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2013年12月

2013年12月31日 (火)

紅白歌合戦は見ない

 本日大晦日の夜は恒例の紅白歌合戦だ。だけれど私は紅白歌合戦はずっと何年も見ていない。

 高校生のときに(ちょっと)尊敬していた倫理社会の先生が、年を越す年末の時間は静かに本を読むべし、と言うのを聞いてなるほどその通りだ、と共感して以来だから40数年になる。最初は意地になって見なかったのだが、途中からそもそも見たい歌手などほんの一握りになってしまったから何とも思わない。

 年末年始は例年のように、母親と同居している弟の家に息子と二人で寄宿している。昨日は父親の墓の掃除に行ってきた。今日は暇だから本を読んでいる。たぶん今晩も本を読みながら眠くなったら寝るだけだ。

 母の発語障害はリハビリの甲斐もなくますます進んで意思疎通が困難になった。歩行がおぼつかなくなり、嚥下障害もひどくなって食事のたびにむせている。哀しいことだが如何ともしようがない。

 自分だって遠くない将来同じようになるかもしれないのだ。それなら今のうちに出来ること、やりたいことをすることだ。こうしてなんと言うこともないけれど、しかしきちんと年の暮れが終わり、正月がやってくるのだ。

 つたないブログを見ていただいて本当にありがとうございます。皆さんも健康に気をつけて良いお年をお迎えください。

曽野綾子「堕落と文学 作家の日常、私の仕事場」(新潮社)

 曽野綾子の考えに批判的な人をしばしば見かける。しかし世の中にはいろいろな意見があっていいので、当然だと思うし、曽野綾子自身もその批判を甘受してきた。ただし、いわれのない個人攻撃や嘘偽りの報道にさらされることも多かったようだ。

 彼女が言わなかったことや言ったことと反対のことが公然と報じられたりしたことに対してはさすがにその時々で反論してきたのだが、その反論は無視されることの方が多かったようだ。

 この本は、本来作家はその個人ではなく作品でのみ評価されるべきだ、という立場に立っている彼女がめずらしく自分自身を総決算するように綴ったものだ。その中で自分がなぜそのような意見を持ち、何を語ってきたか、そして決して言うはずがないこととは何かが説明されている。

 彼女に限らないが、作家(に限らないが)に対していわれなき批判をするジャーナリストはたいてい不勉強である。長い文脈の言葉尻だけを捉えて批判したり、非難する。その相手がどんなものを書いている人か、その考えとはどんなものかについて読まず、知らないことが多い。

 残念ながら世の中の多くの人はそのようなジャーナリストの書いたものを手がかりにものを知ったと思っている。無知ほど恐ろしいものはない。こうして扇動され、なびいてしまう。

 自分が思い込んでいることと違うことを言っている人の意見を一度は聞きいてみるものだ。そして自分の考えを再検証してみることを心がけないといけないと常々思っている。いま人は自分の意見を表明することに夢中で、他人の意見を聞こうとしない。ディベートなどと言う。何のことはない論争で相手を打ち負かすことが対話だと思っている。

 対話とはまず相手の話を聞くことだ。

 この本は曽野綾子に反感を持っている人に出来れば丁寧に読んでもらいたい真摯な本だと思う。もちろん曽野綾子ファンには中身の濃い一冊だと思う。

 優れた書き手は同じような話を繰り返し書いているのに常に新しい。

2013年12月29日 (日)

映画「座頭市あばれ凧」1964年大映

 監督・池広一夫、出演・勝新太郎、久保菜穂子、渚まゆみ、左朴全、遠藤辰雄。

 座頭市シリーズ第七作。今回の舞台は鰍沢(かじかざわ)。

 座頭市は銃で狙撃され、川へ落ちて死にかかる。傷が癒えた座頭市は救ってくれた恩人を追って鰍沢へ向かう。名前も告げずに立ち去ったその恩人の女性が連れていたのが江戸の花火師(左朴全)であり、鰍沢で打ち上げ花火をあげるために花火を作りに行くらしいと聞き込んだからだ。

 ようやく花火師を捜し当て、自分を救ったのが花火の勧進元である津向の文吉という親分の娘・お国(久保菜穂子)であることを知る。後に自分を狙撃したのがこのお国の弟で清六というヤクザであることが分かる。

 文吉と張り合うのが竹居の安五郎(遠藤達吉)という阿漕なヤクザで、代官と結託して文吉の縄張りを奪おうとしていた。

 安五郎は清六を人質に、縄張りをよこすよう文吉に掛け合うが一蹴される。お国の様子を見かねて、座頭市が安五郎のところへ乗り込み、清六を奪い返す。

 安五郎は座頭市と文吉を引き離すために座頭市がお尋ね者であり、かくまったら罪に問われる、と脅かす。花火の打ち上げを楽しみにしていたまさにその日にやむなく座頭市を鰍沢から追う。

 そして座頭市がいなくなった文吉一家を安五郎一家と代官所の役人が襲い、お国とその妹を除いて全員を虐殺する。それを知った座頭市の怒りの剣が振るわれる。

 清六が殺されるのは必然とも言えるが、文吉まで殺される結末にはちょっと陰惨な感じがする。

2013年12月28日 (土)

門を閉じる

 中央日報など韓国の各メディアはこぞって安倍首相の靖国参拝を極悪非道なことのように非難している。相手が絶対悪であると非難するのは気持ちの良いものらしく、とてもうれしそうに見える。その尻馬に乗って日本のメディアも大騒ぎしている。少しは安倍首相が靖国を参拝することには意味があるのだと言うような論調もあっても良いのに今のところお目にかからない。

 みんながこぞって同じことを言うときはあぶない。そうでない意見を言うことが封殺されていると言うことだ。もし言えば袋だたきに遭うという恐怖が支配していると言うことだからだ。韓国の反日も朴槿恵大統領の日本に対する異様な言動もそういう背景を感じさせる。

 歴史をゆがめて反日教育などするからそんなことになるのだ。

 報道では「日本側の再三の首脳会談の要請に朴槿恵大統領が応じないのは、両国の指導者が衝突を繰り返しているからで、対話の門は徹底的に閉じられた」と指摘している。

 門を閉じているのは韓国側だと言うことについては一応の自覚があるようだ。

 中国の環球時報は韓国メディアのこのような報道の中から「安倍首相の狂気ぶりは北朝鮮に匹敵する」という文言を取り上げて伝えている。

 ついに安倍首相は狂人にされてしまったようだ。その言動が常軌を逸し、理解不能であるのを狂人というとすると、韓国は北朝鮮を狂人のようだと思っているようだ。中国もそう思っていると言うことだろうか。

 いやしくも隣国の首相を狂人呼ばわりするというのも常軌を逸している。みんな狂人か。さいわい狂人には犯意の自覚がないとして免責される(刑法第三十九条)から罪が問えない。めでたいことだ。

2013年12月27日 (金)

窪徳忠「道教百話」(講談社学術文庫)

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 老子が残したと言われる道徳経という思想的なお経がある。いわゆる老荘思想の大本である。だがこの本で言う道教というのはそれとは違う。

 中国や台湾、東南アジアに行くと道教の廟があちこちにある。一般庶民がたくさん拝観に来て真剣に願い事をしている。彼らは老荘思想のことなど知らない。ただ現世での富貴や無病長命を願っているのだ。

 いつもそういう道教の廟を覗くのだけれどどんな神様が祀られているのか全く知らない。そういうわけでこの本を読んでみたのだ。

 著者は長年道教の研究を続けてきており、分かりやすく民間宗教としての道教を説明してくれている。そしていろいろな本に取り上げられた道教の仙人たちの話が百話、簡明に取り上げられている。

 列仙伝、神仙伝、抱朴子、捜神記、子不語、閲微草堂筆記、聊斎志異など不思議な面白い話の詰まったものから特に道教に関係のある話を選んでとりあげ、その意味を解説してくれている。

 その話を読むだけでも楽しい。

映画「座頭市千両首」1964年大映

 監督・池広一夫、出演・勝新太郎、坪内ミキ子、長谷川待子、若山富三郎、島田正吾。

 シリーズ第六作。タイトルバックが舞台の殺陣みたいな仕立てでちょっと変わっている。座頭市の殺陣も、より鮮やかになった。腕を上げたみたいだ。

 撮影が宮川一夫になり、心なしか画質が良くなっている。

 今回は赤城山の麓、上州板倉村が舞台。三年前の飯岡の助五郎と笹川の繁蔵との出入り(第一作がこの闘いだった)の際に心ならずも斬り殺してしまった吉蔵という男のふるさとだ。その吉蔵の墓参りにやってきた座頭市が上納金強奪事件に巻き込まれる。

 村は3年続きの凶作で、上納金を集めることに困難を極めたが、ようやく所定の千両の金を用意することが出来た。ところがその上納金を代官所へ収める途中で凶悪な浪人・仙場(若山富三郎)たちに襲われ、奪われてしまう。たまたまそこにいあわせたために座頭市と国定忠治の子分が疑われてしまう。国定忠治の子分たちも実は上納金を奪おうとしていたのだ。
 
 座頭市は旧知の国定忠治に掛け合い、子分たちの所行を伝えるとともに奪われた千両を取り戻して潔白を示そうと考える。やがて仙場と代官が実は裏で通じており、代官は上納金を二重取りしようとしていたのだ。

 座頭市の怒りが爆発し、ついに代官を斬り、最後は仙場との一騎打ちとなる。馬上からムチを振るう仙場に翻弄されて苦戦する座頭市だが、満身創痍となりながら仙場を斃す。

 千両の金を吉蔵の妹(坪内ミキ子)に託し、蹌踉として村を立ち去る座頭市であった。

 仙場の、座頭市への敵愾心は狂気に近い。これを若山富三郎がみごとに演じている。

 この映画は昨日見た。このあと第七作、第八作と続けて見たのでなんだか話がごちゃごちゃになってしまった。

 暮れの大掃除を先延ばしして映画ばかり見ていたので今日は結局一日で一気に掃除をしなければならなくなってしまった。ようやく一通り片付いたけれども全身が痛い。くたびれた。

 明日は息子と娘のドン姫がやってくる。何とか間に合った。

 世の中の勤労者諸氏は本日が多分御用納めであろう。一年間お仕事ご苦労様でした。

追いつめられて

 誰に追われているというわけではないが、追いつめられて本日は大掃除。と言っても多分半日程度のことだろう。もともと掃除が嫌いなのにそれ以上続くわけがない。

2013年12月26日 (木)

映画「座頭市喧嘩旅」1963年大映

 監督・安田公義、出演・勝新太郎、藤村志保、藤原礼子。

 座頭市は堂山一家の喜助という男に声を掛けられる。親分が是非会いたいという。喧嘩の助っ人ならお断りだ、と言ったのだが、強引に誘われて従う。その様子を見ていた男が浪人者三人をそそのかして座頭市と喜助を襲わせる。

 座頭市はたちまち三人を斃すのだがその間に喜助も浪人に斬られてしまう。仕方なく座頭市は喜助の死を報告するために堂山一家を訪ねることになる。

 その旅の山中で、斬られて瀕死の男からお美津(藤村志保)という娘を助けるように懇願され、やむなく引き受ける羽目となる。座頭市は近くに潜んでいたそのお美津を見つけ、彼女の実家のある江戸へ見送ることになる。

 お美津はある大名家に見習い奉公で勤めていたが、若殿から手込めにされそうになって逃げ出してきたのだ。外聞をはばかりその家中の侍たちが追ってきたのだった。

 浪人者と同行していた旅の女(藤原礼子)が座頭市を逆恨みして後をつけていた。女はお美津をだまし、座頭市から奪う。その手引きをしたのはそもそもあの浪人たちを金でそそのかした下妻一家の代貸し、甚五郎であった。

 座頭市が薄々感じていたとおり、堂山一家と下妻一家は一触即発の状態で、堂山の親分は座頭市の腕を借りたかったのだ。

 なんとかお美津を取り戻した座頭市は江戸への通し籠にお美津をのせて一安心する。そして堂山を訪ね、喜助の死を報告するのだが、強引に助っ人を引き受けさせられる。

 そしてついに出入りが始まる。その出入りの場で座頭市が聞いたのはお美津の悲鳴だった。甚五郎によって再びお美津は拐かされ、下妻の手に渡っていたのだ。窮地に追い込まれる座頭市。卑劣なヤクザたちに怒りの居合い斬りが炸裂する。

 藤村志保はとてもチャーミングだ(いまもチャーミングだ)。友人のひとりがこの人の大ファンで自分の娘に志保と名付けている。

 この映画はシリーズの第五作だが今回も監督が替わっている。

 この作品はあまりひねりがなく、ヤクザたちの汚い手口があからさまに描かれていて座頭市の怒りも屈折していない。こういう作品の方が観客受けがするだろう。

映画「座頭市兇状旅」1963年大映

 監督・田中徳三、出演・勝新太郎、高田美和、万里昌代、村瀬幸子、名和宏。

 座頭市シリーズ第四作。この物語ではちょっとだけ国定忠治(名和宏)が登場する。今回は下仁田が舞台であり、国定忠治は上州が縄張りだった。すでに追われる身になっているようだが、国定忠治が刑死したのは1845年だから、それより少し前と言うことだ。そうなると第一作の天保水滸伝よりも少しだけ時をさかのぼることになる。

 第一作で座頭市を慕う清純な居酒屋の娘として登場し、第二作では大工のところに嫁に行って幸せになりそうだったおたね(万里昌代)が、ここでは身を持ち崩して凶悪な浪人棚倉(北城寿太郎)の女になりはてている。

 時代を前後しながらの有為転変、忙しいことだ。

 冒頭で座頭市は突然男に襲われる。最初はあしらっていた座頭市だが、暴言に激怒して斬り捨ててしまう。男のいまわの際の言葉から、自分の首に懸賞金がかかっていること、下仁田に母親がいることを知り、その母親(村瀬幸子)に会いに行く。

 正直に話す座頭市の言葉に最初は怒りで我を忘れた母親も最後は座頭市の誠意を了解し、手に掛けた男・喜助からだと言って座頭市の差し出す10両の金を素直に受け取るのだった。

 それもそのはずで、その母親・おまきは下仁田の佐吉一家の佐吉の乳母で、一家を切り盛りし、気っぷが良いことで知られていた。佐吉はその世界で名が響いていた先代が死んで、下仁田の祭礼に合わせた二代目の襲名披露を控えていた。だが先代と違いやや気が弱く、ヤクザにはあまりむいていないことを自覚していた。

 続々と襲名披露に参加する親分たちが集まってくる。その親分たちの中には佐吉の弱さにつけ込んであわよくば縄張りを我が物にしようとする者たちがいた。そして佐吉を亡き者にしようという企みのために密かに雇われて送り込まれたのが浪人・棚倉である。

 そんな中、座頭市が投宿した宿にその浪人・棚倉といまは身を持ち崩したおたねが同宿していた。しかもその宿の主人は以前は下仁田を仕切っていたヤクザであり、佐吉の先代に縄張りを奪われた男である。縄張りを取り戻すためにある親分から棚倉を預かっていたのだ。

 ところが宿の娘・おのぶ(高田美和)は佐吉と幼なじみで互いににくからず想い合っている。ロミオとジュリエットなのだ。

 座頭市の鋭い勘働きから全ての構図が読み取られていく。おたねのため、そして純なおのぶのために座頭市は佐吉に荷担するのだが、飯岡の助五郎の兄弟分だった親分もいて逆に棚倉を座頭市にかみ合わせようと画策がすすめられる。

 ついにおたねをネタに抗争が勃発、ヤクザたちを次々に斃していく座頭市だったが、その間に棚倉はおたねを手に掛けてしまう。密かに座頭市に嫉妬したのではないだろうか。

 当然座頭市と棚倉の死闘がクライマックスとなる。その前に一度闘って棚倉の方が腕前が上であるらしいことが分かっている。棚倉におされ、仕込みの刀も折られてしまって絶体絶命の座頭市をさらに棚倉が襲う。  
 そこに起死回生の座頭市の秘策があった。

 全て片付いた後、下仁田に祭礼の笛と太鼓の音が聞こえてくる。その音に合わせておどけるように踊りの身振りをしながら去って行く座頭市であった。

2013年12月25日 (水)

映画「新・座頭市物語」1963年大映

 監督・田中徳三、出演・勝新太郎、河津清三郎、坪内ミキ子。

 この第三作からカラーになった。時代劇の時代は夜が暗かった。白黒のときの夜のシーンの暗がりは本当に暗い。ところがカラーになったとたん夜が明るい。この映画が作られた時代のカラーはあまり暗いと撮ることが難しかったのだろうか。全く夜のシーンのイメージが変わってしまった。

 座頭市の生まれは上州の笠間である。その笠間に向かう座頭市が立ち寄った鬼怒川の温泉で、前作で座頭市が斬った関宿の勘兵衛の弟、安彦の島吉とその子分に襲われる。その闘いをやめさせたのは座頭市に剣を教えた師匠の伴野弥十郎(河津清三郎)だった。

