2012年5月27日 (日)

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・碑林

 南門外、関中書院の東に西安府学があり、その東に文廟があってそこがいま碑林となっている。碑林はおよそ七房あり、その中に蔵する石碑は夏・秦の模刻を初め、唐・宋のものが極めて多く、新旧を合わせておよそ六百余種に及び、逸品の枚挙に遑(いとま)が無い。中にはその碑面をなで回し、這うように眺め回して去るに忍びないというような人もいる。府学の域内には法帖を売るものが数軒あり、碑林の中で苫に逸品である五十五種のものを選んでこれを売っている。今いちいちこれを列挙するのはやめておくが、代価は五千文。一両(テール)は千六百文に交換できるので、五千文は三両あまりに当たり、日本円にして約五円に相当する。唐の開成石経はその中にない。六百四種全てであればその代価は四十二両であると云う。

0040文廟の牌楼。ここは昔大学だった。撮影は1992年。

00421992年の碑林入り口の写真。

1010_1692010年の碑林。入り口正面に玄宗皇帝の真筆の碑がある。

0403336このように中国中の有名な石碑が集められて林のように並んでいる。幸い文化大革命でも破損することがなく残ったのは幸いであった。これは2004年に撮影。

0403331専門家が拓本を取っているところ。墨のにおいがしていた。王羲之や顔真卿などの有名なものの拓本が売られている。最近はべらぼうに高くなった。言い値では買わないこと。ただし売り子によっては頑固で値引きしないのもいる。相手を見て交渉しよう。

2012年5月26日 (土)

帝釈峡・白雲洞まで

 ようやく帝釈峡に到着。見所は白雲洞という鍾乳洞、雄橋(おんばし)、断魚渓。往復で3Km程度。あまりアップダウンがないと云うからいけそうだ。

120523_2帝釈川の渓流沿いに歩き出す。絵になる景色がつづく。

120523_3このような橋を何度も渡る。

120523_6橋の上からの景色。緑が美しい。もうすぐ白雲洞。

120523_9白雲洞入り口。ここへ戻ってくる。狭い。

120523_23乾いた鍾乳石。

120523_24天狗岩。横に突き出している鍾乳石は極めて珍しいそうだ。暗がりでよく分からなかったが、写真で初めて分かった。ストロボは使っていません。

120523_25こんな写真をたくさん撮ったが、きりが無いのでこれまで。白雲洞は行き止まりまで行って引き返して10分程度。誰もいないからちょっとどきどきするが洞窟大好き人間としてはそれがたまらなく楽しい。

映画「博奕打ち 流れ者」1970年東映

 監督・山下耕作、出演・鶴田浩二、水島道太郎、若山富三郎、待田京介、藤純子。博奕打ちシリーズの第八作である。
 前作は残念だった。今回は山下耕作監督だから出来はよろしい。だがどうも虚無感が漂う。流れ者、と云う立場がそもそもそういうものであって一宿一飯の義理だけで命を投げ出す。だがこの映画の中で主人公が言う。「渡世人は筋目を通さなければならない。だがその筋がゆがんでいるときにどうするのか」。
 最初の舞台は小倉である。鶴田浩二、水島道太郎、待田京介、天津敏ともう一人が旅人として渡世の義理で殴り込みをかける。その場に立ち会いを許されない者(待田京介)、死ぬ者(もう一人の年取った旅人)、大けがを負う者(水島道太郎)、逃げ出す者(天津敏)、そしてその討ち入りで名を挙げた者(鶴田浩二)が五年後に再び邂逅する。
 主な舞台は木場である。天津敏はのし上がっていた。天津敏に助けられた水島道太郎は、命を助けられた義理で討ち入りから逃げたしたのは自分であると云う汚名を甘んじて受けていた。
 木場の名のある親分のところに寄寓した鶴田浩二だが、水島道太郎に出逢うことで抗争に巻き込まれることになる。水島道太郎は抗争にかかわらずに旅立つことを強く勧めるのだが、その時には鶴田浩二も引くに引けない立場に立っていた。
 水島道太郎が殺され、待田京介が殺され、鶴田浩二が世話になった親分が殺されるに至り、流れ者としての筋を再び通すことになる。
 水島道太郎の妹・藤純子の愛を振り捨て、やはり流れ者の若山富三郎と二人で天津敏達の待ち構えているところへ討ち入りをすることになるのである。
 
