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2014年1月

2014年1月31日 (金)

売国

 社民党の党大会で、村山富市元首相が、安倍首相を「売国首相」と批判したそうだ。日本では何を言っても中国のようにたちまち検挙される、と言うようなことがない。だから何を言おうがかまわないのだが、なんか変だな、と思ったので「売国」という言葉を辞書で調べてみた。

「私利などの為に、自国に不利で他国の利益になることをすること」とある。すなわち、村山氏は安倍首相の言動は、(多分中国や韓国に対して)利益になるようなことをしている、と非難しているらしい。

 それはたいへんまずいことである。確かにその嫌いはあるのだけれど(日本の国にとって不利益なら、中国や韓国の利益であるとこじつけて考えれば)、どうも村山氏は言葉を全く間違えて使っている(村山富市氏にとっては国とは中国であり、安倍首相の言動は中国にとって不利益である、と断じているのだろう)としか思えないのだがどうだろうか。

 この村山富市という人、神戸大震災の起きた朝、ゴルフの約束をしていたけれど、側近に、ゴルフに行ってはまずいだろうか、私はどうしたらいいのだろうか、とうろたえて聞いた、と言うのが翌日の新聞記者の裏情報としてコラムに報じられていたことを思い出す。

 彼の過去の、そしていまの言動こそ、私から見れば「売国」に思えるけれど、同じ言葉が違う意味になるのが社民党らしい。日本の国民はもうこの党に引導を渡してもいいのではないか。

理由

 千葉の実家から名古屋へ帰る間、考えた。

 CZTさんのブログ、「CZTのブログ」に「知識と行動の間」と題して面白い考察があった。少し長いけれどとても興味深いので、是非直接検索して読んでみて欲しい。

 それを読んだ前提で、ローカル線の車両の戸口のそばに立ち、半自動ドアを閉めない人物の、私の考えた、ボタンを押さない理由は以下の通り。

 ドアを閉めなければ自分が寒いことは様子から明らかなので、多分誰もいなければ、ボタンを押して閉めたのではないか(自分の家なら自分で閉めるように)。

 しかしそうしてボタンを押すことは、今回の場合、同時に他人の為にボタンを押してドアを閉めてあげたことになる。

 彼にとって自分が自分の為にボタンを押すことと、他人の為にボタンを押すことが葛藤なのであろう。自分の行為で他人が寒さをしのげることと、自分の寒さをしのぐことの価値が彼にとっては等価ではないのだ。

自分が行為することで他人を利することは、彼にとってはとてつもなく不快なことで、そんなことをするくらいなら自分が寒いままでいる方が遙かに良い、と無意識に考えているのだと思う。

 他人を利することは自分が損をすることだ、と思っているのかも知れない。

 人にしてもらうことに慣れ、人に何かをしてあげることに強い抵抗を感じる人がこの頃よく目につくような気がする。権利を主張するが、自分は何も引き受けない。してもらうこととしてあげることの重みが著しく違う価値で認識されているのだろう。

 多分同じことが損得でしか考えることが出来ず、しかも数倍数十倍値打ちが違うのだろう、などと考えた。

 CZTさんは最後に「ドアを閉めてあげれば他人が喜ぶ、と言うことに気がついていないのではないか」、と書いていますが、私は他人が喜ぶことだからしたくない、と言う気持ちではないかと勘ぐっているのです。

 私の方が人が悪いみたいだ。

新聞記事

 今朝の朝日新聞に池上彰が記事を載せていた。テーマは「裏を取る」ということだ。

 細川護煕元首相が都知事選に立候補したのは池上彰が勧めたからだ、という報道が流れていたことをご存じだろうか。へえ、池上彰も偉くなったもんだ、と思っていたら、その報道は産経新聞の記事が最初で、しかも池上彰には全く内容確認なしでなされたものだという。

 それに対して池上彰の反論が書かれているのだ。出馬を勧めたというのは誤解である、という。当初池上彰に対して細川氏が出馬要請し、「とんでもない」と断ったというのはすでに知られていることだが、そのあと、「細川さんは出馬しないのですか」と質問しただけだという。

 たぶんその通りなのだろう。しかし元々細川氏には出馬の意思があったから渡りに船で、記者の質問に対して「池上彰に勧められた」というコメントにつながったのだと思われる。

 だから記者がそのように報道したことが全面的に誤報と言うことはないけれど、少なくとも池上彰に確認を入れて、そのニュアンスを含ませるのは常識だろうと思うが、池上彰の申し入れにいまだに産経新聞は何の回答もないらしい。

 それは見解の違いだから仕方がないとして、ほっかむりなどするとこうして池上彰に一本取られることになる。

 ところで、もう一つ気になったことがある。産経新聞の記事を見て、朝日新聞と東京新聞から池上彰に取材があったという。その上で東京新聞は細川氏の出馬に至る背景を丹念に調べ、池上氏の見解も含めて記事にしていたのだが、朝日新聞は池上氏の見解を確認したのに全く産経新聞と同様の記事を掲載したらしい(記事を見ていないので)。つまり池上彰が勧めて細川氏が出馬したがごとき書き方だったのだろう。

 朝日新聞の今回の池上彰の記事を読むと、一見産経新聞に対する批判に見えるけれど、実は朝日新聞に対してきつい皮肉を書いているように感じたのは私だけだろうか。裏を取らない、というのは新聞記者として大きな問題だが、裏を取ったうえで取材した本人の意図と違うことを書くというのは、それこそ「いかがなものか」、と思うのだ。

 ところで朝日新聞を眺めていたけれど、韓国で日本の大使の車が妨害された事件の報道が全く見当たらない。たぶん粗忽な私が見落としたのだろうけれど、もし意図して、見落とすような記事の掲載の仕方だったのか、取り上げもしなかったのならそれも「いかがなものか」と思う。

 たぶんこちらが偏見で目が曇っているから見えないのだろう。

2014年1月30日 (木)

介護認定

 ケアマネージャーという人がやってきて、老母の介護認定やホームヘルパーについてのいろいろな情報を教えてくれた。

 いま介護保険の予算は限界に来ていて、明らかに介護が必要なのに介護認定が降りないケースがしばしばなのだという。残念ながらある程度オーバーに窮状を訴えないと認められないのだという。

 ということは、それほどではなくても演技で認定が受けられるケースもあるのか、と私などは勘ぐってしまう。

 数日、片手間に弟の嫁さんの手助けをしているだけなのにかなりくたびれる。身動きできない病人はどういうわけか注文がとても多い。ベッドの枠に鈴をつけて、用事があればそれで知らせるようにしているのだが、こちらが何かしている時に限って鈴が鳴る。

 母は口が全くきけなくなってしまったので、鈴しかアピールの方法がないのだ。その用事というのが人の手を止めてまでのことではないことがほとんどで、本を集中して読んでいる時などは煩わしい。それにいまは圧迫骨折が治るまで安静にしなければいけない大事な時なのに、やたらとごそごそしている。

 子供に返ってしまったみたいでちょっとため息が出たりしてしまう。

 明日はいったん名古屋に帰る。次は10日からの予定。

森鴎外を読む・つづき

 全集の森鴎外は二分冊になっている。その中から手頃な長さの、主に歴史小説を読んだ。

「護持院原の敵討」「堺事件」。

 「護持院原の敵討」を読むのは三度目か四度目である。敵討ちというのがどういうものか、よく分かる小説だ。正しいとか正しくないという基準が時代により、立場によってどれほど違うのか、という当たり前のことがよく分かるのだ。

 現代人はある一つの価値観だけが正義であるような勘違いをしている。だから中東の論理が全く理解できない。たぶん中国についてもそうなのだろう。グローバリズムはローカリズムというゆえんである。

 「堺事件」についてはあまり知られていない事件なので簡単に述べる。明治元年、徳川幕府が瓦解して、京都大阪そして堺を統治するシステムが失われたので勤王の藩がそれを代替統治した。そのとき堺を任されたのが土佐藩だった。

 堺の港にフランスの水兵が勝手に上陸し、街中で狼藉を働き出した。そしてあろう事か土佐藩の隊旗を奪って逃げるという騒ぎが起こった。それを追って、逃げた水兵を斃して奪い返したところ、フランス側が発砲した。そのため土佐藩が水兵に対して一斉射撃を行い、少なくとも13名を射殺(これは死体を確認した人数)した。

 これに対してフランス公使のロッシュは朝廷に厳重抗議を行い、発砲を命じた部隊の責任者と兵隊併せて二十名を死刑にすること、そして巨額の賠償、そして土佐藩主がフランス公使館に謝罪に来ることを申し入れてきた。

 この事件の顛末と、選ばれた(関係者は四十人以上いたのでくじ引きで選ばれた)二十名の切腹の様子が克明に描かれている。

 当時の武士の死生観がよく窺える話なのだ。これはフランス側の立会人の様子からさらにそれが際立つようになっている。そしてこの小説を読む我々現代人にも同様だろう。

 これは「阿部一族」や「興津弥五右衛門」も同様である。それをどう感じて森鴎外が小説にしたのか、明治という時代がその死生観を残していたのかほとんど失いつつあったのか、それについては想像するしかない。

森鴎外を読む

 むかし親にねだってそろえた日本文学全集が、実家の本箱に並んでいる。河出書房版の箱入り上下二段の立派な全集だ。

 全集をすべてもれなく読了する人というのは、いないことはなかろうけれど滅多にいないことだろう。私もご多分に漏れず、ほんの一部しか読んでいない。そしてそれでいいと思っている。

 老母の介護の傍ら、先日は夏目漱石を読んだ。開高健を読んだ。昨日から今日にかけて森鴎外を読んでいる。

「舞姫」「興津弥五右衛門の遺書」「阿部一族」「佐橋甚五郎」「山椒大夫」「魚幻機」「高瀬舟」「寒山拾得」。

 すべて短編なので時間がかからない。すべて一度若い頃読んでいる。特に「舞姫」と「高瀬舟」は高校の教科書に載っていた。

「舞姫」以外は歴史小説である。不確かな記憶だが、三島由紀夫が森鴎外の歴史小説を評して、感情を一切入れずに事実だけを淡々と書きながらそこに精神の高揚(こんな言い方はしてなかったと思う)を表現している、と書いていた(と思う)。これは大学受験の時の現代国語の問題文だった。問題を解くよりもその文章に感心して、森鴎外を、特に歴史小説を読もう、と思ったことを思い出す。

 たぶん「渋江抽斎」を引用していたのだろうけれど、この小説はいまの気分では長すぎる。

 どの小説もむかし読んだ時以上の感興を覚えた。やはり森鴎外はすごい。

 森鴎外の生地は津和野である。津和野には二度行った。武家屋敷も残り、町全体が古いたたずまいを残していていい所だ。

 森鴎外は大人になってからついに津和野をふたたび訪れることがなかったという。彼が帰らなかった理由は何だったのか。晩年、地元有志の懇請により、ついに津和野へ戻ることになった矢先に病没した。

 さだまさしの歌に歌われた津和野の町をまた訪ねてみたい。
  

 個別の小説についての感興については機会があれば述べる。

脳機能

 年を取るとともに単語を思い出すスピードが遅くなるという実験結果があるそうだ。このことから脳の機能は年齢とともに衰える、と実証されたことになっている。

 しかしそれに対して、脳に蓄えられる記憶情報の量は年齢とともに増大する、だからその記憶を呼び出すのに時間がかかるようになるのは当然であり、必ずしも脳機能の低下とは言えないのではないか、という反論が出されたそうだ。もっともなことである。

 ハードディスクに収められた情報が少ない時には検索も素早く行えるが、満杯に近くなれば検索は遅くなる。それはハードディスクそのものが劣化した証拠とは言えない、ということだろう。

 確かに長年使っていればハードディスクも損傷を増やして全体のアクセスが遅くなる。ましてやモーターなどが不調になれば致命的だろう。

 脳はだんだん衰えるのではなく、器質的に問題を生ずるまでは何とか普通に動いているものだ、ということであれば誠にありがたいことだ。せいぜい大事に使っていくことにしよう。

2014年1月29日 (水)

文明国か

 別所駐韓大使が車で移動中、韓国の民族主義活動家の男から妨害を受けたという。幸い負傷者などはいなかったようだ。

 これに対して韓国政府が日本に謝罪した、というニュースはまだ見ていない。

 どんな主義主張の人物であれ、韓国の国民である。その人物が他国の大使を襲うなどと言うことは文明国ではあり得ないことであるし、もしそのような事態となれば国を代表して謝罪するのが常識であろう。他国の大使を責任を持って護衛するのはその国の責任だ。

 これに対して中国のツイッターで皮肉交じりながら賞賛する声がささやかれている。中には「出てこなければやられなかったのに」などというどこかで聞いたようなものもあった。

 ところで別所大使は、韓国外交部から日本の学習指導要領について呼び出されて向かうところであった。

 中国でも丹羽大使の車が襲われて国旗を奪われるという、前代未聞の事件があった。あれも中国政府は謝罪していないのではないか。そもそもそんな時に謝罪するのは日本だけなのだろうか。

 文明国というのは何なのだろう。

開高健「パニック」

 この小説を初めて読んだのは中学生の時だった。事情があって田舎の学校から千葉市内の学校に転校して、その図書館の蔵書のレベルの違いに愕然とし、そして次にぞくぞくするほど興奮したことを思い出す。それまでの学校は子供向けの本ばかりだったが、新しい学校の本は大半が大人の読む本だったからだ。

 そこで初めて借りたのが開高健、そしてこの「パニック」と「日本三文オペラ」を読んで強烈な衝撃を受けたのだ。小説というのはこんなにすごいものか、と心から感心した。

 この「パニック」はそれほど長い小説ではない。120年に一度笹の実が生り、そのあと一斉にその笹が枯れる。この笹の実は栄養価が高く、救荒食物でもあるが、現代では誰もそんなものを食べない。その笹にあらゆる種類のネズミが群がり、それを巣で蓄え、爆発的に繁殖する。

 主人公は町の林野課の職員で、それがどんな災禍をもたらすか、よく承知していたので、笹原を焼き払うように提言するのだが、予算がないという言い訳で全く取り上げられず、万一の場合の対策案を直接トップに上申するが、それも握りつぶされる(この辺は原発の安全対策と全く同じ構造だ。その寓意として読んでもおもしろい)。

 雪の下で異常に繁殖したネズミたちは春になって一斉にうごめき出す。そのあとの様子はすさまじい。人間の対策など蟷螂の斧でしかない。

 役所の責任者たちの狼狽と責任回避の様子、孤軍奮闘する主人公、そしてそんな事態すら賄賂の手段にしようとする上司。読んでいるうちに義憤が高まり、いっそもっともっとエスカレートすればいい、と思ったりする。

 そして事態は意外な結末を迎えるのだが・・・。

 むかし読んだ時とは違って、主人公が意外と正義感だけではない、食えない人間であることを知ってにやりと笑ってしまった。

 とにかくおもしろい小説というのはこういう小説を言うのだ、という見本みたいな小説だ。開高健は分厚い随筆集をすべて持っていて全部読んでいるが、小説は一部しか読んでいない。うーん、これから機会があればまた読み直してもいいけれど、随筆の方が読みたい気がする。

 あの辛辣な批評家である谷沢永一や向井敏をして絶賛させる開高健はやはりすごい。

こころが離れる

 日本と中国、日本とアメリカとの現在の関係から言えば、沖縄の米軍基地は日本にとって必須のものと考えられている。

 そう考えているのは日本人であって、それが必要悪と感じている人も多いことだろう。ない方がいいけれども仕方がない、という考え方だ。

 沖縄の人が日本人と同様であるかどうか、沖縄以外にすむ人は本当に分かっているのだろうか、などと考えたりしている。

 沖縄の人は太平洋戦争のあと、アメリカにずっと占領統治されてきた。沖縄だけは車は右側通行だったし、本土と沖縄の行き来にはビザが必要だった。つまり別の国だったのだ。そしてアメリカと日本の合意により、沖縄は日本に返還されることになった。そのときほとんどの沖縄の人々に日本にふたたび帰属することになることに疑問を持つ人はいなかったことだと思う。

 太平洋戦争末期、沖縄では一般住民が多数死んだ。日本からの応援も途絶え、実質的に日本から見捨てられた。しかしそのことはそのこととして、沖縄の人々はふたたび日本人として生きることを歓迎したのだ。

 沖縄は元々琉球国という小さいながら独立した国であった。ハワイがそのように独立した小さな王国だったものをアメリカが接収して一つの州にしてしまったように、日本も薩摩が琉球を接収したそのままに日本の一地方として取り込んだ。

 今更そのことをあらためてわざわざここに記すのは、日本人にとっての沖縄ではなく、沖縄の人々にとっての沖縄、という視点がどういうものなのか、沖縄以外の日本人は想像力を働かせる必要がある事態になっているのではないか、ということをこの頃強く感じるからだ。

