2017年7月23日 (日)

夏休み

 もともと毎日が日曜日で、頭はそのモードになれきっている。その日曜日の頭がさらに夏休みモードになったらしい。ブログに書きたいことはいくらでも沸いてきたものだったが、このごろはなかなか出てこないし、ときに絞っても出てこない。

 そんなふうにして無理矢理書いたものが面白いはずがない。

 ガス欠なのに無理にセルモーターだけ廻しても仕方がないし、本体を傷めそうだ。少し充電のためにペースを落とそうかと思う。暑さのせいばかりでなく、なんとなく心身が不調である。月末の検診で悪い結果が出なければ良いが。

 不思議なのは節制しているつもりなのに体重が落ちないことだ。たぶん水分摂取が過剰なのだと思う。水ぶくれであり、心身が共にむくんでいるのであろう。少し気分転換を考えるつもりだ。

 こういうときに無理に出かけても事故を起こす心配がある。好きな現代美術の画集でも眺めながら音楽を聴き、録りためた映画でも見て過ごすことにする。

宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫)

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 宮本常一(1907-81)は民俗学者。この本は彼が若い頃(主に昭和14年頃)に日本各地の古老などを訪ねて聞き書きしたものをまとめたものである。それらは系統立てて書れていないので、それぞれが独立した話なのだが、全体を読むと明治から大正、そして昭和の初めにかけて、日本という国、特に都市ではなく農漁村がどのように変貌していったのかが見えてくる。

 ここには歴史に出てくるような人物はほとんど登場しない。農村や漁村で暮らす人びとの生の生活そのものが描かれ、人間関係、村という集団の有り様の変化が記録されている。そしてこのような記録がなければそれは全て忘れ去られてしまったはずのものである。

 著者は日本民俗学の巨星でもあるが、この本ではその収集した話について民俗学的な解釈はなされていない。まだ若かったのである。ここには宮本常一自身の生い立ちも書かれているし、彼の祖父との関係も詳しく記されている。彼の祖父はまさに後に彼が訪ね歩いたような古老のひとりでもあったのである。それが民俗学者としての彼を生み出したのかも知れない。

 民俗学的な解釈はときとして検証を伴わない推察であることが多い。その論はいろいろな事例に整合するからなんとなく受け入れられることが多いが、あまり確信を持って決めつけられると眉に唾をつけたくなることもあるのが民俗学だと私は思っている。

 そういう点でこの本はただひたすら聞き書きしたもので、余計な解釈がない点がかえって読みやすく、とても面白い。あけすけな性的な話が語られているものもある。これでもずいぶん修正削除したという。現代の価値観とはずいぶん違い、おおらかでかつ辛辣だが、その中で倦まずたゆまず暮らした多くの人たちの話がここには収められている。生きるとはどういうことか、原点から考え直させてくれる。

 「忘れられた」のは彼等だろうか、私たちだろうか。

2017年7月22日 (土)

養老孟司『京都の壁』(PHP)

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 「壁」について岩波国語辞典を引くと、「①家を囲い、または室の間のへだてとするもの」とあり、「②障害。障害物」ともある。養老先生の言う壁には、見えるものと見えないものとがあり、自らを護るために囲むもの、そして自らが囲まれているものを指しているようだ。大ベストセラーになった『バカの壁』などは見えない壁だろう。それを先生は見せてくれた。

 京都をしばしば訪れる養老先生が、その京都の千年を超える歴史を背景に、京都がどのような場所であり街でであるのかを「壁」というキーワードで考察している。京都には壁がある、と言われることも多いが、本当に京都には壁があるのかないのか。


 先生も最初に語っているように、西洋も、中国や朝鮮も、都市は城壁で囲まれていた。中国では西安のようにそのまま残っているところもあるし、一部だけ残されているところもあって、それを目の当たりにすることが出来る。ところが日本では城本体は別として都市全体を城壁で囲うということはしない。日本はどうしてそのような壁で都市を囲まなかったのか。そこから京都についての考察が始まる。それは日本について、そして日本人について考えることでもある。

 どんなときでも、どんなところでも、先生は考える。考えることを楽しむ。考えるためにはきっかけが必要で、それを見つけるには好奇心が必要である。好奇心がないと何も考えることなく全てが見過ごされていく。好奇心から「?」と思ったことをたくさん懐に集めて、それについて考え続け、それを関連させていく。そうすると思っても見なかったようなアイデアが浮かぶ。世界がベールを少しだけ脱いで、違う姿を見せる。

 それをこのような本の形にして我々は知ることが出来るのである。京都に限らないが、どこかを歩くことが、何かを考えるきっかけになることをあらためて教えられた。それには好奇心を持ってきょろきょろする必要がある。それは実はとても楽しいことなのだ。そのことは池内紀氏の本でも感じることが出来るし、最近いろいろ蒐書した内外の紀行本を読む楽しみもそこにあるのである。

2017年7月21日 (金)

プリンターを疑う

 古い(といってもまだ5年程度しか使用していないが)キャノンのプリンターは印字がずれるようになったのでお払い箱にしようとしているが、どういうわけか黒インクだけが3~4個残っているので、それを使い切るまでモノクロにして、長いネットニュースなどをハードコピーするのに使っている。

 不思議なのはモノクロにしているのに、ほかのカラーのインクが消耗することだ。もともとプリンターのスイッチを入れるたびにノズルチェックのためか全色のインクを吐出しているらしい気配はあったが、それがスイッチを切らないのにちょっとプリントの間隔が開いただけでそのたびに吐出しているらしい音がする。

