2019年5月23日 (木)

連日変な夢を見る

 連日変な夢を見て、夜中の二時三時に目が醒める。理由は分かっている。最近寝床で寝る前に読む本が中国の志怪小説集『子不語』全五巻で、志怪小説というのは化け物や鬼(日本の幽霊)の話を集めたものである。日本の怪談話の種本になってものもある。それほど怖くないとはいっても、悪夢に似たものを見ることになるのである。

 目が醒めても二度寝することが出来れば良いのだが、起きたのをいいことにまたつづきを楽しんだりしてしまうのである。おかしなものに取り憑かれないといいのだが・・・。

朝だと悪夢を見る自分を笑えるのである。
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2019年5月22日 (水)

漂白剤

 二三年前からキッチン用と衣料用の漂白剤(もちろんそれぞれ別のもの)を使うようになった。それ以前に使っていなかったのか、と驚かれる向きもあるだろうが、使っていなかった。茶渋などがよくとれてピカピカになるし、下着もいままでよりずっと白く洗い上がる。

 衣料用の漂白剤は、酸素系を使っていたのだが、ちょうど使い慣れたものがスーパーの棚になかったので、別のを買って使い始めた。どうせどれも同じだろうと思っていたのだ。

 ラベルの説明書きをよく読んでいなかったのが失敗だった。生成り(ベージュ)の綿のズボンに染みがついていたのでそこに振りかけて洗濯したら、振りかけたあたりだけ晒の白いズボンになってしまった。さらに濃灰色のシャツがその部分に触れていたのか、そのあたりが一部脱色してしまった。

 今度買ったのは塩素系のもので、白専用だったのである。酸素系のときは大丈夫だったことが塩素系のものだととんでもないことになることを思い知らされた。ズボンもシャツもお気に入りのものだったが、こんなもの恥ずかしくて外に着て出かけるわけにはいかない。

 腹が立つけれど自分が悪いのだからしかたがないのであるが、ちょっと落ちこんでいる。
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Newton(ニュートン)

『ニュートン』は竹内均先生が創刊した科学雑誌で、もちろんイギリスの物理学者であるニュートンに由来する。私は創刊号からバックナンバーを揃えてバインダーにファイルしていた。しかしどんどん増える(あたりまえだ)から置き場に困りだし、しかもファイルはとてつもなく重い。それに途中から忙しくなって丁寧に読むことが出来なくなった。それからは特に興味のある特集の号だけ購入するようにしている。

 数年前からそれを飛ばし読みしながら読んだものから処分している。ようやくあと五十冊たらずになった。ランダムに読んでいるので1984年のものがあるかと思うと2005年のものがあったりしていて、トピックスなどにその時代の科学の状況が垣間見えて面白い。

 1984年6月号から。ベッコウハナアブの幼虫は、あの獰猛なスズメバチなどの巣の中で餌の残り物や死んだ蜂の幼虫やサナギを餌にして育つのだという。巣の解散が近くなると働き蜂が幼虫の世話をしなくなるので死ぬ幼虫が増え、ベッコウハナアブの幼虫は餌が豊富になって急速に成長するそうだ。

 こんなこと、知らなかったしこの本で読まなければ知ることはなかったことだ。世のなかには不思議なことがあふれていて、知らないことの方がはるかに多いということを教えてくれる。
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2019年5月21日 (火)

ゆっくり見る

 50人以上の方のブログを毎日ほとんど欠かさず拝見する。出先にいるときは、さまざまな理由から多少見方が粗くなるので、自宅に戻ったらゆっくりと丁寧に見る。人によって興味のあるものが違うので、その方の視点でのブログはいろいろ教えられることも多いし、そこからいろいろ連想したり考えたりする。ありがたいことである。

「のんびり生きる」というブログも欠かさず拝見するもののひとつだが、文章のみのブログで丁寧に書かれていて、事実を自分なりに検証して、感情を交えずに良く考察されていて大変参考になる。ブログ名もないし、いいねもポチッともむかしからなく、コメント欄もない。だからいつも読むだけである。特に好きなブログである。

 今日読んだ中で、「チビクロサンボ」さんのブログにジャスミンの芳香について書かれていて、なんだかそれを実際にかいでいるような気分になった。

 花の芳香と言えば、梅、藤、ジャスミン、百合、金木犀などの芳香が思い出される。先日愛知県津島市の天王川公園の藤の芳香を思い出した。蓮の花の芳香も有名だが、この芳香はかいだことがあるようでないようで不確かである。ただ、ベトナムで蓮の花の香りを移した蓮茶を土産に買ったので、その香りは記憶に確かである。

 お茶に花の芳香を移すといえば、ジャスミン茶などはまさにそれだし、中国にはさまざまな花の香りを移したお茶があって、楽しんだこともある。バラの花の香りを移したバラ茶もあったが、少し香りが強すぎるように感じた。

 中国では桂といえば金木犀のことで、日本の桂とは違う。植物では同じ漢字なのにまったく違う木を指すことがある。山水画のような絶景を楽しむ漓江(りこう)下りで有名な桂林は、その名のとおり金木犀の多い街で、その時期には街が桂花の芳香に包まれるという。桂林にはその金木犀の芳香を酒に移した桂花酒がある。ここは鍾乳洞の多いところで、その洞窟でその酒を寝かせる。洞窟を見物したときにその酒を飲んだが、まことに絶妙な美味しい酒であった。

 ブログを拝見してさまざまに連想して楽しんでいるが、短い言葉で的確にコメントを入れられないので読むだけで失礼することが多い。
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日常のリズム

 昨朝早くに出発したので首都高もスムーズに通過でき、午前中に名古屋のわが家に無事到着。荷物を片付け、不思議なことに不在なのに出たときよりも散らかっているわが家(気のせいか)もちょっと片付け、一息入れてからそのまま座り込んで録画していた番組を片端から観る。

 延べにして五時間あまり、頭が飽和してきたので風呂に入ってから、本を読む気もブログを書く気力もないまま床に入り爆睡する。疲れていたのだろう。

 昨日帰宅したころは強風が吹き荒れていた。雨は思っていたよりも遅く夕方暗くなり始めたころに降り出した。朝のニュースでは愛知県の東部豊橋方面は大雨だったと報じていた。それでもあちらの水源のダムは貯水率ゼロからまだそれほど回復する見込みはないという。何十年ぶりかの枯渇らしい。梅雨で回復すると良いのだけれど。

