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2012年8月27日 (月)

「清末見聞録(清国文明記より)」・鎮江・揚州

 揚州は漢の時代に江都と云いまた広陵と云った。隋の時代に揚州となった。淮河の左にあり、金陵を圧して東南の重鎮である。呉王がかつて兵をここで挙げて漢室を傾けさせかけた。曹丕(そうひ・曹操の息子で魏の初代皇帝の文帝)がかつてここに来て大江に臨み、波濤の洶涌(はとうのきょうよう・波が激しく次々に打ち寄せる様子)を見て嘆じて曰く、これは天がここで南北を分かとうとするつもりなのに違いないと。孫権はしばしば広陵を争ったが手に入れることが出来なかったので大江をもってここを限界とした。祖逖(そてき)が慷慨激越、江を渡り中流で揖(しゅう・不明、揖はもともと両手を胸の前で合わせてお辞儀をすること)を撃ち、誓って中原を清めんと欲せしは、すなわちここである(三国時代を終結させた西晋は八王の乱による混乱とそれに続く周辺異民族の侵入により滅亡した。生き残りが河北、河南、関中を失いながら江南に亡命政権・東晋を打ち立てた。東晋は失地回復のために軍を繰り出し、たびたび北伐が行われた。しかし朝廷内部の権力闘争や軍閥間の不和もあり、足並みはそろわない。その東晋朝廷に北伐のための軍を要請しながら授けられなかった祖逖は、2000名の義勇軍を率いて長江を渡り、北伐を開始。河南の諸塢主を破り、後趙と闘い、石勒、石虎を破って河南を回復した。しかし河北の回復を目指して準備中に朝廷により更迭されて憤死した。回復したか何もまもなく後趙に奪われた)。
 唐、宋以来、江浜洲渚日に増して、江流日に狭く(河岸がだんだん迫ってきて流れが狭まっていると云うことであろう)、現在は揚州から江畔の瓜州に到るまで、およそ四十里あるが、京口の渡しはわずかに七、八里に過ぎない。しかし当時は広陵は直接に江畔にあり、江の幅員は四十余里あったという。京口が全呉の門戸であるのに対して、広陵が中原東南の重鎮であることは見れば分かるであろう。最近でも揚州は直接に運河の要の場所であり、船舶が輻輳して貨物の一大集散地として繁栄を極めているけれども、長髪賊の乱の後は中心が蘇州に移ってしまい振るわない。
 昔聞く、揚州の鶴、今移って蘇州にあり。杜牧之が狂名を大江に流した風流のその後継者は何処にあるだろうか。隋家の宮殿は府西大儀郷にありと聞いているけれどもその遺址を知らず。江都の相董仲舒(とうちゅうじょ・前漢の学者)の故宅に井戸があり、董井(とうせい)と称する。府東にあると云うけれど知る者もなく、孔融(後漢の学者、孔子20代の孫)陳琳(後漢末の詩人)の墓もことごとく湮滅してその場所は失われている。

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