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2012年5月

2012年5月31日 (木)

柴山哲也「日本はなぜ世界で認められないのか」

 海外が日本や日本人をどう見ているのか、それは日本人が思うものとはずいぶん違うものである。この本はその違いを詳細に述べながら、なぜその違いが生ずるのか、誰かが見方をゆがめているのか、それとも日本人自身が間違っているのか、自ら考えさせてくれる本である。
 たとえば今回の東日本大震災に関連しての原発の事故に対する日本の対応、日本の第二次世界大戦に対する戦争責任、北朝鮮による拉致問題、捕鯨問題などについて世界が日本をどう見ているか知ると日本人にとっては心外な思いが多いものと思うが、ではその考えを前提にしたら日本人は何を語れるのか。それが問いとして突きつけられている。
 日本は再び鎖国して日本だけで生きていくことが出来ないとしたら、自分を見つめ直して世界の中で共通認識に立ちながら生きていくことが必要だろう。どうも日本の常識は世界の非常識、というところがあるようだ。
 日本はそれを乗り越えて、日本の常識こそなるほど世界の進むべき道である、と納得させられるようになりたいものである。

映画「アーサーと二つの世界の決戦」2010年フランス映画

 監督・リュック・ベッソン、出演・フレディ・ハイモア、ミア・ファロー。アーサーとミニモイシリーズ三部作の最終作。前作でミニモイの国の魔王マルタザールが、アーサーの来た方法を逆に辿って人間界に出現したところで終わっており、この第三部がWOWWOW で放映されるのを待っていたのだ。
 マルタザールがミニモイと通じる道を通る際に、その道が破壊されてしまったので、アーサーは人間界に戻ることが出来なくなった。その間にマルタザールは慣れない人間界でとんちんかんなことを繰り返すのだが、だんだん本性を現し、ついには仲間を巨大化することで人間界で破壊活動を始める。アーサーはミニモイ国のお姫様・セレニアや今は仲間になったマルタザールの息子・ダルコスと共にマルタザールを阻止するために立ち上がる。

 アーサーのおばあちゃん役がミア・ファローである。この人の映画は結構見た。「ローズ・マリーの赤ちゃん」、「ジョンとメリー」(ダスティン・ホフマンとの共演)、「フォロー・ミー」、「ナイル殺人事件」「カイロの紫のバラ」は全て映画館で見た。ウディ・アレンの映画に出るようになってからは縁が無くなった。

 この映画はもちろん子供向けであるが、リュック・ベッソンの映画である。手抜きがなくて不思議なおもしろさがあり、とても楽しめた。
アーサーの父親と母親が徹底的に俗物に描かれているところが子供から見た親の姿そのものなのかも知れない。子供の親としてやや悲しいが。

中国ウオッチ・二番目の敵

 中国の新聞が、シカゴ・トリビューンの電子版の記事を取り上げていた。その記事によると、

 世界平和を脅かす要素の最大のものは中国の存在である。歴史上台頭中の国は、自己の利益を確保するために他国との流血・衝突を招くケースが多い。しかし記者が中国を訪問して感じたことは、中国人はアメリカに対して敵意を抱いているわけではないと云うことであった。どちらかと言えばプラスのイメージを持っていると感じた。
 1949年以降、中国が解決した領土問題の大半は中国側が大きく譲歩している。過去10年で見ても武力行使で領有権を主張したことは無い。
 中国にとってアメリカは第二の敵に過ぎない。

とのことである。
 では第一の敵はどこか。言うまでも無い。日本のことを言っているのは明らかだ。シカゴ・トリビューンの記者の認識が間違っていると断定は出来ない。この認識が多くのアメリカ人の共感を呼ぶ認識なのかも知れない。しかもそれをうれしそうに取り上げる中国の新聞は中国側の認識も表しているのかも知れない。

 日本がこれだけアメリカに対して迎合してきたのにアメリカは日本をどう思っているのか。未だにアメリカ人の認識は日本は敵国であり、豊かになれば腹が立ち、停滞すれば喜ばしく思うと云うのが本音なのではないか。それ以上に中国人はそう思っているだろう。
これは両国とも自分の国の実態(いやな部分)を隠し、自己正当化を行い、教育やマスコミを使って日本のイメージを造ってきた結果であろう。 それに対して日本は自分の国を卑下し、自国を悪い国としてイメージを作り続けてきた。これでは日本だけが悪い国であり、敵国であると云うイメージが事実になっていくのも当然であろう。
 
 外務省の迎合主義の結果、世界の中で日本は孤立無援の国になってきたように見える。政治状況は国をどう経営していくつもりなのか全く分からない。経済は回復の兆しがあると円高でその利益を吸い上げられてしまう。震災からの復興も遅々として進まない。原発についても人災の部分についてその責任すら問うことが出来ずにいる。どうも日本は三流国へ堕ちていくことが必然的に定められているような気配を感じる。年金もいつまでもらえるか分からない。生活水準をさらに下げる覚悟をしなければならないだろう。それでも食べていければよしとしよう。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・貢院

 北京の貢院のことは前に述べたが、長安にもまた貢院がある。昔のままに少しも破損していないとのことであるから、行ってみることにした。貢院は安定門内西大街路北にあり、大街に臨んで碑楼があり為国求賢と題している。門を入って西に数十歩行くと、貢院と題した門を入り、また一門を過ぎれば龍門がある。明遠楼は龍門の北数十歩の場の中央に聳えている。楼に上って回りを眺めると楼の東西に各三十二棟あり、一棟はこれを南北に分かち、一側七十五名を収容する。そうしてその四隅に瞭望楼があり、これを北京の貢院に較べれば規模の大きさは北京には遠く及ばない。
 明遠楼の北に至公堂があり、その北に東西供給所がある。大観門を入れば東に対読所があり、西に受巻所があり、庭中に嘉靖年間重修二碑がある。また、東に弥封所があり、西に謄録所があって精白堂に至る。扁額がある。題して精白一心という。壁間には唐弘文館学士虞世南書、攀龍附鳳(はんりゅうふほう)の四大字がある。次に、東に外監試及び聴事吏の房があり、西に掌巻所及び科場房がある。東西通衢(つうく)を経て監臨堂に入る。その後ろには東西に監臨及び提調の部屋があり、次を内廉と云い、東西文衡を過ぎて、衡監堂を越えると東西分校があって、最後に録榜房(ろくろくぼう)がある。層々相連なりて簷椽(えんてん)相望んでいる(のきひさしがつらなっていること)。北京の貢院は庚子の乱に廃頽して修理されておらず、全く往時の面影をとどめていないけれども、西安の貢院はなお昔年の如くであるが、今は陝西省の工芸総廠をこの中に設けて、職工数十名が織物の器械を並べたり、糸を紡いだりしている。
*貢院は、地方の役人の予備試験を通過した者達を集めて行う選抜試験。文章中、貢院の中のいろいろの場所が言葉でたくさん出てくるが煩雑なのでいちいち説明は略す。

2012年5月30日 (水)

映画館とデジタル化

 NHKの「クローズアップ現代」で、映画のデジタル化に伴い映画館へのフィルムでの供給がほぼ無くなることになったことを伝えていた。デジタルとしての供給になると従来の映写機しか持たない映画館はデジタル化の対応のための設備投資が必要である。それに対応できない地方の映画館などが廃業に追い込まれているという。今年、日本の最後の映写機製造メーカーが倒産したという。今がんばっている映画館も映写機が壊れたらフィルムの映写が不可能になってしまった。
 
 ここで何が問題だろう。時代の変化は必然だと考えれば淘汰も必然である。だがやはり問題ではないかと番組は言う。地方の映画館は何とか映画ファンに答えるべく努力してきたが、その灯が消えてしまうこと、そしてフィルムで残っている古い映画の映写が不可能になっていくことである。

 フィルムはデジタルより寿命の長いメディアであることは意外な事実である。そのメディアは文化として残し、それを公開していくこと(保存するだけではまったく意味が無い)が必要である。
 今はデジタル化での保存が可能である。我々はそのデジタル化したものでその文化を見る機会を得ているが、マスターとしてのフィルムが残ること、そしてそれが再現できることは必要であろう。

 今過去数十年にわたってフィルムに撮りためた写真をデジタル化する作業をしている。それをデジタル化したら捨てようかどうか迷いながら、今にそのデジタル化の技術がさらに良くなったとき、再びデジタル化にチャレンジする可能性を考えて捨てきれずにいる自分がいる。一体いくつまで生きるつもりなのだ。

中国ウオッチ・スパイ疑惑

 在日中国大使館の一等書記官が外交官の身分を隠して経済活動を行っていた、さらにスパイ行為の疑いもあるとして警視庁の公安部が出頭要請を行ったが、本人はすでに「任期満了」で中国に帰国したという。テレビのニュースで盛んに取り上げて様々な憶測やコメントが続いていた。
 不思議でならないことがある。なぜこのことが公にされたのだろうか。中国に限らずどこの国も、日本はスパイ活動の天国としてやりたい放題らしい。それを公安部はそれなりに密かにマークして調査活動を行っていると聞いている。その活動の内容は普通明らかにされることはない。具体的な実害があって事実を公表しなければならなくなった場合だけ、事件としてニュースになる。
 今回も中国側はこの件について「事実無根であり、全くのでたらめだ」とのコメントを出している。中国に対する何らかの警告とするにはあまりにお粗末な内容しかニュースでは見ることができない。
 公安部がこの件を明らかにした目的は一体何なのだろうか、全く分からない。
 もしかすると意外な大物政治家がこの件に関与したとして名前が明かされることになるのかも知れない。どうも中国側も了解に近い何かのリークが起こるような気がする。

映画「博奕打ち いのち札」1971年東映

 監督・山下耕作、出演・鶴田浩二、安田道代(大楠道代)、若山富三郎、水島道太郎、渡瀬恒彦。
 博奕打ちシリーズ第十作。シリーズとしてはやや長い107分。出だしに珍しく鶴田浩二と安田道代の濡れ場シーンがある。
 関東桜田組系若井組の若頭、相川清次郎は旅先の直江津で女剣劇の花形、静江と恋に落ちる。清次郎はやくざである自分の身分を隠して一年後の再会を約束する。しかし東京に戻った清次郎はよんどころないの事情で新興やくざの親分・天津敏を傷つけ、傷害の罪で服役することになってしまう。静江には自分を忘れてくれ、と手紙を出して約束を守れないことをわびる。そして三年半後、服役中に運命のいたずらで、若井組の親分・水島道太郎が結婚した相手が静江であることを知る。それからしばらくして仮出所して組に戻った清次郎は静江を姐さんとしか呼べない立場になっていた。
 若井組のシマは大森であり、埋め立てなどの工事の仕切りの仕事を請け負ったことで勢いが盛んになるのだが、本家筋の花田組は面白くない。新興やくざをそそのかし、裏で糸を引いて嫌がらせを繰り返して仕事を横取りしようとするが、岩井組の結束は固く、挑発には乗らない。
 そこで殺し屋を使い、岩井組の親分を暗殺してしまう。しかし岩井の最期の言葉は工事を成し遂げることであった。岩井組は若頭の清次郎と、今まで組をまとめてきた清次郎の弟分・若山富三郎が、静江を旗頭に工事を進めていく。しかし清次郎と静江の仲は敵にも弟分にも知られることになってしまう。それを利用しようとする花田組の親分・内田朝雄の画策により、新興やくざと若井組の手打ちが花田組によって行われ、ついに清次郎は若井組と縁を切らざるを得なくなる。
 歳が明け、若井組は手打ちを理由に果てしなく譲歩せざるを得ないような立場に追い込まれる。今は若井組を束ねる若山富三郎は、自分の親分を殺した犯人が誰かを知り、静江から事の真相を明かされるに及んで自分が兄貴分である清次郎を信じ切れなかったことを悔やみ、単身敵の中に乗り込むのだが、殺し屋は討ち果たすもののなぶり殺しにあってしまう。
 今はやりたい放題になったと見た花田組と新興やくざ達は徒党を組んで若井組に乗り込んでくる。もちろんそこに駆けつけてくるのは清次郎である。そして・・・。

 安田道代と若山富三郎が長い間同棲していたのは有名な話しだが、この映画の頃のことだろうか。安田道代はその後大楠道代と改名した。
 眼に苦みのあるいい女で、昔から好きな女優である。この映画でも女剣劇役者からやくざの姐御に変わっていく、立場による顔つきの変化がすばらしい。心の変化をわずかな表情で表現するところなどすばらしい女優であることが改めて分かった。この静江の心の変化に清次郎が振り回されていくのだが、それを描くために映画は少し長くなっている。それと共に物語に奥行きが出てすばらしい出来になってもいる。

中国ウオッチ・直接取引

 中国外貨取引センターは、6月1日から人民元と日本円の直接取引を開始すると正式に発表した。
 これで従来はドルを介した取引だったものが、直接取引が可能になり、取引コストの低下や、両国通貨の利便性向上、東京市場の活性化も期待できる。
 このニュースで、ドルを除いて円は人民元が直接取引できる最初の通貨となる、としている。しかしこれは誤りである。すでに北朝鮮、モンゴル、ベトナム、ミャンマー、ラオス、カンボジアとは人民元決済が行われている。さらに中国は、韓国、香港、マレーシア、ウクライナ、インドネシア、アルゼンチンの中央銀行と通貨互換協定を結び、人民元決済の貿易が推進されている。
 中国は人民元を基軸通貨にするという戦略を進めている。ドルが基軸通貨の資格を問われるような、アメリカにだけ都合の良い政策を続けていれば当然各国はドル決済よりも人民元決済の方が有利であると判断するようになり、なし崩し的に人民元が基軸通貨になる可能性が大きくなるであろう。
 すでにアメリカとヨーロッパが自分たちの都合の良い形で動かしてきたIMF(世界通貨基金)の副専務理事に中国の朱民氏が就任したことは異例中の異例なことで、不文律を破るものであった。
 
 ドルの価値はこれでさらに下がるであろう。そして人民元決済はさらに拡大されるであろう。ヨーロッパの没落につづいて、実態のない経済で凌いできたアメリカの没落が始まっている。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・迎祥観

 鐘楼から西大街を数町ほど行くと、広済街の東路北に木造の楼館があり、題して古景龍館と云う。これを十数歩過ぎると煉瓦造りの門があり、迎祥観と題す。観は唐中宗景龍二年の創建である。玄宗の時老子は唐と同姓であることを尊んで玄元皇帝となした。帝はある夜夢に老子を見、覚めて後これを尋ねて老子の玉像をこの観内大同殿中に得た。よって景龍館を改めて迎祥観と云う。この観は当時天下における道教の中心であった。それなのに今は巡警局となり、当時の面影を見ることはできない。現在の観は光緒十三年に修理したものである。観の後ろに高台があり、台上に三層の高楼がある。たぶん当時の鐘楼であろう。その中にある大鐘は唐代のもので睿宗(えいそう)御製の銘があるとのことである。

2012年5月29日 (火)

菅元首相

 原発事故の政府側、特に首相の責任について国会の専門委員会が菅首相(当時)を喚問した様子がテレビで報道されていた。
 個別の質問に答えて、場合により激しく反論しているが、それぞれ事実がどうであったかは今後の検証を待つとして、菅直人という人について思うところがあった。
 そもそも市民運動家から政治家になったという成り立ちから、何かを激しく批判、糾弾するその鋭さが評価されてのし上がってきた人であることを改めて感じた。そのような人の多くが自分が批判される側に廻るという想定を持ち合わせていない。
 この喚問の中でも多くは東京電力批判、原発推進した政府批判であった。自分を含めて原発事故の責任の多くは政府にある、と認めて深く頭を下げていた。しかしコメンテーターも鋭くついていたように、この言葉の裏にはそもそも自分たち民主党が原発を推進したのではなく、自民党のやったことである、と云う本音が見え見えであった。
 菅直人という人には自分自身を外側から見るという視点が全く感じられない。常に自分は正しいという核(中心という意味で原子力のことではありません)を元に敵として想定した相手と戦うというスタイルしかない。だから反省などと言うことはこの人にはあり得ないようだ。
 自分自身を相対化できない、ある意味では成熟していない人間を国の長にしてしまった日本国民はその被害も引き受けなければならなくなったと言うことのようだ。これは鳩山由紀夫という人間も全くそのような人間であり、もしかすると民主党という党全体がそういう体質の人の集まりなのかも知れない。いや日本の多くの政治家がそういう人間の集まりなのか。日本人の美徳はもう失われてしまったのか。
 もう少し恥を知る人間を選挙で選ぶことが出来るように願うばかりだ。反省は昔から嫌いなのだが、自分を相対化して手直しするという努力を意識的に心がけていこうと反省した。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・大雁塔②

 雁塔は四面七級高さ三百余尺ある。乾隆十一年建てられた慈恩寺功行碑記があり、その文によると、塔は宋煕寧の時代に火災に遭い、久しく登ることができなかったが、明万暦甲辰にこれを修理して、旧に復した。第二層へは三十二段、第三層には二十四段、第四層には二十三段、第五層へは二十一段、第六層へは二十段、最高層へは十七段の階段を経て、上へ登るほど視点が上がり、視界が開ける。唐の詩人の岑参(しんじん)が高適薛拠と同じくこの塔に登り、
  塔勢如湧出、
  孤高聳天宮、
  登臨出世界、
  磴道盤虚空、  磴道(とうどう)
  突兀圧神州、
  崢嶸如鬼工、  崢嶸(そうこう)
  四角凝白日、
  七層摩蒼穹、
  下窺指高鳥、
  俯聴聞驚風、
(意)
字面を突き破ってわき出たように塔は聳える。塔の入り口までの石段はぐるぐると虚空をめぐる。突出し、鋭く角張った塔は神州全土を鎮圧するかのようで、その形は鬼神の入念の技だ。四角の塔は白い太陽を遮り、聳える七層の屋根は青空を撫でる。下を見て鳥を指さす。これは地上からは見上げる鳥でなのだ。うつむいて耳を澄ませると、強い風の音が聞こえる。これははるか下界を吹いている風なのだ。

と歌ったのは決して誇大の言ではない。欄に拠り、仰いで南山に対し、俯して楽遊白鹿の諸原を見る。曲江の辺り、宮観玲瓏青松馳道を差し挟んだ壮観は今は見ることができない。時に日は傾き、暮色は西から迫ってきて、蒼然関中に満ちる。荊叔(けいしゅく)の詩を高唱して曰く、
  漢国山河在、
  秦陵草樹深、
  暮雪千里色、
  無処不傷心、

0087大雁塔上部。

0089塔からの景色。1992年。

0403310塔からの景色。2004年。

1010_298塔からの景色。2010年。

1010_301大雁塔七階。

2012年5月28日 (月)

中国ウオッチ・冷笑

 久しぶりに中国ウオッチを再開します。最近あまり面白い新しいネタが少ないようです。
 中国の乳製品工業協会が「現在の国産粉ミルクは史上最高品質」とする報告書を発表した。その根拠として「先進技術を採用し、世界で最も厳しい基準」「原料の品質と安全性を確保」「先進的な加工技術、設備を導入」「国による充実した管理システム」を挙げた。
 中国の粉ミルクは三年前にメラミンによる増量事件などがあり信用が失われていたが、今は大丈夫だという宣言をしたつもりのようである。 だがネットなどでは「基準は世界最低」だと冷笑されており、今までが今までだからそれよりましになって当たり前だろうけれど、信用を回復するのはまだまだとの見方が普通のようだ。
 中国の食品は信じられないような異物、毒物の混入事件が摘発され続けており、当分信用回復は難しいだろう。

 思い起こすのは日本で発生した中国製毒入り餃子事件の中国の処理の仕方だ。一方的に日本で混入したと言い張って中国の工場での捜査状況を明らかにせず、一年以上経ってから外交上の都合でとつぜん犯人逮捕して事件を明らかにした。あれは日本人ばかりではなく、中国人にとってもまことに不愉快な事件であり、中国側の態度であった。あのときに一方的に日本を非難していた中国側の責任者を連れてきて謝罪して欲しいところだ。
 どこの国にもおかしな人間はいるし、犯罪は起こる。だから事件を事件として正当に調査してその結果を明らかにすれば中国が信用を落とすことはないのだ。犯人が悪いだけだから犯人が捕まってそれで終わりだ。

 信用と言えば、日本の原発事故についての政府関係者の行動はその中国の行動と酷似している。何とか無かったことにしようとしたり、事態を少しでも小さく見せようとしたりの繰り返しであり、すぐぼろが出て訂正を行っている。だから誰も言うことを信用しなくなってしまった。最も問題なのは未だに誰もそのことについて責任を取るものが一人としていないということだ。未だに本来責任を取らなければならない人間がのうのうとのさばって安全審査を行っているというのはほとんど犯罪的だ。

 全く中国の食品の信用を冷笑するどころではない話しだ。

映画「札付き博徒」1970年東映

 博奕打ちシリーズ第九作。監督・小沢茂弘、出演・鶴田浩二、大木実、小池朝雄、山本麟一、工藤明子、ほか。
 舞台は北九州・戸畑。二百年つづいている山笠祭りに二つのやくざ組織が介入しようとするのを阻止しようとするやくざを鶴田浩二が演ずる。柏木竜二・鶴田浩二は13年ぶりに生まれ育った戸畑を訪れる。戸畑の祭りへのやくざの介入の話を聞いたからである。そもそもは堅気のみで続けてきた祭りであり、戸畑の青年達で構成された若衆組が取り仕切ってきたものだ。その若衆組を束ねる親方・大木実は竜二とは深い因縁があったが、今はやくざの竜二とは縁のないものとして関わりを避ける。竜二はその意を汲んで、陰ながら助けようとする。
 それぞれのやくざは警察署長・小松方正を抱き込み、主導権を取ろうと画策する。若衆組の親方は身を挺して介入を止めようとして刺殺され、それがもとで形勢が不利になった側のやくざがもう一方に殴り込みをかけることで自滅、残った側の親分・内田朝雄は一気に戸畑の町を制する動きに出る。だまされてそちらに与していた若衆組の若頭・待田京介はその裏切りを非難したため、これも暗殺されてしまう。
 竜二の表に出られずにいる苦しい立場を見た女博徒の工藤明子は単身殴り込みをかけるのだが・・・。
 シリーズの中でも特に出来が良い。傑作だ。鶴田浩二の顔つきがとても良い。女博徒の工藤明子がすばらしい。そして小池朝雄がコミカルな役ながら最後の討ち入りに鶴田浩二と同行する良い役を得てそれも良かった。そして最後に成敗される親分・内田朝雄・・・(ええいややこしい、同じ朝雄でこんがらがる)の断末魔が強烈である。死に方としてトップクラスではないか。ついでにいうと川谷拓三がちょろちょろとあちこちに出てくる。しかも最後の修羅場でも何遍も鶴田浩二に斬りかかるのに最後の最後近くまで殺されずにうっとうしいほどだ(もちろんやられてしまうけれど)。さすがにピラニア軍団。
 繰り返すがこの作品はストーリーは単純だがやくざの空しい立場を虚無的にならずに血の通ったものとしてバランス良く描いていて傑作だ。今も昔もこんなやくざはいないだろうけれど。

近藤大介著「『中国模式』の衝撃」(平凡社新書)

 模式とはモデルのことである。副題が「チャイニーズ・スタンダードを読み解く」。著者は講談社社員で、現在は講談社(北京)文化有限公司に出向。かなりディープな中国通で人脈も多い。
 この本の内容は確かに新書の体裁に相当するものだが、かなり濃厚で読み応えがある。すでに承知していたと思っていたことも改めてこの本で書かれているものを読むことで頭が少し整理できた。
 現在の中国の生活の実情、政治、外交、経済について、そしてアメリカへの対抗意識について書かれているので、現代中国について識りたければこの本を読めばほぼほかの本は必要ない。

 今年の指導者交代の背景、薄煕来事件の背景にある権力闘争についてこの本を読んで私なりに理解したことを後でまとめて文章にしてみたい。あくまで自分の整理の為なので期待はしないで貰いたいが、単純化するので分かりやすいかも知れない。

前文補足

 杜甫の哀江頭という詩について
   少陵の野老、声を呑んで哭す、
   春日 潜行す 曲江の曲、
   江頭の宮殿 千門を鎖す、
   細柳 新蒲 誰が為にか緑なる、
(意)
私は(安禄山の部下に怪しまれるのをおそれ)声を忍んで泣いている。
この春の日和に、人目を避けて曲江のほとりをさまよい歩いてみた。
江畔に近い南苑の宮殿は、多くの門が閉められたきりで人気とてないのに、
柳や蒲(がま)の若芽は誰に見せようとして緑の装いをしているのか。

杜甫の詩を調べていたら見つかったので記します。訳は山田勝美氏。
この詩は全部で20連の長いもので、楊貴妃の死を悲しみ、長安で捕らえられている自分の身の悲しみを歌ったものである。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・大雁塔①

