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2014年5月

2014年5月31日 (土)

苗名の滝

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赤倉温泉から笹峰高原に向かう途中の分かれ道を行くと、苗名の滝がある。上の写真は苗名の滝ではない。滝への登り口にある砂防堰堤である。

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これが苗名の滝。水量が多くて轟音と水しぶきが凄い。名瀑百選の一つ。

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地元の子供たちが遠足で来ていた。

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背中は長老で、笑っているのが頑固爺の兄貴分の人。

子供たちにアンケートの質問を受けているところ。頑固爺も可愛い女の子にはめろめろ。

かくいう私も十人くらいの子供たちに次々に質問攻めに遭った。

赤倉笹峰高原

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赤倉温泉から笹峰高原へ向かう。途中の笹峰牧場からの景色。今準備中でもうすぐ放牧が始まるそうだ。とても綺麗に手入れされていて美しい。

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笹ヶ峰ダムからの景色。右手が妙高山(だったと思う)。

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ダム湖の水辺も神秘的だし、雪山も美しい。

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湿地に水芭蕉が咲き始めていた。

このあと少しバックして、笹峰への途中から入る苗名の滝へむかう。

頑固爺

1405_319愛車と乗鞍連峰

長老と兄貴分の人との三人旅を終えて帰って来た。

最終日の今日は乗鞍高原。白骨温泉に泊まったので、乗鞍高原までは15分と近い。この裏道は土曜日なので通れるそうだ。普段は工事で通行止めだ。

長老は温厚で自己主張はあまりしない人(本当はじんわりと上手に知らないうちに自分の希望を通す人)なのだが、兄貴分の人は見た目も実際もかなりの頑固爺だ。

この兄貴分の人が、私がブログをするためにパソコンを開くのをいやがる。ほんの30分でも「四六時中パソコンをしていて話に加わらない!」とご立腹だ。

そういうわけでほとんど更新が出来なかった。

そのほかのことでもかなり頭が固くなっている。どうでも良いことでも自分の言っていることを(明らかに間違っていても)変更しない。そうなると長老はにこにこしているばかりで、私がそれに突っかかることになる。互いに「自分の言っていることが正しい」と言い合う。

なんたる頑固爺!と私はかっかするのだが、考えてみたらどうでも良いことで譲らないのだから私も頑固爺なのだ、と気が付いた(しばしば私が間違っていることもある)。

これから何回かは今回の旅の写真を中心にブログを書く予定だ。うるさい頑固爺が(自分のほかには)いないから心おきなく書ける。

2014年5月30日 (金)

戸隠神社

 渋温泉から戸隠へ行った。戸隠神社奥社の杉並木を見よう、と言うことで山道を歩いたのだが、まっすぐの緩い坂を延々歩く。

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戸隠神社・奥社入り口の鳥居。右が長老。いちばん元気。

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ここが最初の山門。ここまでせっせと歩いて十五分。

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山門をくぐるとこのような見事な杉並木が続く。奥社までさらに二十五分以上、と言うことなので、ここで引き返す。

道横にちいさな水流があり、そこにちいさな草花が咲き、鳥が鳴く。

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花の名前を教えてもらった。これは二輪草。

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これは元々の日本のスミレ。

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これはリュウセンカズラ。

道で出会ったおばさんに聞いたので、正しいかどうかわかない。 

いもり池

140529_7 いもり池から妙高山を見上げる

赤倉温泉の近くにいもり池がある。笹ヶ峰に向かう途中に立ち寄った。やや霞んではいるが早朝なので妙高山がよく見えた。

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風がないので水面に妙高山が映っている。

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池の周囲をぐるりと歩くことが出来る。すでに多くの観光客が散策していた。

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さわやかな朝の涼気が心地よい。

今泊まっている渋温泉の宿はネットがほとんどつながらない。今朝はかろうじてつながったので慌ててこれを流している。

2014年5月29日 (木)

妙高高原の朝

さわやかな高原の朝の涼気を浴びながら露天風呂に入った。

Dsc_0026_2 ホテルから妙高山を望む

昨晩は久しぶりにぐっすり寝た。

Dsc_0027 同じくホテルからの景色・しゃれた建物が多い

今日は渋温泉に宿泊予定。昼は草津白根まで足を伸ばそうと思う。

 

2014年5月28日 (水)

妙高高原・赤倉温泉

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 本日の宿は妙高高原の赤倉温泉。夕食はしつらえてもらった個室のテーブル席。コースで食べていると、知らないうちに結構食べている。部屋はゆったりして、窓からのスカイビューはすばらしい。

 本日は赤倉から笹峰高原に立ち寄ろうとしたけれど、なんたることか、ガソリンスタンドがないために、峠の途中でガソリンが不安になって引き返すことになった。準備不足で兄貴分の人にさんざんであった。

 明日もう一度行くかどうか、打ち合わせ中である。

140528_14 妙高山遠景

140528_5 赤倉スキー場からの眺め

 

行ってきます

 今日から兄貴分の人(五歳年上)と長老(十歳年上)の運転手兼同行旅行に出かける。今回はちょっと贅沢な山の温泉旅行だ。長老は私などよりゆとりがあるので、かなりの部分を持ってくれる。普段泊まらないような良い宿に泊まれるのもありがたい。

 一応ラップトップは持っていくし、写真も撮るつもりだが、夜は酒を飲んで歓談し、温泉三昧なので、更新がどこまで出来るか分からない。

 ではこれから先輩たちを迎えに行ってきます。

2014年5月27日 (火)

虎姫一座のあゆみさん

 滅多に見ない「徹子の部屋」をたまたま見ていたら、虎姫一座という浅草を拠点に歌や踊りなどで活動している八人のグループが出ていた。

 とにかく楽しいグループだ。男二人、女六人いたけれど、これが第一期生だ、というからほかにもいるらしい。

 浅草六区のレヴューが飛び出してきた感じとでもいおうか。「昭和歌謡」と銘打ってちょっと懐かしい歌を次々に歌い、ラインダンスを踊り、太鼓を叩きととにかく芸達者で飽きさせない。しかも歌がとてもうまい。

 メインボーカルをしているリーダーのあゆみさんは民謡が得意で、民謡コンクールで全国優勝したことがあるというから半端ではない。

 このあゆみさんがどことなく私の好きだった人に似ているのだ。本気でつきあって、場合によっては結婚してもいいとまで思った初めての人だった。

 馬鹿な話だが、その彼女の結婚式に呼ばれて、しかもよせばいいのに出かけて行った、という哀しい思い出がある。虎姫一座のあゆみさんを見て忘れたつもりでいた彼女を思い出してしまった。

 彼女、どうしているだろう。しあわせにしているだろうか。

 「虎姫一座」、いいね!

映画「ザ・クリミナル 合衆国の陰謀」2008年アメリカ

 監督ロッド・ルーリー、出演ケイト・ベッキンセール、マット・ディロンほか。

 題名から想像されるようなアクションシーンやサスペンスタッチなところはほとんどない。それなのに最後の最後まで緊張感が途切れない。

 アメリカ大統領が狙撃される。その犯行にベネズエラに関連していた、とのCIAの情報により、アメリカ軍がベネズエラに侵攻する。ところがそれに反対意見のCIAのエージェントがいた。

 そのCIAの女性エージェントの存在を明らかにしたスクープ記事を書いたレイチェル(ケイト・ベッキンセール)は、情報提供者を明らかにするように政府から強要される。彼女はそれを拒否したことで法廷侮辱罪により収監されてしまう。その収監は、彼女が情報提供者開示を拒否し続けたために長引く。収監中に彼女はピュリッアー賞の候補にまでなるが、その後ある事件が起こり、彼女に同情的だった風向きが次第に変わっていく。

 レイチェルを徹底的に追い詰めるFBIの特別監察官をマット・ディロンが演じるが、仕事のためとはいえそのやり方は冷酷だ。

 情報源の秘匿と、国家の安全保障のどちらが重要か、という究極の問題を考えさせるのだが、国家という組織が個人に対してどれほど冷酷なのかが、これでもか、というほど執拗に描かれている。これがアメリカの話だとは信じられないが、実話を元にしている映画だそうだ。北朝鮮や中国なら当たり前にあることだろう。しかし北朝鮮や中国では、新聞社はバックアップしないし、弁護士もつかないだろうけれど。

 この映画はアメリカでは試写だけしかされず、一般公開されなかったという。製作会社が倒産したためだということだが、裏に何かあるのではないか、とつい勘ぐってしまう。

 ラストに、レイチェルがバスから景色を眺めながら回想するシーンで、意外な情報提供者が明らかにされる。見逃せない。

映画「サスペクト・ゼロ」2004年アメリカ

 監督E・エリアス・マーヒッジ、出演アーロン・エッカート、ベン・キングスレー、キャリー=アン・モスほか。

 見そびれていた映画だ(見そびれた映画ばかりだ)。期待していた以上に面白い映画だった。タイトルバックのイメージはホラー映画風。確かにオカルト風な味付けがしてあるのだけれど、実際は超能力映画であった。

 超能力映画はホラー映画になりやすい。「キャリー」や「スキャナーズ」を「シャイニング」を例に引くまでもなく、あり得ない能力は、あり得ないが故に恐怖の対象になる。物語で超能力者が迫害される、というパターンはしばしば見られるが、当然だろう。

 しかしこの映画は超能力がテーマというわけでもない。

 主人公のトム(アーロン・エッカート)はFBI捜査官だが、法に基づく手順を踏まずに連続殺人犯を逮捕したことで犯人は釈放され、地方に左遷される。赴任先のニューメキシコ州で起きた殺人事件がきっかけで、彼はありえないものを見てしまう。

 主人公はトム、と云うことになっているけれど、実はトムの目を通していろいろな事件を凝視しているオライアン(ベン・キングスレー)こそが陰の主役である。

 事件のことに集中すると、被害者の意識にシンクロしてしまうという超能力者、オライアン。しかもそれは後天的に強化されたものだ。そして実はトム自身にもその能力が備わっていることが、断片的に出現するイメージで暗示される。

 トムが優れた捜査官である理由がその能力によるもので、周りに理解されない手順で犯人に辿り着いてしまうのもそういう能力によるものだったのだ、と気が付く人は気が付く。だからオライアンとシンクロしてしまうのだ。

 前後するが、冒頭、デブのセールスマンが夜のドライブインのレストランでくつろいでいる。その向かいの席に座り、突然一方的に話しかけるオライアンの姿が不気味だ。そしてこのセールスマンが連続殺人事件の第一の被害者である。

 アーロン・エッカートという人、いい男なのだけれど微妙に人を不快にさせる。それがこのトムという役にぴったりはまっている。本当はいい人かも知れないけれど。

 ベン・キングスレーは文句なしの名優だ。どんな役でもこなすし、凄味がある。この人なしにはこの映画は成り立たない。

 トムの元同僚で恋人だったらしきフランの役でキャリー=アン・モスが出ている。どうしても「マトリックス」を思い出してしまう。

 蛇足ながらサスペクトとは容疑者のこと。つまり容疑者ゼロ、というのが題名だ。

2014年5月26日 (月)

映画「オブリビオン」2013年アメリカ・ロシア

 監督ジョセフ・コシンスキー、出演トム・クルーズ、オルガ・キュリレンコ、アンドレア・ライズボロー、モーガン・フリーマン、メリッサ・レオほか。

 SF映画。映画とは関係ないけれど、日本のSFの本が売れないらしい。海外では、SFはジャンルとして確固たる地位を確保していてそれなりの需要がある。そしてこのような映画もたくさん作られている。日本はSFというと三流と見る偏見がいまだに払拭されていない。そのためにSF好きがマイナーな、しかもマニアックなものに偏しているような気がする。しかも日本のSF界は内部分裂し掛けているという。情けない。

 むかし紅顔のSF少年だった私ですら、今は読みたい特集の時以外はSFマガジンを買わなくなったし、新しいSFは海外のものをたまに読むだけだ。

 日本のSF映画はほとんど絶望的なほどお粗末な作品が多い。初期の怪獣映画はそれなりに面白かったけれど、それ以降はアニメ以外では思い出すほどの作品がない。ひどい映画として思い出すのは深作欣二の「宇宙からのメッセージ」だ。タイトルバックの星たちが微妙に揺れている。それを見た瞬間に「駄目だこりゃ」と思った。真剣に作っていないのが一目で分かった。

 SF映画はあり得ない世界を描く。だからこそ映像はリアルでなければならない。そのためにはお金もかかる。金が掛けられない日本ではSF映画を作るのは無理なのか。それならSFファンもマニア化してしまうのは仕方がないのか。

 肝腎のこの映画の話が進まない。

 この映画の物語の設定は異様である。異星人との戦いでほとんど人が住めなくなった地球をたった二人で監視している男女が主人公だ。地球上空の人工天体に逃れたわずかな地球人は、土星の衛星のタイタンに移住するべく、地球から水や資源を持ち出す作業を急ピッチで行っている。一応異星人の主力は排除したのだが、いまだに残留している少数が時々その資源採取の現場に攻撃をしかけてくる。その排除も監視員(トム・クルーズ)の仕事だ。

 不思議なことに監視員は過去の記憶を持たない。記憶が消されている理由が説明されているのだが、ほとんど理由にならないにもかかわらず監視員は何の疑問も持っていない。

 そしてある日、宇宙から飛行物体が飛来、そこには地球人が乗っていた。あり得ないことなのだが、救出した女性に監視員は見覚えがあるような気がする。ほかにも乗組員がいたのだが、突然襲撃され、監視員とその女性だけが生き残る。しかも襲撃してきたのは人類を護るはずの監視ロボットだった。

 ここから物語が急展開する。

 監視員が思い込まされている世界の意味は何か。それが次々に明らかにされ、やがて驚愕の真実が知らされる。

 矛盾点が多いのはこのような物語の場合は仕方がない。そもそもSFの世界は空想の世界だから突っ込みどころ満載なのだ。それでもばからしいと感じさせないのはひとえにその映像のリアリティだ。

 その点ではこの映画は良く出来ているので最後まで楽しませてくれる。

 あの日本のSF映画の傑作「地球防衛軍」を越える映画は造られないものだろうか。

こんな日もある

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 昨晩はなかなか眠ることが出来なかった。寝付きの良いことには自信があるので、眠りそびれたら起きていれば良い、と本を読んだりする。そうするといつの間にか寝ているのだけれど、昨晩は(つまり今朝は)気が付いたら朝だった。

 眠るために引っ張り出したのは中原中也の詩集だ。詩はどちらかといえば苦手で、あまり感興をそそられないのだけれど、この中原中也、萩原朔太郎、島崎藤村だけは気に入っている。しかし、詩集など読むのは本当に久しぶりだ。急に「自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、」というフレーズが頭に浮かんで消えなくなったのだ。これが中原中也の詩の一節であることは記憶にあるのだが、何という詩だったか分からない。

 それを知りたくて読み出したらようやく分かった。

 「盲目の秋」という詩の第二パラグラフにあった。

これがどうならうと、あれがどうならうと、
そんなことはどうでもいいのだ。

これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、
そんなことはなほさらどうだつていいのだ。 

人には自恃があればよい!
その余はすべてなるまゝだ・・・・

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行ひを罪としない。

平気で、陽気で、藁束のようにしむみりと、
朝霧を煮釜に填(つ)めて、跳起きられればいい!

