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2013年3月

2013年3月31日 (日)

なれ寿司

 九十九里のことを考えていたら、なれ寿司を思い出した。正月に必ず食べていた。あの魚売りのお婆さんが漬けて持って来てくれるのだ。

 鰯のゴマ漬け、そして鰺を御飯と漬けたものが多かった。稀にサンマを漬ける。鰯のゴマ漬けはゴマと柚子を加えて鰯を漬け込んだもの。おからと漬けるのもある。この鰯は真鰯では油が強すぎて駄目で、九十九里独特の背黒鰯でないといけない(この背黒鰯のつみれ汁は絶品)。鰺は腹を開いて御飯を詰めて漬け込む。御飯が発酵してなれ寿司になる。真冬しか作れないと婆さんは言っていた。子供のときはちょっと苦手だったが、いつの間にか楽しみな正月の味になっていた。だからなれ寿司には抵抗がない。初めて琵琶湖の鮒寿司を食べたときも最初からおいしいと思った。

 なれ寿司ではないけれど、子鯖の酢漬けもよく食べた。これは五月から六月頃防波堤に釣りに行くと、10センチから15センチの子鯖が入れ食いで釣れる。生姜醤油で煮付けて佃煮風にしても好いけれどすぐ飽きてそんなに食べられない。これを頭と腹を斜めに切り落としてしまい、塩水でよく洗ってぬめりを取る。そして水気をよく切ってから酢に漬ける。尻尾は落とさない。酢には出来れば梅酢を少し足すと味わいが増す。二、三日経つと食べられる。骨もへろへろのヒモみたいに柔らかくなる。尻尾を持って身を咥えればつるりと面白いように骨だけが残る。

 漬けるのは生の鯖である。皮も引かない。簡単でおいしくて何匹でも食べられる。そして血圧がすとんと下がる。子供たちも喜んで食べた。
何せ一時間も釣るとたちまち百匹以上連れるからこんな簡単な調理法で大量に食べられる方法が一番だ。

 早く陽気が良くならないかなあ。五月になったら釣りに行こう。釣れたら娘のドン姫も魚を食べに来てくれるだろう。

井上ひさし「日本亭主図鑑」(新潮文庫)

 亭主図鑑と言いながら、書いてあるのは家庭の夫人についてのことばかりである。夫人の生態を書くことで亭主を間接的に描いたのだ、といっているが最初から確信犯である。女に怨みでもあるのか。あるのだろう。

 電車の中で読んでいるとつい声を出して笑ってしまい、いささか恥ずかしい思いをする。夢中で読んでいるとうっかり乗り過ごしかねない。

 例によって過剰な言葉が次から次に連ねられている。多少の過剰はうるさいが、これだけ大過剰だと圧倒されてしまい、しまいには感心する。よくここまで次から次に出てくるものだなあ。

 ごく短い文章(2~5頁)がたくさん盛り込まれている。その中に何点か狂言回しとして九十九里の魚婆が登場する。魚を行商に来る塩辛声の婆さんだ。私が生まれ育ったのは九十九里浜から10キロ足らずの町で、そこには地引き網でとれたばかりの小魚を毎日売りに来るおばさん、おばあさん、おじさんがいた。母が魚が好きだから毎日必ず買う。みな早い者勝ちで売りに来る。おかげて新鮮な小魚を毎日食べて育つことが出来た。この本に出てくるような婆さんもいた。潮焼けで色が真っ黒で塩辛声、毒舌の婆さんを久しぶりに思い出して懐かしい。

映画「トランスフォーマー ダークサイドムーン」2011年アメリカ映画

 監督マイケル・ベイ、出演シャイア・ラブーフ。

 金をかけて長い映画を作ったけれどちっとも面白くない映画だった。どうしてこんな馬鹿な主人公に地球の運命が託されなければならないのだ。おまけに登場する女性のことごとくが主人公に輪をかけて馬鹿だ。典型的なアメリカの映画のパターンはいつも自分のことしか考えない女がヒロインであり、政府の主要な役職で権限を持っている女性はこぞって想像力を欠いていて独善的であり、主人公の邪魔をする。

 本当にアメリカの女性の多くがこんな風ならアメリカの男は不幸に違いない。これに比べればまだ日本の方がましだろうか。

 トランスフォーマーの個体の区別がつかないから何が何だか分からない。余程マニアックにロボットが好きな人以外はこの映画を観たあとに時間を無駄にした上に疲れ果てて怒りを覚えることだろう。

 決してこの続編をつくらないで欲しい。

映画「ロビン・フッド」2010年アメリカ・イギリス合作映画

 監督リドリースコット、出演ラッセル・クロウ、ケイト・ブランシェット、ウィリアム・ハート、マックス・フォン・シドー。

 シャーウッドの森をねじろに、暴虐な代官に対してゲリラ活動を行ったロビン・フッド(ラッセル・クロウ)の物語の前史を描いている。獅子王リチャード一世の十字軍遠征に従軍したあと、帰国の途上に最期を看取った騎士の依頼を引き受けたロビン・フッドは、戦友数人とともに騎士の剣をノッティンガムに届ける。そこで騎士の父であり、ノッティンガムの盲目の領主(マックス・フォン・シドー)の懇請を受けて、騎士の身代わりとしてノッティンガムに滞在することになる。

 折しも戦死したリチャード一世の後を受けたジョン王はフランス王と内通している側近にそそのかされてイギリス国内を内乱に陥れる事態を招いていた。内乱の背景を知らされたロビン・フッドは反乱軍に参加、そこへ現れたジョン王に自分の間違いを認めさせ、力を合わせてフランス軍と戦うように導く。

 その頃謀略軍がノッティンガムを急襲しているという知らせが入る。間一髪でロビン・フッドたちはノッティンガムの危機を救ったあと、ドーバー海峡を渡って大挙して上陸してくるフランス軍に立ち向かう。

 ロビン・フッドの物語は伝説となり、その話はさまざまに変遷してきたという。たぶん圧政に抵抗した多くの勇敢な人物たちがその物語に織り込まれているのだろう。

 この映画の前、ケビン・コスナー主演でロビン・フッドの映画が作られている。これも十字軍の遠征でのシーンから始まるものだったが、主なストーリーはシャーウッドの森を拠点に代官たちと闘うものだった。

 ラッセル・クロウは「L.A.コンフィデンシャル」で初めて見た。良い映画、好みの映画に出ている。「グラディエイター」「プルーフ・オブ・ライフ」「マスター・オブ・コマンダー」「消されたヘッドライン」など忘れがたいものばかりだ。

 マリアン役のケイト・ウィンスレットがこんなに魅力的な女優とは思わなかった。やはり女性は微笑むときに最も美しい。

意識の問題

 人間世界に比べれば自然は雄大で、人間の営みで生じた廃棄物は自然が浄化してくれた。ところが人間の経済活動、生産活動がその自然の浄化能力を越えつつあるように見える。

 その典型的な見本を中国で見ることができる。中国の湖沼河川が少しずつ干上がり、消失している。中国の砂漠化は中国の歴史とともにある。青銅器、鉄器の生産のために森林を消失させ、自然の回復能力を損なってきた。

 遅ればせながら防砂林などの植林事業も行われているが、蟷螂の斧のようだ。その上あるまいことか、まだ若木のその植林された木をたきつけ用として地元住民が伐採してしまうのだという。

 中国の黄河、長江などは源流をヒマラヤの氷河から発している。ところがその氷河がいま急速に縮小消失しつつある。

 大河には巨大なダムがいくつも造られ、水をコントロールすることを目指しているが、想定外の事態が続発しているとも聞く。結果的にこれも大河の流量低下を招いている。その河には生活排水、工業廃水が無節操に流れ込み、汚染は進むばかりだ。

 中国は淡水の量が多いが利用可能な水量が減少しつつある。

 北京では地下水をくみ上げすぎて水不足が危機的状況に陥りつつある。最近のニュースでは海水の淡水化のプロジェクトが始動しており、3年以内に一日当たり100万トンの淡水を生産供給出来る、と豪語している。本当だろうか。そのためのエネルギーはどうするのか。そのエネルギーを使用することで二次的な問題はないのだろうか。

 繰り返すがひとが生活すれば廃棄物を生じて自然に負荷がかかる。自然が再生し続ける限度を超えてはならないのは自明なことだ。欧米や日本ではすでに十分認識されてそのシステムがつくられている。

 ところが中国では危機的状況に入りながらその認識が不十分に見える。そして事態はさらに悪化しそうに見える。だから国家は強権を以て汚染原因に対して懲罰を含めた規制を行うことだろう。しかしそれは奏効するだろうか。

 迂遠だけれど国民にこの事態の意味を自覚させることが先決だろう。国民というのは常に自分が被害者だと思う人たちである。大気汚染も水質汚染もみな誰かが犯人で自分は被害者である。自分が貧しいのに誰かか金持ちなら、貧しいのは誰かのせいであると考える。自己責任、と云う言葉はいささか誰かの都合のために使い古されてしまったが、国民が、自分が加害者でもある、という自覚を持ったときに初めていささかの改善が期待出来るのではないか。

 過剰な被害者意識は権力に利用されやすい。犯人を仕立てれば多くがそれへの怨嗟にとらわれて現実から目を逸らされる。中国国民は迷妄から目を覚ますことが出来るだろうか。そうすればいつか水質汚染も大気汚染も改善の方向に向かうかもしれない。

 今のままの被害妄想、拝金思想、他罰思想で国家に操られている間は無理だろう。いまの領土拡張行動もまさにその思想に裏打ちされている。

分からない

 北朝鮮が今日明日にでも戦争を始めよう、という態度を繰り返し示しているのだが、何が目的か分からない。世界中は北朝鮮が困窮している、と見るが、困っているから助けてくれ、といっているようには聞こえない。消息通などはいまの支配者たちの延命が目的だろう、というがいまの立て続けの行動がそれにつながるとはとても考えられない。

 その言動が理解を超えている相手を古来ひとは狂気であると見た。ときに狂気は神がかりと見られることもあるが、少なくとも北朝鮮が神がかりであるとは思えないから、いま世界は狂人の暴発を息を呑んで見守っている。

 誰も落としどころが分からない。たぶん北朝鮮なりの願望はあるのだろうが、もう誰もそれを読み解くことが出来ない。

 だだっ子が何かの理由ですね始めたのが、あまりに興奮してついに何をして欲しいのかわけが分からなくなったとしか見えない。ついに韓国との経済的なパイプであり、重要な外貨獲得の道である開城工業団地を閉鎖する、と警告を出した。

 中国は二月、北朝鮮への石油の供給を停止した。三月はどうだったのだろう。思い出すのは日本が戦争に踏み切った大きな理由がアメリカからの石油の供給停止であった。窮鼠猫を噛む、の開戦だった。

 当初もしかして国を好い方向に変えると期待された北朝鮮の若き指導者は、今までの指導者以上に言動が不可解だ。

 しかし弱者が戦争をするぞ、といって軍事行動を開始したことはない。アメリカも韓国もできる限りの備えをしている中で戦争をしかけるのは不利なことくらい北朝鮮でも分からないはずはない。

 北朝鮮が何を求めているのかさっぱり分からない。

2013年3月30日 (土)

名古屋城の桜

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名古屋城の桜を観に出かけた。八分咲きと言うところか。まだ散り始めていない。

130330_20石垣にかかる桜。

130330_18土曜日で陽気も好いとあって人出もそこそこ。中国人の姿もあちこちで見かけた。やかましいのですぐ分かる。

130330_64城を一回りした後、護国神社へ行く。ここも満開に近い。

130330_63神社の裏庭のツバキ。大輪で美しい。

130330_72さらに足をのばして那古野神社へ。これは那古野神社の中の東照宮。この庭にはいつもたくさん屋台が出て座敷がしつらえられ、夜桜を見ることができるのだが、全くそのようすがない。花が早かったからだろうか。ここは営業所からも近いので会社の仲間と毎年酒盛りをしていた場所なのだが。

以前からその兆候があったのだが、ついに本格的に花粉症になったようだ。やたらにくしゃみが出るし、鼻水が垂れてくる。慌てて切り上げた。

アニメ映画「豆腐小僧」2011年

 総監督・杉井ギサブロー、監督・河原真明、(声)深田恭子、武田鉄矢、松平健、小池徹平、大泉洋、宮迫博之、はるな愛、檀れい。

 声だけ聞いて誰の声か当てるのが面白かった。達磨の武田鉄矢と見越し入道の松平健、芝居者狸の宮迫博之、はるな愛の狸は誰でもすぐ分かる。死に神の大泉洋が絶品で、最初誰だろうと思ったが、台詞回しの特徴でああそうか、と分かった。豆腐小僧の深田恭子の細い声はキャラクターに合いすぎてなかなか分からなかった。

 このアニメ映画は大人も楽しめないわけではないが、子供向けだろう。豆腐小僧というのは妖怪の中では知名度が高いらしいが、初めて知った。しかし確かにこのキャラクターでは誰も怖がらないだろう。

 金の亡者になっている人間にはみな狸が憑いている、というのは笑わせてくれる。確かに狸が憑いているからあんな行動をするのか、とも思うが、現実には狸が憑いていないのに金の亡者であって、狸のせいにするわけにはいかないのは残念だ。

 声を当てるのだけが面白くて、映画そのものはちょっと退屈だった。これが退屈に感じるというのは私にも狸が憑いている(それも甲羅を経た)のかも知れない。

2013年3月29日 (金)

映画「トゥルー・グリッド」2010年アメリカ映画

 監督ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン、出演ジェフ・ブリッジス、ヘイリー・スタインフェルド、マット・デイモン。

 いやあ、良い映画であった。ジョン・ウエインの「勇気ある追跡」のリメイクだが、こちらの方が良い。十四歳の少女が自ら父の仇を討つために犯人を追跡する、という物語に少しも不自然なところがない。彼女に雇われる保安官役のジェフ・ブリッジスのキャラクターが当時の時代をリアルに描き出していて、つい物語にのめり込んでしまう。

 アメリカ映画には女性を男性と対等に描いているものが少ないが、この映画ではその呪縛から逃れている。

 荒野の中で傷つけば、医者も近くにいないから、自力で治すかそのまま死ぬしかない、という当然の事実がそのまま描かれている。当時のアメリカの中西部の現実はそうだったのだろう。

 この時代は生命が一見現代よりも軽いかも知れないが、その分輝きがあったのかも知れない。

 最初ひげを生やしているのでテキサスレンジャーのラ・ビーフがマット・デイモンだと気が付かなかった。本当にこの人は良い映画に出ている。

 これは保存しておいてまた観たい映画だ。

葉室麟「風の軍師 黒田官兵衛」(講談社文庫)

 「風渡る」の後日談となるこの物語は、あとがきの解説で湯川豊氏が書いているようにやや幻想的な色調を帯びている。織田信長、そして豊臣秀吉を間接的に謀殺したとも云える黒田如水が、夢に描いていたのはキリシタンを許す国だった。

 しかし彼が図った謀略の結果はますますキリシタンに生きにくい国とかわって行く日本の姿だった。そしてそれは先を見通すことの出来る黒田如水にとっては予想外のことではなかった。

 日本に一時期花開いたキリシタン信仰が、瞬く間に消え失せていく様子ははかなさとともに美しさを感じさせるものだった。

 その象徴が美しい細川ガラシャの死だろう。黒田如水の死後について、さらに幻想的な二つの短編が付け加えられ、時の流れのはかなさをしみじみと感じさせてくれる。

 キリシタン、と云う視点から歴史を描くという試みは意欲的で独創的だ。ただ残念ながら私は登場人物の誰にも感情移入することが出来なかった。これは葉室麟という作家の力量の問題でも、作品の不完全さのゆえでもない。ひとえに私のこの描かれた世界に対する興味、好奇心の欠如によるものである。

 歴史は嫌いではないが西洋史は全く苦手であった。特にカトリックを思想の中心に据えていた中世から近世の西洋についてはほとんど毛嫌いしていると云ってもいい。その教条主義的な世界が私を嫌っているのだろう。

 私にはそれが異端審問官の魔女狩り、ジャンヌ・ダルクを祭り上げ、やがて焚刑に処した西洋というゆがんだ世界で認識されているせいかもしれない。

慰安婦記念碑の乱立

 アメリカの地方都市のあちこちの市議会で慰安婦の記念碑を設立することが相次いで可決されているという。なるほどアメリカは正義の国だ、と思う。でもよその国の慰安婦の記念碑を自分の街に設立することに違和感を感じないのだろうか。日本ではたぶんあり得ないことだろう。これだけでもアメリカはいやな国だと私は感じてしまう。

 アメリカに慰安婦の記念碑を設立しよう、と運動している韓国の団体は一つではないのだという。それに呼応して在米韓国人がアメリカの地方議会や政府に働きかけているようだ。

 昨年このような記念碑の撤去を申し入れを自民党議員団が行った。そのことが反ってこの運動に火をつけたらしい。ほうっておけば良かったのだ。日本人はこんな記念碑がいくら建てられようと何の痛痒も感じる必要もないし、現に何も感じていない(日本に建てようというなら話は別だ。正義の名のもとにそれに賛同する日本人もおそらくいるだろう)。

 今この記念碑の設置ラッシュなのだが、いくつもの団体が勝手に行っているために纏まりがなく、一部の街では市民の反感を買う事態も起こっているという。

 ブームが去ったときに我が町にこの記念碑が屹立しているのを見て、アメリカ市民はどのような感慨を持つのであろうか。

 ところで以前にも書いたことだが、もし日本人が同様の経験をしたとして(実際に進駐軍がアメリカに駐在していたときに慰安婦が多数徴用されたことは歴史の示す通り・古来、進駐してこのようなことのなかった軍隊はなかった)、そのことについての記念碑を他の国に建立しようと思うだろうか。それは自国の最も屈辱の歴史であり、それをことさらにあげつらう、などという人々というのをこの韓国の一部のひと以外に私は知らない。

コミュニケーション感度

 内田樹先生の古いブログを読んでいたら、誰かの言葉の引用としてコミュニケーション感度を下げるひとの特徴が書かれていた。「こだわり・プライド・被害妄想」がそれである。

 コミュニケーションの要諦は自分の伝えたいことをいかに上手に相手に伝えられることか、だと思っている人が多いかもしれない。でもそうではない。まずひとの話を聞けることが肝要なのだ。

 だから感度のいい人は「こだわらない・よく笑う・いじけない」。こう云う人とは確かに誰でもお近づきになりたくなる。

 では自分は・・・どうも自分のことばかり話すところがある。気をつけなければ。

2013年3月28日 (木)

映画「ドラゴン・タトゥーの女」2011年アメリカ・スウェーデン・イギリス・ドイツ合作

 監督デヴィッド・フィンチャー、出演ダニエル・クレイグ、ルーニー・マーラ、クリストファー・ブラマー。

 160分近い映画が長く感じない。原作の衝撃性が生きている。

 原作はスウェーデンの作家スティーグ・ラーソンの小説。2009年にスウェーデン・デンマーク・ドイツ合作の映画として三部作「ドラゴン・タトゥーの女」「火と戯れる女」「眠れる女と狂卓の騎士」がつくられている。昨年それを見てその素晴らしさに感激し、このブログでも取り上げた。

 映画そのものの完成度は今回のデヴィット・フィンチャーの映画の方が上かも知れないが、私はスウェーデンの三部作の方が原作に忠実だし、その凄惨さやえげつなさ、北欧の暗さが際立っていて好きだ。先に見たからかも知れない。

 三部作を一本にまとめているから省かれたエピソードが多いのがやや不満なのだ。

 スウェーデンの小説と言えばマルティン・ベックシリーズを始め傑作が多い。デンマークにも良いミステリー小説がある。それらが原作になった映画やテレビドラマもたくさんある。イギリスのミステリー以上のあの陰鬱な感じがアメリカ映画と全く違うテイストだ。アメリカ映画の、つくられた嘘くささが鼻につくところがないのがヨーロッパの映画のいいところかも知れない。

 この映画に対して点が辛すぎるかも知れない。映像も素晴らしいし、テンポも申し分ない。リスベット役のルーニー・マーラも体当たりで良かった。スウェーデン版のノオミ・ラパスを越えるのは無理かと思っていたが遜色ない。たしかこの映画もリスベット役はノオミ・ラパスにオファーがあったのだが、断ったようだ。

 もしミステリー好きでこの映画を見ていないひとは見ることを是非おすすめする。たぶんスウェーデン版は見る機会が限られていると思う。ただしかなりショッキングな場面があるので、それは覚悟しておいて欲しい。

再読とブログのハードコピー

 物覚えが悪くなって(物忘れがひどくなって)いちど読んだ本の内容を忘れていることが多くなった。ただ幸いなことにもう一度読みたくなるような本かそうでないかはかろうじて覚えているので、外れの本を再読して時間の無駄になることは今のところない。記憶がない記憶が残っているらしく、再読した本で、たぶん初めてのときよりもずっと感動したり、共感したりしている。おぼろげな理解だったのがクリアになったりするのも嬉しい。

 いま内田樹先生のブログ「内田樹の研究室」をハードコピーして読んでいる。十年分くらいをプリントアウトして、ほぼ半分読み終わった。どう云うわけかリアルタイムで画面で読むと頭に入らない。ハードコピーでないと読めないガチガチのアナログ人間なのだ。だから電子ブックは今のところ購入する気がない。長期の旅に出るときも本をしこたまかかえて出かける。

 このブログをもとにして沢山の本になっている。その本を読み、またブログを読み返すとイメージに奥行きが出て来て理解が少し深まる。自分のブログの考えに先生の考えが影響しているところも多い。受け売りから何とか自分のものにしようとしている過程とも云える。

 先生とは昭和二十五年生まれで同年齢で、同じ時代の日本を同じように見てきた。もちろん趣味や生き方がまるで違うからそこから見える世界はかなり違うけれど、感じていた空気は似通っているはずだ。政治的信条もまるで違うけれど、どうしてそう考えるのかはよく分かる。

 根を詰めて読んでも一年分を読むのに半月くらいかかる。何せ文章量が半端ではないし、内容もときにかなり哲学的で(そもそも先生は哲学者だから)一読では理解不十分で精読が必要なことも多い。分からないところを飛ばすのはもったいない。そういう処こそ大事なことが書いてある。

 自分のブログもいちどハードコピーして読み直したいと思っている。自分の書いたことをほとんど忘れているので、試しに画面で眺めると面白いことが書いてあるのに感心する。意見が合うのだ(当たり前だけど)。

 内田先生も下書きをしてから読み直してブログに打ち直す、という。私もそうしている。そうでないと自分の文章に誤字やおかしな言い回し、てにをはの間違いが頻発してしまう。その下書きを書くときにはワンポイントくらいのことしか考えていない。そのワンポイントを書き出すと、ひとりでに手が次々に文章を書き続けてくれる。それを気が付いたとこだけ手直ししてブログにしている。だから自分がこう云う構成でこう云う文章にしよう、という明確な考えがないから記憶にも残らない。だから後で読み直すと自分によく似た考えの他人の文章に出会うことになるというわけだ。過去の自分が他人かどうかは微妙なところだけれど。