 南門の外、城郭に近いのを小雁塔と云い、遠く八里の外、楽遊原(らくゆうげん)中にあるのを大雁塔という。大雁塔はすなわち有名な慈恩寺塔である。慈恩寺は唐高宗が文徳皇后の福利のために建てたものである。九月二十九日、鈴木氏夫妻、足立氏夫妻と令息と共にこの地に遊ぶ。
 寺の南に小石橋があり、その傍らにわずかに潦水(ろうすい・たまり水)をたたえる小池がある。周回がおよそ十余間、これがすなわち曲江である。曲江は漢武帝が秦の宜春苑(ぎしゅんえん)の故址にちなんで造ったものでこれを広めた。その曲折して嘉陵江に似ているのを以て曲江と名付けたと云われる。唐開元中にまたこれを造り直している。江の辺りに紫雲楼があり、芙蓉苑があり、杏園及び慈恩寺があり、細柳新蒲(柳やがまの穂の容子であろう)画の如く、都人優賞の地で、三月三日には最も雑踏を極めた。玄宗は大臣や役人のために宴を催し、また科挙に受かった者達のために宴を催した。宴が終わった後、進士達は相率いて慈恩寺に遊び、名を雁塔に題した。当時の人はこのことを話題にした。のち安禄山の乱に際して、杜甫が哀江頭の詩に、
   少陵野老呑声哭、
   春日潜行曲江曲、
   江頭宮殿鎖千門、
   細柳新蒲為誰緑、
と詠じたのはすなわちここである。門を入ると院落(屋敷の中庭)蕭条、堂前には明・清の科挙登第の題名碑が相並んでいる。これは唐の雁塔題名の風に習ったものである。唐代の古碑はことごとく滅んで、ただ褚遂良(ちょすいりょう・有名な書家)三蔵聖教序文のみ一つだけ完全な形で残っていて、雁塔の壁間に挿入してある。

0085大雁塔。1992年撮影。

1010_292同じく大雁塔。2004年撮影。

0403307文中の褚遂良・三蔵聖教序文の碑がこの中にある。

2012年5月27日 (日)

帝釈峡・断魚渓

 石見銀山から261号線を南下する途中に断魚渓というのがあって立ち寄ったが、この帝釈峡にも断魚渓がある。帝釈峡は入り口もいくつかあり、かなり広い。上帝釈、神龍湖、下帝釈の三箇所に別れていて、今回は上帝釈一帯を歩いている。

120523_70こんな景色を見ると深山幽谷の感がある。

120523_77断魚渓を見下ろす。

120523_85_2断魚渓の橋からの景色。

120523_91誰がこんな風に結んだのだろう。かなり太い。

帰り道はこんなものを見つけながら歩かないと遠い。

120523_92何という花だろう、花は好きだが名前をほとんど知らない。恥ずかしいことだ。

120523_101遅い昼食を駐車場の近くの食堂で摂った。写真が一杯掛かっている。全て帝釈峡の写真だ。ご主人が撮ったのかと思ったら、お客さんが撮ったものだという。確かに帝釈峡は絵になる景色がたくさんあった。選んで大きくプリントしてみたい。

120523_102ます定食を頼んだ。鱒の塩焼きに刺身こんにゃく、山菜の天ぷら、たぬきそば、山菜の煮浸し、塩鯖の和え物など。盛りだくさんでお腹がいっぱいになった。おばさんが、塩鯖について説明してくれた。ここも京都と一緒で魚は新鮮なものが少なく、塩物が多い。塩鯖はごちそうだったという。ビールが欲しいところだが運転があるので我慢。

 このあと中国道・東城インターから一気に東へ。吉川から舞鶴道路で福井県の高浜に到着。鼓松(こしょう)と云う宿に泊まった。ここはスリッパがない。廊下が畳敷きなのだ。そしてなんと温泉だった。それも炭酸入りの温泉で、少し湯につかっていると全身が泡だらけになって気持ちが良い。

お湯を楽しんでしっかりお酒を飲み、翌日名古屋に帰りました。ああ面白かった。

帝釈峡・雄橋

120523_57帝釈峡・雄橋(おんばし)。海岸でこのような景色を見ることはあるが、川に架かっているのは初めて見た。

120523_61_2ものすごい重量感でのしかかってくる。

120523_63左手の下から対岸側を見上げた。要は橋の下から縦に見ている。

120523_66橋をくぐり抜け、河原に降りて振り返る。

この後とりあえずの最終目的地である断魚渓に向かう。ちょっと歩く。





和田秀樹著「知力の鍛え方」(海竜社)

 副題は「バカにならないための思考トレーニング」となっているが、特に練習問題があるというわけではない。帯に「なぜ、日本人は自分の頭で考えなくなったのか?」とある。そうなのだ、頭を鍛えたかったら与えられた問題を解くのではなく、物事の意味を考えるということ、問題を自分の頭で考え出すべきなのだ。

 日本は戦後の愚民化政策のもとで知的に極めて劣化したと著者は見る。日本、と云う集合体の話しなので、個別に優秀な人間は今でも少なからずいるのだが、全体としての劣化については私も同じ認識である。

 ことさら陰謀史観に立つつもりはないが、世界は、日本が世界を相手に戦うという暴挙に至るまでの力を二度と持つことが出来ないために戦後あらゆる手を尽くしてきた。進駐軍が先ずそのことに心を砕いた。戦時中戦意をあおり、大本営発表をそのまま垂れ流した新聞は戦争中の自分のやったことに口を拭い、戦時中と全く同様に今度は進駐軍に迎合してその云うことを金科玉条とした(なぜ戦後日本の国はドイツと違ってあの戦争に対する総括を行わなかったのか。国民的な議論になぜならなかったのか。これは私が思うにその総括は新聞社そのものの取ってきた行動をあからさまにすることにつながることを恐れたからだと思う。日本国民は戦争被害者であると云う論調に終始することであたかも新聞社もその被害者の一員であるような逃げ方をしたのだ。新聞こそ戦犯の一つに他ならないが、進駐軍はそれを断罪することなく、利用したのだ。だから必要以上に新聞は進駐軍に迎合したのではないか。戦争責任については今考えているところでまだまとまっていないが一度述べてみたい)。左翼はもちろんそのような愚民化政策こそ日本を再び戦争に導かないための方法であると確信して行動した(これはソビエトコミンテルンの最も支持するところでもあった)から日教組はその意を汲んだ教育を推進した。その永い永い努力の成果に加えて、テレビメディアという思考劣化を加速するメディアが新たに加わった。これではバカにならないはずがない。バカにされると自分がバカであることに気がつかなくなるからまことに居心地の良い社会になったがそんな社会がうまくいくはずがないわけで、そのほころびが現れてきた。これからもっとどんどんひどいことになるだろう。

 この本で著者が提案しているのは、マスコミの断定的な物言いに流されずになぜだろうと疑問を持つこと、自分自身をさらに高い位置から認知するメタ認知を持つことなどである。事実は多数決ではない、というのは養老孟司が言っていたことである。
 メタ認知というのはこの本を読んで理解して欲しいが、ものを識るということには量の問題ではなく、階段状のレベル段階があること、今いるレベルと違うレベルがあることを認識することに尽きると思う。

 日本は知的に劣化してしまったが、もし今にわかにそれに気がついて回復させようと努力し始めても、成果が出るにはここまでに至った年数より永い何十年どころか百年必要だと思う。それはそのこころざしを持つ人がたくさん現れることに期待するとして、今出来ることは自分自身と自分が関わった人たちとの関わりの中で自分とその周辺だけでも眠りから覚めるしかないのだろう。
 この本はそのように思わせてくれる本だった。

帝釈峡・鬼の唐門から雄橋へ

白雲洞を出てすぐのところに鬼の唐門という岩に空洞のある場所がある。もちろん門なのでくぐり抜けることが出来るが、こちらから写真を撮って次へ移動した。後で聞いたら向こう側から取る方が良い写真が撮れるそうだ。残念であった。

120523_33鬼の唐門。

鬼の唐門のすぐとなりに鬼の供養塔という石柱がある。自然の石と云うより石碑が立てられているように見える。

120523_36真ん中の石柱。自然のものとは思えない。何か刻されているかと思えるほどだ。

雄橋までもう一息だ。川の景色がさらに美しくなってきた。

120523_42石の橋というのは本当に風情がある。そこに苔が付き出すとさらに美しい。朽ちかけて草が生えたりすると本当に時間が造った芸術品のようだ。

120523_48狭くなっているところは当然流れが急になっている。

120523_53_2淵になっているところの暗がりがときめきを感じさせる。

120523_54道の両脇は樹が鬱蒼として緑が深い。最高の森林浴。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・碑林

 南門外、関中書院の東に西安府学があり、その東に文廟があってそこがいま碑林となっている。碑林はおよそ七房あり、その中に蔵する石碑は夏・秦の模刻を初め、唐・宋のものが極めて多く、新旧を合わせておよそ六百余種に及び、逸品の枚挙に遑(いとま)が無い。中にはその碑面をなで回し、這うように眺め回して去るに忍びないというような人もいる。府学の域内には法帖を売るものが数軒あり、碑林の中で苫に逸品である五十五種のものを選んでこれを売っている。今いちいちこれを列挙するのはやめておくが、代価は五千文。一両(テール)は千六百文に交換できるので、五千文は三両あまりに当たり、日本円にして約五円に相当する。唐の開成石経はその中にない。六百四種全てであればその代価は四十二両であると云う。

0040文廟の牌楼。ここは昔大学だった。撮影は1992年。

00421992年の碑林入り口の写真。

1010_1692010年の碑林。入り口正面に玄宗皇帝の真筆の碑がある。

0403336このように中国中の有名な石碑が集められて林のように並んでいる。幸い文化大革命でも破損することがなく残ったのは幸いであった。これは2004年に撮影。

0403331専門家が拓本を取っているところ。墨のにおいがしていた。王羲之や顔真卿などの有名なものの拓本が売られている。最近はべらぼうに高くなった。言い値では買わないこと。ただし売り子によっては頑固で値引きしないのもいる。相手を見て交渉しよう。

2012年5月26日 (土)

帝釈峡・白雲洞まで

 ようやく帝釈峡に到着。見所は白雲洞という鍾乳洞、雄橋(おんばし)、断魚渓。往復で3Km程度。あまりアップダウンがないと云うからいけそうだ。

120523_2帝釈川の渓流沿いに歩き出す。絵になる景色がつづく。

120523_3このような橋を何度も渡る。

120523_6橋の上からの景色。緑が美しい。もうすぐ白雲洞。

120523_9白雲洞入り口。ここへ戻ってくる。狭い。

120523_23乾いた鍾乳石。

120523_24天狗岩。横に突き出している鍾乳石は極めて珍しいそうだ。暗がりでよく分からなかったが、写真で初めて分かった。ストロボは使っていません。

120523_25こんな写真をたくさん撮ったが、きりが無いのでこれまで。白雲洞は行き止まりまで行って引き返して10分程度。誰もいないからちょっとどきどきするが洞窟大好き人間としてはそれがたまらなく楽しい。

映画「博奕打ち 流れ者」1970年東映

 監督・山下耕作、出演・鶴田浩二、水島道太郎、若山富三郎、待田京介、藤純子。博奕打ちシリーズの第八作である。
 前作は残念だった。今回は山下耕作監督だから出来はよろしい。だがどうも虚無感が漂う。流れ者、と云う立場がそもそもそういうものであって一宿一飯の義理だけで命を投げ出す。だがこの映画の中で主人公が言う。「渡世人は筋目を通さなければならない。だがその筋がゆがんでいるときにどうするのか」。
 最初の舞台は小倉である。鶴田浩二、水島道太郎、待田京介、天津敏ともう一人が旅人として渡世の義理で殴り込みをかける。その場に立ち会いを許されない者(待田京介)、死ぬ者(もう一人の年取った旅人)、大けがを負う者(水島道太郎)、逃げ出す者(天津敏)、そしてその討ち入りで名を挙げた者(鶴田浩二)が五年後に再び邂逅する。
 主な舞台は木場である。天津敏はのし上がっていた。天津敏に助けられた水島道太郎は、命を助けられた義理で討ち入りから逃げたしたのは自分であると云う汚名を甘んじて受けていた。
 木場の名のある親分のところに寄寓した鶴田浩二だが、水島道太郎に出逢うことで抗争に巻き込まれることになる。水島道太郎は抗争にかかわらずに旅立つことを強く勧めるのだが、その時には鶴田浩二も引くに引けない立場に立っていた。
 水島道太郎が殺され、待田京介が殺され、鶴田浩二が世話になった親分が殺されるに至り、流れ者としての筋を再び通すことになる。
 水島道太郎の妹・藤純子の愛を振り捨て、やはり流れ者の若山富三郎と二人で天津敏達の待ち構えているところへ討ち入りをすることになるのである。
 
 ところで何故ドスで戦うのだろう。日本刀の方が大勢を相手の時は有利ではないだろうか。若山富三郎は日本刀ではないか。だから怪我もほとんど負わない。鶴田浩二は満身創痍で本望を遂げるが立ち去る姿はかなり危うい。日活映画みたいだ。

 この作品が作られた1970年は大阪万博の年である。やくざというものに対してそれまでの任侠美化批判があったのかも知れない。

怒り

 写真のネガのデジタルスキャンを再開した。古いものの中にカビが生えて変色がひどいものがある。あまりにひどい損傷なので試しにネガを水洗してみた。元の画像と水洗後と補正後を較べて見て欲しい。

Photo_2元の画像。ひどい。

Photo_3カビ状のものが薄れている。えっ。

Photo_4補正後。カブリを消すとやはりうっすらとカビ状のものが見える。

これより古い写真でもカブリがほとんどないものが多く、ましてカビなど無いのが普通だ。このようにひどいネガが7~8本くらい見つかった。だいたい同時期なのでたぶん同じラボに出したのだろう。

 間違いない。定着処理後に水洗をいい加減にしたのか、まさかと思うが水洗そのものをしていないかだ。カビは洗ったくらいでは薄れたりしない。カビに見えるのは定着薬の析出したものだろう。もう少し丁寧に水洗したらもっと綺麗になる可能性が大きい。

 それにしてもひどいラボがあったものだ。こういうラボ達がアナログ写真を滅ぼしたと云っていい(まだ滅びてはいないが)。とにかくここへ出していたときは一眼レフで撮ったサービス写真がぶれてボケているのだ。しかも焼き増しでもう一度プリントすると同じ写真と思えないくらい仕上がりが違った。今思い出しても怒りがこみ上げる。途中で気がついてラボは替えた。犯人と覚しきラボは今はつぶれて存在しない。
 写真をなんだと思っているのだ。呪われろ。

恐怖の433号線

 大朝の温泉から帝釈峡へ行くことにした。帝釈峡は中国道の東城インターに近いから浜田道の大朝インターに乗り、中国道に乗れば迷うこともなく、スムーズに行くことが出来る。しかしずっと有料道路に乗らずに走ってきた。今度も地道で行くことにする。大朝から261号線を南下して左折、433号線を通って三次に行く。三次から283号線で西城へ、西城から再度南下して帝釈峡へ行くコースを取ることにした。
 国道433号線は田舎道を走る。天気は薄曇り、さわやかな風を受けながら気持ちよく走っていたら、センターラインがなくなった。大きな車が来たらすれ違うのが難しいな、と思いながらしばらく走っているうちに道は江の川沿いを走り出した。狭い。さらにしばらくして分かれ道があり、433号線は山の中に入っていく。何となく不安を覚えだした頃小さな集落を通過、田圃のあぜ道みたいな道になっていく。手書きの看板で「国道433号線→」と明記してある。これがなければ道を間違えたとしか思わないような細い道が山の中へ続いている。
 道幅は2.5m~3mと云うところか。所々すれ違うための場所がある。こんな峠道は何度となく走っているから平気だ。峠さえ越えてしまえば・・・・。
ところが道はさらに狭くなり、ほとんど車の幅と道の幅が近くなってきた。しかも待避場所が全くなくなり、カーブでは車の尻が道をはみ出しているのが分かる。もちろんガードレールなど無い。私のような物好きがもう一人いて向こうから来ることがありませんように、とひたすら念じて走り続ける。行けども行けども峠の頂上に出ない。このような道は峠を越えればたいてい半分来たことが分かるが、頂上がいつまで経ってもないのだ。
 絶望的な気持ちになった頃ようやく峠を越えた。そして登ったのとほぼ同じだけ狭い曲がりくねった下り坂がつづいた。ようやく集落が見えた。農家の軒先、庭の中を通るような道だ。これが国道!

 ドライブ用の地図はバイクのツーリング用のものを愛用している。詳しいし情報がかなり書き込んである。その地図をよく見たら「国道ではなくて酷道」と書いてあった。よく見ておけば良かった。
 この地図でこのような峠道に迷い込んだことは・・・たびたびある。いつも生きた心地がしない。二度とこの道は走りたくないと思う。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・長安

 関中は東に殽函(こうかん)の阻があり、西に隴首(ろうしゅ)の険があり、南山は龍驤(りゅうじょう)し北嶺は虎踞(こきょ)する。八水は洋々とその中を貫流し、田野遠く開けて禾黍穣々(かしょじょうじょう)である。いわゆる金城千里天府の国である。西周がここを都として四百年、天下は周を宗とした。秦はこの地を拠点としてほかの六国を全て征服し、天下を統一した。漢、符秦、姚秦、後周、隋、唐、皆ここを都として天下を支配した。故に関中の一木一草はことごとく古を語らないものはなく、憑弔の情を惹くものが随所に存在する。
 今の西南府城は漢都の南数十里にあり、隋開皇二年初めてここが都として営まれ、唐はそれを蹈襲した。昭宗天祐元年に節度使の韓建が改めて新城を築いた。それが今の府城である。宋・金・元はそのままここを都とした。明初に都督濮英はこれを増修し、清乾隆中にまたこれを修理した。城門が四つあり、東は長楽、西は安定、南は永寧、北は安遠と云う。周回二十四里ある。城壁は外に甎(せん・焼いた煉瓦)を用い内は土である。高さ三帖四尺、底部の厚さ六丈、頂上の厚さ三丈八尺ある。
 九月二十日、師範学堂の森、田中両氏に伴われ、碑林を見た後永寧門に上がる。鐘楼は東西南北四大街の交差点を跨いで西北に屹立し、その西半里に鼓楼があって市の大観は脚下にある。南は隴圃(ろうほ・畑)の間に小雁塔は近く、大雁塔は遠く、杜陵(とりょう・森と丘)の上、秦嶺の雲に対し、北は渭水を隔ててはるかに九嵕(そう・峻と同じか)の山脈を望み、東は臨潼の諸山が太華に連なるのを見、西はすなわち一望千里その際を見ず。形勢はあたかも洛陽を見ているようであるが、洛陽は天下の中で四方から攻撃を受けることになり、もし陝西や山西に豪傑が立てば勢いで洛陽を制することが出来るであろう。長安はそれとは違い、天下の背後にいて四方を制している。進んで攻めるのも退いて守るのも容易で、形勝は天下一である。
*今回は辞書を引くのを少し控えたので(さぼったので)言葉が原文に近い物になっています。

1010_146西安・安寧門。樹の横に涸れたことがないという井戸がある。

1010_160城壁の上。自転車で走れます。城壁を二周するとマラソンの距離になり、実際に城壁上のマラソン大会もあるそうです。

2012年5月25日 (金)

おおあさ鳴滝露天温泉

おおあさ鳴滝露天温泉は、最近は日帰り温泉をメインにしているようだ。それはそれでかまわない。客あしらいさえ問題なければ。ちょっと首をかしげることもあったが、一気に評価を変えたのは温泉に入った後だった。

マッサージルームがあり、整体の先生が来ているという。気功を取り込んだ整体だという。肩が痛いのを見てもらえるかも知れない、と思ってすぐ申し込んだ。一時間ほど待って治療室に呼ばれた。かなり細かい問診がつづいた後『肩の痛いのはストレスから来ることも多くて、つらいのはよく分かるけれども直るかどうか分からない』と正直なお言葉であった。こちらは一年半くらい痛みに耐えてきたところなので、それでもお願いします、としか言えない。

それからとことん治療が始まった。肩も徹底的にやってもらった。痛かったけれど我慢した。一時間のはずがかなり余分に押さえて貰い、気がついたら終わっていた。

肩は・・・残念ながら痛みがなくなることはなかったが、かなり自由度が上がり、信じられないほど後ろに手が回る。

先生は出来ればもう二、三度治療したら、と云ってくれた。

お金を出してもう一度お願いしたいのはこちらだ。

いろいろ話をしたら同郷であることが分かった。先生は銚子の生まれだそうだ。こちらは九十九里なので話が合う。

再会を約し、連絡方法を教えて貰った。必ずまたお願いに来ることにする。

石見銀山の後は?

石見銀山を堪能した。石見銀山が世界の銀の三分の二を産出して世界経済を左右したことを日本人は知らなかった。しかし残念ながら石見銀山は掘り尽くしてしまった。

私がおぼろげに知っていたのは「石見銀山猫いらず」と云う言葉だ。殺鼠剤に使うヒ素化合物が石見銀山の代名詞であった。ところが石見銀山ではヒ素は産出せず、近くの銅の鉱山でとれるものだったのだそうだ。落語でもヒ素を毒薬で使う話がある。

石見銀山を見たが、本当にたった一つの小さな山である。近くの山では銀は全くとれないという。どうしてこれが発見されたのか。ツバキ庵のお姉さんが、九州のある山師が、その山が光って見える、と云ったので発見されたという。名前も残っているそうだ。

石見銀山から広島方向に向かい、温泉に泊まることにした。ちょっと時間がある。地図を見たら断魚渓というのがあった。行くことにした。

120522_93駐車場に車を置き、少し歩いて谷底を覗くと岩の間に水が流れているのが見下ろせた。断魚渓の千畳敷まで120mとある。迷ったが勢いで降りることにした。

120522_94これも上からの写真。

120522_95これは下から。何も考えずにひたすら階段を降りた。

120522_100なかなか絵になる流れである。

120522_103千畳敷と云われる所以。両側が断崖絶壁。

120522_104ここを降りてきたのでまた登る。120mと云うけれどそれほどのことはなかった。かなり激しく疲れた。

120522_106今晩の宿。おおあさ鳴滝露天温泉。今晩泊まるのは私一人。明日は休み、とのことで朝風呂はなしだそうだ。うそー。でもこの晩にとてもうれしいことがありました。

昔の町並みから代官所跡まで

大森の銀山公園から昔の町並みの方へ歩く。妻籠や馬込の町並みから見ると世界遺産の割に寂しい。これはずいぶん工夫が必要だろう。その工夫はリピート客を呼ぶことにつながるから真剣に考えた方が良い。協力しても良いけど向こうはこちらを知らないし、何が出来るか自分でも分からない。

120522_72ぱっとしない町並み。所々立派な屋敷やがんばっている店があってそれなりなのだが・・・・。

120522_74_2武家屋敷。

120522_75_4こんなところに観音寺がある。

120522_77崖の上にある観音寺。

120522_80代官所の跡が博物館になっている。

120522_83博物館の中、鉱脈の模型。なるほど。これを外せばどうがんばっても何も出てこないわけだ。石見銀山は最盛期には世界の銀の三分の二を産出していたという。

120522_85代官所の隣の神社。大きくて立派。世界は日本の銀を吸い上げて潤った時期がある。同様に幕末には日本の金を吸い上げて世界中が潤った。日本をだましで列強が日本の金を実質的な価値の半分以下で取り込んで莫大な収益を得ていたことは語られることがない。黄金の国ジパングというのは実は事実でもあったのだ。

今も日本の富を世界が収奪している。為替というトリックで。

龍源寺間歩と帰り道

120522_47龍源寺間歩坑内。この辺が一番低くて百五十センチくらいしかない。奥の方は百七十センチ以上ある。縦横はこれで合っています。

120522_51このような横穴がそこら中に空いている。これは比較的に広い方。人間が腹ばいでやっとくぐれるくらいのものも多い。試しぼりをしたのだろう。

120522_55_2出口までの最後の百メートルくらいは昭和63年に観光用に作られた新坑。

出口は山の反対側に出てしまうので元のところへは十分くらい歩かないと戻れない。

120522_59佐毘売山神社へ上る階段。鉱山の人がお参りする神社らしい。私は鉱山とは縁が無いのでパス。

120522_61休憩してわらび餅などを食す。ツバキ庵というかなりしゃれた店。お茶はヨモギ茶を頼んだ。かなり香りがきつい。お店のお姉さんとしばらく話をした。今銀山跡には200軒、400人しか住んでいないが、最盛期には十万人とも二十万人とも云う人が住んでいたという。そういえば通り道には集落跡への路、と云う山へつづく路がいくつかあった。世界遺産に指定されたばかりの時は人も多かったが、この頃は人通りが減った、と嘆いていた。この銀山は明治十八年の大水で壊滅的な被害を受けて閉山となったそうだ。その前にほとんど銀はとれなくなっていたらしい。藤田組が一時再興しようとして手を入れたが採算が合わずそれも戦前で打ち切りとなったという。

120522_62_2お姉さんに見送って貰った。

120522_64この山の上、三百メートルほど行くと話しに聞いた藤田組の精錬所の跡が残っている。

帰り路はやや下りだが龍源寺間歩の出口から大森の公園まで三キロ近くあるので最後はちょっとうんざりする。しかしそこからさらに昔の町並みと代官跡を見に行かねばならない。











遊歩道脇

遊歩道を歩きながらいろいろな物が眼に入ったが、その一部。

120522_35右手の穴が間歩と呼ばれる坑道への入り口。腹ばいでしか入れない。

120522_37吉岡出雲の墓。上まで登る気にならない。

120522_38これも別の間歩。高さ一メートル程度。

120522_41_2道ばたの緑。樹の間から漏れる日差しに輝いている。

120522_46これが観光用に解放している龍源寺間歩の入り口。

中は所々低いので183センチの私はほとんど屈んで歩かなければならない。後で聞いたら車いすでも歩けるように下を平らにかさ上げしたので高さが低くなったのだという。

石見銀山・遊歩道

石見銀山は大田市大森にあり、主な駐車場は世界遺産センター前、大森バス停近くの石見銀山公園前、大森代官所前の三箇所である。町では世界遺産センター前の広い駐車場に置いて貰ってバスでのアクセスを希望しているようである。

