2017年6月23日 (金)

龍應台『父を見送る』(白水社)

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 『台湾海峡一九四九』に続いて日本で出版された龍應台の本である。訳は共に天野健太郎。龍應台は中国語圏では著名な作家で、訳者のあとがきによれば、出版された著作はことごとくベストセラーになっているらしい。この二冊を読んだ限りでもそれが頷ける。中身が濃厚で、素晴らしいのである。著作は多数あるらしいが、まだ翻訳されているものはこの二冊だけなのだろうか。

 実はこの『父を見送る』のほうが先に書かれた作品で、『台湾海峡一九四九』のほうが後に書かれている。内容を読んでもそれは明らかだ。さらにこの『父を見送る』は三部に別れているけれど、書かれた順番は後の方が一番新しい。それは現著書がそういう構成になっているからのようだ。

 短い文章が、表題付きでたくさん連ねられていて、詩のような随筆のような、しかも幻想的な創作小話のような文章で、一つひとつがしみじみとして深味がある。人生の深味が少ない言葉にこめられていて重いのだ。

 彼女は台湾生まれの台湾育ち、海外留学を経験してから国に帰り、ドイツ人と結婚して夫君とドイツに移り住んで長く暮らし、男の子を二人もうける。その後台湾に帰国して大学の教師となる。台湾と香港の大学を掛け持ちして教鞭を執った時期もある。請われて行政文化部の局長や部長を歴任し、初代の文化大臣に就任もしている。

 彼女の父親も母親も大陸の出身であり、国民党とともに台湾にやって来た外省人である。外省人としてどのような苦労をしたのかは文章から推察するしかない。ついに大陸に帰ることのかなわなかった父を看取り、晩年故郷に帰りたがる母を大陸に帰し最後まで看護した。両親は四人の子どもをもうけたが、長男は大陸生まれで祖父母の元に置いて行かざるを得なかった。残りの三人は台湾生まれ。

 これらの本は家族の物語でもあり、彼女の息子との関係もそこにオーバーラップする。そしてそれは台湾と中国との関係の物語でもあり、苛酷な歴史の物語でもある。

 深い素養に裏打ちされ、古い漢詩もふんだんに引用されているが、適切な訳が添えられているから読むのに苦労は要らない。読んでいて原著との文章リズムが適切なのだろうと思うけれど、たまに首をかしげる部分があった。わずかなことであり、原著と比較しているわけではないので私の思い過ごしかも知れない。

 読みごたえがある本だけれど、素晴らしい本なので、機会があれば一読をお勧めしたい。ちなみに表紙の写真は彼女の母親である。

どうでもいいことではあるけれど

 いつものことだが、とりとめのないことを感じたり考えたりしている。他のひとにとっては、だからなんだと云うことも多いけれど。

 前回の定期検診にあわせて大慌てで減量したけれど、じわじわとデッドラインを超えつつある。酒量を控えたら摂取する食事量が増えた。当たり前なのだが、太る。食事量を元に戻すだけでは現状維持になるだけなので、しばらく量を減らして我慢することにする。こうして公言しておかないと、つい自分で自分に言い訳しながら飽食を続けてしまう。何しろ食べることも飲むことも大好きなのだ。

 今月末に久しぶりにストレスフルなことがある。今回は電話審問なのだが、ついそのことに心がとらわれてしまう。心理的にそれが飽食につながっているのかも知れない。

 友人からもらったミニトマトの苗がめでたく生長し、つぎつぎに花が咲いているが、結果しているのが少ない。少ないながらそれでもよく見るといくつか少しずつ大きくなっている実がある。いつも拝見している『棚田のブログ』tanadaさんに、コメントでそのことを書き込んだら、tanadaさんのミニトマトは三月に植えて六月に実が実ったという。私のトマトがいつ実るのか分かりません、とのご返事であった。当前である。実際に私のトマトを見ているわけではないし、写真すら見ていただいていないのだ。専門家だからといって分かるわけがない。

 ただ、多分あとひと月くらいで自分のミニトマトが食べられそうなことは分かった。tanadaさん、ありがとう。

 自民党の女性議員が秘書に暴言を吐き、暴行したとして騒ぎになっている。暴行と云っても怪我をするほどのことではなかったようだが、そのときの録音が公開されて、その中で「運転中ですからやめて下さい!」という言葉を確かに聞いた。秘書が運転中に肩か背中でもはたいているのだろう。危険きわまりない。

 暴言と云うより我を忘れての喚き声である。ほとんど狂気の状態が想像される。人は我を忘れた状態を他人に見られるほど恥ずかしいことはない。だから他人の前で我を忘れた状態にならないように自省する。それがまともなおとなである。そんなものが公衆に暴露されたら死にたくなるだろう。豊田某議員は自民党に離党届を提出した。人に言われなくても、議員をみずから辞職するしかないと私なら思うが、本人はどうか。自分一人の立場ではないから慰留もあるだろう。しかし残ればただ恥をかき続けるだけである。

 それにしてもいつも騒ぎ立てるお馴染みの野党の面々が「議員を辞めるべきだ」と口を尖らせて語っていた。そんなことをカメラの前で語れば、豊田某議員と同じレベルに並べて見られるだけである。マスコミもその絵を狙っているのであるから人が悪い。こういうときは鼻で笑って黙っていれば良いのだ。国民や有権者の多くはわざわざ云われなくたってもうそんな議員を支持したりしない。

 ところで河村元官房長官が、「あんなの、男の代議士にもいっぱいいるよ」とおっしゃっていたらしいが、その発言を撤回した。撤回するとそういう事実はなくなるのだろうか。撤回できるのは本人の見解の間違いを指摘された場合で、今回の発言は見解ではなくて事実についてのものである。もし撤回するなら、「私は嘘つきです。嘘を言いました」ということになる。豊田某代議士の援護をしたつもりであったのかも知れないが、援護すべきでないものを援護したばかりではなく、自分を愚か者と明らかにしてしまった。