 名古屋から帰ってゆっくりしようと思ったのに、気持ちのリズムが狂っているようだ。こんな日もある。

2014年5月25日 (日)

司馬遼太郎「この国のかたち 四」(文春文庫)

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 この本で取り上げられているテーマはたくさんあるが、特に力が入っているのは「統帥権」についての部分だ。

 昭和の初めから終戦までの期間、日本はそれまでの日本ではなく、別の国のようであった、というのが司馬史観の原点のひとつだ。幕末、そして明治を見直し、なぜあの日本を滅亡に導いた暴挙が起きたのか考え続けているし、それは日本人なら、いちどは見直さなければならないことだと私も思っている。そしてそのしなければいけない作業を若者から奪ってきたのが戦後の日教組教育だったと私は考えている。

 しばしば司馬史観は批判される。それはなぜなのか。

 あの、日本がそれまでの日本とは違う国のようであった日本の時代のみが日本だ、と近隣諸国は考えている。それまでの日本というのがどのような国だったか、それをそれらの国々に知ってもらうことはほとんど不可能だから仕方がないことだとも言える。

 しかし日本人までがその時代のみが過去の日本であるように思い込まされていることはあり得べきことではない。そのような見方を「自虐史観」というのだろうと思うが、反省すべき時代があったから過去を全否定しそれを強要する、などというのは何の意図があるのか、といぶかしい。歴史を善悪とか正義の視点で語り過ぎてはならない。それを国民に認識させるのが司馬史観だから、それが都合の悪い人が批判するのだろう。

 少し興奮しすぎた。

 「統帥権」などというものは、司馬遼太郎が言うように、軍部、特に参謀本部に無限の権限を与える魔法の杖だった。まことに不思議な、観念だけの論理がまかり通ってしまった当時の「空気」というものを司馬遼太郎は繰り返し分析し、批判している。これは二度と再びそのようなことが起きないように、という強い思いがあるからだ。歴史を考える、ということはそういうことであろう。

 そう考えれば、今の歴史教育というものがそのような思考の材料を若者に提供する場として機能しているのかどうか疑わしい。

 「戦争」について考えることが出来るような能力を与えるためにはその時代背景を伝えなければならない。日本人は特にそうであるはずなのに「戦争」を語ることがタブーであることが長すぎた。タブーにすることで過去から目を逸らそうという者たちがそうしたのではないか、などと勘ぐってしまう。

 若者よ、自分の意志で歴史を勉強してくれ!そのための入門書としてこのシリーズなどは適していると思う。

2014年5月24日 (土)

東海林さだお「ショージ君のほっと一息」(文春文庫)

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 いくつかのエッセイが収められているが、はじめの一編「ビール苦いかしょっぱいか」が好い。

 ビールが大好きで、何物にも代えがたい、と思う気持ち、そしてそのためにあえて暑いときに暑い思いをして汗をかき、のどを限界までからからにして至福の時のために準備する気持ちは、当方の心持ちにあまりにも一致しすぎて恐ろしいほどだ。

 しかし大ジョッキをぐいぐいと飲み干したとたん、ビールにあれほど傾けていた熱情がにわかに醒めるショージ君と私が違うのは、その熱情が全くといっていいほど醒めないことだ。二杯目も一杯目と同様に美味しい。五杯目も同じように美味しい。物理的に体に入りきらなくなるから七~八杯で終わりにするだけで、出口に蛇口をつけて、入れた分を出し続ければいくらでも美味しく飲める。ただし飲んだだけ酔う(当たり前だけど)。そしてビールを限界まで飲んでの二日酔いは、どの酒よりも脱水症状がきつくてつらいことも何度か経験している。

 ビールほど美味いものがこの世にあろうか、と私も思っていたし、今もその想い出はある。ただ糖尿病で減量を命じられ、そして痛風になったことで泣く泣くそのビールとの親密な関係を控えめにせざるを得ない今となっては、それは想い出になってしまった。

 だから今は中ジョッキで二~三杯しか飲まない。そしてそれで打ち切ることが無念でもなくなってしまった。

 ああ、あの美味いビールを飲めた頃に再び戻りたい!

おじいさんの時計

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 弟と毎晩飲んでいる。弟はまだ仕事をリタイアしていないので毎日朝七時前に出勤する。だからあまりたくさんは飲まない(普通の人から見たら結構飲んでいるけれど)。でも昨日は週末なので夜中までビール、日本酒、芋焼酎とたっぷりと飲んだ。

 寝たきりの老母は無線のコールボタンを押す。そうすると結構大きな音でメロディーが鳴るようになっている。そのメロディーは「おじいさんの時計」だ。母は頻繁に押す。だから頻繁に「おじいさんの時計」が鳴る。ときには五分おきに鳴る。「おじいさんの時計」にせき立てられて母の元へ行く。

 介護はほとんど弟の嫁さんがやっているから私が出来ることはわずかだ。それでも弟の嫁さんはパートで幼稚園の仕事をしているし、買い物や他の用事で出かけることもしばしばある。そのときは介護ヘルパーが一時間とか二時間手伝いに来てくれるけれど、私が全面的にやらなければならないこともある。

 いちばんイヤなのは「うんち」の処理だ。何度やっても慣れない。

 ところが母がコールするときの用事は多くがこれだ。ちょっと異常に神経質になっているようで、わずかな汚れも「始末しろ」とコールされる。極力言われるとおりにやっているけれど、次第に「いい加減にしろ!」という気分になってくる。本を読んでいてもあまりに頻繁なので集中できない。

 弟の嫁さんも適当に対応しているけれど、私がいる手前、あまり手抜きも出来ず、多分無理をしているように見える。昨晩は、弟と二人でそのコールのメロディーをいちばん静かなブザーに変更し、音量も小さめにした。そしてコールの対応はこちらのペースでやることにしよう、ということにした。弟の嫁さんはちょっと嬉しそうだった。

 日曜の朝からこちらに来ているから一週間経った。明日には名古屋に帰る。それでもちょっと疲れた。弟の家といっても母が仕切っているわけではないから今は私にとってよその家だ。それなりに気疲れするし、介護の精神的な疲れもあり、このくらいが限度だ。

 でも弟の嫁さんはエンドレスで自宅介護を続けなければならない。あんまり負担が重そうなら別の手立ても考えなければいけないかな、とも思って、もしそのときは了承するよ、と言っておいた。

 今日は弟もいるし、気楽だ。都合がつけば妹も来る、と言っていた。あと一日頑張ろう。

 「おじいさんの時計」がちょっと嫌いになっている。

2014年5月23日 (金)

司馬遼太郎「この国のかたち 三」(文春文庫)

0809_035 高杉晋作の生家 

 自分の国を「この国」などと呼ぶ、そのことが不愉快である、と言って司馬遼太郎を非難する人の文章を読んだことがある(誰だか忘れた)。

 この本の後書きに司馬遼太郎が、連載していた雑誌のスペースの制約で、一つのテーマに原稿用紙十枚程度しか書くことが出来なかった、そのことで語り足らないところ、不十分なところを読者に補ってもらうしかない、負荷をかけて申し訳ない、と記している。

 そのためにかえって重要な視点をいくつも提示してもらい、新たな歴史の見方を教えてもらうことが出来たともいえるので、簡潔であることのありがたさもある。

 さらに詳しいことについて知りたければ、あの「街道をゆく」を読めばいいし、さらに知りたければ関連の本は本屋にいくらでもある。

 「この国」という言い方に込めている司馬遼太郎の気持ちをどう受け取るか、それが気に入らなければ読まなければいいだけのことだ。

 「この国のかたち」は文庫本で全部で六巻あるが、五巻しか見当たらない。そもそも第六巻を持っていたのかどうかも分からない。五巻まで読んだら第六巻を買うことにしよう。そしてそのあとはゆっくりと「街道をゆく」全四十三巻を再読したい。

 全部実家にそろえてある。読み終わるごとに持ってきたのだ。父と母はそれを読むのを楽しみにしていた。父は全部読んだのだろうか?

東海林さだお「ショージ君の青春記」(文春文庫)

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 世の中は何とかならないことの方が多い。そして何とかなる、と思って生きられるのが青春だ。そして何とかならないらしい、と気がついたとき、青春時代は終わる。   

 少年時代の初恋から、発作的に選んだ早稲田大学のロシア文学科への入学、そして漫研への入部とそこで出会った仲間との破滅的な生活、落第必至から中退を決意し、自立への道へのあがきがおもしろおかしく書かれている。

 思い起こせば青春とは恥ずかしい時代であった。ショージ君を笑いながら、なんだか身につまされて哀しいような、しかしなつかしいものを思い出していた。

 プロの作家がしばしば東海林さだおの文章をほめる。誰にでも書けそうなのに、実は彼にしか書けない文章であり、そこには読者を技巧的に導こうというおかしなものがみじんもない。読みながら読者自身に感じさせるものがある、というのは優れた才能なのだ。

 ショージ君シリーズでもこの巻(文庫本で第五巻に当たる)は特に好い。

養老孟司「バカなおとなにならない脳」(理論車YG新書)

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 YGとはヤングアダルト。つまり少年少女向けの本らしいが、わかりやすくでおもしろい。養老孟司の論理は独特で、特に脳についての思想は難解なことが多いけれど、それをとてもわかりやすく読むことが出来る。

 少年少女からの質問に答える、と言う形式で、かんで含めるように説明されているが、ときに子供には分からないだろうなあ、と言う高みまで話が行ってしまうところがこの人らしい。子供は解らないなりに何とか納得しようとするのではないだろうか。なかに教師からの質問がひとつ入っているが、それに対する養老孟司の回答は痛烈だ。

 質問には「バカって治るんですか?」「寝ないとバカになる、って本当ですか?」「バカなおとなにならないためには?」など、私も知りたいものがたくさん入っていて、それに意外な回答がなされる。でも考えてみると意外ではないことに気がつくのは、どれだけ我々がある先入観、西洋的思考様式にとらわれているかと言うことにいつの間にか気づかされるからだ。このことを子供のときに気づけるのはほんとに大切なことだ。

 最後に谷川俊太郎からの四つの質問と養老孟司の回答が記されている。
「何がいちばん大切ですか?」
  虫の標本に決まっているじゃないか!
「誰がいちばん好きですか?」
  そんな問題の起こるようなこと、
  聞かないで欲しい・・・
  うっかりこんなところに書いたら、
  うちに持って帰れないでしょ。
「何がいちばんいやですか?」
  あんまり嫌いなものはない。
  だいたい死体扱って、虫扱ってるからね、
  いやなものあるはずがない。
  でも、何か人に強制されるのはいやね。
  あ、いちばん嫌いなのは、「正義」だな。
「死んだらどこへ行きますか?」 
  そんなことしらないよ。
  オレも、知りたいよ。

2014年5月22日 (木)

クレーム

 客商売なのに、然るべきサービスが不十分であれば、客は不快に感じるだろう。客が払う金に対してそれに著しく見合わないものが提供されれば、ときには苦情を言うこともあるだろう。私は小心だからよほどのことでなければクレームはつけないが、二度とその店には行かないし、人にそんな経験を進んで伝える。そのような不評は案外広まるものだ。

 三波春夫は「お客様は神様」などと言った。しかしお客様は断じて神様ではない。金を払うのが客であり、それに見合ったサービスや品物や料理が提供されるから、それが釣り合っていれば対等の関係である。

 そんな当たり前のことが分からない輩が勘違いしているのを見かけると無性に腹が立つ。むかし営業の仕事をしていて、ほとんどはまともだが、まれに資材担当者などに理不尽な人がいて、同業の競争相手からも陰では鼻つまみとして毛嫌いされていた。

 そういうひとのいる会社は、長い不景気のなかで消えていったところが多い。

 数日前のニュースで、理解不能のクレームの数々があげられていて笑ってしまった。これはフランスの旅行会社が、国際的な四百社のホテルの従業員から集めたアンケートのなかから特におかしなものをまとめたものだ。

不思議なクレーム
・ベッドのシーツが白すぎる
・海が青すぎる
・アイスクリームが冷たすぎる
・バスタブが大きすぎる
・ガールフレンドのいびきが大きい
・自分の犬がホテルに泊まりたがらない
・ホテルに海の見える部屋がない(そもそも海辺のホテルではないのに)

・ベジタリアン用のメニューにステーキがない
・ウエイターがイケメン過ぎる
・新郎の母親がハネムーン用の部屋に泊まれない

不思議な要求
・夜も含めて一時間おきに水を届けて欲しい
・毎日十五本のキュウリを届けて欲しい
・便器の水をミネラルウオーターにして欲しい
・バスタブを蜂蜜でいっぱいにして欲しい
・山羊の鈴の音を聞かないと寝付けない
・鳥の右足しか食べられない
・夜中に死んだネズミを届けて欲しい
・ミルクチョコレートの風呂に入りたい
・枕が十六個いる
・ワニのスープを届けて欲しい

 不思議な要求の方は金さえ出してくれれば何とか対応可能のように思える。意味は分からないが。大金持ちならホテルも対応するだろう。多分定常料金での要求だったのだろう。

 不思議なクレームの方は頭がおかしいとしか思えないが、これほど極端ではないけれど、普通の人は決してクレームにすることがないようなことをクレームにする人はしばしば見聞きする。そしてそのクレーマーは自分のクレームを正当だと信じているからやっかいだ。

 客商売は本当に大変だ。客商売と縁のない生活は誠に心が平安で有り難い。仕事とはいえ、ご苦労様です。

 どっかの国の日本に対するクレームにも変なのがあるけれど、あれも自分は正当なクレームだと思っているのだろうか。

志賀直哉「剃刀」

 怖い話はあまり好きではない。だからホラー映画も苦手だ。「十三日の金曜日」を映画館ではじめてみたときは、本当の話、座席から飛び上がった。

 それなのに、怖い物語をそれこそ怖いもの見たさでずいぶん読んだ。スティーヴン・キングの「呪われた町」などはその中でも特に怖かった。それとそのような怖さと違う気持ち悪い怖さではダン・シモンズの「カーリーの歌」という小説が忘れられない。

 そしてある意味、日常の怖さの極地がこの志賀直哉の「剃刀」と言う短編小説だ。床屋に行くのが恐ろしくなる。

 見回せば世の中は何が起こるか分からない。無差別殺人に出会うのも運次第だと言うことに気がつかないから、人は平気で道も歩ける。しかしあらためてこの短編を読み直すと、床屋の主人の芳三郎の熱に浮かされたけだるい気持ちが手に取るように分かる。分かりすぎるから恐ろしい。