 極東のパワーバランスから考えれば、やむを得ない事態である、などと人ごとで考えているうちに沖縄の人のこころが日本から離れだしているのではないか、と何となく感じるからだ。

 人と人とのあいだでも、こころが離れたり近づいたりする。しかしある限界を超えて離れてしまうともう修復の利かない事態になることは、しばしば経験することだ。

 沖縄の人のこころを期待させて裏切るという某鳩山元首相の言動をはじめ、犯人を挙げていけば切りがないが、それを問うてもこころは元に戻らない。

 たとえば理不尽な日米地位協定の改定一つ取っても日本は真剣に改善交渉してきたのか。そしてそれを沖縄の人が分かるように示せてきたのか。

 国家が自分たちを守ってくれない、と沖縄の人々が考えれば、元々一独立国であったのだ、自立への道筋が浮かび上がってこないとは限らない。それは夢物語ではない。夢物語だと思うのはただ日本人とアメリカ人ばかりではないか。

 ではおまえは沖縄の人々が希望するように米軍基地を撤廃しろというのか、と問われればそれが現実に日本にとってどれほど不利益かは承知している、と答えるしかない。 

 しかし日本の不利益など知らぬ、と沖縄の人々が思うようになれば、そんな論理は吹き飛んでしまう。

 こころが離れかけている、ということに気がつくためには、沖縄の人の視点を日本人が理解する努力をすることが必要なのではないかと思っている。山本七平の「比較文化論の試み」で書いたように、日本人が初めて他者の視点で自分自身を見つめ直す機会でもあるのではないか。

 その視点から自らを問い直さない限り、中国や韓国の非難はエスカレートするばかりだし、沖縄が離反し、福島が離反し、ついには日本民族の破綻につながりかねない。

 その想像力を欠いていることそのことが日本の問題ではないか、などと考えている。

2014年1月28日 (火)

山本七平「比較文化論の試み」(講談社学術文庫)

 いま日本が中国や韓国から激しい非難の言葉を浴びせられ、安倍首相の靖国参拝によって欧米にすら批判的な論調が起きている。

 それは日本人としては悲しいことだが、正直言ってどうしてここまで一方的に言われなければならないのか日本人には分からない。

 と言っている自分でも納得できないのだけれど、その理由についてのヒントがこの本にはあるような気がする。

 「戦後三十年」という言葉が前書きにある通り、だいぶ昔に書かれた文章だけれど、いま読んでも、書かれている内容には古さは全くないばかりか、いまだからこそその意味を日本人はよく読み込んで理解したいところだ。

 その前書き内村鑑三の言葉が引用されている。明治という時代が、西洋文明を取り込むそのあまりの拙速さに対する批判を取り上げている。

 そしてついに日本は自らの文化を相対化することの必要性に気がつくことなく現代を駆け抜けてきた。そのことの結果が世界に最も理解されない国、いじめられっ子のような国に日本をしてしまったのかもしれない。

 中国に対して、アメリカに対して、そして世界に対して自らのアイデンティティを主張するにはあまりに無知であることがこの薄い冊子に明快に語られている。世界はなぜ日本を理解しないのか、ではなく、なぜ日本は、そして日本人は世界が理解できないのか、という自問をしないとならないのだと気がつかなければならない。

 ついにそれに気がつかないままであれば、日本は文化的破綻から国を滅ぼすだろう。

 「経済的破綻に更生はあり得ても、文化的破綻はその民族の自滅につながる。文化的生存の道は、自らの文化を他文化と相対化することによって再把握し、そこから新しい文化を築くことしかない」とは著者の喝破した真理である。

「三四郎」

 夏目漱石の「三四郎」「それから」「門」は三部作と言われる。「三四郎」と「門」はむかし読んだことがあり、久しぶりに「三四郎」を読み直して自分の青春時代のなにものかを思い出した。そしてそれは消え去ったのではなく、ずっと心の中にあったものであることに気がついた。美禰子と三四郎のように、女と男の本質的な違いのようなもののような気もする。

 「こころ」についてこの前のブログで書いたけれど「三四郎」の中で特に取り上げたい部分(たくさんあるけれど特にこの部分)を引用する。

 
 三四郎には三つの世界ができた。一つは遠くにある。与次郎のいわゆる明治十五年以前の香がする。すべてが平穏であるかわりにすべてが寝坊気ている。もっとも帰るに世話はいらない。戻ろうとすれば、すぐに戻れる。ただいざとならない以上は戻る気がしない。いわば立退場のようなものである。三四郎は脱ぎ捨てた過去を、この立退場の中へ封じ込めた。なつかしい母さえここに葬ったかと思うと、急にもったいなくなる。そこで手紙が来た時だけは、しばらくこの世界に彽徊して級歓を温める。

 第二の世界のうちには、苔の生えた煉瓦造りがある。片隅から片隅を見渡すと、向こうの人の顔がよく分からないほどに広い閲覧室がある。梯子を掛けなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。手摺れ、指の垢、で黒くなっている。金文字で光っている。洋皮、牛皮、二百年前の紙、それからすべての上に積もった塵である。この塵は二三十年かかってようやく積もった貴い塵である。静かな月日に打ち勝つほどの静かな塵である。
 第二の世界に動く人の影を見ると、たいてい無精な髭を生やしている。あるものは空を見て歩いている。あるものは俯いて歩いている。服装(なり)は必ずきたない。生計(くらし)はきっと貧乏である。そうして晏如としている。電車に取り巻かれながら、太平の空気を、通天に呼吸して憚らない。このなかに入るものは、現世を知らないから不幸で、火宅を逃れるから幸いである。広田先生はこの内にいる。野々宮君もこの内にいる。三四郎はこの内の空気をほぼ解し得た所にいる。出れば出られる。しかしせっかく解しかけた趣味を思い切って捨てるのも残念だ。

 第三の世界は燦として春のごとく動いている。電燈がある。銀匙がある。歓声がある。笑語がある。泡立つ三鞭(シャンペン)の盃がある。そうしてすべての上の冠として美しい女性(にょしょう)がある。三四郎はその女性の一人に口をきいた。一人を二へん見た。この世界は三四郎に取って最も深厚な世界である。この世界は目と鼻の先にある。ただ近づき難い。近づき難い点において、天外の稲妻と一般である。三四郎は遠くからこの世界を眺めて、不思議に思う。自分がこの世界のどこかへはいらなければ、その世界のどこかに欠陥ができるような気がする。自分はこの世界のどこかの主人公であるべき資格を有しているらしい。それにもかかわらず、円満の発達をこいねがうはずのこの世界がかえって自らを束縛して、自分が自由に出入りすべき通路をふさいでいる。三四郎にはこれが不思議であった。

   引用は以上

 こうして三四郎はほほえましい一つの結論を導き出すのだが、それは本文を読んでほしい。

 「こころ」で高等遊民のことについて述べたが、三四郎があこがれの第二世界をくぐり抜け、第三世界に地歩を築けば、それが現実世界での成功である。第二世界にとどまる者、それが遊民なのではないか。

 世界は第一、第二、第三すべてが揃うことで成り立っている。どれかの世界だけで世界を構成することはできないはずだ、というのが漱石の直感なのだろう。ところが時代は第三の世界だけで構成される世界へと突き進んでいる。経済性ばかりが価値観の中心である世界は確かに効率的だろう。

 しかし第三の世界だけの世界が必ずしも人を幸福にするのかどうか。その結果がアメリカ的グローバリズムの現代社会であるような気がする。

 グローバルに対してのローカル、そして遊民こそ第一、第二の世界を担うものとしてもう一度見直さなければならないかもしれない。これは外部から見た遊民で、内部から見た遊民については自分自身の問題として(貧しい遊民として)あらためて考えてみたい。

「こころ」

 先日、姜尚中の「心の力」を読んで、夏目漱石の「こころ」を読みたくなった。

 昨日一日掛けてゆっくり読んだけれど、ただいまそれを咀嚼中である。

 漱石の小説には高等遊民とでも言うべき存在がしばしば登場する。

 この「こころ」の中の「先生」もまさにそうだし、「三四郎」の中の広田先生もそうだ。そして「それから」の代助もそうだ。

 振り返って思えば、定年退職して年金暮らしをしている自分自身も「高等」ではないが、「遊民」であることは間違いない。

 なぜ夏目漱石はそのような高等遊民を描くのか。高等遊民とは、時代を中側からではなく、(傍観者として)外側から眺める目を持った存在であり、そこから語ることで生活とか人生を立体的に見せようとしているのかと思う。

 「こころ」に続いて「三四郎」を読み始めたら、三四郎のこの世界についての考え方が書かれていた。これが上の話に直接関わるような気がするので、読了したら取り上げたいと思う。

2014年1月27日 (月)

介護用ベッド

 老母を寝床から起き上がらせるのが大変なので(思ったより重い)、介護用のリースのベッドを依頼した。上下に上げ下げが出来て、背もたれも起き上がるやつだ。

 早速昼頃に届けられ、組み立ててくれた。母はベッドでの生活などしたことがないから何となく居心地が悪そうだったけれど、しばらくしたらすやすや寝ているので安心した。

 カードも思ったより役に立った。「お茶」「トイレ」「牛乳」「リモコン」「うるさい」などが早速使用された。これからもう少しボキャブラリーを増やしていこうと思うが、あまり多いとカードを探す手間が大変になってしまう。

 今のところ手助け(かなりハード)すればトイレにはなんとか這って行けるけれど、いつまでそれが可能だろうか。

 一番気になるのは無表情であることだ。これはかなり深刻なことかもしれないと思っている。

遺伝子検査

 遺伝子検査が話題になっている。父子関係の確認のことがきっかけだが、体質や病気のかかりやすさまで今は検査で分かるのだという。

 高血圧や糖尿病、肥満などになりやすいかどうかが分かるのはそのための予防のために有用かもしれない。

 アルツハイマー病になりやすいかどうかと言うことになると少し違和感を感じた。

 さらに運動能力、知的能力なども統計的な手法で分かるらしい、と報じられているのを見て、違和感の意味が分かった。

 ナチスが優生保護をとことん進めようとしていたという前例がある。究極的には優れた男と優れた女を結婚させて優れた子供を作っていき、ドイツを理想の国民ばかりの理想国家にしようとしたのだ。

 今に結婚前に互いの遺伝子情報を交換するのが常識になるかもしれない。そして相手に問題があればその結婚を躊躇することになるだろう。相手の遺伝情報に難点があれば、本人はともかく親が反対するかもしれない。みんながみんなそうするかどうかはともかく、そういうドライブが社会に働くのは間違いない。

 相手にアルツハイマー病になる可能性があるとはっきり分かっていたら結婚を逡巡するのはムリのないことだ。

 こうして生まれながらの本人の特質(これは変えようがない)があからさまになり、運命的に人が選別されていくことにつながっていく。SFのディストピア(反ユートピア)そのものではないか、などと本気で心配してしまう。

2014年1月26日 (日)

長丁場

 老母の介護を体験した。思っていたよりもとても重い。ずしりとして腰に来る。もしかすると、これがずっとこれからも続くのだ。

 介護をいやがって、母は自力でトイレまで這っていこうとする。しかし便座に座ることが困難だ。無理矢理抱えて座らせる。今はウォシュレットだから始末が楽でありがたい。これは女性ではムリだ。

 発語障害でリハビリ中だったが、それもキャンセルせざるを得ない。何をしてほしいのか、哀しいことにほとんど理解できない。いろいろ考えて、大きな文字でカードを作ることにした。「起きる」「寝る」「水、牛乳、お茶」「リモコン」「痛い」「かゆい」「うるさい」などいくつか考えたので明日作ろうと思う。

 介護認定の見直しを市役所に届け、介護士の依頼、寝床のベッド化などを早速に明日から行うことにした。これから長丁場、慣れるしかない。とは言っても母と同居している弟夫婦の手助けをするだけだけれど。

介護

老母が転んで腰の骨を折ってしまった。足の運びがおぼつかなくなっていたから心配はしていたけれど、安静一ヶ月が必要だとのこと。

介護の手伝いに、実家へこれから行く。対して役に立たないがトイレも風呂も人手が必要なので、力仕事を引き受けようと思う。

いろいろ予定していたことがあるが、母の様子を見てからこれからのことを決めようと思っている。

覚悟していたことだが、このまま寝たきりになってしまうおそれが大きい。

2014年1月25日 (土)

澤田ふじ子「鴉浄土」(幻冬舎時代小説文庫)

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 公事宿事件書留帳第二十巻。

 京都が舞台のこのシリーズが大好きだ。新しい巻が出るのを楽しみにしているうちにもう二十巻になってしまった。

 主人公の公事宿の居候、田村菊太郎は腕が立つけれどもほとんど人を斬らない。斬らないで事件を解決する方法は迂遠で面倒だけれど、その迂回する時間の内に事件に関わった人たちの人生が浮かび上がってくる。それぞれにそれなりのわけがあって事件が起こるのだ。

 女流の時代小説にはいいものが多い。特に平岩弓枝の「御宿かわせみ」シリーズとこの澤田ふじ子の「公事宿事件書留帳」シリーズは繰り返し楽しんで読める。読後感は爽快、と言うよりもほんわかしたものである。

 NHKの時代劇ドラマになったので知っているひとも多いと思うが、公事宿というのはいまの弁護士事務所みたいなもので、法律に詳しくない一般庶民の為に訴訟を引き受けたり、弁護をしたりそのための書類を整えたりする場所だ。これを読んでいると、悪人が一方的に奉行所と組んで違法なことをすることなど出来なかったことが分かる。

 ただし公事宿にも善し悪しがあったようだが。

 このシリーズは会話文が多い。京都言葉がふんだんに盛り込まれていて当時の生活を彷彿とさせる。そして京都の風景も情緒豊かに書き込まれていて、この本を読むと京都に行きたくなる。

2014年1月24日 (金)

日本大正村

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急に思い立って(いつものことだが)日本大正村へ出かけた。

大正村は岐阜県恵那市明智町にある。少し不便なところだ。ナビに従い、中央道の瑞浪インターを降りる。途中ナビを無視して走った為に少し回り道をしてしまった(これもいつものこと)。

観光用の広い駐車場に車を置く。上の写真は駐車場の隣の浪漫亭。お土産売り場、喫茶、そして観光案内がある。

そこから適当に歩き出し、資料館の大正の館に入る。

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手前で入館券を買う。大正村の有料の建物全て(四カ所あるそうだ)がその入館券で回れて500円、お値打ちだ。ちなみに別々だと一館300円。

この資料館は広い。展示場は三階まであり、さらに上に階段があるが立ち入り禁止となっている。

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大正モダンガール。ファッションのデッサンだ。

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大正時代は明治天皇の崩御から始まり、

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大正天皇の崩御で終わった。この新聞を見ると、当初大正の後は「光文」となるはずだったことが分かる。どうして昭和になったのだろう。

資料館はいくつもの部屋に展示物が満載で楽しんで丁寧に見ているときりがない。ただし必ずしも大正と関係ないものの展示もある。

そこから町並みをうろついた後、山側へ坂を上り、町を見下ろす高台にある大正ロマン館に行く。途中におもちゃ資料館や大正時代館もあったけれどパス。

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大正ロマン館は瀟洒な洋館。この中に初代大正村村長だった高峰三枝子の遺品や二代目の村長、司葉子の資料やこの地方出身の春日の親方の試料が展示されている。もちろん大正時代の物品の展示もある。

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三階の休憩室の雰囲気がとてもシックである。

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大正ロマン館からそのまま坂を下ると途中に大正村役場がある。さらに駐車場に向かって坂を下ると、

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狭い石畳の道、大正路地がある。右側の黒い板壁の建物は味噌の醸造場らしい。

ざっと歩いて二時間程度。丁寧に廻っても、山の上の城跡まで行かなければ、三時間あまりで全て見ることが出来るのではないだろうか。手頃でちょっとレトロな感じに浸れる。両親が元気な時に連れてきたら喜んだだろうな、と思った。ふたりとも大正生まれだし。

巨大都市

Dsc_0040これは北京ではなく上海。

 北京市の統計局が、昨年末の北京市の人口は、一昨年より45万5千人増えて2114万8千人だったと発表した。そのうち地方からの出稼ぎ者とその家族などの暫定居住者は802万7千人だという。

 中国の統計はどこまで正確か分からない。特に都市部に流入している届けの出ていない人口はどこまで把握されているのだろうか。少なくとも発表されているものより多いことは間違いないだろう。

 これだけの人口が集中してしまうと、インフラをどれだけ調えても追いつかない限界に来ているのではないか。大気汚染や渋滞の対策に必要なコストが税収を侵食し、都市を自壊させてしまうような予感がする。ものには限度があるのだ。

 中国の巨大都市は、人類の未来の実験場みたいだ。

映画「LOOPER ルーパー」2012年アメリカ

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 監督ライアン・ジョンソン、出演ジョゼフ・ゴードン=レヴィット、ブルース・ウィリス、エミリー・ブラント。

