2017年4月29日 (土)

八つ当たり?

 トランプ大統領は就任100日を迎えているのに、なかなか自分の思い通りに政策が進まないことに焦っているのかも知れない。優先的に進めようとしている政策が無理のあるものばかりだから仕方がないけれど、自分に投票した人たちに対する約束の履行でもあるから、いちおうは前に進めなければならない。やはり無理か、仕方がない、と支持者が思ってくれれば良いが、そういう状況を見て理解するような人はそもそも支持者にならなかったのではないか。

 その焦りから来る八つ当たりの向け先がいまは韓国かも知れない。THAADの配備費用は韓国が払え、とトランプ大統領が言ったというので、韓国では大騒ぎだという。今回の設置費用はしめて1100億円ほど。全部を払うことにはならないとしても、国家予算にゆとりのない韓国としては痛い出費である。マスコミや有識者はいっせいに、THAADを提案したのも要望したのもアメリカであって、それを韓国は「認めてやった」のであるからアメリカが全額持つのは当然との主張のようである。

 あのいつもは韓国の新聞としては冷静な朝鮮日報までが、トランプ大統領は「狂人理論」で韓国次期政権に圧力をかけた、とおかんむりである。しかしトランプ大統領にしてみれば、北朝鮮から韓国を防衛するためのTHAAD設置であるから韓国が支払うのは当然と思っているのであろう。それにこのような緊迫した事態でも韓国の北朝鮮暴発に対する危機感のなさはアメリカでも報道されているから、ますますイラついているのだろう。こんなに自分が苦労しているのに韓国は何を考えているのだ、というわけである。

 トランプは外交もディール感覚で行うから、韓国はアメリカとの交渉テーブルに何を乗せているのだ、と不審を感じているだろう。韓国はディールの意味が分からないようだ。トランプに「ただ」はあり得ないことが理解できないらしい。

 トランプは韓国と結ばれているFTAは「ぞっとする」と言ってのけた。「韓国にとって素晴らしく、アメリカにとってはひどい協定だ」と述べ、今年の韓米FTA締結5周年は見直しのいい機会だからすぐにでも見直しを行いたい」と語ったという。

 韓国の国内では韓米FTA協定は韓国が譲らされたことばかりで、あまり韓国に利がないという声が多いが、それでもトランプにはアメリカにとって不都合だというのである。「ぞっとする」のは韓国の方だろう。

 そのアメリカと交渉する権限のある国家元首が決まるのは5月9日である。韓国国内の気持ちに添った政策を打ち出さなければ当選はおぼつかず、韓国国民の心情に沿いすぎればトランプ大統領からさらに厳しい仕打ちを受けることになるだろう。中国も韓国を相手にせず、ますますいじめにかかっている。朴槿恵ひとりに罪をなすりつけても何も事態は解決しない。

 本当に世界というのは弱みを見せるととことんいじめられてしまう恐ろしいところのようだ。グローバリズムなどいいから、内向きにささやかに生きる方が幸せかも知れない。八つ当たりが日本に向かないように願う。いざとなればまた鎖国でもするか。

処分ではなく廃棄?

 このニュースについては他にも書く人があるかもしれないが、備忘のために書き記す。

 京都大学教授でフランス文学者の桑原武夫氏(昭和63年物故)の蔵書一万冊あまりが、寄贈先の京都市によって廃棄されていたことが明らかになった。経緯についてはいろいろとニュースで報じられているけれど、気になるのは「廃棄」されたと報じられていることである。処分なら古本屋などへ払い下げられた可能性があるが、廃棄とは文字通り捨てられたと覚しい。つまり散佚して誰かの手に渡った可能性がなく、この世から消滅したと云うことであろう。

 本好きの人が死んだ後に蔵書の処分に困って地元の図書館などに寄贈を申し出ることが多い。ところが図書館も収納場所が満杯のところが多く、ありがた迷惑であると聞く。図書館は収蔵図書の利用率を気にする。図書館でベストセラーを借りる人が多いからどうしてもそのような本を棚に並べることになる。

 入手困難だったり高価な本を揃えることも大事な図書館の役割だが、そのような本は利用率が高くない。今回桑原武夫氏の本が廃棄されたのはその利用率が低かった故であるという。桑原武夫氏は存在が知られない貴重なものも多数集めていたようだ。となればその目録を明らかにして公知に務めれば利用率も上がったかも知れない。

 驚くべきことは桑原武夫氏がどんな人か知らない人が廃棄した図書館の責任者(右京中央図書館の女性副館長)であったことだ。もし知っていれば廃棄を躊躇して遺族に問い合わせくらいはするだろうし、もし承知しながら廃棄したならずいぶんなことだ。遺族は連絡を受ければ引き取り先のあてはあったのに、と言っているという。

 目録は作成したらしい。目録があるから廃棄していいと判断したという。本好きの人間には信じられないものの考え方だ。たぶん電子書籍ファンなのだろう。本好きにとって本は現物なのである。日ごろ膨大な本の山にうんざりしていたと思われる。そういうひとを図書館の責任者にしては本が可哀想だ。

 私は桑原武夫氏について詳しくは知らない。ただ、彼が交遊した人たちが彼を敬すること山の如しであり、梅原猛や梅棹忠夫、上山春平、鶴見俊輔を世に出したという功績は大きい。

