2018年7月18日 (水)

映画『ザ・シューター 孤高のテロリスト』2013年デンマーク

監督アネット・K・オルセン、出演トリーヌ・ディルホム、キム・ボドゥニアほか。

 社会悪に対するテロは正義か?これはテロではないが、チャールズ・ブロンソン主演の『狼よさらば』という映画を思い出す。街のチンピラたちとのいざこざをきっかけにして逆恨みされて妻子が彼らに襲われた男の復讐譚(そういえば『マッドマックス』も同じである)だが、復讐が次第に野放しにされている社会悪への制裁という、正義の個人的行使の様相を呈していく。これには『ロサンゼルス』、『スーパー・マグナム』以下、だんだんエスカレートしていく続編が作られていて、次第に彼の怒りに共感して感情移入してしまう。それは自分の怒りの代わりに彼が悪に制裁を加えることで得られるカタルシスが快感なのであり、ある意味で危険なことでもある。

 とはいえこういう映画や物語を楽しむことで人は怒りのエネルギーを発散させるという働きもあり、結果的に現実の怒りの行使を抑制する働きもあるのかも知れない。人は正義の確信があるとはいえ、なかなか実際に法を犯すことは出来ないものだ。しかし人間にはさまざまな人がいて、中には発散するよりも、内圧を高めて実行に移す場合もあるのが恐ろしい。

 環境保護を謳っていたデンマークの新首相が、経済的な面とアメリカの圧力もあり、グリーンランドなどの原油生産拠点を推進していこうとする。国民の中には反対意見も多いが、環境に問題は無いようにすると言明する。しかしその計画に何らかの情報隠蔽があるのではないかと追求する女性ジャーナリストのミア(トリーヌ・ディルホム)。

 そんなときその計画に関係する人物が狙撃を受ける。弾は逸れるが、それは抗議のための警告だったからだ。そしてその狙撃犯からミアに連絡が入る。自分の持っている情報を渡すので発表して欲しいというのだ。渡された情報には計画による環境汚染のおそれについての詳細なデータが含まれていた。しかしその情報は政府によって一蹴されてしまう。

 そしてテロリストは本格的に始動する。

 社によりミアに課された使命と彼女に対する政府のさまざまな圧力、そして孤独なテロリスト、ラスムス(キム・ボドゥニア)の行動が交互に描かれていき、ついに正義の銃弾は放たれる。

 彼女は個人的に優先させなければならない大事な用事を抱えていた。そのことは冒頭から明らかにされているのだが、社会的使命、会社の命令などが彼女の最も大事なことから彼女を遠ざけていくという焦燥感が、彼女のジレンマとして常につきまとう。上手い設定である。

 デンマークという国は特異な国で、ある意味では日本に似ているところもあると思っている。私個人としても、アンデルセンやキルケゴールを産んだ国としてヨーロッパで最も興味のある国で、いつか行きたいと思いながら果たせずに終わるようだ。そのデンマークのドラマや映画はおおむね出来が良くて面白い。この映画も大作ではないが見応えのある好い映画だった。

近藤大介『未来の中国年表』(講談社現代新書)

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 これからの中国がどうなるのかという予測を、人口問題という視点から解析していく。中国は「一人っ子政策」という方法で少子化を実験的強制的に行った国である。そんな政策をとらなくても先進国はほとんど例外なく少子化しているが、鄧小平たちが「一人っ子政策」を強行したときにはそんなことは想像もしなかったことだろう。人口は放置すれば必ず過剰に増えてしまうものだと思っていたに違いない。

 もちろん強制的に少子化を断行したのは中国の人口が凄まじい勢いで増えていたからである。その人口増のおかけで国民は皆貧しかった。人口をコントロールすることで経済発展の恩恵を国民全体に行き渡らせられたら良い、と夢想していたに違いない。しかしその先に少子高齢化が待ち受けているとは思いも及ばなかったようだ。

 もちろん鄧小平はある程度のところで「一人っ子政策」をやめるつもりだっであろうと思う。ところが彼はその前に死んだ。「一人っ子政策」の推進のための管理部署がある。そして中国は、管理するところには強大な利権が生ずる。どうも少子化の弊害が出て来そうだと多くの人が感じ始めた頃、繰り返し「一人っ子政策」見直しの論議が起こされたが、利権にたかる黒い頭のネズミたちはそれを潰し続けてきた。そもそも子どもを産む産まないを国家が管理するなどということはあり得ない暴挙なのだが、それがまかり通ってきたし、いまもまかり通っているのが中国という国なのである。

 そうしてこのままでは大変なことになることが明らかになって、ようやく子供は二人まで作って良いということが公認された。では公認されて二人目の子どもがどんどん生まれたのか?中国の出生率は劇的に改善されたのか?統計値についてはこの本を読んでもらいたいが、出生率はほとんど変わらないのである。いや、二人目を産んでいる人はたしかに激増している、はずである。証拠もある。なにしろいままで二人目というのは少数民族以外は原則いなかったのだから。それなのに出生率が変わらないと云うことは・・・つまり若い夫婦はますます子供を産まなくなっているのである。

 中国の人口が減少に転じる年は十数年先とみられていたが、このままでは数年先にそのときが来るかも知れない。そして少子高齢化の巨大な津波が日本に遅れて中国にもやってくる。

 この本は、中国経済についての現状分析と人口問題を絡ませながら近未来の中国を未来年表の形で予測していくのである。はたして中国の未来は習近平が謳うようにバラ色なのだろうか。

 知っていることも切り口を替えてみると面白い。そういう意味で大変面白い本である。人口問題は非常に深刻な問題であることもよく分かる。そしてその問題はまさに日本の目の前に待ち受けている問題なのである。その深刻さをどこまでみな分かっているのだろうか。気がついてももう遅いけど。

2018年7月17日 (火)

映画『エイリアン:コヴェナント』2017年アメリカ・イギリス映画

監督リドリー・スコット、出演マイケル・ファスベンダー、キャサリン・ウォーター、ビリー・クラダップ、ダニー・マクブライト、デミアン・ビチルほか。

 2012年の『プロメテウス』(リドリー・スコット監督)に続く物語であり、全体としてはあの『エイリアン』の前日談の位置づけとなる。傑作『エイリアン』は同じくリドリー・スコット監督による1979年の映画である(ずいぶん昔のことだったのだ)。あの映画を観たときは衝撃的だった。そして『プロメテウス』も傑作だと思う。しかしこの『エイリアン:コヴェナント』についてはそこまで高く評価する気になれない。