 俳優の小出恵介がバッシングを浴びているが、交渉を持った17歳の少女の背後関係を警察が調べているそうだ。実はこのことについては高額(一千万円くらいとみられているそうだ)の示談がすでに成立して法律的には処理済みだったのだが、このネタで小出恵介を恐喝しようと企んでいる男たちの影がちらついているようだ。だから小出恵介はただの被害者だ、というわけにはいかないだろうが、少女側にかなりあくどいバックがついていたとすれば、事件の様相がガラリと変わってくる。多分そんなことだろうとは思っていた。

 だから一部芸人が小出恵介の酒癖の悪さを暴露してマスコミに受けていると云うのを聞くと、最低の屑だなあ、と内心思っていたところだ。

 以上どうでもいいことを並べてみました。

フランス映画『ザ・クルー』2015年フランス映画

 監督ジュリアン・ルクレール、出演サミ・ブアジラ、ギヨーム・グイ他。

 ギャング映画だけれど、こう云うのをクライムアクションと呼ぶらしい。フランス映画はけっこう非情なストーリーが多く、甘さがほとんどない。その感情移入しにくいぎりぎりのキャラクターが、ハリウッド映画などのバイオレンスタッチの映画の主人公よりも魅力的だったりするのだ。

 ヤニス(サミ・ブアジラ)と云う男が率いる凄腕の強盗団が装甲車を襲い、大量の白紙のパスポートを奪う。難民であふれるフランスではこれが大きな金になるのだ。いつものように襲撃に使用した武器や車を処分して足が着かないように完璧に事後処理したはずだったのだが・・・。

 今回引き入れたヤニスの弟アミンが、小遣い稼ぎのために、処分するはずだった銃を一丁だけ横流しして、そこから凶悪なギャングたちに素性がたどられてしまう。そして彼等に麻薬の強奪を強要させられる羽目に陥る。

 仕事を完遂しても逃げても破滅しかない事態に追い込まれたヤニスたちの反撃が始まるが、それはさらに凄まじい闘いへの道であり、警察からも追われる絶望的な破滅への道であった。

 こういうクールで救いのない事態に追い込まれながら自分の矜持を貫くヤニスに男らしさを感じてしまう。もちろん真っ当に生きるのが正しい行き方であるのは承知の上で、最もそれから遠い生き方に美学を見てしまう。映画の力だろう。

 これも好みが分かれるだろうが、私は嫌いではない。

2017年6月22日 (木)

映画『タイム・ループ』2016年セルビア映画

 監督フィリプ・コヴァチェヴィチ、出演ストヤン・ジョルジェヴィチ他。

 こういうのもSFといえばいえるのか。解釈がどうとでも出来る不条理映画であって、どう解釈してもいいと云うことは決まった解釈は不能ということでもある。

 主人公が街の真ん中の広場のベンチで目覚める。意識がはっきり戻らずに朦朧としながらあたりを見まわしていると突然白い仮面をした四人の男が彼をめがけて発砲してくる。苦痛にもがきながら見あげる彼を四人の男たちは見下ろし、とどめの弾丸が彼を貫く。

 主人公は街の真ん中のベンチで目覚める。あたりの光景や行き交う人の姿は記憶のまままったく同じである。そして彼が呆然としていると白い仮面を被った男たちが迫ってくる。彼はあわてて逃げ出す。辛くも脇の小道に逃げこんで一息ついた主人公だったが、行きずりの女性を人質に、彼に出てくるようにと白い仮面の男たちが彼に迫る。無視するに忍びずに姿を表した彼に銃弾が降り注ぐ。

 主人公は街の真ん中の石畳の広場のベンチで目覚める。同じことの繰り返しにいらだつ彼は、ベンチの下に新聞紙に包まれた四角いものが貼り付けられていることに気がつく。この事態を知る手がかりではないか。そして注意深くあたりを見まわして、自分の行動を決める。そのことと包みの中から出て来た石のブロックは関係があるような気がしてそれをたどるのだが・・・。

 主人公は街の真ん中のベンチで目覚める。フラッシュバックのような記憶がよみがえる。そしていままで出てこなかった男が彼から逃げようとするのに気がつき、彼を追う。彼を知っている男のようである。不思議な建物に逃げこんだ男を追うが、なぜ追うのか彼には解っているわけではない。迷路のようなその建物の内部で彼はいろいろなものを見るのだが、やがてそこにも白い仮面の男たちが現れ・・・。

 そして彼はベンチで目覚める。

 こうして無限に目覚めては殺されることを繰り返しながら、この事態の新たな手がかりらしきものが、そして彼自身の正体が次第にわかっていく。やがて知る驚くべき事実と、そのループから抜け出すためにとった彼の行動とは・・・。

 不条理映画だから結末も釈然としないし、だからどうしたのだというところだが、それを面白い物語と思うかわけが分からんと投げ出すか評価が別れるだろう。珍しいセルビア映画と云うのを見たということで、良しとしておこうか。

内館牧子『終わった人』(講談社)

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 長い読書スランプに入り始めた頃に読みかけたままになっていた。ようやく再び読み始め、読了することが出来た。

 東大を出て銀行マンとしてエリートコースを歩んでいた主人公は、まったく心外なことに途中でそのエリートコースを外されてしまい、傍系の会社へ役員として出向して定年を迎える。

 仕事人間だった主人公は定年後の生き方を模索するのだが、自分が仕事の意欲がまだまだ旺盛なことに気付く。しかし再就職の道は開けない。スポーツジムに通ったり、カルチャースクールに通ったりするが心は満たされない。カルチャースクールでは恋の如きものを経験して心ときめいたりする。

