2018年9月24日 (月)

司馬遼太郎&井上ひさし『対談 国家・宗教・日本人』(講談社)

 読みごたえのある本をなんとか一ページずつ読み進めているとくたびれてきて、軽くて読みやすい本が読みたくなる。そういうときには対談本が好い。そう思っていつもは手にしない場所の棚にあったこの本を取り出して読んだ。再読である。思えは二人とも故人である。故人ではあるが、読んでいる私にとって本の中では生きている。

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 『国家・宗教・日本人』と題されているが、まず日本の宗教について論ずることで、この対談があった頃に騒動になっていたオウム真理教を話題とし、西洋的な唯一絶対神というものの特性とアジアの、特に日本人の思う宗教の認識の違いを浮き彫りにしていく。確かに日本人には唯一絶対の神というのは理解が困難かも知れない。

オウム真理教は宗教とはいえない、と二人は断ずる。宗教集団が周辺の一般人と壁を造り、その壁を高くしていくのは宗教とは違うものだと言う。布教をして勧誘しながら世の中と断絶していくのが宗教かと云えば、確かに違う。さらに現世利益をとなえる宗教にも二人は懐疑的である。自分の思い通りにならない悩み多きこの現世の終わった後、つまり来世に救いがあるというのが宗教というものの本筋だとの考えのようである。そういえば三大宗教はおおむねそのようである。

 本当に来世があるのかどうか、そんなことは誰にも分からない。分からないなら「ない」と決め込んでしまうより最期のときに「来世があるかも知れない、救われるかも知れない」と思いながら死ぬ方が良いだろう。生きている内に解脱して超能力を得ようというようなものが宗教とはとてもいえないのは当然である。

 二人は作家であり、「言葉」については鋭い感性を持ち、おかしな言葉遣いには嫌悪感を示す。言葉に潔癖であることは文章を書く上の最低必要な素養だろう。私はそれが足りないから、高島俊男師の本などを読むのであり、山本夏彦、團伊玖磨を初めとする、言葉にこだわる人の文章が好きなのである。

 書き言葉としてほぼ完成していた日本語も、話し言葉は西洋に比べて未成熟であったとは多くの先学の語るところだが、ようやく明治も終わる頃からそれなりに弁論に使えるものになってきたはずなのに、近頃その日本語が劣化していることを二人は大いに嘆く。その最たるものが政治家の言葉の劣化であることは指摘の通りで、この対談の行われた二十年以上前にして叱り、いまならさらに劣化したと慨嘆することだろう。

 テレビを「一億総白痴化」の装置と喝破した大宅壮一を引き合いに出すまでもなく、マスコミの日本人愚民化はますます猛威をふるっている。マスコミは意図して愚問かを進めていると云うよりも、そもそも大衆は愚かだという前提で、愚かな人向けにレベルを下げ続けているのだろう。インタビューも多分まともな答えのものは取りあげず、誰もがこいつは自分よりばかだ、と思えるようなものを選んで報じているかの如くである。だからインタビューの場面を見るとつい目を背け耳をふさぎたくなる。

 日本に比べて、欧米のインタビューに答える市民の語りの理知的なことに感心するのは私だけではないだろう。しかし日本人だってまともに答えることの出来る人もたくさんいるはずある。賢い答えを報じると、ふつうの人が劣等感を感じるのをマスコミは心配しているのだろうか。まことに心優しいことである。

閑話休題

 こうしてさまざまに語り合っていることから、さらに日本人はいまどのような人たちであり、どの点に問題があり、どうであって欲しいのか、という彼等なりに思うところへ展開していく。それぞれに楽観的だったり悲観的だったりしながら、それでもあるべきものを求めるのは、日本人として日本が好きであるからであり、愛しているからだと感じる。希望を持っているのである。すべてが良くなることなど望んでも無理である。少しでも希望があることを善しとするのは実は強い心の持ち主だけが出来ることなのかも知れない。

(旅に出て不在のため、コメントに返事が出来ません。帰ったらお返ししますのでご容赦下さい)

2018年9月23日 (日)

梅原猛『笑いの構造 感情分析の試み』(角川選書)

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 梅原猛に出会ったのは『隠された十字架-法隆寺論-』という本が最初である。初版発行は昭和47年で、暫くあとにベストセラーになった。こういう本がベストセラーになるのも珍しく思って購入して読んだ。面白いことは面白いが、中身が濃い上に私にこれを本当に理解するだけの素養がなかったので、ただ読み通しただけに終わった。

 実はこの『笑いの構造』を読み終わったので、『隠された十字架』を読み直し始めている。なんとなく初めて読んだときのちょっとした興奮のようなものを思いだした。その当時も少しは分かっていたのかも知れない。もちろんそうでなければ読了も出来なかっただろう。その気分のまま梅原猛をさらに読みたくて買ったのがこの『笑いの構造』だった。

 この『笑いの構造』は梅原猛の若いころの論文を集めた論文集である。最も古いのが『闇のパトス-不安と絶望-』で昭和26年に雑誌に掲載された。のちに彼の全集の第一巻がこの表題となっている記念すべき論文だ。

 梅原猛は仙台で学生だった父母のもとに生まれ、父母それぞれの両親、実家が結婚に総反対をしたために私生児として戸籍に記録されている。母が早くに亡くなり、二歳になる前に知多の伯父(父の兄、梅原家の本家)夫婦に引き取られて養育される。養父母が実の父母ではないことを知ったのはだいぶ後のようだ(自伝にそう書いている)。旧制第八高校(現在の名古屋大学教養部)を卒業し、京都大学の文学部で哲学を専攻する。

 大学でハイデッカーなどの実存哲学にのめり込んだ。そこで強い虚無感に陥り、そこから脱するきっかけがギリシャ哲学のヘラクレイトスとの出会いで、さらに虚無思想から脱出するために挑んだのが「笑い」についての哲学的研究である。そして「笑い」から「感情」全般についての思索が展開されていく。その思索の跡がこの『笑いの構造』という本である。