 弥十郎にともなわれ、4年ぶりに下館の道場へ帰った座頭市を迎えたのは弥十郎の妹、弥生(坪内ミキ子)である。

 この物語では天狗党の残党が強盗や拐かしで世を騒がせているという話がかぶさっている。とするとほとんど幕末ではないか。どうも天保水滸伝の時代と天狗党が処断されてからの時代というと20年以上の時間差があるけれど、まあそんなことは良いとしよう。

 弥生は兄の弥十郎からきちんとした身分の武士との結婚の話を勧められるがそれをかたくなに断る。そして座頭市の優しさに触れて座頭市と一緒になりたいと言い出す。身分違いから一笑に付していた座頭市だったが、弥生の懇請に剣も捨て、ヤクザもやめてカタギになることを誓い一緒になることを決心する。しかし弥十郎は座頭市を罵倒し、絶縁を宣告する。

 座頭市を付け狙う安彦の島吉は案外男らしい男で、座頭市たちの真情にほだされ、座頭市を付け狙うことをあきらめる。その島吉を弥十郎が惨殺してしまう。時代のせいなのか弥十郎は正邪のけじめを見失った男になっていた。

 その弥十郎は天狗党と関わりがあるらしく、残党たちの資金集めに密かに荷担している。資金集めと言うけれどつまり豪農からの金の強奪だ。

 クライマックスはその天狗党の残党たちと座頭市の闘いであり、ついに善悪の一線を越えてしまった師匠の弥十郎との居合い勝負である。

 弥十郎を斃し、それを目撃した弥生を残して座頭市はむなしく立ち去るのだった。

政治問題化

 韓国国防省が、今回の弾薬支援を日本が政治問題化しようとしている、として遺憾の意を表明し、日本政府に対して日韓関係を考慮し、政治問題化をやめるように申し入れてきた。

 不思議な思考をする国である。

 政治問題化するとしたら日本の野党であり、日本政府は政治問題などにしたくないだろうと思う。それに政治問題になっているのは日本以上に韓国の方のように見える。

 韓国側からすれば日本政府が今回の弾薬提供を政治問題化して武器弾薬の海外輸出を解禁しようとしている、と言うのだろう。確かに今回の弾薬提供の決断は拙速に過ぎた。しかし火元は韓国である。弾薬が足りないから貸してくれと言われなければそもそも提供などしない。それを遺憾の意を表した上でとんちんかんな申し入れを行うというのも韓国らしい。

 弾薬はもちろん、遠くない将来必ず泣きついてくるだろう金も韓国には提供しない方が良い。政治問題にされるから。

食い違い

 南スーダンに派遣されている韓国軍の弾薬が不足している、と言うことで、現地の日本の自衛隊から国連軍を通じて小銃弾が提供された。

 日本では武器弾薬は輸出できないとされてきていたが、今回はその原則を破るものだ。政府は韓国軍の弾薬不足という緊急事態に対する人道的なもので、問題とはならない、と見解を述べている。 

 韓国では、日本の集団的自衛権容認につながるものであり、よりによって日本の自衛隊に応援を頼むなどもってのほかである、と非難されている。

 そのせいだろうか、韓国外交部の報道官は「南スーダンの韓国軍は任務遂行に必要な弾薬を確保している。予備の弾薬について国連に要請したところ日本からの提供があったので借用した」と記者会見で語った。

 韓国の言っていることが本当なら緊急性がなかったことになり、日本政府の今回の行動は大きな問題である。既成事実を作るための行動ととられても仕方がない。

 日本政府の言い分が正しいのなら、韓国政府はマスコミや野党の非難に対する逃げ口上としてウソをついていることになる。

 緊急性のない弾薬をわざわざ支援要請をしたというのも無理があるような気がするけれど、どちらがウソをついているのだろうか。

 日本政府もこれに懲りて韓国からの支援要請には軽々しく応じないことだ。たぶん韓国は、日本が無理矢理支援した、と後で言うだろう。

師走

 古代ギリシャの哲人ディオゲネスは大きな樽を住処にしていた。自分の気の向くままその樽を転がしてその中で暮らしていた。

 世の中の人が生活に追われていても泰然として動ずる風が無い。なんだか老子をはじめとする老荘のひとみたいだ。

 そのディオゲネスがある日その住処としている大樽をあちらへ転がしこちらへ転がし、いつになくせわしなくしていた。

 何をしているのか、と問われたディオゲネスは「人々がこんなに忙しくしているのに自分だけのんびりしていては申し訳ないからとにかく私も忙しくしているのだ」と答えた。

 世の中は師走で皆忙しそうだ。私も部屋の片付けや掃除など、やらなければならないことがあるのだが、なんだかかえって呆然として何もやる気にならない。仕方がないからディオゲネスのように無意味に、ごそごそとどうでも良いことにかまけながら、気持ちだけせわしなく大樽を転がしている。

映画「続・座頭市物語」1962年大映

 監督・森一生、出演・勝新太郎、城健三朗(後、若山富三郎に改名)、水谷良重(後、水谷八重子)。

 一作で終わるはずだった前作が大ヒットしたので同じ年に続編が作られた。監督が勝新太郎を有名にした「不知火検校」を撮った森一生に代わっている。

 前作で斃した平手造酒を弔うために一年後に再び笹川へ向かう座頭市の旅を描く。船に乗り合わせた旅のヤクザたちとの争いに絡んでくるのが片腕の浪人(城健三朗)、襲いかかるヤクザたちをこの浪人が切って捨てるすきに座頭市は姿をくらます。

 やがて宿場町(関宿)に現れた座頭市が、小遣い稼ぎにあんまの笛を鳴らしていると思わぬ客から声がかかる。なんと本陣に宿泊している大名、黒田家の殿様を療治せよというのだ。なぜ自分のような旅のあんまを指名するのかいぶかりながら殿様の身体を揉むのだが、やがて殿様が奇矯なふるまいを始める。この殿様は発狂しているらしい。

 その事実を知ったものを後で始末するには旅のあんまが都合が良いということで、座頭市も藩の侍たちに襲われるのだが、もちろんたちまち座頭市に切り捨てられてしまう。

 黒田藩は総出で座頭市を追う。それをかくまったのが飯盛り女のお節(水谷良重)。翌朝の二人で食べる朝飯の様子と旅立つ座頭市を送るお節の風情がしっとりとしていい。きぬぎぬの別れというところか。水谷吉栄という人は声質も悪いし見た目も品がなくて昔から嫌いなのだが、さすがに若いときだけにちょっと色気があって悪くない。

 黒田藩は座頭市を始末するために関宿の勘兵衛に大金を払い追わせる。勘兵衛は一家を挙げて後を追い、やがて兄弟分の飯岡の助五郎のもとへわらじを脱ぐ。そこへひょっこりやってきたのが座頭市だ。以前ここへ寄宿して義理で笹川繁蔵の用心棒の平手造酒を斬った縁がある。

 座頭市を襲おうとする勘兵衛だが助五郎は以前の縁があるから手助けできない。座頭市の行き先が平手造酒の葬られた笹川の寺であることを知ると、そこで始末するようにそそのかす。

 助五郎の家にはあの片腕の浪人、与四郎が寄宿していた。しかし与四郎が飛騨から次々に凶行を重ねて旅をしてきたことが関八州に知られ、いまはお尋ね者となっているために助五郎は与四郎を追い払う。

 やむなく与四郎も笹川へ向かう。

 その与四郎を関八州の捕り手たちが追う。助五郎が知らせたのだ。

 こうして座頭市と勘兵衛一家、与四郎、関八州の役人たち、それについてきた助五郎たちが笹川で争うことになる。

 最後に与四郎は武士などではなく、実は座頭市の兄であることが分かる。片腕なのは座頭市に切り落とされたためであった。

 その前に何度か二人のちょっとした絡みがあるのにその事実とはしっくりこない。あまりにも不自然な気がする。与四郎が武士ではないことは、最初の闘争シーンでの剣の振るい方がヤクザのものであることから想像できていたけれど。

 それぞれの個別の話がうまくこなれないままにつぎはぎされている感じで、座頭市自体のキャラクターがあまり生きていない。これは監督のせいなのだろうか。

 勝新太郎と若山富三郎という実際の兄弟が兄弟という設定で共演しているのが面白い。それと水谷良重の意外な良さを知ったことくらいがこの映画の収穫か。

2013年12月24日 (火)

映画「座頭市物語」1962年大映

 監督・三隅研次、出演・勝新太郎、天知茂、万里昌代。

 座頭市シリーズの記念すべき第一作である。そもそも作られたときにはシリーズにする予定ではなかったようだ。知られているように時代小説の名手、子母沢寛の短い文章の中のキャラクターを膨らませてできあがったのが座頭市である。

 その座頭市が飯岡の助五郎のところにわらじを脱いだことから物語が始まる。ご存じ天保水滸伝の抗争だ。助五郎に敵対するのは笹川の繁蔵、ここに寄宿しているのが平手造酒(ひらてみき・天知茂)である。

 映画はモノクロ。座頭市のみなりはまだ多少身ぎれいである。

 敵対する一家の用心棒である平手造酒と座頭市が親交を深めるのだが、それが結局二人が真剣勝負することにつながっていく、というつらい話だ。平手造酒が死に場所を求めて座頭市に自分の命を預けた気持ちが切ない。

 人の命を虫けらのようにしか考えないヤクザという人種だからこそ最低の仁義が必要だ、と座頭市が言う。その世界でしか生きられない座頭市のこの世に対する怒りが爆発し、そして最後はあきらめの境地に戻ってあてもない旅が続く。

怖い話

 中国の銀行間貸し出しの短期金利が急上昇して8%を超え、9%に迫ろうとしている。これは資金需要に対して供給が不足しているからだ。中国政府は緊急で3000億元以上の資金供給を行ったらしい。

 今年6月にも同じ状況が発生して、そのときは中国政府は当初資金供給を行わなかったために短期金利は3倍以上となり、10%を超えてしまった。これに慌てた中国政府は巨額の資金供給を行わざるを得なかった。それに懲りて今回は対応が早かったが、これで金利の高騰が収まるかどうかが注目される。

 詳しい人から見たら何を今更、と言うことだろうけれど、これは中国危機の要因のひとつの表れらしいのだ。

 地方政府は野放図な投資を行ってきた。右肩上がりで成長しているときはその投資は次々に金を生んできた。その担保は地方政府が理不尽に取り上げたり勝手に処分した土地である(これが年間20万件を超えるという争議の原因だ)。そしてその土地に巨額の投資を行い開発を行ってきた。

 しかし中央政府が不動産投資の過熱によるバブルをコントロールせざるを得なくなるとともにその費用対効果が低下し、地方政府の負担になってきた。銀行はそのような地方政府の野放図な投資はリスクが大きすぎるためにすでに融資をしなくなっている。

 地方政府はどこから資金を調達したのか。その資金を供給したのがあのシャドーバンクである。リスクが高くてもふんだんに融資が行われた。そのかわり金利も高い。ますます地方政府の債務残高は膨張する。いま多くの地方政府が膨大な債務を抱えている。

 ではシャドーバンクはどこから金を借りているのか。銀行である。

 地方政府の債務支払期限は三ヶ月単位となっている。そしてそれが表面化したのが6月危機だった。だから9月にはもっとひどいことになるだろうと予想されていたが、何も起こらなかった。そして次のサイクルの12月も何事もなく推移していた。それがここへ着ての銀行間短期金利の上昇である。

いま地方政府が破綻しないためにさらにシャドーバンクから金を借りないとならない状態になっている。そのシャドーバンクはどこから金を調達するのか。当然銀行である。こうして巨額の資金需要が生じたために銀行どおしで資金の融通を行わないと追いつかなくなる。そのために銀行間貸し出しの短期金利が急騰したというわけだ。

 こうしてシャドーバンクは巨額の利益を得、地方政府は巨額の債務を抱え、その支払いに自転車操業を余儀なくされている。しかし借り換えにも限界がある。すでに返済能力を超えているともいわれているからどこかでパンクしてしまう。

 そのときシャドーバンクは巨額の焦げ付きを抱えることになる。そうすればそこに融資していた銀行も回収が不能になる。と言うのが中国経済破綻のシナリオなのだ。このデッドエンドは来年だろうと予言する人もいる。

 ちなみにシャドーバンクの金主はどこか。多くが人民解放軍関係者であったり、人民解放軍そのものであったりする。巨額の軍事費はこのようなところに流用されて幹部たちの懐を潤してきた。

 こうなると破綻をごまかすために戦争を仕掛けるしかないなどと考える輩が出てこないとは言えない、というおそろしい話なのだ。

2013年12月23日 (月)

年賀状

 池波正太郎は年末どころか何ヶ月も前から年賀状を一枚ずつ手書きしていたという。絵心のある人だからさぞかし心のこもったものだっただろう。

 年賀状を前の年に書くのは嘘くさいと行って年が明けてから書くという人もいる。まだ書くだけ良い。年賀状など虚礼だと言って一切出さない人もいる。

 しかし文化というのは虚礼に似て、しかしとても大切なものだとこの頃強く感じている。年明けの朝に若水を汲み、家族全員が顔を合わせておめでとうと言い、おとそをいただき、おせち料理やお雑煮を食べる。

 別にお正月だからといって普通の日と何も違わない、と言って何もしない人もいるかも知れない。しかし家族、特に子供がいるのならそのような長年伝えられてきたしきたりは意識して残す方が良いと思う。家族というものがその存在意味を失っていくのは、そういうものをあまりにもおろそかにしすぎているからではないかと思う。

 今日、年賀状の住所録を整理し、宛名を全て印刷した。文面も自己流で作成してようやく全て印刷した。後は一言ずつ何か手書きで書き込むつもりだ。これが時間がかかる。明日中に終わるだろうか。25日までに出せば元旦に配達されるそうだから、明日はほかに何もしないでそれだけやろうと思う。

縮める

 最近の民放のCMの量が増えているような気がしているが、実際に計って比べているわけではないので確かかどうか分からない。こちらの忍耐力が低下しているために感覚的に増えているように誤解しているだけかも知れない。それにCMの会社が以前とずいぶん変わったこともその理由かも知れない。個人的にあまり好みでないものが増えていると思っているからだ。

 養毛、育毛、カツラや増毛、エステや美容整形、パチンコ屋、ゲームのCMが目障りだ。起用されているタレントまで嫌いになる。だいたいもともとあまり好感の持てない人が出ているけれど。

 CMのせいで番組は寸断されてしまうから民放のドラマを見ているとストレスがたまる。しかも佳境に入るとやたらにCMの頻度が上がるような気がする(実際にそうなのだが、気分的には実際以上に多く感じる)。

 私はもうそれに耐えられなくなってきてほとんど民放のドラマを見なくなってきた。それに平然と耐えている多くの人の忍耐力に敬意を表する。日本人の我慢強さはここから生まれているのだろうか。それとももともと我慢強いのにつけ込まれていると言うことなのだろうか。

 ただほど高いものはないとつくづく思う。だって時間は貴重なものではないのか。ドラマで得られる快楽とCMで削がれる感興とその不快感に耐えることがすでにバランスを超えていると思うがそう思わない人が多いのだろうか。そう思っていてもあきらめているのか、それともそう感じないのかどちらだろう。

 それとともに、CMによる番組の切れ目の後で、数秒(長くても十数秒)切れ目の前までのおさらいを最近よく見るようになった。どこかが始めたら皆真似をするようになっていまではそれが普通になっている。これも極めて不快である。

 なぜ不快なのか。CMの一コマはだいたい15秒、それがいくつかで1分から長くて2分続く。しかし長くて2分である。鶏ではあるまいし、2分前のことをおさらいしてもらわなくても普通の人なら忘れたりしない。人を馬鹿にしているのかと感じて不快なのだ。

 企業は体質強化のために経費節減に努めている。体質を強化して競争力を高め、生き残ろうとしているのだ。

 テレビの番組の、一秒の一秒の値打ちはどれほどだろう。CMの料金がいくらになるのか知らないが、一秒あたりずいぶん高価なものなのだろうと思う。

 テレビ局は番組の時間を縮めることで節減に努めているのだということに気がついた。それが意識的かどうか知らない。しかしCMは利益に直結しているから削減することはあり得ない。増やすことにさらに努力するだろう。しかしそれにもそろそろ限界が見えてきた。そうなれば番組の時間を節減するしかない。見かけの時間を上げ底にすることで貴重な時間を節減しているのだ。その方策が無意味な反復だったのだ。ようやくあの無意味な時間の意味が分かった。

2013年12月22日 (日)

駆け引き

 今年の高校駅伝は4チームのトラック勝負というデッドヒートで、会場の歓声がものすごかった。そして最後は解説者の予想どおり、スピードに勝る山梨学院が優勝した。

 しかし盛り上がりに反して記録は平凡だった。それはなぜだろう。圧倒的に強いチームがなかったということもあるだろう。だがそれより私が感じたのは駆け引きの多さだった。何人かが並ぶと、前を追うことよりも互いの駆け引きに夢中になってかえってスピードが控えられ、結果的に後続に追いつかれる、という場面が多かった。

