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2013年8月

2013年8月31日 (土)

山口修「[新訂版]中国史を語る」(山川出版社)

 中国通史、それも短くて易しくて一気に読み通せるものと言えば、烏山喜一の「黄河の水」がすぐ思い浮かぶ。ただ書かれたのが戦時中で、当然ながら今読むとしたら近現代史の部分がもの足らない。

 この本の冒頭に、旧版はNHKの教育テレビで語った通史をまとめたものだったが、新しい発見や明らかになった事実を書き加え訂正したのがこの新訂版だとうたっている。

 200頁足らずの中に多くのことを網羅することはもちろん出来ないから記事は取捨選択されているのは致し方ない。こんなものだろう。

 ただし近現代史についての記述にあまりにも血が通っていない気がする。歴史は現代に近いほど生臭いものだ。それをあまりにさらりと書かれてしまうと通史全体に生命が感じられないものになってしまう。

 中国の個別史を拾い読みしているので時々通史が読みたくなる。軽いものは骨休めになっていいのだが、ちょっと軽すぎた。

悔しいけれど言われても仕方がない

 中国メディアが日本について言及するときは悪意が含まれていることが多くていい加減うんざりするが、「日本が原発問題で隠蔽工作を行っている」という報道については悔しいけれど言われても仕方がない、と思う。

 もちろん国を挙げて隠蔽工作をしているはずもないけれど、東京電力の汚染水漏出の事態の不作為の軽視、見逃しの顛末は、見方によれば事実の隠蔽と言われても仕方がないだろう。

 出来ることをしないでいることはこの場合許されることではない。福島の震災復興はまず福島原発事故に対しての可能な限りの対処が最優先であることは日本人全員が理解しているはずだ。しかし出来ないことと出来ることがある。出来ないことを出来るようなふりをして取り繕っても仕方がない。出来ることに全力を挙げることだ。

 地下水が流入するから汚染水が流れ続けるという。それなら地下水をなぜ遮断しないのか。原発と海との間で遮断しようとすれば、高濃度の汚染水が存在するから極めて危険な工事になる。

 原発の、海と反対側地下水上流部を地下深度深くまで掘り下げて巨大プールを作って水を原発地下に流れ込まないようになぜしないのか。工事は膨大なものになるだろうが、汚染度か低い分だけ作業は楽だろう。

 そのプールの水を冷却に使用すれば水全体が管理される。

 それが出来ない理由は何か。原発の場所以外に手をつけることが出来ないからではないか。東京電力にとってはそうだろう。東京電力の敷地以外に手をつけることは出来ない。しかしこの原発周辺の私有地などはあと何十年も住むことが出来ないことは明らかだ。必要な地域を国が接収して(もちろん手厚い補償をつけて)そこを自由に使えるようにすべきだろう。

 そうすればそこに汚染水のタンクをいくらでも設置することが出来るし、地下工事をすることも出来る。各地で蓄積されてあふれている汚染物の収納場所としても使えるだろう。非常事態なのだからそのような強硬手段が必要だろうと思う。周辺住民もどうせ住めないなら補償があれば了解するだろう。

 漏れにくいタンクを組み立てるのもそこでやればいい。汚染水タンクも設置場所に余裕が出来るだろう。

 最も汚染のひどい東京電力の敷地内ですべてを行おうとしていることに無理がある。その枠を取り払うことが国の役目ではないかと愚考する。こんなこと誰でも思いつくことだけれど、出来ることをしない。だから中国に言いたい放題言われるのだ。

 中国では海洋汚染の補償を日本に要求する動きもある。自分の国の海を自分であれだけ汚染させておいてよく言うと思うが、日本もやるべきことをやらなければ中国のみならず世界中から非難されるだろう。

2013年8月30日 (金)

映画「宇宙人王さんとの遭遇」2011年イタリア映画

 監督アントニオ・マネッティ、出演フランチェスカ・クティカ、エンニオ・ファンタスティキーニ。

 中国語翻訳者のガイアに仕事の電話が入る。急な仕事だが数時間で2000ユーロという破格の料金が提示され、それに惹かれて引き受ける。目隠しをされて連れて行かれたのは政府の秘密機関のようなところだ。そこで彼女が通訳することになったのは、中国語を話す宇宙人だった。

 拘束されたその宇宙人は自らを王(ワン)と名乗る。凶悪そうでもなく、自分が地球にやってきた目的は平和と友好のためだとひたすら繰り返す。地球でいちばん使われている言語が中国語だという調査結果から中国語を習得したのだという。そうすればどこでも言葉が通じると考えたのだ。

 しかし降り立ったのはイタリアのローマ、中国語は一切通じない。ある家に侵入して何かしていたのだが、理由が分からない。しばらく姿をくらませたあと、再びその家に侵入したところを家人に襲われて捕まったという。

 どこに潜んでいたのか何をしていたのか更に執拗な質問が繰り返され、ついには拷問が始まる。あまりのことに通訳が出来なくなったガイアはその場からの脱出をはかる。

 やがてその秘密の場所に緊急警報が鳴り響き、追っ手を逃れて隠れていたガイアを残して人がいなくなってしまう。

 ラストのために、それまで延々と続く宇宙人の尋問があるのだが、それからあとは映画を見て楽しんでもらおう。

 題名からドタバタ風のSF映画かと思っていたら、案外シリアスであった。ベネチア映画祭で話題になったというけれど、頷ける。

失敬

 アメリカのメディアが報道したところによれば、中国の南寧市で開催される中国・ASEAN博覧会へ出席を予定していたフィリピンのアキノ大統領が、出席を取り消したという。

 フィリピン外交筋によれば、中国側から代表団派遣の要請を受けていたところ、「よりふさわしい時期に訪問して欲しい」 との要請があったためだという。

 この報道に対し、中国外交部は、中国側がアキノ大統領を博覧会に招待したことはないとしている。

 まさか招待の要請もないのにフィリピン側が招待された、などと説明することはないと思う。中国が出席を延期するよう要請したとまでいっていることから、中国側が事実を曲げて抗弁していると思われる。

 あえて状況を推察すれば、ASEAN各国に代表団を要請したが、アキノ大統領の出席は想定していなかったのではないか。南シナ海の領土領海問題でもめているフィリピンとの関係もあり、アキノ大統領の出席を断ったというのが事実ではないか。

 しかしこのような礼を失することを平然と行い、しかも招待していない、などと二重にフィリピンに恥をかかせるという行為は三流以下の国のなすことのように思える。これがオリンピックや万博を開催した国のすることだろうか。中国はだいぶおかしくなっている。

無神経

 藤圭子の自殺報道の際も精神疾患の患者とその身内に対しての無神経さに怒りを覚えたが、今回の、三重県の女子中学生と思われる放置遺体の報道にも同様の気持ちを持った。

 全裸に近い、とかほとんど衣類を着けずに、という報道をNHKまでもが繰り返している。今までの流れから、この遺体が行方不明の女子中学生である可能性が高そうだ。だとすれば、その少女の遺体の状況をことさら繰り返す報道を聞く家族にとっていかばかりつらいことだろうか。

 自分の娘が全裸で発見された、と繰りかえし報道されるときの両親の苦痛をマスコミは思いやることが出来ないのだろうか。死んでいたときの状況を報道しなければならない理由はいささかもない。国民は探偵ではないのだ。

 いわなくてもいいことは家族を思いやって報道しない、という人間として当然のことに思いが至らない。そのマスコミが人権を高々と掲げ、犯罪者の人権ばかりを気配りしているように見えるのは私だけだろうか。

よく分からない

 世の中によく分かることなど滅多にない。こちらの能力のせいもあるし、自分の精神に柔軟性がないためであることもある。

 かわいい女の子たちが歌い踊るのを見るのは嫌いではない。最近は、かわいいとされているけれど私から見たらそうでもない、と思われる子も見るけれどそれでも「がんばってね」というやさしい気持ちで見ることが出来る。

 若い男の子たちがグループで踊っているのを見るのはほとんど嫌いである。若い女の子どころかおばさんまで声援しているのを見るのは嫌いどころか不愉快である。

 男が女の子たちをかわいいと思うように、男の子が歌い踊るのを女性がかわいいと思うのは当然だろうとは思うのだが。

 どうも私は歌い踊っている男の子に自分を置き換えてしまうところがある。もちろんあこがれてそうなるのではない(当たり前だ)。死んでもあんな衣装で人前で踊ることなど恥ずかしくて出来ないと思うのだ。

 もちろんこのわたしに人前で踊ってくれ、などといわれる事態はあり得ないことは分かっているが、彼らに対して「よく恥ずかしくもなく男がこんなことが出来るものだ」という思いは自分自身が恥ずかしく感じる気持ちが背景にあるようだ。

 これは高校生くらいの頃からの感覚だから年期がいっていて、じいさんとなった今はそれがほとんど盤石のものになっている。

 だからといって他人がどう思おうと、どう感じようと好き好きなので、それをとやかく言おうとは思わない。

 だけれどあの「江南スタイル」だけはいただけない。なぜあんなものが世界中で人気になったのか私には全く理解できない。馬鹿じゃないか、としか思えない。しかし、一部のマスコミがはやらせようとテレビでやって見せていたけれど、不思議なことに日本では全くはやらなかった。

 韓国人はその江南スタイルが世界で流行したことが自慢でならないらしい。海外の芸能人は韓国を訪れるさいには「江南スタイル」を踊ってみせるのが恒例になっているのだそうだ。自発的というより、そうするように頼まれているのだろう。

 韓国人は外国人に出会うと「江南スタイルを知っているか」と聞くことが多いのだという。よほど自慢なのだろう。

 もし日本発のへんてこなものが世界ではやったとしても日本人にはそれを「知っているか」などと外国人にわざわざ聞くようなことはして欲しくない。

2013年8月29日 (木)

釈明

 国連の事務総長・潘基文がソウルに帰朝した際に「日本は(韓国政府がいうように)歴史認識を正さなければならない」と講演の中で述べた。

 これに対して、国連の事務総長がある国に一方的に与するような立場で発言するのはいかがなものか、と日本政府から苦言を呈された。

 潘基文国連事務総長は早速、訪問先のオランダで「日本政府に誤解されたことは残念だ」と述べた。

 テレビでは「そもそも日本を名指しで述べたことではなく、日中韓が歴史認識を互いに調整するよう努力して欲しい、と言う趣旨であった」と釈明している姿が映されていた。

 当初の発言は、報道が間違っていなければ、日本を名指しで一方的に日本の歴史認識が問題だ、と言っていたはずだ。

 だから中国は早速潘基文国連事務総長の発言に全面的な賛意を表明している。

 釈明をするというのは「しまった」と思っているからに他ならないのではないか。国連事務総長は特定の国に偏った立場に立つべきではない。それをしない、と信用されて事務総長に選ばれたはずである。

 この発言を日本が問題視して騒ぎ立てれば日本にとってもあまり利点はない。当事者は自己の利益のために騒ぎ立てているとして反感を買いかねないからだ。日本以外のどこかの国が事務総長批判を行うことが望ましいのだが、シリア問題で世界はそれどころではない。見過ごされることになりそうだ。

 ところで潘基文も任期の終了がそろそろ近いのだろうか。韓国へ戻ったあとの就職活動としてリップサービスをしたのかもしれない。九仞の功を一簣に欠く発言だったと思う。

映画「極秘指令 ドッグ×ドッグ」2009年アメリカ

 監督フォアド・ミカティ、出演ジョー・アンダーソン、ロブ・コードリー、エレン・バーキン、マギー・Q。

 「ボーン・レガシー」を見たすぐあとにこの映画を見たのは偶然だけれど絶妙なタイミングだった。

 アメリカ大統領がオバマに交代し、それ以前の政権が進めてきた謀略の作戦をすべて撤収することになり、非公式のエリート部隊の工作員たちに全員抹殺の指令が下される。何も知らずに地下深くの部屋に集められた工作員たちは武器を取り上げられ、互いに殺し合うことになる。

 武器がないから鉛筆ひとつをも武器にして戦うのだが、その光景は上階の別室の監視員にことごとく映し出される。

 これだけ見るといかにもシリアスな映画みたいだが、とんでもない映画なのだ。ほとんどの工作員は殺しのエリートたちなのだがほとんどビョーキである。その言動は見ているものの想像を超えていてあっけにとられるばかりだ。

 たまたままさにその当日に新人として配属された男が主人公なのだが、その男にはある目的があったことが最後に明らかになる。

 ある意味でお馬鹿なスプラッーター映画といえようか。

 うーん、大まじめに馬鹿な演技をしている俳優たちにはある意味エネルギーを感じる、という程度の批評しか出来ない。

加藤康男「謎解き『張作霖爆殺事件』」

 歴史的に関東軍の謀略によるものだとほぼ確定しているように見える張作霖の暗殺を、新たにロシアやイギリスで公開された秘密資料を基に根底から見直す。

 当時満州を支配し、北京をも勢力下に置いていた張作霖を、関東軍は後援していたように見える。満州地区の日本の権益を確保するためには張作霖と組む方が都合が良かったからだ。

 しかしすべてが関東軍に都合の良いように張作霖が動いていたわけではない。関東軍の思惑に反する行動も多かった。

 蒋介石の北伐軍が勢力を強め、次第に南方からの圧力を高める中、共倒れを恐れて張作霖は北京からの撤退を受け入れる。そして元々の拠点である奉天(現在の瀋陽)に列車で引き揚げることになった。

 事件はその張作霖一行を乗せたお召し列車がまもなく奉天に到着するというそのときに起こった。昭和三年(1928年)六月四日早朝、隣の新民駅を出て奉天まで約一キロの地点、彼らの走る京奉線と関東軍が支配している満鉄本線が立体交差する地点で爆弾が炸裂し、張作霖は重傷を負ってまもなく死亡した。

 この事件のあと、張作霖の後を継いだ息子の張学良は日本の期待とは異なり、一気に蒋介石との融和を進め、結果的に蒋介石の国民党軍の傘下に帰属することになった。日本の傀儡として利用しようとした関東軍の思惑は大きく外れることになる。

 そして日本は国民党軍と直接対峙する事態となり、日中戦争の泥沼に引きずり込まれることになった。

 事件のあと、関東軍の参謀・川本大作大佐以下が起こした犯行であるという情報は陸軍内部や一部政府要人に伝えられている。このいきさつは戦後東京裁判や、中国に収監された川本大作本人の供述に記録として残されている。供述どおりだとすれば事件には謎などないことになる。

 その供述や伝聞、事件現場の詳細な記録とに矛盾があることに気がついた筆者は、最新のロシアやイギリス諜報部の公開資料を読み合わせていくつかの仮説を立てている。それがこの本だ。

 鉄壁の事実と思われた事件の詳細が、違う観点から見ると思わぬ真実がほの見えてくる。確定している事件の見方が覆ることはないだろうが、このような作業を通して昭和の初めという時代が見えてくる。そして日本が戦争へ突入していった経緯がより鮮明に見えてくる。  

 私にはなぜ関東軍が張作霖を爆殺したのか、その理由が分からなかった。張作霖が日本の言いなりにならなかったのは事実だろう。しかしその当時は中国の北関東を支配していた実質上の皇帝のような存在だった張作霖が、関東軍に唯々諾々と従う、と期待する方がどうかしている。

 そしてその張作霖を爆殺すればその息子の張学良が日本に反感を持つのが当然であり、その張学良に期待するというのも愚かな考えである。

 もしそれならこの事件は完璧に関東軍の犯行でないような工作が必要であろう。ところがこの事件が関東軍の犯行である、との状況証拠はそこら中に残されている。考えられないほど愚かに見える。

 これが疑問だった。この本ですっきりしたわけではなく、ますます分からなくなったけれど、少なくとも表に見えていることばかりが真実ではないらしいこともよく分かった。

 事件直後、ときの総理大臣で陸軍大臣だった田中義一は昭和天皇に関東軍の犯行の可能性が大きいことを伝え、犯行者を軍法会議にかけて処断すると奉答している。

 ところが数ヶ月呉、軍法会議を開くことで事件を公的に認めることを嫌った陸軍の反対で曖昧な処罰しか行わず、事件はうやむやにされる。これを再び昭和天皇に問われると、田中義一は調査の結果、事件には不明なところがあり、日本のためにも軍法会議は出来ないと答える。

 食言に不快感を覚えた昭和天皇は田中義一に厳しい言葉を伝える。田中内閣はこの結果崩壊し、その後まもなく田中義一は死亡したという。食言、という言葉の意味をはじめて知った。恥ずかしい。

2013年8月28日 (水)

映画「ボーン・レガシー」2012年アメリカ

 監督トニー・ギルロイ、出演ジェレミー・レナー、エドワード・ノートン、レイチェル・ワイズ。

 文句なしにおもしろい。テンポが良くて息もつかせぬ展開に、あっという間に135分のこの映画を見終わっていた。

 「ボーン・アイデンティティ」からのジェイソン・ボーン(マット・デイモン)シリーズとは連続しない。スピンオフのようなかたちになっており、ジェイソン・ボーンが関わっていたものとは違う、アウトカム計画に参画していたアーロン・クロス(ジェレミー・レナー)が主人公である。

 ジェイソン・ボーンは特殊訓練と洗脳で強力な暗殺者になったが、アーロン・クロスは遺伝子に作用する特殊な薬で身体を改造させられている。

 ジェイソン・ボーンによってこのような計画が進められていたことが暴露され、アウトカム計画もその存在を隠蔽しなければならなくなる。参画していた人間が次々に殺される中、アーロン・クロスも襲撃されるのだが生き延びる。しかし薬がなければ彼の能力は人並みになってしまう。薬を求めて彼に薬を投与していた研究所の女性(レイチェル・ワイズ)を訪ねるのだが、そこで彼は抹殺されかかる彼女を救助することになる。

 それから薬を求めながらの二人の逃避行が始まる。

 敵はCIAの背後にいるような政府の裏組織だ。組織をあげての追求は想像を絶する完璧なものだ。それをくぐり抜け、どのように切り抜けて目的を達成するのか。本当に手に汗を握るシーンの連続だ。

 ちなみにボーンというのは骨、という意味ではなくて名字である。骨はbone、名字はBourneである。これは「ボーン・アイデンティティ」のときに自分で調べた。だからジェイソン・ボーンが登場しなければ、ボーンという表題になるのはおかしいのだ。でも原題もThe Bourne Regacyである。

いらぬことを言う

 安倍首相が中韓両国に対して対話姿勢を強調している、と中国メディアが伝えた。これはアメリカの懸念を受けての行動であり、同時に対話がないのは日本のせいではなく、中国と韓国に問題があるかのように見せるためだ、と解説している。

 9月初頭にロシアでG20が開かれ、首脳が集うが、その際に個別の首脳会談を模索する日本に対して中国は拒否することを明言している。更に記事は韓国も日本に対して冷ややかで首脳会談を含むあらゆる接触を行わない方針である、と伝えている。

 中国外交部は日中には話し合うべき土台が存在しないから会談には意味がない、とコメントを出した。土台がないから作らなければならない、という本来の外交の仕事を拒否するような音自己否定ともとれるこのような表明は愚かに見える。

 その上韓国の行動まで言及するのは、中国の意識が韓国を属国と見なしているように見える。

 日本の領海に多量のレアアースが存在することが明らかになっているが、それに対して中国の専門家が「日本の海底に存在するレアアースを産業化するにはまだまだ時間がかかる。経済的な価値はない」と述べた。

 そして「中国は今後も長い期間に亘って世界の主要なレアアースの供給国であり続けるだろう」という。

 このコメントは中国の願望なのだろう。中国が専門家の意見として語る言葉にはしばしばこうであって欲しいと中国が考えることが事実として語られる。

 確かに深海のレアアースを採取するのは困難でコストもかかるが、海底のすぐ下にレアアースがあることも判明しており、そこまでパイプが到達さえすればあとは採掘は比較的に容易だとの日本の専門家の見解もある。

 中国がレアアース資源を戦略物資として使うという世界のルール破りを行った。いかにして中国のレアアースを不要にするか、世界がその対策に必死で取り組んでいる。最もその被害を受けた日本は少々高くついても戦略に使われないために自前で獲得する手立てを討たなければならない。

 中国は自国のレアアースの需要が激減していることに対して、資源が保護できて幸いである、と強がりをいっている。  

 韓国の外交に口を出したり、日本のレアアースの開発にけちをつけたり、中国はいらぬことを言う。

映画「ウルトラヴァイオレット」2006年アメリカ

 監督カート・ウィマー、出演ミラ・ジョヴォヴィッチ。

 ウルトラヴァイオレットは最強の戦う女だ。

 近未来、人類によって生み出された新種のウィルスによって人類は危機に陥る。治療の名目で感染者は隔離され、その実は抹殺されていった。感染者は寿命が短くなるかわりに特殊能力を持つものが多い。彼らは結束して政府に抵抗するのだが、次第にその数を減らし、絶滅も近かった。政府が感染者の絶滅のために最終兵器を開発したとの情報が入り、ウルトラヴァイオレットにその最終兵器の奪還指令が与えられる。

 そう、ウルトラヴァイオレットこそ感染者側の最強兵器なのだ。

 この映画はそのウルトラヴァイオレットの華麗な戦いを描いたものだ。その戦いに、ある特徴があることに気がついたのでネットで調べたら、勘が当たっていた。この監督は「リベリオン」という映画を作っていて、その主人公の特殊技、ガン=カタという戦い方とうり二つなのだ。