 

 「面白いよ」と誰かに薦められたような記憶があるのだが、覚えていない。その通り、期待以上に楽しめた。

 

 時間移動がテーマの物語は、どうしてもパラドックスが避けられないので破綻することが多い。しかしこの映画はそれをハイテンポで一気に突き抜けていくので、細かいところにこだわっている暇が無い。

 

 そういう意味では「ターミネーター」だって、時間移動がテーマの映画だと言える。

 

 ルーパーというのはループする人というのが本来だろうけれど、ここでは未来から送り込まれた人間を処分(殺すして消去する)する人のことである。送り込んでくるのは未来(どういうわけか30年後と決まっているらしい。それはなぜか次第に分かるが)の巨大犯罪組織である。未来で殺人を犯すと証拠を消去するのは不可能で、過去に送り込んで消去してしまうのが完全な抹殺方法と言うことらしい。

 

 ジョー(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)はそのルーパーのひとりだ。未来から転送されてきた、マスクされた人間を無造作に撃ち殺し、焼却炉に放り込んで次々に処分していく。報酬は銀の延べ棒。彼はある目的の為にせっせとそれを貯め込んでいる。

 

 ルーパーたちは、未来から来た男の作った闇の組織に属している。ルーパーたちの多くは手に入った収入で享楽的な生活を送っているが、さらなる収入を得る為に「ループを閉じる」ことを選ぶことが出来る。

 

 30年後の自分を未来から送り込み、自ら射殺するのだ。そうすると金の延べ棒を手に入れることが出来る。自分の結末を自分で決めることになるのだ。

 

 ある日ジョーのたったひとりの友人のルーパーが、手違いで失敗してしまう。送り込まれてきたのが、自分が意図していないのに未来の自分だと気がついたからだ。未来の自分は逃走してしまい、彼はその責任を逃れる為にジョーに助けを求める。

 

 最初は拒否するのだが、彼の所へも組織から追っ手がやってくる。やむなく彼をかくまうのだが・・・。

 

 こうしてジョーの日常が破綻を始める。そしてジョーにも同じ運命がやってくる。未来の自分(ブルース・ウィリス)が送り込まれてくるのだ。

 

 それからは保身の為に未来の自分を追うしかなくなったジョーと、組織の追っ手との闘いとなる。

 

 そして未来のジョーにはある目的があることが次第に分かってくる。その目的とは・・・。

 

 ここら辺からクライマックスへ一気に突入していく。

 

 時間移動あり、超能力あり、アクションありで盛りだくさん。こういうのが好きな人にはたまらない。お薦め。

金慶珠「日本が誤解される理由」(イースト新書)

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 帯には「韓国から見た日本人の知らない日本」とあります。

 著者がテレビのゲストコメンテーターとしてしばしば韓国擁護の立場で甲高い声で孤軍奮闘しているのをよく見る。(ゲストコメンテーターはたいていそうだけれど)他人が発言中にそれを遮って声高に意見を述べている。その様子をたびたび目にしているのであまりいい印象は持っていない。

 だから多少偏見を含んだ眼でこの本を読んでいたかも知れない。

 ある断定に基づいていろいろな事象を説明していることが多いように感じた。いろいろな事象からこう考える、と言うのではない、逆なのだ。こういうやり方は、それを受け入れようとしている人にはとても分かりやすい。しかし意見の違う人は激しく反発するだろう。多分周りは味方と敵にはっきり分かれてしまう。

 著者は日本が好きであるらしいことはよく分かった。だから日本はこうであって欲しい、という思いも分かる。しかしもう少しだけその日本をリスペクトするといいのになあ、と感じるのはやはり私の偏見だろうか。

 偏見ついでに言えば、彼女の知識は大学の先生としては浅薄に見える。学生の為にももう少し深く掘り下げた思考をお願いしたいが、多分忙しすぎてその暇が無いのだろうと拝察する。

 残念ながらなぜ日本が誤解されるのか、この本ではその理由が良く分からなかった。分かろうとしないからだろうけれど、それこそが日本が、そして私が誤解される所以だと彼女は言うだろう。

 収穫は、彼女が思っていたよりはいい人らしいことが分かったことだ。

2014年1月23日 (木)

姜尚中「心の力」(集英社新書)

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 夏目漱石の「こころ」とトーマス・マンの「魔の山」をとりあげながら、著者は「人のこころ」について考えていく。読者は著者の心の赴くまま、それに従って著者の提示する精神世界を体験する。

 冒頭に著者のご子息の亡くなっていることが語られているが、以前の著者の本ではそれに言及していないので、それほど昔の出来事ではないと思われる(調べたら2009年らしい)。未読だが、ベストセラーになった「悩む力」にはそのことが書かれているのかも知れない。

 この本の半分近くが、著者が読み込んだ「魔の山」と「こころ」という小説の、著者による続編の試みとなっている。心の動きが外部へ向かう西洋的な考えと、内部へ向かう東洋の考えが対比されながら考察される。

 私もエッセイの名手、ドイツ文学者の高橋義孝の文章を読んでトーマス・マンの「魔の山」を読んでみたけれど、情けないことに完読していない。漱石の「こころ」は全くの未読だ。

 魔の山はどこにあるのか。いままさに国際経済総会の開かれている、あのスイスのダボスにあるのだ。昨日安倍首相が講演を行い、おおむね好評だったと伝えられている。

 「魔の山」も「こころ」もほぼ同じ時期に書かれている。それを知ると意外な気がする。

 ともに「人の死」がその物語に大きく関わっている小説なのだ。

 人は必ず死ぬ。そのことこそ生きることに意味を与えているとも言える。人の死を乗り越えること、自分の死と向き合うこと、それが自分の心を見つめることだと著者は言いたいようだ。

映画「ウーマン・イン・ブラック 亡霊の館」2012年イギリス・カナダ・スウェーデン

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 監督ジェームズ・ワトキンス、出演ダニエル・ラドクリフ、キーラン・ハインズ。

 題名から分かるようにホラー映画だ。こういう映画は基本的に苦手だ。正直怖い。ところが時にこういうのを見たくなる。でも昼間見れば良かった。

 しかしホラー映画の主人公はどうしてこんなに勇気があるのだろう。あんな気味が悪い場所にひとりで居るだけで耐えられないのに、不思議な物音に惹かれて暗い建物の中を部屋から部屋へその音の原因を探し回るなんて考えられない。

 妻を失い、幼い息子とふたり暮らしの、ロンドンの法律事務所に勤めるアーサー(ダニエル・ラドクリフ)は、田舎の古い無人の館の残務整理に行くことになる。館に残る全ての文書を整理し、この館を処分できるようにする為だ。

 時代は20世紀はじめ頃だろうか。

 汽車を乗り継ぎ、さらに駅から車で一時間もかかる海辺の村のその沖合にその館はあった。干潮の時だけその館のある小さな島へ道が現れる。 
 アーサーはたまたま列車で乗り合わせたサム・デイリー(キーラン・ハインズ)という紳士の車(村に一台だけの車だ)でその村へ行くことが出来た。ところが村にひとつだけある居酒屋兼宿屋に宿を予約していたはずなのに、そんな予約は受けていないし満室だと断られる。途方に暮れるアーサーを見かねて宿の女将が屋根裏部屋なら、と言って一泊だけとめてもらえることになる。

 実は冒頭に三人の少女がその屋根裏部屋でおそろしいことになるシーンがあるのだが、アーサーはもちろん何も知らない。

 翌朝、村人たちの彼を見る視線は嫌悪であった。法律事務所から館の管理を委託されている弁護士を訪ねると様子がおかしい。書類はこれだけだからそれを持ってすぐ帰れ、と突き放される。

 それでは仕事にならない為、彼は馬車を雇ってその館に向かう。馬車は彼をその島の門で降ろすと逃げるように去って行く。迎えは次の干潮の夕方五時にしか来られない、という。

 そして彼が館に腰を据え、手当たり次第に残されている文書の整理を始めるのだが、誰もいないはずの館に物音がして、人影らしきものもちらりと見えて・・・。そんな中、夢中で読み続ける文書から、やがてこの館にまつわるいろいろな事実が明らかになっていく。

 不思議なことがあったもののとにかくその日は無事に村へ帰ることが出来る。サム・デイリーが彼の窮状を見て自分の屋敷に泊めてくれることになった。しかし彼の妻の様子がおかしい。サムはむかし息子が死んでからおかしくなったのだと説明する。

 それから村で少女が奇怪な死を遂げるのをアーサーは目の当たりにする。彼が村に来たからだ、として村人はアーサーを村から出て行くように迫るが、彼は強引に館へ向かう。

 それから館で次々に奇怪なことが続くのだが、たったひとりのアーサーは何を見ることになったのか。とにかく怖い。

 事態の解決の為、アーサーはサムの協力のもとにある思いきった行動に出る。それは奏功するのか。

 ラストシーンは切ないけれど美しい。これは救いなのだろうか。

2014年1月22日 (水)

鈍感

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 娘のドン姫の部屋を片付けた。ドン姫は今別に住んでいるから、多分大事なものは皆持って行っているはずだ。とはいえ見られてはいやなものがないとは限らないから、片付けるぞ、と宣言してある。

 ここだけは手をつけるな、というものがあったら事前に言うように、と念を押したが、いつものように「別に」と言う答えが返ってきただけだった。

 とにかく親譲りで、しかも親に輪を掛けてだらしないから何回かに分けて手をつけてきたが、今回はかなり踏み込んだ。

 多分手をつけて欲しくなかっただろう、というものもないことはなかったけれど、まあやりかけたら一段落つくまではとめられない。いまの時点でここまでだろう、と言うところまではようやくこぎ着けた。

 そこで分かったことがある。

 息子が大学の寮住まいになってから、ドン姫とのふたり暮らしだったけれど、仕事柄もあり、つきあいもいい方だったから夜は遅く帰ることが多く、ドン姫はいつもひとりだった。その上彼女が高校生くらいの頃から私が単身赴任したから、週末しか家に帰らなくなった。だから本当に彼女はひとりぼっちだったのだ。

 そんなことは頭で分かっていたけれど、本当に彼女の気持ちが分かっていたのかどうか。つまらないガラクタが山ほど出てきた。小遣いだけは少し余分にわたしていたから、多分本当は欲しくなくてもつい買ってしまったものが多いのだろう。それが証拠に封を切っていないものもだいぶある。

 もったいない、と思うよりも彼女の寂しさがなんだか強烈に感じられた。

 オレは馬鹿だったなあ、と今更ながら感じた。

 何かうまいものをだしにして、彼女にちょっと帰ってもらおうかな、と思っている。

 結局寂しいのは私なのだ。

いじめ

 国連組織の執行理事会で、中国、北朝鮮、韓国の代表が、安倍首相の靖国参拝を激しく非難した。この三国の物言いはエスカレートするばかりである。

 問題はこの三国に対してその行き過ぎをとがめる論調がどこの国にも見受けられないことだ。

 私から見れば、言いがかりをつけて、かさにかかっていじめっ子がいじめをしているのを、周りは見て見ぬ振りをしているように見える。

 戦前の日本はこのような雰囲気の中で戦争に追い込まれたのではないか、などと勘ぐってしまう。

 確かに戦前の日本は中国に対して止めどのない戦争を仕掛け、各国から非難される理由があったけれど、いまの日本がそのことを理由に同じような激しいバッシングをされるいわれはない。

 いつもなら少しは日本の立場を慮るアメリカがいちばん見て見ぬ振りをしていることが特に情けない。オバマ大統領という人はバランス感覚がおかしいのでは無いか、などとひがんでしまう。結果的に日本ばかりではなく、アメリカの利益を大きく損なう事態になることが分からないのだろうか、といらだたしい思いがする。

 日本がんばれ!屈するな。あんまりいじめると日本が核武装するぞ、と警告してやれ(核武装などしたくないけれど、あまりにアメリカが頼りにならなければ国民は日本が核保有化することを受け入れるようになりかねない、と脅かしてやれ)。

 この事態を招いた原因の一端は朝日新聞などの慰安婦問題や教科書問題などのおかしな報道だ(ほとんど裏付けのない誤報だったといわれている)。それが日本国民の軍備拡張を容認させることにつながりかねないとは・・・。それともそれを狙っての深慮遠謀であったのか。もともと新聞は戦争を煽るのが大得意だし。

映画「猿の惑星 創世記」2011年アメリカ

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 監督ルパート・ワイアット、出演ジェームズ・フランコ、アンディ・サーキス、ジョン・リスゴー、ブライアン・コックス。

 ちゃールトン・ヘストン主演の「猿の惑星」は衝撃だった。だから続編も全て映画館で見た。しばらく前にもう一度見直したら、何でこんな映画を喜んで見ていたのだろう、と思った。第一作のラストの衝撃だけが全てだったのだ。続編は作るべきではなかった。

 ではこの「猿の惑星 創世記」はどうなのか。

 そもそもなぜ「猿の惑星」が生じたのか、と言う絵解きとしてはCGがすばらしいからとても良く出来ている。ストーリーにも大きな破綻はないし(突っ込みどころはいくつかあった)、最後まで楽しめた。

 アルツハイマー病に効果のある薬は脳神経細胞を活性化させる効果がある。それを動物実験としてチンパンジーに投与したところ、特定のサルに著しい知能の向上が認められた、と言うところから話は始まる。

 その薬を開発しているウィル(ジェームズ・フランコ)の父(ジョン・リスゴー)はアルツハイマーがしだいに悪化しつつあった。だからウィルは必死だったのである。

 その新薬のプレゼンを行っていたまさにその時、知能の発達が顕著だった雌のチンパンジーが突然あばれだし、プレゼンは大失敗となり、チンパンジーは射殺される。

 新薬の副作用として実験は中止されるのだが、実は雌チンパンジーは妊娠していた。赤ん坊を守る為に防御行動をしていたのだ。母胎から取り出された赤ん坊を密かに自宅に持ち帰ったウィルはシーザーと名付けて密かに飼育する。

 父の病気の進行を食い止める為、違法と知りながら、ウィルは新薬を父に投与する。父の病は劇的に改善する。そしてシーザーは人間の赤ん坊よりもはるかに優れた知的能力を発揮していく。シーザーはしだいに成長し、家の中だけで飼育するのが困難になっていた。

 ところが父の病が突然進行する。新薬に対して抗体が出来、効果が減っていったのだ。以前に増して衰えていく父を救う為、ウィルは抗体を撃退するウイルスを取り込んだ、さらに強力な新薬の開発に着手する。

 そんな矢先ウィルの父が隣人と諍いを起こす。それを目撃したシーザーがウィルの父を救う為隣人を襲う。言い訳は通らず、シーザーは動物の施設に収容されてしまう。

 その施設というのが見た目は動物をきちんと管理しているように見えながら、実は・・・。

 ウィルの新薬が開発され、動物実験が開始される。新薬はガス状で、それを投与されたチンパンジーは驚異的な知的能力を発揮する。

 シーザーの成長、そして新薬の深刻な問題が、最後に人類に対しておそろしい事態を招いていくのだが・・・。

 舞台は霧のサンフランシスコ。ラスト近くのサルと人間の闘いはゴールデンゲートブリッジで行われる。サービス満点なのだ。

 知能と本能との葛藤についていささか安直な解釈が見られる。知能が発達すれば理性もそれにともなって発達する、というのは希望であって事実では無いのではないか、と思うのだがどうだろう。まあそんなことは物語を楽しむ為には必要ないことだが。

 ジョン・リスゴーという俳優は独特の風貌で、かなりエキセントリックな役もこなすし、好きだけど歳をとったなあ。我が身を振り返れば当たり前だけれど。

2014年1月21日 (火)

偏見?

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 韓国の朴槿恵大統領に覇気が全然感じられないように見える。姿勢もあまり良くないし、どこか体調に問題があるのではないかと思う、というのは私の偏見だろうか。

 一国の指導者というのはもっとエネルギッシュで脂ぎっているものだ、といったら時代錯誤だろうか。各国の代表になるような人はたいてい熱気があるものだ。それだけのパワーが無いとつとまらないような重責を担うのだから当然だろう。

 朴槿恵さんにそのような熱気が感じられないのは、自分の意図しないことを言ったり行動したりしなければならないからだ、というのはうがち過ぎだろうか。

 安重根の記念館がハルビンに建てられた。菅官房長官がテロリストの記念館を建てるというのはいかがなものか、と苦言を呈したら、韓国外交部が「日本を代表する官房長官ともあろうものが、このような歴史に対しての無知をさらけ出すというのは驚きだ」と批判した。

 安重根が日本の初代総理大臣を殺した暗殺者であることは紛れもない事実である。それをテロリスト、と言うことに何のおかしなことも無い。それに対するこの韓国の外交部の反応はいつもながら品のないものだ。外交には厳しい物言いの中にもいささかのリスペクトを相手に感じさせるものであるべきだろうと思うが。

 安重根の記念碑を建てるよう強く習近平に要請したのは朴槿恵大統領である。北朝鮮からテロリストが潜入して朴槿恵大統領を暗殺したら、北朝鮮は偉大なる首領様の為に正義の鉄槌を下した、と賛美するだろう。朴槿恵大統領の母親も父親もテロリストの凶弾に倒れたことを忘れたのか。

 彼女のたたずまいに覇気のなさを感じてしまうのは、そのような過去と未来に漂う陰が見えてしまうからだろうか。

池上彰「日本の決断」(角川oneテーマ21)

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 副題・あなたは何を選びますか?