 駅伝も勝負であるから駆け引きがあることは当然だ。しかし今回ほどあからさまな駆け引きらしいものを見たことはあまりない。勝つことにあまりにこだわっているのだろうか。そのために強い選手を育てられなくなっているなどということはないだろうか。

 今回西脇工業の監督が暴力的な指導で告発されている。これも同根の、勝つことにこだわりすぎる風潮の結果なのか。応援していたチームだったのにやはり実力を発揮できずに入賞すら出来なかった。

 それと今回のNHKの中継はお粗末だった。各中継車のアナウンサーとメインのアナウンサーの連係のまずさは聞いていていらいらした。高校駅伝は区間も短く参加する選手も多いから、それを網羅して伝えるにはずいぶん忙しい。手際が悪いと興を削がれてしまう。いままでこんなにひどかったことはなかったのに。

2013年12月21日 (土)

明日は高校駅伝

 年明け早々の楽しみは箱根駅伝である。同じ思いのひとも多いだろう。そして同じくらい楽しみにしているのが年末の高校駅伝だ。

 むかし会社の同僚の母校である西脇高校を応援したのがきっかけで毎年必ず見るようになった。そのときは逆転で西脇高校が優勝したから特に興奮した。

 明日はその高校駅伝の日だ。残念ながら午前中はマンションの大掃除に参加しなければいけないから女子の部は見ることが出来ない。でもいちばん見たい男子の方は全部見ることが出来る。

 暮れの忙しいときだけれど、見たことのない人は是非一度ご覧になることをお薦めする。若者達が一生懸命都大路を駈ける姿に感動するはずだ。

イギリスドラマ「インジャスティス 法と正義の間で」2011年

 告訴された被告を弁護するのが弁護士だが、その被告が無実であるのかどうか、真実は分からないことが多い。

 しばしば被告がどう見ても有罪としか思えないのに無実を主張したり、理解を超える理由で罪の軽減を求める弁護士の話を聞くと、怒りを覚えることがある。たとえば光市の母子殺人事件を思い出せばうなずかれる方も多いことだろう。

 弁護士は被告が主張する言葉を正しいと信じて、被告の立場に立って被告を弁護するのが仕事である。しかし本当に被告の言葉を信じて弁護しているのだろうか。

 このドラマは自分が引き受けた事件の被告の主張は絶対に正しい、と常に確信した上で、全力で不利な裁判を勝ち抜いてきた有能な弁護士が、ある殺人事件の真犯人を無罪にしてしまったことを知って挫折し、ロンドンから田舎に移り住んで2年、ようやく精神的なダメージも癒え、再び圧倒的に不利な事件を勝って無罪にする様子が描かれていくものだ。

 冒頭に一台の黒塗りの乗用車が爆発炎上するシーンが映し出される。このシーンはドラマの中で何度かフラッシュバックのように現れる。

 また本筋のストーリーとは別に田舎の農家の小屋で暮らす男が頭を拳銃で撃ち殺されて発見される事件が挟まれる。この男は過激な動物保護団体の活動家だった。

 弁護士のもとへロンドンで起きた殺人事件の弁護の依頼が持ち込まれる。あれ以来殺人事件は引き受けないこと、しかもロンドンには特に行きたくないと断る彼だが、この事件の被告が23年前に大学で友人であり、その友人のある言葉がきっかけで弁護を引き受けることにする。

 心配する家族たちをよそに不思議に元気な様子である弁護士。再び生きがいを取り戻したようである。事件は友人が20歳以上若い秘書と関係を持ち、ホテルで彼女を絞殺した、というものだった。

 その供述にはわずかな矛盾があり、しかも全ての状況証拠が被告に不利であり、ほかに容疑者が全く考えられないというものだった。

 検察側は余裕を持って鋭く追求してくる。そして弁護士が探し出し、新たに判明した事実はさらに被告に不利な証拠となってしまうのだが、それが起死回生のきっかけになって・・・。

 正義とは何か、法とは何か、究極の問題を突きつけるドラマだ。そしてこの弁護士が選んだ自分なりの正義とは・・・。

 イギリスドラマは本当に出来が良い。

2013年12月20日 (金)

内田樹「邪悪なものの鎮め方」(basillico)

 禍々しいものについてそれをどう鎮めるか書くつもりだったが・・・と前書きにある。しかしここに書かれている邪悪なもの、というのは普通想像する妖怪変化のたぐいではない。呪いのことである。

 この世は呪いを込めた言説に充ちていると老師は説く。その呪いの諸相が語られていき、それを解くためにはどうしたらよいのか、どういう生き方を意識的にすべきかについて老師なりの解答を提示している。

 老師が呪いとしてあげているものとは原理主義的思考方法のことなのだが、その理説はこの本を通読してもらわないと理解しにくい。

 アベノミクスは失敗だ、と断言する経済学者はアベノミクスが失敗するように呪いを掛けている。成功したら自分が間違っていることになるからだ。放射能汚染で子供が危険だ、と過剰反応する人は自分の正しさを証明するために放射能の影響で誰かが病気になることを密かに願ってしまう。マスコミをはじめ、それ見たことか、言ったことではない、と言いたくてうずうずしている人ばかりだ。

 私が正義の味方が嫌いなのは、白か黒かにこだわるからだ。正義の味方は妥協を許さない。百点満点ではないからと言って物事を否定したりする。とりあえず改善されたのだからまずそれを良しとして、次にどうするか、と考えない。結局いつまでたっても何も進展しない。

 完璧な答えなど無いし、全員が賛成する意見などもない。帯に短し、たすきに長しの答えしか無いのが世の中だ。ただひとつの正しい答えが常にあるという思い込みこそ呪いそのものなのだ。

 以上はこの本に書いてあることとだいぶ違うような気がする。読解力が無く、妄想癖の私が勝手に解釈したものなので誤解の無いようにお願いしたい。

NHKBS「無頼の遺言 棋士・藤沢秀行と妻モト」

 2005年に放映されたものをNHKアーカイブスで再放送していた。
 
 囲碁をやる人なら藤沢秀行を知らない人はいないだろう。天才棋士としてよりも酒と女とギャンブルで無頼の日々を重ねたことで知られている。

 いま韓国はもちろん、特に中国では囲碁がさかんである。その中国の若い棋士たちを育てあげて今日を築いた功績のなにがしかはこの藤沢秀行が負う。中国で囲碁の好きな人に問えば藤沢秀行の名前を知らぬものはない。

 私も学生時代に先輩に教えられて以来ザル碁を打つ(謙遜ではなく、情けないことに本当にヘボである)。だからテレビの囲碁はよく見るし、藤沢秀行の歯に衣を着せぬ酷評を楽しんできた。この人の言行はまことにユニークなのだ。

 最後の無頼派などと呼ばれたが、その家庭がどのようなものか、想像がつこうというものだが、聞きしに勝るものがあったようだ。それをついにしのぎきった妻女のモトの精神の強さに敬服する。まさに火宅の人であった藤沢秀行の妻とはどんな人生だったか、笑いながら話すその表情の中に単なる我慢強さを超えた何か底知れないものと、かすかな哀しみと諦観がうかがえたように思うのは考えすぎか。

 棋士は勝負に生きる。その思考と価値観になんとなく武道に共通するものがあるらしいのは必然的なことかも知れない。

 「50歳を過ぎてから囲碁とは何かが見え始めた」という藤沢秀行は、勝負は勝てば良いものではないと悟ったようだ。だから若い棋士たちへの指導に人間的な修業が必要だ、というニュアンスが込められている。

 碁は無限の世界だと言う。だから人と同じことをしていてはいけないのだ、もっと自由でなければならないと言う。捉われること(内田樹老師はそれを「居着く」という)は自由を失うことに他ならないからだ。

 藤沢秀行という人は共に生活するには最も苦労させられる人だけれど、無頼の果てに人間的な魅力が備わった人だ。人間というものの不思議さかも知れない。

 この番組のとき彼は79歳、2009年、83歳で死んだ。

2013年12月19日 (木)

映画「王朝の陰謀 判事ディーと人体発火怪奇事件」2010年・中国・香港合作

 監督ツイ・ハーク、出演アンディ・ラウ、リー・ビンビン、ダン・チャオ、レオン・カーフェイ。

 なんたる題名だろう。確かに物語は荒唐無稽なものではあるがとても面白い映画なのに、この題のために見る気がしなかった人が多いのではないか。

 舞台は中国の唐の時代。中国歴代皇帝の中で唯一の女帝であった則天武后が正式に即位する頃のことである。主人公は狄仁傑(てきじんけつ)。この人は実在の政治家である。名裁判をしたことでも中国では有名だ。それをディー判事とはなんたることか!などと怒っても仕方がない。

 狄仁傑は高宗、中宗、睿宗の三代の皇帝に仕えた後、則天武后にも重用された。しかし一時讒言に遭い、獄に入っている。この映画では人体が発火して怪死する事件が続いた後、その事件を調査するために獄中の狄仁傑が則天武后から召喚されるというストーリーで、狄仁傑をアンディ・ラウが演じている。そして召喚に赴くのが則天武后の側近の美女、チンアル(リー・ビンビン)である。この人は本当に美人だ。

 とにかくアクションに次ぐアクション、そして不思議なアンダーグラウンド世界や巨大な像(則天武后を模していて高さが百メートルくらいある)などスケールも大きいし見ていて飽きない。監督がハリウッドでも一目置かれているツイ・ハークだから当然と言えば当然なのだ。

 とにかくだまされたと思ってビデオ屋で探して見てみたら良いだろう。楽しめることを約束する。こういう娯楽に徹した映画が本来の映画なのかも知れない。いまはちょっと七面倒くさいものが多すぎる(それも嫌いではないけれど)。

映画「四十七人の刺客」1994年・東宝

 原作・池宮彰一郞、監督・市川崑、出演・高倉健、中井貴一、宮沢りえ、西村晃、石坂浩二、浅丘ルリ子、岩城滉一、宇崎竜童、井川比佐志ほか(忠臣蔵の話だからとにかく出演者が多い)。

 東宝が100周年の記念に威信をかけた作品だそうだ。以前から見たいと思っていたが、赤穂浪士の討ち入りの日に合わせてWOWOWで放映したのでようやく見ることが出来た。

 残念ながら駄作。威信をかけた作品がこんな出来では東宝の威信も地に墜ちた。特に高倉健がよくない。市川崑と相性が悪いのだろうか。登場人物の台詞が、全て間が悪いし不自然だ。高倉健が大根役者にしか見えない。一人色部又四郎役の中井貴一だけが過剰化粧に過剰演技でかえって光っていた。

 松の廊下の刃傷沙汰のシーンはほとんど描かれず、浅野内匠頭の、その刃傷に及んだ理由も最後まで明らかにされない。例の賄賂云々の説は大石内蔵助の画策した流言であることになっている。

 クライマックスはもちろん吉良邸への討ち入りだが、迷路や水堀、様々な仕掛けがこらされている邸内に苦労しながら浪士たちが吉良を追い詰めていくのだけれど、あまりのその仕掛けに嘘くささを感じてしまう。ここに金を掛けたのだろうけれど、逆効果だ。

 この話は誰でも知っているから、それを前提にひねりを加えた原作(スリリングで緊張感もある)なのだが、その肝心の部分をほとんどはしょって、おかしな部分だけつぎはぎにつなぎ合わせたへんてこな映画だ。これが市川崑流なら観客を馬鹿にしているとしか思えない。金を掛けて豪華キャストを使って何をしているのだろう。東京オリンピックの映画でも独りよがりの作品を作って非難されたが、これもそのたぐいだ。

 これはついでだけれど、斬り合いだから血が流れるシーンが当然ある。その血の色が朱色で、しかも噴水のように出たりする。あの色は日本映画の伝統的な色だけれど、もっと血は赤黒い。いつまでこんな伝統をつないでいくのだろう。おかげで切られた方の痛みが伝わってこない。それが健全だとでも言うのだろうか。学芸会みたいだ。

 あまりのひどさにしばらく気分が悪かった。実は昨日から歯が痛いのでそのせいもあるかも知れないが。

2013年12月17日 (火)

アニメ「マルドゥック・スクランブル」

 冲方丁のSF小説が原作。2010年「マルドゥック・スクランブル 圧縮」、2011年「マルドゥック・スクランブル 燃焼」、2012年「マルドゥック・スクランブル 排気」の三部作で、監督は工藤進。

 未来世界、少女娼婦のバロットが、シェルという男に殺されかかるが、瀕死の状態でイースター(医師)とウフコックに助けられる。ウフコックは形態が不定形の存在で、武器にでも衣服にも変形できるが、普段の姿は金毛の小さなねずみである。

この世界観は原作を読むか、このアニメを見るかしてもらわないと説明の仕様がない。

 シェルはシリアルキラーであるが、娯楽産業を統括する大企業のオーナーでもある。そして自分の犯罪記憶を犯罪のたびに抜き去ってしまうので彼の犯罪であることが立証できない。

 常人を遙かに優れた身体と知的能力を付与されて再生されたバロットがイースターやウフコックの助けを借りてシェルの犯罪を暴く、というのがストーリーなのだけれど、シェルよりもシェルに雇われたボイルドとの闘いがメインである。

 ウフコックのキャラクターが物語り全体のイメージを決めている。声を矢嶋智人が演じているが、とても良い。この人、あまり好感を持っていなかったけれど、見直した。

 大人向きのアニメだけれど、今時の少女はこんなのを楽しんでいるみたいだ。おじさん負けそう。

 ところで「ベルセルク黄金時代篇」の第三部「降臨」がWOWOWで放映された。二度目だ。前回録画した分は見る前に娘のドン姫にやってしまったので、今回もう一度録画した。見るのが楽しみだ。これもかなり強烈なアニメのはずだ。正視に耐えないようなシーンが続くらしい。原作もどろどろぐちゃぐちゃのすごいものだからアニメになったらかなりすごいだろうと思われる。いつ見ようかな。

内田樹「こんな日本でよかったね」(バジリコ)

 副題「構造主義的日本論」。

 構造主義についてさっぱり理解できなかったが、内田樹老師のおかげで、おぼろげにその理路が感じられるようになってきた。その程度だから、人に何が分かったのか説明することなどまだまだ不可能だ。

 物事について当たり前のように考えていること、たとえば歴史は原因があってその結果として未来に向かって必然的に展開している、という思い込みがある。現在から過去を振り返ってその流れの意味が分かれば未来が予測可能だ、という思い込みだ。歴史が科学であることをそのように考えることで保証しているとも言える。

 どうもそれはそんなに確かなことではなさそうだ、ということに何となく気がついていたけれど、老師の文章を読むと、もっとずっと論理的にその歴史観の間違いらしいことが分かってくる。

 過去の人にとっての現在は、現在の我々にとっての未来のようなものだ。当たり前のことだけれど、では過去の人はどれほど現在のことが予測できていたことだろう。起こったことは、それが起こるまでそんなことが起こるなどと思えないことの方が多いのだ(たとえばソビエト崩壊)。

 (これは老師の文章を引用したのではなくて自分の思考の道草である。)

 この本には多数のテーマがちりばめられている。一つ一つについて自分なりに考えてみるという楽しみがある。ボケ防止の歯止めにもなるであろう。

井上章一「狂気と王権」(講談社学術文庫)

 この本にはルートヴィッヒ二世(19世紀、バイエルン王国の国王でワーグナーのパトロンとして有名。あのノイバンシュタイン城の築城など、国の財産を傾けるほどの散在をしたために狂気であるとして退位させられた)についての言及もあるが、メインテーマは海外に関するものではない。

 まず1936年の元女官長・島津ハルの不敬事件が紹介される。島津久光の孫に当たり、香淳皇后の縁戚筋にも当たる女性だったが、不敬罪で特高警察に逮捕された。その事件の詳細は本を読んでもらうとして、彼女が逮捕された後に精神病であるとして無罪になったことが本全体の序章となる。

 この本は日本のはなし、天皇制と精神鑑定というテーマに関する事件をいくつか取り上げながら近代の精神病医学が確立していく中で、精神鑑定の果たした役割を見直し、同時に皇室、特に昭和天皇の措かれた心理状況の推察にまでいたる。

 検証の難しい話で、裁判記録なども公開されていないものがほとんどだから状況からの推論が多い。しかし歴史の新しい視点が提示されていることは間違いない。

 取り上げられている主な事件は、元女官長不敬事件、虎ノ門事件(1923年、ステッキ銃で皇太子裕仁(後の昭和天皇・当時摂政)が狙撃された)、皇太子(現天皇)ご成婚の馬車に石を投げ襲撃した事件、大津事件(ロシアのニコライ皇太子が大津で警備担当の津田巡査に斬り付けられ重傷を負った事件)、相馬事件(相馬家に関わる事件だが、精神鑑定が問題になっており、家宰であった志賀直道(志賀直哉の祖父)が関係しており、志賀直哉の言及した文章でも有名)、二二六事件など。