 功績に加えて、何より私が尊敬する史学者の桑原隲蔵(くわばらじつぞう)氏のご子息であるという事実もあり、いささかの本好きのひとりとして、今回の事件には心が痛んだのである。

和田秀樹「『損』を恐れるから失敗する」(PHP新書)

 人間は得をしたときのよろこびと、損をしたときのかなしみとどちらを強く感じるか。比較しようがないように思えるかも知れないが、心理学的実験をして統計を取ることでそれが可能であり、その結果損に強く反応することが分かっている。

 人は利益を得ることよりも損を回避する方に行動する傾向がある。これだけで思い当たる人も多いことだろう。

 アメリカのダニエル・カーネマンは「行動経済学」でノーベル経済学賞を取った。彼は心理学者である。そしてその行動経済学というのは、まさに上に上げたような人間の行動が経済にどう反映しているかを分析したものなのである。

 そしてその「行動経済学」を分かりやすく説明しながら、具体的な実例に則していろいろな社会現象をその切り口によって分析して見せているのがこの本である。

 個別の具体例を挙げていけばとても理解しやすいけれど、それは本文を見てもらうほうが良い。興味深いところを挙げると、日本のニュースが横並びであることの理由が絵解きされている。テレビ番組の質を下げると視聴率が下がる理由、バブルが拡大した理由、デフレが解消されない理由、叱った方が伸びるか褒めた方が伸びるか、コンコルド効果について、振り込め詐欺のテクニックの心理的分析等々。それがほんの一部で、たくさん面白いネタがある。損をしたくない人が規制緩和に反対する、と云う言葉には大いに納得した。

 もちろん世の中はこんな切り口ですべて説明がつくものではないが、結構切れ味が鋭いので、応用が利きそうだ。

2017年4月28日 (金)

コリア・パッシング

 韓国中央日報は「アメリカと中国の合意に韓国がない」というコラムを掲載した。

 習近平主席とトランプ大統領の会談で、両国の対北朝鮮政策の合意はこのようなものであっただろうという推察が書かれている。アメリカが武力行使に踏み切らずに現状維持を認め、中国を為替操作国と認定しないという条件のもとに、中国は北朝鮮に対して制裁を強化し、実行するというものだろうという。

 その推察はおおむね妥当だろう。

 中国の環球時報は「北朝鮮が核実験を強行すれば、中国はアメリカの北朝鮮に対する先制攻撃に反対しないという選択肢もある」と北朝鮮に警告している。それに対してコラム子は「先制攻撃は韓国に対する北朝鮮の報復攻撃を招き、報復攻撃は韓半島の全面戦争を意味する。決して中国が受け入れるものではない」としている。

 さらにコラム子は今後について、最終的な落としどころは現在北朝鮮が保持していると見られる20発ほどの核爆弾をこれ以上増やさず凍結し、北朝鮮を会談のテーブルにつかせて現状の維持を図るというものだろう見ている。これは北朝鮮は核保有国であることをアメリカが認めることにつながるから北朝鮮はその抑止力を保持することで満足し、中国も現状維持できることで満足する。アメリカも北朝鮮の核の脅威を押さえ込むことで満足するというシナリオだ。

 ここでコラム子が怒っているのか嘆いているのか「この落としどころでは韓国には何のメリットもない。ただ戦争が起こらないというメリットだけだ」と云い、「アメリカは力を誇示してアメリカを北朝鮮の核の脅威から守ることしか考えていない」と断ずる。

 その通りである。いままでもそうだし、これからもそうだろう。アメリカが韓国のことを最優先に考えたりしないことは、韓国が自国よりアメリカのことを優先しないことと同様である。それこそ韓国を優先してもアメリカにはメリットはあまりない。

 コラム子は「ただ戦争が起こらないメリットだけだ」という。そして当事者の韓国を無視して合意していることをコリアパッシングと見做して非難している。

 パトリック・ウォルシュ元アメリカ海軍太平洋艦隊司令官は27日にソウルで記者会見して北朝鮮のサイバー攻撃について警告を発した後、2010年に起きた韓国哨戒艦「天安」爆沈を例に挙げ、「すべての証拠によりこの事件は北朝鮮によって引き起こされたことが明白だったのに、事件の後に韓国人は原因は別にあると信じていることを知り衝撃を受けた。いまのように韓半島が危機的状況がある場合、北朝鮮への警戒はもっと徹底しなければならない」と苦言を呈した。

 いったん有事になれば韓国は甚大な被害に遭うことは明らかだから、戦争が起こらないメリットは計り知れない。コラム子の感覚が理解できないのは私が頭が悪いからだろうか。それともコラム子の想像力が私ほど妄想的ではないからだろうか。
 
 韓国人は、同じ民族の上に原子爆弾を落とすはずがない、と心の底から信じているとしばしば聞く。だから原子爆弾はアメリカに、もしくは日本に向けてだけ使用されるものと思っているそうだ。その延長として北朝鮮が韓国を攻撃することもないと考えているのだろうか。想像力が欠如しているように見えていたけれど、実は想像力が私などよりも豊かすぎるのかも知れない。