 三部に分かれていて、第三部が『闇のパトス』と、ヘラクレイトスについての論文である。『闇のパトス』は何度も読んでいるが、論文と云うよりもキルケゴールのような詩的な独白型の文章で、比喩が多い。その分勝手読みできるところもある。第三部が一番古い論文である。

 『笑いの構造』は第一部に収められていて、梅原猛自身の「笑い」の研究から、さらに過去の哲学者の「笑い」についての著作の批判を展開している。

 第二部では「笑い」から「感情」全般へ展開していく。たくさんの宿題を自らに抱え込んで行く様子が読み取れるが、実はその後それを深化させることなく、日本の古代研究と仏教にテーマが映っていった。その第一弾が『隠された十字架』なのであって、別でありながらつながっているのである。

 正直言ってこの本はいまだによく理解できないところがたくさんある。自分の理解力のなさに哀しい思いがするが、しかし読み直すと前に分からなかったところがわずかに分かったりすることがあって、それがささやかな救いである。

(旅に出て不在のため、コメントに返事が出来ません。帰ったらお返ししますのでご容赦下さい)

2018年9月22日 (土)

老舎の寓話(2)

開高健の語る老舎の話のつづき。

「1950年代のいつかに、彼は日中文化交流団の団長になって、中国の作家や知識人をひきいて日本に来ました。そのとき通訳を務めた中国人から、私香港で聞いたんですが、その人が革命後の中国の知識人の生活はどうでしょうかということを折に触れて老舎に聞くのですが、老舎は一言も答えない。それでもう老舎は駄目になったんじゃないかと思っていたところが、あるとき飯を食べていると、それまでひたすら黙りこくっていた老舎が、重慶だか成都だかにある何百年と火を絶やさない大衆料理のことを話し始めたそうです」

「日本式に言えば四畳半一間くらいの大きな鉄の釜に、毎日どんどん火をくべて暖めている。次から次と野菜やら肉やら豚の頭やらを放り込んでいく。それを近在の張三李四が集まってきて、柄杓ですくってお椀にとって食べる。そのお椀の数で金を払う。その鉄鍋のぐあいはどうであるか、張三李四はどんな話をしているか、箸はどんなに垢染みているか、その店の光線の具合はどうであるかというようなことを、微に入り細を穿って老舎は三時間ぶっつづけにしゃべり続けた。それをしゃべり終わると、またフッと黙って、部屋に帰っていったというんですね。その話が私の頭にこびりついて離れないんです」

「その後の老舎は、文化大革命のときに、紅衛兵の子どもたちに殴り殺されたという説がある。それを嫌って、窓から飛び降りて自殺したという説もある。また北京を流れる河に、屈原じゃないが飛び込んで、死んだという説もある。いずれにせよ、不自然死を遂げているらしいんです」

 蛇足だが、いま読んでいる『北京随筆』という本の著者の奥野信太郎も老舎と交遊があったという。これからそんな話が読めるかも知れない。

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2018年9月21日 (金)

老舎の寓話(1)

 ラブレーを翻訳した渡辺一夫と開高健の対談で、老舎が話題になっていた。老舎は中国の作家である。ノーベル賞の候補になったが本人が死去してしまったので取りやめになったという話があるが、確認されていない。

 老舎は文化大革命の初期に死んだ。溺死体で発見されたらしい。自殺とも謀殺されたともいうが、いまだに真相は明らかではない。当時、インテリは紅衛兵などに凄まじい迫害を受けた。殺されたり不具となったり、発狂した人がたくさんいる。知識人であるという理由で心身を破壊されることが公然と行われた。ブルジョワや知識人は右派であり、右派であることは反革命であり、反革命は悪であるから打倒することが正義であると狂信した者たちが蛮行をほしいままにしたのである。老舎はその犠牲となった。そのことが対談で語られている。

 そそのかした者がいたから、という理由は理由として、そそのかされても蛮行を行わなかったものもいたが、蛮行を行わないのは反革命者だといわれて標的にされた。やむをえず保身のために迫害に加担したものもたくさんいた。わざわざ嘘をでっち上げて敵を葬ることも日常茶飯事だったという恐ろしい時代である。迫害した者が次には迫害されることが繰り返された。

 文化大革命の実態を知って、私はそそのかされてもそれに惑わされない知性を身につけることがなにより肝要だと心に決した。自分の信念に殉じて迫害を受けるか、迫害する側に加わって生き延びるかという判断をどうするか、ずっと考え続けてきた。その場にならなければ分からないことではあるが、出来れば節は曲げたくない。その勇気が欲しいと心から思っている。だからといって生き延びるために節を曲げたひとを非難することはしたくないとも思っている。それぞれ自分の問題である。

 開高健は1960年に老舎に会っているという。

開高健「もうちょっと悲痛な話をしますとね。『駱駝祥子(ロートンヤンツー)』という名作を書いた老舎という作家がおりますね。私は1960年に会っているんです。そのとき彼は、日本人民との団結のために握手をするといった、派手なおつゆたっぷりのことを一言も言わないで、そのころ彼が育てていた菊の花の鉢植えを見せてくれました。眼光慧眼しかも寡黙だったですよ」

 このあとに、この寡黙な老舎があるとき突然ぶっつづけに三時間話し続けたという話を紹介している。それは次回に。

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2018年9月20日 (木)

佐々泉太郎『洛陽の怪僧 薛懐義と武則天の物語』(東洋出版)

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 中国歴代王朝唯一の女帝・則天武后(武則天)はこの本の最初にちらりと、そして最後の章に出てくるだけである。主人公の馮小宝はその武則天に出会って薛懐義の名を賜るが、ほとんどが小宝として物語は語られていく。小宝とは坊や、とか小僧という意味で、そもそもが名前らしい名前がなかったという生い立ちなのだが、実は魂魄が二つあるという特殊な少年だった。

