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2013年2月

2013年2月28日 (木)

映画「パッション・プレイ」2010年アメリカ映画

 監督ミッチ・グレイザー、出演ミッキー・ローク、ミーガン・フォックス、ビル・マーレイ。日本では劇場未公開。

 ラストの一瞬のために全てがある映画だ。「シックス・センス」の衝撃を思い出した。

 プール(ミッキー・ローク)はしがないトランペット吹きだ。昔は人気もあったが、ドラッグなどで身を持ち崩し、落ちぶれ果てている。そのプールがたまたま情を交わしたのが裏社会の顔役ハッピー(ビル・マーレイ)の女だった。ここは話として語られるだけで実際にはそのシーンはない。

 プールはハッピーの放った殺し屋に連れ出され、荒野の中で殺されようとするのだが、突然現れた不思議な男たちに殺し屋は殺され、プールはそこに放置される。荒野をさまよい、ようやく辿り着いたのは見世物小屋だった。

 そこで彼が見たものは羽の生えた美女(ミーガン・フォックス)だった。作り物とは思えないその姿に引き込まれ、彼は彼女の暮らすトレーラーハウスを訪ねる。そこで彼女の羽は本物であることを知る。「天使か?」と問いかける彼に、彼女は「私は天使なんかじゃない」と答える。

 彼が立ち去ろうとすると、見世物小屋の男たちが彼を襲う。彼女の羽が本物であることを知られたことが許せない、と云うのだ。そこへ彼女がピックアップトラックで乱入、間一髪で彼を助け出す。そこから二人の逃避行が始まる。

 彼等から、そしてハッピーからも逃れなければならないが、それは絶望的なことである。やむなくプールは彼女をだしにハッピーと交渉しようとするのだが・・・。一目で彼女の虜になったハッピーは彼女を我が物にしようと強引な手段に出てくる。そしてついに二人はハッピーの手に落ちてしまう。彼女はプールの助命を条件にハッピーのものになることを了承する。それしかなかったのだ。

 かろうじて命を助けられたプールだが、彼女を失うことに耐えられず単身でハッピーの元へ乗り込む。しかしもちろん無力なプールにはチャンスはなかった。再び彼女の嘆願でプールは助かるのだが、彼は自暴自棄になる。

 そんな彼に彼女が見世物になっている、と云う知らせが入る。なびかない彼女に業を煮やしたハッピーが彼女を裸でさらしものにしたのだ。今度乗り込めば命がないことを承知で再びプールは彼女のいるところへ乗り込む。たちまちふたりはハッピーの部下たちに追い詰められて絶体絶命となる。そしてそのとき奇跡が起こる。ここからは映画を見て欲しい。とにかく異様に淡々と進んでいた物語がここから一気にクライマックスに至るのだ。

 ビル・マーレイが冷酷なギャングのボスを演じているが、本当に冷酷で怖そうだ。喜劇俳優は悪役を演ずると迫力がある。あのリーサルウエポン2,3,4に出ていたジョー・ペシ(小柄でやたらに喋りまくる男を演じていた)が悪役のボスを演じた「グッド・フェローズ」での姿は別人かと思うほど狂気的な暴力を演じていた。

アリとキリギリス

 イタリアの総選挙の結果が話題になっている。イタリア国民は債務を解消するための緊縮経済を嫌って再びベルルスコーニ流の放漫経済を選んだようだ。それは誰だっていままでの生活をレベルダウンして我慢しなければならないのはいやに決まっている。しかしデフォルトになればそうも云えないから我慢するときはしなければいけないのだけれど、何とかなると思っているのだろう。

 イソップ童話のアリとキリギリスのように一生懸命働いて蓄えをして来たるべき冬に備えたものが、夏の間歌い遊びほうけていたキリギリスに助けを乞われても冷たくはねつけるのが自然界の掟である。しかし教育上の見地から、そのキリギリスをやさしく受け入れてやる、と云うのがいまの世の中らしい。これでは誰かが助けてくれるから遊んでいてもかまわない、と教えているようなものである。一生懸命働く人が報われない社会はいつか滅びるだろう。

 借金は返す、我慢して返す、と云うのがこの世のルールだろう。それがいつから返さなくても助けてやる、などと云う事になったのか。これでは金を貸すものより借りるものの方が得になってしまう。こんないびつな世界は異常だ。ドイツ国民が怒るのは当然だろう。

 ところでテレビの、経済評論家と机上の札に描かれた人物が、イタリアが経済破綻するとスペインがさらに深刻になり、リーマンショック並みの事態となって日本人の生活にも大きな影響が出る、と脅かしていた。EUが非常事態になったからと云って日本人の普通の人の生活に本当に影響があるのか。影響を受けるのは金融関係の会社だけであり、一般企業への影響が案外小さいことはすでに経験済みだ。日本よりもはるかに影響が大きかったのは中国だった。こけおどしを話すのは好い加減にして欲しい。本人は金融関係だから影響はあるのだろうが、一般国民を同一視するべきではない。

 もう日本はない袖は振れない、と冷たく対応し、自分の国の国民のための施策を優先するべきだろう。大盤振る舞いはしたくても出来ないのだから。EUも頼るのならば中国に頼ればいい。あれだけ軍事費に金をつぎ込む余裕があるのだ。金がないはずがないだろう。

自民党は嘘つきか

 国会討論を見ていたら今日は民主党が質問していた。「聖域なき関税撤廃が前提なら、TPPには参加しない」と自民党が公約で主張していたのに、安倍総理がTPPに参加する方向で動いているのは国民をだましたことになる、と云う。自民党の公約では国民全てが自民党はTPPに反対すると思ったはずであったから欺瞞だというのだ。根拠は朝日新聞らしい!

 どの国民が自民党の「聖域なき関税が前提なら、TPPには参加しない」という公約を聞いて自民党がTPPに反対だ、などと思っただろうか。民主党は、国民は馬鹿だ、と云っているのと同じだ。自民党にはTPP反対の議員が少なからずいるが、最後はTPPに参加で合意するだろう、と云うのが大方の国民の見方だったろうと思う。ただアメリカの言いなりを心配する国民は多い。だから日本は日本としての主張をして欲しい、と云う願望があるのであって、それに対する答が自民党の公約の趣旨であることはまともな人間なら分かることだろう。

 玄葉元外務大臣(民主党)が、安倍総理が「損なわれていた三年間を立て直した」と胸を張るのはおかしい、と主張した。確かに鳩山元総理のときに日米関係が損なわれたことは事実だが、その後その修復はすでになされており、取りたてて安倍総理のたった一回の訪米で修復された、との主張は党派的な物言いであり、今後このような物言いはやめるように、と要求した。つまり、このような言い方は意図的に民主党をおとしめるものであり、野田首相時代にはすでに日米関係は現在と同様良好だった、と主張しているのだ。元外務大臣としてこのような言葉を述べる神経が分からない。自分の評価を自分でしているようなものであり、恥ずかしいことである。評価は国民がするものだ。大方の国民が民主党のときの日米関係がいかに損なわれたか承知している。しかも今回安倍総理が訪米しただけで良好になったと手放しで云えないだろうこともよく承知している。それは民主党政権の負の遺産がそれだけ大きかったと云うことなのだ。

 民主党のあまりの自覚のなさには今更ながら驚いた。なぜ自分の党の政権の行ったことの正当性ばかりを主張するのだろう。此処には国民がいない。なぜ日本の国民のために、と云う言葉と行動が出来ないのか。

 失望の上に失望した。彼等が引き合いに出す国民は現実に存在する国民とは違うようである。これでは国民は彼等を捨てるだろう。民主党は社民党の没落消滅の後追いをしているように見えた。

映画「ポーラー・エクスプレス」2004年アメリカ映画

 監督ロバート・ゼメキス、声の出演トム・ハンクス。コンピューターグラフィックアニメーション映画。

 ゼメキスはこのあと幾つかCGアニメを製作しているが、後になるほど絵のリアリティが向上している。この映画では俳優をモーションキャプチァしているが、あまりに現物に似せようとするとかえってリアリティを失う。ある程度に留めてデフォルメを行う方が人物に生命が宿ると思う。そういう意味ではこの映画の人物には生命感がない。

 とはいえストーリーに見るべきものがあればいいのだが、不思議な登場人物の寓意に今ひとつ感情移入出来なかった。これは映画が悪いのか私が悪いのか。

 評判になった映画だしそれなりにストーリーは盛り込まれているが、だから?と云う印象に終わってしまった。クリスマスにここまで思い込みのない日本人である私だからだろうか。「クリスマス・キャロル」はとても面白かったし感動もしたのに。

2013年2月27日 (水)

池上彰「学び続ける力」(講談社現代新書)

 昔は教養とは知識だった。いまも知識が必要なことは間違いないが、知識が多いことが必ずしも教養があるとは云えない。知識はいまは情報としていくらでも検索出来るからだ。大事なことはその選択と意味の解釈だろう。

 孔子の「学びて思わざれば即ち罔く(くらく)、思いて学ばざれば即ち殆うし(あやうし)。」にある通りである。情報検索が巧みでも教養があるとは云えない。

 池上彰はいろいろなことをよく知っている。しかもそれを分かりやすく人に説明することが出来る。それはたゆまぬ勉強のおかげであるし、同時にそのことの意味を考え続けてきたことの結果だろう。知識が有機的に関係づけられているのだ。

 それにはどのような志と努力が必要か、この本には丁寧に実例をもって書かれている。

 私も遅ればせながら教養を身につけよう。確かに彼の云う通り、学ぶことはとても楽しい。

韓国は窃盗国家か

 対馬の寺から盗まれた仏像が、韓国に持ち込まれた。その仏像が見つかり、犯人も逮捕されている。この仏像は14世紀に韓国で造られたものであるらしい。

 韓国政府は日本の寺から盗まれたものであり、日本に返却する、と明言していた。ところが韓国のある寺がその仏像はそもそもその寺の持ち物だと主張した。それに対して韓国の地方裁判所がその寺の言い分を認め、日本への返却を差し止めた。これにより、韓国政府は日本への返却が出来ない自体になったという。

 日本への返却のためには日本がその仏像を正当に入手した証明をしなければならないのだそうだ。

 この仏像が最近韓国から盗まれたものであると云うなら分かる話である。そもそも韓国で所有権を主張している寺は、いつまでそれを所有していていつ日本に奪われたのかが明らかではないが、多分遙か昔のことなのであろう。まずそれを明らかにすべきだろう。そもそもこの寺はその仏像の所有権を盗難前に主張していたのか否か。盗んだものを突然自分のものだと主張し、それを認める裁判所というのはどんな裁判所なのだ。

 現在の法律を、過去に遡り、時代を超えて適用してはならないことは法律のイロハである。そんな事も分からない裁判官が反日の世論におもねってこのような判断をしているとすれば、韓国という国は泥棒と結託した窃盗国家だと云わざるを得ない。

 こんなことは正常な人なら分かることで韓国の有識者がこれを非難しないらしいのが不可解である。そんな当たり前のことが云えないほど韓国という国は恐怖の国なのだろうか。朝鮮半島は北も南も異常な国か。

 韓国政府が常識に即した判断をすることを期待する。

オーバーヒート

 昨日は早めに寝ようとしたら滅多にないことだがいつまで経っても寝付けなかった。眠くなってから寝ないとリズムが狂う。

 どうも頭がオーバーヒートしているみたいで本がいくらでも読めてしまう。しかしじっくり内容を咀嚼する読み方ではなくて、ただ字面をハイスピードでなぞっているだけである。しかもしばらく読んでいると違う本が読みたくなり、次から次へ読みかけの本がテーブルに積み上がってしまう。ちょっとクールダウンしないといけない。

 録画していたNHKBSの中国の歴史ドキュメントを二本見た。

 一本は紂王と太公望に関するもの。周商革命、つまり殷から周に王朝が替わるときの真相を見て行くものだ。殷については存在すら疑われていたが現在は遺蹟もたくさん発掘されていて実在は確定している。その殷の紂王の悪逆非道ぶりが史記などに記されているが、だいたい歴史は次の王朝が記録するものなので、前代を悪く書くのは常道である。それよりも、殷そのものの拡がりとその勢力の源の文明について詳細に考察していて面白かった。

 もう一本は夏王朝についてである。こちらはほとんど伝説であって実在を信じるものがなかった王朝なのだが、最近はその存在の証拠があちこちで発見され、ほぼ実在していたと思われている。ただ文字による記録が残されていないので、確定しかねているだけだ。夏王朝の始祖は禹である。いわゆる堯、舜、禹と禅譲が行われたが、禹から世襲が始まって夏王朝となった。二里頭遺蹟が夏王朝の中心地というのが現在のところの見解である。そしてその二里頭遺蹟特有の遺物が中国各地から発掘されはじめた。つまり思った以上に夏王朝の拡がりは大きかったのである。

 二本は同じシリーズの中のもので、案内役は中井貴一、この人は中国の歴史を題材とした映画にいくつか出ているので、普通に中国語の会話が出来る。日本語の旨い中国人みたいだ。

 この二里頭遺蹟と三星堆遺蹟は機会があれば是非いちど訪れて見たいところである。そのためにも中国古代の歴史をもう少し勉強し直さなくてはならない。

 やりたいことが山ほどある。スケジュールを立てて時間配分をしなければならない・・・と、かようにオーバーヒート気味なのである。

春日太一「仲代達矢が語る日本映画黄金時代」(PHP新書)

 仲代達矢に長時間インタビューしてまとめたものである。文中にもあるが、資料を見ずに語り続けるその記憶力と情熱は80歳を迎えたとは思えない。

 映画黎明期は映画俳優がいないから歌舞伎界などの大部屋役者などを使っていたのだろうが、戦後は新劇、特に俳優座出身の役者が数多く活躍していたことを知った。演劇の基礎をたたき込まれた新劇出身者たちは名前を挙げられると、なるほど、と云う人達ばかりだ。海外でもほとんど有名な俳優はその経歴を見ると演技の学校で基礎を学んでいる。

 基礎がないのに人気があると云うだけの人間に主役をやらせる映画が昨今幾つも見られる。確かにそのような人はセンスがあるから自然体の演技はうまい。だが多くがタレントの個性だけでこなしているからドラマに厚みがない。その上人気タレントのタイトなスケジュールに合わせてつくらざるを得ないから急ごしらえのやっつけ仕事になる。客が集まればいい、と云う商業主義だけでは良い映画が作れるとは思えない。

 仲代達矢の出演した映画のリストを見ると、印象に残っている映画が多い。仲代達矢は小林正樹監督の「切腹」をベストにあげているが、頷ける。最近海老蔵主演でリメイクされてそれなりによくできていたが、オリジナルには遠く及ばない。なぜなのかは仲代達矢がこの映画のときにどんな心構えと演技法で演じたのか、それを読むとよく分かる。

 私が特に記憶に残っているものを列記すれば、「人間の条件」(小林正樹)、「用心棒」(黒澤明)、「椿三十郎」(黒澤明)、「切腹」(小林正樹)、「上意討ち・拝領妻始末」(小林正樹)、「斬る」(岡本喜八)、「御用金」(五社英雄)、「人斬り」(五社英雄)、「天狗党」(山本薩夫)、「座頭市あばれ火祭り」(三隈研次)、「出所祝い」(五社英雄)、「雲霧仁左衛門」(五社英雄)、「闇の狩人」(五社英雄)、「鬼龍院花子の生涯」(五社英雄)、「北の蛍」(五社英雄)。

 もちろん見た映画はこの倍以上ある。時代劇映画が多い。時代劇が好きだからである。どの映画も昔はストーリーと配役をすらすら言えるほどだったが、最近は断片的になってしまった。それでもそれぞれに語り出したら停まらないことだろう。それはそれぞれを見た上で個別にまた語りたい。

 映画が時間と金をたっぷりとかけて作られた時代にリアルタイムで映画を見ることができたのは本当にしあわせだった。そしていま、それを高画質と高音質、大画面で見ることができるしその時間もあることを本当に幸せなことだと思う。

2013年2月26日 (火)

映画「センター・オブ・ジ・アース2 神秘の島」2012年アメリカ映画

 監督ブラッド・ペイトン、出演ドウェイン・ジョンソン、マイケル・ディスコ、マイケル・ケイン。

 「センター・オブ・ジ・アース」の続編と云う事だが、このネーミングでは再び地底探検をするみたいだ。今回は地底ではなく、魔の海域への冒険行である。原題は前作が「Journey to the Center of the Earth」で今回が「Journey 2: The mysterious Island 」だからネーミングがおかしい。

 前回は狂言回し役のショーンという少年の叔父であるトレバー(ブレンダン・フレイザー)が主役だったが、今回はショーンの義父ハンク(ドウェイン・ジョンソン)が主役だ。ドウェイン・ジョンソンは現役のプレスラーだが、芸達者でアントニオ猪木みたいに人気があるが、マッチョの上に知性が感じられるところがちょっと違う。

 とにかく空想的な映像を見せるところしか見所はない映画なのだが、それに限って云えばよくできていてとても楽しい。しかし謎のアトランティス大陸があの程度の島でしかない上に定期的に浮上したり沈んだりする、と云うのもずいぶんな話だが、そこには不思議な生物がたくさん棲息しており、超古代の遺蹟が残されている。それが今回の沈没で遺蹟ががらがらと崩れていくのだが、ではいままでなぜ残っていたのだろう。そして島の生物たちは絶滅してからどうやって再生したのだろう。何せ70年浮いていて70年沈んでいると云うらしいから話がおかしい。ジュール・ベルヌの原作を題材にしたと云うが、地下でジュール・ベルヌも頭を抱えていることだろう。

 などと突っこんでもしょうがないので、ここまでとする。それよりもこのショーンという少年、とても自分勝手だし、憎たらしくて最後まで好感が持てない。アメリカの少年というのはよくこのようなキャラクターが出てくるが、こんな子供だったら親は子供を憎むだろう。とにかく可愛げがない。それなのに最後にヒロインの少女にキスされるなんてあり得ない。

 ファンタスティックな映像だけを見ること、それがこの映画を楽しむための覚悟であろう。

 指の手術は3月6日に決まった。本日は予備検査をいろいろ行った。中にはエイズ検査や心電図、胸のレントゲン検査まであった。手術自体は15分くらいでもちろん日帰り。

 風呂にでも入ってから今日はもう寝ることにしよう。

富坂聰「習近平と中国の終焉」(角川SSC新書)

 著者は「はじめに」で、なぜこの本を書いたか、こう述べている。

 日本外交にとって最も重要な二国間関係は、依然としてアメリカ合衆国との関係である。それを疑う日本人は少ない。しかし、いま日本がそのもてる外交資源を傾注して向き合わなければならない国はどこかと問われたとき、ほとんどの日本人が頭に思い浮かべるのは中国ではないだろうか。
 理由は明快だ。中国の「実像」を誰もが摑みかねているからである。
 例えば、膨張した中国は本当に我々と同じ価値観を共有し、共存していける国なのか、という疑問だ。今後、中国がアジア地域を圧倒する軍事力を身につけたとき、果たして彼等は国際ルールや法律に則って問題解決に当たろうとするのか、それとも躊躇なく武力に訴えてくるのか。そのいずれを選ぶのかさえ、判然としないのである。

 そして、習近平がどこに向かうのか、その答の大半は共産党の価値観の中にある、と云う。

 先般読んだ、孫崎享「これから世界はどうなるか」という本の世界観、特に中国についての捉え方との違いがここにある。孫崎氏は数学的な価値付けによって外交の優先順位を提唱する。ひたすらパワーバランスをテーマとし、世界をシュミレーションする。それに対して富坂氏は歴史と人間に主眼を置いた世界を提示する。私にとっては血が通った世界観の方を是とするがどうだろうか。

 表題には「終焉」とあるが、著者が現在の中国の終焉を唱えているわけではない。これは胡錦濤が主席退任のときに、そして習近平が主席就任したときに、「今のままの中国では、現在の共産党体制は終焉を迎えてしまう」、と云ったことをもとにしているのだ。

 胡錦濤も習近平も、腐敗社会、特に共産党員の腐敗について警鐘を鳴らしたのだ。この腐敗は中国人という民族に歴史的にしみこんでしまっている習性に近いものだとは云え、近年のその腐敗はエスカレートしすぎていることが誰の目にも明らかとなってきた。これは体制が崩壊するときの現象であることは、歴史を知る中国人ならみな分かっている。だからこのままでは中国は終焉を迎える、と彼等は云ったのだ。

 だが中国が終焉するのではなく、もちろん共産党独裁体制が崩壊するのだが、では今度の新体制がその問題に取り組む体制なのか、と云う視点から解析が始まる。そして昨年の「薄煕来事件」の意味が違う視点から見直される。ここでは目から鱗が落ちる思いをした。

 格差社会、腐敗社会の実態を明らかにしながら、その是正の可能性を論じていくのだが、果たして希望はあるのか。いつもながら読みやすく、しかも新たな知見を、そして展望を与えてくれる。

2013年2月25日 (月)

弾発指(ばね指)

 明日は整形外科の定期診断日。本来の肩の痛みは以前の三分の一程度に収まり、可動範囲も拡がったのだが、前回相談した左手小指の異常について、明日結論が出る予定だ。多分弾発指、通称ばね指だろうという診察で、明日再度確認してよくなっていなければ手術をすることになっている。ひと月半ほど経っても状態はよくならず、ますます悪化しているような感じなので覚悟することにした。