 不審なのは、モノクロにしているのに黒のインクはあまり消耗しないでいつまでも使えることで、カラーだけがつぎつぎに消耗してインクが空になっていく。空のまま使い続けると不具合になると警告は出るが、当方は黒だけ出ていればかまわないのである。なにしろ黒一色ならズレようもないから問題ないのだ。

 すでに写真のプリント用にだいぶ前に新しいプリンターは購入してある。古い方はいつでも引退OKなのである。新しい方も色刷りしたいときには使うようにしている。ところがこちらはインクの無駄打ちが少ないようである。

 勘ぐれば、ハードを安くしてインクで元を取るという方式をとっていくうちに、とことんインクを消耗させる仕組みにしていたようである。使用しないインクがどんどん減るのだからそれは明らかだ。しかしあまりそんなことをしていれば不評を買うだけで、対抗会社と結託しているうちはいいが、より無駄を減らしていかないと競争に負ける。それでなくともエプソンは大量のインクが入るインクタンクを売り出し始めた。

 エプソンにも魅力があるし、写真の印刷ならエプソンの方が色が鮮やかなのだが、何しろプリントが遅すぎた(最近は知らない)。枚数をプリントするときにはイライラする。それに懲りてから今はキャノンばかりになっている。

 キャノンも無駄にインクを消耗させて稼ぐという姑息な手段を執らずにハードをそれなりの値段にしてちゃんと商売をしたらどうか、と思うがどうか。実際に検証したことではなく、自分の経験から感じたことをいっているのだが、間違っていたら申し訳ない。

 何しろインクの原料である染料が高いと言ったってタンクに入っているのは染料を溶かした液体の数グラムである。染料本体にしたらそのまた何分の一か何十分の一だ。ほとんどボロ儲けではないのか。それをさらに無駄遣いさせていたなら阿漕な商売だと思うぞ。プリンターの使用頻度の高い人はそう感じていると思うけれど、そうでもないのだろうか。

ドラマ三昧

 『相棒』シリーズの再放送をほとんど観終わったと思ったら、今は『科捜研の女』のシリーズの猛攻に遭っている。ようやく来週くらいで一段落しそうな見通しで、片端からたまったものを観ているところである。このシリーズも観ていると当初の榊マリ子(沢口靖子)のキャラクターが次第に変化していることが分かって面白い。

 沢口靖子はデヴュー映画(武田鉄矢主演の『刑事物語 潮騒の詩』)を観て以来嫌いではないので、このシリーズも飽きずに観ることが出来る。シリーズドラマでは嫌いなものの方が多いのは幸いである。そうでなければ再放送があるのを片端から観ていたら朝から晩まで見続けなければならなくなる。

 BSフジの時代劇シリーズで山本周五郎のシリーズが春頃から始まって楽しみに観始めたのだが、役者が下手くそで、お粗末な出来のものが続いたので、観るのをやめた。以前藤沢周平のシリーズのときはそれなりの俳優で出来も良かったのに、どうしたことだろうか。経費節減でもしたのだろうか。

 毎日少しずつ観れば良いのだけれど、観るときは一気に観るので、ほかのことが何も出来なくなる。それはそれなりに楽しんでいるので不満はない。AVシステムを活かしてそれなりの音を鳴らしているので、ドラマの世界にはまれるのは幸いである。ただ、下手くそが出てくるとぶちこわしになって腹が立つ。さいわい『相棒』も『科捜研の女』もゲスト俳優はほとんどオーケーである。

2017年7月20日 (木)

夏休み

 五月に友人からもらったマイクロトマトの苗をベランダの鉢に植えていたが、先月末にはつぎつぎに花が咲き、今月初めから実をつけている。小粒の葡萄ほどの可愛いトマトだが、赤くなったのを食べればその味は立派なトマトである。つぎつぎに新しい実が生り、このごろは毎日片手に一握りくらいとれる。

 写真を掲載したいが、あまりにもいい加減に植えてあるので見てくれがとても悪い。ちゃんと実が生っていることを報告するに止め、写真は恥ずかしいのでやめておく。

 愛知県の学校は今日が終業式だそうだ。昼頃用事で名古屋に出かけ夕方帰ってきたら、マンションの集会場に子どもたちがたくさん集まって何か打ち合わせをしていた。夏祭りの準備でもしているのだろう。八月の初めにマンションの夏祭りがあって、けっこう盛大であり、昼には子供神輿も練り歩くし、晩には夜店が並び、舞台もしつらえられてプロの司会者を呼んで歌や踊りなど演し物もいろいろある。

 今年は役を引き受けていないけれど、声がかかれば得意の焼き鳥コーナーのお手伝いくらいはする。暑い中での生ビールはとても美味い。

 もう夏休みなのだ。子どもたちは嬉しいだろう。これからベランダ越しに子どもたちの元気な声が聞こえる日々が続く。少々やかましいけれど、悪くない。

辺真一『在日の涙』(飛鳥新社)

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 韓国に関するニュースに良く出ているコメンテーターだからたいていの人は著者を知っているだろう。著者はあの目張りをした、つり目でキンキン声のお姉さんとは違って、冷静に自分の考えを語る。意見はどうあれ、あれならその話を聞こうと思わせる。キンキン声のお姉さんのように人の話を遮って一方的にまくし立てるようなこともしない。じっと相手の話が終わるのを待って話す。