もちろん私も遺産センターに置いて大森バス停まで行き、そこから坑道のある龍源寺間歩まで往復を歩き、さらに大森から代官所まで歩いてそこからセンターへバスで戻った。

120522_21銀山公園入り口の看板。龍源寺間歩までは遊歩道と、自転車でいける舗装道路がある。両方車では行けない。自転車は五〇〇円で借りることは出来るが、遊歩道の方が上り下りが多いが、見所がたくさんある。

120522_33_2標識は分かりやすい。

120522_26小さなお寺の前の掲示板。とても蘊蓄のある言葉に唸った。それほどでもないか。

120522_27自転車用の路。軽快にいけるがおもしろみはない。

120522_36これが遊歩道。木漏れ日に風がさわやかに吹く。

120522_69階段もある。

途中に小さな間歩(人が潜れるとはとても思えないような穴)があったり、銀山にゆかりのある人の墓や寺が散在していて遊歩道の方が断然良い。その辺は次回。

宍道湖と日本海

快晴の宍道湖南岸を西へ走る。

120522_2向かい側は島根半島。宍道湖はやはり広い。

120522_6わかりにくいが大きな鳥が湖面を飛んでいた。

宍道湖の西端を過ぎた辺りで携帯に出雲地区の地域メールというのが入った。熊が捕獲されたという情報だ。そういえば朝のニュースで熊が出没しているので小学校に熊よけの鈴が配布されたことが報じられていた。地域メールというのを初めて受けた。

120522_17こちらは日本海。

日本海を見下ろせる手引ヶ浦台場公園というところでトイレ休憩。ここには砲台がある。

120522_12_2大砲。砲弾は丸い。

120522_13_2海に向かって据え付けられた大砲。幕末のもののようだ。ここは多伎町田儀。

石見銀山は多伎町のとなりの大田市に属する。世界遺産に指定されてから二度寄っているのだが、散策コースを歩いていない。龍源寺間歩(まぶ・鉱石を掘った穴)まで2.3Kmは歩いて往復するしかない。実際には5Kmを越える、さらに旧の町並みも片道1Km弱歩くので最低6Km坂道を歩く覚悟がいる。この覚悟が足らなかったのと二回とも雨降りであった。今回は快晴で体調も万全である。次回はその石見銀山。

松江

松江の武家屋敷街と松江城を駆け足で散策した。松江は大変人気のある町らしい。以前暮らしていた金沢となんとなく比較していた。共に過去と現代が断続していない、日本では珍しい町だと思う。住んでいる人も何となく奥行きのあるやさしさを感じさせる。

Dsc_0004松江と云えば小泉八雲。小泉八雲の記念館である。右手が松江城のお堀、右側お堀沿いに武家屋敷が並んでいる。

Dsc_0021_2たいむすりっぷ。

Dsc_0022_2武家屋敷。左側、街路樹の下はお堀。

Dsc_0023_2お堀と屋形船。

Dsc_0027_2この橋を渡り、城門を入る。

Dsc_0031天守閣へ向かう。朝早いので人は少ない。

Dsc_0036松江城天守閣。良い天気。

松江は三度目なのでこれくらいで切り上げて宍道湖南岸を走る九号線へ向かう。いつも宍道湖は雨の中で見ていた。晴れた宍道湖を初めて見る。出雲大社は改修完了が来年のはずなのでその後で見る(去年改修中のところを拝観している)ことにしてパス。今日のメインは石見銀山である。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・長安に入る②

 北京を出てすでに十有七日、行程千余里。思いが叶って長安に入ることが出来た。ただ憾むらくは連日の秋霖が行く手を妨げることが少なからず。まだ崋山に登坂してその奇勝を探勝することが出来ずにいる。また祖龍を弔い太真を偲ぶを得ず(遺跡などを訪ねて歴史の真実を探るというほどの意味か)。思うにひとたび殽函(こうかん)を過ぎればこの身はすでに漢唐の人、秦嶺(山)と涇渭(けいい・ともに河)とはもちろん、一木一草も皆古を語らないものはない。淹流(えんりゅう・永く留まること)荀余、こい願わくは古帝都の面影を髣髴するを得んか(長安で昔の都であったときの面影を目の当たりに見届けたいものである)。
 翌日は長安に入り、高等学堂に行って鈴木氏に面会し、ついに同氏の参府巷(さんぷこう)のお宅に寄寓することになったが、同氏及び同令夫人貞子の歓待は行き届いていてほとんど郷里にいる思いをしたのは実に感謝にたえないことであった。

1010_158西安城壁。南門付近。右側城内。

2012年5月24日 (木)

松江へ

三朝から北上して九号線へ、米子から直接松江に行かず、境港の境水道大橋を渡る。この橋はいきなり高いところへ一気に登るので何回通ってもどきどきする。馬鹿と煙は何とやら、でこの橋が好きなのだ。中海の北側をぐるっと回って北から松江に入る。

120521_68境水道大橋。右から左に渡る。結構高い。

120521_75中海の湖岸に停泊していた漁船に烏賊釣りの灯りがぶら下がっていた。外海へ出るのだろうか。

120521_77ボートの舳先の下に南天の実のついた枝が浮かんでいた。何故だろう。

この日は松江のビジネスホテル泊まり。夕方松江の町へふらふらと浮かれ出て松江の飲み屋で一杯。結局ビジネスホテル代より高くついた。適当に入った店だったが当たりだった。

翌朝はバイキング式のホテルの朝食。これがなかなか品数も味も上等で、朝から腹一杯になってしまった。松江を散策した後、石見銀山を歩くことにする。







三徳山

午後、我が家に帰着した。洗濯、買い物などを行い夕食を食べ、やっと一息入れることが出来た。

さて旅行記の続き、今回は三徳山、みとくさんと読む。

佐田峠から三朝温泉への路の途中にある。駐車場が何カ所かあるのでそこに停めるが何の案内もないのでどこが登り口か分からない。停まっている車も二、三台しかない。一番行きたいのは投入堂(なげいれどう)なのだが・・・。電動の鎌で沿道の草刈り作業しているおじさんに仕事を止めて貰って聞いた。登り口はここから5分くらい歩いた先にある寺の横だそうだ。投入堂へはどのくらいかかるか聞いたら30分くらい、と云う。ただしかなりきついよ、とのこと。

教えて貰った寺まで歩く。寺は高台にある。なんと登り口の沿道にたくさんの車が路上駐車している。駐車場があるのにほとんど使われていない。あんなにわかりにくければ当然だ。

受付で改めて投入堂へどのくらいか聞く。往復二時間、ただし元気な若い人の場合。ゆっくり登る人は三時間見た方が良いとのこと。少し考えてあきらめた。そう言ったらその方が良いという。こちらの体型を見ての正直な意見だ。

宝物殿が拝観できるというので行くことにする。長い階段を二つほど登る。

120521_40_5最初の階段。ずっと上までつづいている。

120521_42_2正善院というのが本堂。ところが門が閉まっていて入れない。何故なのかは帰りの階段から見て分かった。大変なことになっていた。

120521_44_2上の階段。さらに上にも階段がある。

120521_46_3やっと宝物殿が見えた。

120521_49これが宝物殿。右手奥が奥の院などへの登山口になっていて受付がある。

120521_52_2横にお地蔵さん。

120521_54_2宝物殿内の吽形の仁王。左手。

120521_55きらびやかな御輿。

120521_58_2右側の阿形の仁王。

120521_64階段横の道祖神。

120521_65_2何故本堂の門は閉まっていたのか。今年三月に僧坊も含めて焼失してしまったのだ。無残な焼け跡がのぞけた。

浜坂、湖山湖、佐田峠

浜坂周辺の海には奇巌洞窟が多く、海側から絶景が見えるという。浜坂の遊覧船が出ていると覚しき辺りを車で探したが、それらしきところが見当たらない。ようよう見つけた遊覧船乗り場、と云う看板はかすれかけていてしかもどこにも観光船は見当たらない。漁船だけだ。今がシーズンではないからやっていないのか、孟そもそも遊覧船は商売として成り立たないからやめてしまったのか。仕方が無いので西へ向かう。本日の泊まりは松江と決めている。そうだ、三朝へ行ってみよう。

120521_10浜坂から近い穴見海岸の奇巌。

120521_11同じく穴見海岸にて。

鳥取に至る。鳥取から郊外の湖山湖の南側を通り、佐田峠を越えて三朝へ行く。湖山湖は鳥取市内だがとても大きな湖だ。

120521_13湖山湖風景。島へ橋が架かっている。この島は全体がキャンプ場になっているようだ。

120521_17_3これも湖山湖の風景。向こうは鳥取市。鳥取は砂丘だけではないのだ。

120521_22_3佐田峠からの風景。三朝へ行くにはこの峠を越えなければならない。

120521_23_2同じく佐田峠から。谷が深い。

峠を下れば三朝である。途中に役の小角(えんのおづぬ)が法力で建てたという投入れ寺で有名な三徳山(みとくさん)が有る。死ぬまでに一度は見てみたいと思っていたところだ。次回はその三徳山。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・長安に入る①

 九月十九日午前八時、新豊を出発し、九時臨潼(りんどう)に至る。道路は泥濘と化し、馬が行き悩むことはなはだしい。雨がひどくなりそうなので東への帰り道で寄ることにしてそのまま西に向かう。市中で井上某氏に逢う。氏は西安歴遊の帰路でここにいるという。二、三言葉を交わして別れる。十五里ほどで斜口鎮(しゃこうちん)三盛店で休憩。鎮の東端に唐段忠烈公祠が有る。光緒三十一年に再建、祠中に初等小学堂を置いている。前殿には体正明道の扁額があり、祠堂中には肖像を安置している。段太尉の遺烈は唐徳宗御製の段太尉紀功碑、及び柳宗元の段太尉佚事(佚事)状に詳らかである。公が慷慨激越、笏(しゃく)を揮(ふる)って朱沘(しゅせい)を朝に撃ったのはまことに懦夫をして立たしむべきである。汧陽(けんよう)は公の古里であり、その墓は臨潼の西にある。東への帰り道に行こうと心に思う。
 斜口を出発して十里足らずで路の北側に陵墓を望む。唐宣宗黽后(びんこう)慶陵、懿(い)宗王后寿陵、穆宗韋后福陵である。皆陵前に碑がある。乾隆丙申畢沅(ひつげん)の立てたもの。さらに十里行き覇水を渡る。覇橋は石造りで長さおよそ一里。唐の時代、行客の東に行くのを餞(はなむけ)するのに、この地まで来ると柳の枝を折って綿々の情を表したとのことである。今も橋の西には老柳数株あり。漢の高祖が軍を起こした覇上もまた覇橋の西である。またしばらくして滻水(さんすい)を渡る。西岸はもと滻阪(さんはん)と云っていたのを隋の文帝がその名が良くないと云って長楽坡と名を改めさせた。また唐の時代、餞の場所でもあり、白楽天の長楽坡送人詩があるのがその証である。
曰く、
  行人南北分征路、
  流水東西接御溝、
  終日坡前恨離別、
  謾(みだり)名長楽是長愁、
坡を上ればはるかに長安を望む。時に雲はようやく収まり、十数日来初めて天日を仰ぐことが出来た。午後五時先農壇を過ぎ、長楽門を入り大道を西に行き鼓楼から南へ、さらに西に折れて午後六時に馬坊門興盛店に宿泊した。この日の行程七十里。


1010_1561現代の西安城内。


2012年5月23日 (水)

浜坂保養荘

今回泊まった浜坂・保養荘は大変良い宿だった。元々老人や病人が宿泊することを想定していたのだろうと思う。先ず個室のトイレが広々としていて楽である。従業員もとても感じがよい。食事も心がこもっていておいしい。これなら一泊二万円の宿に匹敵する。褒めすぎだろうか。もちろんお風呂も広いし、清潔だし、眺めは良いし、でよろしい。ただ町から離れていて飲みに出るにはタクシーでも呼ばなければならない。でもお年寄りなら全く問題ない。ここはまた来ても良い。

120521_5保養荘入り口。

120521_3窓からの景色。手前の橋は車で通れる。この橋が唯一の保養荘への路。川の土手(狭い・すれ違うのはかなり困難)を走ってきてこの橋を渡る。向こうの橋は歩行者専用。

120521_1夕食。このほかに天ぷらとデザートがつく。私は格安コースだからこれだけだが、他の人はさらに鍋などがつく。天ぷらも、山菜が9種類くらいあって盛りだくさん。御飯は炊き込み御飯。お酒は地元の香住鶴(かすみつる)の冷酒。やさしい味で飲み口も良く、大変おいしい。

120521_4朝食。このカレイは絶品。焼き加減も最高。湯豆腐だが一杯やるわけには行かない。残念。朝飯は他の人と同じだった。朝の薬を飲もうとしたら何も言わないのに水を持ってきてくれた。

城崎から浜崎へ

120520_62城崎の日和山を過ぎ、峠を越えて降りるとこのように綺麗な海岸があった。

120520_64このように澄んでいる。

120520_67さらに西へ行った海岸もこの通り。

120520_70こういう不思議な洞窟もあった。入って見たい。

120520_72偶然このように石が挟まったのでしょう。この石は二メートルくらいある大きな物です。

夜遅くなったら電波の状態が良くなったのでしょうか。先ほどの文章につけるつもりだった写真です。

城崎と周辺の海

 城崎と云えば志賀直哉の『城崎にて』がイメージとして重なっている。志賀直哉はほとんど読んだ。好きか、と問われれば少し逡巡してから好きだ、と答えるだろう。志賀直哉という作家についてはやや肌が合わないところがある。だがその文章はすばらしい。
 あの蛇はかわいそうだが、石を投げている人たちをじっと見つめる志賀直哉の眼が冷たく恐ろしい。志賀直哉自身が自分のそういう処を自分自身で見つめている。志賀直哉はじっと見つめて相手の心を読む。相手が自分で気がついていないような心の動きまで読み取る。そんな風にして相手に腹を立てるから相手は何のことか分からない。
 志賀直哉について書き出すときりが無い。とにかく城崎をじっくり感じた。温泉から漁港へ、さらに北上して日和山のトンネルを抜け、海岸へ出る。

ここに写真を貼り付けたいのだが、電波が微弱で途中でアウトになってしまう。

 昨日は田舎の温泉、今日は福井県高浜、例の大飯原発のすぐ近くの宿に泊まっている。かろうじてe-モバイルはつながるのだが、ものすごく遅くてすぐタイムアウトになる。全く役立たずだ。と云うわけで文章だけ流す。

 

汚職と腐敗

 曾野綾子の本を読んでいる。この中にインドの人の言葉が引用されていた。「インドの敵は周辺の国ではない。それは役人の汚職と腐敗の体質だ」。これを受けて曾野綾子は云う。「実に『汚職』は、世界に広がっている精神の病気で、その伝播力とそれによる損失は、インフルエンザやその他の恐ろしい感染力を持っている疾病の比ではないかもしれない」。
 この病気は今中国で猖獗を極めており、気がついたら日本でも蔓延しているようだ。世界に普遍的に存在し、特定の精神に弱点を持つ人間が罹る物とみれば確かに精神の病気である。今のところ特効薬はない。

2012年5月22日 (火)

どこへ行こうか

 どこへ行こうか。松江は一度歩いたが、折角だからもう一度お城の周りとお城を見ていこう。何回も歩くほど好きになる町だと云われるところだし。
 もう一つ山陰では行きたいと思いながらまだ歩いていないところがあった。石見銀山である。今日は時間もあるし、洞窟は自然の物も人口の物も大好きだ。かなり歩くらしい。それならその近くの山の中の小さな温泉にでも泊まろう。そういえばその辺の美又温泉という小さな温泉に泊まったことがある。面白いおばさんがいたところだが、また泊まりたいと云うほどのことはない。浜田道を南下すればたくさん小さな温泉があるから気に入ったところへ泊まることにしよう。そういうわけで本日もインターネットがつながらない可能性が大きい。もしつながればラッキーである。

あまのじゃく

 親にもよく言われた生来のあまのじゃくで、世の中が、特にマスコミがこぞって金環日食について騒ぎ立てていると、何十年ぶりだろうが何百年ぶりだろうが見るものか、と云う気になる。だから金環日食の見ることのできる場所に住んでいながらあえて見えない地区へ旅行した。
 昨日の朝も、その時間は浜坂の保養荘の食堂で朝食を摂りながら朝日が何となく陰っていき、日が照りながら薄暗くなるのをみて、嗚呼、今日食中だな、と思っていた。
 天体に興味が無いわけではない。これでも中学生の時には夏休みに一夏かけて望遠鏡(倍率なんと100倍)を自作し、ぼんやりとだが土星の輪も木星の縞も見たことがある。星座も若い頃はずいぶん知っていた。叔父にねだって『宇宙』という図鑑を買って貰い、今でも大事に持っている。それには人類が始めて宇宙遊泳したときの新聞のカラー写真が切り抜いて挟んである。何よりSF少年でもあったから宇宙に対する思いは人一倍だったし、今もそれは変わらない。
 「これを機会に子供が宇宙に興味を持つようになるとすばらしいですね」などと決まり文句のようにテレビで言っているのを見るとその空々しさに腹が立つ。元々子供の多くは宇宙に興味を持っているものだし、大人になるに従って空を見なくなっているだけだ。

 日頃月を見ているだろうか。月齢を意識しているだろうか。月はどちらから満ちていき、どちらから欠けていくか間違いなく言えるだろうか。都会の空がいくら大気汚染で星が見えないなどと云っても見える星はそれなりにあるし、月の見えないような場所などまさか無いだろう。
 田舎を旅すると満天の星にであうことがある。首が痛くなるほど空を見上げ続けていると、どちらが上でどちらが下か分からなくなって、今自分が宇宙にいるのだと言うことが実感される。

 金環日食をあえて見なかったことは後悔していない、テレビでいくつも見た。

城崎

 円山川を渡り、川を右手に見て北上する。城之崎はすぐそこだ。

120520_36円山川。湖のような川です。

120520_37温泉の奥の方にある駐車場に車を置いて城崎温泉を散策する。川沿いに温泉が並んでいる。

120520_38立ち寄り湯の一つ、一の湯。前にも入ったけれど今度もお世話になった。駐車場からすぐ側で便利。

120520_48このように三階建ての旅館が多い。

120520_50こちらも立ち寄り湯の地蔵湯。こちらに入れば良かった。

120520_55城崎温泉駅。銭湯みたい。ちょうど特急が出発するところでした。

120520_57駅前周辺もいろいろ面白いが、これは駅前の交差点から温泉の中心地方向を見た景色。人も多い。

 温泉を楽しんだので再び出発。海岸づたいに浜坂まで行く。














経ヶ岬から間人

 伊根からさらに北上し丹後半島の東の肩口で最北端の経ヶ岬に至る。途中の断崖の上からの海の景色もすばらしい。

120520_20海の色が美しい。

120520_23経ヶ岬へ行く途中の道ばたに咲いていたアザミ。中島みゆきの歌を思い出した。

120520_24正面の山が経ヶ岬。ここから見えないが、頂上の向こう側に灯台がある。往復一時間ほどかかるが、昔二日酔いで登って死ぬ思いをした。道が急なのだ。今なら絶対行かない。海岸まで降りて引き返した。

120520_29_2間人(たいざ)の岩場にて。とんびがこちらを見ていた。

120520_32_2間人の日帰り温泉。浴場から海が見える。

120520_34_2久美浜の道の駅で魚を売っていた。左から烏賊、ぐび(ゲンゲ、城之崎ではノロとかノベという)、カサゴ、鬼エビ、カレイ、桜鯛。

 売っているおじさんに聞いたら久美浜でもぐびをノロとも云うそうである。新鮮なのは見たらよく分かるが高い。交渉で安くなりそうだったが買ってもしようがない。

 いよいよ丹後半島を半周し、円山川を渡って城之崎へ向かう。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・新豊

 九月十八日また雨、午前七時半出発。行くこと四十里、冷水を渡り、冷口鎮に入って休憩する。鎮を出て十余里、右手に碑があり、半ば埋没して趙藺相如の四字が見える。乾隆丙申煮たてられた物ですなわち藺相如の墓である。また、十余里行くと新豊(しんぽう)の東二里、路の北側の崖の上に碑がある。額に漢代名区と云い、題して南原鴻門楚覇王宴漢高帝処という。すなわち有名な鴻門の会の場所である。
 「水経注」によれば、
   新豊古城東有坂、長二里余、
   塹原道道南北、洞開如門、謂之鴻門、
今地勢が一変してまた洞開門の如しとも見えない。新豊に入る。土城あり、市街は多く西関外にある。この地は漢の新豊県の地で、漢の高祖が天下を統一して関中に都したとき、太上皇(劉邦)が故邑の豊(沛県郡豊県)に帰りたいという思いを、この地を豊邑にかたどって、また豊人を移住させてここを新豊と云うようにした(ことで思いとどまらせた。項羽がいったん天下を取りながら故郷に錦を飾ることにこだわり、天下の経営をおろそかにしたことで劉邦に敗れることになったことを教訓にした
)。西関外に着いた頃また雨が激しく降り出して進むことがかなわない。ついに臨潼(りんどう)に行けずにこの地にとどまり、二合店に宿泊した。時に午後三時、行程六十里。

2012年5月21日 (月)

昔、イノシシと遭遇したこと

 これは親しい友人は知っている人もいることだが、丹後半島の、舟屋で有名な伊根の辺りを深夜、ドライブしていたときのことであった。宮津(天橋立で有名)から丹後半島に入り海岸沿いを北上する路は峠をいくつも越えるカーブとアップダウンの激しい路でしかも狭い。外灯は少なく、ほとんど真っ暗である。その上その日は山霧が出ていた。
 ちょうど峠の頂上にさしかかった処はカーブがきついので広くなっていて、外灯がぽつんとともり、山霧ごと辺りをぼんやり照らしていた。その時左手に茶色い塊のような物が見えた。もちろんじっくり見ている余裕はない。その瞬間その塊が車の直前へ飛び出した。ガツンと云う衝撃があり、その後車の下でゴトンゴトンとぶつかる音がしたと思うと車の右下から何かが飛び出した。もちろん急ブレーキを踏んだのでその時には車は停まっている。右手を見るとガードレールと山道の隙間に頭を突っ込んでいるイノシシが見えた。まだ成獣ではない。50センチと云うところか。イノシシは夢中でもがいている、とてもそこを通り抜けるのは無理なように見えた。ところがもがいた勢いで地面でも削れたか、不意にイノシシは斜面の藪の中に消えていった。
 車を降りて車の様子を見ようと思ったが、ふと、子供のイノシシなら親が近くにいる可能性があることに気がついた。急に飛び出した方が悪いと云ったって聞いてくれるとは思えない。そのまま峠を下って、海岸の漁村の中の、自動販売機の前の明るいところで車を停めた。
 バンパーが真横に直角に折れ曲がっていた。

 後日、丹後半島でイノシシをはねた話しが新聞に載っていた。記事によると珍しい話しではないようで、このときはランドクルーザーが成獣をはね飛ばしてイノシシは死んだようだ。
 ところで私の車に当たったイノシシはどうなったのだろう。

 ところでこのイノシシのたたりとも云うべき後日談がある。

伊根

 伊根というと思い出すのは、「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」だ。ヒロインはいしだあゆみである。寅次郎が船に乗り遅れてヒロインの家、舟屋の二階、網置き場のような処に泊まることになる。夜半、その二階にヒロインが忍んでくる。寅次郎だけでなく、見ているこちらも胸が高鳴るところだ。相思相愛で初めて寅次郎の恋が成就できそうなのに、寅次郎は寝たふりをして彼女を拒否する。
 なぜ彼女の思い(寅次郎の思いでもある)を叶えてあげないのか理解できなかった。今なら分かる。彼女の、そして寅次郎の思いを叶えれば、二人の関係が始まる。関係が始まると云うことは生活が始まると云うことである。そもそも寅次郎には生活すると云うことが出来ない。出来ないことを無理すればどうなるか、賢い寅次郎にはそれが分かるから彼女を拒否したのだ。男はつらいよ、のシリーズはそのことを忘れてヒロインに恋をし、そのことを思い出して生活を求めて惨めな思いをしてあきらめる、と云う繰り返しなのだ。ヒロインは生活に疲れ、生活感のない寅次郎にあこがれるが、やはり生活に帰って行く。

 あの晩のときめきは寅次郎だけではなく、私のときめきでもあった。
120520_8伊根の舟屋。

120520_10これも伊根の舟屋。

伊根は丹後半島の若狭湾側である。ここからさらに北上すると一番北、経ヶ岬に至る。そこまでは峠越えがつづく。





与謝

 若狭湾、丹後半島の付け根に与謝という集落がある。
 与謝は与謝蕪村の故里である。蕪村はあまり故里のことを語っていないのでそうでないと云う研究者もいるようだが、母親がずっと与謝に住んでいたことは確かなようである。蕪村は与謝を原風景として心に想いながら、森鴎外が一度故郷の津和野を出てから二度と戻らなかったように、蕪村も与謝へ再び戻ることはなかったようだ。
 与謝蕪村については私が勝手に師としてきた森本哲郎先生が詳細な考察を本に残している。そもそも詩が苦手で、特に短歌と俳句は全く感情移入できない私が、曲がりなりにも蕪村についてイメージできるのは森本哲郎先生のおかげである。
 先生の本から私が勝手に理解したことは、芭蕉の俳句は現実の風景に自分の素養として持っている中国の文章や詩の風景を重ねて二重の世界を見ているものであること、そして蕪村は芭蕉のように旅に出ることもなく、自分の心象風景を原景に、芭蕉のように中国や日本の文章や詩のイメージをダブらせて二重構造にしている。
 どちらにしても芭蕉や蕪村の俳句の意味を知るには古典を知らなければならない。
 正岡子規が写実主義をとなえたのは、その二重構造としてのベールをはぎ取りたかったのではないか。すでに古典の素養は社会から失われつつあったし、そのようなものは近代には不要と考えたのかも知れない。これは私の浅見なので反論が多いと思う。申し訳ない。
 とにかく与謝の海(若狭湾)はのんびりと霞んでいた。だがこの辺りも冬となれば風雪が厳しい銀色の世界になるのであろう。蕪村の原風景はどちらであっただろうか。

