2018年4月23日 (月)

映画寸評(6)

『リベンジ・オブ・ザ・グリーンドラゴン』2014年アメリカ・香港映画
監督・アンドリュー・ラウ、アンドリュー・ロウ、出演ジャスティン・チョン、ケヴィン・ウー他。

 舞台はニューヨークのチャイナタウン。そこの裏世界の縄張りをいくつかのグループが奪い合いながらそれなりのバランスの中で共存していた。そこにある振興のグループが歯止めのない暴力によって台頭して来る。

 主人公はまだ暴力団とも呼べないような小学生の少年。彼は仲良しの友人が彼らのグループに加わったことで次第にその一員として行動するようになる。リーダーは仲間の一員であることを示すためにさまざまなことを彼らに強要する。

 彼らの暴力は歯止めがない。見ていて救いのない気持になる。実際に裏社会というのはこういうものだとすれば、まことに恐ろしい。以前観た香港映画では、こういう抗争事件での凄まじし暴力が描かれていたが、それを少年が行うことが一層凄惨さを感じさせる。

 後半では少年は成長し青年に近い年齢になっている。ラストにカタルシスを発散させてくれそうなシーンがあるが、その結末は・・・。

 かなりきつい映画である。 

『ウェズリー・スナイプス シールド・フォース 監獄要塞』2017年アメリカ映画。
監督ジョン・ストックウェル、出演ウェズリー・スナイプス、アン・ヘッシュ他。

 状況設定がうまく説明できないが、人工知能によって完璧に管理されているはずの秘密要塞との連絡が途絶え、そこへウェズリー・スナイプスが率いる特殊部隊員たちが原因究明と復旧のために派遣される。その秘密要塞に詰めていたのは彼らの精強な仲間でもあった。

 その要塞の中でその精強な仲間たちの死体が次々に発見される。やがてそこにいるはずのない男が生きて発見される。完璧なはずの要塞にどうして侵入できたのか。彼は呼ばれたのだという。しかし何が起きたのか分からないと言い張る。

 警報が鳴り、やがて彼らは要塞に閉じこめられてしまったことを知る。人工知能の暴走によるものではないかと気付いた彼らは必死で復旧に努めるのだが・・・。

 彼らの抱える、決して知られたくない秘密がどういうわけか明らかにされ、そのことが人工知能の暴走の原因であることが分かったとき、彼らを恐怖が襲うという話であるが、最初はともかく後半はあまりこわくない。

 大好きなウェズリー・スナイプスだけれど、今回はちょっと動きが今ひとつだし、彼らしい活躍が見られないのが残念であった。彼はやはり単純明快な信念を持って脳天気にアクションをこなす方が似合っている。期待したのに。

囚われる

 誰でもあることに囚われるとそのことしか考えられなくなってしまうことがある。囚われた外側のことが見えなくなるのである。そしてそこから自力では出られなくなっているのが精神疾患の人なのではないかなどと考えている。

 では何に囚われているのか。結局は自分自身なのではないか。囚われている人は囚われることでとても苦しい思いをしている。他人のこと、自分の世界以外のこと、は見る余裕がなくなっている。それは多分に性格に関わる気がする。

 人は自分が最も大事であって、その大事な自分が攻撃を受けていると思ったり、自分の価値が不当に貶めたりするとそのことに傷つく。その思いは自分に囚われやすい性格の人ほど強いのではないか。もちろん受けた傷がある限度を超えればもともとの囚われやすさとは関わらずに、その深い傷の記憶そのものが囚われやすさを生み出すことになるだろう。いわゆるトラウマである。

 理由が明らかで囚われている人は、その理由を乗り越えることで傷を癒やすという積極的な治療と、安静、つまり刺激を極力与えないことで自己治癒力による治療を目指す消極的なものがあるようだ。積極的な治療は劇的な効果があるときもあるけれど、悪化の可能性も高く、リスクが大きいという。ときに傷をえぐってしまうからだろう。

 しかし多くの精神疾患者はそういう原因が明らかではない。それは他人にとっては取るに足らない程度のことなのに、しかし本人にとっては大きな精神的ダメージがあったのではないか、として精神科の医師や心理療法士は見えない犯人捜しをしたりすることもある。

 どちらにしても、話が戻るようだが、囚われやすい人が囚われる。そして囚われやすさとは多分に性格なのではないか。自分のことばかり考える性格の人がその自分自身に囚われるのではないか。では精神疾患とは何か、などと考えている。

 たまたま知人に病の人がいて、そこから感じたことを書いた。性格がひとつの要因なら治療とは何か、などと思ったりしている。

 現代はすべて病には器質的な理由があって、それを治療すれば治るまたは改善するとされており、実際にその対症療法である薬に高い効果があることは承知している。実際、重症の患者は向精神薬によって世界中で激減しているのである。それでも発症の根本原因が明らかになっているようではない。

 性格も器質的なものから来るのだろうか。そしてこれから解析されていくのだろうか。精神の働きについてこれからなにが明らかにされていくのだろうか。見えないものを明らかにするのは困難で、山のように仮説が呈示されているが、それが次第に確固たるものになっているように見えない。素人で何も知らない私にはときに精神医学は砂上の楼閣に見えてしまうことがある。

 無知による妄言を書いたかも知れない。苦しんでいる人、治療に努力されている人などに他意はないので、もし不快であれば申し訳ない。

2018年4月22日 (日)

三度目の正直か?

 北朝鮮が今年に入ってにわかに積極的な外交に転じ、たちまち韓国やアメリカの首脳会談が行われることになった。すでに中国の習近平主席とは会談を済ませている。

 私の記憶では、この事態の急変について予測した北朝鮮の専門家はいなかった。しかし彼らは恥ずかしげも無くみな後付けでその理由を縷々述べている。いままでも北朝鮮情勢を報じる場で活躍が続いたが、これからも彼らの出番が続くことになりそうだ。

 北朝鮮が妥協する態度を示していることが信用できると感じるかどうか、ひとにより違うだろう。「過去にも約束を裏切ったことがあるから、二度あることは三度ある、と思う人もいれば、情勢から見て今回こそは信じられる、つまり三度目の正直だ、と見る見方もあるだろう(by 宮家邦彦)」。どちらもあり得るから、どちらが正しいかというのは現時点では分からない。

 いまの情況を、日本は蚊帳の外に置かれている、と自嘲的に言う向きがある。いくらトランプと親しそうにしても所詮安倍さんなんてそんなものだと言いたげである。しかし宮家氏も言っていたけれど、日本は朝鮮戦争の当事国ではない。いま北朝鮮が求めているのは、現状の北朝鮮を認めた上での朝鮮戦争の終結とアメリカとの平和条約の締結、そして経済封鎖解除である。いま日本は当然蚊帳の外である。日本が役割を示すのは最後の場面と言うことになるだろう。