 早く寝れば早く起きる。そこで気にかかっていたことをチェックしたら、ある振り込みを忘れていたことが確かになった。お金に関係するものはすぐ処理することに決めている。後回しにすると忘れるおそれがある。気にかかっているあいだはいいが、忘れたことすら失念すれば最悪である。人はお金は払いたくないもので、迷う前に処理すべきものであるし、遅れれば相手に迷惑だし、自分も不愉快だ。雨が止んだらすぐ振り込みに行くことにしよう。

 今朝は60年代の洋楽を聴きながらゆったりしている。日常が戻ってきた。一定枠内の限られた雑用を片付けながらやりたいことをする。飽きたらまた出かければ良い。
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2019年5月20日 (月)

雨の降り出さないうちに

 千葉を拠点にどこかに立ち寄って名古屋に帰ろうと思っていたのだが、今日明日は雨の予報。名古屋は午後降り出すらしい。今回はとんぼ返りのかたちで、雨が降り出さないうちに帰り着けるように朝早く出発する。それなら首都高も渋滞を回避できるかも知れない。
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2019年5月19日 (日)

生まれ変わり(2)

『子不語』から生まれ変わりの話をもうひとつ。

 江蘇省揚州では、奴隷は多く細という名で呼ぶ。細九というものは商人鄭氏の奴隷であった。
 鄭家の主人の老母が病気になり危篤に陥ったが、息を吹き返し、むっくりと起き上がって言った。
「可笑しなことがあるものだねえ。私が死んだとて不思議はないけれど、細九の子として生まれ変わるってことはないだろう。私の魂が戸口を出てしばらく行くと、そんなことを言うのを聞いたもんだから、わたしゃ、付き添いのものを打ちのめして帰ってきてやったのさ」
 そのあと喉がかわいたと言って、青菜の湯(スープ)を欲しがった。家人がそれを煮て与えてやると、ちょっと飲んでからまた床に倒れ、瞑目して逝った。しばらくすると、細九がやって来て、うちで男の子が生まれたが、口に菜っ葉を含んでいて泣き声がひどくやかましい、と言った。
 その後、鄭氏はすこぶるこの子を慈しみ、奴隷の子として扱うことはなかった。
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千葉にいる

 いま千葉の弟の家にいる。ここは両親が同居していたので、私にとっての実家である。昨日は妹夫婦もやって来て両親の墓参りをした。弟の末娘夫婦も子供二人を連れて泊まりに来ている。二人とも女の子。上がまだ幼稚園の年少さん、下が乳飲み子で、最初から人見知りされなかったのでとても可愛い。私の子供たちもこんな時代があった。

 晩はその姪の旦那の誕生日だというのでバーベキューパーティをした。誕生日の当人が大活躍で、焼きものがかり、大いに盛り上がり、大いに飲んだ。隣家の住人が最近替わり、若い夫婦になった。夫人は姪の知人でもある。姪が参加するように声をかけたら子供二人を連れてやって来た。年齢が近いから子供たちも大いに盛り上がっていてにぎやかだ。

 隣家の旦那は遅れてやって来た。酒も持参してさらに飲むことになった。話の上手な人で気兼ねもしない。気がついたら11過ぎまで食べ続け飲み続けた。今朝はいささか胃が重い。こういう交流が出来るのも弟夫婦の人柄のゆえである。有難いことである。
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2019年5月18日 (土)

生まれ変わり

 中国・清の時代の袁枚が著した『子不語』の中から短くて面白そうなものを取りあげたことがあるが、そのつづき。子不語とは論語の中で孔子が『子は怪力乱神を語らず』としたことに由来する。この本は志怪小説と言って、怪異譚などの不思議な話を集めたものである。

 江蘇省塩城の東北郷の草深い水門のあたりに、小関営村という村があって、そこに孫自成という村民がいた。その妻が子を生んだが、除夜のことだったので、年子(ねんし)と名をつけた。年子が十八歳のとき、天秤棒を担いで鶏を売りに街に出かけた。途中まで来たら、突然旋風が起こり籠の鶏をみな吹きとばした。鶏は空に舞い上がって飛び去った。年子は大いに驚いて家に帰って寝込んでしまう。病が危篤状態のとき、たまたまその母が産気づいた。家中そっちの方に気をとられ、年子を看護する者がいない。彼は昏睡におちいり身は風のまにまにたゆたい、やがて朱塗りの門から万丈の深淵に落ちこんだように思われた。だがなんの痛みもない。ただ体が小さくなったような感じで、いつもと勝手が違うのである。両目は閉ざされていてあけられない。耳に聞こえてくるのは両親の声のようである。夢幻の境に安んじて身を任せていた。そのとき、孫は妻が安産したので、やっとのことで年子の様子をのぞきに行った。見れば、年子はすでに死んでいる。思わず大声で泣き叫んだ。年子はびっくりして目が醒めたが、何が何だか分からない。ただ母が泣きじゃくりながら、くどくど言うのが聞こえた。
「この赤ん坊を産んだばっかりに、大きく育った私の年子を死なせてしまったんだわ」
その泣き声がいつまでも止まない。年子はそこでやっと自分が転生したのだと知り、母が悲しみのあまり容体が悪くなるのではと恐れた。
「ぼくは年子だ。年子は死んじゃいないよ!」
 母は赤子が大声でしゃべるのを聞いてびっくりした。とたんに中風を起こして数日にして死んだ。孫は赤子に乳がないので心配で、粥を作ってはこれに与えるのだった。その後、三ヶ月で歯が生え、五ヶ月で歩き出した。名前は再生といい、今年十六になる。
 以上は、塩城の県令、閻公が私(袁枚)に話したことである。
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飛鳥板蓋の宮跡

岡寺をあとにして、細い山道を降りているうちに方向を見失った。

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こんな小さな畑がなんとなく不気味に見えたりしたから、自分ながらすこし変な気がした。