120520_4120520_5与謝の近く、若狭湾の風景。

西へ向かう

 朝六時半出発。名神高速で関ヶ原へ、関ヶ原から北上して木之本へ抜け、木之本から敦賀、小浜、舞鶴、宮津、そして丹後半島を走る。本日(二十日)は兵庫県の西外れ、浜坂に泊まることにする。
 琵琶湖畔で八号線に合流、奥琵琶湖(琵琶湖の最北部)はどんよりと沈んでいた。それでも釣り人がいた。

120520_1突堤には釣り人がいた。

120520_2琵琶湖は風がなく波もない。

e-モバイルつながらず

 昨晩は兵庫県の西の外れ、浜坂温泉の保養荘に泊まった。懸念していたとおり、e-モバイルがつながらない。このモバイルは都市部でしか使い物にならないことを改めて思い知らされた。腹が立つが契約してしまっているから二年間は仕方がない。というわけで本日は松江から昨日の分も流します。さすが松江は県庁所在地、スイスイつながる。と云うより本日はビジネスホテルなのでネットのLANがちゃんとあるのだ。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・汾陽王

 九月十七日また雨。七時に出発、寒さが骨にしみる。日本の十一月くらいの陽気である。冬服を着け、その上に毛布を纏う。潼関以西雨が極めて多く、行くところの畑は水に没しているものも少なくない。行くこと二十五里で崋山の橋がつきようとする辺りを小崋山という。その形状が崋山によく似ているのでそう言われている。また数里、路の北に郭子儀(かくしぎ)の故里がある。嘉靖時代には立っていたという碑がある。唐汾陽王古里と題す。いくばくもなく小さな流れがあり太平橋が架かっている。路の右に碑があり、陳希夷(ちんきい)先生堕驢(だろ)と云う。康煕四十一年に立てた。また一里ほどで華州東関外道北に郭汾陽祠がある。路にまたがって牌楼がある。題して勅建唐汾王祠と云う。祠堂はとても小さい。華州に入る路の右手に石碑があり、乾隆三十二年同頒官尺を刻してある。十一時半西関外太平店で休憩した。
 華州は小崋山の陰にある。髪賊の乱(太平天国の乱)に荒廃し、東関にはほとんど店舗がなく、わずかに西関外に数十戸があるだけである。一時に出発、しばらく行くと道上に楼門があり、その傍ら路の北側に宋寇莱(こうらい)公古里の碑がある。嘉慶七年立てられた。西岳廟以西、路は常に渭水の南に沿って西へ向かっている。午後三時赤水鎮を過ぎて脚下に渭水を見る。さらに行くこと十里で路の左手に唐勅封汾陽王郭公之神道碑がある。乾隆戊子闔族(こうぞく)の人々が立てたものである。傍らに郭家屯があり、畑を耕しているものに郭汾陽の墓を問えば、北へ五町ほど入ったところにあると云う。その指示によって行ってみると土壁の中に三つの碑がある。郭汾陽十七世郭仲賢字有徳の墓であった。そして汾陽の墓はついに分からなかった。郭汾陽は安禄山、史思明の乱に当たり、中流の底柱となり、唐室の再造にその功が大きかった。後の人はこれを崋山のように仰ぎ、その芳名は千古不磨、渭水の尽きることのないようである。午後六時渭南県に到着し、西関外同興店に泊まる。この日の行程九十里。

2012年5月20日 (日)

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・西岳廟

 すでに崋山は路の左手に聳えて見えている。このときは雨もしばらくやんでいたけれど、密雲は峰の半分以上垂れ込めていて秀絶と云われる峰の容子を見ることはかなわない。午後一時西岳廟に到着した。この地に西岳廟があるのでこの名がついている。廟を過ぎ徳盛店に休憩して、廟を拝謁した。周囲に磚壁(せんぺき)がめぐらされて城塞のようである。門を入ると左に大きな古碑の断礎がある。わずかに龍及び天人の裳かと思われる彫刻の一部が残っている。極めて精巧なものだ。また賀如孕(がじょよう・孕は子供を孕むまたは産むことから誕生祝いのことか)等の数字が残っている。王士禎はこれを唐断碑だろうと云うが当たっているのではないか。また青牛老樹の碑がある。天啓甲子に立てたもの。老樹は枯れてなお枯れた幹を残し、傍らに新樹を植えている。昔老子が関中に入った時、乗ってきた牛をつないだものと伝えられている。櫺星門(れいせいもん)を入れば左右に石碑及び碑亭があり、内には漢唐の断碑、後周及びそれ以後の碑が多い。金城門の楣間には雲龍を画いてある。石橋を渡り正殿に拝謁する。灝霊殿(こうれいでん)と云う西嶽崋山の神位があり、左右に碑亭がある。中に康煕筆、露凝仙掌の四大字が見る価値あり。後ろの庭に放生池があり、その北の小殿には乾隆筆で嶽蓮霊樹の四大字があり、裏に畢沅(ひつげん)奏摺(そうしゅう)と刻している。最後に万寿閣があり牌楼に題して蓐収(じょくしゅう・蓐は敷物のこととあり、申し訳ないが意味が分からない)の府と云う。閣は三層の高楼で天に向かって聳えている。閣上に登れば崋山は正面に屹立し、顧みれば東北に黄河を望み西北に渭水(いすい)を見る。廟内で法帖を購入し、三時半西岳廟を出発した。雨は再び激しくふりだした。五里進んで華陰に入る。客店が内というので仕方なくさらに西へ向かう。西関より五里、路の北側に漢の神医華陀(華陀)之墓がある。華陀は華陰の人で医術の妙を極めたが、かつて関羽の矢傷を治療したことがある。墓の後ろには小さな廟があるだけである。さらに二里ほど行くと路の南に小碑があり、題して前秦侍中王公之墓と云う。乾隆年間に立てたもの。関中の豪傑が虱をひねって桓温に説き、頼りにならないので秦の符堅に帰属し、怪腕を振るったという王孟の墓である。日暮れ、敷水(ふすい)を渡って敷水鎮に入る。客車は皆空房が無いという。そこで公館の勧学所に入って泊まる。時に七時十五分この日行程七十里。

2012年5月19日 (土)

たびごころ

 「たびごころ」が動き出して止まらず、明日未明から何日か出かけることに決めた。今回は日本海を西へ向かう予定。とりあえず明日は丹後半島から兵庫県の日本海側、浜坂辺りを考えている。宿はいくつか候補を考えて、明日成り行きで決める。

 旅の効用はリフレッシュ。写真を撮る楽しみもある。そして意外なことに家にいるときより本が読める。

 何日間にするか、どこまで行くかは気分次第と云うことで、行ってきます。泊まった宿によってはe-モバイルがつながらないかも知れないが(e-モバイルは都市部は快適だが地方に弱いのだ)、パソコンは担いでいくので極力現地報告する予定であります。朝の連載(清末見聞録-清国文明記)は一応五日分用意した。辞書まで担いでいくのはつらいし、辞書なしでは作れない。

 留守はドン姫に託して、では行って参ります。

宝泉院

三千院を出て御殿門を右へ行くと勝林院、そして宝泉院がある。勝林院は法然が叡山の顕真と浄土念仏の教理について論議して心服させたという有名な大原問答が行われたところだという。ここは中は拝観せず門の前から本堂を眺めて通過。宝泉院へ。拝観料八百円だが、その中に抹茶とお菓子の代金が含まれるのでお値打ちである。ここはこじんまりとしているがくつろげる場所だった。外人さんも含めて広間にたくさんの人が庭を見ているのだが、みな物静かであり、邪魔にならない。樹齢七百年という庭の五葉松が見事である。ここで本当にゆっくりしてから裏道を廻って大原から引き揚げた。

120517_104勝林院本堂。

120517_105勝林院の左手をぐるりと回り、この小さな橋を渡ると宝泉院。

120517_108宝泉院受付前の境内の景色。木戸の向こうが庭園だが、訪問者はこの右手の玄関から院内に入り、座敷から庭を見る。

120517_109ここは小座敷。ここの庭園も良い。山水の庭。

120517_111百日紅の老木。

120517_112この蹲(つくばい)の風情は今まで見た中で最高。完璧だった。

120517_114五葉松の巨大な老木。座敷から正面に見える。縁側に陣取り、ずっと見ていた。

120517_115供された抹茶と菓子。いいでしょう。

120517_117庭の脇の手に紅葉が新芽を見せて愛らしく風に吹かれていた。

120517_119伏見城から移された血天井。この下で切腹した血が飛んだものだと云うが。

120517_124裏道をバス停に向かう。ひなげしの花がそよ風に揺れていた。

今回せっかく大原まで行きながら寂光院まで行かなかった。方向が正反対でかなり歩かなければならない。次回に行くことにした。しばらくは清盛ブームで賑やかなのではないだろうか。建礼門院も騒がしいことだろう。

三千院の牡丹など

120517_91見事な大輪の牡丹。

三千院の一番奥、観音堂の庭で牡丹が咲いています、と云う案内の看板を見て見に行く。白、赤、紫、と色とりどりの花が咲き乱れていた。

120517_95120517_96手入れが行き届いて気持ちが良い。

120517_92草木の供養塔。初めて見た。

120517_74これは薄いピンクの花。シャクナゲだと思うが。

120517_97観音堂の前の赤い日傘と緋毛氈。絵になります。ここに和服のお嬢さんでもいると最高ですが。

花は三千院にとてもよく似合う。

京都大原・三千院

三千院に入る。ここは堂内撮影全て禁止。庭園はかまわないであろうと判断し、庭園のみ撮影。ここは観光客も多い。外人さんも多いが中国人はいないようだ。いたら賑やかだからすぐ分かる。庭園の苔が美しい。座敷でしばらく庭を鑑賞する。ツツジの大木が正面にあり、秋の紅葉はいかばかりかと思われる。

120517_66三千院御殿門。ここから入る。

120517_68極楽院の広間から庭園の紅葉の大木を見る。

120517_69庭園の池。澄んでいる。

120517_72不動堂。周辺の緑がひときわ美しい。

120517_73わらべ地蔵。やさしい顔。

120517_78庭園の苔が木漏れ日に美しい。

120517_79先ほど前を通った朱雀門の内側である。

120517_80かなり大きな石灯籠。どっしりしている。

120517_88弁財天に熱心にお参りしている女性。何があったのだろうか。後で顔を見たらとても美しい人だった。声をかける勇気は無い。

120517_99鎌倉時代の石仏。結構大きなもので、表面波かなり摩滅している。一番奥の方にある。気がつかない人が多いだろう。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・関西夫子

 九月十六日、また雨。午前八時に関を出発した。出発してまもなく地勢が一変した。南には丘陵が連なり北には黄河を隔てて山西の連山はあるけれども西は一望千里、はるかに視界が開けた。路傍の柳樹はやさしくなびいて行客を送迎し、村荘や畑の間は樹木が鬱蒼として林をなし、河南一帯の風景とはその趣が全く一変した。十余里ばかりで路の北側に楊伯起の墓がある。石坊があり四知坊という。石碑があり、題して漢関西夫子楊公墓と云う。康煕丁丑に立てたもの。その裏を見ると明の嘉靖庚申と刻してある。また別に乾隆年間に立てた碑があり、題して漢太尉楊公震墓と云う。畢沄(ひつげん)の書である。坊を入って百余歩、門に清白吏蹟と題している。祠堂には石造りの神位があり、漢漢太尉楊公神位と記し、傍らに小さな字で公諱字震伯起、弘農華陰人と記してある。堂前に明兵憲蔡公漢太尉楊先生塋記(えいき)があり、読んでみると楊伯起がかつて刺史となって任に赴くとき、その旧友某が夜訪ねてきて黄金を贈ろうとして言うことには、夜だから誰もこのことは知らないと。伯起はこれを却けて「天知る地知る子知る我知る、どうして誰も知らないなどと言えるか」と云い、彼の清廉の名は永く楊震四知として後世に伝わった。のち太尉となり節を曲げないために容れられず、延光年間に罷め帰されて夕楊亭で死んだ。のち天子がその忠に気づき、有司をして礼を以て華陰の潼亭に改装させた。それがこの地である。しかし、廟の後方には七冢(しちちょう・七つの塚)が累々とあるばかりでそのいずれであるのか分からない。明朝の時これを修理して清朝になってさらにまた修復したのである。ここからまた三、四里行くと路の左に碑がある。その半ばは埋もれているが、題して漢四知楊夫子講学処と云う。

三千院へ

来迎院から三千院へ戻る。下りだから楽だ。空を見上げるとすらりと伸びた樹々が緑のカーテンになって被さっている。これなら夏も涼しいだろう。三千院の参道で少し遅めの昼食を摂る。京都だから手桶弁当も良いけれどにしんそばにした。

120517_52樹を見るのが好き。

120517_53空を見上げていると気持ちが晴れてくる。

120517_55右側は三千院。

120517_57三千院の朱雀門。閉まっている。

120517_63三千院の参道。左手の店で昼食を摂る。

120517_64昼食を食べた場所から。外は参道。にしんそばはおいしかった。

2012年5月18日 (金)

来迎院

来迎院は正解だった。三千院で引き返してしまう人がほとんどだろう。訪問する人も少ないようだ。全くきらびやかさも派手さもない地味な雰囲気がとても良い。受付の男性(お寺の人、住職ではないと思うが)がとても感じが良い。「坂がきついから大変でしたでしょう」とねぎらわれた。

120517_25これは来迎院ではなく、すぐ手前にある浄蓮華院。非公開のようだがここもたたずまいが良い。

120517_28来迎院本堂。

120517_48ここで靴を脱いで上がり、右手へ廻って仏像を拝観する。今特別に公開している。

120517_30釈迦如来、薬師如来、弥陀如来に不動明王と毘沙門天が脇侍している。実際はずっと暗い。撮影不可とはされていなかったと思う。ただし礼儀としてストロボは絶対に焚きません。

120517_41良忍上人御廟。この石の扉は閉まっていた。

120517_42ちゃんと元のように閉めました。

120517_46この石段の苔の美しさ。

120517_47石碑は苔むし、摩耗して何が書いてあるか分からない。でも美しい。

来迎院は本堂公開中の今、是非見て欲しい。

大原

大原のバス停を降りてまず三千院の先にある来迎院へ向かう。それほど旧ではないが坂道である。路の横にはいくつか漬け物屋などが並んでいる。小さな川が流れていて道上には樹が鬱蒼と被さり、涼しい。

120517_5バス停を降りて三千院へ向かう人たち。圧倒的に女性が多い。

120517_6路の横にはこんなところも。京都らしい。

120517_9坂を上り始める。

120517_12先の方にあるのがお店。アイスクリームも売っている。

120517_16少し汗ばんできた。すぐ先は三千院。

120517_19左手の石垣は三千院。来迎院はここからもう少し歩く。

120517_24小川はもうせせらぎになった。

名古屋から京都へ

 京都へ行くのに新幹線に乗らず、東海道線で行く。朝早く出て乗り継ぎが良いと3時間かからないで京都に着くのだが、ちょっと出遅れたので大垣で米原行きを20分以上待つことになった。ぼんやり見ていたら樽見鉄道というのがある。大垣から樽見まで走っている第三セクター線だ。カラフルな車両が一両ぽつんと向こうのホームに停まっている。一度乗ってみたい。ホームで心を落ち着けるため、ジャスミンティーのペットボトルを買う。米原行きの列車は、ほかの列車の遅れが影響して待たされたうえにさらに五分近く遅れて出発した。車中で爆睡。目覚めると関ヶ原辺りを走っている。新緑が匂うようだ。雲の多いどんよりとした空なので、反って新緑が映える。太陽の強い日差しと新緑は似合わない。
 米原では同じホームの反対側で姫路行きの新快速が待ってくれていた。早速出発。再び爆睡。十時半過ぎに京都へ到着。今日の目的地は大原である。京都~大原三千院、の大原、大原女の大原だ。京都バスが大原まで走っている。

Dsc_0003京都駅。駅前バス停。

Dsc_0004C3、大原行き。ここから乗った。

時間

 猫と時間は似ているところがある。猫は、こちらが注目しているときにはだらだらして動かないが、ふと目を逸らすと姿を隠している。
 昨晩、友人と天王寺で飲んだ。わたしが日帰りのつもりでいるのを承知している友人がときどき時計を見て「大丈夫か」と念を押す。話し足りないし、まだだいぶ最終まで時間もあったので「大丈夫」と答えて酒を追加した。そんなことが二三度あってさらに話が盛り上がり、ふと気がついたらとっくに10時を過ぎていた。これでは新大阪までどんなに急いでも最終の新幹線に乗るのも無理だ。
 そういうわけで本日は朝帰りであった。今度は最初から泊まるつもりで行こう。それにしても時間はとつぜん加速する。 

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・潼関(どうかん)

 五日また雨。午前七時閿郷(ぶんきょう)を出発する。谷を渡り、また一山を越え高北村盤豆鎮(ばんとうちん)を経て、行くこと四十里、文底鎮高陞店(こうしょうてん)に入って休憩した。また十数里、山道を登り尽くせばその絶頂に関があり、第一関または金徒関(きんとかん)と云う。そして潼関城は・深い谷を隔てて前方に屹立している。後漢の建安が中函谷を新安からこの地に移し、よって潼関と名付けた。曹操が馬超を破ったのはここである。関は高陵に拠り黄河に沈みすこぶる景勝の地である。殽函(こうかん・殽陵と函谷関)を経てこの地に至るまで数百里の間、丘陵が起伏して紆余曲折、たちまちにして崖上、たちまちにして谷底にあり、いわゆる秦塞(しんそく)重関一百二とはこれである。河を隔てて高陵に対する。風陵堆(ふうりょうたい)と云う。伝えるところに拠れば風后(ふうこう)氏の陵であると云う。渡津(わたしぶね)があり、山西より陝西に入るものは必ずここを通る。この地形は軍事的に重要であると共に風景もまた雄絶である。霊宝より西、潼関までを古の桃林の地とする。武王が紂(殷の最後の帝)に勝利した後、牛を桃林の野に放ったと云うのがここである。伝えられているところに拠れば当時は柏林が鬱蒼として谷中などは日も射さず、故に荀卿(じゅんけい)はこれを松柏の塞と云った。今は全くその面影がなく、山腹から絶頂に至るまでことごとく耕されて畑となっている。関に入れば門吏がやってきて姓名と来意を問う。警戒はなはだ厳重である。午後五時半三昇店に着いて泊まる。行程六十里。

2012年5月17日 (木)

中国ウオッチ・唖然

 中国安徽省・合肥国際空港での話。広州から大連行きの飛行機が中継地の合肥に到着したが、天候不良のため、大連への飛行が取りやめとなった。これに不満を唱えた乗客の一部が飛行機から降りるのを拒否、さらに乗客の女性一人が「機内が蒸し暑い」として勝手に非常口を開け放った。これも「造反有理」か。
 さすがにあまりの傍若無人ぶりに空港警察が出動する騒ぎになり、この女性は拘留10日間の罰を受けることになった。

 中国河南省南陽市の小学校教師が、同じ学校の校長に頭や手を噛まれるという事件があった。この教師は給与の適正支払いを求めて校長に掛け合っていたところだったが、話がこじれて校長が激高し、噛みついたのだという。この教師は以前この小学校の会計を担当していたが、校長から不正な手形の振り出しを要求され、拒否したため、たびたび報復を受けていたという。この給与についても何らかの嫌がらせで支払わなかったものであろう。地元の教育局長は「最低の不祥事だ」と述べているが、今のところこの校長は何の処分も受けておらず、事件について問い合わせしても「調査中」との回答が帰ってくるだけだという。
 この校長は自分の職務権限で上納すべき金銭をこの教員に阻まれて錯乱したのであろう。この校長を取り調べれば芋づる式に背景がばれてしまうから調査中と云いながらうやむやにしようとしているのであろう。
 これではやくざの上納金と全く変わらない。中国の腐敗の闇は深い。

 中国・広西チワン族自治区で、妻の浮気を疑った夫が浮気の相手の娘にHIV感染者の血液を注射するという、言語道断な犯罪を犯した事件があった。二年前のことだという。自分の娘と相手の娘が同じ学校にいることを知ったこの夫は、HIV感染者で麻薬常用者から麻薬と引き替えに血液を採取したのち、この血液を相手の娘に注射したのだという。この娘が検査を受けたところHIV感染していることが明らかとなった。
 この男は「故意殺人罪」により、懲役12年の判決を受けたことからこのような事件があったことが分かった。

 どれも唖然とするしかないような事件だ。自分が社会的存在であるなどと云うことなどかけらも考えない、自己中心的な人間が増えているのだろうか。国家が理不尽なことを平気で行い続けるとこのような人間がどんどん輩出してくるかも知れない。恐ろしいことだ。

本日は友達に会いに大阪に行く。逢いたくなったのだ。昼間は京都を散策し、夕方飲み、日帰り。京都の写真を撮ってくる予定。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・函谷関

 九月十四日七時、雨を冒して南関外を出発し、行くこと一里で宏農澗を渡ればそこが函谷関である。道の正面に楼門があり、題して函関とある。かつて老子が牛に乗って西の方関を入ったのも、孟嘗君(もうしょうくん)がその食客に鶏鳴を学ばしめて何とか関を脱出することが出来た(食客三千人と云われた孟嘗君の食客の中に鶏の鳴き声のうまい者がいた。函谷関は夜が明けるまで門を閉ざしているので通れない。そこで鶏の鳴き声を真似たところ辺りの鶏が一斉に時を告げた。門番も朝だと思って門を開いたという)のもここである。関上に対聯あり、曰く、
  未許田文軽策馬 *田文は孟嘗君
  願逢老子再騎牛
嘉慶六年に題された。関令尹喜(いんき)が気を望んで老子の関に入るべきを知ったという望気台も、また孟嘗君の食客が鶏鳴を真似た鶏鳴台も簡の傍らにあると云われるけれど、どれがそれだか分からない。路の右側に石碑があり題して古函関と云う。路の左には乾隆五十二年建立、
  夏直臣龍逢関公之墓
の石碑がある。
 この地の北方には黄河を控え、南方には一体の高嶺があり、その山脈は北へ延びて黄河に至っている。そしてこの函谷関はこの山脈を横断して東西に通じている。両側は屹立して中に一本の道を通している。そして道幅は馬車が並んで走れないほど狭いが、所々広くしてある。路上で出逢えばその広くなったところですれ違うしかない。そこで、行くものははるかに声を掛け合いながら進む。山は険峻とはいえそれほどでもない。これを殽(こう)と較べれば、函谷関には路はただ一本で、殽には二本あるから、峻険であることは函谷関は殽にはかなわないけれども、路が険悪であることは函谷関の方が勝っている。しかし、我が国の箱根・足柄に較べればはるかにましである。雨が蕭々として函谷関に降り込め、上下二十里、稠桑鎮(ちゅうそうちん)についてようやく函谷関の険が終わった。さらに二十里、午後一時大字営(だいじえい)に着いて小憩した。行く行く稼穡(かしょく・農業)の様子を観察するに、峡石以西は雨沢が足りていてそれより東が旱魃であったのとは違い、到る処粟は豊かに実っている。住民はこの粟を粥にして食するという。大字営以西は黄河河畔の砂地である。雨もやみ、馬車は軽快に進む。午後五時閿郷(ぶんきょう)西関外に着いたが客桟三軒、皆空房がないという。そこで衙門に頼んで西関外の公館、大王廟に宿泊することになった。廟は黄河に臨んでいる。食後河畔に立てば愁雲千里、悲風白楊に鳴り、黄河の水は滔々として天を涵(ひた)し、脚下の岩を噛み、行客をして凄然傷心に堪えざらしむ。この夜、風颯々(さつさつ)軒端の風鈴鏘然(しょうぜん・金属の鳴る音)として清饗夢に入る。
 *最後の部分は雰囲気を壊さないように原文のままとしました。おおよそ意味は分かると思います。
芝山哲也著「日本はなぜ世界で認められないのか」(平凡社新書)

2012年5月16日 (水)

中国ウオッチ・要求

 中国政府は15日、イギリス政府に「独立を目指す反中国勢力の容認と支持をやめろ」と要求した。
 14日にキャメロン首相やイギリス政府首脳とダライ・ラマが会談したことに猛反発しての要求である。昨日伝えた中国によるダライ・ラマ暗殺計画の情報はこの会談の時に明らかにされたものである。
 中国政府・外交部の宋副部長は「イギリスは再三の申し出を無視してダライ・ラマと会談した。これは中国の内政に対するはなはだしい干渉であり、中国の核心的利益を損ね、中国人民の感情を傷つけた」と厳しく抗議を行った。
 「中国ウオッチ・内政干渉」の記事で伝えたように、内政干渉とは他国が武力またはその他の強制的手段によって命令的介入をすることであり、ダライ・ラマと会談することが内政干渉であると非難するのは中国の言いがかりである。イギリスは当然無視するだろう。
 こんな言いがかりでびびるのは日本の外務省くらいで、このために台湾の李登輝元総統の日本訪問は再三邪魔されてきた。今回のウイグル会議はたぶん外務省がうっかりしたのだろう、事前に知っていれば絶対停めたはずだ。
 それにしても中国は最近相手かまわずに噛みつくようになった。
 えらくなったものだ。