 魂魄が二つある人間などいないし、あってはならないのだが、最初に魂魄を司る神の手違いで司馬遷の魂魄がこの少年に重なってしまったといういきさつが、天界の話として語られていく。ところがその司馬遷についてはちらりとしか触れられず、そもそも小宝の中の司馬遷の魂魄が小宝にどのような影響を与えているのかもさっぱり分からない。ただあるというだけのようである。もう少しなにかが顕現すれば面白いだろうに。存在しても何にも関係ないなら魂魄そのものが人間にとって何の意味も無いことになる。

 そのへんの話があらすじのように進んでいくので、あれよあれよという間に本筋に入ってしまう。本筋もやはり展開が早まったり詳しかったりと読むペースが掴みにくい。うっかりすると著者の筆に置いて行かれてしまうのだ。読む人のことなどあまり考えていないようである。もう少し読み手のことを考え、説明を詳しくすればかなり映像的になって、面白い伝奇小説になったかも知れないが、どうも生煮えの料理を食べた心地がする。

 アニメのためのあらすじを簡単に小説に書き直した体(てい)である。だからこれをもとにアニメをつくったら、案外それなりのものが出来るかも知れない。題名から期待したのにちょっと期待はずれだった。描かれている時代から狄人傑(てきじんけつ)が登場するのがご愛敬である。唐の時代の名判事といわれ、中国の大岡越前のような存在だ。いや、大岡越前が日本の狄人傑か。

 あのアンディ・ラウが狄人傑として主演した映画『王朝の陰謀 判事ディーと人体発火怪奇事件』のディー判事とは狄人傑のことである。狄人傑の狄は中国読みでディーである。この映画には当然則天武后が登場している。

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2018年9月19日 (水)

安売り競争で自滅する

 昨日のブログで、開高健が日本酒について、

「まっとうな原料で、まっとうな水で、まっとうな麹で、まっとうに造っていけば、いい酒が出来ることはわかりきっている」

と語ったことを紹介したが、そのことで思いだしたことがある。

 下手の横好きで、子供の時から写真を撮ってきた。ベスタ版という変則フィルムで撮ったもの、ブローニー版のフィルムを使ったセミ判の写真、ヤシカの35ミリ版、そして大学に入ってからミノルタの一眼レフでの写真、それらのフィルムネガはすべて保存していて、ベスタ版は別にして、ほとんどデジタル化してある。

 学生時代には寮に同好会があり、引き伸ばし機があったので、自分で現像や引き延ばしもした。いちおう化学屋の端くれなので、現像用の薬品などは自分で購入して調合した。一番大事な温度管理が当時は難しかったのはつらかったが、それらは現像時間などの調整で何とかした。自己満足ではあるが、それなりの写真が撮れた。

 カメラと装置と、フィルムと薬品と適正なフィルム現像、引き延ばしと現像定着水洗を行えば、(自分にとって)いい写真が撮れることはわかっている。そしてそのネガがちゃんとしていれば、それをいろいろと加工できて調整も可能である。それなのに・・・である。

 デジタルカメラを使うようになるまでの何十年間、写真を撮るとDPE屋に現像とプリントを依頼してきた。カラーは手間もかかるし自分で現像するのが難しいので依頼することになる。出来上がりが自分のイメージと違うことがほとんどだ。もちろんそれほどの腕でもカメラでもないから、人に自慢できるほどのものでないのは分かっているが、でもこの程度には最低撮れているはず、という経験上の推測があるが、それが納得のいくもので仕上がることがほとんどない。

 依頼する店によって違いがあることがわかってきた。ひどい店だと、焼き増しのために二回目を頼むと最初の時と同じ写真だろうか?と首をかしげるほど違う仕上がりである。あまりにひどい仕上がりが多いので、最後にはプロも頼むような、ふつうの店の倍近い値段のラボに頼むようになった。不満足ながらだいぶマシな仕上がりになる。しかしそのラボも価格競争の中で依頼する人が減ったのか、プロ専用になって一般用の依頼を受けなくなってしまった。

 DPE屋がどれほどひどいか。機械任せで、しかもピント調節もこまめにしていないからピントが甘い。薬品はけちるから使用回数の限度をはるかに超えて使用しているらしく、液がくたびれ果てているから粒子が粗い。液が新しいときと、くたびれたときとで仕上がりがまるで違うので、頼むたびに仕上がりが変わるのは当然なのだ。

 それが本当にわかったのは、この世にフィルムスキャナーというものが出て、まだ高かったけれどすぐに購入して、フィルムをデジタル化してパソコンに取り込み、プリントアウトしてみたときだ。DPE屋のものとは同じ写真とは思えないほどちゃんと撮れているではないか。まだそれほどの高画質でスキャンできないスキャナーでも歴然と違いがわかった。それに無理に高画質に取り込もうとすると、当時のものはなにしろとてつもなく時間を食うのである。

 大量のネガを整理し、それをスキャンしてファイル化したが、新しいスキャナーがでるとその高性能さでフィルムからの情報がよりたくさん取り込めるようになる。そうするとそれを購入して取り込み直す。その繰り返しを四台のスキャナーで行ってきた。正直くたびれ果てたけれど、私の宝物の一つであるファイルが残されている。

 しかし激しい怒りを感じることがある。それはフィルムそのものが損なわれてしまっているものが何本かあることだ。少々のネガ傷くらいならいまは修正も可能だが、フィルムの現像後の水洗が不十分なために薬品が残り、そのことでフィルムが台無しになっているものがあるのだ。自分で水洗し直してみたけれど、わずかにマシになっただけでもう取り返しがつかない。ある時期に集中しているから、特定のいい加減なDPE屋の仕業だろう。