 ただしそのときは日本のお金が求められるだろうことは想像に難くない。北朝鮮再建に必要なお金を韓国一国が背負うことは難しそうであり、それを日本に頼ってくるのは過去の経験で予想される。南北分断はアメリカとソ連によるものだが、そもそもは日本が悪いのだ、と言うのが半島の人々の認識らしいから当然の要求として求めてくるだろう。決してお願いしますとは言わないはずだ。日本国民は日本が蚊帳の外かどうか、そのときに思い知ることになるだろうと思う。 

 北朝鮮が核放棄をする可能性は低いと思う。それよりは南北統一の方が可能性があるような気もする。金正恩は安全が保証されればそれを受け入れるような気がする。状況によってはどこか安全なところに保護されることを望むだろう。もしそのまま半島にいれば、何しろ歴代の大統領を次々に牢屋に入れる国である。拘束されればまず命はないことぐらい分かっているはずだ。

 そういう意味ではこれから歴史の転換点が見られるかも知れないわけで、これからの南北首脳会談や、米朝首脳会談はとても興味深い。いろいろな意見を見聞きすることになるだろう。結果が出るまでは言った者勝ちである。どんなこともある得るのだから、それらを楽しみに拝聴しようと思っている。

 いまのところ、私は北朝鮮は中国化、つまり体制を維持しつつ経済のみ自由化に舵を切るような気がしているが。

丸三年

 先日事故から丸三年が経ったセウォル号事故のドキュメントを見た。丸三年経ってようやく明らかになったこともあるし、まだ明らかでないこともたくさんあるし、永遠に明らかにならないことはそれ以上にあるのだろう。

 この事故での船長以下乗組員の無責任さ、そして海洋警察の不手際が告発され、あとで法で裁かれた。ほとんどの人が助けられた可能性があるのに助けられなかった責任が問われたのである。助けられなかったというよりも、「助けなかった」ことを数々の証言や当時の映像が語っている。思えば当時の朴槿恵大統領政権が国民からの信頼を失墜したのもこれがきっかけだったようにも思う。

 だから韓国は・・・などというつもりはない。そういう言葉はいつでも自分自身に返ってくる言葉で、日本で同じことが起こらないと誰が言えるだろう。人はそれぞれの役割に応じた責任があるけれど、いまは責任の自覚に欠ける人がずいぶん多いように感じる。不思議なことに他者の責任を激しく非難する人ほど自分の責任には鈍感ではないか、などと思う。このドキュメントでも命がけで人を助けた人は黙して語らず、三年経ってようやく取材に応じたと報じていた。

 自分だったらどうするのか、そのことを自分に問う。英雄的な行動はできないかも知れないけれど、せめて危機は常にあることを念頭に置くことはできる。危機にあるときに他者の責任を問うてばかりいても助からない。

 ドキュメントでは船員たちより早く携帯から事故を連絡した少年の、そのやりとりの記録が公開されていた。そのときの海洋警察の担当者は情況を理解しようとせず、少年が乗組員だと思い込んで少年が答えようのない質問を無意味に繰り返して時間を空費していた。相手の話を聞き、そして理解しようという当たり前のことができない、パニックになっていたのはその少年ではなく海洋警察の担当者だった。少年は亡くなっている。

 それでもそのやりとりで危機を察知して現場へ駆けつけた船があった。漁船監視船の船長である。彼が40キロあまりの距離を急行し、現地に着いたとき、回りにはたくさんの船が集まっていた。ところがセウォル号に人影があるのに誰も救助しようとしていない。それは当時の映像でも見たことのある不思議な光景だった。救助が始まったのは、急行したその小さな漁船監視船がそのままセウォル号に横付けして乗客を乗せ始めたのを見てからだった。

 次から次に船から人が出てきた。その様子は漁船監視船の船長のヘルメットに据え付けられたカメラの映像に捉えられていた。最後の最後に助けられた少年が船内の様子を克明に語っている。九死に一生を得たこの少年もこの監視船の船長が助けている。

 現場に急行した海洋警察の船は、いち早く乗組員たち(だけ)を助けた。しかし誰一人船内に乗り込んで救助をしようとしたものはなかった。乗客の中には自分が逃げることよりも傾く船内で必死で救助を続けた人がいて、このドキュメントの中で船内の様子を語ったあと、その人は心の中から絞り出すように「あれは虐殺だった」とぽつりと言った。いまも助けられなかった人の姿を夢に見るという。

 たまたまそのあと『相棒』というドラマの劇場版『相棒Ⅳ』を見た。戦争中南洋の島で取り残された少年が生きのびて、大人になってようやく帰国したとき、すでに自分は死んだことになっていることを知る。彼は二重に自分を捨てた国に復讐するためにテロリストになるという話だ。ここではいち早く民間人を残して軍隊が引き揚げていく姿が描かれていた。

 軍隊がいち早く民間人を残して逃げたのは満州でも朝鮮半島でも同様である。本土決戦に備えるという名目はあっても、民間人を守るべき軍隊が、民間人を見殺しにしたことは厳然たる事実である。そのときに逃げた兵士達は責任を感じたか。それを命じた軍部の責任者は責任を感じたか。その責任を問われたか。

 五木寛之もそのとき平壌にいて、逃げ惑い、ようやく帰国できたという経験をしている。彼が自ら「デラシネ(根無し草)」を名乗るのはそういう背景がある。

 原発事故の責任問題も同様だろう。なぜ事故が起こった原発と無事だった原発があるのか、事故発生後の避難指示は適切だったのか、開示すべき情報は開示されていたのか、それらの責任は本当に問われたのか。

 これらは違う話だけれどたぶん違う話ではないように思う。いま安倍政権はあまりにお粗末な姿を国民の前にさらしている。それを嬉々として断罪しようとする野党がいる。慰安婦問題で誤報を三十年も放置した朝日新聞は正義をとなえて政府を攻撃している。

 世の中というのはそんなもので、しかたのないものなのだろうか。テロリストが生まれるのはそういうときではないのかと恐ろしい気持になる。

2018年4月21日 (土)

葉室麟『玄鳥さりて』(新潮社)

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 玄鳥とは燕のことである。

 人が人をかけがえのないものとして思い続けること、それに身命を賭すこともいとわない思いがあることを、物語として語る。同時に人は、ああはなりたくないと思うような人間にいつの間にかなってしまうものでもあることを語る。

 財務省のエリート官僚も入省したときはそれなりに国のために働くつもりであっただろう。それが人によってはあの体たらくになってしまうのである。

 葉室麟の小説では歴史小説もあり、剣の強い人間が出るいわゆるチャンバラもの、そして芸術家や詩人、女性が主人公のものがあって、それぞれに面白いけれど、やはり剣での闘いがあるものが読みやすく面白い。