 銃を持った大勢の敵を相手にして瞬時に相手の動作とその弾道を見極め、当たらないように戦うという究極の秘技なのだ。この演技のためにミラ・ジョヴォヴィッチはかなりハードな訓練をしたという。

 最後には何百人もの敵を倒すというスーパーマンぶりで、もともとアメリカのコミックが原作である。タイトルバックもそのコミックの表紙がうまく使われていてしゃれている。

 この映画は一度見ているのだが、そのときはあまり出来のいい映画と思わなかった。最終兵器というのがなんと少年であり、その少年にウルトラヴァイオレットの母性本能が働いて暴走する、という筋立てなのだが、その少年が前回見たときはアホ面に見えたのだ。

 ところが今回よく見たらそれほどのアホ面ではなく、それなりの顔をしている。それだけで映画の印象はがらりと変わるものだということが分かった。

 何となく「バイオハザード」につながるものを感じるのはミラ・ジョヴォヴィッチが演じているからだけではないだろう。

2013年8月27日 (火)

意気地がない

 娘のドン姫に、連絡をよこすようにメールしたけれど連絡がない。気がつかないのか忙しいのか無視しているのか。

 それだけでテンションが下がるのだから意気地がない。

 事故のあと、八月一杯までは自分で決めて、謹慎して出かけるのを控えているのだが、自分のエネルギーが中側にこもってしまって空回りしているような変な心持ちである。だが自分で決めたことなのであと一週間足らず、おとなしくしているつもりだ。

 その後、電車で少し放浪することにしようと思う。リュックに着替えなどを詰め込んで、普通列車を乗り継いでけちけち旅行でもしようか。

 桐生の周さんのところや長野県の松本の親友でもたずねてみようか。そんなことを考えていると少し気持ちが紛れる。

 エネルギーが変にこもってしまうと本を読んでも映画を見てもあまりおもしろくない。というか本を読んだり映画を見たいという気にならない。人間というのは意気地のないものだ。

 さあ、時刻表でも買いに行こう。

不幸

 亡くなった藤圭子が精神科の疾患だったことが明らかにされた。詳しいことは分からないが、本人は苦しんでいたものの、病識がないために精神科の治療を受けようとしなかったという。

 症状が重くても本人に病識があれば精神科の診察を受けて適切な治療がなされる。今は良い薬もある。しかし自分は病気ではない、というのが精神科の、ある病気の特徴だから症状が軽くても改善することはなく、ときに取り返しがつかないほど悪化してしまう。

 本人がいちばん苦しんだ、というけれど、家族もずいぶんつらい思いをしてきたに違いない。芸能人の宿命で、いかにも同情をしているようなそぶりをしながら相手の気持ちに土足で踏み込むような問いかけをするハイエナのような連中が葬儀場を取り巻いている。

 職業に貴賎はない、というけれど、芸能リポーターだけは卑しい職業だと思う。家族の気持ちを思い、静かに見送らせてあげてくれ。

フィルタリング

 薄熙来の裁判が、全面的ではないものの公開されて実施され、結審した。捜査段階では起訴事実を認めていたとされるが、裁判ではことごとく罪状を否認した。

 薄熙来の根強い支持者は今もいるといい、ネットでは薄熙来の抵抗に喝采を送るものも少なからずあった。

 中国司法院は裁判の経過を公式のミニブログに掲載する、というかたちで公開したのだが、読者からの投稿も受け付けており、コメント欄に公開されている。

 そのコメント欄にはこの裁判が公正に行われていることを賛美するものばかりが並んでいるという。批判的なものはフィルタリングによってことごとく排除されているようだ。直接的に被告を支持するコメントを投稿しようとすると「この内容は投稿できません」 との表示が現れるのだそうだ。

 この裁判についてテレビのコメンテーターは中国当局は薄熙来の罪状の全面否認は想定済みだった、というものが多い。全面否認するその姿に国民が嫌気して薄熙来から心が離れることを狙っているのだ、とまことしやかに語っているものもあった。

 裁判が公開されている、といっても都合の悪い部分は省かれて、薄熙来のみっともない部分だけを選んで公開しているともいう。それでもすでに失うものがなくなった薄熙来の迫力に司法側が押されているような気がするのは私だけだろうか。

 司法側が想定内の行動だ、と見るのは無理があるのではないか。

 文化大革命の後の四人組のように、今までの公開された裁判では「畏れ入りました」の姿を見せるものばかりだったように思う。とことん痛めつけた(そうしないはずがない)はずの薄熙来が反抗するのは想定外だったのではないか。

 それは中国国民にとっても予想外のことで、中国政府にとって逆効果だったという気がする。

 もちろん有罪判決しか出るはずがないが、どんな判決が出るのか中国国民は注視しているだろう。重すぎても軽すぎても反発があるだろうし、ちょうどいい判決などないだろうから裁判所も困っているのではないか。

2013年8月26日 (月)

森本哲郎「ソクラテス 最後の十三日」(PHP研究所)

 森本哲郎は思索者であると思う。

 ジャーナリストとして朝日新聞に奉職していたが中途退社。文明評論家として多数の著作を著している。この人の本の大半をそろえている。そしてほとんど読んだ。

 今回読んだこの本は唯一の長編小説で、私の未読の本だった。

 この本にはソクラテスが裁判で死刑を宣告され、三十日間牢屋に拘束されたときの、後半の十三日間の彼の思索と、毒杯を飲んで刑死する様子が描かれている。

 彼がデルフォイの神託「汝自身を知れ!」に啓示を受け、彼自身の思想を確立していく過程で、幾多のギリシャ哲学の思想家たちとのやりとりやその考察が回想のかたちで詳細に語られている。

 この本はギリシャ哲学の総観図の紹介でもあり、更にインド哲学まで言及している。それは死とは何か、の追求であり、「魂は永遠である」ことの確信の追求でもあった。

 そもそもソクラテスは全く著作を残していない。有名な、この裁判の告発に対する反論「ソクラテスの弁明」にしてもその後の思索である「パイドン」にしてもプラトンの著作である。

 だからソクラテスの姿はプラトンの著作を通してしか知ることが出来ないのだが、それを森本哲郎はプラトンの思想をとことん理解することでプラトンの衣を剥いで真のソクラテス像を描こうとしたのだ。

 ほとんどギリシャ哲学など読んだこともないし理解能力もない私が、この本を一日がかりではあったが読み終えることが出来たのは、ひとえに森本哲郎の描くギリシャ哲学がわかりやすかったからだ。

 ソクラテスという偉大な思索者が生身で眼前にあるような思いを今日一日味わうことが出来た。何という喜ばしいことだったことか。至福の読書の時間だった。森本先生、ありがとう。

神吉拓郎「私生活」(文春文庫)

 神吉拓郎はもともと放送作家だったが、この「私生活」で第90回の直木賞を受賞している。この「私生活」は小話(しょうわ、こばなしではない)が17編収められている。短編ではなく、あえて小話と言いたくなるほど一つ一つはコンパクトだ。しかしそこにはそれぞれ血の通う生きた人間がいる。ときに生臭い人間の営みが容赦なくあからさまにされている物語もある。

 映画やビデオと写真の違いというのがある。私が写真が好きなのはある瞬間を写し取ることで過去と現在、ときには未来がそこに写し取られることがあるからだ。写真は時の流れの橋頭堡、立ち位置である。優れた演歌の歌詞も、多くはある瞬間を描き、そこから過去を語り、現在を語り未来を語る。時間とともに視座の動くような詩はあまりいいものがない。

 短編もそうだと思っていたが、さすがに元放送作家だ。短い話なのに映像のようにときの経過が凝縮して描かれていて、しかも優れたものがある。視座は動いているのだ。その動きの中に語られている人物の物語に膨らみが生じ、同時にそれに語り手である自分の思いが動いていくのがありありと見える。

 そして短編の命であるラストのストップモーションがじんわりとこちらの胸に響く。短編の名品を読みたかったら文庫で読めるので是非どうぞ。

 惜しくもこの人は1994年に66歳で亡くなってしまった。

2013年8月25日 (日)

通販で本を買う

 本を買うときはほとんど名古屋まで出かけてツインビル十一階の三省堂と駅前のジュンク堂の店内を一回りして購入する。そのときに三省堂のカードとジュンク堂で作ったhontoカードを使う。hontoカードは購入した本の履歴が残るので、たびたび買う著者の本については新刊が出るとメールで案内をくれる。

 中古の本は中古本の組合に登録しているのでメールに案内が来たものでおもしろそうなものを通販で買う。紀伊國屋にも登録しているので気に入った著者の本を検索して購入することもある。

 今は時間もあるので直に店頭で本を見て購入することが多い。

 最近電子書籍が増えているという。息子も電子書籍で本を読んでいた。hontoでも電子書籍のネット販売をしている。どんなものか知りたくていろいろ検索していたら現物の通販で購入したい本がたちまち何冊か見つかった。何せ画面で文字を読むより印刷されたもので読む方が理解しやすいので電子書籍は今のところ敬遠している。旅に重い本を持って行くのはつらいが、仕方がない。

迷ったけれども試しに七冊ほど購入することにした。ポイントも店頭で買うよりつくようだ。それに配達にはあまり時間がかからないらしいのもありがたい。今回購入したのは森本哲郎、内田樹、仁木英之の本だ。

 これは著者が分かっていて、詳しい内容が分からなくてもいい場合には便利だ。ただし読んだことのない人の本は選べない。やはり店頭でその本に向こうから呼び止めてもらわないとならない。使い分けながら利用していくことにしよう。しかしこんなことをしていて本の購入額がまた増えなければいいのだが。

渡邊義浩「三国志」(中公新書)

 副題に「演義から正史、そして史実へ」とあるように、この本は「三国志」そのものではなく、正史として西晋(曹操の建てた魏の国を禅譲の形で簒奪した司馬氏の国、後に蜀も呉も打ち倒して吸収する)の陳寿が著した「三国志」(この中の魏の国の記述の中の「魏志倭人伝」に日本が記述されていることはご承知の通り)と、その後にいくつも作られた「三国志演義」を比較検証することで、その時代と登場人物について実際はどうであったかを考察した本だ。

 正史と言うから正しい歴史というわけではない。中国では司馬遷の「史記」が書かれた後、「漢書」「後漢書」と次の時代の王朝がその前の王朝についてそれまでの歴史を著すのが習わしになっている。今のところ正史のないのは「清」の時代だけだ。

 次の王朝が自己の王朝の正当性をその中に含ませようとするために史実をゆがめていることも多い。また記述した作者の私見が影響している部分もある。「三国志」を著した陳寿も見方によってはずいぶん偏見を持って記述していた部分がある。西晋の陳寿が著したから三国のうちの魏が正統である、と言う立場に立っていることは当然だ。

 もちろん物語ではないし、その記述は簡明なために読んでおもしろいものではない。それを脚色して色づけして読みやすいものに書き換えたのが羅貫中による「三国志演義」だ。ここでは漢を再興したとして蜀の国を正当とする立場に立っているらしいが、残念ながら原本は散逸していて現存しない。

 ここから派生して「演義」はいろいろに形を変えていく。きちんとした文章の形で最も体裁が整い現在も中国で主に読まれているのは「毛宗崗本」と言われるものだ。そのほかには白話体のものが流布しており、主に講談や劇のネタ本になっている。

 日本では吉川英治の「三国志」が最も有名である。そのほかに柴田錬三郎の「三国志」、「英雄ここにあり」、陳舜臣の「秘本三国志」、北方謙三の「三国志」、安能務の「三国演義」、宮城谷昌光の「三国志」、三好徹「興亡三国志」、伴野朗「呉・三国志」など数多い。私の読んだものだけでもこれだけある。これは小説ばかりだが、正史の「三国志」を論じたものもたくさんある。

 中国で一般に読まれている毛宗崗版の「三国志演義」は蜀を正義とする立場に極端に偏っているから曹操は大悪人として描かれている。だから中国人は曹操を悪人と考えていると思われる。反面、関羽や諸葛孔明は神格化された存在となってる。

 吉川英治の「三国志」は曹操をそんなに悪人として描いてはいない。だから日本人は中国人より曹操を正当に評価することが出来ているかもしれない。

 時代とともに関羽や諸葛孔明が神格化し、曹操が悪人として色づけされた背景、そしてその色づけを取り去ったときの史実はどうであったのか、それを詳述することで三国という時代、その後の魏晋南北朝(同時に五胡十六国と言われる時代)への流れが見えてくる。

若者は世の中を否定したのか

 藤圭子が飛び降り自殺をした。いろいろな人がその時代を語り、その死の意味を語っている。

 当時藤圭子のドキュメンタリー番組を撮ったという田原総一朗が、あの時代の藤圭子の人気の意味を「若者が学生運動に絶望して世の中を否定した。この世を否定しながらわずかな希望を歌う藤圭子に若者の気持ちが集まった」と言うようなコメントをしていた。

 この人のコメントはいつもそれらしい。いかにもうまいことを言った、という「どや顔」をしていた。

 1970年の学生運動の終息によって、学生が世の中を否定したと言うことだろうか。マスコミはそのように考える人間が多いから何も違和感を感じないようでくりかえしこのコメントが繰り返されていた。それはとんでもない勘違いだ。

 学生運動というのがそもそも世の中の否定行動だったのだ。体制を破壊することを目指したのが全共闘だった。世の中はスクラップアンドビルドすべきだ、と彼らは考えていた。そしてとりあえず世の中をスクラップしようとしたのだ、ビルドの部分は後に続く人間に託して。

 それが挫折したのはなぜか。世の中が右肩上がりだったあの時代、多くの学生たちは世の中に希望を持っていた。世の中を否定する学生運動に背を向けたのだ。当時は日和見、などと非難されたが、学生運動をする若者の何倍もの学生は日和見だったのだ。

 だからほとんどの若者は世の中を否定などしていない。学生運動を行ったり、それにシンパシイを感じていた人たちはそのような若者達に絶望して学生運動は終息した。

 折しも1970年は大阪万博の年である。誰も世の中を否定などしていない。

 世の中が暗く貧しいときには明るい歌がはやるという。戦後にそのような希望の歌がはやったように。そして日本はようやく戦後のくびきを脱し、暗く貧しい時代ではなくなったとき、その暗く貧しい時代を振り返ったその心持ちと藤圭子の歌が不思議に重なったのではないだろうか。明るい今から過去の暗い時代を振り返って、いささかの不安と安心とを感じたのではないか。それははじめて余裕を持って過去を振り返ることが出来るようになった時代のゆとりでもあったのではないか。

 解釈はいかようにでもありうるので観念的なことを語り出せば果てしなく語ることは出来る。でも田原総一朗の時代精神の解釈は私には間違っている、と感じられる。

2013年8月24日 (土)

風水信仰

 シンガポールの新聞が、中国の官僚たちの風水信仰がますます盛んになっている、と伝えた。

 中国の行政学院社会・文化教育研究部が公務員に対して行った調査によると、半数以上が占いや風水といった迷信を信じていた。

 専門家によれば、中国では信仰が崩壊したために占いや風水を信仰するしかなくなっているのだろうと説明している。

 これは本気の冗談だが、中国ではマルクス・レーニン主義を信じることになっているのではなかったのだろうか。多分共産党員のほとんどがいまではそんなものを信じていないのだろう。といって仏教やキリスト教やイスラム教、いや儒教ですら信じていないように見える。ただ道教のみは現世利益を求めて参拝、信仰している人がいる。

 風水信仰も道教信仰も同じように現世利益を求めてのもののようだ。

 唯物論を根底にするマルクス・レーニン主義を見限り、いまは拝金思想という宗教しか信じるものがなくなったということか。

 しかしそれでは心の救いは得られない。心の救いが本来の宗教だとすれば、中国人にはもともと宗教心というのはないのかもしれない。

すべて否定

 元重慶市の書記(トップ)の薄熙来の裁判が始まった。裁判は公開ではないが、その様子はネットで時間をあまりおかずに伝えられている。これは中国では極めて珍しいことだ。

 中国政府の考えは、政府の要人であっても収賄の罪で裁かれることを国民にアピールしたいということだ。

 習近平国家主席は積極的に汚職官僚を摘発すると公言しており、この裁判を国民に知らせてその象徴にしたいところだろう。

 だから検察の告発に対して薄熙来が畏れ入り、罪を認めることを期待したのだろうが、その思惑に反してあげられた罪状のことごとくを否認した。腹心の部下が暴露したことから最も確実視された妻の谷開来の殺人事件への関与についても、彼女は精神的に問題があったかもしれないと述べ、その彼女の自白に基づく彼への告発は当局に強要されたものだ、と否定してのけた。

 薄熙来はいまでも国民に密かな人気がある。もともと収賄していた役人を断罪してきたのは薄熙来であるし、地下組織などの暗黒社会を暴き立てて次々に処断したという実績がある。習近平よりもはるかに果断だったのだ。

 だから裁判の様子を伝え聞いた人々が次々に薄熙来を支持するような書き込みをしているという。

 薄熙来が復権することはあり得ないが、習近平の思惑とはずいぶん違う展開になってしまったのは間違いない。薄熙来も思ったより骨がある。

汚したら罰金

 中国広東省深玔市が、利用者が公衆トイレを汚したら罰金100元を科すという「公衆トイレ管理規定」を発表した。

 このことが地元紙に掲載されると早速ネット上で取り上げられて話題になっている。

 「誰が汚したかを誰が調べるのだろうか」と言う疑問は当然だ。

 「故意ではない場合はどうするのか」。確かに切羽詰まって駆け込んだときは汚すこともあるだろう。

 トイレの落書きや痰を吐くのも処罰対象だという。当然だろう。とにかく見つかれば罰金だと思えば、少しは汚さなくなる、と言うことを期待しているのだろう。中国人は罰金が大嫌いらしいから。

 中国の公衆トイレもむかしは恐ろしいほど汚かったり、完全オープン(対面でしゃがんで用を足すのが普通だった。私も経験がある)だったりしていたけれど、都市部についてはずいぶんきれいなものになった。このような規則を設けてそれを維持したい気持ちはよく分かる。

 ところで故意でなく汚してしまったら・・・自分で掃除すればいいのだ。

山本博文「現代語訳 武士道(新渡戸稲造)」(ちくま新書)

 日清戦争が終わって四年後、新渡戸稲造は誤解されている日本を正しく理解してもらうために「BUSHIDO The Soul of Japan」をアメリカで出版した。明治32年(1898年)のことである。

 この本は世界的なベストセラーになり、現在も読み継がれているが、日本でもたびたび日本語に翻訳されている。この本を新渡戸の意に沿うようになるべくわかりやすく翻訳し直したのが本書である。

 帯に、内田樹先生の「『武士道』は新渡戸が夢見た『理想的国民性格』である。『日本人かくあれかし』という新渡戸の願いはいまも私たちの共感を呼ぶ」という言葉が寄せられている。

 武士道とは封建時代という時代から生まれた武士だけが保つ規範であり、精神だろうか。新渡戸稲造が武家(南部藩)の出自であることから、武士道を武家特有のものと考えていた面があることは否めない。ただ新渡戸も言及しているように、支配階級としての武家の精神は国民全体の精神、思考様式に大きく影響を与えていたことも事実である。

 この本の著者(訳者)の山本博文も巻末の長い解説の中で、「武士道」の精神は、実は日本国民そのものの性格に根ざしているものだ、と語っている。江戸時代に確立したと見られる「武士道」より以前に、戦国時代末の外国人が直接見て描いた日本人庶民たちの姿はある意味で「武士道」そのものであった。

 だから内田樹先生は、日本人がかくあれかし、と考えた「理想的国民性格」こそが新渡戸の考える「武士道」に他ならない、と言っているのだ。

 新渡戸稲造が外国人に英語で伝えようとした「武士道」をなぜいまあらためて日本語に訳すのか。現代日本人はすでにこの本が書かれた時代から見れば外国人なのである。ところがそこに書かれている「武士道」の内容に違和感を覚えながらも、日本人ならば実はこの内容に共感もすることに自分自身で気がつくことだろう。

 東日本大震災で全く略奪行為がなく、整然と避難した日本人の姿に世界は驚き、そして賛嘆した。「武士道」とは日本人の美徳の根幹に通底している日本人の精神そのものであることをこの本を読むことで感じ、それを思い出すことだろう。

 章立てに沿って語りたいが切りがないので控える。ただし武家の女性について語っているところについて一言。現在の男女同権の時代、と言うより女性上位の時代から見れば、当時の女性は奴隷的な生き方を強いられていた、と見るだろう。しかし新渡戸は見かけはそのように見えても彼女たちは強いられたのではなく、自発的に、主体的にその生き方を生きた、とその違いを強調する。犠牲的精神の強さと輝きを最も知るものは彼女たちだった。

 もちろん田島女史をはじめとするフェミニストにとっては唾棄すべき詭弁と見るだろうが、はたしてそうか。いまの女性たちは武家の女性よりも主体的に生きていると言えるのか。そして武家の女性たちよりも男と対等だと自信を持って言えるだろうか。

 この本に書かれていることに共感できる日本人はどんどん失われていくのだろうか、それとも胸の中に生き続けてくれるのだろうか。いまの教育には絶望していたけれど、それでも心ある若者達は日本に難事があれば正しく行動するものが少なからずいることを希望の灯としたい。

2013年8月23日 (金)