 映画として面白くなかったわけではない。未知の惑星に降り立った乗組員たちの不用意さ、危機に対する鈍感さが往年のテレビドラマ『宇宙家族ロビンソン』並みで、いくら何でもひどすぎる、と思ったのである。ラスト近くでも、嵐の中を母船をあまり地上近くまで降下させると船体破壊を起こす可能性が高いと母船のAIが警告しているのに、調査隊を救助するために危険を冒し、無茶をして、しかも船体破壊は起きない。それなら警告はなんだったのか。

 無理を通せば道理が引っ込むなら道理など意味が無くなってしまう。AIは間違った判断をしていたのか。こういう三流ドラマ的なご都合主義がチラリとでも見えるとぶちこわしになるものだ。

 この映画ではエイリアンは脇役で、アンドロイドが主役だ。AIがとことん進み、AIつまりアンドロイド(母船のAIとは関係が無い)自らが判断して創造を始めたらどんな行動を起こすことになるのか、それは人間の想像を超えるものになるというのがこの映画のテーマのように思う。

 余談だが、NHKで『欲望の時代の哲学 マックス・ガブリエル日本を行く』という番組で、ヨーロッパの人々が、特にドイツ人が(日本人には思いもよらないほど)人型ロボットに対して、拒否感を持っているということを知って驚いた。マックス・ガブリエルはドイツの人である。その感覚はこの『エイリアン:コヴェナント』という映画のアンドロイドの描き方にも表れているのかも知れない。これはもともとの『エイリアン』のアッシュというアンドロイドの描き方にも現れていた。

 人間は、アンドロイドが人に似てくれば似てくるほど非人間的なものと感じるものらしい。たしかにそうかも知れない。しかし日本人は『鉄腕アトム』を持っている。あの手塚治虫の世界観を子供のときに刷り込まれている。その違いが案外大きいのかも知れない。

 その非人間的アンドロイドがエイリアンをどう関わっていくのか。リドリー・スコットらしい極めて悲観的な、絶望的な世界がそこに表現されている。AIが進化し、感情を持ち、自分で判断し、創造を始めたらどんな世界を招来するのか。人間はすでに役割を負え、滅びるべきものと成り果てたのか。未来の人類はその答えを識るだろう。さいわい私はその事態に直面することはないが。

想像力のことなど

 NHKスペシャル『人類誕生』の第三集は、『ホモ・サピエンス ついに日本へ!』というタイトルだった。この番組はとても面白い。人類の発祥はアフリカ大陸であることが科学的に確定しているという。しかし人類が誕生してからアフリカ大陸以外の地に拡散していくまでには数百万年の時間がかかっている。やがてネアンデルタール人はヨーロッパ各地に散らばり生息したが、後にホモ・サピエンスに繁栄を譲ることになった。さらにそのホモサピエンスがユーラシア大陸の東の果てにいたり、ついに日本に上陸するに至る話しが今回の第三集である。

 ホモ・サピエンスがネアンデルタール人に優っていたのは想像力と助け合う力だったという。このことは前回に詳しく説明されていた。体力的な強靱さではネアンデルタール人のほうが優れていたのに、ホモ・サピエンスが勝ち残ったのはそれが理由だという。ネアンデルタール人の遺跡はヨーロッパ各地にあり、石器も使用していたことが分かっており、言語も使用していたらしいと推定されている。必ずしも劣っていたわけではないのである。

 助け合う力と想像力が優れているからホモ・サピエンスであるわれわれがいまの繁栄を謳歌できているのだとしたら、いまの世界はどうなってしまったのだ、などと思う。想像力の基本は、たとえば料理なら、段取りがあり、それに沿って事前に食材や調味料を準備し、使用する調理器具を用意して、火加減、調理時間、味付けをしていく。いままでに作った料理の記憶も必要である。案外複雑な知力を必要とする。想像力が弱ければ料理はうまく出来ない。

 ここから原発事故の話に飛ぶ。事故が起きたらどうなるのか、事故としてどういう原因が想定されるのか、その事故が起きないためにどういう対策が必要か、それらを考えるためには想像力が必要である。そんなことは起こるはずがない、というのは想像力の欠如であり、しかも過去に大震災の歴史的な実例があることを知りながらそれを否定するのは知性の欠如であろう。それを震災の予知は無理だった、などという言い訳をする。それで許されると思っているならそれも想像力の欠如によるものだろう。

 太平洋戦争のような戦争を引き起こしたら、いったい日本はどうなるのか、その当時だってちゃんと考えれば分からなかったはずはない。それも想像力の欠如以外のなにものでも無い。

 魚を乱獲した上に海を汚染しまくればどうなるのか、それが全く理解できない人たちがいる。そのことでつぎつぎに大衆魚が市場から消えていく。これも想像力の欠如である。

 ホモ・サピエンスはどうも経済至上主義という悪魔の前に、想像力という能力を差し出してしまったらしい。それによって繁栄したはずの能力を失ってホモ・サピエンスは生き残れるのだろうか。

 もう一つの助け合う力についても同様である。いまのトランプによる貿易戦争などまさにその正反対の反知性的能力といっていい。彼は仲間をだいじにする。だから助け合うために自分の権力を行使していると確信している。それはアメリカの白人だけのため、ごく限られた仲間だけのための助け合う力の行使で、実は人類全体の助け合う力を著しく損なっていることを想像することが出来ないのである。

 人類誕生の番組を観ながら、その人類はそろそろ終焉を迎えつつあるのではないか、などと悲観的なことを考えていた。

2018年7月16日 (月)

映画『ゴースト・イン・ザ・シェル』2017年アメリカ映画

監督ルパート・サンダース、出演スカーレット・ヨハンセン、ピルー・アスベック、ビートたけし、ジュリエット・ビノシュほか。

 士郎正宗の『攻殻機動隊』を原作とするアニメは日本で何作か作られていて、どれも出来が良く面白い。それをアメリカで、しかも実写で作ったのだ。もともとこういう映画は大好きだから、評価は多少甘いかも知れないが、とても良く出来ているし面白かった。サイボーグである草薙素子を日本人ではないスカーレット・ヨハンセンが演ずることに批判もあったらしいが、全く違和感はなく批判するに値しない。