 ある意味でこの小説は、三浦圭吾という少年が次第に成長していく姿を描いていくビルドゥングスロマンである。その彼を陰で支え続ける剣の達人、樋口六郎兵衛との関係が次第にねじれていきながらも、そこに生き続ける限りないやさしさが二人を救っていく。どうして圭吾は守られ続けるのか、そのことは最後の方で明らかにされる。 

 葉室麟の作り上げた世界を心から楽しむことができる。今回は強さだけではなく、人の弱さも描かれている。

時代が大きく変わるかも知れない

 中国の一帯一路構想は巨額の経済支援の約束を後ろ盾に着々と進んでいるようだ。しばしば中国にばかり有利な展開になって現地で反感を買うこともあると報じられるが、途上国にとっては背に腹は替えられない事情もあるのだろう。ただ、私としてはその中国のやり方に傲慢なものを感じて、日本が一帯一路に加わることには賛成しかねる気持でいた。

 今回イギリスを含めてのEUと日本がFPA(経済連携協定)で合意した。これで世界のGDPの三分の一の経済圏が成立する。日本はすでにTPPをほぼ成立することに成功している。そのTPPにはイギリスが参加の意欲を示している。このことはアメリカや中国が一方的に貿易や経済を主導することに抵抗する一つの勢力ができることを意味する。各個撃破を狙うアメリカや中国に、数で対抗する準備を調えているということだと思う。

 いまアメリカは機会の平等ではなく、結果の平等を正義として強引な貿易戦争を仕掛けている。アメリカ車が日本であまり売れないのは日本のせいだと決めつけているが、ドイツ車がいくらでも売れていることをトランプ大統領はご存じないようだ。アメリカの自動車会社は日本で車を売るための努力がたらないのではないか。

 いろいろなことでアメリカと同様にせよ、そうでなければ障壁である、とトランプ大統領は吠えているようである。これは明らかに暴論である。反対のことを日本が言ったらどうなるか。アメリカはあまりにも利己主義的に見える。

 どこの国も自国を最優先にするのは当然だが、そこにはおのずから限度があり、節度も必要で、それをある程度守っていたからアメリカは信頼されていた。アメリカがその歯止めをなくせば、そんなアメリカといままでのようにつき合うべきかどうか、どこの国も考えはじめるだろう。

 最近、日本も中国との関係を見直す必要があるような気がしてきた。もちろん中国との関係は中国の覇権主義的な傾向を考慮して慎重にしなければならないけれど、経済面から言えば、アメリカよりも中国の方がましだ、という事態が来るかも知れない。

 アメリカの衰退はまだ先のことだという。しかしトランプ大統領が衰退に舵を切りつつあるような気配もある。彼を支持するアメリカ人が想像以上に多いことはアメリカの本質を露呈させているのかも知れない。

 どうやら日本もアジア回帰に舵を切るためのターニングポイントが近いのかも知れない。もちろんそんな方向に進む前に中国も変調を来さないとはいえない。しかしあらゆる事態を想定して選択肢を拡げる時代になりそうな気がする。一帯一路構想への参加も含めてのことである。

 私がどうするこうするという話ではないし、そうすべきだと主張しているわけではないが、そういうこともあり得ると認識しておくべきかな、と感じ始めた。つまり経済、そして軍事の力関係からアメリカ一辺倒でも仕方がないのかな、と思っていたのをそれではまずいのではないか、と思い始めたということである。ちょっと遅いか。

2018年4月20日 (金)

明日には情報があるだろうか

 韓国GMが撤退も視野に入れて韓国政府には支援を、そして労組には妥協を求め、その結論を出す期限を本日の20日としており、その打ち合わせが午後から始まったというニュースのみ報じられたが、結果がどうなったのかまだ情報がない。

 決裂してしまえば少なくとも3万人の雇用が失われる可能性があるとされているが、労組側は強気のままだと伝えられている。彼らの交渉に対する二枚腰三枚越しの粘り強さは日本人には真似できないものがあり、いままでも破綻ぎりぎりでようやく妥協するのを見て来たので、今回もそんなことになる可能性もある。

  とはいえすでにGMを主力納入先とする下請け会社が次々に破綻に追い込まれており、その傷はかなり深いようだ。主力車種の韓国での生産をGM本社がすでに見限って、中国生産に振り替える方向だという話も一部報じられている。すでに韓国GMの各工場の稼働率は採算ラインを大幅に割っていて回復の見込みはあまりないと言うから、このまま最悪の事態に突入するかも知れない。

 このことの是非を言うつもりはないし、韓国の労組に対して非難するのは韓国のマスコミに任せたいが、今回の労組の強気の背景は何か、そのことの意味を考えている。会社がなくなるかもしれないのに妥協しないというのは不思議だからだ。日本のように「我が社」という感覚があまりないからなのだろうか。

 最悪の場合、組合は従業員にどのような責任をとるつもりなのだろうかと心配しているのである。彼らは路頭に迷うことになるし、韓国の失業率は好景気なはずなのに信じられないほど高い。再就職もままならないだろう。

 明日にはその結果が報じられるだろうか。もしかすると期限が先延ばしされたのかも知れない。だからいまだに報道がないのかもしれない。

誰に対する批判か

 人はしばしば同じことを全く違う受け取り方をする。それはどちらが正しい、となかなか簡単にいえるものではない。ときには全く違う意見に耳を傾けることで自分の考えが鍛え直されることもある。それぞれにどうしてそう考えるに至ったか、その人なりの生き方の中に理由があり、正しいか正しくないかとは別に、その違いに面白さが感じられることもある。

 だから何が嫌いだといって判断を「白か黒か」に単純化する手合いだ。いわゆるレッテル貼りをする人々である。しばしば人はその方が楽だからそうなるし、自分もそうなりかけることもあるけれど、自制するように心がけているつもりだ。

 ブログにいただくコメントも短い言葉で書き込むからどうしてもその傾向が出やすい。そのとき批判に対する単なる反論にならないように注意して返事を書いている。しかしあまりに自分が書いていることと違う意味のコメントをいただくとそれに対する返事は感情的な文章になってしまう。読み返してみて、まずいと思って書き直すことが多い。ときには二度も三度も書き直している。

 以前も書いたけれど、私のブログは延々と続く私自身の自己紹介である。匿名で自己紹介というのはおかしな話だけれど、何しろ迷惑メールや迷惑コメントの類が少なくないので防衛のためである。友人知人はもちろん私のブログであることは承知している。友人の中には、いつも会っていたときよりも私の近況が良く分かるし、考えも分かるね、と言ってくれる人もいる。

 とはいえ、その自己紹介を読んでいるのに、あり得ない受け取り方をされればそれなりに反論するのは当然である。 

「…弁解をすれば、そのサイトにはいろいろな人の書き込みがあり、それに対する反論がblog主への反論(反論というより批判だろうか?by OKCHAN)ととられる場合がこれまでもあったのだが、」