 これらの事件には二二六事件(これは精神鑑定とは関係なく、昭和天皇と高松宮との関係を説明する伏線として取り上げられている)以外は精神鑑定が行われているケースが多い。行われていない場合はなぜなのかについても推論が加えられている。

 この本を皇室の闇として見る左派的な見方も出来るだろうし、精神医学についての歴史、そしてその限界を見る見方も出来る。私はどちらかと言えば後者であった。

 昨今の、犯罪者は皆精神に問題があるかのごとき精神科医の一部の論調は、精神科の関与する分野の無限拡大のように見えて危うさを感じているところだからである。もう少し出来ることと出来ないこと、分かっていることと分かっていないことについて謙虚になるべきだと思う。

 精神科医や心理学者と称する人がテレビで世の中のことごとくに無責任なコメントを話しているのを見るとまるで人の心を全て読み取れる超能力者のようではないか。

 刑法第三十九条についての違和感と合わせて、精神鑑定についてのちょっと変わった情報がこの本から読み取れる。

2013年12月16日 (月)

わたしの仕事

 わたしの好きな言葉に「ゴミを拾う人はゴミを捨てない。ゴミを捨てる人はゴミを拾わない」というのがある。心の底からその通りだなあ、と感心するのだけれど、なぜそこまで自分の心に響くのか分からなかった。

 内田樹先生の本を読んでいたらその疑問が氷解した。

ここからは引用である。

 「仕事」には「私の仕事」と「あなたの仕事」のほかに「誰の仕事でもない仕事」というものがある。そして、「誰の仕事でもない仕事は私の仕事である」という考え方をする人のことを「働くモチベーションがある人」と呼ぶのである。・・・・私の知る限り、「仕事の出来る人」というのは、例外なく全員「そういう人」である。ビジネスの現場において、「私の仕事」と「あなたの仕事」の隙間に「誰の仕事でもない仕事」が発生する。

続けて、

 これは「誰の仕事でもない」わけであるから、もちろん私がそれをニグレクトしても、誰からも責任を問われることはない。しかし、現にそこに「誰かがやらないと片付かない仕事」が発生した。誰もそれを片付けなければ、それは片付かない。そのまましだいに増殖し、周囲を侵食し、やがてシステム全体を脅かすような災厄(年金問題のような大事になる)の芽となる可能性がある。

さらにこんな当たり前のことが現代日本人の多くに理解できなくなったのは、

 「出来るだけ自分の仕事を軽減することが労働者の権利である」と言う硬直した思考にしがみついているからである。・・・・自分は「収奪された労働者」であるから「労働者を収奪するシステムがクラッシュしてもそれは労働者の責任ではない」・・・・。

と政治的に正しく考える習慣が身についているからだ、と看破している。 
 自分の労働と等価の報酬が得られるべきである、と考える人が多い。そして自分の労働に対して報酬が等価ではない(多すぎると考える人は少なくてたいていは過小であると思っているだろう)と考える人がほとんどでもあろう。そういう人は「私の仕事」ではないものをすることはない。

 これは学生の勉強でも同じだろう。自分が学ぶことが自分自身のレベルアップではなく、自分が学ぶ、という労働の対価としての成果を求めているのであれば、勉強をしない、ということも立派な選択になる。

 「数学なんか学んでも人生に何の役にも立たない」etc.などとのたまう子供に対して数学の有用性を説いても仕方がない。学問はそもそも有用性のためにあるという思考そのものが経済的、政治的な思考だからだ。それにとららわれて論争しても子供を説得することは不可能だ。

 話がだんだんとりとめが無くなってしまうが、内田樹先生同様、私が敬愛し、一目置く人々は全て「誰の仕事でもない仕事」を「私の仕事」として黙って片付けている人であったことに気がついてびっくりする。

 そしてその私がそのような「誰の仕事でもない仕事」をしてこなかったことを恥ずかしく思う。

 私は決してゴミは捨てなかったが、ゴミを拾わなかった。今日からゴミを拾うことにしよう。

 本日は定期検診日。血糖値は今回も正常値であった。もう少し運動をするようにとのアドバイス。栄養指導は本日をもって終了(ヤッタ!)。体重は最大値より10Kgも減り、リバウンドもないことが確認された。晴れやかな気分である。さあ今晩はおでんでも作って一杯飲もう。

中野美代子「カニバリズム論」(福武文庫)

 この本の前半を読んだ(以前一部を紹介した)ところでその内容の圧倒的なボリュームに圧倒され、しばらく措いておいた。久方ぶりに読み継いで、あらためて彼女の知識の奥深さとその博識を自在に駆使する才能に脱帽した。

 この本は彼女が若いときに書いた文章を集めて本にしたもの(1972年に単行本で出版され、1987年にこの文庫に収録された)である。優れた人は最初から優れているのか、と自らの不才を嘆いてみたところで如何とも仕方がない。

 カニバリズム(人肉嗜食などと訳される)という視点から人間を深奥から見つめ直す。もちろん彼女は中国文学の研究者(小説家でもある)であるから中国の話題が多いが、ヨーロッパの話題もそれに劣らず多数引用されていることに驚く。いったいいつこんなに多数の本を読み比べることが出来たのだろう。

 テーマがテーマだからかなり血なまぐさい。かなり強靱な精神力が無いと紹介されている本は読むのがつらいだろう。ただそのような話題を網羅した後に、当然話は魯迅に及んでいく。

 「薬」「狂人日記」という魯迅の代表作は血の饅頭の話であり、人肉喰いの話なのである。しばしばこれが中国人民に覚醒を促すための寓意であると解釈される。もちろんその通りだろうが、中国ではカニバリズムの歴史が連綿と現実にあることをしっかりと認識しないとこの話を真に読むことが出来ない。

 この中には「魔術における中国」や「中国残酷物語」など、普段目にしない、出会うことの少ない話などもちりばめられていて、大人には興味深いことだろう。もちろん子供には禁制だ。

 もう一度読みたくなる本だ。

2013年12月15日 (日)

醜態

 「李下に冠を正さず、瓜田に沓を入れず」と今更言うまでもなく、権限のある立場に立つものは、実際に罪を犯したかどうか以前に、疑われるような行為そのものが許されない。許さないのはもちろん自分ではない。

 猪瀬都知事の話である。多分最終的には身を引かざるを得ないと思うが、そんなことは事件が発覚した時点で想像できたことだろう。それなのに都知事の座にしがみついているのは醜悪でしかない。

 道路行政改革の委員のときにがんばっている姿を見て当初応援していたが、次第に妥協をはじめ、とことん骨抜きになってしまってそもそも何のための行政改革か分からない結果になったことを思い出す。そのときは抵抗勢力だらけの中で孤軍奮闘したのだろうと同情していたのだが、結果への批判は抵抗勢力に対するものよりも猪瀬氏自身に対するものが多かったことが意外だった。それなりの理由があったのだろう。

 東京電力に対しての鋭い突っ込みも記憶にあるが、攻めが得意な人間は守りが弱いのだろうか。あのみのもんたを思い出してしまう。神や大衆に(誰も頼んでいないのに)代わって正義の鉄槌を下すものには天罰が下るものらしい。

 「人を呪わば穴二つ」と言うではないか。猪瀬都知事の醜態もさることながら、かさにかかって皆で糾弾する都議会議員の後ろにも穴が口を開けている。あっ、オレもか!

劣等者の哀しみ

 少し歯ごたえのある文章を読むと意味がよく分からないか、ときには全く分からないことが多い。難解な言い回しでごまかしているらしいものは、分からないのはこちらのせいではない、と何となく分かる。哀しいのは理解できたらこちらの迷妄が晴れそうなもの、新たな思考のとば口が開けそうなものが何となく感じられるのによく分からないことだ。

 いままでの思考の枠組みを超えているのだからすぐ得心がいくはずがないとも思うが、それが自分の不勉強のせいであることを思い知らされる場合が多い。一からやり直すにはもう時間は無いし、もともと能力そのものにも大きな違いがあるのかも知れないと思うとやりきれない。

 かなわないなと思う人とは、同じ本を読んでそこから受け取るものが桁違いに差がある。しかもそのような人ははるかに多くのものをしかもディープに読み込んでいる。これでは永遠にかなわない。

 そういう優れた人たちと自分を比べること自体がおこがましいのかも知れないが、悔しいではないか。

 しかもそういう優れた人たちは一握りではなく、そこら中にごろごろいる。どうもわたしの一生は惰眠をむさぼって空費してきたもののようだ。

 ちょっと愚痴を並べたところで気を取り直すことにしよう。

2013年12月14日 (土)

高性能空気清浄機

 中国の大都市では呼吸器などに疾患を抱えている市民が急増しているという。もちろん深刻な大気汚染によるものと考えられる。特にPM2.5は吸い込むと肺の奥などに取り込まれてなかなか排出されない。

 日本でも大気汚染でぜんそくなどの公害病の患者が多数発生したことがあった。ただその原因は工場の排出する汚染物質と自動車の排気ガスの二つの要因によるものであった。

 中国ではそれに加えて暖房に使用する石炭の燃焼ガスが加わっている。中国で暖房に使用される石炭は残念ながら品質的に不純物を多く含み、PM2.5の大きな要因となっている。また、中国の都市部の人口集中は世界に類を見ないほどであり、当然自動車の数も多い。しかも渋滞が多いから排気ガスも必然的に多くなり、その上使用されるガソリンの品質規制も日本と比べものにならないほど甘いから排気ガス中の有毒物質も多い。

 中国のある大学の研究チームが長年に亘る研究の末0.3ミクロン以下の超微粒子まで除去できる高性能の空気清浄機を開発したそうだ。PM2.5の除去率は99%、その他の揮発性物質の除去率も96%以上だという。

 多分すばらしい性能なのだろう。しかしその水準が一般の空気清浄機とどれくらい違うのかよく分からない。

 そもそも空気を清浄にしようとすればいままでも可能だっただろう。LSIなどの製造工場などの清浄率は極めて高い。

 問題は空気の量的な清浄能力であり、使用されるフィルターの品質であり、そのフィルターのコストと交換頻度の問題だろう。そしてもちろん装置の値段だ。つまり金さえ掛ければいくらでもきれいな空気が作れることは当たり前のことだけれど、一般の人が高価な空気清浄機を買って使用するというわけにはいかないのだ。

 多分大気汚染を減らす方が絶対にトータルコストは安いと思うけれど・・・。

羅先港

 羅先港は北朝鮮の日本海に面した港である。もともとこの港はロシアに一部使用権を貸与していたが、中国との交渉によりロシアとの契約を破棄、中国がなんと50年の使用権を獲得した。これに合わせて中国はここに資本を投下して大々的にインフラを整備しているところである。

 もちろんこれを推進していたのは張成沢だった。ところが張成沢の罪状としてこの港湾の使用権貸与を売国行為としてあげているらしい。

 ロシアと北朝鮮が接しているために中国は日本海側に港を持たない。この羅先港が中国の日本海側に開かれた窓として期待されていた港であり、将来は中国軍艦もここを拠点の一つに想定していたのではないかと思われる。

 もし羅先港の貸与について契約を破棄するような事態となれば、中国と北朝鮮の間は想像以上に悪化することになりそうだ。これは想像だが、この契約に関しても巨額の金が張成沢の懐に入ったのかも知れない。それを知って感情的になっているのかも知れないが、さて中国との関係を険悪にしてまで羅先港の契約破棄に持ち込むだろうか。

 もしそうなると自暴自棄としか思えない。北朝鮮の暴発が起こりえるかも知れない。中国は北朝鮮との国境に大量の軍隊を配備した模様だ。韓国も中国も反日どころの騒ぎではないと思う。冷たいようだがこちらに飛び火さえなければ高みの見物をすることにしよう。どうせ何もしようがないのだから。

 余談だが来週から例のロッドマンが北朝鮮のバスケットボールチームの指導のためにまた北朝鮮に行くそうだ。行ったら帰れなくなるかも知れないが自業自得だろう。

コピー商品

 イギリスのメディアが「コピー商品製造業者が増え続けている」と報じていた。さらに2006年から2010年のコピー商品の75%が中国製であり、アメリカの税関のデータではコピー商品の84%が中国本土と香港からのものだったと伝えている。

 中国では法的規制が強化され、商標権に関しての司法システムも進歩してきているが、コピー商品製造業者は減るどころか増え続けているという。まだまだコピー商品の被害に遭った側からの訴えが取り上げられるためには費用や時間がかかりすぎるというのが実態であり、罰金の額も被害に対して低すぎるために、摘発されても再びコピー製品の製造を再開することが多いそうで、これでは減るわけがない。

 中国に限らず、知的財産権についての罪悪感というのはまだまだ一般の人には定着していない(知的財産権というものがそもそも本質的に成立し得ないものなのかも知れない、と悲観的になりそうだ)。ましてや中華人民共和国成立以来徹底して倫理というものを破壊することに腐心してきた現代中国では、善悪よりも損得を上位に置かなければ生きていけない過酷な時代が続いた。それに正義は共産党しか決めることが出来ないことになっている。

 さいわい中国には他国にコピーされると困るような商品があまりない。韓国同様自主開発にコストを掛けるよりも、先行した海外企業の技術を導入して製造業を成長拡大させてきたのだから当然だ。ある意味でコピーで成長してきたのだ。だから海外がうるさいから対応しているだけで、本気でコピーを撲滅しようなどとは思っていないのではないだろうか。コピー商品を減らすには中国人の思想を根底から変革しなければならないけれど、そんなことをしたら中国の体制自体が持たなくなるのではないか。だから決してコピー商品は減らないことだろう。

金とレアアース

 張成沢の失脚から瞬く間の死刑執行で北朝鮮に粛清の嵐が吹き荒れそうだと見られている。今更ながらおそろしい国だと思う。

 失脚の真の理由については北朝鮮が公表しているクーデター説以外にもいろいろあって、北朝鮮が行うセレモニーでの気のない態度が不遜だからというものや、金正恩夫人との不倫説まで飛び出している(そういえば金正恩夫人は出産後しばらくしてからぱたりと姿が見えなくなった。彼女が結婚前に属していた芸能団の女性たちが粛清されたころからである)。

 ところでネットのニュースを拾い読みしていて目に付いたものがある。ひとつは、北朝鮮が今年に入って中国に大量の金を売却しているというものだ。北朝鮮は2000トンの金を保有していると言われるが、どんなに困っても永遠に金は売るな、というのが金日成の指示として残されているそうだが(金は金王朝そのものも意味しているのかも知れない、しゃれだけど)、それに背いたことになる。当然これは張成沢が関与しているのは間違いないだろう。

 もうひとつは、北朝鮮で大規模な鉱床が発見された、というニュースだ。北朝鮮はもともと鉱物の埋蔵量が豊富で、しかも品質が良いことで知られる。特に今回の鉱床にはレアアースが2億トン以上含まれると言われ、価値にして数兆ドル(北朝鮮のGDPが400億ドルと言うから数兆ドルと言えばとんでもない額だ!)の価値があると見られる。

 北朝鮮は核実験やミサイル発射を強行したことで国連決議により世界から経済制裁を受けており、経済的に非常に苦しい。それが食いつなげてきたのは中国に鉱山の開発権や採掘権を売り渡して代わりにエネルギーや食糧の支援を受けてきたからだ。そしてその窓口になっていたのがもちろん張成沢だ。当然巨額の金が懐に入っていたことが推察される。

 今回新発見された鉱床が北朝鮮にとって起死回生の宝物だとすれば、そしてその利権が中国に渡りかねないとすれば、中国とのパイプである張成沢を切り、中国との関係を大きく損なうことをいとわないのが理解できる。

 ニュースから勝手に妄想した。しかし中国とのパイプを切ってそのレアアースをどこに売ろうとするのだろう。金になるなら何でもする企業というのはあるから心配したことではないか。

2013年12月13日 (金)

オーバーヒート

 首の上に乗っかっている、外観だけやや大きめのものに備え付けられているCPUは、周波数も低いし容量も小さい。それが時々暴走する。

 この歳になって少し歯ごたえのある本などに挑戦してみたりする。たいていよく分からなくてはじき飛ばされるのだけれど、何となくキーワードにうまく引っかかって少し理解できたりすることがある。そうすると少しテンションが上がって分からないまま読み進むことが出来たりする。そういうモードに入ると次から次に本を読んだり映画やドラマ(BDに録画したものがたくさんある)を次々に見たりする。一種の興奮状態におちいる。

 しかし処理能力の低いCPUに負荷を掛けすぎればオーバーヒートしてついにはフリーズしてしまう。この半月ほどはそういう状態だった。そんなわけでいまはクールダウン中。

 鍛えると、CPUが能力アップするなら良いんだけれどね。

増田悦佐「世界は世紀末という大転換を迎える そして2014年、日本経済が甦る」 (ビジネス社)