期待外れ

 時代劇「剣」のシリーズ、五話から完結の十話までを一気に見た。全体としては期待外れ、どうしてこんな話が「剣」のシリーズに入るのか理解に苦しむものばかりだった。

 第五話「珍説 天保水滸伝」。笹川の繁蔵一家と飯岡の助五郎一家の争いで多数の死傷者が出た。世に言う天保水滸伝である。その原因追及を命じられた与力(藤田まこと)が調査結果を報告する形で争いのきっかけが次第に明らかにされていく。とんだ鼠の嫁入りだ。風が吹くと桶屋が儲かる、のたぐいの話になっていく。

 第六話「くノ一三度笠」。主演・津川雅彦、共演・品川隆二。語るのもばかばかしい。

 第七話「縄張(しま)」。今回見た中でこれだけは出来が良かった。主演・緒形拳、共演・河村有紀、沢淑子。どうしようもないヤクザな男(緒形拳)が江戸に戻ってくる。早速ヤクザたちに付け狙われ、矢場の女(沢淑子)のところに逃げ込む。彼には恋女房(河村有紀)がいるのだが、そこは見張られているから帰るわけにはいかない。ズルズルと女のところにとどまるが、そのことを知った恋女房が自らその矢場をたずねてくる。絶望的な状況の中の男と女、そして打開策を講じたはずが裏切られて・・・。

 河村有紀の耐えに耐えてひたすら亭主を待つ姿が限りなく妖艶だ。人妻だから眉を落とし、お歯黒にしている。それなのにすごみのある美しさだ。お歯黒が美しいとはじめて思った。

 ところで沢淑子と言えば任田順好(同じ人)である。知っている人は知っているだろう。人生劇場はたくさんリメイクされているが、竹脇無我が青成瓢吉をやったときの岡場所の女を演じたときの任田順好は忘れられない。全く美人とはほど遠いのに不思議な色気があり、激しい女と哀しい女が同居する名女優だ。1970年代の映画にはたくさん出ている。

第八話「瓦版 ねずみ小僧」。主演・田中邦衛。ふざけきった駄作。

第九話「俺は陰陽師」。主演・藤田まこと、共演・宮本信子。代々続く陰陽師の阿部家の跡取りなのに霊感が全くない男を藤田まことが演ずる。このシリーズには宮本信子が半分くらい出ている。いまは朝ドラの夏おばあさんだが当時はもっとふくよかだ。話は語るほどのものではない。

第十話「巷談 森の石松」。森の石松は長門裕之、南田洋子が共演している。石松の片目になった理由の新説が描かれ、都鳥の一家に惨殺されるシーンなど、見所がないこともないが、全般としては駄作。

 「剣」という題でくくる話になっているのはある無名の名刀が狂言回しになっているからだが、それを活かしている話もあるものの全く意味のないものもあり、全体に筋が通っているとは言えない。

 全くの期待外れだった。こんなものをNHKはわざわざ放映するな。
 
 何となく思想性、芸術性をにおわせていないこともない作品群と言えば言えるが、ほとんどが中途半端で青臭い。一応小沢栄太郎が剣の声としてモノローグするのだが、剣にはもう少し精神性を込めてもらわないと物語が上滑りになる。残念でした。

巨乳

 「マツコ&有吉の怒り新党」という水曜日の夜放映されているテレビ番組がある。あまり夜遅くまでテレビは見ないのだが、この番組だけはおもしろいので夜更かししてしばしば見る。このふたりの言いたい放題(実はまことに絶妙にコントロールされた)の会話が痛快である。

 ふたりにいじられながら進行を勤めているのが夏目三久。この女性、実にかわいくて笑顔が魅力的だ。普通の美人とは違うのだけれど誰からも愛されるやさしい雰囲気がある。このふたりに突っ込まれても慌てず騒がず、無言でにこやかに受け流すところが何とも言えない。

 この番組の前半は視聴者からの投書を元にその是非を論ずるのだが、Hカップの女性の悩みが議題となった。すかさずマツコデラックスから、そんなの巨乳自慢じゃないか、と突っ込みが入ったのだが、よくよく考えていくと、Hカップというのは滅多にないサイズであることが分かってくる(あまりよく分からないけれど)。Hカップの巨乳の苦労が思いやられてきて、最後は「たいへんだねえ」ということでその話題は終了した。

 その際に資料として日本人女性のブラカップのサイズの割合が伝えられた。驚いたことに50年前はAカップの女性が半分以上だったのに、現在は8%しかいないという。日本人女性の胸はとても大きくなってきているのだ。その分巨乳も増えているのだろう。

 中国のある新聞が、男性の多くが胸の大きな女性を好むのはなぜか、という記事を掲載した。

 原始時代、母乳がたくさん出る方が子孫の生存率に関わった記憶があるから、という説もあるが、医学的には必ずしも胸の大きさと母乳の量は相関しないことが分かっているという。ただ胸がふくよかでヒップの大きな女性は子供を産みやすいと思わせることは確かだ。それが男性にとって巨乳を魅力に感じさせている理由ではないかという。

 ただし巨乳の女性が子供を産みやすいという統計的な数字もないそうだ。そもそも男性の多くが巨乳を好む、というのも本当に統計的な事実であるかどうか疑わしい。それに胸が豊か、というのと巨乳の違いが明確でないから、統計になじまないのだろう。

 そもそもそのような好みはそれぞれの男性個別のもので、一般化してもあまり意味がない。貧乳を好む男性も少なからずいるのだから。

 ところで冒頭のHカップの女性は胸だけを見て近寄ってくる男性がいることを嘆いていたが、誰も近寄らないよりもいいではないか。何人かいたらいちばんましなのを選べばいい。ただ胸が大きすぎると肩がこるらしい。それは同情する。

 暇ネタでごめんなさい。

人災は続く

 東日本大震災は疑う余地のない天災だった。東京電力福島第一原発事故はその天災がもたらしたものであることも確かだ。しかしそれがしかるべき対策を行っていれば防げた人災だったかどうかは意見が分かれるところだ。ほかの原発では事故を免れていることを見れば、するべきことを怠っていた人災だったと見るべきかもしれない。

 問題は事故後の処置である。SPEEDのデータを隠蔽して多くの周辺住民を被曝させたことや、原子炉停止に対して再稼働を望むあまりその処置が遅れて取り返しのつかない事態に追い込んだらしいことは人災以外の何物でもない。

 ところがこのことも天災として片付けようとしている。天災ならば責任者は責任を免れると思うからだ。そのときの首相であった菅直人氏が自分には責任がない、として恬淡として恥じないのはすべては天災だから仕方がない、と言い逃れが出来ると考えるからだ。

 一国の首相ともあろう者が「すべての責任はわたしにある」というむかしの、上に立つ日本人なら当たり前のことが言えない。いつから日本人はここまで恥知らずになったのだろう。ここに市民運動家の、人を非難することのみで自分は神のような立場から正義をとなえる者の醜さを感じる。

 国のトップが責任を感じないからとらない、そうなれば以下右にならえだ。これだけの被害を国民に対して与えたのに東京電力の誰ひとりとして縛につくものがいない。マスコミも誰ひとり弾劾しようとしない。

 漏れ聞くところによればほとんどのマスコミが東京電力の経済的な力をおもんぱかってその責任を本当に追及することがないのだという。つまりマスコミもなあなあなのだ。

 今回の汚染水の漏水事故はその結果ではないのか。「汚染水の漏れはわずかだ」と言ったすぐ後に300トンの汚染水漏れが明らかになる。こんなことを繰り返している。タンクが応急的なものだから漏れたらしいと言い訳する。

 事故直後なら間に合わないこともあっただろう。しかし事故から何年たったというのだ。万全なタンクを本気で準備する気が東京電力にも国にもなかったのではないか。汚染水と言ったって、たかが水である。腐食性のものではない。日本中に漏れたら困るものを詰めたタンクなど無数にあるけれど、それがそこら中で漏れている、などと言うことは聞いたこともない。

 つまり出来ることを本気でやろうとしていないとしか思えない。訳の分からないところに予算を配分することはしても、一円にもならない汚染水対策など適当にやっておこうというのが見え見えだ。

 汚染水は何年貯めておくものなのだろう。少なくとも今のままでは何十年も、いやそれ以上にわたってただ貯めておくしかないのではないか。それがたかが一年や二年で漏れたことは重大な人災ではないのか。

 繰り返すが、本当にやる気があれば出来ることをやらずにいて起きた事故ではないのか。

 中国のある組織が汚染水漏れで海洋を汚染された賠償を求めている、と言うニュースを見た。責任があれば責任を追及される。日本国内だけなら菅直人に倣ってほっかむりが出来ると思っているだろうが、世の中はそう甘くない。人災には責任者が存在する。そしてその責任者が責任をとらない限り、人災は果てしなく続くだろう。

 気がついたらアクセス数が10万を超えていた。次は100万を目標にしたいところだがいまのペースでは生きているうちにかなうかどうか分からない。

2013年8月22日 (木)

もうすぐ10万

 「剣」という昔のテレビドラマのシリーズをNHKBSで放映していた。10回分で完結したところだ。実際はもっとたくさん話があったのかもしれない。1960年代に作られたドラマだからまだ白黒で、岸田今日子が若い武家の娘で出てくる話があるくらい古いものだ。

 実は私の記憶に強く残っている、一話完結形式の剣客の話のシリーズドラマがあった。それだろうと思ったらどれひとつとして記憶になさそうなので違うシリーズだったのかもしれない。

 本日は第一話から第四話までを見た。一話が52分くらい。多分民放の一時間番組だったはずだから、当時はそれだけCMの時間が少なかったことが分かる。いまなら45分かそれ以下になるだろう。

 第一話が「天下一の剣豪」。丹波哲郎の扮する戸沢一刀斎(多分伊藤一刀斎のことであろう。何せ弟子の筆頭が御子神典善だから。御子神典善は後の小野次郎右衛門で柳生とともに将軍家指南役となった。このドラマでは待田京介が扮している)が織田信長の御前試合で20人の剣客を打ち倒し続け(もちろんそれぞれの試合は間隔が空いている)、ついに永世名人として試合をすることを免除されるのだが、その直後に宮本武蔵に敗れるという話だ。

 第二話は「居合必殺」。林崎甚助の流れをくむ居合いの名手二人、田村高廣と山崎努がある藩の極秘の護送隊の護衛を引き受けることになる。ちょっとこの二人は異常に強すぎて、襲いかかる敵をバッタバッタと片っ端から倒していく。当然最後は二人が戦うことになる。

 第三話は「待伏せ」。敵討ちのために峠の茶屋で敵を待ち伏せする姉(これが岸田今日子)と弟(仇討ちの名義人だがまだ子供)、そして姉の許婚者と従者の四人。その峠の茶屋に居合わせたのが平幹二朗扮する無頼風の浪人だ。従者の探索で、敵がひとりだと思ったら実は五人ずれであることがやがて明らかになる。助太刀を申し出る浪人を拒否する姉。浪人は「勝手にしろ」と茶屋を出て行くのだが、むざむざ敵に討たせるのは忍びない。そこで敵方のもとに向かい「二十人ほどが弓や鉄砲まで用意して待ち構えている」と伝えて峠の茶屋を迂回させようとするのだが・・・。その策は通じず、彼はとらわれ、姉弟の命は風前の灯火となる。

 第四話は「夕映え侍」。父を殺され、敵討ちに出なければならなくなった若い侍に津川雅彦。その父を殺したのは西村晃。津川雅彦扮する若い侍はぐうたらで剣など抜いたこともない。それなのに藩主から名刀を拝領して敵討ちの旅に送り出される。彼は仇を追うと言うよりも、仇に出会わないように心がけながら日を送る。ところがどういうわけか仇が近くにいるとの知らせがもたらされ、嫌々仇の元へ向かうと逃げ出した後だったりする。そうして流れ流れて数年後、ついにばったりと仇と鉢合わせをしてしまう。

 この話は敵討ちのむなしさをとことんパロディ化して武士社会をこき下ろしているのだが、あまりのことに腹が立つ。敵討ちをやめたければ刀を捨てて町人か百姓になれば良いのだ。刀を捨てずにいると言うことは武士であることを選んでいるのだ。それなら武士としての筋を通さなければならない。あそこまでみっともない生き方は昔も今もないはずで、いくら何でも不愉快だ。

 まあ、封建時代をあのようにこき下ろすのが正義だと思う時代だったのかもしれない。ドラマに腹を立てていても仕方がない。

 ところでアクセス数が本日中か明日早々に10万を超えそうだ。当面の目標にしていた数字なのでとてもうれしい。これもこんな駄文を我慢して読んでくれるあなたがいるおかげだと感謝している。今後も楽しんで書き続けていくつもりなのでよろしくお願いします。

うわてが譲る

 岸田外務大臣が、先日駐日韓国大使と面談した。

 本日(22日)には福田元首相が日韓フォーラムに参加するために韓国を訪問している。

 日本のメディアも韓国も、日本側から日韓の首脳会談の要請をすることが目的だろうと報じている。

 来月初めにロシアでG20の首脳会談が行われる。その機会に個別の首脳会談もいろいろ行われるが、出来ればそのときに日韓首脳会談をしたいというのが日本側の意向だとみられている。

 これに対して韓国側は安倍首相の歴史認識を理由に、まだ会談には成果が期待できず、時期尚早だとして日本側から要請があっても受け入れない、との見解を示しているという。

 成果が期待できないからこそ実際に面談して対話を積み重ねる必要がある。あそこまで韓国側も極端な物言いを繰り返してしまえば、自ら日本側に働きかけることは出来なくなっている。本当は日韓首脳会談をより希望しているのは韓国側だろう。だからここは日本側から働きかけるしかないだろう。

 日本側が切望している、という体裁を整えてまず挨拶だけでも出来れば上出来だ。韓国側からの妥協は国内事情があるからすぐには無理だろうけれど、面談をする機会が出来れば韓国国民には何らかの融和進展への期待が高まるに違いない。

 その雰囲気が醸成できれば韓国の政治家もマスコミもそれを見て少しは変わるはずだ(それすら軟弱と非難するようなら韓国は絶望的だ)。

 長い道のりになるけれど、身動きのとれなくなった韓国に対してうわてである日本が段取りをするところだろう。それを日本が妥協した、などと非難してはならない。日本が失うものはあまりないのだし、融和することで両国ともに利があるのは明らかなのだからここは日本側は太っ腹でやや辞を低くして折衝することも必要だろうと思う。

 安倍首相はそんなこと百も承知だと思うけれど。

個別のスタッフの行為か?

 北京のホテルの話。

 情報が入り、確認のため新聞記者が客室清掃員としてあるホテルに潜入。実習の際に指導役のスタッフがぞうきん代わりにバスタオルを使用して便器や床を清掃、なんとそのタオルでカップも拭いているのを目の当たりにした。そのタオルは洗濯後部屋の備品に戻されていたという。

 この暴露記事に対してホテル側はこの件について謝罪し、詳しい調査を行っているところだという。ただトイレの便器を拭いたタオルでカップも拭いていた件は、個別のスタッフの行為であるとし(そんなことを信じる人がいるとは思えないが)、そのスタッフは規律違反として停職処分にしたことを明らかにした。今後は清掃に使用するぞうきんを用途別に色分けしてこのようなことのないよう徹底指導するという。

 このことが発覚後、北京の衛生管理部門も調査に乗り出した。ホテルの衛生管理状況の調査を行う。備品の消毒状況やスタッフの訓練状況などを調べて一週間以内に報告するという(通告して調べても何も問題がない、という結果しかでないだろう)。

 ところでこのホテルは三つ星クラスの看板を掲げているが、ランク付けを管理している北京のホテル協会にはこのホテルの登録がないといい、この件も調査されるという。

 どうも中国というのは信用、とか信頼ということに価値をおいていないように感じることが多い。

 今後中国のホテルに入ったらグラスやカップは念のためもう一度水道で洗い直すことにしよう。

 ところで北京の衛生管理部隊はこのホテルの調査だけで終わりにするつもりだろうか。期待は薄いが、今後抜き打ちでランダムに調査を実施してくれることを望みたい。

過去最高

 相手の国を知るにはその国へ行くことがいちばんである。もちろん旅行の仕方でその理解の深さはずいぶん違うけれど、自分の国にいたままのときよりは必ず理解が深まることは間違いない。

 7月に日本を訪問した外国人の数が100万人を突破した。これは過去最高の数だ。

 日本は海外では批判的に報道されることも多い。東日本大震災のときにはその日本を見直す報道が多かったのだが、東京電力の福島第一原発の事故はそれを打ち消して更に悪化させてしまった。その上韓国や中国が国を挙げて日本を非難するプロパガンダを繰り返しているから、世界の多くの人々の日本に対する印象は悪化していると思われる。

 それが、海外から日本を訪れる人が多くなることで少しでも悪い印象が払拭されればうれしいことである。日本の物価が高いと言われてきたが、円安にくわえてデフレが続いたことで、言われるほどではなくなったことが大きいのだろう。理由はどうあれ、今後更に来日する人の増えることは日本にとってありがたいことだ。

 来客に対するあしらいも日本はおおむね良好だと言われている。接客にあたる人々はおもてなしの心を今後とも大事にして欲しい。こういうときに最も害のあるのは偏見のある態度で接して来客を不愉快にして帰国させることだ。10人を快適にして帰しても一人を不愉快にするとすべてぶちこわしにしてしまう可能性がある。罪が重いのだ。

 ニュースでは今年1~6月に台湾から日本を訪れた人数は前年より5割も増えていてこれも過去最高だという。台湾の海外渡航者は同時期に5.6%増加だったと言うからいかに日本に集中的に訪れているか分かる。

 前にも述べたが旅行会社のパンフレットから見たアジア向けのツアーの状態は、中国向けがほとんどなくなり、韓国向けが激減(これはテレビでも報じていた)、そのかわりに台湾と東南アジア向けのパンフレットが棚にがあふれていた。

 交互に行き来する人が増えれば互いに相手を知ることが増え、理解が進めば相手に好感を持つようになることは経験的な事実である。

 韓国に対しても中国に対しても長年のそのような積み重ねで好感度を少しずつ上げてきたのに、それを自国の政治的な理由で反日を掲げたことで烏有に帰すことになった。その経済的損失がいかばかりか計り知れない。

 そんなことを行った政治家はその責任をとるべきだと思うが、それを糾弾すべき存在が尻馬に乗っている国には、いまに誰も行かなくなるに違いない。

2013年8月21日 (水)

映画「プロメテウス」2012年アメリカ

 監督リドリー・スコット、出演ノオミ・ラパス、シャーリーズ・セロン、マイケル・ファスベンダー、ガイ・ピアース。

 この映画は「エイリアン」の前史にあたる物語として企画されたけれども、できあがったものは実際にはつながらない独立した映画になっている。作ろうと思えばこの「プロメテウス」と「エイリアン」の間にもう一つ作品を作ることが可能だ。そうしないと本当にはつながらないと思う。

 映画「エイリアン」のためにギーガーの造形した宇宙船と宇宙人がこの映画では具体的に詳しく映像化されている。この宇宙人が人類創造、というか地球上の生命の誕生に関与していることはこの映画の冒頭部分で暗示される。

 考古学者たちが世界中の洞窟などに残された壁画に共通する絵があることに気がついた考古学者のエリザベス・ショウ(ノオミ・ラパス)たちは、その絵から人類の起源の星からのメッセージを読み解く。

 巨大企業がある目的でその星を目指すために宇宙船「プロメテウス」を発進させる。エリザベスたちもその一行に加わっていた。

 そして目的地の星に降り立った彼らが発見したものは何だったのか。

 その巨大企業は何の目的でこの星を目指したのか。

 ここからはネタバラシになるので実際に映画を見て欲しい。とにかく危機また危機の連続で、数多くの乗組員が次々に死んでいく。これはお約束だ。「遊星からの物体X ファーストコンタクト」と展開はにているが、いささかこちらの方が金もかかっていて出来が良さそうだ。 

 主演のノオミ・ラパスと言えばスウェーデン映画「ミレニアム」三部作のリスベット役の女優ではないか。この映画は後にダニエル・クレイグ主演の「ドラゴン・タトゥーの女」としてリメイクされたことは知る人ぞ知る。どちらもたいへん出来の良い映画だが、私はスウェーデン版の方に軍配を上げている。先に見たから仕方がないのかもしれない。

映画「遊星からの物体X ファーストコンタクト」2011年アメリカ・カナダ

 監督マティス・ヴァン・ヘイニンゲンJr.、出演メアリー・エリザベス・ウィンステッド、ジョエル・エドガートン。

 ドキドキする映画だ。南極という閉ざされた世界で正体不明のエイリアンに襲われるという、いわゆるSFホラーだが、この後日談であるジョン・カーペンター監督の「遊星からの物体X」(主演は大好きなカート・ラッセル)を見た人なら結末は分かっている。この映画のエンドクレジットの中の断片的なシーンで「遊星からの物体X」の冒頭の部分とつながる仕掛けになってる。

 ジョン・カーペンターの「遊星からの物体X」(1982年アメリカ映画)はとても衝撃的な映画で、後のSF映画に大きな影響を与えた。しかしその映画も実は1951年の「遊星よりの物体X」という映画のリメイクなのだ。ただしストーリーは大幅に書き換えられていて同じ映画とは思えない。もちろんジョン・カーペンターの方が遙かに優れている。