 しばしば感情的に話す人よりも、冷静に話す人のほうが心が熱いものだ。そのことをこの本を読んであらためて実感した。

 たぶん著者はこの本を韓国にいる韓国の人びとに読んでもらいたいだろう。しかしいま韓国の出版社が韓国でこの本を出版するとは考えられない。そのことがそもそも韓国という国の問題だろう。日本のようにどんな言論も自由に表明できる国とは違って、民意に反すると、社会的生命が葬り去られてしまうのが韓国という国だ。そのことはこの本の中にも痛憤と共に語られている。

 韓国という国の成立の経緯、反日が醸成された経緯が書かれているけれど、ここに書かれていることを韓国の国民はそのまま受け取ることはしないし、出来ないだろう。彼等が反日教育で刷り込まれた思い込みがそれを許さないにちがいない。そして日本の若者もその経緯を知らない。今の若者が近現代史を知らないことは恐ろしいほどである。

 著者の両親は済州道から仕事を求めて日本にやって来て在日となり、著者は日本で生まれて日本で育った。しかし半島が祖国であるという思いは強くある。その思いが強くあるからこそ、韓国という国がこのようであって欲しいという思いも強い。その思いとはるかに違う現実に歯ぎしりする思いをしていることがよく分かる。

 在日の人びとこそが、日本人以上に今ある韓国という国の姿に強い憤りを感じていることをこの本を読んで感じた。ただ相手を非難するのではなく、そうではなくて事実はこうなのだと韓国の人びとに伝え、間違いを正して日本と韓国の関係をあるべき姿にしたいという熱い思いがあふれているのだが、これを読めば韓国の人びとは彼をどう見るか。

 今の日韓関係がここまでこじれたのは、日本の対応にも原因があることも繰り返し指摘されている。その通りだと思う。相手に妥協して自国の主張を引き下げ続けたことのツケが結局ここまで関係をこじれさせた、という意見は、その通りであろう。朝鮮統治に対する贖罪の気持のように言い訳するが、実はそこには日本側が韓国を見下げる部分があったのではないか。日本が日本の立場を対等に主張しないことこそ韓国に対する侮蔑であると私などは考える。それを韓国の人びとは感じていないか。

 この本で日韓関係について考えるというのが本来の読み方だろうが、私には在日の人びとの思い、特に著者の思いを知ることが出来たことがこの本を読んだ収穫だった。

 彼の望む日韓関係は当分実現しそうもない。その理由はこの本に書かれている。

2017年7月19日 (水)

ギシギシいう

 むかし格闘技の乱取りをやっていて、フックをまともにあごに受けてしまい、あごが外れかけた。しばらくものを食べるのも辛かった。特に医者にも行かずにいたので、ときどきあごのちょうつがいに違和感があることが続いた。

 いまふたたびあごに違和感がある。口が大きく開けられない。無理をすると左側のあごのちょうつがいがギシギシいう。右でものを噛むときと、左でものを噛むときとではあごのつなぎ目がずれるのが感じられる。噛み合わせが狂っているのだろうか。

 ほかにも思い当たることがある。もう七、八年前になるが、名古屋で友人と飲んだあと、近所の小さな朝鮮料理の店で飲み直したら、酩酊しすぎて、帰り道でちょっとした段差で足を取られて顔面から地面に激突した。さいわい歯は折れなかったけれど、唇を切ってしばらく外に出られない顔になった。あのときにあごを打ったような気もする。

 それやこれやでいろいろあごには負担をかけている。それらのどれかか、または複合的な要因で、あごがどんどんズレてきているのかも知れない。なんとなく下あごが前へせり出し始めているような気がしている。下あごを押し込むようにするとちょっといいような気もするが、やり過ぎて外れたらこわい。

 いまのところ意識していると元に戻るが、うっかりするとちょうつがいがギシッと鳴る。大口を開けないと食べられないようなものは、危険な状態である。どうも体全体がひずんできたようだ。もしかしたら頭の中までひずんでいるかも知れない。

オールディーズ

 10日ほど前に信州松本に住む友人から蕎麦が送られてきた。半生蕎麦で、更科蕎麦と戸隠蕎麦がツユや蕎麦茶と一緒にセットになって入っている。新そばではないがとても美味しい蕎麦である。半生蕎麦だからどんどん食べないといけない。それに茹で時間をまちがえると台無しになるので時計を見ながらきちんと茹でる。ネギやワサビを入れずに食べると蕎麦そのものの味が際立つ。ワサビではなく、ゆず七味で食べるのも案外旨い。

 この蕎麦は彼からの暑中見舞いであり、しばらく来ていないから遊びに来いよ、というお誘いでもある。旅心が疼くが、諸般の事情もあり、行くとしても来月後半である。それに彼はクーラーが嫌いだから備え付けていない。松本は、朝晩は涼しくなるとはいえ真夏はやはり暑い。ちょっと辛いのである。

 彼は私の倍以上の酒豪であり、嬉しそうに、そして美味しそうにぐいぐいと酒を飲む。彼と酒を酌み交わすのは無上の喜びだ。そういうわけで、私からは夏用に冷酒を送ってある。一度に飲みきらずにゆっくり味わってもらえると良いのだが無理か。

 その友人はプレスリーが大好きだった。プレスリーが死んだときは大いに嘆いたものだ。私はそれほど好きではなかったけれど、彼の影響を受けてプレスリーのラストコンサートの映画を見に行ったりした。死ぬ前は薬物摂取のせいかむくんでしまっていて、若いときのように颯爽としているとは言いがたい姿だったけれど、どういうわけかそれを見てからプレスリーが好きになった。格好が良すぎるプレスリーではなく、そこに彼の哀しみが見えた気がしたからかも知れない。プレスリーが死んだのはそれから間もなくである。