責任をとる

 柔道界がコーチの指導法や補助金の使い途などで指弾されている。全日本柔道連盟の上村代表は第三者委員会を設置したのでその判断を待つ、それまでは連盟理事は一丸となってこの難局に全力で立ち向かう、と決意を述べた。

 マスコミからは責任をとろうとしない態度に非難が集中した。また、難局に立ち向かう、というのは問題が自分たちにあると云う認識が欠如していることの表れで、外部から理不尽な攻撃を受けている、と思っているのではないかとまで言われている。

 海外で同様のことがあった場合の責任のとり方はどうなのかは知らない。しかし日本では組織に問題があったときには組織の長が責任をとるのが古来からの通例である。その代わり、長はその組織で最も優秀な人間がならなくても良いような仕組みになっている。

 当然組織の長は名誉を与えられ、そして与えられる報酬が最も大きい。それはいったんことがあったときに責任をとることが自他共に自明なことだからだ。

 その自明なことが自明でなくなっているようだ。

 学校のいじめ(この言葉は不正確で、暴力である)の問題について学校や教育委員会はその責任をとろうとせず、隠蔽しようとするのも同じ事だろう。

 責任をとろうとしない、ということは自分には責任がない、という意思表示である。自分がしたことではないことで責任をとらされてはかなわない、という考え方なのだろう。せっかく功成り名をあげて摑んだ立場を人のせいで失いたくないと思うのだろう。

 日本人はすぐ謝る、とよく言われた。ありがとうのかわりに「すみません」と云う人も多い。自分ごときのために相手が気遣いしてくれたことに対して申し訳ない、という意味で「すみません」と云う言葉にするのだろう。

 さらに出会い頭の衝突などでもとりあえず「すみません」と謝罪することで相手の怒りを静めるのが礼儀とされてきた。「いえいえどういたしまして、こちらの方こそすみません」という答が返ってくることが約束されているからそれで一件落着であった。

 それが海外では(特にアメリカでは)決して謝ってはいけない、自分が悪くても謝ってはいけないのだ、と子供のときに聞いた。いったん謝ったら全責任を取らされるからだという。なんといやな国だろうと思ったものだ。

 それを聞いた頃からかれこれ五十年、いつの間にか日本はアメリカになってしまった。あなたにはかくかくしかじかでこのような責任があります、といわれなければ責任はとらなくてもいいことになってしまった。

 先に謝る美徳を持ったひととアメリカナイズされたひとが争えば正義はアメリカナイズした側にしかないことになった。

 よく謝罪のときに言う、「世間を騒がせて申し訳ありませんでした」。それを聞いていると不快になる。

 「私はこれこれこう云うことが間違っていました、申し訳ありません」と云う言葉をついぞ聞いたことがない。責任をとらないために弁護士に助言されているのだろう。アメリカの弁護士の過剰はこのような責任逃れを蔓延させた。

 現代は全て被害者意識の妄想の世界だ。詐欺にあったのも100%犯人が悪い、自分が貧しいのも社会が悪い、成績が悪いのも先生の教え方が悪い。こうしてすべて他人が悪い、自分に責任がないと言い張る時代だもの、責任者が責任をとらないのも宜なるかな、である。

 リーダーが責任を回避するようなパーティは山で遭難するだろう。

2013年3月27日 (水)

映画「魔法使いの弟子」2010年アメリカ映画

 監督ジョン・タートルトーブ、出演ニコラス・ケイジ、ジェイ・バルチェル、アルフレッド・モリナ、モニカ・ベルッチ。

 ディズニー映画である。お子様向けで、しかもそのお子様を馬鹿にしているのが何となく見えてしまう。こんな映画を配給しているから最近のディズニー映画には当たりが少ないのだ。

 どうしてこう頼りないのが主人公に選ばれるのだろう。救いようのないような出来の悪い主人公には実は隠れた才能があり、選ばれた人であり、最後は大変な力を発揮し、そしてヒロインに愛される、というパターンは意気地なしには夢のような話だろうけれど、いつもいつもだと好い加減うんざりする。

 ヒーローがそれなりに努力している様子は描かれるのだが、あの程度の努力なら誰でも普段からしていることであろう。

 女子供を「女子供ごときもの」として不完全な弱者と考える思想がアメリカの深層心理にあるような、そんな気がする。

 ニコラス・ケイジはどんな映画でも出るところが好きだけど、こんな映画に出て可哀想だ。

 物語の最初の話(物語の背景の説明)だけで映画にしたらその方が面白かったはずなのに。たぶんみんなそう思うだろう。

 見所は唯一チャイナタウンでのシーン。ジョン・カーペンターズの「ゴーストハンターズ(ゴーストバスターズではありません)」(主演カート・ラッセル)を思い出した。

贅沢は言わない方がいい

 中国メディアが伝えたアンケートによる「経済適用女(男にとって都合の良い女性)」の条件。「身長158~172センチ、体重44~55キロ、ロングヘアー、性格が温厚、拝金主義ではない、大卒以上の学歴、月収300~6000元(4.6万~9.2万円)、料理上手で洗濯好き、責任感があり、同情心を持つ、丁寧な言葉遣いで立ち居振る舞いが優雅、教養に富み、礼儀正しく、いつも男性に寄り添っている」。

 理想の女性像ということなのだろう。メディアは「いままではほとんどの男性がただ美しい女性を求めていた」が、より堅実になったと結んでいる。

 余り贅沢は言わない方がいい。私は愛嬌があって明るい女性ならそれで最高だ。それでいいではないか。自分だってたいした男ではないのだし。

葉室麟「風渡る」(講談社文庫)

 豊臣秀吉が最も恐れた、といわれる如水黒田官兵衛の物語である。その物語に膨らみを持たせているのがキリシタンたちの運命だろう。ほとんど黒田官兵衛と同格の扱いで日本人修道士ジョアン・デ・トルレスの物語が語られていく。

 キリシタンの布教活動により、九州の有力大名たちが、次々に受洗した、というのがいまでは信じがたいことのように思えるが、それだけ人々が純粋であったこと、そして仏教が形骸化していたことの表れかも知れない。

 黒田官兵衛の策士ぶりは知られているところだが、この本の中ではスケールの大きな策謀を行ったことになっている。しかしそのことが何をもたらすことになったのか、思いとは違う方向へ、より悪い方へ世の中が展開していくのが皮肉だ。そういうものかも知れない。

 この本は秀吉の朝鮮出兵の辺りで終わっており、別の物語としてそれ以後の黒田如水は「風の軍師」という本で語られていく(次に読む予定)。

 キリシタンの歴史という、余り知ることのなかった視点から描かれているので大変興味深く読むことが出来たのだが、いつもの葉室麟の小説のように主人公たちに感情移入出来なかったのは残念であった。

常に正しい

 ベトナムの漁船が中国の艦船に銃撃を受け、ベトナム政府は中国に対して抗議した。これに対して中国側は「艦船のとった行動は必然であり、正当なものである。中国漁船には損傷を与えた事実はない。ベトナム政府はこのような違法行為をしないよう自国の漁船を正しく指導するべきだ」と回答した。

 報道によると西沙諸島で操業していた漁船を、中国海軍の南海艦隊所属、大型潜水艦護衛艦が、30分余り追い廻し、警告射撃を受け、そのさい信号弾が船に着弾して船の一部が炎上したという。
 
 反撃の出来ない相手を追い廻し、威嚇とは云え実力行使を行うというのは尋常なことではない。しかし中国は自国の正当性を声高に主張する。常に中国は無謬である。中国は決して間違いを認めない。否定した後に事実が明らかになろうとも、それには正当な理由があった、と強弁する。

 普通こう云う国とはおつきあいしたいとは思わないものだ。しかし巨大な人口と市場をかかえ、経済的に深く関わりを持ってしまった多くの国々は今更引くに引けない状態にある。つまり金が中国の正当化を許している。

 しかし金の切れ目が縁の切れ目、おごる平家は久しからず、中国の経済が停滞しはじめ、つなぎ目が緩んだときにどうなるのか、是非とも高みの見物をすることにしよう。

 アメリカや日本の中国封じ込め政策の提唱に対して、オーストラリアの外務大臣が「中国を封じ込める如何なる方法についてもオーストラリア政府は断固これを拒否する」と述べた。

 昔、秦という強国と六つの国があった。秦の拡張を抑えるために六つの国は合従連衡策をとった。合従とはそれぞれの国が秦と同盟を結ぶこと。そして連衡は六つの国が連合して秦に対抗することである。それに対して秦は近攻遠交策をとった。遠くの国とは仲良くし、近くの国を攻めたのだ。そうしてなし崩しに一つ筒攻め滅ぼし、ついに遠い国(大きな国)の斉を攻め滅ぼして中国統一を成し遂げた。

 中国は歴史に学ぶ国だ。だから自国に接している隣国には強攻策を採り続け、遠い国にはいい顔をするだろう。韓国は・・・北朝鮮が間にあるから隣国ではない。しかし唇滅びて歯寒し、の如く、北朝鮮が自滅すれば韓国の運命は激変するだろう。北朝鮮はそれを見越しているのかも知れない。

2013年3月26日 (火)

清く正しく美しく

 学生時代から信条としている言葉を聞かれたら「清く正しく美しく」と答えることにしている。しかし残念ながら信条を聞かれることがあまりないのであえて述べる。

 武者小路実篤の「仲良きことは美しき哉」なんて云う言葉に茄子やキュウリの絵が描かれている色紙などを見ると吐き気がする。I田みつをの色紙が下がっている店などはそれを見ただけで嫌いになる。

 矛盾している、などと云わないで欲しい。もちろん「清く正しく美しく」なんて言葉は心の底から嫌いなのだ。だから信条を問われるとそう答えることにしたのだ。あまのじゃくだからしようがない。

 誰からも突っこみようのない正しいことを主張する人が嫌いだ。戦争反対、原発反対、沖縄基地絶対反対、弱者救済、みんな嫌いだ。市民運動家なんて嫌いだ。平和とか命の尊さとか友愛とか云う人間は大嫌いだ。

もちろん戦争賛成、原発賛成、沖縄基地賛成、弱者は切り捨てろ、などとむちゃくちゃなことを云うつもりはない。当たり前ではないか。正しいことを云う人に、「反対の反対は賛成などではない」ことが分からないひとが多くてうんざりする。この人たちは相手の話を聞こうとしない。

 自分が正しいのだから全面的に賛成しないはずがないと信じている。戦争反対を主張したら戦争がなくなるわけではない。正しいことを一歩も譲らず主張する人たちは妥協を認めないからしばしば事態の進展を妨げる。

 原発反対の人は事故の起こる危険を過大に言い立てる。彼等の正しさは事故が起こることにより立証される。だから彼等は事故が起こることを心の中では願っているのではないか。だから原発は彼等によって呪われている。そして真の原因が、そして責任者が明らかにされないことに彼等は荷担している。彼等にとって悪いのは個別ではなく、存在そのものなのだから。

 しばしば正しいことを言ってきた。反省している。これからも言うだろう。気をつけよう。

井上ひさし「家庭口論」(中公文庫)

 まことに脈絡のない本の読み方をしている。この本の初刊は昭和五十一年、エッセイの面白さを知りはじめた頃に読んだ。書かれているのは夫人に対する悪口ばかりである。もちろん悪意のある悪口ではない。家人を卑下することで読者を楽しませているのである。

 残念ながら後日夫人とは別れることになった。夫人は夫に対し悪口雑言を(これは悪意を持って)撒き散らしたが、井上ひさしは沈黙していた。

 この本を一読すれば分かるように井上ひさしは多弁な人である。言葉に言葉を重ねてあふれるように弁じ立てる。語られる内容が誇張されていき、ついにリアリティを失う境目で筆を止める。だから読者はどこまで本当でどこまで創作されたものか分からなくなる。それが巧まざるユーモアとなっているのだ。

 この言葉の豊穣さは一見空虚なようでいて、実は選び抜かれたものが連ねられている。だから繰り返しを飛ばし読みしてはいけない。

 フェミニストから見たら不快な本に当たるのだろうかとふと思った。もしそうならそこにこそフェミニズムの限界があるのかも知れない。そう思う私は、だから彼等の嫌悪する男根主義者か。

 昭和の匂いのする楽しい本だ。この本を楽しむような女性を私は愛する。

仮説

 シリアの反政府勢力のシリア国内の代表が、代表を辞任する、と意思表示したそうだ。自分が考えていることと違う方向への力が海外から働いている、と不満を語っていた。

 シリアの反政府勢力に対して支援の軍事介入をすべきかどうか、EUで協議していたが、当初簡単に支援の方向でまとまりそうだったのに、結論が出ずに打ち切りとなったようだ。

 シリアの海外の反政府勢力が代表を選挙で選び、国内の反政府勢力に支持を求めたが、認めない、と云うことになっているようだ。安全な海外にいて勝手なことを云うな、という反発が強いようだ。

 シリアでの内戦が連日のように報道されていたのにこの頃あまり報道がないような気がする。いままでの報道からすればとっくにアサド政権は崩壊しても良さそうなのに、状況は一進一退のように見える。

 アサド政権が巷間いわれるような極悪非道なものであれば人心はとっくにアサド大統領から離れ、アサド大統領を支持するのはその権益に恩恵を受けていた一握りのひとのはずではないのか。世界は反政府勢力に正義がある、と見ているのだし、反政府勢力の方が圧倒的に有利なはずだ。

 先日重信メイ著「『アラブの春』の正体」を読んだので上記のような状況がどう云うことか想像がつくようになった。シリアはそもそも社会主義国なので、貧富の差が少なく、国民はアサド政権にそれほど大きな不満を持っていなかった。シリアは当初から政教分離を建前とし、宗教対立が政治的な対立にならないような方策がとられている。

 重信メイ氏によれば、アサド大統領が行ったとされるテロや市民虐殺は本当に政府勢力が行ったものかどうか疑わしいという。そのやり口がアルカイダそのものであり、紛争をシリアに持ち込もうという勢力によるものではないかという。

 反政府勢力が、武器の供給が滞っていることを歎いている、ということはそれだけ海外の支援が停まっていることであり、そもそもがこの反政府活動そのものが海外の思惑によるものを疑わせる。

 勘ぐればシリアの原油を狙っている勢力がある、ということであり、その必要性が薄れた、ということである。

 アメリカはシェールガスの大増産でエネルギーの輸入国から輸出国に変わろうとしている。

2013年3月25日 (月)

映画「レモ 第一の挑戦」1985年アメリカ映画

 監督ガイ・ハミルトン、出演フレッド・ウォード、ジョエル・グレイ、ケイト・マルグルー。

 原作は「デストロイヤー」シリーズとしてアメリカで大人気の小説。日本でも「殺人機械シリーズ」として創元社の文庫で15冊出版された。痛快な物語で、全て通読した。映画化されたときにはリアルタイムで劇場で見た。韓国の古武道シナンジュの使い手でレモ(フレッド・ウォード)の師匠のチュン(ジョエル・グレイ)がはまり役だった。

 久しぶりに見たけれど、これでは「第一の挑戦」の続編がつくられないだろう、とあらためて納得した。小説はたぶん70作くらい書き続けられているのに映画はこれ一作だ。

 監督があのガイ・ハミルトンだとは思わなかった。低予算で楽しんでつくったのだろう。高所シーンなどに見るべきものがある。こんな役をやる俳優は一流の俳優というわけにはいかなかったのか。

 やはり三十年近く前となるとちょっとテンポがのろい。もう少し切り詰めて悪役を際立たせるとずっとメリハリが利いて今でも見るのに堪える映画になっただろうに。でも久しぶりに見て懐かしかった。

映画「小川の辺」2011年東映

 原作・藤沢周平、監督・篠原哲雄、出演・東山紀之、片岡愛之助、菊地凛子、勝地涼、尾野真千子、藤竜也、松原智恵子、笹野高史。

 立ち会いのシーンにいささか違和感があるのを除いては良い映画であった。あんなに構えをころころ変えるのは普通はあり得ない。これは俳優のせいではなくて立ちまわりの指導に問題があるのだろう。

 藤沢周平原作であるから、当然主な舞台は海坂藩、山形県の庄内地方が想定されている。主命を受けて、戌井朔之助(東山紀之)が小者の新蔵(勝地涼)とともに関東の行徳へ向けて旅をするときの風景は(私にとって)懐かしいものが多い。月山をはじめ、出羽三山が映し出される。最上川、そして羽黒山から湯殿山、そして北関東から利根川を下っていく。

 主命は上意討ち。藩主の勘気に触れて脱藩した佐久間森衛(片岡愛之助)を討たねばならないのだが、彼の妻は自分の妹田鶴(菊地凛子)である。しかも森衛は朔之助の剣友でもあり、実力もほぼ互角である。さらに妹の田鶴も朔之助とともに剣を学んでおり、必ず森衛とともに刃向かってくるのは必至なのだ。

 菊地凛子がその気の強い妹をほとんど素のままに演じている。

 ラストの収まり方に救いがある。役目を終えて帰藩する朔之助の思いの向こうには、彼の無事な帰りを待つ父(藤竜也)、母(松原智恵子)、そしてもちろん彼の妻(尾野真千子)がいる。待たれている、というのは足を軽くするだろうなあ。

平岩弓枝「蘭陵王の恋」(文藝春秋)

 「御宿かわせみ」のシリーズも新シリーズとなり、舞台が明治時代に替わってすでに四作目になった。このシリーズは大好きなシリーズだが、しばらく間が空いていたので待ち焦がれていた。この新刊を本屋の店頭で見つけたときには本当に嬉しかった。

 恥ずかしながら登場人物たちが互いに心を通わせている物語に思わずうるうるしてしまう。あまり人に見せられない姿だ。

 平岩弓枝は長谷川伸の門下、つまり池波正太郎の妹弟子だ。代々木八幡の神主の一人娘で、ご主人はいまの代々木八幡の神主様だ。

 築地居留地の中の医院に働く神林麻太郎が主人公だが、その温かいまなざしと深い思いやりは父親の神林東吾ゆずりである。

 「御宿かわせみ」は何度かテレビでドラマ化されているが、神林東吾を小野寺昭、るいを真野響子、という最初のNHKの配役が最高で、その後は全く受け入れがたい。中村橋之助の神林東吾など、にやけているだけの男に見えて吐き気がしそうだった(言い過ぎでごめん)。

 この本の帯に書かれているが、千春(神林東吾とるいの一人娘)に惚れ込む男が出現する。ひととひととの関係は、思いを伝えようと努力するうちに少しずつ変わっていき、回りも含めてなるようになっていくものなのだ。焦ったり、無理をしてはいけない。

 いつものように大満足で読了。新シリーズは主人公たちが若返ったので、彼等をおじさん目線で見ている。歳をとったものだ。

理解しにくい考え

 対馬の寺から盗難されて韓国で売り払われた仏像を返さないという韓国の行動は理解に苦しむが、それよりも所有権を主張している寺から二人の僧侶が連絡もなしにその寺にやってきて、レプリカの仏像(そうとしか見えなかった)や寺で売っているブスチック製の人形をお土産と称して持ってくるなどとさらに不可解である。

 さらに韓国メディアによれば、韓国から対馬に200人の祈祷師がやってくる、という報道もある。日本国民の受けた衝撃をなだめるためだという。そんな連中がやってくる方がはるかに衝撃だ。

 そのうえ、韓国の昌原市という街の地方議員42人が26日から27日にかけて対馬を訪ねる予定だという。その目的はなんと「対馬の日」を主張することだという。

 島根県が「竹島の日」を制定したのに対抗してこの昌原市は「対馬の日」を制定し、対馬はそもそも韓国領である、と主張している。日本人が多数生活している島で、世界中誰が考えても日本の領土でしかない島を韓国領と主張するなどと云うのは中国以上に異常な主張だ。

 地方議員と云えば一般市民よりは少しは知性と判断力があると考えられる人のはずである。それが議員の総員53人全員がその主張に賛同し、都合のつかなかったひとを除いた42人がやってくるのだという。このようなことに全員一致する、反対がいないということは恐ろしい。

 もしこの主張を押し通せば、明らかに日本の国の侵略を目指そうと云う事になる。彼等もそれが通るとは考えていないようだが、その行動を通して竹島の領有権を日本が放棄することを目指そうと云うつもりのようだ。

 対馬に乗り込んできた僧侶たち、そして祈祷にやってこようという200人の祈祷師、昌原市の議員たち、彼等に本質的に欠けているのは、相手にじぶんがどう見えるのか、ということに対する想像力だ。その想像力があるかないかが大人であるかどうかの違いだ。

 自分の行動がいかに相手に失礼で不快か、全く想像出来ない人々が正義を唱えている国はやがて没落するだろう。それともそれを承知でやっているのならさらに悪質で度しがたい。

2013年3月24日 (日)

重信メイ「『アラブの春』の正体」(角川oneテーマ21)

 副題に「欧米とメディアに踊らされた民主化革命」とある。

 読み進んでいくうちにふと気がついて著者略歴を見た。著者は中東問題専門のジャーナリストでレバノン生まれなのだが、重信という名字と中東と来れば、重信房子という日本赤軍のリーダーが思い浮かぶ。予感が当たった。著者の母親は重信房子で、父親はパレスチナ人とのことである。

しかし彼女の出自はこの本の内容とは(政治的な傾向があるかどうかと云う意味では)直接関係ない。

 私を含めて多くの日本人は中東の情勢については欧米や中国、韓国ほどは詳しく知らない(欧米や韓国、中国についても知らないのかも)。そのために中東情勢はメディアが伝えるものだけに頼ることになり、そこに偏りがあっても気が付くことかないし、疑うこともほとんど出来ない。

 チュニジアを発端とした「アラブの春」についてはそれが民主化を目指した革命である、ということのみをもとにいいことだ、と思い込まされている。正義が悪を倒したのだと信じ込まされている、と云っていいかもしれない。

 北アフリカから中東にかけて、いわゆるイスラム圏、アラブ諸国のいくつもの国にはその国の成り立ち、歴史、国内事情がある。そして反体制派が現体制を倒している状況はみな同じ流れに見えるが、実は国によって全く違うと云うことをこの本は明らかにしている。

 それぞれの国の反体制勢力の動きに外部勢力が関わっていることが多い。つまりその国の国民が主体ではなく、別の思惑があることが多いのだ。

 若者たちがインターネットを利用して連帯し、立ち上がって求めた世界と、結果として表れた現実の政治状況が全く異なるものとなっていることが多い事は報道を見ているだけでも明らかである。

 例えば現在進行形のシリアの内戦について、その実情がいかに我々が知らされているものとは違うものであるか最後の方に書かれているのだが、その内容は衝撃的だ。

 勿論この本が全面的に正しいのかどうかは分からない。しかし政府筋の犯行として報じられている多くの事件が本当に事実なのか、疑わしいことは初めて知った。そしてアルジャジーラの報道が当初の設立時といささか異なってきていて、意図的な偏向報道を始めていることは何となく最近感じられてきた違和感からよく理解出来る。