 いままでも攻殻機動隊の世界観は飛びすぎていて多少ついて行けないところがあった(SF好きの私としては口惜しいところだが)。今回も多少その傾向があったけれど、それでも十分楽しめた。世界観にはまりすぎるのも単純に楽しむ妨げになるのではないか、というのは負け惜しみであるが。

 科学が進み、人体がどんどん義体化して、しかも脳がネットに直接アクセスしてしまった世界とはどんな世界なのか。この映画で描かれている世界はあの名作『ブレードランナー』に世界に酷似している。意識的に似せているものと思われる。そういえば『ブレードランナー』のなかでも人体の部分がパーツとして商品として売買されていた。

 サイバー犯罪やテロ行為はますます高度化していて、それを取り締まる組織が主人公の属する部署であり、リーダーはおなじみの荒巻大介(ビートたけし)、相棒がバトー(ピルーアスベック)である。イメージ的にはアニメのイメージを損なうものではないが、ビートたけしの台詞の滑舌の悪さはやや気に障る。

 展開の早いアクションシーン、夜の都会の空間をめまぐるしく縦横に動きまわる映像は楽しめる。この映画では草薙素子の原点のようなものが挿入されていた。母親役に桃井かおりがでていた。

 理屈抜きで楽しめる。

北原亞以子『蜩 慶次郎縁側日記』(新潮文庫)

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 蜩の鳴き声というと映画『トトロ』を思い出す。妹のメイが迷子になり、姉の五月が必死で日盛りを、そしてやがて夕方の里山を捜し回るとき、哀しげに聞こえるのが蜩の鳴き声だ。蜩の鳴き声にははかなげな哀しさがある。

 慶次郎縁側日記は、主人公の森口慶次郎が元南町奉行所の同心でいまは楽隠居の身の上ということで、そこに持ち込まれたり彼の関係者が関わる事件の話しであるからある意味で少しひねった捕物帖である。捕物帖とは時代劇を舞台とした探偵小説ともいえる。たいてい短篇である。そこにはさまざまな人生があり、その人生の陥穽にはまりかけた人間のある「とらわれ」を主人公達が解きほぐして事件が解決する。

 まことに人はとらわれると周りが見えなくなり、自分が見えなくなる。そのとき手をさしのべるのが森口慶次郎である。快刀乱麻を断つような謎解きの物語ではなく、そんなやさしさの物語集で、この『蜩』にはそんな短篇が12編収められている。

 森口慶次郎が主に関わったものばかりではない。彼の入り婿で跡継ぎの現役の同心・森口晃之助が主に関わるもの、その岡っ引きである辰吉が関わるもの、北町の同心から十手をあずかっている(蝮の)吉次が関わったものなどが入り交じっていて、主人公がちらりとしか出てこないものも多い。

 しかし彼等の関係は森口慶次郎が核となっていることは間違いないのであって、その世間に対する態度や関わりは慶次郎の影響を強く受けているのである。だから登場人物達はシリーズを読み進めるほどに親和性が増してきて、実在の人物以上に私の心のなかに棲みついているのである。このあとに番外編として『慶次郎覚書 脇役』という短編集を読んでいる。文字通り縁側日記での脇役たちがそれぞれの短篇の中で主人公としてその内面をさらけ出している。読了したら紹介する。

2018年7月15日 (日)

映画『エンドレス・マーダー』2014年オーストラリア映画

監督ドルー・ブラウン、出演スティーヴ・マウザキス、レオン・ケインほか。

 オーストラリア映画は外れが多いが、あの『マッド・マックス』のような大当たりもあるから、ほとんど外ればかりのカナダ映画より期待できる。そしてこの『エンドレス・マーダー』は小品ながら見応えがある映画だった。

 凄腕の殺し屋のスティーヴン(スティーヴ・マウザキス)はパーシバル(レオン・ケイン)という男から自分を殺すように依頼される。それもいつ殺したのか分からないうちに殺して欲しいのだという。パーシバルは傷だらけの不思議な男である。奇妙な依頼に戸惑いながら引き受けたスティーヴンは別れ際にパーシバルに銃弾を見舞う。

 間違いなく殺したはずのパーシバルは病院に運び込まれ、奇跡的に生きのびる。自分の失敗に驚いたスティーヴンはふたたびみたびパーシバルをさまざまな方法で殺害するのだが、どういうわけかパーシバルは死なない。

 スティーヴンは殺し屋としての仕事の関係で問題を抱えるとともに、三年前に事故で愛妻を喪ったことで精神的にも問題を抱えている。この不思議な出来事が彼の精神的な不調によるもののようにも見えてくる。あり得ないことの連続だからだ。

 その不思議な縁からスティーヴンとパーシバルは奇妙な友人関係を結んでいく。やがてなぜパーシバルは死にたいのか、その本当の理由が明らかになるとともに、なぜスティーヴンはパーシバルを殺すことができないのかその驚愕の因果関係が明らかになり、ついに・・・・。

 途中からこの結末はなんとなく想像がついたけれど、それでも一気になだれ込むラストには息を呑む。たまにこういう映画があるからつい小品映画も観てしまうのだ。

眠れない

 今朝は七時前から30℃を超えていた。昨晩は早めに床についたがエアコンのタイマーが切れたと同時に目が醒めてしまった。眠れないので数独パズルを始めたらますます目が冴えてしまった(当たり前だけど)。無理矢理目を瞑ってとりとめないことを考えていたが却って眠気がなくなっていく。仕方がなく本を読んでいた。読み疲れた頃ようやく眠りにつくことが出来た。

 昨夜から来週月曜日まで休酒することにしているが、眠れないのは酒を飲んでいないからではない。窓を開け放っても朝のさわやかな空気はない。それでもエアコンのスイッチを入れるのはもう少し我慢して扇風機でしのぐことにする。エアコンに当たりすぎると水分の抜けが悪くなって体が重くなる。冷たい水を飲むのも少し控え目にしなければ体調が崩れる。年齢のせいか持病の糖尿病のせいか、尿の出がわるくなって体の水分率が上がるのを感じる。ひどいときは足にむくみが出てしまうが、いまのところそこまでのことはない。水分補給としてコーヒーやお茶を少しずつ飲む。

 体が少しずつ高い気温に慣れてきている気がする。天気予報の気温は部屋の中の気温であって、炎天下の気温はもっと高い。日盛りに外へ出るのは危険だ。不要の外出は控えて部屋でゴロゴロすることにする。怠け者の私には最も得意なことだが、しばしばうつらうつらしていて、そのことがどうも夜眠れない原因らしいことにいま気がついた。

