしていて、自分が考えるための参考になる。

2018年1月 8日 (月)

新年の妄想

 年始挨拶をした北朝鮮の金正恩の姿に違和感を覚えた。声もいつもと違うように聞こえたし、語る内容もふだんと違うように思えた。何より私にはつい先日来よりも老けて見えたのだ。

 これは以前からささやかれている影武者ではないか。別人ではないか。

 専門家は声紋鑑定などでたぶん確認しているからそんなことはないのだろうけれど。分かっていても黙っている可能性もないではない。

 そのあと急に韓国との閣僚級会談に応じたり、平昌オリンピックに参加を表明したり、今までとは明らかに違う態度を示している。

 病気などで代役を立てたのか。それとも見違えるほど衰えて見えていたのは本人が病気で外見が変わったのか。

 それとも私が正月の昼酒で妄想しただけなのか。

映画『オデッセイ』2015年アメリカ

 監督リドリー・スコット、出演マット・デイモン、ジェシカ・チャスティン、クリステン・ウィグ、マイケル・ペーニャ、ショーン・ビーン、ケイト・マーラ他。

 観よう観ようと思いながら観そびれて(そんな映画が山のようにある)いた一本。息子と見て二人とも感動した。好い映画である。

 サバイバル映画(パニック映画のなかにもサバイバル映画はたくさんある。危機的状況を切り抜けるのはサバイバルそのものだから)やリベンジ映画は面白い。感情移入しやすいのだろう。そういえば前回息子と二人で観たのがレオナルド・ディカプリオ主演の『レヴェナント 蘇りし者』もサバイバル映画であり、しかも復讐映画であった。これも傑作と言っていい。

 息子も私もマット・デイモンが好きである。『グッドウィル・ハンティング 旅立ち』という映画を二人で観て以来である。そういつも二人で映画を観ているわけではない。めったにないことなので私が厳選しているのである。ちなみにティム・ロビンス主演の『ショーシャンクの空に』も二人で感激した映画である。私の趣味は悪くないと息子は思っているはずだ(たぶん)。

 肝心のこの映画のことである。死んだと思われて独り火星に取り残された植物学者で宇宙飛行士のマーク・ワトニー(マット・デイモン)が、残された水や食糧などの量から生きのびるのは不可能と思われる状況を、一つひとつ打開しながら克服していくという物語である。再び地球から新しい宇宙船が来て救援されるまで短くても4~5年という日々をどう生きのびるのか。

 サバイバルの鉄則。諦めたらそこで終わり、諦めなければ必ず道は開ける。そして希望が見えると必ずさらに思いがけない試練がやってくる。神が彼を試すかのようだ。

 彼が生きのびていることを地球では知らない。どうしたらそれを知らせることができるか。しかしそのころ、火星の監視映像から彼が生存していることに気がついた者がいた。

 これほど苛酷な究極のサバイバルがあるだろうか。しかもそれに絶望せずに時に自らをユーモアで元気付けしていく主人公の素晴らしさにぐっとこないわけにはいかない。マット・デイモンだからできるリアリティである。

 そう、この映画はこれが毛筋ほども嘘くさいと思わせたら終わりである。その破綻が全くない。観客は主人公とともに喜び、主人公とともに絶望し、また危機に立ち向かうのである。 

 まことによくできたサバイバル映画だと思う。

 ところで本日の『夢千代日記』の再放送はNHKのBSではなく、地上波でした。申し訳ありません、訂正します。

2018年1月 7日 (日)

五十嵐貴久『波濤の城』(祥伝社)

Dsc_5038

 映画を観ているように楽しめた。面白い。

 波濤の城とは巨大クルーズ船のことである。この小説はパニック小説であるから、転覆することなど絶対にあり得ないと思われたこの船に遭難の危機が訪れる。

 あの映画『ポセイドン・アドベンチャー』や『タイタニック』を観た人ならば、この小説を映像的に頭に描きながら観ることができるであろう。実際にあった海難事故とこれらの映画を盛り込みながら、さらにその上を行くパニックが起きるのである。

 予期せぬ事故による浸水、そして巨大台風、さらに火災が船客や乗組員を襲うのだが、実はこの災害が恐ろしいのは、ほとんどの原因が繰り返される船長の判断ミスという人災であることだ。その判断のミスはまさかという思い込みや、そうであって欲しくないという根拠のない願望によって起きる。そのへんは人間だからそういうこともあるだろうと思えないこともないが、その自分の間違いを糊塗するためにさらにそれを隠蔽しようとするのである。その姿に接すれば、同情が怒りに変わっていく。

 あのセウォル号事件(事故というより事件だろう)の船長を彷彿とさせる自己中心的で見苦しいこの小説の中の船長の姿は、物語を一層盛り上げる。そのために逃げ遅れる人がでることでハラハラドキドキ度が高まるのである。

 主人公はたまたま乗り合わせた二人の女性消防士。取り残された人々を最後まで救助し続けたために、逃げ遅れた人たちを連れて出口を求めて最下層まで降りることになり、そこから救命ボートのある八階まで再び上がっていくまでのサバイバルが、あの『ポセイドン・アドベンチャー』を思わせるのである。自分の命を省みずに人を助ける人、人間の本質は弱さであるけれど、善でもあることを感じさせてくれる数々の危機突破のドラマがてんこ盛りである。

 読み出したら途中でやめられなくなって、一気読みしてしまった。人間は危機に瀕しても諦めなければ必ず突破口はあるものだと信じさせてくれる。そう信じたいものである。

夢千代日記

 先月、脚本家の早坂暁氏が亡くなった。その追悼番組として、明日から『夢千代日記』の全五話がNHKBSで再放映される。私が録画してあるのは地上波での再放送をDVDに収めたものなので、もう一度BDに収め直そうと思っている。もとの画質が当時のものだからたいした違いはないが、それでも少しはマシであろう。

 このドラマはすでに三度ほど見直しているけれど、これを機会にもう一度観たいと思う。これはシリーズ化された。3シリーズか4シリーズあり、コレクションをし直すために、すべて再放送されるとありがたいのだがどうだろうか。そのあと映画化もされて、もちろん劇場で観た。映画化されたものは思想的な要素が強すぎて私の『夢千代日記』のイメージを損なうもので、二度と観たいと思わない(もう一度観たら、思想的な部分に目を瞑ることができて案外好い映画だと思うかもしれない気もしないではない)。

 もし興味のある人は、めったにない機会なので、今回の再放送を見逃さないようにして欲しい。傑作です。

 ちなみに、私のドラマ・ベストスリー、山田太一『冬構え』(すべて笠智衆主演の三部作のひとつ。他の『ながらえば』、『今朝の秋』も傑作。NHKアーカイブスで観られる)、早坂暁『夢千代日記』、倉本聰『北の国から』。この三人の脚本家の傑作は他にもたくさんあって、あげていけばきりがないのでこれまでとする。

«明日で日常にもどる

最近のトラックバック

カテゴリー

  • アニメ・コミック
  • ウェブログ・ココログ関連
  • グルメ・クッキング
  • スポーツ
  • ニュース
  • パソコン・インターネット
  • 心と体
  • 文化・芸術
  • 旅行・地域
  • 日記・コラム・つぶやき
  • 映画・テレビ
  • 書籍・雑誌
  • 経済・政治・国際
  • 芸能・アイドル
  • 趣味
  • 音楽
2018年1月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