 妻は子育てを終えてから始めた美容師への道を生きがいにして、自分の店を持つ夢を叶えようとしている。夫にかまっているヒマはない。そんなとき、若い経営者から顧問として会社を手伝って欲しいという誘いがある。まだ規模は小さく、社員たちも若いが、調べてみると内容に問題はなく、自分が役割を担えそうであることを感じてそれに応じることにする。

 ここで主人公は心から生きがいを取り戻すことが出来、当初積極的に賛成していなかった妻も了解する。久しぶりの海外出張も経験し、会社は活気にあふれ、全てはうまく運んでいたのだが、好事魔多し。

 主人公に大きな責任を引き受けるかどうかの選択が迫られる。彼が選んだのは・・・、そしてその顛末は。意外な顛末に運命は二転三転する。

 定年後の男のものがたりと言うことで感情移入するところがあると思って読み始めて、途中でしばらく読み進められずにいたのは、主人公があくまで仕事が生きがいだと感じる男であり、私とは違うからだった。私だって仕事をしていたときは仕事に生きがいを感じていた。幸いなことに定年前の10年間は特に充実していた。

 しかし定年の60歳ですっぱりと仕事から離れた。理由はいろいろある。しかし定年ですっぱり辞めることは若い頃から決めていたことで、まったく悔いはないし仕事に未練もない。あえて云えば社会的な役割を十分果たし終えていないという思いはないことはないが、自力で老後を全うできるように心がけているつもりだ。

 仕事を辞めると、いろいろやりたいことを考えていても半年もすると息切れがして風船がしぼむように空しさが押し寄せてくるものだ、などと聞くことがあるが、いまのところ私にはそのような思いは全くない。強がりではなく、日々楽しいし幸せである。独り暮らしだから淋しく思うこともあるけれど、だから友達や子どもたちにときどき会うことに大きな喜びが感じられもする。満足である。

 主人公がリタイア後の自分の人生に一つの結論を見出して諦観をつかむまでの紆余曲折は、しかし思ったより面白かった。それだけお話として良く出来ているし、主人公の枯れ切れていない生臭さのなごりのようなものにいささか身につまされる思いもしたからだろう

 それが生きていると云うことなのだと思い、人それぞれの人生があるのだとあらためて思った。

2017年6月21日 (水)

開高健の『パニック』を読む

 先日開高健の評伝本『開高健--生きた、書いた、ぶつかった!』を読んで、久しぶりに手持ちの昭和文学全集の中に収められた『パニック』を読んだ。本当は『日本三文オペラ』や『裸の王様』、『流亡記』なども読みたかったのだが、全集に収められていないので残念である。

 小説の面白さを教えられたものとして、思いつくままに挙げれば、少年少女向けのものは別として、小学生時代で吉川英治の『水滸伝』、石坂洋次郎の『若い人』、柴田錬三郎の『孤剣は折れず』、中学生時代ではM.ミッチェルの『風と共に去りぬ』、芥川龍之介の『羅生門』、『地獄変』、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』、江戸川乱歩の『孤島の鬼』、そして開高健『パニック』と『日本三文オペラ』などがある。

 その中でも開高健は私にとって別格であった。

 ある地方都市周辺で笹の花がいっせいに咲いて実をつける。笹は通常は根を延ばしていくことで繁殖していくが、60年または120年に一度必ず花が咲き、そして世代交代する。そのとき栄養価の高い実を食べてネズミが異常発生することがある。研究者の予測をもとに主人公は役所の上司に強く対策を進言するのだがとり合ってもらえずに無策のまま年を越す。

 笹の実をたらふく食べて飽食し、雪の下で大繁殖したネズミたちは春になって飢えて暴走していく。もう笹の実はないのである。主人公達が思いつくさまざまな対策は後手後手に回り、被害が次第に深刻になり、ついに赤ん坊の犠牲者まで発生する。

 汚職まみれの上司の想像力のなさと無責任さに手をこまねくしかない主人公に同情し、上司や役所や代議士たちにわが事のように熱い怒りを感じる。上司の口臭の描写にはそれが臭ってくるほどである。事態はエスカレートして題名通りパニックになるのであるが、意外な結末が待っている。

 二重三重の人間の狡猾さに背筋が冷たくなる思いがする。主人公も実はただの正義の味方であるわけではない。そしてそれが世の中であること、人間社会であることをこの小説で教えられたのである。

殺すつもりはなかった

 殺人事件や殺人未遂事件の時にたいていの犯人は「殺すつもりはなかった」と言う。まれに「殺すつもりだった」などと犯人が言ったりすると、マスコミは大騒ぎで大々的に騒ぎ立てる。マスコミは普通ではない珍しいものにとりたててニュース性を感じるものであるから、それほどまれなことなのだともいえる。

 人の心の中など他のひとには解りようがない。明らかに殺意があったようにしか見えなくても本当に殺す気はなかったのかもしれないし、ほとんど事故にしか見えない場合でも実は殺す気だったこともあるだろう。「相棒」シリーズでもそんなテーマの話があってよくできていたから興味深かった。誰もが殺意を感じていないのに右京が誘導して最後に犯人が殺意を自発的に認めたが、認めたことが誰にとっても空しいことのように見える切ないドラマだった。

 ところで犯人が「殺すつもりはなかった」かどうかは殺されたり殺されかかった人にとって直接関係ない。事件の罪は同じである。ただ、罰を受けるときに殺意の有無が情状酌量に値するかどうか考慮されるだけである。