私の反論に対しての説明だろうか、そのコメントを書いた方が自分のブログに書き込んでいた文章だ。

 私のブログに書き込まれたコメントを私のブログに対するものと見做すのは当然であって、他の方のコメントについての批判であればその旨明記していただきたいものだ。誤解されたと感じることは、精神的に苦痛である。自分はその程度にしか受け取られない文章を書いているのか、と自己嫌悪におちいるのだ。ブログをやめたくなるほどである。

「弁解をすれば」という言葉にいささかの救いはあるけれど。

初めて大阪城に行く

大阪で友人達と会食した。夕方の待ち合わせだったのでその前に大阪城に行った。大阪の会社に38年間奉職して大阪に住んだことはないけれど大阪には数え切れないほど行ったのに、大阪城に行くのは初めてである。


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名古屋から近鉄で鶴橋に、そこからJRで森ノ宮へ行き、大阪城公園に入る。ごらんのように天気は快晴、ウイークデイなのに人がとても多い。話し声を聞いているとほとんど外国人である。日本人は二割くらいではないか。大阪は海外からの観光客に人気があるようだ。

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天守閣方向に向かうと階段があり、ツツジがちょうど見頃であった。

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どうも花の写真は上手く撮れない。花の写真も・・・というべきか。

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豊国神社に立ち寄る。

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豊臣秀吉にちょっと挨拶して天守閣に向かう。

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ツツジの向こうに天守閣が見えた。

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なかなか壮観である。ここも外国人ばかり。中に入るのに行列ができていた。行列に並ぶのは苦手である。待ち合わせ時間のこともあり、登るのはやめた。

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真田幸村もいた。一緒に写真が撮れる。

冷えたワインを提供している出店があった。一杯500円。木陰のベンチに座り、ワインを飲んで汗が引くのを待った。風がさわやかで気持ちが好い。大阪城公園は緑が多くていいところであった。


2018年4月19日 (木)

映画寸評(5)

『リターン・トゥ・アース 宇宙に囚われた1027日』2014年カナダ映画
監督エリック・ピコリ、出演ジャン=ニコラ・ヴェロー、ジュエリー・ペロー他。

 ほとんど金をかけずに宇宙ものの映画をつくって、それが一応成功している。カナダ映画は外れのことが多いと散々言ってきたが、何しろ尺が短いのでつい選んでしまう。この映画も突っ込みどころが満載だけれど、途中でやめるほどひどくなかった。この映画は英語でなく、フランス語で会話がすすむ。この映画の登場人物はフランス語圏のケベック州の飛行士たちらしい。

 すでに人類は火星にも足跡を残している時代、長期宇宙旅行に備えてその実験のために1000日の予定で宇宙ステーションに滞在をすることになったカナダ人の男二人女二人の乗組員が順調に任務をこなすなか、彼らは木星の衛星の観測によってある画期的な発見をする。ところがその後しばらくして、地球との交信が突然途絶えてしまう。

 地球で何が起きたのか。そして彼らが宇宙から地球上に見たものは。やがてリーダーがパニックになり、彼らは帰還船を失ってしまう。アホかいな。

 絶望に囚われた宇宙ステーションにロシアの宇宙船がやってくる。そして彼らに再び帰還の希望が生ずる。しかし彼等はある選択を迫られる。彼らはどう決断し行動するのか。それがこの映画の見所である。映画では彼らの運命は明確に示されない。宇宙ものが好きで暇なら観てもいいかも知れない。ただし登場人物(すべて)の動作ののろさにかなり腹が立つことに覚悟が必要。もっとてきぱきしろよ!どうもカナダ人は動作がのろい気がする。それは以前トロントの空港で経験した実感に合致する。

『ザ・スクワッド』2015年フランス・イギリス合作映画。
監督パンジャマン・ロシュ、出演ジャン・レノ、カテリーナ・ムリーノ他。

 ジャン・レノは暴走刑事ものがよく似合う。パリ警察の暴走刑事達を率いる警視役を嬉々として演じている。お年のせいかアクションにスピード感と切れがないけれど、気持ちいいくらいパワフルである。こんな無茶なことを続けていればおとがめがあるのは当然で、ある男の誤認逮捕からやがて彼の率いる部隊は解散されそうになる。

 しかしそれは誤認逮捕ではなかった。それに気付いた彼らは強盗集団が狙う銀行に急行するのだが・・・。そこでかけがえのない仲間の一人を失うことになる。警告通り彼は謹慎どころか逮捕、チームは解散となる。死んだ仲間というのは実は署長の妻であり、彼の愛する人でもあった。

 彼の腹心の部下が単独で勝手に捜査を進め、二重に仕組まれた強盗集団の目的が明らかになる。署長をようやく説き伏せて捜査というより仇討ちが始まる。あとはひたすら追っかけたり殴ったり撃ったりの連続である。不死身のジャン・レノを見る痛快さを楽しめる。ドンパチ好き向き。

『ストームブレイカーズ 妖魔大作戦』2015年中国映画
監督ジョシュア・イ・シャオシン、出演パイクー、ヤン・ズーシャン他。

 開始五分で観るのをやめた。西遊記の面々の妖怪退治話らしいが、あまりにもふざけすぎていて、観るに値しない。時間の無駄である。こんなのを中国の人は喜ぶのだろうか。信じられない。

『司馬遼太郎が語る日本 未公開講演録』(朝日新聞社)

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 叔父夫婦が(私の)母方の祖父母と同居していたことがある。叔母は本好きで、世界文学全集も揃えていたので借りて読んだりした。中学生の頃のことで、ちょうどそのころ山岡荘八の『徳川家康』(全26巻)が刊行中で、それも予約配本されていたから出る順に読ませてもらった。時代小説ではなく、歴史小説というものの面白さをそれで覚えた。

 それまでは柴田錬三郎や五味康佑、南條範夫などの時代小説を濫読していたが、歴史小説の面白さに目覚めたので、海音寺潮五郎などを読むようになった。司馬遼太郎に一目置くように、私にとっては海音寺潮五郎は一段高いレベルで敬愛する作家である。といってもそれほど数多く読んでいるわけではないから知ったかぶりするわけにはいかない。

 今回読んだ『司馬遼太郎が語る日本 未公開講演録』にはさまざまな人物が取りあげられているが、その中に海音寺潮五郎が登場する。司馬遼太郎は薩摩生まれの海音寺潮五郎と交流があって、大先輩として敬愛していた。饒舌な司馬遼太郎も海音寺潮五郎と対すると無口になったという。

 いま大河ドラマで西郷隆盛が取りあげられているが、海音寺潮五郎だったらどう評するだろうか興味がある。私が初めて海音寺潮五郎を読んだのは『二本の銀杏』という小説で、薩摩藩のお由羅の方騒動を描いたものだった。五十年以上前に読んだけれど、忘れやすい私にしては珍しく、いまでも覚えているのである。