2018年7月14日 (土)

映画『釣りキチ三平』2009年

監督・滝田洋二郎、出演・須賀健太、渡瀬恒彦、塚本高史、土屋太鳳、香椎由宇ほか。

 矢口高雄の漫画を原作とした実写映画。原作の漫画は私が学生時代に愛読していたからずいぶん古いけれど、自分なりのイメージはしっかりと記憶にある。そして主人公の三平三平(みひらさんぺい)役の須賀健太はそのイメージに全く違和感がないのが嬉しい。

 これを実写化するのは下手をすると陳腐になりかねないからずいぶん難しいはずだが、それなりの映画に仕上げているのは監督の滝田洋二郎の手柄だろう。この直前に滝田洋二郎は『おくりびと』でアカデミー賞の外国語映画賞を受賞しているからのっていたのだ。この人の作品は『陰陽師』、『壬生義士伝』、『阿修羅城の瞳』、『天地明察』などを観ているが、外れがない。

 この映画には都会と田舎、都市と自然、人間と自然との関わり、自然の奥深さが説教臭くならない範囲でやさしく描かれている。都会でストレスフルに生きることも人間の生きがいだが、自然に囲まれて厳しいけれども案外豊かに暮らせる里山の暮らしがときには疲れた都会人を癒やすものであることを教えてくれるのだ。こどもには都会と田舎の両方を経験させることがとても大事なことなのではないかとあらためて思う。

 三平の幼なじみとして土屋太鳳が出演しているが、ほぼ十年近く前のこの映画のときは十四五歳だろうか、とても可愛い。香椎由宇はあまり好みでない女優だがこの映画では三平の姉役で、鎧に蔽われたかたくなな気持を次第に和らげていく心の変化を見事に演じていて評価が変わった。さすがオダギリジョーのハートを掴んだ女性だけのことはある。彼女の役柄こそがこの映画のテーマを体現しているのであり、そこがお粗末ならこの映画はぶちこわしだったはずだ。

 雨が多かったので映画三昧だったし、そのあとも暑いので家にこもってたびたび映画を観ているが、それぞれについてブログに書いているとそれが次第に億劫になってくる。本の場合はその本を反芻して考える機会になるので良いのだが、映画は楽しめば良いので反芻の必要は普通無い。逆にブログを書くために映画を観るような気分になっては映画を観る気も削がれてしまう。というわけで、書きたいものだけ紹介している。

 ところで釣りキチのキチはキチ○○のキチで、ことば狩りを正義だと勘違いしているマスコミはこの題名を嫌うことだろう。鬱陶しいことである。ことば狩りについては前にも書いたのでここではこれ以上書かない。

橘玲『朝日ぎらい』(朝日新書)

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 前書きに著者が明記しているが、この本は朝日新聞を批判したり擁護する本ではない。副題にある「よりよい世界のためのリベラル進化論」がずっと良く内容を表している。しかしそれでは本は売れないだろう。リベラル、リベラルというが、リベラルとはなにか、そのことをとことん解析している。引用したり資料として使われる実験的なデータは社会心理学的なものが主である。

 この本をかみ砕いてまとめることは私の手に余る。正直に認めるとそこまで読み切れていないのである。とにかく面白いので十分理解しきれないままどんどん先へ読み進めてしまったのだ。良く理解できないのにどうして面白いのか。目からウロコの落ちる思いのする部分がたくさんあるからだ。思い込んでいたことを見直さざるをえないことに快感を感じさせてくれる本は、私にとって面白いのである。

 日本のリベラルがあまり多くの若者の支持を得ていない理由が明快に説明されていて、まずうならされる。世界が極右的になりつつあるように見えるのはなぜなのか、なぜ安倍政権が多くの若者に支持されているのか、そのことも全く新しい視点から見直すことが出来る。実は世界はリベラル化しているのだ。そして右傾化はその反動としてのバックラッシュであるという。

 とにかくいわれてみるとなるほどと思うことが次々にあって読み進めてしまうのである。全体をもう一度咀嚼し直してものの見方の道具のひとつとしてこの本の視点を自分のものにしたいものだと思う。そのためにはもう一度読み直してみる必要がありそうだ。

 ところで著者の本を読むのは初めてではないのだが、名前を「たちばなれい」と読んで、女性だと思い込んでいた。この本を読んで女性とはとても思えないことに気がつき、確認したら「たちばなあきら」と読むこと、男性であることを知った。恥ずかしい。

 あとがきに朝日新聞について辛口の一文がある。リベラルの旗手を自認する朝日新聞のダブルスタンダード批判である。問題は「ネトウヨ」の攻撃など、外部にあるのではなく、内部にあるのだという指摘は痛烈である。

2018年7月13日 (金)

北原亞以子『峠』(新潮文庫)

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 慶次郎縁側日記シリーズの一冊。もともとは短編小説『その夜の雪』が出発点となってシリーズになったものだと私は思う。それとも最初からシリーズ化を考えていたのだろうか。それほどこの第一作は重いのである。だからこの「この世の雪』は新潮文庫の同題名の短編集と『傷』というシリーズ第一巻目との両方に収録されている。

 祝言を間近に控えたひとり娘・八千代を不慮の理不尽な死で喪った(その顛末が『その夜の雪』という小説である)森口慶次郎は元同心で、同心時代はほとけの慶次郎と呼ばれる情理を弁えた男であった。そんな彼だから八千代と祝言するはずだった義理の息子・晃之助に家督を譲り、いまは商家の別荘の留守番という悠々自適の生活をしていても、さまざまな依頼が持ち込まれてくる。

 このシリーズは彼女が2013年で死去するまで続いたので最終巻まで十冊以上ある。たしか第五巻くらいまで読んだはずなのだが、だいぶ時間が経っているのでまた最初から読み直し、持っていない本はすべて買いそろえた。今回の『峠』はその第四巻に当たる。

 人気の女流の時代作家はおおむね面白い。平岩弓枝の『御宿かわせみ』シリーズ、澤田ふじ子の『公事宿御用書留帳』シリーズ、そしてこの『慶次郎縁側日記』シリーズは特に私のお気に入りである。私にとってのお気に入りとは、二度でも三度でも読むに値するし、棚から引きだしていつの間にか夢中で読んでしまう本だということである。