 ところで何故ドスで戦うのだろう。日本刀の方が大勢を相手の時は有利ではないだろうか。若山富三郎は日本刀ではないか。だから怪我もほとんど負わない。鶴田浩二は満身創痍で本望を遂げるが立ち去る姿はかなり危うい。日活映画みたいだ。

 この作品が作られた1970年は大阪万博の年である。やくざというものに対してそれまでの任侠美化批判があったのかも知れない。

怒り

 写真のネガのデジタルスキャンを再開した。古いものの中にカビが生えて変色がひどいものがある。あまりにひどい損傷なので試しにネガを水洗してみた。元の画像と水洗後と補正後を較べて見て欲しい。

Photo_2元の画像。ひどい。

Photo_3カビ状のものが薄れている。えっ。

Photo_4補正後。カブリを消すとやはりうっすらとカビ状のものが見える。

これより古い写真でもカブリがほとんどないものが多く、ましてカビなど無いのが普通だ。このようにひどいネガが7~8本くらい見つかった。だいたい同時期なのでたぶん同じラボに出したのだろう。

 間違いない。定着処理後に水洗をいい加減にしたのか、まさかと思うが水洗そのものをしていないかだ。カビは洗ったくらいでは薄れたりしない。カビに見えるのは定着薬の析出したものだろう。もう少し丁寧に水洗したらもっと綺麗になる可能性が大きい。

 それにしてもひどいラボがあったものだ。こういうラボ達がアナログ写真を滅ぼしたと云っていい(まだ滅びてはいないが)。とにかくここへ出していたときは一眼レフで撮ったサービス写真がぶれてボケているのだ。しかも焼き増しでもう一度プリントすると同じ写真と思えないくらい仕上がりが違った。今思い出しても怒りがこみ上げる。途中で気がついてラボは替えた。犯人と覚しきラボは今はつぶれて存在しない。
 写真をなんだと思っているのだ。呪われろ。

恐怖の433号線

 大朝の温泉から帝釈峡へ行くことにした。帝釈峡は中国道の東城インターに近いから浜田道の大朝インターに乗り、中国道に乗れば迷うこともなく、スムーズに行くことが出来る。しかしずっと有料道路に乗らずに走ってきた。今度も地道で行くことにする。大朝から261号線を南下して左折、433号線を通って三次に行く。三次から283号線で西城へ、西城から再度南下して帝釈峡へ行くコースを取ることにした。
 国道433号線は田舎道を走る。天気は薄曇り、さわやかな風を受けながら気持ちよく走っていたら、センターラインがなくなった。大きな車が来たらすれ違うのが難しいな、と思いながらしばらく走っているうちに道は江の川沿いを走り出した。狭い。さらにしばらくして分かれ道があり、433号線は山の中に入っていく。何となく不安を覚えだした頃小さな集落を通過、田圃のあぜ道みたいな道になっていく。手書きの看板で「国道433号線→」と明記してある。これがなければ道を間違えたとしか思わないような細い道が山の中へ続いている。
 道幅は2.5m~3mと云うところか。所々すれ違うための場所がある。こんな峠道は何度となく走っているから平気だ。峠さえ越えてしまえば・・・・。
ところが道はさらに狭くなり、ほとんど車の幅と道の幅が近くなってきた。しかも待避場所が全くなくなり、カーブでは車の尻が道をはみ出しているのが分かる。もちろんガードレールなど無い。私のような物好きがもう一人いて向こうから来ることがありませんように、とひたすら念じて走り続ける。行けども行けども峠の頂上に出ない。このような道は峠を越えればたいてい半分来たことが分かるが、頂上がいつまで経ってもないのだ。
 絶望的な気持ちになった頃ようやく峠を越えた。そして登ったのとほぼ同じだけ狭い曲がりくねった下り坂がつづいた。ようやく集落が見えた。農家の軒先、庭の中を通るような道だ。これが国道!