 骨とそれを動かす屈筋腱を繋ぐものが腱鞘(けんしょう)である。腱鞘炎というのは聞いたことがある人もいるだろう。指の腱鞘が炎症を起こし、腱にきつく巻きついてしまっている状態で、更年期や妊娠時の女性に時に見られるものだという。また、糖尿病や透析患者に見られることもあるそうだ。指を切開し、巻きついている腱鞘の一部をはぎ取ってしまう手術をすると直るそうだ。

 指を曲げると曲がったままになり、無理に戻そうとするとバネのようにぴくんと跳ね戻る。そのときはちょっと痛い。何より小指が使えないので不便なことも多く、ときに危険なこともある。左利きなので左手が不自由なのはとても困る。小指一つ使えないと握力も著しく低下するし、左手に錠剤を乗せると小指のところからぽろぽろこぼれるのだ。信じられない。

 明日すぐに手術をするかどうか分からないが、それでもいいようなつもりで出かけることにする。歳をとるといろいろなことが起こるものだ。

塩谷喜雄「『原発事故報告書』の真実とウソ」(文春新書)

 東日本大震災の被害として地震と津波とともに大きな災害をもたらしたものとして福島第一原発の事故があった。この原発事故についてメディアが報じている事実が二転三転して専門家や政府関係者に対して不信感を抱いた人は多いことだろう。

 そして原発事故に対して四つの事故報告書が作成された。国会事故調、政府事故調、民間事故調、東電事故調の四通である。多いものでは中間報告と最終報告を合わせて1500頁という大部なものである。国民は希望すればそれに目を通すことは可能なはずだが、専門用語がちりばめられたこの報告書を読みこなすことは普通の人には困難なことである。だからこれを要約し、我々でも読めるような言葉でその問題点を明らかにしてくれるものがないかとずっと思っていた。一体あの事故は何が本当の原因で起こったのか、自分なりに考える手がかりにしたいと思う人は多いのではないだろうか。それが今後の原発の再稼働に対する自分の意見の基礎になるはずだからである。

 著者は日本経済新聞の論説委員であったが定年で引退、その半年後に東日本大震災が起きた。そのメディアでの報道を見て、多くの疑問を感じていたと云い、自ら原発にも足を運んでいる。彼の亡父の出身地は福島県相馬であり、身内も東北に在住している。

 彼は科学ジャーナリストであり、科学知識も豊富である。その彼が全力で四つの報告書を読み解き、書かれていることの意味、書かれなかったことの意味を読み解いていく。労作である。おかげで分かったことが沢山あった。

 それをいちいち上げていくと切りがない。この本は、あの原発事故について公式に発表されたものにもとづいたものである。出来ればあの事故に疑念を持つ人、原発は今後どうであるべきか考えている人はこの本を是非読んで欲しい。必ず新たな知見を得ることが出来ることをお約束する。

 この本でも述べられているが、全ての報告書が責任者を明らかにしようとしていない。と云うか明らかにしようとすることを回避している。これは日本のいつもの無責任体質によるものと云えるかも知れない。

 そして特に東電の報告書が被害としてあげたものが原発の破損のみであり、多くの人々の故郷を奪い、財産を失わせ、職を失わせ、放射能被害を多くの国民に与えたことには言及していない、と云う事実に愕然とするだろう。

 2013年2月20日に発売されたばかりの本である。

カッター男

 島根県が制定した竹島の日に抗議して日本大使館前でいろいろな抗議行動が行われた。中には日本大使館に汚物を投げ込んだものもあったという。自分が正義であればどんなことも許されると考える異常者が韓国にはいるのだと云うことがよく分かった。もちろん検挙されたそうだが、これはそのまま自分の国をおとしめることになることが分からないのだろうか。日本人に同じようなことをするおかしな人間が出てこないことを祈るばかりだ。

 ところでテレビで報道されたものに、カッターで自らを傷つけながら絶叫する男があった。まず腕に何本も筋をつけるように切りつけ、その後、腹をカッターで切り始めた。極めてセンセーショナルな映像だった。もちろん警備の男性が止めようとするのだがやめようとしない。

 もちろん血が出ていた。しかしこのようなものがどうして日本のテレビで放映されたのだろうか。自主規制はなぜされなかったのか。見ていた人には理由は明らかである。カッターの刃は一ミリか二ミリ程度しか出されていないからほんの表皮だけが傷ついているだけで、明日には治ってしまう傷しかつかないのが見え見えだったからだ。警備の男性もなぜカッターを取り上げようとしないのか不思議なことだ。

 多分韓国ではいつもこのようなパフォーマンスをする男として有名な男かも知れない、と思って見ていた。みんなが無視したらたちまち絶叫もやめてすごすごと引き下がるような男だろう。これも韓国の恥であることは見ていた人間なら分かったに違いない。

 チベットでの焼身自殺に匹敵する抗議行動を自分も正義の名のもとに行っている、と酔いしれているのだろうが、このような男が戦争を賛美し国を誤らせ、ときには文化大革命で他人を糾弾して惨殺し、ギロチン台のマリー・アントワネットの頸が落ちたことに拍手喝采する。

 中国のネットで「韓国は竹島を実効支配しており、日本はそれに対して実力行使は何もしていないのに何をくどくど言い、おかしな行動をしているのだ?」という意見が見られたという。全く同感だ。世界中の人がそう思うだろう。それだけ韓国は竹島の実効支配をやましいことと考えている表れだ、と私など勘ぐってしまう。

ものの見方

 人や国によってものの見方、見え方はだいぶ違うようである。

 中国や北朝鮮(ときに韓国)は日本が右翼国家であり、軍事国家への道を突き進んでいる、と云う。当の日本の多くの人にとってはとてもそうは思えないことであるし、欧米や東南アジアなどの国もそのように見てはいない。もちろん中国や韓国の中にもそんな事はない、と思っている人も多くいるし、日本の中にも中国や北朝鮮の云う通り、と云う人もいることはいる。

 今回の安倍首相の訪米について、中国メディア(つまり中国政府)は「成果がほとんどなかった。日本はアメリカに冷たくあしらわれた」 と論評した。しかし韓国は日米の関係が改善されるなど、成果があったと好意的に伝えている。成果なし、と伝えたのは中国くらいか。根拠としてアメリカメディアが安倍首相の訪米を実況中継しなかったことをあげている。

 思うに中国は今回の安倍首相の訪米で、尖閣問題に対してアメリカがより一層日本よりの発言をすることを恐れていたのではないか。ところが尖閣問題については互いに協力すると云ういままでの状況から、それ以上踏む込むような事態にはならなかった。このことにほっとしたのだろう。

 私は、中国が日本に対して否定的論評をするときは、たいてい中国の「願望」が背景にあることが多いと見ている。つまり今回について云えば「日本とアメリカはあまり仲良くなって欲しくない」と云うことの裏返しで「日本はアメリカに冷たくあしらわれた」と云う論評になるのだ。このような見方を意識して見ていると、中国の「何を一体言っているのだ」と云う物言いも案外意味がよく分かったりする。

2013年2月24日 (日)

映画「ルルドの泉で」2009年フランス・ドイツ・オーストリア合作

 監督ジェシカ・ハウスナー、出演シルヴィー・テスキュー、レア・セドゥー、ブリュノ・トデスキーニ。

 ルルドの泉はフランスとスペインの国境付近、ピレネー山脈の麓にある。ルルドの奇蹟についてはご存知の方も多いだろう。難病や不治の病に冒された人達を含めた多くの巡礼たちが、連日数多くここを訪れて神の奇蹟を願う。子供の頃、テレビでここの奇跡についての映画を見た記憶があるのだが、調べてもよく分からなかった。勘違いかも知れない。

 映画はこの巡礼の地を訪れた巡礼者たち、それを介護するマルタ騎士団の介護者たちの姿を淡々と映していく。多くは車椅子に乗り、立ち上がることも出来ず介護者なしでは食事も出来ない人達だ。宗教的な儀式、響き渡るパイプオルガンの音楽、荘厳な賛美歌の歌声、司教の厳かな説教が見ているものを厳粛な気持ちにさせる。その中で、最近起こった奇跡の話がささやかれる。しかしそれがまだ奇跡として認定されていないことも語られる。

 車椅子に乗り、首から上しか動かせないクリスティーネもその一人で、彼女が各地の神聖な場所を巡礼していることが語られる。その介護の様子、食事風景、人々との関わりが映し出されるとともに巡礼者も介護者も欲望を持ち、他人をねたみ、自分のしあわせを希求する人間であることがほの見えてくる。そして巡礼者たちの共通した思いは「なぜ他の人ではなくこの私がこのような不幸な目に遭うのですか」という神への問なのである。

 もちろん物語であるから奇跡が起こる。そしてその奇跡が奇跡なのか奇跡ではないのか、あいまいなまま映画は終わる。神はなぜ全能であるのに不幸な人を助けないのか。この問にこそキリスト教の本質があるのかも知れない。

孫崎享「これから世界はどうなるか」(ちくま新書)

 副題は「米国衰退と日本」。著者は外務省出身。この人の書いたものは「不愉快な現実--中国の大国化、米国の戦略転換」を読んだことがある。最近テレビに出ていたのだが、その意見に違和感を強く感じたので、あえて最新刊を購入して読んでみた。

 この孫崎享という人は計数に明るい人なのだと思う。考え方が数学的で、論理的である。だが世界は数学だけで出来ていないし動いてもいない。もしくは彼はユークリッド幾何学レベルだ、と云ってもいいかもしれない。この感覚が外務省的世界観だとすれば危ういことだ。人間が全て理性的に、論理的に動くという幻想のもとに世界を把握しているとすれば、それは浅薄に過ぎる。計数的なものを無視したことが太平洋戦争という無謀な行動へ日本を導いたことは確かだが、その反省のもとに計数的なモデル的世界観に淫するのはまた危ういことだと思う。

 この人はアメリカがすでに衰亡期に入っており、日本がアメリカ追随外交に偏することは間違っている、という意見である。中国は間違いなくアメリカを凌駕するだろうという予測のもとに、それに日本は対応した行動をとらなければならないという。アメリカの将来について悲観的で、中国の将来には楽観的である。その根拠としてあげている多くの論者はしかしアメリカの政治学者たちである。

 つまりアメリカのプラグマチズム的な世界観を取り込みながらアメリカを批判するというアクロバチックな論理展開を行っている。

 この本のおかげで沢山の論者の意見を箇条書きのかたちで知ることが出来たが、人間を見ていないという印象を拭うことは出来なかった。

 この人には想像力が欠けていると思う(多分私が空想的に過ぎる、と反論されるだろうけれど)。

2013年2月23日 (土)

映画「ヴィンセントは海へ行きたい」2010年ドイツ映画

 監督ラルフ・ヒュートナー、出演フロリアン・デヴィット・フィッツ、カロリーネ・ヘルフルト、ヨハネス・アルマイヤー。主演のフィッツは脚本も書いている。

 激しいチック症状(トゥレット障害と云うそうだ)で普通の社会生活を送ることが出来ないヴィンセント(フィッツ)は母と二人で引きこもり生活をしていたが、その母が病気で死んでしまう。父親は息子の障害を嫌い、ずっと前に離婚しているのだが、妻の死を機にその家を売り払い、ヴィンセントを障害者の施設に入れてしまう。彼は政治家であり、息子を自分の知られたくない弱点と考えているのだ。

 このヴィンセントの障害の様子はかなり強烈で、見ているとあり得ないことながら、こちらもうつりそうになる。これを演じるというのはかなりリスクの高いことだと思う。それほど迫真的なのだ。

 障害者施設、というのは、つまり精神病院みたいなもので、多分多くの患者が、ヴィンセント同様家族に見捨てられているのだろう。

 ヴィンセントは強迫神経症のアルマイヤーと同室になる。そもそも同室など不可能な二人が、激しいストレスを感じながら折り合いをつけていく様子が、精神障害とは何かを突きつけてくる。さらにヴィンセントの面倒を見るように云われたマリー(カロリーネ・ヘルフルト)が二人に関わってくる。彼女は重度の拒食症である。そばかすだらけの目の大きなマリーは不思議な魅力がある。

 ヴィンセントはついにアルマイヤーと激しく衝突、暴力行為を働いてしまう。ヴィンセントはこの施設にいること自体が耐えられない。それを察したマリーは病院の医師、ローザ先生の自家用車のキーを盗み出し、ヴィンセントと施設を抜け出そうと誘う。「どこへ行きたい?」と尋ねるマリーに「海へ行こう、イタリアの海へ」とヴィンセントは答える。生前母親が海へ行きたい、といっていたのを思い出したのだ。

 二人が車に乗り込んだそのとき、アルマイヤーが無理矢理車に乗り込んでくる。邪魔ではあるが、二人はアルマイヤーを拒否しない。三人それぞれの心が微妙に通い出していたのだ。

 ヴィンセントの逃走と車の盗難が父親に連絡される。政治的にまずいと考えた父親は施設に急行、ローザ先生と二人で三人を追う。

 途中いろいろと重要な事件が起こるのだが、とにかく山岳地帯(素晴らしい景色が連続する)を越えて三人はイタリアへ辿り着く。イタリアの海には何があるのか。ヴィンセントの母親はなぜその海へ行きたかったのか。そのことが父親から明かされるのだが、ここが見せ場なので秘密。その海辺でマリーが倒れる。拒食症が限界に来て体力が持たなくなったのだ。彼女は病院に運ばれ、ヴィンセントは父親に連れ戻されるのだが・・・。

 ヴィンセントとアルマイヤーが「社会に歩み出そう」といって歩き出すラストシーンが感動的だ。この映画はドイツの最優秀作品賞に選ばれ、主演のフィッツも主演男優賞を取った映画だと云う。ドイツ映画も良いなあ。

岐阜城

Dsc_0148_2金華山ロープウエイ。

Dsc_0150お城への外門。最初はなだらかだが、お城は山の頂上にあるのでかなり急な石積みの階段を上らなければならない。冬でも一汗かく。

Dsc_0151_2岐阜城。昔は稲葉山城と云った。岐阜、という名は信長がつけた名前である。この金華山という名前も同様。もとはもちろん稲葉山と云った。

Dsc_0156各界に展示品がいろいろあるが、武器の展示してあるところが一番面白い。これは脇差し。ちょっと短め。忍者の手裏剣や吹き矢などもあった。

Dsc_0160天守閣からの眺め。長良川上流方向。山の向こうは美濃市で、さらに向こうは郡上である。

Dsc_0161長良川の下流方向。もちろん最後は伊勢湾に注ぐ。

Dsc_0164南方向。かすかに見えるのが木曽川。川の向こうは一宮であり、その向こうは名古屋だ。斎藤道三や織田信長がこの岐阜城を最も重要と考えたのは濃尾平野を一望の下に見渡し、しかも後背地は山岳であると云う要衝の地だからだろう。

天守閣の展望台は下とは違って風か強い。それも山を越えてくる北西の風だから汗がたちまち冷えてくる。

このあとロープウエイの山頂駅に戻り、ホットコーヒーを飲んで、金華山を後にした。

岐阜公園

Dsc_0139岐阜公園。長良川に近く、金華山の麓にある。ここからロープウエイで金華山の上まで登ることができる。

Dsc_0141公園内には板垣退助遭難の碑がある。

Dsc_0174公園内の池。柔らかい冬の日射しのもと、ベンチでしばし休憩。

Dsc_0142公園内にこんな看板が。実際に出没するらしい。

Dsc_0143金華山にはロープウエイ以外にも幾つもの登山道がある。標高320メートルあまり、楽な道でも徒歩なら一時間はかかる。コースによってはかなり険しい。息子は何度も直登に近い道で登ったという(大学の寮が岐阜にあったので夜中に登ったこともあると云っていた)。私はもちろんロープウエイを利用。

岐阜公園へ

Dsc_0131通りに面した家の壁面に生花が飾られていた。こういうものを見ると岐阜が好きになる。

Dsc_0135常在寺と云う寺が目についた。斎藤家菩提寺とある。もしやと思ったら斎藤道三と義龍の菩提所で、中に肖像画(国指定重要文化財)があるという。

Dsc_0133ようやく岐阜城が遠望出来るところまで来た。岐阜公園まではもうすぐだ。

Dsc_0136岐阜公園の手前に名和昆虫博物館がある。ここは昆虫博物館として世界有数のものだ。以前見たことがある。名和先生の講演も聴いた。非常に楽しいものだった。

Dsc_0144展示品の一部がロープウエイの駅に置かれている。すごいでしょう。

岐阜・伊奈波神社

伊奈波神社の入り口横に岐阜・善光寺がある。

Dsc_0107善光寺は長野が有名だが、甲府にもある。岐阜にもあるとは知らなかった。

Dsc_0108伊奈波神社への参道。鳥居の向こうに見える山のさらに向こうの奥に岐阜城はある。

Dsc_0109立派な神社で参拝も多いらしい。帰り道では赤ん坊のお宮参りの一行に出会った。みなとても嬉しそうな顔をしていた。

Dsc_0111山門、と云っていいのだろうか。寺ではなく神社だから違う言い方があるのか。まん中は神様の歩く道。丸い石の橋がある。

Dsc_0125神社の庭はとても落ち着いたいい雰囲気で神聖の気に満ちている。狛犬もいい顔をしている。

Dsc_0129本殿の横の宝物殿と覚しきところの木彫りの扉が素晴らしい。

Dsc_0123巫女さんが榊をもって本殿から現れた。会釈をしたらこんにちわ、とにこやかに挨拶された。

ここから岐阜公園までまだだいぶ道のりがある。さらに山沿いに北上する。

岐阜・檀森神社

岐阜の駅から岐阜公園に向かって歩いている途中で檀森神社という神社を見つけました。ここは織田信長が楽市楽座を開いたゆかりの場所だという看板が出ていました。

Dsc_0098檀森神社全景。

Dsc_0101正式にはこのような難しい字で書くようです。

Dsc_0103ツバキの花が咲いていました。

Dsc_0106駒爪岩。大昔、神人が神馬に乗って降臨したとき、神馬の爪が岩を傷つけた跡が残っているそうです。

Dsc_0105いくつか歌碑や句碑が立てられていましたが、これは句碑で「涼しさや箒目清き朝心」とあります。

Dsc_0102神社の後ろは山。ここで濃尾平野は終わり。

本当は岐阜で一番有名な伊奈波神社を目指していたのですが、こんな神社もあるのでした。車では気が付きません。ここから山沿いにさらに北へ向かいます。
















2013年2月22日 (金)

歩き疲れた

 本日は思い立って岐阜を散歩してきた。岐阜駅から神社へ二つほど立ち寄って、長良川そばの岐阜公園まで歩くこと約一時間。岐阜公園からロープウェイに乗って金華山へ。もちろん目的地は岐阜城である。岐阜城から岐阜の街を見おろしたかったのだ。写真は明日整理して公開する。

 帰りに名古屋によって丸善に行ってみたら、な、なんと、閉店しているではないか。無駄足にがっかりするよりも、本屋の衰退にがっかりした。丸善の閉店は別の理由かも知れないが、9月に再開する場所はどう考えてもレベルダウンする場所としか思えない(失礼)。

 栄(名古屋の中心部)をうろついてから地下鉄一駅分歩いて帰宅。片付けをして買い出しを行い、一風呂浴びて、いまビールを飲み始めたところだ。最初はホタルイカ(これが大好き)、いまモツを煮ている。安い酒を買ってきたので燗をつけてゆっくりと飲むつもり。ちょっとましなほっけがあったのでそれもあぶって食べよう。

大雪

 青森県の酸ヶ湯の積雪量が日本の積雪の新記録だという。酸ヶ湯は「スカユ」と読むが、地元の人達の言葉では「スガユ」と聞こえる。素晴らしい温泉があるところだ。もともとは鹿湯と云い、鹿が入っていたという話を聞いたことがある。鹿湯も地元式に云えば「スガユ」である。

 いま外を眺めていたら晴天なのに雪がちらついていた。雪国の晴天に降るともなく降るわずかな雪(これは雪国では雪が降っているとは云わない)のようで、積もることはなく、多分すぐやむだろう。

 雪国の人は雪にはうんざりだろうが、そうでない人は雪には心ときめくものがあるのではないだろうか。私も学生時代、四年間山形、米沢に暮らし、勤務で五年間金沢に暮らした。雪のなかの暮らしにには不便もあるが、ついに雪の降るときのときめきを失うことはなかった。もっと降れ、もっと降れ、と秘かに思い、それが顕れて地元育ちの人に眉をひそめられた。

 人は(私だけだろうか)天変地異に大きな困難を受けるが、自分に直接大きな被害がない限り、より大きなものに畏怖とともに心ときめくものを感じるような気がする。これ以上云うと顰蹙を買うようなことになりそうだが、子供のとき、台風で冠水した道路を長靴の中に水が入るのもかまわず歩いた、心うきうきするような気持ち、といったら分かるだろうか。

 外の雪はもうやんでいる。

山本夏彦「茶の間の正義」(WAC)

 山本夏彦とその時代の第一巻である。「茶の間の正義」は「室内」と「週刊朝日」などに連載されていたものをまとめたもので、文庫本になっている。それをメインに、「独言毒語」と「編集兼発行人」(ともに文庫本あり)の中から一部を合わせて編集されている。巻末に本人が秘匿していた若いときの日記が一部加えられている。この日記は生きていたら決して公開を許さなかっただろう。