中国ウオッチ・中国を愛す

 中国を拠点に活躍している日本人俳優・矢野浩二氏が、中国にいて「中国を愛する」と言うのは普通のことだが、自分は日本でも公の場で「中国を愛している」と言える、と述べて話題になっている。
 これは日本でも人気のある韓流タレントが、日本が大好きだと日本では言いながら、韓国に帰ると反日的な発言をしていることを意識したものだ。
 韓国という国は、韓国人であるというアイデンティティを「反日である」と発言することで表明しないと身の危険がある国だから、私はその韓流タレントに対して全く反感を覚えることはない。そのような国である韓国が好きになれないだけだ。
 中国人は、日本人が本音で「中国が好きだ」と言っても信じられないようだ。だから中国にいるときにリップサービスでそう言っていても日本に帰ればまた中国の悪口を言うのだろうと思っている。ところが日本人の中には結構中国大好き人間は多いのだ。日本にいて中国を愛している、と平気で言える。そしてそれで身の危険を感じることなど全くない国なのだ、日本は。そのことを中国の人が本当だと知れば、たぶん日本人が好きになり、日本という国を見直すきっかけになるかも知れない。
 かくいうこの私がその中国大好き人間だからよく分かる。中国の悪口をよく言うし、嫌いなところだらけだし、中国の問題点ばかりあげつらうけれど、日本の次に中国が好きだ。愛している。持っている本だって中国に関連した本だけで1000冊くらいある。
 矢野浩二氏へのツイッターの書き込みはほとんどが好意的なもので、彼を好意的に見ることが日本を見直すことにつながる気配すら感じさせる。中国人にも日本が好きだ、と心の中で思っている人が結構いるような気がする。そう期待したい。

中国ウオッチ・内政干渉

 ウイグル会議が日本で開かれていることは報告した。このことを「中国への内政干渉である」として中国政府が激しく非難している。
 内政干渉とは何だろう。Wikipediaで見てみると「内政不干渉の原則」というのが国際法に定められている。国家は国際法に違反しない限り一定の事項を処理する権利を有し、他国はその事項に関して干渉してはならない義務がある、というものだそうだ。そして「干渉」とは、他国の国内管轄事項について武力またはその他の強制的手段によって命令的介入することだ。ただし、他国が国内統治に関して批判、あるいは抗議をしたとしても、それは強制的要素を含まないので国際法上は違法な干渉とは云わない、とされている。

 これに照らせば日本でウイグル会議が開かれていることが内政干渉に当たるなどと云うのは言いがかりもはなはだしい。
 どうやら中国は国際法を知らないらしい。たぶん中国は中国独自の国際法を国際法としているのだろう。
 それよりもチベットを中国の版図に組み込んだ過程こそ国際法に違反している可能性が大きい。中国はそのやましさから過剰反応しているのであろう。
 無視してもかまわない非難であることを確認した。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・霊宝県

 雨の中をあえて馬を走らせ十五里、曲沃鎮に到って休憩した。客桟は先般の団匪の乱(だんぴのらん・義和団事件、この鎮圧を名目に日本を含む列強が中国に派兵したのが北清事変)のとき西太后が西安に御幸したときの行宮(あんぐう)とここ一箇所しかない。上房は土窟中にある。二時に出発、また三十里行き、霊宝県の東関に至ると、明の名臣・許氏の墓がある。午後五時に南関外の万昇天(ばんしょうてん)に宿泊した。行程六十里。霊宝は秦・函谷関の地で漢の時には宏農(こうのう)と云い隋の時代には桃林と云った。唐・天宝の初め、符宝(符は札だが、ここでは天子のしるしと云う意味と思われる)を古函谷の傍らで見つけて、それで今の名に改めた。南関を入れば西に御題碑寺があり、唐の徳宗がまだ太子だったとき、かつてこの地を通った折に寺の壁に詩を題したことからこの名となった。二王門を過ぎて北に折れれば大門は鎖されていて開かず、別に小門もない。やむを得ず門のわずかな隙間から覗けば、正面に小堂があって庭の左右に碑が二つある。もう一つが古い鐘門の側に横たわっている。そのほか東関内の路の北に明の名臣四太保尚書許公祠があり、廟の庭には嘉靖三十三年祠堂創建の碑がある。廟中には襄毅・荘敏・文簡・恭襄の四公の像を安置してある。

2012年5月15日 (火)

映画「必殺博奕打ち」1969年東映

 監督・佐伯清、出演・鶴田浩二、長門勇、浜木綿子、山本麟一、遠藤辰雄(太津朗)、信欽三ほか。
 博奕打ちシリーズの第七作。監督が替わったせいだろうか、ずいぶん映画のトーンが変わった。暗いのである。
 博奕勝負のために九州小倉にやってきた金次郎は古くからの一家(貸元は島田正吾)に世話になるが、ここは新興悪徳やくざ一家(貸し元・遠藤辰雄)の傍若無人なしのぎに押されている。意図せずにその抗争の火種となってしまった金次郎であるが、命をかたに博奕で決着をつけることになり、その勝負に勝つ。これは相手方の胴師・長門勇が金次郎の男らしさ、潔さに心服して得意のいかさまを封印したからであった。
 しかしそれがあだとなって長門勇は渡世の義理から島田正吾を殺す羽目になる。金次郎はここに至って相手に果たし状を送り、弟分の山本麟一達とともに戦いに赴くのである。

 シリーズの中ではやや物語の濃度が薄く、緊張感も足りない。出だしの博奕場での鶴田浩二の顔に精彩がないのでどうしたのか、と思ったが最後まで何となく変だった。監督とあわなかったのか、脚本に不満だったのか、体調が悪かったのか、何か理由があったのだろう。
 第八作が良い作品であることを祈ろう。

中国ウオッチ・関越道バス事故

 連休中に起きた関越道の高速バス事故について、中国のブログに「運転手がもと中国国籍の中国残留孤児二世であり、彼が日本で差別を受けてきたことの結果起きた悲劇である」との書き込みがあった。

 彼がもと中国籍だったことは知っていたが残留孤児の二世であったことはこのブログの書き込みで知った。中国残留孤児やその家族が日本で差別を受け、十分な救済を受けずに生活に困窮していることは再三ドキュメンタリーなどで明らかにされてきた。特に孤児の二世は進学や就職で苦労するため、暴力団や犯罪組織へ堕ちていく割合が高いとも聞いていた。中国の犯罪組織がそのような二世を利用することも多い。
 このブログではこの運転手の河野容疑者よりもバス会社の罪が重いことを強調し、日本当局のバス会社の管理が不適切だったことも挙げて擁護しているようだ。

 まことに指摘は正しい。残留孤児に対する施策の冷たさ、バス会社に対する国土交通省の管理のずさんさは、自治省の問題点指摘を無視していたことからも明らかである。

 しかしそうであっても事故を起こした当人の責任は何ら免れることのないところであり、事故という結果に対しては罪を償わなければならない。それに日本の司法はもと中国国籍であったからと云って差別した審判を下すことはないことは確かである。

 デフレ社会のもとでの価格競争はこのように時として大きな悲劇を生む。日本社会に漂う暗雲を払うためには何よりもこのデフレから抜け出すことが最優先でなければならないことは分かっている。ものの価値を正当に評価して対価を払うという原点に一人一人が立ち戻って消費行動をすること、これは実はかなり覚悟のいることで、その犠牲を引き受けない限り、難しいことなのだが・・・。

 電化製品のうち、大型テレビなどが相変わらずとんでもなく安い中で、洗濯機や冷蔵庫、炊飯器などが逆に昔より高価格化していることがデフレ脱却の走りであるならばこれは望ましいことであろう。それでも皆どんどん購入するのだ。繰り返すが、良いものをそれなりの価格で売る、それを正当に評価して購入する、と云う流れを歓迎しよう。その方が絶対、物を買ったときの喜びが大きいことを思い出すはずだ。

居眠り運転

 京都府亀岡市で集団登校の小学生の列に暴走車が突っ込んで多くの犠牲者を出した事件について、居眠り運転であったと云うことがどうも確定したようだ。そうなると危険運転とは見なされないのだそうだ。
 この暴走車には同乗者が何人かいたと云うことだ。交代で運転していたらしいのでもし運転者が眠ければ全員眠いので、どこかで休憩するに違いない。また、同乗者は運転している人間が居眠りをしていれば当然危険を感じるはずで、普通なら起こそうとするに違いない。これは想像だが、みんなでわいわいとふざけ合いながら走っていたのではないか。同乗者も含め、それでは責任を問われてしまう。居眠りということにすればいかにも不可抗力のように受け取ってもらえる。全員が口裏合わせをしたら事実を知るのは難しい。警察がそれを疑って的確な質問をしていればあるいは一人くらい本当のことを云い、事実が明らかになったかも知れないが、この亀岡警察、本気で調べたかどうか疑わしい。
 この亀岡警察は被害者の住所をパソコンから打ち出して犯人の父親に手渡したりしている。普通はそんなことはしない。この父親は警察にコネがあるとしか思えないがどうか。そうであれば事情聴取にも何らかの情実が加えられたのではないか、と思ってしまう。
 もちろん全て妄想であるが。

 ところで加害者の住所氏名は何故公開されないのか。警察は被害者の住所氏名を公開したではないか。警察が公開しないのならマスコミは勇気をふるって公開したらどうか。それでこそ平等であり、公衆の味方だろう。

 広島県福山市のホテル火災の被害者は名前が公開されない。このホテルが一般の人も泊まるとはいえ、ほとんどラブホテルなのでプライバシーを尊重したそうである。これは亀岡の事件が影響しての判断だろう

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・

 九月十三日夜来の雨はついにやまず、微雨を犯して午前七時に南関を出で、黄河に沿って遡る。両岸の断崖は削り取ったようで、陝州城は高く崖上に聳え、対岸には所々に村荘及び樹林が配されて絵のようである。小河を渡れば南関外の客店は路の左右に五、六軒あり、いずれも清楚で彰徳以来ほとんど見ることのなかったものである。ただ、衙門に行くには城内に宿泊する方が便利である。行くこと十五里で岔道口(たどうこう)を通過して、いくばくもなく道は崖上に通じ、脚下に黄河を見る。また十五里行くと五原社に至る。聖母廟がある。村の西端から左に入って一里あまり、谿流の中に温泉が湧出している。硫黄泉であろう、やや白色を帯び、少し臭気があるけれども、温度はちょうど良い。着衣を脱いで谿流中の温泉に浴し、北京以来の塵垢(じんこう)を洗い、心身爽快を覚えた。

2012年5月14日 (月)

中国ウオッチ・世界ウイグル会議

 中国からの亡命ウイグル人で作る「世界ウイグル会議」(本部はドイツのミュンヘン)の代表大会が、東京都内で開催されている。大会は3年に一度開催され、今回はアメリカやドイツ在住の亡命ウイグル人など120人が出席した。
 開会式では2009年に新疆ウイグル自治区・ウルムチで起きた大規模暴動の後、中国政府のウイグル人に対する抑圧が激しくなっていることなどが報告され、記者会見では日本政府に対し、日中会談でウイグル問題を取り上げるよう要望した。
 野田総理と温家宝首相は

 中国は経済が良いから何とか今の体制が維持できている。そもそも共産党の支配下での自由経済などと云うのは論理矛盾である。共産党という名の支配王朝でしかないことは皆気がついている。経済が停滞したとたんに国中にたまった不満のエネルギーが爆発するだろう。それを抑えるために再び対日強硬策や反日をあおる行動に出る可能性が高い。中国国民が冷静に行動することを願うばかりだ。

おっかなびっくり

 本日は定期検診の日であった。糖尿病その他の治療中で、医者からは減量を厳命され、栄養指導も受けているのに、体重が3キロも増えてしまい、病院に行くのに気が重かった。
 この一月以上、家の中で座り込んでフィルムスキャンや画像補正に専念して、ほとんど外出しなかった。連休中は子供達も帰ってきていたので連日酒を飲み、この数日は父親の法事で親元に行って弟と毎日飲んでいた。太るのは当然だし、血糖値も高くなっているに違いない。

 ところがあにはからんや血糖値も血圧も尿酸値も全て正常値であった。そしていつもの女医さんではなく、別のとても愛想の良い女医さんが新たに糖尿病専門の先生として担当になった。先生の見立てでは、今の薬(アマリール)は効果は高いのだが、食事をかなり管理しないと太りやすいのだそうだ。最近出た新薬は太りにくくて運動すると減量効果が高いのでそれを勧められた。唯一の欠点は値段が高いのだそうだ。三倍ぐらいすると云う。その薬をしばらく服用してみることにした。せめて一日一時間歩く程度の運動をすること、食事で減量してもリバウンドするだけだから無理をせず、間食をやめることを指導された(糖尿の薬を飲むと腹が減って目が回りそうになり、つい間食してしまう傾向があった)。薬の総量も減らすことになった。やった。
 一番こわい栄養指導の先生がどういうわけか今日はやさしかった。何か良いことでもあったのだろうか。医師に言われたことを伝え、ちゃんと運動します、と云うと「がんばってください」にこやかに云われてしまった。いつもは「分かってて何で出来ないんですか、それとお酒はもうやめなさい」とできないことを云われていたのにどうしたことか。

 よし今日から運動しよう、と思ったのだが、いつまでつづくか自分でも自信がない。

中国ウオッチ・未来への手紙

 中国吉林省吉林市の郵政局が、「未来に宛てて出す手紙」というキャンペーンを行っている。すでに5万通ほどが投函されているという。市内のどのポストに投函されたものもきちんと保管して、2018年に配達されるそうだ。キャンペーンに応えた人には引換券が郵送されてくる。もし2018年までに住所変更などで郵便が届かないときでもその券を持参すれば受け取ることが出来る。
 
 最近はインターネットやメールの普及で手紙を書いて出す人が激減していることから始めたキャンペーンだと云う。このようなキャンペーンはすでに北京や上海でも実施されたのだそうだ。

 保管された郵便物が無事未来に配達されることを祈る。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・召公祠

 召公祠は鼓楼の北、州の衙門の東にあり、門を入れば池がある。池中に亭があり、瑞蓮亭と云う。今池の水は涸れて草茫々としている。西隅に陝州召公堂瑞蓮記があるけれども、文字が摩滅している。その側に枯れ木が一株ある。碑があって題して古甘棠(こかんとう)と云い、また召公遺愛と云う。祠堂は瑞蓮亭の北にあり祠中に召公の像を安置している。堂の両側には題詩が多く、今正徳丁丑李元の題した詩を記録した。
   召公祠
  在昔召公去、国人愛棠樹、
  于今樹已空、時復吹清風、
叉古鼎(さこてい)あり、煉瓦で周囲が築かれていてよく見ることができない。傍らには古鼎碑記があるけれど、文字が摩滅して読むことが出来ない。祠堂の内は窮民の寓と化して(貧しい人の住みかとなって)不潔なことは筆舌に尽くしがたい。また祠の前には無頼の徒が相集まり賭博にふけっている。西隣の衙門には人がいないのか。このようなことを放置しておいて何のための衙門であるか。古の陝州召公の遺風はどこに行ってしまったというのか。

2012年5月13日 (日)

中国ウオッチ・乗客三人

 中国観光局は国民に対してフィリピンへの渡航を自粛するように勧告している。
 その勧告に従い、中国の各旅行会社はフィリピンへのツアーを全面的に中止し、すでに予約している客には全額を返還するか別の国への旅行へ切り替えを行っている。
 台湾でもフィリピンへの旅行を自粛するよう指導しているようだ。もちろんスカボロー礁(黄岩島)の領有権問題がエスカレートしているため、旅行者の身の安全が保証されにくいためで、台湾の人と中国人はフィリピン人にはほとんど区別できないためである。
 12日の上海からマニラ行きのある便などはなんと乗客が3人だけだったという。
 中国の旅行者が激減したことでフィリピンでは空港やホテル、観光関係の業者は大打撃だそうだ。現地の華僑も推移を見守っているという。
 中国とフィリピンの我慢比べは圧倒的に中国に有利に見えるが、フィリピンはどこまで我慢できるだろうか。とことんがんばって欲しいところなのだが。

 先ほど千葉から名古屋の我が家に帰宅。第二東名のおかげで本当に車の流れが良くなり、楽になった。
 ところで明日は定期検診。体重が久しぶりに大台に乗ってしまった。これは運動不足と節制不足のなせる技で、診察の後の生活指導の口うるさい先生にかなり厳しいことを云われると思うと気が重い。本当にうるさいのだ。

 ところでこのブログを見ている人にお願いがあります。短くても良いのでコメントを書き込んでもらえないでしょうか。私は特にアドレスもURLも要求していませんので、勝手に好きな名前をつけて(名前だけはないと区別がつかないので)くだされば結構です。書き込んでもらったブログのところに必ず返事を書くようにするつもりです。コメントを貰うとものすごく励みになります。今までコメントを戴いたかた、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

烏賀陽弘道著「報道の脳死」(新潮新書)

 著者はもと朝日新聞の記者で現在フリー。うがや、と読む。
 報道が劣化していると思う人は多いだろう。だがこんなものか、とあきらめているうちにますますその劣化が進んでいることには皆あまり気がついていない。特にその意識のないのが報道を提供する側であること、その状況とその原因をこの本では検証している。
 取り上げられた実例の数々を見てこんなにひどいのか、と驚いた。著者が新聞社出身のため、とくに新聞報道の劣化、記者の無意識の怠慢、情報を咀嚼して意味を伝えることが出来ないような断片化されているシステムが詳しく述べられている。
 テレビが、金太郎飴のようにどこのチャンネルを見ても同じニュースを同じように並べているのとほとんど同じで、新聞も同じネタを同じように取り上げ、違いがほとんど分からなくなっているという。テレビは見比べられるが新聞をいくつも毎日見る人は少ないだろうから案外気がつきにくいことであった。
 ジャーナリストとは何か、についてアメリカの実情、意識を取材して紹介している。アメリカのジャーナリストがみなこのような意識を共有しているかどうかは疑わしいが、ある程度のレベルの記者はまだ自分の仕事の意味を見失っていないようだ。翻って日本の記者のうちこの認識を持って日々、報道に携わっている人間がどれほどいるだろうかと空恐ろしくなった。今の新聞社やテレビ局のシステムではそのような本来ジャーナリストであれば当然持たなければいけない基準を捨てなければシステムの中で円滑に仕事が出来ないという恐ろしい状態なのだ。
 「報道の脳死」というゆえんである。
 今回の福島第一原発事故の報道についてマスコミのお粗末さ(政府の説明に対する突っ込みの甘さ、問題意識のなさ)に危惧を覚えていたところなので著者の云わんとするところがよく理解できた。
はっきり言ってインターネットで、リアルタイムでニュースを見る余裕があれば今の新聞はほとんど必要がないことを実感した。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・陝州

 九月十二日午前六時半出発。夜来の雨は晴れ、昨夜床虫に襲われ、しばしば灯を点じ一回ごとにおよそ十数匹、全てで百数十匹をとらえ、ほとんど一睡も出来なかったから、疲労ははなはだしく、馬上に眠る。二十里で張茅(ちょうぼう)村に至る。路の右に棠陰(とういん)書院がある。書院は崖下の穴中にあり、夫子(年長者・長老か)は三代以上の人であろう。また馬嶺を登って峻坂を下れば磁鐘鎮である。午後は桑原君と交代して車に座して出発する。峠へ達すると脚下に黄河を望む。河畔に蕞爾(さいじ・ちいさいこと)たる城郭がある。これが陝州である。また十里ばかりいつしか華胥(かしょ・想像上の理想の地)の境に入っていた私は突然驚き目覚めれば、天地転倒馬車は覆り、従僕は泥中に横たわり、私は車中で逆さまになっている。すぐに車外に出て車夫、兵勇、従僕と共に力を合わせてようやく車を引き起こし、四時陝州に入れば先着していた桑原君は馬を捨て、東関に登って私たちの来るのを待っていた。関外の路の右に碑があり、州召公治処と題す。乾隆三十七年知州銭塘雷汪度(せんとうらいおうど)の建てたもので、史にいわゆる陝より以東は周公がこれを司り、陝より西は召公がこれを司るとはここのことである。雨と共に東関に入り北に折れ鼓楼の側鳴盛店(めいせいてん)に宿を取る。この日行程七十里。この地では石炭を焚いている。石炭は四周の山及び峡石の辺りから出炭している。峡石の辺りでは一斤半文、この地では一斤三文だとのことである。

2012年5月12日 (土)

葉室麟著「乾山晩愁」(角川文庫)

 短編集である。収められている五篇は全て絵師の話で、「乾山晩愁」が尾形光琳の弟・尾形乾山、「永徳翔天」が狩野永徳、「等伯慕影」が長谷川等伯、「雪信花匂」が狩野派の女絵師・清原雪信、「一蝶幻影」が英一蝶が主人公。
 光り輝く栄光の人物もいればそのような人物の陰となってしまった人物もいる。だがいずれも生涯をかけて独自の世界を追求した者ばかりである。

 幸せだけで彩られた人生を送れる人間などほとんどいない。もしそんな人間がいたらつきあいたいと思わない。そういう人はたとえ善意の人のように見えても他人の悩み苦しみがほとんど理解できないかたわ人間だと思った方が良い。運が良い人は実は運が悪いのかも知れない。
 自分自身の弱さや、思いのままにならない運命に人は悩み苦しみ、そして自分だけの人生を生きる。そして晩年に、生涯をかけて描いた自分の人生という絵をしみじみと見るのだ。

 この本の物語を読むことでそれぞれの絵師が生涯をかけて描いたであろうそれぞれの絵を、葉室麟の文章の力によって見せてもらうことが出来た。

今野敏著「夕暴雨」(ハルキ文庫)

 東京湾臨海署安積班シリーズの文庫版最新刊。「ゆうばくう」と読む。台湾でスコールのことをそう云うそうである。
 臨海署が人数が増えるのに合わせ、安積達が新しい建物(旧のものに隣接して建てられた)に引っ越しを終えた矢先に東京国際展示場(通称東京ビッグサイト)のイベントに爆弾を仕掛けた、と云うインターネットへの書き込みがある。このような書き込みは多く、いたずらの可能性が高いとみられ、案の定何事もなくイベントは終了した。
 安積班は臨海署の強行係である。ここも増強されて班が二つになることになり、今まで出先で対立することの多かった相楽がもう一つの班の班長として乗り込んでくる。相楽は安積に対抗するため、着任早々この書き込みを行った犯人を追い始め、まもなく逮捕に成功する。
 ところが再び次のイベントへの爆破予告の書き込みが発見される。インターネットオタクの須田(安積班)は今度の予告はいたずらではなく、本物の可能性が高いと安積に告げる。安積は須田の意見を重視して警備強化の提案を行うが、人手不足を理由に警備強化に回されたのは安積班だった。このイベントに娘が参加することが分かる。会場は広く、警備班は安積達の熱意に、いつもよりは熱心に警戒するものの心許ない状況である。安積達の不安は高まる。そしてイベントの最終日である日曜日も最も賑わう午前を過ぎた・・・。事件は起こるのか。
 安積の考えていること、感じたことを詳細に書き込むことで安積の人間らしさに触れ、読者が共感して感情移入するようになっている。うまい。ハードボイルドの手法のあえて逆をいっているのだ。
 ところでこの本では裏に意外なコラボレーションが隠されている。なんと「機動警察パトレーバー」の姿が暗示されているのだ。知っている人には驚きであり、興奮を伴う喜びであろう。後書きによると、押井守はこの返礼としてパトレーバーの新作に安積班の面々を登場させている。こんなお遊びが物語に必然性をもって絡めてあって全く違和感がないところが今野敏の今野敏たるところだろう。
 今回も安積の人間性にほだされて一気に読み切ってしまった。

 これは警察小説の好きな人なら最初から分かっていることであるし、前にも言及したが、エド・マクベインの「87分署シリーズ」を意識して作られていることは間違いない。そして安積のキャラクターはスティーブ・キャレラと類似している。ただ安積は離婚しており、キャレラには愛妻のテディ(聾唖者である)がいる。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・殽陵