 欧米のメディアはアルジャジーラの報道の検証をあまりせずに事実としてそのまま報道することに疑問を感じていない。日本のメディアが公的機関の下賜する情報をそのまま流すのに似ている。

 残念ながら中東の情報はあまり多くないので、これ以上何かを知ることは困難だし、手に余るが、ただ流されてくる報道について懐疑的に見ることが出来るようになった(この本のおかげである)ことだけは確かだ。
 
 繰り返すが、この本を読むことで、中東についてのニュースが全く違った色合いで見えるようになるはずだ。

志村史夫「アインシュタイン丸かじり」(新潮選書)

 時々頭のリフレッシュのために読んでいた科学本を最近読んでいない。そう思って昔読んだこの本を引っ張り出して読んだ。

 子供のときSF少年だったので、SFマガジンは中学生のときからバックナンバーをそろえて持っていた。大学卒業のときに200冊以上を寮に残して来たがどうなっただろう。

 だから相対性理論などについても何となく知っていた(もちろんわかっていたわけではないが)。大学に入ってガモフの本を何冊か購入し、その丁寧な説明でイメージ的には(少し)理解が進んだ。ガモフにはずいぶんいろいろなことを教えてもらった。ボーアの量子論もガモフに教えてもらったものの一つだ。

 この本でも書かれているように大天才のアインシュタインだが、ついに量子論は認めなかった(理解しようとしなかった)というのが何となく可笑しい。

 著者は長所も欠点も含めた人間アインシュタインが大好きなことがこの本でよく分かる。だから入門書だけれどクールではなく、とてもホットである。

 アインシュタインが発見したいくつかの物理学的な発見は、実はその前段階とも言うべきいろいろな先人の積み重ねの上にあることも、この本であらためて知った。けれどそれらをブレイクスルーした、という功績が揺らぐことはない。他の人には出来なかったことをなしとげたのは事実だ。

 アインシュタインが知日派であることはよく知られている。その日本に原爆が落とされたことは彼の深い悲しみであったと思いたい。マンハッタン計画に当初賛同したのも彼がユダヤ人であり、ナチスドイツを倒すことが願いだったからだ。

 彼がノーベル賞級の発見をいくつもしているのに長年に亘ってノーベル賞を与えられなかったのは政治的な理由であった。そして世論に抗することが出来ずについにノーベル賞が与えられたのだが、その受賞理由の研究は「光電効果」についてであった。最も評価すべき相対性理論についてはついに受賞理由にならなかった。

2013年3月23日 (土)

さまざまのこと

 桜の季節である。桜は大好きであちこちの桜を次々に見歩いたことも何度かある。今年はどうもその熱が足らないようで、積極的に出かける気に、まだなっていない。

 そう言えば「さまざまのこと思い出す桜かな」という俳句があるのをご存知だろうか。俳句を趣味にしている知り合いがこの句を教えてくれた。最初その当人のつくった句だと思って、なんだこの句は、と言ったら、なんと芭蕉の有名な句であることを知り恥をかいた。あんまり当たり前すぎるのだもの。

 母と同居している弟に電話した。弟の嫁さんの姉が昨年の暮れから病院にいる。先日夫婦で見舞いに行き、嫁さんはそのままそちらに詰めているという。いつ訃報があるか、という状態らしい。

 母は二年ほど前から言葉がうまく話せない。原因不明で、何度も脳の精密検査をしているがはっきりしない。今月にもまた詳しい検査をしたところだが、その結果、小脳に異常があるのが見つかったという。小さな脳梗塞の痕跡が見つかったのだそうだ。

 検査には弟が会社を休んで終日つきあっている。その前のときには暇のある私が行ったのだが、今回は手の具合が悪くでハンドルが握れず、行くことが出来なかった。四月に入ったらまた徹底的な検査だということなので、そのときは私が行くことを約束した。

 スタッドレスタイヤはリースのタイヤを使用している。交換タイヤをあずかってくれるので便利である。そろそろ交換の時期です、と案内をもらっているのだが、いつ行けばいいのか迷っている。そのリース会社は金沢に仕事で住んでいたときに頼んで以来毎年頼んでいる会社で、金沢にある。今回は何となくドン姫が休みのときに合わせて金沢でうまいものでも食べさせてやりたい気もするが、つきあってくれるかどうか分からない。それにドン姫の都合とリース会社の予約が合うかどうかも分からない。

 金沢に行くたびに金沢の営業所の若い諸君がつきあってくれているが、そういつまでも彼等につきあわせるのもどうか、と思ったりする。

 本日は大阪から飲み友だちがやってくる。夕方から二人で飲むことになっている。とても楽しみなのだが心配なことがある。この頃酒を控えているので酒にとても弱くなっている。その上食事の量も減っている。彼が気を遣って楽しく痛飲出来ないことのないようにしなければと思っている。

妄想患者?

 妄想患者は自分が妄想していることを自覚しない。自覚しているなら嘘つきだ。

 南鳥島近海の海底の泥から高濃度のレアアースが発見された。この海域には推定でなんと日本の使用量の200年分以上があるのではないかと云う。

 このニュースが中国でも報道されると、ネットでは「南鳥島はそもそも日本領ではない」「南鳥島は中国領だ」というコメントが寄せられている。

 そして「中国は日本へのレアアース輸出を禁止すべし」との反発の声が上がっていると中国メディア・環球時報は伝えている。

 日本は出来れば中国からレアアースを輸入なんかしたくない。だからいま必死で他の国からの輸入に切り替える作業をすすめているし、今回のような自国での手当も模索している。レアアースを政治的恫喝の手段にされるのにはうんざりしているのであり、これは日本だけでなく世界中が同様だ。

 ところで南鳥島が何処にあるのかはご存知の通り、日本の遙か南東海上にある。どうしてこの島が中国の領土であるなどと云うことが云えるのだろうか。それをコメントした人間は妄想患者としか思えない。しかし中国は妄想患者に引きずられる国家に堕落しつつあるから油断ならない。妄想患者の尻馬に乗って嘘つきがやってくるかも知れない。

 尖閣諸島の場合は国家の意図的な嘘に乗って妄想患者が輩出する構図だったが、今回は逆の構図を構想するおそれがある。でもちょっと無理筋だろう。

南伊勢の海(4)

130321_40展望台からの眺め。

贄浦の漁港でジープの男性から教えてもらった展望台に向かった。鵜倉園地という高台に四つの展望台がある。さいわい登り降りのある展望台は一箇所だけで、後は駐車場から近いので助かった。贄浦から奈屋浦までの半島の山越えの道を途中から頂上方向へ上っていくと展望台がある。教えてもらわないと見過ごすところだ。

130321_42正面は身江島。

130321_60右下の丸いのはいけすだろうか。

130321_59奈屋浦の港と奈屋浦の町。この辺りでは一番大きな港だそうだ。

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四つの展望台の標識。最後のたちばな展望台は上り下りのある250メートルなのでちょっときつい(南海展望台よりはましだったが)。

展望台から奈屋浦へ向かい、尾鷲方向へ走る。紀伊長島の手前で紀勢自動車道の方向へ右折。紀勢大内山のインターから名古屋へ帰った。

時間的に尾鷲の先まで行くことは出来たが、次回にした。今日(23日)に紀勢大内山と紀伊長島の間が開通した、とニュースで報じていた。紀伊長島から先へ行くのがとても楽になったのは有難い。
















南伊勢の海(3)

春から秋にかけて時々釣りにでかける贄浦漁港をたずねた。何と云うことの内地手差な漁港なのだが、車をおいていても特に注意されることがないし、目の前で釣ることが出来る。大物が釣れることはめったにないが、推進が4~5メートルと手頃な上に、いろいろな魚が釣れて楽しめる。木っ端グレ(手のひら前後のメジナ)、キス、鰺、タナゴ、ベラ、桜鯛やチンタが釣れる。めったにかからないものもあるが、ベラやグレはたいてい釣れる。10~20匹釣ったら納竿。一時間で終わってしまうこともあるし、半日かかることもある。それ以上釣ってもさばくのが面倒だ。

130321_31釣り場。まん中の浮き桟橋を使わせてもらうことが多い。いつもは、船がこんなに繋留していることはない。今日は天気がいいのに休漁なのだろうか。

130321_34浮き桟橋の先端からの景色。何かの養殖のイカダが見える。牡蠣だろうか。下のロープは浮き桟橋のアンカーのロープ。

130321_36贄浦漁港。

釣りのときはカメラを持っていかないので初めてここの写真を撮った。記念である。

カメラを持ってうろうろしていたら大きなジープでやってきた私と同年代の男性が話しかけてきた。世間話をしていたら、写真を撮るならいい展望台がある、といって道を教えてくれた。

130321_55_2教えてもらった展望台から贄浦漁港を遠望。この展望台での景色は次回。








2013年3月22日 (金)

南伊勢の海(2)

130321_27南海展望公園のモニュメント。

迫間浦の次の漁港は礫(さざら)浦。そこからぐるっと半島を回ると半島の山頂に南海展望公園がある。車は途中まで、後はひたすら階段を上る。

130321_15階段の途中の休憩用ベンチで一休み。そこからの絶景。風が心地よい。

130321_24これがこれからさらに西へ向かう方向の海。モニュメントはこの方向を眺めている。洲のように見えるのは相賀浦。相賀浦から260号線に戻り、トンネルを抜ければいつも釣りに行っている贄(にえ)浦だ。

南伊勢の海(1)

伊勢道を鳥羽方面に向かわず、玉城(たまき)から真っ直ぐ南下、南島町へドライブした。迫間(はざま)浦というちいさな漁港から小山になっている半島の先への道をどこまでも進んだらどんどん道が狭くなり、ついに行き止まりとなった。強引にUターンしてようやく戻ることが出来た。三重県の道には泣かされることが多い。ガードレールもカーブミラーもない道だからおかしいと思わなければいけなかった。

130321_5迫間浦。これで海。

130321_3トンネルのところで行き止まり。昔は通れたようだ。

130321_4トンネルから来た道をふり返る。このように路肩が崩れかけている。

こんな道へ入ってくる方がおかしいのだが、出来れば通行止めの標識が欲しかった。

2013年3月21日 (木)

映画「RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語」2010年

050429050502_100_2雨の宍道湖。

10072_93出雲大社。

 監督・錦織良成、出演・中井貴一、高島礼子、本仮屋ユイカ、三浦貴大、奈良岡朋子、甲本雅裕。

 この映画の舞台は宍道湖北岸を走る一畑電鉄。山陰が好きなので何度となくこの辺りを車で走ったが、残念ながらこの電車に乗ったことはない。

 大手家電メーカーのエリートで、取締役への道も約束されている筒井肇(中井貴一)は、仕事最優先の生活を続けていた。会社の方針で、親友が工場長をしている工場を閉鎖することになり、その処理に忙殺される。そんな最中に田舎の島根で一人暮らしをしている母親(奈良岡朋子)が倒れたという知らせが入る。

 娘(本仮屋ユイカ)と母親のもとへ駆けつけるのだがその最中にも仕事のことが頭を離れない。娘から「人と話をしているときに時計を見ないでよ!」といわれてもそのことの意味を感じ取ることが出来ない(ここは秀逸なところだ)。

 さいわい母親は回復して小康状態になるのだが、しばらくぶりに生家に帰ったところに親友が交通事故で死んだという訃報が入る。

 しばらくして精密検査をした医者から連絡が入る。母親が癌で、回復の見込みがないという。

 というのが前半導入部である。ここで主人公は、むかし夢だった電車の運転士になろうと決心する。取締役が約束されている男が、田舎の電車の運転士になる気持ちがとてもよく分かる(嘘くさいと思う人もいるだろが私はそう思わない)。

 運転士になるための研修や試験、実地の運転が詳しく描かれていて見ているこちらもわくわくするほど楽しい。もちろんめでたく運転士になることが出来るのだが、同期の若い男(三浦貴大)との関係、運転中に起こるいろいろな出来事、そして母親の容体、娘との関係、そして離れて暮らす妻(高島礼子)との関係など、次々にいろいろなことが起こる。

 しかし自分が好きで始めたことをしているので、それらが全て前向きに受け止められるようになっている自分に気が付く。そして娘と初めて心が通うのを感じるシーンがあまりにもうらやましくてじーんとしてしまった(そんなシーンではないのだけれど)。

 ラストに松任谷由実の主題歌がかかる。これもとても好い。

 松江に泊まったことがある。そして出雲にも日御碕にも泊まった。あの辺りの風景を懐かしく思い出した。

 天気も良さそうなので、明日はしばらくぶりに三重県の海にでもドライブに行くことにしよう。というわけで次の記事は明日の夕方以降となります。

いいではないか

 「いいではないか」という言葉は、「息子」(山田洋次監督・原作椎名誠)という映画の中で、主人公役の永瀬正敏がつぶやく言葉で、あまりにも印象的だったので強く心に残っている。この言葉を思い出して楽になったことが何度あることか。この映画については機会があれば述べる。

 定年の後、契約社員として延長も可能なのに辞めたのは、もちろんやりたいことが沢山あったからだ。おかげで日々楽しく過ごさせてもらっている。しかし他にも理由がなかったわけではない。嫌いな人と無理してつきあうことにくたびれてしまったこともある。

 嫌いな人は別に悪人ではない。ただ私との相性が合わないだけのことだ。エネルギーが横溢しているときは適当に妥協することが出来る。しかしテンションが下がるとそれも苦痛になってくる。個性とか思想の違いが苦痛なのではない。そんな事は違って当たり前だからだ。

 嫌い、と云うのは感情のなせることで、それを我慢していると何だか自分の精神的な容れ物がだんだんふさがってきてしまう。

 そうしてもう「いいではないか」と云う気になったのだ。おかげで私の精神的な容れ物には少しゆとりが出来た。もちろん生きていればいろいろなしがらみからいろいろなことが招来する。容れ物には常に何かが入っている。もともとそれほど大きな容れ物を持っていないし。

 いまも少し眠れないような問題がないわけではない。酒を控えているのでいささかつらいところだが、「いいではないか」と再び云おう。もう「いいではないか」。

深刻な事態

 福島第一原発が停電となり、冷却用の水を送るポンプが停止してしまった。原因はともかく、このような事態が起こったことに驚いた。

 そもそも東京電力は今回の第一原発の事故を不可抗力によるものとしている。地震には持ちこたえた(これはまだ確認されていないが、東京電力はそう断定している)が、想定をはるかに超える津波により、電源を喪失して冷却不能になったことが原因である、という結論を出している。

 それならば事故収束は装置の冷却が万全であることが前提で最優先であり、そのためには電源の確保が最重要だろう。その電源が再び停止して原因が不明である、という発表に唖然とした国民は多かったことだろう。被災現場だからほんの短時間ならあり得ることかも知れない。しかしこれ程長時間(東京電力にとってはほんの短時間なのかも知れないが)停電するのは論外ではないか。

 被災処理から二年間かけて最優先のことすらまだ万全ではないことに驚いたのだ。野田首相は原発事故の終息宣言をした。これは歴史に残る事実である。しかし収束などしていないことは誰の目で見ても明らかなことだったし、それがもっと収束とはほど遠いものであることが今回露呈された。野田首相は責任者として歴史に汚名を残したことを自覚すべきだろう。この人はまじめなひとで悪人ではないだろう。しかし菅直人(呼び捨てごめん)と同様(というか民主党の多くの議員と同様)国民を心の中では見下している。その心性はほとんど東京電力と同じである。

 ところで停電の連絡が三時間あまり遅れたことが問題になっている。この遅れが上記の心性からのものであることを国民は敏感に感じているだろう。

 原因が一部の配電盤にあることが明らかになり、この配電盤を外して迂回させることで停電が解決したことはさいわいであった。この部分にもバックアップ体制がとられるという(東京電力によれば四月からその予定で準備していたところだったという。如何にも蕎麦屋の出前だ)。

 なぜ配電盤に異常が起きたのか。なんと鼠のような小動物の侵入によるものだったことが明らかになった。

 ここで疑問なのはその発表が停電が解消してだいぶ経った後での発表だったことだ。だって配電盤が異常だと分かった時点で配電盤を調べるのが普通だろう。あけてみたらそこに小動物の死骸が黒焦げでころがっていれば原因はすぐ分かる。それなら配電盤の異常と判明した時点で原因の発表が行われるはずではないか。

 それがこれだけ時間が経ってからと云うのはどうもそこに作為があると疑うのは考えすぎだろうか。

 それに東京電力や原子力関係者のこのたびの事態に対する説明を聞いていると、その受け止め方の浅薄さに、かえって深刻さを感じたのは私だけではないだろう。

 私は原子力発電所を存続させるべきだと思っていた。核燃料のリサイクルを行うことは使用済み核燃料の処理に貢献することで、そのためには原子力発電所は必要最小限でも存続させるべきだと思っていた。そしていつか夢の核融合を完成させることが出来る日を目指すべきだと思っていた。そもそも出来てしまったものをなかった時代に戻すことは無理だと思ってもいる。

 しかしこのような関係者の愚かしさ、疑わしさを知るにつけ、それに疑念を抱くようになってきた。責任があるのに誰も責任をとらないで済まそうとする人々に原発を扱わせるのはそもそも間違っていると考えるし、それが改善されそうもないことに絶望しかけている。

行き過ぎた指導か暴力か

 ひとを殴ったり蹴ったりする暴力を行った場合、これは暴行罪として罪に問われる。これは親告罪ではないから、被害者の訴えがなくても事実が明らかであれば適用される(はずである)。

 少し前に大分県の学校で剣道部の外部コーチが部員に暴力を振るっている様子がビデオに撮られて放映されていた。なぜそれが問題として取り上げられないのが不思議に思っていたら、今朝再び取り上げられていた。

 取材によると、ビデオを撮ったのは保護者だと云うことだ。以前からこのコーチは日常的に暴力を振るうため、部員から毛嫌いされており、保護者たちから学校に対してそのコーチの解任が要請されていたという。ところが学校側はそれを無視してコーチを続投させていた。そこで保護者側はこの証拠のビデオを撮り、教育委員会に提出したのだという。事実が公然化したことで教育委員会の指示のもとようやく学校側はこのコーチを解任したのだが、そのときの教育委員会と学校は異口同音に「これは体罰ではない。行き過ぎた指導であった」と説明したそうだ。

 映像を見るかぎり「行き過ぎた指導」どころではない、体罰、いや暴力そのものである。しかも執拗で、見るに堪えない。

 学校は事なかれ主義でこのコーチ(外部コーチで剣道部の先輩だそうだ)を解任させなかったのか、それともこのコーチが暴力団風で危害を恐れたのか、どちらにしても生徒のことは念頭になかったようだ。

 大分県と云えば、校長の人事は教育委員会への金の贈賄で決まる、という事実を明らかにされて批判されたことを思い出す。教育委員会の実権を握るのは校長のOBだとも云う。この大分県にしてこの事件があったのか。

 警察は証拠のビデオがあるのだから暴力事件としてこれを扱って欲しい。一罰百戒としてマスコミはこういうときこそ学校の責任者を糾弾したらいい。教師を聖職者から労働者に引きずり下ろし、逆に学校を聖域として治外法権にしたのは誰だったのか。もうその発想をやめて世間の常識を通用するようにしないといけないのではないか。

サイバーテロ

 韓国が大がかりなサイバーテロ被害に遭っている。そしてほとんど北朝鮮が加害者に間違いないだろうという論調で伝えられている。今日にも日本が同様な攻撃に曝されるかも知れない。いまの電子システムというのは本質的に性善説に依拠しているから悪意に対して脆弱だ。

 以前から北朝鮮は韓国に対してサイバーテロを行うという恫喝を繰り返していたそうだ。しかしそれならなぜ今回その成功を大々的に勝利として喧伝しないのだろうか。それとも北朝鮮が犯人ではないのだろうか。犯人でないなら我が国の行為ではない、と強く否定するに違いない。それとも意外な成り行きに驚いてコメントを出しそびれているのだろうか。

 北朝鮮のこの頃の行動はほとんどパラノイアの様相を呈している。つまり了解不能と云うことだ。あえて推測すれば金正恩の意思と、軍隊と、共産党政府がてんでんばらばらだと云うことだろう。軍隊内でも各部でばらばらの行動をとっている状態なのかも知れない。統率が失われた国家はすでに国家ではない。

 今回のサイバーテロの情報に一番驚いているのは金正恩かも知れない・・・まさかと思うが。北朝鮮からいずれ何らかのコメントが出るだろう。何と云うのだろう。

キプロス

 キプロスの経済危機で世界の経済が影響を受けている。キプロスの2兆円(キプロスの国家予算に相当)の支援要請に対してEUがせめて三分の一は自国で直ちに準備して今後改善する姿勢を示しなさい、という条件をつけたのは、ギリシャ、スペイン、イタリアの火消しで大わらわのEUとしては当然のことだろう。

 ギリシャと関係が深く、巨額のギリシア国債を引き受けていたことによるもの危機だ。ギリシャが火元で、キプロスの人々には不幸なことだが、主な産業がなく金融で利益を上げていた国が、金融で損失があればそれを金融で、つまり銀行が補填するしかあるまい。

 この決議に対して国会議員に賛否を問うたところ賛成がゼロだったと云う。賛成したら国民につるし上げを食い、次の選挙に落ちるから賛成出来ないと言うことだろう。しかしそうなるとキプロスはデフォルトに陥ることが必然だ。デフォルトになれば国民は今回の課税どころではない負担が強いられる。

 キプロスの国民(86万人)はデフォルトの怖さを知らないのだろうか。知らないのだろう。国家が破綻すれば海外からものは買えず、生活が破綻する。北朝鮮のような状況に陥るだろう。世界はその恐怖の姿を見ることになるかも知れない。

 キプロスの銀行には巨額のギリシャ国債がある。ギリシャはこの決済を迫られ、たちまち破綻するだろう。EUの危機とはそういうことのようだ。

2013年3月20日 (水)

贈賄容疑

 アメリカ司法省などが、中国で贈賄した容疑でマイクロソフト社を調査しているという。

 中国で仕事をする上では賄賂は必要経費であると云うのが常識だ。これなしで正しくものごとを進めようとすると、無駄な時間とエネルギーを費やすことになり、賄賂を払った方がはるかに安上がりだからだ。

 アメリカ当局がそれを知らないわけがない。それでも摘発しようとするのには何かわけがあるのではないか。たとえ合法的であってもアメリカとして中国に売りたくないソフトウェアの商談が進んでいてそれを阻止したいとか。

 それともそもそも中国との貿易に意図的な規制でもかけようとしているのかも知れない。これに対して中国は腐敗撲滅を掲げている以上、アメリカに抗議するわけにはいかないので大義名分も立つ。マイクロソフト社は政府に全面的に協力する、と発表した。

嘘つきランキング

 先日の日本テレビ系の番組で日本は、嘘つきの国のランキングが四位だったという。ちなみに一位がペルー、二位がアルゼンチン、三位がメキシコだそうだ。

 これはその国のひとに「嘘をつくかどうか」を自己申告してもらうというかたちで集計したものだという。

 それが早速中国のネットで話題になっている。「やっぱり日本は嘘つきだ」という単純な受け取り方も多かったが、「中国の方が嘘つきだ」とか「中国が一位でないのはおかしい」などという意見もあった。番組を見ていないから中国が何位だったのか知らない。別格だったのか。