志賀直哉「或る朝」

 志賀直哉の作品はどれも好きだ。わずかな言葉で、どうして登場人物の心の動きをここまで描き尽くせるのか、そして書かれている以上のことを読者に励起させられるのか。

 この「或る朝」もまことに短い文章の作品だが、何度読んでも主人公の気持ちの流れにシンクロしてしまう。

 祖父の三回忌の朝の、祖母との諍いめいたやりとりが綴られているだけなのだが、家族との関係、自立ということなど様々なことを考えさせられる。

 祖父といえば、相馬事件の被告のひとりとして長い間訴訟を争い続け、それが志賀家に大きな影を落とした。さらに直哉は両親の元ではなく、祖母に育てられたこともあり、父とは疎遠であった。その父とは強い確執があり、和解するまでに長い年月が必要だった。そのいきさつは「和解」などの作品で知ることが出来る。その直哉の性格がこの「或る朝」という作品にも覗いている。

 この作品について志賀直哉自身が、この小説を二十七歳の時に書いた処女小説といっていい作品だ、と書いている(創作余話)。

 志賀直哉の人物については毀誉褒貶があるが、その作品は漱石や森鴎外すら超えると思っている。ということで、久しぶりに少し志賀直哉を読もうかと本棚から引っ張り出した。

張り子の虎

 韓国が自信喪失して、自らが張り子の虎ではないか、と思いだしている。自らがそう思うくらいだから、中国の口さがないネットなどには、今までの自信過剰気味だった韓国を揶揄する言葉が並べられている。

 セウォル号の沈没以来、たった一ヶ月あまりでこれほど様変わりするとは、誰も予想しなかった。それほど大きな事件だった、と言うことだが、韓国の心棒が多分に脆弱であることを国民が気づかされたということも大きいのだろう。昔の北朝鮮ならこれをチャンスと見て韓国へ雪崩を打って攻め込むことだろう。しかし北朝鮮も中国のバックアップなしに軍事行動を起こすほどの金がないのは幸いであった。

 中国の習近平は大人(たいじん)の風格に見えるかと思いきや、言動がずいぶんこわもてである。踏み越えてはならない一線を次々に踏み越えているのは国内の不満を外部にそらすため、とも軍部を押さえきらずに暴走を追認せざるを得ないからともいうけれど、周りにとっては迷惑な話だ。

 中国や韓国が強い姿勢を示しているのは日本の安倍首相の強い姿勢に対する反発なのだ、などと論評する向きもあるが、これは中国や韓国の国際的な宣伝そのままの物言いではないか。安倍首相が強い姿勢をとっても国民の反発が少ないのは、まさに中国がとっている強硬姿勢のせいだともいえる。

 ただ国際的な見方が日本に同情するようではないことが気がかりだ。中国を非難するには世界中が中国との経済関係を深めすぎているからなのだろう。中国に対して強い態度に出ることの経済的マイナスを恐れているのが見え見えで、何が人権だ、と思う。やはりどこの国も自分の国のことしか考えていないのであって、しかも金を中心に世界は回っているらしい。

 その中国の経済がきな臭くなっている。不動産バブルは誰が見ても限界線を超えつつあり、ハードランディングが起こらないにしても、ソフトランディングでもリーマンショック以上の激震が世界に走るかもしれない。難破船からネズミが逃げ出すように、中国の巨額のブラックマネーが世界に逃げ出しているという。習近平はそれを腐敗の摘発のかたちで押しとどめるのに躍起だ、と言うニュースが連日報道されている。

 戦争をするのが困難なほど中国の金がタイトになればいい、と思ったりするけれど、歴史を見れば金に困ったときほど戦争が起こることを思い出す。それなら北朝鮮も暴走しないとはいえないし、中国がさらに強硬になる可能性が大きいことになる。イヤな世の中になってきた。

2014年5月21日 (水)

土屋賢二「ツチヤの口車」(文藝春秋)

 2005年の出版。著者はこの本が出た頃はお茶の水女子大哲学科教授で現在は名誉教授。もともと週刊文春に連載されているコラムをまとめたもの。これはシリーズになっている。

 読みながら思わず声を出して笑ってしまう本である。ところが著者の本は、本屋では哲学・思想のコーナーに置いてあることが多いので、知らない人は出会うことがない。もったいないことである。今回はもちろん再読か再々読。 

 どんな文章なのかは一部を引用しないと伝わらない。

この本のまえがきから、(この本のまえがきを読む人はどうせこの本を買わない、としてその理由を挙げている)。

買わない人のタイプ
①わたしの本を手にとって読む人
②わたしの本を手にとっても読まない人
③わたしの本を手に取らない人

買わない理由
・わたしの本の存在を知らなかった
・著者がわたしだと知った
・他の作家の本を買うため、わたしの本を買う金がない
・前書きを読んだ
・不思議に買う気が起きない
・読むと後悔しそうな気がする
・古本屋に高く売れない
・人目がある
・食べられない
・自分にはまだ未来がある
・間に合っている
・法事がある

そして、「口車にのせる」とは正しくない理屈で人をごまかすことであり、わたしはそういうことが大の苦手である。なぜなら、これまでわたしがいくら正しくない理屈をこねても、誰ひとりとしてごまかされるものはいなかったからだ、と続く。よってこの本をどうせ買わないだろうけれど、「ツチヤの口車」というタイトルは、「子猫の咆哮」と同じく「あり得ないこと」を意味していると考えていただきたい、としている。

さらに、どうせ買わないならせめて次のことをお願いしたい、として、①前書きを読んだ感想を人にもらさない
②本書を出来るだけ目立つ棚に置き直す
③それとなく人に勧める(「買うと幸運が訪れるらしいよ」「買わないと不幸になるらしい」など)

 それなのに私はこの本を買ってしまったのだ。しかも読んでしまった。さらに一度読んでも読んだ尻から内容を忘れてしまうので、再読、再々毒してしまい、そのたびに声を出して笑う。

 もし間違って読む気になったら文春文庫にこのシリーズが収められている。あっという間に読み終わってしまうが、何度も読めるので割高ではないと思う。私には訪れなかったけれど、「買うと幸運が訪れるらしいよ」。

曽野綾子「自分の財産」(扶桑社新書)

 いくつか曽野綾子の文章の抜粋を取り上げてきたけれど、ほとんどこの本からの引用だ。

 財産とは普通金銭をはじめ物質的なものを指すけれど、ここで言う財産とはそういうものではない。そしてそのような財産こそ本当の財産なのだと言うことが繰り返し語られている。そのことに全面的に同感である。

 お金はないよりあるほうが良いけれど、それに固執することで失うものがお金よりも大事なものであっては何のことか分からない。それが見えなくなっているのが現代社会のような気がする。それをいろいろなかたちで整理して見せてくれていて、私自身の生き方を、これで良いのだ、と自信を持たせてくれた。

 その人の生き方というのは価値判断、優先順位の付け方にあると思う。だから人それぞれであるけれど、ここにあげられた曽野綾子の数々の価値判断におおむね賛同する。そして全く反発する人がいるだろうことも当然だろうと思う。それでいいのだ。

命日

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 昨日は父の命日だった。もう丸三年過ぎてしまった。父の一生を父がどう思っているのか、父に聞くことは出来ない。考えてみれば最期の日までの完全な自分の一生を、人は語ることが出来ない。

 だからそれを語るのは残されたものにしか出来ない。

 父は専門学校を出てすぐに当時の満州へ渡り、彼の地で青春を送った。大半が戦地への従軍でもあったようで、自分は青春を奪われた、とときに呟いた。それでも生き延びて日本に帰ることが出来て、結婚し、子供をもうけ、家も手に入れた。

 弟と酒を飲みながら、私なりに父は幸せだった、と考えた。そう考えることが出来るのは、弟や私にとっても幸せなことなのだろう。

人間をやっているだけ

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 笑顔もなく口をへの字に曲げて感謝もなくむっつりと「人間をやっているだけ」では・・・(曽野綾子・「高齢者の“感謝の印”とは」から)

 まさに介護を受けている老人の多くがこのような典型的な姿をしている。私の老母もたいていはそのようである。

 その心の内に去来するものは何なのだろう。歳をとると自分のことしか見えなくなる。そしてそういう自分が見えていない。

 いろいろ話しかけて、ときに何かに感応してわずかに笑う。そのときにこちらがどれほど救われる思いがするか。分かっていないのだろうなあ、”感謝の印”はそれだけでも良いのだということが。

2014年5月20日 (火)

加瀬英明「中国人韓国人にはなぜ『心』がないのか」(ベスト新書)・・・笑えます!

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 残念ながらいささか粗雑な本であるように思う。まず句読点の打ち方があまりにこちらの感性と異なっていてきわめて読みにくい。

たとえば
「自分に都合の悪いことは、いっさい、隠して、根も、葉もないことを、考えだして、相手を非難し、攻撃する。手段を選ばない。相手に勝ちさえすれば、良いのだ」 (P.169)

「しかし、中華人民共和国を築いた、毛沢東は清朝にまでいたる、中華王朝の長い歴史を、封建制度のもとにあったとして、否定して、徹底的に排斥した」(P.196)

「林彪は、一九七一(昭和四六)年に、毛沢東を殺害して、クーデターを企てたという、罪状を着せられたが、航空機でソ連へ逃亡をはかる途中、乗機とともに、モンゴル共和国に墜落して死んだと、発表された」(P.197)

 この調子で延々と書かれているから胃がキリキリしてくる。特に三例目の文章など、知らぬ人が読んだら毛沢東は林彪に殺された、と思ってしまう。

 これは私の想像だが、著者が思いのまま、とうとうと独り語りをしているのを録音し、そこから文章を起こしたものではないか。

 残念なことに文章に起こした人が、中国や韓国の近現代史に無知なために、聞き間違いや著者の勘違いをそのまま文章にしてしまったものと思われる。著者もこの文章を見直せば良いのに、全く校正をしていないのであろう。だからとても恥ずかしいものになってしまった。

 読んでいると噴飯物の文章に突き当たり、それが楽しくて読みにくいけれど読み通してしまった。いくつか例をあげる。

「この易牙が自分の子を蒸して、夏の桀王と、殷の紂王に食べさせたという話は、中国人なら誰でも知っている」(P.27)

 易牙というのは有名な料理人だが、夏の桀王と殷の紂王と言えば、生きていた時代が700年前後離れている。易牙は仙人か!

「李白は南朝宋に生きたが、陶淵明(三六五年~四二七年)とともに、愛飲詩人と呼ばれ、親しまれている」(P.71)

 その前の方に、「唐代の李白」と言う文章がある。およそ漢文を習った人で李白が唐代の人であることを知らぬものはない。間違いにもほどがある。

「中国は、今日まで『枕草子』『徒然草』『方丈記』のような、優れた随筆文学も、生むことがなかった。」続けて「私は漢詩を好んできたが、漢詩も役人が暇を見て、酒を呷って、余興で書いているにすぎない」(P.105)

 前文の前に中国の小説を酷評している文章があるが、省略した。中国に優れた随筆文学がないなどとよく言うものだ。筆者のあげた日本の作品に負けない優れた随筆はたくさんある。無知も大概にして欲しい。知らないものは存在しない、と決めつける恥ずかしさを知らないようだ。

「(中国の)代議員のなかで、上位七十人の富裕者の私財を合計すると、四千九百三十一億人民元(約五兆円)にのぼると、報じた。そして・・・アメリカ上院議員の上位の七十人の私財を合わせても、その十分の一にしかならず、四百八十億ドル(約四兆七千億円)しかないと、述べた」(P.152)

 最初なんで十分の一なのか理解できなかった。なんと人民元とドルの数字をそのまま読めば確かに十分の一だ。笑うしかない。

 この本は間違い探しを楽しむための本です。

  ところで表題の、中国人や韓国人に「なぜ心はない」のか?それは著者が「心がない」と決めたからないのである。乱暴な話である。

 この人、福田赳夫や中曽根康弘首相時代に、首相特別顧問だったと言う。日本安全保障研究センター理事長、日本ペンクラブ理事、松下政経塾相談役を歴任したと略歴にあるけれど、大丈夫だったのだろうか(今は大丈夫ではないと思う)。

人間力

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 曽野綾子が人柄に打たれた人について、ある新聞記者たちをあげ、「彼らはまず第一に知的であった。よく勉強していたが、自分の知性の表現に対して穏やかでユーモラスで謙虚だった。ということは、自分の考えと違う人を高圧的に裁く闘争的な姿勢など、全く示さなかった。自分が人道的であることを売り物にするような幼稚な点も全くなかった」と書いている。

 読者を内心では愚民とさげすみながら、正義の味方を気取り、上から目線で善悪を勝手に判断し、啓蒙をしようとする某新聞社の記者では決してない。

 だから某新聞社とそこに寄稿する人の多くが、しばしば曽野綾子を天敵のように語るのだろう。

体が丈夫なだけで何も考えない

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 「日本の高齢者は、今かつてなかった新しい生き方を模索する時代の先端に立っている」「老年でも青春でも、濃密な人生を生きられるかどうかは、自分のありようを正視する力にかかっている。しかし一見簡単なこうした操作も、勇気と心の健やかさがないと、恨みや憎しみに乗っ取られて、少しも平明に見ることが出来ない。少し間違うと、老年は悲惨そのものの解決方法でしか答えが出せないという極論に走るかもしれず、それを賢く食い止める任務が先頭走者の日本人にはあると思われる」

 こう述べたあと、「フランスでは『健全なる精神は健全なる肉体に宿る』とは思っていない。体が丈夫なだけで何も考えないような人間はどうしようもない」と学生時代に神父から言われた言葉を紹介している。

 アンチエイジングにうつつを抜かすより、知性を磨くのが先だろう。ただし知性とは知識の量ではないことは言うまでもない。

時間の無駄をしてはならない

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 「日本人は、ほとんど麻薬的に受動的な刺激を受けて楽しむことに平気になった」「人生の時間を、自分を成長させることにある程度計画的に費やさないと、愚か者になる」。

 子供のときに、母に「時間の無駄をしないで」と言われて育てられた曽野綾子の言葉である。全面的に同感。

料理が出来ない人

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 「人はそれぞれ得手不得手はあるが、最低の生きるすべは手にしていなければならない。どんな男女も生きていくために最低限必要な食事作りだけは、出来て当然なのだ。一応の料理も出来ない男や女は、年金を正しく扱えなかった金融庁の役人並みに、人として生きる資格の基本に欠けていると、私は思っている」と曽野綾子が書いている。

 幸い私は独り暮らしで、出かけたとき以外はほぼ自炊している。生きる資格の基本のひとつは備えているらしい。

池上彰「知らないと恥をかく世界の大問題5」(角川SSC新書)