 九月十一日朝六時半、澠池(めんち)を出発して秦趙会盟処の碑の辺りを通過していくこと二十五里、峠を越えれば英豪(えいごう)である。また二三の小村を過ぎ、十五里ほどで澠池陝州(せんしゅう)の境に至る。数日来降りそうで降らない雨がついに蕭々として降り出したので、秋風に鞭を挙げ、殽陵(こうりょう)を越え連山の起伏を眺めて意気揚々としていた私も急に馬を駆り、五里ほど行って十一時に観音堂に到着した。西の方陝州の方から来ると大道はここで二つに分かれる。一つは東北に向かい河南府に達し、一つは東南に向かい南陽府に達する。その岐路の処に観音堂があり、この地はそれで観音堂と名付けられている。今は関帝も併せて祭ってある。午後一時出発。雨はしばらくやんでいる。桑原君が替わって馬に乗る。鎮中食塩を売るものが多く、色がとても白くて北京辺りの褐色をした塩と比べるとはるかに上等である。この北方百三十里の地に産出する山塩だという。ここから道は険峻となり曲がりくねってあるいは下り、あるいは登り、行くこと十数里、雨が再び降り出したので二人で抱き合うようにして車(馬車)に乗り、午後四時峡石に到着。永順店に宿泊する。行程七十里。この駅は鎬(こう)・洛二つの都(鎬京・洛陽)の往来の衝に当たり、行人多くここに宿泊するけれども、駅中には宿は永順店一つしかない。しかもその汚いことは言語に絶する。天井は高粱の茎幹の骨が半ば折れて頭上に落ちかからんばかりで、煤色の紙は破れて下に垂れ、土壁もまた壊れている。
 英豪から峡石に至る間は、山岳重畳し、行路極めて険峻、すなわち殽陵(こうりょう)の地である。殽は盤殽(ばんこう)、石殽(せっこう)、土殽(どこう)の三つあり、これを三殽と云う。「左伝」に「いわゆる殽に二陵あり、南陵は夏后皐(こう)の墓なり、北陵は文王の風雨を避くるところなり」と云うは石殽山である。今は訛称(かしょう・誤って伝えられた言葉)して石壕(せきごう)土壕と云う。杜少陵が詠じた石壕吏詩はこの地のことである。

2012年5月11日 (金)

中国ウオッチ・一触即発

 南シナ海のスカボロー礁(中国側の呼び名は黄岩島)をめぐる中国とフィリピンのにらみ合いは双方引っ込みがつかない状態に陥っており、ついに本日フィリピンは国を挙げて反中国デモ行動を行う事態となった。これに対して中国は激しくフィリピンを非難、バナナなどのフィリピンからの物産を検疫強化の名目で物流を停滞させている。また中国外交部は中国は軍事行動を辞さない、とまで言い出し、フィリピンを恫喝している。
 このスカボロー礁の領有権問題は20世紀の初めから存在していて、現在フィリピンが実効支配しているものの、この二十年間だけでも何回か物理的な衝突が起きていて死人も出ている。互いの主張とその経過を見ていくと、尖閣諸島の場合よりは中国側の言い分にも理があるようなところもあり、またフィリピンとしても引くに引けない経緯がある。元々この島周辺は中国の海南島の漁民もフィリピンの漁民も漁場としていたところだったのだ。戦後、中国が一方的に領有を主張したとき、ここはアメリカが統治していたのでフィリピンはそれに異を唱える機会がなかった。周辺の島をアメリカがフィリピンに返還したとき、フィリピンは当然このスカボロー礁も返還されたものとして実効支配したのだ。
 中国の、軍艦のような巡視船が居座り、それにフィリピンの巡視船が向き合う形になったのは4月の上旬からであり、ここで引けば相手を認める形になるみて互いに身動きとれなくなっているようだ。
 折しも中国のアナウンサーが黄岩島をフィリピンと言い間違えて「フィリピンは我が国の固有の領土」と発言したこともあり、フィリピン側がエキサイトしてしまった。中国のネットでは「フィリピンはこれから中国領になるからアナウンサーの言ったことは正しい」などと火に油を注ぐような書き込みまで為されている。このアナウンサーはブログを公開し間違いを謝罪しているが後の祭りである。
 アメリカのにらみがきいていれば中国もここまで強硬な態度に出ることはなかっただろうが、中国も国内の権力闘争を目隠しする意図もあってか鉾を収めるつもりはないようだ。       言葉だけ見ていると両国は一触即発の状況のように見える。

中国ウオッチ・殺鼠剤

 北京のある病院に鼻血、血尿、鬱血の症状で担ぎ込まれた患者を調べたところ、殺鼠剤の成分が検出された。患者に確認したが覚えがないという。食べたものを尋ねると屋台で羊肉を食べたという。
 医師はこの羊肉として食べた肉は、殺鼠剤で死んだネズミの肉か、そのネズミを食べて死んだ猫の肉であろうと見ている。

 先日は病死した豚肉の専門解体業者の話がニュースになっていた。中国では何を食わされるか分からない。
 生きて行くには、食べ物に注意するのもだいじだが、何を食べても平気な体力を確保することだ。

葉室麟著「実朝の首」(角川文庫)


110309_26鶴岡八幡宮の大銀杏の残骸。

 鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏が一昨年の春、倒れた。そのひこばえを次の大銀杏にすべく、昨年その祈願祭が行われた。ちょうどその前日に鎌倉を訪ねてこの銀杏の陰に隠れていた公暁が実朝を襲ったのだなと思ったことを思い出した。

 公暁が自分の叔父である実朝を暗殺した後、その首を奪って逃げたことが「吾妻鏡」に記述されている。公暁は追われて殺されるがその首は見つからず、実朝の葬儀の際には首の代わりに実朝の髪の毛を棺に入れたとの記述もある。
 この物語はこの「実朝の首」を公暁に仕えていた弥源太という若者が持ち逃げし、さらにその首を武常晴という武士に奪われ、常晴に誘われた先で様々な人に出逢い激変していく人生を軸に、源氏の嫡流亡き後の鎌倉と朝廷の確執の歴史を綴っている。

 源氏と平氏の戦いの後、鎌倉幕府が開かれ、源頼朝が征夷大将軍として武士の頭領になった。そして頼朝の死後、その子頼家が二代将軍となったが、北条氏によって暗殺される。これは頼家が北条氏を排除しようとしたのを頼朝の妻であり頼家の母であった北条政子が、自分の父である北条頼政に密告したことで逆襲されたものだ。そしてその頼家の弟である実朝が第三代将軍となる。実朝を暗殺した公暁は二代将軍頼家の息子である。この事件で頼朝の直系は全て殺されてしまったのだ。北条政子にとって実朝は我が息子、公暁は孫である。

 公暁は実朝を父の仇として討ったと云われる。そして自分が実朝を討てば自分が次の将軍になれると信じていた。誰が公暁をそそのかしたのか、直接的には三浦義村、その裏に北条義時(頼政の息子・その時の執権)がいたというのは歴史家の見るところだが、さらにその奥に絵を描いた人物が・・・。

 この時代のことについてほとんど知識がなく、鎌倉がまだ結束し切れていない中での各武士集団の抗争については理解が難しかったが、この本でずいぶんとクリアになった。またこの事件からまもなく後鳥羽上皇により承久の変が起こされたことも初めて知った。事件が時間的に連続しているなど思いもよらないことであった。

 物語全体に実朝の首のイメージが影を落としている。葉室麟の小説としてはやや伝奇的なところがあるのが意外だが、全体を読み終えてみるとやはりこころざしあるものへの共感を誘うものであったことが分かる。そして北条政子のスケールの大きさが感じられると共に、自分の子供や孫を失ったことの深い悲しみが、ほとんど語られていないのに後で惻々と感じられてくる。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・会盟台

 澠池は秦・趙が会盟したところで、秦の昭王が趙の恵文王に瑟(しつ)を鼓させたとき、一代の快男子、藺相如は秦王に迫って缶(ふ)を撃たせ、以て趙の国威を失墜させず、強秦に一籌(いっちゅう)をも輸せず(秦の企みを全く寄せ付けなかったこと)、外交上成功を得たのはすなわちここである。俗に会兵台と称する。澠池県の西南二里ばかりのところで、田圃の中に小丘があるのが会兵台である。丘上にはもと石碑の断片かと覚しき三塊の石が横たわっているが、文字は判別しがたい。その東大道に沿って碑があり、秦趙会盟処と記してある。

2012年5月10日 (木)

佐々木正明著「恐怖の環境テロリスト」(新潮新書)

 著者は産経新聞の記者。環境テロリストとはシーシェパードのような組織や人を云う。彼らは大義とするものがイスラムのテロリストと違うだけで、原理主義に凝り固まった反社会的な存在であることは同じだと予想していたが、これほど危険な存在であるとはこの本を読むまで知らなかった。そして彼らの活動に手をこまねいている日本は、たった数十人の活動により世界から大きく誤解され、憎まれていることも思い知らされた。
 ことは捕鯨の賛成反対というレベルではなく、放置していては世界の秩序にさえ悪影響を及ぼしかねない危険な事態なのかも知れない。

 彼ら環境テロリストには確信犯として、なおかつ商売として環境テロを実行し、世界中のメディアを利用してさらにシンパを拡大して寄付を募っている連中と、それに洗脳されてほとんど狂気のように扇動されている連中とがいる。彼らは、単に鯨やイルカは知能が高いから殺すのはかわいそうだ、だから運動に賛同して寄付をしようとする膨大な数の人たちと、環境テロの実行犯と親しくなることで名声を高めようとする芸能人達によって支えられている。その寄付金はやみつきになるほど巨額であり、しかも正義の旗が掲げられるのだから笑いが止まらない。
 この本は実際にシーシェパードを始め環境テロリスト達に密着取材してその欺瞞に満ちた言動を明らかにしている。自分が正義であるならば嘘だろうが暴力だろうが全て正当化されるという信念に満ちたその行動は恐怖以外の何物でもない。
 世界の人は彼らについてあまりに無知である、特に日本人は被害者意識だけで対抗行動が少なすぎる。正しい対応のために多くの人がこの本を読むと良いと思う。
 環境テロリストのエスカレートしていった先に見えるのは人類の抹殺である。これは極端な話ではない。この本を読めばそのことに気づかされる。

中国ウオッチ・カラオケマイクで感電死

 広西チワン族自治区の南寧市のカラオケ店で女性客が死亡した。女性は女子大生で、カラオケマイクに感電して死亡したことが明らかになった。中国の通常の交流電圧は220ボルトで、日本よりずっと高いから感電すると危険なのだ。客が乱暴に扱うのでマイクの配線がむき出しになっていたのではないかとみられる。このような感電事故は初めてではなく、今までにもたびたびあったらしい。
 日本ではカラオケマイクはワイヤレスなので、電池である。万一感電しても死ぬようなことはない。では何故中国ではワイヤレスではないのか。店側の話によると、「ワイヤレスマイクだと客が持って帰ってしまうから」コードのマイクにしているのだそうだ。コードのマイクだと途中がガムテープで留めてあるので外しにくく滅多に持って行かれないのだそうだ。

天児慧著「中華人民共和国史」(岩波新書)

 著者は執筆時青山学院大学の国際政治経済学教授。先般取り上げた 北村稔著「中国は社会主義で幸せになったのか」の副読本として並行して読んでいたものでようやく読み終わった。この本は1999年に書き上げられており、20世紀の終わりでの中国近代の総括がなされ、巻末で21世紀の中国の考えられるシナリオが簡単に述べられているところが面白い。
 中国にとっての最良のシナリオは「持続的な近代化建設、経済建設によって経済大国となり、共産党独裁体制が中国的特色を持つにせよ民主主義的な政治体制に移行し、台湾とは何らかの形での統一が実現し、大陸、香港、台湾が一つのグループとしてまとまり、国際社会での名誉ある地位を占めるようになる状態」で、「周辺諸国とも、欧米を含む国際社会でも協調的、友好的、平和的」である限り、我々も前向きに受け入れることが出来るもの。
 望ましくないシナリオとは「大国化した中国が脅威の存在になる」場合である。「富国が強兵を過度に促進し、かつ周辺諸国に隷属を要求するようになり、世界の派遣大国を目指して新国際秩序の樹立に挑戦しようとする」ならば、中国は国際社会での不安定要因になる。
 このような状況の出現には「富国強兵」の成功のほかに「軍部の発言力の増大、排外的なナショナリズムの台頭、国内政治経済社会的な不満の増大など対外強硬路線に向かう条件が必要である」としている。

 なんとここで予言されているのは現代の中国の行動そのものではないか。つまり上の条件がそろっていると云うことだ。

 続けて筆者は云う。「食糧不足、環境破壊、インフレ、失業、腐敗、汚職、治安の悪化などによって社会が無秩序化する」のが最悪のシナリオである。これにより、大量の難民の流出による国際社会の不安定化、国際経済の悪化を引き起こす。

 まだここまで至っていないが、中国の環境破壊とインフレ、腐敗、汚職はかなり深刻な事態である。そのために国内に不満が蓄積すれば、その内圧をそらすために外部に敵を作り、ナショナリズムを意図的に台頭させることになるわけで、今現に中国政府が尖閣や東シナ海、南沙諸島、南シナ海で行っているのはその現れに他ならないのだ。

 中国の近代史を知ることは中国の行動の意味を知ることにつながる。中国に親和的な本も敵対的な書き方の本も両方読むことで何となく本物の中国が見えてくる。この本は岩波書店で出した本にしてはどちらかと言えば真ん中か。

帰省

 六十歳を過ぎて帰省というのもどうかと思うが、連休中は私のところに子供達が帰省し、今度は私が老母のところへ帰省する。これから深夜の新東名を千葉県まで走る。途中休憩を入れても五時間で着く予定。しかしこの頃事故が多い。他の人の事故なら渋滞で耐えるだけだが、当事者にならないようにだけ注意しよう。仮眠したがちょっと物足りない。いつも眼をつぶれば寝られるのにこの頃昼寝をしているせいか眠りが浅いし入眠が遅くなった。

 では出発。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・義昌鎮

 十日五時半、新安を出発した。この日初めて馬に騎乗していく。関山一路、秋風が袂を払う。山上には所々に城塞を設けてある。平素は人がいないが、いったん乱離の際はここを拠点に警護するという。行くこと三十里、鉄門鎮を通過。すこぶる賑やかな街である。また二十里義昌鎮で休憩した。鎮の東門には、董公(とうこう)倡義処、西門には叩馬処と題してある。漢の高祖が漢中を出て関中を平らげ、東に項羽を討ってこの地に至ったとき、三老董公馬を叩いて、漢王に義帝のために唱えて喪を発させた。よって義昌鎮の名がある。この辺りおよそ五里十里ごとに巡警卞房(じゅんけいべんぼう・交番兼役所の出張所の建物という意味か)があり、里程を記し、また盤詰匪類護送行旅(ばんきつひるいごそうこうりょ)と題してあるが、ただ家屋のみでその中には誰もいない。三時四十五分澠池(めんち)県東関外会元店に到着した。この日の行程六十里。

2012年5月 9日 (水)

 今から30年以上も昔の話だ。その頃は北関東を仕事で走り回っていた。ある初夏の夕刻、仕事先から帰宅するために利根川の土手の上を走っていた。群馬県の館林の近くだった。空に黒い雲がわき出したと思ったら、突然辺りが暗くなり、ばりばりと雷鳴がした。北関東は雷の本場である。ライトをつけなければならないほど暗いなか、前方50メートルほど前をライトバンが走っている。そのテールランプを見つめながら走っているととつぜん天から光の柱が前の車に突き刺さったように見えた。車が瞬間真っ白な光に包まれた。
 目の前の車は停まっている。こちらも車を停めてみていた。ちょっと間を置いてから車は何事もなかったように走り出した。前の車の運転手は自分の車に雷が直撃をしたことに気がついたのだろうか。聞いていないので分からない。車の中は雷が落ちても大丈夫と云うのを目の当たりにした経験である。

 テレビで、車の中にいれば雷の直撃を受けても中の人は無事であることを実験して見せていた。電撃は車の回りの金属を伝って地面に流れるので人間に電気は流れないのだ。
 タイヤはゴムだから絶縁していると思うであろう。ゴムだけならそうだが、タイヤには多量のカーボンが含まれているので電気の良導体なのだ。車の中が安全なことは今ではたいていの人が知っているが、知らずに車から樹の下に逃げ込むようなことのないよう、知らなかった人は覚えておいて欲しい。

 ちなみに冬に車のドアに触れるとき静電気が走ることがある。これは車に電気が溜まっているのではない。自分自身に溜まっているのだ。その静電気が良導体の車を通して逃げるのである。座席に座っていて降りるときにも静電気が起きる。これは自分の服とシートとの間が摩擦されて起きた静電気が車の金属を通して逃げているのだ。だから降りるときにドアの金属部分に手を触れたまま降りると静電気が溜まらないので、ほとんど静電気の電撃を受けることはない。静電気に弱い人は試されたらどうか。

映画「いかさま博奕」1968年東映

 博奕打ちシリーズ第六作。監督・小沢茂弘、出演・鶴田浩二、若山富三郎、中村玉緒、遠藤辰雄(遠藤太津朗)、天津敏、八名信夫。
 悪役専門みたいな遠藤辰雄が珍しく鶴田浩二の弟分のような形で主人公側の役を軽妙に演じている。この人は遠藤太津朗の名でテレビにもよく出ていた。有名なところでは大川橋蔵の銭形平次の時の箕輪の万七親分だ。嫌みのないコミカルな役が出来るのに驚いた。このシリーズの1~3作に藤山寛美が出ていたが、何となく違和感があって物語としっくりせず、いただけなかったのとは対照的だ。
 この物語はいかさまがテーマだ。いかさまはばれなければいかさまではない。いかさまこそ度胸が最も必要で、もし暴露されれば場合により、命がない。主人公の常次郎・鶴田浩二と花魁の留・若山富三郎の虚々実々の駆け引きが普通の勝負よりさらに緊張感にあふれていて手に汗を握らせる。その命がけの駆け引きを無視して筋を外した親分・天津敏が、子分の八名信夫(若い)ともども常次郎の鉄槌を受けるのは当然なのだ。

中国ウオッチ・白菜

 山東省青州市は春白菜の主要産地で、全国に出荷されている。春は気温も上がるため、輸送中に白菜の鮮度を保つのが難しい。
 そこでここ数年広まったのが、ホルマリンを噴霧する方法だという。そうすると出荷の翌日になっても白菜は変色することがなく、みずみずしいままで販売できるのだ。しかしホルマリンは刺激性の毒物で、長期にわたって摂取すると白血病など、健康を害することが分かっている。ところがなんと中国にはこのような使い方に対して規制するような法律がないため、いまのところ使用しないよう呼びかけるだけで禁止できないのだという。

 日本では(たぶんたいていの国で)ホルマリンはPPM単位でも検出されてはいけない。食べ物に噴霧するなどと云うのはあり得ない話である。ただしホルマリンは揮発性が高いから時間が経てばほとんどなくなる。そもそもホルマリンは目にしみるしホルマリンのにおいがしたら食べる気にならない。また洗えば水に溶けるので流れてしまう。 
 日本では養殖ふぐなどの消毒にホルマリンで洗うという話を聞いたことがある。ふぐにつく寄生虫の駆除には最高の方法だそうだが今でもそんなことをしているのだろうか。

 心配なのはホルマリンを噴霧する作業をしている人かも知れない。何も知らずに吸い込んでいると毒ガスを吸っているようなものだから確実に命を縮めている。

 白菜の漬け物はおいしいが、白菜のホルマリン漬けというのはいくら鮮度が保たれていても願い下げだ。

深町秋生著「アウトクラッシュ」(幻冬舎文庫)

 副題 組織犯罪対策課 八神瑛子Ⅱ。帯にあるとおり、美と復讐の女神、八神瑛子の再登場である。
 メキシコ産の覚醒剤や麻薬が東京周辺にふんだんに出回り出す。メキシコ産であることが明らかになっていく。関東への進出をもくろむ神戸を拠点とした広域暴力団・華岡組が裏にいることが関東のやくざからリークされる。華岡組が極秘で動いていたのに何故情報がもたらされたのか。情報源があったのだ。メキシコマフィアからその情報源の人物を抹殺するために暗殺者が送り込まれてくる。
 事件は上野公園にこれ見よがしに置かれていた片腕と人間の舌の発見から始まる。八神瑛子の暴走を止めるために上野署のキャリア署長・富永は密かに尾行をつけさせるのだが・・・。

 事態は情報源を死守しようとする者達と暗殺者との戦争のような戦いへとエスカレートしていく。その中で八神瑛子は自ら渦中に飛び込んでいく。そして明らかになっていく情報源の人物の正体は・・・。

 ハイテンポで物語が展開するので一気に最後まで読ませる。理屈抜きでエンターテインメントとして楽しませてくれるので、疲れた頭には最高の娯楽である。夜読み出して翌朝寝不足になっても知らないよ。

中国ウオッチ・チューリップ十万株

 名古屋では結婚式や葬式で飾られた花を、近所の人が引き抜いて持って行くのが普通である。もちろん式が終わってからだけれど。でも知らないとびっくりする。

 中国大連市にある労働公園で花壇のチューリップ十万株が根こそぎ盗まれた。開花シーズンが一段落したので一般市民が用済みと考えて次々に持って行ったという。花壇はチューリップが掘り起こされた穴だらけになっているそうだ。満開から一週間経っていない。もちろん公園では球根を採って来年に備えるつもりであったが、「間に合わなかった」。
この公園では牡丹、コウシンバラ、サクラ、白木蓮なども次々に盗まれているという。名古屋は切り花を持ち帰るだけだが、大連には負ける。

 名古屋は南京と姉妹都市だが河村市長の南京事件についてのコメントでぎくしゃくしている。今度は大連と姉妹都市にでもなろうか。もちろん名古屋は妹だ。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・新函谷

 午後は秋の日差しが強くて燃えるようであり、加えるに馬の蹴立てる砂塵が耳目をおそう。峠を3つほど越えて、午後四時西方の丘陵に大きな城郭を望む。新安県である。澗水(かんすい)を渡ると路の左に半ば折れた石碑があり谷関の二文字のみ残っている。道に城楼があり、東面には紫気東来、西面には漢函谷関と題してある。これが漢の武帝元鼎(げんてい)三年楼船将軍楊僕(ようぼく)の要請によって東遷した新函谷であって、秦の時代の旧函谷は西の方、霊宝県に在る。この地は両側から山が迫り、前に澗水があって形勝(地勢に優れている場所)の地である。さらに二里行き東関に入る。旌表節孝坊(せいひょうせつこうぼう)、邑侯彰徳(ゆうこうしょうとく)碑が路の左右に相望んでいる。秦の武安君白起が趙の降卒数十万を生き埋めにしたのはこの付近の地と云うが、実際にそんなところがあるようでもない。そのまま衙門に寄り、車馬を託して西関外の王盛店に宿を取る。時に五時半、行程七十里。 

2012年5月 8日 (火)

由紀さおりのライブ

 BS-TBSで由紀さおりのライブを放送していた。100人の観客相手のライブと云うことで、見ているこちらもその場にいるような臨場感であった。至福の50分間(CMいり)であった。
 最初が西田佐知子の歌、一曲おいていしだあゆみの「ブルーライトヨコハマ」どれも好きな歌ばかりである。サックスを主体のジャズ調だが、いじりすぎていないから聞きやすい。すぐ後ろで弾くバイオリンの女性がとても美人。いつも由紀さおりの絵に映る。次に歌ったのが美空ひばりの「哀愁波止場」、これは美空ひばりが勧めた曲だそうだ。絶品である。こんな良い歌だとは知らなかった。つづいて同じ美空ひばりの「りんご追分」、パーカッションション主体にフルートという斬新な伴奏で、ほとんどアカペラのようである。
 ここでやっと自分の持ち歌を歌う。私も大好きな「生きがい」。別れた後でも相手を気遣い、自分の生きがいだという、この歌を歌う由紀さおりがとても良い。私の人生を思い返させた。この歌を歌っているときのような連れ合いなら一生添えるのに。
 その後吉田美奈子さんという人の作詞作曲した、「星の海」という歌を絶唱した。この歌は今回の東日本大震災の鎮魂の曲だそうだが、直接的な言葉を全く使わずに、宇宙と魂と云う言葉に深い思いが込められていて胸が熱くなった。今まで聞いた鎮魂の曲では最も心に響くものだった。ラストはもちろん「夜明けのスキャット」。出だしは美人のバイオリンのお姉さんが弦で弾くのではなく、指ではじいて音を出す。しゃれていてとても良かった。

 由紀さおりがアメリカで絶賛されたのはフロックなどでは決してないことがよく分かった。文句なくすばらしい。繰り返すが至福の時間であった。録画しなかったことを悔やむ。

中国ウオッチ・点滴

 これはすでに、もなさんがブログ(アラフィフの海外で節約生活)で紹介していたので二番煎じだが、見ていない人もあると思うのであえて紹介する。
 
 中国湖北省の高校では大学統一入試試験(高考)を控え、生徒達がアミノ酸の点滴を受けながら補習授業に取り組んでいる。教室の天井からはいくつもの点滴の瓶がぶら下がっている写真も紹介されている。
 同校によると中国の大学受験生には一人年に10元のアミノ酸補助金が支給されるという。体調不良の場合、生徒は医務室で点滴を受けることが出来る。この学校では時間短縮のために教室に点滴装置を設置したのだそうだ。

 中国の受験競争は日本どころではなく過酷であり、勉強量もすさまじい。でも、もなさんも書いているようにアミノ酸を摂りたかったら肉を食べる方がずっと手っ取り早いそうだ。気持ちの問題か。ご苦労様。

中国ウオッチ・物乞い老女

 中国のあるマスコミが、南京市で物乞いをする老女に食べ物を差し出し、おしゃべりをする米国人青年の姿を報じたところインターネット上で話題になっているそうだ。「尊敬する」「感動的」などの賛辞が集中しているという。
 この青年・ルースさんによると老女は80代で安徽省出身。面倒を見てくれる人がいないので最近南京に出てきて物乞いをすることになったという。ルースさんは「中国の物乞いは多くが貧乏なふりをしているだけで助ける必要はないと人に言われた」が彼女がそうでないことを願っているそうだ。

 十中八九が彼女は商売で物乞いをしていると思う。物乞いに都合の良い場所はほとんどその筋によって仕切られている。人通りのあるそのような場所でフリーの物乞いが勝手に出来るはずがない。
 彼らは決まった時間に決まった場所で物乞いをし、その収入を上納して生活しているのだ。中国人なら誰でも知っていることで、この話はやらせ以外の何物でもない・・・と思う。