 そのネガに映っているのは子どもたちの幼いときの写真である。どこのDPE屋か知らないけれど呪われろ!と思うけれど、そんなところはすでにつぶれてないだろう。

 まっとうに仕事をすればちゃんとしたものが出来るのは分かっているのである。それが出来なかったDPE屋のほとんどは街から消滅した。デジタル化が理由だと彼等は言うだろう。デジタル化を推進したのは彼等なのである。彼等自身が自分の仕事を喪失させるようにしたのである。みなが安さを望んだのだ、安くしなければ客も来ないし生き残れなかったのだ、というだろう。言い訳である。客は安さにあきれ果て、安いから仕上がりに文句も言えなかった。

 いまデジタル写真は高画質で誰が撮ってもきれいな写真が撮れる。有難いことである。しかし写真は時間を切り取り、時間を定着させるものでもある。それを損なわれた恨みは忘れがたい。それをいい加減な仕事で損なうような人たちは退場が必然なのだ。

(本日から旅に出て不在のため、コメントに返事が出来ません。帰ったらお返ししますのでご容赦下さい)

2018年9月18日 (火)

試し撮り(2)

試し撮りがてらの散歩が続く。


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なんの樹だろう。枝が奇妙にねじくれている。

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つり荷の下に入るな・・・。なるほど。こんなことが書いてあるのだ。

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活きている田なのか休耕田なのか。これでは刈り取りも出来まい。

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水を張ったところにこんな穂が出た稲が。田植えの苗の束をここに放置しておいたものだろうか。

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風に吹き寄せられた赤いサルスベリの花。

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田んぼが埋め立てられている。どんどん水田がなくなっていく。

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折り返し点のスポーツセンターに到着。

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中庭には銅像がある。

いろいろ撮ってみたけれど、とにかくレンズが重いし、一脚も持っていかなければならない。それにここまでの望遠は必要ないだろうと判断。望遠が不足ならもう少し近寄るだけだ。

結論。望遠ズームは持参しない。でも写真は面白い。

試し撮り(1)

旅行の時のカメラにはいつも高倍率ズームのレンズを装着していく。たいていの用に足りるので重宝しているが、どうもこのごろ不調である。動作音に異音がして、しかもAFの応答が遅い。横着をして修理に出さずにいたので、いまさら間に合わない。そこで低倍率ズームのレンズを装着していくことにしているのだが、望遠側が不足である。


フィルムカメラ用の望遠ズームがあるのでそれを持参するかどうか迷っている。70~300ミリのレンズなのだが、重いしVRレンズ(手ぶれ防止)ではない。私のカメラはニコンのDXタイプなので、このレンズは105~450ミリとなる。

持参するかどうかを決めるために散歩がてら試し撮りに出掛けた。ブレ防止のために一脚を持参する。一脚でも結構役に立つ。むかし手ぶれ防止のない時代にはよく持参した。

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ダリアだろうか?

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名前がわからない。

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芋の葉っぱも見ようでは美しい。

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彼岸花が咲き始めた。

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それらしく開いたのを一枚。

どうももう少し絞った方が良かったみたいだ。

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これは鶏頭だろう(と思う)。

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まだ熟していない柿。そういえば今年の柿はまだか。

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こちらはツバキの実か。

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なんという花だろう。

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手入れのよい植木。庭があるから植木も植えられる。

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畑の隅にくたびれた案山子が。

続・日本酒

 これは四十年以上前の対談での話なので、いまは違うと思う(思いたい)。『悠々として急げ 開高健の対談集』から。

開高  私は酒造家の組合で二度ほど講演したことがあるんです。私は日本酒を愛していますからね。なぜ愛しているかというと、世界に二つしかない。あっためて飲んで美質が出てくる酒というのは中国の紹興酒と日本酒だけなんです。だから、この酒を貴重にしたいと思って、全篇ことごとく日本酒を罵るという講演をしたんです。ところがみなさんケロッとしている。当然のことをいわれただけという顔をしていましてね。あとで話し合うと、いちいちお説ごもっともだとおっしゃるんです。それでいて、じぁあどうするかという考えはだれも言わなかった。だから、やっぱり夢にひたっているという感じ。勉強心がないんです。私はお酒を造る人というのは人類の発生以来、芸術家じゃないかと思うんですよ。だけれども、そんな志、気迫、風格というものを持った人にほとんど出くわさないですね。

石本 おっしゃる通りあぐらをかいているんです。酒というものはある程度のものが出来るともう十年間は大丈夫だという。戦前の酒屋さんを例にとってみますと、中央品評会で優等賞を取りますと、早くいえば、次の日から精白を下げます。いちおう賞を取ってしまうと、もう売れ行きは心配ない。二年や三年精白を悪くしても惰性で売れるんです。それでおまんま食って、自分でレッテル貼って、責任持って出したんですから。

開高 まっとうな原料で、まっとうな水で、まっとうな麹で、まっとうに造っていけば、いい酒が出来ることはわかりきっているとみんな言う。ではそれをやるかといえばこんな酒を造ったって、お客がついてこないんじゃないかとかなんとか、勝手なことを言う。しかし人間の舌というのはじっとしていないです。いっぺんうまいものを覚えるとなかなかもとへ戻れないし、もっともっと先を求めていくところがあるんです。そういうことを考えていくと、少々高くなってもうま口の、飲んで飲み飽きない酒を造れば、結果としては儲けになるんじゃないか、と私なんか言いたいです。ベタ口の酒だと、私はもう二杯目のおちょこ飲む気がしなくなる。

石本 女子供にまで飲ませようとしたのが失敗のもとなんです。甘くしなければ飲まないでしょう。

開高 アホですからね。(笑)

 ちょっと危なくなってきたのでこれくらいにする。あくまで四十年以上前の話である。いまはうま口のわかる女性も数多い。そして美味い酒だけが売れる。それに子供はいまは飲ませてもらえない。

 しかし誰かがこの酒は美味い、などと書いて評判になるとわれもわれもと味もわからないのに奪い合ってプレミアがつくのもこの世の習いだ。人の評判で飲んでいる。評判の酒を飲むことを自慢するために飲んでいる。心しなければ。

2018年9月17日 (月)