 しばしば嘘つきは自分が嘘をついているつもりがないのに嘘をつく。そして嘘つきは自分のことを嘘つきとは決して言わない。自分で嘘をついていると自覚しながらときに嘘をつく、実は正直なひとのみが「自分は嘘をつくことがある」と言う。

 もし、自分は嘘つきだ、と云う人がいたら、その人の言うことは嘘なのだから、その人は嘘つきではないことになる。有名なパラドックスだ。嘘つきを自己申告させることは実は意味がない。

映画「RAILWAYS 愛を伝えられない大人たち」2011年

 監督・蔵方政俊、出演・三浦友和、余貴美子、小池栄子、中尾明慶、吉行和子、仁科亜希子、清水ミチコ、米倉斉加年、西村雅彦。

 富山地方鉄道が舞台の映画である。仕事で金沢に五年ほど住んだので電鉄富山駅から宇奈月や立山、黒部方面へ行った。金沢を早朝に出発すれば電鉄富山に乗り、宇奈月からトロッコ列車に乗り換えて欅平まで行き、散策しても夕方には金沢に帰ることが出来る。また、電鉄富山から寺田で乗り換えて立山まで行き、そこからバスで室堂を散策、さらに黒部ダムを見てもやはり晩には金沢に帰ることが出来る。

 富山からは悪天候でなければ立山連峰がいつも見える。本当にここは美しい。また富山城の桜も美しい。学生時代に富山大学の寮に泊めて貰ってこの辺りを散策した思い出がある。

 それらがこの映画にふんだんに映されていてそれだけでうっとりした。特に冒頭で遠方から電車がゆっくりと近づいてきて手前のカーブを右へ曲がっていくシーンは、ただ電車が走っているだけなのに震えるほど感動した。この場所にカメラを据えたことが素晴らしい。

 定年を間近に控えた、電車の運転手をしている滝島徹(三浦友和)は、いままで無事故無違反、安全第一、運転手の使命を第一に生きてきた。だから妻・佐和子(余貴美子)の看護士として働きたい、という願いを全く受け入れる気がなかった。彼の母親の介護や自分の面倒を見続けた妻をねぎらい、定年後は二人で静かに暮らそう、という思いがあったのだ。

 何度目かの妻の申し出にも一切取り合わない彼に対して、ついに妻は家を出て行く。一人で暮らしてでもやりたかった看護士の仕事をすることにしたのだ。

 彼の妻に対するねぎらいたいという気持ちと、彼女の看護士の仕事をしたい、と云う気持ちが会話がほとんどないまますれ違う。

 彼女は決心を明らかにするために離婚届と結婚指輪を彼の元においてついに去る。そしてそれぞれの生活が始まる。

 彼女の気持ちが周囲の話などから彼にも少しずつ分かってくる。そんな最中に事件が起きて・・・

 三浦友和が頑固な男を演じるような年になったのだ。しかもそれに違和感がない。余貴美子はここでは静かな、そして芯の強い女性(富山の女性は特にそうだと云われる)を好演している。米倉斉加年が引退した先輩運転手として出て来たのが嬉しい。いい雰囲気をだす役者だ。

 舞台設定が気に入りすぎたので、手放しで好い映画としか言いようがない。ラストの松任谷由実の主題歌もとても良い。

 この映画の前に「RAILWAYS 49歳で電車の運転手になった男の物語」という中井貴一主演の映画がある。未見なので是非見たいと思っている。

喫煙リスク

 大学時代、ほとんどを寮で生活した。四階建ての寮で原則二人部屋、全ての部屋が埋まると200人くらい入る。五年生以上の先輩は別格で一人部屋の人が多かった(八年生までしかいないが、七年生や八年生は神様みたいな存在で、めったに姿を見ることは無い)。

 田舎の大学で、ちょっとバンカラの風を残している寮だったので、プライベートというのはほとんどなかった。勝手にひとの部屋に出入りし、夜中にストームがあった。友だちの部屋で歓談して自分の部屋に戻るとベッドに誰かが寝ていることもしばしばあった。

 ほとんどの学生が煙草を吸った。多分煙草が大人の男の象徴だったのだろう。部屋に何人かたむろしていると煙草の煙で霞んだ。何でも灰皿にした。ベッドパイプ(ベッドの鉄製の枠)の中空の穴も吸い殻で一杯だった。ほとんどヤニの中で暮らしているようなもので、布団までヤニ臭い。

 しかし私は最後まで喫煙を習慣にしなかった。そそのかされて吸ってみたことはある。くらっとして浮遊感があり、むせることもなかった。入れ替わり立ち替わり、煙草の誘惑があったが、ついに卒業まで(というか現在まで)煙草を自分で買って吸ったことはない。たぶん寮で最後まで煙草を吸わなかったのは私一人だけだっただろう(煙とヤニの中に暮らしたから吸っていたのとかわりはないが)。

 途中から意地になっていたのかも知れない。そして私は大人の男へのみそぎをすることなく卒業した。

 中国の肺がんの発症率が40年前と比較すると10倍になったそうだ。昔は胃がん、食道がん、肝臓がん、子宮頸がんより少なかったのが、いまは中国の発がんのトップだという。当局は「これは中国人の喫煙習慣によるものであり、他のがんも喫煙が発がんリスクになっているものがあり、中国人の早期死亡の大きな要因になっている」と説明している。「中国の早期死亡リスクを高めている原因であることは疑いようがない」そうだ。

 喫煙リスクがあることは事実であろう。しかし中国人が煙草好きであることは最近のことではなく、昔からだった。その中国人の喫煙率も徐々に下がっていると言われる。それなのに肺がんの発症率が上がり続けているのはなぜだろう。なぜ大気汚染を要因としてあげないのか。まさか大気汚染は主な肺がんの要因ではない、といいたいのだろうか。つい勘ぐりたくなる。

2013年3月19日 (火)

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 象牙の密猟のことを書いていたら、友人たちと牡鹿半島に行ったときのことを思いだした。牡鹿半島の先端に近い鮎川というところの民宿に泊まった。

 写真は港のすぐ近くの「鯨歯工芸品」の看板を掲げている店だ。牡鹿半島の目の前には金華山がある。この辺は鯨漁の拠点で、港の水産物を売る店は調査捕鯨で獲った鯨肉を売っている。

 写真の店を覗いたら、シロナガスクジラの歯や、クジラひげ(髯鯨の歯、繊維状になっており、プランクトンやオキアミを濾して食べる器官)を並べていた。鯨の歯は象牙のように細工して工芸品となり、小さいものは印鑑などになる。クジラのひげ(本当は歯)は釣り竿の穂先やからくり人形のゼンマイや文楽人形の仕掛け糸になくてはならないものだ。

 その歯やひげは調査捕鯨では獲るとができない種類のクジラなのでこの店に残っている在庫が最後だと言っていた。

 中国と違うから密漁はないみたいだった。

 この店は目の前が港である。多分東日本大震災で流されて今はないであろう。あの貴重な在庫は海へ帰ってしまっただろうか。

アフリカ象の将来

 アフリカ象が密猟され、自然保護団体によれば、昨年だけで3万2000頭の象が殺されたという。象牙をとるのが目的の密猟であり、その大半が中国に密輸出されているとみられる。

 象牙の取引は1989年のワシントン条約で全面禁止が決定されている。

 (例によって全く信頼性のない)中国政府の統計によると中国国内で摘発された象牙密輸は900件余りだそうである。摘発された業者には終身刑を受けたものがあると云われるが、実はこの密輸には軍や警察関係者が関係しているといわれる。それらが摘発されることはほとんどない。

 中国のアフリカ進出とともに象牙の密輸入は増加の一途を辿っている。象の研究をしている動物学者は「アフリカ象の将来は中国にかかっている」と訴えている。

 実はサイの密猟も急増しており、絶滅が危惧されている。サイの角が漢方薬の原料になるとして中国に密輸されているからだ。保護団体はサイの角に毒を注射して、防衛しているという。この注射はサイの生命に危険はないが、この角を使って漢方薬を作り、それを人間が服用すると極めて危険だという。

 象の密猟もサイの密猟も中国人が直接行っているケースは少ないかも知れないが、最近中国の金持ちのサファリが増えているらしい。

井波律子「中国侠客列伝」(講談社)

 司馬遷の「史記」の中に「遊侠列伝」がある。そこに曰く「ところで、遊侠の徒は、その行為は正義に合わないことがあるが、しかし、その言は必ず信があり、その行為は必ず果敢で、ひとたび応諾すれば必ず誠意を尽くし、その身を愛さずにひとの苦難に赴き、常に一身の存亡死生を無視する。しかもその才能にほこらず、またその徳にほこることを恥としている。思うに彼等にもまた、多とするに足るものがある。」これに当たるのが侠客と云おうか。

 この本では侠客として、歴史上の人物を春秋戦国、漢代、三国六朝時代から取り上げる。次いで物語の世界から「唐代伝奇」、「水滸伝」、「元曲」、清代戯曲の中の人物を取り上げる。

 侠客の行動を美学と捉える思想は、市井の人々の切望のあらわれでもあっただろう。  

 いま中国でも韓国でも愛国主義の行動を俠としているように見える。だから侠の好きな大衆はもてはやす。しかしその愛国主義はしばしば利己的である。利他的なことを本分とする侠とは全く正反対のものとなる。しかもその行動は喝采を浴びることを目的にすらしている。最も侠の嫌うことである。

 かように侠客は稀な存在なのだろう。

 この本を読んであらためて春秋戦国時代の物語がなぜこんなに面白いのかよく分かった。刺客列伝の人物は最も侠というべきか。なぜ始皇帝暗殺に失敗した荊軻がこんなに魅力的なのか。それに比べて戦国末期の四君はなぜか輝きが少ない。

 毛沢東が、そして中国共産党が最も恐れるのは本当の侠だろう。

2013年3月18日 (月)

忘れる

 BS(主にWOWOWから)ハードディスクに録画し、さらにブルーレイにダビングして映画をコレクションしている。いちどアイウエオ順に整理したのだが、さらに増えてきて収集がつかなくなってきたので再び整理を始めた。

 なんと同じものを録画している。それもひとつやふたつではなくていくつもある。以前はBD-Rに録画していたが途中からBD-REに録画するようにした。だからBD-REにダブっていたらそれを消去すればいいのだが、自分で録画したものを忘れているのに驚いている。

 コレクションの数はすでに1000を軽く超えている。全く録画しなくても三年間毎日違う映画を見ることができる。このままでは新しく録画するのは余程見たいものに絞らないと、死ぬまでに見終わらない(馬鹿みたいだ)。

 ブルーレイの整理はようやく半分終わった。今晩中に終わるだろうか。

 世界中でせっせと映画が作られている。みんな一生懸命つくっている。可能なかぎり見たいと思っているが、映画を見るにはずいぶんエネルギーがいる。昔は一日二本でも三本でも見ることができたが、今は二本見るとかなり疲れて何も出来なくなってしまう。特に長いのはかなわない。

 さあ食事をとったら整理再開だ。

努力したのに

 本日は内科検診の日。酒も控え、食事の量も減らしてきたおかげで体重も少しだけ減っている。血液検査の結果には自信があったのだが、なんと血糖値が少しだけ上がっており、正常値の枠を半年ぶりにオーバーしてしまった。

 医者も首をかしげたが、多分アクトスという薬からメトグルコという薬に変更したことが原因だろうという。確かにアクトスは私にとても相性のいい薬で、この薬のおかげで血糖値が下がった。しかし泌尿器系に発がん性のおそれがあるとして昨年末から処方の変更をした。

 このまま血糖値が改善しなければさらに薬を増やすしかないという。いい結果を出して減らしてもらおうと思っていたのに心外なことだ。

 食事指導の先生には体重の減ったことを褒めてもらったもののあまり嬉しくない。

 今日は昼から雨が降るというが、ぎりぎり降られずに帰宅出来た。風が強い。ゴミを入れるポリバケツが飛んで行った。

 白木蓮が咲き始め、桃が咲いている。間もなく大好きな桜も咲くだろう。

 あんなにお酒を我慢したのに・・・今日はいい結果に乾杯しようと思っていたのにその気がなくなった。

 明日は外科で抜糸する日だ。同じ病院に行く。今日は控えよう。

映画「アナザー・プラネット」2011年アメリカ映画

 監督・脚本・撮影マイク・ケイヒル、出演プリット・マーリング、ウィリアム・メイポーザー。

 中空にかかる大きな地球の姿が強く記憶に残る映画だ。この地球は宇宙から見た地球ではない。地球から見た地球なのだ。

 賢く、美しく、幸せな家庭に恵まれた若い女性ローダは青春を謳歌していた。好事魔多し。慢心から大きな事故を起こし人を殺してしまう。

 刑期を終えて出て来た彼女は家族に受け入れられるが、もう元の輝きのある生活は戻らない。高校の清掃員という、ひととの会話をしないで済む仕事を選んだ彼女はやがて事故の生き残りの男性の存在を知る。

 贖罪のため彼の元を訪れた彼女は、しかし自分の正体を明かすことが出来ない(事故の時、彼女は未成年だったので彼女が事故の犯人であることを彼は知らない)。失意のうちに一人暮らしをする彼の回りを無償で清掃する彼女に不審を覚えていた男も、次第に心を開いていく。

 彼と心が通い始めたためにかえって苦しくなった彼女が選んだ行動は、中空へかかる地球への派遣隊への志願だった。地球から見えるその地球にも全く同じ世界があり、同じ人間が住んでいることが通信で明らかになってくる。

 彼女とこの男との関係、そして不思議なもうひとつの地球がここで関わってくる。これ以上はこれから見る人の興味を削ぐことになるので控える。

 人生に取り返しがつかないことが起きたとき、それをどう受け止めるのか、そしてもしかしてそこに何か希望が生じたら、という思いが切ないほど伝わる。ありきたりな言い方だが不思議な映画だ。そして地球から地球を見る(後半になるほど大きくなる)というシュールな映像がとても美しく、ストーリーも俳優も全て良い。傑作だ。

射撃用レーダー照射を認める

 中国海軍の複数の幹部が海上自衛隊護衛艦に対して攻撃用射撃管制レーダー照射をした事実を共同通信の取材に対して認める発言をした。これは艦長の緊急判断の下に行われたのだという。

 また昨年12月の航空機による領空侵犯も認めた。これは「軍の作戦計画」だったが「事態をエスカレートさせるつもりはなかった」そうだ。
 
 日本からの抗議に対して当初沈黙し、一転その事実を全面的に否定、さらには日本側の言いがかりだと言っていたのは誰だったのか。

 しかし中国がいったん完全否定したことを認める(軍の幹部が認めただけだが、中国では軍の意思とは違う幹部の個人的な発言はあり得ないので公的なものである)、というのは極めて異例なことだ。

 これには何らかの意図があるのだろうか。

 いままで通りの尖閣諸島は中国領、との前提の発言なら、本来中国領である尖閣諸島領域に日本の艦船が存在するのは中国に対する領海侵犯だから威嚇した、とあらためて主張するつもりかも知れない。領空についても同様である。明らかな事実を否定することはかえって姑息である、という判断をしたということか。

 それとも日本側の抗議の裏付けがあまりに明確なので、否定することがかえって損だという判断をしたのか。

 これが中国の習近平新体制の軍部に対する自制を促す動きだ、と見るのは希望的に過ぎるだろうか。

 習近平は中国軍に対して「常に戦争に備えよ」と檄を飛ばしていた。

2013年3月17日 (日)

曾野綾子「安心したがる人々」(小学館)

 曾野綾子が好きな人と嫌いな人がいるようである。その違いは何かを考えてみた。
 曾野綾子が好きな人は強いひとが好きな人が多いような気がする。この強い、と云う意味はもちろん腕力の問題ではなく、自分の人生を切り開く力がある人のことだ。嫌いな人にその力がないという意味ではないことに注意して欲しい。

 自己責任、と云う言葉が一時期よく言われた。それに肯定的なひとと否定的なひと、といえば分かりやすいだろうか。否定的なひとが自己責任を全うしていないというわけではない。

 やさしさというものは人間になくてはならないと云う事は誰でも知っている。ただやさしさだけでは生きていけない。世の中はときに残酷なもので理不尽なものだ。生きるためにやさしさより何かが優先されることもある。

 資本主義社会はしばしば競争社会である。競争の結果の利益の配当に序列がつくのはやむを得ない、という社会である(過剰な差がつくのは別のシステムの問題だ)。その代わり競争にハンディはない建前になっている(機会の平等である)。ハンディのある人は競争に勝つことが困難だ。それを弱者(いやな言葉だ)として救済しようというのがセーフティネットであり、福祉だろう。

 ところがこのセーフティネットや福祉を最初から頼りにしてしまってハンディがないのにハンディを持つかのように競争を回避している人たちがいる。引きこもりやニートと呼ばれるひとがそうだし、そもそも自力で人生を引き受けようというつもりがない人々だ(彼等はしばしば社会を悪者にする)。これを弱者として救済すべきか否か。

 曾野綾子は弱者を切り捨てよ、などとは一言も言っていないが、自分の人生の責任は自分で引き受けよ!と常に言う。これが許せない、と感じるひとが彼女を嫌っているように思う。

 彼女は1972年から「海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)」を主宰している。未開発国で貧苦にあえぐ人たちを命がけで支える活動をしている宣教師たちの支援を行ってきたのだ。しかも出資した場合には必ず現地へ赴き、その使途を確認して実態を把握している。弱者を切り捨てる、という精神とは極北にいるのだ。そのような世界を知っているから、日本の「弱者」のあまりの甘えに対しては厳しいことを云う事になる。

 麻薬のように幸福を求める日本人が多い。あまりに満たされて豊かなために幸福を見いだすことが出来ず、少しだけその生活レベルが損なわれると我が身の不幸を歎いている。

 年金生活に入って節約を余儀なくされている私は、しかし思ったより節約が簡単なことに驚いている。

 アリとキリギリス(もともとは蝉とキリギリスだそうだが同じ事だ)の寓話を引くまでもなく、蓄えもせずに使ってしまい、冬が来てひとに援助を求めるのは如何か、と曾野綾子がいい、それに私は賛同する。

 そのキリギリスを暖かく迎え入れて食事を施すことがやさしさだ、といまの童話の結末はなっているという。

 世の中はまじめなひとたち、せっせと蓄えたひとたちにとって不平等に出来ている。しかしこの人たちこそが黙って世の中を支えているのである。彼等に祝福あれ。

2013年3月16日 (土)

映画「影の軍団 服部半蔵」1980年東映映画

 監督・工藤栄一、出演・渡瀬恒彦、西郷輝彦、緒形拳、森下愛子。

 久しぶりにひどい映画だった。監督が工藤栄一なので少し期待していたのに救いようのない駄作である。多分脚本がひどいのだろう。工藤栄一なりに忍者軍団たちの闘いにアメフトのスタイルをとるなどして新機軸を打ち出そうとしているが、あまりにもストーリーがダサいので救いようがない。渡瀬恒彦が出る映画というのはどうしてこんなにつまらない映画が多いのだろう。それとも渡瀬恒彦が映画をぶちこわしにしているのだろうか。

 唯一の救いは若いときの森下愛子のおっぱいが見られたことだった。

葉室麟「恋しぐれ」(文藝春秋)

 蕪村と彼に関わる人たちの物語を連作形式で書いたものである。

 蕪村は晩年京都に暮らし、円山応挙などと親しく交遊した。蕪村は夜半亭の宗匠として俳句で有名だが、応挙たちと並び称される絵師でもあった。金に執着心が少なかったので豊かとは云えなかったが、祇園にも繁く通うなどした。そこで妻子がありながら老いらくの恋をするが弟子たちにいさめられる。表題に「恋しぐれ」とあるように多くの話が男女の間の哀切な物語である。

 恋は人生を輝かせる。その思い出は一生を左右するほどの力がある。しかししあわせに終わることばかりではない。心が通い合ったと有頂天になったすぐ後に相手の気持ちが見えなくなる。ときには生命よりも重い。そして男にとってそれがときに母の面影に似たものであったりする。

 応挙は「写生」を至上とする。その写生が、実は写真のように外面を写すものではないこと、写したいものの内面、本質ごと写すことこそが「写生」である。一流になれるかどうかはそこにある。ついにその限界を超えることがかなわないかに見えた男が死を前にしてそこを突き抜ける「牡丹散る」は最後が特にいい。それぞれの短編ごとに蕪村の句が寄せられている。この篇には「牡丹散て打ちかさなりぬ二三片」。

 この写生についての考えには正岡子規の「写生」に対する批判があるような気がするがどうだろうか。正岡子規は「写生」こそが俳句の神髄として芭蕉の俳句を否定したが、正岡子規だから出来ることであった。しかしその後俳句が見失ったものがあるのではないかなどと、誰かの受け売りで私は感じていた。葉室麟はそれを物語に託して主張しているのではないだろうか。

 それにしても蕪村の俳句は素晴らしい。そしてその句からひろげられる葉室麟のイメージはうっとりするくらいさらに素晴らしい。詩は苦手の私にここまで詩の世界の素晴らしさを教えてくれて有難いことであった。

世界最大の自滅民族

 揚子江の支流で、上海へ流れ込んでいる黄浦江に数千頭の豚の死骸が流れ着いた(上流の嘉興市が死んだ豚の処分の面倒を嫌って流したことがほぼ明らかになっている。流したのは1万8000頭だったと言われているがその一部が上海まで流れ着いたもののようだ。寒さで凍死したものだと言われるが嘉興市は事実を一切認めていないので不明)事件について、中国の経済学者で作家の何氏が「中国人は利益のみ追求し、災いや困難をひとに押しつけるのが生存法則になったのか」と自分のブログで訴えた。「反省するかしないかはともかく、これは中国人の劣悪な国民性を示している」と嘆き、「中国の食の安全問題は、経済問題などではなく、政治腐敗につながるもので倫理の問題だ。このような事件をあいまいなままにするような政府なら、今後も同様な事件が起こり続け、中国人は世界最大の自滅民族となるだろう」としている。

 まことにその通りである。いまは冬だが(だから凍死したのだろうけれど)これが夏なら死骸が腐敗して衛生上大変なことになる。上海の飲料水の取水口にも大量の豚の死骸が詰まっているそうだが、さいわい飲料水には異常がないと発表されている(これもそう云わないと大変だからそう云っているのかも知れない)。嘉興市側は豚の死骸の処理を無償で手伝っているのに文句を言うな、と開き直っているらしい。

 しかし心配なのはこの勇気あるブログを書いた何氏である。海外ではとかく中国の腐敗を取りざたしているが、中国人自らが「それは倫理の問題である」という国家機密を洩らしてしまったことである。冗談ではなく、これは国家反逆罪に問われかねない。中国はそういう国である。

2013年3月15日 (金)

映画「バンパイアハンターD」2000年

 監督・川尻善昭、原作・菊地秀行。アメリカで先行封切りされ、翌年日本でも上映された。菊地秀行の「吸血鬼ハンターD」のシリーズの第三作「D-妖殺行」を原作としたアニメ映画である。