 山本夏彦の文章を、かたちを変えて紹介しようとしてもそれだけの技倆がないと反ってそれを損なって紹介することになってしまう。そこで抜粋したものをあげることにする。引用したいところはたくさんあるがとりあえず最後の方の一文を。

 世間には習慣を疑うことをいいことのように言うものがある。先生たちの耳にはいりやすい説である。けれども、習慣を疑うには疑うだけの思慮と分別が要る。なぜ挨拶をしなければならないか、なぜ切手は左手に貼らなければならないかという程度の疑いなら、それは疑いではない。このたぐいのなぜに返答は無用である。疑いと称するなら、それ以上のものでなければならない。
 私は子供たちに、自分の目で見て、自分で考えて、自分の言葉で言えと教えるのは無益だと思っている。それが万人に可能なことだと、もし先生たちが思うなら幻想である。可能だと思わないで言うなら、何ものかに媚びるものである。人は他人の目で見て、他人の言葉で語って、それを自分の言葉だと思い込む存在である。
 だから習慣は重んじられなければならないのである。重んじてなお疑わしく思うものに、はじめて疑うことが許される。その資格あるものは、千人に一人、万人に一人である。したがって真に疑うものは、およそ凡夫凡婦に爪はじきされる。小学生はその習慣を覚える時期にいる。それなのに先生たちは疑うことはいいことだと言う。
(中略)自分たちがそそのかして、いま親たち先生たちは困っている。それならあらためたら良さそうなものを、なおあらためようとしない彼等の情熱を私は怪しむものである。(「習慣重んずべし」から)

2013年2月21日 (木)

佐伯泰英「状箱騒動 酔いどれ小籐次留書」(幻冬舎時代小説文庫)

 酔いどれ小籐次シリーズ第十九巻である。

 小籐次は水戸行きを前に、おりょう(小籐次と相思相愛の歌人にして美女)とともにうづ(野菜売りの娘・気立てがよく可愛い)の結婚式の媒酌を努める。お馴染みの顔ぶれが揃うだけで温かい気持ちになる。

 それをすませて間もなく、おりょうと共に水戸藩に呼ばれて水戸街道を北へ向かうのだが、小籐次の行くところかならず事件ありで、今回は水戸藩の葵の御紋の入った状箱を運ぶ飛脚が立て続けに三回も襲われて、書状ごと状箱が奪われるという事件が起こる。

 これが表沙汰となれば水戸藩の恥である。小籐次も協力することになるのだが、その事件をなんと老中の配下の隠密も追っていた。小籐次とも旧知の隠密達であり、幕府としては水戸藩同様ことを公にしたくない。しかしなぜこんなに迅速に事件をかぎつけて隠密が動いたのか。

 江戸と水戸の両方でことを起こそうと画策している黒幕がいることがやがて分かってくる。困難な探索の結果、水戸で起こそうとした騒ぎを小籐次が間一髪で未然に防ぐとともに、江戸でも南町奉行の計らいで大きな事件になることなく事なきを得て水戸藩も胸をなで下ろしたのであった。

 事件の最中に敵の忍びたちにおりょうと俊太郎が人質に取られるが、これも大事に至らず救い出すことが出来る。

 小籐次たち一行はまだ水戸にいる。予定ではこのあと成田山へ寄って、江戸へ戻ることになる。今回はさほどの強敵は出てくなかった。

蕎麦に酒

 神田やぶそばの火事で「池波正太郎が愛した」とやたらに引き合いに出されて、池波正太郎もあの世で苦笑しているだろう。

 池波正太郎は蕎麦屋に寄ればまず酒を頼んだ。蕎麦が出来上がるのを待つまでのしばしの間にその酒を楽しみ、そして蕎麦を食べるのが常だったという。

 山陰に出石(いずし)というところがある。行ったことのある人ならご承知だろうが、ここは蕎麦が有名で、蕎麦屋も多い。もちろんピンキリで、当たり外れがないことはないらしいが、当たりに出会えればまことに旨い蕎麦を食べることが出来る。ここは皿蕎麦と云う供しかたをする。皿に一口か二口分を盛り、それを五皿単位で註文する。五皿で普通の盛り一枚分と云うところか。女性でも十五皿から二十皿食べるのはざらで、男性なら三十皿くらい食べる人はいくらでもいるという。

 おいしい店を教えてくれた人がいて、しかもおいしい食べ方まで教えてもらった。冷や酒を蕎麦と一緒に注文するのだ。そして皿に盛られた蕎麦にほんの少しその酒を垂らす(びしゃびしゃにかけてはいけない)。そうすると蕎麦の味が際立って一層旨くなる。友人たちと行ったのだが、争ってその酒をかけて蕎麦を食い、ついには冷酒も冷酒として飲んで楽しくおいしく戴いた。

 蕎麦に酒、というのが旨い取り合わせなのをもちろん食通池波正太郎はよく承知していたのだろうと思う。しかし残念なことに、いま私は車で出かけることが多い。蕎麦に冷酒をちょいとかけるのは旨いと知りながら諦めざるを得ない。まことに残念なことである。

映画「鉄拳 ブラッド・ベンジェンス」2011年日本映画

 監督・毛利陽一。3DCGアニメーション映画。ベンジェンスは復讐とか仕返しのこと。

 シリーズものなので、風間仁と彼が率いる三島財閥、仁の父親の三島一八率いるG社というのがこの物語では当然の存在とされているのだが、それは当初表面に出てこない。主人公らしいのはリン・シャオユウという拳法の使い手らしき女子高生で、彼女はG社の(幹部?)アンナの指示のもとにスパイとして京國校に転校する。目的はこの高校にいる神谷真という高校生を調査することだ。ここで彼女はアリサという女子高生に出会う。神谷真をめぐって関わり合ううちにアリサがリンと同様の目的で三島財閥から送り込まれていることが明らかになっていく。

 本来は互いに敵対する存在なのだが二人は親しくなっていく。神谷真という少年がどうやら不死身の細胞を持っているらしいことが分かってくるとともに三島財閥とG社がそれを狙っていることも分かってくるのだが・・・・

 物語は突然エスカレートし始めて、このリンとアリサ、そして神谷真など関係なしに風間仁と父親の三島一八との闘いとなる。本来は深い因縁の物語があるようなのだが、とにかくすさまじい闘いが始まるのだ。それはおよそ人間同士の闘いとは違うレベルのものだ。

 そして仁が父親を倒したところで突然祖父の三島平八が登場する。三島平八は神谷真に不死細胞を実験的に植え付けた(?)張本人らしい。そこで三島平八と神谷真とのさらにすさまじい闘いが始まる。三島平八は京都の地下に眠る精霊「木人」の力を身につけており、もう人間とは云えないようなパワーの持ち主となっていた。力及ばず敗れた神谷真の意思を受けて仁は祖父の平八に闘いを挑む。

 いやあ闘いのレベルのエスカレートの仕方が想像を絶する。日本のアニメにはラストにこれがあるのが結構多い。これでもか、というそのエネルギーの注入のすさまじさは実際に見たものではないと分からない。

 ストーリーなんかどうでも良いのだ(よくないけど)。とにかく、参ったか、といわんばかりのすさまじさは堪能出来る。とにかくすごい。

池波正太郎「一本眉 新・鬼平犯科帳」、「五月闇 新・鬼平犯科帳」(文藝春秋)

 鬼平犯科帳の第二期第一巻、第二巻(通算第八巻、第九巻)。ここから二段組ではなく一段になった。それぞれ六話が収録されている。

 火付け盗賊改め長官・長谷川平蔵の配下には与力同心達がいる。悪人が相手であるから、それぞれ命がけで働いているのだが、その仕事柄、悪とぎりぎりの接点に身を置くことになり、その精神的な加重からときに異常な振る舞いに及ぶものもあり、他人に危害を加えてしまうものもあり、悪人の罠に陥るものもあり、また自ら悪へ踏み迷うものもある。

 辛くも転落の淵にとどまれるか、転げ落ちるか、それはそのときの運もあり、その人間の本質やまわりの人との関わりも大きく影響する。その全てを束ねながら、その全ての責任を一人背負って長谷川平蔵は心身をすり減らす。この鬼は最も情意を具えた鬼なのだ。

 世間一般の人間、そしてそれを護る人々に人生があり、有為転変がある。まして悪人をや、である。そのそれぞれの人生に対する深い思いがなければ彼等の気持ちや行動が予測出来ようもない。長谷川平蔵はそういう意味では優れたプロファイラーなのだ。

 「五月闇」ではもと盗賊でありながら気の良い伊三次が命を落としてしまう。池波正太郎も、まさかあのような最期を遂げることになろうとは思わなかった、とあとがきで述べている。物語は作者の中でひとりでに動き始め、展開していくのだ。

逆転

 2013年1月の訪日・訪韓者数は、1年11ヶ月ぶりで訪日韓国人が上回った。訪日韓国人が23万4500人、訪韓日本人が20万6474人だったという。

 2012年の8月には訪韓日本人の数は34万6950人、9月には30万8882人で、訪日韓国人のほぼ2倍であったが、日韓関係の悪化で大きく減少した。さらに円安により、訪日韓国人が増えていることで逆転したとみられる。

 特に韓国の若者達の訪日が急増しているという。「世界の中心国家」の、それも若者が日本に来てくれることは、経済的にも文化交流のためにもまずはありがたいことだと思う。少しでも反日意識の緩和につながればこれに越したことはない。しかし人間は見たいものしか見ない。そこにあっても見る気のないものは見えないから、なかなか一息に、というわけにはいかないだろう。

 それよりこれだけ反日が報道されていても20万人以上の日本人が訪韓することが驚きだ。まあ韓国人全てが反日というわけではないはずだ。というよりも一部だけなのかも知れない。多くの韓国人は反日に反対するのは自分にとって危険だと感じて黙っているだけなのだろう。いろいろなことで日本人にも嫌韓意識がかなり高くなっているが、韓国人それぞれについては、その個人への好き嫌い以上の感情を持っているわけではない。これはお互い様だろう。

 いま、韓国は右肩上がりのときだが、日本のように右肩下がりになったときに、かさにかかって韓国をことさら敵視するようなみっともないことはしないようにしたいものだ。

2013年2月20日 (水)

世界の中心

 韓国の李明博大統領が退任を前に演説を行った。

「在任中の功罪は歴史の評価に任せるが、韓国は辺境にある小さな国ではなく、世界の中心国家となった。今後も引き続き成長していくだろう」と語ったそうだ。

 韓国が今世界の中心国家かどうか、そう思っているのは韓国だけのように思うがどうだろうか。先般、漢字の起源が韓国だという学説を唱えた学者をあざ笑ったが、夜郎自大の精神は韓国の病気のようだ。

 そういう日本もある時代にそのような迷妄の中にいたことがあった。

 ところで引退した後の李明博がその身を全う出来るか、人ごとながら興味のあるところだ。「歴史の評価」以前に、他の大統領と同様、国民の評価が下されるのではないか。既に周辺はずいぶんきな臭い事になっているようだ。これも韓国の病気か。

我が国も被害者

 我が国も被害者だと言っているのは中国政府である。

 アメリカ政府は公式に中国にハッキング行為による被害を受けている、と発表した。そしてその発信元が中国人民解放軍の上海にある特定の部局である、と指摘した。

 それに対して中国政府はアメリカの言っていることは事実とは異なる、と主張し、中国は世界で最もハッキングの被害を受けている国であり、中国軍は如何なるハッキング活動も指示したことはないと主張した。

 アメリカが、特定の部署を名指しであげて中国を非難するのは余程のことである。真偽のほどは不明だが、ここまで言うからには相当の根拠があるのだろう。

 だが中国はアメリカの指摘に間髪を入れずにこの反論を行っている。指摘について中国政府は真偽を確認する気がないし、確認するまでもなく事実だと承知しているのであろう。ただ、中国政府がそれを指示したのではないことはそうかも知れない。繰り返し言っているが、軍部と中国政府とは全く別個の価値観で動き、政府のコントロールのもとにはないことだけがここでも明らかなように見える。

だから中国政府は「我が国も被害者」というのだ。

2013年2月19日 (火)

山本夏彦「とかくこの世はダメとムダ」(講談社)

 随筆、エッセイと言えば、日本には枕草子があり、徒然草があり、方丈記がある。残念ながら古典の素養がないのでそのおもしろさが分からないが、勉強してじっくり読みたいとずっと思ってはいる。
 
 司馬遼太郎も空海の風景以降、小説らしきものは書かなくなって、それ以後は随筆と云っていいものを書いた。そして私は初期の「梟の城」などの時代小説らしい時代小説が好きで、後半の歴史小説はあまり好きではない。

 陳舜臣も歴史エッセイを数多く書いていて、大好きだ。

 随筆を読み始めたのは誰のものからだろう。高橋義孝あたりだろうか。山口瞳、江國滋、青木雨彦、そして内田百閒、山本夏彦、井上ひさし、團伊玖磨、曾野綾子等々。ちょっと思い出すだけでこれだけ出て来たが、もちろんその数倍の人のエッセイを読んできた。

 その中で山本夏彦は結構早い頃から読んでいたし、所有している本も数多い。このむだのない文章が大好きだ。

 取り上げたこの本は、新聞や雑誌に寄稿したもののうち、単行本に収録されていないものを集めた、ということで2010年に刊行されたものだ。別のものと重複するので省かれたのだと推察される文章が、上手に配列されている。洩れていたからレベルが低いなどと云う事はこの人の場合決して無いので各ページごとにその文章のうまさとユニークな見方に唸らされる。

 これとは別にWAC社が「山本夏彦とその時代」として全十冊を順次刊行している。これは山本夏彦の子息の山本伊吾他が編纂したもので私は第二巻までそろえている。なかなか本屋で見当たらないために買いそびれているが既に全部出ているかも知れない。文庫本でそろえた本が多いので改めて単行本でそろえたいが、第七巻の「『室内』40年」と第八巻の「私の岩波物語」、第十巻の「夢想庵物語」はハードカバーで持っているので買う予定はない。

中国人もびっくり

 麻生財務大臣(元総理)のG20への出で立ちが世界中で話題になったらしい。「ギャングスタイル」と呼ばれているという。しかしその評判に耳を傾けるとあまり悪意があるようではなく、どちらかと云えば好感を持たれているように聞こえるのはこちらのひいき目のせいか。

 これは中国でも同様で、いろいろネットでも取りざたされているものの酷評するものはない。それよりも、日本でちょうど折良く発表された閣僚の資産リストで明らかになった麻生財務大臣の資産に意外な意見が多かった。

 麻生財務大臣は安倍内閣の中で最も資産額が多い、4億7138万円だった。これには大臣本人、その配偶者、扶養する子女の名義のものまで全て含まれており、土地・建物、預貯金、有価証券、自家用車やゴルフの会員権、骨董品まで事細かに明らかにされた上での全てであることはご承知の通りである。

 中国では政治家がその資産を公開するなどと云う事はまずない。ましてや身内も含めてなど絶対に明らかにされることはないし、もしされても誰も信じたりしない。その上、麻生大臣の資産が最高額と言われながら、その金額があまりにも少ないことに中国人もびっくりした。

 中国の高官がほとんど数十億、数百億円の資産を秘かに持ち、海外などに隠匿していることは公然の秘密なので、日本の大臣の資産があまりに少額で驚いたのだ。中国では「村役場の幹部でもこのくらいの資産を持っている」のだそうだ。

 まことに中国は豊かな国になったらしい。

山本夏彦の文章

 難解な言葉を多用して、何を書いているのか全く分からない文章がある。哲学や社会学などの本にしばしば見られる。しかしそれには全く正反対の二通りがあると内田樹先生は教えてくれた。ひとつは、書いている本人も何を書いているか分かっていないで、自分が如何にも賢い人、えらい人だと見せたいだけのこけおどしのものである。そしてもうひとつが、今まで誰も気が付かなかったことを発見したのでそれを何とか人に伝えたい、というあふれる思いで書いた文章であり、今までに使い古された言葉ではどうしても表現出来ないために造語を繰り返したり、言葉を通常とは違う使い方をするので難解にならざるを得ないものである。

 本来文章とは表現であり、書いた人がその文章を読むだろう人へのメッセージである。内田先生流に言えば贈り物である。だから伝えたいものがあり、伝えようとする心があるかどうかが問題である。

 先に挙げた難解な文章のうち、自分をえらそうに見せようという文章のメッセージは、自分をえらいと思ってくれ、というものでしかないから、読むだけ時間の無駄である。しかし、いかに難解でも、今まで知られていないことを伝えたい、という思いにあふれた文章は、難解であってもそれと取り組めば必ず得るものがあるはずなのだ。

 このような難解な思想を伝える文章ではないが、人は文章で伝えたいことが十あれば、何とか伝えようとして二十にも三十にも、ときには百にもして伝えようとする。それは言葉は伝わらないものだ、という経験によるものだろうか。

 ところが山本夏彦は伝えたいことが百あったら五十にしてみる。そしてさらに二十にしてみる。さらに十にまでそぎ落とす。その上さらに削ろうとしてそれでは伝えることが不可能と悟り、ぎりぎりのものを自分の文章とする。これは不親切だろうか。もちろん不親切である。

 親切な文章は、万人に、なるべく多くの人に伝えたい、という意思のもとに書かれる。しかし山本夏彦は自分の伝えたいことが万人に伝わるなどとは期待していないし、それを目指してなどいない。そのかわり、山本夏彦は人をとても信じている(日頃人間不信を標榜している人だけれど、人を信じる人しか人間不信にならない)。だから文章をそぎ落としても人に伝わる、理解する人がいる、と確信しているのだ。

 逆説的に言えば、親切な(過剰な)文章は読者を信頼していないと云えるかも知れない。言葉が足らなければ読み手がそれを補おうとして真の理解が生まれることもある。人はそれほど馬鹿ではないのだ。

 山本夏彦の文章にはだからワンセンテンスの中に序論があり、本論があり、反論があり、結論がある。だから文意を汲み損なうと何を言っているのか分からない。だがあるとき突然その文章、文体に慣れると悉くがハタと膝を打つことの連続になり、やみつきになる。こんなに不親切なのに心優しい文章家はいないのだ。大好きな所以である。
  

 山本夏彦は1915年生まれ、2002年に87歳で死去している。「工作社」を創立し、雑誌「インテリア」(もと「木工界)」を発行した。この雑誌への編集長のコラムが取り上げられてエッセイ集の出版となった。父は詩人の山本露葉、父の死後、中学生のときに父の友人の竹林夢想庵につれられてフランスにわたり、1930~1933年まで過ごす。
 彼は常々自分は死んだ人間である、と述べた。早熟で、若いときにいちど人生を全うしてしまったと実感しているようにも見える。
 最初の文筆活動は、フランスの文人レオポール・ショヴォの童話「年を歴た鰐の話」の翻訳(1941年)。

 この「年を歴た鰐の話」は山本夏彦の強い意向で長らく絶版だったが彼の死後、2003年に文藝春秋から刊行された(もちろんすぐ購入。私の宝物である)。

映画「長ぐつをはいたネコ」2011年アメリカ映画

 ドリームワークス製作のコンピューターアニメーション映画。
 監督クリス・ミラー、声アントニオ・バンデラス、サルマ・ハエッタ、ビリー・ボブ・ソーントン。

 ネコ好きには楽しい映画だろう(犬の映画なら絶対見ない)。私はマンション暮らしではネコが可哀想だから飼わないくらいネコが好きなので(このコンピューターアニメーションというのに何となく相性が合わないのだが)何とか最後まで楽しむことができた。

 いわゆるフランスの童話の長ぐつをはいたネコの物語とは全く違うストーリーである。「ジャックと豆の木」、「金の卵を産むガチョウ」の話がごちゃ混ぜにされて、そのほかいろいろな物語のキャラクターや名前が使われている。

 ネコがなで方であることにあらためて納得したりした。

 でもこう云うお遊びみたいな映画に金とエネルギーを費やすというのもアメリカ流なのだろうか。貧乏性の私としては首をかしげてしまう。

 あの「シュレック」のスピンオフだと云う事だ。見たことないしあまり見たい映画でもないので知らない。

2013年2月18日 (月)

映画「セットアップ」2012年アメリカ映画

 監督マイク・ガンサー、出演カーティス"50Cent"ジャクソン、ブルース・ウィリス、ライアン・フィリップ。

 悪漢が主人公の映画である。出てくるのは悪人ばかりだからものを奪ったり、人を傷つけることについての価値観は通常の社会通念とは全く違う世界である。しかしその中にもこだわるべき価値観、優先順位がある。

 サニー、ビンス、デイブの三人は兄弟のように育った仲間だが、ビンスが持ち込んだダイヤ強奪の話に乗り、決行する。ところが、ビンスが予定しない殺人を犯してしまう。そのあと強奪したダイヤを処分するために、売人との待ち合わせ場所に赴いた三人だったが、突然ビンスがサニーとデイブに銃を向ける。全てはビンスが仕組んだものであった。

 デイブは即死したが、サニーは辛くも生き延びる。ここからがサニーの復讐の話である。ビンスを追う中で、裏社会のボス(ブルース・ウィリス)との関わりが生じ、ボスの片腕の男とともに仕事をしなければならなくなる。首尾よくその仕事を成し遂げるのだが、ともに赴いたボスの用心棒を事故で死なせてしまう。言い訳は困難とみたサニーは姿をくらまし、裏社会は迷走をはじめる。