笑ってばかりもいられない

 韓国の急行電車の漏電遮断器の装置で火災が発生して列車が停まる事故が相次いでいるという。調べたところ、運営会社が遮断器の修理をまともに行っていなかったことが判明した。従来から遮断器の故障が起きていたが、運営会社がガムテープで応急処置を施すだけで放置していたため、異常電力が流れて火災となり、列車が停止する事態となったのだ。

 ガムテープが外観上美観を損なうなどと考えて、上からグレーのペンキが塗られているところもあったそうだ。それなりに気を遣ってはいたのだ。

 韓国の安全軽視のお粗末さは次々に露呈して、驚くよりも呆れる。韓国の人々も大いに嘆いていることだろう。日本人はそれを見て「またか」と笑っていていいのだろうか。

 東日本大震災で生じた原発事故の被害は比較するものがないほどの取り返しのつかない甚大なものだった。韓国人から、「安全軽視を笑う資格が日本人にあるか」と問われたら答えられるか?原発事故の責任はいまだに正しく問われたように見えない。それは再び三度の未来の事故につながっている。堂々と笑えないことが口惜しい。

「日本はなぜ再び中国を敵視するようになったのか」

 ネットニュースによれば、中国メディアが、小渕首相時代は日本は親中政策をとっていたのに「日本はなぜ再び中国を敵視するようになったのか」という記事を掲載したと云う。それを見て驚くと共に、どんな理由だとしているのか興味をもった。

 記事では「政治家の考え方」と「日本国内の一種の空気」によるものだと説明している。この「一種の空気」は自国の政治や経済に失望した日本人が「新型の鬱病」を患うようになったことから生じているそうだ。

 日本国民はその病気による苦しみから逃れるために「社会の敵」を探し求めるようになり、「ゆとり教育」や「官僚」を犯人と見做すようになった。さらに尖閣諸島を国有化したことで「中国を日本社会の敵と見做し、苦悶のはけ口とするよう強制された」のだそうだ。これはアメリカに抑圧されていた日本人の愛国心に訴える力があったので、日本人の心にコントロール不可能な「空気」が生ずるにいったと結論づけている。

 うーむ、理屈づけはなかなかうまくできているではないか。

 しかし日本人が「新型の鬱病」なら、この記事を書いた中国人は事実を認識できない「中国風土病的認知症」で「重度の健忘症」ではないか。その理由を挙げろといわれればお返ししてもいいが。

 それにしてもこんな与太記事を書くということの背景には、最近の日本人の多くが中国を嫌っていることが、中国人には気になっているということの表れであろう。できれば嫌われたくないと思うのはお互い様である。ただ、どちらがより嫌いあう原因となっているかは自明だと思うけれども、そう思いたくないのかも知れない。自分に非があると認めることを死ぬより嫌う国民だから。

2017年4月27日 (木)

飛水峡

昨晩は寝そびれて夜更かししたので朝久しぶりに二度寝した。おかけで爽快。


雑用をすませてからドライブに出かけた。今月は愛車を少ししか動かしていないので、機嫌を損ねても良くない。いざというときの遠出で嫌がらせでもされたら大変だ。

飛水峡の写真撮影、お茶がそろそろ残り少なくなってきたので美濃白川の白川茶の買い出し、そして前回飲んでそこそこ旨かった「蓬莱」という日本酒の買い出し、さらに前回パスした日本最古の石を展示している「ロックガーデンひちそう」の見学が目的である。

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飛水峡は七宗町にある。七宗町は「ひちそうちょう」と読む。だから「ロックガーデンひちそう」なのである。

飛騨川は雪どけの水で水量が多く、薄曇りなのでコントラストが強すぎなくてちょうどいい光加減であった。

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なかなかの絶景なのだが、車をとめて写真を撮れる場所が限られているのでいつも撮り損なう。前回目星を付けておいたので今回はそこそこの結果だったと思う。

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日本最古の石はこの辺りで採取されているはずで、この褶曲した地層は激しい造山活動の痕跡を示している。だから古い石も表出するのだろう。

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やや青みがかった石がたくさんある。晴れて石が乾きすぎると白っぽくなってこの色合いが分かりにくい。

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こんなふうに切り取るとなかなかいい。車窓からではなかなか見るのは難しい。

このあと美濃白川の道の駅「白川ピアチェーレ」でランチを食べる。ここのレストランは道の駅の中ではナイフとフォークで食べる本格的な洋食の食べられるところだったけれど、いまは箸で食べる当たり前のランチになってしまった。しかし味はとても良い。お気に入りの場所である。

ここで白川茶と日本酒「蓬莱」とハムとソーセージを買う。以前はこの道の駅の裏手でハムを実際に造って販売していたのだが、いまは日帰り温泉になっている。だからハムやソーセージは本格的なもので旨い。もちろんゴールデンウィークに帰省してくる息子やどん姫と飲む酒のつまみにするのだ。

最後の目的地のロックガーデン」に行くために道を戻る。

ところが残念なことに本日は休館日であった。石を撮影するのはとても難しい。暗いしその美しさが旨く写せないのだ。しかもきれいな珍しい石はガラスケースに入っているからなおさらだ。それとこの石の博物館には隕石のコレクションがあってそれを眺めて宇宙に思いを馳せるのも楽しいのだが。