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伝飛鳥板蓋宮跡の前に出た。ここは飛鳥浄御原宮跡ともいわれている。

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飛鳥板蓋宮といえばあの中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を誅殺した場所である。このあと実権は藤原氏に移る。

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説明板の左横に石碑がある。読めないことはないが間違っているかもしれないのでどう読んだのか書かない。

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板蓋宮跡を後にする。

あの石舞台に眠っていた蘇我馬子は天皇の外戚として権勢をふるい、甥にあたる泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を崇峻天皇として擁立。しかし崇峻天皇は政治の実権を蘇我氏が握り続けることに不満を持つ。

それを察知した馬子は崇峻天皇を暗殺し、姪の額田部皇女を推古天皇として擁立する。史上臣下による天皇暗殺はこれ一度のみ)であり、その推古女帝の子が聖徳太子(いまは厩戸皇子というらしい)で、摂政として蘇我氏とともに政治を行う。ただ、崇峻天皇の死による宮廷の動揺が全くなかったらしいことが分かっており、蘇我馬子の独断の暗殺ではなかったと見られている。

推古天皇の崩御の後、厩戸皇子の子である山背大兄皇子を推す一派と、敏達天皇の孫・田村皇子を推す蘇我馬子のあとを継いだ蝦夷とが争い、山背大兄皇子を推す一派は粛清され、田村皇子が舒明天皇として即位する。

のちにこの山背大兄皇子一族全員は殺されてしまう。ここに聖徳太子の血筋は絶たれてしまったのである。これらの事件の責任を問うかたちで蘇我入鹿は乙巳の変で殺され、蘇我氏本流は滅亡するのである。

しかし表面に現れた事件の背後には実は複雑な事情があったらしく、ある面での蘇我氏の内部分裂もあったとされる。日本書紀などに書き残されていることがそのまま史実ではなかったようだ。

そんなことを思い出しながら板蓋宮跡をあとにした。そのあとも方向を見失い、雨の中を歩き回り、歩き疲れてしまったが、写真がないので第三回目の飛鳥はこれまでとする。

 

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2019年5月17日 (金)

岡寺(2)

 本堂のご本尊、如意輪観音などを拝観したあと、奥の院の石窟への階段を登る。覚悟していたほどの段数はなく、途中で休憩せずに一気に登ることができた。

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 石窟の中の弥勒菩薩像。実際に暗いし、だいぶ奥にあるので撮るのが難しい。

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石窟から三重塔へ山沿いに抜けられるとの案内があり、こういう路を歩いた。

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路脇にいろいろな石楠花が植えられていた。

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 写真では分かりにくいが、この石楠花の花は随分大輪だった。

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上から本堂を見下ろす。

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 雨に濡れる岡寺三重塔。

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 塔の前が開けていて、飛鳥の里が眼下に見下ろせる。これにて岡寺はお終い。

 

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岡寺(1)

 治田神社の横から岡寺の山門に向かう。

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 西国七番札所・岡寺山門。

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 やって来た治田神社の方を振り返る。

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 途中にあった大きい石。なにかに見えないことはない。どうしてここにあるのか分からない。

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 漱ぎ場。美しい花が浮かべられている。

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 すぐ先の小さな池にも花が・・・。なかなかしゃれている。

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 もともとこの寺は草壁皇子の岡宮を義淵僧正が譲り受けて寺としたのが始まりだという。その義淵僧正が、飛鳥一帯の民を苦しめていた悪龍を退治したことが石版に描かれている。なかなか勇ましい坊さんだったようだ。

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 悪龍を池に封じ込め、石で蓋をした。それがこの池らしい。この寺の正式名称は龍蓋寺である。

 岡寺には塑像としては日本で一番大きな如意輪観音の座像が鎮座している。いまその像が本堂内に自由に入って拝観できる。ほかに不動明王や愛染明王など、立派な仏像があって、開基1300年記念でそれも拝観できるので今が訪ねるチャンスだと思う。もちろん写真を撮ることは出来ない。

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2019年5月16日 (木)

亀卜

 ネットニュースをぼんやり眺めていて、「大嘗祭で使う米の生産地を「亀卜」で決定、宗教色に批判も」というニュースの見出しを見た。そのときは見過ごしていたが頭に引っかかっていた。亀卜で栃木県と京都府の米が使われることになったこと、亀卜の亀がアオウミガメの甲羅を使うことはNHKのニュースで見ているから承知している。引っかかっていたのは「宗教色に批判も」という部分である。誰がどのような批判をしているのか。

 見出ししか見ていないので記事の内容を見ようとしたが見つからない。そこで「大嘗祭」をキーワードにして検索したら見つかった。朝鮮日報の記事だった。記事ではこの亀卜について詳しく記述したあと、「日本は第二次世界大戦で国教だった神道の影響で、天皇が儀式を行うことは日常化している」と述べ、いまも「天皇制」に神道の影響が強く残っていると説明したあと、このような亀卜などの神事は宗教的色彩が強いとの批判があると報じている。

 例によって「一部の学者」が「天皇は憲法に基づく象徴的存在にすぎないのに、一連の儀式に国費を使うことを批判している」と書いているが、なんという学者が批判しているのかそれは明らかにしていない。朝鮮日報記者大学名誉教授かも知れない。

 さらに昨年、秋篠宮が「天皇の祭祀行為は天皇家の私的生活費である「内廷費」を充てるべきだ」と発言したことを取りあげている。

 まず、この記事の首をかしげるところは「国教だった神道の影響で天皇が儀式を行うことが日常化している」という部分だ。天皇陛下は古代から儀式を行ってきた。国家神道というのは、江戸時代の国学などの影響を受けた人たちが明治以後につくりあげたもので、その「国家神道の影響」で天皇陛下が祭祀を行うことが日常化したわけではない。どうしてそういうことをいうのか想像はつく。

 皇室の祭祀が宗教行事であるかどうか。政教分離を原則にする憲法の下で、国費を祭祀の費用に充てることが正しいかどうかは論のあるところであろう。大方の国民は別にかまわないではないかと思っているはずだし、それでいいと思うけれど、厳密に考えてみれば秋篠宮のいう通りになってしまうのも理解できる。この記事の見出しが私の頭に引っかかったのはそのことである。