 物語と並行して刑務所に収監中のビンスの父親の話が挿まれる。彼の存在が全体に影響しているのが物語が進むにつれて分かってくる。

 サニーはビンスに復讐を果たすことが出来るのか、ボスたちの追求を免れることが出来るのか。サニーの、いたずらに画策しない行動がかえって良いほうに働いていくのが面白い。小細工は自らを追い詰めるものなのだ。

 それなりに筋が通っていてラストも悪くない。面白い映画だった。

国際漢字会議

 韓国ソウル大学の朴正秀教授という人物が、「漢字を発明したのは韓国人である。世界文化遺産に申請するべきである」と唱えたとして中国の人民日報が伝え、中国内で大きな話題になった。

 その後さすがに無理があることを韓国も感じたのか、「そもそもソウル大学には朴正秀という教授は存在しない。人民日報の誤報である」と中国側の捏造であるような反論を行っていた。

 ところがこのたび韓国・仁済大学の陳泰夏という客員教授が「漢字は韓国人の祖先が創造した文字である。中国の学会も承認していることである」と発表した。この客員教授は言語学の権威で、「国際漢字会議」のメンバーなのだそうだ。

 中国もこんな頭のおかしな人物にいちいちつきあう必要はないと思うのだが、実は中国の古代が起源であることが明らかな、「端午の節句」について、韓国は自国に伝わる「江陵端午祭」を無形文化財としてユネスコに申請し、これが認められたことから「端午の節句」の起源そのものを韓国としかねない状況なのだ。

 そうなると漢字の起源も韓国が申請したら世界文化遺産で承認されかねない。ユネスコのレベルもあまり当てにならないことは誰でも知っているもののそれなりの権威はある。ましてや「国際漢字会議」が認めたものならなおさらだとユネスコは判断するだろう。ところがこの「国際漢字会議」というのは韓国主導の組織なのだそうだ。

 韓国の夜郎自大のこの思い上がりは韓国経済がいちどひしゃげないと直りそうもないようだが、心ある韓国民は恥ずかしいと思わないのだろうか。そもそもそれほどに云う漢字を自国で使用しないでハングルのみにしてしまったのに「国際漢字会議」は黙って見ていたのだろうか。韓国へ行くとハングルだらけで(当たり前だけれど)何の看板なのか何の店なのかが皆目分からない。起源を唱える前に、「国際漢字会議」は漢字をもう一度取り入れるよう国に働きかける努力をすると、日本人にも中国人にも分かりやすくなるのに。

読み掛け抜粋

 いま山本夏彦の本「とかくこの世はダメとムダ」を読んでいます。それについては改めて紹介するとして、その中の文章をここで取り上げてこの山本夏彦という人がどう云う文章を書くのか知って戴きたいと思います。

 馬鹿は一人でも馬鹿であるが、十人集まっても馬鹿で、百人集まっても馬鹿だと言ったら、そうでないと教えられた。馬鹿は十人集まると十倍の、百人集まると百倍のバカになると教えられた。
 だから古人は、民をして由らしむ可し、知らしむ可からずと言ったのである。ジャーナリズムはこれを、民は命じて従わせるべし、知らせてはならぬと解釈するが、間違いである。大ぜいというものは、従わせることは出来るが、その訳を理解させることは出来ない、というほどのことである。可し可からずは可能の可しで、命令の可しではない。

 人は他人に考えてもらって、それを着服して、自分の考えだと思って便利とする存在である。その一々に考える能力があるとおだてるのは、おだてて幾らかにするものの甘言である。新聞もテレビも、大ぜいの個々に見てもらわなければならない。だから、民の声は神の声、世論は誤ることなしという。その甘言に乗って、人はどこへ行くか。

 だから私は大ぜいが異口同音に言うことなら信じない。ましてそれがうまい話なら信じない。この世は進歩して止まない、また全き平和が来るという説の如きは眉ツバだと思っている。それはあまりに俗耳に入りやすい。ハメルンの鼠にも分かる説だからである。

 どうです。これが夏彦節です。たった二、三頁にこれだけの文章がちりばめられているのです。分割して全て紹介したいところですが、予告編として取り上げました。

矢吹晋「激辛書評で知る 中国の政治・経済の虚実」(つづき)

 次の書評はロバート・クーン著「中国を変えた男 江沢民」である。この著者について、ゴーストライターの存在が噂されていることが紹介されている。と云うのが書かれているないように何らかの意図的なものが隠されていると見なされているからだ。それが見え見えなのにその人物についての記載が一切ないことが不審であると云う。

 しかしそれを割り引いたとしても、この本には見るべきものもある、と矢吹晋教授は話を展開していく。それは江沢民、と云う人物についての人物像、彼の行った反日、嫌日の背景についてである。彼の公的に伝えられている生い立ちの中に欺瞞があることに言及する。そして江沢民が訪日したときの皇室晩餐会でのありうべからざる態度、外務省や小泉首相に対しての執拗な謝罪の要求に彼の資質が表れている。この時の中国の公式記録を読み比べながらそれを解析している。この江沢民という人物が10年間に亘って行ったことがどれほど日中関係を損ない、中国の停滞を招いたのかは歴史が示している。中国が本当に豊かになり出したのは江沢民のもとへ朱鎔基が首相として辣腕を振るいだしてからのことであり、胡錦濤が主席になって四年、江沢民がようやく軍権を放棄して名実ともに胡錦濤が実権を振るえるようになってそれが花開いた。しかし江沢民の残した上海閥という腐敗の根は断たれることなく、いまだに中国中に繁茂している。もちろんこれは共産党支配体制というものが持っている宿痾でもあるが。

 そして次が書評ではないのだが、この本の白眉である日中国交回復のときのやりとりについての詳細を究めた解析の部分である。「毛沢東はなぜ田中角栄に「楚辞集註」を贈ったのか」という疑問を解き明かしていくこの章を読むだけでもこの本を読む値打ちがあると云っていい。

 田中角栄が毛沢東や周恩来とどのようなやりとりをしたのか、そして日中戦争に対しての田中角栄の文言をどのように中国側が解釈し、それに対してさらに田中角栄が説明して了解されたのかが詳細に明らかにされていく。同じ漢字という文字を使用しながら長い歴史の中でその意味を異なるものとしている国は反って誤解を招くことがある。しかしそれを乗り越えたとき、互いに深い理解が可能となる。そして最後に毛沢東は田中角栄を私室に呼び、「楚辞集註」を贈呈したのだ。その謎を解いていく作業は推理小説を見るようでわくわくする。深い意味があったのだ。

 しかし不幸なことに外務省はその真意を理解出来ず、外務省に残されている正式の記録には意図的な不備が残された。

 このあと天安門事件と鄧小平、そしてそのときの趙紫陽の行動をそれに関連する本をいくつかあげながら、解析していく。自分の趙紫陽や鄧小平についての人物像がここで改められていくのを実感する。

 そう、この本のすばらしさは自分が今まで作り上げていた人物についての人物像の見直しを迫るような事実が次々にあげられていることなのだ。もちろんそれらが真実であるかどうかは別のことだが、自分の考えに変更を迫るようなことを知る歓びは何物にも代えがたい。

 このあと台湾についての言及がある。李登輝と司馬遼太郎により、台湾を知ることが出来た反面、それが強く刷り込まれすぎで台湾の真実を見失ってしまっていることを思い知らされた。この中で侯孝賢の「非情城市」が取り上げられ、二・二八事件(1947年)についての著者のこだわりが詳細に述べられている。ここで取り上げられた、籃博洲著「幌馬車隊之歌」という本を手がかりに知らなかった台湾の真実を知ることになった。

 さらに中国経済と朱鎔基について、朱鎔基の三冊の評伝をたたき台に解説する。そして胡錦濤の和諧社会について、農業問題に関する二冊の本、「中国農村崩壊」と「中国農村調査」を取り上げて論ずる。この「中国農村調査」は私も持っていて拾い読みをした程度しか読んでいないが、よくこんな本が出版を許されたと思っていたら、中国では発禁になったと聞いている。労作である。

 最後は粗雑な飛ばし方になってしまって申し訳ないがとにかく中身が濃いし、新しいものの見方を教えてくれた貴重な本である。今でも書店で手に入るのかどうか知らないが、捨てなくてよかった。

2013年2月17日 (日)

矢吹晋「激辛書評で知る 中国の政治・経済の虚実」(日経BP社)

 2007年に出版された本で、著者の矢吹晋は横浜市立大学の名誉教授、専門は中国経済論、現代中国論。

 この本を購入して二、三十頁読み進んだところで歯が立たずに抛りだしていた。日本語、中国語、英語を併記しながら、書評をするために取り上げた本の内容の考察をしているのだが、何せ中国語はもちろん英語もほとんど分からない。それに著者の依って立つポジションが中国寄りに偏っても見えたので、本を整理する際に読まずに処分しようと思っていた。

 老神温泉に湯治に行って、かなりじっくりと本を読むことができるようになり、改めてこの本を読み直して(と云ってもほとんど最初から読み直しだが)みたら、読んでよかった本であることが分かった。

 もちろん英語の部分も中国語の部分もほとんど飛ばして読まざるを得なかったけれど、著者が丁寧に解説をしてくれているのでその意味は何とか理解出来る。この本は表題の通り、書評集である。それも激辛である。そして読了したので、依って立つポジションは中国側でも日本側でもないことを明言出来る。強いて云えば、調査不足や資料の淺読みのまま、観念的な文章をでっち上げて感情を煽るような本や評論家を徹底的にこき下ろしている本だ。

 最初に取り上げた本(と云うか、やり玉に挙がったの)が、張戎(女性)とジョン・ハリデイ(夫君)共著の「マオ 誰も知らなかった毛沢東」(訳 土屋京子)である。これはベストセラーにもなったし、今まで明かされなかった毛沢東の真実が明らかになった、として数多くの書評家が激賞した本だ。日本以上に欧米でも評判になった。

 この本の問題点を指摘するにあたり、本来参照するべき資料が当たられていないこと、インタビューをしたという人物の裏付けがとれないことなどが次から次に挙げられていく。これが中国語と英語での文章併記なのだ。そもそもこの本はアメリカで、英語で書かれた本だからだ。

 参考にした文献がお粗末で、押さえるべきものが意図的に外され、首をかしげるような資料を憶測に基づいて使用していることがとことん暴かれている。そもそも毛沢東全集すら著者は読んでいないことが明白であることが暴露されている。今まで公表されている毛沢東像に対して違う面を見せようというのなら、もとを押さえなければ始まらない。

 矢吹晋氏はこの本は三文歴史小説、と断言してはばからない。

 実は幸か不幸か私はこの本を読んでいない。と云うのは欧米や日本でのこの本に対する賛辞があまりに大きいのでうさんくささを感じて、どうもこれは歴史を学ぶためにはなりそうもないな、と感じていたからだ。あまりにも毛沢東の下半身のことなどへの言及が多いように感じたからでもある。小説だ、と思った。

 この本(矢吹教授の本)にやや中国寄りではないか、と云う印象を持ったのは、「大躍進」についての毛沢東の直接的関与に対してやや懐疑的であることや、その死者数がかなり控えめであると感じたからである。しかしそれは逆に私が誇大に考えているかも知れない、と考えることも出来る。

 そしてこの本を歴史の資料として激賞した日本の中国専門家や中国に詳しいジャーナリストたちがこき下ろされていく。その知識のあまりにも不十分なこと、間違いに気が付かず、さらに恥の上塗りをしている様子が、痛快に暴かれている(ここでこき下ろされている人の本を私はずいぶん読んでいる)。

 この本が取り上げている本は主なものでも十冊を超えるが、最初の本のところだけでこんなに長くなってしまった。とりあえずここまでとして、残りは次の回に取り上げる。

ありがとう

 「コメント」や「いいね!」を下さっている方々へ。いつもありがとうございます。誰かが読んでくれている、と思うと、とても励みになります。そのほかの人も思いついたことを書き込んでください。書き込みにはメールアドレスもURLも不要です。気軽にどうぞ。

 岩佐さん、私は残念ながら植物に詳しくないし、バラについての知識はほとんどありませんので、あなたのホームページを丹念に読む能力はありませんが、今後ときどき拝見させて戴くことにします。アクセス数から見るとだいぶベテランの方と拝察しております。今後ともこちらの雑文の方も覗いてください。田渕さんによろしく。

環境に影響なし

 中国当局は「北朝鮮の核実験は環境に影響なし」と発表したそうだ。「環境に関する影響は軽微であって心配するほどではない」と云うなら分かるが「影響なし」とはなんたることか。環境に影響が出ないはずがないことは誰にでも、中国国民でも、そして中国当局でもわかっていることではないか。

 中国の主要メディアは北朝鮮の核実験による放射能拡散は、この時期の季節風の風向きから、韓国と日本に影響を与えるが、中国に来る恐れはない、と伝えている。

 ただ、中国のネットユーザーからは今回も中国が北朝鮮に実験中止を申し入れたのに全く無視されたことに不快感を表すものが多い。中国からの支援で北朝鮮が生き延びていることは中国人の多くが承知していることであり、それなのに中国の要請を平然と無視して、面子をつぶしたことに怒っている。それに北朝鮮に攻撃用の核兵器が出現すれば、いつなんどき中国に対して向けられるか分からないことは馬鹿でも分かることだから、その懸念を訴える人も多いようだ。

 そのような民意が盛り上がれば、中国政府は北朝鮮に対して何らかの強硬措置に出ざるを得ないのだが、はたしてどこまでの対応をするだろうか。

 たびたび云うが、私は中国解放軍の独走と、北朝鮮軍部の独走が背後でつながっており、中国政府は解放軍を慮って北朝鮮に強い態度に出られないのだと見ている。そして金正恩は・・・もちろん命がおしいから軍部の言いなりになるしかないのだろう。だから云う事や行動が支離滅裂に見えるのだ。本音はアメリカや日本からの支援が欲しい、そして中国との関係とバランスをとりたいはずで、そのようなことをにおわした直後に全くそれと矛盾した行動をとっているように見えるのは金正恩が本当に実権を持っているわけではないことを表しているのではないか。

 習近平も(胡錦濤もそうだった)金正恩もまだ軍部を掌握しているとは云えない。射撃管制レーダー照射事件もその表れだろう。それをいいことにこのように軍部が暴走している、と見るがどうか。

そもそもシビリアンコントロールなど幻想ではないかと思う。ましてや中国や北朝鮮では。

2013年2月16日 (土)

映画「カイロの紫のバラ」1985年アメリカ映画

 監督ウディ・アレン、出演ミア・ファロー、ジェフ・ダニエルズ。

 ウディ・アレンは食わず嫌いで、彼の映画はほとんど見ていない。この映画を見たのはひとえにミア・ファローが出ていたからだ。

 初めてミア・ファローに出会ったのは1968年のロマン・ポランスキーの「ローズマリーの赤ちゃん」だった。この目の大きな、いかり肩の、しかもグラマーとはほど遠い女性に、それまでの女優のイメージとは全く違う不思議な魅力を感じた。そして翌年、ダスティン・ホフマンと共演した「ジョンとメリー」で忘れられない女優になった。さらに「フォロー・ミー」、そして「ナイル殺人事件」と全て映画館で見た。この「カイロの紫のバラ」も映画館で見たのだけれど、1985年の作品とは思わなかった。その前の作品と続けて見たと思っていた。

 この映画はアカデミー賞を受賞している。

 ミア・ファロー扮する映画好きの女性・セシリアが主人公である。時代はアメリカの不況時代、彼女は人妻だが、夫は失業中。真剣に職を探すでもなく、彼女のレストランでの仕事の稼ぎすら奪い取り、不平を言えば暴力を振るい、好き勝手なことをしている。そんな彼女の楽しみは街の映画館で映画を見ることだ。

 その映画館でかかっていたのが「カイロの紫のバラ」という映画である。その中に登場するトム・バクスターという役柄の男性が、彼女のあこがれであった。夫との間がぎくしゃくする中、彼女は毎晩その映画を見に行き、映画に陶然となることで心を癒やしていた。

 五回目にその映画を見ているとき、突然スクリーンの中のトム・バクスターがストーリーの流れを無視してセシリアをじっと見つめる。そして何と云うことか、画面から飛び出してセシリアのもとに駆け寄ってくるのだ。場内は騒然、スクリーンの俳優たちもてんでんにその事態について勝手なことを語り出す。

 それぞれの台詞の応酬、セシリアとトム・バクスターの逃避行はウディ・アレンの独壇場で、ここでばかばかしいと思わせずにどんどん物語に引き込んでいくのは驚くほどの力量だ。もちろんあのミア・ファローの大きな目に見つめられたら何でもありになるのだ。

 ここからの物語は実際に見てもらいたいが、映画と現実とが交錯するなかで真実とは何か、と云うことも考えさせ、感じさせてくれる。夢が現実になり、そしてやがて・・・。哀しみの中に現実を見つめ直し、多分今までと同じようにセシリアは生きていくのだろうけれど、彼女自身の内面ははるかに豊かになっていることだろう。

 私のようなウディ・アレンがちょっと苦手、と云うだけでこの映画を見ていない人は、ミア・ファローの魅力を頼りに是非この映画を見て欲しい。映画好きの人なら絶対好きになるはずだ。

 ミア・ファローを最近久しぶりに見たのはリュック・ベッソンのアニメと実写の映画「アーサーとミニモイ」シリーズだった(昨年このブログで紹介した)。これもむちゃくちゃ楽しい映画で、ミア・ファローは主人公のアーサーのおばあちゃんを楽しそうに演じていた。

 ところで映画の中とそれを見ている人との両方の視点を描いた映画にはリノ・バンチュラ主演、ブリジット・バルドーがヒロインの「ラムの大通り」という映画がある。大好きな映画で、傑作である。もしビデオ屋で見かけたら、借りて見ることをおすすめしたい。ラストシーンが秀逸である。映画が終わった後もしばらく私は席を立てなかった。

法定休日

 アメリカ在住の中国系の人々が、アメリカ政府に対して「春節(旧正月)を法定休日にして欲しい」との請願をオンライン請願プログラムに提出した。

 ホワイトハウスはこのプログラムに提出された請願に2万5000人以上の署名が集まった場合、それに対しては必ず回答することになっている。既に期限内に規定以上の署名が集まっており今後更に増加するとみられている。

 請願の理由として、「アメリカに在住するアジア系の住民の割合が高まっている」ことをあげ、更に「アジア系の学生は旧正月には帰国して家族と過ごしたいが、休日ではないので休みにくい。だから法定休日にして欲しい」のだという。

 アメリカでは、ユダヤ系の祭日も多く法定休日になっているからアジア系の法定休日を認めて欲しい、と云うことのようだ。

 だがアメリカは歴然としたキリスト教を根底に置いた宗教国家であり、ユダヤ教はそもそもキリスト教の原点だからそれが法定休日になることは不自然ではない。しかしアジアの旧正月を法定休日にするためにはもっとアメリカの中でのアジア系の民族の社会的地位が高くなり、上院や下院の中にぞろぞろアジア系の人が出現するまでは無理ではないかと思う(そんな日が来るかどうか知らない)。ちょっと韓流ブームが来たり、中国のGDPが日本を抜いたくらいではアジア人がアメリカ社会で民族的に対等になったと見るのは幻想的に過ぎるように思う。

99%が中国から

 世界アンチドーピング機関(WADA)は「禁止薬物の99%は中国から来ている」との見解を示した。

 それに対して中国のメディアは、昨年のロンドンオリンピックで中国選手はひとつも違反事件を起こしていないにもかかわらず、WADAは名指しで批判をしているのは理不尽だ、と反論した。

 WADAの会長は「興奮剤などの禁止薬物の99%が中国から来たものであるのは事実である」と再度述べた上で「中国からのアンチドーピング機関に対するクレームは一回にとどまらない」と語った。

 自国の選手に違反がないから中国が禁止薬物を供給していることの否定につながるとは云えない。

 かんぐれば、かえって禁止薬物に詳しいから違反しないですんでいる、とも云えないことはない。

輝かしい成果

 中国・環球時報が北朝鮮の状況を報じた。

 それによると「北朝鮮は三度目の核実験の成功に祝賀ムードに包まれており、『実験成功により、労働者の生産意識が向上した』と現地メディアが伝えている。」そうだ。

 北朝鮮の記事には、「再度の核実験成功が労働者の生産意欲に火をつけ、平壌の小麦粉加工工場では最近の一日あたりの生産量が予定の1.5倍に達している」という輝かしい成果が紹介されているそうだ。

 余程北朝鮮の人は嬉しく、誇らしいことであったろう・・・などと思う人はまさかいないだろうが、揚げ足をとらせて貰えば、伝えている成果をよく読むと、予定の1.5倍に達している、といっているのであって、1.5倍に増えた、とは云っていない。そもそもの予定がどのようなものなのか。工場の生産能力に合わせたものなら1.5倍にするには稼働時間を増やすなどしなければ無理だろう。意欲だけでは1.5倍に「達した」りしない。または普段小麦が足らないから生産も停滞しているのかも知れない。または労働者者諸君が普段は意欲がなくてサボタージュしているのか。