 買ったときには気がつかなかったけれどあらためてみてみると、まずこの本の題は長すぎる。著者がつけたのか出版社がつけたのか知らないが、あまりセンスが良いとは言えない。

 この本では世界の、特に欧米の世紀末は2013年までであったという前提で語られる。その根拠について19世紀から20世紀への世紀末の区切りをやはり1913年において比較検証していく。多くの傍証をグラフを多用して説明するのだが、それが延々と続けられ、正直なところ能力の低い当方としては何の話だったか途中でワケが分からなくなってしまった。

 しかし考えてみれば世紀の区切りは暦の通りで別にかまわない。ただ経済として前後が大きく変化する節目が百年刻みで起こっていて、ちょうどそれが2013年で終わり、2014年から新たな状況が始まると言うことだけで、特に世紀末であると論証する必要はないのではないか。

 とにかく使用されている統計値やグラフが多い。あることを説明するために意外な資料が駆使されていて面白くないことはない。ただ、そのデータを読み解いてその理論が説明されると言うより、その理論を説明するために分かりやすくするためにデータが探されてきたように見える。

 ここまでいろいろなデータが繰り広げられると、さて選ばれたものよりも、採用されなかったデータというのがどんなものか、と考えたりする。

 結論として、わたしの虚弱頭では結局2014年になぜ「日本は甦る」と言い切れるのかよく分からなかった。自分の理解力のなさにあらためて絶望しているところである。分かったのは著者がアベノミクスのインフレ政策を否定し、「安倍首相と黒田日銀総裁は愚かだ」と繰り返し言っていることだった。

 品などないわたしが言うのも何だけれど、ちょっと著者の文章には品がないと感じた。他者に対して敬意というものを多少は持たないと読者も付いてこないのではないか。アメリカで鍛え上げられた経済アナリストというのはこんな風なのだろうか。

残念

 もなさんのブログ、「アラフィフの海外で節約生活」が閉鎖されることになった。毎日楽しみに拝見していたのでとても残念だ。多分多くの人がそう思っているに違いない。中国でのリアルタイムの生活、おいしそうな料理、取り上げられる興味深いニュースなど、とてもセンスの良い文章で書かれていた。友達もたくさんおられるようで、さぞかし魅力的な女性であろうと拝察している。

 閉鎖する理由は表向きのものだけだろうか、などと心配するのは考えすぎだろうか。再開の機会が早いことを祈るばかりだ。そのときはコメントにでも書き込んで欲しい。

 今後ともご主人や友人たちと中国での生活を楽しまれんことを。

2013年12月12日 (木)

WOWOWドラマ「COMA 昏睡病棟」2012年アメリカ

 製作総指揮リドリー・スコット、トニー・スコット、出演ローレン・アンブローズ、スティーヴン・パスクール、ジーナ・デイヴィス、エレン・バースティン、ジェームズ・ウッズ、リチャード・ドレイファス。

 ロビン・クック原作の医学サスペンススリラー。若い頃にこの原作を読んでラストの怖さだけをおぼろげに覚えていたが、今回は気持ち悪さの方が際立った。1978年にマイケル・ダグラス主演で映画化されているが、原作が怖かったから映画を見る気がしなかった。

 西洋人、というかアメリカ人は、というべきか、魂のみに尊厳があって肉体は借り物、ただこの世に生きているときの乗り物だという考え方らしい。いわゆるボディという言い方をするのだが、身体や胴体という意味のほかに死体、遺体という意味がある。日本人にはあまり感覚的にわかりにくいところで、これは農耕民族と牧畜民族の違いに淵源があるとも言う。

 とにかくその死体の損壊の仕方が半端ではないので、気持ち悪いのだ。

 プロローグは腫瘍患者の手術の様子で、順調に進んでいた手術が突然の患者の異常で失敗に終わる場面が映される。そして落胆して帰宅するときに、執刀医が助手を務めた医師に、別れ際に「気をつけろ!」とささやいた後自宅で縊死しているのが発見される。

 物語は、有名な病院に研修生として配属された女性が、その手術も含め、医療事故による昏睡患者の発生が異常に多いことに気がつくところから始まる。不思議なことに事故で患者は死なずに昏睡状態となっており、昏睡患者専門のジェファーソン研究所というところに送り込まれていることを知る。

 本来アクセスできない情報を入手するために手助けを頼んだ友達が次々に退職に追い込まれて彼女の元を去る。孤立無援になりかかる彼女を助けるふたりの男が現れて・・・と話は展開していく。

 とにかくこの女子医大生がこのジェファーソン研究所でとてつもなくおそろしい目に遭うのだ。死体も気持ち悪いけれど、研究所の受付で管理人のエマーソン夫人(エレン・バースティン)がいちばんおそろしい。厚化粧の西洋人の老女がサイコだととてつもなく怖いのだ。でも気持ち悪くて恐かったけど面白かった。

 主人公はこれがトラウマにならなければ良いと心配になる。ちゃんと医者になれるのだろうか。

 あっ、しまった。最後は助かることをばらしてしまった。

2013年12月11日 (水)

内田樹「街場のアメリカ論」(NTT出版)

 内田樹先生の本はしばしばレトリックに富んでいて、その文章の表面を調子良くなぞっていると、後で何が書いてあったのか分からないまま先へ進んでしまうことがよくある。さいわいこの本はあまりレトリックが巧妙ではないので初心者にも分かりやすいのではないだろうか。

 アメリカとはそもそもどのような国なのか、たいていの日本人が思い込まされているものについて絵解きをし、そう思い込んでいる理由が分析される。そして実際のアメリカとはどんな国であるのかがいろいろな事例から説明されている。それは信じがたい実像のように見えることもあるし、素直になるほどと受け入れることのできるものもある。

 たとえば、ファースト・フードについて、アメリカン・コミックについて、シリアル・キラーについて、キリスト教についてetc.

そのほかにもたくさんテーマをあげて全く新しい視点を提示してくれている。個別について先生の卓見とそれについてのわたしなりの感想を述べたいところだけれど、多分とても長いものになってしまうので、少し熟成させて、後で少しずつ紹介していきたいと思う。

 内田樹先生の本の入門書として読んでも良いのではないだろうか。ただし冒頭の部分はあまりこだわらないで読み進めた方が良いだろう。日本とアメリカとの歴史的関わりについてはある程度予備知識が無いと何を言っているのか胸に落ちにくいかも知れない。各論を丁寧に読む方が絶対面白いはずだ。

日高義樹「アメリカはいつまで日本を守るか」(徳間書店)

 結論として中国が覇権主義を強めているのにアメリカは期待できないから日本は軍備を増強して自分で自分を守らなければならない、と説いている。アメリカが期待できないという根拠は、オバマ大統領の優柔不断な、大統領としての気概不足、そして中国寄りの態度である。

 そもそもアメリカ人自体に自国の若い兵士を犠牲にしてでも世界の秩序維持をしようという意欲が無くなったことが大きく影響しているかもしれない。

 その反対に中国の露骨で一方的な行動に日本人の平和ボケが少し醒めてきているのを好機として、このような言説が普通に語れるようになったと言うことかも知れない。

 著者は豊富な人脈を持ち、テレビでもたびたび海外の要人に鋭く突っ込んだインタビューする姿を見せている。彼の語る軍事情勢をはじめとした海外の実態は、見方によってはずいぶん偏っているかも知れないけれど、空想的、妄想的なものではない。

 第二次世界大戦以後、世界は大国どおしの本格的な戦争を始めることが出来ない状況になっており、現にそのような大きな戦争は起こっていない。これはあまりにも兵器の殺傷能力が高くなってしまい、自他共に被害が大きすぎることが明らかだからだ。特に核兵器については、そのような戦争の抑止力として働いていることは否定できない事実だろう。

 だから21世紀の戦争は大戦以後と同様、局地戦とならざるを得ない。もし中国と日本が不幸にして戦火を交えることになろうとも(もちろんなって欲しくないが)短期的な局地戦にとどまるだろうと著者は言う。

 この本の世界観は複層的である。厳密に言うと整合性のない文章が並んでいるところもあるように感じる。それはこの本を書いている最中にどんどん状況が変化しているからで、それを即刻取り入れながら、さかのぼって修正することなく書き加えているらしいことからだろうと思われ、目くじらを立てる必要はないと考える。

 著者は書きながら考えているようだ。こちらも読みながら考えた。オバマ政権が次第にレイムダック化しつつあるらしいことが最近伝えられるが、大統領交代までにはまだ時間がだいぶある。その間は日本もじりじりしながら堪え忍ぶ必要があるようだ。その後にいまよりましになる可能性があるわけではないけれど。

ほとんどあり得ないもの

 ドンファンやカサノバは次々に女を愛し、そして捨て去っていく。最も愛の多い生き方でありながら最も愛とは遠い生き方をした。

 彼らは理想の女性を求めた。しかし現実には理想の女性などいない。いないものを求めれば得ることは出来ない。

 言い古されたこんなことをわざわざ言うのは「自分に最も適した仕事を探しているのに見つからない」とか「就職したけれど自分にふさわしい仕事ではなかった」という若者がいまだにいるらしいという話を聞いたからだ。

 就職難が続き、適性などかまっていられなくなってどんな仕事でも良いという状況が続いたので絶滅したと思っていたら、ちょっと就職難が緩んだとたんにまたぞろ現れたようだ。

 そういえばリクルート会社が若者に対して就職についての説明をするときに「自分の適性に最もかなう仕事」を就職先に選定するようにアドバイスしているようだからそう思い込まされているところもあるのだろう。

 中には幸福なことに自分の適性と合致した仕事に就けた人もいるだろう。だから表題にわざわざ「ほとんど」とつけたのだ。

 しかしそのような幸せな人は、実は仕事が自分に合っていたのではなく、仕事に自分を合わせることが出来た人だとわたしは思う。

 転職をわたしは否定するものではない。不幸なことにどうしても自分を合わせることの出来ない仕事もあるだろう。理不尽な職場、人間関係が極めて不快な会社というのはある。ただたいていの職場なら上手に適応して能力を発揮出来る人と、極めて適応能力の低い人というのがいて、不思議なことに適応能力の低い人ほどプライドが高いのに驚かされる。これは仕事をしていたときに感じたことだ。

 仕事も女性に対してもラチチュード(許容適正範囲:元々は写真用語)が広い方が幸福であると思う。

 「自分に最も適性のある仕事」という幻想は不幸の手紙だと気がつかないといけない。人生はほどほどで良いのだ。

コメンテーター

 北朝鮮、張成沢の失脚についてテレビのニュースで見る機会が多い。ここで感じたのは、北朝鮮についていままで分かったような解説をしてきたコメンテーターの多くが実はあまり北朝鮮のことについてよく知っているわけではない、ということだった。

 北朝鮮は自国の情報を海外に漏らさないようにしているのだから、あまりよく分からないのは当然といえば当然なのだけれど、コメンテーターの中には後付けとしか思えないような形で断言をする人もいたりする。

 これは北朝鮮に関してのコメンテーターだけにとどまらないのかも知れないが、お前は占い師か、と思うようなご託宣を語っているような者も居て、しかもテレビの司会者はそのような断定的な物言いを喜ぶ向きがあるので、あちこちで引っ張りだこになったりしている。

 張成沢がいままで北朝鮮のナンバー2であるといわれていたが、実はそれほど権力は無かった、といまになってコメンテーターたちは言う。しかしナンバー2であるとの報道をいままで彼らが否定する言葉を聞いたことがないのは不思議だ。

 中には非常によく勉強し、情報チャンネルがいくつもありそうなコメンテーターもいる。そのような人は分からないことは「現時点ではよく分からない」とはっきり言う。

 今回の北朝鮮の粛清事件はさらに拡大するとの話もあるようだ。どのコメンテーターが信頼できそうかどうか、だいたい見えたような気がするので(北朝鮮についてのコメンテーターについてはほとんど期待できないような気もするが)、不謹慎であるがそれぞれの予測の結果を楽しみたい。

2013年12月10日 (火)

漢方薬

 数が少なくて欲しい人が多いものは値段が高くなる。それに本当の価値があるかどうかはまた別の話である。今はやりのビットコインなどはその最たるものだろう。

 漢方薬の多くは中国から供給されているらしい。むかしはそれなりの値段だったけれど、いまは投機の対象にされることもあり、とんでもない値段が付いたり、買い占められて手に入らないこともある。しかしそれが経済の観点ばかりでなく、政治的思惑も絡むとなれば可能なものについてはそれなりの対策が必要だ。中国は漢方薬の薬草について環境保護を名目に輸出量を突然制限し、ものによっては60%以上値上がりしている。

 これはレアアース、レアメタルで経験したことであり、多少高く付いても安定的に入手できる方に仕入れ先を変更することが結局暴利をむさぼったり戦略的に利用する相手にダメージを与えることにつながる。

 そういうわけで漢方薬について日本での生産を進め、生産量の拡大を目指していくことを農水省が発表した。当面2016年までに2010年の1.5倍に増加させる計画だという。

 ここで大事なことは中国が多少安くしてきたからといってまたそちらに色気を出さないことだ。このような方策は腰折れになることが最もまずい。多少は無理をしても長期的にはその方が国民のためになることをよく認識するべきだろう。それに国産の方が農薬などの点でより安心かも知れない。

アニメ映画「イリュージョニスト」2010年イギリス・フランス

 監督シルヴァン・ショメ、原案ジャック・タチ。

 こんなにすばらしいアニメ映画が日本以外でも作れるのだ。アメリカのアニメは、画は精密かつリアルなのにろくなものがない。

 それに比べたら雲泥の差だ。とにかく画が美しい。

 ぎりぎりに台詞が切り詰められている。主人公の落ちぶれた手品師がフランス人だからフランス語、副主人公のスコットランドの少女が英語とは違うスコットランド・ゲール語とか言う言葉を使うから意思の疎通が断片的になる。しかも主な舞台がロンドンである。雨に煙るロンドンの町並み、石畳がしっとりと情感を伝える。手品師が旅から旅へさすらい、汽車で移動するときに窓外に見える景色がたとえようもなく美しい。

 何となく寅さんの旅を思い出した。寅さんが夜汽車の窓の向こうの小さな灯りに哀愁を感じるのと同じ気持ちではないだろうか。そこには温かい家庭があり、家族がいるに違いないのだ。

 人が生きるというのは切ないことだ。ぎりぎりの生活の中に落ちこぼれていく人もいる。そんな中で若者は恋をして明日に希望を持ち笑顔は輝く。

 人生の哀しさにこそ美しさもある。そのことをしみじみと感じさせてくれた。これこそ大人のアニメだ。

どっちをとる?

 韓国で豚肉の売り上げが急増している。肺などに取り込まれたPM2.5や重金属などの有害汚染物質を排出する効果があるという情報が広まったからである。

 小売店では豚肉に含まれる不飽和脂肪酸が蓄積された有毒物質を排出するのに効果的だという情報があり、売り上げが30%以上増えているのだそうである。

韓国という国は放射能汚染に過剰に反応して水産物の売り上げが激減したと思えば豚肉の販売量が急増したりする。あまり科学的な根拠があるとは思えないことに軽挙妄動するという意味では同じことなのだろう。

 ところで不飽和脂肪酸なら魚の脂肪の方が優れているのではないのか。さあ放射能をとるか汚染物質をとるかどちらだ!