 著者の後書きには「先送りできない日本」、「日本の選択」との三部作である、と書かれている。

 この本では海外の情報についてはあまり言及していない。採り上げられている問題は、東京オリンピック、アベノミクス、賃金格差、年金問題、憲法改正、日本の外交について、東京電力、エネルギー問題など。それぞれについて分かりやすく実態が提示されている。

 それをどう評価するのか、日本はどうなっていくのか、どうしたいのか、が読者の判断にゆだねられている。

 いつものように著者は誰かのようなご託宣は下さない。しかしいつもよりも自分の考えを色濃く表明しているような気がする。

 日本の決断は、副題のように、私が、そしてあなたが決断するものなのだ。

 本の内容とは別だが、今回、名護市長選に、米軍基地移転反対の稲嶺氏が当選した。基地が移転してくること、海を埋め立てることに賛成か反対か、という単純な質問をすれば、反対、の声が多くなるのは当たり前である。それでも4000票差であったということを大差ととるか僅差ととるか。私は僅差と見て、名護市民の良識を感じた。同じ結果を大差で勝利したと見て、同じように名護市民の良識を感じた人もいるだろう。

 どちらも沖縄県民であり、日本国民だ。さて私はどう決断しようか。

映画「逃走車」アメリカ・南アフリカ合作

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 監督ムクンダ・マイケル・デウィル、出演ポール・ウオーカー。

 南アフリカ出身の監督による南アフリカが舞台の映画だ。ストーリーの性格上、南アフリカの異質性といおうか、デインジャラスさが際だって感じられる。つまり街の人々の目がおっかないのだ。

 いきなりカーチェイスのシーンから始まる。追っているのは警察の車両だ。しばらくそれが続いた後、時間がさかのぼって・・・。

 初めてヨハネスブルグの空港に降り立った男(ポール・ウオーカー)は頼んでいたレンタカーが自分の依頼したものと違うことに気がつく。しかし手渡されたキーはその車のものに間違いない。レンタカー会社に連絡するがらちがあかない。

 仕方なくその車で目的地へ向かう。掛けている携帯の会話から、彼がある女性のもとへ向かおうとしていること、彼女は彼をなじり、すぐにでも自分のもとへ来ないなら絶縁だ、と強硬なことが分かる。ところが道路は渋滞し、地理もよく分からず、身動きがとれない。その時自分のものではない携帯の着信音が聞こえる。

 グローブボックスに入っていた携帯にはメールが着信しているが何のことか分からない。さらに座席の下にピストルが置いてあることにも気がつく。明らかにこの車はいわゆるヤバイ車らしい。しばらくすると再び自分のものではない携帯が鳴る。

 見知らぬ街でしだいに追いつめられていく男。しかもトランクを破って緊縛された女性が座席に出現する。彼女が語る話はとうてい彼の受け入れられる話ではないし、自分には差し迫った用事もあるのだ。

 しかし彼はついに彼女の頼みを受け入れざるを得ないことになる。そこから冒頭のシーンにつながる。孤立無援で絶体絶命に追い込まれた彼はどうするか。

 ポール・ウオーカーといえば、昨年11月に友人の運転する車が事故を起こして爆発炎上し、40歳という若さで死んでしまった。とても洒落ていて楽しい映画「ボビーZ」でのポール・ウオーカーを思い出した。

 緊張感が連続する。違法にいて不条理の状態に追いつめられる恐怖を少しダークな映像で強烈に感じさせてくれる。

2014年1月20日 (月)

映画「危険なメソッド」2011年イギリス・ドイツ・カナダ・スイス

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 監督デヴィッド・クローネンバーグ、出演マイケル・ファスベンダー、ヴィゴ・モーテンセン、キーラ・ナイトレイ、ヴァンサン・カッセル。

 この映画も大当たり。良い映画だった。クローネンバーグがユングとフロイトを描くというのも意外なようで、しかしこの人しか描けないものだと、見終わったら分かった。

 心理学と精神医学がまだ混沌としていた時代、リビドーという性衝動を無意識の原動力と捉えるフロイト(ヴィゴ・モーテンセン)の考え方が、ようやくそれなりに認識された頃、ユング(マイケル・ファスベンダー)という少壮の精神医学者が、その手法を応用してある女性患者の治療に当たる。

 ザビーナ(キーラ・ナイトレイ)という女性患者が病院に担ぎ込まれてくる。全身で拒否行動を行い、異常なその様相は鬼気迫る。そのザビーナとの対話を続けることで、彼女の心の病の原因をユングはしだいに明らかにしていく。それはザビーナ自身が自分自身を発見する心の旅でもあった。

 ザビーナの治療の成功が評判になり、かねてから会いたかったフロイトの元をユングは訪れる。そして延々と互いの意見を交わし、それぞれを啓発し合っていく。ユングにとってフロイトは、師であり父であり兄であり友人であった。

 ユングのもとにグロスという患者が送り込まれてくる。極めて知的でありながら自由奔放で傍若無人なこの患者にユングは振り回されながらしだいにその影響も受けていく。

 そのころザビーナは通常の社会生活が営めるようになり、もといた大学に戻って精神医学を専攻していくことになる。ユングは自立する女性となったザビーナから誘惑を受ける。もとより医者として踏み越えてはならない一線としてユングはそれを峻拒するのだが、グロスの影響からしだいに心がザビーナに傾いていく。

 ついにユングとザビーナは一線を越えて関係を持ってしまうのだが、ユングは愛する妻に対する裏切りから心の葛藤に追い込まれ、ザビーナと決別することを決心する。

 それに対するザビーナの行動がついにはフロイトにも伝わり、しだいにフロイトとユングの中に亀裂が入っていく。さらにユングが超心理学に傾注していく姿に、フロイトは科学の一線を越えてはいけない、と忠告するのだが。

 ついにフロイトとユングの仲は決定的になる。

 フロイト、ユング、ザビーナ、グロスのそれぞれの運命が最後にテロップの形でながされる。それは第一次世界大戦、ナチスの台頭、そして第二次世界大戦という時代だったのだ。

 キーラ・ナイトレイの熱演がすばらしい。またヴァンサン・カッセルの演じた、ニヒルな高等遊民のグロスという男の姿が強く印象に残った。この世の仕組みを全く無視して生きるこのような男にどう対応したら良いのだろう。それに悩むのはそのような生き方に多少なりとも心が動かされるからだろうか。

映画「捜査官X」2011年香港・中国合作

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 監督ピーチーター・チャン、出演ドニー・イェン、金城武、ジミー・ウォング。

 時は1917年、雲南省の小さな村に、強盗を繰り返して旅をするふたりの凶悪犯がやってくる。そして村に入るやいなや両替商を襲う。

 ところがこの殺人すら平然と行う強盗ふたりが謎の死を遂げるのだ。

 その謎を解く為に村に派遣されたのが捜査官(金城武)である。西洋的な捜査方法を身につけ、しかも漢方にも通じている彼は、事件のいきさつを村人たちに詳しく尋ね、事件を再現していく。やがてひとりの目立たない、静かなたたずまいの、ある男(ドニー・イェン)の意外な姿が浮かび上がってくる。

 その男が彼らふたりを斃したことがしだいに明らかになるのだが、彼は偶然そうなったのだ、と主張する。その男が望まないことであるが、村人は彼を、村を救った英雄としてたたえる。

 一応の捜査は終わったのに捜査官は村に居続ける。その男の謎に執拗に迫っていく。それには大きな理由があった。

 やがてその男のうわさが広まっていく。

 村に災悪が迫ってくる。

 主演のドニー・イェンは、水のように静かな、しかし実は最強の男、の役が多いしそれがよく似合う。あくまでクールなのだ。アンディ・ラウが内に火を秘めた静かな男の役が似合うのと対照的だ。

 金城武がこの映画では闘いが強くないのに平然と危険に身を投じる捜査官を演じている。弱いけれども決して臆病ではないのだ。そして真実を知ることに夢中になって周りが見えなくなってしまう。そして本来暴くべきではないものを暴いたことで災悪を引き寄せてしまう。

 災悪の主を演じるのがジミー・ウォング。タイトルバックを見なければ彼が演じているとは分からなかっただろう。あの往年のカンフー映画のトップスターが・・・と驚く。「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」のミッキー・ロークといまのミッキー・ロークを見て、同じ俳優だということが信じられるだろうか。

 原題は「武俠」、英題は「Dragon」。「捜査官X」とはなんたる題か。これでは客が入らない。面白い映画なのに。

2014年1月19日 (日)

映画「夜明けのガンマン」2012年カナダ

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 監督テリー・マイルズ、出演クリスチャン・スレイター、ジル・ヘネシー。

 リメイクだそうだが、この前が1935年、ジョン・ウエイン主演だというからオリジナルと言っていい。

 期待していなかったのにとても良い映画だった。期待していなかったのに良い映画だととてもうれしいものだ。

 主演のクリスチャン・スレイターを初めて見たのはショーン・コネリー主演の「薔薇の名前」だ。この映画は、私のベストテンに必ず入れたい(考えるたびにリストが変わるので)映画だ。ウンベルト・エーコの原作もすばらしい。ヨーロッパの中世というものの一端をリアルに映像化していた。

 ヒロインのジル・ヘネシーは倍賞千恵子に似ていてとてもチャーミング。西部劇の時代の、自立している女の魅力を感じさせてくれる。女が男を選ぶのだ。どうしてこの映画がすばらしいと思ったのか。それはハリウッド映画の女性蔑視がこの映画ではかけらも見られないからだ(カナダ映画だからか、監督がハリウッドの呪縛に縛られていないからか)。

 女が女であり、男が男であるかっこよさが全編にあふれ、自分の命より大事なものがあるのが当たり前である世界がそこにリアルに描かれている。

 そうして身を捨てたもののみが生き延びる、といううれしくなるような生き生きとした世界を見せてくれる。

富坂聡「中国の論点」(角川oneテーマ21)

Dsc_0004万博直前の上海

 テレビの中国に関するコメンテーターとしてたびたび登場するので著者の名前はたいていの人が知っているだろう。彼のコメントは、適確かつ高度な情報に裏打ちされていて、ほかの中国関連のコメンテーターのように感情的だったり偏ったりしていない。クールなのだ。

 この本では中国に関する一般の人が抱いている疑問について、Q&Aの形で答えているものだ。極めて基礎的なものからかなり高度な質問まで網羅されている。もし現在の中国について知りたいと思ったら入門書としては最適なものだと断言できる。

 特に優れている点は、中国の立場、考え方を冷静に捉えている点だ。日本のメディアが伝える中国というのがどれほどへんてこなものなのかを教えてくれる。確かに中国がおかしな物言いをしていることは間違いないことだ。しかしその部分だけ取り上げて、日本のマスコミが煽っている論調はあまり冷静なものではない。

 この本を読んだことで私も少し頭を冷やすことが出来た気がする。中国の、そして中国人のいいところと悪いところをあらためて知ることで日中関係を見直すきっかけになる考え方がこの本から得ることができる。

 いささかでも中国に関心のある人は一度是非呼んでいただきたいと思う。繰り返すが、いい本だと思う。

近藤大介「中国の常識は世界の非常識」(ベスト新書)

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 著者は講談社に入社、中国留学経験もあり、中国の講談社の責任者も務めている。中国通というよりも、中国を中側から見てきた。日本人が多く住むところでなく、日本人の全くいないマンションで暮らす。

 この本では彼が経験した中国の非常識さをこれでもか、とあげつらっている。よほど腹に据えかねたことが多いに違いない。

 この本を読んだら、なぜそれでも中国で生活し続けることが出来るのだろう、と不思議に思うくらいだ。

 けれど、多分彼は中国が心から好きなのだと思う。好きだからどうしてこんな中国なのだ、と腹を立てるのだろう。どうでもいいなら腹も立たないはずだ。

 この本には中国人のあまりの自分勝手さに絶句するような話が多いが、こういう事例は中国に限らず、海外で生活すれば多かれ少なかれ経験することでもあるのだと思う。それだけ日本が平和で人がいいとも言える。その代わりそれにつけ込むのも簡単だからこざかしい小悪党が多い。

 中国人が全てこんな理不尽な人ばかりだ、と言うことではない。それでは誰も中国人を相手にしなくなってしまう。日本人以上にお人好しも多いことは実際に中国の人に出会えば分かることだ。

 そのことはこのあとに読んだ富坂聡の「中国の論点」を読めば分かる。

銀閣寺寸景

昨年は銀閣寺の観音殿(銀閣)の工事をしていたはずだが、今回はその美しい姿を見ることが出来た。ぐるりと銀閣寺を廻ってちょっと良さそうな景色を(下手くそな)写真にしたのでご覧いただきたい。

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京都は寒いけれど、歩き回ったのであまり感じなかった。いつもならほかの所をもう一カ所くらい散策するのだが、今回はゆっくり東山界隈の冬だけを楽しんだ。

2014年1月18日 (土)

哲学の道

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永観堂から少し山側へ歩いて哲学の道を銀閣寺へ向かった。

道の途中で道端で毛繕いをしている猫に出会った。声を掛けたけれど無視された。私は猫派で、猫にはたいてい好かれるのだけれど・・・。

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若王子神社のそばに哲学の道、という石碑がある。ここが哲学の道、と呼ばれるのは哲学者の西田幾多郎が思索の為に良く散歩したから、というのは有名。

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このような道が1.8キロほど続く。桜が多いので春は人手が多い。しかし冬はほとんど人がいない。

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川沿いに椿(山茶花だろうか)の花が咲いている。

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こんな不思議な建物があることに今度初めて気がついた。中はどんな風になっているのだろう。

ゆっくりと30分ほど掛けて銀閣寺にいたる。

長谷川慶太郎「日本は史上最長の景気拡大に突入する」(PHP)

 円安、株高によりアベノミクスは成功しているように見える。日銀がいままでとは桁違いに巨額の金を市場に流し込んでいる効果が奏功しているということなのだが、それは同時に、国債の金利の急上昇による日本経済の破綻を招くかも知れない、という危険も無しとはしないという経済評論家もいる。

 リーマンショックの時に中国が50兆円ともいわれる資金を投入して中国経済を世界でいちばん早く回復させ、それが世界を立ち直らせたという事実がある。しかしその後遺症で中国はいま苦しんでいる。バブルが起きたのだ。そのため地方政府はいま借金返済に四苦八苦している。

 同じような事態が日本にも起きないとは限らない、というわけだ。

 しかし長谷川慶太郎は、アベノミクスは沈まない、と断言する。

 いつものように景気のいい話に終始しているので気持ちよく読めたのだが、目新しい話がいつもよりやや少ない気がした。

 日本が技術立国として今後も世界をリードしていけるのかどうかが鍵だといわれている。長谷川慶太郎は太鼓判を押しているけれどはたしてどうなのだろうか。

2014年1月17日 (金)

氷魚の若炊き

 友人と天王寺でいつものように楽しく飲んだ。何より気楽なのはお互いが何者であるかの名乗りをしないでも、よくわかり合えていることだ。これはとても大事なことだ。たくさん飲んでたくさんしゃべった。

 友人が土産に「氷魚の若炊き」というお土産をくれた。寝る前につまみにしてくれと言う。ピールとともにいま戴いている。山椒がよくきいていてとてもおいしい。一人で食べるのがもったいないけれど、もう別れたあとなので仕方がない。

 友人はは同年生まれだけれど仕事が好きだから65歳まで働くという。来年からはつきあってくれるという。でもお互いに何があるか分からない。もう一年待つしかないのか。待ち遠しすぎる。

 この小魚は何なのだろう。とてもおいしい。今日、湖西(湖西の風景はいいなあ)に行って買ったのだと言うから淡水魚なのだろうか。

 待ち遠しいけれど旅につきあってくれる友人が来年から一人増える。これほどうれしいことがあるだろうか。

永観堂

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南禅寺から永観堂へ向かう道で人力車に出会った。若い女性二人がおとなしく乗っていた。

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これも通り道で見かけた民家の門。苔が美しい。

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永観堂は紅葉がすばらしいお寺だ。以前紅葉の時期に少しだけ見たのだが、今回は中をじっくり拝観した。