 それに投入する小麦の量もそんなにふんだんにあるのか?と云う疑問も湧く。1.5倍の生産量で北朝鮮国民が今より豊かな食事が出来ることになるならこんなに「輝かしい成果」はないのだが。

 このようなプロパガンダは戦時中の日本や「大躍進」のときの中国では日常的に流されていた。

2013年2月15日 (金)

NHKドラマ「遙かなる絆」

 中国残留孤児がテーマのドラマなのだが、ほとんど実話である。原作者の城戸久枝はその残留孤児の娘で、中国へ留学して父の養父母とその係累、父の親友たちとの出会い、そして父の日記を読むことで、父がどんな困難な時代を生き抜いたのか、そして祖国とは何かを理解していく姿を描いている。全部で約六時間のこのドラマを大事に保存し続けることに決めた。そして出来れば子ども達にも見て欲しいと思う。

 ドラマの中で久枝が、親しくなった男子の大学生に「中国に来て父の気持ちや中国人の気持ちが分かったような気がする」と云ったのに対し、「そんなもの、君にわかるわけがないじゃないか。気安く分かったなんて云うな」と激しく非難されて喧嘩別れするシーンがある。そして彼の言葉の理由を知り、更に父の辿った苦難を詳しく知るにつれて、「分かった」などと間違っても云うべきではなかったことを本当に理解していく。ここが最も重要な部分だと私も感じた。分かり合うことが不可能なほどのへだたりがあることに気が付くこと、そこを原点にして理解しようと努める事でしかわかり合うことなどは出来ないのだと云うこと、そのようなことがあるのだ。

 最近の中国の行動を見ていると、中国がどんどん嫌いになっていく。だが心の底では中国が好きである。こうであって欲しい、と思う中国が一度も達成されたことがなく、当分達成されないことを中国の人々と同じように深く悲しんでいる。

 私の父は残留孤児ではないが、専門学校を卒業してすぐに中国に渡り、十数年を中国で暮らした。小さい頃、父のきげんが好いときに中国の歌を歌っていたのを思い出す。何の歌だったのか、父が死んだ今となってはもう聞くすべがない。このドラマでも久枝が子どもの頃から父の歌って聞かせてくれた歌「植樹歌」が彼女を中国へ誘ったような気がする。何も語らなくても父の思いは子どもに伝わるものだと思う。

 ドラマの中で「大躍進」の時代、「文化大革命」の時代が一応描かれているが、俳優の多くが中国人であることを考慮してか、実際の凄まじい時代の様相までは描かれない。仕方のないことか。

 あの時代を知れば知るほど、残留孤児の人々が生き延びたのはどれほどの奇跡的なことであったかと胸が熱くなる。それに対して日本政府は、そして日本人は如何なる仕打ちをしたのか、暗澹たる気持ちになるばかりだ。

2013年2月14日 (木)

 マンションの雑用係を拝命した。何年かにいちど回ってくる仕事なので、打診があったときにすぐ引き受けた。打診に来た前任者はそんなに簡単に引き受けてくれないと思っていたようで、ほっとしているのがよく分かった。すんでいるところは少し大きなマンションで、4棟2600人が暮らしている。三月に互選で役員が決まる。役員になると生活がかなり制約されるので雑用係に徹したいがどうなるか分からない。

 今は定期的に廻ってくる雑用係すら引き受けない世帯が増えているようだ。完全自治のマンションなので確かに行事も多いし当然仕事も多い。まあ春から一年間、出来ることは引き受けることとしよう。

 明日、ドン姫が寄ってくれると連絡があった。この頃頸が痛くてかなわないのでお願いしようと思っている。彼女はプロのマーサージ師だ。だから首と肩をマッサージしてもらうのだ。ちょっと痛いけれど、さわってもらうと暗雲が晴れるように楽になる。

 本日は蔵開きの酒蔵の新酒、それもふなぐち絞りの冷酒を飲んでいる。訳あって廻ってきたものだがまことに旨い。つまみはコウナゴ(大阪ではカマスゴ)の釜揚げ、ホタルイカの釜揚げ、串カツ、それに自分で作ったポテトサラダ。今日はちょっと酔っ払うのだ(いつもだけれど)。

 その前に昼前からNHKドラマで放映された「遙かなる絆」全六話、一話一時間計六時間を見ている。ようやく四話まで見てちょっと精神的に酒を飲まないではいられなくなったのだ。このあと一杯やりながら五話と六話を見るつもりだ。

梅棹忠夫「夜はまだあけぬか」(講談社)

 梅棹忠夫は京都大学の名誉教授で、生態学者にして民俗学者。日本の文人類学の草分けである。また、国立民族学博物館の設立に尽力し、初代館長を務めた。

 この民族学博物館は素晴らしい博物館で、以前このブログでも展示品の紹介をした。この本を読んでまた訪ねたくなった。もしいったことのない人は、大阪に行く機会があればいちどは見に行って欲しい。世界の民族の暮らしを見ることができる。千里の大阪万博会場の跡地の大きな公園の中にあるので分かりやすい。地下鉄千里中央駅からモノレールに乗り換えていく。

 1920年生まれの梅棹忠夫は、おしくも2010年に死去した。その膨大な研究成果は全22巻の「梅棹忠夫著作集」に納められている。

 この「夜はまだあけぬか」は彼の闘病記である。1986年、66歳の時に、彼は突然視力をほとんど失ってしまう。夜があけてもその光を感じることが出来ず、暗闇の中で目覚める事になった彼の驚愕はいかばかりであったろうか。

 阪大病院に入院し、あらゆる治療を受け、半年後に退院するまでが前半である。手立てを尽くしたのにもかかわらず、強度の弱視の状態までにしか回復しなかった。明暗が判別するのがやっとで、色はもちろんほとんど分からず、本などととても読むことが出来ない。介助無しでは外を歩くことも出来ないし、学者としての仕事など望むべくもないと云う状況だった。

 視力を喪失するという絶望の淵から、出来ることに次々に挑戦したり、今まで全く縁のなかった音楽に触れようとすることで徐々に生きる力を取り戻していく姿は感動的である。

 入院中にやりかけの仕事を再開する。口述筆記という方法である。資料を秘書に捜してもらい、それを読んでもらい、それをもとに口述筆記をする。口述筆記したものを文章に起こし、それを再び朗読してもらって手直しする、と云う大変な手間をかけて仕事をこなしていったのだ。

 これ以上の治療は期待出来ないとして退院、彼は再び国立民族学博物館の館長として復帰する。そして館長としての業務をこなしながら自分の著作集の編纂を行うのだ。その不屈の闘いの日々が後半である。

 この本は1989年に書かれたものだが、もちろん同じような手順で作成されているし、その後の膨大な研究や著作集もそうやって産み出されていった。以前飛ばし読みしていたのだが、久しぶりに読み直して前よりもずっと感動した。

さらば「とくダネ!」

 朝は各局のニュースを取り混ぜてみている。コマーシャルが嫌いだからNHKを見ることも多いが、そのNHKも民放の真似をして訳の分からないコーナーを間に挟んだりするのでまたチャンネルを替えたりする。昨年からは、8時から「とくダネ!」を見ることが多かった。小倉智昭は大昔ラジオに出ていたときから辛口の物言いが嫌いではなかったし、コメントや取り上げるニュースのバランスも他の番組より好感が持てた。ところが今年に入ってがらりと変わったように感じている。

 ニュースの順番や取り上げる内容の順番ががらりと変わったように感じるのだ。一番知りたいことが最後になるようになった。あまり興味がないし重要と思えないような事件ものが先頭にあげられ、しかも長い時間をそれに割くようになった。ディレクターなどが替わったのだろうか。

 今日はグァムの事件を最初から延々と45分も流していた。もちろん見続けるのは耐えられないから他の局を時々見ながらいつ終わるのかと思って確認してみたのだ。ほとんどドキュメント番組みたいだ。グァムまで記者を送り込んだのでその費用に見合うだけ放送しないと割に合わないと考えているような印象だ。その後最新情報、と称して更に追加放送を行っていた。

 グァムの事件は確かに滅多にない衝撃的な事件だが、いくら詳細に報じたところで(番組では犯人の人間像を延々と紹介していた)事件に対しての新しい見解が生み出されるとは思えないし、むなしさが増すばかりだ。このような異常者(犯人は魔が差したか薬でもやっていたのかどちらかだろうし、理由など聞かれたから答えているだけで、納得のいく答えなど出てくるとは思えない)に対しての対策など神様以外出来ることはないのだ。

 多分こんな優先順位とバランスを欠いた放送をしていたら、早晩番組の視聴率は低下していくだろう。少なくとも私は当分見る気がなくなった。

2013年2月13日 (水)

フランク・ディケーター「毛沢東の大飢饉」(草思社)

 訳・中川治子。帯には「隠蔽されたジェノサイド」とある。文化大革命の前に、毛沢東の主導のもとに行われた「大躍進」の全貌がこの本では詳細な裏付けのもとに記されている。

 1949年、中国共産党は国共内戦に勝利し、中華人民共和国が成立した。中国はスターリンの率いるソビエトに支援を求め、経済発展を図った。その後1950年に朝鮮戦争が勃発。1953年スターリン死去。中国の経済発展は進まず、毛沢東はソビエト式の集団化を断行する。これによってかえって経済は混乱し、工業原料は不足し、農業収穫量が減少して飢饉が発生。周恩来などが集団化、合作化の減速を主張し、やや改善される。

 その後ソビエトはフルシチョフ時代となり、スターリン批判を開始、中国内でも個人崇拝をやめ、集団指導すべきだとの意見が大勢となり、「毛沢東思想」が見直される。毛沢東の権威は低下した。
 
 ここで毛沢東は百花斉放運動を行う。百花斉放運動というのは、経済発展のために科学者や知識人を起用し、中国共産党の問題点批判を許して社会不安を取り除こうという意図で行われたと云われる。同時に大衆への迎合でもあった。しかしこの運動は毛沢東の思惑をはるかに超えて体制批判がエスカレートしそうになった。

 毛沢東はこのような批判者を共産党に対する反逆をもくろむ「悪質分子」として、鄧小平を起用して反右派闘争を展開。50万人以上の人々が右派のレッテルを貼られて僻地での強制労働に追いやられた。毛沢東に批判的なものは悉く粛正されていった。こうして毛沢東は再び権力を握ることに成功した。

 この本が描いているのは反右派闘争で再び毛沢東が権力を掌握した後の「大躍進」と云われる時代、1958~1962年にかけての毛沢東の強行した経済政策とその結果のレポートである。この四年間の間に通常(自然死)ではない死に方をした中国人は、この本によれば4500万人だという。

 この「大躍進」の時代についてはほとんど資料が公開されていないために、大量の餓死者が出たことだけは知られているが実態はほとんど明らかにされていない。自然災害により、農作物の収量が著しく落ちて3000万人以上死んだらしい、と云うのが通説になっており、中国政府もほぼ公式に3000~3500万人が死んだことを認めている。

 しかし実際には5000~6000万死んだのではないかという説もあり、実は中国政府の内部ではそちらの数字を前提に論じられてきた(中国政府内にいて、文化大革命やその後の天安門事件を機に海外へ亡命した高官が証言している)。

 この「大躍進」時代についての本は、資料が少ないうえに時間も経過しているので少ない。この本の著者・フランク・ディケーターは中国の省や県などの地方自治体に残されている膨大な公的資料を丹念に調査し、この本を書き上げた。著者はオランダ生まれのイギリス人であり、この本は2010年のブック・オブ・ザ・イヤーを受賞している。

 この本に記されている凄惨な話は悉く資料や生き残りの人々からのインタビューに基づいており、巻末に膨大な原注と参考資料が附記されている。

 「大躍進」時代の死者は自然災害がもたらしたものではない。確かに多くの死者が餓死者であるが、全くの人災である。この本の副題も「史上最も悲惨で破壊的な人災」と唱っている。

 特に弱者がどれほど悲惨な目に遭ったのか、子ども、老人、病人、女性は生産性が低い存在として悉く切り捨てられていった。その個別の話はあまりに凄まじくてここに紹介する気にもならない。人間がここまで出来るのか、と云うおぞましさを見つめたければこの本の「弱者たち」の章を開いたらいい。

 カラマーゾフの兄弟で、無神論者である次男のイワンが神の存在を否定する根拠として、子どもが理不尽に死ぬことを見過ごすような神など、神などと呼べない、と語るシーンがあるが、まさに神は存在しなかった。

 この「大躍進」の失敗により、再び毛沢東は批判に曝され、国家主席を譲ることになる。そして巻き返しのために起こしたのが「文化大革命」なのである。この「大躍進」は毛沢東の狂気の政策の最初の大きな実験であり、「文化大革命」はそれを上回る災厄を中国にもたらした。「大躍進」では餓えが人を殺したが、「文化大革命」は人が人を殺したのである。

 それなのに中国共産党は神格化された毛沢東を否定することが出来ない。毛沢東を否定することは中国共産党を否定することになってしまうからである。中国にとって存在そのものが悲劇的、なのが中国共産党だと言っても過言ではないだろう。

 これだけ長文を書いてもこの本の内容にはほとんど言及出来なかった。興味のある人は是非この本を購入するか、図書館で借りて読んで欲しい。現在の中国政府とはどのようなものか、その原点の一部が恐ろしいほどよく分かります。本文500頁弱、原注と参考資料が100頁ほどある大部の本なのでかなり読み応えがあります。私は読了に一ヶ月近くかかりました。

 これに文化大革命についての本を何種類か(かなり中国寄りのものもあるので注意)読み足せば、中国共産党の正体らしきものが身に染みて分かるようになります。

池波正太郎「追跡 鬼平犯科帳」(文藝春秋)

 鬼平犯科帳シリーズ第六巻である。

 私は池波正太郎がこのシリーズを楽しみながら書いているように感じる、と書いた。やはりそう感じる人が沢山いたようで、この本のあとがきに、「・・・『楽しげに書いていて、まことに読みやすい』と読者はいって下さる。そういって下さることは作者としては本懐である。・・・しかしながら毎月の『鬼平』執筆の苦しさは、はじめたときと少しも変わらない・・・」と記している。それなりに苦労をしているようだ。当たり前だけれど。

 長谷川平蔵は人並み優れた剣の使い手、と云うことになっている。およそ捕り物の中で出会う腕の立つ浪人などに引けをとることはないが、ときには闇の仕掛け人などに依頼された、場数を踏んで何人も殺してきた強い敵に出会うこともある。敵が一枚上手であっても何とかそれを凌いで倒していく。天がまだ平蔵に役割を残していると云う事だろう。巻頭の「本門寺暮雪」はそのような敵の中でも最強の敵であり、ある思いもよらぬ助けがなければ平蔵も命を落としていたかも知れない。

 確かに道場剣法を極めればその優劣で勝敗が決まるだろう。しかし真剣ではその勝敗は大きく変わる。命のやりとり、と云う修羅場の場数を踏んだものがずいぶんと有利だろう(数多くの時代小説を読んでの実感で、さいわいそのような修羅場には直面したことはないが)。そしてその修羅場で自らの命を投げ出すような度胸が勝敗を分けるようである。これは全ての格闘技の勝負に云えることかも知れない。ささやかながら格闘技を囓ったことがあるが、何かにとらわれていた自分が、急に身軽になって時間がゆっくり進む瞬間が感じられるときには自分よりも上手の人間に勝てた。これもレベルが上がるごとに違う境地があるのだろう。

 長谷川平蔵は自分の火盗改めという仕事に命をかける、と決めたときから既に敵よりも高いレベルに達しているのだ。だから負けるわけがないと云うことなのだろう。

 今回も全て面白い話ばかりなのだが「狐雨」という、ある同心が狐憑きになる話が異色であった。人間はあるべき自分と現実の自分があまりに乖離してしまうと、それに耐えられず、このようなことが起こる。人間の不思議さであり、弱さであるのかも知れない。

数字の捏造

 中国は数字の捏造が日常的に行われている。その方が自分に都合がよければ平気で捏造する。そして間違いを指摘されても決して間違いを認めることはない。

 中国政府は中国全体のGDPの数字を発表している。そして同様に各地方政府もその地方のGDPを発表した。それによると中国政府の発表したGDPは57兆6900億元、そして各地方政府の発表の総合計は51兆9300億元であった。

 普通の国では個別の合計と全体の発表数字はほぼ同じである。重複などで違いが出ないようにちゃんと補正している。先進国でその数字が一割も違うと云うことは普通あり得ない。

 中国の専門家は重複の補正が不十分なことと統計部門の能力不足を上げている。そして企業や政府のごまかしも考えられると付け加えている。ほとんどそれが理由だろう。それにしては以前と比べて最近差が小さくなったとは云える。

鳥インフルエンザ

 中国の貴州省で鳥インフルエンザに罹患した患者(人間)が二人見つかった。二十代と三十代の男女で、いずれも症状が重篤だという。

 二人とも鳥類に密な接触をしたことが確認されていないとのことで感染経路は不明だという。通常このような感染は直接多くの家禽と接触した場合に発生するもので、それがないのに感染したとすると、同様の感染が多数起きているのか、または既に感染した人間からの感染が疑われるのではないか。

 SARSのときには中国はそれを隠蔽しようとして反って感染を拡大させた。再びそのような間違いを犯さないと思いたいが、今回のことは突発的な事態ではなく、今後拡大の危険があるような気がする。根拠はないのだが、何となくこのニュースに違和感を感じるのは気のせいか。

2013年2月12日 (火)

核実験強行か

 本日正午前、北朝鮮北東部で人工的と思われる地震が発生した。場所が北朝鮮の核実験場と合致することから核実験を強行したとみられる。

 今後最も注目すべきは中国がこれについてどのような反応をするかであろう。

 北朝鮮の軍事的な行動を背後から後押ししているのは中国解放軍だと云われている。中国政府は北朝鮮の行動に対して自粛を求めているが、解放軍は正反対の行動をしているように見える。今回の日本の艦船に対しての射撃管制レーダーの照射も含め、中国政府と中国の人民解放軍が全く異なった動きを示している。

 人民解放軍は北朝鮮と連動して更に挑発的な行動に出るおそれがあるが、中国政府がそれを押さえることが出来るのかどうか、これからの中国政府の反応が注目されるのである。まさに日本の関東軍が独走して日中戦争になだれ込んだようなことが今起こってもおかしくない、一触即発の状態が迫っているのかも知れない。

青木玉「小石川の家」(講談社)

 明治の文豪幸田露伴の家を蝸牛庵という。蝸牛庵はもと向島にあり、その後小石川に移り住んでこちらも蝸牛庵と呼ばれた。表題の「小石川の家」というのは小石川の蝸牛庵に著者の青木玉が母親の幸田文と移り住むことになった日からの日々の出来事の連続エッセイである。

 この小石川の蝸牛庵は戦災で焼失し、向島の蝸牛庵が明治村に移築されて今も残されていることは明治村に行ったことのある人ならご存知だろう。

 幸田文は結婚して、十年後に離婚。娘の青木玉を連れて小石川の幸田露伴宅に戻る。幸田露伴と幸田文の親子の関係、その生活は「父、その死」に垣間見ることが出来る。この文章は高校のときに現代国語の教科書にあった。内容ともども忘れられない文章であった。だからこの「小石川の家」に語られている幸田露伴の悉くは既に私にはイメージとして承知のことであったが、それにしても凄まじい。

 山本夏彦は著書の「最後のひと」の中の「露伴一族はえらいひとばかり」と云う文章で露伴とその家族などについて語っている。そして幸田文のような人はもういない、そしてこれからもいないだろうと語っている。「最後のひと」というのはそういう意味である。

 現代の感覚ではこのような幸田露伴の悉くが理不尽なものに映るだろう。実際に理不尽である。およそ相手に対する気遣いなどないし、自分の価値観だけで押し通してしまう。平等などという感性は毛筋ほどもない。だがこうしてひとは鍛えられ、芋虫から蝶に変わるのであって、今はさなぎにすらならずに一生を終わる女性がほとんどだろう。それはしあわせなことではあるけれど・・・。

 阿川佐和子が父について時々ちらりと語る中に、彼女が彼女であることの理由がほの見えると感じるのは私だけではないだろう。

 この本は(私の)母のために買った本で、私は読んでいなかった。母は幸田文の文章が好きでよく読んでいる。それを持ちだして私も時々読んだ。この本も母のところから持って来たもので1994年に出版されたもの。読んで本当に良かった。現在は文庫にもなっているはずだ。この本は(著者の)母親の幸田文の死で終わる。

2013年2月11日 (月)

中国の濃霧

 中国の汚染物質を含む濃霧が連日報じられている。健康被害はどうなのかと案じていたら、中国の専門家の調査結果が次々に報告されているという。肺がん患者の数はこの10年で60%増加したそうだ。そして今年の汚染では人口の5割近く、6億人が影響を受けているだろうという。今農村部と都市部の人口がほぼ同じくらい(やや都市部が多くなった)から、要するに都市部の人はほとんど被害を受けている、と云うことなのだろう。

 短期的に見てもこの一と月で肺炎による入院患者が10%増加したと云い、呼吸器系の疾患で入院する子どもも増えているようだ。汚染のひどい都市では病院の病室が足らず、通路にまでベッドがあふれている。