 ドライブ用の地図はバイクのツーリング用のものを愛用している。詳しいし情報がかなり書き込んである。その地図をよく見たら「国道ではなくて酷道」と書いてあった。よく見ておけば良かった。
 この地図でこのような峠道に迷い込んだことは・・・たびたびある。いつも生きた心地がしない。二度とこの道は走りたくないと思う。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・長安

 関中は東に殽函(こうかん)の阻があり、西に隴首(ろうしゅ)の険があり、南山は龍驤(りゅうじょう)し北嶺は虎踞(こきょ)する。八水は洋々とその中を貫流し、田野遠く開けて禾黍穣々(かしょじょうじょう)である。いわゆる金城千里天府の国である。西周がここを都として四百年、天下は周を宗とした。秦はこの地を拠点としてほかの六国を全て征服し、天下を統一した。漢、符秦、姚秦、後周、隋、唐、皆ここを都として天下を支配した。故に関中の一木一草はことごとく古を語らないものはなく、憑弔の情を惹くものが随所に存在する。
 今の西南府城は漢都の南数十里にあり、隋開皇二年初めてここが都として営まれ、唐はそれを蹈襲した。昭宗天祐元年に節度使の韓建が改めて新城を築いた。それが今の府城である。宋・金・元はそのままここを都とした。明初に都督濮英はこれを増修し、清乾隆中にまたこれを修理した。城門が四つあり、東は長楽、西は安定、南は永寧、北は安遠と云う。周回二十四里ある。城壁は外に甎(せん・焼いた煉瓦)を用い内は土である。高さ三帖四尺、底部の厚さ六丈、頂上の厚さ三丈八尺ある。
 九月二十日、師範学堂の森、田中両氏に伴われ、碑林を見た後永寧門に上がる。鐘楼は東西南北四大街の交差点を跨いで西北に屹立し、その西半里に鼓楼があって市の大観は脚下にある。南は隴圃(ろうほ・畑)の間に小雁塔は近く、大雁塔は遠く、杜陵(とりょう・森と丘)の上、秦嶺の雲に対し、北は渭水を隔ててはるかに九嵕(そう・峻と同じか)の山脈を望み、東は臨潼の諸山が太華に連なるのを見、西はすなわち一望千里その際を見ず。形勢はあたかも洛陽を見ているようであるが、洛陽は天下の中で四方から攻撃を受けることになり、もし陝西や山西に豪傑が立てば勢いで洛陽を制することが出来るであろう。長安はそれとは違い、天下の背後にいて四方を制している。進んで攻めるのも退いて守るのも容易で、形勝は天下一である。
*今回は辞書を引くのを少し控えたので(さぼったので)言葉が原文に近い物になっています。

1010_146西安・安寧門。樹の横に涸れたことがないという井戸がある。

1010_160城壁の上。自転車で走れます。城壁を二周するとマラソンの距離になり、実際に城壁上のマラソン大会もあるそうです。

2012年5月25日 (金)

おおあさ鳴滝露天温泉

おおあさ鳴滝露天温泉は、最近は日帰り温泉をメインにしているようだ。それはそれでかまわない。客あしらいさえ問題なければ。ちょっと首をかしげることもあったが、一気に評価を変えたのは温泉に入った後だった。

マッサージルームがあり、整体の先生が来ているという。気功を取り込んだ整体だという。肩が痛いのを見てもらえるかも知れない、と思ってすぐ申し込んだ。一時間ほど待って治療室に呼ばれた。かなり細かい問診がつづいた後『肩の痛いのはストレスから来ることも多くて、つらいのはよく分かるけれども直るかどうか分からない』と正直なお言葉であった。こちらは一年半くらい痛みに耐えてきたところなので、それでもお願いします、としか言えない。