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永観堂のシンボル、多宝塔。

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釈迦堂を上から見下ろす。

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開山堂。これが蔀戸か。

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撮影禁止なのに!ただしストロボは炊いていません。

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罰当たりなことです。

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この変わった灯籠はむかしの朝鮮のものらしい。まさかこれも盗まれたりしないだろうか。

永観堂を、時間を掛けてじっくり拝観した。拝観料600円は安いくらいだ。もっとたくさん写真を撮ったが切りがないので一部だけ。

このあと哲学の道へ向かう。

南禅寺

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三門。石川五右衛門が「絶景かな!」と見得を切った通称南禅寺山門。

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法堂前の線香を焚くところ。形がとてもいい。

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南天の実だと思う。色合いの少ない冬には赤が際立つ。

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法堂の横から三門を見る。軒に下がっているのは釣り灯籠でいいのだろうか。ものを本当に知らないので恥ずかしい。

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有名な南禅寺前の湯豆腐屋さん。寄りたい気もしたけれどまだ11時前で、お腹もすいていない。今度誰かと来たら絶対に入ろう。

 

朝名古屋を普通列車で発って、米原で乗り継ぎ、京都駅には10時過ぎに着いた。思ったより順調だったが、混んでいて米原までは立ち通しだった。

 

京都は平日なのに人が多い。バスでまず南禅寺に向かったが、いつも以上に道路は渋滞していた。

 

南禅寺を一回りしたあと、近くの永観堂へ向かった。

2014年1月16日 (木)

そうだ京都へ行こう

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 突然思い立って京都へ行くことにした。もなさんのブログを見て、冬の哲学の道を歩きたくなったのだ。冬の京都には行ったことがない。

 京都へはJR米原経由の普通列車で行く。新幹線よりだいぶ安い。どうせ時間はたっぷりあるのだ。本もゆっくり読める(多分座れたら寝ているだろうけれど)。

 夜は大阪の親友と天王寺で一杯やることにしている。そのまま大阪泊まり。元気が良ければ翌日奈良にでも行くけれど、天気もあまり良くなさそうだし、多分そのまま帰ってくることになるだろう。


ひまつぶしの独り言・つづき

 アメリカのアニメが日本の映画館で公開されることが少ない、と中国メディアが伝えていた。アメリカでヒットした作品でもせいぜいDVDで発売される程度のことが多いのは確かだ。WOWOWでそのような作品を見ることが出来る。画もとてもきれいだ。でもこの頃はほとんど見ない。正直面白くないのだ(アメリカンコミックのレベルは日本の漫画と比べるとかなり劣る。だからほとんど実写化されて脚本で肉付けして別のものになった状態でようやく見るに堪える。アメリカと日本のアニメの差は技術の問題もあるけれど、芸術性とも言えるキャラクターの深みの違いのような気がする。アメリカのアニメのキャラクターは精神的に薄っぺらいのだ。多分中国や韓国も同様だろう)。映画館で公開されないのはヒットしないと考えられているからだろう。中国みたいに国家から圧力が掛けられているからではないから、本当に面白ければ上映される。

 中国で、日中戦争時代に強制連行された中国人の被害者や遺族が日本企業を相手に損害賠償や謝罪を求める集団訴訟を起こす検討に入っているという。韓国の、法に基づかない裁判所の判決が行われているのを見て、中国でもこのような訴訟の動きとなったのだろう。韓国以上に中国の裁判所は法に基づいているとは言えないからどんなことになっていくのか予断を許さない。中国共産党も、訴訟を却下すれば国民に反感を持たれるし、有罪判決をすれば日本企業(ばかりではないだろう)の中国からの撤退を招くことになるから悩ましいところだ(と思いたい)。

 中国は昨年の共産党大会で一人っ子政策(こんなことをやっているのは多分中国だけだろう)の緩和を決めたが、それを受けて福建省でも緩和が実施されると報道された。夫婦の両方が一人っ子の時に限り、二人目を産むことが許される。この緩和策は各省に任されている。中国が一人っ子政策を始めたのは1979年、だからそれに若干のタイムラグがあったとしても今回緩和される女性は30歳を何歳か過ぎている人も多いことは間違いない。そうなると二人目が欲しいという女性が一斉に子供を作ることになるだろう。2015年からしばらく、中国の新生児の数は急増するわけだ。大ベビーブームの到来だ。

ひまつぶしの独り言

 中国の駐独大使が「なぜ日中は独仏のような関係になれないのか」と語り、その原因は日本側にあるとして安倍首相を批判した。それはそうだろう。日本がドイツのようではない以上に中国がフランスのようではないからだ。

 中国のネットユーザーが、「日本製品ボイコット」の効果が見られないのはなぜか?としてコメントを書いていた。自由貿易の国際社会で、中国政府が主導するわけには行かないから、と解析した後、日本製品ボイコットを叫んでいるのは自分のような貧困層で、もともと高くて日本製品が買えないから、という部分で笑わせてもらった。

 日米韓関係が微妙な状態になったのは、アメリカが日本を放任し、日本の右翼台頭を招いているからだ、と韓国の新聞が論評したという。確かにアメリカのオバマ政権はおかしい。腰の定まらない姿勢でアジアを、特に中国と韓国の言動を放任して極東アジアの関係を微妙な状態にしている。

 韓国の11月の失業率は2.9%、12月は3.0%だったと韓国国家統計局が発表した。韓国は円安ウオン高で苦しい、というニュースばかり目にしていたけれど、貿易額も順調に推移しているし、失業率もこれほど良好ならば、韓国経済が不安視される理由はないし、朴槿恵大統領も安泰だ。でも巷間伝えられている状況とあまりに違うような気もする。本当だろうか。

2014年1月15日 (水)

熱田神宮へお参り

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毎年1月15日には熱田神宮へお参りしている。今日はウイークデイだけれど参拝客が多い。

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名鉄神宮前から鳥居をくぐって参道を行く。初詣の頃には両側に露天がたくさん出るのだろうが、今日はほとんど無い。

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樹の間に椿の花が見える。

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手を洗い、口を漱いで清める。

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そばの大楠の樹は今年も元気だ。

さい銭を投じ、子供たちの無病息災と自分の健康を祈願した。

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おみくじも引かず、お守りも買わずに帰った。

会田雄次「ヨーロッパヒューマニズムの限界」(新潮社)

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 祖父に勧められて会田雄次の「アーロン収容所」を読んだのは高校生か、大学生の頃だった。その後、社会人になってすぐの頃に同じ著者のこの本を買って通読した。

 それを久しぶりに書棚から取り出して読み直した。まだ世の中のことがよく分かっていない若い時と、定年退職後の自分との変化を、同じ本を読むことで見直してみるのも面白いと思ったのだ。

 初版は昭和41年、そしてこの本は第八刷・昭和50年と奥付にある。

 表題のものを含めて8つの文章が収められている。書かれていることはいま読んでも少しも古くない。優れた文章は時間の経過で色褪せたりしないのだ。

 ヨーロッパヒューマニズムとは何か。そもそもヒューマニズムの限界とは何のことか。このことは、心ある人ならば、多くの人が内心で漠然と疑問に感じていることなのだが、このように、詳細にヒューマニズムというある価値観について検証されると、なるほど、と得心がいくのではないか。

 ある時代の共通認識をパラダイムという。そのひとつがヒューマニズムという概念だろう。それが絶対的な真理と信じているけれど、実はその思想は相対的なものでもあるということ、見方によればかなり偏ったものであることをこの本では明らかにしている。

 こちらに素養が足りないので若い時と同様浅読みしか出来なかった。でもこういう少し歯ごたえのある文章を時々読むのもボケ防止になる。 
  ちょうど同じころ小原信「状況倫理の可能性」(中央公論社)という本を買った(題が刺激的でよみたくなるでしょう)。これも隣に並んでいるので読もうかと思っているけれど、かなり中身が濃くて厚いのでいつ読み終わるか分からない。湯治にでも出かける時に持参しようかと思う。

 今日は1月15日、むかしは成人式で休日だった。この日は息子の誕生日でもある。名古屋に移り住んで30年、毎年欠かさずこの日に熱田神宮へ初詣に行く。今日もこれから出かけるつもりだ。

2014年1月14日 (火)

幻の大河 ホータン河

Dsc_0035ここは普段は砂漠

 日本の面積にほぼ匹敵する巨大なタクラマカン砂漠にホータン河という幻の大河が流れている。幻、と言われるのは、水が流れるのは5月から3ヶ月だけだからだ。

 

 崑崙山脈の雪解け水は普段は河床の下を伏流水として流れている。それが5月頃に気温が上がるとともに水量が増え、砂漠を流れる大河となるのだ。

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 崑崙山脈の麓にホータンという街がある。ここは古来玉(ぎょく)の山地である。そのホータンから北上し、1000キロ以上流れてタリム河に流れは合流する。

Dsc_0039玉の採掘

 この様子を撮影したNHKの番組を見た。2002年の放送だったらしいがNHKBSアーカイブスで再放送したのだ。ゲストはあのカヌーイスト、野田知佑である。

 突然砂漠に川が流れ出す。そして乾ききった大地を潤し、周辺の農地に水が入る。農作物以上に農民たちの顔が生気を取り戻す。

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 水がどれほど貴重なものであるのか、あらためて実感する。

知覚過敏

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 歯の治療に行った。セメントで仮に固めていたところにちゃんとかぶせものをしてもらった。痛かった元凶はこれで当分大丈夫、ということだった。

 しかし「○○さんは噛む力がとても強いので歯がすり減っています」と歯医者に言われる。「良く言われます」と答える。

 いくつかの歯が半分くらいにすり減って、神経に近くなっているので知覚過敏になっているのだそうだ。特にすり減っている歯に応急処置としてコーティングをしてもらった。これ以上ひどくなったら本格的な治療をしましょう、ということで、これからは様子見に月に一回行けば良いそうだ。

 歯が丈夫で長命だった父に、「歯は大事だぞ」と言われていた。ほんとにその通りだ。これで夏みかんを食べても歯にしみなくなっただろうか。ホルモンをかみ砕けるだろうか。

 歯は本当に大事だ。

シャングリラ旧市街の大火事

11032_30麗江古城の夜。

 1月12日、中国雲南省・シャングリラの旧市街で大火事があり、242棟が焼失した。新華社は「有史以来、最も深刻な火災だ」と報じた。

 思い出すのは同じ雲南省の麗江古城だ。1996年の雲南大地震で多くの建物が倒壊し、その後大火によってほとんどが失われてしまった。その後、旧のとおりに再建されているものの、ほとんどがお土産屋になってしまった。

11031_582麗江古城の中心部。焼け残った場所と思われる。

 今回火事で失われた旧市街は「独克宗古城」といわれ、約1300年前の唐の時代に建てられたものだという。

 三年ほど前に麗江古城に三泊し、シャングリラとは長江を挟んで対岸の虎跳峡に行った。その時、いつかはシャングリラにも行きたい、と思っていたのに残念なことだ。

 ご存知かと思うがシャングリラと言えばイギリスの作家が描いた理想郷のことだ。それにたとえられて、村の名前をその名に改名までして、いまは観光地となったが、つい最近まではチベット系の住民が多く住む秘境であった。シャングリラも昆明から麗江を通ってチベットまでの高速道路を建設中で、遠からず開けてしまって良いところが失われてしまうことだろうと危惧していた。

 それがその前に火事で失われてしまったというのはまことに残念なことだ。多分旧の通りに復元されることだろうけれど似て非なるものしか出来ないことは間違いない。

11032_19麗江古城の夜。こうした土産物店が延べ2キロ以上ひしめいている。






佐伯泰英「空蟬ノ念」(双葉文庫)

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 居眠り磐音シリーズ第45巻。

 この世の春を謳歌していた田沼意次、意知親子が凋落したのは、佐野善左衛門が田沼意知を殺害したことによることは史実である。

 この物語でも、伏線として佐野善左衛門の姿が見え隠れしていたが、この巻ではかなり頻繁に現れ、白河公こと松平定信の屋敷にかくまわれることになる。大団円への布石が打たれているわけだ。

 今回は坂崎磐音の直新影流と同門の老剣客・肱砕き新三と異名をとったという川股新三郎と磐音の闘いがクライマックスとなる。

 しかしほとんどは辰平と福岡の豪商の三女、お杏との再会とその行く末の話に終始する。小梅村の尚武館での和やかな日々とそれに集う旧知の人々の心温まる交流が嵐の前の静けさを予感させる。

 主人公磐音のひろびろとした心が不思議な人々を巡り合わせ、こうして胸がほっくりする様な人間関係を作り上げてきたのだ。そしてそれはそのまま坂崎磐音という人物の成長物語でもあり、彼に寄り添うおこんの成長物語でもある。

 いささか立派な人物になりすぎたところがあるけれど、これも物語の終わりに向けての完成の姿ということなのだろう。

2014年1月13日 (月)

素養の問題か?

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 野田元首相が毎日新聞のインタビューの中で、名指しは避けながらも韓国の朴槿恵大統領の告げ口外交を「女学生のようだ」と語った。

 これを韓国政府が問題視して「隣国の首脳をおとしめる素養のない表現だ」と非難した。「女学生のような」という表現は女性をおとしめる表現であり、このようないい加減な物言いは人を傷つけ、二国間関係を損ねる、のだそうだ。

 野田佳彦という人に素養があるのかどうかについては、多少韓国側の言い分にうなずきたい気持ちも無いことはないが、朴槿恵大統領が、安倍首相と日本非難を各国の首脳に対して行っている様子は、一国の代表にはあるまじき異常なことに見える。

 これは国際的に見ればマナーに反する非礼なことであり、各国で顰蹙を買っていると思われる。だとすれば、彼女は結果的に韓国をおとしめていると言えるのではないか。

 日本が極悪非道だから、日本の悪口はいくら言っても良くて、日本がそれを揶揄したら他国の元首をおとしめた、と非難するというのは随分自分勝手だと思うけれども、そんなことも分からないのだろうか。それとも、とにかくそう言わなければ政権が持たないのだとすればまことに惨めなことで哀れだ。

 二国間関係を損ねている、などと言うけれど、歴代大統領が控えていた竹島訪問を李明博前大統領が強行したり、天皇がもし韓国に来たいというのなら韓国民に謝罪しろ、などと強がりを言って両国の関係を険悪にしたのはどちらだったのか。

 そもそも天皇陛下が韓国を訪問する話も無く、行きたいと言う意向も全く無いのに、さもそんな話があったかの様に言うというのは、鳩山(宇宙人)元首相の一連の言動と同様、国の代表としてあるまじきことで、そもそも人間としてもまともではない。

 それをきっかけに、せっかく韓流ブームなどで両国の関係が戦後最も友好的になっていたところをぶちこわしてしまった。多分今となっては韓国国民の反日よりも日本人の反韓感情の方が遙かに強いのではないか。

 友好の流れを改善するどころか、ますますこじれさせておいて、全ては日本が悪い、と言い張るのはどう見ても理不尽だ(だから日本人が反韓感情を強めてしまう)。それに韓国の一連の行動によって日本が被った被害(韓国と一緒に国際的な評価の低下、つまり信用が損なわれたのだ)は甚大である。

 韓国は中国べったりの政策をさらに進める意向の様だが、それはつまり中華帝国の冊封国に自ら身を投ずるつもりなのだろう。チベットに続いて朝鮮半島も中国領になろうとでもいうのか。どおりで言っていることがそっくりだ。

 中国経済に影が差している。もし中国が不調になれば韓国はたちどころに困る。その時に助けられるのは日本だけだが、今のままでは国民感情として韓国支援は反対されるかも知れない。

 そんなことはあり得ないと思っているのだろうが、そういう事態を期待している日本人が増えているぞ。こういう想像力は素養とは別のもの(呪い)なのだ。

 ・・・・申し訳ない、つい書きすぎてしまった。素養がないもので・・・。

北京の観光客減少

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 北京市観光発展委員会の発表によると、昨年1~11月に中国本土以外から北京を訪れた観光客は前年同期と比べて10.3%も減少して、約420万人だった。

 特に日本からの観光客は44.8%も減少し23万人だった。また、韓国、ロシア、フランスなども二桁減少したという。

 深刻な大気汚染が敬遠されたのが理由とみられると解析しているが、日本については日中関係の悪化が大きな理由だろう。この辺は誰でも納得するところだ。

 ところで私が不思議なのはそれでもまだ420万人もの観光客が北京を訪問していることであり、日本から23万人も出かける人がいることだ。たびたび言及しているが、私がよく中国訪問で利用するJTBでは名古屋からの中国向けツアーのカタログがほとんど店頭から消えてしまった。ほかの旅行会社もほとんど同様である。

 大気汚染と渋滞など、あまりいい思い出を持ち帰れない観光客の口コミによって、2014年はさらに観光客が減ることだろう。

 日本には多分定年になったら中国に行きたい、と言う人はたくさんいたし、いまもいるはずだけれど残念なことだ。

風が冷たく波が高い

知多半島へドライブに出かけた。

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むかしよく釣りに出かけた小さな漁港の堤防から野間灯台を遠望。風が強くて冷たい。