 祭祀は宗教行事であると考える方が自然だし、それなら政教分離の原則から国費の支出はできないことになるという批判は間違いではないことになる。

 このような批判が公言されることは、私は天皇制そのものの存続意味を問うことにつながると感じている。だから批判するなというつもりはないが、批判にはそういう意味がこもるということで、朝鮮日報がことさらそれを記事にすることの意図も感じたという次第である。
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治田神社

 前回飛鳥を歩いたときに飛鳥駅前の観光センターでもらった地図を見ると、石舞台から岡寺まで歩いていくことができそうだ。ただ、岡寺は高台にあるらしい。見ている地図はすでにかなり傷んでいる上に雨に当たってだいぶくたびれてきた。石舞台から舗装道路の峠を越えて岡寺に向かう。途中の高架橋から案内に従って下へ降りてそこから少し登り道を行く。高架の下の少し開けた場所に自転車のおばさんたち五六人がたむろしている。レンタサイクルで廻っていて、雨が本降りになって雨宿りしているらしい。にぎやかである。

 坂をそのまま登れば岡寺のようだが、途中に急な階段があって、ここからは見えないけれど上に何か建物があるらしい気配である。もちろん登る。なんだか体がいつになく重くて階段が辛い。

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 こんな階段を登ってきた。

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 神社の入り口のようである。

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 治田神社とある。由緒書きによると、詳細は不明ながら、岡寺(龍蓋寺)の鎮守神らしい。もともとここに治田氏と云う一族がいてその祖神を祀っていたらしいが、それをそのまま鎮守神社にしたのだろうという。だからここも岡寺寺域である。

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 神社本殿。大きくないけれど佇まいは好い。銅ぶきの屋根が雨に濡れる。

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 入り口横にあった石像が気になって写真を取りに戻る。たきぎを背負って本を読んでいるから二宮金次郎だと思う。本が雨に濡れてしまうよ!

神社の横を抜ければ先の方に岡寺の山門が見えてくる。

 

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2019年5月15日 (水)

石舞台古墳

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飛鳥遺跡の代表的なものにこの石舞台古墳がある。古墳といわれるように、もともとはこれは墓であり、石室の中に死者が葬られ、石の上には盛り土がされていた。その土が失われて石室がむき出しになったものだという。被葬者はたぶん蘇我馬子だろうといわれている。


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やや後方から見る。


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石室に入ることができる。


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石室の内部。


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正面の壁。上方から外光が入る。


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石室内部から入り口方向を振り返る。

 

蘇我氏が専横したために中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)に誅殺されたとむかし歴史で習ったが、そんな風に単純なものではないらしい。
そもそも聖徳太子の死後、その一族を皆殺しにしたことが蘇我入鹿の殺された名目上の理由だが、蘇我氏が自らの権力基盤を自ら葬るというのもおかしなことである。いまは蘇我入鹿を殺し、父親の蝦夷を自殺に追い込んだ事件を乙巳の変というそうだ。

 

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いろいろあった

 昨日は三回目の飛鳥散策をした。天気予報は夕方から雨ということだったのに、名古屋から近鉄で奈良に向かう朝の車中の窓に雨滴が・・・。大和八木に着き、乗り換えて橿原神宮前駅からのバスを待つころには、小雨とはいえ傘をささずにはいられないほどに降り出した。

 終点の石舞台で降りる。飛鳥では最も有名だけれど初めて訪れる。傘をさしながら片手で写真を写す。撮りにくい。雨のイジワル。

190514-20石舞台の中から。

 夕方奈良の友人二人と会食の約束があり、その場所も予約してもらってあるので、雨だから日延べというわけにも行かなかったのだ。

 夕方友達二人と合流し、三人で大和八木の駅近くの店で飲む。この友達はいつも海外へ行く仲間だ。キューバやウズベキスタンやあちこちに十五回以上一緒に行っている。今年の旅行の打ち合わせも今回の会食の目的の一つだ。もちろん大いに盛り上がり、楽しく語らっているうちに時間はあっという間に過ぎていく。九時過ぎの名古屋行きにギリギリセーフで飛び乗った。

 ところがところが、この列車は定刻を少し遅れていると思ったら、なんと80分遅れの特急であった。大阪で人身事故があってずっと運行が止まっていたらしいのだ。楽しく飲んでいたからちっとも知らなかった。

 指定席に向かうとそこには女性がリラックスした状態で坐っている。間違いを指摘しようと思って、待てよ、と思った。実は自分が間違っていることもある。切符を確認する。席は間違いない。しかし、なんと私のは時間が一時間後の車両の切符であった。

 自動発券機で「すぐ乗る」というボタンを押したから当然九時のものだと思い込んでいたが、ギリギリだったから次の列車の切符が発券されていたらしい。巡回してきた車掌に事情を説明する。「そのまま乗っていてけっこうです」と了解してもらう。列車は空いているのだ。

 名古屋駅で列車があふれていて、前を走っているいくつもの列車が入線できないという理由でたびたび停車する。今日中に帰れるだろうか。

 わが家には日を跨いだが、無事帰ることができた。

 飛鳥の写真は次回に報告する。
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2019年5月14日 (火)

個人情報と支配(下)

 しかしその民主主義を脅かすものが生まれた。情報社会である。情報を管理するものが社会を支配し、国を支配し、世界を支配することが妄想でなく現実となり始めていることをこのドキュメントは警告している。分かっていてもその利便性ゆえにその支配から逃れるのはすでに困難になりつつある。

 中国とアメリカが表で貿易戦争をしているが、じつはこの支配権を争う戦争こそが真の戦いなのではないか。中国の情報化の進展が世界で最も著しいのは、人民支配に情報管理が最大最有用な武器であることをすでにどの国よりも承知しているからである。共産党政府によってむかしから個人情報を档案(ダンアン・戸籍のようなもので個人の出自をはじめとするすべての記録が収載されている公文書、パスポートも就職もすべてこれを参考にする)として記録管理して国民を支配してきたという実績が積み重ねられてきたのである。情報が増えるほど支配は完璧になっていく。その中国がこの支配権についてアメリカに譲歩することはあり得ない。交渉が合意しないのは当然である。中国については一度別の機会にあらためて考えてみたい。