 副題「どうする世界のリーダー?新たな東西冷戦」。

 世界の今、を概観するこのシリーズもあっという間に5回目になった。世界は時々刻々変わっていく。この本も書かれた時点でもう古くなっていく。だからといってこの本の価値が小さい、ということではない。なぜならこの本のシリーズを保存しておいてあとで読み通せば、それはそのままリアルな現代史になるからだ。

 こちらがザル頭であることを見越してか(ただ親切なだけだけれど)それぞれの言葉について丁寧に説明があるのでありがたい。たとえばシーア派とスンニ派、アラウィン派とは何か、以前にも説明されているけれど、あらためてまた書かれているので調べ直す必要がない。

 いつものように価値判断を提示することは最小限に控えられている。池上彰にはどう見えるのかが示され、それについて考えるのは読者自身である。ただ過去の歴史に鑑みたとき、世界はどうやらますます危険な方向に向かいつつあるようだと感じる。

 この本には書かれていないけれど、背景には人口の止めどもない増加が影を落としているような気がする。エネルギー問題も、食糧の問題も、環境問題も、人が豊かになろうとすることと、人口の増加により配分が減少することの背反によって起きているのだろう。

 中国の覇権主義にも、遅れてきたものの焦りのようなものがありはしないか。だからといって許されることではないが。世界は先に富んだ国と、あとからその豊かさを享受しようとする国のせめぎ合いの様相だ。

 日本の人口減少は社会的、経済的な面ではマイナスだけれど、実は人類が縮小均衡をしないと生き残れない、ということを先取りする必然的な現象なのかもしれない。日本はそれだけ自然に対して親和的な民族なのではないか。ある意味では最も賢明な民族なのかもしれない。そのような役割を神に与えられたのか。

 安倍首相のアベノミクスは日本を成長に引き戻そうとしているけれど、自然の流れに逆らうのに無理をしすぎているところがありはしないか。縮小均衡へのソフトランディングを模索すべきときかもしれない。

 人は自分に必要なもの以上のものを求めすぎている。

2014年5月19日 (月)

やはり同一民族

 北朝鮮・平壌の23階建て高層マンションが建設途中で崩壊した。すでに入居した住人が少なからずいて、その多くが死亡したと北朝鮮が公表した。

 普通北朝鮮はこのような事故を報道しないが、異例のことである。

 この知らせを受けて、金正恩第一書記は「胸を痛め、夜を徹して泣いた」そうだ。多分死者の中に知り合いでもいたのだろう。これからこの崩落事故の関係者は粛正されるだろう。

 ところであの韓国でも、7階建てのビルが突然30度も傾いたというニュースが報道されていた。手抜き工事が原因で(日本が悪いわけではないらしい)、関係者はすでに逃亡したという。結局崩壊してしまったらしい(聞き間違いかもしれない)。

 傾いて倒れる、と言うとセウォル号の沈没を思い出させるではないか。

 韓国も北朝鮮も似たような事件が起きるものだ。やはり同一民族らしい。

シンシアリー「韓国人による恥韓論」(扶桑社新書)

Dsc_0172 韓国・済州島にて 

 匿名で主義主張をすることを認めない、と云う強い意見がある。匿名であることを良いことに無責任で根拠のない暴言を吐き散らすものが多いことは確かである。しかしそれは言論の自由が比較的に認められている日本だからいえることで、他の国では、大勢と違う意見を表明することは、しばしば危害を加えられたり、社会的生命を失うほど大きなリスクを伴う。

 このシンシアリーという名前はもちろん仮名である。韓国の歯科医師であること、1970年代生まれであることしか分からない。日本統治時代に日本語を覚えた母親に教わって日本語を習得し、日本の文化を積極的に受け入れてきた人物で、今のところ韓国内で身元は暴露されていないようだ。悪意のある見方をすれば、実は日本人が韓国人を騙っている、とされるかもしれないが、本文を読む限りそんなことはなさそうだ。

 彼は日本で「シンシアリーのブログ」を開設しており、アクセス数が一日10万を超えるという。そこで繰り広げた彼の考えとその根拠をまとめたものが本書である。

 韓国の反日は、一部の狂信的な人々に限られるのではないか、と云う思いを持っていたけれど、著者の言う「反日教」は、すでに異端者を許さないほどに韓国全土に蔓延しているらしい。そしてその猖獗ぶりは今後さらに激しくなる可能性が高く、治まることは望みにくい、と著者は見ている。 

 彼があげるいろいろな事実は、普通に韓国で経験したことに裏打ちされている。特殊な集団の思い込みとは違うようだ。

 その内容は本書を読む方が早いし、私というフィルターを通すよりも正確に伝わるだろう。韓国にも平衡感覚のある人間もいるし、日本にも狂信的な扇動者がいるが、どうも韓国は今、中世の魔女狩りのごとく、「悪魔である日本」と、その手先である親日派を異端審問にかけようという暗黒時代であるようだ。

 話せば分かる、と言ったのに射殺された犬養毅首相(五一五事件)の例を引くまでもなく、話しても分からないことの方が世の中には多い。

 韓国はまさにそうなっていて、さらにそれがひどくなっている。だから敬して遠ざけるにしくはない。触らぬ神にたたりなしだ。

 著者は韓国が嫌いなわけではなく、日本が好きである以上に韓国に熱い思いを持っていることは、よく読めば分かる。だからこそ、このような本を上梓しようと思ったのだろう。著者のためにも韓国の現状を共に悲しく思う。

Dsc_0058 同じく済州島にて 

内田樹編「街場の憂国会議」(晶文社)

 内田樹自身を含む九名の論客が、彼の呼びかけに応じて現在の日本、つまり安倍政権下の日本についての懸念を寄稿した文章をまとめたものである。それぞれ他の人が何を書くのか全く知らずに独自に書かれているので、その論調は様々であり、全く異なる。

 寄稿したのは、内田樹、小田嶋隆、中野晃一、想田和弘、平川克美、高橋源一郎、孫崎享、中島岳志、鷲田清一の九人。

 おおむね安倍政権の進めている方向がきわめて危険である、と捉えている。多くの国民は(私も)それについてそれほど危機感を抱いていない。だからこの人たちの言葉は杞憂である、と感じられる。そしてそれが杞憂であるかどうかは歴史のみが検証できる。

 ああ、あれが歴史の曲がり角だったのか、とあとで思うのが大多数の人で、曲がる前からそのことが見えている人は少ない。

 言い慣らされすぎて言うのが恥ずかしいが、景気の気は気分の気だ。長い間沈滞していた日本の気が何となく少し昂揚して来たように思える今、安倍政権批判は民主党や社民党などに与するようなスタンスみたいで好きではない。どうであれ、上向きになることは肯定的に捉えたい、とみんな思っている。これからが今より少しでも良くなる、と思いたいのだ。

 だからこの本は私には読みにくい本であった。そして読み終わったあとに考え方が大きく変わったと言うこともない。しかし安倍政権が拙速に過ぎる、と云う気持ちを、実は自分が気がつかないうちに感じていたことに気がついた。

 物事はすべてが是、または非、ではない。これは良いけれどこれはどうか、と云うのが然るべき態度というものだ。それが今安倍政権・是か非か、という単純な問いかけに絡め取られていないか。

 是であるなら、あれもこれも、と気がつかないうちにすべてに了承の判を捺していないか。そのことを考えるきっかけになる本である。

 良薬は口に苦し。なかには肌合いが合わず、読むのが苦痛のものもあった。

 昨日から母の介護の手伝いのために千葉県に来ている。だから映画はしばらく見られない。本を読むしかない日々がしばらく続く。

2014年5月18日 (日)

沈才彬(ちんさいひん)「PM2.5『越境汚染』」(角川SSC新書)

1010 西安の夜景

 著者は江蘇省生まれの中国人。多摩大学客員教授、(株)中国ビジネス研究所代表、中国ビジネスフォーラム代表。

 副題「中国の汚染物質が日本を襲う」

 中国の大気汚染の実情と、今までどのような対策がとられ、これからどのような方策がとられようとしているのか、著者が現地取材した事実を踏まえてレポートしている。あわせて水質汚染と土壌汚染についての実態が報告されている。

 結論を言えば、あまり希望的な情報はない。すでに知られていることの再確認をすることになるだけであるが、中国人がこの報告を書いていることに意味を感じたい。

 中国を訪れることが好きなので、中国に行きたい気持ちがあるけれど、都市部については当分の間行かない方が良いようだ。

 歴史を見ると、文明や国家は外部の要因で直接的に崩壊することはないといわれる。ほとんどが内部から崩壊しているのである。

 中国の体制瓦解は経済的な要因で起こる、と予測する意見をしばしば見るが、この環境汚染による国民への甚大な被害はますます顕在化していき、中国国民の体制転覆へのエネルギーになり得るのではないか。

 表題は「越境汚染」で、日本や韓国などへの影響についても論じているけれど、やはり中国自体の被害の方がはるかに大きいのであり、そのことを止められるのは中国自身しかないのだと中国国民が理解することが出来るのかどうか。

 国家がすべてを統制している国では、責任も国家が負う。しかし国家が負うことが出来ないとき、中国の体制が揺らぐことになるのは当然であろう。

曽野綾子「風通しのいい生き方」(新潮新書)

 曽野綾子の本は再読にたえるので処分しない。だから気が付いたら50冊以上の本がたまっている。エッセイが好きなので、小説は少ないから、本来小説家である曽野綾子にとってあまりいい読者ではないかも知れない。

 この本もすでに読んだことのあるようなことが書かれている気がするが、当方がザル頭なので、いつもいろいろなことを新たに考えさせてくれる。

 考えたことは、それこそよどみに浮かぶうたかたのように、浮かんでは消え、浮かんでは消えていって、明確な記憶には残らないが、多分こころの何処かに小さな種として残っているだろうと思いたい。

 この本を読んで「やさしい」ということについて考えた。

 人は自ら出来ることは自分でやる、やるべきだと思う。でもやりたくても出来ない人がいる。それが弱者というものだと思う。だから弱者には手助けをするのは当然のことだ(やれるのにしない人は弱者と呼ばないということだ。今はやらないことをやれないことにすり替えることに巧みな者が出て来て不快である)。

 赤ん坊は自ら出来ることがほとんどないから全面的な保護が必要だし、子供も出来ないことが多いから手助けしなければならない。問題は手助けしなければならないことか、自らしなければならないことかを手助けする側がきちんとわきまえることだ。

 介護老人も幼児や赤ん坊みたいに、出来ないことの方が多い。だから手助けが必要だ。

 老親が自分のことを自分でしようとするたびに、「私がやりますから坐っていてください」とやさしく声をかける人を見かけることがある。確かに洗い物などは年寄りがやると不完全でもう一度しなければならないかも知れない。年寄りはケチだから洗剤も水も十分に使わない。

 でもそのことは年寄りにやさしいと言えるのかどうか。

 自然には復元力というか自己修復能力がある。もともと人間だって動物だから自然の一員でもある。「地球にやさしい」という言葉に人間の思い上がりを感じるのは考えすぎだろうか。

 あまりいわれることはないが、日本は世界有数の森林国だそうだ。これは日本の自然の自己修復能力が高いという、恵まれた条件があるけれど、それ以上に復元力の範囲内でしか森林から収奪しない、という日本の先人の「やさしさと知恵」があったことを忘れてはならないだろう。

 経済が急成長していた時代、それを見失って日本の川や海は汚れ、大都市や工場地帯の大気は汚染し、森林は損なわれた。しかしかろうじて日本の自然の復元力の範囲の中で踏みとどまり、今再び川は魚が住めるようになり、青空も普通に仰げるようになった。このために功利的なことを越えて努力した人たちがいる。

 それは環境保護を叫んだ人であるように見えるけれど、実際に働いたのは科学者であり、技術者だった。そのことを環境保護を叫ぶ人は忘れてはならない。

 曽野綾子はしばしばそのような技術者の立場に立ってものをいうので批判が多いけれど、実際に世の中はそのような人たちがいて、批判されながら、反論もせず働いていてくれるから成り立っているのだ。

 実際に地球にやさしくしているのは彼等であることに心しなければならない、などと考えた。

2014年5月17日 (土)

世論調査

 今朝のテレビを見ていたら、各新聞社の行った、集団的自衛権の運用の是非についての世論調査の回答の数字が比較されていた。

 新聞社ごとに違うのは当然で、同じである方がおかしいが、それにしてもその違い方が尋常でない。憲法の弾力的運用については、いままでの報道では、その是と非がほぼ同数に近いらしいように見えたが、分からない、というのが多すぎで何とも判断がつかない、というのが実際のところだろう。

 多くの新聞社はその傾向を示しながら多少の差があるというところだが、一社だけ反対の判定が突出して多かった。もちろん某朝日新聞である。

 コメンテーターは、設問の違いが回答に反映している、といっていてその通りだろうが、世論調査の結果をその新聞だけで見ていると世の中とは違うものを見せられていることになる。某新聞の読者だけ特に似たような考えの持ち主ばかりとは思えないけれど、知らず知らずのうちに誘導されているとしたら怖い。

 某新聞の読者がこれを見て、ちょっとだけでもおかしいな、と思ってくれると良いのだが・・・。某新聞社は自社だけが正義であることの結果として胸を張るだろう。

 間違うことがあっても自分の頭で考えて判断するのが民主主義だ。それでこそ間違ったときに自分の責任としてそれを引き受け、訂正することが出来る。それを、正しいのはこちら、と提示して見せて誘導するのは読者を愚民、と見ていることの表れではないのか。こうしていつも、何が起きても誰かの責任として、人ごとのように考える国民が作られていく。

 中国や韓国が日本の歴史認識を非難していることにはずいぶん理不尽なものが多いように感じるけれど、戦争を歴史としてみずから学び、自分の問題として考えることを怠っている、と云う点だけは彼等の言い分に理がある。

 それは誰のせいだ。日教組か。戦争を煽ったのに、口を拭って正義の味方を装う新聞社か。

映画「ヒューゴの不思議な発明」2011年アメリカ

 監督マーチン・スコセッシ、出演エイサ・パターフィールド、クロエ・グレース・モレッツ、ベン・キングスレー、ジュード・ローほか。

 時計職人で博物館に奉職していた父と二人暮らしをしていた少年ヒューゴ(エイサ・パターフィールド)は、博物館の火事で父(ジュード・ロー)を喪い、パリのモンパルナス駅の時計台のメンテナンスをしている叔父に引き取られて学校にも行かず、駅の壁の中で暮らしていた。その叔父もいつしか行方不明となり、独りで叔父のあとを継いで、駅の時計たちの保全を続けていた。

 駅を舞台にして集いまた去って行く人々を駅の裏側から眺めるヒューゴが生きがいにしていたのは、父が博物館から持ち帰って修理していた自動人形の修理を完成し、再び動かすことだった。

 その修理のために、駅の中でささやかに開かれているおもちゃ屋から秘かに部品を盗み続けていたのだが、ついに老店主(ベン・キングスレー)につかまってしまい、父の残した修理のための設計図の書かれたノートを取り上げられてしまう。