 そのプレスリーを初めとするオールディーズのCDを聞いている。50年以上前の私の若いときや、古いものは私の子どもの頃の海外のポピュラーやジャズボーカルが収められている。今と違って当時はラジオからその音楽を聴いていた。映像がない分ストレートに音楽が心に響く。なつかしさが沁みる。

 五枚組なので、残りは晩に酒を飲みながら楽しむことにしよう。

瀧森古都『悲しみの底で猫が教えてくれた大切なこと』(SB creative)

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 それなりに面白いけれど、私としてはお薦めする気になれない。帯には10万部突破とあり、「衝撃の結末に号泣した」などと言う読者のコメントもある。

 自分がプロの作家ではないから、勝手なことを言わせてもらえば、高校生のまあまあ出来の悪くはない同人誌の長編小説を読まされた気分だ。つまりアマチュアの文章なのである。言葉の使い方がやや類型的で、会話にも不自然さが感じられる。昔なら編集者に突き返されるような作品だが、今はこういうものも出版されるのだ。

 感動して好きになるなら勝手だが、私は二度とこの作家の作品を読もうとは思わない。ストーリーが出来すぎであることはこのような物語の場合にあっても良いことだとしよう。それにしてもそれぞれの登場人物の抱える悲しみが表面的にしか描かれていないので感情移入できない。出来なければ感動も起こりにくい。

 たとえて言えば、出来すぎのお涙頂戴のテレビドラマを下手くそなタレントの演技で見せられたようなものか。もしかしたらドラマになるかも知れない。

 それにしてもやたらに空行を挿入する本を初めて読んだ。まるで縦書きのブログでも読んでいるようだ。スカスカなのである。そのかわり読みやすい。あっという間に読み終えることが出来る。そのことに感動した。

2017年7月18日 (火)

目的は金か?

 最初に断っておくが、以下のことは詳しいことを知らずにああだろうか、こうだろうかと思ったことを無責任に書いている。正義を盾に怒りを向けたり批判したりしないでもらいたい。と、言い訳をしておく。

 ぼんやりと午後のバラエティニュース、「みやねや」ほかを見ていた。いろいろなニュースのあとに松居一代が話題になった。私としては初めて画像で松居一代が夫の不実を訴えているのを見た。なるほどこういう映像を見て彼女に同情するひともいるのだ。

 彼女の資産は数十億ともそれ以上ともいわれるらしい。だからお金の問題ではないということなのだろう。しかし化粧品がないからと素面で、しかもパンツがないから居候している家のおばあさんのパンツをはいていると本人は言う。パンツを買う金も化粧品を買う金も無いのだろうか。それなら資産はないわけだ。

 彼女のこの映像を毎日何十万もの人が見ているという。そうすると自動的に彼女に金が入ることになっているのだそうだ。それならこれは金のためにやっていることなのか。彼女は報復をしているつもりのようだが、報復をはるかに超えた攻撃そのものである。

 離婚は絶対にしないといっているようだが、それなら再び二人で暮らしたいと思っているのだろうか。こんな姿を見せられ、公然と悪人とののしられた男が再び自分の元に返ると思うならまともではない。それは演技なのか。治療の必要な病気なのか。ただの嫌がらせか。

 こんな姿を見せていれば、離婚調停や裁判では離婚が認められる可能性が大きいと思いたい。どんな裁判官でもこの夫婦の関係が修復可能だとは思うまい。ただ、法律はそれでも一方が同意しないとなかなか認めないというところがあることは、私がみずから経験していることなのでよく分かる。船越英一郎君も大変だと同情する。そもそも彼女を選んでしまったことが間違いであった。いまさら遅いけど。

 離婚となれば財産分与がある。自分の資産を少しでも損なわないために夫を悪者としてののしっているのだろうか。それともネットからの日銭稼ぎを喜びとしているのだろうか。金には必ず亡者が群がる。彼女の周りに集まって、彼女の資産のおこぼれにあずかろうとする善意のバックアップチームでもあるのかも知れない。

 めでたく彼女の資産が護られて、さらに騒動で日銭が稼げて彼女にとってはめでたいことだが、いつか騒ぎも終わる。彼女の元には金目当ての連中以外には何も残らない。そしてその連中もやがて去って行く。こんな彼女とまともに親交を持とうとする人間がいるとは思えない。そのときに彼女はお金で心を温めることが出来るのだろうか。彼女を知るみなが、口を揃えてとても賢いと言う彼女のことだから、たぶん出来るのだろう。

 それにしてもコメンテーターや司会者が本音を言わずに言葉を選んでおっかなびっくり語っていたのは、よほど松居一代という女性は恐ろしいのだろうか。それともこれもマスメディアの自家中毒の症状か。見ていて胸が悪くなった。見なければ良かったと心から悔いている。世の中には恐ろしいことがあるものだ。

内田樹『最終講義』(技術評論社)

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 内田樹老師は私と同年の1950年生まれである。延長せず60歳をもって大学教授の職をリタイアした。この本はそのリタイアの前に行ったいくつかの講演の筆記録を本にしたものである。

 老師は教育者としての社会的役割をリタイアしたわけではない。大学に奉職するという仕事を辞めただけである。つまり私のように脳天気に楽隠居となったわけではない。楽隠居にはそれなりの厳しい現実もないことはないが、全て自己責任であるという気楽さはある。

