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2012年8月26日 (日)

「清末見聞録(清国文明記より)」・鎮江・大運河

 鎮江・揚州間は一日数回の小蒸気の便がある。大東、招商局、戴生昌(たいせいしょう)の三会社がその航路を有している。運賃は一等五十セント、二等四十セント、三等二十二セント、四等十六セントである。鎮江から江を遡ること三十分にして、金山寺の対岸、瓜州(かしゅう)に至って運河に入る。運河は隋の煬帝が開鑿したもので、淮水を控え、河をつないで済水に入り、遠く天津を経て通州に達している。海運が開けなかったときはもちろん、現今もなお江南の漕糧の多くはこれによって北京に運ばれている。その後(運河が造られた後)人を裨益することが大きくて、万里の長城がただとてつもない偉観として人を驚かせ、ため息をつかせるだけの無用の長物であることと比べるべくもない。
 煬帝が運河を開いたとき、両岸に柳を植え、十里ごとに亭を築き、佳人を連れてその間を悠遊したのをもって、後人は皆煬帝がいたずらに、おごりの気持ちで国費や人員を費やしたと非難するようである。私が思うに、煬帝は暗愚の主ではない。なんでいたずらに遊興のためにこの大工事を起こしたであろうか。彼は雄志をみなぎらせてその功名の思いを果たすために大業七年かけて自ら大兵を挙げて高麗を征服した。大運河はその準備として漕糧のためにしたものである。彼が運河を悠遊したのは自ら工事の進展具合を巡視したものである。そして、高麗が警戒することを恐れていかにも逸楽しているように振る舞ったのである。後人は今もなお高麗と同じように彼の術中に陥って真実を覚らないのはどうしたことか。
 運河の幅は狭いところでも三十間を下らず、広いところは五十間を超えている。瓜州では長さおよそ四間ばかりの民船の舳先に、旧式の小口径砲一門を備え、水兵が八、九名乗った砲船が十数隻浮かべてある。このような砲船は長江及び蘇州、浙州の運河一帯に配置されていて、その数は万に上るという。全て長江水帥提督徐の麾下に属している。徐はもと長江一帯に出没していた哥老会(かろうかい)の首領の一人であったが、両江総督劉坤一(りゅうこんいち)の按撫によって帰順したものである。聞くところによれば、徐は無学ではあるが、豪傑の風があり、その威は長江を圧しているという。私はその好漢を見る機会がなかったことを残念に思う。
 瓜州から運河を遡ること一時間半ほどで揚州に到着した。

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