 実はあの自動人形と老店主・ジョルジュ・メリエスとは深い関係があったのだ。

 ヒューゴは老店主の後についていき、ノートを返してくれるように懇願するのだが拒絶される。そのときに老店主の養女であるイザベル(クロエ・グレース・モレッツ)と知り合う。

 ジョルジュ・メリエスとは誰あろう、あの映画の黎明期に沢山の映画を製作し、今は忘れ去られていた人物であった。

 映画好きにはたまらない映画であろう。導入部の駅の内面のセットは詳細を極め、カメラワークも技巧に富んでいるから映像が素晴らしい。これだけで映画の世界にはまり込んでしまう。その上普通見ることができないメリエスの映像や、キートンやチャップリンの無声映画が見られるのだからたまらない。

 クロエ・グレース・モレッツは「キック・アス」の時とはまた違うチャーミングさを見せている。この口許はハリー・ポッターシリーズのハーマイオニー役のエマ・ワトソンに似ていて好いなあ、と思う。

映画「孤高のメス」2010年・日本

 監督・成島出、出演・堤真一、夏川結衣、吉沢悠、中越典子、成宮寛貴、余貴美子、柄本明、平田満ほか。

 続けて医療映画(そんな云い方があるかどうか知らないが)を見た。

 感動した。とてもいい映画だ。そして医師とはどうあるべきか、誰もが考えさせられるはずだ。それを見失っているとすれば、それは医師だけの問題ではなく、社会そのものに問題があるのではないか。韓国のセウォル号事件が関係者だけの問題ではないように。

新米医師の弘平(成宮寛貴)が、母の葬儀に帰ってくる。母は海辺の地方都市で看護婦をして弘平を女手ひとつで育て上げた。そして葬儀の後、母の遺品を整理していて見つけた母の日記を開いたところからこの物語が始まる。

 その地方都市の市民病院に、外科医として赴任してきた当麻医師(堤真一)の姿が中村浪子(弘平の母・夏川結衣)の目を通して語られていく。

 当たり前のことを当たり前に、しかも果断に行っていく当麻医師は、そのためにかえって周囲と軋轢を生ずるが、いつしかその秘めた熱情に揺り動かされる人たちを惹きつけていく。その過程は感動的だ。

 当時(このことが日記に書かれていたのは1989年)法律的にまだ認められていなかった脳死者の生体肝移植を、それしかほかに方法がないと(後で非難されることを覚悟の上で)実行に移すところがクライマックスだ。

 当然後で司法からの追及を受け、マスコミの糾弾を受けて、彼は責任をとり病院を去る。

 その日記を読み終えた公平には世界が違って見えたことだろう。母について初めて知ったことも多かったはずだ。こうして母の残したものを胸に納め、彼は自分の勤める大学病院に帰っていく。

 ラストシーンは説明的ではなく、ただ一枚の写真。それがさわやかな感動を呼ぶ。新たな当麻医師が誕生したのだ。

 この映画が第34回の日本アカデミー賞の優秀作品賞、優秀監督賞、優秀脚本賞、優秀主演男優賞(堤真一)、優秀助演女優賞(夏川結衣)、をはじめ数々の賞を取った映画だとは不明にして知らなかった。むべなるかな、というところだ。

 脇役の余貴美子、柄本明、平田満なども素晴らしい。手術のシーンが多いので、苦手な人もいるかも知らないが、出来れば誰にも見て欲しい映画だ。

宇治・続きの続き

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宇治川の中州に塔の島がある。

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この十三重の石塔は日本で最大の石塔だそうだ。

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橋のたもとに鵜飼い船の船宿がある。まだそのシーズンではないようだ。右手が塔の島。

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反対側の対岸。新緑がきれい。この辺は宇治川の流れが強い。

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地図でみると、中州の一番先端に宇治川先陣の碑があるはずなのだが、護岸工事をしていて入れない。工事中のため碑は待避されているという案内があった。

源義経率いる木曽義仲追討軍が、宇治川を渡るときの、佐々木四郎信綱の池月と、梶原源太景季の磨墨(するすみ)による先陣争いの話は有名で、岐阜県に磨墨の里がある。蛇足ながら池月も磨墨も馬の名前である。子供のときから信綱はずるい、と思っていた。

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対岸に渡り、人が多そうな宇治神社はパスして川岸の道を宇治橋まで戻る。これは宇治十帖のモニュメント。この前も写真を撮る人たちがひしめいていた。三脚が並んでいたから何かの撮影会のようだ。

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本格的にお茶を飲ませてくれる喫茶店らしいが、本日休業ということであった。

このあと宇治橋をわたり、駅に戻った。三時間足らずしか歩いていないのにかなり疲労した。最初から身体が重かったが体調のせいなのか、運動不足のせいなのか。

これで宇治は終わり。

2014年5月16日 (金)

宇治・続き

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宇治の駅からすぐに平等院に向かわず、橋姫神社に立ち寄った。神社といってもこれだけ。

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平等院鳳凰堂はリフレッシュしたばかりとあってこんな行列に。

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新しくなったせいなのか、何となくふぜいに欠ける。

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こちらは鳳凰の鳳なのか凰なのか。これはピカピカが似合う。

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平等院の中にある源三位頼政の墓。この人は平家物語のなかでも不思議な存在だ。

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平等院の裏側の入り口もこの通り人が多い。ギャルの集団。

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裏口をでてすぐのところに県神社がある。ここはどうというところもないところが神社らしくてこの方が好きだ。ここの祭りは奇祭だそうだがどんな祭りか知らない。

ここから宇治川の中州、塔の島に向かう。

映画「ジーン・ワルツ」2011年・日本

 監督・大谷健太郎、出演・菅野美穂、田辺誠一、浅丘ルリ子ほか。

 あの「チームバチスタの栄光」や「ジェネラル・ルージュの凱旋」と同様、医療ミステリー作家の海堂尊の同名の小説が原作なので、本格ミステリーかと思っていたら、産婦人科の現在の問題点を理解しやすくするために、ミステリーの体裁をとっている啓蒙映画であった。

 だからといって冗漫ではなく、大変良く出来ていて面白い。

 産婦人科医や小児科の医師のなり手が激減しているという。確かに明らかな医療ミスもあるかも知れないが、そもそも出産にはリスクがつきもので、非常事態が起きたときの責任を全て医師の責任として追及することは、かえって医師を減らし、妊婦の受け入れ先をなくして、たらい回しの末、母子共に死亡、などという事態を招いていることは事実だ。

 クレーマーが正義の名のもとに医師を糾弾するのが日常的になれば、医師も保身に走るのは当然だ。そもそもクレーマーの蔓延は社会を劣化させる。社会がみな被害者の仮面をかぶれば、真剣に仕事に取り組んでいる正直者は生きにくい。クレーマーを助長しているのはもちろん正義の味方、マスコミだ。

 その産婦人科の問題のひとつ、代理出産の是非がこの映画のテーマと言えるが、産婦人科の医師とは究極、何を目指すものか、ということを問うている。理想主義かも知れない。出来ないことは出来ない。しかしそれでもあきらめずに全力を尽くす、という主人公の姿に感銘の涙を流し、命が誕生すると言うことの神秘と素晴らしさをあらためて考えさせてくれる。

お食事券

 幼いときに繰り返し中耳炎を患ったので、左の耳が少し聞こえにくい。さらに年齢とともに聞こえにくい音域ができたようだ。特に人の話し声が聞き取りにくいことがある。

 佐村河内氏が「音はかろうじて聞き取れるのですが、音がゆがんで聞こえるんです」と言い訳して失笑を買っていたが、その、ゆがんで聞こえる、というところは何となく100%の口から出任せとは思えず、そんな事もあるかも知れないと同情している。

 だから聞き間違いをしばしばする。そんな事を云うはずがない、と思うから、しばらくそのまま聞き流し、前後の文脈から「ああ、そういうことか」としばらくして納得することがある。

 これはそのような聞き損ないとは違うけれど、誰かが「汚職事件」と「お食事券」の聞き間違いを文章に書いていた。思わず笑ってしまったが、その後、ニュースでしきりに「お食事券、お食事券」と言っているように聞こえて、いまだに「汚職事件」と聞こえなくなっている。

2014年5月15日 (木)

宇治

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宇治は初めてだ。平等院鳳凰堂が回想されたというニュースを見ていたので見に行くことにした。

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宇治といえば宇治橋。この橋は日本でも最も古い橋らしい。

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もちろん最初に架けられたのが古いのであって、この橋は現代のものだ。

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橋のたもとには紫式部の石像がある(美人で可愛い)。宇治は源氏物語の最後の十帖、いわゆる宇治十帖の舞台である。宇治の町はそれを前面に出してアピールしているようである。

残念ながら源氏物語は、高校のときに古文でちょっとかけらをかじっただけで、訳したものも含めて読んでいない。読んでいる人はどれほどいるのだろう。読んでいる前提でいろいろゆかりのあるものが提示されているけれど、ああ、これがあのあれか!などということが全くないのは哀しい。

労を惜しんで衆を恃む

 昨晩は大阪の夜を楽しんだ。早めに飲み始めたので、いくら飲んでも夜が更けない。飲むほどに気分は高揚し、幸せな気分になる。私の酒はおおむね良い酒で、共に飲む仲間もそういう酒を飲む。

 最後はあのあべのハルカスの19階で、夜景を眺めながら美味しいウイスキーを飲んだ。雨の夜だが、思ったより見通しが良く、あべのハルカスの最上階の60階、地上300メートルにははるか及ばないが、周りのビルを見下ろしながら美しい夜景を楽しんだ。

 曽野綾子の本を読んでいたら「労を惜しんで衆を恃む」という言葉に強く感じるものがあった。

(以下はその内容とは関係なく、私が感じたこと)
 私はデモが嫌いだ。特にあのシュピレヒコールというのが恥ずかしくてたまらない。「何々を何々せよ!」「何々は絶対反対!」などと先頭の人物がわめくのを、後ろで唱和することなど死んでもしたくない。 

 こんなことを言うと顰蹙を買うだろうが、あのセウォル号の沈没事件(事故と云うより事件であるようだ)の高校生たちが自ら撮った船内の様子がいくつか報道されているのを見ても、数を恃んで行動に移さない様子が見て取れる。誰かが「これは危ない、沈没するのではないか、逃げろ!」と叫んだら、雪崩を打って船の外へ出ようとしただろうに、行動に移ることが出来ず、互いが笑い合うことで不安を押し隠している様子が写し撮られていた。

 ああすれば良かった、というのは済んでからだからいえる。その場にいたらなかなか行動に移すことが出来ないこともあるだろう。しかし世の中には身の危険が迫る事態もありうる、そのときは自分で判断しなければならない、という意識を持たないと助かる命も助からない。危険に対するセンサーが劣化している、ないしは失われているような気がする。

 韓国はこのことでセンサーを過剰に働かせているように見えるが、過剰はやがて再びの喪失につながるような気がする。しかも事件の責任を過剰に追及すれば、ますますセンサーに対する感性を取り戻すことがおろそかになるのではないか。日本も、そして私もそれを自戒しないといけない。

2014年5月14日 (水)

石平・西村幸祐「中国を捨てよ」(イースト新書)

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 帯には「反日韓国は中国にくれてやれ!」とある。ずいぶん乱暴な話で、ここまで深くなっている中国との関係を断つことなど出来ようはずがない。それに反日韓国はそもそも日本のものではないから、くれてやることはできない。そもそも捨てよ、とか、くれてやれ!と云っているのは誰にたいしてだろう。

 などと思う人もいれば、この題に痛快さを感じて思わず(私のように)この本を買う人もいることだろう。

 天安門事件を機に日本にやってきて、日本で中国批判を続け、ついに日本に帰化した石平が、保守を自認する西村幸祐と対談し、意気投合したものが本にされている。

 歴史認識も含め、意見がほとんど違わないから、二人の意見に賛同するものにとっては気持ちよく読めるだろうし(どちらかと云えば私も)、今の中国に不快感を感じている多くの日本人はこのような言説に耳を傾けるだろう。

 「中国を捨てよ」という表題は、中国と友好関係を構築しなければならない、という、当たり前と思われている考え方を捨てよ、ということである。中国は日本が考えている友好関係を結ぶつもりなどないことに早く気が付かないといけない、といっているのだ。

 友好関係などにこだわらずに関係を深めることは可能であるし、現に今そうである。安倍政権が言っている友好関係というのはお友達になることではなく、一触即発の事態を回避出来るような関係のことを言っている、と国民は理解するべきである、という話である。

 マスコミは中国とお友達、それも親友になろう、と呼びかけているが、親友なら自己犠牲をして見せてくれ、と中国は必ず言うだろう。今の中国はそういう国ですよ、だからお隣さんとして、見ず知らずの危険な国ではない、挨拶を交わす程度の関係でいいではないか、というところだろうか(本当は早く手を引け、撤退しろ、といっているけれど、最初にいったように、そんなことはできない)。

何のストレスもなく中国に行くことが出来た日々が懐かしい。行けばそれなりに楽しいのは分かっているのだけれど。

本日はこれから京都見物に出かける。今日は宇治にでも行こう。宇治は実は初めてだ。

桐生の周さん、コメントありがとう。晩にはU島やF谷君たちとおいしい酒を飲むつもりです。また桐生に行きますからね!