 普通はすばらしい映画の続編を作るものだが、この映画はその前章を描いている。確かに「遊星からのX」ではノルウェー隊が全滅した理由とそのいきさつが謎の状態で提示されている。この映画ではノルウェー隊の悲劇を後に続く物語に矛盾の出ないような形で詳細に描く。

 エイリアンシリーズの第一作の前史を描く「プロメテウス」という映画も作られている。これも最近放映された。次に見るつもりだ。「猿の惑星」の前史も作られている。最近のはやりみたいだ。

 出来はまあまあで悪くない。

 どうして危険な相手にばらばらで立ち向かうのか、いつも腹が立つのだが、ここでもそのようにして各個撃破されていく。しまいには誰が敵で誰が味方か分からなくなってしまうのだ。あまり賢くない。それにしてもそれ以上に腹が立つのは自分の手柄にこだわってみんなを犠牲にする人間だ。あとで気がついても後の祭りだ。前作を見ていないひとにとっては知っている私よりも、衝撃的で楽しめるだろう。

否定すれば嘘になるし・・・

 チャン・イーモウ監督の隠し子騒動が後を引いている。

 一人っ子政策にもかかわらず、チャン・イーモウには隠し子を含めて7人も子供がいるとして話題になった。本人は否定しているのだが、このことが問題視されると、人口・計画生育委員会が調査を開始することが明らかにされた。

 それから3ヶ月、中国メディアがその後の調査の進展具合を問い合わせたところ、何の進展もないことが分かった。

 二人以上の子供を作ると中国では高額の罰金がかかる。試算ではチャン・イーモウには最大26億円の税金が科せられるはずだという。前回の報道のときにも書いたけれど、チャン・イーモウにその税金が払えないはずがない。しかしその筋にコネのある人間はまともにその税金を払うことは少ない。関係者にそれなりの金を支払って合法的に節税するのだ。公的な行事にもいろいろ参画しているチャン・イーモウのことだから、人脈は豊富だ。規定どおりとは行かないかもしれないが、それなりの金が支払われていることだろう。

 人口・計画生育委員会も当然それにかんでいるはずだからそのことを明らかにすることなど出来るはずがない。下手に正しく調査すれば自らはもちろんどこまでその累が及ぶかしれない。といってそんな事実はない、と明言してしまえば万一子供たちの存在が明らかになったときには責任を免れることが出来なくなる。

 そういうわけで調査が困難であり、調査継続中、と答えるしかないのだ。お互いそんなこと百も承知のことだろう。

 ただ一人っ子政策そのものの見直しの材料にいささか寄与することになるかもしれない。金持ちだけ子供がたくさん持てることに対する怨嗟の声が高まるからだ。

椎名誠「足のカカトをかじるイヌ」(本の雑誌社)

 椎名誠は若い頃広告雑誌の会社のサラリーマンだった。友人と始めた「本の雑誌社」で「本の雑誌」を発行し、小説や雑文書きと編集をやり、その雑誌を書店においてもらうためにかけずり回った。その「本の雑誌」をたまたま本屋で手にしたのが椎名誠との出会いであった。

 その後サラリーマンをやめて二足のわらじを脱ぎ、作家として出発した。本の批評家として知られる北上次郎は「本の雑誌社」時代の椎名誠の盟友で、当時椎名誠は目黒孝二と呼んでいた。椎名誠がペンネームであるように北上次郎も目黒孝二もペンネームかもしれないし、どちらかが本名かもしれない。

 この人の読書量というのは想像を絶していて、月に百冊を軽く超える(一日に十冊読むこともあるらしい)。しかもその批評は的確で深く鋭い。あの抱腹絶倒の椎名誠の小説、「もだえ苦しむ活字中毒者、地獄の味噌蔵」の主人公である。活字中毒者を自認する人は探して読むべき本である(いまは集英社文庫で手に入る)。活字中毒者が活字を取り上げられたときの苦しみを自虐的に味わうことが出来る。ある意味の快感を知るだろう。

 今回読んだ本では椎名誠の日常が綴られているが、その中に彼が読んでおもしろかったという本が取り上げられている。ユニークなものが多い。こういうものをかぎ当てて読むという感性は敬服するに値する。それだけ好奇心が旺盛なのだ。

 取り上げられている中にSFもいくつかある。この人は分厚いものが好きらしい。あの忙しい中でよくそんな本を読むエネルギーがある、と感心する。この人が薦めていたダン・シモンズの「ハイペリオン」はその豊穣な世界に圧倒された。読むのにものすごくエネルギーがいるが、それだけの値打ちがある。

 今回読んだ本にもいくつか買いたい本があったのでチェックした。

 この本は「本の雑誌」に掲載していたエッセーらしきものを抜粋してまとめたものだ。

 表題にある足のカカトをかじるイヌの話はこの本では語られていない。また今度、と書いてあるが多分それきりだろう。

2013年8月20日 (火)

全国公務員試験採用活動会議

 タイトルのような長い名前の会議が中国で行われた。

 統計によると全国の公務員の数は700万人だという。会議では「公務員採用には必ず試験を」と呼びかけ、関連機関の人員補充には「試験での採用」を活かして「徳を第一に、品格と知性を併せ持った人材を確保するよう」活動していくそうだ。

 700万人というのは国家公務員だけなのか地方公務員を含むのかそれともそもそもそのような区別などないのか分からない。その公務員のうち、試験により採用されたものは40%に達したという。

 この会議では40%が試験で採用されるようになったことを成果とみているようだった。試験なしが普通だったと言うことだろう。ということは以前はほとんど口利き、コネ、による採用だったのだ。これでは採用にお金がずいぶん動いたことだろう。

 わざわざ会議で目標に掲げるくらいだから現状の公務員は「徳がなく、品格と知性に欠ける」のだろう。かかったものは取り戻さなければならないから当然か。

世界を呑み込む

 国連の報告書によると、中国は世界最大の資源消費国になっていた。2008年度の原材料消費量は世界の三分の一に当たる226億トンを消費し、なんとアメリカの4倍に達していたという。これは1970年の13倍以上であり、中国の自然資源の消費は人類史上かつてない巨大な量に達しており、これは中国に急成長をもたらし、多くの人を貧困から救ったが、環境問題は日増しに深刻化しつつある、と結んでいる。

 中国ではほとんどの大都市が基準をはるかに超えた大気汚染に覆われ、主要河川の3割、地下水の6割が汚染されている。

 中国がアメリカの4倍も資源を消費しているとは想像以上だ。人口比をも越えていることになる。限られた資源を中国は貪欲に食らいつくし、呑み尽くし、あろう事か周辺の領土領海まで呑み込もうとしている。

 その姿を中国人は外側から見る目を持たないといけない。自らを外側から見るという相対的な意識を持たないと、それこそ地球が保たない事態となりそうだ。未だに被害者意識にとらわれている彼らに、どうしたらそれを伝えられるだろうか。なんだか絶望的な気持ちになる。アメリカもそうだったが、大国というのは自分を相対化してみる、ということが出来ないもののようだ。

 本日は急な所用で出かける。日帰りの予定。

2013年8月19日 (月)

映画「パプリカ」2006年・日本

 監督・今敏、原作・筒井康隆、(声)林原めぐみ、江守徹、堀勝之祐、古谷徹。

 アニメ映画だ。筒井康隆原作のこの物語を映画にするならアニメにするしかないと私も思う。

 これは儲けものの出来のいいアニメ映画だった。消去するのがもったいないので数少ないコレクションに残すことにした。
 
 今敏という人のアニメがこれほど出来がいいとは思わなかったので、慌ててこの監督のほかの作品、「パーフェクトブルー」、「千年女優」、「東京ゴッドファーザーズ」を録画することにした。WOWOWで特集が組まれているのだ。

 「パプリカ」はサイコセラピストの話なのだが、悪夢が現実と直結してしまって無限に増殖していくというとんでもない話だ。そもそも夢を共有しようという発想そのものが神を冒涜するものなのかもしれない。しかし精神分析学なんてそれを目指しているようなところがある。

 精神科の治療というのはすべてが虚妄とは言わないけれど、かなりの部分がうさんくさい。精神病の治療は患者本人の治りたい、という意志を欠いたままでは絶対に不可能だと思う。だから病識のない精神病の患者は、病識を獲得するまでは治療らしい治療は困難ではないだろうか。ちょっと直接映画とは関係のない話になってしまった。

 唯識論と唯物論はどちらが正しい、と判定のつくものではないけれど、もしかすると両方正しいのかもしれない。それを前提として世界を認識し直すことが必要なのだろう。などとちょっと訳の分からない世迷い言をこの映画は考えさせてくれた。

映画「イーオン・フラックス」2005年アメリカ

 監督カリン・クサマ、出演シャーリーズ・セロン。

 2011年に致死性のウイルスによって人類の99%が死に絶え、残りの1%、約500万人が、開発されたワクチンにより完全隔離された地域で生き残る。その世界はワクチンを開発したグッドチャイルド一族による完全独裁、完全管理社会だった。そして400年の時が過ぎた。

 一見ユートピアに見えるその社会に反旗を翻す勢力が現れ、徐々に中枢に迫る勢いとなっていた。その反政府組織の女戦士イーオン・フラックスがこの映画の主人公である。

 不思議な未来世界の様子もおもしろいし、イーオン・フラックスたちの華麗な格闘シーンもいい。そのイーオン・フラックスに対してついに政府のトップ、トレヴァー・グッドチャイルド抹殺指令が下される。

 完璧な防御網を切り抜けて(矛盾した話だが、それには理由がある)あと一歩に迫ったイーオンはどういうわけかトレヴァーの殺害をやめてしまう。

 組織の裏切り者として、しかも政府から暗殺者として追われる立場に立ったイーオンの味方はなんとトレヴァーだった。

 その理由が明らかになり、この作られた世界の欺瞞をふたりで暴いていくのが後半である。

 この映画は一度見たと思っていたが、勘違いで初見だった。どうも同じような話の「ウルトラヴァイオレット」と混同していたようだ。こちらはまもなくWOWOWで放映される。見た映画だけれど、もう一度見て比べてみよう。

 イーオン・フラックス役のシャーリーズ・セロンは何となくケイト・ベッキンセールに似ているな、と思った。ベッキンセールのほうがもっとダークでシャープな感じがするけれど。

 所々ちゃちなところがあって不満もあるけれど、こだわらなければそれなりにおもしろい映画だ。もう一度見たくなる映画ではないけれど。

小松左京「継ぐのは誰か?」(ハルキ文庫)

 小松左京の長編小説は「日本アパッチ族」を始め、何冊か読んでいるが、この本はむかし読もうと思いながら機会がなく今回はじめて読んだ。

 時代設定は近未来であり、もちろんSF小説なのだが、ミステリー仕立てになっている。だから筋を含めて内容をここに書いてしまうとこれから読もうという人にとって申し訳ないことになるおそれがある。

 ある程度勘のいい人なら事件の経過からすぐにテーマを見極めるだろう。しかし作者はなかなかそれを明かそうとしない。ポイントの周囲をぐるぐる回りながら気を持たせるからじれったい。

 しかしその一見堂々巡りのような詳細な書き込みがスパイラル状に読者を高みに誘い、スケールの大きな世界観を目の当たりにすることとなる。

 不可思議な方法による殺人予告がこのような意外な展開につながっていくとは驚きである。

 とにかく読了すれば満足感はとても大きい。ひと時代前の小説だが、そこに描かれる科学的な知識やコンピューターシステムは少しも古くない(書かれた当時はネットワークシステムなど存在しない時代だったことを考えると驚きだ)。

 小松左京の文体は正直に言って私にはあまりなじまない。だから読むテンポをつかむまで一苦労する。しかも書き込みが多すぎるからなおさらだ。しかしその分それを乗り越えて物語にうまくはまり出すとそのおもしろさに我を忘れる。

 そのおもしろさを知るためにもこの本などは手頃かもしれない。長さも手頃なのでSF(というより小松左京)入門用にお勧めしたい。

中国人は読書しなくなったのか?

 アメリカの雑誌が、「中国人はなぜ読書をしなくなったのか」という記事を掲載した。

 中国の新聞で中国人の読書量が他の国と比べて少ないことを嘆く記事を元にしている。それによると中国人ひとりあたりの読書量は年平均で4.39冊、時間にして一日15分だった。

 なぜ中国人は本を読まなくなったのか。記事では経済的繁栄を追求するあまり、ほかのことに興味を失ったからだと分析している。

 しかし一年に五冊弱しか本を読まない、という人は日本でも普通にいる。読む人はたくさん本を読み、読まない人はほとんど読まないものだ。 
 中国は一年に81億冊の本が出版される世界一の出版大国でもある。ほとんど読まない人がいるように信じられないほどたくさん読む人もいる。そして読まないけれども書斎に難しい本を並べて自分のステイタスにしようとしている人もいる。中国も同様だろう。

 確かに中国は出版物に対して規制が多いと思われる。当然おもしろい本や興味をそそる本が限られているかもしれない。しかしそれは今に始まったことではなく、むかしからだ。

 中国人が本を読まなくなった、という前提がそもそもおかしいのではないだろうか。平均の読書量というのがどれほど意味があるのだろう。多分細かく分析すれば、たくさん読む人一部の人とほとんど読まない人に大きく分かれるのではないだろうか。

 中国は昔から一握りの知識人だけが本を読み、多くの大衆は本など読まなかった。日本のように封建時代と言われた江戸時代でも、誰もが読み書きが出来て草紙のたぐいを楽しんでいた国とは違うのだ。本を買うことが出来なければ貸本というシステムがあった。

 アメリカの雑誌は、中国の拝金思想が読書離れをもたらした、と言いたいようだが、中国の読書量が特に最近減っているわけではなく、もともと平均読書量は少ないのではないか、と私は考える。

 読書量が少なければ知識も足らず、政府からすり込まれることを鵜呑みにするものが多いわけで、政府にとっても都合が良い。これからも読書量は増えないだろう。

特殊な事件なのか?

 テレビや新聞では残酷すぎて報じないかもしれないが、ネットのニュースではくりかえし報じられることになるだろうと思われる残虐な事件が中国で起こった。

 中国の新聞報道によれば、河南省の安陽市で、生後7ヶ月の赤ん坊を抱いて若い夫婦が散歩していたところ、突然男が赤ん坊を奪い取り地面にたたきつけた。赤ん坊は頭部を三カ所骨折したが幸い命を取り留めたらしい。しかし後遺症が残るおそれがあるという。

 犯人は酒に酔っていた。

 その後この犯人が50歳の警察官であることが判明。同僚たちと酒を飲み、夫婦が抱いているのが人形か本物の赤ん坊か賭をしてその確認のために地面にたたきつけてみたのだという。

 新聞社の取材により、この警察官は規律違反により15日間の拘束処分を受けた後、職場に復帰したことが明らかになった。起訴されることもなく、解雇もされていない。

 この報道により、騒ぎが大きくなることによってこの警官は厳正な処分を受けることになるだろう。

 これはこの犯人の50歳の警官が特別異常な男だから起きた事件として処理されるだろう。確かに異常だ。

 ところがこの男は警察で処分とも言えない処分しかされていない。同僚も目撃していた事件だ。多分煽り立てもしたのだろう。少なくとも15日間の拘束をしたのだから事件は警察内部でも承知していたことは間違いない。

 ほかの文明国ではあり得ないことだが、中国ではマスコミが取り上げなければこれで済まされてしまうことが普通であることがよく分かる。

 赤ん坊を奪い取った瞬間に、またはのぞき込んだ瞬間にそれが人形か本物の赤ん坊か分からない人間などいない。それを地面にたたきつけて同僚に見せて得意げに「俺の勝ちだ」と言ったのか。それとも負けたから悔しくてたたきつけたのか。

 この男の行為を中国人全般に敷衍するのは批判もあろうけれど、この男が平然とこのような行為に及んだ背景に中国という国の精神の病理を感じてしまうのは私だけだろうか。

 赤ん坊をただの物体としてしか見ない精神は理解や共感を絶する。それを異常行為と感じないで、たいした問題ではないとする警察署は、中国という国の現実の縮図かもしれない。

 この男はこの赤ん坊が自分の子供だったら、と考えることも出来ない。多分自分の子供は猫かわいがりする男なのだろう。肉親や友人は命のあるもので、それ以外は物体でしかない。気配りや思いやりは肉親や友人にしか決して及ばない。これは中国の拝金思想、物質主義の最悪の極致をあからさまにしているように思えてならない。

 この取材を行った記者に対して警察関係者、地元政府関係者と名乗る人物から電話が殺到し、記事差し止めの要請、金銭提供の申し出があったという。

2013年8月18日 (日)

台湾の格差

 台湾の調査統計によると、2012年の所帯可処分所得の上位20%と下位20%の所得差は6,13倍だったという。

 2011年の統計では、香港が21.15倍、シンガポールが13倍、日本が6.26倍、韓国が5.54倍だった。だから台湾の所得格差は日本や韓国を上回っているのだという。

 このことを中国の新聞が「2012年の台湾の所得格差は日本や韓国よりも深刻だ」と大々的に報じた。

 ところで中国の所得格差はどうなのか、記事には明らかでない。台湾の所得格差を「深刻」と言い立てることに意図的なものがあるのは言うまでもないのだが、中国の統計値を明らかにしなければ比較にならない。もちろんとんでもない格差だから明らかになどできっこないのだろうけれど。

 それにしても日本が韓国よりも所得格差が大きいという統計は本当なのだろうか。それもどうも疑わしい。

 念のためWikipediaを見ると、国連統計値として
    アメリカ   8.4倍 (2007年)
    中国    10.7倍 (2007年)
    香港     9.7倍 (2007年)
    日本     3.4倍 (2002年)
    韓国     4.7倍 (2006年)

となっている。


 調査年が違うので比較が出来ないが、これならおおむね実感と符合する。もちろんこのあとそれぞれ格差は年とともに拡大していると思われる。

映画「コナン・ザ・バーバリアン」2011年アメリカ

 監督マーカス・ニスペル、出演ジェイソン・モモア、レイチェル・ニコルズ、スティーヴン・ラング、ボブ・サップ。

 ストーリーそのものは単純で、主人公・コナンがひたすら豪腕による力業で敵を押しまくるという展開だ。それだけでは複雑さに欠けるから、敵には魔術がある、という仕掛けになっている。確かにその魔術によってコナンは再三危機に陥るのだが、当然ながら何とかそれを切り抜けて最後は勝利する。

 以前のシリーズの後に見たこともあるが、映像は桁違いにすばらしい。原作のイメージが彷彿とする。そして以前の作品で哀しかった女優の魅力不足が今回は打って変わって二重丸。それだけでもこの作品は成功だ。

 ヒロインが危険な目に遭ってもそのヒロインに魅力が足りないと別にハラハラしない。美女だと本当にハラハラする。まことに現金なものだ。

 テンポも速く、シーンも盛りだくさん、そのうえ上映時間が112分(正味100分ちょっと)だから濃度が高くて楽しめる。変に突っ込みを入れないで(入れようと思えば山ほどあるけれど)鑑賞すれば、結構満足するはずだ。

 コナンの父親役でロン・パールマンが出ている。この人をはじめて見たのは「薔薇の名前」だ。あのゴリラ顔は強烈な印象を残す。ところが最近はいい役を好演していることが多い。好きな俳優のひとりだ。

映画「キング・オブ・デストロイヤー/コナンPART2」1984年アメリカ

 監督リチャード・フライシャー、出演アーノルド・シュワルツェネッガー、マコ岩松。

 コナンシリーズのリメイク、「コナン・ザ・バーバリアン」2011年アメリカ映画を放映するにあたってWOWOWがシュワルツェネッガー出演の二作品を同時放映してくれた。

 第一作にあまりいい印象を持たなかったためにこちらのPART2を見ていなかったのだが、前作の評価の際に指摘した、原作の呪術的な要素がこのPART2にはふんだんに盛り込まれている。

 特撮技術は時代のせいもありやや稚拙だが、全体としてはまあまあおもしろく作られていると言える。

 ところでこの映画を見ていて感じたことは、「マッドマックス」との共通点だ。もちろん「マッドマックス」の第一作はマックスがマッドマックスに変貌するというお話なので、少し違うけれど、「マッドマックス2」「マッドマックス サンダードーム」のバイオレンスな世界と、その中をたったひとりで自分の力だけで生き抜いていくというストーリーは底流で共通している。

 こういうタイプの映画は思い返すとずいぶんたくさんあって、カルト映画には特にその手のものが多い。SFにもそのようなジャンルのものがたくさんある。

 そして実はその手の映画や小説が大好きなことを私は今更のことながら今回気がついたという次第である。そして欧米人もその手のものが好きらしいのだが、日本人の多くの人はあまり好みではないみたいで、そのぶん少数のマニアックなファンがいるというように感じられる。

 さあ、午後は本命の「コナン・ザ・バーバリアン」を楽しむことにしよう。

 昨日は息子も広島へ帰ってしまい、またひとり暮らしに戻った。盆や正月、五月の連休などに、子供たちの還ってくるのを楽しみにしながら、時がたてばまたちりぢりになるのは何となく寂しい。

 そういう気持ちのときにこういう映画はふさわしいような気がする。

映画「コナン・ザ・グレート」1982年アメリカ

 監督ジョン・ミリアス、出演アーノルド・シュワルツェネッガー。

 だいぶ昔にビデオを借りて、見たことがある。ロバート・E・ハワードの原作はSFの一ジャンルとしてのヒロイック・ファンタジーとして有名だったから期待したのだけれど、出てくる女優に何となくがっかりしてしまい、そのときはいい印象がなかった。