 吸血鬼映画が好きなのかも知れない。「アンダーグラウンドシリーズ」や「ブレイド」のシリーズは何度見ても飽きない。もちろんケイト・ベッキンセールやウェズリー・スナイプスがはまり役だというのもある。

 吸血鬼は不死である。もちろん太陽の光を浴びたり、銀の銃弾で撃たれたら死ぬし、胸に杭を打たれても死ぬ。ニンニクの匂いや十字架、聖水が苦手とも言われる。それでもそのようなことにさえ出会わなければ不死である。

 若いとき永遠の生命に憧れていた。永遠の時間があれば知識は蓄積されてどんどん賢くなり、森羅万象についての洞察がかなうようになるのではないか、と考えたりした。それは神への長い道を辿ることにつながるのではないか、と空想したのだ。

 どうもそういうわけにはいかない、馬鹿は永遠に馬鹿なのだと気が付いてしまったので不死願望はしぼんでしまった。代わりに編み出した考えはあるのだがそれは置いておく。

 このアニメではバンパイアハンターとバンパイアとの闘いが描かれるのだが、主人公はバンパイアと人間の混血(?)のバンパイアハンターDと名乗る男である。一人娘をバンパイアに奪われた富豪に依頼されて「貴族」と呼ばれているバンパイヤーを追う。

 商売敵のマーカス兄弟も同じように「貴族」を追うのだが、「貴族」に護衛を依頼されたバルバロイの一族との闘いが物語の中盤のメインとなる。バルバロイは異形でしかも異能の持ち主ばかりである。不思議な術を駆使する彼等との闘いに苦戦するのだが、後半では「貴族」が逃げ込んだカーミラの城で真の闘いが始まる。

 菊地秀行の空想力というのはまことに豊かで、次から次に現れる敵の能力のユニークさに感心する。山田風太郎の忍法ものみたいだ。

 吸血鬼は永遠の生命を持つが、永遠に生きることの苦しみ悩みは吸血鬼でなければ分からない。手放しにありがたいものでもないようだ。

 ラストにDがある女性との約束を果たす。ちょっと良いラストだ。

映画「銀河鉄道の夜」1985年アニメ映画

 監督・杉井ギサブロー、脚本・別役実、音楽・細野晴臣。

 文部省特選映画の文字が大きく、しかもじっくりと表示される。キャストが丁寧にタイトルされていく。本編が始まるまでなんとそれだけで三分以上。子供がこの映画を見たら、落ち着きのない子はここまでで飽きてしまうのではないかと心配になる。しかも画面展開が極めてゆっくりしている。

 宮沢賢治の世界にゆっくりと導入していこう、と云う意図はよく分かるし、有効だと思うが、もともと自分から宮沢賢治に馴染もうとする子供にとっては面白いけれど、そうでない子供はついてこれないだろう。

 この映画を批判しているわけではない。宮沢賢治を、特にこの「銀河鉄道の夜」を本来出会うことのない子供に出会わせてあげたい、と云う気持ちが私にあるからだ。もちろん学校の推薦でこの映画を見せられる子供は多いだろうが、見たから出会える、とは限らない。

 そもそも宮沢賢治はわかりにくい。わかりにくいけれども、ある瞬間スパークのように分かったりする。子供にはそういうものを感じる能力がある。

 先日見た「ポーラーエクスプレス」は銀河鉄道の夜を下敷きにしているだろうと思う。列車から見える不思議な風景、そして不思議な出来事。その不思議さと奥深さは格段に「銀河鉄道の夜」が優る。

 ジョバンニが垣間見た、現世と来世が見えないところで連続しているという事実は宮沢賢治の深い宗教観から来ているが、それがこの物語を通して子供に伝わるはずだ。

 別役実が脚本を書いているのがとても嬉しい。この人ぐらい宮沢賢治を読み込んでいるひとは少ないからだ。

 子供にはこのアニメを楽しんでもらいたい。しかしそもそも「銀河鉄道の夜」は童話の域を遙かに超えた物語だ。これをきっかけに宮沢賢治の原作をじっくりと読んでもらいたいものだ。そのときのイメージ付けにこのアニメは大きく影響することだろう。そのことがいいことかどうかについては明言を差し控えたい。

星野博美「愚か者、中国をゆく」(光文社新書)


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ゴビ砂漠。

 シルクロードに憧れている。息子と娘を連れて10年近く前に敦煌に行ったことがある。敦煌では足かけ4日過ごした。小さな街だった。ツアーではなくて三人だけで行き、現地ガイドと運転手を雇ってワゴン車で敦煌周辺を走り回った。

 今度はウルムチ、カシュガル、トルファンに行きたいと思っている。本当は去年にでも行くつもりだったが、いろいろあっていきそびれて、多分今年も行かないだろう。体力と気力が必要な旅となるだろうから、65歳までに行かないと一生行けないかも知れない。

 この本は2008年に出版された本で、出たときにすぐ読んでいるが、シルクロードのことを考えていたらまた読みたくなった。著者は学生時代に香港に留学し、友人と中国を旅した。その旅の回想なのだが、メインは列車でのシルクロード旅行である。

 その旅は1987年、天安門事件の二年前である。まだ中国は1978年に始まった改革開放政策が端緒についたばかりであった。列車の切符を購入するだけで大仕事だった。延々と列に並び、何日もかかることを覚悟しなければならなかった時代だ。

 その旅行での苦労と列車での中国人たちとの交流などが語られている。表題からも分かる通り、著者はユーモアがたっぷりあるので、ものを知らずに旅したことを自嘲的に書いて笑い飛ばしているが、実際にはどれほど苦労したのかと思う。アメリカの友人と二人で一緒に撮った写真はたった一枚だけ、しかもその顔に笑顔はない。

 敦煌で老人の集団と一緒に莫高窟を見た。聞いて見ると二週間ほどのシルクロードバスツアーだそうだ。みな日に焼けて生き生きしている。ああ、時間さえあれば、と思ったものだ。

 この本に書かれた旅の頃からみても中国は激変している。私が西安へ行こうと思ったのが1989年、それは天安門事件で頓挫し、ようやく1992年に行くことが出来た。天皇陛下が訪中するちょうど一年前の秋のことだった。西安の城壁に登り、シルクロードに絶対行くぞ、と心に決めたのはそのときだった。

Img161莫高窟。

Img130鳴沙山・月牙泉。

2013年3月14日 (木)

映画「その男、凶暴につき」1989年

 監督・北野武、出演・ビートたけし、白竜、川上麻衣子、佐野史郎。

 北野武の映画は全く見ていない。全く見なければ、それについて語ることは出来ないし、見るに堪えなければ途中でやめればいい。

 この映画は1989年の映画で、事故で顔に怪我をする前のようだ。若い。結局最後まで見てしまった。

 この映画はもともと深作欣二が撮るはずだったらしい。それがいろいろあって北野武初監督作品となった。敵役の白竜がいい。この人のあの眼は誰も真似が出来ない。これよりすごいのに安藤昇の眼があるが、これは別格だ。白竜は映画「ワル」のシリーズで初めて見た。劇画のキャラクターとは違うけれど、雰囲気は出ていた。ヒロインの飯島直子があまりも大根演技で映画は学芸会みたいになってしまったけれど。

 この映画ではひたすら歩くシーンを長撮りしているカットがある。意味深なようだけれど意味はないのかも知れない。全体に流れるニヒリズムは全共闘時代の前衛映画のようだ。川上麻衣子の体当たり演技がなかなか好い。

 今のところ丸をつける気にはならないが、その後の映画を機会があったら見てみることにしよう。

禁酒法と一人っ子政策

 中国国務院の構造改革案として衛生部と国家人口計画出産委員会を統合する案が出されている。これを機にかねがね取りざたされている一人っ子政策の見直しがあるのではないか、との噂が多いが、どうもこの政策は継続されそうだ。

 国家人口計画出産委員会のメンバーで全国政協委員会の楊氏は「中国の高齢化の要因は医療水準の向上、経済状況の改善などが主なもので、計画出産が主因ではない」と述べた。

 楊氏が述べたことは間違っていない。現在の高齢者が一人っ子政策のせいで増えたわけではないのは言うまでもないことだ。しかし問題は少子高齢化であり、生産者人口の減少なのである。それについては一人っ子政策を続けることが大きな問題であることも事実である。ほとんど手遅れとも言える状況の中、このようなことを平然と言うのはなぜか。

 実は一人っ子政策は地方政府の一部の役人にとっての巨大利権なのである。そして楊氏はその巨大利権の中心人物として利権を失うことなどあり得ない、という立場からものを言っているのだ。

 人間にとって欲求度が高いものを強権で禁止すると、そこに巨大で不法な利益が生ずる。禁酒法の時代に、どれほどのお金がギャングにもたらされたか、知る人も多いであろう。日本の煙草もあまり厳しく規制し、価格が一箱千円を超えてくれば、煙草の密輸入や日本の煙草の模造品の流入が(多分中国から)大量にもたらされてそこに大きなお金が動くことになるだろう。

 人間が家庭を持ち、子供を作る、という欲求と言うより自然な営みを規制する、などという異常な行為が利権を生まないはずがない。

 これは二人目の子供を産むために巨額の罰金を支払わなければならない、という合法的な話ばかりではない。実は目こぼしのために役人の懐に入っている金も巨額なのだ。しかもきちんと地方政府に歳入として入っているものは一部であると云われる。さらに問題なのは、合法的な一人目の子供にすら過剰な介入を行い、不法に税金という名の罰金(ほとんど役人の懐に入っている)を取りたてているという例が無数にあるのだ。

 地方政府は市民や農民の土地の強引な収奪とこの一人っ子政策の利権による収入で投資を行い、中国の右肩上がりの経済を支えてきた。今更その利権を放棄するような政策に賛成するなどと云う事はないだろう。

 すでに大都市での出生率は1.0を切っている。そして若い夫婦は二人の生活を享受するため、しかも面倒を避けるために子供を作らないケースが増えつつあると云う。

 一人っ子政策の継続は中国の時限爆弾である。そのタイマーは思ったより短い時間にセットされている。

映画「僕たちは世界を変えることが出来ない。But, we wanna build a school in Cambodia.」2011年

 監督・深作健太、出演・向井理、松坂桃李、柄本佑、窪田正孝、村川絵梨、阿部寛、リリー・フランキー。

 原作は葉田甲太の「僕たちは世界を変えることが出来ない。」というノンフィクション。つまり実話を元にした映画だ。

 めでたく医大に合格した主人公が当たり前の学生生活を送るうちに自分自身に違和感を覚える。こんなはずではなく、もっと輝くものを夢見てきたのに、生きる実感を持てない自分にいらだっていた。

 その彼がたまたま「カンボジアに小学校を建てよう!」というボランティア募金のパンフレットに目をとめる。150万円で学校が建つと知り、彼は仲間をつのって金を作ろうと考える。アルバイトでかつかつの生活の彼等には150万円は大金なのだが、仲間に加わった一人がチャリティーイベントを提案する。クラブを借り切り、会費をつのってその利益を積み立てていこうというのだ。

 その活動がどのように展開していくのかがこの物語そのものなのだが、彼等の二度のカンボジア訪問の際の自然の美しさと、カンボジアの人々の微笑みと優しさが映し出されていく。そしてカンボジアがくぐってきた悲惨な歴史が詳細に紹介されていく。知識で知っていたことだが事実を突きつけられると言葉を失う。

 病院を訪れたときのシーンが強い印象を残す。カンボジアは東南アジアでも特にエイズ患者が多い国だ。そこで出会った若い女性のエイズ患者は美しい。わずかな出演シーンだが、この映画全体の白眉の部分で、この人はカンボジアの女優なのだろうけれど、素晴らしい。この人のことは一生記憶に残りそうだ。

 小学校の落成式での子供たちと若者の交流シーンには心を打たれる。テロップではカンボジアに6700の小学校があり、その内の700がこのようにして日本の援助で建てられたもので、さらにどんどん建てられているところだという。

 向井理を始め、学生たちがとてもリアリティがあった。このような若者たちは私の最も苦手な者たちだが、その彼等が全力で無償の行動をする。では自分は・・・と忸怩たる思いをした。

山本夏彦「笑わぬでもなし」(WAC)

 山本夏彦とその時代③。

 山本夏彦は残酷な人である。この人は人間というものの虚飾をことごとく剥いでしまう。獣であった遙かな昔からようやく人間に化けていった人間というものが実は獣でしかないこと、しかも獣ではない、と言い張りたいために、ときに獣以下でしかないことを暴き立てる。宗教や科学を信じない。思想は諸子百家に尽きると言い切る。

 少年の頃、彼は二度自殺を試みている。二度目は雪のアルプス(本物のヨーロッパアルプス)にあえて踏み込み、奇跡的に救出される。それ以後は生きたまま死んだ人でもある、と自嘲する。

 しかし彼は、壮年以後は現実の人になった。狷介をうちに隠し、出版社を興し、家庭を持って人並みの社会生活を営み、ときには定期的にラジオ番組も受け持った(テレビは嫌いで見なかったので、もちろん出演を拒否していた)。

 彼のように世界を見ていたら生きることは苦しいことだろう。だが彼は精神力と知性でそれを乗り越えた。だから残酷な人だが人の哀しみを誰よりも知る者であり、それは本当のやさしさを知る者である。

 私は山本夏彦のように本質を見通す目も知性も持ち合わせていない。だから彼を尊敬し、そのやさしさに憧れる。

2013年3月13日 (水)

朴槿恵大統領の苦難

 SAPIOの記事の受け売りなのでやや脚色があるかも知れない(私もやや尻馬に乗っている)が、韓国の問題についていくつか取り上げられていたので紹介する。

 まず少子高齢化問題。韓国は2005年に特殊出生率が1.08という世界でも突出した低さまで落ち込み、その後持ち直して2010年には1.23まで持ち直しているが、それでも日本の1.39よりも低い。日本の後を追って日本以上に深刻な事態になるおそれがある。

 これに関連するのが年金問題だ。韓国は日本の年金制度に倣い国民皆年金制度を実施しているが、完全実施が始まったのは1999年からで、そのため受給資格年数に達している人が少なく、ほとんどが減額支給になるという。そのうえ韓国の一般的な定年は55歳なのだそうだ。老後の蓄えのある人はいいが、高額の教育費を払い終えて間もなく定年では蓄える間もないに違いない。今後老齢者が増加したとき、それを支える生産者人口が減少していく事態になれば日本より深刻な事態になるだろう。

 韓国の高齢者の貧困率は45%、アメリカの24%、日本の22%と較べてもかなり高い。韓国の自殺率は世界の中でもトップクラスの多さだ。そして65歳以上の高齢者の10万人当たりの自殺者は日本が17.9人、アメリカが14.5人だが、韓国はなんと81.9人とはるかに多い。

 韓国はとにかく豊かになろうとして、最も経済の効率を上げるために国内の企業の競合を抑え、海外に対する競争力を高めるために一業種一社乃至二社にするという政策を断行してきた。それが奏功して世界に雄飛し、シェアを大きく伸ばすことに成功した。しかも国内では競争がないから高い利益を上げることが出来ている。この利潤が海外での薄利多売のベースになっていることは以前述べた。その結果韓国では10社前後の財閥系の企業がほとんどの経済を牛耳っている。だから財閥系に関係している人々は豊かな暮らしを享受しているのだが、それに預かれない人々の方がもちろんずっと多い。

 貧富の差は日本より大きいようだ。

 韓国が、というより韓国の財閥系企業は、海外から韓国にものが流れ込むことを最も恐れているのではないか。いままで人口が少ないことにより、市場性も低いとして韓国にはそれほど熱心に各国は売り込み攻勢をかけなかった。それにウオンも安かったから売り込みにくい面もあった。しかしここへ来て韓国経済の急成長の結果としてウオン高になり、円安と相まって韓国にものが売りやすくなった。

 現在の極端な、ほとんど狂気とも云える反日行動の裏では、このような日本からの攻勢を留めるために、財閥の人々の思惑が大きく働いているのではないだろうか。韓国の新聞やテレビも財閥系が多ければもちろんそれに同調するであろう。国内の不満を逸らす意味もあるだろう。これが韓国のためだ、という正義の思いがあるだろう。しかし全ての韓国国民にとってそれは果たして本当に正義なのであろうか。

 心やさしく国を憂える朴槿恵大統領は当然それを承知していることであろう。しかし彼女の周りにいるのは正義の人ばかりである。彼女の苦衷はいかばかりであろうか。同情に堪えない。

津上俊哉「中国台頭の終焉」(日経プレミアシリーズ)

 中国に関する本(中国のことに限らないが)には三通りある。観念的なだけで中身がなく、すでに知られていることだけを声高に書いたもの、そして自分の主張する中国感に適合した資料だけをとり揃えて書いたもの、そして本物の三つである。本物以外は言いたいことが一つあってそれだけで、それが繰り返されるだけで、読む前と呼んだ後には何もこちらには新しい知見が残らない。

 さいわいこの本は本物であり、いろいろ新しい知見を得ることが出来た。中身の濃い本で、簡単に要約することが難しい。なるほど、と思った数多くのことの中から一つだけを挙げる。

 中国はこの十年間、特殊出生率(一人の女性が生涯に何人子供を産んだか、その平均値)を1.7~1.8で報告している。国連や国際機関はそれを元に中国の現在と将来についての推計を行っている。これが事実であれば中国にはまだまだ人口ボーナスという今後の発展の裏付けがあることになる。

 しかし前にも述べたが、一人っ子政策をとっている国の特殊出生率がどうして1.7~1.8などという数字になるというのだ。これでは一人っ子政策を実施していない国よりも高い。それならこの政策は建前だけで実施されていないか、または統計がおかしい、ということになる。

 この本では実際の中国の特殊出生率を1.1以下であるとしている。その根拠は、中国が発表している年齢別、性別の人口統計から詳細に計算してはじき出している。そして黒孩子(ヘイハイズ)と呼ばれる戸籍登録のない子供の数をかなり過大に見積もっても1.3~1.4にしかならないことを明らかにしている。

 中国の人口ボーナスはすでにピークを過ぎて2020年には人口オーナス(生産年齢人口が下降線に入り、その補充が見込めない状態)になることは事実である(その転換点は2015~2017年だとみる意見も多い)。そしてそれを今回の全人代を前に中国はようやく認めた。しかし中国は一人っ子政策をやめる、という決断を下していない。それはなぜなのか、驚くべき理由があるがそれはこの本を読んで驚いて欲しい。

 このことが中国の将来にどう云う意味があるのか、この本を読んで戴きたい。これはほんの一例である。世界は中国を見誤っている。中国はすでに減速経済に入りつつある(2012年も成長率が目標の7.5%前後だったと中国は言い張っているが、大いに疑問である)。これは私も感じていたことだが、この本でその見方が正しそうだ、と意を強くした。解決しなければならない国内問題を先送りにしてきたツケを払わなければならなくなったときに経済が減速したら中国はどうなるのか。新しい習近平体制の肩の上には重荷が多いようである。

参加せず

 東日本大震災二周年の追悼祭に中国が列席しなかった。台湾が他の国と同格であることが非礼であると云うことが理由のようだ。

 昨年の追悼祭のときは民主党の野田政権は非礼にも台湾を指命献花から外した。中国を慮ったものだ。民主党は悪しき前例を作り、口で言うのと反対に情というものに冷たい政党であることを国の内外に明らかにした。

 繰り返すが、台湾はどこよりも早く追悼の意を表し、どこの国よりも突出した200億円という義援金を国民あげて集めて贈ってくれた国である。

 建前として日本は中国に対して中国は一つである、ということを認めている。しかし建前はともかく台湾を国家として認めている国はたくさんある。中国が認めなくても台湾は今のところ独立した国家である。

 今回は昨年の台湾に対する非礼を償う意味もあったであろう。WBCの日本対台湾戦での熱闘もあって日本国民の多くは今回のことに批判はないものと思う。かえって中国に対して、またか、と眉を顰めるだけである。だからいつも中国に肩を持つ新聞も強く政府を非難出来なかった。

 ところで今回の追悼式に参加しなかった国がもうひとつあった。韓国である。参加はもちろん自由意志である。しかし隣家に不幸があったときに顔も出さない隣人というのは真っ当な人間として見られないことは間違いがない。人も国も自分だけでは成り立っていかない。何かことがあれば手助けが必要なこともあるだろう。

 参加しない理由が「単なる手違いでした」というに至っては笑わせられた。ちゃんと「日本が嫌いだから」と言ったらどうだ。韓国の非礼は日本の総理の親書を拒否するなど、あり得ないことを繰り返しているので日本中がよく知っている。

 しかし韓国で万一国民に大きな不幸があったときには日本は支援をさしのべるだろう。たとえ拒否されても。そういう国でありたいし、現にそうであると思っている。

2013年3月12日 (火)

映画「テルマエ・ロマエ」2012年

 監督・武内英樹、出演・阿部寛、上戸彩、市村正親、北村一輝、宍戸開。

 正直あまり期待しないで見た。ドタバタは嫌いなので、他の人には面白くても多分肌が合わないだろうと思っていたのだ。

 とても面白かった。こう云うのを大真面目につくるのもありなのか。なんべんも声を出して笑ってしまった。久しぶりのことである。

 やはり評判になるものはそれなりの値打ちがあるものなのだ。

 どんな映画でどんな話なのかはたいていの人が知っているはずなので今更書かない。とにかく私と同じように思って見ていない人はとにかく見て欲しい。その面白さを楽しめるはずだ。

 また温泉に行きたくなってしまった。

指命献花

 昨日の東日本大震災二周年追悼式で、海外の国や地域の名前を読み上げる指命献花において、「台湾」の名が呼ばれたことに中国がクレームをつけている。

 中国外交部は「我が国の台湾地区も日本国民に支援を提供した」が、日本は(その一地区の)台湾を他の国家と同様の扱いをしたことに「断固反対する」としている。

 多くの日本人が承知していることであるが、台湾は大震災の後どこの国よりも早く哀悼の意を示し、しかも莫大な支援金を提供した(中国よりもはるかに巨額であった)。WBCでも日本人は台湾に対して好意的であり、台湾の支援に謝意を示したことが台湾でも大々的に報じられていた。

 管官房長官はこのクレームに対して、「日本が台湾の支援に対して謝意を述べたことを否定的にとらえるというのは遺憾である」とコメントした。中国は台湾を併合したいのだろうが、このような態度を見れば、台湾の国民の心はますます中国と離反することになるだろう。これを知れば世界は中国をさげすむだろう。中国の正義には人の情がない。

 中国の慢心の表れだと思う。

 本日は病院で手の包帯の除去と傷口の消毒を行った。手術跡を初めて見た。縦に切開したものとばかり思っていたら横に3~4センチの傷であった。傷口は順調にふさがっているが、手は動きの大きなところなので万全を期して抜糸は来週にする、とのことであった。包帯は巻かず、大きな絆創膏だけになった。もう少しの辛抱だ。

葉室麟「春風伝」(新潮社)