2014年5月13日 (火)

飛騨川

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飛騨川は木曽川の支流で、この河に沿って国道41号線が高山まで走っている。そして国道41号線は分水嶺を越えて高山から富山まで続いている。

飛騨川の景色で特に美しいのはこの写真の飛水峡と、中山七里だ。朝方は雨上がりなので岩石が濡れて美しい。晴れて乾いてしまうと白っぽくなりすぎて風情がなくなる。

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この時期はこの花のような青紫色の花がいろいろ見られる。桐の花や野生の藤の花なども目立たないけれど美しい。ただ、写真に撮ると背景の緑に埋没して、見た目のように映らない。

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こんな景色が延々と続く。運転に注意だ。41号線はトラックが多い。しかも飛ばす。後ろから煽られたりすると危険だ。

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こんな吊り橋がたくさん架かっているけれど、たいてい封鎖されていて渡れない。橋の上から写真が撮りたいのだけれど・・・。

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小さなダムがいくつかあり、ダム湖と言うほどのないダム川となっている。少し薄日が差してきた。

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まん中の白い岩、舌のような部分に甌穴があるのが分かるだろうか。中空の甌穴である。大石がごろごろしているのは水量の多いときの水の勢いのすさまじさを物語る。

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下呂で日帰り温泉に入る。いつものように風呂上がりに下呂牛乳を飲んだ。ついちょっとおかしくて笑ってしまう。写真は帰り道に立ち寄った白川の道の駅「ピアチェーレ」。ここのソフトクリームはとてもおいしい。白川は岐阜県のお茶の産地。ここで新茶を買うのが今回のドライブの目的のひとつ。

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ピアチェーレの対岸に淵がある。みなあまり気が付かない。

本当は下呂から高山へ行くつもりだったが、夕方、歯医者を予約していたことを思い出したので、下呂からひきかえしたのだ。今が新緑で一番気持ちの良い時期だ。快適であった。明日は大阪で友人たちと飲む。楽しみだ。

映画三昧

 本日は住んでいるマンションの配水管メンテナンスの日。だから排水を流すことが厳禁されている。10年以上前に大々的な配水管の取り替え工事を行い、太い配管に交換し、各戸に作業用の開口部も設けたので詰まりトラブルは起こりにくくなってはずだが、それでも排水に油などを流すバカ者がいるらしく、一階二階などで配水管詰まりを起こして大迷惑が起きる事故がいくつか起き出したらしい。

 排水出来なければとうぜん炊事が出来ない。だから出かけることにする。今回は一階と二階だけ業者が部屋に入るので在宅しなければならないが、上の階は不在でかまわない。なまじうっかりして水を流して下に迷惑を掛けたくないので出かける方がいいのだ。それでもうっかり排水を流すバカ者がいることだろう。

 このところ映画三昧であった。BDに録りためて、見ていない映画が数百本ある。見るより録画する方が多ければたまるだけだ。最近はWOWOWでも面白そうなものは録画済みの映画が多いので、録画する頻度は減っている。せっせと見ればたまっているものが多少は減る。

 ブログに見た映画の記録をなるべく残しておこうとしているが、せっせと見ていると書くのが追いつかない。そこで題名とかんたんな感想を記しておく。

「容疑者Xの献身」2008年日本映画、監督・西谷弘、主演・福山雅治。先日見た映画「真夏の方程式」の前作にあたる。原作は東野圭吾でこの小説は直木賞を受賞している。ラストのあっと驚くトリックは途中にその伏線があり、どんな意味だろう、と感じてはいたのだが、このぼんくら頭は見事にだまされた。

「ジェネラル・ルージュの凱旋」2009年日本映画。監督・中村義洋、出演・竹内結子、阿部寛、堺雅人、羽田美智子ほか。これも「チームバチスタの栄光」という映画の続編だが、こちらを先に見てしまった。病院の内幕をカリカチュアライズして描いているが、医師の本質を最後に見せて救いがある。お医者さんも大変だなと思う。先生も大変だし、仕事というものは大変だ。大変楽しく見させてもらった。竹内結子は好い。

「ハード・ラッシュ」2012年アメリカ・イギリス・フランス合作映画。監督バルタザール・コルマウクル、主演マーク・ウォールバーグ。マーク・ウォールバーグは「ザ・シューター 極大射程」という映画で認識した。ほかにも気が付いたらいろいろ出ていたけれど、名前を記憶するほどではなかったのだ。「猿の惑星」のリメイク映画に主演で出ていたけれど「ザ・シューター」の後で見た。私の印象としてはマット・デイモンに似ている気がする。だいたいこの人が出る映画は面白い。動作が機敏で活き活きしているところが好きだ。この映画も緊張感満載で面白かった。ラストの彼の哄笑が痛快だ。

「オズ・はじまりの戦い」2013年・アメリカ映画、と云うよりディズニー映画。ディズニー映画には駄作が多くて期待外れに終わることが多いが、この映画は良かった。監督がサム・ライミだから当然か。あの「オズの魔法使い」という有名な童話(映画化もされている)の前作譚という体裁になっている。ドロシーが竜巻に運ばれてオズの国に行くのが「オズの魔法使い」だが、この映画にはもちろんドロシーは登場しない。ドロシーが出会う魔法使いオズがなぜあんなかたちで存在するのかがこの映画で分かる、と云う仕掛けになっている。映画の導入部20分ほどは画面が2:3の白黒画面。オズがオズの国に行ったとたんにカラフルな大画面となる。それがとても美しい。大変楽しい映画だった。

「クライムダウン」2011年イギリス映画。監督ジュリアン・ギルビー。山岳サスペンス映画というのだろうか。あの「クリフハンガー」よりもスリリングで、なおかつ敵は悪辣である。山で少女を助けた登山家たちのグループが執拗に狙われて次々に命を落とす。彼等は救われるのか・・・。イギリスにこんなに険しい山々があるとは知らなかった。拾いものの緊張感のある面白い映画だった。イギリス映画は好みだ。

ほかに「G.I.ジョー バック2リベンジ」2013年アメリカ映画、「ビトレイヤー」2013年イギリス映画、「刑事ベラミー」2009年フランス映画、などをそれなりに楽しんで見たけれど、切りがないのでこのへんで止めておく。

2014年5月12日 (月)

命の値段

 大量生産によって生産性が上がり、コストは下がる。つまり値段が下がる。グローバリズムというのは巨大資本が莫大な資金を投下してコストを最低限にしようとすることではないか。そしてそのコストに当然人件費が含まれる。

 これがデフレの原動力(原動力というのは少し変な云い方だけど)だと思う。だから中国は低賃金で無尽蔵の労働力によって世界の生産工場になり、韓国が巨大財閥による資本投下で世界の弱電業界を席巻することが出来た(陰りが見えてはいるけれど)。

 そのコストの中に安全対策も含まれる。安全対策の経費は利益を生まないが、事故が起きたときには安全対策に必要だった経費以上の損失を生ずる。

 つまり命の値段を織り込むことは、結果的に損失を回避することで利益につながるのだが、事故はめったに起こらない。だから安全対策は無駄な経費に見える。

 こうして福島第一原発の人災は起こり、セウォル号の沈没は起こった。

 韓国は安全対策をしないことをコスト競争力に換えて来なかったか?今韓国に問われているのはそういうことではないかと思う。

退路を断つ

 韓国の新聞が、歴代大統領の任期中には功罪があったが、それぞれ歴史に残るなにものかを残したことも事実である、とした上で、しかし就任して一年あまり経った朴槿恵大統領にはそのようなものが見当たらない、と厳しい評価を下している。

 中国陝西省西安市で、「反日記念碑」の除幕式が行われた。この記念碑は、朴槿恵大統領が昨年西安を訪れた際に建立を要請したものだという。中国側は歴史認識問題で協調する、という観点から合意して建てられたものだそうだ。

 正式には「韓国光復軍駐屯記念碑」と云い、日中戦争の際に中国に臨時韓国政府がもうけられ、その軍隊として作られた光復軍の一部が西安に駐屯したことを記念したものだそうだ。

 しかし戦後すでに70年近く経っている。今更そんなものを中国に建てることにどんな意味を込めているのだろう。

 安倍政権の歴史認識に反発する、という韓国側の気持ちは全く理解不能と言うことはないが、それが日本全体の存在を否定するかのような反日行動になる、と云う朴槿恵大統領の姿はいささか異常だ。

 彼女は日本との関係改善という退路を断つことで、どこへ向かおうとしているのだろうか。これが彼女の大統領としての功績として歴史に残る、と信じているのだろうか。

テレビが面白くない

 今は亡き、やしきたかじんの番組、「たかじんのそこまで行って委員会」や、「たかじんノーマネー」という番組は今も続いていて面白い(たしか両方とも関東だけ放映されていないはずだ)。なぜ面白いかと云えば、ほかの番組よりもテレビ局の自主規制の枠がゆるいからだ。テレビ番組の自主規制はどんどんエスカレートして過剰になっている。

 ニュースはバラエティ番組と化し、CMの合間に細切れに情報らしきものを伝えるが、どこの局のニュースを同じ切り口で、繰り返し放送しているのでほとんど変わらない。

 コメンテーターに芸人が起用されることが多いのは、視聴者がテレビ局の自主規制の枠をはみ出した物言いを期待して、視聴率が上がると期待してのことだろう。しかし芸人とて商売だ。テレビ局は芸人だからこそ枠をはみ出さないように厳重に注意しているのではないか。テレビ局に迎合する感性に長けているのが芸人だもの、枠など外したりしない。辛口のコメンテーターもたちまち角を矯められて羊と成り下がる(羊さん、御免)。

 こうして同じニュースに同じコメントが繰り返されているから、中国や北朝鮮と同じ、たったひとつの報道や意見が流されているだけだ。

 冒頭にあげた番組が、自主規制の枠がゆるいと言ったってそのゆるさはわずかなものだ。それでも面白いのは見ているこちらの本音にちょっと触れるところがあるからだ。つまりほとんどの番組が建前のきれいごとだらけで嘘くさいのだ。

 何も差別用語を乱用しろと云っているわけではない。過剰な規制にはテレビ局の視聴者蔑視の匂いを感じてしまうからだ。愚民には自分の頭で考えることが出来ないから、この程度のことでお茶を濁しておけ、と云う匂いを感じる。その自覚がないまま正義の味方を気取っているように見える。多くの人は彼等が考えるよりはるかに賢い。    

 クレーマーをおそれること、右翼をおそれる如し、と云うのが今のマスコミなのだろう。そのクレーマーの頭にそんな正義を刷り込んだのは教育であり、マスコミなのだから、教育とマスコミのコストと覚悟して修正をしていかないとますます自縄自縛に陥って存在の値打ちを問われるばかりだ。もっと本音を語れ! CMをへらせ!

2014年5月11日 (日)

本気で言っている?

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 ベトナムのハノイで反中国デモが多発している。ベトナムは共産国なので、デモは原則として禁止されているが、今回の中国海警局の船がベトナム船に体当たりした件はベトナム国民の怒りを買っており、下手にデモを規制するとかえって事態がエスカレートするとして、ベトナム政府はデモを容認していると見られる。

 あの映像を見ればどこの国民だって怒るだろう。民主党の仙石由人以外は。あの尖閣事件の処理のまずさが中国を勘違いさせるきっかけになったのではないか。

 ところで中国のあまりの理不尽ぶりに、ベトナムやフィリピンが主導となって、ASEAN会議で中国の一方的な行動を非難する動きにまとまりつつあるとニュースが伝えていた。

 これに対して中国外交部の報道官は「南シナ海の問題は、中国とASEAN全体の問題ではない。個別の国家が、南シナ海問題を利用して中国とASEANの友好を破壊しようと画策している」と非難していた。

 あの報道官はあまりきつい印象のない女性(そういう女性だから選ばれているのだろう)だが、言うことはむちゃくちゃに乱暴で一方的だ。この女性や中国政府の人たちは、自分たちの言っていることが分かっているのだろうか。まさか屈服させることが友好、などと思っているのではないだろうが、どうも本気で言っているらしいところが恐ろしい。

 あの映像を世界中が見ているはずだ(中国ではどうか知らない)。中国に対して(韓国以外の)世界中が不信感を抱き始めていると思いたい。そのことが中国をクールダウンさせることにつながるかも知れないからだ。

映画「ゴールデンスランバー」2010年日本

 監督・中村義洋、出演。堺雅人、竹内結子、吉岡秀隆、劇団ひとり、濱田岳、香川照之、永島敏行ほか。

 あり得ない設定なのだが、いつの間にか引き込まれてしまう映画。

 原作は2008年の本屋大賞を取った伊坂幸太郎の「ゴールデンスランバー」。本屋大賞の作品が面白くないはずがない。

 舞台は仙台。友人(吉岡秀隆)に呼び出された青柳(堺雅人)は、その友人からこの呼び出しは罠だと告げられる。二人が話しているのは友人の車の中で、その車のすぐ近くで地元出身の首相のパレードが行われていた。

 首相の乗っている車の近くで突然爆弾が破裂、首相は爆殺される。そして青柳たちの乗っている車にも爆弾がしかけられていると友人が言う。何のことか分からない青柳たちの車へ警官が銃をかまえて駆けつけてくる。しかも釈明も聞かずに突然発砲する。

 友人は「逃げて生き延びろ」と云って青柳を車から放りだし、青柳はわけも分からず逃げ出すのだが、その直後に車が爆発する。

 こうして青柳の逃避行が始まる。

 事件は全て青柳の犯行と断定され、仙台は完全封鎖されてしまう。

 青柳は逃げ切れるのか。そして生き残ることが出来るのだろうか。真犯人は誰なのか。ニュースでは、青柳自身が身に覚えのない映像が犯人の証拠として流される。

 青柳を信ずる何人かの助けで逃亡を続けるのだが、包囲網は完璧である。絶望的な状態の中、起死回生の手が打たれる。

 現実にはあり得ないことだけれど、その設定をそのまま了解して物語を楽しむととても面白い。この映画、もっと早く見れば良かった。楽しめる。

 脇役の脇役だが、永島敏行が怪演をしていて笑える。

映画「エンド・オブ・ホワイトハウス」2013年アメリカ

 監督アントワーフ・フークワ、出演ジェラルド・バトラー、アーロン・エッカート、モーガン・フリーマン、リック・ユーン、アンジェラ・バセット、アシュレイ・ジャッドほか。

 予想外に面白い映画だった。テロリストの冷酷さをここまでリアルに描くのは珍しいのではないか。だからそのテロリストたちに対し孤軍奮闘する主人公の姿に強烈に感情移入する。もちろん物語だから、主人公がやや超人的に過ぎるところは仕方がないが、しらけるような嘘くささはあまりない。

 元大統領の護衛のシークレットサーヴィスだった主人公が、ある事故で大統領を優先して救うために大統領夫人の命を救うことが出来なかった責任を取って、今は閑職にいる。

 韓国の首相がホワイトハウスを公式訪問をするというセレモニーの最中に国籍不明機がワシントンを急襲する。スクランブルがかかって戦闘機が出動、多くの犠牲を出しながら撃墜に成功する。

 大統領と国防長官、副大統領などの側近や韓国首相、護衛たちは地下の核シェルターに避難する。そのホワイトハウスを重火器で武装した集団が襲う。米軍がホワイトハウス防衛に出動するまでのわずかな時間差のうちにその集団はホワイトハウスを制圧してしまう。

 主人公はホワイトハウスに駆けつけて防御部隊とともに奮闘するのだが、独りだけ生き残る。彼はホワイトハウスの内部についての詳細な知識があるために生き残れたのだ。

 核シェルターに逃れた大統領たちは突然人質になってしまう。なんと韓国の首相の護衛の指揮官が実はテロリストたちのリーダーだったのだ。テロリストたちが大統領を人質にして行った要求とは何だったのか。そしてその真の目的とは。そして主人公はテロリストを倒して大統領を救うことが出来るか。

 「ダイ・ハード」みたいな設定でもあるが、主人公はぼやいたりしない。テロリストの冷酷さはリアリティにあふれていて迫力がある。

 北朝鮮から韓国に潜入したスパイらしいけれど、テロリストたちの背景に北朝鮮がいる、と云うことは最後まで明確にされない。何だか朝鮮半島全体がアメリカに牙をむいたように見えるかも知れない。確かに朝鮮半島の人々には、日本人にはあまりない、強い反米意識があるのかも知れない。そのことを逆にアメリカ自身が強く感じているからこのようなテロリスト像が造られたのかも知れない、などと感じた。

 とにかく面白い映画だった。

2014年5月10日 (土)