 そのお気に入りの新作が、『新・御宿かわせみ』以外はもう読めないのはまことに悲しいことである。北原亞以子は五年前に他界。澤田ふじ子はシリーズを終結させてしまった。北原亞以子は東京生まれだが、高校は千葉第二高等学校卒。つまり戦前の千葉高女であり、私の母の後輩に当たる。ひとまわり離れているのに私の母より早く旅だった。ずいぶん早い旅立ちだったのが惜しまれる。

 さまざまな人間が自分だけの人生を必死に、ときには怠惰に、ときには悪い方へ悪い方へと踏み迷いながら生きている。すでに後戻りが出来ない闇に落ちこんだ者、あやうく踏みとどまる者、ハッと気がつくと自分の周りにはたくさんの人生が大河のように流れていることが見える。それをそれとなく知らせるのが慶次郎たちなのである。人は自分しか見えていない。そして自分自身にがんじがらめに絡め取られている。回りを見ることでそのいましめから瞬間的だけれども逃れることが出来ることもある。

 勧善懲悪をこの作家はほとんど語らない。ハッピーエンドも描かない。その手前で筆が置かれてしまうので、読者は自分の想像の中で筆の置かれたその先を想像せざるをえないのである。巧みな余韻の残し方にほれぼれするけれど、それが不満の人もいるかもしれない。

 表題の『峠』はシリーズとしては珍しく中編となっている。

時間を巻き戻すことは出来ない

 東海地方も今週初めにようやく(とはいえ例年より早いが)梅雨が明け、窓を開ければシュワシュワとクマゼミの鳴き声がにぎやかに聞こえる。関東に暮らしていたときはクマゼミの鳴き声は聞いたことがなかったし、その姿も見たことがなかった。三十数年前に名古屋にやって来たころには、アブラゼミの中に少し混じる程度だったのにいまは逆となっている。間違いなく温暖化が進んでいるのが分かる。

 エアコンのスイッチを入れ始める目安の室温を少しずつあげるようにしている。最初は28℃くらいだったが、いまは30℃にしている。体が暑さに慣れてきているし、逆に外気温はどんどん上がりだしていて、今日から数日は36~38℃の猛暑日が続くだろうとの予報である。長時間外を歩くのは控えたほうが良さそうだ。無理をする必要のない身であり、ますます長くなる夏をしのぐためにもその方が良いだろう。

 トランプ大統領がNATOの会合で吠えているようだ。この人はとにかく金の話しばかりである。そういえば選挙中の演説のときに親指と人差し指で丸を作るポーズが頻繁に見られたことを思い出す。あれはまさに金を表しているのだと私には見えた。彼は世界をすべて損得で認識しているように見える。いままでアメリカが損をしてきたのだからみんなも金を払えとEU諸国に要求して、言うことを聞かなければ自動車に対する関税を上げると脅している。これはトランプを支持している多くのアメリカ人の実感でもあるらしい。

 五十年前、四十年前、世界はまだ貧しい国がほとんどで、アメリカだけが豊かだった。その貧しい国々からアメリカに金が湯水のように流れ込んでいた。世界はアメリカの豊かさにあこがれた。それはアメリカの誇りでもあっただろう。三十年ほど前からいくつかの国が次第に豊かになっていった。それはアメリカの富を不当に奪ったものだ、と怒れるアメリカ人たちは日本車などをたたきつぶしたりして日本バッシングをした。

 いま日本だけではなく韓国も中国もヨーロッパも、アメリカほどではないにしても豊かになった。それでも日本バッシングをしたアメリカ人の心性は全く変わっていないのかも知れない。トランプは30年前のその怒れるアメリカ人の感覚のままの人物のようである。アメリカの富を奪ったから日本もヨーロッパも中国も韓国も豊かになったのだ、という確信で世界を見ているようだ。

 世界は平準化する。偏った富は水が流れ下るようにアメリカから世界へ流れ下る。それを防ぐためにトランプは土手を築こうというのである。メキシコ国境に壁を造り、世界に対して関税という壁を作ってアメリカの富の流出を防ごうというのだ。それはまさにアメリカを停滞させることにつながる。経済は流通があるから成り立つ。流通を壁で阻害するのがどれほど愚かなことか、トランプには理解する能力が無いようだ。

 トランプにとって30年前のアメリカを取り戻すことこそが夢であり、国民に対する約束だと考えているようだ。時間を巻き戻すことは出来ない。しかし彼はそのできないことをやろうとしている。アメリカだけが富み、世界を貧しくすることこそが彼がめざしている世界だとすれば、そんなことを世界が受け入れるはずがない。愚かな男である。世界はやがてアメリカに臍を噛ませようと結束するだろう。

2018年7月12日 (木)

驕り・補足

 司法・立法・行政の三権分立という制度は大変良く出来たものであると信じる。他国で見聞きする政治的な問題はそのバランスを失ったことによるものか、またはそもそもバランスが最初から考慮されていないことによるもののような気がする。

 アメリカのトランプ大統領の暴走も、大統領の権限があまりに強いことに起因するのではないか。しかしながらアメリカにはそれを復元する巧妙なシステムが構築されているし、なによりメディアがそれなりの役割を果たしているという強みがある。経済がよほど毀損しなければ、なんとかなっていくのがアメリカという国だろう。貿易戦争でその経済がどれほど悪影響を受けるのか、それはこれから分かってくるだろう。

 韓国はやはり大統領制で、その大統領権限が強すぎることで立法も司法もそれに影響されすぎて歪んでいるように見える。しかもメディアはポプュリズムに支配されてそれを正義と考えているから、その弊害も大きいように見える。韓国経済はその影響をまともに受けてこれから厳しいことになるような気配である。

 トルコは建国の父アタチュルク以来、三権分立を守ってきた。それが国にとって、そして国民にとって最も良いことだと信じて憲法にも明記し、守ってきたのである。それがエルドアン大統領になり、憲法が改正され、大統領に強権が認められるようになった。そのような国がどのような推移をたどるのか、興味深い。泉下のアタチュルクはいまどのような思いでトルコを見ているのだろう。