 問題は、「殺すつもりがなかった」ら、あたかも罪が軽くなったり、あるいはなかったことにされかねないことである。繰り返すがそれが認められても軽くなるのは罰だけである。マスコミの論調を見ていると罪と罰の区別があいまいで、殺意がないことが犯罪そのものをなかったことにしかねない危うさを感じる。それを承知で弁護士の中にはそれを利用して罰を軽くしようとし、さらには罪そのものを否定しかねないような人物も見受けられて恐ろしい。

 しばしば法律を破った人間が、そんな法律は知らなかったと抗弁して無実を訴えているのを見る。法律は知っていたか知らなかったで適用が変わることはあり得ない。人は社会的に地域や国の法律の枠内にあるのだ。そういう言い訳をする人間は必ずいるものだが、それが少数ではなく、大勢になると世の中の秩序は崩壊する。

 平然とそういう言い訳をする人間をみて、それでもいいのか、と真似をする人間が最も恐ろしい。それに歯止めのきいていない社会が恐ろしい。

村山早紀『桜風堂ものがたり』(PHP)

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 帯には2017年・本屋大賞ノミネート作品とある。この本は書店と書店員の話であるから、書店員が選ぶ本屋大賞には有利かも知れない。目利きで読み巧者の書店員が選ぶのであろうから、そんなひいきはしないか。

 書店というのがどんな役割でどんな仕事なのか、今どんな状況に置かれているのか、そしてそこで働いている書店員の巧拙と本に対する知識の優劣がどれほど違うものなのか、とても良く描かれている。

 本好きとしては(特に紙の本)、書店はとても大事なところである。街を知りたいと思ったら、その街の書店を探し、その書店のレイアウトと並べられている本を見る。本屋の少ない街の文化度は低いと私は断じてしまう。並べられている本が雑誌やコミックばかりなら長居はしない。レイアウトを見ればその書店の緊張感の有無を読み取れる。緊張感のない本屋はいくらたくさん本があっても値打ちがない。多分遠くない将来つぶれるだろうと感じる。

 小さな本屋でも、意外な発見があったりするととても嬉しい。本好きが出入りする書店は本もぞんざいに扱われないからきれいである。本を雑に扱う人間をみていると怒りを禁じられない。書店で子供が本をおもちゃにしているのを見るとつい叱ってしまう。そんな子供の親はたいていあまり知的に見えない。

 肝心のこの本の話から離れてしまったが、本好きならこの本を楽しく読めるだろう。主人公は中都市の百貨店の中の銀河堂書店という本屋の文庫コーナーをまかされている無口な青年だ。彼は書店で働くことに生きがいを感じているし、店長も同僚も本好きで善い人ばかりである。そんな彼がある事件をきっかけに銀河堂をやめることになる。

 そして失意の彼は、ブログがきっかけで知り合った桜風堂という地方の小さな町の本屋の店主を訪ねる。その店主から意外な頼みがあり、それは彼にとっては大きな喜びとなる。彼は再生する。彼が必ず売れると見込んだある本を中心に奇跡が起こる。

 とても楽しい本である。一つだけ残念なのは、主人公の青年の恋の行方がほとんど書かれないことである。二人のとても魅力的な女性からひそかに慕われているのに彼はそれを知らず、何も進展しない。最後までなにもないのは歯がゆいほどである。

 多分続編が書かれて、そのへんが描かれるのではないかと思うがどうだろうか。

 この作家の本をまた書店で探すことになりそうな気がする。窓口がまたひろがって収拾がつかないけれど、面白いから仕方がないのだ。

2017年6月20日 (火)

内田樹『内田樹による内田樹』(140B)

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 本の表紙に名前が三つもある。

 内田樹老師の本は100冊を超えて、本人も数えるのが面倒になったと前書きにあるが、この本が出版されたのが2013年だから今はもっと多いわけである。

 その数ある著作のうち、11冊を取り上げて8章に分けて解説しているのがこの本だ。解説は著者自身がするのが一番だという見方も出来るし、自分の著書をそこまで客観的に見ることが出来るだろうか、と首をかしげる向きもあるだろう。

 しかしもともと老師は自分の著書を他人の本のように読むことが出来ると公言している。だから自分の本を読んだら面白かったとしばしば書いている。私だって以前の自分のブログを見て面白いと思うのだから、分からないことはない。

 本そのものの解説のはずが、書いていたときより深化した見方で本の内容を補足しているのが面白い。ここにとりあげられた本はフランスの思想家でユダヤ人のレヴィナス(老師の、哲学科の教授としての研究テーマがレヴィナスなのである)に関連した三冊の著作以外は一度ならず読んでおり、私にはお馴染みである。レヴィナス関連の本は飛ばし読みしかしていないし、十分理解できていないので、この本の解説で多少はとりつきやすくなったかも知れない。

 全体としては、やはり教育問題に関する部分が最も力の入っているところで、繰り返しさまざまな言葉で意見が述べられており、教育についての熱い思いと現状に対する危機感が伝わってくる。そしてその解析から日本が、そして現代が見えてくるのである。

 内田樹の入門書としてこの本を読んでもいいだろう。比較的に彼の業績を網羅しているから適しているかも知れない。入門書を読んで、あらためてこの本の中にとりあげられた本を読んでも必ず得るところがあるのが老師の本の優れたところだ。

 老師は他人と同じことを書かないよう心がけていると云う。他人と同じことを書くならわざわざ老師の本を読む必要はないわけである。しかし世の中は他人と同じことを語る人や書かれた本であふれていて、みな良く飽きないものだと感心する。私のブログも同様である。何とか少しでも違うことが書きたいと思う。そうなるとつい自分自身のことを書いてしまうが、それは少しずるいのかも知れない。

 他のひとになるほど、と思わせるような切り口で物事を語れるようになりたいものである。それにはもう少し深く物事を考えないといけないのだけれど、直感で生きてきたからなあ。