おためごかし

 樹木希林さんが亡くなった。七十五歳は今の時代では若死にだろう。全身にガンが転移していると以前に公表されていたから、この日が近々やってくると本人も承知していたようだが、それにしてもそれを平然と受け止めて、彼女なりの自分の生き方を貫いたと思う。

 彼女を知る人たちはみなその彼女の死を悼み、彼女に対して賛辞を惜しまないようだ。彼女とドラマや映画で関わった人たちは特にそのようで、その演技を見たこちらにも素直に共感できる。

 ただ、彼女にインタビューをしたというアナウンサーなどに、ちょっと違和感を感じさせた人がいた。彼女は自分を飾らない。誰に対しても、聞かれればありのままに自分の生活や考え、生き方を語る。そのインタビューを一度ならず見たことがある。彼女の生き方考え方に、聴き手はさかんに頷き、感心して見せているが、実は全く理解していないなあと思うことがしばしばあった。 

 そういう聴き手の一人が、過去のインタビューの様子を放映しながら彼女の素晴らしさを語っていた。私にはおためごかしに見えた。

旅の仕度

 なにかをしなければならないときほどそれ以外のことが面白くなって、大事なことを後回しにしたりする。試験の前に読む本や観る映画の面白さは格別だ。

 もうすぐ中央アジアへの旅に出る。その仕度をしなければならない。頭ではいろいろ考えているのだけれど、実際の本格的な仕度が始まっていない。それでも必要と思われるものは少しずつ用意をしている。両替が不自由らしいので、銀行でドルの用意をした。有料トイレなどのための小額のドルも必要らしいので細かい金も用意した。

 あとはカメラと洗面具と着替えその他少々があれば準備オーケーのはずなのだが、キャリーバッグに詰めるのが面倒だ。詰めるのは無理矢理でも、取り出すことを考えて詰めなければならない。一番苦手な作業なのでつい先延ばしになってしまう。ティッシュとウェットティシューの用意も必須だそうだ。

 旅行中のブログをなるべく空白にしたくないので、読んだ本のことなどを日時指定で書く作業も進めているが、そうそう先まで埋めるのはなかなか大変である。いつまで埋められるか。

 全く知識もなじみもない場所へ行くので、多少は調べておこうと思ってガイドブックを読み始めたが、地名や人名になじみがないから頭に入らない。実際に現地へ行ってから読み直した方が早そうだ。ただ、あこがれのシルクロードの中継地へ行くというワクワク感はある。いったいどういうものを見て感じてくることが出来るのだろうか。なんだかこの旅行が弾みになって、つぎつぎに出掛けたくなるような予感と高揚感を感じている。

 昨晩は本を読んだりゲームをしたりしていたら眠気がどこかへ飛んでしまい、ほとんど徹夜してしまった。明るくなってからほんの少しだけしか寝ていないのにあまり眠くない。朝の風がさわやかに感じられる。秋の風を感じるが、昼間は30℃を超えるという。今日は敬老の日で世の中が休日だというのは、毎日が日曜日の身にとっても不思議に居心地が好い。

2018年9月16日 (日)

石徹白の白山中居神社(5)長走りの滝

長走りの滝に向かう。神社から細くて荒れているが舗装された道を行けば1キロ足らずのところにある。二、三百メートル手前になんとか車を置くスペースもあるのだが、藪中の道なき道を経由したのですべて歩きとなった。


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行けども行けども滝が見当たらないと思ったころ、川へ降りる小さな道に標識が立っていた。

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ふたたびこんな道を下りていく。こちらは訪ねる人もときどきあるのか、多少は整備されていて歩きやすい。それにしても滝のあるところには必ず登り降りがある。高低差があるから滝が生ずるのであるから仕方がない。

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道から長走りの滝の落下口が見えた。

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これが長走りの滝。白く泡をかんでいるが、落下型ではなく、日光の竜頭の滝のように急勾配を下るタイプの滝である。

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流れ下る水。

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さらに流れて

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こんなものも流れた。上が根元のようで、ここで突き刺さるように倒立したものらしい。

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水は清く、淵になったところになにか居そうな気配がする。

満足して帰路につく。帰り道は道路に戻るまでは階段だが、その後は下りであるから楽である。これで白山中居神社散策は終わり。

2018年9月15日 (土)

日本酒

 蒸留酒よりも醸造酒が好きである。お酒がおいしいと本当に思うようになったのは三十歳くらいからで、それまではうまいまずいよりも、酔うことのほうが目的で飲んでいたような気がする。それにそれほどいい酒を飲むほどふところも豊かではなかった。ただ、酒は相手によって美味かったり不味かったりするものだ、ということだけは感じていた。それはいまも変わらない。

 いまは公言すると顰蹙を買うが、私は中学生くらいから正月などで祖父(母方)の家に叔父達が集うと、父が下戸だったので、父の代わりに席に座ってお酒を飲んだ。祖父も叔父達もみな斗酒なお辞せずの酒飲みだったので、お相伴するのは大人並みに扱われているようで晴れがましいものだった。もちろん本物の酒飲み達は子供の酒の量については弁えているから、面白がって酩酊させるようなことはなかった。ただ酒は美味いものらしいと思い、大人になったら最後まで一緒に飲みたいものだと思った。

 生まれて初めて酒で粗相をしたのは大学一年生の時である。まだ未成年ではあるが、当時は大学生ともなれば酒の飲み方を知らなければならないとばかりに、いろいろ飲む機会があった。ある日、下宿で友人と風呂上がりに冷や酒を酌み交わした。大人の飲み方をしたのは生まれて初めてである。風呂上がりに冷や酒が格別旨く感じられ、スイスイと飲めた。友人はそれほど強くないので二合か三合でダウンし、残りを私が独りで飲んだ。あっという間に一升瓶が空になった。夜中にエライ目に遭った。飲みすぎたらどうなるか、酒飲みなら経験のある人は多いだろう。