煮え湯に浸かる

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 韓国領海内の中国船による違法操業がしばしば話題に上がる。

 一昨年の4月16日から5月8日までに、違法操業で韓国海洋警察に拿捕された中国漁船は28隻だったが、今年の同時期(つまりセウォル号事件の起きた後の期間と言うことだ)の拿捕はゼロであると云う。

 それなら違法操業が減ったのか?とんでもない。増えているのだ。ところがセウォル号の沈没事故のために、韓国海洋警察は違法操業の取り締まりに割く余裕がないのだという。

 それを見越して中国漁船はやりたい方題らしい。

 これに対して韓国側は厳重に抗議しているのだが、中国側は「セウォル号事件での韓国国民の怒りを逸らすために、中国漁船を悪者にしようとする韓国側の企みである」「操業している漁船は操業許可証を持参しており、違法ではない」と逆に韓国側を非難しているそうだ。

 この操業許可証というのがほとんど偽物であることが多いのだが、拿捕してみなければ真偽は分からない。

 韓国が国民の怒りを逸らそうとしていようがそうでなかろうが、違法操業は違法操業だ。こう云う卑劣な話は極めて不愉快で腹立たしい。この話に限ってだけでも中国は非道だ。無理が通れば道理が引っ込む、などと云うのでは暴力団と変わるところがないではないか。

 韓国は中国との関係を深めているが、今に煮え湯を飲まされることにならないか。いや、ぬるま湯に浸かったつもりが煮え湯に浸かることにならないか。自分でもいやになるけれど、多少そんな事態を期待してしまう気持ちがないことはない。

生田哲「日本人だけが信じる間違いだらけの健康常識」(角川oneテーマ21)

 著者は薬学博士。

 最近血圧や肥満度などの正常値の基準が大幅に見直されてゆるやかになったことはご承知の通り。これに全く正反対の評価がなされている。

 ひとつは診療を受ける対象者を減らすことで健康保険の医療費を減らそうとするものだ、治療するべき人を健康と見なす悪い改定だとする否定的な評価であり、もう一つはそもそも日本の基準値は改定が繰り返されるたびにその値が狭められて、本来健康な人まで治療の対象になり、無意味に投薬を受けてかえって健康を阻害していたから、当然の改定であると云う肯定的な意見である。

 日本の健康と見なされる正常値の幅は世界の中でも特に狭いと言われている。それを推し進めてきたのは医療の専門家たちである。勘ぐれば、治療が必要な人を増やすと言うことは、医療従事者にとって顧客を増やすことに他ならない。しかも治療には投薬がつきもので、製薬会社は基準が厳しくなるほど薬が売れるわけで、利益も増える。

 私の印象ではどうもあまりにも安易に治療対象者を増やしすぎている気がしていた。何も自覚症状がないのに、血圧を下げる薬やコレステロールを下げる薬をたくさん処方されて飲まされている人が多い。本当にその薬を飲まなければならないのかどうか、素人にはもちろん分からない。

 ここまではこの本の話ではない。

 著者が取り上げたテーマがいくつかあり、それについて実際のデータや論文を元に健康な人が健康のためと信じて、どれほど間違った思い込みで不健康なことをしているのか、またはさせられているのかについて詳しく述べられている。

 多分驚くことが多いだろう。

 まず糖質制限ダイエットがやり玉に挙げられている。炭水化物や糖分の摂取を制限して痩せる、と云うダイエット法である。現実に友人の一人が実践して大幅減量に成功したのを見ているのだが、このダイエット法は極めて危険だ、と著者は警鐘を鳴らす。

 このダイエット法は、短期間で女優などが大きな減量に成功したとして40年ほど前にアメリカで大ブームになったそうだ。しかしその後その副作用による健康障害が多数報告され、危険なダイエット法だという認識が定着しているという。

 書店に行けばこのダイエット法に関する本がたくさん並んでいるが、日本で今はやっているのは、ほとんどそのダイエット法の焼き直しなのだそうだ。詳しいデータと、危険である理由はこの本を是非読んで欲しい。

 次に骨粗鬆症に牛乳は効果があるか、と云うテーマについて語られる。これも効果はないどころではなく、かえって良くない、などと書かれている。牛乳ではカルシウムは補えず、かえって体内のカルシウムを損なう可能性があるとまで云われると考えてしまう。理由とデータは本分で。

 次に高血圧の治療に飲まされる降圧剤の功罪についてテーマにされている。そもそも140程度の血圧で、高血圧だ、として降圧剤を飲むことは、副作用しかない、と断言する。続いてコレステロールについても同様のことが語られ、そもそも善玉だとか悪玉などと名付けることがおかしい、という。

 しかも降圧剤やコレステロールを下げる薬については、心臓病などの血管系の病気での致死率を下げるデータがそもそも得られていないというのだ。たとえそのような論文が発表されていても、ほとんど製薬会社がスポンサーとなって作られたデータで信頼性に欠けるのだと断言する。そして降圧剤やコレステロール降下剤の市場がどれほど莫大なものなのか知らされると、何となく著者の言い分に与したくなる。

 そのほか安易なうつ病判定、そしてうつ病の治療薬の安易な投与がどれほど危険かというテーマや、ビタミンCの大量摂取の効果についての著者のデータと論文に基づく知見が述べられている。

 全面的に著者の意見を受け売りにするつもりもないし、その是非の判断の根拠を持たないけれど、ひとつはっきり分かることは、薬に頼ることは危険だ、と云うこと、そして安易な健康法の実践も危険だと言うことで、正しい適量の食事と運動こそがもっとも正しい健康法だと言うことだ。当たり前すぎるけれど。

2014年5月 9日 (金)

あまり一人では飲まないようにしているのですが

 あまり一人では飲まないことにしているのですが、今晩は何となく飲み始めたら気持ちよく飲めてしまって、どこで止まるのか、とちょっぴり不安です。

 酒はもちろん誰かと飲むのが最高ですが、時にはこんなこともあります。

 今日は早朝に、今年初めて釣りに行こうかと思っていたのですが、何となくテンションが上がらずに、釣りに行くのを止めて映画を見たりして過ごしました。

 AGさん、早速にコメントをありがとうございました。とてもうれしいです。

 AGさん、貴君もご存知のU島君やF谷君たちと来週大阪で飲むことになっています。いつか一緒にまた飲めると良いですね。 

映画「アンダルシア 女神の報復」2011年・日本

 監督・西谷弘、出演・織田裕二、黒木メイサ、戸田恵梨香、福山雅治、伊藤英明、谷原章介、夏八木勲ほか。
 
 前作の「アマルフィ 女神の報酬」はなかなか出来が良くて面白かった記憶があるのに、こちらはちょっと期待外れであった。

 前作のクレジットには原作・真保裕一の名があるのにこちらにはない。監督は同じ西谷弘だし、配役もそこそこ揃えているからこれは脚本がお粗末なせいではないか(ほかに理由があるのだろうか)。

 黒木メイサの魅力が今ひとつ生きていないし、福山雅治に至っては見ているこちらが恥ずかしくなるような役柄だった。

 どんでん返しに次ぐどんでん返しと言えばそれなりみたいだが、ラストは予想通り過ぎて陳腐だ。だってこれしかあり得ないから意外性がないではないか。伊藤英明が演じるキャラクターも絶対変だ。全てが嘘くさいのだ。

 時間の無駄、とまではいわないけれど、がっかりの映画だった。

ウマが合う

 先日、(私から見れば)若い一宮の友人と名古屋で飲んだ。久闊を叙し、互いの消息を語りあったら、子供がもう就職活動を始める歳になったという。

 私のブログもよく見ていて、「会わなくてもどうしているのか分かります」などと嬉しいことを云ってくれる。いつものように酒の勢いで二人で世の中を切りまくるのだけれど、見方や考え方が似通っている。

 似ているからウマが合うのだろうけれど(もちろん合わせてくれているのも確かだ)、贅沢を言えば、(私の息子のように)多少こちらと違う意見もぶつけてもらっても良いような気がした。

 そういう彼は経営者であり、それ以外に社会的な役割としての仕事も引き受けなければならないことも多いらしい。「早くリタイアして好きなことがやりたい」なんて言っていたけれど、10年早いのだ。 

 勝手気ままな生活を自慢して(自慢するよう話でもないのに)うらやましがらせて楽しく散会した。

 AGさん、時にはブログにコメントでもいれてくださいね。また飲みましょう。

期待するのもどうかと思うけれど

 日本でバブルがはじける前は、株価は日経平均で36000円くらいと、いまからは想像も出来ない値段だった。

 土地の値段はうなぎ登りに上がり、転売が繰り返されるごとにさらに上がった。地上屋、などという暴力団まがいの連中(実際に暴力団も多かった)が土地の売却に応じないものに嫌がらせを繰り返し、売却を迫った、などというニュースが連日新聞紙面を賑わしていた。

 もともと日本では、土地は多少に関わらず右肩上がりに上がっていくものだ、と信じられていた。いわゆる土地神話だ。

 バブルがはじけ、株価は暴落、土地の価格も砂上の楼閣が崩れ去るように下がった。本来の価格に戻ったと言うべきか。

 バブルの時代に、投資をしない人間はバカだ、と云う風潮が世を覆った。沢山の人が投資に参加し、実際に資産を大きく膨らませることに成功したかに見えた。もちろんバブルがはじけてそれは夢と消えてしまい、身の丈に合わない投資をしたものは身を滅ぼした。

 ところでバブルではじけた巨額な資金はどこに霧散してしまったのだろう。もうけた人がいれば必ず損をした人がいる。損をした人が多ければ何処かで高笑いした人がいるはずだが、そのことを明らかにしたものを寡聞にして知らない。人は損をしたことは声高に言うが、賢くもうけた人は黙っているようだ。

 中国の都市部の住宅価格が軒並み下落しているというネットのニュースを見た。いままでは上がる都市があれば下がる都市もあるという状態だったけれど、どうも様相が違うようだ。右肩上がりの価格がピークを迎えて下がり始めたらしい。

 都市部の住宅や土地の価格は上がるから投資の対象になる。すでに普通の仕事をしている人間にとって、住宅は購入が困難な価格にまでつり上がってしまった。でも値上がりすると思えば無理な借金をしてでも購入に走る。それが下がり始めれば誰も買わないし、資金ショートを回避するために売却しようとするだろう。こうしてさらに下落が加速する。

 記事では不動産業者の経営が困難になる気配を伝えていた。いつかこうなると知っていても、それが今だ、などと人はそのときには気が付かないものらしい。

 中国は管理社会だから、このような状態に対して強引な対策を取ることが可能であり、日本のようにあれほどひどいバブル崩壊は起こらないだろうと言われる。それはそうかも知れない。でも期待してはどうかと思うけれど、いっそ日本みたいにバブルがはじけたらどうなるか、見てみたい気もする。中国も少しはおとなしくならないだろうか。かえって暴発する危険が増すだろうか。

2014年5月 8日 (木)

映画「リアル 完全なる首長竜の日」2013年・日本

 監督・黒沢清、出演・佐藤健、綾瀬はるか、中谷美紀、オダギリジョー、染谷将太他。

 第9回「このミステリーがすごい」大賞を受賞した小説が原作の映画。本屋で購入しようかどうか迷った末に買わなかった本なので、内容については知らなかったけれど、当然ミステリーだと思っていた(もちろんこれもミステリーと言えば言えるのだろうけれど)。

 映画の前半部はほとんどホラー映画だ。監督が黒沢清だからか、原作がそうなのか。集中して観ていると、中盤でがらりと物語が転回することが予想出来る。思った通りであった。自慢するほどのことではなく、こう云う作品を見慣れている人なら想像がついたことだろう。

 ただ、この映画を昨晩遅くに見たので、正直最初は気持ち悪かった。怖いのが嫌いな人は夜中に独りで観ない方がいい。

 ストーリーを説明し始めるとこれから観るひとに迷惑になるし、全く説明しないと題名からはどんな物語か皆目見当がつかないだろう(でも説明はしない)。

 原作小説の題名は「完全なる首長竜の日」であり、それにわざわざ「リアル・・・」がついている理由はラストで解る。まことにリアルな映像で、感心した。さあハッピーエンドか、はたまた残念な結末か、それは観てのお楽しみ。最後はホラーではないのでホラーの嫌いな人も心配ご無用。もう一度みたいと云うほどの映画ではないが、そこそこ面白かった。この面白さはこちらの予想に近い展開をすることによるものかも知れない。

 佐藤健という役者は以前から良い役者だと思っていたが、この映画でもいい味を出している。実はそのあと同じ佐藤健の主演した「るろうに剣心」を観た。佐藤健が、ほとんど原作の漫画の抜刀斎・緋村剣心とうり二つに見えたのに感心した。こちらもまあまあの出来だったけれど、いつも言うことだが無用に長すぎる。100分程度で良いのにエンドクレジットを入れると136分は長すぎる!