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知多半島の先端に近い豊浜の旧漁港。風が強いせいか船は港に繋留されている。

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ここも時々堤防釣りをしたところ。春になれば竿が並ぶけれど、今日はさすがに誰もいない。

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おじさんが開いた魚を干していた。本物の天日干しだ。

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港に隣接している魚広場に立ち寄る。屋根の上に乗っている金魚みたいな鯛の張りぼてが目印だ。駐車場はほぼ満杯。

結局エビせんべいみたいなのとブリのアラ(頭の二つ割りが二組とぶつ切りの骨などで300円)を購入した。大根を買って味噌で炊きあげてみようと思う。

やはり外出をすると気分がすっきりする。遠出をしたいが、明日の歯の治療の具合による。

それと2月1日は新酒の試飲会(いわゆる蔵開き)だ。それが済んだら思い切って少し遠出をしようか。北関東か東北か。予定を考えるとわくわくする。都合が合えば桐生の周恩来先生にも会いたいし。

佐伯泰英「湯島の罠」(双葉文庫)

06082930_016知多の、ある漁港にて。

 居眠り磐音シリーズの第44巻。久しぶりの刊行だ。今回は続けて第五巻も刊行された。

 今日は知多であけぼのを見ようと思っていたが、この二冊を夢中で読んでしまい、寝るのを忘れていた。いま出かけるかどうか迷っている。出かけたくなったら出かけるだけだ、と思って朝の支度をした。

 巻末の著者のコメントによれば、当初からこのシリーズを50巻で完結させるつもりだった様だ。そのつもりで振り替えればそれに合わせた物語展開に調整している様に思える。

 この物語では、女忍者の霧子がようやく身体も癒えて現役復帰する。利次郎との仲もさらに進展、利次郎の仕官の話も進み、所帯を持つこともかないそうだが、田沼意次、意知親子からの不当な圧力は相変わらずであり、利次郎はそれが解決するまでは仕官を延ばすつもりである。

 解決とは対決しかないと覚悟はしているが、もし対決に勝利しても、関係者一同は断罪されることになってしまうことを尚武館の一同は承知していた。

 利次郎のライバルであり、親友の辰平は利次郎の幸せを心から喜ぶが、寂しさが無いこともない。その心の隙を突かれて奸計に嵌まってしまう。これが「湯島の罠」という表題のゆえんだ。

 権力者による卑劣な行為に磐音の剣が振るわれる。

 自分が女忍者が似合う女優が好みであることに気がついた。もしかすると多くの男がそうかも知れない。

 ところで女忍者が似合う女優と似合わない女優がいると思う。あまり大柄な女性や太った女性は女忍者に似合わない。天海祐希、和田アキ子や渡辺えり子は無理だろう。暗闇の隅に潜むことが出来にくい。想像すると笑える。ストイックでかわいげのある女性は男にとって好ましいからだろうか。フェミニストから石が飛んできそうだ。


2014年1月12日 (日)

いい加減

06082930_004知多半島。チッタランド。

 いい加減、というのはあまりいい意味で使われないけれど、世の中にはきっちりと境目がつかないこと、白黒をつけない方がいいことの方が多いから、いい加減でいいのだ、と思う気持ちが必要だ。

 自治会の会合で、正論を滔々と述べる人がいることを以前にも書いた。今回も、いい加減でいいではないか、と思う様な、わずかなことに拘泥して役員と果てしないやりとりをする人がいて、だいぶ長くなってしまった。仕舞いにはそれにうんざりした別の人から「いい加減にしろ!」との声が飛び、お開きになった。

 正論には論で応えてはきりがないらしい。この「いい加減にしろ!」の声は絶妙だった。

 早めに終わったら知多半島にでもドライブに出かけて魚でも買って帰って鍋でもしようと思ったけれど、明日にすることにした。明日も天気が持てばいいけれど。

06082930_008知多魚広場。昔より鮮魚を売る店が減って乾物が多くなった。


日下公人「日本と世界はこうなる」(WAC)

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 本日は自治会の会合の日。今回と来月の会合で来年度の役員を決めなければならない。なり手が少ないから長引くことが予想される。気が重い。

 座椅子に座って映画を見続け、本を読み続けてほとんど運動をしないでいたら腰が痛くなってしまった。立ち居振る舞いが80過ぎのじいさんになっている。その上歯が痛んでいる。先日仮の治療をした歯と別のところがうずいている。ううっ、つらい。

 さて表題の本の話。

「日下公人が読む2014年~」というのが副題だ。

 中国が分解する、アメリカが自信喪失して迷走する、欧米をはじめ世界で人種問題が再燃する、EUは衰退する、などいくつかのご託宣が書かれている。その根拠は自明のこととしてあまり詳しく語られていないので、ははーっ、ととりあえずその予言を拝読した。

 書かれていることが短期的な予測と中長期的な予想が区別なく並べられている(短期か長期かについては言及がないことはないが流し読みすると混乱する)ので、浅読み名人の私は今年中にも世界が激変する様な気になる。

 著者は、細部を見過ぎると全体が見えない、と言って世界のいろいろな徴候を全て噛み砕いて、そこから予想をはき出して見せてくれているらしい。でも根拠となる細部をうまく整理して提示し、そこから予想の裏付けをしてくれる方がありがたいところだ。

 読者にも考える余地というのを残してもらわなければ。

 ただし、この人の視点は面白いところがあるので参考にならないことはない。

2014年1月11日 (土)

映画「ダイ・ハード ラスト・デイ」2013年アメリカ、ハンガリー

 監督ジョン・ムーア、出演ブルース・ウィリス、ジェイ・コートニー。
 
 シリーズ久方の第五作である。

 マクレーン(ブルース・ウィリス)が息子を訪ねてモスクワへ行き、はちゃめちゃな行動をする。映画とはいえ、そのむちゃくちゃさは想像を絶する。

 マクレーンに娘がいることは承知していたが、息子がいるとは知らなかった。その息子ジャック(ジェイ・コートニー)がロシアで刑務所に入れられ、裁判を受けるというのでモスクワへやってきたのだ。

 その裁判が開廷される直前、裁判所が襲撃される。かろうじて脱出したジャックをマクレーンが追う。ジャックはある男を救出していたのだが、そもそも逮捕されたのは、その男・コマロフを脱出させる為であったことが後で分かる。

 裁判所を襲わせ、コマロフの身柄を確保しようと彼らを追わせたのはコマロフの政敵であるチャガーリンという大物政治家であった。

 圧倒的な人数と火器で襲ってくる敵との戦いがノンストップで続く。もう理屈も辻褄も関係ないのだ。

 まあただ楽しむと云うだけなら文句なしに面白い。これもエンターテインメントの極致なのだろう。

内田百閒「凸凹道」(旺文社文庫)

 旺文社文庫版の内田百閒全集第9巻にあたる。この巻は小文集である(この人の文章はたいてい短いけれど)。

 その味わいを伝えるために表題の「凸凹道」という短文を紹介します。

    凸凹道

 子供の時からの友達のうちで死んだ者を思ひ出して見ると、五指を屈した後からまだあれもあれもと思ひ浮かぶのがある。私ぐらゐの年配になると、何人(だれ)でも昔の交友を追懐すればさうなのかも知れないのかとも思ふけれど、そんな筈はない様な気もする。

 林憲一は小学校からの友達で、中学も一しよで、同時に卒業して岡山の第六高等学校に同期に入学することが出来た。お父さんが裁判官だつたので、岡山から水戸に転任した。高等学校一年生の春休みに、林は父の家に帰省する為水戸に行ったきりで帰つて来なかつた。

 何病でそんなに急に死んでしまつたのか、知らせを聞いても、ぼんやりした感銘しか起こらなかつた。あんまりはつきりしたことを聞き度くないような心残りが、私の当時の感傷し易い心の上つつらに薄皮を張つてゐたからである。

 午後七時二十二分岡山驛を発車する第六列車が、当時は下之關から新橋に直行するただ一本の上り急行であつた。林はそれに乗つて水戸にたつ事になつてゐたので、私は自転車に乗つて岡山驛に見送りに出かけたところが、夕闇にともした提燈が、驛の近くに来た時、道の凸凹に車輪がをどつた拍子にふつと消えてしまつた。それで自転車を降りて、ハンドルを持つて歩きながら、時間を気にして急いでゐると、道の曲がる突き当たりの交番から巡査がつかつかと出てきて、こらつと云つた。

「なぜ無燈で自転車に乗るか」
「乗つて居りません」
「嘘をつくな。無燈で乗つて来て、交番の近くで降りても駄目だぞ」
「提燈が消えたから降りました」
「消えたら何故ともさぬか」
「燐寸を持つてゐなかつたので、それから歩いて来ました」
「嘘をつけ。さういふ怪しからん奴が多いので困る。一寸こつちへ這入れ」
「提燈はたつた今消えたばかりです。汽車の見送りに行くのですから、どうか通してください」
「今消えたと云ふ証拠があるか」
「提燈にさはつて見て下さい。まだ温かいでせう」

 お巡りさんは提燈を撫でて見て、それから中の蝋燭ものぞいて見た。納得が行つた様子である。それで私はもういいのかと思つてゐると、もつとこつちへ来いと云つて、燈の下に行つて手帳を出して、私の所と名前を書きとめたりした。そんなに時間がかかつたとも思わなかつたが、それから驛にかけつけたら、丁度急行が発車したところで、もう改札口は通してくれなかつた。改札の柵にのり出す様にして見ると、歩廊の外れを離れたばかりの所に、最後部の赤い信号燈がゆれて、段段に遠ざかって行つた。その先にある機関車庫の辺りに、白い煙の塊が、荒い陰を重ねて崩れかけてゐるのが、電燈の光でありありと見えた。

 林とは子供の時からの随分長い友達だつたから、その時の袂別を妨げた凸凹道のいきさつを、今でも思ひ出す。


 どうですか。去って行く列車の赤い燈が目に見えるようではないですか。別れを告げる事が出来ず、それが永久の別れになってしまった、この何とも言えず、心に収まりのつかない気分にさせるのが内田百閒の文章の特徴です。

座頭市シリーズを見終わる

 昨年暮れから座頭市シリーズの映画を見てきた。第1作の「座頭市物語」(1962年)から始まって第26作の「 座頭市(1989年版)」まで、ついに全てを見終わった。

 第1作がヒットしたので続編が作られ、毎年ほぼ2~3作り続けられて、第25作の「新座頭市物語 笠間の血祭り」(1973年)まで続いたが、ここで打ち止め。第26作は間を16年あけてから作られた。勝新太郎主演の映画の座頭市はこれで全てである。

 ほかにビートたけしの座頭市や香取慎吾の座頭市、変わったところでは綾瀬はるかの女座頭市もあるが、これらは別物だ。

 駄作もあり、また優れた作品もあった。脚本や監督が替わる毎に座頭市という人物のキャラクターが変わる。映画会社も大映から東宝に、最後の1作はなんと松竹だ。

 映画の値打ちを決めているのは脚本と演出だけれど、ヒロインと敵役も大きく関係している。

 主なヒロインをあげると、万里昌代、水谷八重子、坪内ミキ子、高田美和、藤村志保、久保菜穂子、高千穂ひづる、小川真由美、安田道代(大楠道代)、朝丘雪路、野川由美子、三田佳子、若尾文子、大原麗子、浜木綿子、太地喜和子、十朱幸代、樋口可南子。

 多くの作品がそのヒロインの手を振り払って、座頭市は満身創痍で去って行く。座頭市は旅から旅へさすらうことを自らの宿命としており、一カ所に定住できないのだ。これはある意味でフーテンの寅さんの物語でもある。

 悪を斃してヒーローになった寅さんをその地が受け入れてくれるかも知れないが、そのあとに続く平凡な日常を座頭市が暮らせるとは思えない。誰よりもそれを知っているのは座頭市だ。女にはそれが分かっているようで本当のところは分からないのかも知れない。多分半年もすればただの思い出となるだろう。

 敵役で記憶に残るのは、天知茂、若山富三郎、平幹二朗、成田三樹夫、三國連太郎、三船敏郎、仲代達矢、森雅之、岡田英司、緒形拳など。特に三國連太郎、森雅之、岡田英司が強烈な印象を残した。名優は悪役もすばらしい。

 いろもの、と言っては言い過ぎだが、ファンサービスのつもりなのかストーリーに無理矢理入れてある出演者もある。歌手や漫才師、喜劇役者などだ。ほとんどが私の趣味と合わない。たいてい場違いなのだ。

 たとえば、水前寺清子、中尾ミエ、小林幸子、藤田まこと、藤山寛美など。この中で小林幸子だけは例外的に違和感なく映画に溶け込めていた。最も違和感があったのは藤山寛美。生まれも育ちも銚子が故郷だという設定なのに関西弁というわけの分からない人物だ。この人、任侠映画などにも時々出ていたけれど、映画ではたいてい浮いてしまっていて全体をぶちこわすことが多い。舞台以外は見るところがない。ほかにも歌手がでていたけれど思い出せない。突然現代風の歌を歌われたりして時代劇モードのこちらがびっくりする。
 
 悪役(敵役とは違う)の悪辣さがどんどんエスカレートしていく。女子供まで残虐に殺されたりして救いがない作品もある。座頭市が仕込み杖を抜くための必要な状況設定にしても、無意味な殺戮がどんどん過剰になっていく。

 多分それがこのシリーズが飽きられた大きな理由ではないか。

 単純な勧善懲悪で良いのだ。マンネリで良いのだ。それを脱しようとしたために、居合いの殺陣は格段に技巧化していっても喝采は失われていったのではないか。

 後半のシリーズの製作は勝プロダクションが多い。しかも監督も勝新太郎。それまでの監督によるキャラクターのブレに焦れたのだろうか。年齢とともに独りよがりになっていったように思うが、酷評に過ぎるだろうか。

2014年1月10日 (金)

森本哲郎先生の死

 文明論で知られる森本哲郎が1月5日に死去していたことを先ほど知った。私の母と同年の1925年生まれだから88歳であるアナウンサーの森本毅郎は年の離れた弟。

 森本哲郎は東大の哲学科を卒業、その後大学院に進学して在学中に東京新聞に入社、収支として卒業後朝日新聞に移籍、長く在籍した。

 略歴はともかく、この人は私が(勝手に)人生の師と思った最初の人である。初めてその文章に出会ったのは、朝日新聞の元旦の全面に亘る写真入りのやや長文のコラムだった。

 写真は沖縄の女性が踊っている姿である。地味な衣装に裾が少しひるがえって真っ赤な裏地がちらりと覗いているものだ。この写真を手がかりに沖縄の歴史、沖縄の静かな踊りの中に秘められた沖縄の文化が語られ、そして現代の日本の文化との比較、そして戦後失われたもの、さらに現代文明と人の情との関わりが心にしみるように語られた文章だった。

 生まれて初めてというほど心に衝撃を受けた。世界が違って見えた。しばらくして本屋の棚でこの人の著作を発見した。

 「生きがいへの旅」というその本はいまでも私の最も愛する本である。

 25歳くらいだった私は、その頃仕事に迷いが生じて自信を喪失していた。そのまま仕事を続けるかどうか悩んでいた。不思議なことに、そんなときに珍しく女性に縁があったりしてワケが分からない状態になり、深酒におぼれたりしていた。

 それを救ってくれたのはこの「生きがいへの旅」という本だった。人間の生きがいとは何か。ベトナムの(この本が出版されたのは1970年、まだベトナム戦争は終結していなかった)、明日の生死も分からない中で暮らしている人々の生き生きとした姿と、北欧の、生活保護が充実して何不自由もない老人が何もすることが無く、自殺が多発している姿を比較するところから書き出されている。

 この本から学んだことはいくつかあるが、特に「人はそれぞれ違うのだ」という当たり前のことが分かった。当たり前のことを本当に解る、ということどういうことかを知った。知っていることと解る、と言うことが違うことが解った。

 そして自分がいかに何も知らないか、ということも分かった。

 ソクラテスにはもちろんはるかに及ばないが、何かが解る、ということには無限の階梯があることが解ったのは震えるほどの喜びであった。

 そこから一歩も前進していないのは残念だが、認識世界の薄皮一枚くらいはめくったような気がしている。

 そのきっかけを与えてくれたのが森本哲郎先生である。

 その後彼の本を見つけるたびに購入して読んでいるのでいまは50冊をくだらない。しかも読んでいない本はなく、何度も読んだ本も多い。彼の全集も持っているが残念ながら欠番がある。

 追悼の意味でもう一度何冊か読み直そうと思っている。

森山康平「はじめてのノモンハン事件」(PHP新書)

 ノモンハン事件については、その名前と事件の内容をほんのわずか知っているだけだった。日中戦争から第二次世界大戦への流れの中で重要な事件であることを承知していたので、一度この事件については詳しいものを読んでおきたいと思っていた。関東軍の性格のようなもの、ここに日本の軍部、特に陸軍というものの異様さを知ることが出来るだろうと考えた。