 その酒は甘口の秋田の酒だった。その後その酒だけは苦手になった。トラウマになったのである。それに酒が身体になじむにしたがって甘口の酒はおいしいと感じられなくなった。必ず悪酔いする。

 開高健の対談集『悠々として急げ』という本を読んでいる。このなかに新潟の「越乃寒梅」の蔵元、石本酒造の社長との対談があって、開高健が甘口の酒を酷評しているくだりがあるので紹介する。

「日本酒がべたべたと甘くてねちっこくて蜂蜜の安物みたいな酒になっちゃった。おちょこを上げると飯台までついて上がりそうな鳥モチみたいな酒になってしまった。それで、十数年前になりますけれど、ちょうど仕込みのころに灘へ行きまして、いわゆる大手メーカーの重役さんと話し合ったことがあるんです。灘の酒の味というものが有名で伝統になっているんだけれど、一体なにがこれを作ったかという話になりましてね。そうしたら、播州の米、西宮の水、もう一つ瀬戸内の小魚。小味のする、引き締まったアコウとか、オコゼとかいろいろあります。この三つがあいまって灘の酒の味を決定したんだという言い方をしている。しかし、重役さん、いまのあなた方の造るお酒は鳥モチみたいなべたべたとイヤらしい甘口で、なにか別れきれない、あくどい女みたいな感じがする。これはちょっとやりきれないんじゃありませんか、こういうものを造っていて恥ずかしくないんですかというような露骨なことを聞くと、恥ずかしいと言うんです。しかし自分の求めている理想の酒を出すと客がついてこないとも言う。それは客を見くびった言い方じゃないんでしょうかというと、こんな大きな企業になってみると冒険ができないという逃れ方をする。冒険じゃなくてご先祖様の味に帰るというだけの話しじゃないんですかというと、黙ってしまいましたけれどね。そのとき、勉強になったのは、甘口、辛口という評言があるが本当に好い酒のことをうま口というんだ、つまり飲んで飲み飽きない酒のことなんですね。それともう一つ淡麗という言葉を教えられまして、この二つだけ覚えて帰ってきたんですけれども、淡麗な日本酒というのになかなか出くわせないのが、我々飲みすけの悩みですな」

 蔵開きで飲む汲み立ての原酒はうまい。どうしてそれをあんなにまずくしてしまうのか、というような酒ばかりだが、さすがにまずい酒は売れなくなり、そんな酒を造っていた不勉強な酒蔵はたいていつぶれていって、美味い酒をこだわって造っているところが生き残っているのは幸いである。

 そのことについてはつづきを次回に。

石徹白の白山中居神社(4)宮川沿いに遡上する

車をおいた鳥居の前の地図によれば、白山中居神社前の宮川に沿って上流に歩く道があるようだ。


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神社から下って川を渡り、それらしい脇道を捜したが標識もない。

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どうもこの藪に残る踏み跡らしきものが遊歩道のようだ。行けるところまで行ってみようと歩き出す。暫くその道なき道を歩くのでおつきあい戴きたい。

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写真では分かりにくいが、道の真ん中を水が流れている。腐りかけた切り株に脚をかけてようやくまたぎ越える。川を左手に見ながら向こうから歩いてきたのだ。

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神社から見た小さな滝はこの流れが下ったもののようだ。

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こんな道だか道でないのか分からないところを踏み入っていく。

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木の階段は踏み場がえぐれてしまっている上にところどころ木も崩れていて歩きにくい。だんだん不安になる。

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登ったり下りたりしている内にふたたび川のそばまでやってくる。右手の大岩はなにかの神石のようだ(注連縄の朽ちたものがかかっていたような痕跡が見られた)が、なにも標識がないので分からない。

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川からまた上る。どうやらここから上の道路に戻るようだ。

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踏み段に杉の枯れ枝が積もって単なる坂になっていて、滑るから危ない。近頃は誰も歩く人がいないのだろう。

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登り続けると、小さな水力発電所の横を通ってようやく開けたところに出る。距離的には500mもないはずだが、私としてはずいぶん頑張った。

ここからさらに道路を進めば「長走りの滝」に行けるはずである。

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2018年9月14日 (金)

石徹白の白山中居神社(3)

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さらに高台にある、屋根に囲われた本殿。

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本殿の後ろには鬱蒼とした樹木があって、神韻を感じる。
実際はもう少し暗い。

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本殿の後ろには大木が覆い被さるように聳える。

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よく見ると美事な彫り物が施されている。

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境内に転がっている石はどう見ても自然石だが、不思議な形をしている。なにかが封じ込められているかのようだ。

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横のお堂の中に丸い石が置かれている。なんだろう。

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境内随一のご神木が倒れて、その中から出てきた玉の石だそうである。不思議なことである。

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この坂を登っていくと、浄安杉という大杉がある。一昨年大汗をかきながら登った。ここから300メートルというからすぐだと思ったら登るほどに坂は急になり、木の根を踏みながら登る。山道の100メートルは、舗装された平らな道の300メートル~500メートルに相当する気がする。

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入り口の看板。

この白山中居神社からさらに登ること数キロのところに石徹白の大杉という巨木があるが、この浄安杉はそれに次ぐ巨木である。

どうして浄安杉というなであるのかが看板に詳しく記されている。

昔、中居神社の別当寺に円周寺という寺があった。
宝暦十年(1760)四月に円周寺の住職となった人で浄安という人があったが、当時は白山禅頂を目指す信者が引きもきらず、円周寺はこの人たちのために一夜の宿を貸していた。円周寺で一夜を過ごした人たちは翌朝若干の金子をおいていくのが例(ためし)であった。こうした金がしまいには袋いっぱいとなったので、保管に困った浄安は夕暗迫る頃神社の裏山にある一本の杉の根元に穴を掘って埋めた。埋め終わった浄安が坂を下りていると杉の梢より「浄安、鋤は」と烏が鳴いたので、浄安は鋤を忘れたことに気がついた。それよりこの杉を浄安杉と呼ぶようになったと云う。