 この本では老師が伝えたかったことが熱情を以て語られている。それは今まで繰り返しさまざまな形でブログや本で語ってきたことの繰り返しである。同じことをまた読むようなところもあるけれど、老師の語り口は常に新しい。こちらも初めて読むような気持にさせてくれる。

 言葉はなかなか伝わらないものである。大事なことほど伝わりにくい。分かることは瞬時に分かってもそれが染みこまない。それが自分の考えにシンクロするには、それなりの繰り返しが必要なこともある。なるほどそうか、と思うことがなくなれば読む意味がなくなるが、この本にはその、なるほどそうか、と思うことが満ちあふれている。

 私は本に書き込みをすることが嫌いである。よほどのことがなければ(例えば同じ本を二冊用意するなど)ラインを引いたりしない。しかしあとで引用したいときなど困るので最近はタックシールを貼ることにしている。これなら用が済んで剥がせば本は元通りになる。この本にはそのタックシールがたくさん貼られた。

 どんなところにシールが貼られたか。例えば子供の育て方について、父親と母親の意見が違うことこそ必要なことだ、としている。教育学者がコメントを求められれば、両親の方針は意見を一つにするべきだ、と必ず言う。意見が違うと子供が混乱するからで、それは子供を苦しめることになるというのである。だから老師の意見を読んだら、とんでもないことだと仰天するだろう。

 そもそも父親の論理、世界観と、母親のそれとは全く違うものであり、それを一つにまとめることなどそもそも不可能なことで、世界についての解釈はその違いの広がりのなかにこそあるものなのだ。子供にはその両方の世界を感得させなければ一人前のおとなになることが出来ない。

 老師は早くに妻と離婚し、ひとり娘を男手で育て上げた。老師は父親であるが、あるときは娘に対して母親の役割を意識して引き受けた。どちらかと云えば母親としての役割の方がずっと大きかったという。私も同様に男手で息子と娘を育てたので老師のいわんとすることがとても良く解る。ただ、私の場合は母親としての役割が不十分だったと反省しているが、いまさら取り返しは付かない。

 しかし父親としての役割と母親としての役割を担わなければならないというのは子育てを真剣にすれば、自ずと分かるものである。だから両親は何事も意見を一つにして子育てをするべきだ、などという教育学者の言葉の底の浅さには疑問を感じる。

 子育ての意見の違いから離婚に至る、などという話を聞くが、それはもうそもそも父親と母親の役割の問題以前のことで、それを引き合いに出して反論されても困る。あくまで夫婦関係が調整可能なまともな上での考え方の相違であろう。子供を鍛えて世界観を広ける意見の相違は必要で、子供がひき裂かれるほどの争いの元にされるのは論外なのである。

 シールが貼られた一カ所を読み返しても、このように考えることが沸きだしてくる。これがこの本にはたくさんあるのだ。

2017年7月17日 (月)

陰謀論は好みではないが

 韓国の大手自動車メーカーの現代(ヒュンダイ)の労組がスト突入を決定したという。系列の起亜自動車も追随するかも知れないという。そうなるとさらにほかのメーカーにも波及するだろうという報道もあった。

 少し前に韓国の自動車の販売が不振であることをブログに書いた。韓国の自動車のリコールが相次いでいるとも聞く。部品数の多い自動車のことだから、リコールが生ずることは避けられないが、その公開先や遅れに意図的なな操作があったとも勘ぐられている。リコールが従業員の仕事に対する意欲の低下によるものでなければ良いのだが。

 韓国メディアの報道の多くは、この時期のストライキは韓国メーカーにとって打撃が大きく、それでなくても売り上げ不振や技術力の遅れが指摘されているのに、それがさらに深刻化することになりかねないと報じている。

 現代自動車の労組は待遇改善を求めているようだが、韓国の労働者の多くは、もともと自動車メーカーの給与水準が高いことから、今回のスト決定には批判的だそうだ。

 この前のスト決行ではストは当初の予想より長引いて生産台数の低下を招き、納車の遅れが深刻となり、メーカーの収益を著しく損なった。それに負けた経営陣が折れたのであろう。労組は要求を勝ち取ることが出来た。

 労組は、経営陣はそのときのことに懲りているだろうから、今回も要求を呑ませることが可能だと判断したのだろう。ところで彼等が求めているあるべき待遇や現場の環境は何を比較にしているのだろうか。アメリカやドイツや日本のメーカーだろうか。

 残念ながら韓国車の競合相手はいま日本車ではなく、中国車やインド車になりつつある。低コスト車ゾーンで闘わなければならないのは、韓国が独自開発車を持たないからだ。独自開発車を持つには投資が必要だが、会社の利益は労働者に配分されるのが当然であると組合は考えている。

 今回もし本当にストに突入するとメーカーのダメージは前回同様大きくなるのではないかと心配されているのだ。それが命取りとなり、会社の収益が落ち、ひいては会社の存続にも関わりかねないと、周りが心配しているけれど、ひとり労組は要求の正当性を叫んでいるようだ。

 これが通用するのも左派系の文在寅大統領の治世下だからともいえようか。彼なら組合活動を温かく見守るだろう。北朝鮮は韓国の隆盛をのぞまない。韓国の隆盛の情報が北朝鮮国民に伝わることを恐れているだろう。それならば、韓国が経済的に衰退することは望ましいことにちがいない。何しろ共産主義を標榜する国なのであるから、労働組合が活躍し、資本家がダメージを受けることは正しいことであろう。