 記憶としては低予算のカルト映画のランクだったのだが、今回見直してみたらそれほどひどい映画ではなかったことが分かった。

 原作はもう少し呪術的な世界なのだが、そこがやや中途半端に描かれていることが不満とは言え、格闘シーンなどはリアリティがあって見直した。

 よく見ると死体がごろごろしていたり、その死体を食材にして料理しているシーンなどがちらちらと現れる。そういう点ではかなりえげつない映画だから気の弱い人は所々正視したくないところがあるかも知れない。

 この映画でアーノルド・シュルツェネッガーはブレイクした。しかし本当にメジャーになったのはあの「ターミネーター」だ。私は上映を待ちかねていて封切りの日に映画館で見て、期待以上の出来に大満足したが、「ターミネーター」も当初はカルト映画の扱いだった。映画を見たひとからの口コミで急激に人気が上がったけれど、ロングランはしなかったような記憶がある。

2013年8月17日 (土)

映画「007 スカイフォール」2012年イギリス、アメリカ

 監督サム・メンデス、出演ダニエル・クレイグ、ハビエル・バルデム、レイフ・ファインズ、ナオミ・ハリス、アルバート・フィニー、ジュディ・デンチ。

 最初の息をもつかせぬノンストップアクションはいままでの007と同じなのだが、全体としては従来の007とはテイストが違うように感じた。

 それは007に、そしてMI6にゆとりのなさが現れているからだろう。どんな強敵に対しても、もう少ししたたかな戦いをしてきたのに、今回はずいぶん敵に食い込まれ、敵のペースで戦いが進められている。

 最後は自らの究極の拠点、スカイフォールに敵を誘い込んでの背水の陣での肉弾戦となる。敵の首魁のシルヴァという存在の、MI6やMに対する恨みが今ひとつわかりにくかった。それはもっと映画を集中してみていれば分かったのかもしれない。ちょっと映画が長いのでややだれた。

 世代交代、ということも大きなテーマのようだ。これからMI6はどうなっていくのだろう。そしてジェームス・ボンドはどのような役割を与えられていくのだろうか。

あこがれの男性

 シンガポールのある新聞が、シンガポールの一部の女性の間で中国人男性と結婚するのが人気だと報じた。

 シンガポールへ進出してくるような中国人男性はそれなりに資産や知識、向上心のある男性が多いから人気があるのは理解できる。

 ところがこの記事を受けて中国のメディアが、「世界の数多くの国の女性が皆中国人男性と結婚したがっている」と報じた。

 それは中国人男性が「勤勉で、結婚前は辛抱強く、結婚後は妻一筋、酒を飲んで暴れたりせず、家庭の主夫になる。年配者をいたわり、子供をかわいがる」として知られているからだとしている。

 だから中国人男性は日本のみならず(!)、ロシア、ベトナムでも大人気なのだそうだ(知らなかった)。

 ある一部の現象を普遍的な現象ととらえてしまう。こうなると妄想の世界としか思えない。さすがにこの記事に対して中国のネットユーザーから疑問の声が上がっていると言う。

 中国人男性にも知性と理性と健康の備わったあこがれの男性が存在するだろう。ただそれを中国人男性一般がそうだなどと誰も思わない。そんなすてきな男性はどこの国にも一定の数だけいることだろう。そしてその割合が中国人に限って特に多いなどと信じるものは中国人だってほとんどいないだろう。

2013年8月16日 (金)

山本夏彦「誰か『戦前』を知らないか」(文春新書)

 副題は「夏彦迷惑問答」。

 山本夏彦は素養が深く、世の中の裏を透徹して見抜く怜悧な眼を持ち、諧謔に富んでいる。その山本夏彦が自社の女子社員を相手に、珍問答を繰り広げたものを文章化した。

 「戦前」とは暗黒時代だったと思い込ませようとする人々がいて、ほとんどの戦前を知らない世代はそう思い込まされている。しかし戦前はそれほど真っ暗でも何でもなく、一般庶民は太平洋戦争が始まるまではそれほど悲愴感を持っていたわけではなかった。

 そのことをいろいろなテーマを元に語っていくのだが、そもそも言葉そのものがすんなり伝わらない。だが山本夏彦が選ぶような対談相手の女性だから、生来素直で打てば響くように山本夏彦の教えを理解する。

 デモその女性が特別な女性であるわけではないと思う。素直な人ならば、山本夏彦の言うことは分かるのだ。そしていかに自分たちがそんな当たり前のことを知らされていないかに愕然とするはずだ。戦後の教育がいかに偏向したものであるかが、知っていて当たり前のことを知らされていない、ということの中で明らかになっていく。

 あげられたテーマ「大正デモクラシー」「活動写真」「郵便局」「牛鍋の時代」「ライスカレー」「寿司そば」「ラーメン」「教科書」「女学校」「きもの」「ふみ書きふり」「洋行」そして最後に「菊竹六鼓と桐生悠々」で新聞というものに対して徹底的に毒舌をぶつける。

 山本夏彦はすでに物故しているが、私にとっては永遠に生きている人で、この人の言説はくりかえし拳々服膺している。

政府糾弾デモ

 韓国のソウルで政府糾弾デモが同時多発的に行われた。朴槿恵大統領は発足後はじめて放水銃によるデモ鎮圧を行った。

 糾弾の理由は韓国の情報機関、国家情報院に対してのものである。

 国家情報院は韓国のCIAにあたり、韓国中央情報部(KCIA)と呼ばれていた。これが国家安全企画部と名称を変え、更に現在は大韓民国国家情報院となっている。昨年、2012年の大統領選挙の際にインターネット上で野党陣営の文在寅候補に対して誹謗中傷する書き込みを指示して選挙に介入したとして、ときの国家情報院の院長が在宅起訴されている。この後処理が曖昧だ、というので朴槿恵大統領に対して非難が寄せられているのだ。

 更にその先代の情報院院長も在任当時に収賄したという罪で逮捕されており、国家情報院の解体を要求する声が上がっている。更に朴槿恵の大統領としての正当性まで問われることになっているのだ。

 しかしこの動きには裏があるのが見え見えなのだ。このデモは南北朝鮮の統一と離散家族の再会、金剛山観光の再開などを強く求めている。国家情報院の最も重要な役割は北朝鮮の政治工作を防ぐことだ。

 つまり北朝鮮からの強い働きかけがあるだろうことが明らかなのだが、この十年北朝鮮シンパのこのような行動は公然たるものになっている。このような動きも牽制しながら反日にも迎合し、先行きの経済の暗雲にも対処しなければならない。朴槿恵大統領は本当に困難な状況にある。

 このような動きが表面化するのは、韓国も極端な格差社会になっていて、社会全体に不満が昂じていることが背景にあると思われる。

大気汚染が原因か?

 中国を訪れる外国人観光客が減少しているという。今年上半期は前年同期比で5%の減少、特に北京の故宮や万里の長城などの観光スポットは15%の大幅な減少だった。

 これは世界的な不況や人民元レートの上昇が影響をしていることに加え、鳥インフルエンザや深刻な大気汚染などが大きく影響した、と中国では見ているという。

 確かにそのような理由は大きいと思う。しかし私は最近の観光地での中国人観光客の激増によって、外国人観光客がじっくりと観光できなくなったことに嫌気がさしているのが主な原因ではないかと思う。

 他の国に行ってさえ顰蹙を買う中国人観光客の傍若無人ぶりは、中国内の観光地ではそれ以上だ。そのやかましさとマナーの悪さに辟易した話は次から次に伝えられて新たな観光客を減らすことにつながっているのではないか。これは私の経験からの実感だ。もちろん最も激減しているのは日本からの観光客であることは言うまでもないだろう。

 だから中国を訪れる観光客は、韓国人以外は、今後あまり増えることはないのではないだろうか。

2013年8月15日 (木)

延命移住

 広西チワン族自治区の、深い山間部の世界有数の長寿村に都市部のがん患者数万人が延命を求めて移住しているのだそうだ。

 8割が都市部の大病院も見放した患者だと云うが、少なくとも6割が移住後に「症状が好転した」と感じているらしい。

 特別な治療をしているわけではなく、水道水を飲まずに山奥に湧き出す泉を飲み、きれいな空気を吸うだけだという。

 重症の糖尿病の患者がインシュリン投与の回数が激減する例もある。

 患者の多くが上海からの移住者である。上海の汚染された環境が、がんなどの疾病に大きく関係していると云うことだろう。

 日本でも転地療養というものが昔からある。意図的にこのような治療を試みて山間部の過疎地を再利用して過疎化対策を進めれば、医療費の削減と併せて大きな社会的な利益が上がるかもしれない。

 これを伝えた中国の記事では「押し寄せた大都市からの移住者によって、やがてこの村も汚染されてしまうだろう」と悲観的な予言をしている。

マッサージチェア

 母の米寿のお祝いに子供と孫たちでマッサージチェアを送ることにした。弟のところにもう届いていて早速交替で試してみた。全身をいろいろな方法でマッサージしてくれるしメニューも多い。温泉などにおいてあるのより大きくて多機能。ずいぶんといい値段がしたが、いつでも誰でも気が向いたときに使えるからせっせと使い込めば役に立つし無駄にならない。

 ただ首と肩を重点的にもんでいたらやり過ぎてかえって痛くなった。過ぎたるは及ばざるごとしだ。

 母も足元がおぼつかない状態だし、出かけるのがおっくうだというので、弟の家で仕出しをとってお祝いをする。残念ながら娘のドン姫は仕事で参加できない。

 三年前に97歳で死んだ父は死ぬ直前まで庭いじりをするくらい元気だったし、書き物をしていて意識もしっかりしていた。しかし母は父が死んだ頃から発話障害になって会話が困難になり、歩行も徐々におぼつかなくなり、今はすり足歩行状態。車いすが必要になるのはまもなくだろう。家の中をそれに合わせた改修をする予定だ。

 急速に衰えていく母を見ていると悲しくなるが、どうも自分も物忘れが激しくなってきている。人ごとではないのだ。父の血を引いて最後までしっかりしているか、母のように衰えるのか、残念な方に行きそうで不安だ。

 千葉県は名古屋よりやや涼しい。夜は窓を開けておくとさわやかな風が入ってよく眠れた。

2013年8月14日 (水)

杞憂か?

 中国のバブル経済が破綻するのではないか、と昨年来云われてきた。4~6月には経済指標になる指数が悪化して、その兆候が現れた、と思われたが、7月の工業生産の伸びや鉄鉱石の輸入量の急回復、鋼材生産量の回復と価格の持ち直しがあり、輸出もプラスに転じ、車両の販売台数も二桁の伸びを示した。

 中国はこの事実をもって「中国経済崩壊説」は杞憂だ、とアピールしている。

 確かに中国は外貨準備高も巨額だし、公的な内部留保が大きく、懐が深いので、そう簡単には崩壊しないかもしれない。

 最も懸念されるのが地方政府の過剰投資が焦げ付くことだが、それを中央政府が火消しすることができるかどうかだろう。

 7月は対前月で大幅に経済指標が伸びた。それは6月が非常に悪い数字だったからある意味で当然だ。しかしすべての数字は確かに中国経済の底堅さを表していることは間違いない。

 ただ、偏見かもしれないが中国の統計数字は信用できないと思っている。ある情報によれば、経済が10%近く伸びている、といいながら、物流の量はほとんど変わらないか、やや右肩下がりだという統計もある。経済が伸びながら物流が伸びないなどと云うことは本来あり得ない。

 どうも中国経済は停滞に入っていてほしい、崩壊してほしい、という思いがこちらにあるのかもしれない。世界がそれを取りざたするのも何となくそれを願望しているからではないか。中国はあまり歓迎されていない、ということの現れだろう。

2013年8月13日 (火)

屋上屋を架す

 屋上屋を架すと言えば、すでにある屋根の上に屋根を架けることで、無駄なことをすることのたとえである。

 屋根の上に屋根を架けるわけではないけれど、北京の高層マンションの屋上に、別荘を建てた大学教授が話題になっている。その床面積は現在1000平米を超えていると言うから尋常ではない。

 この屋上の権利は確かにこの教授が買い取ったものだという。六年前から工事が始まり、草木の生えた岩山までしつらえてある。さらに工事は続行中らしい。その工事の騒音に悩んで階下の住人から苦情が寄せられているのだが、この教授は「私が屋上に何を建てようが他人の知ったことではない」と開き直っているそうだ。

 この工事の影響か、階下の配水管が損傷し、複数の所帯で漏水事故が発生している。地元の都市管理当局は別荘の強制取り壊しの許可手続き中だという。

 中国や台湾ではビルの屋上に家が建っているのをよく見かける。しかしこの教授の別荘と称する代物はそんな穏やかなものではないようだ。教授などという人間には常識を欠いた人物がときに存在する。中国はその割合が日本より高そうだ。でもこのニュースは12日付の中国のニュースアクセスランキング一位だと言うから、中国人もびっくり、だったらしい。

 今晩遅くに息子と千葉の実家に帰る。お盆と母の米寿の祝いがある。16日にはとんぼ返りの予定。

国家政権転覆扇動容疑

 中国の人権活動家・楊林氏が国家政権転覆扇動容疑で公安当局に逮捕された。楊氏はノーベル平和賞を受賞しながら中国で拘束されたままになっている劉暁波氏の民主化要求文書に署名するなど、中国の共産党一党独裁を批判してきた。

 こういう命がけで活動している人権活動家は尊敬に値する。どこかの国の、物事の優先順位のめちゃくちゃな、とんちんかんな妄言を吐く人権活動家とは全く違う。

 ところで国家にとって不都合な言動に対しては、言論の自由をうたっている国でも、それを罰したり規制することがありうる。やはり世の中には言っていいことと悪いことがある。

 鳩山由紀夫氏の言動を規制することは出来ないものだろうか。

 日本人の多くは鳩山由紀夫氏の言動を不愉快に感じていることは間違いないだろう。それなのに中国は鳩山由紀夫氏の言動をとてもうれしそうに報道する。その報道は、日本を不快にさせることよりも、中国国民に、多くの日本人は実は鳩山由紀夫のように考えているのだ、と思い込ませようとしているもののようだ。このことは善意にも悪意にもとることが出来る。しかし事実ではないことは確かだ。

失踪?

 朱建栄氏と言えば日本の東洋学院大学学長で、テレビに中国人のコメンテーターとしてたびたび登場するから知っている人も多いだろう。

 その朱氏が7月に日本から上海に出国して以来消息が不明になっているという。7月中に日本に帰る予定で、大学の勤続表彰の式典に参加することになっていたが欠席している。問い合わせに対して大学では朱建栄氏がまだ日本に帰国していないようだ、と回答している。

 中国当局に拘束されているのではないか、との憶測が、日本、台湾、香港のメディアで取りざたされているが、今のところ中国大陸の報道は全くない。

 朱建栄氏はご承知の通り、ほとんどこじつけに近い形で中国側に立った発言を繰り返してきた。だから日本人の感覚からすれば中国当局が氏を問題視するとは考えにくいが、その姿が逆に中国の主張のおかしさを戯画化して見せているところがないではない。

 それが中国にとって不快なことに見えないことはないかもしれない。

 しかしこのことが大きく問題になり出したら必ず中国はこう言うだろう。「彼の発言に不快感を持った日本の右翼が彼に危害を加えたに違いない」と。それはまさに朱建栄氏が言いそうなことでもある。

2013年8月12日 (月)

規則

 日本に来た中国人が口をそろえて、日本人は信号をよく守る、と言う。
 
 信号は守るべきものだと言うことを中国人ももちろん知っている。最近は学校でも信号を守るよう教育している。しかし現実には信号が赤でも渡れるとなれば信号を無視して道路を渡るものが後を絶たない。

 これは根本的な意識の問題だ、と中国のメディアは言う。私は意識の問題と言うよりも、思想の問題だと思う。

 日本人は規則は守るべきものだと考える。中国人は規則をどうしたら破っても罰せられないか、と考える。規則は、破るためにあるかのようだ。

 日本人は規則を守れば自分も守られる、ということを経験的に知っているが、中国人にとって規則は自分たちを守るものではなく、権力者が自分たちを拘束するために存在する、という長い経験が染みついているのだろう。

 それだから国際海洋法など屁でもないと言うことになるだろう。

信じられないうっかり

 朝、ぼんやりと海外ニュースを見ていたら、スペインでのとんでもない話が報じられていた。

 47階建ての高層ビルにエレベーターをつけ忘れたというのだ。このビルはほぼ完成しており、テナントも35%が契約済みとのこと。

 今更エレベーターを増設するスペースはないとのことで、このままだとテナントは階段を上り下りするしかないそうだ。

 いったいどうしてこんなことになったのか。当初このビルは20階建てで設計されたが、施主の方針変更で47階建てに設計を書き直した。そのときにエレベーターを組み込むことを忘れていたからだという。

 しかしテナント契約した人はどのようにして上に上がったのだろう。工事用のエレベーターがあったはずだからそれを利用したと言うことだろうか。

 部外者にとっては笑い話だが、契約した人たちはこれからどうするのだろうか。

2013年8月11日 (日)

ツアーがない

 韓国へ行く日本人観光客が激減している。観光会社の統計では前年比25%程度の減少だと言うが、韓国現地では4割以上減っている実感だという。

 その理由を問うと、北朝鮮の軍事的行動を懸念しているのではないか、円安つまりウオン高だからではないか、と答えるのだが、李明博が竹島に上陸して以来、反日感情が高まっている韓国に日本人が嫌気がさしているからだろう、と答える人はほとんどいないらしい。

 竹島問題が大きな理由だということは日本人なら誰でも感じていることだが、韓国の観光業の人はそれを言わない、ということに韓国の恐ろしさがある。それを言うことが出来ないのだろう。まさかそう思っていないはずはない。

 しかしそれでも韓国への旅行のツアーはどの旅行会社でもたくさん企画していて、店頭のパンフレットも台湾に次いで多い。

 問題は中国のツアーだ。私はほとんど毎年のように中国へ行っていたけれど、昨年の反日暴動の前くらいから、我慢している。そろそろ行こうかな、と思って名古屋の旅行会社でパンフレットを探したら、中国行きがほとんどないのだ。

 ツアーのホテルと往復の飛行機に相乗りし、出来る範囲で観光のところを自由行動にさせてもらう形で行くことにしているが、ベースのツアーそのものがほとんどないのではどうしようもない。すべてを自分で組むとずいぶん割高になってしまう。

 先日大阪に行ったとき、大阪ならそれでもいくつかあるだろう、と思っていたのに名古屋以上にパンフレットがない。ということはそれだけ募集しても集まらない、ということなのだろう。

 秋には友人たちと東南アジアに行く予定だ。一度海外へ行くとすぐ一人で出かけたくなる。成田や羽田発ならそういうツアーがあるだろうか。

やや二日酔い

 昨晩は若い(私から見て、だけれど)友人と酒を飲んだ。こんなわたしにつきあってもらえることをありがたいと思う。

 調子に乗るとつい自慢話になってしまう。酒が入ると針小棒大に話を膨らませてしまい、後で恥ずかしいこと限りない。

 本日は若干の二日酔いのままマンションの自治会に参加。今日も猛暑だ。セミがあちこちに転がっている。

宇野信夫「話のもと」(中公文庫)「しゃれた言葉」(講談社文庫)

 奥付を見ると、「話のもと」は昭和56年、「しゃれた言葉」は昭和59年に刊行されている。

 彼は明治生まれだからすでに鬼籍の人だが、その文章は洒脱で粋だ。

 劇作家として大家であったが、若いときから芸人との深い交流があり、その思い出がたくさんの小さな珠玉の物語として語られる。また若いときから書き留めた短い物語はそのまま彼の戯曲のもととなった。

 それこそこの本を語るにはすべてここに引き写した方がわかりやすいのだが(当たり前だけど)、この人を記憶して本屋で探しててにとることを是非お勧めしたい。

 取り上げられた話の中で取り立てて目立つ話ではないが、「しゃれた言葉」の中の「老の坂道」の中の一節。

「私の友達の母親は、若いときに夫に先立たれ、女手ひとつで苦労の中に子供三人を育てあげ、いまは気楽な身になっている。しかし、若いときから働き通した人だから、七十に近いというのに、いまだに台所で働いている。
 この母親が、生まれてはじめてという病気をした。やっとよくなったので、子供たちが相談の上、母親を温泉へ静養にやることにした。
 一週間ばかりたって、息子が旅館へたずねていくと、母親は、すっかり悲観していて、早く家へ帰りたいという。
 三度三度の食べ物が他人の手によって運ばれる--これがいかにも不思議のような気がしてならない。自分のこしらえたものしか食べたことのなかった母親には、ひと手によって運ばれてくる食べ物が、味気なくって仕様がない。まずくって仕様がない。
 息子は、まあまあそう言わないでゆっくり養生してくださいと言って帰ったが、あくる朝、台所で水道の音がするので目をさました。母親が無断で温泉場から帰ってきて、台所でせっせと働いていたのである。」

 たったこれだけの話である。

 私の母親は七十を過ぎて弟の家族と同居して暮らすようになり、食事を自分で作ることをやめた。母親が一気に年寄り臭い老母に変わったのはその頃からのような気がする。

2013年8月10日 (土)

武田雅哉「〈鬼子〉たちの肖像」(中公新書)