浄安杉 樹高32m 周囲 12m

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これが一昨年に見た浄安杉。

2018年9月13日 (木)

石徹白の白山中居神社(2)

 巨大な杉並木のあいだを抜け階段を下りると川が流れている。宮川である。大日岳(1709m)を源流とする朝日添川と芦倉山を源流とする保川がこの神社の上手の北側で合流した川で、合流地点は滝のような急流となっている。通称「長走りの滝」という(あとで見に行く)。

Dsc_7451 宮川の上流方向

 この宮川は神社の少し下手で石徹白川に合流し、さらにその石徹白川は九頭竜(くずりゅう)川に注ぎ込む。長良川沿いの国道156号線を北上して峠を越えて石徹白に来たのだが、長良川は太平洋に、この九頭竜川は日本海に注いでいるのだ。

Dsc_7452 宮川の下流方向

 地図で見てみると、この石徹白の北の大日岳の麓はひるがの高原、ここには珍しい国道脇の分水嶺がある。長良川沿いに国道156号線を行けば、ひるがの高原へ、さらに東へ向かえば荘川を通り高山へ、左に曲がって北上すれば御母衣湖を通って白川郷を通り富山へ至る。

Dsc_7459 小さな滝、長走りの滝てはない

 そして石徹白の南側の毘沙門岳の南には九頭竜川そして九頭竜ダムがある。この九頭竜川沿いの道へ行くのは郡上白鳥から油坂峠を越えていくしかない。その道は越前大野、勝山、永平寺から福井に至る。その道も景色が良くて好きな道だ。

 九頭竜という名前の響きが好いではないか。確か、映画『座頭市と用心棒』で、岸田森が九頭竜という暗殺者の役を演じていて、その映画を見たときには九頭竜が川の名前とは知らずに、いいネーミングだと感心した記憶がある。岸田森は異相の俳優で、樹木希林の最初の旦那である。

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川を渡り、神社への石段を登る。

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拝殿が見える。

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右奥が本殿である。

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本殿階段下の狛犬。

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ここは白山登山の南側の登り口の一つなのである。実際には神社左手の道を北上し、石徹白の大杉という十二人抱えといわれる巨木の横を登って行くようである。その大杉まででも石段を四百段か五百段上らねばならない。巨木は見てみたいので、いつか見に行こうとは思っているのだが。

神社本殿については次回。

2018年9月12日 (水)

石徹白の白山中居神社(1)

 白山(2702m)は、富士山、立山ともに古来日本三霊山に数えられており、白山信仰は著名な山岳信仰の対象として古い歴史を持ち、全国の白山神社の数は2700社を超えるという。そのうちの525社が岐阜県にある。先日訪ねた郡上白鳥の長滝白山神社もその主要な神社の一つである。

Dsc_7443 白山中居神社鳥居

 今回はさらに山の上にある、陸の孤島といわれる石徹白(いとしろ)の白山中居(はくさんちゅうきょ)神社を訪ねた。祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)で、白山信仰の開祖である越前の泰澄(たいちょう・8世紀初め頃)が社殿を修復して社域を拡げたと記録にあるというから、それ以前からこの神社はここにあったのである。

Dsc_7447 大杉の参道を逝くと木の間に神社が見えてきた

 ここには一昨年、長老と兄貴分の人と三人で立ち寄っている。スキー場のウイングヒルズを見下ろす、「満天の湯」の前の宿に宿泊した。そこから近いのである。満天の湯は標高1000mを超える。国道156号線から阿弥陀ヶ滝方向に道を逸れて山を一気に登り、さらに峠を下った奥深い山村が石徹白である。今回は郡上白鳥の銘酒を送って欲しいというその兄貴分の人の用事を兼ねての訪問である。

Dsc_7448 振り返るとこんな道

 幸い天気もまずまず(9/11)、神社とその周辺を散策したので何回かに分けて報告する。

まさかの中国製

「ニューサイトしらべぇ」が東京オリンピックの公式Tシャツが、日本製でなくまさかの中国製だったと報じた。さらにピンバッジの中国製だったという。ただ、同時に調べたタオルやネットストラップは日本製だったらしい。

 記事はせっかく日本で開催されるのだから出来れば国産で統一して欲しかったが、さまざまな事情があるのだろうと結んでいる。ただ中国製であるから批判するというばかりでないところが救いだ。

 ピンバッジについてはよく知らないが、Tシャツについては日本で大量に生産するのは困難なのであろうとは想像できる。北陸の合成繊維製品を除けば、日本国内の繊維産業はすでにほとんど壊滅的な状況である。Tシャツなら綿かT/C(綿とポリエステル)素材であろう。

 戦後日本が経済的に復興を成し遂げ、アメリカへの製品の輸出が急増した。1970年前後、アメリカはその時点での主要輸入品だった繊維製品について日本に対して強硬な規制を打ち出し、政府間で交渉の結果日本が大幅に譲歩し、自主規制を余儀なくされた。それは名目上アメリカの繊維産業を護るということだったが、そういう保護で産業が護られた例しはない。逆にこのことで日本の繊維産業は衰退の道を歩むことになった。

 その10年後、今度はアメリカは自動車を中心に官民あげて日本製品排斥を行った。日本は大幅に譲歩させられたことはある年齢以上の人なら記憶されているだろう。その前例の成功の記憶こそトランプの貿易摩擦発動の原点ではないかと思う。

 日米繊維交渉で、特に綿製品の五年間の輸出停止に追い込まれた後、アメリカの繊維製品はアメリカ製に戻ったのか。そんなことはなくて、韓国や中国が日本のかわりに輸出しただけである。産業保護を名目にしているが、アメリカは日本の急成長が面白くないから叩いただけに見える。今回の米中貿易戦争もそういうことだろう。だから中国が日本のように妥協譲歩しない限り終わりはない。そして面子を重んじる中国が譲ることは考えにくい。下手な譲り方をしたら政権が批判されてしまう。よほどのマイナスが生じて、国民あげて譲歩して欲しいという機運が生じない限り習近平も譲れない。