 他にもさまざまな人が取りあげられていて、それほど知らないから興味のない人もあるし、思い入れのある人もいて、それぞれについて自分の感じたことを書きたい気もするが、機会があったらにする。

2018年4月18日 (水)

映画寸評(4)

『ザ・マシーン』2013年イギリス映画。
監督カラドッグ・ジェームズ、出演ケイティ・ロッツ、トビー・スティーヴンス他。

 台湾をめぐって中国とアメリカは戦争状態に入っている。戦死した、または瀕死の兵士の身体を再生強化し、強力な兵士にするための研究が行われている。そんな仕事はしたくないのだが、ある理由があってそこで働く天才的科学者がいる。彼にはどうしてもやり遂げたいことがあった。

 脳の再生プログラミングを研究して行き詰まったとき、一人の女性研究者に出会い、彼女のユニークな発想と能力を知り、助手にする。彼女は自分がどんな仕事をすることになるのか知らない。

 研究所に入って体験する異様な体験の数々。そして博士の苦悩も知ることになる。研究はその非人間性をますます顕わにし、研究材料にされている兵士たち、すなわちサイボーグであり、アンドロイドたちは自分の存在について疑念を抱き出す。

 軍はそれらの兆候を知り、それらをコントロールしようとする。そんな矢先に助手の女性が中国からの暗殺者に殺されてしまう。しかし博士はある目的からから彼女の了解を得て彼女の脳の神経回路などを全てコピーしてあった。こうして彼女の頭脳と強力な身体を持った最強の存在が生み出される。『ザ・マシーン』である。

 彼女が次第に知性を貯え、人間と同じように感情を持ち始め、サイボーグやアンドロイドと関わりを持ち、成長していく。軍にとっては期待通りの最強マシーンのはずだったが、それは期待以上の存在に変貌していく。

 人間の頭脳を機械は越えられるのか。コンピューターが感情を持ち、学習能力も備えて進化していくとどうなるのか、それは近い将来大きな問題となるだろう。この映画はそれをテーマにしているが、カルト映画らしい軽さもあるから深刻に考えるまもなく物語はなるようになっていく。

 ところで彼女の原体である女性は突然中国のスパイらしき男に殺されるのだが、それが軍の仕掛けた謀略だと私には思えたがそれは説明されていないようである。彼女が死なないと『ザ・マシーン』は誕生しない(死ななくても作ることは論理的に可能なのだが、博士は彼女が死ななければ彼女を作り出そうとはしなかっただろう)から必然性を持たせたのだろうが、最後に軍は『ザ・マシーン』に殺戮衝動を植え込むためにそのスパイを殺させるあたり、軍の仕業だったように思う。スパイは彼女を殺すくらいなら博士を殺すはずだからである。

『マン・ダウン 戦士の約束』2015年アメリカ映画。
監督ディート・モンティエル、出演シャイア・ラブーフ、ジェイ・コートニー、ゲイリー・オールドマン他。

 暗闇の廃墟のような建物の前で銃を手にして身震いし、激しい息をついているひげ面の男がいる。彼はほのかに灯りのもれるその建物に侵入し、やがてかがみ込む。そこには少年が眠り込んでいる。男は少年を抱きしめて、「お父さんだ、助けに来た」とささやく。

 物語は三つの時制を並行して進む。一つは妻子がありながら友人に誘われて海兵隊に入隊し、兵士として鍛え上げられ、やがて戦場に立って戦闘を続けていく物語。それを回想としてゲーリー・オールドマン扮する軍の男が聞き取っていく。やがてこの戦いの中である事件があり、この男にはトラウマがあるらしいことが分かってくる。

 もう一つは彼が戦争から帰り、最愛の妻子と再会できたのに鬱屈した日々を送る姿である。帰国を心から喜べない理由は、彼が従軍中に受けたPTSDによるものだけではないことがほのめかされる。

 そしてもう一つでは、世界は第三次世界大戦でもあったかのような荒廃した姿をしており、彼は誰とも知らない敵と戦っている。彼の目的はさらわれた息子を探し出すことである。最初の、暗闇でひげ面の男が立ち尽くすのはこの世界である。

 この全ての主人公(もちろん同じ男なのだから)をシャイア・ラブーフが演じている。最初のひげ面では彼だと分からなかった。その他の時制では地で出ているから見分けることができる。シャイア・ラブーフといえば『トランスフォーマー』での彼を思い出すが、全くそんな軽さも明るさも見られない映画になっている。

 映画がすすむに従って全ての物語が収斂していく。いったい戦場でなにがあったのか、そして彼は何を抱えているのか、それが見えたとき、悲劇が明らかになっていく。ちょっと精神的に堪えるこわい映画である。そのことは最後のテロップに説明されている。

 『マン・ダウン』は彼が息子と交わしたある意味を表すための二人だけの合い言葉であるが、最後に本来の意味をもって強烈に響いてくる。

葉室麟『雨と詩人と落花と』(徳間書店)

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 九州・日田(天領)の漢学者・広瀬淡窓といえば当時(江戸後期)の知識人では知らぬ人がいないほどの著名人だった。体があまり丈夫ではなかったので遠出の旅ができず、ほとんど九州を出ていないけれど、全国から彼を慕って訪ねてくるので、交友の人脈はとても広かった。朱子学を修めながら、国学者のように硬直した思想を持たず、身分の違いなども意に介さず、誰にも温和に接したという。人格者だったのである。

 この本はその広瀬淡窓の弟の、やはり儒者で漢詩人の広瀬旭荘とその妻・松子の物語である。淡窓と旭荘は兄弟ながら歳が25歳も離れており、旭荘は後に淡窓の開いた私塾、咸宜園(かんぎえん)を継ぐと共に養子になっている。広瀬旭荘は兄と違い、激情家で理非曲直や面子にこだわる。ときに妻に手を上げ、ために最初の妻は実家へ逃げ帰ってしまう。松子は二度目の妻である。

 感情のコントロールが苦手な旭荘だったが、自らを偽ることのない男で、間違いは素直に認める。感情の量が人並み外れているためにあふれ出てしまうけれど、心根はやさしい男であることを松子はよく理解し、彼を支え続ける。

 時代は変わりだしていた。幕末に向けての胎動が彼の運命を翻弄する。大塩平八郎、高野長英、緒方洪庵など、さまざまな人々が彼の眼前を去来する。緒方洪庵とは終生の友であった。

 旭荘は漢詩人であるから、この本には漢詩がたくさん出てくる。中国の著名な詩もあるし、淡窓の詩や、旭荘自らの詩が紹介されている。私は詩に疎いけれど、漢詩のリズムは好きである。もう少しその詩想に感応できればどれほど心を打つことだろうと思うけれど、不勉強と無能力は悔いてもどうしようもない。それでも幾分かは感じるものもある。