それからとことん治療が始まった。肩も徹底的にやってもらった。痛かったけれど我慢した。一時間のはずがかなり余分に押さえて貰い、気がついたら終わっていた。

肩は・・・残念ながら痛みがなくなることはなかったが、かなり自由度が上がり、信じられないほど後ろに手が回る。

先生は出来ればもう二、三度治療したら、と云ってくれた。

お金を出してもう一度お願いしたいのはこちらだ。

いろいろ話をしたら同郷であることが分かった。先生は銚子の生まれだそうだ。こちらは九十九里なので話が合う。

再会を約し、連絡方法を教えて貰った。必ずまたお願いに来ることにする。

石見銀山の後は?

石見銀山を堪能した。石見銀山が世界の銀の三分の二を産出して世界経済を左右したことを日本人は知らなかった。しかし残念ながら石見銀山は掘り尽くしてしまった。

私がおぼろげに知っていたのは「石見銀山猫いらず」と云う言葉だ。殺鼠剤に使うヒ素化合物が石見銀山の代名詞であった。ところが石見銀山ではヒ素は産出せず、近くの銅の鉱山でとれるものだったのだそうだ。落語でもヒ素を毒薬で使う話がある。

石見銀山を見たが、本当にたった一つの小さな山である。近くの山では銀は全くとれないという。どうしてこれが発見されたのか。ツバキ庵のお姉さんが、九州のある山師が、その山が光って見える、と云ったので発見されたという。名前も残っているそうだ。

石見銀山から広島方向に向かい、温泉に泊まることにした。ちょっと時間がある。地図を見たら断魚渓というのがあった。行くことにした。

120522_93駐車場に車を置き、少し歩いて谷底を覗くと岩の間に水が流れているのが見下ろせた。断魚渓の千畳敷まで120mとある。迷ったが勢いで降りることにした。

120522_94これも上からの写真。

120522_95これは下から。何も考えずにひたすら階段を降りた。

120522_100なかなか絵になる流れである。

120522_103千畳敷と云われる所以。両側が断崖絶壁。

120522_104ここを降りてきたのでまた登る。120mと云うけれどそれほどのことはなかった。かなり激しく疲れた。

120522_106今晩の宿。おおあさ鳴滝露天温泉。今晩泊まるのは私一人。明日は休み、とのことで朝風呂はなしだそうだ。うそー。でもこの晩にとてもうれしいことがありました。

昔の町並みから代官所跡まで

大森の銀山公園から昔の町並みの方へ歩く。妻籠や馬込の町並みから見ると世界遺産の割に寂しい。これはずいぶん工夫が必要だろう。その工夫はリピート客を呼ぶことにつながるから真剣に考えた方が良い。協力しても良いけど向こうはこちらを知らないし、何が出来るか自分でも分からない。

120522_72ぱっとしない町並み。所々立派な屋敷やがんばっている店があってそれなりなのだが・・・・。

120522_74_2武家屋敷。

120522_75_4こんなところに観音寺がある。

120522_77崖の上にある観音寺。

120522_80代官所の跡が博物館になっている。

120522_83博物館の中、鉱脈の模型。なるほど。これを外せばどうがんばっても何も出てこないわけだ。石見銀山は最盛期には世界の銀の三分の二を産出していたという。

120522_85代官所の隣の神社。大きくて立派。世界は日本の銀を吸い上げて潤った時期がある。同様に幕末には日本の金を吸い上げて世界中が潤った。日本をだましで列強が日本の金を実質的な価値の半分以下で取り込んで莫大な収益を得ていたことは語られることがない。黄金の国ジパングというのは実は事実でもあったのだ。