 春風とは高杉晋作のことである。長州藩士・高杉晋作の本名は高杉春風。晋作は通称である。高杉晋作が他の幕末の志士とは毛色が違っていたことはよく語られているが、どこがどのように違っていたのか詳しいことは知らずにいた。その事績もいくつか知っているもののその時間的位置づけがよく分からないためにその役割が分からない。

 小学生のとき、高杉晋作が主人公の時代劇ドラマがテレビで放映されていた。時代劇だから毎回必ず立ち廻りがあったので、剣が強かったという印象が強いが、歴史的な話の記憶は全くない。

 母が女学生時代に演劇で高杉晋作の役をやったと話していた。勝海舟や福沢諭吉とともに咸臨丸でアメリカに行った話だったと言うが、もちろん高杉晋作は咸臨丸には乗っていないし、アメリカになど行っていないので、彼が上海へ行ったことと混同しているのかも知れない。

 この本で高杉晋作に抱いていたイメージがあまり間違っていなかったことが分かった。坂本龍馬とともに明治時代まで生き残って欲しかった人物の一人である。高杉晋作は二十七歳で死んだ。彼が死んだ後、その年の末に大政奉還が行われた。それを画策したと言われる坂本龍馬と中岡慎太郎は王政復古の前に凶刃に倒れた。

 高杉晋作や坂本龍馬には政治的野心はなかった。世界の中で日本が置かれている状況を理解し、狂乱の時代に現実的に出来ることを命がけで行った。彼等は明治維新が達成されたならば外交官や交易の仕事をしたであろう。それが彼等の望みであり、それを通じて日本を列強から護ろう、強い国にしようとしたであろう。

 高杉晋作は他の草莽の志士たちと違って比較的に身分が高く、世子の毛利定広の小姓を勤めたことから藩主や世子と直接口を利くことのできる立場にあった。このことが長州藩を襲った二度の長州征伐から長州藩を救った。馬関(下関)での四国艦隊との講和交渉と、長州征伐での奇兵隊の創設が彼の晴れ舞台のときであった。彼のような男がいたから長州藩の藩主親子は版籍奉還のときに率先して朝廷に版籍を奉還したのであろう。

 葉室麟はこの夭折した魅力ある男・高杉晋作を心から慈しみつつ哀切の筆を持ってその生涯を語り尽くした。特に上海での高杉晋作の目を通しての中国の様子は極めて分かりやすく、そこで語られる物語は素晴らしい。日本がそのときどんな状況にあるのか、それは国の外に出ないと分からない。この時、中国の体制を打破しようとしていた人々の思いと、高杉晋作の思いはシンクロしていた。それがその後大きく乖離してしまったことに歴史の不条理さを感じる。

 尊皇攘夷を売名や立身の道具と考えて行動した多くの人間たちの中で、本当に国のことを考えていた一人の天才・高杉晋作がこの本によって私の中で明確に位置づけされた。

2013年3月11日 (月)

山本夏彦・山本七平「意地悪は死なず」(WAC)

 山本夏彦1915-2002、山本七平1921-1991。ともに山本だが縁戚関係はない。この本は「山本夏彦とその時代②」で、内容はほとんど二人の対談である。山本七平は出版社・山本書店の店主で評論家。イザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」を出版したことで有名。死ぬまで自分がイザヤ・ベンダサン本人であると認めなかった。この人の「私の中の日本軍」、「『空気』の研究」、「『常識』の研究」などにはおおいに啓蒙された。

 この二人のような生き方、考え方が私にとって手本にしたい生き方であり、考え方なのだが、素養のレベルが違うので、猿まねしかできない。

 新聞や正義などを痛烈に批判するその言葉に溜飲が下がる。損得を越えたものに価値をおいている数少ない頑固爺たちである。フェミニストや人権主義者、平和主義者はこれを一読するや激怒するであろう(山本夏彦は女性に参政権など要らない、と公言した過去を問題視されて、受賞が内定していた賞を女性代議士によって取り消されたことがある)。

 偽善者を嫌悪すること甚だしいが、それ以上に嫌いなのが、自分が偽善者であることに気が付いていない愚かな偽善者なのだ。ご両人はそれを暴き立てて罵倒するのだが、多分バカにされている当人は自分のことだとは気が付くまい。テレビを見ていたらぞろぞろ出てくるではないか。勿論この爺さんたちはテレビなんか嫌いだからあまり見なかっただろうけれど。

祖父母の匂い

 父方の祖父母は私が生まれる前にもう亡くなっていたので、私にとって祖父母というのは母方の祖父母である。友だちには祖父母が二組あると云うのを知ったとき、はじめはなかなか理解出来なかった。

 私が小学校に上がったばかりの頃、母が大病して一年ほど寝たきりになった。いわゆるペニシリンショックというので、死んでもおかしくなかった。父はまだ幼かった弟と私の面倒を見ながらよく頑張ったと思う。

 家がそんな状態だったので、よく私は祖父母の家に行った。祖父母はバスで一時間ほどのところに住んでいた。夏休みの絵日記を見るとほとんど祖父母の家で過ごしていたことが分かる。二人とも明治生まれ、頑固そのもので、孫だからと行って甘やかすどころか父や母よりしつけにうるさかった。それが嫌だと思わなかったのはお互いに祖父母と孫、というより親子に似たものを感じていたからだろう。

 いまでも思い出すのは、夜、祖母の布団にもぐり込んで祖母のしなびかけた乳房を触ると安心して眠れた。祖母は生前よくそのことを嬉しそうに話したが、私は「忘れた」といつも言った。

 時々祖父の布団にももぐり込んだ。そうすると祖父は必ず話をしてくれる。祖父は謹厳だが教師をしていたくらいだから話がうまい。祖父は田舎生まれで、狐や狸が人を化かした話が得意だった。特に「オバラクトウカ」という、狸にだまされる男の話はとても恐ろしいような、それでいてとてもおかしい話で、何度聞いても面白かった。題のついている話なのだがどんな字を書くのか聞きそびれた。

 祖父母の布団に入ると祖父母の匂いがした。気持ちが安らいで懐かしいような匂いがした。

 いまならノネナール(加齢臭)の臭い、などと毛嫌いされる臭いなのだろうが、子供はそんなに不快に感じないものだ。

 山本夏彦という人の本を読んでいるとその祖父母の匂いを思い出す。子供に西遊記(子供向けの生薬ではなく本物)を読み聞かせていた話などを読むと祖父母を思い出す。

 思えば私が布団にもぐり込んでいたころの祖父母の歳を私も越えようとしている。

三回忌

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東日本大震災から丸二年。今日は震災や地震で亡くなった方々の三回忌である。昨年三月の後半に、一年後の津波の被災現場、宮城県石巻を訪ねた。荒涼としたがれきの中に立つと、吹き付ける冷たい風と共に何かが身に迫ってくるのを感じた。自分に出来るのは、そしてしなければならないのは、彼等を忘れないことだと思っている。

震災の年の五月に父が逝った。だから今年は父の三回忌でもある。

2013年3月10日 (日)

映画「ブレーキ」2012年アメリカ

 監督ゲイブ・トーレス、出演スティーヴン・ドーフ、トム・ベレンジャー。ほとんどがスティーヴン・ドーフの一人芝居である。

 立ち上がることも出来ない狭い空間に閉じ込められた状態で男は目覚める。やがて彼がシークレットサービスの男で、彼だけが知る極秘情報を聞き出すために何ものかに拉致されたことが明らかになる。横たわる男の目の上にはデジタル数字が時間をカウントする。そのカウントがゼロになるたびに彼には危機的状況が訪れる。繰り返されるその恐怖のカウントダウンの中で男は必死で情報を集めようとする。やがて気配から自分が車のトランクの中にしつらえられた箱の中にいることが分かる。

 無線や携帯からもたらされる外部の断片的な情報により、自分が深刻な、そして危機的状況にあることが明らかになる。ついにいま別居状態の妻にまで魔手が伸びようとすることを知ったとき彼はどうしたか。

 一瞬でも緩んだらこの話はぶちこわしになってしまう。映画の最後の最後まで緊張感を持続させる監督の手腕と俳優の演技はさすがだ。

 一回こっきりの映画だがかなり楽しめる。

「『知』の挑戦 本と新聞の大学 Ⅱ」(集英社新書)

 第六回の講義は政治学者中島岳志氏による橋下徹現象の解析である。内容的にはその通りだと思うが、橋下徹が大阪市や大阪府の弱者の権利という錦の御旗を引きずり下ろした命がけの行為を、このような論理的な解釈をしたところで大阪の市民には何も意味がないような気がする。これが政治学者の限界か。いつまでこんな狼少年のような言説を唱え続けるのだろう。繰り返し言うが国民は馬鹿ではない。橋下徹がヘンな方向に向けばみんな間違いなくそっぽを向くから心配は要らない。

 第七回は落合恵子の講義である。前半の自分の母親の介護の話はよかったが、後半は流行遅れのフェミニストを見ているようで哀れを催す。しかしこう云う人達が社会の底辺を支える力になっていることは確かなので反省。

 第八回はご存知浜矩子女史の経済学講義。いささか悪意でとれば講義の準備が足らなかったので、質問に当意即妙に答えることでお茶を濁したような気がする。この人はアメリカ経済がどんどん右肩下がりになる、と決めているようで、アメリカ流のグローバルを真っ向から否定する。果たしてその見立ては正しいのか。

 第九回は生物学者の福岡伸一氏の講義である。生物学や科学についての講義よりも、彼がのめり込んでいるフェルメールについての蘊蓄と細部に亘る観察から導かれる推察がとても面白い。

 第十回は再び一色清氏と姜尚中氏による対談で、全体の総括を行っている。個別の講義をふり返りながら、まとめているのだが、二人も認めている通り、テーマのわりには不十分な講義に終わった、という感想が否めない。「知」への挑戦、がこんなに短時間の講義でかなうとはとても思えない。それは知的好奇心を持ち続けるということに尽きるだろう。そのきっかけにこの二冊の本がなるかどうか、玉石混淆だが受け取る側に意欲があれば何らかの収穫はあるはずだ。

「『知』の挑戦 本と新聞の大学 Ⅰ」(集英社新書)

 2012年3月に朝日新聞社と集英社が創設した「本と新聞の大学」の全10回の講義を収録したものでⅠとⅡの二分冊になっている。

 Ⅰの第一回は講義全体のコーディネーターである、朝日新聞の一色清氏と姜尚中氏の対談である。ここでは日本人は三つの不信に陥っているとしている。科学技術に対する不信、資本主義に対する不信、民主主義に対する不信である。これは社会の成長が止まり、下降局面が見えたことによる不安から生じている。そしてそこから抜け出すためには総合知が必要であると云う、この講義の目的を語る。

 第二回は新聞の役割について朝日新聞で原発事故を詳細にレポートしている「プロメテウスの罠」の記事を主管している依光隆明氏が講義する。東日本大震災の後、新聞は「大本営発表」ではないか、と批判された。テレビも含めてだが、ほとんどの記事が政府や東京電力、関係諸機関の言うことをそのまま伝えるだけだったことを批判されたのだ。大方の実感であろう。情報には間接情報と直接情報があると云う。間接情報について情報内容についての責任はメディアに及ばない。しかしメディアが現地で収集した情報についてはその責任はメディアに帰する。新聞は無意識に責任回避することになれすぎてきた。それが間接情報にばかり偏る結果になったのかも知れない。その反省から全てを直接情報に基づき全責任を追う形でレポートしているのが「プロメテウスの罠」だという。これについてはすでに本として刊行が始まっているので、いつか読んで見たい。

 第三階は政治学者の杉田敦氏による政治学についての講義である。社会学同様私には何が言いたいのかよく理解出来ない。「だから?」といつも思う。講義の後に姜尚中氏が質問して、今回原発事故の真実の状況を官邸が伝えなかった理由が「本当のことを言うと国民がパニックになるおそれがあるから」だといわれる、と云う点からいまの政治状況を問うていた。鋭い指摘であり、これが民主党の本質的な国民蔑視の思想なのか、日本の政治そのものなのか知りたいところだ。杉田氏は日本の無責任体制に言葉をすり替えているが、違うところに答があるような気がする。

 第四回は中国問題について朝日新聞の加藤千洋氏が抗議を行っている。中国経済がこれからも右肩上がりかそれともピークを過ぎたとみるか、いくつかのポイントから述べている。もちろん未来のことは分からないからいまある問題点を羅列しているのだが、朝日新聞らしくて結局中国と仲良くしましょうに話は落ち着いてしまう。危機感があまり感じられないのは会社の美容器みたいなものか。それともあまりはっきり云うと日本国民がパニックになるのを心配してくれているのか。

 第五回は科学者の池内了氏が科学について講義する。科学には限界があり、二面性があること、それが正しく認識されないことで科学に対して不信感が生じている。そもそも科学には予知不可能なことがある、という当たり前のことを見失い、予算をもらうことを目的として地震予知が可能だと喧伝したことは間違っていたと断言する。これは火元の東大の地震研究所も渋々認めていることだ(原発の安全神話も同様な構造を持っているような気がする)。西洋の哲学思想から発した科学が要素還元主義の限界に突き当たっているとき、現実の人間世界と科学の関係の再構築をどうするのか、池内氏は模索しているようである。

 第六回から第十回はⅡに収録されている。

2013年3月 9日 (土)

映画「ロンドン・ブルバード」2011年イギリス・アメリカ合作

 監督ウィリアム・モナハン、出演コリン・ファレル、キーラ・ナイトレイ、スティーヴン・グレアム。

 こう云う映画、好きである。

 重傷害罪で三年間服役したミッチェル(コリン・ファレル)は、二度と刑務所に戻らないと心に決めているのだが、元の仲間のビリーは裏社会の仕事を世話しようとする。ようやく大金持ちで元女優シャーロット(キーラ・ナイトレイ)をパパラッチたちから護るという堅気の仕事にありつくのだが、ビリーは自分の仕事を手伝わせようとする。仕方なくビリーの借金取り立ての仕事を手伝う中で、その度胸と腕っ節がギャングのボスの目にとまる。

 その仕事先の邸宅の絵画や高級車にまで目をつけたボスは強引にミッチェルを誘い込もうとするのだが、ミッチェルは頑としてはねつける。それに怒ったボスの凄惨な報復が始まる。いまは倒すか倒されるかに追い込まれたミッシェルの反撃が開始される。

 絶体絶命に追い込まれたミッチェルのクールな反撃とその結末はフランスの暗黒映画を見ているようだ。

 繰り返すがこう云う映画、好きである。

終末論の如きもの

 人類はいつか滅びるという考え方がある。それを終末論という。キリスト教ではこの世の終わりが来るとき神によって最後の審判が下されることになっている。

 昨年はマヤ暦にもとづいた世界終末論が騒がれて、中国では騒ぎを扇動したとして多数の逮捕者が出るほどであった。日本で終末論が盛り上がらないことが中国で話題になったりした。日本は東日本大震災で未曾有の体験をしたことでかえって終末論のようなものに現実味を感じなくなっていたのかも知れない。

 そういえばノストラダムスの大予言も終末論のようなものだった。そして2000年問題のときも大変なことが起きると騒がれていた。

 いまあらためて考えると、想定外の、千年に一度などと言われる東日本大震災があり、にわかに東南海地震や首都直下型地震が想定される事態は日本にとっての大変な危機である。

 そして東日本大震災で生じた福島第一原発の事故は起こるはずがないと云われていたものだった。あの事故で放出された放射能は今後どのような実害につながるのか誰にも分からない。それによって明らかになったことは原子力発電所というのは何万年という長期に亘って放射能を帯び続ける廃棄物を出すものだという事実であった。そしてその対策に対する適確な答えを人類は持っていない。

 北朝鮮は朝鮮戦争の休戦協定を白紙に戻すつもりだ、と一方的に宣告した。みたび行った核実験をまた実施するのか、長距離ミサイルを飛ばすのか、戦争行動に踏み切るのか、落としどころを想定しない無謀な方向に進もうとしているように見える。

 中国は大気汚染、河川や海の汚染、農地への大量の農薬や肥料の投下による汚染を歯止めなく行っている。PM2.5という象徴的な数値だけではなく、あの大都市での濃霧を見れば事態が深刻なことは誰の目にも明らかだ。しかしそれに対して有効な対策が打たれているとは思えない。

 実は日本でも終末論が盛んに唱えられていた時期があった。冷戦による核戦争の不安はともかく、公害による実害(水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく等々)が、間違いなく公害によるものだと次々に明らかにされた頃だ。工業生産が急拡大し、人々の暮らしがよくなって日本が希望に満ちていたときだ。気が付けば工場の煙突から立ち上る黒い煙や自動車の排気ガスで空はいつもどんよりと曇り、川はゴミにあふれ異臭を放っていた。

 野坂昭如たちが「終末(だったと思う)」という月刊誌を出版し、科学至上主義を批判し、警告を発した(一年足らずで廃刊に追い込まれたが)。日本人が科学に懐疑を持ち始めた時代だった。思えばスーパーサイエンスとかオカルトなどがブームになるはしりだった。それが極端にはしったのがオウム真理教だった。だから彼等がハルマゲドンを唱えるのは当然なのだ。

 いま日本を取り巻く状況を考えると、中国は尖閣周辺でいつでも交戦する用意があるといい(そのときの責任は日本にあると一方的に決め付けている)、北朝鮮は休戦協定を白紙にしていつでも戦争を開始する用意があると云い、巨大地震が間もなく来る可能性があると云い、中国からは汚染物質が飛来する。そして被災地の汚染除去は遅々として進まない。

 人類の、特に日本人の科学に対する信頼は大きく損なわれ、特に科学者、有識者という人達への信頼はほとんど失われてしまった。そして信頼回復の方策をいまだに見つけられないままである。

 それなのに日本に終末論が跋扈しないのは何故なのだろうか。不思議である。子供たち、そしてこれから生まれてくる子供たちの未来に希望はあるのだろうか。

寝たきり

 日本は世界一の長寿国だそうである。めでたいことだ。しかしただ長生きであることがいいことか。心身ともになるべく健康であることが望ましいことはもちろんである。出来るだけ長く自分の身の回りのことくらいは一人で出来る状態でありたい。しかし日本では介護施設で寝たきり状態の老人が三分の一いるのだという。

 同じように長寿の国であるスウェーデンは、寝たきり老人を減らすことに成功しているという。スウェーデンも以前は病院の大部屋に老人が寝たきり状態で横になっている姿がよく見られたが、福祉行政を国から地方自治体に移すことで大幅に改善されたそうだ。

 このとき、大部屋での介護を減らしてケア付き住宅や個室付きホームが整備された。自立しながら他人とコミュニケーションすること、週末だけでも家族と過ごす時間を持つことが出来るようにしたところ、寝たきりが激減したのだという。確かにスウェーデン映画を見ていると一人暮らしの老親を週末に子供たちが孫を連れて訪れる姿がよく見られる。このような習慣が定着しているのだろう。

 もちろんそのための税金負担は大きくなった。しかし誰もが必ず辿る道である。老後が不安である、と日本人は口をそろえて云う。お金をかかえて年をとっても不安が解消されるとは思えない。スウェーデンのようになることは夢なのだろうか。

 私の母は弟たちと同居して、全てを任せるようにした。弟夫婦は私と違ってとても面倒見がいいから、母のやることはほとんどなくなった。ときに何かを手伝おうとしてもやらせてもらえないくらいだ。それが本当にいいことなのか、にわかに衰えた母を見ていると贅沢な心配をしている。

 さて自分自身もその道へ踏み込もうとしている。行政に期待出来ないなら自分でがんばるしかない。覚悟は出来ているのだが。

2013年3月 8日 (金)

輸入品より国産品が安心

 乳児用の粉ミルクにメラミンが加えられていた事件で多数の死者を出して以来、中国で生産された粉ミルクは信用を失っている。そのため経済的に余裕のある人は輸入品を購入したり、香港まで買い出しに行ったりしている。そのために香港では香港市民に必要な量が確保出来ない状態となり、中国本土から来ている人間に対しての粉ミルクの販売量の制限をすることになった。ドイツではすでに中国向けの粉ミルクの出荷制限が実施されている。

 この状況が中国当局に対する不満の象徴ともなっているのだが、このたび国家質量監督検験検疫総局の副局長が次のような報告を行った。

 中国各港の検査検疫部門が実施した輸入乳製品の2012年の不合格率は0.76%、同局が実施した国産乳製品の不合格率は0.26%であった。問題の見つかった製品については全て処理されており、中国市場に流通していない。よって国産品を購入しても問題ない。

 国産の方が輸入品よりも安心なら、中国の乳児をかかえている母親はさぞ安心だろう。これで輸入の粉ミルクはあまり売れなくなる・・・・筈はないだろう。

 そもそもメラミン入りの粉ミルクを認可していたのはどこなのだ。平然とこんなインチキ臭い検査結果(出荷時の検査はどこの国も中国よりは間違いなく厳格に行われているはずでそれが0.76%の不良というのは考えにくい)を発表したところで誰も信じられない、と思っているだろう。そして輸入粉ミルクの奪い合いは続くであろう。

不買運動

 韓国で日本製品の不買を呼びかける動きが起こっていると報道されている。例によってえげつないパフォーマンスも繰り広げられているようだ。心ある人にはかえって逆効果だろうと思うが、相変わらずだ。

 理由はもちろん竹島問題だとされているのだが、どうもおかしい。繰り返し述べているように日本は何も具体的な実力行使を韓国に対して行っていない。どう考えても韓国側がエスカレートする理由がないのだ。ということは不買運動をするために竹島問題を理由として挙げている、ということも考えられるのではないか。

 韓国はいま日本の円安に対して急激なウオン高である。ウオン高になれば輸出での利益は激減する。韓国の企業収益の75%が財閥系企業の収益であると云われる。ほんの一握りの企業がいままでかせいで韓国経済を潤してきた。

 最近日本でも時々見かけるようになった現代自動車だが、株価が高値をつけた昨年5月と比べ20%以上下落して、時価総額で一兆円以上を失ったそうだ。韓国では圧倒的に国産車のシェアが高い。しかも価格も高値維持なので収益も極めて高い。その高収益をベースに薄利多売方式で海外への拡販を進めてきた。その海外への拡販がこのウオン高により、会社の収益の足を大きく引っ張ることになったのだ。その上ウオン高により欧米のメーカーが一気に拡販を始めており、続いて日本車も攻勢をかけている。2013年の韓国のカーオブザイヤー大賞は日本車の「カムリ」だった(もなさんのブログにもあつたが、中国でも人気の日本車のようだ)。

 この情勢は現代自動車に限ったことではないだろう。となれば、日本製品不買運動の仕掛け人は誰なのか、およそ見当がつこうというものであろう。

映画「蜘蛛女」1994年イギリス・アメリカ合作

 監督ピーター・メダック、出演ゲイリー・オールドマン、レナ・オリン、ジュリエット・ルイス、ロイ・シャイダー。

 リアルタイムで劇場で見た映画で、強い衝撃を受けたことを覚えている。あらためてじっくり見たらストーリーをほとんど忘れていた。こんな映画だったのだ。インパクトのあるシーンだけが記憶にある。