又来ることにして帰路についた。

ドライブしたお陰で多少屈託が晴れた。



思い込み

 勘違いするはずのないことを勘違いしていた。自分だけのことならかまわないが、他人が関わることだったので気がついたときにすぐ訂正した。誰にも迷惑をかけないうちに対処できたのはさいわいだった。

 思い込みによる勘違いは、そう思いたい気持ちから起こる。とはいえ、そう思いたいからといってこんな勘違いをしたことはなく、自分が信じられない思いがする。

 人間はうっかりすることがある、と云われても慰めにはならない。どうなってしまったのだろう。どうなっていくのだろう。

2017年4月26日 (水)

決まり文句の謝罪は自覚のなさの表れか

 今村復興大臣は辞任及び謝罪会見の中で、「国民に多大なご迷惑をおかけして・・・」という言葉を挟んだ。国民のほとんどの人が、今村氏から迷惑をかけられたなどとは思っていない。ただの愚か者と感じただけである。不愉快を感じさせたことを迷惑というのか。本当に迷惑をかけた相手は他にあるだろう。

 迷惑をかけたのは自民党と安倍首相に対してであって、国民に対してではない。マイクを向けられれば決まり文句のように「ご迷惑をおかけして・・・」という。決まり文句での謝罪は、実は何も謝罪する気がないことを国民はみな分かっている。謝罪にならない謝罪は無意味なだけで、彼には事態を理解する能力が欠如していることを明らかにしてしまった。

 派閥の長である二階氏は「マスコミは言葉尻を捉えて辞任に追い込もうとする!」とマスコミを批判していた。この人ももう終わりだろう。マスコミがそういうものであることをいまさらのように批判してどうしようというのだ。そんな自明のことを前提にして発言することもできないのなら、政治家を辞めたらいいのだ。それともトランプ流で行くのか。その覚悟もないのに偉そうに言うべきではない。自民党政権を損なうだけではないか。

 ここで決まり文句を言うのも恥ずかしいが、奢るものは久しからず、を見る思いがする。

 国難が迫っているかも知れない時期に、こんな愚か者の失言を元に国政が騒然とすること、そのことは国民には大いに迷惑である。その自覚はあるのか。その責任を今村氏はとれるのか?

住野よる「君の膵臓をたべたい」(双葉社)

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 2016年度のYahoo!検索大賞受賞。年間ベストセラーのこの本は、店頭で見ていていつも気になる本だったのだが、題名が今ひとつ引かせるところがあって、買うまでに至らなかった。

 先日第三作(著者はその前にもたくさんネット小説を書いているけれど、メジャーデビューしてから三作目)の「よるのばけもの」を読んで、一作目、二作目が読みたくなった。この「君の膵臓をたべたい」はその第一作なのだ(第二作は「また、同じ夢を見ていた」)。

 帯に読者の賛辞として、再読三読に値する、泣いた、と云う言葉が連ねられている。

 読み出してしばらくは淡々と話が進行していくので、主人公である「僕」の気持になかなかシンクロしないもどかしさが感じられた。「僕」は高校二年生であり、私は初老の男であるからかと思ったけれど、気がついたら私はいつの間にか「僕」になっていた。「僕」の目で見、「僕」の心で感じていた。

 「僕」は臆病であるから人と関わることの面倒を恐れ、誰とも交わらずに独り黙って本を読む少年だ。それは私自身の高校生のときそのままである。たぶん本が好きな多くの人、この本に感激する人々は本好きな「僕」に自分自身を見た思いがしたことだろう。

 この本は、そんな「僕」がヒロインの「咲良(さくら)」と出会うことで経験する一夏の物語である。賛辞を連ねた人々がみな、泣いた、と書いているから、天邪鬼な私は泣くものかと思って読んでいた。最後には恥ずかしながら目元を拭っていた。だってそのとき私は「僕」だったから。

 こんな魅力的なヒロインとの出会いは「僕」にとって幸せだったろう。私は本で出会っただけだけれど、幸せになることができた。この本を読んだ人はそう思うことが出来ると思う。

 今年映画化されるそうだ。この本を読んだ人が原作から抱いた「僕」や「咲良」のイメージを損なわないものなら良いが、と思う。

そう思っていても言わない

 今村復興大臣が辞表を提出した。東北大震災が「東北で良かった」と失言したことの責任を取らされたのである。復興の責任者がこんな人物では、震災被害を受けた人々はやりきれない思いだろう。

 大震災が東京や大阪の直下で起きれば、その被害を受ける人数は一桁も二桁も多くなるし、経済的な被害も計り知れない。そういう計数的な面からの比較の意味で「東北で良かった」と云ったのであろうことは、誰にも分かることである。

 だれでも内心ではそう思っているはずだと考えて、今村大臣は二階派のパーティのスピーチの席でそう発言したら、みなが凍りついたという。

 政治家は言葉のプロであり、マスコミや野党は文脈を無視して言葉尻を捉えるプロである。政治家が失言するのは政治家として失格であることは言うまでもない。どうしてこんな愚かな発言をするのだ、と安倍首相は天を仰いだことだろう。ハラの中は煮えくりかえっているに違いない。

 今村大臣はまさか、大震災が東北で起きたことそのことが良かったと言っているわけではないだろう。だが「東北で良かった」という言葉尻から、そう取られて非難さてしまうということに想像が及ばないで、いまさらのようにうろたえているのは滑稽である。