今も日本の富を世界が収奪している。為替というトリックで。

龍源寺間歩と帰り道

120522_47龍源寺間歩坑内。この辺が一番低くて百五十センチくらいしかない。奥の方は百七十センチ以上ある。縦横はこれで合っています。

120522_51このような横穴がそこら中に空いている。これは比較的に広い方。人間が腹ばいでやっとくぐれるくらいのものも多い。試しぼりをしたのだろう。

120522_55_2出口までの最後の百メートルくらいは昭和63年に観光用に作られた新坑。

出口は山の反対側に出てしまうので元のところへは十分くらい歩かないと戻れない。

120522_59佐毘売山神社へ上る階段。鉱山の人がお参りする神社らしい。私は鉱山とは縁が無いのでパス。

120522_61休憩してわらび餅などを食す。ツバキ庵というかなりしゃれた店。お茶はヨモギ茶を頼んだ。かなり香りがきつい。お店のお姉さんとしばらく話をした。今銀山跡には200軒、400人しか住んでいないが、最盛期には十万人とも二十万人とも云う人が住んでいたという。そういえば通り道には集落跡への路、と云う山へつづく路がいくつかあった。世界遺産に指定されたばかりの時は人も多かったが、この頃は人通りが減った、と嘆いていた。この銀山は明治十八年の大水で壊滅的な被害を受けて閉山となったそうだ。その前にほとんど銀はとれなくなっていたらしい。藤田組が一時再興しようとして手を入れたが採算が合わずそれも戦前で打ち切りとなったという。

120522_62_2お姉さんに見送って貰った。

120522_64この山の上、三百メートルほど行くと話しに聞いた藤田組の精錬所の跡が残っている。

帰り路はやや下りだが龍源寺間歩の出口から大森の公園まで三キロ近くあるので最後はちょっとうんざりする。しかしそこからさらに昔の町並みと代官跡を見に行かねばならない。











遊歩道脇

遊歩道を歩きながらいろいろな物が眼に入ったが、その一部。

120522_35右手の穴が間歩と呼ばれる坑道への入り口。腹ばいでしか入れない。

120522_37吉岡出雲の墓。上まで登る気にならない。

120522_38これも別の間歩。高さ一メートル程度。

120522_41_2道ばたの緑。樹の間から漏れる日差しに輝いている。

120522_46これが観光用に解放している龍源寺間歩の入り口。

中は所々低いので183センチの私はほとんど屈んで歩かなければならない。後で聞いたら車いすでも歩けるように下を平らにかさ上げしたので高さが低くなったのだという。

石見銀山・遊歩道

石見銀山は大田市大森にあり、主な駐車場は世界遺産センター前、大森バス停近くの石見銀山公園前、大森代官所前の三箇所である。町では世界遺産センター前の広い駐車場に置いて貰ってバスでのアクセスを希望しているようである。

もちろん私も遺産センターに置いて大森バス停まで行き、そこから坑道のある龍源寺間歩まで往復を歩き、さらに大森から代官所まで歩いてそこからセンターへバスで戻った。

120522_21銀山公園入り口の看板。龍源寺間歩までは遊歩道と、自転車でいける舗装道路がある。両方車では行けない。自転車は五〇〇円で借りることは出来るが、遊歩道の方が上り下りが多いが、見所がたくさんある。

120522_33_2標識は分かりやすい。

120522_26小さなお寺の前の掲示板。とても蘊蓄のある言葉に唸った。それほどでもないか。

120522_27自転車用の路。軽快にいけるがおもしろみはない。

120522_36これが遊歩道。木漏れ日に風がさわやかに吹く。

120522_69階段もある。

途中に小さな間歩(人が潜れるとはとても思えないような穴)があったり、銀山にゆかりのある人の墓や寺が散在していて遊歩道の方が断然良い。その辺は次回。

宍道湖と日本海

快晴の宍道湖南岸を西へ走る。

120522_2向かい側は島根半島。宍道湖はやはり広い。

120522_6わかりにくいが大きな鳥が湖面を飛んでいた。

宍道湖の西端を過ぎた辺りで携帯に出雲地区の地域メールというのが入った。熊が捕獲されたという情報だ。そういえば朝のニュースで熊が出没しているので小学校に熊よけの鈴が配布されたことが報じられていた。地域メールというのを初めて受けた。