 題名の『雨と詩人と落花と』は、旭荘の詩の中の一節である。そしてその詩こそ松子の胸の中の旭荘の心根を思わせるものでもあった。詩を通して心を伝え合う、それはそれなりの素養が必要なことであり、明治の初めまでは知識人にとって当たり前のことであった。それ以前とそれ以後では日本人が全く違う日本人になってしまった、というのはたしか山本夏彦がどこかに書いていたと思うが、こころからその通りだと思う。

 漢詩と夫婦愛と、その二つがテーマのこの本は葉室麟の一つの到達点だと帯にあるけれど、そうかも知れない。闘争的フェミニストならこんな男は極悪人としか見ないかも知れないが、これは夫婦愛の一つのかたちであり、松子が自分の生涯をしあわせだと感じることができたことを素直に認めたいと思う。ものごとを現代の価値観で見るのは主義者の悪い癖である。

2018年4月17日 (火)

思うばかり

 昨年末に葉室麟が亡くなった。彼の本は書店で目につけば購入するようにしてきたから、たいていの本は手元にある。いつかそれを抱えて長期の湯治に行き、また読み直すのを楽しみにしている。

 未読の本が数冊残っており、それを繙いて味わいながら読み進めている。一度に読むのはもったいないから、あいだに別の本を入れて読む。それも今月中には全て読了してしまうだろう。不思議なことに書店の店頭で目にしながら購入しなかった本もある。題名のせいか不思議に手が出ない本というのもあるのだ。

 時代小説を読んでいると、続けて読みたくなったりして別の作家の未読既読の時代小説を引っ張り出して横に積んだりする。同じ系統の本ばかりを読み続けるような、そんなことをすれば却って飽きが来て興が削がれることが分かっているのに・・・。なにしろ気が多いのだ。

 たまたま興味を引いたことについて司馬遼太郎が書いていたことを思いだして『街道を行く』を開いてみるが、読み出すときりがない。このシリーズは旅に出るときなどにその地方の部分を読み返したりするのが特に楽しい。ボンヤリそんなことを思っていたら週刊朝日の増刊で『司馬遼太郎が語る日本』という雑誌形式の未公開講演録全六巻が目についた。ざっと読み飛ばしたまま押し入れにほうり込んでいたのを少し前に引っ張り出して積んでおいたのだ。

 あらためて読み始める。いったい自分は何を読んでいたのかと思うほどほとんど記憶になくて、あらためて司馬遼太郎の歴史観や価値観にひたって楽しむ。これは単行本などを読み飽きたときの合間に読むのに都合が良い、とやはり手元に積み上げる。

 こうしてたちまち身の回りに本の山ができる。読む気があるけれど、読み始めるまでの気持の集中にちょっと手間がかかるものだし、読むのにそれなりの時間がかかる。集中してしまえば回りの全ては消え去り、物音は聞こえず時間の経過も忘れて没頭している。若いころはその集中がいくらでも持続可能だったけれど、最近はさすがに二時間くらいが限度となった。眼がかすんだり、肩が凝ったりして我に返ってしまう。

 だから積み上げた本を読了するのは思っているほどはかどらない。思うばかりが先立つ自分に焦れている。楽しいことなのにどうしてずっと続けられないのか、自分の衰えを知らされることに腹が立つ。本に囲まれてこんなにしあわせなのにどうしたことだろう。

柚月裕子『狂犬の眼』(角川書店)

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 本屋大賞にノミネートされた『盤上の向日葵』の著者の新作であり、小説野性時代に連載されていたものを大幅加筆修正したものだ。『孤狼の血』(役所広司主演で映画化される)という作品を継承した物語になっている。どちらも読んでとても面白かった。振り返るとこの著者の本を他にも何冊か読んでいる(『慈雨』、『合理的にあり得ない 上水流涼子の解明』等々)。

 柚月裕子という人は名前の通り女性なのだろうか? どうも間違いなく女性のようである。このようなハードな男の世界を、男の血のたぎりを描くことができるのは男だけかと思っていたが、そうではないようだ。学生時代を山形に過ごし、東北に思い入れのある私としては、著者が岩手県出身で山形在住と知ったこともなんとなく嬉しいことである。

 物語の舞台は広島、映画『仁義なき戦い』に似た世界が語られている。時代設定は平成二年ころになっているから、もちろん『仁義なき戦い』よりもずっと後であるが。私もこの映画のシリーズはほとんど劇場で観たし、だいぶ後にビデオ屋でもう一度全て観直したので、イメージが強く残されている。Wikipediaで彼女の項目を見たら、やはり『仁義なき戦い』シリーズのファンだと書かれているではないか。

 やくざを嫌悪し、そのためにやくざ映画を嫌う人は多いが、現実の暴力団としてのやくざは大嫌いだし関わりになることなど決してないように願うけれど、やくざ映画は極限状態での男の生き方をドラマとして楽しむ分には面白い。ある意味で時代劇やSFと同じ、現実にない世界を楽しむという楽しみ方である。

 主人公は警察官でありながら、男と男として、あるやくざの男と対峙し、互いに惹かれあっていく。その主人公の見ている世界が描かれ、そのやくざが組織の論理ではなく、仁義というものを貫くことで生じる事件の顛末が描かれていく。

 正義というものがこれほど世の常識と違う世界であっても、そこには共感や感動があり得るということをあらためて知る。やくざ映画を観た観客は、映画館を出たときに肩で風を切るように歩いてしまうという。そんな気分にちょっとなる。

2018年4月16日 (月)

自分で見た数字が報道されていない?

 韓国の中央日報とハンギョレ新聞が、今月14日(土)の国会議事堂前の安倍政権退陣要求集会を報じていた。共に国会議事堂前の道路を埋め尽くすほどで参加者は三万人だと伝えている。

 確かにテレビのニュースで見たときも、いつもの数十人の集会よりははるかに多いことは感じていたが、三万人とはとても思えないので、日本のメディアはどう伝えているのかネットを遡って見てみた。日刊スポーツはこのことを繰り返し繰り返し報じている。もちろん朝日新聞や毎日新聞なども報じていて、全て参加者は三万人以上と報じている。

 よくよくそれらのニュースを読んでみれば、全て主催者発表によれば、と書かれている。むかし、デモが行われると新聞には主催者発表によればという数字と、当局発表によればという数字が併記されていた。たいてい数倍からはなはだしいときは一桁違った。世の中はそういうものだと教えられたものだ。

 韓国の新聞が主催者発表しか報じないのは理解できないことはないが、日本の新聞はどうして当局の発表を報じないのだろう。当局が発表しないからだと思いたい。発表があったのに報じないのなら問題だが、まさかそんなことはないだろう。それならマスコミは主催者の数字をそのまま報じていることになる。