 中国は一党独裁の国、行政が突出して強権の国である。司法も立法もその支配下にあり、それらの上に共産党があり、それを習近平が支配している。行政が突出しているシステムは必然的に腐敗を生む。行政執行者に強大な権限があり、利権が生ずる。そしてそれをチェックするはずの司法や立法は行政の下位にあるのであるから腐敗するのは当然である。だから習近平は司法の代わりに腐敗撲滅の役割を推進せざるをえないのである。そうでなければ国は内部から腐って崩壊してしまうことは長い中国の歴史が証明しているのである。

 いま安倍政権が危ういのは、行政が司法や立法よりもいささか突出しているからである。立法府が野党の無能によって正常に機能しなくなり、司法が政府の顔色をうかがう傾向がありはしないか。しからば行政のチェック機能が正常に働かない。その上マスメディアは政権や官僚からの情報を垂れ流すか、感情的な善悪論に終始している。

 どうしてこれほど官僚の不祥事が続出するのか明らかである。行政が突出しつつあることで官僚に強権が与えられ、または与えられていると錯覚し、腐敗が進行しているのである。安倍晋三本人の周囲がきな臭いのも必然である。腐敗の必然的な状況にあることの認識を欠いていると、個別の問題としてしかとらえることができない。

 安倍政権の驕りはすでに日本を蝕みかけているような気配であり、安倍政権自体が悪であるかどうかということを別にして、政権の持続はもうしない方が良く交替すべきだ、というのが私の見立てである。

 これは本論と別だが、この前の前に書いたブログの長谷川慶太郎『異形の大国を操る習近平の真意』についてけんこう館様とHiroshi様からコメントをいただいた。そのことで自分なりに考えたことをお返ししたのだが、わざわざコメントの欄を読まない人も多いと思う。公開しているコメントであるからこちらに引き写してもかまわないと判断し、転載する。

コメント
中国とは、のらりくらりで深入りしないほうが得策と思います。移民もシッカリ考えておかないと、気づいたら中国人ばかりということになったら日本の国柄が変わってしまいます。

投稿: けんこう館 | 2018年7月11日 (水) 13時17分

その本でも議論されているかもしれませんが、私は現代中国の最大の危機は「人口学的時限爆弾」だと思っています。
http://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/1928/trackback
中国史の中でも何度も起こりましたし、
http://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/4401/trackback
西欧史の中でも、最近だとイスラーム過激派の出現をそれで説明している人もいるくらいです。
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最近、この人口調節を推進したのが社会学者でも、経済学者でもないロケット科学者であったという本を読み、驚くと同時に「だからそのもつ危険性を認識できなかったのだ」と納得しました。
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投稿: Hiroshi | 2018年7月11日 (水) 13時32分

追伸:本を読んでいないのでどのような理由で長谷川氏が「一帯一路」に参加すべきと述べられているのかは知りませんが、私もこの人口動向から参加すべきだと思います。ただしTPPと天秤をかけつつ。この10年近く、何度も上海浦東空港に着陸した時、その変化に驚かされるものとしては特に。
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また、ほとんど日本では議論されていませんが「一帯一路」は歴史的に補完的というよりも競合的であったという事実も忘れてはならないでしょう。 それは中国の国力を削ぐ可能性もあります。より相補的なのはTPPかと。
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投稿: Hiroshi | 2018年7月11日 (水) 13時55分

Hiroshi様
その件に関してはさまざまに論じられ始めていますが、近藤大介『未来の中国年表』(講談社現代新書)という本に詳しそうなので近々読むつもりです。
2049年の建国100周年を5億人の老人が祝うことになるというその惹句はまさにその状況を表すものだと思います。

投稿: OKCHAN | 2018年7月11日 (水) 13時55分

けんこう館様
中国との関係は好むと好まざると関係なしに深まって行かざるをえないと思います。
そのときに日本人のアイデンティティが損なわれるのか、日本に増えてくる中国人定住者が日本のアイデンティティを自分のものとして取り込んでいくのか、それが日本がこれからも生き易いか、それとも暮らしにくい国になるかを決めるかも知れませんね。
彼らは日本に来て初めて中国の本当の歴史を知ることになると思います。
というより学んで欲しいものだと願っています。

投稿: OKCHAN | 2018年7月12日 (木) 08時39分

Hiroshi様
中国はすでに社会主義国ではなく資本主義の国になりつつあると思います。
そのことがこの長谷川慶太郎の本の骨子です。
しかし共産党一党支配という羊頭狗肉の看板を下ろすわけにはいかないでしょう。
あれだけ大きな国を経営するには強権がどうしても必要なのかも知れません。
一帯一路を進めるには中国も厖大な資本投下が必要ですから、経済余力が失われると中国の国力を削ぐことになるというHiroshi様の指摘はその通りだろうと思います。
アメリカと中国の覇権主義に対抗するためにTPPはささやかな希望かも知れません。
イギリスもEU離脱に合わせてTPP参加を模索しているといいます。

投稿: OKCHAN | 2018年7月12日 (木) 08時47分

驕り

 自民党の参議院議員の定数是正案が参議院を通過した。IR法案とともに今国会会期中に成立の可能性が高いそうだ。それぞれの法案の必要性にはそれなりの理由があるのだろうが、私はいまのところ納得するに到ってはいない。アンケートを見ても、両法案に国民の多数が賛同しているという状態ではないように思う。

 少なくとも賛同するための納得のいく情報が提示されているとは思えない。もちろん日本は代議制の国であるから、賛否を決定するのは任された議員達である。その人達が適切に審議をしていると思えればその採決に従うことはやぶさかではないのだが、そう思えないのである。

 もちろんいままでも安倍政権はいくつもの法案を与党単独、あるいは一部野党のみを引き入れて採決に持ち込んで法案を成立させ続けてきたが、それなりになにを審議しているのかについて情報は伝わっていたし、審議にもそれなりに時間を費やしていた気がする。野党は審議不足を理由に反対したりしていたが、その法案そのものとは関係の無い質問を繰り返して時間を空費していたような印象が強い。

 安倍政権は悪の政権だから何でも反対、ほらこんなに悪いことをしている、と言い立てることに終始している野党は、国民の多くからそっぽを向かれて息切れし、いささか疲れているようだ。  

 定数変更法案やIR法案こそアピールの仕方で国民の反対を糾合するようことが出来そうなのに、いままでの空費の積み重ねが野党の無力感につながり、国民の支持も失い、肝心なときになんの役割も担わず、やすやすとこのような法案を通過させてしまう。