 10年以上前から特に冬場に濃霧が発生して大気汚染が指摘されていたが、中国の環境調査をする部署は大気汚染の基準を世界の基準と全く違う大きな粒子の測定結果しか公表せず、しかもその数値もあまり悪化はしていないとしていた(いつものことである)。だからそれに業を煮やしてアメリカ大使館が独自に世界基準のPM2.5の測定値を発表したのが昨年からである。それに対して悪意のある測定値だ、と云って中国政府は激しく非難していた。現在は中国当局もPM2.5の数字を発表しているけれども、たいていの人はアメリカ大使館の発表する数字を参考にしている。中国当局の発表など信じている人はいないのだ。

 北京の日本大使館では在中国の邦人に対して大気汚染対策について説明会を行った。それによると1月はPM2.5が環境基準を満たした日は4日間しかなかったのだという。現在の大気は動物実験をしているような重度の汚染状態であり、外出は極力控え、マスクの着用、空気清浄機の利用をするように指導した。

 これが伝えられると「動物実験」とは失礼な、と云うネットでの非難が飛び交ったが、しばらくして、云っていることは確かに事実であり、そう云われても仕方がない、と云う当たり前の反応が増えてきた。とっくの昔に対策を打たなければならないことを放置し続けてきて、今限界を超えた状況になっている。今から手を打ったとしても結果が出るのはしばらく先になるだろう。どれほどの健康被害になるか見当もつかない。

 日本で中国の大気汚染が飛来して影響が出始めている、と云うニュースが報じられていることを知ると「ついに中国は化学兵器で日本への攻撃を開始した」「中国人はこの兵器の中で暮らして毒に耐性が出来ているが日本人はひ弱だから攻撃に効果が出るだろう」などと半ばやけくそのコメントが寄せられている。

 そんな中、日本政府と東京都はPM2.5対策のための技術支援の申し入れを行った。正式の要請の回答はないが、この申し入れは中国メディアを通して中国国民にも知らされた。相変わらず悪意のある受け取り方をするおかしな人もいるが、おおむね好意的で、是非お願いすべきだ、と云う意見が大勢のようだ。

 ちなみに香港紙によれば、日本製の空気清浄機が馬鹿売れで、パナソニック、シャープ、ダイキンの製品が前年の倍以上売れているという。

 その代わり中国へ行こうという日本人観光客は昨年比80%減少しているという。反日騒動だけなら少しは回復するところ、あの大気汚染では行ったところで景色も見られず、行く気にならないのは当然だ。

真意はどこに

 中国は、国連が北朝鮮のミサイル発射を非難する決議に珍しく拒否権を発動せず賛同した。中国としては北朝鮮が中国の意向を無視した行動を続けていることに不快感を感じていることの表れとみられている。それに対して北朝鮮は三度目の核実験を行うことを重ねて世界に通告した。

 そして今月7日、中国の武大偉朝鮮問題特別顧問が中国の意向を伝え、核実験をしないよう交渉するために北朝鮮を訪問するべく打診したところこれを拒否した(韓国・朝鮮日報の報道)。

 ほぼそれに併せて、中国の官製メディアは、もし北朝鮮が核実験を強行したならば中国は関係断絶を含む強硬措置をとる、との記事を掲載した。消息筋は過去例のない強硬姿勢の表明だ、と分析している。

 アメリカは北朝鮮の期待した二国間協議に応じるような気配は微塵も見せず、北朝鮮を再びならず者国家として認定し、強力な制裁を加えることを匂わせている。

 そのアメリカの態度に意を強くしたのか、韓国がいつもに似ず、北朝鮮の軍事行動に対処の用意がある、と強い態度を表明した。

 そして北朝鮮のスポークスマンがウェブサイトに「アメリカなどは北朝鮮が第三回核実験を行うと早合点して、強力な制裁を行う、などとわめいている」という記事を掲載した。「金正恩第一書記は国家的重大措置を表明しただけで、内容を知らずに大騒ぎしているに過ぎない」「侵略の脅威から国家を守ろうと云うだけで、誰かを脅そうとしているものではない」のだそうだ。

 前回のミサイル打ち上げのときも突然延期する気配を匂わせて、突然打ち上げた。今回もそのような可能性があるが、今回は中国の強硬姿勢もあり、しかもアメリカの制裁が強化されたら北朝鮮は本当に雪隠詰めになってしまう。ここで核実験を行ったら北朝鮮が得るものは何もないように見えるけれど、それでも実施するだろうか。最も可能性が高いという2月10日は過ぎた。

 脅しによる譲歩引き出しのやり方には世界はもうこりごりになっている。中国はいまだにそれを繰り返しているけれど。

池波正太郎「流星 鬼平犯科帳」(文藝春秋)

 鬼平犯科帳シリーズの第五巻である。

 表題の「流星」は卑劣な敵に長谷川平蔵が翻弄され、歯ぎしりをする話である。今まで凶悪な敵は数々あった。中には平蔵の家族を狙うという卑劣なものも無かったわけではないが、今回のように火付け盗賊改めの組屋敷の同心や与力、またその家族や門番などを無差別に殺害するなどと云うのは他に例がない。

 現実に今、警察官の家族を無差別に狙うような犯人が現れたらどうなるか、想像することも出来ない。しかし、テロというのはそういうものである。そこにいかなる大義名分をつけようとも許されるべきものではない。それが世界中で弱者の戦争の手法として蔓延しているのは、人間が劣化していることの証拠なのかも知れない、と暗澹とした気持ちになる。今回のアルジェリアの事件もまさしくそういうものだ。

 平蔵が犯人を苛烈な手段で断罪したことは私には是であるが、これを非とする人もいるのだろう。ときには正義を行うに怒りをもってするしかないこともあると思う。

 話は替わるが、鬼平犯科帳にはいろいろなプロの犯罪者が登場する。それぞれ通り名がついているのだが、名は体を表し、そのイメージを彷彿とさせる旨いネーミングに感心する。しかもちょい役で登場する盗人にもきちんとした名前とキャラクター付けがされている。これがプロの作家の腕であり、こだわりだろう。細部がぼやけた物語はリアリティを持つことが出来ない。

 この巻だけ見ても、「泥鰌の和助」「地蔵の八兵衛」「傘山の弥太郎」「鳴滝の繁蔵」「長嶋の久五郎」「馬越の仁兵衛」「鹿留の又八」「雨畑の紋三郎」「明神の次郎吉」「櫛山の武兵衛」「生駒の仙右衛門」「鹿山の市之助」「薮原の伊助」「雨引の文五郎」「落針の彦蔵」「鯉肝のお里」「長虫の松五郎」「白根の三右衛門」「泥亀の七蔵」「関沢の乙吉」「牛尾の太兵衛」等々。全てにキャラクター付けがしてある。そのキャラクター付けを行いながらストーリーが出来ていくのだろう。池波正太郎はそれを楽しんでいるような気もする。

2013年2月10日 (日)

言い分

 日中問題についてテレビの番組で中国人を呼んで意見を聞くことがしばしばある。ほとんど意味がないことだと思うがどうか。

 中国には言論の自由はない。共産党に不都合なことを云えば、政府転覆を謀る犯罪者として、当人だけでなく、身内までが拘束される国である。その点ではほとんど北朝鮮と変わることはない。

 そして日本のテレビに登場する中国人が日本に暮らしているにしても、身内が中国にいる人がほとんどである。その中国人が身の危険も顧みず本音を話すはずがないではないか。私がそのような立場だったら本当のことなど決して言わない。

 だから呼ばれた中国人はほとんど日本人にとって腹の立つような訳の分からないことを云う。そうするしかないのだ。それに中国人は自分に非があると分かっていても決してそれを認めないという民族性がある。

 それでもあえて勇気ある発言をした人が、過去にどれだけ凄まじい目に遭ったのか、それを知るための本はたくさんある。中国人でそれを知らない人間はいない。

ああ疲れた

 先ほど桐生から名古屋に帰着した。二日酔いで運転するのは危険なのでゆっくりしてから出発し、休み休み走ったのだが、いささかくたびれた。行きと帰りとでは疲れ方がずいぶん違うものだ。

 途中、サービスエリアで昼飯を食べたところへカメラバッグを忘れるところであった。食事の後、山がきれいに見えたので、写真を撮ろうかな、と思ったらカメラバッグがないではないか。はっと気づいて慌てて取りに戻って事なきを得た。写真を撮ろうとしなければ忘れたことに気づかなかったかも知れない。危ない、危ない。

 帰ったら電話にいろいろな用件が録音されていた。普段はこんなに電話がかかることはないのによりによって留守中に限ってこう云うことになる。それも片付けた。

 楽しい湯治の旅が終わり、また日常が始まる。でも、雪と温泉がないだけで、ごろごろしながら本を読むことには変わりはない。

2013年2月 9日 (土)

酩酊

 本日は桐生の周恩来氏に謁見を賜り、過分のお言葉を戴いた。いつもそうだ。こちらが何ほどでもないのに言葉が巧みであるだけで寿(ことほ)がれる。

 何かをかたちにすることが自分の表現だと信じているのだが、そこには意味の納得はない。

 二人で飲んだ二軒目は、昔私が酔いつぶれて朝四時半に目覚めた店かも知れない。その店でちょいと飲み過ぎた。

  周恩来氏を送るのにいささか手間取った。昔なら肩に担いで放り投げたのに(周恩来氏は体重百キロ以上ある)。

 今一人で飲んでいる。桐生こそわが原点。

 そして酩酊。

三日月村と赤城山(3)

Dsc_0066木枯らし紋次郎に挨拶して村を出た。楊枝は飛んでこなかった。もっと見るところはあるが寒いのでこれで好いのだ。

まだ三時になっていないが桐生に戻る。すぐ近い。赤城山がきれいに見えるので渡良瀬川の河川敷へ車を入れて写真を撮る。

Dsc_0080赤城山。この山の向こうに老神温泉がある。この山の下をくぐってきた。山の向こうは銀世界でこちら側は快晴で雪などない。

河原に野鳥がいる。

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どちらが何と云う鳥だか知らない。ものを知らないと云う事は哀しいことだ。

早めにホテルに入り、周恩来氏に連絡する。一息入れたら周恩来氏に拝謁いただくのだ。悪酔いして失礼のないように心しなければならない。たいてい許してくれるけれど。

三日月村と赤城山(2)

三日月村は荒れ果てていた。あまり客が来ないのだろう。でもかえって木枯らし紋次郎の村の雰囲気がする。

Dsc_0061ここで甘酒と山菜そばを頼んだ。入り口の戸はガタガタで開けるのに苦労する。外には空っ風(上州名物)が吹いているのでとても外で食べる気にはならない。

Dsc_0071三日月村の中は文銭しか通用しない。一枚一文、これ10枚で1000円と両替。甘酒三文、山菜そば六文。残りの一枚は記念に持ち帰ることにした。かまわないそうだ。店のおばさんと話をしたらこの村が出来て33年だそうだ。私が前回来たのは村が出来たばかりの頃だった。客も沢山いたし、出店も多かった。

Dsc_0075湖の壺は何でしょう?消し炭を入れる壺です。消し炭って分かる?薪を燃したときに全部に火が通ったところでこの壺にいれる(空気を遮断する)と簡易式の炭が出来る。火力はないが燃え付きが好いので火をおこすときに使うのであります。

Dsc_0076冬の日射しが障子を通して部屋に差し込んでいる。

三日月村と赤城山(1)

 老神温泉から120号線で金精峠を抜け、日光へ行こうとして120号線まで出たら日光方面は車が数珠つなぎになっている。金精峠まで30キロはあるが全てが詰まっているのか何処かに工事渋滞があるのかは分からない。これでは行く気にならないので反対方向、沼田方向へ車を進めた。行けども行けども反対車線はつながっている。多分沼田インターまでつながっているのかも知れない。

 このまま沼田へ戻るのも面白くない。途中左へ、つまり赤城山の方向へハンドルを切った。ただ、赤城山頂方向は通行止め、とある。しかし大間々方向はいけるようだ。赤城山の山間をそのまま桐生まで峠越えしてみることにした。

 峠の道路は圧雪でうっかりするとハンドルを取られる。スピードを落として脇目も振らずに走った。約50キロで桐生の市外まで来てしまった。まだ昼過ぎである。そこでそのまま太田方向へ進み、久しぶり(三十数年ぶり)に新田郡(にったごおり)三日月村へ行って見ることにした。

Dsc_0057三日月村入口。

Dsc_0062居酒屋はあるが車なので立ち寄るわけにも行かない。

Dsc_0064旅籠(はたご)。二階にお姐さんがいるのだが分かるだろうか。下に私が立ったら「一本刀土俵入り」だ。そう言えば腹が減った。

かかとを踏み鳴らす

 安普請なのか建物の老朽化が進んでいるためなのか、この宿は不用意に歩くとぎしぎし云う。安い宿なのでそのことを歎いても仕方がないのだが、それでも歩き方一つでだいぶんに違う。ところがどう云うわけかその床をかかとを踏み鳴らすように歩く人がいる。自分の発する音や振動に無頓着なその神経が分からない。

 そう言えばミュールという履き物がある。サンダルとミュールとどう違うのか分からないが、要はかかとを固定しない履き物だ。あのミュールというのはかかとが何か硬いもので出来ているらしく、コンクリートなどの上を歩くと甲高い音がする。それ以上に階段を上り下りするときにはカーンカーンとけたたましい音が響く。自分の足音が響き渡ったらずいぶん恥ずかしいだろうと想像する。

 だから一時的に流行ったとしてもすぐあんな履き物を履く人はいなくなることだろうと思っていたら流行は下火になったもののいまだにしばしばあのカーンカーンと云う音を聞く。

 およそ普通の神経なら自分が立てる音について気配りするのが当たり前だと思うが、どうなっているのだろう。どうもそのような人たちには自分と自分の身内や仲間以外はこの世に存在している、と云う実感がないらしい。このような人には世間というものは存在していないか存在していても極めて希薄なもののようだ。そのような人々が当たり前になって、それでも不都合なく生きていける社会がよい社会なのかそうでないのか分からない。しかし日本に限って云えば、そういう無神経さはマナー違反として白い目で見られ続けてきて、ひとりでに気配りするような文化が長い時間で形成され、それが日本人の美徳をなしていた。私はそれを大事なことだと考えているのだが。

湯治最後の日

 本日が老神温泉での湯治最後の日。と云うより昼前には引き上げるのでこれから入る朝湯が最後となる。少し湯あたりらしき徴候が出て来た。これが出てからあと一週間くらいいると身体の中の毒素が出てしまって本当の湯治の効果が出てくるのだが、いつもここでおしまいだ。今度は最低二週間くらい泊まり込むようにしよう。老神温泉はもういいけど。

 連日雪が降ったり止んだりして、それほど積もってはいないが気温が低いから全く溶けない。本日は金精峠が越えられるなら日光へ出て足尾を抜けて桐生へ行こうと思っている。桐生泊まりで桐生の周恩来氏と再会だ。

 思えばどこへも出かけずよく毎日飽きもせず本を読みながらごろごろしたものだ。五日間で十冊ほども読んだだろうか。読み掛けが三冊ほどある。この読み掛けは歯ごたえのあるものばかりで一日十乃至二十頁くらいしか読み進めていないので、ようやく半分を過ぎた、と云うところか。今月中に読み終わればいい。

2013年2月 8日 (金)

大沢在昌「冬芽の人」(新潮社)

 警視庁捜査一課の刑事が、配属されて間のない経験の浅い女刑事を連れて、強殺事件の情報を取りにある男に会いに行く。ところがそれがたまたま真犯人だったために抵抗を受け、階段から転落、現場から逃げ出した犯人はトラックにはねられて即死してしまう。刑事は意識不明のまま植物人間となり恢復することなく死亡する。

 それから六年後、女刑事は既に警察を依願退職し、OLとなってひっそりと生きていた。事件の全てを背負い込み、自分にはしあわせな生活など送る資格はない人間である、と思い詰めて。

 もと女刑事の彼女・牧しずりがこの物語の主人公である。彼女は殉職した刑事の墓にひっそりと墓参りに行ったその墓前で若い男に出会う。それが二人の運命的な出会いであった。二人が出会ったことで事件が全く違う様相を明らかにしていく。

 若い男は殉職した刑事の息子・仲本岬人であった。その息子のアルバイト先になんとあの犯人をはねたトラックの運転手がいた。人をはね殺したはずのその運転手の様子に不審を覚えた二人は事件そのものに疑いを抱くのだが、そんな矢先にその運転手が行方不明となり、山中で死体で発見される。自殺として処理されるのだが、このことがかえって事件そのものの隠蔽なのではないか、とも思われる。

 そこへ週刊誌の記者と名乗る男からしずりにコンタクトがある。なぜ六年前のすでに捜査が終了した事件を週刊誌の記者が調べようとするのか。ここで眠っていたしずりの精神が起動する。

 しずりと岬人は協力して過去の関係者を再び調べていく。少しずつ何かが見えてくるのだが、それとともに岬人の心はしずりに傾いていく。それに応えることを強く自分に戒めているしずりは冷たい態度をとり続けるのだが、岬人は一途に彼女に迫る。

 ところが真相に近づくとともに身の危険がひしひしと感じられるようになる。ついに岬人の身の安全のためにしずりは事件から手を引き、一切岬人と連絡を絶つ。しかし事件はあちらからその真の姿を現してくる。しずりはついに単身その全ての鍵を握ると思われる人物のところへ乗り込むのだが・・・。

 いやあ、読み応えのある一冊でした。読み終わった後に快い疲れがきました。好い読後感でありましたが、こんな犯人もあるのですな。意外性大です。

王珍華「中国人はなぜ突然怒り出すのか」(日文新書)

 副題に、驚くべき日本と中国の週刊・風土の違い、とある。著者は中国生まれで中国育ちだが、現在は貿易会社を経営し、日本人と結婚して日本国籍を取得している。

 これ程徹底して日本人と中国人の違いを書き連ねたものを読んだのは初めてである。ちょっと日本人を美化しすぎていないか、と思えるくらいだが、そこを割り引けばこれくらい参考になる本もない。

 何に参考になるのか。日本人が日本の基準で、つまり日本人の常識で見ていた中国人というのがとんでもない誤りで、実は中国人というのはもっともっとえげつないものだったと云う事だ。もちろんそれは中国人にとっては当たり前のことなので、何で日本人がそう考えるのか、全く理解することは出来ないことである。だからこの本を中国人が読んだとしたらあまりの悪口の羅列に腹は立てるだろうが、間違ったことが書いてあるとは思わないだろう。そして逆に日本人と云うのはなんと不思議な考え方をするのだろう、と初めて知ることになるだろう。

 同じ人間なのだから話せば分かる、などと寝ぼけたことを云う朝日新聞社的な人がこれを読めば、悪意のある文章が書き連ねてあるように見えるかも知れない。だから彼等は永遠に勘違いして生きていく。

 全く違う考え方だから、違いをとことん知った上でなければ話が出来るようにならないのだ。そんな事も分からない愚かな人がマスコミには多すぎる。

 我々はこの本のような貴重な本を読むことで賢くならなければならない。そうでないとマスコミやマスコミに迎合した言説しか語らない知識人たちに、つくられた世界を見せられ続けることになる。

 この新書がたくさん売れること(出来ればあなたも捜して読んで欲しい)を望みたい。痛快でとても面白い本だ。読まないと損である。

池波正太郎「狐火 鬼平犯科帳」(文藝春秋)

 鬼平犯科帳の第四巻である。

 組織には、上司があり、部下がいる。人間個人同士は民主主義社会では平等だが、組織の場合は平等ではない。だからもらう報酬も異なり、責任の重い役割の人間が報酬も多い。上司が上から目線でものを見、ものを言うことはその責任の重さによってギャランティされている。だから上に立つ人間はその責任をとる覚悟というものをわきまえていなければならない。

 巻頭の第一話、「鈍牛(のろうし)」と云う話は冤罪の話である。人間が人間をさばく場合、間違いが全くない、と云うことはあり得ない。問題は、間違いがあったかも知れない、と云うときの対処である。それを正すべく自らの身内に傷がつくのを覚悟で行動するか、なかったことにして隠蔽するか。今日本に蔓延しているのはこの隠蔽体質だ。事なかれ主義が限度を超えている。事件が正された後の長谷川平蔵の一言の重さを日本人は改めて考えるべきである。このような、いざというときの責任をとる覚悟のある責任者が払底して久しいのは哀しいことだ。日本人は劣化しているのかも知れない。

 このシリーズには女賊も登場するし、悪人がたくさん描かれるから彼等が出入りする女郎屋などでの交情シーンがたびたび出てくる。女の体臭や汗、肌の感触がリアルに感じられる。

 悪事を働いて得た大金は贅沢に使うことになるし、女や酒に使われることになる。彼等にとっては人生の中での男女のことの重みは普通以上に大きいのだ。だからそれがきっかけになっていろいろな齟齬も生じるし、ときに人生の深淵を覗くことにもなる。

 表題の「狐火」では密偵のおまさが、昔の男だった、狐火の勇五郎の息子・又太郎との因縁から平蔵に隠し事をしてしまった上の顛末だ。二人は平蔵に許されて去って行くのだが・・・。哀しい結末が待っている。

 あとがきに書いているが、「大川の隠居」という短編は著者としても少し意匠を買えてみた物語だという。確かに闘いばかりではない、このような話がこのあと時々交じるようになる。著者自身もゆとりを持って楽しみだしているようだ。

葉室麟「おもかげ橋」(幻冬舎)