 各社とも当然記者がその現場で取材しているはずである。問題は目で見た概算と主催者の発表が同じくらいだったかどうかということである。違うのに主催者発表だけを報じているのなら、大本営発表を垂れ流した時代とどこが違うのか。たぶん記者の目で見たものと主催者(共産党である)がほぼ同じと感じたのであろうが、それでも記者の見た目を報じて欲しいと強く思った。

 こうして主催者発表の数字のみが報じられて、それが事実として国内で、そして韓国にさらに世界で報じられているのである。

 韓国民は韓国に妥協しない安倍首相の悪口を散々マスコミで刷り込まれているから、朴槿恵元大統領のように市民運動の盛り上がりで退陣に追い込まれるのではないかと期待しているかも知れない。だから「2015年安保法制反対闘争以来最大」の集会であり、夜にはキャンドルデモが行われたと書かれている(ハンギョレ新聞)。ただしこちらは参加者500人とされている。主催は九条の会の澤地久枝氏であるから、私にとってその数字は共産党のものよりは信じられる。

 いまはまだまだだがこれからさらに盛り上がり、国会周辺を埋め尽くすデモが起こることをマスコミや野党は夢見ているのであろう。それが民主主義だと彼らは信じているらしい。直接民主主義が繰り返されれば世の中がどうなるのか、私は懐疑的である。代議員制の民主主義は少なくとも責任者が存在するが、直接制にはしばしば責任者が存在しない。風向きで雲散霧消することもあることを知っているからだ。

 私はシュプレヒコールのようなものが寒気がするほど嫌いで、煽動されるのは死んでも御免蒙りたい。ああいう集会で政治的スローガンをラップ調で歌いながら踊る姿を見ると虫酸が走る。今回もそうして盛り上がっているようであった。

 ところでいったい本当の参加者はどのくらいだったのか?

楽しみに目的は要らない

 前にも書いたけれど、私は毎年手帳を新調して読書記録帳にしている。むかしはある会社からいただく手帳を使っていたが、十数年前からはすこし大きめの皮の手帳に替えた。手帳はすでに三十冊を超えている。それ以前にも書き散らした手帳があるのでその数は五十冊以上だ。

 読んだ本の著者名と書名を読了した日付の欄に記し、むかしはそこに感想を短く書き残していた。書いておかないといつ何を読んだのか忘れてしまうからだし、読んで感じたことなどしばらく経つと忘れてしまうからそれを残したいと思ったのだ。

 だが次第に読後の感想を書くのが面倒になってきた。仕事も忙しい。何より感想を書くために読んでいるような転倒した気持になってきた。そこであるときから感想を記すことをやめた。だからずいぶん前からその手帳には著者名と書名だけが書き残されている。年間二百冊前後の本を読み散らかすから、手帳はそれなりの自分の記録になっている。

 リタイアしたら時間もたっぷりできた。読み散らすのではなく、読んだ本について多少は頭で反芻することにした。そうしてメモのようなものをまたときどき書き残すようになった。一年ほどしてブログというものを教えられ、人のブログを読み、それが自分にもできることを知った。七八年前のことだ。そこで頭に浮かぶうたかたのようなものを、消え去る前に書き残すことが面白いことを知った。

 書きたいことは次々に浮かぶ。ニュースを見ても本を読んでも映画を観ても旅をしても浮かぶ。それを少しでも掬い取ってブログに書き残してきた。ただ同じ私が考えたことだから、自分では新しいことを考えたつもりでも、他の人が読めば、酔っ払いの繰り言のように同じことばかり書かれているかも知れない。

 書いているうちにずるずると頭の中から言葉が出て来て、書いたあとで、自分はこんなことを感じたり考えたりしていたのかと他人の目で読んで驚くこともある。それもまた楽しい。

 ところが最近ブログを書くために本を読んでいるような気がすることがある。以前手帳に感想を書き記すのが面倒になったときの気持に近い。自分では意識しないうちにブログにノルマのようなものを感じたのか。すこし疲れてきたのかも知れない。感想文を書かされるのがいやさに本が嫌いになる子どものようになったら本末転倒である。

 今は何も考えずに本を読む楽しみに没頭することにしようと考えている。楽しみに目的は必要ない。ブログもそのはずだったのに。

2018年4月15日 (日)

映画寸評(3)

映画『ニューヨーク 2014』2013年アメリカ。
監督アレクサンダー・イエレン、出演クレイグ・シェイファー、デニス・ヘイスパート他。

 ケネディ空港の様子が映し出される。到着便から降りた女性が手続きに出てくるが具合が悪そうな様子を見せている。彼女はトイレに駆けこみ嘔吐するが、やがて痙攣がはじまり・・・。

 突然巨大な狼に似た獣が人々を襲う。あっという間に空港内は凄惨な状態になり、警察では対処できないため、軍隊が出動する事態となる。おそるおそる中をのぞきこむと、そこにはその獣が何十体もうろついていた。咬まれた人間は次々に人狼になっていくのだ。

 催眠ガスによって事態はようやく終息する。人狼となった人々はもとの人間に戻っている。原因はなんなのか、そして対処法はあるのか。やがてこれがウイルスによるものらしいことが判明するが、一番最初の罹患者は誰でどうしてそうなったのかが、対策の手がかりになると判断され、その捜査が始まるのだが。

 ところがこのウイルスを軍事目的に利用しようとする軍の暴走が始まる。対策を講じようと努力する人々と、軍の戦いが始まり、隔離されていた人々が再び人狼となってマンハッタンへ走り出す。パンデミックとなれば人類の破滅である。はたして人類の未来は守れるのか。

 黒人のアメリカ大統領のあまりの無能ぶりにあっけにとられるところがあるが、まあ観て面白くないこともない。他にも突っ込みどころ満載だが、こういう映画はそんなことに目くじらを立てていては楽しめないからよしとしよう。

『VR ミッション:25』2016年イギリス映画。
監督チャールズ・バーカー、出演マックス・ディーコン、モーフィールド・クラーク他。

 ゲームのランキングの高い者たちに次々に招待状が届く。ヴァーチャル・リアリティの体験が出来るというのである。25階建てのビルに集められた男女は不思議なプロテクターとヘルメットを支給される。そしてそれを装着すると現実が変貌する。

 彼らはそのビルに潜むテロリストたちを掃蕩することを求められる。面白がるも者、気味悪がる者、逃げ出そうとする者。やがて装着したヘルメットは決して外せないことを彼らは知ることになる。

 ゲームのはずがあまりにリアルな戦闘、そして被弾すると激しい苦痛が襲う。一度はプロテクターが守るが、二度目は死の苦しみが襲う。限られた数の蘇生薬が与えられて、それで復活するが、遅れると本当に死んでしまうことが分かったとき、彼らはどうしたか。

 このゲームのカラクリはラストに多少分かった気にさせるが、その目的は最後まで判然としない。誰が生き残るのか。生き残る能力があるのは誰なのか。意外な人物が犠牲的精神を発揮したりする。しかしこんなゲームには参加したくないものである。