 アメリカも大統領選は情報戦になっていることはすでにたびたび報道されて御承知だろう。ドキュメントでは個人に対してプロファイリングされたその人の性向を元に、その人向けのサブリミナル的な情報が繰り返し流されているという怖ろしい事実を伝えていた。選挙動向に微妙に影響を与えているのである。これはますます巧妙に、そして強力になって行くであろう。

 人はすでにそのような特定情報を選択的に送りつけられることで影響を受け続けている。自分が選んだと思って手に入れている情報は、実は管理する側から選択的に選ばれて送らされているのかも知れないのだ。

 情報を管理してプロファイリングするのは人間である。そしてそれを超高速でAIが処理している。AIの最も得意な仕事であり、ますます巧妙化し、ついにはAI自らがプログラムをさらに巧妙化するだろう。支配者は愚民を支配していると思いながら、実はAIにコントロールされているという未来が見える。AIの究極に発達した未来は、『ターミネーター』で描かれるようなかたちではなく、このようなかたちでのディストピアであろう。

 情報社会は人間社会の仕組みを大きく変えることになることをこのドキュメントを観て感じた。そのつもりでニュースを見ると違う世界が見えるかもしれない。そのニュースも私向きのものが選ばれて配列されて送られてきているらしいのだが・・・。
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個人情報と支配(上)

 書いていたらちょっと長くなったので二回に分けて掲載する。

 NHKBSのドキュメント『個人情報が世界を変える』を観て考えさせられた。ビッグデータと呼ばれるさまざまな情報が収集管理され、それが解析されている。ここでは特定の個人がどのような情報を見ているのか、またどのような情報を発信しているのか、それもすべて収集されている。

 こうして集められたデータをもとにしてプロファイリングという手法によって個人の性向がたちどころに推定されていく。人種、趣味、政治的傾向等々あらゆることが把握されている。情報が多いほど確かになっていく。少し前まではそれらの情報は厖大すぎて、すべての人のことを瞬時に分析してみせることなど不可能だったが、科学の進歩はそれを可能にした。

 プログラムはさまざまな結果をフィードバックしていくことによってさらに進化していく。精度が上がっていくのである。こうして電子的な情報のやりとりに関わる人すべての情報が、取り出そうと思えば簡単に取り出すことが可能になりつつある。そもそもスマホなどでその情報社会の利便性にどっぷりはまってしまった人々がそこから逃れることなど可能なのか。個人情報の保護は言葉では言えてもすでに困難になりつつある。法的な規制は果たして可能なのだろうか。

 ヨーロッパでは巨額の罰則金を伴う規制で個人情報の保護をしようとしている。逆にアメリカや中国はその規制はほとんど野放しである。そのことの意味に思うところがある。

 古代ギリシャに賢人政治という時代があった。ギリシャだけではなく中国古代にも同様の時代があった。三皇時代の鼓腹撃壌の時代がそうである。公司があこがれた周公もそういう人として幻想されていたのであろう。優れた人が政治を行えば、世の中は平和でおだやかな暮らしが出来るという。

 そういう理想の人はなかなかいないし、いたと思っても権力を持つとそうでない人に変わったりしたのだろう。さまざまな紆余曲折を経て、いまは民主政治がとりあえず一番マシだということになっている。根底にそもそも大衆は残念ながらバカだという思考があるのではないか。バカではあるが、システムとしてバカでも出来る体制を作ればやっていけるようにしてあるのが民主主義ということではないかと私は理解している。

 そういう意味でアメリカという国はバカでも大統領になれるという最も民主的な国といえるのだろう。

注:私もバカな大衆の一人であることを自覚しながら書いています。けっして朝日新聞のような啓蒙的上から目線ではないので御承知置き下さい。
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2019年5月13日 (月)

斜めに見る

 カレンダーから見ればまだ五月で衣替えにはやや早いように思うが、温暖化のせいかすでに何カ所かで真夏日がやってきていることもあり、涼しい服装に替えたくなるのは自然なことだろう。それはそうなのだが、このところNHKのニュースでクールビズが繰り返し報じられているのはどうしてか。

 素直に暑くなったから、と受け取ればいいことだが、そもそもクールビズを採り入れているのはお役所と大企業の一部のように感じる。政府の省エネのためのクールビズ推進をNHKもその意向を受けて協力しているということで、つまりクールビズがちっとも普及していないことの表れなのではないか。一度なら知らず二度三度かたちを変えて報じられるとさらにそう思う。

 NHKはオリンピックを盛り上げるための番組や番宣が異常に多いように感じるのは私だけだろうか。これでは民放のCM並みである。そこまでせっせとやられると、却って引くのが人の常だろう。日曜夜の大河ドラマが不評なのはそれが理由の一つにちがいない。しつこいのはみな嫌いなのである。

 ヴィーガンという肉食反対、動物愛護を標榜する集団があるらしい。当人たちが肉食をせず菜食をするというなら勝手にしたら良いことであるが、この世の肉食そのものに反対して屠畜場の廃絶や食肉キャンペーンの場所などに屠殺された動物の市街の写真などをこれ見よがしに掲げてデモ行進をするとなると、これは如何かと思う。

 人の行為に異議を唱えてそれをやめさせようとすることは、同時に自分の行為に介入することを許すことにつながる。自分は正義だから問題なく相手だけを非難する、というのは自分を特別視することに他ならない。

 しかしそんな大げさなことではなくて、ただ彼等の多くは目立ちたいから、ニュースに取りあげてもらいたいからこのような行動をしているように見える。こうしてニュースに取りあげられ、ブログに書いてもらってさぞ喜ばしいことだろう。

 反捕鯨やイルカ保護を喚く人たちもたいていはそうだと思うけれど、なかには狂信者がいて、狂人であるからその精神のスイッチが常人とまったく異なるわけで、相手の立場など毛筋ほども聞く耳持たず、当然社会のルールなど無視するから怖ろしい。