 ところでなぜこの映画の邦題が「蜘蛛女」なのだろう。原題は Romeo Is Bleeding で主人公の女好きを表しているのだが、どこにも蜘蛛を思わせるものはない。獲物をがんじがらめにする、と云う意味だろうか。ちょっとひねりすぎの題である。

 主人公の悪徳刑事(ゲイリー・オールドマン)は女好きで、愛する妻がいるのに愛人(ジュリエット・ルイス)を囲っている。そのような快適な生活を続けるためにマフィアに捜査情報を漏らし、報酬を得ている。彼がFBIのかくまう証人の居場所を密告したために保護していたFBIの捜査員たちまで証人ごと殺されるという事件も起こり、刑事はやり過ぎだと抗議するが、かえってマフィアから脅され、自分が深みにはまりすぎていることに気が付く。

 マフィアのボス(ロイ・シャイダー)の片腕で凄腕の殺し屋でもある女(レナ・オリン)がFBIに逮捕される。再びマフィアから居場所の情報要請があり、それを密告するのだが、FBIは情報漏れを疑っていた。マフィアが情報の場所を襲撃したときには女は移送された後であった。

 この事態に身の危険を感じた刑事だったが、なんとその女がFBIから逃走したことが判明する。マフィアのボスは期日を決めてその女を始末するよう刑事に命じる。恐れていた以上の状況に追い込まれた刑事だったが、なんとその刑事に女が接触してくる。

 ここから凄まじい展開になっていくのだが、これを話すとネタばらしになりすぎるのでここまでとする。

 ゲイリー・オールドマンが素晴らしい。成り行きで生きているのに自分で自分の生き方をコントロールしているつもりの男の身勝手さがいやらしく描かれている。あの名作「レオン」のいやらしい麻薬中毒の悪徳警部の原型がここにある。

 そして何よりレナ・オリンという女優の体当たりの演技がこの映画の成功の全てである。生への執着のすさまじさ、そして彼女の狂気の高笑いは背筋を凍らせる。

 ジュリエット・ルイスの演じる単純な女の可憐さが哀しい。彼女の演技で、この悪徳刑事がただの女たらしではなく、本当に女に好かれる男なのだと言うことが分かり、冒頭のシーン、そしてラストのシーンの哀しさが伝わることになるのだ。

2013年3月 7日 (木)

貧乏暇あり

 一日は長い。だから本を読んだり映画を見たりするのに使える時間はふんだんにあるはずなのだが、計算される時間の半分もそれに使われていない。

 何をしているのか・・・・ぼんやりしている。ぼんやりとしていることに気が付いてびっくりすることも多い。ぼんやりしているくらいだから何も考えていない。ただ時間だけが経過している。

 ぼんやりしている無為の時間を人生のムダだと考えれば思ったより人生は短いのかも知れない。そのぼんやりを埋め尽くそうともがく人もいる。限られた時間を無駄にしたくないのだろう。そのエネルギッシュなことには敬服する。その差は大きく現れるだろう。勝ち組になるのはそのような人たちなのかも知れない。

 でも何となくぼんやりしている時間に自分の中で貴重な何かが行われているような気がしないでもない(沈黙こそが会話に深い意味を与えるように)。それにけっこうしあわせな時間でもある。

 だから私はぼんやりを撲滅しようなどとは心がけない。金もかからないし。

 でも最近ちょっと度が過ぎるような気もしている。

映画「決闘の大地で」2010年アメリカ・韓国・ニュージーランド合作

 監督イ・スンム、出演チャン・ドンゴン、ケイト・ボスワース、ダニー・ヒューストン。

 これぞカルト映画。

 最強の剣士、チャン・ドンゴン(役名は忘れた)は敵の一族を皆殺しすべし、という命令を破り、ただ一人の生き残りの赤ん坊を助けてしまう。そのために味方に追われることになる、というのが出だしだ。赤ん坊を連れた抜け忍のカムイみたいだ。

 彼は赤ん坊を連れて海を渡る。辿り着いたのがアメリカの西部、砂漠のまん中のゴーストタウンみたいな町だ。町には遊園地(カーニバル)と作りかけか壊れかけか分からない大きな観覧車がある。

 ドンゴンはこの町に自分と同じように組織を抜けた友のような男を訪ねたのだがその男はすでに亡い。その男の開いていた洗濯屋を細々と引き継ぎ、生まれて初めてまともな仕事を始める。

 この町を定期的に襲って来る男たちがいる。軍服を着ているのが(ダニー・ヒューストン、いやらしいことこの上ない)リーダーなので南軍崩れかも知れない。これは七人の侍(荒野の七人か)のパロディと思われる。ドンゴンがこの町に現れる前に襲われたとき抵抗して撃たれ、奇跡的に生き伸びたケイト・ボスワース(美人)がんごんの世話を焼く。

 そして再びその男たちが町を襲う。ということで、いままで言いなりだった町の連中やカーニバルの連中がついに立ち上がり・・・というのはおきまりだが、ちょうどその頃、ドンゴンを追ってきた暗殺集団がついにその行方を突き止めて町に向かいつつあった。

 三つどもえの凄絶な闘いが始まる。この戦闘シーンは見事だ。これが見たくてこの映画を見ているようなものだ。韓国の映画の戦闘の特撮シーンは素晴らしい。

 そして闘いの後ドンゴンは一人町を去って行く。「闘いは終わったのではない。これが始まりだ」という言葉を残して。そしてさらにおまけの戦闘があってエンドクレジットとなる。

 精神性や哲学なんか何もない。ただ面白ければ良いという映画もある。いいんじゃない?

映画「ブラッドレイン 血塗られた第三帝国」2012年アメリカ・カナダ・ドイツ合作

 監督ウーヴェ・ボル、出演ナターシャ・マルテ、マイケル・パレ。

 久しぶりひどい映画を見た。役者は大根、台詞が陳腐、アクションも特撮も低レベルと救いようがない。79分の映画なのに長い、長い。耐えられないので後半は早回しで見ていた。短い映画だから我慢して最後まで見たが、これが劇場だったら金返せ、といったかも知れない。無意味な女の裸のシーンがあり、無意味なバラバラ死体が出て来て、悪趣味ことこの上ない。

 特にマッドサイエンティストの医師が役者はへたくそな上に声が不快、その医師のキャラクターも、ふざけているのか、と怒りを覚えるほどステレオタイプで、しかも突き抜けていないからカルト的な救いもない。

 この映画は発禁にすべきだ。

2013年3月 6日 (水)

100年インタビュー・梅原猛

 NHKBSの100年インタビューという番組で、久しぶりに梅原猛のお説を拝聴した。

 現代社会は西洋哲学を基調とした精神で成り立っている。しかしその文明は限界に来ている、と梅原猛は言う。特に東日本大震災、そして特に原発事故がその象徴であるとする。

 西洋哲学ではない哲学を模索しなければならない。その手がかりが日本の「草木国土悉皆成仏」という精神だと提唱する。この精神は縄文以来の日本人の精神でもあり、さらにインドを発祥とする仏教と出会い、形作られたものだ。成仏するのは人間だけではない、生けとし生けるもの、さらに自然や人工物ですら生命があり、成仏出来る、という精神だ。

 宮崎駿の世界観(特にもののけ姫)をイメージすると分かりやすいかも知れない。

 梅原猛は京都大学で西洋哲学を学び、研究を行った。その後西洋哲学に限界を感じ、日本文化の研究を行い、さらに仏教の研究、そして日本古代、特に縄文文化、アイヌ文化の研究を行った。昨年私は青森の三内丸山遺跡を訪ねたが、梅原猛はこの発掘にも大きく関わっている。

 東北の精神にはこの縄文人の精神が大きく引き継がれている、というのが梅原猛の考えだ。そしてそれを代表するのが宮沢賢治であり、彼の童話こそ「草木国土悉皆成仏」を表現したものだという。この意見には同意したい。

 現代社会は利己主義の世界である。しかしそれでは人類に未来はない。利他という考え方、布施の精神が肝要だ。布施には物施と、法施とがあり、法施のほうがより高次の布施であると云う。

 私は被災地への慰問に行く芸能人たちが、歌や芸能で被災者を楽しませているのを見て、そんな事よりチャリティーをしてその金を寄付する方がいいと思っていたので、法施の話にあっと思った。

 日本の精神とは何か。そして人類の未来の限界を突破するにはその日本の精神が見直されなければならない、という説には絶望の中のかすかな希望のようなものを感じる。ほとんど期待出来ないけれど、もしかして、と思わせるものがある。

 若い頃、梅原猛の「隠された十字架 法隆寺論」を読んでこの人の虜になり、本をだいぶ集めた。全集も半分以上持っている(でも読み通したのは半分くらいか)。三内丸山遺跡に行ったのも彼がきっかけだ。

 彼はいま88歳。西洋哲学を乗り越えて新しい哲学大系を作り出そうとしている。もともと彼のライフワークでもある。そのためにプラトンからハイデッガーまでをもう一度じっくり読み直しているという。96歳くらいまでには完成させたい、という。その精神の強靱さには脱帽だ。
 
 哲学とは人間の生き方を考える学問だと梅原猛は言い切る。ここまで哲学に思い入れと信念を持っている哲学者はめずらしい。何となく嬉しくなるではないか。もう一度彼の著作を読み直したくなった。でも彼は常に進化しているので膨大な著作のどれを読もうか悩ましい。

手のひらを切られた

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 この表題では通り魔に襲われたみたいだが、当方の了解のもとに医者が手を切り開いたのだ。指を手術をするのかと思ったら手のひらの手術であった。

 手術台に載せられてまず左腕の肘から先を消毒する。ほとんど消毒液で洗うと云ってもいい。その後二の腕や手首の上をぎりぎりと締め付けられた。出血を抑えるためだそうだ。その後手のひらに麻酔の注射。これは痛かった。こんなに深くなくても良いのに、と恨めしくなるほど針が深くはいっていく。その後麻酔の確認のため針で突かれるのだがなかなか麻酔が効かない。先生も「おかしいな」と首をかしげている。追加に麻酔をしたらしく、ようやく手がしびれて何も感じなくなった。

 自慢ではないが、私は歯の麻酔のときも麻酔の注射を三本も打たなければ効かないほど麻酔に強いのだ(アルコールの過剰摂取のせいだそうだ)。

 その後はなにやら手のひらの上でざくざくと刃物が動いている気配があるのだが、見えないから何が行われているのか分からない(知りたくない)。腱鞘を一部取り除く、と説明されているのだが、何かが手のひらから無理矢理引きずり出される感じがしたあと「手術は終わりました」と言われた。

 その後、のんびりと世間話をしながら傷口の縫合が行われて本日は解放された。

 先ほど帰って来たが、まだ手がしびれている状態なので今のところ痛みはほとんどない。ただ何となく手のひらが温かくなってきた。麻酔が切れれば手のしびれもなくなる代わりに痛みが来るだろう。私は文化人だから痛みに弱い。どうやって気を紛らわそうか。

訊く相手が違う

 中国の大気汚染は収まる気配がない。これからいろいろ対策がとられることだろうが、ニュースを見ている範囲では抜本的な手が打たれるかどうか危ういところがある。弥縫策だけで手をこまねいていては健康被害は今後ますます増加するのではないかと心配である。

 日本への影響も無視出来ない状態になってきていて、テレビのニュースでは、昨日は熊本などで新たに基準値を超えた、と報じていた。

 熊本の市役所だろうか、市民からの問い合わせがいろいろあります、とインタビューに答えていた。

 中には「子供がぜんそく持ちなのだが、今日は学校に行かせても良いだろうか?」というのもあったそうだ。親としては心配なのだろうと心から同情する。

 しかしたずねる相手が違うのではないだろうか。役所ではその子供のぜんそくの程度や体力については何の知見もない。国の基準は、かなり安全を見ているからそんなに神経質に考えなくてもいい気もするが、長期間に亘った場合は影響があるかも知れない。だから注意を喚起しているわけだし。「そんな事は分からない」などと答えれば必ず非難を浴びるだろう。

 この親は問い合わせる先を間違えているのだが、これに類することがしばしば目につく。自分の頭で考えることなく、誰かに問い合わせて答を得ようとする、と云う気持ちの中に自己責任を見失っている日本人を見るような気がする。

 まさかこの親も役所に問い合わせて「問題ありません」という答を引きだし、後で子供が具合が悪くなったら役所の責任を追及する、などと云うつもりではないだろうと思うが。

 大気汚染は役所が引き起こしているわけではないから責任はないが、健康被害に対する問い合わせに答えた瞬間に、責任が生じる可能性がある。まことに常識を失うと人は誰かに責任をかぶせることに巧みになる。そしてマスコミはそれを正義という。

 本日午後に指の手術。日帰りだからたいしたことはないが、しばらく洗い物は出来ないだろう。食事は極力食器を使わないですむものにしなければいけない。そんなものを買い出しに行かなければ。

2013年3月 5日 (火)

記念の落書き

 北京市内の有名な観光地は、心ない観光客による落書きであふれているという。先日は故宮博物館の銅罐(多分防水用の水を入れていたという大きな銅製の壺のことだろう。冬場に凍結してしまわないように下は火がたけるようになっている。その表面が金鍍金してあったので、金無垢と勘違いしてイギリス兵やフランス兵が削り取ろうとした跡がいまでも残っていることで有名)に自分の名前を彫り込んだ輩がいたとニュースになっていた。

 故宮博物館の職員は、落書きなどに対しての明確な法律が整備されて居らず、気が付いたときに制止することしか出来ない、といっているらしい。

 観光地などへ行くと自分の足跡を記念に留めようとするのは人間の本能なのだろうか。日本の観光地にも落書きはそこら中に見られる。ただあまり乱暴なものは建物や文物を痛めてしまうことになり、取り返しがつかない。出来れば我慢して写真を撮る程度にして欲しいものだ。これについては中国人ばかりを責める気にならない。

Img293これが銅罐であろう。表面の無数の筋は英仏兵が削った跡である。さもしい。落書きよりずっと恥ずかしい記念物だ。



日本最古の石博物館

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七宗(ひちそう)町というところに日本最古の石博物館がある。七宗町は白川町の隣町で、道の駅も併設されている。以前から覗いて見たいと思いながら機会がなかった。

入場料300円を払って館内に入ると15分のビデオインフォメーションがある。それが終わったらタイムワープエレベーターに乗って石の展示場へ飛ばされる。楽しい。

Dsc_0030館内の様子。

Dsc_0033これが日本最古の20億年前の石。地元で発見された。けっこう大きなものである。

Dsc_0035ウミユリと三葉虫の化石。

Dsc_0037これはアンモナイトの化石。

Dsc_0040これは岐阜大学の隕石のコレクション。今、一時的ながら隕石ブームだ。

なかなか楽しめる博物館なのだが、入場者は私一人。案内の可愛いガイドのお姉さんが何人もいて、みな親切でやさしい。母方の祖父(頑固爺の師匠)がもともと地質学の専門の学校を出ていたので地学の教えを受けた。祖父は姫川の河原で翡翠の原石を見つけて担いで帰り(いまは持ち帰ってはいけないことになっているので注意)、一生懸命磨いていた。一時期は石をコレクションしていたこともあったが今はどこへいったやら。私もいろいろな鉱物を見るのは今でも好きだ。岐阜県には石の展示場が所々にある。立ち寄りをおすすめしたいが興味のある人は少ないようで残念だ。

映画「昭和残俠伝 唐獅子牡丹」1966年

 監督・佐伯清、出演・高倉健、三田佳子、津川雅彦、芦田伸介、池部良、岡崎二朗、菅原健二、水島道太郎、山本麟一、今井健二、花沢徳衛。

 出演者をもっと書きたいところだがキリがない。

 前にも書いたように東映の任侠映画はリアルタイムではほとんど見ていない。昭和残俠伝のシリーズはランダムにビデオを借りて見たのだが、シリーズ第二作目の有名なこの映画も初見である。意外なことに気が付いたのだがそれは後で述べる。

 出入りで旅に出た(つまり逃走したと言うこと)花田秀次郎(高倉健)と弟分の清川周平(津川雅彦)は宇都宮に滞在していた。秀次郎は左右田組の客人となっていた。周平は地元の小料理屋の娘・くみと恋仲となり、秀次郎のすすめもあって堅気になって一緒になろうとしたのだが、左右田組の親分・左右田寅松(水島道太郎)の息子、弥市(山本麟一)がくみに横恋慕をしたために二人で駆け落ちしようとする。だが左右田組に止められてしまい、秀次郎はそれを納めるため、左右田組の親分・寅松に詫びを入れるのだが、周平とくみには今後左右田組として手を出さない代わりに榊組の親分・秋山幸太郎(菅原謙二)を斬ることを強要される。

 尋常の勝負の上、榊組の親分を倒した秀次郎はそのまま服役する。三年後出所した秀次郎を迎えたのは今はかたぎになり、料理屋を継いだ周平であった。秀次郎がその足で向かったのは秋山幸太郎の墓であった。義理のためとは云え、心ならずも人を手にかけた行為を後悔して手を合わせるのだが、そこで出会ったのが秋山幸太郎の未亡人、八重(三田佳子)と遺児・和夫だった。榊組は幸太郎の死後、八重が必死で支えているが人数も減り、勢力が衰えているという。

 そもそも榊組はヤクザではない。石材請負人、つまり山持から山を借りて石(大谷石)を切り出すのが仕事である。その榊組の石工だった寅松はのしあがっていまは榊組に張り合う勢力となっていたのだ。のし上がるためにとことんあくどいことを繰り返し、いまは山まで持っているのだが、あまり良い石が出ないために榊組の借りている山を自分のものにしようと画策している。榊組の借りている山の持ち主は田代栄蔵(芦田伸介)で人格者であり、石材組合の会長をしている。彼は八重を陰ながら応援し、励ましている。寅松はまず榊組をつぶし、田代の山を自分の山にして会長に納まろう、というのが望みであった。

 おきまりの嫌がらせや徴発の繰り返しがあり、それがエスカレートしてけが人やついに死人まで出てしまう。

 秀次郎は、榊組を飛び出して大陸に渡っていた畑中圭吾(池部良)とともについにみちゆきとなる。

 雪の中を唐傘をさして左右田組を目指すふたり、そこへ「唐獅子牡丹」の歌がかかる。ぐっと来るところだ。

 左右田組の面々をばったばったと打ち払い、左右田寅松を討ち取ったところでめでたしめでたし。いまは八重の面影を胸に抱いて男秀次郎は去って行くのであった。

 気が付いたこと、というのは、そもそも寅松は悪人なのか、ということである。次々に悪辣な行為をしているのだが、それは実は誇張であって、抗争の中の小競り合いが、一方的に非難されているのかも知れない。歴史の記録などはほとんどそうである。いま中国が日本軍を極悪非道と決め付けているが、事実ももちろんあるがかなり誇張されていることはご承知の通りである。

 寅松は榊組の番頭格、直治(花沢徳衛)に「榊組の石工上がりのくせに」と罵られるが、それに対して寅松は「石工上がりで何が悪い。小学校もろくに行かずに子供のときからこき使われ、血を吐く思いで命がけで働いてきた。いつか自分は山持になってやる、と思ってここまで来たのが何が悪い」と答えている。

 山持で会長の田代、その子飼いの榊組が体制側だとすれば、左右田組は新興勢力である。新興勢力は既存の体制を倒そうとする。尋常の手立てでは体制は揺らがないのだ。つまり保守と革新の軋轢のストーリーと見立てることが出来る。秀次郎は体制側に立ち、新興勢力を悪の名のもとに切って捨てる保守の守り神なのだ。

 なぜ取りたててそんな事を云うのかというと、大学紛争のときに東大の立て看板に使われた有名な橋本治のキャッチコピー、

 とめてくれるなおっかさん、
   背中のいちょうが泣いている
     男東大どこへ行く

というのが思い出されるからだ。もちろんいちょうは東大のシンボルであり、本来は牡丹である。これは任侠映画、特にこの昭和残俠伝が意識されている。

 体制を破壊しよう、という運動のシンボルが実は体制護持のストーリーを称揚している、という矛盾に気が付いてしまったというわけだ。

 そんなこと誰かがとっくに言っているのかも知れないが・・・

補足・唐獅子牡丹の歌詞、二番

 親の意見を承知ですねて

 曲がりくねった六区の風よ

 つもり重ねた不孝のかずを

 なんと詫びよかおふくろに

 背中(せな)で泣いてる唐獅子牡丹

*六区はもちろん浅草六区。秀次郎は浅草生まれの浅草育ち。

**Wikipediaで確認したらキャストの記載に寅松を河津清三郎としている(かわりに出演者のリストには水島道太郎とある)。間違いであろう。水島道太郎が悪役というのは珍しい。

飛水峡

 犬山から木曽川を渡り、美濃加茂から支流の飛騨川に沿って北上すると峠を越えて高山に至る。その峠が分水嶺となっている。その飛騨川の、特に河原に石がごろごろあるあたりが景色が良いので飛水峡と呼ばれる。あまり車を停める場所がないので車窓から眺めるばかりなのだが、たまたま車を停めることが出来たところの景色をいくつか見て欲しい。もうちょっと絶景のところもあるのでまた機会があれば写真を撮るつもりだ。

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こんなに大きな石が上から流れて来るというのが信じられないといつも思う。

2013年3月 4日 (月)

ピアチェーレ白川

Dsc_0019ピアチェーレ白川に行ってきた。ピアチェーレ白川というのは国道41号線(名古屋から高山を経由して富山へ至る道路)にある道の駅の名前である。白川は名古屋から木曽川の支流、飛騨川に沿って北上して下呂に至る手前にある。おいしいお茶のとれるところだ。

 今日は自家用車の12ヶ月点検の日だった。それが済んだらそのままドライブしたくなり、北へ向かった。富山まで行こうかとも思ったが、出発が遅すぎるのでこの白川までとした。

 この道の駅はおしゃれで、正面のレストランの料理はとてもおいしい。外食は好い加減に済ますことが多いのだがここに来たときだけはちゃんとした料理を頼むことにしている。料理を食べてちょっと良いお茶を買い、ソフトクリーム(ここのは格別おいしい)を食べた。

道路を挟んで向こう側は飛騨川が淵になっている。

Dsc_0017もう雪解け水が流れてきているのだろうか。水量が春のようだ。

 ここからひきかえして飛水峡を眺めながら帰る。

 音楽を聴きながらドライブしているととりとめのないことを考えるが、それも楽しい。ひさしぶりに研ナオコを聞いた。

ホワイトアウトの恐怖

 北海道では昨日一日で吹雪による死者が9人も出てしまった。

 学生時代、大学の山小屋が蔵王の樹氷のすぐ下辺りにあり、そこに夕方一人で向かったことがある。何度か登った道であり、距離も知れていたのだが、吹雪に遭遇した。あと数百メートルの距離まで来ているのだが、方角が全く分からなくなった。時々一瞬だけ視界が利くときがあった。それを頼りに歩くのだが、しばらく歩いてまた視界が一瞬開けると先ほどまで向こうに見えていた山小屋が目の前から消えている。辺りを見回すとなんと真横に山小屋が見える。そんな事を二三度繰り返してようやく山小屋に辿り着いたが、視界の開ける瞬間がなかったら山小屋の手前で遭難していただろう。人間は視界がないと真っ直ぐ歩けない。山小屋に着いたら、ボタンをはめていたコートのポケットにどっさりと雪が入っていた。