 副題は「中国人が描いた日本人」。先般、中国人の言う「鬼」とは異人、つまり人間ならざるものであると述べた。人間とは誰か。中国人である。中国人ならざるものはすべて異人、鬼なのだ。北狄西戎南蛮東夷と呼ぶ。すべて人間ならざるものだ。西洋人が中国を蹂躙した頃、洋鬼と呼ばれた。それに日本人が加わり、中国への侵略の主役となると東洋鬼と呼ばれた(今も蔑称として密かにそう呼ばれる)。

 この本は、19世紀頃からの中国人が見た日本人と日本について「点石斎画報」という当時のグラビア誌の挿絵をもとに紹介したものだ。

 とにかく挿絵が多くて楽しめる。現実の日本とは似ても似つかないものもあるが、それこそが中国人の見た日本なのだ。

 この本を読み、絵の意味を解説してもらうことで、日本と日本人について別の視点を持つことが出来る。同時に中国と中国人についても今までとは違う視点を得ることが出来る。

 絵が多いし、しかもその絵が細密な上におもしろいから楽しめる。買って読んで損はない本だ。

レッテル貼り

 韓国がおかしい。

 韓国の文化財庁が歴史的、文化的に価値が高い衣類や遺品を文化財として新たに登録することになった。

 その衣類や遺品に関係した人物に親日的な人がおり、それを問題だ、と一部政治家や団体がクレームをつけたのだ。

 親日的な人を歴史的に評価することは「抗日独立運動家に対する冒涜であり、たとえ価値があっても登録すれば免罪符を与える口実になる」というのだ。この人たちは歴史や文化を、反日か親日かという二元論で評価することが正義だと考えている。いろいろな人がいるのはかまわないが、この人たちは自分たちと違う考えのものを排除しようとしている。正義の味方のおぞましさを感じる。

 それぞれの歴史的に功績のあった人はその時代に国のためにどのように行動したら良いか考え抜いて努力した人たちであろう。日本との関係を良好にすることが韓国のためになる、と信じて行動した人は多かった。

 第二次世界大戦の後、資源も工場もない南側の大韓民国は、資源も豊富で日本の造ったダムや工場の残っていた北朝鮮に比べて極めて貧しい国だった。そのために朴槿恵大統領のお父さんである朴正煕大統領はその当時日本との関係を正常化することを最優先と考え、戦後賠償の点でも日本と妥協した。そのときに日本からわたされた巨額の賠償金をもとに「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる奇跡の経済成長を成し遂げた。

 それに関わった多くの立派な人が韓国にも日本にもたくさんいた。もちろん巨額の金が動くときにそれを私した人間もいただろうが、それは一部だと思う。ところが今になって親日的だったことを犯罪者のように言うのはそれこそ歴史を見ない妄言だ。

 現在の韓国の繁栄の多くはそのような人たちの功績によっている。もし日本と正常化していなければ、韓国は今の北朝鮮と同じように貧しい国のままだったかもしれない。それを正当に評価しないというのは韓国の将来は危ういと言わなければならない。

勘違い

 人民日報のコラムに「我が国は資本主義路線に転換したなどと勘違いすべきではない」という文章が掲載された。

 現在の経済的な成長は「特色ある社会主義」の功績であり、資本主義を採用したからと見るのは間違っている、ということのようだ。

 一部の人は改革開放政策を部分的に資本主義を取り入れたものでその分社会主義を放棄した、と考えているようだが、改革開放政策は以前からの社会主義的計画経済をモデルにしたもので、現在の繁栄は資本主義導入によるものではない、のだそうだ。

 社会主義と資本主義には類似する部分もある。具体的に共通点もある。それを見て「我が国が資本主義に路線に転換した」などと勘違いしてはならない、と断言している。

 へりくつもここまで平然とやられると反論するのもばかばかしい。しかし中国のネットにはこのコラムに対して酷評するものが大量に寄せられている。共産主義と民主主義、という対比と社会主義と資本主義との対比を混同した、このような文章を恥ずかしげもなく書いた人物が教授だと言うから驚きだ。しかもそれを掲載した人民日報も人民日報だ。何が言いたかったのだろう。

 今の中国は社会主義でも共産主義でもない訳の分からないものになっている。だから共産党の一党独裁の存在根拠は、ただ反日にしかない。それにすがるためにいっそう日本攻撃をエスカレートすることだろう。

 日本は自らまいた種の責任をとらされることになった。中国大陸で過去行った無意味な戦いの責任であり、素人集団の民主党に国を預け、尖閣問題に火をつけて中国に口実を与えたことの責任だ。

 中国の勢いが衰えるまで、当分はじっと堪え忍ぶしかないようだ。

2013年8月 9日 (金)

心配

 韓国の朴槿恵大統領が極端に中国に傾斜しているのが心配だ。それを韓国メディアはもてはやしている。

 北朝鮮の脅威を軽くするために中国に接近するのは、戦略として当然のことだろう。しかしそれとバランスをとる意味で日本との関係修復も必要だ。ところが自分の父親が親日的であったことから、親日派ととられることを恐れるあまり、かえって反日的な言動を強化することでその道を閉ざしてしまった。

 それは中国にとって笑いが止まらないことだろう。日米韓の協調こそが中国にとって脅威だったのだから、そこにくさびを入れることになり、思惑どおりだ。今のままだと韓国とアメリカとの関係も怪しくなりかねない。

 そもそも韓国にとって最も危険な隣国である北朝鮮の金王朝を支えてきたのは中国だ。だから韓国がどれほど外交的に中国に働きかけたところで、北朝鮮には圧力とならないのではないか。それこそ中国に北朝鮮と仲良くやりなさい、と仲介されるだけだろう。金王朝の延命の手助けをすることになりはしないか。

 中国は次に韓国の米軍基地の縮小を提案してくるだろう。中国と仲良くしている限り中国も北朝鮮も韓国の脅威とはならないのだから、米軍基地は必要ない、という論法で押してくるだろう。

 アメリカのオバマ大統領は予算の縮小を迫られる中、対外戦略の縮小を進める気配だ。他の国がどうなってもアメリカさえ良ければかまわない、という考え方の外交を始めている気配が見える。

 韓国がいらないというのなら韓国の基地の撤退縮小を受け入れるかもしれない。朝鮮半島と中国歴代の王朝との関係の歴史をひもとけば、次に中国が半島に手を出すことは必至だ。

 中国政府は、もともと韓国は中国の領土だ、と考えているかもしれない。韓国メディアの反日報道の背後には北朝鮮シンパがうごめいているとも言われる。多分事実だろう。

 長い休戦が終わり、朝鮮戦争の第二ラウンドが始まろうとしているような気がする。

 朴槿恵大統領は国を誤らせるような方向に突き進んでいるように見える。韓国を助けたいが、情勢を的確に判断し、韓国で日本のさしのべる手に応えるべきだと考える人は、今の韓国では売国奴として糾弾されかねないから多分身動きがとれないだろう。韓国の最大の問題は、まっとうな判断をする人が自分の主張を封殺されていることだ。

比叡山

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京都駅からバスで比叡山に行こうと思ったら本数が少ない。そこで大原行きのバスに乗り、八瀬まで云ってケーブルカーに乗ることにした。比叡山は標高848メートル。ケーブルカーはそのうちの541メートルを最大斜度28度という急勾配で上る。単線で上と下から同時に出発し、途中ですれ違う。すれ違うところだけうえの写真のように複線になっている。

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ケーブルカーからロープウエイに乗り継ぎ、比叡山の山頂に立つ。思った通り風が涼しい。はるかに京都の町や琵琶湖を見下ろすことができる。残念ながらもやにかすんでいて写真に撮ることはできない。そこからシャトルバス乗り場まで650メートル-ほどの山道を歩く。バスに乗って根本中堂、戒壇院、阿弥陀堂、東塔などを拝観した。

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昔の人は徒歩で山に登り、この広い堂宇を拝観したのだ。信長が焼き討ちをしたために最澄が開基したときの輝きは失せているけれど、その面影はうかがえる。

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一息入れてからふたたびロープウエイとケーブルカーを乗り継ぎ八瀬まで下りた。今度は八瀬から出町柳まで叡山鉄道に乗ろうと思い、八瀬駅まで歩いて行くと、川で水遊びしている人たちを見た。とても気持ちよさそうだ。

出町柳から京阪に乗り、大阪へ。夜は天王寺で友人二人と飲んだ。仕事を離れて三年以上たつのについ会社時代の話をしてしまった。それほど仕事人間ではなかったのに。

2013年8月 8日 (木)

むかしは日本人も

 中国の観光客が世界中でマナーの悪さを非難されている。このことは中国人自身もずいぶん気になるらしく、マスコミも盛んにモラルや礼儀をわきまえるように呼びかけている。

 そんな中に「今や欧米の観光地でもマナーの良さで高い評価を受けている日本人もむかしはそうではなかった」という記事が出ていた。反日の風潮でもそれは認めてくれているようだ。

 「日本が戦後の経済成長により、海外渡航が増えたばかりの頃は、日本の団体旅行者は国際的な知識に欠け、マナー不足を指摘されていた。そしてバブル期の消費行動は海外から顰蹙を買っていた。バブル崩壊とともに落ち着きを取り戻し、国際化も進んで今のように高い評価を受けるようになった」と記事は言う。

 「だから中国の観光客も今に国際化が進んで来れば海外での評価も変わるし、現にその変化は現れ始めている」「そうなれば海外でも中国人は礼節を重んじる、といわれるようになる」と結んでいる。

 普通の日本人には他人の目を気にする、という恥の文化がある。他人が嘲笑している、と気がつけば恥ずかしいからそれを改める。

 中国人には自分が正しい、と言い張る中華思想がある。他人が嘲笑している、と知ればくってかかるだろう。

 中国人が自らを改めて礼節を知る人々だと言われるようになるのはずいぶん先のことのような気がする。そうなった暁には周辺国との諍いもなくなっているかもしれない。わずかかかもしれないが希望を持つことにしよう。でも私の生きているうちにこの願いは叶うだろうか。

 本日は大阪で友人たちと暑気払いの予定。どうせ飲み始めたら最終で帰れないのは明らかなので大阪に泊まる。朝少し早めに出かけて京都に行こうと思う。暑そうだから、比叡山(行ったことがない)にでも登ろうかと考えている。

 だからブログの更新は間が空くかもしれない。

2013年8月 7日 (水)

映画「ノーベル殺人事件」2012年スウェーデン映画

 監督ピーター・フリント、出演マリン・クレピン、レイフ・アンドレ、エリック・ヨハンソン、ペール・グラフマン。

 あの傑作映画「ミレニアム」のスタッフが、世界的ベストセラーのアニカ・ベングッソンシリーズの第六話を映画化したものだそうだ。

 とにかく音楽がいい。もちろん映画のテンポもすばらしい。スウェーデン映画、侮るべからず、である。

 ノーベル賞の取材にやってきた新聞社の女性記者、アニカは(マリン・クレピン)は授賞式の後の祝賀会でのダンス会場で、銃撃事件を目撃する。

 ノーベル賞を受賞した生化学博士と選考委員長の女性が撃たれ、選考委員長は死亡、受賞した博士は重傷となる。

 ES細胞の研究で受賞した博士の功績については評価が分かれており、警察は受賞に反対する組織に雇われたプロの暗殺者の仕業だと見る。

 しかしアニカはプロの仕事なのになぜ博士は助かり、選考委員長が死んだのか疑問を持つ。至近距離からの銃撃なので失敗はあり得ない、と考えたのだ。警察は最初アニカの意見を取り合わない。しかし新聞社はアニカを信じて、社をあげて死んだ選考委員長の周辺の調査を始める。

 やがてアニカに情報提供の申し出がある。その情報提供者の提示した条件を検討している間にその人物が不審死してしまう。

 アニカは選考委員長と敵対していた次期選考委員長を疑い、その身辺の調査を進め、次第に真実に迫っていく。

 アニカが真相に迫っていることに気がついた黒幕は、暗殺者にアニカの抹殺を指示、アニカに魔の手が迫る。

 密度の高い、テンポのいい映画であった。繰り返すが音楽がとてもいい。90分という長さも好ましい。ひねりが少ないけれど、おすすめの映画だ。

小松左京「ゴルディアスの結び目」(ハルキ文庫)

 四つの短編が収められている。それぞれの物語の描く世界は全く違うものだが、この宇宙の存在や成り立ちと、人間の意識などが不思議な縁で相関している、という小松左京独特の世界観が描かれている。

「岬にて」は絶海の孤島で瞑想的に生きる数人の男たちが描かれる。彼らはときに麻薬の力を借り、現実の世界から意識を遊離させて時空を越えた世界を垣間見る。岬とは宇宙につきだした舟の舳先なのだ。そこからはるか眼下を見下ろすことで時空を越えて幻視された世界は麻薬によるものか、宇宙の真実か。

「ゴルディアスの結び目」。ゴルディアスの結び目とは誰にもほどくことが出来ないという伝説の結び目で、これを解くものはアジアに君臨できる、といわれていたが、アレキサンダー大王がみごとにそれを解いたと言われる。

 最初に縮退していく部屋が描かれる。分厚いコンクリートに囲まれた重さ数十トンの部屋が縮退を続け、同じ質量のまま立方体になり、ついに球の形になり、その密度はダイヤモンドの何百倍になっていく。その部屋にはふたりの人間がいたはずなのだが。

 レイプにより発狂した若く美しい女性の意識にサイコダイブする主人公。やがてその女性の意識世界の異常さはただ精神の異常からではない何者かとの関わりを暗示していた。最後ダイバーという考え方を小松左京が生み出したかどうかは知らない。夢枕獏の小説によく登場する九十九乱蔵、三蔵兄弟などでおなじみの能力だ。

 その描く世界は想像を絶していている。そして人間の意識というものが宇宙の何者かにつながっていることを暗示して物語は終わる。

「すぺるむ・さぴえんすの冒険」。宇宙の真理を知ることと全人類の存在の消滅との選択を迫られる夢を見る主人公。なぜ彼がそんな問いを問われるのか。目覚めてからの彼の日常が語られるうちに彼がおかれているシチュエーションが明らかになっていく。そしてその問いは彼の夢ではないことがやがて明らかになり、人類の滅亡が目前に迫っていることも分かる。彼がとった究極の選択とは。超越的存在と人類のつかの間の接触が描かれる。

「あなろぐ・らう゛」。宇宙創成の秘密、ビッグバンとブラックホールとの関係が語られるのだが、物語は極めて精密な性交の描写を比喩(メタファー)として語られる。エクスタシーと出産が類似していると語り、宇宙卵の創出がエクスタシーとともに生み出される姿が描かれる。

 ここでも意識と宇宙の存在との関わりが表裏一体であるとの世界観のもとに、宇宙誕生の秘密が明らかにされる。

 このような物語に影響を受けたのか、自分独自に編み出したのか今では定かではなくなったが、わたしも宇宙の誕生の生起は人間の意識によると考えている。無数の宇宙が存在すると思っているし、人が死ぬと神になる、と思っている。肉体を離れて意識のみになった存在こそが宇宙の生起に関わるのだと考えているのだ。だから神は存在する、と確信している。

映画「アタック・ザ・ブロック」2011年イギリス、フランス

 監督ジョー・コーニッシュ、出演ジョディ・ウィッテカー、ジョン・ボイエガ。

 ロンドンの下町をエイリアンが襲撃、それを少年ギャングたちが逆襲して退治する。少年たちのリーダー、モーゼス(ジョン・ボイエガ)はどことなくデンゼル・ワシントンに似ている。

 最初に降ってきたエイリアンとそれを追って大挙してやってきたエイリアンたちに知性が何も感じられない。そういう設定ではあるけれど、彼らは曲がりなりにも何かの乗り物に乗っていたようである。だとするとその乗り物を作った存在はどうしたのだろう。

 などと矛盾点を上げていけばきりがないほどだ。特にエイリアンたちの存在に対してほかの住民や警察が何も反応していないのが解せない。ほとんど気がついていないようだ。すべて少年たちが悪いと思い込んでいるからか。まさかね。

 まあエイリアンのようにおどろおどろしい存在に立ち向かうというのは彼らのようなストリートギャングにふさわしいといえるかもしれない。彼らの無意味な蛮勇こそこのような存在に適していると言うことか。犠牲もあまり痛ましくないし。

 まあこんなチンピラギャングがヒーローになるというのにはいささか抵抗を感じるが。彼らが地球を救ったような描き方だが、彼らがいなくても早晩地球は救われていただろう。

溝渕利明「コンクリート崩壊」(PHP新書)

 前半では、セメントとは何か、そしてコンクリートとは何かをその歴史とともに詳しく説明する。セメントのようなものは紀元前からあった。しかし今のようなセメントの大量生産が確立したのは比較的に新しい。セメントを作るためには1400℃の高温が必要なのだが、その温度が必要であることが分かって、設備を確立するまで長い歴史が必要だったのだ。

 セメントの原料は思っているよりもたくさんの種類のものが使われている。適度な時間をかけて固まること、そして必要な強度を持たせるために次々に工夫が加えられてきたのだ。

 しかしセメントだけで構造物を作っても強度は出ない。コンクリートはセメントに砂や砂利を多量に加え、水とともに練り込むことで全体として石の構造物のような強度を持たせることが出来る。さらにコンクリートの欠点である引っ張り強度の弱さを補うため、鉄筋を入れることで最強の建築材料となったのだ。

 ところがこの鉄筋を入れることがコンクリートの寿命を縮めることにつながってしまうという宿命を与えた。鉄は酸化して錆びる。錆びると著しく劣化して強度が落ちる。本来鉄筋はコンクリートに囲まれていると酸化が抑えられて劣化しない。それがなぜ劣化するのか。そのメカニズムについてかなり詳細に、化学的に説明が加えられていく。

 また、骨材の由来によって、またコンクリート構造物の措かれている環境によって劣化が起こることがある。海砂が使われていたり、潮風にさらされている場所であったり、温度変化が大きかったり、過重な加重がくりかえし与えられるとコンクリートは突然強度を失うことがある。

 それについてもまだ解明し切れていない点も含めて詳述される。

 ここで安全神話についての言及がある。

 安全に度を過ぎたエネルギーを注ぐと安全神話が生まれる。それが安全に対する過信を生み、メンテナンスをおろそかにするという弊害を生み、結果的に社会に大きなコストを強いることになる。

 あの福島第一原発事故についても同じことが言えるかもしれない。

 絶対安全でなければならない、として完璧を求めた結果、万一の対策をとることが出来なくなってしまったのだ。万一、ということを想定すると言うことは安全対策が不十分だからだ、と非難されてしまう。だから何かあった場合の手立てを講じることが許されなくなるという愚かなことになった。

 想定外のことが起こりうる、ということは誰にでも分かっているのに、それを想定することが安全対策が不十分、と見なされるジレンマに陥った。安全神話の愚かさだ。原発に反対する人々は原発事故が起きたことを非難するが、実は内心では「だから言ったとおり原発は安全ではないと言っただろう」と自分の予言の正しさを自慢し、喜びを感じているように見える。

 コンクリート構造物にも安全神話があるのではないか、と著者は言う。コンクリートも劣化することを知らないからその検査方法の確立も遅れ、メンテナンスの不備を招いている。

 新しい土木工事のための予算を計上することに狂奔しながら、そのメンテナンスの予算は考慮に入れない。実は建設と同額以上にメンテナンスにはコストがかかるものなのだ。

 先にあげた理由でコンクリートが劣化することが分かっている。条件が悪ければかなり短期間で強度が落ちることもある。今までの経験上40~50年経ったらどこで問題が起きても不思議ではないことになる。そしてコンクリート構造物が盛んに作られて40年以上経過した橋や建物が日本中にあるのだ。先日の中央道のトンネルの天井崩落はその予兆に過ぎない。

 しかもニュースでよく分かったように、その点検は目視や打音検査という極めて不十分なものだ。

 コンクリート構造物ばかりではなく、すべての構造物について正確な検査をくりかえし定期的に検査を行うこと、そしてその検査方法を確立していくことが急務であると著者は提唱する。

 幸い劣化を抑えるセメントや骨材の研究が進み、最近のコンクリートの寿命は飛躍的に伸びている。ただしその分コストもかかる。予算不足を理由にそこを手抜きしたり、検査を怠れば、結果的にはるかに高いコストを支払わなければならなくなることを知らなければならない。

 あちこちの橋梁で劣化によるコンクリートの剥落や亀裂が発見されている、とテレビで報じていた。ほんの一部の検査をしただけでの発見である。一カ所で崩落事故が起これば、次々に同様の事故が続くことになる可能性がある。

 著者は土木技術者として、ダム建設などに反対し「コンクリートから人へ」などと唱えた民主党の姿勢を痛烈に批判する。必要なものを適正なコストのもとに作ることは社会的に必要なことであり、民主党の土木に対する予算のカットによってどれほどのメンテナンスのための経費が削られ、検査方法の確立の機運をつぶしてしまったのかと嘆いている。
 
 無知による安全神話にしがみついていた愚かしさを怒っているのだ。
 
 むかし仕事の関係でほんの少しだけれどセメントやモルタル、コンクリートについてかじったことがある。北海道で凍結融解について知るために大学を訪ねて教えを請うたこともある。コストさえかけられればずいぶん耐久性を上げることが可能なのにそれがかなわない実態も知った。予算の計上の仕方(単年度予算)、コンクリート製品メーカーの思惑が関係する。そのときのことなどを思い出しながらこの本を興味深く読んだ。