 だいたい中国に乞食がいること自体おかしいではないか。

 そういう人には危険なので普通は近づかないのにルースさんは何も知らないから近づいてしまったのかも知れない。その無謀な勇気に「感動」したり「尊敬」したりしたのだろう。

ウォシュレット

 先ほどトイレの工事が無事終了した。これでウォシュレットになった。利き腕の左が痛いので手が届きにくく、歯を食いしばりながら拭いていたのでやっと楽になる。 

 タオル掛けやトイレの掃除用具、ペーパーホールダーも全部新しくした。マットはまだ新しくしたばかりなので我慢する。気持ちが良い。

 手違いでトイレのドアと娘の部屋のドアを新しくするはずが建具屋のよんどころない事情で一週間後になった。

 今日は個人的な記念日だからささやかに祝うことにする。明日からまた一週間、父の一周忌をかねて親元へ行く。

 いろいろな用事も出費もほぼ一段落するので今月後半にでも遠出を考慮中。中国地方の温泉でもわたりあるこうか。

 その前に一度大阪へ行って旧友と一杯やるのも良い。U島君、F谷君、来週にでも連絡するので都合がつけばつきあってください。

 

中国ウオッチ・不正受給

 四川大地震から四年になる。多額の寄付が集まり国の援助も行われてきた。久居住民もほぼ通常生活に戻っている。
 香港の新聞がこの再建のための費用を不正受給した地区のことを報じていた。
 
 射洪県は地震後の調査結果では「12万9284棟」が倒壊したとして「重度被災地」と認定され、これまでに1億元の受給を受けていた。ところが住民によれば被害は壁のひび割れ程度で、倒壊した家屋は県内合わせても数棟だったという。震災後に役人が各戸を廻り、署名すれば金がもらえる、と云って白紙の書類に署名するよう求めた。その結果、中央政府の基準では住宅再建費用として一戸あたり日本円で約20~30万円の補助金が支払われることになった。ところが住民が受け取ったのはその数分の一で、全く受け取っていないものも多い。
 
 住民はこの不正について過去3年間に市政府や省政府に20回も陳情に赴いたがそのたびに鎮圧されたという。補助金の大半は地元の当局者が着服したとみられる。陳情に対して鎮圧したという部署の役人もたぶんおこぼれに預かっていたのだろう。

 人の懐に金が入って自分には何の恩恵もなければ必ず人は告発する。

中国ウオッチ・一時の衝動

 河北省邯鄲市内の公園で飼育していた白鳥をおそったとして男二人が処罰された。この白鳥は江蘇省で飼育されていたものをオス、メスそれぞれ24羽、3月に購入してこの公園で飼育を始めたものだった。
 地方から出てきた男四人が酒を飲んだ後、そのうちの二人が白鳥に目をつけ、力任せに金網を破り「一時の衝動」に駆られてそのうちの一羽を捕まえた。騒ぎに気づいた公園職員が駆けつけたため、四人は逃げ出したが、通報を受けた警察により、四人の身元が判明、飼育場所に侵入した二人が処罰されたという。

「一時的な衝動」とは何か。「鶏姦」という言葉があるが、まさかそんな衝動ではないであろうが・・・。わざわざ「衝動」などという言葉を使うのはそういうことであろうか。知らない人は調べなくてよろしい。

中国ウオッチ・関越のバス事故

 4月29日の関越バス事故は中国のメディアでも報じられた。中国では幼稚園バスなどのバス事故の続発の後、バス事故(とても多い)についての報道がつづいていたところであったから、日本でも大きなバス事故が有ったことが取り上げられたのだろう。
 この記事の中で事故を起こした運転手が「自分は中国出身で1994年に日本国籍を取得した」人物であることを初めて知った。変わった名前だとは思っていた。だから個人で中国ツアーを請け負ったり出来たのだ。そして4台もバスを所有してバス会社に名義貸しをしたりして事業を膨らませていたのだ。日本の運転手ではせいぜい個人タクシーを始めるくらいだが、中国の人は意欲が旺盛なのだ。ただがんばりすぎて事故を起こして元も子もなくなってしまった。

ユーロ不安

 ようやく円に対してのユーロ安が治まったと思っていたら、フランス大統領とギリシャの選挙結果からまた一気にユーロ安に戻ってしまった。以前ならぼんやりと見過ごすところだが、息子が勤める自動車会社があまりに円安だと赤字で存亡を問われかねないので今は人ごとではなく心配である。
 「西洋の没落」(シュペングラー)と云われて久しいが、ヨーロッパもユーロ圏構想で再起をかけて来たが今度の大波を乗り越えることが出来るだろうか。
 ところで経済体質の良いドイツやフランスが何故、ギリシャやポルトガル、スペインやイタリアを支えるのだろうと疑問に思っていた。ユーロなんてやめた、と言い出すのではないかと思っていた。現にドイツ国民が、自分の国の税金をギリシャみたいな怠け者のために使うな、とデモをしているのも見た。

 今ドイツはものすごく景気が良くて笑いが止まらない状況らしい。特に輸出の伸びがすごい。これは何よりもユーロ安であることの恩恵なのだ。もし今、日本が1ドル80円でなく、1ドル150円だったら日本も輸出が大幅に伸びて製造業は盛り返し、景気が良くなるだろう。
 ドイツはマルクのままであれば、実力通りマルク高になって調整されるが、ユーロだから実質上は超マルク安で商売をしているのと一緒である。価格競争が楽である。中国の元安誘導どころではない。
 ユーロが破綻さえしなければドイツとフランスは自国は安泰なのだ。それを見越して他の国もぶら下がっているのだろう。
 破綻さえしなければね。でももう少しユーロ高になるようにみんながんばってください。日本のためにも。つまり息子の会社のために。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・洛陽を発す

 九月九日午前六時半、洛陽を出発した。朝食は途上饅頭を購入して食べようと思っていたが、たまたま蒸したての薩摩芋があるのを見てこれを買い、洛陽鼓楼大街を車上悠然として食いながら行く。八時二十分澗水(かんすい)を渡る。橋があり七里橋という。路の両側にすり鉢に水を入れ幾重となく並べてあり、これは牲口(せいこう)すなわち道を行く牛馬の飲料とするものである。谷水鎮(こくすいちん)を経て十二時磁澗鎮(じかんちん)に至り昼食を摂る。この辺り一帯に穴居するものが多い。途上二名の西洋人に逢う。これはこの地方にいる宣教師である。衙門から護衛としてつけてくれた錬勇が、数日前の西洋人の殺人事件について語って云うには、数日前一人の西洋人が一言も中国語が分からないのに何故かその従者を撲殺してしまい、新たに従者を雇おうとして一日一弗を払う、と云ったが誰も従うものなどなくついに単身西へ向かったと。人名は天から授かったものである。彼らが人を人と思わず、乱暴極まりないのは憎むべしである。中国人が洋鬼(やんくい)と称して嫌悪するのももっともである。この地方一帯は今年旱魃がひどく、農作の害がはなはだしい。途中数名の農夫が集まって水のことで話し合っているのを見た。往々畑の中に泉を穿ち、灌漑の用に供している。磁澗鎮より地勢が一変して道は丘陵起伏の間を過ぎ、砂石が累々として車の動揺が激しい。途上出逢う荷馬車は、やや小型で全部鋳鉄の車輪を用いている。この辺りの悪路であることを推して知るべきであろう。

2012年5月 7日 (月)

ツバメを見た

 今日ツバメを見た。たぶんずっと前から飛んでいたのかも知れないが、私は今年初めて見た、と云うより気がついた?かな。

 この十日間くらいで2時間以上外に出たのは一日だけという、ちょっと異常な生活が続いていたのにも気がついた。やり続けているフィルムスキャンがやっと半分済んだだろうか。もうちょっとしたら中断しよう。体と心に余り良くないみたいだ。明日からいろいろ用事がつづくので今度は出かけてばかりになる。

 今日ちょっと出かけただけで気分が晴れやかになった。動かずにいるとたちまち太る。まもなく定期検診だ。ちょっと手遅れだが、明日から少し身体を動かそう。今日ちょっと階段を上り下りしただけで膝が痛かった。かなりやばい。

葉室麟著「銀漢の賦」(文春文庫)

 今回文庫で読んだが、単行本は2007年に出版されている。
 感度のいい人ならこの題名だけで手に取りたくなるような良い題名である。銀漢というのは天の川のことである。賦は詩であり、歌である。

 命がけ、というのはある一瞬に命を投げ出してことを行う場合にも使う言葉だが、生涯をある志のために捧げることも命がけと云っていいしそちらの方がより重いような気がする。人の一生がかけがえがなく尊く美しく輝くのは命がけで生きてこそだろう。任侠映画に美学を感じるのはそのような気持ちからだ。

 この小説では子供の時に友であった三人が、それぞれ純粋な想いを持ちながら生まれの違いから全く異なった生き方を貫いていく。

 物語の最後の方に、「銀漢」は天の川のことであるが、白髪交じりになっても漢(おとこ)である我らのことでもあるか、と主人公たちが語るところで「その通り」とこちらから声をかけたくなるような気持ちになる。

 この小説が過去に遡りながら五十過ぎの現在を語ると云う体裁なのであらすじを語るのは控える。クライマックスは多人数を相手に決死で戦うかなり激しいものである。だからエンディングの静かな夜の場面がご褒美のように美しくてうっとりする。

 葉室麟は藤沢周平に匹敵する作家かも知れない。

中国ウオッチ・パジャマ登校デー

 南京外国語学校がパジャマ登校デーを実施した、と云う記事があった。参加は任意だったと云うが、200人近い生徒が参加した。先生もパジャマ姿だったそうだ。学校がパジャマ登校デーを企画したのは、毎日制服では息が詰まるだろうとの配慮だという。また参加者は5元の寄付をすることになっており、チャリティーについて考える機会にもなるという。

 他の国ではパジャマで登校する、と云う企画をしても参加者は余り期待できないのではないだろうか。中国ではパジャマ姿で外を歩くことに余り抵抗感がないようで、今はさすがに見ないが、数年前までは上海の結構人通りの多いところや、西安の街の真ん中でパジャマ姿で歩く人をしばしば見かけた。日本でも病院の周辺でたまに見かけることはあるが普通は人前をパジャマで歩くことはない。西洋でもそうだろう。ホテルなどでも廊下をパジャマで歩くと顰蹙を買う。

 パジャマは内着である。内と外という概念がある。日本の内と外の境は玄関である。西洋の場合は部屋のドアが内と外の境のようだ。だからホテルのドアの外である廊下は往来と同じだという見方だろう。どこが境界であるかはそれぞれの文化による。アジアは全般に西洋ほど境界が厳密ではない。
 中国の場合その境界が極めて曖昧なようだ。往来の人通りに洗濯物が干されていたり、往来に出て家族で食事をしたりするのは普通である。だからパジャマで外を歩くことに抵抗がないのかも知れない。

 少し考えてみたが、洗濯物を人通りに干すのはそこしか場所がないのであり、家の外で食事をするのは家の中が暗くて暑いからなのかも知れない。そういうものに出会う場所は集合住宅の密集地が多い。そもそもが内や外にこだわっては生きていけない環境のなせる結果だったのかも知れない。民族性で見るよりも貧しさの観点から見るべきか。

 しかしパジャマ登校デーを企画する学校というのはやはり他の国では考えにくいのではないか。ニュースになるくらいだから中国でも珍しい話ではあろうけれども。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・大西関

 天津橋のやや下流を渡って大西関に行く。周公廟がある。戟門を入れば、正殿には周公の像があり、右に金人、左に攲器(きき・攲は箸でものを持つの意とあるがここでは祭器のことか)があり、金人銘及び観攲器文と刻した額を掲げてある。後殿に乾隆年間張松孫書の無逸篇周公、召公、畢公の像、周公成王を相(たす)けて践祚(せんそ・皇位を受け継ぐこと)する図などがある。周公廟の東には范文正公、両程夫子、邵夫子、朱文公の四祠が軒を並べている。いずれも皆同じ形の小さな建物で、いずれも祠内に塑像を安置している。両程夫子前には康煕丙寅に建てた、
  重脩范文正公二程夫子邵康節先生朱文公四祠及安楽窩(か)記
とあり、祠堂の由来などをしたためている。祠庭はあるいは耕されて畑となり、あるいは草茫々としている。はなはだしいのは祠堂内に藁を貯え、その傍らは屎溺(しでき・糞尿)が悪臭芬々としている。二程子及び朱子はもちろん、范文正公の正大と邵康節の風流と、皆千載(せんさい・千年)の間欽仰(仰ぎ尊ぶ)に足りる。時にあるいはその道を尊びその人を懐うものがあってその祠を修理するけれども、無学無知の徒、神霊を犯し霊域を汚すことかくの如し。真に度しがたきものと云わねばならない。碑記によれば、祠堂相望むことはすでに朱子の時からである。邵子が逸居(いつきょ・気ままに暮らす)した安楽窩(あんらくか)は、洛水天津橋南にあったのを、康煕年間に重脩を加えたという。今もそのままあるのかどうか、ついに尋ねることが出来なかった。

2012年5月 6日 (日)

中国ウオッチ・地下鉄での居眠り

 中国のブログで「日本の地下鉄で居眠りしている人がいる」ことについての意見がいろいろ寄せられていた。海外では公共の乗り物の中で居眠りする日本人が奇異に見えるようでしばしば話題になる。
 「日本人は疲れすぎているのではないか」という意見が多かったようだが「民度が高いから安心して眠れる」という肯定的な意見もあった。中国ではとても危険で寝ていられないし、混雑がひどいので寝るのは無理だ、と云う意見が多かったようだ。

 日本が安心で安全なのは間違いがない。それが当たり前である社会がどれほどありがたいことか、中国の人もうすうす気がついているようだ。
 ところでその安心安全に慣れて日本人に緊張感がなくなっていることも事実だろう。そして云われているように疲れすぎているのもその通りかも知れない。何に疲れているのだろうか。確かにリストラの繰り返しのあげく、一人当たりの仕事量が増加しているのかも知れない。
 だが日本人の体力気力が低下しているような気もする。居眠りは大人も子供もひ弱になったことの顕れかも知れない。日本という国がすでに老齢化してしまったのだろうか。私もよく居眠りする。

中国ウオッチ・ネット依存症

 生活にパソコンやiPad、携帯が大きく食い込んで、なくてはならない時代になっている。それを通してインターネットにつなげている人がほとんどだ。アクセス料金の主流がつなぎ放題になってから特に目的もないのにつなぎっぱなしにしている人も多い。
 これは中国でも同様で、中国メディアでネット依存症について伝えていた。ネット依存症の初期症状は一日二日ネットをつながずにいると不安感に襲われる、というものだという。また分からないことは全てネットの検索で調べるという習慣が、自ら考えることを少なくしていることが問題だという。このネット依存症が進むと、家に引きこもり、現実社会との交流の機会をなくしてしまい、ついには精神に異常を来してしまうと警告している。

 ネットが現実の生活の重圧からの逃避先となれば、確かに依存症と呼ばれるようなものになるだろう。しかしネットがなければそういう人たちは別の逃避先に逃げ込み、同じように何らかの病的状況にはまり込むだろう。 
 マスコミは何らかの社会的現象があるとその問題点を取り上げて新しく発生した病理のように書き立てるが、人間が変わったわけではない。統計によれば精神疾患の人口当たりの数は大きく変わっていないのだ。ただ軽症でも医者にかかる人は増えている。そのために重症の患者は明らかに減っているのだ。
 社会は常に変動している。その変化について行けない人がしばしば精神の変調を来すことになる。これも社会的な弱者であるから救済が必要だろうが、ネット依存症などと云って新しい病名を作るのはどうか。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・天津橋

 帰り道に再び洛水を渡って天津橋を見る。橋は洛陽西関の真南にあり、石畳で出来ていて半月形をしている。その半ばはすでに崩れてしかもこれが修理されていない。洛水はその南を流れ、橋下は砂州である。唐の時代の詩人が艶称したところで、錦繍を纏った金持ちの子が、影を陽春の水に映して以来一千年、今は農夫も旅人も通るものとてない。邵康節(しょうこうせつ)がこの橋の上に立って杜鵑(とけん・ほととぎす)の声を聞き、地の気が南へ移ったのを予言したところもすでに古蹟となり、人世幾変遷転(うたた)滄桑(そうそう・既述、大海原が桑畑に変わること、世の移り変わりが激しいことのたとえ)の感なきを得ず。

2012年5月 5日 (土)

中国ウオッチ・タダ見

 抜け道から劇場や野球場などに潜り込んでタダで映画や試合を見るのをタダ見と云って、子供の頃はそんなことの可能な場所がしばしばあった。子供たちにとって入場料が高くて出入りできないがそれでも見たくてたまらない場合の必死の行動でもあった。

 中国の観光地の入場料が海外よりも高い、と云うのが中国国内で話題になっている。確かにどの観光地も行く度に値上がりしていてびっくりする。中国の観光地を訪れる観光客は2000年以前はほとんどが外国人だった。ところがこの10年、中国人の観光客が激増して、有名なところは8割から9割が中国人の観光客ではないだろうか。日本人の観光客は減っているようだが外国人の観光客全体はそれほど減っていないと云うから、観光客の絶対数もずいぶん増えている。
 中国人観光客は声が大きい(やかましい)から実際以上に多くなったようにも感じる。中国人は本当に豊かになったと感じるところだが、それでもここまで入場料が値上がりするとその中国人にもずいぶん負担が大きいようだ。

 そうなるとそれを何とかしようと考えるのが中国人である。何せ中国の観光地は広大である。特に五嶽の一つ、泰山では、ネットで入場料を払わずに入山出来るルートが公開されるなどしたため、不正に入山するものが後を絶たないという。泰山は険しい山であり、細い階段を延々と登る山であるが、不正なルートはちゃんとした路がないから崖をよじ登り、崖を飛び越えないとならないなど危険窮まりないという。

 いくら入場料が高いからと云って命がけでそんな登り方までするのもどうかと思うが、払わなければいけないものを払わずにタダ見をすること、それこそが彼らにとっての何よりの快感なのかも知れない。

 中国の観光地のあちこちで同様の不正な入場者が増えているのだそうである。

映画「博奕打ち 殴り込み」1968年東映

 博奕打ちシリーズの第五作。監督・小沢茂弘、出演・鶴田浩二、加東大介、松尾嘉代、玉川一郎、名和宏、待田京介、山本麟一ほか。今回若山富三郎が出ていない。
 侠客・小嵐幸次郞・鶴田浩二は客分として滞在した矢野組の義理で同じように客分として滞在していたオオカミの吉・加東大介と共に相手の組に殴り込みをかける。首尾良く相手の親分を倒すが、オオカミの吉は重傷を負い、医者に預けて幸次郞だけが自首して罪をかぶる。
 服役して五年、出所してきた幸次郞を矢野組が出迎える。矢野の代貸しが幸次郞を連れて行ったのは関東共友会の集まりであった。共友会の金井会長が幸次郞の身柄を預かろうと云うが、幸次郞は吉を見つけるまで待ってくれ、と断る。幸次郞は吉を探そうというのだ。
 ある地方都市で刑務所で知り合った若者・玉川一郎を尋ねた幸次郞は、その若者の所属する木戸源一家にわらじを脱ぐことになる。その木戸源一家に吉は名前を隠して客分として滞在していた。幸次郞と共に殴り込みをかけたときの傷で頭を負傷し、視力が損なわれた吉は殴り込みで名をあげた幸次郞とは裏腹に落ちぶれていた。その吉は昔捨てた女の産んだ自分の忘れ形見である娘・玉が遊郭に売られているのを請け出そうとしてこの街にいたのだ。
 その街に土建屋の看板を上げながらやくざまがいの石田組が台頭して木戸源一家と事を構え、あわよくば縄張りを乗っ取ろうと蠢動していた。折しも石田組三兄弟の末弟・待田京介が満州から戻ってくる。血の気の多いこの男の暴走により、木戸源と石田の抗争はエスカレートし、ついに木戸源の代貸し・石山健二郎は刺されてしまう。幸い命を取り留めたが、この抗争を何とか収めようと幸次郞は面識のある共友会の金井会長に仲裁を依頼する。金井はその申し入れを引き受けるのだが。
 関東共友会による手打ちの儀式が行われる。手打ちの杯を交わした直後に金井会長から明かされた手打ちの条件は驚くべきものだった。石田は金井から杯をもらい、共友会の会員としての扱いとなっており、木戸源が長年に亘って築き上げたシマの半分を石田組に渡すという理不尽なものだったのだ。納得できない幸次郞は金井にくい下がるが、チンピラ扱いされて取り合ってもらえない。
 幸次郞の気持ちが分かっているオオカミの吉は単身金井達の宿に乗り込むが、そこには石田の末弟が待ち構えていた。返り討ちに遭った吉を娘の玉に親子の対面させた幸次郞は、吉の最期を看取って、金井達が逃げ込んだ石田組に殴り込みをかけるのであった。
 
 所詮やくざなどこんなもの、と云う非情な世界を描いている。確かに勧善懲悪のスタイルであるが、この無常観のある結末は、私の愛する渡哲也の関東幹部会シリーズの世界観に似ていた。この無常観が大好きだったから懐かしい。やくざはかっこよくてはいけないのだ。

中国ウオッチ・罰金の行方

 中国は人口抑制のために、1980年代からすでに約30年一人っ子政策を続けている。違反するともちろん罰金で制裁される。
 この罰金はかなり高額で、都市居住者の場合年平均可処分所得の2~3倍、農村の場合、平均年収の3~10倍であるが時により増減する。推計では中国全土で年に総額200億元(約2550億円)と見られる。この罰金は「社会扶養費」という名前で、建前とはいえ社会に還元されることになっている。ところがこの罰金の徴収が一元管理されておらずに各地方に任されており、その徴収された金がどこにどれだけあるのか答えられない地方自治体がほとんどで、かなりの額が徴収員の懐に入っていると見られる。

 先日も報告したが、一人っ子政策を完全に実施したら出生率は1.0を超えるはずがないのだが、中国の出生率は1.4~1.5(あり得ないので報道が間違いかも知れない)という数字であった。これならかなりの違反者がいるはずなので罰金の額は一兆元を超えてしまうのではないか。
 出生率が正しいのなら罰金の推計額がおかしいので、闇に消えた額はさらに巨大なものになる。たぶん見逃すための金が適当に動いてうやむやに処理されているというのが実際のところであろう。まことに中国は巨大な闇(巨大悩みと変換されてびっくりすると共に妙に感心した)である。

中国ウオッチ・氷河湖が消えている

 ヒマラヤのチベット側で氷河が縮小しており、溶け出した水で氷河湖が満水になりつつあり、決壊の危険があることがたびたび報道されている。その下にいくつかの村が散在しており、決壊すればひとたまりもなく村は壊滅する。
 このたび中国科学院と湖南科技大学が共同して行った調査結果が発表された。この30年間で、ヒマラヤ山岳地帯の氷河湖294箇所が消滅してしまった。ただし新しく出来た氷河湖が224箇所あるという。差し引きでは湖水面積は約59平方キロメートル拡大しているという。
 これは氷河が溶け出して水系が移動していることをうかがわせるものだ。決壊のおそれは間違いなく存在する。
 それ以上に中国の二大河川の黄河も長江も源流はチベットの氷河の水である。氷河そのものの減少、はここを自然の貯水場所としている中国としては深刻な事態であろう。

 どうも世界中で氷河が減少しているようだ。これは単純に温暖化だけで説明できる現象なのだろうか。どちらにしても限られた貴重な淡水資源が汚染されたり砂漠化が進んだりして損なわれている。遠くない将来、水が最も重要な資源として世界で争われていく可能性がありそうだ。その伝日本は豊かで清浄な水に恵まれている。水源地を中国などの外国人に買収されないよう、今から資源の確保維持を心がける必要がある。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・龍門

 龍門に出かけることにして宿を出て二里ばかりで洛水を渡る。渡し船があるけれども私たちが乗ってきた馬車はその下流をそのまま徒渉した。東南に嵩山が聳えているのを仰ぎ見、顧みれば洛城の北方、邙山の上はるかに太行が雲の中に見える。洛水の東から来て城南を洗い、東北は洛口に至って河(黄河)に合流する。これより馬車を駆ること二十余里、、龍門に到着した。龍門はまた伊闕(いけつ)という。嵩山の脈を引いて、東に当たり、陵夷(りょうい・岡がだんだん平らになる)して洛城の南に至り、龍門に至って中断しているがその当たりから伊水が流れ出している。両岸の巉崖(ざんがい・崖のこと)はあたかも闕(けつ・門)のようである。よって伊闕と云う。両岸の崖には無数の洞穴を穿ち、各々その中に大小の仏像を刻してある。その製作は北魏の頃から始まり、隋・唐に至って完成したという。数は左岸に多く、そして有名な賓陽洞の盧舎那仏も左岸にある。もとは龍門八寺と称してここには八寺あったが、今は左岸に潜渓寺があり、右岸に香山寺があるのみである。高山寺は唐の白楽天が隠棲した地であることを以てその名が天下に知られている。
 潜渓寺で大仏を見る。その数は全部で四つある。第一のものは最も古いようで、出来も最も良いようだ。洞口には光緒帝の御筆・覚岸慈航の扁額を掲げている。大仏はその高さがおよそ三丈余り、慈悲円満の相好を具えている。傍らには阿難迦葉(あなんかしょう)及び四菩薩が侍立する。去年帝国大学の塚本博士は久しくここに滞在して、もっぱら龍門の仏像を研究された。寺は直に伊水の清流に臨み、域内に霊泉が湧出して極めて幽静の景勝地である。伊水は水は清いけれどその川幅は隅田川よりやや狭い。百聞は一見に如かず、名にし負う伊闕の景勝も、仏像の彫刻を除けば我が祖国にもいくらでもあるものと言っても過言ではないと思う。