お許しは出たが

 本日は糖尿病の定期検診日。朝一番で病院に行き、採血検尿をする。それが早ければ血液検査や尿検査の結果も早く出るわけで、医師の診察も早くなる。ところが今朝は受付が大行列。思えば先週の月曜日まで連休だったから、月曜に診察する人は本日に集中することになったようだ。

 お陰で待ち時間にゆっくりと佐藤信編『古代史講義』という本をじっくりと読むことが出来た。編者は東京大学大学院の教授だが、実はBSの放送大学の講座『日本の古代中世』の先生も引き受けている。梅原猛の本を再読しているうちに、自分の最も知らない日本の古代から中世に興味が湧いてきて、BSキャンバスのこの講座を録画して勉強しているのだ。

 この本のことは読了してからまとめて書くけれど、古代史は大きくかわりつつあることを知ることが出来て面白いのだ。

 検査結果を見ながらの美人の女医さんのご託宣は、「血糖値が少し上がっていますが薬を増やすほどのことはないでしょう。少し節制してください」というものであった。この三年で一番悪いけれど、hA1cの値は7を超えていないからOKと言うことらしい。

 そういえば最近甘い物が強烈に欲しくなることがある。血糖値が低いときはそういうことは少なくて、血糖値が上がると空腹がきつくなったり甘い物が無性に欲しくなる。悪循環にはまる兆候である。辛いときほど我慢が必要というのを忘れないようにしなければ。

 薬局も満員で待たされる。一度家に帰り、自動車税の通知書が来ていたので郵便局に支払いに行く。いつも待たされるのにたまたまだろうか、すぐ呼ばれて用事が済んだ。

 夕方は歯医者である。いまのところ大過なくいるけれど、なんとなく病巣が蠢き出すのを虎視眈々と窺っている気配を感じる。歯や歯茎を丁寧に磨くように努めているが、それだけで大丈夫なのだろうか。

 ところで救急歯科で化膿止めのために抗生物質をもらったのだが、その効果のせいだろうか、その後、尿の色がいつもよりずっと薄く透明に近くなったり、ゆるかったお腹が治ったりしている。もし副作用なら大変ありがたい副作用である。

 

映画備忘録(6)

『フューチャーワールド』2018年アメリカ
監督ジェームズ・フランコ、ブルース・ティエリー・チャン、出演ジェームズ・フランコ、スーキー・ウォーターハウス、ジェフリー・ウォールバーグ、ミラ・ジョボビッチ、ルーシー・リューほか

『マッド・マックス2』や『マッド・マックス3』を下敷きにしたような、荒廃した近未来を描いたディストピア映画だが、ここで狂言回しになっているのが若い女のアンドロイドである。しかしこのアンドロイドには特別な能力があるわけでもなく、弱いし格別闘争力があるわけでもないので、なんのための存在なのか意味不明である。

 ミラ・ジョボビッチがカルト集団の女親分として怪演している。彼女の方がよほどアンドロイドのようだ。平和主義者のグループのクィーンと呼ばれる女統領がつり目のルーシー・リュー、彼女が病に倒れ、息子のプリンスがその薬を求めて危険な旅に出るという話なのだが、時間と距離の関係がご都合主義に見える。つまりリアリティに欠けるのである。

 ところで、こんな荒廃した世界なのに車が縦横無尽に走り回っているけれど、ガソリンは誰が精製して生産しているのだろうか。どこかに湧いているのだろうか。まさか。

 どうも意味不明のパクリ映画であった。

『ダブル・ミッション 復讐の銃弾』2018年アメリカ
監督D・A・アームストロング、出演ジャスティン・チャットウィン、マーク・トンプソン、ロビン・トーマスほか

 日本人は復讐話が好きだからこの映画にも題名に復讐が使われているが、復讐話ではない。あえて云えばまともな新米刑事が・・・というのはアメリカのカルト映画でほとんど警察ものでまともな警官が出てこないから・・・任務を忠実に執行していく中で警察内部の不正に気付き、その妨害に振り回されながら成長を遂げ、ついに事件を解決するという物語り。

 黒幕に依頼された冷酷非情で不気味な暗殺者の暗殺がリアリティがあり、映画を締めている。だから原題は『The Assassin's Code』となっている。ダブルミッションも復讐もないのである。なんなのだこの題名のセンスは。

 最初の主人公への感情移入がし難いのが響いていまいちなのだが、観て時間の無駄ということはなかった。経過とともに主人公が一人前になっていくのを見せるためにはこれでいいのかも知れない。
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2019年5月12日 (日)

志賀直哉『菜の花と小娘』

 志賀直哉の最初期三部作といえば、先日紹介した『或る朝』、『網走まで』、そしてこの『菜の花と小娘』の三作である。この『菜の花と小娘』は最も早くに書かれたものだが、一度没にされたためか発表は一番遅い。没にされたと思われる草稿も残されていて、全集に収められている。やはり発表された文章の方がはるかに出来がいい。

 題名から想像されるようにこれは童話である。ちょうどアンデルセンの作品を集中して読んで、それに励起されたと執筆時の日記にあるそうだ。志賀直哉のほかの作品とは毛色がかなり違う。もしかして未読の作品にもっとこのような童話があるのかも知れないが。

 菜の花の視点から世界が見える。娘によって春の小川の流れにのせられ、菜の花は流れ下る。その水の音、春の空気、虫や換える、鳥のすがたがそこにある。思えばむかしはこんな草原(くさはら)があり、小川があたりまえに流れていたのだ。もちろんいまでもこういう景色はあるだろうが、人工物に取り囲まれた箱庭のようにして残されているところが多いのではないだろうか。

 私も幼いころ父の仕事の関係で里山に暮らしたので、それをイメージして読むことが出来た。いまは土にじかに触れたり、小川に手を浸したりすることはあまりなくなっている。自然と接することがなくなって、人間はだんだん生命力を失いつつあるのかも知れない。ブログに草花や虫や鳥のことなどを書いている人たちがお元気なのは自然に接しているからだろう。そんなことがこの童話に書かれているわけではないが。
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映画備忘録(5)