2013年8月 6日 (火)

手相の整形

 日本や韓国では手相を整形手術で変えることが流行していて、中国でもそれに倣う人が増えているという。韓国のことは知らないが、日本でそんな手術がはやっているなどとは知らなかった。いかにも韓国ならありそうなことに思えるが。

 そもそも韓国は美容整形手術が当たり前のように行われていると聞く。そして韓国も中国も現世利益を求める気持ちが強く、そして占いにとても熱心だ。日本人にもそのような人もいるけれど全体としてはそこまでこだわりは強くない。

 手相でその人の運勢が見える、と言うなら、手相を良い運勢の形に変えれば運勢も良くなる、と考えるのだろうか。さもしい考えだ。

 むかし手相見の人に話を聞いたことがある。まず手相を占う前に、相手の目を見ながら両手で相手の手を包み込むようにして相手の手の感触を感じるのだという。その厚み力強さなどと相手の表情から見えるその人の生気を読み取ることが第一で、その後に手相を初めて占うという。

 手にはその人の健康、生活や性格が表れる。だから手相からその人の未来が占えるともいえるのだ。それを整形手術で線を作ったり消したりしたところで本人が変わるわけではない。多分そんな姑息なことをしたら、悪い運命を引き寄せることになるかもしれない。

 本来自分の人生、つまり運命は自力で切り開くものだ。何かの方法でずるをしようとしても神様にはすっかりお見通しだから助けてはくれないだろう。

映画「ヴォイツェック」1979年ドイツ映画

 監督ヴェルナー・ヘルツォーク、主演クラウス・キンスキー。

 1821年にドイツのライプツィヒで起こった、下級軍人による愛人刺殺事件をもとに、ビューヒナーと言う作家が書いた戯曲を映画化したものである。この戯曲自体はビューヒナーの生前中に舞台化されることはなく、初演は20世紀に入ってからだという。映画化も何度もされているらしいが、いちばん有名なのがこのヘルツォーク監督の作品だ。

 一言で言えば典型的な不条理劇で、主人公ヴォイツェックに扮するクラウス・キンスキーが、生の深淵をのぞき込むような生き方のうちに狂気にとらわれていき、ついには不倫をした自分の愛人をナイフで刺し殺す、と言うだけの物語だ。

 異常に真面目で気の弱いヴォイツェックは周りの人間に逆らったり争ったりすることが出来ない。こうでありたい、という思いがないはずはないので(それは描かれない)、自分で自分自身を追い込んでいくことになる。愛人マリーは気のいい女だが(だからヴォイツェックと関係を続けているとも言える)、それだけにガードが甘い。音楽隊の隊長は背も高く、頑健な身体をして若い。ヴォイツェックを露骨に無視してマリーに言い寄る。罪悪感を感じながらもそんな男に言い寄られることに喜びを感じてしまうような女なのだ。

 戯曲が原作だから台詞は暗示的で哲学的、その意味にこだわり出すと混乱してくる。そこから直感的に感じられることをもとに見ていかないと迷路に入ってしまう。

 ヴォイツェックは映画を見ているあなた自身だ、とヘルツォークは突きつけているのかもしれない。

 クラウス・キンスキーの演技は圧倒的で言うことがない。クラウス・キンスキーは「ノスフェラトゥ」での吸血鬼の役で強烈な印象を残した。名優と言うよりも怪優と言うべきかもしれない。ポーランド系ドイツ人で、ご存じの通りナスターシャ・キンスキーの父親である。

 こういう映画は見るのに疲れるが、最後まで見せるのは監督と俳優たちの力だろう。でももう一度見るのは遠慮する。

寺田隆信「紫禁城史話」(中公新書)

 北京の紫禁城は明の時代と清の時代のほとんどの皇帝が皇城としていた。この本は紫禁城にまつわる話をふんだんに盛り込みながら、明から清の時代について、その始まりから終わり(皇帝政治の終わり)までがわかりやすく書かれている。

 まず明はどうして現在の北京に都を定めたのか。もともと明の国を建てたのは、豊臣秀吉とよく比肩されるが、貧農の身から一代で皇帝にのし上がった朱元璋であった。朱元璋は初代皇帝として太祖と呼ばれ、年号が洪武だったので諡として洪武帝と呼ばれる。

 太祖が都を開いたのは現在の南京の地である。もちろんそこには皇帝の住まいとして紫禁城が建てられている。太祖は中国皇帝の例に漏れず、権力を握ってからはその功臣たちを粛清していき、スパイ網を回らして恐怖政治による皇帝独裁の中央集権体制をとった。

 しかし彼の死後、独裁政権に必ず起こる後継者問題が発生。直系として後を継いだ孫の建文帝と、北平に封じられていた太祖の四男(建文帝の叔父)の燕王とが帝位を争うことになる。世に言う靖難の変である。
 
 結果として燕王が勝利した。この戦いで南京の紫禁城は焼失した。燕王、成祖・永楽帝は自分の本拠地に遷都し紫禁城を建てたのだ。北平、つまり現在の北京であり、燕の国は北京一帯の古くからの呼び名である。そういうわけで明の時代から現在の北京が首都となった。

 永楽帝は対外政策に力を入れ、自らモンゴル地方に出陣してモンゴル族を討ち、シベリアや安南(ベトナム方面)に派兵し、鄭和に大船団を与えて東南アジアからインド、西アジアまで派遣している(都合六回)。

 明はこの時期が最盛期だが、その後も比較的に経済的には安定していた。しかし皇帝の独裁体制に見合うだけの優秀な皇帝が続かず、宦官の専横が次第に多くなる。皇帝と実際に政治を執行する大臣の間に宦官が介入することになった。中には国家予算の半分を懐に入れた宦官も現れた。国家は疲弊し、人心は荒廃、賄賂の横行が人民の怨嗟を読んだ。

 そこに蜂起したのが李自成である。ほとんど盗賊上がりのようなこの男が明の国を侵食していく。その頃北方には満州族が結集して勢いの衰えた明を北方から伺う事態となっていた。しかし鉄壁の西海関に阻まれていた。そこを護るのは勇将の呉三桂である。

 呉三桂が孤軍奮闘する中、紫禁城の皇帝は国家の危機を全く知らず、気がついたときには周囲は李自成の蜂起軍に囲まれていた。ときの皇帝・崇禎帝は裏山の景山に逃れ縊死した。従ったのはたったひとりの宦官だけだったと言われる。

 明の名将・呉三桂は突然西海関を開いて降伏する。そして満州軍の先鋒として李自成の蜂起軍の殲滅にかかる。そのとき何があったのか。これは歴史の謎とも言われている。一節には愛妾が明のある将軍に奪われたことで絶望したとも言う。

 後は一気呵成、李自成の軍は総崩れとなり、満州軍は明を制圧する。そのとき李自成は紫禁城に火を放ち、すべては灰燼に帰した。

 満州軍は新たに国を建て、清と称した。紫禁城は再建された。

 明を再興しようとする行動はあちこちで起こったが、まとまりを欠き、各個撃破されてその火は消えた。その中のひとり鄭成功は父は中国人の鄭芝竜、母は日本人である。彼は南京まで攻め上るがそこで奸計により頓挫、台湾に拠点を置いて最後まで抵抗を続けた。この本では特に詳述されている。

 ここまでがこの本の出だしだ。詳しく書いていくときりがない。

 この本の主要部分は清の時代である。康煕帝、雍正帝、乾隆帝の三代の明帝を得て、清は中国の歴史上最大の版図と繁栄を誇った。現代中国が中国の領土と主張するのは多くがこのときの版図をもとにしている。

 多分清はその頃世界で最大最強の国家で、文化的にも最も優れた国家だっただろう。それがなぜ後に西洋列強に侵略され、日本にも戦争で敗れ、半植民地のようになってしまったのか。それが後半のテーマである。なぜ中国人が反日的な意識を持つのか、そのヒントもこの中にある。

 尻切れトンボで申し訳ないが、書く方以上に読む方もたいへんだろうからこの辺で終わりにする。肝心の所を知りたい方はこの本を是非読んで欲しい。

映画「白蛇伝説」2011年中国・香港

Dsc_0208西湖と雷峰塔

 監督チン・シウトン、出演ジェット・リー、ホアン・シェンイー、レイモンド・ラム、シャーリーン・チョイ、ウェン・ジァン、ビビアン・スー。

 日本のアニメ映画の原点が、「白蛇伝」という映画である。調べると1958年に公開されている。この映画を小学生のときに封切りで見た。いまも自分の見たアニメ映画のベストだと思っている。それほどすばらしい映画と記憶しているのだが、あまりに古いことなので、詳しいストーリーは覚えていない。

 覚えているのは白蛇の化けた娘と若い男が相思相愛なのに化け物として白蛇を退治しようとする高僧の姿に哀しい怒りを感じたものだ。白蛇が正体を現して全力で高僧と戦う後半部は迫力満点だった。

 この物語は中国の伝説をもとにしている。だから子供の時に見た「白蛇伝」は中国が舞台なのだが、登場人物の名前など忘れてしまったので、日本が舞台だとばかり思っていた。

 今回見たのは中国の伝説をそのまま映画にしたもののようだ。妖怪退治をする高僧の法海(ジェット・リー)は自分が仏の道にかなう正しいことを行っていると信じている。確かに人間に悪をなす妖怪は数多い。病や災害を昔の人は妖怪の仕業と考えていたので、それを防いだり癒やしたりする高僧を理想化したものが法海なのだろう。

 その法海が人間に何も害をなそうとしない白蛇を退治しようとする。確かに人間と異界のものが交わるのは許さざることなのだろうが、白蛇の愛を無視した無情の仕打ちというものだ。

 白蛇に愛される許仙は愛する女が白蛇であることを知らないで結婚する。法海の介入で愛する妻が白蛇であることを知り、はじめは驚き恐れるが、後にはそれでもなお白蛇の化身・素素(スースー=ホアン・シェンイー)を命がけで愛し続ける。

 法力を持つ高僧たちの寺、金山寺(ここの住職が法海)を白蛇の妹分・青青(チンチン=シャーリーン・チェン)が大波をもって水の底に沈めるシーンは大迫力だ。

 余談だが金山寺はあの金山寺味噌の金山寺。私のふるさとにも専門店がある。雷峰塔や西湖も登場する。どれも杭州とその周辺に現存する。懐かしい。杭州は大好きな町だ。

 日本の「白蛇伝」はハッピーエンドだが、こちらは仏の慈悲によるつかの間の再会のみが許される。その切なさがたまらない。

 最初に法海と弟子が強力な女の妖怪と大バトルを広げるシーンから始まる。赤い衣装の超強力雪女に扮するのはビビアン・スー。彼女もがんばっているようだ。

 その後の、白蛇と許仙の出会いのシーンは甘すぎて見ているのが照れくさくなる。だんだん慣れるが。

 人とは何か、異界のものとは何か。今「鬼子たちの肖像」という本を読み始めている。「鬼子」というのはグイヅ(またはクイツ)と読み、人ならざるものを言う。人とは何か。中国人である。中華思想を共有する人々で、それ以外のものを異界のもの、異域のものとして鬼子と総称する。だから西洋人は洋鬼(ヤングィまたはヤンクィ)、日本人は東洋鬼(トンヤングィまたはトンヤンクィ)と蔑称する。

 だから白蛇も鬼である。人と交わるのであるからやはり現代風に言えば人間なのだが、中国人でなければ異界のものなのだ。

 強力な中華思想の壁を打ち破るお話がこの白蛇伝説と言ってもいい。最後に法海が天を仰いで「なんと慈悲深い」、と語るのは仏の慈悲は中国人だけではなく、異界の人にもあまねく降り注ぐものだという意味だろう。しかしつかの間の逢瀬の後白蛇は雷峰塔に幽閉されてしまう。これが中華思想だ。

 ところで坊さんたちが「阿弥陀仏(アーミーダーホー)」と盛んに称えるが、これは「南無阿弥陀仏」でないとおかしいのではないか、と思う。言っていることは分かってもらえると思うが。

 とにかく期待以上におもしろい映画だった。特撮も所々ほころび(お絵かきに見えるところがある)はあるがおおむね良好。いい映画だと思う。

2013年8月 5日 (月)

映画「バイオハザードⅤ リトリビューション」2012年カナダ、ドイツ、アメリカ映画

 監督ポール・アンダーソン、出演ミラ・ジョボビッチ、リー・ビンビン、シエンナ・ギロリー。

 前作のラストとつながったシーンから始まる。逆回しのタイトルバックがしゃれている。とらわれた人々たちとタンカーの上で再会したその場にアンブレラ社の急襲部隊が襲いかかり、激しい銃撃戦の末にアリスは爆風で海に投げ出され、そこでブラックアウトする。

 アリスが目覚めると彼女は普通の家庭の主婦である。夫がいて幼い聾唖の娘もいる。違和感ない平和な朝の風景の中に突然ゾンビたちに襲われる。娘を連れて必死の逃走を試みるのだが、無数のゾンビたちに囲まれ、彼らの命は風前の灯火となり、再びブラックアウト。

 アリスが目覚めるとほとんど全裸に近い姿で不思議な模様の床と壁面に囲まれた場所にいる。「アリス計画」の名の下に音響による拷問が繰り返される。突然すべての電源が落ち、その部屋の扉が開き、アリスはそこを脱出する。誰かがアリスの逃走のためにシステムを停止させたのだがまもなくすべてのシステムは回復し、アリスの抹殺が指令される。

 自分がどこにいるか分からないままアリスは逃走を続ける。彼女は突然雨の大都市の中の大きな交差点に立っている。東京にいるのだ。
しかしそこも突然人々がゾンビに襲われ、さらに襲われたものがゾンビと化し、彼女を襲う。夢中で逃げた彼女を救うのが、エイダという美しい東洋系の女性だ。

 エイダからここがアンブレラ社の機密の実験場だと知らされる。東京やニューヨーク、モスクワなどの大都市に模したものが作られ、そこにはクローンたちが現実の世界だと思って暮らしているという。

 アリスを救出するためのチームがここへ向かっているという。彼らとの合流地点に向かいこの施設を脱出しなければならない。

 こうしてそれぞれの都市の中を疾走しながら敵を倒しつつ合流地点に向かうのだが、そこでアリスは夢の中のもうひとりの自分の聾唖の娘を救出することになる。もちろん娘はアリスを自分のは親と信じて疑わない。

 救出チームも激しい闘争を続けながらアリスを探し求める。同時に施設を爆破するための工作も行う。戦いの中でひとり、またひとりと仲間を失い、追い詰められながらアリスと合流することに成功。しかし爆破まで時間がない。

 最後に最強の敵との戦いが繰り広げられる。圧倒的に強い相手に対し、アリスはどのようにそれをしのいだのか。

 アリスのクローンが幾体も作られていることはこれまでの物語で明らかにされている。だから今戦っているアリスがオリジナルであるのかどうか、見ているこちらも、おそらく戦っているアリス当人も確かではないだろう。だから不思議な幻影としての記憶が、アリスの意識の中で錯綜しているに違いない。

 だから物語がどのような展開をしても何でもあり、ということになる。感覚的に、襲いかかる敵をバッタバッタとなぎ倒すアリスの姿を見て楽しめばいいのだ。これだと結末は存在しない。無限にそしてパラレルに物語は繰り広げられていくことであろう。

 このシリーズはよく出来ていてとてもおもしろいが、今回もとても出来が良い。

下がっているはずなのに上がっていた

 月曜日は病院が混む。その上夏休みだから子供連れが多い。小さな子供を家においたままに出来ないのは分かるが、待ち時間に我慢できずにあちらこちらで甲高い声が響いてやかましい。こちらは長い待ち時間を読書の時間に充てられるのでそれなりに楽しんでいるのだが、こうやかましいと集中しにくい。

 このところ食事の分量はずっと控えめ、しかも好きではない葉っぱをせっせと食べ、酒は一滴も飲まない日のほうが多いという、今まで考えられないような生活を送ってきた。

 ところがなんと前回の検査よりも血糖値も血圧も上がっている。信じられないことだ。上がったといっても正常値ぎりぎりではある。理由を聞かれて、はたと気がついた。この頃冷たいものをよく飲む。大好きな飲み物がカルピスなので毎日二、三杯、ときにはもっと飲む。普段はほとんど日本茶か中国のお茶ばかりだったから思い当たるのはそれしかない。その上暑いから散歩もほとんどしないし、運動量は激減している。

 「飲むな、とは言いません。でも液状になった糖分はとても身体に吸収しやすいので血糖値を常に高い状態にしてしまいます。ノンカロリーの吸収しにくい甘味料の飲み物に替え、少しでも運動するように心がけてください」とのご託宣であった。

 血糖値が低ければ薬を減らすことになっていた。当然低いはずだと思っていたら上がっていた。そういうことで薬は今までどおり。残念。

 今晩祝杯を挙げようと思っていたけれど、少し控えめにした方がいいかなと思っている。

2013年8月 4日 (日)

映画「エクスペンダブルズ 2」2012年アメリカ

 監督サイモン・ウエスト、出演シルヴェスター・スタローン、ジェイソン・ステイサム、ジェット・リー、ドルフ・ラングレン、チャック・ノリス、ジャン=クロード・ヴァン・ダム、ブルース・ウィリス、アーノルド・シュワルツェネッガー。

 前作は映画館で見た。銃弾や砲弾の爆裂音がズシンズシンと響いて迫力満点であった。5.1チャンネルのヘッドホンでも音を大きくすればそれなりに楽しめる。主役級の俳優が大挙して出演しているし、台詞も過去の出演映画をパロったものがふんだんに盛り込まれていて、思わずにやりとさせられる。

 バッタバッタと人を殺戮していくのが不快に感じる人がいるかもしれないが、あくまでお話だ。敵の弾はほとんど当たらず、こちらの弾は百発百中だ。
 
 あまりややこしいことを考えたくないような、そしてちょっと憂さ晴らししたいときなどにはこんな映画がいいかもしれない。サム・ペキンパーが「ワイルド・バンチ」で描いた血しぶきの飛ぶ銃撃シーンは今はリアルを超えてほとんど劇画の世界だ。

 あの正義の味方のジャン=クロード・ヴァン・ダムが血も涙もない悪役で出演している。まだアクションシーンは現役だ。

 懐かしいことにチャック・ノリスも皆が危機一髪のときに助っ人として登場する。多くの出演者が中年をとうに過ぎて初老になっている。ああ自分も年をとったんだなあ、と感慨深かった。

ところでプルトニウムの入った容器を気軽に抱えているけれど、放射能はどうなっているのだ。それにプルトニウムは比重がとても大きいからあんなに軽々と取り扱えるはずがない。その辺はあまりにもずさんだ。言い出すときりが無いけれど。

安岡章太郎対談集「対談 僕の昭和史」(講談社)

 昭和生まれ、昭和育ちの私にとって、昭和という時代は原点である。

 小学校三年生のときの月刊誌の正月号に10年後の日本、というテーマで近未来が描かれていた。そこには東京大阪間が3時間あまりで結ばれる、と書かれていた。当時特急列車で7時間近くかかっていたから、本当だろうか、という思いとともに夢が現実になる、という思いもあった。さらに東京は高架の高速道路が張り巡らされ、自動車が溢れている絵が描かれていた。

 新幹線が開業したのが1964年、中学二年生のときだから10年後どころかわずか5年でその予言は現実となった。

 大正生まれの安岡章太郎にとっては昭和は戦争の時代である。実際に北支に従軍し、南方へ送られる直前、重症の肋膜炎で高熱を発して闘病後内地に帰される。運が良かったと言えるだろうか。かれはそのまま脊椎カリエスで寝たり起きたりとなる。あの正岡子規と同じような病気だ。病が癒えたのは昭和26年頃だ。

 彼は日本が戦争に突入していく時代を目の当たりにした。二二六事件のときには現地のそばの小学校に通っていたので休校になったことを覚えているという。だからこの本は戦争についての言及が多い。

 対談相手は、井伏鱒二、佐々木基一(評論家)、清岡卓行(作家)、ドナルド・キーン、渡部洋三(法社会学者)、鳥居邦朗(文学部教授)、田村義也(編集者、装丁家)。

 安岡章太郎は「僕の昭和史」(全三巻)を刊行したしたところであり、それをたたき台に対談が進む。世代が違うので対談をしている当人たちの思い入れを共有するのは難しい。しかし自分の両親と同世代の人々でもあり、そのように思えば語られている内容には別に意味の感懐もある。

 安岡章太郎はとても気になる作家で、好きなところと嫌いなところの両方がある。むかし全集をそろえようとしたのだが、毎月そろえている最中に転勤となり、10巻(?)のうち7巻までしか揃っていない。そしてその初期の作品の三巻くらいまでしか読んでいないからやや偏った読者と言えるかもしれない。いつか持っている分だけでも読もうと思っている。

 ところでこの本の装丁は最後の対談者、田村義也による。嫌いな装丁だ。しかし田村義也の責任とばかりは言えない。くりかえし言及される、たばこの「光」がモチーフだから、そのデザインが使われている。

2013年8月 3日 (土)

失言の上塗り

 麻生副首相の失言はじわじわと大きな騒ぎになりつつある。ただそれを追及する野党の物言いのお粗末さは絶望的なほどだ。

 今回の失言のポイントは、憲法改正を大上段に行うと反発を受けるから、ナチスが民主的なワイマール憲法をじわじわと全体主義を容認するナチス憲法に変えたように、こっそりと国民に分からないようにやったらどうか、といっている点にある。