 それはさておき、販売不振ならストライキで生産が滞ってもそれほど心配ないのかも知れない。泥仕合になる前に収まりは付くのだろうか。申し訳ないが高みの見物である。

白でなければ黒か

 世の中の論調が極端になっている気がする。何かを選ぶときにはほかの選択肢を放棄することにほかならないことが多いから、極端な物言いはその選定が楽になるという利点がある。しかし迷わない、ということは考えないということにつながりやすい。

 考えるのは面倒くさいし、選ぶことを先延ばしにする宙ぶらりんもストレスである。そうして極論が横行し、白でなければ黒、黒なら切り捨てる、と極めて単純化された論調に乗せられる。

 安倍政権の問題点は問題点として、その行ってきた事跡の評価に全て×印をつけるのもどうかと思うが、そんなことを言うと、安倍首相を擁護するのか、と極悪人を擁護したかのように言われかねない。反対に擁護しようと思ったら全てを正当化して陰謀論で反論するということになる。意地になるのである。それがまた批判の材料にされたりする。

 韓国や中国の日本に対しての言動がそのようであることを日本国民はみな感じているし知っている。それに不快感があるからこそ、日本で行われるヘイトスピーチがそれ以上に不快なのである。やられたらやり返す、では相手と同じだからで、それを踏みとどまって相手がそうしても私はそうしない、というのが理性的なおとなの態度であろう。

  アフリカでサッカーの観戦中に観客どおしが争いになり、多数の死傷者を出した。このようなことが頻発しているという。敵か味方か、正義か悪か、世の中ではそれが明快なことは実はあまりない。たいていは100点か0点かなどという選択はないので、51点と50点の違いにしか見えないことの方が多く、しかもそれは見方が変わったとたんに49点と50点に変わる。

 その極端化の象徴としてトランプという人物がアメリカ大統領になったのではないか。そうしてますます世界は極端化の方向に進みつつあるのではないか。フェイクニュースの横行はまさにその顕れそのものではないか。

 世の中はそんな単純なものではないことは、生きていればひとりでに分かることなのに、極端化し単純化するマスコミに踊らされる。というよりみんながそのような指針を求めるからマスコミはそうするのかも知れない。考えることをしないのである。精神の怠惰だと思う。

 そのような風潮が社会を先鋭化させ、不安定化させ、暴力的になるきっかけになりつつあるのではないかと危惧している。「敵を倒せ!」と叫ぶ声が聞こえていないか。

小川糸『ツバキ文具店』(幻冬舎)

 何年か前に鎌倉を1日歩き回った。鎌倉は車で訪ねるところではないと思ったので電車で行ったのは正解であった。歩いていると思わぬ発見があるもので、車では見過ごしてしまう。

 多部未華子が主演した同名のドラマを数日前に観終わったので、原作のこの本を読んだ。鎌倉にある文房具店が舞台で、主人公の雨宮鳩子は祖母である先代からこの店と代書屋という仕事を継いでいる。物語は、依頼された代書の仕事を通して、鳩子が依頼した人の人生を垣間見、そこからその人の歩んできた人生を想像し、さらに自分自身を振り返りながら人間として成長していくというものだ。

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 この本には鎌倉が生活空間として描かれていて、そういう視点から鎌倉の魅力がこちらに伝わってくる。こんな本を読んだら鎌倉にまた行きたくなるではないか。

 それぞれの代書の依頼に対して鳩子が書いた手紙が、活字ではなく肉筆で挿入されている。この手紙文はドラマのものとまったく同じである。ただ、ドラマでは依頼人の人生がより詳しく描かれている。依頼人はどうしてそんな依頼をしたのか、その依頼に対して鳩子がどのように感情移入していくのか、つまり依頼人とシンクロした手紙を書き上げるのか、それが分かりやすく描かれていた。原作はそのへんがさらりと描かれていて大きく違う。

 しかしさらりと簡単に描かれているだけ、書き上げられた手紙のインパクトが強くなっている。ドラマと文章の表現方法の違いが際立っているのを感じた。手紙はそもそも文章であるから、本の方が効果が大きいのは当然かも知れない。しかも手紙は肉筆である。この字は著者の字であろうか、そんな気がする。これを見るだけでもこの本を読む値打ちがある。

 ドラマを観たからこの本を読む値打ちが損なわれるか?決してそんなことはないはずだ。基本的に同じストーリーだけれど細部は違うし、受ける感動はそれぞれに大きくて、二度楽しめることを請け合う。

 著者の小川糸原作である『食堂かたつむり』という映画も見たし、『つるかめ助産院』というドラマも観て、大いに楽しんだ。今回初めて著作を読んだ。この人の本をまた書店で探すことになるかも知れない。

 最後に、多部未華子は、私がだいぶ以前から別格的に好きな女優、というより女性で、本人のことはまったく知らないが、見ているだけで心がときめくのである。CMで見てもそうなるからほとんど恋のようなものである。もちろん完全な片想いだが。

2017年7月16日 (日)

恩知らず

 北朝鮮に対する制裁の一環として、北朝鮮と取引のある中国の金融期間や企業に対する制裁を科すとトランプ政権が発表したことに対し、中国外交部がアメリカは恩知らずだと言っていた。

 中国はアメリカの要請に対してやれることはやって来たし約束は履行しているのに、中国の会社に制裁を科すとは何たることかと噛みついたわけである。

「恩知らず」という言葉は、中国がアメリカに恩恵を施してやったのだ、と思っていることを表している。アメリカはそれを恩義と感じていないのみならず、恩を仇で返したと立腹しているのである。いかにも中華思想の中国らしい物言いであると感心した。