 イギリスのカルト映画らしく、ダークな中にヴァーチャル世界のリアリティがけっこうあって、現実とバーチャルリアリティのどちらが本物か分からなくなってくる。そもそも彼らゲーマーにとっては現実はそんなものなのかも知れない。

 夢は現(うつつ)、現(うつつ)は幻(まぼろし) by江戸川乱歩。

 出来はまあまあというところか。

村山早紀『百貨の魔法』(ポプラ社)

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 前回読んだこの著者の『桜風堂ものがたり』は面白かった。その本は2017年の本屋大賞候補、そして今度読んだこの本は2018年の本屋大賞候補であるが、惜しくも賞を逸している。今年は辻村深月の『かがみの孤城』が受賞したと報じられたところである。

 そういえば今年の本屋大賞にノミネートされた作品10作品のうち、この『百貨の魔法』、小川糸『キラキラ共和国』、今村昌弘『屍人荘の殺人』、柚月裕子『盤上の向日葵』の四冊を読んでいることに驚く。ノミネートされていることを承知で読んだのはこの『百貨の魔法』だけだけれど。

 前作の『桜風堂ものがたり』の出だしは今回の『百貨の魔法』の舞台である星野百貨店内の銀河堂書店が舞台だった。今回はとことん星野百貨店が舞台であり、そこに努める人々、そしてお客たちの人生が語られていく。

 地方都市の風早市にある星野百貨店は戦後すぐに建てられた老舗だが、老朽化が進み経営も危ういと噂されている。長い歴史の中でこの百貨店には不思議な話がいくつもあり、それらがオムニバス形式でそれぞれの話の主人公の人生との関わりの中で語られていく。

 そこに関連していくのが新しくコンシェルジュとして採用された芹沢結子という女性である。不思議な魅力をたたえた彼女がどういう人物であるのか、物語がすすむと共に明らかになっていき、だんだん物語に引き込まれていき、いつの間にか暖かいものが読んでいるこちらに湧いてくる。

 百貨店には独特の匂いがある。子どもの頃、母に連れられて年に一度か二度、東京の三越や高島屋などに行った。そのときの匂いがこの本を読んでいて思い出された。あこがれを伴う不思議な気持でおもちゃ売り場などを歩いたし、屋上の遊園地に行ったし、食堂で食事をした。そのときの気持ちがまさにこの本に書いてある。

 全てが善い人ばかりの物語だけれど、少しも不自然ではない。人は善い人に良い影響を受け、善い人になるものなのだ。

 この本は大人の童話で、前半は著者があまりにも百貨店に思い入れを書き込みすぎているような気がして重い感じがした。しかし途中から芹沢結子のキャラクターが膨らみだし、一気に後半を読むことが出来た。読後感はたいへん良好である。中身の濃い、読み出のある童話なので、途中で投げ出すようなもったいないことはしないように。

2018年4月14日 (土)

映画寸評(2)

『X-DAY 黙示録』2016年アメリカ映画。
監督ジョエル・ノヴォア、出演ジャクソン・ハースト、ヘザー・マコーム他。

 月食の日に地下から魔物が大挙して地上に現れて人間を襲う、という物語であるが、この事態は映画の中では繰り返し起こっていることで、そのたびに百万単位の人が命を落とす。月食だから必ずこの事態が起こるわけではなく、その兆候が必ずある。そして人類は無力なままではなく、それに対する備えをしている。魔物が現れる場所はある程度想定されるからである。

 というところまではなんとなく設定として理解したのであるが、そもそも月食のあいだだけ魔物は活動し、月食が終わると引き揚げるというのである。それならせいぜい二、三時間のことであろうと思うのだが、なんと昼間も含めて延々と魔物は活躍する。昼間に月食が起こることはあり得ない。地球が月と太陽の間に入ることで月食が起こるわけで、夜の側で月食が見えるとき、地球の昼の側ではそもそも月は見えるはずがない。それが見えるのである。月食と日食がごちゃ混ぜのようである。しかも魔物に対抗したり対策に動く軍隊などがあまりにも愚かである。これでは人類が滅亡しないのが不思議だ。

 というわけでカルト映画にしてもあまりに設定がむちゃくちゃである。そんなことはどうでもいい人向き。

『スタンドオフ(2016)』2016年カナダ映画。
監督アダム・アレカ、出演トーマス・ジェーン、ローレンス・フィッシュバーン他。

 カナダ映画は絶望的にお粗末な映画が多いが、この映画は良く出来ている。何しろローレンス・フィッシュバーンである。両親を事故で失った少女が叔父に連れられて墓参りにやってくる。近くの墓地で金持ちと思われる家族の葬儀が行われている。少女はカメラが趣味で一眼レフのカメラをいつも抱えている。叔父に「葬式の写真は撮るな」と注意されていたのだが、ついそちらにカメラを向ける。そのとき銃声がして墓地にいた人々が次々に射殺される。そして現れた覆面の男が棺を入れる穴に次々に死体を放りこみ始末をしていく。そのとき男が覆面をとり、少女は思わずカメラを向けてシャッターを切る。そこへ叔父が少女捜しにやってくる。

 これが出だしのシーンで、あとは少女が逃げこんだ一軒家での住人の男と殺し屋の息詰まる攻防戦が延々と続く。殺し屋がフィッシュバーンである。住人は元軍人で子どもを事故で死なせ、妻に去られて独り暮らし。生に絶望している。

 これは面白い。結末がどうなるか全く予想がつかないのである。拾い物の映画であった。お薦め。

『インビジブル・エネミー』2015年イギリス映画。
監督ニック・ギレスビー、出演ルパート・エヴァンス、スチーブ・ギャリー他。

 典型的な不条理映画。つまり意味不明で解釈不能の映画である。観た人が勝手に自己流に解釈するしかないが、釈然としないものが残るだろう。

 林の中を兵士が駈けていく。女性兵士と出会った二人は仲間のところへ向かうのだが、そもそもだれが敵なのか良く理解していない様子である。ようやく仲間たちと合流するが、リーダーは黒い袋で顔を隠して赤い服を着た二人の人物をロープで繋いで連れており、捕虜なのだという。

 農場のようなところで敵に襲撃されるのだがその姿は見えたり見えなかったりして、しかもその姿は異様である。一人が負傷してしまうが、やむなく置いてきぼりにして逃走する(あとで登場する)。そして彼らは草地に放置されている装甲車に逃げこむ。これで安全になったのだが、装甲車の中は狭く、しかも動かない。閉じこめられた中での意味不明のやりとり、そもそも敵が誰でどんな目的で闘っているのか。

 不条理映画は嫌いではないが、ちょっとくたびれる映画であった。くたびれても自分なりに答えを見つけられれば救いがあるが、残念ながら私には答えは見つけられなかった。解釈に挑戦したい人はどうぞ。

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