 この本で取り上げられている本
『ためらいの倫理学』
『先生はえらい』
『レヴィナス序説』
『困難な自由』
『レヴィナスと愛の現象学』
『街場のアメリカ論』
『街場の中国論』
『日本辺境論』
『昭和のエートス』
『「おじさん」的思考』
『下流志向』

放送中止

 日本テレビが『バトルシップ』という映画を放映する予定だったが、中止したという。この映画にはエイリアンとアメリカ艦隊が戦うシーンがあり、先日のイージス艦とフィリピンコンテナ船の事故を連想させるからだそうだ。

 しばしば映画に現実の事件や事故を連想させるものがあると、公開が延期されたり中止されることがある。確かに犠牲者に対する配慮が必要なことがあるのは理解できる。しかしその事件や事故のことを、話題がホットなうちに映画やドラマにしたいという思いもあるだろう。話題狙いも、時には事件や事故を風化させないために必要なこともある。

 そもそも映画の扱う事件や事故が、なにかの事件や事故を連想させるのは当然なのである。まったく今までに類似の事例のない事件や事故はない。あるのは犠牲者の違いとその数だけである。

 それなら現実の事件や事故を連想させることを理由に放映を中止していたら、事件や事故のシーンのある映画やドラマは放送することが出来ない。戦争映画は間違いなく戦争を連想させる。それも放送を中止するのだろう。

 それにしてもエイリアンとの闘いという、これこそ前例のないものが事故を連想させるから放映中止とはどういうことだろう。フィリピン船籍のコンテナ船はエイリアンか。

 日本テレビはクレームがあることをそれこそ「連想」して配慮したのであろう。そのクレームに対するおびえは過剰というか異常である。それほどクレームが異常なのか、それともクレームに対する恐怖が自家中毒を起こさせているのか。

 マスコミの自主規制も限度を超えて、ほとんど戦時中の検閲に近いように見えてしまう。それを生んでいるのは正義の味方のクレーマーか、放送局自身か。

たまる

 本が好きだから読みたい本が多い。懐の許す範囲で面白そうな本を購入するが、読むよりも買う方が多いから、少しくらい処分してもどんどんたまる。

 少し大きめの状差しには三つポケットがあり、一つは手紙類、一つは領収書など、一つは公的お知らせで一時的に保管しておいた方が良いと思うものを入れているが、すぐ一杯になる。

 机の引き出しはそれぞれ入れるものを仕分けしているが、不要になったものの整理をしていないので、開け閉めに差し障りが出始めている。

 ゴミ袋は何よりもすぐ一杯になる。スーパーの食料品はたいていプラスチックのトレイに載っていて、中身を食べてもかさばるゴミが残るからである。

 不要なものがあふれて必要なものが見つからなくなる。

 何もかもたまる。たまらないのは智恵とお金だけ。

 明日から梅雨も本格化して雨が続くらしい。状差しと机の引き出しでも片付けようか。

2017年6月19日 (月)

汗をかく

 このところほとんど散歩らしい散歩をしていない。ほとんど家にこもって遠出もしていないから、汗をかくのは家の中を片付けたり掃除をしたり風呂に長いこと浸かって本を読んでいるときくらいだ。

 髪の毛も伸び放題でむさ苦しい。ひと月前くらいから床屋へ行こうと思っていたけれど、ちょうどそのころから花粉かなにかに反応しているらしく、やたらにくしゃみは出るわ鼻水は出るわ涙は出るわ目のまわりは痒いわで、床屋に行くどころではなかった。

 ところが数日前からぴたりとそれが止んだ。不思議なことである。そこで昼から、一駅となりの駅の近くの格安床屋へ出かけることにした。平日ならシニア割引もある。どうせ髪の毛も少ないし、どんな仕上がりになっても私はあまり気にしない。

 私の髪は月代を剃ったように真ん中がとても淋しい。床屋に行くとそれが自分の頭と思えなくて思わず感心してしまう。格安床屋は仕事が早い。髭を剃り、洗髪まで全てを含めて30分かからない。料金の安さよりもその迅速さが大変有難い。

 睡眠時無呼吸症候群の時は椅子に坐ったとたんに爆睡したものだが、格安床屋でそれをしたら迷惑になるけれど、今はまったく眠くならないから大丈夫である。

 さっぱりしたついでにわが家に帰らずに、地下鉄で名古屋の鶴舞公園の近くの古本屋を覗きに行くことにした。以前行ったことがあるのに場所が分からず、公園側に出てしまったのでウロウロした。ようやく二軒ほど古書店を発見。以前気にいったところとは違う気がするが、周辺を見まわしても見つからないのでそこで物色する。

 一軒は波長の合う本が少ない。全集本にちょっと食指が動いたが、重いのをかかえるほどの欲しさではなかったのでパス。もう一軒の方がそこそこいける。東洋文庫が床に積み上げてある。その下の方から、三冊ほど引っ張り出してレジのおねえさんのもとへ。

 鈴木牧之(すずきぼくし)の『秋山紀行・夜職草』、橘南𧮾(たちばななんけい)の『東西遊記』(全二巻)である。手に入れようと思っていた本だ。帰りの電車で両方の序文だけ読む、あやうく乗りこすところであった。

 汗もかいたし欲しい本も買ったし、満足である。それにしても歩く速さがとても遅くなっていることと、暑さがこたえてふらふらすることに愕然とする。これは少し暑さに体を慣らさないと、えらいことになると実感した。

 とにかく汗をかいたご褒美に、ビール!ビール!

みんなで渡ればこわくないか?