 しからばそのアメリカに対して中国はどういう報復をしようというのか。北朝鮮に対する制裁を履行しないことで報復することが考えられるが、すでに制裁などほとんど履行していないで有名無実なことは、北朝鮮からの石炭の輸入を停止したとアピールしながら、鉄鉱石の輸入は増加させ、貿易額は却って増えていることからも明らかである。

 トランプ大統領は中国のAIIBに参加の意思をちらつかせたという。これが中国の北朝鮮への制裁強化のお願いの見返りなら、中国が「恩知らず」と吠えた効果があったということか。恫喝して見返りをとるという手立てはロシアや中国の最も得意とするところで、さすがのトランプも中国の手玉にとられているのだろうか。

 AIIBは資金不足で思ったような実績を上げられずにいるらしい。アメリカや日本に参加してもらい、資金の裏付けを熱望している中国としては、トランプの参加のほのめかしは、してやったりの思いだろう。

 日本としてはアメリカに頭越しでAIIBに参加されてしまうのは非常に困る。AIIBはどう考えても中国の覇権主義の道具になりかねないからだ。だからといってあわてて日本も参加しようとすれば足元を見られて、参加のための法外な資金提供を要求されるのは明らかである。アメリカも中国も日本の金を狙っているのだと思うのは考えすぎか。

 TPPが空中分解したけれど、アメリカ抜きの11カ国で締結しようと日本は動いている。アメリカファーストを公言するトランプ政権との二国間交渉は日本に利をもたらさない可能性が高い。しからばアメリカ抜きで、アメリカが歩み寄らざるを得ない形で多国間交渉を進めることは大いに意味がある。

 そういう意味で中国との交渉を想定に加えることは考慮していい。中国が日本に歩み寄る形で、AIIBに法外な要求をさせないという条件で加わることも考える必要があるかもしれない。トランプ政権のあまりに自分勝手な論理を許すと、害が多すぎるような気がする。そういう意味で日本は多面交渉という極めて難しいことをこれから進めなければ行けないだろう。

 そう思うにつけ、いったい誰が日本をリードして行くことが出来るのか、それが日本のこれから生きのびていく上での最も重要なことなのに、今の日本の政局を見ていると、心許ないことである。

 蓮舫氏に任せる?鳩山氏や管氏や野田氏で懲りていないのだろうか。安倍首相に問題があるからと、とにかく首をすげ替えてもっと悪い駒を置こうというのか。今は任すに足るリーダーの登場を待つことも必要ではないのか。誰かいないのか。

梅雨明けか

 一週間ほど前には蝉の声を聞かなかったのに、数日前に初めて聞いたと思ったら、今朝はうるさいほど鳴いている。名古屋市内の大雨、そして一昨日の犬山や五条川の大雨があって、この地方の週間天気予報から雨マークが消えた。梅雨は明けたのではなかろうか。

 気がつけば子どもたちの待ちに待った夏休みはすぐそこである。今は毎日が夏休みなのだけれど、待ち望んだときの夏休みの喜びを二度と味わうことはない。人生にはメリハリが必要で、喜びもそれに伴うものであることは分かっているけれど、今はそのメリハリをどうつければいいのか。

 雑用が生じて、世の中の夏休みが始まる前に少し遠出をしようとしたのを取りやめた。取りやめるほどのことではないけれど、気持の盛り上がりが不足しているのに出かけてもろくなことはない。四年ほど前の交通事故は7月に用もないのに出かけたドライブ先で起こしている。そんなことを思い出しながら、今は暑いから電気を無駄遣いして、クーラーの効いた部屋でぼんやりしている。

 水分を取り過ぎたのだろうか、水ぶくれしたらしくて体重がにわかに増えた。ふだんは控えてきたのに、冷たくて甘い物を摂ることが増えている。10年くらい前から、摂取した水分が躰から抜けにくくなっている。夜中にトイレで起きることはほとんどない。それどころかビールをしこたま飲んでも、その晩にまったくトイレに行かないことすらある。

 そのままでは大変だが、幸いなことに朝になったらきちんと出るものは出る。腎臓の処理能力が落ちているのであろう。排泄にタイムラグが起きているのだ。年齢相応の前立腺肥大なのであろう、出の良いときとそうでないときがある。それに蛇口のパッキンも劣化しているらしい。締まりが悪くなっていることの不快は自分に嫌気がさすほどだ。歳をとるという事の哀しさはこういうところに強く感じる。

 長く酷使していれば不具合も生じよう。本来の人間の寿命は80歳や100歳というものではなく、60歳から70歳というところで、体の部品は安全係数が付いているとはいえ、たくさんあるうちのどれかが耐用年数に至れば全体が寿命となる。長命は運の良さによるものなのだろう。あまり長命を願うのは貪りというものかも知れない。脳にしたって体の部品である。次第に劣化していてほかのところより先に劣化することもある。そうでないことをひたすら願うばかりだ。

良い影響

 中国の自動車販売数の伸びは、ひところの勢いを失って頭打ちだといわれる。しかしその中で日本車の販売数は二桁の伸びを示して好調だそうだ。その好調の理由は、日本への観光客によるものだというネットの記事を読んだ。日本へやってくる中国人観光客の層が、ちょうど日本車などを購入する層と重なるのだという。