 この本は多分ノモンハン事件について書かれた最新の本だろう(2012年出版)。

 ノモンハン事件とは何か。満州国とモンゴル国との国境紛争に端を発した事実上の日本とソ連との戦争だった。ソ連は近代兵器と物量をふんだんに投入し、それに対して日本は物資も弾薬も不十分のまま戦いに臨んだ。最も大きな違いは戦車の違いだったと言われているが、それだけではなく、兵器の能力はもちろんその配備数に大きな差があった。

 日本側の部隊の多くは兵士の損耗率(死傷者の割合)が70%前後と言う。ほとんど全滅と言って良い。日本側戦死・行方不明者8741人、戦傷者8664人、戦病死2263人。

 ノモンハン事件は1939年(昭和14年)五月から八月にかけて行われた戦争である。当初派手な戦果報告が連日のように新聞紙上に報道された(軍部の発表をそのまま掲載したのだ)。しかしソ連軍が大攻勢を駈けた八月頃からは報道は全く途絶えてしまった。国民は勝った情報のみを知らされ、最後がどうなったか全く知ることが出来なかった。壊滅的な結果は隠蔽されたのだ。

 結果が隠蔽されればその責任は厳しく問われない。

 弾が尽き、銃剣の剣尖しか残らない状態となった部隊をソ連軍の大砲や機関銃が襲う。本部と連絡の取れない部隊長は自分の決断で退却を決断する。それが生き残った兵士たちの姿であった。

 戦いが終わったあと、その部隊長たちはほとんど自決を強要された。退却命令を受けていないのに退却をしたことを命令違反としたのだ。また負傷してやむなく捕虜になった兵士にも終戦後帰隊したあとに過酷な運命が待っていた。全員収容所に収容され、下士官以上のものは自決を強要された。

 こうして太平洋戦争での日本軍兵士の悲惨な事態を予兆させるノモンハン事件は隠蔽された。

 あろうことかこの事態を招いたトップたちは再び太平洋戦争で指揮を執り、無意味な戦死者を大量に生み出すことになった。しかも彼らは自決すらせず、戦後も生き残り、このノモンハン事件について自分に都合の良い文章を残しさえしている(辻政信「ノモンハン」)。

 この責任をとらずにうやむやにするという日本の組織の体質はこうして継承され、日本の官僚に残された、と著者は最後に記している。特に東日本大震災により発生した福島第一原発の事故に対する日本政府、東京電力、電力業界についてそれを強く感じたことが記されている。

2014年1月 9日 (木)

中国とは無関係か

 アクリフーズの農薬入り冷凍食品のニュースが中国でも報道されている。

 これに対するネットでの書き込みを見ると、有毒物を食品に入れるのは中国だけでは無いことを喜んでいるように思える。毒餃子事件は日本で思う以上に中国人にとって深い心の傷だったようだ。

 中には「中国とは無関係だよね」と念を押すものもあった。今のところ人為的なものである疑いが強く、そうだとすると犯人がいるはずで、その捜査段階だが、犯人が中国人である可能性が無いわけではない。

 しかし中国人ではないとしても、その犯人が毒餃子事件を模倣したことは明白だろう。だから中国人が犯人であろうかどうかに関係なく、中国と関係が無いとは言えないわけである。

 ところでサンフランシスコの中国領事館放火事件の容疑者が明らかになった。アメリカの永住権を持つ中国籍の男性が警察当局に出頭してきたのだという。

 一時、領事館近くに日本人街があるので、中国では日本人がやったのではないか、と言う憶測も流れた。この容疑者がどういう意図で犯行に及んだかはまだ明らかではないが、日本人ではなかったことにほっとしないことはない。どこにもおかしな人間はいるものだから。

 これについてもいろいろな憶測が流れているようだが、中国人にとっては口惜しいことであろう。

日本が怖いのか?

 中国・人民日報が、安倍首相の靖国参拝について、東南アジア諸国が眼だった反応を示していないことを非難した。第二次世界大戦であれほど日本から被害を受けたのになぜ黙っているのか、それほど日本が怖いのか、と憤りをあらわにしている。

 東南アジア諸国は別に安倍首相が靖国参拝をしたからと言って、何も騒ぐほどのことではないと思っているから何も言わないのだと思う。

 異常な反日教育など受けていない国々だから言うことなどないだけで、日本を恐れているわけではないし、恐れる理由もない。

 欧米にしても中国や韓国が騒ぐことで極東の緊張が高まることをおもんぱかって靖国参拝を批判した、と言うことだろう。別に日本が第二次世界大戦前のような軍事国家になるなどと本気で思っている国など無い。

 現実の日本を見ずに、自らの反日教育が生み出した極右国家日本という幻影を恐れているのは中国、韓国、北朝鮮だけではないか。ただ、中国の場合はその幻影を利用しているだけとも言えるが。

 

2014年1月 8日 (水)

映画「PARKER/パーカー」2013年アメリカ

 監督テイラー・ハックフォード、出演ジェイソン・ステイサム、ジェニファー・ロペス、ニック・ノルティ。

 原作はリチァード・スターク(ドナルド・E・ウェストレイク)の悪党パーカーシリーズの一つ、「地獄の分け前」だ。このシリーズはアメリカで人気で、日本でも何作か翻訳されている。私もいくつか読んだが実に痛快な物語が多く、現代風のハードボイルドと言ったところか。

 ところで最近映画の題名に英語とカタカナを併記するものが目につく。英語表記の文字が読めない人がいることを心配してくれているのだろうか。こういう無意味なことが無性に腹が立つ。

 先日の日本映画「天使の牙B.T.A.」のあまりの出来の悪さに辟易したので、口直しにこの映画を見たのだが、期待通りであった。ジェイソン・ステイサムの出る映画には変な映画(たとえば「アドレナリン」)もあるけれどそれも含めてどれも満足できる。つい先日見た「SAFE/セイフ」(これも二重併記だった)もとても楽しめた。

 主人公のパーカー(ジェイソン・ステイサム)は悪党だが、善良な人の金は奪わない、悪者しか殺さない、仕事は完璧にこなし、やりたい仕事しかしないのが主義だ。そのパーカーが行きがかりから馬の合わない仲間たちと仕事をすることになり、仕事は何とか成功するものの仲間割れとなって、パーカーは撃たれて瀕死の重傷を負う。

 運良く助けられたパーカーは、かつぎ込まれた病院から脱出、満身創痍のまま分け前分の取り立てに自分を裏切った仲間を追う。

 たまたまその仲間のひとりが暗黒街の大物の甥であることからパーカーとその知人たちに凄腕の暗殺者が向けられる。

 裏切り者たちを追う様子と暗殺者との死闘、そして彼なりのけじめの付け方がハイテンポで描かれていく。

 やはりエンターテインメントというのはこうでなくてはならない。原作もすばらしいけれど、原作以上に面白い。

自然災害

 中国政府は2013年に発生した自然災害による被害をまとめ、発表した。
 
 自然災害で死亡した人数は1851人、行方不明者433人で、その多くは四月の四川省の地震と7月の甘粛省の地震によるものだった。

 ところで問題は、中国で頻発して深刻な問題になっている有毒物質を多量に含んだ濃霧を「自然災害」と正式に認定したことだ。

 自然災害なら誰にも責任がないということか。

 日本は大気汚染を公害とした。つまり人災として認定して対策を講じた。それでも現在のようになるまでには長い時間と犠牲が必要だった。

 それが「自然災害」ということになるとどれほど対策が不十分になることか。そういえば福島第一原発の事故も「自然災害」によるものらしい。それなら誰にも責任を問えないからといって誰も責任をとらずに済ましてしまった。自然災害に対する対策ならせいぜい堤防を高くすることくらいしか手がない。地震や津波は起こることを止められないし。

横取り

 カナダのテレビ局が、年末に貧しい人々のために用意された配給券をBMWで乗り付けた中国系の女性が受け取っていたと伝えた。

 配給券を配っていた係員が「本当に必要なのか」と聞いたところ、「もらえなくても問題は無い」と答えたという。

 アメリカでも教会での施しものを受け取って転売していた中国系の女性が問題になっているという。

 このような報道や、日本の福袋の買い占めについて中国のネット上で話題になっている。

 もちろん中国人として恥ずかしいという意見もあるのだが、「配給券は貧しい人だけに限るという明確な発表がなかったらしい」などというものや、「中国人は生まれつき商人の頭脳を持っているのだ」、「日本人だって同じようなことをしているに違いない」、「日本がわが国に与えた被害の賠償のようなものだ」などという意見が数多くあった。

 このような行為は法律的に違法ではないけれど、まともな人ならしない行為だ、と文明国の多くの人間は考える。しかしまっとうな考えから外れている人間というのはどこにでもいる。問題はそのような行為を非難するのではなく、擁護したり、賢い、などと公然と主張する人々がいることこそ恥ずべきことだしおそろしいことだと思う。

 毛沢東の「造反有理」の呪いは中国に染みついてしまったらしい。これは中国にとっての諸刃の剣である。文明はこうして内部から崩壊する。

33億人

 中国の観光研究員の発表した「中国観光経済青書」によれば、2013年の中国の国内観光客数は対前年11.6%増の延べ33億人!に達したという。

 いくら中国が広くて観光地が多いといってもこれではどこへ行っても観光客でごった返していることだろう。

 八達嶺などは駐車場がいつも満杯で、渋滞もひどく、観光にとても時間がかかるらしい。多分有名な観光地は皆同じではないか。

 20年以上前にひとりであちこち回った頃は八割以上が外国人(中国人にとって)だったからかえって気楽であった。それがいまは九割以上が中国人となれば肩身が狭いことだろう。

 中国が大好きで、定年になったら何度でも行ける、と楽しみにしていたのにどうも夢で終わるらしい。

2014年1月 7日 (火)

テロリストの銅像

 伊藤博文をハルビンの駅頭で狙撃して暗殺したテロリスト、安重根の銅像をハルビンの駅前に立てることが決まった、と韓国のMBCテレビが報じた。

 以前から、韓国は安重根の暗殺を壮挙として記念すべく、中国に対して石像を建てることを申し入れてきたが、中国はそれを拒否してきた。

 ところが朴槿恵大統領が習近平国家主席と会談した際に直接申し入れ、中国側が建設に同意した、と韓国では報じられていた。

 具体的に銅像を建てることになったというニュースは今回初めてだ。中国が最も恐れるのは国民によるテロのはずなのに本当だろうか。暗殺はテロではないというのか。それとも韓国が勝手に報じているのだろうか。

 朴槿恵大統領も常軌を逸している。彼女の父親も母親も暗殺されたことを忘れたのだろうか。

福袋買い占め

 中国日報が、日本の福袋について報道していた。

 それによると、なんと中国人が福袋を買い占めているという。中国人グループが各店舗に殺到、場合によっては募集した留学生を大量に動員して並ばせたり、事前に配る整理券の番号を改ざんまでして手に入れているらしい。

 新宿の家電量販店が用意したタブレット端末入りの福袋は、中国人が大挙押しかけて、売り出し後一瞬で売り切れた。動員した人間から福袋を回収し、かさばる袋を路上に投げ捨てて商品だけ車で持ち去る様子が見られたという。

 甥っ子たちが正月朝早くから毎年の楽しみとして福袋を買いに行ったのに、目当てのものが手に入らなかったと嘆いていたのにはこんな理由があったのだ。

 日本人の正月の楽しみである福袋を商売にしてしまう中国人の姿はさもしく浅ましい。いくら国が豊かであっても心は貧しいようだ。

 ところで日本のニュースでこのことは報道されたのだろうか。中国のメディアがこれを取り上げたのは中国人として恥ずかしい、という意味なのか、それともまさかとおもうが、中国人は賢い、といいたいのだろうか。

2014年1月 6日 (月)

麻酔が効きにくい

 歯医者でとりあえず虫歯の部分に応急処置を施してもらいセメントを詰めてもらった。

 麻酔で気持ちが悪くなったりしたことはないか、と聞かれたので、それは大丈夫だが、麻酔が効きにくい、と答えた。それで麻酔の量を多く注射してくれたらしいのだが、それでも痛い。そこでもう一本注射してようやく我慢できる状態となったが、正直まだ完全に効いていない(以前別の歯の治療のときには三本注射している)。痛いけれど我慢出来たので黙っていた。

 先生もこちらの表情でまだ麻酔が完全ではないことに気がついたらしく、処置後に「本当に麻酔が効きにくいのですね」と笑っていた。

 次回は来週。本格的なメンテナンスに入る。難儀なことだ。

願望か、呪いか?

 中国や韓国のメディアの報ずる記事を見ていると、客観的とはとてもいいがたいものに時々出くわす。この二日ほどのニュースから拾ってみても、

新華社が伝えたニュース。
  「アベノミクスによる日本経済の景気維持は難しい」
 確かに成長戦力がややもの足らず、本格的な景気浮揚には心許ないものがあるが、記事の論調は日本経済が浮揚しないで欲しい、という願望が込められているように見える。日本経済が再び低調になるよう呪いを掛けているのだろうか(日本の一部マスコミにもその傾向があるけれど)。

中国の新京報のニュース。
 「アメリカ・サンフランシスコの中国領事館の放火について、すぐ近くに日本人街があることを怪しむ声がある」
 どうも日本人、乃至日系の人間が中国に反感を持って放火を行ったのであって欲しいような論調だ。もしそうならおおっぴらにとことん反日を煽ることが出来る。チベットやウイグル自治区に対しての中国の行動に対しての示威行動では都合が悪いのだろう。

中国新聞社のニュース。
 「イギリス駐在の中国大使が、いまの日本は第二次世界大戦前のドイツのようである、と語った」
 安倍首相の靖国参拝をナチスドイツになぞらえて非難することでヨーロッパに日本の非をならそうとしているようである。中国は日本を非難する大義名分が出来たと思って心から喜んでいるようだ。多分日本がナチスドイツのようにファシズム化することを願望していることだろう。そうすればおおっぴらに日本へ中国軍が侵攻することが世界から許されると考えているのだろう。日本人もびっくり!だ。

韓国・朝鮮日報のニュース。
 「菅官房長官が、日本の立場を捨てての首脳会談は不要だ、と発言したことを取り上げ、韓国外交部は、日本の焦りの表れだ、と報じた」
 これなど私には日韓の首脳会談が開けないでいることに日本が困っている、と思いたいことを表しているようにしか思えない。日本が焦っている、ことを願望しているのだろう。誰も焦っていないと思うけど。

中国・経済参考報の記事。
 「中国の経済学者が、2014年に日本経済の成長は失速する、と語った」
 2014年には消費税増税などもあり、確かに不透明だが、この予言はまさにこの学者の日本経済に対する呪いのように読める。日本でもそんな経済学者が散見される。当たったときはどや顔が出来るというものだ。外れても知らん顔だけれど。

 こんな見方をしていると、どんなトンデモニュースを見ても腹が立つより笑えてくる。健康に良い。

映画「天使の牙 B.T.A.」2003年日本

 監督・西村了、出演・佐田真由美、黒谷友香、大沢たかお、萩原健一、佐野史郎、西村雅彦、嶋田久作。

 大沢在昌の小説、「天使の牙」を原作にした映画だ。

 面白いと思った人がいたら申し訳ないが、私の評価は最悪だ。これほど原作をぶちこわしにしてしまった映画は少ないと思う。

 多分脚本がひどい上に監督の演出がお粗末なのだろうと思う。凄まじくテンポが悪いので出演者がみな大根役者に見える。

 大沢在昌の小説は取り扱いが下手だとリアリティを失う可能性があるのかも知れない。それだからこそ読者が小説から受けるイメージを膨らませて楽しむところが大きいのだ。それをここまで陳腐な映像にしてしまうというのは不思議な才能だ。

 見るのは時間の無駄であった。内容を語る気にもならない。もし映画館で見たら「金返せ」と心の中で叫んだだろう。

歯が痛い

Dsc_0009恐竜みたいに歯が丈夫なら良いのに

 昨年秋から歯の具合が悪かった。ミカンを食べるだけでしみて痛かった。どんどんひどくなって暮れには硬いものを噛むことが出来なくなり、具合の悪い歯にわずかなものが挟まっても激痛がした。

 子供の頃、虫歯を悪化させてついに下あごの骨まで溶け出し、虫歯の手術で三日間入院したことのある娘のドン姫に「早く歯医者に行け」といわれていたのに、我慢し続けていたら二、三日前から忍耐の限界まで来たようだ。

 どうして歯は自然治癒しないのだろう。たかが虫歯などになすすべがないというのは情けない。サメみたいにだめになった歯が次々に生え替われば良いのに、などとやくたいもないことを考える。

 今日は仕方がないから歯医者に行くつもりだ。

 長い休み明けだから混んでるだろうなあ。


2014年1月 5日 (日)