「赤信号、みんなで渡ればこわくない」、というのはビートたけしのブラックジョークだけれど、本当にみんなで渡ればこわくないのだろうか。世の中には赤信号で渡っている方が悪いのだ、とばかりに突っ込んでくる輩が必ずいる。何しろ青信号で渡る人間や歩道を歩いている子供ですら跳ね飛ばす輩がいる時代である。このジョークも通用しない時代になったのかもしれない。

 みんながしているから、と言う言い訳が通用せず、自分で考えないといけない時代になったのだともいえる。そのことは善いことでもあると思う私はおかしいのだろうか。

 ビートたけしが付和雷同する世相を皮肉って云っていることは承知である。

ミーハー

 新聞の購読をやめて数年になるが、一番寂しいのは週刊誌のCM欄を見ることが出来ないことである。通勤で電車に乗れば吊り広告を読むことも出来るが、いまはその機会もない。芸能ニュースは新聞下面の週刊誌の見出しの数々を読めばほぼ分かったつもりになれる。聖人君子ではないので興味はあるのだ。自分がミーハーであることは承知している。

 しかしテレビで芸能ニュースを見るのは嫌いだ。何しろあの芸能レポーターという方々が得々と語る語り口に嫌悪を感じるのだ。世の中の仕事に貴賤はないと理屈では承知していても、この世にこれほどの醜業はあるだろうか、と思うのである。それしか仕事がなくてそれをしないと生きていけないとしたら、死んだ方がマシとすら思う。芸能レポーターがベテランになるほど表情が下卑て見えてくるのは私の偏見に違いないが、そう見えてしまうのだから仕方がない。

 以前は日曜日の昼に放映される和田アキ子の番組を観た。これを観るとほとんど主要な芸能ニュースを知ることが出来る。微に入り細を穿ち、言えないことを言えないこととして、生放送の中で身内話をにおわせるながら話題にするのを楽しんでいたけれど、和田アキ子にも飽きてきたので観るのをやめた。

 今朝、ネットを見て目についた芸能ニュースについて。

 あの17歳淫行事件で騒がれている小出恵介が、芸人を暴行していたというニュースがあった。どれほどのことかと思えば、泥酔して呼びつけた芸人に暴言を吐き、絡んだという程度の話のようだ。ただ、相手が抵抗したり向かってこないのを見越した上での、プライドを無視した言動であったのだと想像される。そんな人間はいつか世の中から排除されるのは当然で、淫行事件はきっかけにすぎないことが分かった。小出恵介がでるドラマをいくつか観たけれど、そんな俳優とは思わなかった。もちろんドラマの役柄を観ているだけだから分からないのは当然なのである。

 もとSMAPの草薙、稲垣、香取(以下敬称略)の三人が九月を以てジャニーズとの契約満了となるらしい。NHKでも例によってうだうだとこのことを報道していた。馬鹿ではないか。これからこの三人は自分の実力で生きのびていくしかないのであるが、ジャニーズ事務所に慮ってかれらを起用しないテレビ局は多いだろうから、ゼロからの出発ではなく、逆風の中のマイナスの旅立ちである。大変だろうがそれが彼等の糧になることを祈る。

 むかしはSMAPが好きだった。キムタクの整った顔にも好感をもっていた。まず中井がなんとなく虫が好かなくなり、年齢を経ても子供じみている香取にうんざりし、だんだん顔に品性の失われていくキムタクが嫌いになった。木村拓哉は演技が評価されることもあるようだが『武士の一分』で初めて観て、学芸会以下の演技で映画をぶちこわしにしていた。そこには役柄ではなく、木村拓哉しか居なかったのである。だから彼の出演する他のドラマや映画は絶対に観ない。

 今は稲垣吾郎、草薙剛の両君の個性が芸能界で生かされることを願うばかりである。

 和田アキ子が泰葉に逆襲するのではないか、と云う記事を見てなにごとかと思ったら、泰葉を番組内で批判した和田アキ子に対して民事訴訟を起こすと公言したことに和田アキ子が激怒しているという話であった。ある程度の知識のある人なら、泰葉が精神を病んでいるらしいことは分かっているだろう。小朝もずいぶん苦労したに違いないと同情する。病人のためを思えば違う接し方があっただろうが、小朝も芸人である。出来ることと出来ないことがある。ずいぶん忍耐した末のことだっただろうが、理由を明らかにして言い訳しないのは彼の矜持であろう。

 泰葉の言動をまともに取り上げるのは彼女の妄想につき合うことで、芸能リポーターには面白いかも知れないが、常識人のなすべきことではない。彼女が可哀想だと思うのは、母親に原因を感じてしまうからかも知れない。事実を何も知らないので、このように感じるのは間違っているのだろうが、しばしばこの病には身内の対処が関わることが多いからである。

 ミーハーぶりをつい披露してしまった。

2017年6月18日 (日)

ナイトメア

 好きなドラマがつぎつぎに終わる。あまり続くと飽きてしまうからそれで好いのだが、「リゾーリ&アイルズ」シリーズのように第7シーズンになっても続いて欲しいと思うドラマもある。これも今回始まったばかりのこのシーズンで終了である。

 「ナイトメア 血塗られた秘密」と云うゴシックホラーのシリーズが第三シーズンを最終章として終了した。録画して録りためていたその第三シーズン全9話を一気に見た。

 ナイトメアとは悪夢のことである。もともとは悪霊である夢魔が睡眠中の人の上に乗って息苦しくさせて悪夢を見させることを言うのだそうだ。

 物語の舞台が世紀末の霧のロンドンなので、てっきりイギリスのドラマだと思っていたが、アメリカのドラマなのである。ただし、制作はロンドンやダブリンで行われているからテイストはイギリスのゴシックホラーそのものである。

 見た人は分かっているからくだくだしい説明は不要だし、こういうのに興味のない人、嫌いな人にとってはもっと不要だろう。それでもこのドラマのことが書きたくなるのは、この拙い説明でも「ああ、観れば良かった」と思う人がいるはずだからである。