『スティール・サンダー』2018年アメリカ
監督パシャ・パトリキ、出演ジャン=クロード・ヴァン・ダム、ドルフ・ラングレン、アル・サビエンサほか

 最近観たヴァン・ダムの出演映画はつまらない役柄のものばかりで、たまにシリアスなものがあっても悪役だったりしていてがっかりする。若いときの颯爽とした姿が忘れられないけれど、確かに顔は随分悪相になってしまった。この映画は久しぶりに彼のアクションを生かす映画で、潜水艦の中というかぎられた設定の中での活躍が楽しめた。

 この潜水艦はCIAの極秘のテロリスト収容施設なのだが、工作員のヴァン・ダムはそこへ拉致される。そこは裏切り者に乗っ取られた施設に変貌し、極秘情報資料とともに敵に引き渡されんとしている。孤軍奮闘するヴァン・ダムは、やはり拉致されて幽閉されていた謎の男(ドルフ・ラングレン)を解き放ち、味方につける。この二人が組めば向かうところ敵なしである。お薦めするほどではないが、ヴァン・ダムが好きならどうぞ。

『復讐者のメロディ』2018年ベルギー・フランス
監督ジェレミー・グエズ、出演フィーラ・バーテンス、ローラ・ル・ラン、ローランド・ムーラー、ルブナ・アザバルほか

 期待していなかったのに思いのほかの掘り出し物だった。やはりヨーロッパ映画には出来がいいものが時々ある。仮釈放で刑務所から出所した男は安宿に居を定め、宿の雑用をしたり、近くの食堂の皿洗いとして働く。脚には通信機の着いた足かせがはめられていて、定時連絡を怠ったり、宿から指定時間以上離れると仮釈放が取り消されることになっている。

 そんな男が次第に安宿の女将と女将の娘である少女と心を通わせていく。無口なその男と、年頃でもある拗ねた生き方の少女がぽつりぽつりと言葉を交わしていく様子が、ダークな映像の中に描かれていく。

 そんな中で事件が起きる。静かで真面目に見えた男の怒りの爆発がすさまじい。彼がなぜ刑務所に服役になったのかその理由が垣間見える。人は真面目に生きても災厄に見舞われることがあり、それが悪意によるものであればそれに報復をせずにはいられないもののようだ。

 ついに足かせをたたき壊す男。絶望へ一直線であるが男の熱い心に見ているこちらも熱くなる。救いのない逃亡が始まる。ラストにかすかな曙光が射す。男に生きる希望が湧いたことであろう。
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2019年5月11日 (土)

ちょっとした整理

 旅に行くときの、予約した宿の情報、出かけた先で訪ねた場所のパンフレット、宿の領収証や料理の献立表など、さまざまなものが紙袋に雑然と放り込んである。それらが幾袋にもなってきたので整理した。

 宿に関するもの一袋、旅先の情報に関するもの一袋にとりあえずまとめた。見ているとその旅のことが思い出されてつい手が止まる。これは来週弟と会って彼のリタイア語の旅行の参考にするためだ。

 これらを大まかな地区別に分けたいところだが、そこまででくたびれた。東北、中部、西部の三つに分けようかと思っているが、また今度にする。海外旅行の資料は別の袋に旅先毎にまとめてある。こちらは回数がかぎられているから一目で分かるようになっている。

 旅の資料はリタイアした60歳頃からのものがほとんどである。それ以前のものは残っていない。それなのに、学生時代に親友と佐渡、能登、山陰を野宿旅したときの資料が出て来た。四十五年以上前のものである。思い出として残したのだろうが、残してあったことすら忘れていた。といってもわずかなものしか残っていないが。

 なんだか思い出を整理しているようで、複雑な心境だ。以前は行ったことのないところを目指していたが、だんだんお気に入りの場所に繰り返し行くようになっている。冒険する気力が衰えているということだろう。なじみの場所、なじみの宿に泊まり、その範囲で見たことのない細部を訪ね歩くことに面白さを感じている。

 こういう心境だと、以前のように中国や台湾に一人で出かけて歩き回るというのはなかなか出来ないだろう。さいわいいまは海外に行くときは親しい友人二人と行くので、冒険するのも心強いのである。今年も秋に行くことが決まっていて予約も済んでいる。
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本当に情勢が変化しつつあるのか

 ネットニュースはいつも見るニュースが優先的に出るらしいから、韓国のニュースというと私がまともだと思う保守系の朝鮮日報や中央日報の記事が多くなる。政権寄りのハンギョレ新聞などは違うのかも知れない。

 そのニュースを見ていると、いまの文在寅政権の対日政策があまりに問題がある、との論調が韓国内で増えているようである。いままでは大っぴらに言うと袋だたきに遭いそうな言説が、知日派の人たちを中心に展開され始めているようだ。いい加減にしろ、ということのようだ。

 その微妙な空気を感じてだろうか、文在寅大統領が日本に対していままでとは少し融和的な物言いを始めたと韓国通の人から評価されているようだ。天皇陛下の即位に対しての祝意の言葉や日本に対しての言葉にいままでとそれほどの変わりがあるようには私には思えないのだが、専門家、特に韓国と仲良くしなければならぬと固く信じている人たちは、その微妙な変化を読み解くことが出来るらしい。

 歴史認識を政治問題化するのをやめるように文在寅大統領は日本に対して繰り返し言い、いまも言い続けていてそこはまったく変わっていない。日本が、つまり韓国から見れば安倍政権が歴史認識を政治問題化していると非難しているのだが、安倍首相が歴史認識を政治問題化した発言を繰り返していると思う日本人はいるのだろうか。まともな日本人なら歴史認識を繰り返し政治問題化して発言しているのは文在寅大統領であり、韓国与党のともに民主党の面々ではないのか。

 韓国の人々は文在寅大統領のその言葉をそうだそうだと賛同しているのだろうか。文在寅大統領は本気でそう思っているのだろうか。それなら彼と我とはあまりにも認識が違いすぎる。

 そこまで違っていると話し合って分かりあうのははなはだ困難であろう。前提になる認識が違えば、話し合っての合意が簡単に踏みにじられるのはいままでそれこそ繰り返し日本が経験してきたことだ。