長谷川慶太郎「2014大局を読む」(徳間書店)

 副題「世界経済明と暗の潮目」。

 昨晩はこの本ともう一冊(内田樹「街場のアメリカ論」)を読んでいて寝るのがだいぶ遅くなった。おかげで朝一度目覚めたのだけれどもう一度眠ってしまった。冬の朝の寝床の居心地の良さは格別なのだ。これも時間の自由な人間の特権だ(懐は寂しいが)。

 長谷川慶太郎はアメリカが経済的に復活し、中国の現体制が崩壊する、と断言する。

 確かにアメリカの株価は上がり続けている。経済的には予測どおりの動きなのだけれど、オバマの迷走がアメリカをおかしくしているような気がしてならない。著者のように手放しでアメリカの復活を信じていいのだろうか。

 確かにシェールガスはアメリカ経済に対する福音だろうが、それに対するアメリカ政府の肩入れが及び腰らしいことも漏れ聞いており、これがオバマの優柔不断から来ているものか、何か別の不安があるためなのか見極めるにはもう少し時間が必要だろう。

 中国に対してのアメリカの行動が最も懸念されるところである。夏に習近平がアメリカを訪れてオバマと親しく時間を過ごしていたことが思い出される。明確な会談の成果の発表がないことが、オバマが習近平の言い分を受け入れなかったことを表している、と見る意見が多いが、実は習近平の「中国の夢」を吹き込まれたオバマが、中国に何らかの感触を与えたのではないか、という心配があるともいう。

 この会談の後、中国は少し控えていた日本に対する攻勢を再び強めているという事実がある。「中国の夢」とは畢竟過去の中華帝国の覇権主義の復活であることは誰にでも分かっていることで、この夢を語ることで中国をまとめようというのが習近平のもくろみだ。

 それならば解放軍はますます周辺国に対して国際ルールに基づかない強引な攻勢を進めることになるのは自明のことだ。

 ただ習近平と人民解放軍が一枚岩がどうかについては意見が分かれる。長谷川慶太郎は、人民解放軍が習近平の意向とは別の独走をしている、と読む。中国政府の行動と人民解放軍の行動にしばしば齟齬が見られることは事実だ。

 著者は北朝鮮は中国人民解放軍瀋陽軍区に支配されている、と断言する。北朝鮮に対する中国の態度が定まらないのはここに理由があるということらしい。そこから今回のチャンソンテクの失脚を推察すれば、中国政府、つまり習近平とのパイプだったチャンソンテクを排除することは解放軍瀋陽軍区のシナリオなのかも知れない。

 習近平は汚職撲滅をうたいながら、特に解放軍の副業である経済活動にメスを入れているという。先般のシャドーバンキングに対する強硬な態度が思い出されるが、シャドーバンキングの経営者の多くが解放軍の軍人だというのだ。彼らは軍事費を流用して私腹を肥やしているらしい。

 薄熙来もその一連の流れでの失脚だという。こうした軍部への締め付けはやがて中国の崩壊につながるというのが著者の予測である。もちろん中国の経済が徐々に後退局面になりつつあるという事実が背景にあるからこそであるが。中国経済のGDP成長率が7%を切ると実質的には中国はマイナス成長なのだと見る経済学者が多い。不思議な話なのだが、それだけロスが多い経済なのかも知れない。いま2013年度の予測は7.6~7.7%と発表されている。もちろん中国政府の数字は鵜呑みにしにくいところが多いが。

 そうなれば毎年10%以上伸び続けている軍事費にもメスが入らざるを得ないだろう。それを阻止するために解放軍は日本との紛争を演出して軍費を獲得しようとするだろう。それを押しとどめるのがアメリカの圧力のはずだが、オバマは煮え切らない。

 長谷川慶太郎は楽観主義者である。全ては日本にとっていい方向に動いている、と断言する。この本はそれでいい気持ちになりながら、同時にそうでないシナリオを想像する、という楽しみも味わうことが出来る。

2013年12月 9日 (月)

藤井省三「魯迅」(岩波新書)

 副題は「東アジアを生きる文学」。

 著者の「現代中国文化探検」(岩波新書・副題「四つの都市の物語」)を最近読んだばかりだ。

 魯迅の作品は学生時代から何度か読んだ。しかしこの本を読んでいかに自分が浅読みで何も分かっていなかったかということを思い知らされた。この本では魯迅の生涯についてまず詳述し、当時の近代中国の状況と魯迅の作品の関係が解説される。そこには日本との関係ももちろん言及されている。魯迅は仙台医専に修学しているからだ。そして魯迅の弟ふたりの夫人は日本女性である。

 後半は魯迅と日本、そしてアジアの各国への影響が考察されている。魯迅が何を表現したかったのか、それについては多くの評論があるから少しは知識があった。しかしこの本で初めて総合的に魯迅についての知見を得ることが出来たような気がする。

 魯迅をもう一度読んでみたい。著者の詳しい説明によると翻訳によってずいぶんイメージが違うようだ。試しに「狂人日記」と「阿Q正伝」などを訳者別に何点か読み比べてみたいと思っている。いつになるか分からないけれど。

有毒スモッグ撃退法

 中国中東部の大都市で深刻な大気汚染による濃霧が発生していることはご案内の通り。この原因が自動車の排気ガスと石炭暖房によるものであり、それが気象条件と重なって滞留していることもよく知られている。

 この対策法のひとつとして人工降雨が検討されているのだという。すでに北京五輪のときにも人工降雨を行って成功していて降り、その有効性を検討しているのだそうだ。

 もしそれで少しでも大気汚染の除去につながるなら、と期待されるところだが、ちょっと計算してみた。

 たとえば30km四方の高さ100mの空間に500ppmの汚染物質が含まれるとすると、その物質の量はなんと4500万tである。

 それを人工降雨で地上に落とすとしたら、それが流れて川や地下水に注ぐわけである。もちろん全てが地上に落ちるわけではないだろうが何回にも分けて少しずつ落ちると考えてもおそろしい数字である。

 しかし考えようによっては韓国や日本にとっては少しでも飛散してくる量が減ることはありがたいので是非検討を進めてもらいたいものだ。

 四日市公害の時代の大気の様子はいまの北京や上海の濃霧の状態に似ている。そしていまの四日市は普通に青空の見える街になった。これは寮に基準を設けて規制することで改善されたものではない、と研究者はいう。そもそも汚染物質を出さないためにはどうするか、という考え方のもとに企業も当局も市民も協力して対策してきたからだ、というのだ。

 その四日市に中国から多数の見学者が訪れている様子がテレビで映し出されていた。しかし中国がこのような発想の転換に成功するのかどうか、何となく危うい気がする。そもそも国民の犠牲についてあまり痛痒を感じない国のように思えるからだ。実質的には選挙がないから国民が公害対策という施策に関わることが出来ないことが中国国民の悲劇だということか。

無罪判決

 大統領選挙期間中に朴槿恵候補の風刺ポスターを製作してバス停などに貼ったとして訴えられていた画家に対する裁判の二審が結審し、一審同様無罪の判決がくだった。

 このポスターは朴槿恵候補が白雪姫の衣装を着て朴正煕大統領の顔をしたリンゴを手に持っている、というものだったそうだ。このポスターが選挙に大きな混乱をもたらしたとまでは言えない、という判断だったそうだ。

 ソ連だったか東欧だったかのジョークには優れたものが多いが、そのひとつに「わが国の大統領は馬鹿で吝嗇で無能力だ、と批判した男が逮捕されて処刑された。その罪状は国家元首に対する侮辱罪ではなく、国家機密漏洩罪だった」というのがある。

 今回の韓国の画家の風刺ポスターは機密漏洩罪にあたらなかったようだ。

 白雪姫が毒リンゴを配るわけではないから、自らが食べる分には問題ないということか。日本に毒リンゴのお裾分けをしてくれるつもりかも知れないけれど、お断りした方がいいだろう。

福島香織「現代中国悪女列伝」(文春新書)

 大悪女から(悪女とまで言えるかどうかの)小悪女まで大小の悪女10人が取り上げられている。大悪女と言えばもちろん(現代、とつけるにはやや古い)毛沢東夫人・江青があげられている。

 江青をはじめ、夫の力を使って、または夫をのし上げることで、自分が権力を振るった谷開来(薄熙来夫人)、張培莉(温家宝夫人)、彭麗媛(習近平夫人)、葉群(林彪夫人)。彼女たちのしたことを読むと、中国の共産党独裁政権というのがどれほど過去の中国の王朝政権と酷似しているのかがよく分かる。歴史をひもとけば、似た話がいくらでも見つかるからだ。

 そのほかにも女性であることを武器にしてのし上がり(悪女の条件は美人である、というのが必須条件だ)、信じられないほどの豪勢な生活をした者たちが何人かあげられている。日本にも同様な女性がいないわけではないが、この本を読むとスケールがあまりにも違うことを知る。

 それは中国で女性がそれだけ男と対等に力がある、と言うことの表れであろうか。著者は違う、と言う。中国のほうがはるかに女性には冷たく厳しい社会だというのだ。だから能力のある女性はそれに反発するエネルギーもはるかに大きなものを持たざるを得ない。結果的に悪女と言われるような怪物が生まれることになる。

 取り上げられた女性には最後に身を滅ぼしたものも多い。まだ栄華のさなかに居るものもあるが、末路は分からない。それが分かっていないはずはないのに突っ走るその凄まじいエネルギーは、日本人にはまず見られないものだ。

 悪女としてあげられた、ある意味では象徴的な女性を知ることで中国という国、現代中国社会というものが垣間見えるような気がする。

2013年12月 8日 (日)

映画「SAFE」2012年アメリカ

 監督ボアズ・イェーキン、出演ジェイソン・ステーサム。

 ノンストップムービーとしての快作だと思う。

 冒頭、中国人の少女・メイがニューヨークの地下鉄で辺りをうかがいながら誰かから逃げるような様子が描かれる。その後ろの方にどうやらジェイソン・ステイサム(役名はルーク)らしい男がホームに立っているのが(少女にピントが合っているためにぼやけた姿だが)ぼんやりと見える。

 もちろん少女は追われて必死に逃げているところであり、ルークも絶体絶命の状況に追い詰められていることが後で分かる。

 そして映画はその一時間前にさかのぼる。なぜ少女が追われているのか、誰に追われているのかが少しだけ分かるのだが、なぜ逃げ出せたのかが分からない。そして画面はさらにさかのぼり、ステイサムがなぜそんな状況に追い込まれたのかが徐々に明らかになっていく。

 こうして無関係の男と少女が地下鉄で出会うことで物語は爆発的な勢いで急展開を見せる。

 少女メイを追っていたのはロシアマフィアで、少女は中国の暗黒街の顔役に教えられたある秘密を知っているために両方から追われていた。そしてルークはそのロシアマフィアに妻を惨殺され、絶望の淵に立っていたのだ。

 少女を救うことで最強の男として復活したルークがバッタバッタと敵を斃していく。まことに痛快な映画だった。気分が滅入ったときなどにこんな映画を楽しむのもいいかもしれない。

 わたしがそんなとき見る映画はシュワルツェネッガーの「コマンドー」か「プレデター」またはスタローンの「ランボー」シリーズだ。それから比べると残念ながらちょっと見劣りするかも知れない。ステイサムならやはり「トランスポーターシ」リーズの方が痛快だ。

映画「エレベーター」2011年アメリカ

 監督スティグ・スベンソン、出演クリストファー・バッカス、アニタ・ブリエム、ジョン・ゲッツ、シャーリー・ナイト。

 閉所恐怖症の人はエレベーターが苦手である。エレベーターは密室で、止まってしまうと中にいる人はどうにも出来ず、外部の人の救出を待つしか無い。天井からエレベーターの外部に出ると言うドラマもあるが、いまは外に出られないものが普通らしい。

 女の子ひとりを含む9人が乗り合わせた高層ビルのエレベーターが、女の子がいたずらで押した停止ボタンで停止してしまい、動かなくなってしまう。管理室へ連絡するのだが、その連絡に齟齬があり、なかなか実情が外部に伝わらない。

 偶然乗り合わせた、と思えた9人が実はそれぞれ全くの無関係ではないことが会話から次第に明らかになる。そしてそのエレベーターに爆弾を身につけた人物がいることが判明。爆弾は時限爆弾で回避が困難であることも分かってくる。必死に脱出を試みる乗客たち。やがて携帯からエレベーター内の様子がマスコミに伝えられて外部では騒ぎが広がっているようである。

 迫るタイムリミットとパニックになる乗客たちの様子が描かれ、やがて血みどろの凄惨な事態に追い込まれる。

 最後に残った、太った男(太っていることから脱出が最も遅れた)が「結局俺がラストヒーローというわけだ」とつぶやくのが皮肉だ。

 これも不条理映画と言えるだろう。人間どこで災難に出会うかも知れない。このビルのオーナーである会長の孫の、いたずらな女の子を見ていると激しい怒りを覚えるかも知れない。わたしはそれよりもエレベーターから連絡を受けた管理室の担当者の無責任さに怒りを覚えた。

 結構感情を揺さぶられる。そして何となくやりきれない虚しさが残る映画だ。

受益者負担

 本日はマンションの自治会があった。一通り大きな行事が終わったので今日は簡単に終わると思っていたら意外なことでちょっと時間を食った。

 マンションに集会場があり、自治会もそこで行われる。休日などには同好会その他が適宜交代で利用している。そこには縦型のピアノが置いてある。だいぶ昔に住民が寄贈したものだという。

 今回問題になったのはそのピアノの維持管理費、つまり調律などの費用を誰が負担するのか、ということであった。以前は自治会が負担していたが、数年前から一部を名目をつけて別名(敬老会の出演の出演料など)で補助し、残りをそのピアノを主に使用するコーラスグループの同好会が負担するように変更されたらしい。

 ところがコーラスグループは二つあり、使用頻度も違うこと、自治会からの補助が平等でないことから自治会に不満が持ち込まれたという。

 そこで自治会で立て替えをした上で、受益者負担として使用のたびに一定料金を負担してもらおうという案が役員から提案された。

 それに対してそもそもこういうことには自治会は関与する必要が無い、使用者が代表者を決めて(つまり二つのグループで話し合いをして)管理者を立て、全てを任せるべきだ、と言う意見が出された。

 ほとんどの住民にとってはそのピアノは縁のないものだ。一握りの人が利用しているに過ぎない、というのは確かに正論だろう。自治会は寄贈されたピアノを置くことのみ了承し、管理には関与しないというのは正しい。そうすればピアノが壊れたときの修理にも関与しないですむ。

 さはさりながら調律代くらいささやかなものだし、全額とは言わず、多少の補助くらいいいではないか、と言うのがわたしの感覚だし、会長もそのような考えのようだ。

 正論を述べた人は、受益負担すべきコーラスグループなどが話し合って代表を決める、などと言うことが可能かどうかについての想像力が欠けているように思う。多分誰も責任者になろうともせず、いつまでたってもごたごたするばかりだろう。

 正論はもちろん正しいけれど、それで何も決まらなければいつまでたっても物事は先送りされるだけだ、と多分その場にいた人の多くが感じていただろう。しかしそのようなことを言えばさらに会議は長引くだけだ。だから結局結論は出なかった。

 正論は正しいから反論が難しい。本音としてはどうでもいいけれど。

映画「ATM」2012年アメリカ

 監督デヴィッド・ブルックス、出演ブライアン・ジェラティ、ジョシュ・ペック、アリス・イヴ。

 これぞ不条理映画。タイトルバックで図面を広げてそこに定規で線を引く男の後ろ姿が映し出される。櫛のような形がなんなのか、と思わせておいてやがてそれがどうも駐車場のことらしいことをほのめかせて映画は始まる。後ろに流れる静かな音楽はどうもクリスマスソングらしい。

 映画は軽快な音楽に乗って若者が急いで出勤する場面を映し出す。青春映画のようなストーリーがやや陳腐に展開され、友人に無理矢理誘われて晩のパーティに参加し、そこでかねてからにくからず思っていた女性と言葉を交わすことに成功する。彼女を車で家に送る約束をしたところへくだんの友人が強引に割り込み、自分もその車で送ってくれと言う。迷惑であったが断り切れず三人で車に乗り込む。友人はさらに現金の持ち合わせがないから深夜でもやっているATMに寄ってくれ、と言う。渋々ATMに乗り付けた三人はこのあと恐怖の夜を過ごすことになる。

 タイトルバックのシーンの意味が明確に分かるのは事件が全て終わってからである。この線を引く男が何をしてきてさらに何をするつもりであるかは分かるのだが、なぜそんなことをするのか全く分からないまま映画は終わる。

2013年12月 7日 (土)

石井誠治「大人の樹木学」(洋泉社)

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 著者は樹木医で森林インストラクター。

 わたしは草木の名前、鳥の名前、虫の名前をあまり知らない。人より少しだけ詳しいのは魚の名前くらいだ。ものを識るための第一歩が名前を知ることだ。そのものとほかのものを区別できなければ識ったことにはならないし、人に説明も出来ない。

 と言うことでこの本を眺めた。この本は樹木について興味を持つための仕掛けがたくさん仕掛けられていて、いままでただ木として見ていたものを、個別のある木として見ることを楽しみたくなるように勧めてくれている。

 この本とは別に代表的な街路樹について図鑑式に説明する本を一冊持っている。それと比較参照しながらのんびりと著者の教えてくれる木の秘密を楽しんだ。

 この本のおかげで、木が生き物であり、生命の営みをしている存在なのだと言うことを実感した。そんなことは誰でも知っているのだけれど、たいてい意識していないし忘れているのだ。

 この本で紹介されている巨木を見に行きたくなった。

2013年12月 6日 (金)

北陸は雨

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金沢へ、冬用のタイヤへの交換に行って無事帰ってきた。迷ったけれども昼間なので東海北陸道でも大丈夫だろうと判断。郡上までは晴れていたのに荘川を過ぎる頃から雨。外気温は5℃、ぎりぎり雪にならない状態。「トンネル出口雪、注意」などという標識があったが大丈夫だった。

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それでも山の上の方は雲間から雪をかぶっているのがうかがえた。時々雨が激しく降る。これが雪なら間違いなく吹雪だ。

 

ゆとりを持って出かけたので金沢には早めに着いたが、予約していた時間より早めにタイヤ交換をしてもらえた。ただ新しい車は一回り大きいのでタイヤサイズがだいぶ大きくなり、ずいぶん高くなった。せいぜい使わせてもらうことにする。

 

帰りは金沢市内に戻らずにそのまま北陸道で帰った。全行程500Kmほど、一気に往復したのでややくたびれた。

 