 なまじな映画でも見られないようなセックスシーンがある。テレビでこんなの放映して良いのだろうかという気もするが、良いのである。主演のエヴァ・グリーンは役柄が乗り移ったような鬼気迫る熱演で、とても強い精神力ととても脆い部分を併せ持つ不思議なキャラクターを完璧に演じている。彼女なしではこのドラマはあり得ない。

 第一シーズンでは悪魔と闘い、第二シーズンでは魔女を倒すのだが、第3シーズンの今回の敵はドラキュラである。そのドラキュラが、実はルシファーと共に天国から追放された堕天使であるとされている。つまり悪魔のひとりであり、この世を暗黒の世界にするためにヴァネッサ・アイヴス(エヴァ・グリーン)の愛を必要としているのだ。ヴァネッサが愛するイーサン(ジョシュ・ハートネット)に去られ、家族と思っていたマルコム卿も去り、一人ぼっちになってうちひしがれたヴァネッサはその心の弱みにつけ込まれていく。

 魔女や吸血鬼、狼男にフランケンシュタイン博士、さらにそのクリーチャー(普通はこちらがフランケンシュタインと誤解される)、あの永遠の生命を持つドリアン・グレイ(『ドリアン・グレイの肖像』の主人公)まで登場するのだ。今回は端役でジキル博士まで登場した。

 今までのシーズンはほぼロンドンが舞台だったが、今回のシーズンではイーサンの故郷であるアメリカの砂漠地帯のシーンが多い。イーサンの凄まじい秘密が全て解き明かされる。これこそが彼がヴァネッサの元を去った理由なのである。

 アフリカへ探検に出かけていたマルコム卿の危機を不思議な男が救う。彼はアパッチ族の最後の生き残りであり、イーサンとは深い関わりを持つ男で、マルコム卿をイーサンのもとへ導く。

 拡散していた仲間たちがついにヴァネッサのもとへ集まったとき、すでにロンドンは暗黒の世界となりつつあり、疫病は蔓延し、夜の獣たちが人をつぎつぎに血祭りに上げていた。

 ヴァネッサは救われるのか・・・。

 エヴァ・グリーンはいろいろな映画に出演しているが、特に印象的なのは『007カジノロワイヤル』でジェームズ・ボンドの奮闘空しく、ヴェネチアの水底に沈んでいくあの美女だといえば分かるであろう。あの神秘的な大きな瞳はインドか中近東の美女を思わせるが、フランス人である。

 忘れられない大好きな映画に『ラスト・オブ・モヒカン』がある。少年の頃、原作(抄訳)を読んでいて、それを映像化したこの映画になつかしさと震えるような感動を覚えた覚えがある。あのときの主演のダニエル・デイ=ルイスと彼を宿敵として付け狙うインディアンを演じたラッセル・ミーンズが強烈に印象に残っている。

 そのダニエル・デイ=ルイスとマルコム卿を演じたティモシー・ダルトンがどことなく似ている気がしている。しかもアパッチ族の生き残りで重要な役回りをする役者(俳優名が分からない)がラーせる・ミーンズにそっくりなのである。

 ドラマとは関係ないけれどストーリー的なキャラクターとしては無関係でもないような気がしている。アメリカで西部開拓という名のどれほどひどい殺戮が行われたのか、それを知っているからである。そういえば先日アパッチ族の最後に関する古い映画を二作ほど観たばかりだ。

 なんだか話がとりとめもなくなったが、世紀末(もちろん19世紀末)という時代が、やがて20世紀という科学の時代への幕開けにつながり、闇がこの世から失われていくことをこのドラマは伝えている。そのことは悪いことではないと思いたいけれど、人の心の闇は却って深まったのかも知れない。

水不足よりも

 韓国で降雨量が少なく、水不足の深刻な地域があるというニュースを見た。天候は人為的な力では遺憾ともしがたいことだけれど、韓国が砂漠化するほどの事態ではないはずで、それが今後も長期にわたるものとも思えず、いつかは解消するときもくるだろう。

 記事によればその水不足よりも深刻なのが、水不足によって住民のいがみ合いが生じているらしいことだ。古来水争いは流血の騒ぎになることもあり、それをエスカレートさせないためにいろいろな社会的な仕組みが作られて来た。

 記事は水不足の深刻さを伝えるためにことさら水をめぐるトラブルを列記しているのだろうが、その様子はどうもそのような社会的な仕組みが機能していないのか、そもそも韓国のその地域にはそのような仕組みそのものがないかのようである。

 近所の人が来ていたときに食器を洗っていたことを咎められたり、干上がった畑に自分の生活用水をまいていたら、他の住民が水田に水がないのに畑に水をやっていたとして喧嘩になったとか、地下水の豊富な地区で大型の井戸を掘ることを当局が許可したら、その地下水が別の地区の水脈につながっているとして争議になり、許可が取り消されたとか。水不足は天候によるものとして我慢するしかないが、自分だけが損をしていると思い込むと怨みが生ずる。

 このような争いが、水不足が解消したあとにも禍根を残すことがあると、水不足以上に恐ろしい気がする。何しろ日本人のようにあきらめの良い人間よりも、韓国人は怨みを忘れない人間が多いらしいから。そしてその怨みの矛先を誰かに向けるのが得意な国だから。

疑心暗鬼

 まことに不思議なことに、迷惑メールやスパムコメントの数が周期的に増えたりなくなったりする。対策をしているので実害はないが、何らかの悪意が働いているのであれば恐ろしい。その周期があることと関連しているので、もしそこに関係があるのであれば(だんだんあるような気がしてきている)いやなことだと思っていて、それが払拭できないだけでなく、だんだん確信につながりつつある。