 すでに五十年前から日本の繊維産業は衰退への道をたどった。人件費の比率の高い産業であるために、繊維産業は先進国からつぎつぎに後進国にその座を譲っていくというのは歴史的な流れではあるものの、日本の場合はそれ以上の外的要因があった。日本政府は日本の繊維産業を見捨てたのである。だから時代の趨勢としての衰退ならまだダメージはゆるやかだっただろうに、対処が困難な急激な衰退は多くの会社を苦しめることになった。

 過去日本を支えた綿紡績会社はほとんど国内の工場を閉鎖した。繊維産業は裾野の広い産業である。紡績、製織、編み立て、染色、加工、縫製の行程に関わる会社もほとんどが廃業・倒産に追い込まれた。産地そのものが消滅してしまったのである。いま、すべて日本製の天然繊維の繊維製品など、極めて限られているし高価であるのは当然である。家内工業製品みたいなものなのである。

 東京オリンピックの公式Tシャツが国産ではないことをもし問題視するのなら、日本の繊維産業の歴史を多少は知った上で批判して欲しい。奉職中、繊維産業の生産工場を得意先としていたので、その衰退を目の当たりにしてきたのでこんなことを書いた。

2018年9月11日 (火)

気にし過ぎか

 NHKBSニュース、特に海外のニュースをよく見る。海外ニュースでは、同じニュースを国によって違う視点から報道しているのを見ることになるので、その国がどういう国か多少分かる気がする。中国やロシアはやはり私から見れば他の国とは異質な価値観の国なのだと感じたりする。そういうニュースを見続けていればその国の人はそのような価値観に影響されないわけはない。

 韓国は日本で思うより慰安婦問題ばかりを言っているわけではない(当たり前だが)し、日本のことばかり言っているわけでもないことも分かる。そういう意味では日本は韓国が日本のことばかり気にしている、と思い込んでいるところがあって、じつは日本の方が韓国を気にし過ぎているのかも知れない。

 同じ海外ニュースでも、海外の報じたものをそのまま伝えているものと、NHKがセレクトしてまとめたものがあって、セレクトしてまとめたものの方が分かりやすいけれど、じつはそれぞれの国のニュースを報じる優先順位まで感じ取りたいと思えば、そのまま放映したものの方が良いのかも知れない。

 ただその場合は、通訳の人がその国のニュースを日本語に替えて語っているのだが、その中にちょっと気になる人がいて耳障りである。声がネチャついていると言ったら却って分かりにくいだろうか。プロであるから日本語としては問題ない。声質、発声に違和感を感じるのである。たいていは特に気にならないが、二三人の人が耳障りなのである。みな女性である。

 気にしだすとニュースそのものよりもその声が気になってニュースに集中できない。能力のある通訳者には限りがあるから、そういう声の人でも選ぶしかなかったのだろうか、などと思うけれど、私が気にし過ぎで、たいていの人は何とも感じていないのかも知れない。通訳はアナウンサーとは違うから、声質やしゃべり方まで厳選されていないといえばそれまでだが、それにしても気になる。

 ところで、地上波のNHKのニュースが民放を真似ているのかバラエティ化しているのに比べて、NHKBSのニュースははるかにシンプルでありがたい。ニュースはこれでいいのである。スポーツや芸能や生活百科お役立ちのお知らせは別枠でやってくれ!  見なければいいのだけれどニュースは知りたい。その部分だけ消すのも面倒なのだ。

 そういえばBSニュースのアナウンサーの木下瑠音さんは超美人だと思う。美人過ぎて、夜、突然出遭ったらこわいだろうと思うくらいに美人だ。

器を替える

 山形県の新庄に嫁いだ叔母(父の妹)には学生時代に大変世話になった。たびたび泊まりに行っては小遣いをもらった。子供が四人いるが、後妻なのですべて先妻の子供であり、私とは血のつながりはないけれど、ふつうに従兄弟として親しくしていた。

 その叔母も父より少し早く亡くなってしまった。それから久しいが、その叔母の形見として鍋をもらった。金の取っ手のついた片手鍋で、打ち出しの重い鍋である。愛用の鍋がすでに揃っていて、その鍋は棚の奥にしまわれたままになっていた。

 シチューやカレー、麺類を茹でるための少し大型の鍋がくたびれてきた。底が薄いので火の通りがよいのだが、強火で炒めるときなど焦げやすくなってきた。思い立って叔母の鍋を引っ張り出した。使わないから蓋も鍋もなんとなくくすんでいる。磨き粉で表面を磨いたら光沢が少し戻って見栄えがよくなった。大汗をかいた。

 底が厚いからやや熱くなるのに時間がかかるが、あとの温度変化がゆるやかなので火加減が楽である。金の取っ手なので頑丈であるけれど、鍋の取っ手をもつときは鍋つかみかタオルが必要である。面倒だけれどプロっぽくてちょっと好い。

 食器棚に独り暮らしには不要なほどいろいろな食器が所狭しと並んでいる。これでも思い切りの良いどん姫がずいぶん処分してくれたのである。来客があればそれらを活用するのだが、めったにあることではない。活用しないどころではなく、横着をしてだんだん使用する器が限定されている。違う料理なのにいつも同じ器を使い、そもそもそぐわない器をそのまま気にせず使用していた。

 叔母の鍋を磨き立てている内に、どうも物というのは使わないと可哀想だという気持になってきた。使わないと物の怪(もののけ)になってしまうかもしれない。そう思って料理に合うように極力違う器を使うようにすることにした。どうせ一人分だからあとで洗う手間がそれほど増えるわけではない。

 酒の器ももらったり集めたりでいろいろと揃っている。これもその日の気分で替えるようにしはじめた。多少は気持ちがにぎやかに感じられないことはない。

 これも老化を遅らせるささやかな手立てかも知れない。

«物持ちが良すぎても

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