120522_17こちらは日本海。

日本海を見下ろせる手引ヶ浦台場公園というところでトイレ休憩。ここには砲台がある。

120522_12_2大砲。砲弾は丸い。

120522_13_2海に向かって据え付けられた大砲。幕末のもののようだ。ここは多伎町田儀。

石見銀山は多伎町のとなりの大田市に属する。世界遺産に指定されてから二度寄っているのだが、散策コースを歩いていない。龍源寺間歩(まぶ・鉱石を掘った穴)まで2.3Kmは歩いて往復するしかない。実際には5Kmを越える、さらに旧の町並みも片道1Km弱歩くので最低6Km坂道を歩く覚悟がいる。この覚悟が足らなかったのと二回とも雨降りであった。今回は快晴で体調も万全である。次回はその石見銀山。

松江

松江の武家屋敷街と松江城を駆け足で散策した。松江は大変人気のある町らしい。以前暮らしていた金沢となんとなく比較していた。共に過去と現代が断続していない、日本では珍しい町だと思う。住んでいる人も何となく奥行きのあるやさしさを感じさせる。

Dsc_0004松江と云えば小泉八雲。小泉八雲の記念館である。右手が松江城のお堀、右側お堀沿いに武家屋敷が並んでいる。

Dsc_0021_2たいむすりっぷ。

Dsc_0022_2武家屋敷。左側、街路樹の下はお堀。

Dsc_0023_2お堀と屋形船。

Dsc_0027_2この橋を渡り、城門を入る。

Dsc_0031天守閣へ向かう。朝早いので人は少ない。

Dsc_0036松江城天守閣。良い天気。

松江は三度目なのでこれくらいで切り上げて宍道湖南岸を走る九号線へ向かう。いつも宍道湖は雨の中で見ていた。晴れた宍道湖を初めて見る。出雲大社は改修完了が来年のはずなのでその後で見る(去年改修中のところを拝観している)ことにしてパス。今日のメインは石見銀山である。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・長安に入る②

 北京を出てすでに十有七日、行程千余里。思いが叶って長安に入ることが出来た。ただ憾むらくは連日の秋霖が行く手を妨げることが少なからず。まだ崋山に登坂してその奇勝を探勝することが出来ずにいる。また祖龍を弔い太真を偲ぶを得ず(遺跡などを訪ねて歴史の真実を探るというほどの意味か)。思うにひとたび殽函(こうかん)を過ぎればこの身はすでに漢唐の人、秦嶺(山)と涇渭(けいい・ともに河)とはもちろん、一木一草も皆古を語らないものはない。淹流(えんりゅう・永く留まること)荀余、こい願わくは古帝都の面影を髣髴するを得んか(長安で昔の都であったときの面影を目の当たりに見届けたいものである)。
 翌日は長安に入り、高等学堂に行って鈴木氏に面会し、ついに同氏の参府巷(さんぷこう)のお宅に寄寓することになったが、同氏及び同令夫人貞子の歓待は行き届いていてほとんど郷里にいる思いをしたのは実に感謝にたえないことであった。

1010_158西安城壁。南門付近。右側城内。

2012年5月24日 (木)

松江へ

三朝から北上して九号線へ、米子から直接松江に行かず、境港の境水道大橋を渡る。この橋はいきなり高いところへ一気に登るので何回通ってもどきどきする。馬鹿と煙は何とやら、でこの橋が好きなのだ。中海の北側をぐるっと回って北から松江に入る。

120521_68境水道大橋。右から左に渡る。結構高い。

120521_75中海の湖岸に停泊していた漁船に烏賊釣りの灯りがぶら下がっていた。外海へ出るのだろうか。

120521_77ボートの舳先の下に南天の実のついた枝が浮かんでいた。何故だろう。

この日は松江のビジネスホテル泊まり。夕方松江の町へふらふらと浮かれ出て松江の飲み屋で一杯。結局ビジネスホテル代より高くついた。適当に入った店だったが当たりだった。