 葉室麟の最新刊。日刊ゲンダイに連載していたもので、葉室麟の作品としてはやや軽みのある作品となっている。そのために少し急ぎすぎる読み方になったような気がするが、読後感はこの人の他の作品同様気持ちがいい。人は真摯に生きていれば必ず報われるはずだ、ということ、そして真摯に生きるていることを必ず理解してくれる人がいることがこの人の作品世界のお約束であるが、さいわい日本は現実にそのような国であったし、今も多分そう信じてよい国だと私は思っている。

 わけあって十年ほど前に九州蓮台寺藩を離れることになった二人の男、草波弥市と小池喜平次は、今は江戸に暮らしている。弥市は独り身でぼろ道場の主だが今は弟子も居らず馴染みの旗本に通いで稽古をつけることで糊口を凌いでいる。喜平次は思うところがあって武士を捨て、飛脚問屋に婿入りして子どももふたり居り、店は繁盛して忙しく立ち働いている。

 その喜平次が久しぶりに弥市のもとを訪ねてくる。旧藩の勘定奉行・猪口民部の娘、萩乃の用心棒をするよう依頼に来たのである。萩乃はわけあって江戸に出て来たのだが、身の危険があるために北上軍兵衛という老齢の藩士から喜平次にかくまって欲しいと頼まれたのだ。そこで喜平次は萩乃を店の寮にかくまうことにしたのだが、多忙な身であり、萩乃のそばについていることが出来ない。そこで暇な弥市に用心棒を頼みにきたのだ。

 この二人は昔秘かにこの萩乃に恋をしていた。その気持ちは今でも変わらないことはお互いに口に出さなくても承知している。また二人が藩を追われることになったのには勘定奉行・猪口民部との関わりがあった。

 彼等二人は旧藩の内紛を猪口民部の指示で命がけで防いだことが物語の中で明らかになってくる。そして再び同じような内紛が起こっているらしいのだが・・・。

 二人の恋した萩乃は昔以上に美しく、魅惑的になっているが、既に人妻である。ところがその夫は猪口民部の指示で江戸へ向かったまま行方知らずになっているという。既にこの世の人ではないのかも知れない。

 次第に明らかになってくる藩の内情、そしてたびたび襲ってくる刺客、更に喜平次自身の仕事にも暗い影かさしてきて・・・。

 この事態の背景が明らかになり、更にまたその裏には大きな陰謀が隠されていたことも明らかになっていく。二人は逃れられないこととしてその事態に立ち向かっていく。

 女心の複雑さに翻弄される二人だが、それが彼等の力になり、成長を促していく。窮地に立ってこそ、その人間の真価が現れ、輝いてくる。

 いつも通り心地よい読後感に浸れます。

2013年2月 7日 (木)

池波正太郎「血闘 鬼平犯科帳」(文藝春秋)

 鬼平犯科帳の第三巻である。

 このシリーズは月刊誌(オール讀物)に連載されたものをまとめたものである。一巻で一年分か。それぞれ読みきりで12話が納められている。

 この中に表題になっている「血闘」ももちろん含まれている。この話は特に印象的だ。それというのもこれを朗読で何度も聞いているからだ。朗読していたのは志ん朝である。昔のことなのでテープになった朗読を購入したのだ。池波正太郎が好きで、志ん朝が好きだから購入した。

 この話では密偵のおまさが初めて登場する。それも絶体絶命の状態で登場する。そして長谷川平蔵もおまさの危難を救うためにやむを得ず単身で大勢の不逞浪人の巣に討ち込むのだ。その切羽詰まった様子を志ん朝の語りで聞くと、こちらもいやが上にも息が詰まるような思いをして夢中になってしまうのだ。もう物語と云うよりも、眼前に切り結ぶ刃から火の粉が飛ぶ様子まで見えるような気がする。名作を名人が読むという貴重なものに出会えたことは歓びであった。

 テレビではこのおまさの役をいろいろな女優が演じたが、梶芽衣子が私のイメージに一番合うように思っている。おまさには平蔵をみるときにかすかに恥じらいがなければならない。それが読み取れたのは梶芽衣子だけだった。

 おまさは後に大滝の五郎蔵と夫婦になるが、だいぶ先のことである。その五郎蔵は第二巻で登場していた。無口で思慮深い、私の好きな密偵である。だからこの取り合わせは何より嬉しいことであった。

澁谷司「中国高官が祖国を捨てる日」(経済界新書)

 中国が崩壊するとき、世界は震撼する、と表紙にある。帯には習近平が中国を滅ぼす、そして、中国民衆に唾棄される共産党、とある。

 中国のまさに今現在について記された本を立て続けに読んでいるが、この本もやや少し違う切り口から書かれた同様の本である。

 この本のテーマは中国の崩壊である。その崩壊の徴候として中国の高官が祖国を捨てつつある、と云う部分が表題となっている。出だしに書かれた中国高官の海外への資産の移動、身内の移住、高官自身の逃亡の実態は想像以上のものがある。

 中国の崩壊は近い、と著者は見ている。しかしこれは地震予知と同じで、30年以内に80%と云っても、明日起こるか、十年後かそれは分からない。もしかすると三十年後にも起きていないかも知れない。だが極めて起こる可能性が高いと云うことだけは間違いない、ということである。

 この本ではなぜ中国の崩壊が近いと考えるのか、具体的な状況が上げられていく。著者なりの組み立てで、説得力がある。同じ事実を取り上げてもその意味の捉え方には深度の違いがあるものだ。読者は読む前と後で、必ず認識を新たにすることだろう。

 中国が崩壊した場合のストーリーがいくつか想定される。と云うより、崩壊するのは中国共産党なのであり、その共産党がなくなった後がどうなるか、と云うことなのだ。この辺はこの本の主要部分なのでこの本で確認し、考えて欲しい。

 中国共産党体制が否定され、打倒された後、新たに現在の共産党体制よりもさらに全体主義的な政権が打ち立てられて中国を引き継ぐこと、いくつかの可能性のうちの一つであるこの可能性が、中国人民にとって、そして世界にとって、特に日本にとって最悪である。だがこの私にはこの可能性が最も高いような気がしてならない。理由は・・・中国人自身がそれを望んでいると云う事、中国人の血のせいだというしかない。世界が夢想する中国の民主化はかなり困難である。なぜなら中国人には民主化とは何か、と云うことが全く理解されていないからだ。彼等は悪い皇帝からよい皇帝に変わることしか望んでいない。

 最もましなのは中国がいくつかの国に分裂し、チベットやウイグル自治区が独立することで、周辺諸国への圧力も低下して緊張が和らぐことだが・・・。ただその分裂国家は不安定なものになるしかない。大きな緊張が小さな緊張に分散するだけであろう。

射撃管制レーダー照射

 中国軍の軍艦が、日本の艦船などに射撃用のレーダーを照射したことが明らかとなり、日本政府は中国政府に対して抗議を行った。

 この状況に盧溝橋事件を想起する人は多いことだろう。中国の抗日戦線と日本軍が一触即発の状況で対峙している中、一発の銃弾がきっかけとなり、戦闘が始まり、10年に亘る日中戦争へとなだれ込んでいった。

 この事件については詳細な記録が残されているが、誰が仕掛けたのか、については明らかではない。ただ、明らかなのは日中両軍ともが戦闘開始を望んでいたと云うことだ。

 今回のレーダー照射に対する抗議に、中国政府はいまのところ曖昧な態度に終始している。これは中国政府の意図したものではないのでどのように日本に回答したらよいのか分からなくなっている、ともとれる。

 ご承知のように中国の政策を決定するのは中国政府ではなく、中国共産党であり、重要なことはその共産党の中の7人の常務委員の合議で決定する。そして中国軍=人民解放軍は中国国家の軍ではなく、中国共産党の軍であり、しかも中国の意志決定機関である常務委員会と同格である。ただし人民解放軍を指揮する軍事委員会のトップは現在は習近平国家主席が兼任している。そして中国政府は共産党の下部組織である。だから中国政府は人民解放軍に対して直接関与することが出来ない。立場上人未解放軍の方が、中国政府よりも上位に位置する。

 ややこしく感じるかも知れないが、人民解放軍はシビリアンコントロールを受けていないと云う事だ。つまり戦前の日本軍のように政府から独立した組織である。その人民解放軍がどのような意思を持つのか、中国政府は直接知ることが出来ない。だから今回のような事態が起これば常務委員会に諮り、習近平という人民解放軍の代表を通して確認するしかないのだが、彼も軍の代表になったばかりである。

 このような事態になると常務委員会が外交部に対してこのように回答せよ、と云う指示が下される。ところがこの指示が今のところ外交部に降りてこないからあいまいな答しか出来ない、と云うことなのだ。

 どうも人民解放軍内部でもトップと下部とが意思疎通が出来ていない、と云う情報もある。もともと人民解放軍はいくつかの軍区に別れていて昔の地方軍閥の名残が強く残っている。統一した組織とは云えない面もあるのだ。まさに日本を戦争に無理矢理導いた関東軍と同じ構造を人民解放軍は持っているのだ。

 一触即発の状況は、我々が感じているよりはるかに深刻である可能性がある。そしてそれを何より強く承知しているのが中国政府である。今回の件についてどのような答がなされるのか、それによって中国の内部状況が見えるかも知れない。繰り返すが、ことは見かけよりかなり深刻なのだ。多分アメリカは日本以上にそれを感じているから何らかの具体的な動きを示すだろう。

2013年2月 6日 (水)

山鹿の人

 夕方風呂に云ったら先客がいた。がっしりとした体格の人だが背中の様子から年齢は六十歳代か。

 そのとき女風呂から賑やかな話し声が聞こえてきた。中国人の無意味な大声と違い、風呂を心から楽しむおばさんたちの声だ。不快ではない。そうしたらその背中の男の人が「大きな声だなあ」と話しかけてきた。

 二人で浴槽に入り話をしていたら「やまがを知っているか?」と聞かれた。ちょっと何を言われたか分からなかったので首をかしげると、「忠臣蔵で有名な熊本県のやまがだ」、と云われて「ああ山鹿流の陣太鼓、山鹿素行の山鹿ですか」とようやく分かった。その人は山鹿の出身なのだという。歳を聞いたら、昭和十二年生まれの七十五歳だ、という。とてもそんな歳には見えない。九州から来たのか、と聞いたら、いや、もう東京に出て来て五十年になるのだ、という。山鹿はどんなところですか?と尋ねると、温泉が五十軒くらいあるんだ、と遠い目をした。

 それから延々と赤穂浪士についての蘊蓄を語り出した。切りがないので他の人が加わったのを機にお先に失礼した。

 雪は止み、青空がちらりと見えたがもはや日も暮れる。

池波正太郎「兇剣 鬼平犯科帳」(文藝春秋)

 鬼平犯科帳の第二巻である。

 火付け盗賊改め方、鬼の平蔵は何人かの密偵を使っている。その多くが捕らえられた元盗賊で、これはと思う者を平蔵自らが選び、さとして配下にしている。彼等は平蔵の人間そのものに魅力を感じ、心服している。しかし彼等にも長い人生の間にいろいろな人物との縁があり、ときに密偵としての役割との間に板挟みになって苦しむこともある。それが大きな悲劇につながることもあり、また平蔵との新たな信頼関係につながることもある。

 盗賊になるにはそれぞれにとってそれなりの事情というものがあり、根っからの悪人ばかりというわけではない。平蔵はそれを真に理解している。それが分かるから密偵たちは彼を信頼し、心服するのだ。

 そのような密偵たちや盗賊たち、そして火付け盗賊改め方の与力や同心、さらに彼等に関わる人たちの人生そのものが描かれているのがこの鬼平犯科帳だ。だから捕物帖のように見えて、謎解きはほとんどない。

 我々が普段生活しているときに出会う平凡な日々ではなく、犯罪者やそれを取り締まる人間たちの極限状況のドラマなのだ。絶望的な状況の中に人の心のぬくもりや真実が垣間見えるとき、人は温かい心になる。

 このシリーズはそういう物語である。

 長谷川平蔵は長期間火付け盗賊改め方の長官を務めるが、連続しているわけではない。時に他の長官と交代することもあり、事件が少ないときにはこの役職そのものがなくなることもあった。奉行所と違い、あくまで臨時職なのである。しかし実際には彼は繰り返し任命された。

 彼の父・長谷川宣雄は平蔵が若いときに京都町奉行を拝命し、平蔵もともに京都に滞在した。この巻では火付け盗賊改めを解任されたのを機に幕府の許可を受け、懐かしい京都への旅に出かける。その道中の出来事や、京都や奈良での出来事(つまり事件)が幾つが描かれている。解任されたのは不始末があったのではなく、激務を承知している幕府が休養を与えたものであり、江戸へ戻るとすぐに平蔵は再び長官を拝命している。

設問の前提

 外は静かに雪が降っている。部屋は暖かく、静かだ。そして本が積まれていて順番を待っている。

 ところで先ほど取り上げた辻貴之「民主党はなぜ、日本を壊したか」について追加。この表題の意味について。

 この表題は設問の形(なぜ、壊したか?)をとっており、本の内容にその回答(こう云う理由で壊した)が書かれている、と云う前提で読者はこの本を手に取る。そしてこの設問はその前に、さらにある前提を置いている。「日本は壊れている」と云う事だ。「日本が壊れている」から「なぜ民主党が壊したのか」、と云う問になったはずだからだ。日本が壊れている、と思っている人はどれほどいるだろうか。壊れかけているような気がしている人はいるだろうが、壊れている、と確信を持って云える人はあまりいないのではないか。

 だからまず無意識に、日本が壊れている、と云う断定を著者は如何なる根拠で語っているのか、と興味を持つ人がこの本に引き寄せられる。ところがこの本には壊れる前の日本と、壊れた日本を提示して見せて、ほら壊れているでしょう、と云う説明が一切ない。それが知りたい人はついに宙ぶらりんのままに終わる。

 著者には自明なことに違いない。この本の表題をみてこの本を取り上げた人は、「日本はすでに壊れされた」という著者の前提について共通認識を持っているはずだ、と云う考え方のようだ。だからついに著者と読者は出会わない。読者は(つまり私は)普通列車しか停まらない駅で急行を見送る乗客のように、または回送列車を見送る乗客のように立ち尽くす。この列車ではどこへも行くことが出来ない。

辻貴之「民主党はなぜ、日本を壊したのか」(扶桑社新書)

 この本を読むことを私はおすすめ出来ない。そう書くとへそ曲がりの人はあえて読んで見ることだろう。そして成る程、と思うことだろう。

 中には本に書いてあること、活字になっていることが、事実であり、真実である、と云う考えの人は(意外と多いことに驚くが)この本を読んで、今まで知らなかったことを知ることが出来て参考になった、と満足するかも知れない。

 だがこの本を読んで「民主党がなぜ日本を壊したか」分かったという人は多分いない。そもそも日本は壊れたのか。いつどのように壊れたというのか。民主党にはどんな意図があったというのか。

 人間には憎悪にもとづく破壊衝動がある、と著者は云う。あるかも知れない。そして政治を動かすのは感情である、と云う。なぜならば「思考形成の中核にあるのは感情で、知性ではない」からだと云う。これはアメリカの脳科学者A・ダマシオの説だそうだ。著者はそのことから啓示を受け、その言葉を基点にして世界を読み解いていく。現代の脳科学はA・ダマシオの説が主流になっているのだ、と云うが、聞いたことはない。本当だろうか。

 そして歴史がこの考えに従って解釈されていく。沢山の引用が次から次に行われるのだが、その引用は著者の語りを補強するためだけに使用されていて、読者に対しての説得に供されていないように見える。だから読者は著者の言い分を丸呑みにする以外先へ進めない。中にはみるべき引用もあるのだが、適切に使われているとは云えないことが多いので意味が空回りする。

 面白い視点なのに、そしてファシズムとリベラルの類似性についての指摘など、肯く点も多いのにこの本から得られるものはあまりにも少ない。

 結局日本は民主党によってどう壊されたのか、どこが壊れたのかついに理解することが出来ずに苦痛のうちに読了した。

 分かったことはこの人が中国や南北朝鮮、ファシズム、リベラリスト、朝日新聞、日教組など(他にもたくさんありすぎてあげきれない)に憎悪を抱いており、彼等に対して破壊衝動を感じていることだけだった。

 著者は元高校教師、保守派の論客だそうだ。この人の本をうっかりしてまた買ったりしないように気をつけよう(実はいちど買って読んだ記憶がある。どんな本だか忘れたが)。

 北関東、群馬県の老神温泉にいる。朝、窓を開けると一面が白くなっている。まだ2~3センチ程度の積雪だろう。今はやんでいる。

 テレビをつけて天気予報を見ると、本格的に降り出すのはこれからのようだ。どちらにしても本日は出かけるつもりはない。露天風呂に浸かりながら雪をみるとしよう。ただ、内風呂はちょうどいいのに、ここの露天風呂はやや湯温が低めでしかも浅い。長く入っていると上半身から湯冷めしてしまう。

 本日も読書三昧のつもり。三冊くらいを並行して読んでいるのだが、一冊トンデモ本があり、考えがシンクロしないのでいささか読むのに骨が折れている。著者はこんな本を立て続けに書いているようだけれど、ちゃんと売れるからこうして出版されるのだろう。私みたいに期待して読み始めてびっくり、と云う人も多いことだと思う。この本については後で紹介する。

 隣は昨晩やかましかった。話し声はさすがにかすかにしか聞こえないのだが、戸の開け閉めがやかましいのだ。和室なのでふすまや障子のように横開きばかりである。だから勢いよく開けると戸が柱に強く当たる。普通の人間ならいちどそのように大きな音が出ると次からは気をつけるはずなのだが、どうもそのような神経がない人たちのようで、バタン、バタンと繰り返される。こちらは寝入りばなからその音に驚かされて、寝そびれてしまった。寝付きのよい私としては珍しいことである。多分他人の存在など念頭にない人たちなのだろう。一泊で旅立ってくれると好いのだが。

2013年2月 5日 (火)

呉智英「言葉の煎じ薬」(双葉社)

 言葉の間違いを正す薬は苦いが、普段その間違いに苦い思いをしている身には心地よいものでもある。

 呉先生はものを知らなくて当然の普通の人が(出来ればものを知っていて欲しいが)間違いを犯すことについてはとがめ立てをしない。言葉は生き物で、ときに変化するものであることは承知しているからだ。

 先生が許せないのは当然知識もあり、知識人として自他共に認められている人の間違いである。しかもそれが自分は一般の人が何も知らない、と見下しているときに、えらそうに使わなくても好いような言葉をことさらに使って、それが誤用であるときにそれを暴き立てて激しく論難する。

 ちょっと細部にこだわりすぎではないかと思うところもあるけれど、言葉というのは使うときによくよく気をつけないといけないと自戒させられる。人の文章を見ていてあれっヘンだな、と思ったときはたいてい何か間違いがある。人の文章にはよく気が付くが、自分の文章には気が付きにくい。この違和感を感じる感性を磨くには、日頃の勉強が欠かせない。

 すべからく・・・の使い方について少々こだわりが強すぎるのがちょっとくどく感じるほかはおおむね勉強になる。すべからく・・・の用法についても漢文を習うときの初歩中の初歩なのでその通りなのだが、今は誤用が主流になっているかも知れない。

 呉先生は現在名古屋を拠点に評論活動を行っている。昔から先生の書くものが大好きで新しい本が出ればたいてい購入している。でもどうして先生の本が思想・哲学のコーナーにあるのだ。あまり覗かないコーナーだからつい見落としてしまい、いつの間にか書棚から消えている。平棚においても売れるくらい面白い本ばかりなのに残念だ。

椎名誠「三匹のかいじゅう」(集英社)

 椎名誠の私小説の最新刊。彼の孫三人との話である。

 椎名誠には娘と息子の二人の子どもがいる。その息子、岳君のことを書いたのが最初の私小説「岳物語」だ。昨年読み直してブログでも取り上げている。父親と息子との関係について彼にしか出来ないつきあい方が描かれていて、お父さん後輩、の私にとても参考になった。

 この物語ではその岳君の息子・風太君、娘・海ちゃん、そしてその後生まれた息子・琉太君の三人が、どのように成長していったのか、生き生きと語られている。

 岳君はアメリカに17年いてアメリカで結婚した。風太君と海ちゃんは、だからアメリカ生まれである。ヒスパニックや黒人が多く住む街に住んで、やはり子どもには日本という国を経験させなければと思い、一時帰国をした。風太君たちのお母さんも日本人である。

 彼等は最初しばらくは椎名誠夫婦の家で同居をする。そして岳君が当面の生活の糧としての仕事を始めるにあたり、近くの家を借りて引っ越していく。歩いて行けるところなので、風太君たちとじいじいとの楽しい関係はそのまま続いていく。そしてやがて琉太君が生まれる。

 この孫たちの日々の出来事のそれぞれが、同時に自分の若かった日の息子、娘たちとの思い出に重なっている。若いときには余裕がなかったけれど、じいじいになれば全てがきらめくような楽しい日々である。このような手放しの人間賛歌を椎名誠が書くようになるとは思いもよらなかったことだが、孫というのはそういう存在なのかも知れない。