 確かにナチスを賛美などしていない。だからそのような非難をしても麻生氏にとって意図とは違う、心外だ、というしかないだろう。

 問題は日本国民に対しての麻生氏の傲慢な考え方だ。極端な言い方をすれば、日本国民は馬鹿だから分からないように上手にやろう、と提唱しているのだ。だからいちばん怒らなければならないのは日本国民なのだ。野党もそこを突かなければならない。

 直接聞いていないが、橋下徹氏が麻生氏の失言に同情的なことを言ったと伝えられている。これは失言に失言を重ねた愚かな話で、この人の政治生命に関わることになりそうだ。それとも本当に日本人は馬鹿だから、馬鹿にされても気がつかないままで終わるのだろうか。

我々は許さない

 日本政府が6月に成人3000人に対して行ったアンケートを発表した。このアンケートは竹島に関するもので、質問に応じたうちの63%が「韓国の竹島の長期駐在は不法占拠だ」と回答した。

 残りの37%の人が、「韓国に理がある」と答えたとは思えない。おおかた「分からない」と答えたのではないか。

 日本人から見れば一方的に自国領だとして占拠を続けている韓国は不法にしか見えない。しかし韓国には韓国の言い分もあるのだろう。だから妥協点は多分無い。

 このアンケートを行ったことについて韓国外務省は「アンケート調査の名を借りた韓国に対する挑発である。我々は許すことは出来ない」との韓国政府のコメントを発表した。

 いったい「我々は許さない」などという言い方をもってどのような報復を行おうというのだろうか。竹島はすでに彼らが占拠しているからこれ以上のことは出来ない。となると対馬にでも侵攻しようというのだろうか。そんなことはそれこそ「許されない」ことだ。

 どうもこの頃の韓国の物言いは、あの空虚にエスカレートした北朝鮮の言い方によく似てきた。同じ民族とはいえみっともないと思わないのだろうか。

今日は夏祭り

 今日は夕方から夏祭り。昨日と今日の午前中は屋台や舞台の設営を行う。昨日はちょっと出かけて設営をさぼったので、今日は軍手をつけて手伝いに行く予定。本日は快晴、最高気温は35度の予報である。暑そうだなあ。

 私は焼き鳥係で、三時前頃から仕込みを開始する。女性陣は昼頃から始めているはずだ。火の前にいるから汗が出るし喉も渇く。ビールが旨すぎるから飲み過ぎに注意しないといけない。

 最近は保健所もうるさくて、食べ物を扱う人はすべて検便を提出している。何も指摘されていないから問題なかったのだろう。

 明後日の月曜日は久しぶりの病院での検診日。祭りが明日でなくて良かった。明日だと飲むことが出来ない。いい調子で飲めば血液検査の結果にすぐ出てしまう。血糖値の数値が低いまま安定していて今度の検査の結果によっては薬を減らすことになっているのだ。

 体重も重要な診断要素だ(特に熱心な栄養指導の先生が私の体重の増減に一喜一憂する)。せいぜい汗をかいて絞らなければ、と思うがあまり無理をして熱中症にでもなったらいけない。この頃は普段汗をほとんどかいていないから身体がやわになっているおそれがある。

 焼き鳥は結構人気があるから行列が出来る。やりがいがあるし、段取りよく焼けば早めに売り切れになるので楽だ。でも去年も早めに売り切れたので今年は少し余分に肉を仕込むという。しっかり働かせられそうだ。

2013年8月 2日 (金)

周大兄へ

 ブログ対して過分なお言葉、汗顔の極みです。なんだか老い先短くて、限られた時間を思って、焦って本を読んでいるようなところがないではありません。

 しかしながら持ち合わせの時間のうち、読書に割いている時間はまだ不十分だと思っています。ぼんやりして無為な時間の方が多いのです。もちろん無為な時間は必要欠くべからざる大事な時間ですが、必要以上な気がします。

 仕事をしていたときは、休日の自分だけの時間が貴重で、寝る間ももったいなく、朝早くからフルにやりたいことをやっていました。今毎日が休日状態となるとそんなペースを続けることはさすがに無理なようです。

 昔は読み飛ばして、何も考えず、ざる頭にはほとんど何も残らず、という状態でしたが、今はブログに備忘録として残すようになったことで、わずかながらざるの目が細かくなったかもしれません。いささかでも読んだ本の内容を思い返すというのも豆腐頭には負担をかけて、ぼけを多少食い止める役に立っているかもしれません。

 周大兄のもとへはすぐにでも行きたいくらいですが、先日の事故のために足がありません。今は謹慎してしばらく運転を控えております。車を買うのは早くても秋になってから、と考えています。購入したら早速にでもそちらへ伺いますのでおつきあいください。

 そう言いながら、来週、周大兄もご存じのU島君、F谷君と大阪で暑気払いの予定です。申し訳ありません。

 では暑さ厳しき折り柄、熱中症などにならないようご自愛ください。

                                           OKCHAN拝

アーサー・C・クラーク「白鹿亭奇譚」(ハヤカワ文庫)

 ロンドン・テムズ川に近い裏通りにあるパブ「白鹿亭」で毎週水曜日の晩にハリー・パーヴィスという男が語る物語を集めたものがこの本だ。

 ハリー・パーヴィスは小柄な、きちんとした身なりの三十代の終わりに近い男で、ドイツ風の彫刻を施したパイプをくわえていた。

 彼の話は「その奇想天外さの故に、かえって信じざるをえないという一種の気狂いじみた論理が一貫している。彼の複雑怪奇ではあるが、みごとに辻褄のあった話が始まるたびに、みんな、煙にまかれてしまうのだ。そしてこんな話をでっちあげるほど図々しい男がいるはずがない、こんなばかげたことは、実際にしか起こりようがなく、作り事などであるはずがない、と自分に言い聞かせることになる」というような話で、最初は茶々を入れていた男たちもいつしか毎週この男の話を楽しみに聞くようになってしまう。

 すべてで15話のSFほら話の数々が堪能できる。そもそもSF自体がほら話ではないかと言われると全面的に否定できないところもあるが、この本のどの話にも科学的な味付けが強く成されていて、全くの荒唐無稽なものというわけではない。この中には現在では実際に存在するものもある。一番最初の「無音機」とでも呼ぶべきものなどはそうだ。

 音の位相を完全に逆転させた音を鳴らせばどんな音も無音になる理屈は間違っていない。ただし、そこにタイムラグがないことが必要だが。現在ヘッドホーンにはその理屈で外部に音を漏らさないようなものが出来ている。

 どれひとつのアイデアも秀逸なのだが、それを惜しげもなく短編集に盛り込むというのもクラークの溢れるばかりの才能の表れなのだろう。ハードSFもいいけれどこういう軽いものも楽しい。60年前の作品だけれど本当にいいものは色褪せないのだ。

食材

 中国でセミが食材として大量に消費されている話を取り上げたが、中国の環球時報は中国オオサンショウウオが富裕層の食材として珍重され、絶滅に瀕している、と伝えた。

 中国オオサンショウウオは黄河や長江などの流れの速い山間部の水域に棲息している魚だが、最近行われた調査では全く発見されなかったという。

 そのため最近は養殖が行われており、大型のものになると一匹10万円で取引されるという。しかし養殖業者は養殖したものを自然に帰すつもりがなく、オオサンショウウオは養殖場にしか棲息しない魚になっているのだという。

 たぶん希少な天然物を狙っている業者もいるに違いない。自然のオオサンショウウオは遠からず絶滅するだろう。ところでオオサンショウウオというのはどんな味なのだろう。よほど旨いのだろうか。別に無理して大金を積んで食べたいとは思わないが。

 こんなものを食べようとする心情には何となく成金趣味のにおいがする。熊の掌、岩燕の巣などを珍重するのも同様の心情だろう。

高層ビルの呪い

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 先日長沙市に建てることが計画されている世界一高いビルの話題を伝えた。このビルは高さもさりながらその工期が10ヶ月と異常に短いことも話題だった。しかし中国当局は工事の認可をペンディングしている。万一のことがあると世界の笑いものになりかねないし、テナントにとっても危険だからだろう。

 中国の超高層ビル建設ラッシュについてアメリカでおもしろいコメントがあった。

 歴史的に見ると高層ビルと経済危機には恐るべき因果関係があるというのだ。1920年代にニューヨークで着工されたクライスラービルやエンパイアステートビルが完成した1930年初めはアメリカは大恐慌に陥っていた。マレーシアのクアラルンプールに建てられたペトロナスツインタワーもアジア通貨危機の深刻な時期に完成した。現在世界一の高さを誇るドバイのブルジェ・ハリファが完成したときもドバイショックの頃だった。

 最盛期にその勢いをかって巨大建造物を建て始めたら、できあがる頃には最盛期が過ぎていた、ということだろう。考えようによっては巨大建造物を建てるようになるとその国の勢いは衰えると言うことだ。

 中国経済に対して先行きを懸念する意見が多いが、中国は全く問題がないと強調する。主要な経済アナリストも楽観的な分析が多い。しかしそれは世界経済に対する悪影響が大きすぎるので悲観的な意見を述べるべきではないという抑制のためではないか。

 中国の地方政府による野放図な投資が巨大な負債となってのしかかろうとしているのではないか、と危惧されている。右肩上がりの時代は投資に投資を重ねることで巨大な利益を生み続けていたが、いったんその伸びが鈍化すると、その負債の利子が一気にのしかかる。成長が続いてもその伸びが止まるだけで破綻の危険が急増する可能性があるのではないか。

 そもそも中国は贈収賄という巨大なコストを織り込まなければならない社会だ。人件費の安さがそれをカバーしていたがその人件費も周辺国と比べて必ずしも安くなくなれば隠れたコスト(贈収賄の費用)は無視できないものとなってくる。海外企業も中国での継続を今まで以上に検討する。

 だから贈収賄で作られたシロアリの巣のような中国共産党の、そのトップである習近平は贈収賄を摘発することに本気で取り組もうとしているのだ。これは今後とも甘い汁を吸い続けるためには多少そのコストを低減させることが必要だ、という認識に立っているだろう。

 やりたい放題は身の破滅、ということを思い知らせてコストダウンをはかり、末永く今の体制を持続しようと言うことだ。

 イギリスの大手製薬会社グラクソ・スミスクラインの中国法人が人身御供に揚げられた。そのほかの製薬会社にも司直の手が伸びているようだ。

 さて中国の超高層ビルの完成と中国経済の失墜はどちらが先か。中国の超高層ビルの異常な短工期はなんだか皮肉な話に感じる。だから当局は認可をペンディングしているのだろうか。

セミ料理

 浙江省の金華市永康には、セミ料理を食べさせる店がある。古くから食べられていたらしいが、今年はどういうわけか「爆発的」にセミ料理が人気となり、多いときには一日に4トンのセミが消費されている。

 セミは背中の肉の部分を焼いたり揚げたりして食べるのだという。

 そういえば、むかし飼っていた猫はセミやトカゲが大好きで、よく獲ってきて食べていた。特にセミは好物のようで、セミの鳴き声を聞くと木に登り、たちまち捕らえた。食べた後にはセミの羽だけが残されていた。

 あれだけ夢中になるのだから案外おいしいのかもしれない。

 しかしセミ料理もこの永康の町だけにとどまって欲しいものだ。そのおいしさが伝わってほかの町でもセミ料理が供されるようになると中国のセミがいなくなってしまうことが心配だ。セミなんで軽いものだ。それを一日4トンというとどれほどの数のセミになることだろう。

2013年8月 1日 (木)

人は見た目が大事

 中国では毎年夏休みになると美容外科が忙しくなる。若い人が夏休みを利用して美容整形の手術を受けるからだ。

 今年はなんと顔の整形手術を受ける人の割合が女性よりも男性の方が多いのだという。男性の美容整形の目的の多くが就職のためなのだという。顔のわずかなの左右の違いや、あごの形にこだわり、どう見ても必要ないような男性も手術を受けに来るそうだ。

 中国の企業や官庁は顔の美醜で採用の可否を決めるのだろうか。

 人事を尽くして天命を待つ、というけれど、人事に整形手術も含まれるとは知らなかった。

 確かに人は見た目が大事だというのは真理だけれど、整形をしてまでの見た目へのこだわりは異常な気がする。そう思う私がおかしいのだろうか。

 身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝のはじめなり、というではないか。怪我や病気でもないのに自分の身体をいじる、というのは自分を産んでくれた父母にも、そして自然にも逆らうことで、そのことに鈍感な最近の韓国や中国はやはりおかしいと思う。そういえば中国には宦官という制度や纏足という風習があったことを思い出した。

舌禍

 安倍内閣で舌禍を起こすとしたら第一にこの人だろうと思っていた。案の定麻生太郎がナチスを引き合いに出して世界中から非難されている。中国や韓国に対しての多少の言い過ぎはお互い様なところがあるから多少のいいわけが聞くけれど、ナチスを引き合いに出してそれを肯定しているような言い方をしては弁解するのは難しいだろう。

 麻生太郎という人は頭が悪いのかと思っていたが、自民党が野党であった時代に話しているのを聞いているとそれなりの見識があることが分かった。それなのにこのようなうっかりした物言いをするというのは、本質的に粗忽な人なのだろう。海外の主要閣僚が集まる国際会議にたびたび列席しているうちにだんだん舞い上がり、地が出たとも言える。

 日本は世界に対して恥ずかしい思いをさせられた。とは言っても野党を勢いづかせるだけだから今やめさせることも出来ない。安倍総理も頭の痛いことだ。

黄山

 NHKハイビジョンスペシャルとして2003年に放映された、中国の絶景「黄山 人界の仙境」を見た(再放送を録画したもの)。

 黄山は「黄山を見ずして山を語るなかれ」といわれる名山である。黄山というのはひとつの山ではなく、南北15キロ、東西10キロに広がる大小の峰峰の総称である。1000メートル以上の山は78、それ以下の山は無数にあって数え切れない。

 多くの人々に山水画に描かれ、詩に読まれて来た。1500年にわたって登山道が整備されてきて、登山者も数多い。登山道のほとんどは4万段とも6万段とも言われる石段で人がすれ違えないような狭いところもたくさんある。ほとんどまっすぐ天に昇っていくおもむきのある山だ。

 といっても私は行ったことがない。ここに載せた写真はむかし私の上司だった人が黄山に行ってきて送ってくれた写真の一部だ。是非行くといいよ、と言ってくれたけれど、そんな階段ばかりの山を登る自信はない。その人は六十を過ぎても富士山に登るくらいの人だから健脚だ。 

 黄山に登山する人は湯口(タンコウ)という温泉場に一泊する。湯口は豊富な湯量で登る前のリラックスな気分を味わえるし、登った後の疲れを癒やすにもいいところのようだ。

 黄山の南側は裾野の広い雄大な山々で、北側は険しい屹立した峰峰が並ぶ。最高峰は蓮花峰(1864m)、次いで天都峰(1810m)。奇岩は1000以上あり、その多くに名前がつけられている。いちばん有名なのは飛来石。高さ12m、空から飛んできて山に突き刺さったように見える。

 おもしろいのは猿石と呼ばれる岩だ。断崖の途中の張り出した岩棚の上に猿が身を乗り出して下界を見下ろしているように見える。この岩のいわれは、むかし黄山の猿が下界の女性に懸想し、毎日ここから見下ろし続けた。もちろん思いは叶うことはなく、いつしか猿は石になったのだという。なんだか哀れな話だ。

 延々と続く石段は俗界である下界の人間世界と聖なる場所である仙境をつなぐ架け橋であり、険しく困難であるほどそれを乗り越えることに意味が生ずるという。

 その黄山の麓の村、宏村、西逓村の風景が映される。ここは明代、清代のたたずまいが今も残されている村で、古い民家が残り、ユネスコの文化遺産として認定されている。ここには是非行きたい。中国独特の丸瓦の甍の連なり、漆喰の白壁に挟まれ、石畳の続く露地は美しく、郷愁を強く感じる。民家の庭には黄山から持ってきた、水石のような石、そして美しく見事な盆栽。ここは盆栽でも有名な場所なのだ。村は特に水辺の景色が美しい。

 後半は山水画の画家で黄山に魅せられ、ここに住み着いている朱峰氏が山でスケッチをしながら黄山の四季を紹介していく。特に朱峰氏がこれは絶景、という景色が見事だ。黄山のわき上がる雲海はこの世のものとは思われない。景色を見ながら胸が熱くなる。それを朱峰氏が自宅に帰って山水画に一気に描き上げていく様子が映される。画家の筆の力とはなんとすごいものかと思う。

 いやあ、鉱山に登るのは遠慮するけれど裾野の素朴な村々をのんびり訪ねてみたいと心から思った。

腹が立ったからといって

 イギリスのメディアが、中国の空港でフライトの遅延が慢性化している、と伝え、これに怒った乗客が抗議を行い、騒動になる事態が続発していると報じた。

 中国ではこのような行かれる乗客を「空怒族」と呼ぶ。新語まで登場するほど数が多いということだろう。

 アメリカのある調査期間によると、この6月に北京国際空港から出発した2万2000便のうち、定刻に離陸したのは18%だった。上海は24%だったという。中国で定刻に出発する便が50%以上だった空港はなかった。ところで羽田空港はこれが95%、調査した空港中の首位だった。

 フライト遅延の慢性化を嫌気して北京から撤退しようという外国企業もあり、北京事務所を閉鎖する理由のひとつになっているのだそうだ。

 空怒族の話に戻るが、その怒りによって被害を受けるのは空港職員である。ほとんど連日のように騒動のニュースが続いている。

 香港の新聞によれば、先日も飛行機の遅れに腹を立てた中国人乗客四人が空港の女性職員を取り囲み、抱きついて胸を触るなどの嫌がらせをして警備員に身柄を拘束され、罰金を科せられた。

 この四人の身元は福州大学の教員の47歳、32歳、31歳の男性、そしてもうひとりはなんと河北師範大学の21歳の女子大生。激怒した勢いで空港の女子職員の身分証を引きちぎり、抱きついて胸を触り、押し倒して怪我を負わせたのだという。

 彼らの怒りには飛行機が遅れたという立派な理由がある。ここにも「造反有理」という中国の病理が顔を覗かせている。中国の革命の大義など中国の知識人にとってすらそんなものだと教えてくれる。

ホセ・ラトゥール「追放者」(ハヤカワ文庫)

 著者はキューバのハバナ生まれ。キューバ財務省に勤務の傍らミステリを書いてきたが、七冊目に初めて英語で書かれたのが本作。帯にローレンス・ブロック絶賛とある。ブロックが薦めるのなら駄作であるはずがない。

 アメリカ人の父、キューバ人の母の元に生まれたステイルは、幼いときはアメリカとキューバのあいだを両親に連れられて行き来していたが、やがて両親は離婚、母とともにキューバで暮らす。カストロによる共産革命によってキューバは悲惨な状況に陥る。

 そして年月は経ち、母はすでに病死、父との消息もすっかり絶え、ステイルは44歳のしがない工業高校の英語教師となっていた。

 導入部の雰囲気を、私はカミュの「異邦人」のように感じた。わずかな収入、貧しい暮らし、配給でかろうじて食いつなぎ、欲しいものがほとんど手に入らない生活がクールな文体で淡々と語られていく。

 それなのに読んでいて飽きが来ないのは文章にこちらを引きつける力があるからだろう。隣人とのやりとり、恋人との関わりのいきさつや互いの信条、会話などが詳細に延々と綴られる。

 そんなステイルのもとを突然ガスラーと名乗り、アメリカの私立探偵だという初老の男が訪ねてくる。そこからステイルの運命が激変する。

 全く消息の途絶えていた父が死んだのだという。そしてその父の依頼でガスラーはステイルをアメリカに亡命させるというのだ。もし発覚すれば重い罪に問われることになる。ガスラーの言うことも全面的に信用できない。ステイルは迷うがガスラーの申し入れを受け入れることにする。

 ステイルはガスラーのヨットが停泊している沖合まで必死で泳ぎ、ついにキューバを脱出することに成功する。恐怖を乗り越え、自由が手に入ったことに歓喜しているステイルに突然絶望が襲う。

 この辺は前半の大きな山場なので詳しく話さない方がいいだろう。とにかく結果的に絶体絶命の状況を辛くも脱したステイルはフロリダに上陸し、キューバからの亡命者として市民権を得ることになる。

 そして自分をこの状況に追い込んだガスラーへの憎悪がステイルを大きく変貌させる。あえて暗黒社会に足を踏み入れて蓄財をしながら復讐のための情報収集を開始するのだ。

 そもそもガスラーなどという男は存在していない。ガスラーに聞かされた父にまつわる話も真実とは思えない。そしてそもそもなぜステイルを亡命させようとしたのか。

 ここからの真実を暴いていくステイルの巧緻な頭脳は目を見張るものがある。前半のステイルとの違いが印象的だ。ステイルが追う、真実を握る敵は意外な人物たちだった。やがてステイルに敵の手が迫り、立て続けに襲われる。

 後半はステイルの逆襲の話だ。一介のキューバからの亡命者が強力な敵に立ち向かう。しかしすべての描写は淡々としており、変わらない。だから時々ステイルの怒りの炎が燃え上がるのが見えるような部分が際立つ。

 珍しい文体で、些事まで延々と語られる復讐譚だけれど冗長に感じることなく気がついたら読み終わっていた。

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