 パーティの席上の人々の内心の思いを忖度して発言したつもりで人々の顰蹙を買ってしまったけれど、その忖度のかけらでも東北の被害者たちの心に向けていれば、こんな発言が飛び出すはずはない。そもそも復興相とはどんな役割かについての認識がなかったことを露呈したので、本質的に国民を経済(つまり損得)でしか見ることのできない、政治家として不適格な人間なのだろう。もう再起はあり得ないし、あるとしたら彼を再び選ぶ有権者の見識に問題がある。

 「東北で良かった」という言葉は経済の視点から出た言葉であって、経済の視点と国民の生命財産の問題を区別して考えることができない人間は政治に携わるべきではない。ビジネスと政治は似て非なるものだろう。それがわからなくなっている政治家が自民党に蝟集しているのであれば、そしてそういう体質のままなら、失言はいくら注意しても続くだろう。そう感じさせる失言であった。このままなら自民党の独走は終わるだろう。

2017年4月25日 (火)

迷惑メール再び

 一時期迷惑メールが頻繁に届いた時期があった。迷惑メール設定をすり抜けてくるものもある。こまめに迷惑メールに個別設定して次第にその数は減った。

 先日、迷惑メールの個別設定枠の1000件を超えてしまい、削除しかできなくなってしまった。そこで古い設定のものを半分ほど消去して再び設定が可能になった。

 ここへ来てまた迷惑メールの猛攻が始まった。ただ、その迷惑メールはほとんど内容のない空メールのようなもので、添付に仕掛けがありそうな悪意のあるものとも思えない。ただのいたずらではないかとも思える。

 そんな迷惑メールは不思議なことに波状的にやってくる。何かそのサイクルに意味があるのだろうか。私に嫌がらせをしたい人にはあまり心当たりはないが、全くないこともない。とはいえ私には調べようもないし、その人に聞いて正直に言うとも思えないし、違っていたら恨まれるだけである。

 逆に迷惑メールに罠を仕掛けて反逆するくらいのスキルがあったら面白いかも知れないが、残念なことである。わずらわしいだけで実害はないし、いまのところ件数も多くて一日数件だから我慢している。

 プロバイダに迷惑メール専用のゴミ箱でもしつらえてくれて、そこにほうり込むと自動的に送り先にバグを送り込んでくれる、などと云うことでもあれば有料でも利用するけれどなあ。

致死率が高い!

 中国の昨年の交通事故件数は18万7781件、それに対して日本の交通事故件数は何と49万9201件と中国よりもはるかに多かった。

 中国よりずっと交通ルールを守っているのに、どうして日本の方が事故が多いのか。日本は国土が狭いからだろうか、などとまさかその理由を考えたりしていないだろうか。

 その答えは交通事故の死亡者数を見ればわかる。日本はどんどん減っており、昨年は3790人だった。それに対して中国の事故死者数は5万8022人。事故当たりの死者数の比率は、日本は0.76%、中国は30.2%と桁違いに致死率が高い。

 事故件数は何を事故として計上するのかによって全く違う数字になってしまう。しかし死者は死者だから違いは生じない。日本で事故として扱われるものの大半は、中国では事故と見做されずに処理されていると云うことだ。数字だけ見ると、死亡、乃至負傷者が出たものだけが事故扱いになっているのだろう。

 中国は世界の自動車の3%を所有している。ところが世界の交通死亡事故の16%が中国で起きているという。どれだけ危険な国かわかるだろう。実際に中国でタクシーなどに乗ると、その事故すれすれの危険な運転にハラハラすることが多い。度胸がないと中国では運転できない。譲ると損をすると思うのだろう、ほとんど譲ると云うことを知らないから、強引なことは信じられないほどである。数センチの幅寄せを平気でする。事故が起きない方が奇跡なのである。

 中国の人口は世界の五分の一近い。つまり20%近いわけだから普及率はまだ低いわけで、国土の広さもあるから車はもっともっと増えるだろう。実際に車は年間2500万台以上売れている。それなら事故件数はますます増え続け、事故死者はそれに伴って増えていくことだろう。他人事ながら恐ろしいことである。

 そういえば日本車は車体の鋼板が薄いから安全性が低いという神話が中国で信じられている。ところが実際に調べると、欧米の車とほとんど変わりがなかったと先日報道されていた。どこか欧米メーカーが流したデマだろう。

 中国仕様の車は頑丈さが必要だから、トラック並みの鋼板でも使うといいかも知れない。ただ、そうなると燃費は悪化する。それに衝突事故で車は壊れにくくなるけれど、衝撃エネルギーを鋼板が吸収しないから、却って乗っている人間に対するダメージが大きくなるだろう。しかし中国人は体より車が壊れない方が得だと考えるかも知れない。そういう国である。

いまそこにある危機

 日本政府は朝鮮半島有事を想定して具体的な対策計画を立てている。難民や北朝鮮特殊部隊の侵入対策も考えておかなければならないし、なにより半島に住む邦人の避難保護は最優先で考えなければならない。