2012年5月 4日 (金)

恥をかいた日本人

 アメリカ・ニュージャージー州パラセイズ・パーク市の公立図書館には、韓人有権者センターが市当局の協力の下に旧日本軍従軍慰安婦の碑が立てられている。これを撤去するように日本政府から働きかけがあり、同市の市長が拒否したというニュースが韓国で盛んに報じられているようだ。
 韓国メディアによると、それまで一度もコンタクトのなかった(それはそれまで用事がなければ一度もコンタクトはないであろう)日本のニューヨーク総領事館から「訪問要請」があり、慰安婦の碑は「日米両国の関係強化プログラムに重大な支障となる」ので撤去を求めたという。その代わり、撤去したら市の推進する事業に巨額の投資(!)をすることはもちろん、桜並木の造成のために桜の木のサポートや図書館の蔵書の寄贈、日米青少年交換プログラムを新設するなどの提案をしたという。それに対して、同市の市長は「慰安婦の碑は戦争と人権侵害が繰り返されないようにするための教育に必要である」とこれを拒否し、記者会見を行ってこの事実を明らかにしたと韓国メディアは伝えている。
 韓国メディアは「お金をやるから追悼碑を撤去しろ」と云って断られ、恥をかいた日本外交、と大々的に取り上げて盛り上がっているようだ。

 これが事実であればこんな恥ずかしいことはない。事実は歪曲されていると推察はされるが、事実無根でこんな騒ぎにはなるまい。このような拙劣な外交を行おうと本当に外務省がしたなら韓国で言うとおり恥知らずだ。これは日本政府公認の行動なのだろうか。どちらにせよ世界に恥をさらし、日本の名をおとしめた政府の責任は免れない。

 従軍慰安婦問題についてはアメリカでも意見がいろいろあるが、どちらかと言えば韓国に組みする意見の声が大きいと云わざるを得ない。特にこのパラセイズ・パーク市は、韓国人がかなり多い都市らしい。だからこそこのような碑が立てられたのだろう。そのようなところへ火に油を注ぐような、金で撤去を申し入れるようなことをすれば相手の思うつぼだと云うことも分からない馬鹿が外務省にいると言うことなのだろうか。これでは韓国だけでなくアメリカ人もこぞって従軍慰安婦問題は日本に非ありと認識することになってしまうではないか。
 少なくとも撤去を申し入れるのであればアメリカ政府からの申し入れでなければならないだろう。責任者を公表し、断罪して政府の指示ではないと即刻言い訳だけでもすべきではないか。あまりに愚劣な行動に腹が立つ。

親子三人

 今朝息子が広島に帰った。ドン姫は仕事で夜遅く帰ったので息子を見送った後、また寝ている。こうして親子三人がそろうことがこの先何回あることだろう。いつも一緒だったのが、今は年に数回だ。15年先まで考えても100回を超えることは決してない。たまにそろっても何ほどの話をするわけでもなく(私が大半しゃべっているか)また別れ別れになっていく。これで良いのだと思いながら、たまに子供達の幼かったときの写真などを見たりする。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・錬勇

 宿に帰ると高等小学堂教習四名が、袂を連ねて来訪した。しばらくして千祥庵主貞琳もやってきた。衙門及び教習で聞いても分からなかった唐の則天武后創建の福千寺は、貞琳に尋ねて始めて城東三里の唐寺門というところにあるのを知った。彼は存古閣で桑原君が購入した石碑の代金を取りに来たのである。これより先、私たちを案内した錬勇は代金一千五百文と云い自分に代金を渡してもらいたいというのを、ボーイが試しに貞琳に尋ねると彼は錬勇から六百五十文を受け取る約束だと云う。すなわち錬勇は一千五百を得て半分以上は自分の腹を肥やそうとしたのであった。貞琳は正直に話してくれたので錬勇の計画は画餅に帰することとなった。錬勇と貞琳とのその後の交渉が聞き物である。中国人気質はこの一端にも表れて面白い。概して清の時代以降の河南の人間の気質は外国人を欺くことがはなはだしく、北京に比べても一層ずるがしこい。

2012年5月 3日 (木)

アニメ映画「秒速5センチメートル」

 2007年製作の日本のアニメ映画。同年のアジアパシフィック映画祭で受賞している。
 監督・新海誠、(声)・水橋研二、近藤好美、尾上綾華、花村怜美。
物語は第一話から第三話までのオムニバス形式である。第一話は主人公の遠野貴樹が中学生の時代、「桜花抄」。桜の花びらが落下する速度が秒速5センチメートルであることが知らされる。小学校の時から互いに相手を意識していた遠野貴樹と篠原明里だったが、篠原明里は転校して離ればなれになってしまう。貴樹はその明里の住む栃木県へ訪ねていくのだが折悪しく大雪のために電車は遅れに遅れ、ついに深夜になってしまう。雪景色の美しさ、幼い二人の純粋な気持ちが痛いほど伝わってくる。美しい映像に感動する。雪の中の空気の冷たさが肌に感じられる。
 第二話は、その後貴樹も鹿児島の種子島に転校した後の高校時代である「コスモナウト」。不思議なクールさをたたえた貴樹は島の高校の中で超然と生きているが、その貴樹に心ときめかす少女・澄田花苗は自分の気持ちを貴樹に伝えようとしながら告白が出来ずにいた。その花苗に貴樹は優しい。その優しさに愛がないことに気がついているのだが、花苗はひたすら貴樹を思う。二人が見上げる空のロケットの航跡が美しい。
 第三話ではすでに貴樹は東京の大学を卒業し就職して東京にいる。これが表題の「秒速5センチメートル」。三年間つきあった女性からは「1000回メールしても心は一センチメートルも近づかなかった」と云われる。貴樹の気持ちはそこになかったのだ。そして明里はその頃貴樹に最後の手紙をしたためていた。山崎まさよしの歌が映像と輻輳して胸をふるわせる。
 美しい映像の中に人の心の移ろいを切なく描いて強く心に残る作品になっている。
 この映画はドン姫のおすすめの映画だったが、確かに良い映画だった。63分の映画の長さがちょうど良い。

映画「博奕打ち 総長賭博」1968年東映映画

 監督・山下耕作、出演・鶴田浩二、若山富三郎、名和宏、藤純子、金子信雄ほか。博奕打ちシリーズの第四作で、シリーズ中最高傑作と云われる。この作品を三島由紀夫が絶賛したことは有名。
 天竜一家の総長が病で倒れ、跡目問題が起こる。おおかたが押した中井信次郎・鶴田浩二は自分が生え抜きでないことから固辞し、組のために服役中の松田・若山富三郎を推薦する。しかし総長の兄弟分の仙波・金子信雄の横やりで三番手の石戸・名和宏への相続が強行される。まもなく松田が出所してくるが、自分の弟分が二代目を継ぐことが許せない松田はことあるごとに石戸に刃向かう。中井の必死の取りなしでことは何とか治まっているが、裏で暗躍する勢力のために松田の暴走がエスカレートしていき、中井の立場まであやうくなっていく。襲名披露と大花会が行われる伊豆修善寺についに血の雨が降る。
 中井がことを修めようとして身体を張っているのに少しずつ事態がこじれていく様が絶妙で、ついに中井自身が渡世の義理から松田を殺さなければならなくなる。松田の妻は中井の妹・つや子である。殺された松田に取りすがるつや子は中井に「人殺し」と罵声を浴びせる。
 最期に全ての黒幕であった仙波を追い詰めた中井に対し、仙波は「オジキ(総長の弟分なので中井から見ると仙波はオジキに当たる)を殺すのは渡世の掟を破ることになるぞ」と叫ぶが、中井は「俺はもう渡世人ではない、ただの人殺しだ」と答えてドスを突き刺す。
 一緒に見ていた息子は任侠映画を見たのは初めてである。感想は「面白かった」であった。ただの勧善懲悪ではない。人間の気持ちの食い違いを重ねていく物語が観客のテンションを高めていく、傑作である。

中国ウオッチ・宇宙船に泊まる

 陝西省の西安で開業した宿泊施設「宇宙の船室」が人気だという。省スペースのカプセルホテルなのだが、宇宙のイメージを取り入れたことで申し込みが殺到し満室がつづいている。

 「船室」内にはテレビ、鏡、ブロードバンド設備が備えられており、9区画に仕分けされていてそれぞれに星座の名前がつけられている。
 ちなみに「獅子座」の区画はいびきをかく人専用だそうだ。
 私はまちがいなくその区画に行くことになる。どこでも寝られるけど。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・東関外②

 その時中学堂から張玉琳と云う日本式の名刺を持ってやってきて迎えてくれた人がいる。この地の人で(日本に)留学生の一人ではないかと思い、聞いてみると果たしてそうであった。彼は経緯学堂にいて、我が国半とは留学し、一昨年帰京したものでわずかに二、三の日本語を解する。しばらくして飯の準備を命じ、歓迎が普通ではないので不思議に思っていると、やがて理化器械があるので試しに見てみて欲しいという。行ってみると彼は日本教育品社製の発電機を取り出し、これを組み立ててくれと云う。なんと彼はこの発電機を購入したがその組み立て方をわきまえず、もてあましていたようで、私たちが来たのを幸い教えを請うたのである。桑原君も私も共に十数年前、中学時代に理科を学んで以来ほとんど見たことがない物理器械であるから、大変困惑して、私たちは文学を修め理学には通じていない、この器械についてはいかんともしがたいといったのだけれど、彼は私の云うことなど聞かず、組み立てる材料をあれこれと取り出してくるから、仕方なくやれるところまでやってみようと思って組み立てていくほどに、あらかた形になった。折から食事の用意が出来たと知らせてきたので行ってみると、饅頭、焼餅(シャオピン)、麵湯(メンタン)及び三、四種の野菜であるから、桑原君はただ箸を取っただけで、私はと云えば内心辟易したけれども一箸も食べないというのも相手の好意を無にすることであると思い、勇を鼓して焼餅の一片を食べ麵湯を吸い、これを好機に辞去して発電機責めの苦を免れた。彼は渡したとの去るのをどれほど心細く思ったであろうか。彼の発電機は長く彼の持て余しものであろう。桑原君が中国語に通じていないとして超然としていたのがうらやましくもあり心憎くもあり、独り交渉の難局に当たったのは永く笑い話の一つになった。帰り道に魁星楼下を通り過ぎると、路の右の文廟の傍らに碑があり、
  孔子入周問礼楽到此
と題してある。雍正の初め、府尹張漢の書である。その西に元聖祠があり、伊尹(いいん・殷の宰相)を祀る。

2012年5月 2日 (水)

楽しいお酒

 ただいま友人との歓談を終えて無事帰宅。歓談は申し訳ないことに私が7割(相手には私が9割)話していたような気がする。それでもお互いに楽しかった、また逢おう、と云うのがうれしいことで、それに甘えてまたときどき逢うこととする。
 ちょっと昔話が多かっただろうか、私という人間をそんなに細かく話す必要などなくて、もっと違う話が良かっただろうか、などとかすかに反省するが、元々そんなに真剣に感じる方ではないので、明日は楽しかった記憶だけが残っているであろう。それで良いのだ。
 今晩はもう少ししたら息子が酩酊して帰宅するであろう、お互いに相手が二人見える状態で、人生などをこれから語ろう。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・東関外①

 洛陽の胡氏は安徽の人である。胡氏に馬車の手配を頼み、また古蹟の所在を問い、錬勇(れんゆう・人名)を道案内にして先ず東関外火焼街(かしょうがい)の賈誼(かぎ)祠に行く。祠には漢長沙王大傅賈公祠と題し、河南府中学堂構内にある。廟上には宣室遺賢と題した扁額があり、内に遺像を安置している。壁間に道光二十六年重修の碑がある。東瀛(日本のこと)後学の士、はるかにやってきて洛陽才学の遺蹟を弔っているのをみて、賈誼にもし霊があれば、破顔一笑するであろうか。街を隔てて千祥庵内に存古閣がある。閣中には北魏及び唐・宋の断碣(だんけつ)残碑(碣は円い石碑)及び仏像を刻した石幢(せきとう・石柱)等を集めてある。その北に宋太祖廟がある。古の夾馬営(きょうばえい・地名)であり、太祖発祥の地である。太祖の像があり、狭隘な廟の庭を耕し、いつの世の石碑か何も考えなしに石臼にしている。廟の側には夾馬営の三文字を記した横三尺縦一丈二尺ほどの石碑がある。夾馬営はまた香孩児と云い火焼街と云う。みな宋太祖のことにちなんで名付けたものである。「方輿紀要」に夾馬営は府の東北二十里にあり、とあるのは誤りである。その北は俗にいわゆる大寺でこれが勅建護国迎恩寺である。殿前に二つ大きな石碑があり、明万暦四年、福王朝廷の長久であることを祝して創建したものである。

中国ウオッチ・権兵衛が種まきゃ・・・

 中国漁船が他国の水域で違法操業を繰り返し、たびたび事件を起こしている。これは中国沿岸が、海洋汚染と乱獲で魚がほとんど捕れなくなってしまったことの結果である。
 海だけではないというネット情報があった。ロシアとの国境を流れるウスリー川では、ロシア側は豊富な漁業資源が維持され、毎年豊漁なのに、中国側は魚が激減している。これは生態系を無視した乱獲によるもので、なんとロシア側が熱心に放流している稚魚まで取り尽くしているという。
 これはベトナムとの国境でも同様で、ベトナム側は豊かな漁業資源を維持しているのに、中国側は爆薬や毒薬、電気ショックなどで魚を根こそぎ捕ってしまい魚が激減してしまったという。

 どんなところでも、ものは取り尽くさない、という智慧が長年の間に自然にルールとして定着しているもので、それが守れなかったところは結局生き延びることが出来ずに滅び去ってきた。
 今の中国は全くそういう斟酌を忘れ、目先の利益だけで資源を取り尽くし、自然を破壊し続けているように見える。こんなことを続けていては他国との軋轢もますますひどくなることだろう。中国は今に自然から大きな制裁を受けるに違いない。滅びの道を突き進んでいるのだ。
 文明は外部の力で滅びることは少ない。ほとんどが自滅であるのは歴史の示すとおりである。

討死

 ドン姫(我が愛する娘)に声をかけたら来る、というので大急ぎで支度した。支度したのは料理と酒など酒盛りの用意である。ところが待てど暮らせどやってこない。最初は腹を立てていたがだんだん心配になった頃夜遅くなってやってきた。

 ドン姫は自分のペースで生きているのだ。待っている間にそこそこ飲んでいたのでそれから本番の酒盛りをしている間に気がついたら討死していた。

 夕方息子がはるばるやってくる。ただ息子も私もそれぞれ飲み会で、出かける。息子は住んでいる広島から栃木の親友のところへ遊びに行っていてそこからやってくるのだ。わが息子ながらよくやる。

 今日私が飲む相手は息子の大学の先輩に当たる一回り年下の友人で、しばらくぶりである。息子はその大学時代の友人と岐阜で飲むという。

 親子とも馬鹿酒飲みなので今晩はどうなるか分からない。

2012年5月 1日 (火)

映画「博打打ち 不死身の勝負」1967年東映

 博打打ちシリーズの第三作。監督・小沢茂弘、出演・鶴田浩二・石山健二郎、若山富三郎、待田京介、木暮美千代、小松方正ほか。
 このシリーズが思ったより面白いので順番に見ている。石山健二郎がとても良い役をやっている。といっても知らないだろう。
 この映画の舞台は北九州、筑豊と若松である。戦前の設定であるから炭鉱が主要な産業であり、鉱夫と運搬の仲仕は気が荒いことで知られているが、その世界に熊本の「爆弾常」と呼ばれる博打打ちの常太郎・鶴田浩二がひょんなことから関わってくる。ある炭鉱の山主・石山健二郎に身を預けた常太郎は、心を入れ替えて炭鉱の頭として働くのだが、腹黒の若山富三郎の暴虐な仕打ちに、ついに弟分の宮田・待田京介は殺され、親とも仰いだ山主も自殺に追い込まれてしまう。
 後は一気にカタをつけるだけだ。相思相愛の山主の娘を振り切って男常太郎は敵陣に単身乗り込む。
珍しく鶴田浩二がかたぎの娘に惚れられる。お互いにちょっと照れくさい。だが男の世界に生きる者に恋が実ることはないのだ。

澤田ふじ子著「奇妙な賽銭」(幻冬舎時代小説文庫)

 公事宿事件書留帳シリーズの第十八巻である。NHKの時代劇ドラマにもなったこのシリーズは、女流の時代小説作家らしいやさしさと美しさに満ちた愛すべき作品ばかりである。この「奇妙な賽銭」には表題作も含めて六つの短編が収められているが、解説の縄田一男氏の云うとおり、今までで最も出来が良いように思う。
 もちろん主役は公事宿(当時の訴訟引受人・弁護士のような役割を担う)の居候・田村菊太郎だが、多くの物語での田村菊太郎の出番はわずかである。それぞれの登場人物が自分の置かれた境遇の中で、精一杯生き、そして愛し、傷ついていく。自分の人生は自分しか引き受けようがないが、その中の理不尽なものに対してだけ菊太郎は牙をむく。
 しかし菊太郎もそのような自分に対してやや倦んでいるところもある。それほど自分はえらそうな存在ではないことを誰よりも自覚しているからだ。だから物事の解決を一刀両断に行わないで一見妥協に見えるような収め方をして、傷つく人が最少になることを心がけるようになっている。
 この本の作品の中では「虹の末期」という短編が特に心に残った。引き裂かれた男と女が転変の人生の最後に邂逅しての結末は、一見悲劇に見えるのに、何故か二人とも幸せだったのだと心から思える。人生は最期に良い人生だったとさえ思えればそんな幸せなことはないのだと思う。
 このシリーズは舞台が京都なのでふんだんに京都弁の会話が盛り込まれており、それがほんわかとした(それがはんなりと云うことか)雰囲気を醸し出している。読みやすくて楽しく、しかも泣かせどころもあって一度読めばシリーズを最初から読みたくなるはずである。

好み

 WOWWOWで近く石原裕次郎特集をやるそうである。30本以上の映画を放映してくれる。
 昔お酒の飲み方を教えてくれた大先輩の一人は石原裕次郎が大好きで、自分の子供にそれにちなんだ名前をつけていた。ちなんだ名前にしたのはそのまま裕次郎ではおそれおおいと云うことらしい。
 石原裕次郎が一世を風靡していた時代から少し遅れた世代なので、私の時は加山雄三やプレスリー映画がよく掛かっていた。だから石原裕次郎の映画はほとんど劇場では見ていない(二本くらいは見た)。

 みんながその格好の良さを褒めそやすけれど、正直どこが良いのか分からなかった。テレビで昔の映画をいくつか見たが、なんだかこちらが照れくさくなるような演技で、苦手である。
 そういう俳優や歌手というのがいる。小林旭はまだ良いけれど石原裕次郎は良さが分からない。市川雷蔵は良いけれど松方弘樹はあまり良くない(眠狂四郎を松方弘樹がやったときはひどすぎて腹が立った)。渡哲也は良いけれど梅宮辰夫はあまり好きじゃない。真野響子は良いけれど真野あずさは苦手。名取裕子はペアが見つからないけど嫌い。山口百恵は良いけれど桜田淳子は良いと思わない(古いなあ)。森進一は良いと思うけれど、五木ひろしはどこが良いか分からない。TOKIOは良いけど嵐は大嫌い(ちょっと年代が違うか)。思いつくままにあげるときりがなく出てくる。

 だからなんだと云われても特に何だというわけでもない。
 石原裕次郎の良さが分からない人間にはその人気は作られたものにしか見えないが、そんなことを云えばスターなんて大半はそんなものだ。作られたものだろうが何だろうが好きなものは好きだろう。石原裕次郎が大好きな人はWOWWOWを楽しみにしてください。加入していない人はこれを機会にどうぞ。

中国ウオッチ・象の反撃

 武漢の動物園で、見学者の男性が象に向かって石を投げたところ、象がその石を拾って投げ返し、象を見ていた女性の頭に当たって軽い怪我をしたそうである。2007年にも同様の事件があり、そのときは石が子供に当たったという。
 象も石を投げた犯人に向かって投げ返したのだろうが、残念ながらコントロールが悪くて他の人に当たってしまったようだ。もう少し練習が必要だろう。

 檻にはもちろん「食べ物をやらないように、石を投げないように」と云う看板はあるが、それでも石を投げるような男がいるのだ。生まれて初めて象を見たのだろうか。何かを確かめたくて石を投げたのだろうがこんな子供みたいなことをやる人間がいるというのがまさに中国だ。たびたび云うが中国人には子供(ガキというニュアンスに近い)みたいな人間が多いようだ。

中国ウオッチ・違法操業

 黄海上で違法操業中の中国漁船を取り締まろうとした韓国の漁業管理団の職員に対し、中国漁船の船員が刃物で抵抗し、職員三人が負傷、一人が海に転落した。その後漁船は逃走したが、韓国の巡視船に追跡されて拿捕され乗組員は逮捕された。
 韓国政府は中国に強く抗議、中国政府は極めて珍しいことに直ちに謝罪したという。

 問題は中国漁船が犯罪を犯しているという認識が少ないことである。それ以上に中国国内の世論が中国漁船の行為が犯罪だという認識が全くないことだ。
 この原因は日本、韓国、フィリピン、ベトナム、インドネシアなどとの間の領海争議にあるだろう。資源を狙って理を失い、国を挙げて横暴を押し通そうとしているのだが、国民には中国が正しいという報道しか為されていない。国民はだから中国がいつも外国から不当に扱われている、という被害者感情を持っている。
 その視点から考えれば中国漁民の違法操業について、かわいそうな漁民が困っているのに何故取り締まるのだ、という反発が出てくるのは当然だ。漁民もその風潮の中で勘違いした行動をとってしまう。国として許されることと許されないことの区別を承知でねじ曲げて行動すれば、海外からは反発を受け顰蹙を買い、自国民は何故中国だけ虐げられるのか、という排他的精神を高めるだけで得るものは少ないと云うことにそろそろ気がついても良いのではないか。

 「造反有理」の精神は毛沢東が中国国民に植え付けた最悪の思想である。盗人にも三分の理というが、何にでも言い訳が通用する、などというのは異常な思想なのだ。そんなむちゃくちゃな思想は国際社会では通用しない。

「清末見聞録(清国文明記より)」・長安紀行・洛陽

 洛陽は周公がここで国を営んで以来、東周、後漢及び唐は皆ここを都とした。古来帝王のいたところは古蹟の見るべきものが少なくない。まず衙門へ行こうと思い東関を入る。扁額があって、題して周東都と云う。衙門を訪ねると知府の啓氏は出かけるところだったが、すぐ書斎に案内された。しばらく会話してから失礼し、直ちに文廟に詣でた。櫺星門(れいせいもん)を入ると泮宮(はんきゅう・古代中国の学校)がある。戟門(げきもん)には右に龍、左に亀の石像があり、傍らに朱文公の河図洛書賛(かとらくしょさん)を刻している。雍正の初め、知府張漢の建てたものである。大成殿前は草が茂っている。台上には元成宗大徳十一年勅封孔聖之碑がある。廟の中には孔子及び四配十二賢の神位があり、東西両廂には先賢を併せて祀ってあるのは北京の大成殿と同じで、ただ規模が小さいだけである。後ろには崇聖殿があり、孔子の祖先を祀っている。
 南門に上る。西南には崇山に対し、東北には太行を負い、河洛を前後にして田野が遠く開けて禾黍(かしょ・稻ときび)の田畑がつづいている。城壁を下り南門大街で試みに雑貨店に入ると、その半ばは日本品である。これらは皆漢口を経由して運ばれているという。西馬市街を経て南飲馬胡同に行くとその突き当たりに宋裴(はい)商廟がある。裴商は当時多くの疱瘡患者を治した人で、いつの世からかこの祠を立てて遺徳を後世に伝えたのを、今は財神廟としている。中に雍正年間重修の碑があり、時は正午、のどがとても渇いたので、帰路梨・柿を求めて再び城の上に登りこれを食べてわずかに乾きを凌いだ。時に大街上銅鑼を叩く音が聞こえる。何事かとみると年老いた道士が鉄鎖を頸に纏い街上を勧化(かんげ・勧進)している。これはその住持している道観が破損したのを修理しようというので、それが完成するまでは自らその罪を負って鎖を帯びているのだと云う。精神からこんなことをするなら実に感心であるが、いたずらに人の耳目を集めるこけおどしのよこしまな道士でなければ幸いである。ここから洛県高等小学堂に行く。目下学生は四十名、教師五名、府城中の学堂は全部で四つ、師範伝習所、中学堂、高等小学堂、及び小学堂である。次いで県衙門に行く。西堂で待つ間に儀門の上の牌楼上に記されているものを見れば、
  爾俸爾禄、民膏民脂、下民易虐、上点難凌
と題してある。けだし中国の官吏には最適切の訓戒である。もし官吏がこの心を心としたならば民が治まらないと憂えることもなく、国が強くないと憂えることもない。しかしながらこれを知っていてしかもこれを行うものが果たして幾人いるだろう。言行が相反することについては中国官吏よりはなはだしいものはないのだ。

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