 その文在寅大統領がG20で安倍首相と是非会談したいと申し入れているという。話し合うことはいいことだという日本人の幻想を打ち砕いてきたのは韓国であることをまず自覚してもらわないとならないだろう。これまでの経験から、安倍首相が「会談には意味が無い」と申し入れを蹴っても当然だと思う日本人は多いのではないか。蹴れば蹴ったで「日本が蹴った」と国内で言い立てることだろう。別にそれでお互いにかまわないのではないか。

 敵対していても外交には相手に対する敬意というものが必要だろう。その敬意を北も南も全く欠いているように見える。礼儀を重んずる儒教の国を標榜してきたはずの国なのに、礼儀がないようにしか見えない。常に支配され続けてきた民族のコンプレックスから生ずる宿痾だろうか。そんな理由があったとしても、だからしかたがないというものではないけれど。
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2019年5月10日 (金)

父の誕生日

 そういえば今日は父の誕生日であった。私と二日違いなのである。大正三年生まれだから生きていれば105歳である。それでも97歳の誕生日を迎えてから10日後に亡くなったのだから長命であった。

 酒も煙草も生涯嗜まず、早寝早起き、死ぬ数日前まで好きな庭いじりをしていた。私の子供たちをことのほか可愛がり、私が子供たちを連れて会いに行くことをとても楽しみにしてくれていた。私が男手ひとつで子供たちを育てていたので、出張などで家を空けることもあり、ときどき両親が二人でわが家に滞在して子供の面倒をみてくれた。ことのほか可愛がってくれたのはそうやって面倒をみたからでもあろう。いつも気にかけてくれていた。

 今日は父のことを思いだしていた。普通なら父に献杯するところだが、来週定期検診なので昨日から休酒中であり、酒は飲まない。
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さわやかな朝とくもった頭

 昨朝、そして今朝ともさわやかな朝である。窓をすべて開け放つ。空気がひんやりしていてまことに気持ちが好い。こういう快適な気候は短いから、よくよく堪能しておかないともったいない。ベランダで深呼吸する。

 空気がさわやかなら自分もさわやかかというと、残念ながら頭の中は霞がかかったように朦朧としている。天気でいえば曇りである。こういう状態のときは集中力が持続しない。集中力が持続しないことで苛立ちがつのる。一番楽しみなはずの読書に集中できない。しかたがないから短いものを拾い読みしている。

 バイオリズムだろうか。集中力が湧き出て、雑念が雲散霧消していくらでも本が読めるときと、遅々として読み進めないときが交互に訪れ、その交替が歳とともに早まり、しかも望まない方が長くなっていくような気がする。

 そういうときは録りためてあるドラマや映画を観る。随分何本も観たけれど、そのことをブログに書き留めようと思いながら書いていない。忘れてしまわないうちに少しずつ書くことにしようかとぼんやり思っている。
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2019年5月 9日 (木)

志賀直哉『荒絹』

 志賀直哉の小説はほとんど読んだと思っていたが、全集を読み進めていくとまったく記憶にないものに出会う。私が読んだ文庫に収められていなかったのか、私が忘却したのかも知れない。

 この『荒絹』というごく短い小説は、しかし一度読んで忘れるというようなものではない。印象が強烈だからだ。山の女神の嫉妬が、愛し合う阿陀仁という好青年と美しい荒絹という娘の仲を引き裂く。阿陀仁に頼まれて荒絹を捜しに山中深く分け入った隠者が見た荒絹の変わり果てた姿はおそろしい。

 それで物語は終わりである。救いはないのである。愛し合う二人が愛に盲目になるとき、女神の嫉妬が燃え上がるが、人は愛に盲目になるものであって、打算的な愛は愛とはいいがたい。しからば常に女神の呪いはそこにあるのである。あまりにも理想的な男女の愛は、却って成就しないのかも知れない。男女の仲は多少打算的な方が安全で、まったく打算的ではない恋は危ういということか。知ったようなことをいう私は、哀しいことに本当の恋を経験しているとはいえないから、女神の呪いも受けたことがない。それはしあわせか。

 これを長編にしたら泉鏡花の小説になりそうだ。
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独り酒

 昨日は69歳の誕生日だった。娘や息子から祝いのメールをもらう。妹からも電話があった。弟にはこちらから電話した。今月20日が父の祥月命日なので、その前に弟の家のある千葉へ行く。妹と打ち合わせて兄弟が合流するすることにしたのだ。弟が今月末で定年退職する。リタイアしたら一緒に旅行に行こうと約束しているので、その打ち合わせもする。

 さらに松戸の兄貴分の人といつものように船橋で会食することも決めた。来週は前半にまた飛鳥を歩く予定。本命の石舞台へ行くのを最後のハイライトにしてあったのでそのあたりを歩くつもりだ。今回は奈良の友人二人と現地で会食する。これも連絡済み。

 連休が終わり、世間が日常にもどったのを見計らってふらふらと動き出すわけである。

 晩酌は自分としては控え目にしている。独りで酩酊するほど飲んでもあまり美味しくない。しかし昨晩は一人ではない気分で好い気持になり、ちょっと好い肴を揃えていつもより少し余分に飲んだ。

 息子の彼女がこのブログを見るようになったそうだ。一人読んでくれる人が増えたわけで嬉しい。
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2019年5月 8日 (水)

多すぎても友

 手に入れるのが嬉しくて集めているもの、本と映画の録画。ほかにも小物が少々あるがとるに足らない。それぞれ読むこと、観ることを目的にしているのはもちろんだが、読むにも観るにも一定の時間を必要とする。自分の持ち時間を遙かに越えての蓄積は自分を困惑させるものであることをいま感じている。芥川龍之介の『芋粥』の「某という五位」の心境というところか。

 ただ、彼と違うのは、図書館ほどの本に埋もれているわけでもフィルムセンターほどの映画のソフトが積まれているわけでもないから、まだ歯止めも利くし、選択することの楽しみもあるのだと思える状態だということだ。食傷してしまったり、食傷した自分を想像してげんなりしたりしてはいない。

 今日は誕生日。いつも通り静かにひとりの時間を過ごしている。そのときに何よりの友が身の廻りにあるのだから、幸せとしなければならないだろう。
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