翌朝はバイキング式のホテルの朝食。これがなかなか品数も味も上等で、朝から腹一杯になってしまった。松江を散策した後、石見銀山を歩くことにする。







三徳山

午後、我が家に帰着した。洗濯、買い物などを行い夕食を食べ、やっと一息入れることが出来た。

さて旅行記の続き、今回は三徳山、みとくさんと読む。

佐田峠から三朝温泉への路の途中にある。駐車場が何カ所かあるのでそこに停めるが何の案内もないのでどこが登り口か分からない。停まっている車も二、三台しかない。一番行きたいのは投入堂(なげいれどう)なのだが・・・。電動の鎌で沿道の草刈り作業しているおじさんに仕事を止めて貰って聞いた。登り口はここから5分くらい歩いた先にある寺の横だそうだ。投入堂へはどのくらいかかるか聞いたら30分くらい、と云う。ただしかなりきついよ、とのこと。

教えて貰った寺まで歩く。寺は高台にある。なんと登り口の沿道にたくさんの車が路上駐車している。駐車場があるのにほとんど使われていない。あんなにわかりにくければ当然だ。

受付で改めて投入堂へどのくらいか聞く。往復二時間、ただし元気な若い人の場合。ゆっくり登る人は三時間見た方が良いとのこと。少し考えてあきらめた。そう言ったらその方が良いという。こちらの体型を見ての正直な意見だ。

宝物殿が拝観できるというので行くことにする。長い階段を二つほど登る。

120521_40_5最初の階段。ずっと上までつづいている。

120521_42_2正善院というのが本堂。ところが門が閉まっていて入れない。何故なのかは帰りの階段から見て分かった。大変なことになっていた。

120521_44_2上の階段。さらに上にも階段がある。

120521_46_3やっと宝物殿が見えた。

120521_49これが宝物殿。右手奥が奥の院などへの登山口になっていて受付がある。

120521_52_2横にお地蔵さん。

120521_54_2宝物殿内の吽形の仁王。左手。

120521_55きらびやかな御輿。

120521_58_2右側の阿形の仁王。

120521_64階段横の道祖神。

120521_65_2何故本堂の門は閉まっていたのか。今年三月に僧坊も含めて焼失してしまったのだ。無残な焼け跡がのぞけた。

浜坂、湖山湖、佐田峠

浜坂周辺の海には奇巌洞窟が多く、海側から絶景が見えるという。浜坂の遊覧船が出ていると覚しき辺りを車で探したが、それらしきところが見当たらない。ようよう見つけた遊覧船乗り場、と云う看板はかすれかけていてしかもどこにも観光船は見当たらない。漁船だけだ。今がシーズンではないからやっていないのか、孟そもそも遊覧船は商売として成り立たないからやめてしまったのか。仕方が無いので西へ向かう。本日の泊まりは松江と決めている。そうだ、三朝へ行ってみよう。

120521_10浜坂から近い穴見海岸の奇巌。

120521_11同じく穴見海岸にて。

鳥取に至る。鳥取から郊外の湖山湖の南側を通り、佐田峠を越えて三朝へ行く。湖山湖は鳥取市内だがとても大きな湖だ。

120521_13湖山湖風景。島へ橋が架かっている。この島は全体がキャンプ場になっているようだ。

120521_17_3これも湖山湖の風景。向こうは鳥取市。鳥取は砂丘だけではないのだ。

120521_22_3佐田峠からの風景。三朝へ行くにはこの峠を越えなければならない。

120521_23_2同じく佐田峠から。谷が深い。

峠を下れば三朝である。途中に役の小角(えんのおづぬ)が法力で建てたという投入れ寺で有名な三徳山(みとくさん)が有る。死ぬまでに一度は見てみたいと思っていたところだ。次回はその三徳山。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・長安に入る①