 北海道の紋別で地吹雪を経験したこともある。地吹雪が吹くと道路には雪がなくなる。そしてとんでもないところに背よりも高く吹きだまりが出来る。そこへ突っこんだら一巻の終わりだ。

 昔仕事で北海道を歩いていたとき、北海道の峠などでは毎年吹雪に閉じ込められた車で、排気管から排気ガスが逆流して一酸化炭素中毒で死ぬ人がいると聞いていた。

 そんなときのことを思い出していた。

頑固爺さん弱る

 昨日はひな祭り。テレビで見た。我が家にもお雛様はあるのだが、娘のドン姫のために出して飾ったのは彼女がものごころつく前までだったような気がする。だから彼女は自分のためのお雛様を見たことがないに違いない。だからドン姫が見た雛飾りは全てよその家のものだっただろう。

 自己流に自由に生きることを選んだ(選ばざるを得なかった)ドン姫は誰にも頼らず強く正しく生きているようだ。

 先日声をかけたら久しぶりにやってきたのだが、生活時間帯が全く違うので、何となくぎくしゃくしてしまった。何となく面白くない別れ方をした。そう言えばドン姫に肩と首筋をマッサージしてもらうのを忘れていた。彼女はプロのマッサージ師だ。小さな手なのに力が強いので揉んでもらうとやや痛いくらいだが、そのあと肩と首が軽くなり、とても気持ちがいい。

 自分のブログがどうもマンネリ化しているような気がする。同じような話を饒舌に語り続ければ聞く方も飽きるだろう。伝える、ということについての思いが足りないのか、または過剰なので伝わらないのか、つまり聞きたくなるように話せていないということなのだろう。

 営業という仕事をしていたので、他人との調和を心がけてきた。ものを伝える、ということについてはいささかの自信はあった。しかし引退して他人に神経を使うことから解放された。もう少し働けたのにやめてしまったのはそれが望みだったからだ。世の中にますます不満をつのらせ、迎合を拒否して頑固爺いになっていくのを自分で実感している。テレビのコマーシャルがだんだん耐えられなくなってきた。男のくせにきんきら衣装を着けて踊る(私の祖父はチータカタッタといって嫌悪していた、頑固爺いの先輩だ)連中を見ていると虫酸が走る。

 その頑固爺い初心者も、何となく寂しいときもある。

    故郷に廻る六部は気のよわり

藤沢周平のよく引き合いにだす句だ。

 ちょっと頑固爺さん弱っている。

2013年3月 3日 (日)

合意することに合意する

 この言葉は内田樹先生に教えてもらった言葉で、以前にも述べた。

 話し合いや討論をすることに意味を持たせるためにはお互いがいつか合意する意志がある、という前提がなければならない。相手を無理矢理説得してやろう、絶対に自説は曲げないぞ、という信念を持って話し合いや討論に望むのはそもそも不毛だ、ということだ。これは言われてみれば当たり前のことである。何らかの合意が出来ますよね、とお互いが信じ合えるときに本当の話し合いが始まる。

 だから領土問題や歴史認識には合意を形成することがほとんど無理なこと、話し合いをすることに意味がないことが分かるであろう。それでも奇跡的にそれが可能であるのは、そのことは別の、それに見合う条件がある場合のみであろう。

 韓国との竹島問題や中国との尖閣問題に対して、安易に話し合いを提唱する人は、つまり相手の言い分を飲んで日本は引き下がりましょう、といっているのに過ぎない。韓国や中国が自説を曲げて妥協に応じるなどと思う人はいないはずだ。そんな事をすれば自国でどんな非難を浴びるか、それこそ命に関わるだろうからだ。

 領土問題を乗り越えるためには、だから何らかの条件が必要だ。いまロシアと北方領土について話し合いが出来るかも知れない、と感じられるのは、ロシアからそれに見合う条件が提示される可能性があるからだろう。シベリアの開発か、天然ガスの購入か、それがお互いに飲めるものならばまとまることになるだろう。

 そんな事を考えたのも、NHKの朝の討論番組での各党代表の話を聞いて、である。共産党と社民党は合意を形成しよう、という意思を持たないことがよく見える。先日福島党首を批判したのもそういう意味だ。合意を形成しようという意思がなく、一歩も譲らない、という信念を貫くが、それによって現状からの改善すら否定してしまうその不毛さが見るに堪えないくらい醜く見えるからだ。誰も相手にしなくなるのは当然だと思う。もちろん田嶋陽子女史のように職業的なパフォーマンスで演技しているのは愛嬌だが、実際の政治の世界ではまことに迷惑な存在にしか見えない。

橋川文三著「乃木伝説の思想」を読む

 評論随想集(小学館版昭和文学全集34巻)を拾い読みしている。前回の吉田満に続きこの文章を読んだ。それぞれ歴史的に評価された、内容の濃い文章ばかりなので感じたことを記録として残したいと思う。

 橋川文三は評論家で1988年に死去。戦後吉田満や安田輿重郎が戦争を賛美したり鼓吹したりした、と非難されていたときに、それを評価したことで知られる。人が世の中の風潮の尻馬に乗って、正義の名のもとに大合唱しているのに、そうではない自説を主張する見識と勇気には敬意を表したい。

 この「乃木伝説の思想」は明治天皇が崩御した後に、乃木希典が殉死したことを当時の文人たちがどう評価したか、そして乃木がなぜ殉死したのか、乃木の心情を忖度しながら、明治時代とは何だったのか、維新のときの志士たちの思いと実際に招来した世界との乖離を解析する。

 乃木が殉死したことの真の意味を理解する者はほとんどいなかった。ただ一人森鴎外を除いて。墓碑銘に森林太郎の名のみ刻すること、他の事蹟は一切書き残さないことを遺言した森鴎外の心情を乃木希典に重ね合わせる。

 ここで論じられている乃木希典にとっての明治時代についての絶望(そうは書かれていないが)は深い。そして日本は大正を通り越して後、昭和の戦争へと突き進んでいく。

 現代の日本人は乃木希典が殉死したことすら知らない人が多いであろう。そしてその事実とその理由については想像の外であろう。そしてそれは伝説になって消え去ろうとしている。しかし本当の意味は何だったのか、それをこのような論理的な文章で明らかにしてくれたことにより、知ることが出来た。大変有難いことであった。泉下の乃木希典も本望であろう。

映画「食堂かたつむり」2010年

 原作・小川糸、監督・富永まい、柴咲コウ、余貴美子、ブラザートム、田中哲司、満島ひかり、江波杏子、三浦友和。

 主人公の倫子(りんこ・柴咲コウ)は中学を卒業してすぐ村を離れ、東京に出て祖母の元へ転がり込み、好きな料理の修業をしながら金を貯め、自分のレストランをつくることを夢見てきた。その祖母も死に、インド人の恋人と知り合い、幸せに暮らしていたある日、その印度人に金も家財道具も一切合切持ち逃げされてしまう。残ったのは祖母から受け継いだぬか床と、レシピ集だけだった。ショックに打ちのめされて彼女は言葉をしゃべれなくなってしまう。やむなく田舎で小さな飲み屋をしながら一人暮らしをしている母親の元へ帰ってくる、というところまでが、歌と絵入りで一気に説明されていく。

 帰って来た村は通称おっぱい村と呼ばれるおっぱいそっくりの二つの山が見渡せる村だ。母親はその山の麓の洋館風のちょっとしゃれた家に住んでいる。倫子は「不倫の倫子」と回りから言われて育った。母親は平然とそれを肯定し、父親は誰か言わない。それが嫌で家を出たのだ。

 母親のルリコ役を余貴美子が怪演する。そう言えば原作の小川糸と云えば「つるかめ助産院」の原作者でもあった。あの南の島に一人でやってきて助産院を開くことになった亀子さんの役も余貴美子だった。彼女以外にあの役は考えられない。

 口の利けない倫子だったが、熊さん(ブラザートム)の助けを借りて、物置に使っていた離れを改造して「食堂かたつむり」をはじめる。予約制で一日ひと組限定の食堂だ。その食堂をめぐるいろいろなドラマがこの映画では描かれていき、倫子と母親のルリコとの関係が少しずつ変わっていく。

 どういうわけか柴咲コウの映画をあまり見ていない。ところがこのところ続けてテレビで彼女が語っているのを見てその魅力的であることを知った。そしてたまたまこの映画を見ようと思っていたら、昨日阿川佐和子の朝の番組にゲストとして出ていたのを見ることになった。こう云う巡り合わせもある。

 人はおいしいものを食べると表情が変わり、気持ちまで変わる。この映画では江波杏子が素晴らしい演技をしていた。女性はものを食べる姿を詳細に、しかも延々と見られるのはいやなものではないかと思う。あまりに性的な匂いがするからだ。それを承知でエロチックに演じていた彼女はすごい。もともと彼女の口許はエロチックだ。

 ルリコがペットとしてかわいがっているのが豚の「エルメス」なのだが、この豚が狂言回しとなり、ラストに大事な役目をする。

 口が利けない倫子がついにラストで口を利く、というのはお約束だろうが、さて、どんな言葉を発するだろうか。それともついに口が利けないままか。私は予想を外した。それも楽しい。予想外に良い映画だった。

2013年3月 2日 (土)

吉田満著「戦艦大和ノ最期(抄)」を読む

 著者は戦艦大和の、帰還を想定しない最後の出撃に士官として乗艦、艦橋付近にいて、大和沈没に際し海に投げ出されたが、奇跡的に助かった。

 全文が漢字とカタカナ書きである。確かに読みにくいが、その臨場感は迫力に満ちている。自分たちは何のために死ぬのか、繰り返し自分に問い、戦友に問い、答を求める姿に胸を打たれる。

 長さ二百七十メートル、幅四十メートル、乗員総数三千三百三十二名を乗せた鉄のかたまりは海に没したのである。

 哨戒長・臼淵太尉の言葉
 進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ 日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、本当の進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ イマ目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ

 彼等は大和とともに日本が敗れ去ることを認識していた。そして自分たちの死ぬことの意味も理解していた。彼等の魂に戦後の日本人は胸を張れるのか。

日下公人「日本精神の復活」(PHP出版)

 まるで渡部昇一か谷沢永一の本の題名みたいだ。

 著者は経済評論家。経済的視点から世界情勢や日本についての分析を書いてきた。どちらかというと観念的なものが多いが、交友関係も広く、その寄って立つ情報は好い加減ではない。とはいえ老齢になったせいか最近はますます観念的、断定的になって長谷川慶太郎みたいになってきた。

 しかしこの人の本を読むとちょっと元気が出るし、日本に希望がもてるようになることは間違いないので、時々服用している。

 この本では安倍新総理に大いに期待し、それを盛り上げるべし、と唱い、アメリカは没落し、中国も限界に来て、これからは日本がまたがんばるときだという。それは日本の勤勉さ、まじめさが世界の模範だからだという。

 文中に「本当の商売というのは、それぞれが競い合ってもっといいものをつくることである。『質』や『働く人間の成長』を重視しないマーケットは、アメリカの製造業と同じように独占利益と量産利益の追求で品質を低下させ、やがて人間の品質をも低下させる。それはいまの中国を見ていれば解る。」とある。心から同感する。
「まじめが一番」なのだ。

超革新

 保守と革新という。自民党が保守なら社民党は革新だろう。民主党は保守と革新が連合して保守でも革新でもない、何でもないものになってしまった、ということは置いておく。

 社民党はなにごともことごとく反対するのはご存知の通り。TVでマイナンバー制度と沖縄の普天間基地移設問題について、社民党の福島党首がいつものように口角泡を飛ばして反対を唱えていた。

 マイナンバー制度には年金や医療制度、税金の補足などに利便性を資する目的で導入しようという趣旨がある。個人情報の問題という難点があることはあるが、それはその問題が起きないような手当をすればよいことで、正しく暮らしている国民にとっては特に悪い法案ではない。ちゃんと税金を納めて少しでも国が助かることはいいことだからだ。

 しかし福島党首はいささかでも問題がある場合はそのような制度は導入すべきではない、と言い張った。本音のところでは国家が国民に番号をつけて管理をする、ということへの嫌悪なのだろう。しかし聞いているとそもそも税金遁れが出来なくなることに反対しているように聞こえてくるから不思議だ。同席した弁護士も猛反対していたから、弁護士(福島女史も弁護士である)というのは余程資産隠しに熱心なのか、顧客にそういう人をたくさん抱えていてその人たちの側に立っているのだろう。盛んに言い訳のように云うのはマイナンバー制度でも完全に補足出来ない、抜け道が残るということであった。では抜け道に詳しい彼女がそれを塞ぐ提案をすれば好いと思うが。

 要は問題点が残るから反対だ、と云っているのだが、では現状のままでいいのか。いまより少しでもよくなることは良いことではないのだろうか。

 沖縄の普天間基地移設問題についてもそうである。街中で危険だから移設しよう、というのがもともとの出発点であった。その普天間基地を日本に、つまり沖縄に返却し、多くの人員をグァムに移し、海兵隊とヘリコプター基地を辺野古に移そうというのが日米で合意していたことである。少なくとも現状維持よりは沖縄の負担は大きく軽減するし、危険も減るのは間違いない。ところが基地そのものが存在するのが間違っている、という論点の元に福島党首は移転反対だと云っている。つまり現状のままにするように、と云っているのに等しい。

 移転反対を唱えている沖縄県民の大きな勢力に普天間基地で生計を立てている多くの人がいることは公知の事実である。福島党首の主張は基地の存在で利益を得ている人を代弁しているようにしか聞こえなかった。

 革新とは現状を全く改善しないためにがんばることなのか。そんなはずはないだろう。それなら社民党は革新ではなく、超保守なのかも知れない。

朝の散歩

 時々朝の散歩をする。昨日は暖かかったのに今日は北風が吹いて手が冷たかった。

Dsc_0176水仙が咲いていた。テレビで水仙を見て女性アナウンサーが「花が咲いている」と云っていた。水仙という花の名前も知らないようであった。

Dsc_0190梅も咲き始めた。今年は遅い。

Dsc_0185蠟梅の花は終わり。

Dsc_0183木蓮の芽だろうか。春の支度が出来つつあるようだ。

Dsc_0187犬を連れて散歩している人が多い。

寒くても40分ほどせっせと歩くとうっすら汗ばむ。その後の朝飯が旨い。

映画「新宿アウトロー ぶっとばせ」1970年日活

 監督・藤田敏八、出演・渡哲也、原田芳雄、梶芽衣子、成田三樹夫、沖雅也、今井健二、地井武男。

 日活がロマンポル路線に転換する少し前の映画だ。この時代はちょうど学生時代で、当時は東映の任侠映画が人気を博していた。これは時代劇映画が下火になった後を受けてのものだろう。日本人は刃物の立ち廻りが好きなのだ。鶴田浩二や高倉健の映画がよくかかっていた。

 でも生来のへそ曲がりで、ヤクザがヒーローである映画を見たくない(と云っても藤純子の緋牡丹博徒シリーズだけは別で、これは全て見た)、と云うわけで日活の破滅型のアウトロー映画をよく見た。

 となれば渡哲也である。無頼シリーズや関東幹部会シリーズの虚無的なラストを震えてみていた。

 この映画は無頼シリーズと関東幹部会の狭間に作られた映画のようで、リアルタイムでは見ていない。監督は藤田敏八、日活ロマンポルノへの橋渡しの有名な映画「八月の濡れた砂」を撮った監督だ。傑作をたくさん残している。この映画も独特な虚無感がからりと描かれている。生への執着がほとんどない男たちばかりが登場する。

 刑務所を出所した西神勇二(通称死神・渡哲也)を待っていたのは松方直(原田芳雄)だった。直は勇二の力を借りたかったのだ。時価3000万円のマリファナを奪われた彼は、マリファナを用意した暴走族グループ(リーダーが沖雅也)に追われていた。マリファナを取り戻し、金も用意しなければならないのだ。連れて行かれた先で勇二は驚く。昔の愛人で自分の元から逃げだした笑子(梶芽衣子)がいたからだ。笑子の弟と直の二人で組んでマリファナの取引をしようとしたのだが、笑子の弟ごと消えてしまったのだという。勇二は笑子の弟はすでに殺されているだろう、と平然と言う。

 やがてプロの暴力団にマリファナが奪われたことが明らかになるが、敵の用心棒には警察上がりで勇二も恐れるサソリ(成田三樹夫)と呼ばれる男がいた。

 最後は敵のアジトに二人で殴り込みをかけるのだが、その戦闘シーンは意図的にリアリティをなくしたものにしてある。そしてラストは操縦士を失ったヘリコプターに乗って空の彼方へ去って行くところで終わる。

 そのヘリコプターが空の彼方へ去る姿に「終」の字がかぶさるのだが、再び映像に戻り、また「終」が現れ、一体終わりなのかまだ続くのか解らない。

 梶芽衣子も大好きな女優の一人だ。横浜の波止場のシーン(小林旭か石原裕次郎の日活映画をわざと意識しているのだろう)で渡哲也が小声で歌うのが「怨み節」なのがとても楽しい。この歌は梶芽衣子が主演した「サソリ」の主題歌で、梶芽衣子自身が歌っていたものだからだ。懐かしさにあふれた映画だ。成田三樹夫や地井武男、沖雅也についても云いたいがキリがないのでやめる。

2013年3月 1日 (金)

正しいことを貫く

 教師が親を訴えるという事件が報道されている。裁判では原告(教師側)の訴えていることは事実と認めたものの請求は全て却けられた。

 親は正義を貫いたことになり、さぞ快哉を叫び、夫婦親子で喜びに涙していることであろう。

 そして訴えた教師はあまりのことに裁判所を、そして社会を恨んでいることだろう。テレビのコメンテーターも、学校側の対応に問題があった、と云っていた。

 いま教師が激務となり、しかも理不尽な忍耐を強いられることが誰にも明らかになったために、教師のなり手が減っていると云われている。これで教師になりたい人がさらに減ったことであろう。

 教師は公務員であり、生涯の身分保障がされているので、就職難の時代には就職口として有利な職業のはずなのだが、それでもなり手が減るというのはゆゆしきことだ。さらに心配なのはどこにも就職出来ない能力の低い学生が、何の理想も持たずに「先生でもやるか」とか「先生にしかなれない」という「でもしか先生」になっていくことだ。

 いくら教育再生を叫んだところで教師の質が下がっては再生など出来るはずがない。

 ところで裁判に勝利した親は胸を張ってこれからも学校に対するクレーマーとして君臨していくことであろう。教師たちや学校はその子供を腫れ物に触るように特別に扱っていってくれるに違いない。

 この子の将来はバラ色だろう。・・・・多分。

歴史認識

 長崎県の対馬市の寺から盗み取って韓国に持ち込まれた仏像を韓国が返さない、と云う件について、中国でも話題を集めている。中国の文物がアヘン戦争後の英仏軍の北京進駐により、数多く掠奪されて持ち帰られている。ツイッターでは「なぜ中国にも韓国のような義賊がいないのか、欧米の美術館から盗み取って韓国のように返さなければいい」と云う声もあった。

 これはもちろん半分ジョークだろう。
さらに「京都の金閣寺、万里の長城、パリの凱旋門、アメリカのホワイトハウスも韓国から流出したものらしい、いまに盗まれるぞ!」というものもあって笑わせてくれる。

 最近何でも韓国が起源だ、と韓国の学者が唱えているのに対して、中国でもあきれており、揶揄の対象とみて、「どうも漢字だけではなくて仏教も韓国起源らしい。お釈迦様も韓国のものだから仏像は全て韓国のものなのだろう」 と結んでいる。

 ところで現在では掠奪したものは返すのが当然だ。これに公然と異を唱えるものはいないだろう(本心は解らないが)。しかしその当然なことは事態をどこまで遡って適用出来る話なのだろうか。例えばナポレオンがエジプトから持ちだした文物はどうか。アメリカ大陸を奪い取った白人はインディアンたちに国土を返還すべきか。スペインはインカ帝国から奪った金銀を返却しなければならないのか。

 このようなことに、ある時代で線を引くことは困難だろう。ぼんやりとながら常識の及ぶ範囲というものがあるだろう。これは妥協だけれど争いを再燃させないための知恵でもある。

 この常識を越えた判断を韓国の地方裁判所は行ってしまい、それを中国でも笑いものにしているのだろう。欧米の意見も知りたいものだ。

 歴史認識、と云うのが世代をどこまで超えて適用されるのか、結構重要な難問を象徴しているような気がする。

 何しろ豊臣秀吉の朝鮮出兵を、いまだに現代に起こったことと同じレベルの犯罪として本気で恨んでいる国が相手だからなかなか大変だ。

森本哲郎「老いを生き抜く」(NTT出版)

 森本哲郎先生は最初の人生の師である。と云っても直接お目にかかったことはない。無明の中にいたとき(思えば25歳頃のことであった)、先生の「生きがいへの旅」という本に出会った。そのときに無明の闇に一筋の光を見た気がした。

 こんな書き方をすると、新興宗教の教祖の言葉に出会ったみたいで誤解されそうだ。森本哲郎先生は東大の哲学科、大学院の社会科学科を卒業し、朝日新聞の記者を勤め、最後は論説委員をしていた。在職中から著作が多い。旅の中で哲人、賢人の言葉を引用しながら思索するスタイルの本が多い。難しい哲学の本の内容を分かりやすく案内してくれる。アナウンサーの森本毅郎氏は先生の末弟である。

 その「生きがいへの旅」との出会いで何が分かったのか。「分かる」と云うことがなんなのか、いままでと違うかたちで「分かった」のだ。そして「分かる」と云うことに無限のレベルがあることが「分かった」のだ。横方向に拡がる世界に、縦方向もあることが「分かった」のだ。これは「分かって」いる人にしか分からないことだけれど。

 本屋で棚をぼんやり見ていたら、その森本哲郎先生の著作があることに気が付いた。昨年の九月に出た新刊だ。それがこの「老いを生き抜く」という本だった。森本哲郎先生は私の母と同年生まれなので今年88歳、新作はもう出ないだろうと思っていたのでこの新刊との出会いはとても嬉しい。大袈裟だが本に呼ばれたのだと思う。

 「長い人生についての省察」というのが副題である。前半は「人生百年時代を生きる」と題して日々の雑感を綴ったもの、後半は「道元禅師をたずねて」と題して道元禅師の「正法眼蔵」を読み解いていく。

 老いによる記憶力の衰えを歎いているが、その知的探究心は決して衰えていない。思索はより深まっている。この本には蕪村の俳句がいくつか挿入されている。私が詩が苦手にもかかわらず、半可通に蕪村の俳句に親しみはじめたのも森本哲郎先生の著作に触発されたからである。

 先生のますますのご健勝を祈る。

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