 その後東日本大震災があり、福島原発による放射能汚染を考慮して、彼等はアメリカへ戻るかどうか迷うのだが、その結果はこの本を読んでみて欲しい。

 目の前に全ての光景がありありと浮かぶ、とてもリアルな小説で、椎名誠という作家の文章の手腕はやはり並大抵ではないことがよく分かる。

哀しくて恥ずかしい

 会社を退社した人たちの集いがあり、そこが定期的に発行している小紙にむかし縁のあった人について一文を寄せることになった。訃報に接したからだ。

 送られてきた文章が載っているその小紙を見てちょっと哀しくて恥ずかしい思いをした。名前が間違っている。そして文章の語尾が、ですます調と、である調が混在している。そういう文章は読んだ瞬間に違和感があるから気をつけていたつもりだし、読み直して誤字などを書き直した文章だから考えにくいことだ。原因は何処にあるのかわからない。

 でもこの文章は私が書いたものとして多くの人の目にとまった。それを考えると哀しくて恥ずかしい。

福島香織「中国『反日デモ』の真相」(扶桑社新書)

 先日ここで取り上げた興梠一郎「中国 目覚めた民衆」が中国の政治状況を基点としたやや高い目線からの中国の現状について書かれた本だったのに対して、この本は中国で一般民衆が見ている目線から中国の現状を語ったものである。もちろん彼女の情報はかなりディープだから、中国の一般の人が知っていることよりはるかに多くて詳しい。表題の通り、反日デモそのものと云うよりもその背景、深層について丁寧に、そして詳しく書かれた本である。

 書き出しから、今どれほど中国の体制が反動的になっているのか、それがこれでもか、と云うほど次々に列記されていく。反体制への弾圧は文化大革命以後では現在が最も激しくなっているようにさえ感じる。つまりそれだけ体制側が中国民衆の民主化の圧力に揺らいでいること、それを食い止めるために必死なのだ。

 そして中国に革命が起こるかどうか、起こるとしたらどう云う形でそれが進行するのか、それについての著者の考えが詳しく語られる。さらに今その日だねとみられる場所でどのようなことが起こっているのか、と云う事例が述べられている。新疆ウィグル自治区やチベットでの迫害の現状だ。

 そして政治的事件の背景にある政治家たちの権力争いがいくつか上げられている。興梠一郎氏も「ある出来事の裏には常に隠された事実があると思っているくらいがちょうどよいのかも知れない」と著書で語っていた。そして中国人は何も知らされないが故に、そのことを最もよく知っている。

 そして最後が「『反日デモ』の実態」の章である。背景や深層を念頭に置いて、実際にあの『反日デモ』でどんな現象が見られたのかが著者の情報力を駆使して集められている。デモがどのように仕掛けられ、それが暴走したのはなぜか、中国人は本当に反日感情からデモを起こしたのか、これらの事実からあなたも考えて欲しい。

 興梠一郎氏の本とこの福島香織氏の本とを併せ読むと、中国の状況が立体的に把握出来る。いささかでも中国はどうなっているのか、そしてどうなるのか興味のある方はこの二冊を是非読んで欲しい。中国について新聞やテレビが如何に皮相的なものしか捉えていないのかよく分かり、ネット情報など別の情報を知りたいと思うようになるであろう。

 出来事の裏には隠された事実がある。

大声

 老神温泉という北関東の温泉にいる。その温泉で昨晩経験したこと。

 風呂に入るために脱衣場のドアを開けようとしたら大声が聞こえる。大声なのに何を言っているのかが解らない。意味がわからない大声というのは何だか人を不安にさせる。若いおとこの大声だ。

 一瞬思ったのは、駅や路上で、ちょっと可哀想な人(多分病気なのだろうと拝察する)が誰にともなく、大声で何かを話していることに出会うことがあるが、そういう人がたまたま風呂に入っているのかも知れない、と云うことだ。

 声は続いている。そうしたらそれに応える声が聞こえてきた。今度は女性の大声だ。そして初めてその話している言葉がなぜ意味不明なのかがわかった。中国語だったのだ。

 浴室に入るとシャワーを全開にして撒き散らしながら若い堅太りのおとこがいた。いたのはこのおとこだけだった。ちらりとこちらを見たけれど、会話らしき大声は続く。近くのカランではシャワーのしぶきがかかるのがわかったので一番離れた場所で身体を洗い、浴槽に浸かりながら見るともなく見ていた。しばらくしたらおんなの声が何か叫んだあとその大声は終わった。

 おんながもう出るよ、と云ったのだろう。さすがにこのおとこも一人では大声で話さないようだ。

 私が浴槽から出て髪を洗い、もう一度ゆっくり浴槽に浸かっているところでおとこは風呂からあがった。その間ずっとシャワーを撒き散らし続けたが、ついに浴槽に浸かることはなかった。

2013年2月 4日 (月)

碓氷峠と碓井湖

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この陸橋が見たくてバイパスではなくて昔の碓氷峠を下りました。180あまりのカーブ(多くが急カーブ)があり、タイヤにはずいぶん負担がかかる道ですが、この陸橋が見られるのと妙義山が遠望出来るのが値打ちです。この橋は昔の鉄道のためのものですが、今は廃線になっているので使われていません。

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峠の終わりの方に、碓井湖と云うダムの堰止め湖が、見られます。周囲がぐるりと遊歩道になっていて、一回りが1.5キロと云うことなので、足もとさえ良ければ歩いたのですが、やめておきました。

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これがダムですが、小さなものです。このダムのまん中くらいまで行ってみました。下を覗いたのが次の写真です。

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落ちたら泳げたとしてもたちどころに冷たさで死ぬでしょう。

このあと高崎から前橋まで走り、関越に乗って沼田へ、沼田から目的地の老神温泉に行きました。

時間が早いので昨年見た、近くの吹割の滝へ行って見ました。誰もいないし、滝への道の両脇の売店も全て閉まっていました。もちろん足もとの雪交じりの道も何の手入れもしてありませんから歩きにくい。これは無理かな、と思った瞬間に滑って転んでいました。旨く受け身をしたのでどこも痛めずにすんだのですが、ズボンのおしりが汚れるわ濡れるわで悲しいことになりました。やめておけば良かった。

昨年秋に老母と老神温泉で湯治をしたのですが、この滝へ見物に来て、私とほとんど同じところで老母もそのときよろけて転びました。

宿に入り、晩になってから、弟から電話があって老母が目が回って寝ることも出来ない、と云うので今日病院へ検査に連れて行ったそうです。平衡感覚がかなり損なわれているようです。詳しい結果は来週出るとのこと。心配なことですが、今のところどうすることも出来ません。

懐古園

恥ずかしながら小諸の懐古園が小諸城址であることを知りませんでした。北の丸跡や三の丸跡があり、もちろん本丸跡もありました。全て残っていません。残っているのは大手門、三の門、石垣と神社だけでした。

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三の門。扁額は徳川家達(いえさと)の書いたものだそうです。

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島崎藤村の「惜別の歌」の歌碑。他にも「小諸なる古城のほとり・・・」の歌碑や「椰子の実」の歌碑もありました。この惜別の歌は、大好きで、歌詞を見ないで歌える私の数少ない持ち歌の一つです。

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一体何だろう、と思うでしょうが、これは噴水です。

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見晴台から千曲川を見おろしました。懐古園は小諸駅のすぐ裏ですが、千曲川から見るとずいぶん高い所にあるのが解ります。この下で左に向きを変え、そのあたりに堰があります。雪が少ないのにお気づきでしょう。

このあと18号線を東へ。軽井沢を抜けて碓氷峠を下りました。

白樺湖

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ただの雪原に見えると思いますが、この平らで白い所は白樺湖の湖面です。ちょうど雪が小やみになった所でしたが、夜のようにどんよりと暗い中で撮影しました。

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この鳥居は湖面の淵に建っています。

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白樺湖の氷と雪です。

本当に暗かったのでたいていの車はライトをつけていました。

本日は名古屋から北関東への旅。高速をなるべく使わないけちけち旅行にしようと思い立ち、恵那で高速を降りて19号線をひたすら北上。途中右折して361号線を木曽から伊那へ、さらに高遠へ抜け、そこから再び152号線で北上しました。南木曾あたりまでは雨でしたが、木曽から雪、361号線の峠越えはスリル満点の雪道でした。この白樺湖の後、峠を一気に下って上田へ向かいましたが、この峠の傾斜が半端ではなく、尻がツルツル滑ってほとんどコントロールが利きません。

それが峠を下りきったらもう山にすら雪がない。ほんの数キロの違いで景色ががらりと変わります。急に小諸の懐古園を見ることに決めて、そのあと小諸へ向かいました。

2013年2月 3日 (日)

内田樹「態度が悪くてすみません」(角川oneテーマ21)

 副題は「内なる『他者』との出会い」。

 ここで云う態度の悪さ、と云うのは前書きにあるように、横柄で傍若無人、失礼である、と云うものではない。いつでも相手の言い分に耳を傾け、その言い分が成る程、と思えばたちどころにそれを取り入れて、意見を自由自在に変更していく態度のことである。だから、あのときこう云ったではないか、と指摘されたら、すみません、と頭を下げてあのときはそう思いましたが今はこうなんです、と云う態度のことである。

 だから第一章は「コミュニケーションの作法」という文章である。コミュニケーションに必要な能力というのは、場の空気を読む能力と云う事である。相手が何か語っているときに、音声としての相手の言葉だけでしか相手の云っていることを受け取れない人がいる。実は何かを語っている人は全身、つまり身体を使って何かを表現しているものであり、その仕草を含めての全てを読み取る能力が場の空気を読む能力と云う事である。甚だしくその能力に欠ける人は相手の言葉すら聞き取っていない。言いかけている最中に自分の世界観だけで相手を解釈してしまう。KYと云うのは生きていく上で非常に不利である。

 コミュニケーションの不調がどれほど社会的に問題があるのか、事例を挙げてそのポイントを説明し、身体論に話は進む。コミュニケーションには身体が大きく関与しているのだから当然の流れなのだ。そして内田樹先生は合気道の先生だからその身体論は奥が深い。

 そして先生が出会ったいろいろな人との関わりが述べられ、さらに読んだ本や見た映画の話に展開していく。

 この本もコンピレーション本である。つまり先生がブログに書いた文章をテーマをそろえて配列し、先生が流れをそろえるために加筆修正を行ったもので、ネタはブログである。ブログがとても面白いのだから、当然この本も面白い。ただで読めるブログを読んだ後でも、お金を出して買いたくなるほど面白いのだ。

やっと復活

 昨日は新酒試飲会で、度数20.5度という原酒をいい調子で飲んだので予想通り本日は二日酔い。その上例によって名古屋で仲間とさらに飲んだのだが、その場で何だか訳のわからないことを大声でえらそうに語っていたことを思い出すと、そのはずかしさに打ちのめされて二日酔いの不快さが倍加した。その場の皆さんが酒の席のこととお許し頂くか、酒に流して忘却していただくことを心から願う。

 今晩から湯治の旅に出る。明日からは風呂、飯、読書、飯、読書、風呂、飯、風呂、寝る、時々ブログ、の日々が始まる。

2013年2月 2日 (土)

大気汚染の原因

 中国の各地が再び深刻な濃霧に蔽われている。一月だけで四回目である。このスモッグに蔽われた面積は、中国環境保護部の発表によれば、143万平方キロで、日本の国土面積の四倍近い。

 この事態に対して北京政府は汚染源とみられる103の工場に対して操業の一時停止を命じた。さらに市内の自動車交通量を3割削減していくことにするという。

 WHO(世界保健機構)が発表している世界の大気汚染都市ワーストランキングでは10位以内の7都市が中国の都市なのだそうだ。

 テレビでも呼吸器系疾患の患者が病院に押しかけている様子が映し出されていた。どのような対策をとろうにも結果が出るまでには時間がかかるだろう。当分はこのような疾患患者がさらに増えるだろうと思う。しかしここまでひどくならないと手が打てないというのも恐ろしい。

 中国の正月である春節が近い(今年は2月10日)。春節前後には花火や爆竹が盛大に上げられ、鳴り響く。この時にはもちろん煙も大量に出る。だからこれも規制した方がいいという意見と、関係ないという意見の論議が盛んである。どうなのだろう。

 ところで例によって何でも日本のせいにする中国人が出現。「大気汚染は日本のせいだ」と奇論を述べている。そもそも中国は技術発展とともに工場や発電所で発生する汚染物質は年々減少している(確かに当局の調査結果ではそう発表されている)。それなのになぜ濃霧が発生するのか。日本からの気流がシベリアに抜けず、日本の濃霧が中国へ流れてきているのだそうだ。その濃霧に汚染物質が含まれており、中国の大気汚染は全て日本が原因だ、そうだ。

 まあ本気で受け取る人はいないだろうけれども、ここまで何でも他人のせいにする精神が蔓延していては大気汚染も永遠になくならないことだろう。日本に影響がなければ本当はそれでもかまわないのだけれど、そうも行かないし心配なことだ。

報道の自由

 国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」が、世界各国の報道の自由度ランキングを発表した。日本は22位から一気に順位を下げ、53位となった。

 東日本大震災のときの福島原発事故についての報道が不的確で不透明であったというのが大きな理由であると見られている。

 あのときの原発事故について政府が隠蔽、虚偽を繰り返し行っていたことが後で明らかにされていたが、マスコミはそれを自らが確認検証することなしに垂れ流し、政府に荷担した。以前からずっと批判されていることだが、記者クラブ体質のぬるま湯にどっぷり浸かり、政府の発表をそのまま事実として報道したから、その発表が二転三転するとそのまま二転三転していた。国民を混乱に陥れ、不安に陥れた責任は大きい。

 政府はほとんど当初から放射能汚染についての情報を把握していたことが今明らかになりつつある。なぜそれを明らかにせず、隠蔽したのか。これは「国民というのは愚かだから、本当のことをそのまま云うとパニックになる」と考えたようだ。政治家、官僚、そしてマスコミはつまり国民は馬鹿だ、と云う認識で一致しているから、国民のために隠蔽していたのだ。

 マスコミは、だからその後で隠蔽の事実が明らかになってもあまりそのことを突っこんでいるように見えない。つまり共犯であることにうすうす気が付いているから疚しいのだろう。これでは報道の自由のランキングが大きく低下するのは当たり前だ。

 日本のマスコミはこのことだけでなく、多くのことで同様の判断の下に情報を選択して報道しているのかも知れない。彼等の考える優先順位を疑う必要があるのかも知れない。さいわいゴミ情報も多いが今はネット情報というものがある。

 多分日本のランキングはもっと下がるだろう。

中国人と「火垂るの墓」

 中国のネットに、アニメ映画の「火垂るの墓」を見た感想が寄せられていた。「感動した」「日本人もこんなにつらい体験をしていたのか」という素直な声が多かった。そして「戦争の悲惨さを伝える映画は日本のものの方が遙かに優れている」という声も見られた。中国の戦争映画は愛国心を書き立てるべきもの、と云う長い慣習から、必ず日本軍の行う残虐なシーンが繰り返し描かれるのがお約束で、戦争の悲惨さはそのまま日本への憎しみに導くものが多かった(そういうものでないと当局に許されなかったのだろう。つまり日本の戦時中と中国はかわらないのだ)。それに気が付いたのだろう。

 案の定この映画を批判して、「この映画には日本が中国人民に苦痛を与えたことが描かれていない。日本に同情を集めようという映画だ」などと云うものがあった。本気で言っているのなら何をか言わんやである。世界の中心は中国である、と云う中華思想がここにもうかがえる。

 私はこの映画をいちど見て、だいぶ後にBSで放映されたので録画したのだが、もう一度見るのがつらくて未だに見ていない。

 原作は野坂昭如の短編で、私が高校生くらいのとき、文芸誌に掲載されたのをリアルタイムで読んだ。句読点の極めて少ない異様な文章で、最後に死者のモノローグであることに気が付いて衝撃を受けたような記憶がある(それ以来読んでいないので私の思い込みかも知れない。何せ四十数年前のことだから)。それがあのような映画になったのは驚きであった。私には人魂が見えたのである。

2013年2月 1日 (金)

無為の一日

 本日は何もやる気がしない。本を読んでも別のことが次々に浮かんできてしまって読書にならない。少しオーバーヒートしているようで、頭が空回りしている。ましてや映画を見る気もしない。

 こう云うことが時々ある。音楽でも聴きながら酒でも飲んでぼんやりしているのが好いのだが、明日は新酒の試飲会で、昼酒を酩酊するほど飲む予定だから今日は控えめにしておかなければもったいない(飲むけど) 。仕方が無いから平原綾香のライブの録画をヘッドホーンで音を大きくして聞いている。

 ブログに書きたい中国ネタがいくつかあるけれど、ちょっとその気になるまで時間がかかりそうだ。

 明日の新酒の試飲会(蔵開き・津島の先、三重県に近い所の酒蔵)の後は多分さらに名古屋で仲間と一杯飲むことになるだろう。今のところエントリーが私を入れて八人となった。絶対に明後日は二日酔いだろう。そして、その明後日の夜中から久しぶりに旅に出る。今回は北関東、赤城山の向こう側あたり。帰ってくるのは早くて次の日曜日、まるまる一週間温泉三昧の予定である。ラストの土曜日には桐生の周恩来兄貴分と飲む。

泥棒だが愛国者

 対馬の神社や寺から盗まれた仏像2体が韓国に密輸入され、盗んだとみられる窃盗犯は逮捕されている。この仏像は韓国から日本に渡ったものと見られるが、その歴史的経緯は明らかではない。もちろん韓国文化庁は日本に返還する方針である。

 ところが韓国のネットではもともと韓国のものだったのだから、日本に返還すべきではない、と云う意見がたくさん寄せられ、韓国文化庁を強く非難しているという。先祖がつくった仏像を子孫が持ち帰ることは犯罪ではなく、愛国的行為であると云う論理らしい。

 こんなことを云っていたら法隆寺の百済観音をはじめ、韓国から渡来した仏像は山ほどあるから、これから韓国の愛国者に盗まれないように注意しなければならない。

 ルーヴル美術館やボストン美術館など世界中の美術館や博物館のかなりの数の収蔵品が自国で造られたものではない。もし韓国の美術品があったら盗まれたら返してもらえないことになるのか。ただ残念ながら韓国には日本に残されたもの以外に、そのような一流の美術館、博物館に展示出来るものがあるかどうか知らないが。

 今に韓国で手に入れたものは全て韓国で造られたものだからといって、韓国人に盗まれても、愛国的行為の名のもとに返してもらえないことになりそうだ。一部のおかしな人間がこのようなことを主張しているのだろうが、他の韓国人は恥ずかしくないのだろうか。

 韓国のある寺が、この仏像はもともとをわが寺のものだ、と所有権の主張を始めたらしい。

 この寺の言い分を検証して日本に返還することを見合わせる、と云うことにまさかならないとは思うが・・・・。

中島義道「人生、しょせん気晴らし」(文藝春秋)

 中島義道先生は狷介な哲学者である。狷介、という言葉がこの人くらい似合う人はいないと思う。

 狷介と云う言葉は中島敦の「山月記」の冒頭、「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃む所すこぶる厚く・・・」という文章に出ていたので(文章ごと)覚えた。本来の意味は自分の意志を曲げず、人と和合しないことを云うのだが、現在は人付き合いが出来ないほどものにこだわって頑固なこと、というようなやや悪い意味で使われることが多いようだ。李徴もそういう性格として語られている。

 中島先生は確かにそのような所が大いにある。しかしこの本にもある通り、友だちもそれなりにいるので、隴西の李徴ほどのことはないようだ。もちろん李徴にも袁傪という唯一の友だちがいないことはないが。

 中島先生は哲学者でカントについての著作が多い。「人は死ぬ、必ず死ぬ、死んだらそれで終わりで何もない」と云うのが口癖だから、生半可なつきあいかたをすると死にたくなったりする。

 この本で取り上げられている先生の気晴らしは、
「自由な生き方」という気晴らし
「読書」という気晴らし
「社会批判」という気晴らし
「哲学」という気晴らし
「人生相談」という気晴らし
「対談」という気晴らし

の、以上六つの気晴らしである。人生相談は私にとって痛快に読めたが、相談した人はへしゃげているのではないだろうか。はっきり云えば「勝手に悩め!」「そんな事解るか!」「哲学なんか役に立たない」「馬鹿!」と答えているようなものだから。

 この中の「哲学」についての部分でカントやショーペンハウアーの哲学を論じているが、何度読んでもさっぱり解らない。先生の云う通り、格闘して血みどろに成る程読み込まなければならないものだと云う事だけは解った。ここでニーチェやハイデガーがこき下ろされているが、先生は実存哲学がお嫌いなようだ。直感などと云う粗雑な飛躍は切って捨てられている。

 最後の対談でパックンや、呉智英が出てくる。

 哲学にいささかでも興味があるなら「気晴らし」に読んで見ませんか。

つい興奮して

 昨日はつい興奮して書き飛ばしたので、まるで新興宗教の信者みたいな書き方になっていたような気がする。内田樹先生は決してそういう先生ではありませんので誤解しないでください。私と同年のフランス哲学者で、合気道六段(だったと思う)の武道家でもあり、先年60歳でめでたく神戸女学院の教授の職を定年で退官され、現在名誉教授である。少女漫画、カルト映画にも造詣が深く、昨年は夢だった道場兼自宅を新築された。およそ新興宗教の教祖とは極北の方である。

 そんな事は知っているよ、と云う方がおおかただとは思うがびっくりされた方もいると思うので念のため。

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