 ところが韓国では政府も国民もあまり真剣に危機と感じていないようだ。いまだに大統領選の争点は日韓慰安婦合意問題とTHAAD問題である。日本が騒いでいた太陽節(金日成の誕生日で北朝鮮の祝日)でも何もなかったではないか、大げさだ、という声が多いらしい。なにかが起こる前には何も起こらなかったというだけのことだ。いままで起きなかったことはこれから起こらないことの根拠にはならない。

 危機が眼の前すぎて却って見えなくなっているらしい。それとも事態のあまりの恐怖から眼を逸らしているだけなのか。こうして朝鮮は日清戦争、日露戦争、日韓併合も、当事国でありながら、あれよあれよと見ているだけで、自国の存続のために戦うこともなく過ごしてきた。そのトラウマが反日につながっているのだろう。自分は悪くない、悪いのはすべて日本なのである。そんな呪文は北朝鮮には通用しない。いざというときどうするつもりなのだろうか。アメリカも呆れているだろう。

2017年4月24日 (月)

新都市構想

 中国政府は北京の南西100キロで天津の西100キロの場所に大規模な新都市を建設することを決定した。当初は100平方キロ程度の規模の都市を建設し、最終的には東京都と同じ程度の2000平方キロに拡げるのだそうだ。

 この計画は「千年の大計」と名付けられ、鄧小平が進めた深圳経済特区、江沢民が進めた上海浦東新区に続くものだとしている。それぞれの特区の成功の功績は高く評価されているから、習近平はこの新都市構想で成功を収めて名を残したいと考えているに違いない。なにしろ毛沢東、鄧小平に次ぐ、中国の核心的人物と自分を位置づけたいらしいから。

 すでに北京はあまりに人口集中して巨大化しすぎ、インフラが追いついていない。官庁などを新都市に移して分散させ、公害や交通渋滞を緩和するというのが表向きの目的だろう。新都市構想の場所は河北省の開発が進んでいない地区だと云う。すでにその土地で一財産造ろうというする連中は手を打った後だろうが、実態経済がすでに停滞して投資だけで牽引されている中国経済がこんなことで上向くとは思えない。

 投資したらその資金は回収しなければならない。中国では地方自治体は破綻寸前である。投資に投資を重ねてバブルそのものである。そんな時にさらにこのような新都市構想などを打ち出して大丈夫なのだろうか。見かけ上は破綻の先送りがされたようになるだろう。しかし破綻の規模がその分大きくなりはしないか。

 その前後のニュースでは、中国に長期滞在中の欧米のビジネスマンたちが帰国したり、滞在期間の短縮を始めていると伝えている。もちろん公害のひどさや食品の安全性の懸念に嫌気がさしているからである。本国から交代要員として派遣を命じられても拒否するケースも多く、要員が確保できない会社が増えている、となんと中国のメディアが伝えているのだ。

 そこでそのような役割を中国人が担うことになっていると云うが、それは中国にとってめでたいことなのだろう。しかしそうしてもともとの国との人的交流が薄れると云うことは、撤退の下準備につながる。中国も薄々気がついているはずだ。

 人件費の高騰もあり、中国が世界の生産工場である時代はそろそろ幕を閉じようとしているようだ。たいていの会社は中国が豊かになり、中国の内需が振興することを期待して多少の理不尽を我慢してきた。ところが中国の金は内需に廻るよりも投資に向かっている。実態経済をはるかに超えて投資が続けられればいつかは破綻する。賢い中国人のことだからソフトランディングするに違いないが、曲がり角が見えているような気がする。

 早く見たいなあ、曲がり角。日本もとばっちりを食うだろうが、私自身がそれほどひどい目に遭わないなら少々のことは我慢して、高みの見物を決め込みたい。待ち遠しいなあ。

種田山頭火

①放浪以前
 種田山頭火の自由律俳句に傾倒していた頃があった。もともと詩は苦手である。詩のイメージに自分の心がシンクロしない。だからその言葉から紡ぎ出される世界がよく理解出来ない。自分のその能力のなさに情けない思いをしていた。

 そんなときに山頭火の句に出会った。その句のイメージが心の中に映像として拡がって驚いた。山頭火の句集を持ち歩いて時々気に入った句を拾って眺めていた。その句集はほとんど解説がない本だったから詠まれた状況と、わたしの描いている世界は全く異なっていたかも知れない。