長野の友人からリンゴのプレゼント。大きくて立派なもので中には蜜がさしている。甘くて香りも良く、とてもおいしいけれどひとりで食べると腹一杯になる。娘のドン姫にお裾分けの連絡をしたら、今晩仕事を終えて寄る、と連絡があった。

 

多分来るのは遅くなるだろうけれど買ってきたアンコウで鍋でもしよう。またちょっと飲み過ぎてしまうけれど娘が来てくれるのはとてもうれしい。待ち遠しい。

呉善花「なぜ『反日韓国に未来はない』か」(小学館新書)

 彼女は以前「『反日韓国』には未来がない」という本を上梓している。それを深化させ、新しい状況に鑑みてより内容を充実させたものがこの本である。

 彼女は韓国の済州島の出身で日本国籍を取得している。学生時代に書いた「スカートの風」という日本と韓国の文化比較の本がベストセラーとなり、以後著作も多い。

 この本にも書かれているが、少女時代に受けた韓国の反日教育で自分が教え込まれたことと、日本に来てから日本や欧米の近現代史に書かれていることのあまりの違いに驚き、その検証のために韓国でフィールドワークを行い、植民地時代の生活状況を調査している。

 だから彼女を日本の手先だという韓国のマスコミの非難は一方的に過ぎる。たとえば彼女がこの本で彼女なりに獲得した韓国の近現代史について列記した事実を韓国の反日マスコミはどう受け止めるのか。どう反論するのか。

 よく知られている事実であり、彼女も再三指摘しているように、韓国の反日感情は植民地時代よりも最近の方が遙かに激しい。それが反日教育の成果によるものであることを不思議なことに韓国民自身が最も知らない。

 彼女は韓国に入国することが出来なくなった。以前済州島で母親の葬儀に出席使用して空港で入国を拒否された。しかし日本側からの強い要請もあり、このときは最終的に入国が許され、葬儀に参列できた。その後しばらくは手立てを尽くして韓国との行き来が出来ていたのだが、今年身内に葬儀で韓国に入国しようとした彼女はついに入国がかなわず、パスポートは取り上げられ、強引に帰国させられている(日本に帰ってからパスポートは返還された)。

 この本に書かれている韓国についての記述は、見方によればそのような仕打ちをする韓国に対する怨念のようなのを含んでいるように見えるかも知れない。しかし一度彼女の語る言葉に耳を傾けて見る必要がある。

 韓国の反日教育によって偏向した歴史認識を持たされている韓国の若者のみならず、若い日本人の多くが本当の韓国の歴史を知らない。それをゆがめているものの一つに韓国の歴史ドラマがある。ドラマはドラマであり、本当の韓国の歴史をあのようなもので知ったつもりになると間違った認識に陥ってしまう。
 
 呉善花の言い分をそのまま受け入れなくても言い、これを機会に韓国の歴史についていささかでも知ろうと思う人が出てくれば彼女は本望だろう。さいわい韓国と違って日本ではたくさんの本が出ているからそれを比較参照して認識の変更が可能である。

 彼女は最後に「日本としてはこれ以上どう付き合っていったらいいか、途方に暮れるしかない状況になっている。だから放っておけばいい。無理に距離を縮めようとはせずに、距離が開いたままでのつきあいをしていけばいいのである」と結んでいる。

 長谷川慶太郎も同様のことを語っているし、いまの情勢から考えたらそうとしか言いようがないだろう。もちろん意図的に敵対する必要もむろん、無い。

夜中に気味の悪い夢を見た。飛び起きてしばらく動悸が止まらず、明かりをつけないと怖くていられなかった。特に熱があるわけでもないけれどどこか具合が悪いのであろうか。

本日は冬用のタイヤに交換するために金沢へ行く。金沢の若い友人をそうたびたび煩わすのもどうかと思うので本日は日帰りとする。事故に気をつけよう。

2013年12月 5日 (木)

汚職指数番付

 イギリスのアクトン卿は「権力は腐敗する、専制的権力は徹底的に腐敗する(絶対的権力は絶対的に腐敗する)」と喝破した。

 世界の汚職・腐敗を監視する国際NGOのある組織が、2013年の「世界汚職指数ランキング」を発表した。

 それによると、1位デンマークとニュージーランド、3位がフィンランドとスウェーデン、5位にノルウェーとシンガポール、7位にスイス、8位はオランダ、9位がオーストラリアとカナダだった。

 香港が15位、日本は18位、アメリカは19位、韓国が46位で中国はギリシャと並んで80位だった。

 これは各国の行政、政治、警察、司法などの汚職情報を元に算出したものだという。

 このランキングは案外暮らしやすさの参考になりそうな気がするがどうだろうか。

 人によってはランクの低い国の方がのし上がって金を稼げるチャンスが多いと思う人もいるだろうけれど。

長谷川慶太郎「2014年~世界の真実」(WAC)

 月めくりのカレンダーも最後の一枚になった。こうして年が明ければ年めくりの人生も一枚めくれてさらに残り少なくなっていく。

 年末には予測本を何冊か読むことにしている。特に長谷川慶太郎は必ず読む。彼の現状分析と予測はポジティブで、こちらも明るく元気になるのだ。彼の自慢は(自慢するに値するが)1989年の東欧の共産圏崩壊を予測したことだ。それには明確な根拠があったけれど、誰も賛同する人がいなかったという。

 その長谷川慶太郎は中国の共産党支配体制の解体が近いと予測している。はたして予想は当たるだろうか。表紙には題名に添えて「これは単なる予測ではない、すでに見えている現実だ」とある。

 彼は昨年からシェールガスが世界のエネルギー状況を激変させる、と語っていた。特にアメリカにとってシェールガスが救世主になると断言していた。これを昨年の暮れに読んで今年を楽しみにしていたのだが、まだ激変というところまでいっていないようだ。ただ、その徴候はあちらこちらに見ることが出来る。

 この本の前半はアメリカの完全復活予測である。共和党の暴走とも言える議会の瀬戸際予算攻防が解消されることはあるのだろうか。アメリカが停滞・没落し、中国がますます台頭しているように見える。中国がまっとうな国ならば台頭しても何の問題もないが、とてもそうは見えないし、その行動はきな臭い。

 アメリカ経済がシェールガスで救済されると予測するのは、中近東からの原油輸入を大幅に減らすことによる経済収支の改善と、中近東への軍事費削減によるコストダウンを見込めるからだ。中近東への兵力配備削減の余力がアジアに廻るのであれば、当面は日本にとって望ましいと言うことだろう。

 そして中国の解体・崩壊の予測がいろいろな事象から予測されている。確かにこの本でも言及しているが、習近平体制は解放軍のコントロール能力を失っているようだ。だから中国政府と解放軍との行動に矛盾がしばしば見られている。これからますますそういう事態が起こるかも知れない。日本にとっては非常に危険な状態だ。

 日本が中国の火の粉をかぶらないようにしていくことがこれから必要だろう。この本ではコスト高でもいいからメタンハイドレードを早く実用的なエネルギー源として活用するすべをとるべきだと提唱しているが、大賛成だ。その投資は直接的な利益もあるし、天然ガスや原油の購入単価を下げることにもつながるので一石二鳥なのだ。

2013年12月 4日 (水)

トマス・H・クック「石のささやき」(文春文庫)

 「わたし」と呼ばれる自分と「おまえ」と呼ばれる自分がいる。

 「わたし」は刑事に事件の経緯の説明を求められ、そもそもの発端から話を始める。いったい事件とは何なのかが分かるのは巻末になってからである。それまで延々と刑事と「わたし」とのやりとりと、過去への回想が交互に繰り返されていく。

 そもそもは姉のダイアンの息子のジェイソンの死が発端だった。いや、ことはさらにさかのぼる。「わたし」と姉のダイアンの父の病気がそもそもの発端だった。

 こうして「わたし」から見た姉のダイアンが、息子の溺死を境に父と同じ精神の病となり、自分の夫をその犯人と思い込んで奇矯な行動を始める様子が描かれていく。しかも「わたし」の娘のパティを巻き込んでいくのだ。

 統合失調症という病には幻聴がつきものである。「石のささやき」という題名にはその意味が隠されているが、ことはそれほど単純ではない。姉の思い込みが本当に病気のせいなのか、そもそも本当に病気なのだろうか。姉が正しい、とまでは「わたし」も思えないのだが。

 狂気は遺伝する、と言う前提で書かれているけれど、必ずしも事実はそうではない。しかし狂気に陥るように仕向けられたり、そのような状況に追い込まれたら自分自身に不安があることにより、影響を受けないとも限らない。

 心は思わぬ陥穽にはまり込んでしまうことがあるものだ。

 「人の心のもろさと悲しみを、名手が繊細に痛切に描き出した傑作」と裏表紙にうたわれている。うーん、傑作とまでは言わないけれど、こんなしんどい小説を最後まで読ませるのは名手に違いない。

思惑が外れた?

 アメリカのバイデン副大統領が日中韓の三国を訪問する。まず最初に日本を訪問して夜には安倍首相と会談した。

 マスコミは、安倍首相は中国が設定した防空識別圏について日本と歩調を合わせて非難するというコメントをバイデン副大統領から引き出したかったけれど何の反応もなく、思惑は外れた、と報道した。

 多分これを見た中国メディアは大喜びで報道するだろう。

 しかしこれを報じた記者は馬鹿ではないか。日本の後に中国に行こうとしているバイデン副大統領が、中国が不愉快になることが決まっているようなコメントを話すことなどがあり得るなどと本気で思っていたのだろうか。

 全ての訪問が終了して、アメリカに帰ってからのオバマ大統領への報告のときにアメリカの意思が表明されるはずである。

 バイデン副大統領という人は日本より、やや中国よりと見られているらしい。そのバイデン副大統領の胸に届くようなメッセージを安倍首相が伝えられたかどうか、これはもう少ししたら明らかになることだろう。

 アメリカが中国に迎合することになれば、日本は孤立するおそれがある。そうなれば日本の株価は一気に下がるだろう。インフレ下の不況というおそろしい事態がやってくるかも知れない。

通常価格

 ネット販売の通常価格が実際の販売価格より高く表示されていることが不当だとして問題になっている。マスコミは大幅な値引き感を消費者に与えて購買意欲を高めようとしていることを犯罪であるかのように報道している。

 私は関東出身なので値切るのが苦手だ。関西の友人は店頭で店員とやりとりして値引きを楽しんでいる。でも私は値切るのが苦手とは言え値切ることが悪であるなどとは思わない。

 海外に行くと、国によっては売り手の言い値は実際の二倍や三倍であることが当たり前だ。買う方がそれで納得すればそれで良し、値切れば哀しそうに妥協案を提示してくる。その価格は決して彼が損をする価格であるはずがないことはお互いに承知である。今回の話もその駆け引きみたいなものではないのか。

 ものを買うにはその原価についての知識と比較するべき情報と相手の態度で駆け引きするのがむかしは当たり前だったと思う。金持ちには高く、貧乏人には安く売るのは当然のことだった。相手によって値段が違うのだ。

 いまの日本では同じものは同じ値段で売るのが当然のような風潮がある。それでは商売とは言えない。流通経費のかかる田舎ではそれなりの経費が価格に上乗せされるのが道理だと思うが、それが全く同じ価格であることの方が驚きだ。逆に言えば経費のかからないところでは田舎の分が価格に上乗せされていることになる。

 自分が買いたいものの価格について安く買いたければ、自分なりに比較対照するための情報をとるのが当然だろう。ネットで買うならネットで比較することが簡単にできるではないか。納得して購入したのならそれで満足すればいいのだ。

 いまテレビ局は手分けして通常価格がおかしいと思えるものをしらみつぶしに調べて告発している。しかしこんな作業は一時的なものだ。それならその検証を今後誰がするのだ。消費者庁もそれほど暇でもないし(やるべきことが出来ない役所らしいではないか。人が足りないのかやる気がないのか知らないが)こんな話は一時的な騒ぎで終わるだけだろう。

 そもそもがものを買うことに正義を持ち出すマスコミのパフォーマンスに過ぎないことで、賢い消費者は通常価格なんてテンから信じていない。だまされた、などという人は同情されるより馬鹿にされるだけだ。甘えてはいけない。マスコミは本音では高値で買わされた人に同情する振りをして実は馬鹿にしているような気がする。

2013年12月 3日 (火)

殊能将之「ハサミ男」(講談社文庫)

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 裏表紙に「美少女を殺害し、研ぎあげたハサミを首に突き立てる猟奇殺人犯『ハサミ男』・・・」とあるからいわゆる日本版のシリアルキラーの話なのだと思って読み始めた。確かにそれには違いないのだけれど。

 「ハサミ男」は三番目の犠牲者を決めて犯行の時機をうかがっていた。ところが自分の手口そのままの殺しかたで美少女が殺され、「ハサミ男」はあろうことか発見者の立場に立たされる。

 「ハサミ男」としては自分の美学が犯されたような状況なのだが・・・。こうしてひねりが加えられたシリアルキラー物語として事態が展開していく。この「ハサミ男」は当然異常者なのだが、その異常さは多分読者の理解を超えていて、ときに滑稽でもある。人は、理解できないものは笑うしかないことがあるのだ。

 しかしそのブラックユーモアにだまされてはいけない。実はさらにこの物語には作者の仕掛けが施されている。読者は頭が混乱してもう一度最初から読み直さざるを得なくなることだろう。

 ちょっとひねりすぎだけれど意外性は抜群だ。

韓国に関するニュース

 今朝のネットの海外ニュースで韓国に関するものがいくつか目に付いた。

 今年9月に、靖国神社にシンナーの入ったペットボトルを持ち込んで放火しようとした男が逮捕されたが、その裁判で「韓国侵略を正当化する日本の政治家の発言に抗議するため、放火の機会をうかがっていた。同じことは繰り返さない」と述べたそうだ。

 検察側の求刑は懲役三年だが、弁護側は被告に前科がなく、深く反省しているので執行猶予付きの刑を求めているという。

 男の言葉が報道されているとおりだとすれば、自分の罪をみじんも認めていないように聞こえる。言っているのは「同じことは繰り返さない」ということだけだ。揚げ足をとるわけではないが、違うことならやるかも知れない、ということだろう。これが罪を自覚していると考えることは出来ない。

 彼は出所して韓国に追放帰国すれば英雄としてもてはやされるだろう。それを見越して決して謝罪をする言葉は語らないはずだ。そもそもが彼の行動は言葉どおりのものではなく、韓国でもてはやされるのを見越したパフォーマンスそのものであることが明白だからだ。哀しいピエロだ。もてはやされ、やがて見捨てられていくだろう。

 韓国の冬は寒い。初めて韓国へ行ったときは11月の半ば頃だったけれど飛行機がやや遅れて夜中にソウルの街なかを歩くことになった。そしてその寒さに震え上がった。日本との気温差は10℃くらいあったように思う。その韓国に、例年以上に早く冬が訪れているという。

 中国のメディアがその韓国の新しい暖房費節約の方法を伝えていた。なんと部屋の中にテントを設営するのだという。テントは簡易式でいいので(当然だ。雨も降らないし風も吹かない)日本円で4000円程度のものでいいそうだ。これで室内の気温より4℃ほど暖かいので暖房費の大幅な節約になるそうだ。

 テントメーカーによれば11月からテントが爆発的に売れているという。

 韓国では原発の故障や欠陥が次々に見つかっている(これは実は人災なのだが詳しいことは省く)。この冬は電力供給にも不安があるのでこのような対策が必須なのかも知れない。

 日本での韓流ブームが下火になっているらしい(あまり興味がないのでよく知らないが)。昨年に続いて今年も紅白歌合戦に韓流スターがひと組も入らなかったと中国のメディアが伝えていた。そういえば先日も韓国メディアが日本政府の指導が裏にあって韓流スターが紅白に出られないと報じていたらしい。

 韓国ではないのだから日本でそんな指導はないと思う。そもそも日本での韓流ブームが終わったということなのだろう。ブームが終わってからそれでも人気が持続するかどうかが本物かどうかの勝負だと思うがどうだろう。韓流スターはいま必死で人気をつなぎ止めるために地方局に積極的に出演しているという。いわゆるどさ回りが人気の復活につながるのか過去の栄光の食いつぶしになるかどちらだろう。

 韓国がTPPに参加する意思を表明した。韓国はTPPではなくそれぞれの国とのFTAで行く、との方針を転換したのだが、参加のためには現在の参加国である12カ国の全ての了承が必要であり、しかも米国議会の承認のために最低3ヶ月待たねばならない。すでに年内で条件についての協議が終わる方向で進んでいるから、韓国は自国の要望を入れることは出来ない。決まったことを100%受け入れる必要がある。

 そうなると韓国に不利な点について野党が追及することになり、韓国議会は紛糾するだろう。韓国メディアは「あまりにも参加の意思表明が遅すぎて時機を逸した」と伝え「もしその上参加が拒否されたら最悪だ」としている。その通りだろう。日本にもその生殺与奪の権がある。しかし優しいから拒否はしないだろう。