 九月十九日午前八時、新豊を出発し、九時臨潼(りんどう)に至る。道路は泥濘と化し、馬が行き悩むことはなはだしい。雨がひどくなりそうなので東への帰り道で寄ることにしてそのまま西に向かう。市中で井上某氏に逢う。氏は西安歴遊の帰路でここにいるという。二、三言葉を交わして別れる。十五里ほどで斜口鎮(しゃこうちん)三盛店で休憩。鎮の東端に唐段忠烈公祠が有る。光緒三十一年に再建、祠中に初等小学堂を置いている。前殿には体正明道の扁額があり、祠堂中には肖像を安置している。段太尉の遺烈は唐徳宗御製の段太尉紀功碑、及び柳宗元の段太尉佚事(佚事)状に詳らかである。公が慷慨激越、笏(しゃく)を揮(ふる)って朱沘(しゅせい)を朝に撃ったのはまことに懦夫をして立たしむべきである。汧陽(けんよう)は公の古里であり、その墓は臨潼の西にある。東への帰り道に行こうと心に思う。
 斜口を出発して十里足らずで路の北側に陵墓を望む。唐宣宗黽后(びんこう)慶陵、懿(い)宗王后寿陵、穆宗韋后福陵である。皆陵前に碑がある。乾隆丙申畢沅(ひつげん)の立てたもの。さらに十里行き覇水を渡る。覇橋は石造りで長さおよそ一里。唐の時代、行客の東に行くのを餞(はなむけ)するのに、この地まで来ると柳の枝を折って綿々の情を表したとのことである。今も橋の西には老柳数株あり。漢の高祖が軍を起こした覇上もまた覇橋の西である。またしばらくして滻水(さんすい)を渡る。西岸はもと滻阪(さんはん)と云っていたのを隋の文帝がその名が良くないと云って長楽坡と名を改めさせた。また唐の時代、餞の場所でもあり、白楽天の長楽坡送人詩があるのがその証である。
曰く、
  行人南北分征路、
  流水東西接御溝、
  終日坡前恨離別、
  謾(みだり)名長楽是長愁、
坡を上ればはるかに長安を望む。時に雲はようやく収まり、十数日来初めて天日を仰ぐことが出来た。午後五時先農壇を過ぎ、長楽門を入り大道を西に行き鼓楼から南へ、さらに西に折れて午後六時に馬坊門興盛店に宿泊した。この日の行程七十里。


1010_1561現代の西安城内。


2012年5月23日 (水)

浜坂保養荘

今回泊まった浜坂・保養荘は大変良い宿だった。元々老人や病人が宿泊することを想定していたのだろうと思う。先ず個室のトイレが広々としていて楽である。従業員もとても感じがよい。食事も心がこもっていておいしい。これなら一泊二万円の宿に匹敵する。褒めすぎだろうか。もちろんお風呂も広いし、清潔だし、眺めは良いし、でよろしい。ただ町から離れていて飲みに出るにはタクシーでも呼ばなければならない。でもお年寄りなら全く問題ない。ここはまた来ても良い。

120521_5保養荘入り口。

120521_3窓からの景色。手前の橋は車で通れる。この橋が唯一の保養荘への路。川の土手(狭い・すれ違うのはかなり困難)を走ってきてこの橋を渡る。向こうの橋は歩行者専用。

120521_1夕食。このほかに天ぷらとデザートがつく。私は格安コースだからこれだけだが、他の人はさらに鍋などがつく。天ぷらも、山菜が9種類くらいあって盛りだくさん。御飯は炊き込み御飯。お酒は地元の香住鶴(かすみつる)の冷酒。やさしい味で飲み口も良く、大変おいしい。

120521_4朝食。このカレイは絶品。焼き加減も最高。湯豆腐だが一杯やるわけには行かない。残念。朝飯は他の人と同じだった。朝の薬を飲もうとしたら何も言わないのに水を持ってきてくれた。

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