 今久しぶりに山頭火の解説書をひろげている。金子藤太の書いた「放浪行乞」と云う本だ。

 その中のまだ山頭火が妻子を捨てて放浪に出る遙か以前に詠んだ句、

 「今日も事なし凩に酒量るのみ」

と云う句にしびれた。

 「女は港、男は船よ」という言葉が好きだ。港にいるのは仮の姿で、そもそも男は果てしない海原をあてもなく行くものだ。放浪こそ男の真実だ、とわたしは思ったりする。

 それは現実逃避だろうか。そうかも知れない。でも逃げ出した生活より放浪の生活の方が遥かに苦難に満ちていることが明らかでも男は放浪に出るだろう。

 山頭火は若いとき、父と造り酒屋を始めた。その日常の中で詠まれたこの句に、放浪の萌芽が潜んでいる。

 日常が日常として実感されると、あてもない旅に出かけたいという思いが強くなる。旅先で一枚めくれた世界をちらりと垣間見たときに恐怖とともに生きがいを感じる。

②山の色

 山頭火の句、

 山の色澄みきつてまつすぐな煙

 彼が三十五歳の時に彼の醸造所は破産した。その頃に読んだ句だ。金子兜太は、この煙は醸造所の煙、と解釈している。

 その解釈は間違いないと思うけれど、私はまっすぐに上る煙は火葬場の煙だと感じてしまう。焼かれた人の魂が天へ昇る煙だ。ユーミンが「飛行機雲」で歌った雲だ。

 山頭火の母親は彼が幼い頃、夫の放蕩を苦にして家の井戸に入水自殺している。山頭火は、引き上げられたその死体を目の当たりにして一生それが心につきまとうことになる。

 醸造所の煙を見ながら、彼の心に映し出されているのは彼の母親が煙になって天に昇る姿ではなかったのか。それは彼にとってもしかするといささかなりと救われる思いだったのかもしれない。

 青い山の色を背景に立ち上る白い煙。あの青い山の向こうを訪ねてさまよう彼のあてのない旅が予感される。実際に妻子を捨てて放浪の旅に出るのはその9年後、四十四歳のときだが。

映画「現金(げんなま)に体を張れ」1956年アメリカ

 監督スタンリーキューブリック、出演スターリング・ヘイドン他。

 競馬場の売上金を強奪する計画を立てたジョニーは仲間を集めて綿密に打ち合わせ、すべて段取りよく進んだと思われたが・・・。

 スタンリー・キューブリックのハリウッド第一作だそうだ。この題名は、ジャン・ギャバン主演の名作「現金に手を出すな」1954年を意識しているだろう。

 こういう悪漢映画は犯罪の成功を期待してしまう。主人公に感情移入してしまうのだ。しかし必ず齟齬は生ずる。仲間に引き入れた競馬場の窓口の男が妻に計画を洩らしてしまう。

 この妻(マリー・ウインザー)というのが性悪で、夫のちょっとした一言に金の匂いを嗅ぎつけて、手練手管でたちまちのうちに詳しい話を聞き出してしまい、それを自分の愛人に話して横取りを計画する。性悪でありながら、自分の行動がなにをもたらすのか想像力が働かない。ただただ金さえ手に入れば幸せになれると思う浅はかさは却っていじらしいくらいだ。その結果が彼女になにをもたらすのか。

 強奪が実行されてからは一気呵成にラストへ突き進む。この苦い結末は映画を観ている人を無力感に陥れる。それはちょっとフランス映画のフィルムノワールのテイストだ。

 犯罪そのものよりも、女のその場限りの口舌の巧みさとこわさが印象に残った。

2017年4月23日 (日)

学生の幸福感

 OECDが72カ国で学生の幸福感についてアンケート調査をした。その結果によると、比較可能な47カ国のうち、日本の学生の生活満足度は平均以下で、下から6番目という低いものだった、と中国メディアが伝えていた。

 日本でも報じられたのだろうか寡聞にして知らない。しかしなぜ中国がわざわざ日本の学生の幸福感について伝えるのだろうか。中国の学生達が中国の現状に不満を持ち、日本をうらやましがる傾向があるのかもしれない。日本の学生は思うほど幸せではないのだよ、と云って慰めるつもりなのだろうか。

 ちなみに満足度の高かったのは、1位がドミニカ共和国、2位がメキシコ、コスタリカが3位だった。逆に下位は、最下位がトルコ、次いで韓国、そして香港であり、ワースト10位のうちに東アジアが6カ国あったという。

 幸福と思うかどうかを測る絶対的な物差しなど存在しない。幸福感は相対的なもので、本人が幸福と思うか不満と思うだけのことだ。だからそもそも比較することに意味があると思えない。豊かさが幸福感と相関しそうに思えるが、他国から見て豊かでも、本人がそれが豊かだと思わなければ幸福だと云わないだろう。

 上位の国々は日本から見れば必ずしも豊かな国と思えない。東アジアの人々は向上心が高く、より高みを目指す傾向がある。それだけ勤勉でもある。自分が現状に満足していないから、より良くなろうと努力する。それに政治的に熱い国は、学生は特に不満を持ちやすいだろう。格差の大きいところもそうだ。

 こうして日本のことに言及した中国が、どの辺の順位にあるのか、記事は伝えていない。中国ではアンケート結果がしばしば実情を反映しないから、そもそも調査が行われなかったのだろうか。それにしてもこういうアンケート調査をすることにどんな意味があるのか考えてしまう。相対的なものを計数化することにはあまり科学的な意味がない。解釈がさまざまになり、ときに正反対の解釈も可能になるからだ。

 ところで日本の学生の幸福感が低いなどという結果から、またぞろ社会が悪いからだ、格差社会だからだ、などと政権批判の材料にする向きも出てきそうな気がする。彼等はなにより勝手な解釈をするのが得意だから。なに、日本の学生は実は生活に満ち足りすぎていて、幸福を感じることができないだけだと云う解釈も成り立つのである。なにかが足らないとき、それを苦労して獲得すると幸福感を得ることができるけれど、なにしろ平和だからなあ。

 東アジアや東南アジアへの旅行から帰って日本の若者の顔を見ると、その覇気のなさ、のほほんと平和な顔に、日本は大丈夫かと心配になる。危機に対してのセンサーが退化しているように見えるからだ。