 中国のメディアが韓国経済について論評した。「円安が来年も継続すると韓国経済は深刻な打撃を受けるだろう」という。アメリカの経済評論家は「少なくとも来年中旬くらいまでは円安ウオン高が続くだろう」と予測を述べていることも合わせて伝えている。

 海外市場で日本企業としのぎを削る韓国企業は引き続き苦戦を強いられ、輸出に支えられている韓国経済は大きな打撃を受けるだろうとの論評なのだ。

 しかし円安ウオン高というけれど、そもそも円が異常に高く、ウオンが相対的に安い状況が是正されたに過ぎないというのが本当のところではないのか。その日本の経済が持ち直し始めている、と見れば円高に振れるのが普通だと思うが、そうならないのはそもそも日本経済が不調なのに円高であったのが異常なことだったということだ。

 ウオン安の背景は韓国の不明朗な為替操作が背景にあるのではないかと疑われる節もあるらしい。自国の国民を犠牲にして巨大財閥を支援して輸出を増やしてきたとも言える。それが結果的に韓国全体を潤している間はそれも受け入れられた。ところが韓国経済が良くなれば円高や円安とは関係なく、いつかはウオン高になるのは自明のことだ。裏工作にも限界がある。

 そうなると利益を得るのは財閥系の企業だけ、と言う状態が国民に露呈してしまう。そこから目を逸らせるための方策が反日プロパガンダだ。若い人々は自国のアイディンティティ確立のため、と称して徹底的な反日教育を受けているから、竹島問題を煽ることで一気に燃え上がる。

 しかし反日を叫べば叫ぶほど当然日本との関係は悪化し、韓国経済はさらに悪化するのは必然である。しかも海外市場での競争は日本だけとの闘いではない。韓国のアッセンブリ製品(自動車や電気製品などの組み立て製品)主体の輸出の競合はすでに日本よりも中国との闘いになりつつある。さらに東南アジアやインドなどがその闘いにエントリーしている。日本は韓国や中国ではなく、すでにその東南アジアやインドに傾注し始めている。当然とは言え賢明なことだ。

 朝鮮日報が「安全はアメリカに頼り、経済は中国に頼っている韓国」という視点から中国の防空識別圏の設定について論じている。韓国はここでの米中の対立に巻き込まれているとして懸念を伝えているのだ。

 韓国は日本を袖にして中国を市場として生き延びるという方策を選んだ。そのことは中国経済が右肩上がりの間はそれなりの効果があるだろう。しかし中国の市場は巨大である代わりに個別の利益の確保が難しい。極端な薄利多売を求められる市場なのだ。韓国企業は国内では製品を高く売り、自国で利益を上げながら海外で安値販売してきた。だから薄利多売は得意である。だがそれは自国での利益を確保できている間のことだ。

 ウオン高により、韓国に日本をはじめ欧米の製品などが雪崩を打って押し寄せ、韓国でのシェアを伸ばしている。防波堤は崩れたのだ。当然中国製品も大量に流れ込む。いま韓国は危うい淵にたっているのではないか。

 おそろしいのは朴槿恵大統領という人がそのことに全く気がつかないか、周りがそれを知らせないようにしているのか、何の策もとろうとしていないように見えることだ。

 韓国経済が停滞すればウオン高も収まるだろうがそのときには国民に分けるパイも激減していることだろう。朴槿恵は短命で終わるかも知れない。

睡眠と夢

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 最近よく夢を見るようになった。子供のときや若いときもよく夢を見た。他の人と話してみると人一倍夢を見ているらしかった。

 誰でも眠っているときは夢を見るものらしい。夢をよく見ている、と言う人は寝起きに夢を見たことを覚えている人だ、ということらしい。

 自分が睡眠時無呼吸症候群だと知らされたのは友人と旅行で同宿したり社内旅行での周りからの指摘からだ。かなりひどいものらしいが本人に自覚はない。しかし昼間突然眠気が襲うことがしばしばあった。

 肥満が原因であることは分かっている。

 糖尿病や高血圧もその肥満と関係があり、悪循環に嵌まっていたのだろう。

 意識してウエイトコントロールしようとしてきたが、多少の結果が出るとつい気を抜いてリバウンドする、という繰り返しだった。昨年から少し意識のレベルを上げて多少無理をして見た。そして今年一年で10%以上の減量を目標として、食べる量を大幅に減らした。

 目標はすでに達成している。そこからリバウンドしないで3ヶ月持てば来年は次の目標を立てるつもりだ。

 先日の九州旅行で同行した友人が驚いていた。いびきが激減していて呼吸が止まることもなかったようだ、と言うのだ。

 多分このことと夢を見ることが多くなったことは関係しているのではないかと思っている。深い眠りを眠ることが出来ているから寝起きの眠りが浅くなり、夢を覚えているのだろう。

 夢は楽しいものばかりではない。楽しいものより不思議なものや不快な夢の方が多い。でも夢を見るのは楽しい。減量から得られた、思ってもいなかったうれしいご褒美だった。

2013年12月 2日 (月)

WOWOWドラマ「同期」2011年

 原作・今野敏、出演・松田龍平、栗山千明、竹中直人、新井浩文、渡辺哲、豊原功補。

 ほかにも癖のある俳優がたくさん出演している。

 少し前のドラマだが録画したまま見そびれていた。ほかにもたくさんあるが手始めにこれを見た。

 同期で親友同士のふたりの警察官が、かたや警視庁の捜査一課の刑事(松田龍平)に、もうひとり(新井浩文)は公安に配属される。そんなとき暴力団の男の殺人事件が発生。ところが殺人事件なのにその事件は組対四課、つまりヤクザ対策の部署の取り扱いとなる。極めて例外的な扱いなのである。しかも最初から暴力団の抗争が原因だとの決めつけで捜査が進められる。

 捜査一課はその補助の役割しか与えられず情報も共有されない。やがて殺された暴力団の属する組と対抗していた組の一員が殺される。こうして事件は抗争事件と確定される。

 そんな矢先公安の友人が突然懲戒免職となり、姿が消え、連絡が取れなくなってしまう。

 若手刑事は捜査のかたわら友人の行方を捜して廻るのだが、なぜか警察上部から圧力がかかり、行方を追うことが禁止される。そこへ友人の妹が友人の行方を求めて訪ねてくる。

 事件と友人の失踪がやがて互いに関係があることに気づいた刑事は身命を賭して立ちはだかる巨大な壁に挑むことになる。

 そして明らかになる恐るべき真相。何が正義で何が悪なのか。主人公は友人を救えるのか。なかなかよく出来たドラマで楽しめた。さすがに今野敏の原作だけある。

 松田龍平が顔に似合わない熱血漢を演じているのが珍しい。

ノスタルジー

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 先日読み終えた藤井省三の「現代中国文化探検」は副題が「四つの都市の物語」となっている。これについてはすでに紹介しているけれど、これに続いてこの著者の「魯迅」という本を読み始めている。

 この「魯迅」という本の冒頭で、魯迅の故郷である紹興を著者が若い時をはじめとしてたびたび訪れている様子が語られている。紹興は田舎町から現代都市にすっかり生まれ変わってしまったようだ(まだ訪問していないが、もう訪問しても仕方がないような気がする)。

 なぜ自分が中国や東南アジアへ行くのか。それらを読んでいてあらためてその動機はノスタルジーであったことを思い出した。

 小学校からは田舎の小都市で成長したが、その前の何年かを農村の中の小さな家で暮らした。隣の農家までは竹藪の小道を通らなければいけない。周りには田んぼや用水池があり、小さな神社もすぐそばにあった。

 その風景が私の原風景として心の底に刷り込まれているらしい。そしてそれは日本よりもアジアの田舎へ行くことでよみがえるものであるようだ。

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 だから三年ほど前に雲南省へ行ったとき、小さな村々に中国の昔を見て、心の底から懐かしい、と感じたのだ。そこは「単騎、千里を走る」という映画の舞台でもあったけれど。

 そして今年の北ベトナム旅行ではハノイやハロン湾はもちろん楽しかったけれど、その行き帰りの、まだ現代化していない農村を通過したときにこそ心が動いたことを思い出す。

 多分その風景も急激に変わってしまうことだろう。でこぼこ道のその国道は急ピッチで整備されていて、まもなく観光道路として完成することだろう。阻止中国から大挙して観光客がおとずれることになる。土産物屋だらけになり、懐かしい風景は消えてしまう。

 ノスタルジーはそうして儚いものだからこそ心に響くものなのだろう。中国の観光客を非難しても始まらない。ただそのおびただしい数が、彼らの行く先々を変貌させてしまうことだけは間違いない。

 いまに本の農村で過疎化が進んでいる。もしかしたらそこにこそ原風景が見つかるのかも知れない。来年はドライブ先にそのような場所を選んでノスタルジーを探しに行くことにしようか。

内田樹「修業論」(光文社新書)

 武道を修行する、ということはどういうことか。このことを40年以上合気道を修業してきた内田樹先生が語る。

 武道はスポーツではない。そのことは真に武道を学んだものには明らかなことだが、その違いは何なのか、先生は繰り返し説明している。

 このことは分かる人にはたちどころに理解されることだが、分からない人には何を言っているのかさっぱり分からないかも知れない。

 ある言い方では、ブレイクスルーすることだと説明される。しかしブレイクスルーは普通のスポーツや勉強でも経験することだから、それだけでは武道の修行について説明が尽くされているとは言えない。そもそもブレイクスルーを経験したことのないものには何のことか永遠に分からない。

 ブレイクスルーする前と後とでは違う自分になる。

 問題はブレイクスルーへの意識の差である。スポーツには戦う相手との競争があり、その競争相手を上回る記録や能力を身につけることが目指される。武道こそそうではないか、と思われるかも知れない。しかし先生はそうではないのだという。ここのところが分かるかどうかがこの本を本当に読んだかどうかの分かれ目だろう。

 先生はフランス生まれのユダヤ人哲学者・レヴィナスの哲学を専攻している。その深遠なレヴィナスの言葉を分かりやすく解釈していく、という作業はある意味でブレイクスルーの連続とも言える。多分仏教の経典の解釈も同様だろうと思う。そのような作業と、合気道という武道を修行すると言うことが実は究極的には同じものではないかと先生は直感している。

 ただしそのブレイクスルーは修業のひとつの結果であり、武道はさらに深遠なものだ。その辺はこの本を読んで感じてもらうしかない。

 この本には「修業論(合気道私見)」、「身体と瞑想」、「現代における信仰と修業」、「武道家としての坂本龍馬」という文章が収められている。それぞれ違うアプローチの仕方で修業ということ、武道の本質について論じている。いつものように先生の本を読むと全く新しい視点を得ることが出来て興奮する。これもささやかなブレイクスルーだろう。

 最後の「武道家としての坂本龍馬」では司馬遼太郎の厭戦思想が武道に対する嫌悪につながり、坂本龍馬や幕末の志士たちが極めて優れた武道家でもあったことの意味を見ようとしていないことについて批判している。私もそのことに違和感を感じていたので非情に興味深かった。

 坂本龍馬、勝海舟、桂小五郎、武市半平太をはじめ、皆当時の江戸の代表的な道場の塾頭である。その彼らは自ら剣を振るって敵を斃すことをしなかった(映画やテレビではやたらに斬りまくるけれどウソである)。

 この本で中島敦の「名人伝」などが引用されていることの意味が分かりますか。

2013年12月 1日 (日)

シリアルキラー

 アメリカのドラマの「フォローイング」を昨晩から続けて一気に見た。全十五話だけど途中でやめられないのだ。話が面白いと言うこともあるけれど、途中でやめるのが生理的に気持ちが悪いドラマなのだ。結局最後まで見たけれど、その不快感は終わっても拭うことが出来なかった。そもそもそのような不快感がまとわりつくことを楽しむ人のためのドラマだから結末も期待したようには終わらないのだ。

 多分続編も作られるだろうけれど、もう二度と見たいとは思わない。シリアルキラー、以前はサイコキラーともいい、日本では連続殺人犯とも言うけれど、殺人そのものを快楽的に行う犯人を指す。

 このドラマではいわゆるシリアルキラーのコピーキャットがオウム教団のようにひとつの集団を形成して増殖していくところがおそろしいのだ。

 「コピーキャット」という映画があった。シリアルキラーの分析を行った女性の心理分析官のシガーニーウィーバーが、犯人が死刑になったあとも精神を病んで自分の家から出られなくなってしまうという映画だった。そしてそれを模倣した犯人に襲われて・・・というサスペンスフルなものだったけれど、このコピーキャットが次から次に現れたら対処の仕様がなくなってしまう。

 世の中にはシリアルキラーにシンクロしてしまう異常者が存在する。10万人にひとりの異常者でも、1億人いれば1000人存在する計算なのだ。

 正常な人のための法律がときに異常者を護る。アメリカの法曹界がときに被害者よりも犯罪者のために力を貸しているという物語はよく耳にするが、まさにそれが警察やFBIを縛ることにもなっている。

 物語は24人の若い女性を毒牙に掛けた大学教授が、逮捕されて刑務所に入り死刑が間近いという8年後から始まる。FBI捜査官のライアン・ハーディ(ケヴィン・ベーコン)は犯人のジョー・キャロルを逮捕するときに胸を刺されたためにいまは心臓にペースメーカーを入れ、FBIを退職していた。

 FBI長官からの要請で顧問として現役復帰したライアンが、このキャロルとの闘いに望むのだが、天才的なキャロルが自分の信奉者を使って描き出すストーリーに翻弄されるというストーリーなのだ。

 とにかく人が次々に死ぬ。それも必然性がないのに、あたかも必然であるかのように死ぬ。だんだん見ている方がおかしくなるような異常な理由で人が死ぬ。だいたいこんな物語を一気に全部見た方がどうかしているのかも知れない。おかしな要素を持った人が影響したりしないかどうかを本気で心配する。

 さいわいジョー・キャロル役のジェームズ・ピュアホイは熱演しているけれどもカリスマ性があまり感じられないので、ドラマにとっては傷だけれど精神的には救いかも知れない。

雑感

 中国の防空識別圏の設定についてのニュースが多い。中国の実力誇示であることは疑いないことだが、これが挑発なのかどうかは今後の中国の行動を見なければ分からない。

 いま福島香織「現代中国悪女列伝」という本を読んでいるが、この中に習近平主席夫人、彭麗媛(ほうれいえん)が取り上げられている。その文章の中に習近平が国家主席になるような器ではなく、最も無害で敵が少ないだけの人物であるらしいことが書かれている。

 中国の消息に詳しい人が観測しているとおり、軍部の一方的な防空識別圏設定の要請に習近平が唯々諾々と了承を与えたのだろうということが想像できる。そうでなければ日中がようやく対話の再開の機運が兆しだしたこのタイミングと矛盾することが説明できない。

 解放軍は軍備をひたすら増強している。いままで中国軍と言えば頭数だけは多いが装備は劣ると見なされてきたが、これだけ金を掛ければそこそこの能力になったに違いないと自他共に考えている。そうなればその軍備の力を使いたくなるのは軍人の常であろう。関東軍が暴走して日中10年戦争が始まったときに似ていないこともない。

 だから中国解放軍の一部は日本が挑発に乗って先に仕掛けてくることを心の底から願っているだろう。しかしさすがにアメリカと事を構える覚悟はなさそうだ。

 中国で、地方の人々が中央に直訴する件数が600万件を超えている、と中国当局自身が認めている。直訴しているのは個人ばかりではない。村を代表してやってきているひとも多い。ということは600万件に関わる人はその数倍いや数十倍に及ぶかも知れない。彼らは全てを失い、命がけで直訴に及んでいる。しかも取り上げられるのはほんの一握りのみでほとんどは却下されている。地方での争議も年間数十万件発生していると見られている。

 中国国内の状況は想像以上に深刻なのではないか。その不満のエネルギーのはけ口を反日に振り向けようとしている、という観測はあながち間違いではないだろう。そしてそれを利用して解放軍は自分の存在を誇示するチャンスを狙っている。

 それをコントロールするはずの中国共産党がトップにいただいているのがその能力を欠く人物であれば中国にとってとても危ういことだ。そのとばっちりを日本が、そして世界が受ける可能性が出てきたことはおそろしいことだ。

 歴史はある意味で不可抗力で動いていく。中国に対してそれなりに圧力を掛ける力のあるはずのアメリカのオバマ大統領が、やはりカリスマ性のあまりない決断力に欠ける人物であることも世界にとって不幸なことだった、とあとで思い返されることになりそうだ。

 どうも資本主義だろうが共産主義だろうが全体主義も独裁主義も全てが、金、金、という拝金主義に取って代わったことが全ての原因のような気がする。人類は袋小路に嵌まっているのかも知れない。

 こちらは遠からずこの世から退場するけれど、生を受けて間もない子供たちの未来はどうなるのだろうか。心配してもしようがないけれど。

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