 どうもそのような知識とテクニックのある人が関わっているのではないか、などと疑心暗鬼にとらわれ始めている。そんなこと思い当たる人に聞くわけにはいかない。認めるはずはないし、もし違ったときには激怒するか、してみせるだろう。

 私の思い込みであるのがどうか、だから解明する手立てがない。

2017年6月17日 (土)

『子連れ狼』

 私は小池一雄原作で小島剛夕画のこの劇画を学生時代にリアルタイムで読んでいた世代である。小島剛夕の劇画はそれ以前にもいろいろな作品でなじんでいた。ペン画ではなくて筆で書いていたのだと思う。独特のリアリズムがあった。

 映画化は1972年から始まり、全部で六作作られたようだ(少し前にWOWOWの時代劇特集で一気放映された)。映画館で観た記憶があるが、全ての作品を観たかどうか記憶が定かではない。

 テレビでは萬屋錦之介が子連れ狼こと元公儀介錯人・拝一刀を演じていたが、私にとっては最初に映画の若山富三郎の拝一刀が刷り込まれている。劇画の絵面から云えば、萬屋錦之介がイメージに合うけれど、殺陣の迫力と剣捌きは若山富三郎が優れているし、血潮がふんだんに振りまかれて手や足がばらばらと切り払われ、胴が切断されるシーンが満載の、映画のほうに分がある。

 若山富三郎の体術と剣捌き、特に納刀の見事さは他に比べる者がいないほどである。居合いのシーンではこの人の右に出るものはない。弟の勝新太郎の座頭市の居合いの見事さとは違う、本当に斬るときの剣の重さが感じられるのだ。

 若山富三郎を初めて見たのは彼が演じた中村半次郎のテレビドラマであった。東京12チャンネル、今のテレビ東京で長期間放送をしていた。薩摩での芋侍の時代のむさ苦しい姿と凄腕の居合いの技に目を見張った。やがて西郷隆盛たちと京都へ出て暗殺を繰り返す鬼気迫る姿と、飄々としてしかも稚気あふれる愛嬌を併せ持つ役柄を演じて不思議な魅力があった。あんな姿で美しい女性にもてるのが不思議でもあり、うらやましくもあったりしたものだ。

 ここ数日で全ての作品を見たけれど、血まみれシーンが満載であると同時に女優の乳房丸出しの裸のシーンも満載である。どうもそれをあまり記憶していないのは不思議なことである。女武芸者やくノ一が女体を武器にするのはお約束なのであろう。ああいうシーンはその場限りで忘れるものなのか。

 敵の数がどんどん増えていくにしたがって、息子の代五郎の乳母車が戦車みたいに武器満載になっていくのは、拝一刀が如何に超人的な戦闘能力があるといっても限界があり、仕方のないことなのであるが、だんだん漫画チックになる(もともと漫画だけれど)。

 面白いのは敵の首魁の裏柳生総帥、柳生烈堂が毎回のように配役が替わっていることで、最初が伊藤雄之助で、遠藤太津朗、そして大木実が演じている。まあ顔面が白い髭やら何やらで覆われていて元の顔がほとんど分からないから、誰でも好いのであるが。

 けっこう有名な俳優が使われているのに、出てきたとたんにあっさりと拝一刀に斬り殺されてしまうのが驚きである。そんなこんな、楽しい時代だった。映画を作る方も演じる方も体を張って危険なシーンを演じながら、しかも楽しんでいたような気がする。

 チャンバラ映画、好きだったなあ。

ぐるぐる廻る

 本を読むのに集中していたら、ドラマや映画をまるで観ることが出来なくなって、録りためたものがあふれ出した。そのドラマや映画を見始めたら本が読めなくなっただけではなくて、ブログを書く余裕がなくなった。それぞれを適度に配分すれば良いのだが、今は極端から極端に走っている。

 ネズミ花火のような状態にいると云うことで、ブログに気持が集中できない言い訳を。

2017年6月16日 (金)

いきいき人生クラブ

 家に帰り、PCを開いたら、遠方よりメールが届いていた。
「十年前、私は、ゆるやかに死にいく父を見送りました。寝たきりで八年間苦しみ、最後、吸った息を呑み込んだまま、死にました。八年のあいだ、彼の体を洗い、寝返りさせていたのは私でした。壊死していく体を持ちながら死ねない父を、ずっと見ていたのも私でした。
だから私はある考えに行きつき、「いきいき人生クラブ」を結成いたしました。みなさんには、こうなったらもう生きていたくないという状況を洩らさず、詳細に書き綴っていただき、会員同士でそれを実行し合うのです。会員がひとり減れば、新会員をひとり見つけます。これは秘密結社なのです。
ご安心下さい。当クラブには医者、弁護士などが参加しており、決して殺人罪などで起訴されることはありません。もちろん、ご家族には秘密です。知られてしまったら、ことですから。」
返事を書く---
 申請書をお送り下さい。

 今、龍應台(りゅうおうたい)と云う人の『父を見送る』(白水社)という本を読み始めている。龍應台は台湾の女流作家。日本で出版された前作、『台湾海峡 一九四九』が素晴らしい本だったので、一年ほど前にこの本が目について購入して数頁ずつ味わって読み進めている。そこから一部を抜粋したのが上の文章である。

 どこまで本当の話かそれとも彼女の想像か分からない。そんな話が無数に散りばめられた不思議な本である。外省人である彼女が父親とどのような苦労をしたのか、そして大陸に残された母親が晩年をどのように過ごしたのか、自分の幼少の時の原風景と共に詩のような文章が綴られている。読み終わるのはだいぶ先になると思うが、そのときにはあらためて紹介するつもりである。

 探してでも読む値打ちのある本ですよ。

«『西遊記』に関連して

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