 これは安倍政権の驕りそのものであるとともに、野党の責任も重い。とはいえ国民はちゃんと見ているのである。このような驕りの政治は必ず国民から制裁を受ける。野党の無能を足元に踏みつけて勝ち誇り、やり過ぎたことのツケを必ず払うことになるような気がするし、そう思いたい。

 ただ、現状ではポスト安倍政権が野党になる可能性は絶無だろう。いっそのこと小泉進次郎に次期政権をゆだねても好いではないか、などと夢想する。フランスだってカナダだってあんなに若い人が国を率いているではないか。足らないものは皆で補えばいいのである。

 世界は大きく変わりつつある。激変しているといってよい。変わる世界に対応するために安倍首相はそれなりに頑張ってきたと私は評価している。変わる世界に対応することが出来ずに変わることをひたすら畏れ、変わることは悪だと喚き立てる野党はまさに頑迷固陋の保守そのものではないか。安倍晋三が一強であり続けるのは変革を畏れないからで、ほかにその勇気のあるものがないからではないのか。

 なぜ若者は野党を全く支持しないのか。若者は変革を求めるのである。固陋な老人たちに支配されている社会では彼らの立つ瀬が無いと考えるからだ。いまの野党はまさに既得権を持つ固陋な老人たちを弱者として守ることばかりに力を入れている。若者がどうしてそのような野党を支持するはずがあろうか。

 それならば変革を推進しそうな若い政治家に時代を託す英断を安倍首相はすべきではないか。しかし老人たちはそれに反対し、引きずり下ろそうとするだろうなあ。

南蛮漬け

 昨日午後、娘のどん姫がやって来たことをブログに書いたのだが、あまりにプライベートなことを書きすぎたかも知れないと思って夜中に削除した。自分のことならいいけれど、娘のことをあまりさらけ出すのはどうかと感じたのである。せっかく何人かの人に「いいね」をもらったのに申し訳ないことである。

 そのどん姫がやってくるのに合わせて、一昨日アジの南蛮漬けを作っておいた。ちょうど知多で小アジのあがる時期で、安い新鮮なものがスーパーに並ぶ。ところがアジが中ぶりなものばかりである。刺身用や塩焼き用にはややもの足らないが、煮付けにしたら美味しそうなサイズだ。

 ピーマン、玉葱、人参、鷹の爪を刻んで南蛮漬けのたれに漬け込んでおき、しばらくおいたあとにアジを唐揚げする。野菜を一度たれから引き揚げ、揚がったしりからアジをたれにほうり込む。ついでに残っていたナスを素揚げにしてそのたれに漬け、その上から引き揚げてあった野菜を戻してラップをし、漬かるのを待つ。

 たれの酢と醤油と味醂のバランスが今ひとつ不満があったし、アジが大きいのだから二度揚げすべきだった(頭と骨が思った以上に硬いままだった)かなと思うような出来だったが、どん姫はうまいと言った。

 八月はじめに泊まりでやってくるようなことを言っていたので、今度は酒を飲むためのメニューを考えよう。

 さばいたアジのワタを丁寧に密封してゴミ袋に入れていたのに臭ってきた。あわててマンションのゴミの集積所に捨てた。魚は好いけれど、夏はこれが問題である。コンポストでもあれば良い肥料になるのだろうけれど。

2018年7月11日 (水)

長谷川慶太郎『異形の大国を操る習近平の真意』(徳間書店)

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 日本とアメリカの将来(特に経済面)について極めて楽観的な見通しを述べ続ける長谷川慶太郎翁が、現在のトランプに振り回される世界と、虎視眈々と覇権を狙う中国の実情を分析した上で、いつものように楽観的見解を披瀝している。一体どうなってしまうのだろうかと心配している人間も、これを読めば元気が出ること請け合いである。

 楽観的なのはいつものことだが、いままでもその予測の多くが実証されてきた。とはいえ少し楽観的すぎる気もする。中国は恐るるに足らず、というのが楽観論の根拠といえるのだが、本当に恐るるに足らないのだろうか。それが心配である。

 中国の統治システムが腐敗を生むことは歴史的なもので、現在の一党独裁政治が変わらない限り腐敗の根は絶つことが出来ない。皇帝時代と全く変わっていないのだ。それは行政が突出して権利を有し、司法や立法がその行政のおまけとしてついている体制であるからだ。行政が利権を生み、それをチェックするための立法や司法に力が無いのであるから腐敗は必然なのである。だから中国では腐敗を行政が退治しなければならないという、異常なことが行われざるをえないし、それが権力闘争と極めて酷似した様相を呈してしまうのだ。

 さらに中国の経済体質を変えるためには過剰生産をやめなければならないが、過剰生産の主な原因は国有企業にあり、それを改廃しなければならないことは中国政府もよく分かっている。ところがその国有企業には大きな利権があり、その利権を握っているのは共産党であるから、なかなか抜本的に手をつけることが出来ない。しかもその過剰生産をしている国有企業には多くの人が働いており、改廃淘汰すれば必然的に失業者の大量発生につながってしまう。失業者は社会不安のタネである。中国政府のもっとも恐れるものでもあるのだ。

 もう一つ、中国には都市戸籍と農民戸籍という階級差がある。ところが農民戸籍を持つ農民工が都市部に出て働き、安価で大量の雇用を支えてきた。しかし戸籍の差によって賃金や社会補償に極めて大きな差があり、そのことが社会不安のタネになっている。いままでは農村に足場を持ち、都会に出稼ぎに出ている農民工だったが、世代交代が進み、農村に全く基盤のない農民工の若者が増えている。彼らの閉塞感はさらに社会不安のタネになっている。そこで中国政府は徐々にその戸籍の違いの解消をする方向で模索を始めている。

 多分遠からず都市戸籍と農民戸籍は統一されるだろう。しかしそのときこそそれぞれの格差についての不満が顕在化するとも言えるのである。いままでは戸籍の違いを理由に出来たが、これからは同じ戸籍なのに差があることが社会に対する怒りとなるかも知れない。

 社会不安を畏れる中国政府は国民の監視統制を強化せざるをえない。そのシステムの強化は凄まじいようである。ほとんどプライバシーというものは存在しなくなりそうな気配である。しかし特に違法なことをしないのなら便利な社会であり、別にかまわないではないかというのがいまの中国国民の大方のようではあるが。

 これから万一中国の経済が停滞または後退局面になったとき、はたしてどうなるのか、それを見越して長谷川慶太郎翁は「日本もアメリカも大丈夫」というのである。

2018年7月10日 (火)