あれほど好きだったのに

 昨夕大阪の兄貴分の人から電話をもらった。元気にしているか、と消息を尋ねてくれたのだ。こちらから連絡をしなければいけないのに申し訳ないことだ。互いに情報交換をする。知っているつもりで知らないことがあるものだ。長老と東北に行ったらしい。今度また誘うから、と云うので楽しみである。昨年は共通の知人の訃報が相次いだ。こうして連絡を取り合う相手がいることは本当にありがたいものだ。そうでないと知らないまま、知られないままに終わりかねない。

 五月の連休に息子が広島から帰省してくる。バカ親の薫陶を素直に受けて、お酒、特に日本酒が大好きだ。今回もそれに合わせて日本酒を送るから、と連絡があった。前回は獺祭だったが、今回はまたなにか好い酒を見つけたのだろう。楽しみだ。酒よりも息子の帰省の方が楽しみなのはもちろんである。念のため。

 あれほど好きだった釣りに行かなくなった。九十九里の新鮮な魚を食べて育ったので、魚を食べることが大好きだが、鮮度の落ちた魚は食べる気がしない。だから大学時代、米沢に暮らしていたときは閉口した。だから帰省したときには新鮮な魚を食べるのがよろこびだった。

 就職してゴルフを誘われたけれど、趣味として釣りを選んだ。私にとって釣りは魚を食べるためのものである。キャッチアンドリリースなど魚を弄ぶものだと思っている。もちろん食べない魚や小さすぎる魚はリリースする。それは釣った魚ではなくて釣れてしまった魚だ。

 海の魚を食べて育ったから海釣り専門である。最初は投げ釣りだった。釣り人が増えると共に釣果が落ちてきた。釣りつくしたわけでもないのだろうが不思議なことである。ある程度のサイズを狙うなら船釣りである。金はかかるが釣果が確実だ。釣りに行く前の晩はわくわくして眠れなかったものだ。

 名古屋に移り住んでからも一人で、のちには友人と、知多から、ときには御前崎まで遠征して船釣りに行った。船酔いには強い方ではない。だから冬など波が高くて船が揺れると、寒さも相まって来なければよかったといつも思ったものだが、釣り出すとすべてを忘れた。

 子育てに忙しくなって船釣りに行く回数がめっきり減り、手軽な防波堤釣りにかえた。これならときどきは子どもたちと釣行できる。楽になるぶん釣果と魚のサイズは期待できないが、そんなにたくさんあってもさばくのが面倒なだけである。残れば鮮度が落ちる。

 それほど好きだった釣りに行かなくなった。父が亡くなってしばらく殺生をやめて、一年ほどしてから再開したけれど昔ほどの快感がなくなった。そして母の介護の手伝いで忙しくなり、ほとんどいけなくなってついに釣り道具を出すこともなくなってしまった。

 なにより魚をさばくことが億劫になってきた。自分で釣った新鮮な魚を食べるときのよろこびが薄れている。近頃は海辺の宿で新鮮な魚を山盛り出されても、感激しなくなった。少しだけあれば良い。

 海水が温まってくる今頃からそろそろ三重県の南伊勢辺りの防波堤にメジナが湧いているだろうなあ、とか知多に小アジや小サバが寄ってきてるだろうなあ、などと遠い目をするばかりである。

2017年4月22日 (土)

森本哲郎「書物巡礼記」(文化出版局)

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 この本を読むのは何度目だろうか。本を読むこと、本を買うことがどれほどの人生の楽しみであるかを共感させてくれる本なのである。多読である必要などない。持っている本をすべて読む必要もない。棚にあるだけでも良いのだと励ましてくれる。とはいえ、私の人生の師である森本哲郎老師の蔵書は、この本が書かれた60歳頃にはすでに3万冊を超えていたのだから、一桁違うのである。

 25歳頃、人生に行き詰まっていた。老師の「生きがいへの旅」という本に出会った。文明論のような、そして易しい哲学書のような本だったけれど、これを読んで人生観が大きく変わった。そして生きるのが楽になった。この本でそんな経験をするような人はたぶん私だけだと思うけれど、だからこそかけがえのない本だし出会いだった。

 老師は1925年(大正14年)10月生まれで、私の母と同年で同月である。イギリスのサッチャー女史とはまったく同年同月同日生まれだそうだ。

 老師は本探しは恋人探しに似ている、と云う。だから書評で本は選ばないそうだ。恋人を他人の評価で選ぶひとはいない。そして直接本に巡り会ってこそその本に恋することができる。だから老師は古本屋巡りをする。再びの出会いを期待して待ったりせず、財布をはたいてでも自分の元へ招待するのである。

 中学生の頃から生涯与謝蕪村を読み続け、蕪村についての本もいくつか書いている。詩が苦手な私が老師のお陰でほんの少しだけ俳句の世界が覗けるようになった。その蕪村との出会いについても書かれている。それは生涯の友との思い出の話しでもある。

 老師が人生のさまざまなターニングポイントで出会い、老師を形作ったともいえる本の数々が写真で掲載されていてそれを見るだけでも楽しい。なによりこの本の装丁が素晴らしい。田島隆夫氏によるものだそうだ。左思の漢詩である。私の宝物の本の一冊。

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