考えすぎでしょうか・つづき

 毎年同じ酒蔵に友人たちと新酒の試飲会に行きます。絞りたての新酒はまだ炭酸がわずかに残り、独特の口当たりがたまらなくうまいものです。

 じっくり腰を据えて新酒をいただくために蔵元の了解を得てパレットやプラスチックケースで席を作り、持ち込んだつまみを肴に飲みます。

 最近はそれを真似てあちらこちらに集団がたむろするようになりました。

 ところがなんとプロパンボンベを持ち込んで焼き肉や鍋物を囲むグループが現れたのです。

 こうなると一線を越えてしまっているように思います。新酒を楽しむという目的とは外れて花見みたいな雰囲気です。そのグループを周りの人々は白い目で見ていますが、彼らは気がついているのかいないのか。

 座り込むきっかけを作ったのは私たちかも知れません。そしてそのようなグループがわずかな数である間はほほえましい光景だったでしょう。

 さて、マンションの新年会の立食パーティの会場に、敷物を敷いて座り込んでいる家族を見てどうして不快になったのでしょうか。

 限られた空間に座り込んでいる人がいると人の通りが阻害されて周りが迷惑していることは明らかです。しかし何とかよけられないことはない。ではどうして不快なのでしょう。

 彼らの様子を見て、真似をする人が出てくる可能性が大きいのです。高齢の人も多いから立ったままでは腰がつらい人もいるでしょう。たちまち座り込む人が出て来ます。現にそうでした。そうなると立食なら100人は楽に収まる集会場がたちまち手狭になり、しだいに雰囲気が悪くなり、会場から立ち去る人が続出しました。

 最初の座り込んだ家族はほとんど迷惑と言えるほどのことはしていないように見えます。しかしそのような家族が二つ、そして三つと増えるとたちまち収拾がつかなくなります。

 なんだかいまの日本の縮図みたいに見えたのです。悪意はなく、たいした迷惑にならないように見えることを誰かが始めます。それがどういう結果をもたらすのか想像力が働かない。かえって得意げなのが不快なのかもしれません。

 別の見方をすれば、自分の家の中と家の外との区別がつかなくなっているらしいことに違和感を感じたということもありそうです。けじめのなさに不快感を感じたのかも知れません。

 目くじらを立てるほどのことではない、と誰も何も言わないからこういうことが普通に行われるようになったとも言えます。もっといろいろなことを考えたのですがうまくまとめられません。

 ところで今年の新酒会はどうしましょうか。

考えすぎでしょうか

 今日午前中はマンションの新年会です。お手伝いの役割があるので少し早めに出かけました。いい加減な手伝い(よく働く人が多いのでこちらはどうしても足手まといになる、と言うのが私の言い訳です)をしたあと、自治会の会長の挨拶の後に新年会が始まりました。

 私の住むマンションは2000人以上が暮らし、しかも完全自治という全国でも珍しい(と言われているらしい)マンションです。

 哀しいことに、ここでは私は新年の挨拶を交わすような相手がほとんどありません。まあそれはそれとして四斗樽の鏡割りが行われて新年会は例年の如く(30年以上ここに暮らして参加したのは実は初めてですが)始まりました。

 マンションには集会室というのがあり、そこには立ち席であれば100人は楽に入れます。ここで会長の挨拶があり、菰樽が置かれ、ささやかなつまみがテーブルに用意されています。

 前置きはともかく、そこで樽酒を飲みながら話し相手のほとんど無い私は、壁の花(これは女性の場合で、私は容姿から言って壁のゴリラでしょうか)になって何となく(暇ですから)あたりを観察していました。

 毎年参加している人たちの話を漏れ聞けば、参加者はほぼ300人ほどらしいようです。

 参加者は多くても、おでんや豚汁、餅つきの供される場は外なので人の出入りも多く、集会場は特に大きな混雑もありません。

 ここからが私の話の本題です。

 私のすぐ足もと・集会場のフローリングの床の上に、敷物を敷いて祖父母、若い夫婦、そして小学生とおぼしき子供ふたりの席がその家族によってしつらえたのです。

 彼らは手分けしておでんや豚汁、酒やビールやジュース、つきたての餅などを手に入れて持ち寄り、自分たちのコーナーを作って楽しげに身内の語らいを始めました。

 マスコミが取材をすればほほえましい一コマそのものです。

 毎回の新年会に参加し、学習して、こうすれば楽しく一家が楽しく過ごせると思ったのでしょう。多少その家族によって人の流れが阻害されるけれど、それなりに気を遣う人らしく、背をかがめたりちょっとよけたりしてなるべく迷惑にならないようにしているらしい様子が見て取れました。

 これを見て私は著しく不快な気分になりました。そしてしばらくそれを見続けているうちに、日本のいまの有り様の典型はこれかも知れない、などと考えました。

 言っていることが分かりますか。

 あえてここで一度やめておきます。想像して何を感じましたか。

 夕方にでもこの続き、なぜ不快になったかの理由などを書こうと思います。

岸根卓郎「見えない世界を超えて」(サンマーク出版)

 帯に「科学と哲学・宗教がひとつになるとき、人類に見えてくるものとは?」とあるのに惹かれて15年以上前に購入したのに、読まずに棚に積んだままになっていた本だ。

 著者はこの本が出版されたときには京都大学の名誉教授と略歴にある。

 読んでみてどうしてこの本にいままで手が出なかったのか分かった。私のセンサーがまだ働いていたのだ。

 いわゆるトンデモ本というやつだ。個別にあげられている科学的な理論は正しい。そしてそれを網羅して展開される彼の宇宙論はほとんど新興宗教だ。でもあまり科学の先端に知識が無いとこの先生の神話にたぶらかされる人もいるかも知れない。

 いまから30年以上前、スーパーサイエンスというのがブームだった。超常現象も含めて、科学でまだ解明されていないことも含めた科学論で、精神活動も包含される。特徴は東洋思想を組み込んでいることだ。

 このブームの鬼っ子と言うべきものがオウム真理教と言って良いだろう。西洋を発祥とした科学というものが本当に人間を幸福にしているのか、という疑問に回答を与えるのは東洋思想だ、と言うところか。

 科学が極微や極大を扱うようになると、人間の常識を越えた世界が現れる。そしてそこに垣間見えるものはすでに東洋思想で予言されていたもののように見えたりする(この本でも時々引用されるF.カプラーの「タオイズム」(つまり老子の説いた道家思想)から語られる世界などは優れた文明論と言って良いものだけれど、こんな引用のされ方をしたらびっくりするだろう。確かにちょっとカプラーもそのきらいが無いことはないけれど)。

 この本でもしきりに東洋思想の語る世界が現代の科学で証明された、などと安直に証明して見せたりする。

 この本が書かれたときの著者の年齢はまだ70前のようなので、まだお年を召されすぎての問題があったとは思えない。確信的であるならこのような人に教えられた学生はかわいそうだ。定年後にこの宇宙論をもとに私塾を開いていたようだが、何を学んでいたのだろう。

 ネットで検索しても結構いろいろな本が売れているようだから忘れられた人ではないようだ。トンデモ本を楽しもうと思う人は探して読んでみたら面白いかも知れない。ただしミイラ取りがミイラにならないようにご注意。

2014年1月 4日 (土)

映画「脳男」2013年日本映画

 監督・瀧本智行、出演・生田斗真、松雪泰子、二階堂ふみ、江口洋介。原作・首藤瓜於の同名小説を映画化したものだが、大幅に脚色を加えている。私としては原作の方が好みだ。

 この映画は内容を詳しく説明しすぎたら初めて見るひとの興を削ぐおそれがあるのでそこには踏み込まないことにする。

 この映画を見ていると精神科というものに対して露骨に不信感を抱かせる意図があるように見える。精神医学界からクレームはなかったのだろうか。精神科の医師である鷲谷真梨子(松雪泰子)のラストの悲痛な、そして絶望的な叫びはちょっとつらすぎる。それにしても二階堂ふみは怖すぎる。

 痛覚や感情が欠落した人間というキャラクター設定がこの物語のテーマだけれど、普通に感情や痛覚のある観客にどこまでそのキャラクターにリアリティを感じさせるか、が監督と俳優の腕の見せ所だろう。そういう点では脳男を演じた生田斗真はよくやっていたと言って良い。

 ただし私の脳男のイメージはあのような髪型ではなく、クルーカットまたはオールバックなのだが、原作を読んでだいぶ経つので私の思い込みかも知れない。その方が無機質なロボット人間に近いと思うけれど。

 「オズの魔法使い」に登場する、心が欲しいブリキのきこり、映画「A.I.」に登場するジゴロ・ジョー(ジュード・ロウ)たちは自分に心がないことを悲しんでいるが、まさにそのことを悲しむことによって心を獲得する。脳男もそれを予感させて終わる。だから鷲谷医師は絶望とは言えず、何らかの成果を上げた、と言えるのかも知れない。

映画「座頭市血笑旅」1964年大映

 監督・三隅研次、出演・勝新太郎、高千穂ひづる、金子信雄。シリーズ第8話。

 帰り籠だから安くするという駕篭に無理矢理乗せられた座頭市は、赤ん坊連れでしゃくに苦しむ女性に出会う。自分の替わりにその女性を乗せ、駕篭を行かせた。座頭市が駕篭に乗るところだけ見ていたヤクザ者たちが待ち伏せていきなりその駕篭を襲う。後から追いついた座頭市は滅多突きにされた女を発見するのだが、赤ん坊は奇跡的に助かる。

 地元の庄屋で女の身元を明らかにするものや借金の形としての女の年期働きの証文が見つかり、行きがかりから座頭市が赤ん坊を父親の元へ届けることになるのだが。

 おしめを替えたり、乳を頼んだり、苦労しながら旅を続ける座頭市がたまたまある女と旅の道連れになる。その女お香(高千穂ひづる)は実は賭場にも出入りしようというカタギではない女だった。座頭市から金で雇われて赤ん坊の世話を手伝ううちに赤ん坊へ情は移り、座頭市にも心が傾いていく。

 ようやく尋ね当てた赤ん坊の父親・宇之助(金子信雄、若い!)は自分の女房の借金などを元手にヤクザの顔役にのし上がっていた。宇之助はそんな女房も赤ん坊も知らない、と言う。そして座頭市を因縁をつけに来たと言って追い返す。

 お香は座頭市にふたりで赤ん坊を育てようというのだが、自分がいつ災難に遭うか分からない身で子供を育てることなど無理なのは分かっている座頭市は頭を抱えてしまう。

 赤ん坊の母親を殺したヤクザたちが座頭市の後を追ってやってくる。そして宇之助のところへわらじを脱ぎ、座頭市はついに宇之助たちと闘わざるを得なくなる。

 最後に宇之助を斬り殺し、赤ん坊を自分で育てるしかない、と決心した座頭市に、赤ん坊の母親の墓を守る住職(加藤嘉)は寺へ預けろ、と赤ん坊を置いていくよう諭す。

 そしてお香を残し、いまは情が移って離れがたくなっていた赤ん坊とも別れて座頭市はひとりで旅立つ。

内田樹ほか「脱グローバリズム論」(講談社)

 四回に亘るシンポジウムを本にまとめたものだ。うち三回は一般公開。最後の回は内田樹の道場・凱風感で行われた。内田樹のほかに中島岳志、平松邦夫、イケダハヤト、小田嶋隆、高木新平、平川克美が適宜テーマ毎に参加している。

 全てを通しての司会は平松邦夫(前大阪市長)。この人は善いことを言っている自分に酔っている風があるように感じてしまうのは私の偏見か。橋下徹に対する恨み節もたっぷり入っていささか見苦しい。

 グローバリズムというのが何を解体してしまったのか、と言うことについてあらためて考えさせてくれるシンポジウムだ。そもそもグローバリズムというのがアメリカ式なら、それはアメリカだけに都合の良いローカルグローバリズムというワケの分からないものでしかない。

 そのことはそのこととして本質的なグローバリズムが世界の正義のように言われているが、それが家族や地域、そして文化をスポイルしてしまうものらしいことが、ようやく明らかになってきた。

 ではグローバリズムは悪なのか。

 そういう原理主義みたいな問いかけをしている間は出口は見えないのだろう。

 世界は必然的に平準化していくものなのかも知れない。アメリカだけに都合が良いようにしようとしても、後進国の人々の生活が豊かになれば当然いままで豊かに暮らしていた人は生活レベルを引き下げざるを得なくなるということだ。いちばん人口の多い中国の人々が、曲がりなりにも食べるに困らなくなっていると言うことが、世界に大きく影響を与えていくのは当たり前なのだ。

 グローバリズムが世界を席巻した後、その問題点を乗り越えるための生き方を考えようというのがこのシンポジウムだ。

 若い人の提案しているのが地域性、自分の周辺からの再構築であるのは分からないことではない。いわば脱グローバリズムは反グローバリズムというところだ。リアリティのある考えかただし行動であって、その積み重ねこそ確かに出口かも知れないけれど、いまのグローバリズムの風圧に対抗できるものになり得るのかどうか。

 世界が金(カネ)を価値の基準においているという世界をどう脱却するのか。この本ではいろいろな意見が語られているので各人が考えたら良いと思う。多分世界でいちばん脱グローバリズムにたどり着く可能性のあるのは日本人ではないだろうか。

 人は一度豊かな生活を経験すると生活レベルを下げることが出来ない、などとそれがあたかも真理であるかのように言われている。

 そんなことはない、と気がつくかどうかだと思う。

 
 先ほど息子が広島へ帰っていき、またひとり暮らしに戻った。ちょっと寂しいけれど、寂しいからまた会ったときにうれしいのだと思い直した。

 明日はマンションの新年会。餅つきやどんど焼きがある。そのお手伝いの係なので明日は少し忙しい。樽酒もあるし・・・。

2014年1月 3日 (金)

南條竹則「中華満喫」(新潮選書)

 正月早々、本でおいしいものを味わった。元旦も2日も昼間から飲んで酩酊状態なのでこういう本がちょうどいい(ちょっと難しい本は二ページ目には寝てしまう)。

 ここで取り上げられているうまそうな中華の食材や料理の数々は垂涎のものばかりだ。それに加えて銘酒の数々が紹介されている。白酒(パイチュウ)などあのにおいが苦手なのだがこの人の筆にかかると、もしかしたらおいしいのかも知れないと思ったりする。

 この本を読むのは二回目だけれど、間をあけて何度でも楽しめる本だ。青木正児(あおきまさる)の本がしばしば引用される。中華料理にうんちくを傾けた本は数々あるが、青木正児の本はレベルの高さで群を抜く。その青木正児を継ぐ、とあえて言えるのは南條竹則であろう。

 ところで中国の食材にしばしば怪しげなものが添加されたり、おそろしい環境の中で獲られたものだったりするのをテレビなどで見る。著者が中華料理を楽しんだときよりもはるかに健康に不安のあるものが多いと危惧する。

 それ以上にその名をあげられている淡水魚の多くが絶滅に瀕していて手に入りにくくなっている。揚子江とその流域周辺の湖の淡水魚の魚種の過半数がすでに絶滅したと聞く。だとすればこの本に書かれている食材の一部はすでに幻であるかも知れない。

 料理のにおいと味をここまでリアルに表現した本はあまりない。興味のある人は是非探して一読することをお勧めする。古い中国の料理の本の引用も豊富で好きな人は楽しめるはずだ。

 本日息子と二人で名古屋に帰着。上り方向は事故などで一部渋滞していたが、下りはスムーズであった。息子は今日も飲み会に出かけた。

 私は今日は少し控えめに飲むつもり。

2014年1月 2日 (木)

酒の海

昨日も今日も酒の海におぼれている。

酩酊すれば世の中すべてがめでたい。生きてあることが喜ばしい。言祝ぐべし。

2014年1月 1日 (水)

雪国に行く

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雪国に湯治に出かけたい。

雪の中に降り込められて身動きがとれないけれど、そこで温泉に浸かりながら本を読みたい。

こんな贅沢はないのだけれど、そこへ行くまでは大変でないこともない。

何カ所か当てがあるのだけれど、どこへ行くかはこれから考えようと思う。

酩酊

 正月だけは朝から飲むことを自分に許している。そうでないと歯止めを失ってあぶないからだ。

 本日は昼前から飲み出して現在(はたの人から見ればとっくに)酩酊に近い。こういうときはすべてを許す。世の中がかくあること、そのことをありがたいことだと思い、多少のことには目くじらを立てない。

 ただし三が日を過ぎれば別だけど。

 こうして世界がことほぐ(言祝ぐ)ものとして感じられるのは、心身共に健康で、しかも食べる不安もないことの表れでもある。

 不安もあり、不条理も感じないわけではないが、今こうして新春の日差しを恵みとして感じられるのは神の恩寵なのだろう。どんな神かは知らないけれど。

今年もよろしくお願いいたします。

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明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

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