曽野綾子『人間にとって病いとはなにか』(幻冬舎新書)

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 そもそも健康とはなにか。病気ではない状態のことのようである。しかしよくよく考えてみると、どこにも病気を抱えていない人間などいるのであろうか。健康とは実は理想的な、空想的なものなのではないかなどと思えてくる。よくよく健康な人というのが、実はよくよくしあわせな人と同様、イヤなものなのではないかなどと天邪鬼の私などは思ったりする。そういう人は病気を抱えている人や不幸せな人のことが理解できないことを、長い人生のなかで見せられてきたからだ。

 体や心が不調のときというのは誰にでもあるもので、そのときにどうすればいいのか、人は案外それに効果的なことをひとりでにするものだと著者はいう。体や心がそれを求めるので、それに素直に従うことで多くの場合は大事にならずに済むものである。しかし現代人はその自分の体や心の求める声を聞き取る能力が落ちているのかも知れない。雑音が多すぎてその声が届かなくなっているのではないか。

 自分の体や心がコントロールできるなどと思い上がっているのかも知れないが、そのために大きな躓(つまづ)きをしがちだ。人は一人一人違うもので、大きかったり小さかったり、若かったり年寄りだったり、強かったり弱かったり、美しかったりそれほどでもなかったりする。それを誇ったりうらやんだりするのは愚かなことだと知りながら、ついそれを忘れる。

 心は体と不即不離なものだから、体調の波で心は翻弄されるものだし、心がめげれば体調も影響される。それらとどう折り合いをつけて楽に生きていくのか、その考え方のヒントがこの本にいろいろと書かれている。それは、人生はときにつらいものだが、ときに楽しく素晴らしいものだと思うためのヒントでもある。加齢による体力の衰えや、不調をどう受け入れて前向きに考えていくのか参考にしたい。

音楽に酔う

 テキサスの州都、オースティンで2015年に開催されたビリー・ホリディ生誕100年記念のカサンドラ・ウィルソンのライブを見た。先日WOWOWの「オフビート&JAZZ」という番組で放映されたものだ。ビリー・ホリディの名前だけは知っている。しかしカサンドラ・ウィルソンという人は知らない。

 夕食、というより晩酌の酒を飲みながら聴く。素晴らしい。彼女の静かに語りかけるような低音の声に魅了される。バックの伴奏も過剰ではないアレンジを楽しんでいるし、小さなオーケストラも抑え気味のサポートをして調和している。大げさでなしに生まれて初めてジャズに心が震えた。

 気がついたら氷をたっぷり入れたグラスにジンを注ぎ、それを舐めながら音楽と酒に酔っていた。蒸留酒を飲むことはめったにないからめずらしいのだ。

 カサンドラ・ウィルソンのライブのあとに、番組のおまけとして上原ひろみが紹介されていた。娘のどん姫にジャズを聴くなら上原ひろみと綾戸智恵を聴いてみろと勧められて、e-onhyoからダウンロードした。その一つが上原ひろみとハープ奏者のセッションで、気にいっている。その共演するようになったいきさつと実際の演奏の様子を番組で見せてもらった。想像以上に強烈なその演奏の様子にもしびれた。

 この歳になってジャズがちょっとだけ感じられるようになるとは我ながら不思議な気持だ。先日来、ジャズと1980年代のロックを聴いているが、ロックは、特にハードロックは、どうしても肌に合わない。ジャズは聞き込むほどにこちらの壁を浸透してくるようだ。音楽を純粋に音として聴くことが少しだけできるようになった気がする。いままでは映像を連想して聴いていたのだ。

2018年7月 9日 (月)

訃報に思う

 加藤剛が先月亡くなっていたそうだ。今年初めにNHKの時代劇、東山紀之主演の『大岡越前』のスペシャルドラマに出演していたのを見て、病が篤そうだなと思っていた。

 加藤剛といえば『大岡越前』を30年演じた、などと報じていたけれど、私にとっての加藤剛は『忍ぶ川』の加藤剛であり、『三匹の侍』での加藤剛であり、『砂の器』での加藤剛である。

 どれも忘れられないけれど、特に橋本忍監督、栗原小巻共演の『忍ぶ川』という映画は私の青春時代に見た映画として忘れられない映画である。三浦哲郎原作のこの映画は、東北特有の暗い血を感じさせるストーリーが、じわじわとこちらの精神に浸潤してくるとともに、若い男女が直接肌を触れあうことで高まる体熱が、その血の宿命を乗り越えるのではないかと思わせる、ほのかな希望の光を感じさせるものであった。

 多分その血の宿命のようなものは太宰治に重なるもののように思う。残念ながらそこまで太宰治を読み込んでいないので分からないが、三浦哲郎にはしばらくはまったのでそんなことを思い出していた。『砂の器』のことになるとまたもう一つブログを書かなくてはならなくなるが、今日は少し余分に酒を飲み始めているのでいまはやめておく。

入道雲

 朝、少し長文のブログを書いたら疲れてしまった。少し弱めにかけたエアコンの効いたリビングで寝転がって音楽を聴いている。ガラス戸越しに見えるとなりの棟の上まで入道雲が立ち上がり、白く輝いている。戸を開ければ蝉の声も近くの幼稚園の園児たちの喚声も聞こえる。夏である。

 ゴロゴロしていないで本を読んだり映画を見ようかと思ったり、雨が続いたあとなのだから久しぶりに出掛けようかとも思うのだが、そう思いながらなにもしないというのは好いものだ。出掛けるとついなにかを買うから金がかかる。このところ少し散財が過ぎたから、しばらくじっとしておいた方がいいか。

 そういうときは頭の中に浮かぶさまざまなことも、形になる前に砕けて散ってしまう。再来週には定期検診があり、そのすぐあとに久しぶりに長老と兄貴分の人との三人での小旅行の予定がある。それまでに少し節制しておかなければならない。そうすれば晴れて美味しいものを食べて美味しい酒も飲めるのである。

 蔵王周辺が主体という大まかな予定は決まっているけれど、いつものように細かいことはそのときその場で決める。ふたりは大阪から新幹線で乗り継ぎでやってくる。私が東北まで車で長駆して拾うのである。だんだんわくわくしてくる。

 入道雲が次第に黒い雲に変わり始めた。まだ青空が見えているけれど、にわか雨でも降るのだろうか。

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