 もともと教育やマスコミの論調で反日的な傾向を持つ中国人でも、日本の製品に対する信頼は高い。品質が高いことは実績が証明しており、意図的な日本製品に対するデマも、いつの間にか解消されていく。訪れた観光客が中国で思い込んでいたことが違っていたことを日本で実感させられることが大きいという。百聞は一見に如かず、なのである。

 そのことは帰国した観光客達が口コミで伝え合うので、ますます日本のマナーや製品に対する信頼を高めることにつながっているのだという。それが本当に日本車の販売台数の伸びにつながっているのなら、嬉しい話だ。

 日本は信用というもの、ブランドというものを大事にする。そのことの意味が中国では理解できていないことは、偽物の横行が定常化しているで明らかである。法的に正しいか正しくないかではなく、信頼は最も大事な性能なのだとひとりでに理解されてきているのなら良いことだ。

 飛行機の搭乗員の話として、日本に行く便の中国人のマナーと帰りの便でのマナーが明らかに違うことを実感しているという。日本に滞在してマナーが明らかに良くなって帰国する中国人が増えていくのなら、日本は中国人に良い影響を与えていることになる。それはお互いにとても望ましいことだ。

 中国人観光客の増加が、彼等の消費による経済効果だけならそれだけのことだが、ささやかな信頼の積み重ねにつながっているのなら今は、わずかでも将来に反日感情解消の希望が持てることになるかも知れない。

 それなのに信用、信頼を損なうようなことをする日本人がいるなら、それはようやく積み上げたものを崩す極めて害の多い行為ではないか。日本が良い影響を及ぼす国であり続けて欲しいと思う。
 
 どうして韓国車が中国で売れなくなっているのか、いろいろな理由があるらしいが、そのへんに最も重要なポイントがありそうな気もする。東芝はどうしてあんな体たらくになったのか、それも同様だろう。しつこいけれど、私は東芝の製品の品質で不快な目に遭ったことが一度ならずある。そのうえその連絡をしたときのメーカー窓口の木で鼻を括る対応に腹が煮えくりかえる思いをしてもいる。今日この東芝の危機があるのは当然だと思う者である。

2017年7月15日 (土)

橋下大三郎・大澤真幸『げんきな日本論』(講談社現代新書)

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 歴史を知ること、歴史を考えることは、こんなに面白いことなんだよ、と教えてくれる本。日本の歴史から18のテーマを選んで、二人の学者がそれぞれの考えを述べ、相手の意見を元にさらに思考を深めていく。つまり互いの蘊蓄を語り合うのではなく、互いに考えたことを呈示した上で、相手の考えを自分に取り込んで視点を高めあっていくのである。

 どのテーマもそれだけで本一冊に匹敵する内容につながっている。それが盛りだくさんに、そして次から次に展開していくので、こちらはただただ感心し、敬服するばかりである。こういう本を読んでいれば学生時代に歴史をもっと楽しく学び、身についたような気がする。

 例を挙げれば、尊皇攘夷を旗印にしていた薩長を初めとする明治維新を達成した面々が、どうして攘夷と矛盾する開国を受け入れ、欧米と条約をつぎつぎに結んだのか。そしてアメリカと結んだ日米和親条約というのが日本にとってどういう意味があったのか。そのことについて目からウロコの落ちる思いがした。

 日米和親条約の意味は、

一、日本は独立国である。
二、アメリカはそれを承認した。
三、ロシア、イギリス、フランス、ドイツ、その他は勝手なことはするな。

ということだったというのである。

 当時、アジアの国に対しての欧米の行動は、植民地化が当たり前の時代であった。その中で、日本を独立国としていちはやくアメリカが認めたことの意味を日本人は理解していなかった。

 この条約で日本の独立は保証されたのである。

 こんなこと、歴史で習っただろうか。

 日本の古代史から近代までのテーマが網羅されていてまことに面白い本である。

近況

 最近は早めに寝るように心がけている。それがどん姫が来てちょっと夜更かししたので、昨晩は9時前に眠くなってうつらうつらしていた。そこへ千葉の弟から電話があった。大雨のニュースを見て心配してくれたのだ。犬山には少し距離があるが、氾濫した五条川というのはすぐ近くを流れている川である。

 しかし昨日の記録的豪雨はピンポイントで、私の家の周囲は強い雨ながら道路が冠水することもなかったので、その旨伝える。義妹は新盆だから実家(静岡)に帰っており、弟は一人で酒を飲んでテレビを見ているのだという。仲のいい夫婦だから、ちょっと離れただけで淋しいのだろう。近況をちょっと話す。

 眠気が少し遠のいてしまったので、宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫)という民俗学の本を読む。彼が若い頃日本の各地を訪ね歩いて取材した話が集められていて面白い。30分もしないうちにまた眠くなる。布団を敷いてさあ寝よう、と横になったらまた電話があった。

 大阪の兄貴分の人からで、豪雨は大丈夫だったか?と心配してくれた電話であった。昔の東海豪雨のこともよく知っているから、その話をする。あのときは娘の通っていた中学校が、グランドも周辺の田んぼも冠水してしまい、一週間ほど休校になるほどひどかった。町と名古屋市の境を流れる新川があちこちで氾濫したのだ。

 もう少し近況を話そうかと思ったら、じぁあ、とあっさり電話が切れた。兄貴分のひとも眠いのだろう。早寝早起きのひとなので、こんなに遅く電話をしてくるのは珍しい。

 私の方は眠気がどこかへ行ってしまった。パソコンの囲碁ゲームをして、自分の悪手に腐って嫌気がさす。別の高坂正堯の本を読み始めたら、しばらくして知らないうちに眠っていた。

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