多くの国民は真当なようだ

 韓国の対中輸出の伸びが減速しているという。今年の1~4月の輸出額は対前年1.5%しか増えなかったそうだ。いままでの報道ではその輸出額が急増していると伝えられてきたが、急増していれば何処かでその伸びが止まるのは当然のことで、中国経済の原則が原因だ、などと分析されているようだが、それも原因だろうけれど、微増でもまだ増えていることの方が不思議だ。中国への進出リスクを各国が懸念している中で、韓国は国をあげて中国になびこうとしているかのように見える。

 ソウル市庁舎前に設置されたセウォル号の犠牲者の追悼所を人々が数多く訪れているという。犠牲者の弔問を受け付ける広間の壁には追悼の言葉を記した紙がたくさん張り出されているそうだ。

 その紙に書かれた文章に「ごめんなさい」乃至それに類似したことば、「申し訳ない」などが含まれるものが7割以上あったという。

 以前、このブログで韓国はこの事故を誰かの責任として追及することも大事だが、自分の問題として考えないと同じようなことが続くだろう、と書いた。このニュースを見れば、多くの韓国民は自分のこととして考えているらしいことが良く分かる。

 誰よりも自分のこととして考えなければならない責任ある人々のうろたえぶりが報道されるのを見せられて義憤を感じているけれど、いずれ韓国は良い方へ変わっていくだろうと思える。ただ時間はかかるだろう。

 北朝鮮はこの春、数十年ぶりの小雨で大旱魃が懸念されているという。旱魃と洪水がつぎつぎに起こってしまうと言う状況が続いているように見える。これは気象的な要因もあるだろうけれど、国土がそれだけ荒廃していることを示しているような気がする。燃料がないから樹木を切り倒してしまい大地が保水力を失っているのではないか。日本と違って朝鮮半島は樹木などの再生産能力が低いと司馬遼太郎が書いていた。

 北朝鮮の国民の多くは現状を肯定していないだろうが、それを改善するすべを持つことが出来ない。これは不幸なことだが、誰も火中の栗を拾って手をさしのべる国はない。中国も北朝鮮どころではないようだ。北朝鮮の金王朝が自己崩壊するのを待つしかないのだろうか。

 国というものは砂のようなものだという。砂の一粒一粒は国民だ。そのままではばらばらで、握ってもかたまりにならない。水のようなものが介在して初めてまとまりを持ち、かたちを為す。つなぐものを失うとどうなるか、それを歴史が教えてくれている。いま、ウクライナで起こっていることはそんなことをあらためて感じさせているようだ。

 では日本は・・・。

2014年5月 7日 (水)

無法

 南シナ海で中国がベトナムやフィリピンと一触即発の状態になっている。中国は南シナ海のほとんどを自国の領海であるかの如く、各国の漁業操業者に中国への届け出を義務づける、と一方的に宣言している。

 どうひいき目に見ても中国側が無法を押し通そうとしているようにしか見えない。報道ステーションはそれでも「フィリピンやベトナムは冷静に話し合いをすべきだ」などと言っていた。

 中国に非があると云いながら、中国には何も言わないのはどういうわけだろう。どうせ言っても仕方がないということか?それなら話し合いが通じる相手ではないことを知りながらフィリピンやベトナムに話し合え、と云っているのか?これが朝日新聞のスタンスらしいが。

 中国は国内の問題から目を逸らせるためにこのような暴挙を行っているのだ、という意見もある。それはもしかしたら事実かも知れないが、やっていい理由にはならない。もしそうなら、中国の国内問題はそんなことをしなければならないほど深刻だというのだろうか。

 ウクライナもますます新ロシアと暫定政権との抗争がエスカレートしている。中国はこのどさくさに動いているのだろうか。タイも国内情勢が深刻だ。世界はどうなるのだろう。誰も収束点が見通せないようだ。

 私がやきもきしても仕方がないが、人ごとではない。どうしてこんなことになってしまったのだろう。

誕生パーティー

 昨晩、娘のドン姫と二人で誕生パーティーをした。私とドン姫の誕生日は二日違いなので、子供の頃はいつも一緒にやったが、この頃は出来ればする、と云う程度になっていた。

 もちろんパーティーと云ってもささやかな料理を数品作り(ほとんど酒の肴)、酒を飲むというだけだ。昨日は近所のおいしいケーキ屋で久しぶりにケーキを買った。

 ドン姫の仕事の終わりが遅いので、始めるのもゆっくりになり、例によって深夜まで飲むから、気が付くと二人ともいつともなくうち倒れて眠っている。昼に近い朝、起きてみれば落花狼藉の跡がテーブルに散乱、慌てて片付けて朝昼兼用の食事をこしらえた。

 ドン姫は今日は遅番と聞いているのでそれに合わせて送り出す。「行ってきます。じゃあまたね」と彼女は去って行った。

 私は子供が成人したら一緒に住むべきではないと考えている。だから子供たちもそれが当たり前だと考えていると思う。ドン姫とは成人してからもしばらく一緒に暮らしたが、それは私が単身赴任していたからで、戻ってからは半ば強制的に出て行かせた。

 ドン姫もそれが当然とは考えながら、私同様面倒くさがりなので、踏ん切りがつかずにいたはずだから、追い出されたとは思っていない(はずだ)。

 離れていると寂しい。でもいっしょにしばらくいると、だんだん鬱陶しくなる。そんなものだと思っている。

 多分歳とともに気がよわり、寂しさがつのることだろうが、それは覚悟しているつもりだ。子供たちにはそんなこと気にしないでいてもらって一向にかまわない。だって自分もそうしてきたから。

2014年5月 6日 (火)

無常観と自己犠牲

 映画を見ていて思ったのだけれど、エンターテインメントでもシリアスなものでも、たいていのものに自己犠牲の場面がある。それが命を捧げることであったり、自分の人生や財産を捧げることであったり、またはもっとも自分が失いたくないもの捧げることだったりする。

 「桜田門外の変」では「大儀」と信じたものに命を捧げていた。「真夏の方程式」ではかけがえがない人の秘密を守るために、犯罪者の汚名を被り、人生を捧げたのに「ありがとう」と云う。

 アニメでも感動するものにはたいていこの自己犠牲のシーンがある。ただ(シリーズを維持するために)自己犠牲を選択したのに生き残らざるを得ず、不死身でないとやっていけなくなってしまうところが難だ。だって不死身なら自己犠牲にならないではないか。

 キリスト教での殉教もある意味では信仰に命を捧げるという自己犠牲だ。キリスト教では神は絶対的存在であり、それを自分の命より大事だと思うのが正しいことであるとされてきた。この信仰を絶対視する考え方はいまは揺らいでいるけれど、その代わりに「愛」が絶対的なものだとされているように見える。

 だから「愛の奇跡」としか云いようのない、時にはご都合主義的なドラマが数多くある。愛があれば奇跡が起こる、と思いたいけれど、現実にはそんなことはない。

 西洋式の、信仰や愛が絶対的なもので、何にも優先することが正義であると云う思考方法は、キリスト教に育まれたものだろう。だから正義や真理に唯一絶対的なものが存在すると決めつけている。

 それに対して日本にはそのような絶対的な真理や正義、信仰という考え方が根着きにくいようだ。日本人は何に対しても相対的な考え方をしているように思う。だから自己犠牲についても、絶対的なものに対してではなく、自分の価値観の優先順位で行う。

 それは日本人の無常観、季節の移り変わりについての経験的な実感、農耕民族としての身についた世界観が、絶対的なものなどないと考えることにつながっているのではないか。日本人が桜の花に無常感を感じる心は、キリスト教的な世界観からは理解しにくいし、逆に、日本人には西洋的な殉教についても、今ひとつ得心がいかない。多分同じ自己犠牲についてもずいぶん違う受け止め方をしているような気がする。 

 このようなけっこう本質的な違いを抑えておくことは、互いの理解のために必要なことだろう。

 ところで蛇足ながら、中国や韓国の価値感は西洋的なのか、日本的なのか。もちろんそれぞれ中国的で韓国的なのだろうけれど、それが物質的なものにあまりに重い価値を置いているとしたら、哀しいけれど何となく理解し合うのは難しいような気がする。多くの人はそんなことはない、と思いたいけれど。ことは精神、心の問題なのだから。

映画「第九軍団のワシ」2011年イギリス・アメリカ

 監督ケヴィン・マクドナルド、出演チャニング・テイタム、ジェイミー・ベルほか。

 時代は紀元140年のローマ時代。ローマ帝国はひたすら版図を拡大していた。そのローマ帝国の第九軍団がブリテン諸島の制覇に征き、そのまま消息を断って20年後のこと。生還者がないことから何があったか全く分からない中、第九軍団の紋章であるワシの黄金像が失われたことが帝国に対する大失策として、部隊を率いていたアクイラの一家は汚名に甘んじていた。その息子、マーカス・アクイラは成人して百人隊長となり、父の汚名を雪ぐためにブリテンの砦への赴任を志望する。

 彼は第九軍団の最期について知り、ワシを取り戻すことを心に期していた。

 ところが赴任した早々に砦がブリテン族の大軍の猛攻を受け、マーカスの奮闘により、かろうじて撃退したものの彼は重傷を負って名誉除隊となってしまう。

 叔父の家で療養中の彼は、たまたま命を救ったエスカというブリガンテス族出身の奴隷を自分の付き人とすることになる。

 第九軍団の行方不明の事件のあと、ブリテンにはローマ帝国支配地区とブリテン蕃族支配地区との間に長大な城壁が築かれていた。まさに万里の長城と瓜二つである。

 この長城を越えて生還したローマ人はいまだ一人もいない。その長城を奴隷のエスカを従えて、マーカスは単身でワシの紋章奪還の旅に出る。

 そのほとんど絶望的とも言える苦難の旅とその闘いが描かれる。

 期待していた以上の出来の良い映画だった。時代背景と風景がダークな色調で描かれているのだがその映像が素晴らしく美しい。いまで云うイングランドやウエールズ、そしてスコットランドがいかに原始的だったのかが分かる。それは多分ヨーロッパ全体がそうだったのだろう。そもそもヨーロッパが文明化したのは産業革命以後で、それ以前は一部の都市以外は中国や日本より野蛮な地域だったようだ。

 この映画はWOWOWの「W座への招待」で放映されたもの。ここで(今は亡き)安西水丸と小山薫堂が感想を述べるのだが、全面的に同感。ラストについてなるほど、こう云う終わり方になるのか、という思いも同感であった。それについては実際に見て感じてもらいたい。


 かんちゃん、東野圭吾は読めば面白いだろうと感じています。でも面白すぎそうなのであえて読まずにいます。こう云うのは食わず嫌いではなくて、食わず好きというのでしょうか?

2014年5月 5日 (月)

映画「桜田門外の変」2010年・日本

 監督・佐藤純彌、出演・大沢たかお、長谷川京子、伊武雅人、北大路欣也、柄本明、生瀬勝久、渡辺裕之、加藤清史郎、中村ゆり、渡辺豪太、西村雅彦、榎木孝明、本田博太郎ほか。

 吉村昭の同名の歴史小説を原作とした映画。

 吉村昭には沢山の著作があるが、大好きな作家で半分くらいは読んだと思う。彼は初期の純文学に近い小説から、次第に戦記物を書くようになり、後記には歴史小説もたくさん書いている。戦記物にしても歴史物にしても、とにかく考証が尋常でないほど詳細を究め、可能な限り足を運んで取材を行っていて、その徹底ぶりには学者も脱帽するほどだった。

 だからこの「桜田門外の変」も残された記録を徹底的に検証して書かれており、主人公の関鉄之介(映画では大沢たかお)の行動は史実である。

 豪華キャストで重厚な作品に仕上がっており、尊皇攘夷という、今から考えれば首をかしげるような思想が、なぜ水戸から起こったのか分かるようになっている。ただし水戸人の思考の傾向はなぜ形成されたかについてはここではわかりにくい。

 それはこの事件のあと、明治維新の前に起こった水戸天狗党の乱について書かれた「天狗争乱」と併せ読むともう少し分かるようになるかも知れない(この物語の最後は凄惨を極める)。

 とにかく幕末から明治維新という革命が為されるまでの、大きなターニングポイントが桜田門外の変であることは間違いない。

 革命のためにどれだけの人の血が流されたのか、そのことをとことん分からせてくれるのが原作であり、忠実にそれを再現してくれているのがこの映画だ。

 ただ、力作には違いないが、後半やや長すぎる気はする。それが録画していながら、見るのを後回しにしてきた理由でもある。歴史物が好きな人なら是非見ておくべき映画だ。

映画「真夏の方程式」2013年・日本

 東野圭吾原作の推理小説の映画化。

 監督・西谷弘、出演・福山雅治、吉高由里子、杏、風吹ジュン、前田吟、塩見三省、白竜、山崎光、西田尚美ほか。

 面白いことが分かっているのに読まない作家が何人もいる。その内の筆頭がこの映画の原作者・東野圭吾だ。多分いちどはまったら次から次に読んで他の本が読めなくなるだろうから、封印している。ある時期、松本清張を読み出したらあまりの数に精根尽き果てた思い出がある。もちろん面白いから止まらなくなるからだし、それぞれが結構長い。

 その松本清張の中編小説、「砂の器」が映画化されて原作以上の傑作となった。忘れられない映画で、私の日本映画ベストテンには必ず入れたい作品だ。

 多分この「真夏の方程式」も、映画を見始めた学生時代に見たら(あり得ないが)強い印象を残した映画として記憶されるだろう。

 タイトルバックにかぶさるように、雪の夜、鉄道を跨ぐ歩道橋の上で女(西田尚美)が刺し殺される。カメラの視点は犯人のものなので誰が犯人なのか観客には分からない。そしてやがて犯人は女の関係者を洗ううちに判明、犯行も自白して事件は収束したのだが・・・。

 そしてそれから15年、綺麗な海辺の民宿の宿泊客が堤防下の海岸で死亡しているのが見つかる。当初堤防の上から酔って転落した事故死と見られていたのだが、不可解な事実が判明し、殺人の疑いが浮上する。死んでいたのは、15年前の事件であの犯人を逮捕した刑事(塩見三省)だった。

 たまたまその民宿に仕事で泊まりあわせていた物理学者の湯川学(福山雅治)は、興味のなかったこの事件の深層にあるものに気が付き、俄然その真相を調べ始める。

 ということで、その過程で明らかにある人間関係、家族のかかえる秘密など、分かるほどに切ない思いが高まってくると云う仕掛けになっている。特に子役の少年がなかなか良い。子供嫌いな湯川が、次第にその子供と心を通わせ始める様子には救いがある。一夏のうちに事件の全容が解明されるのだが、少年にとっては大きく成長するきっかけになる大きく、重い一夏の経験となったはずだ。

 民宿の娘で環境保全運動をしている成美を演じた杏は素晴らしい。この人こんなに良いとは知らなかった。それと最初の事件の犯人として服役した男を白竜が演じている。最初、白竜とは分からなかった。例によって抑えた演技で、良い味を出していた。

 良い映画だ。見る値打ちがある。

年年歳歳

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 有名な漢詩に「年年歳歳 花相い似たり 歳歳年年 人同じからず」というのがある。歳をとるほどにそのことがしみじみと感じられるようになってきた。

 日本人はただ「花」と云えば桜の花を想うけれど、この詩で云う花は桃と李(すもも)だ。中国や韓国で「李」という姓の人が多いのはそれだけ李が愛されていたからだろうか。

 そんなことを想うのも、もうすぐ父の丸三年の命日が来るからで、しばらく前までは知人の親の訃報をしばしば聞いたのにその頻度が減り、本人たちの訃報がぽつりぽつりと聞かれるようになった。

 母も今年の桜の花はテレビでしか見られなかった。私が撮った今年の各地の桜の花の写真を見せても、あまり心が動いていないようなのが哀しい。

 花は再生するけれど、人間は死ねば終わり、という無常観のようなものを感じる詩と云うことになっているけれど、そもそも桜の花は散る。特にソメイヨシノは、花は実を結ばず、再生をともなわない空しい開花を繰り返しているのだ、と知ると無常感が増す。

 この歌を詠んだ劉廷芝には、日本人の感じるような、桜の花の散る潔さについての美意識など全くないだろうから、同じ詩でも中国人と日本人では受け取り方がずいぶん違うのかも知れない。

2014年5月 4日 (日)

どこでも眠れる

 学生時代、寮で過ごした。自分の部屋がたまり場になることが多く、いつも誰かがいて、煙草をふかして大声で話したり、音楽を聴いたりして賑やかだった。当然部屋の明かりは四六時中皓々としている。

 プライバシーなどと云う物はほとんどなかったけれど、それが当たり前だと思っていた。そんな中で眠ければ寝た。

 だからどんな環境でも眠ろうと思えばいつでもほとんど瞬時に眠ることが出来るのが自慢であった。しかし最近では床についてしばし考え事をしたりする自分に驚いたりする。以前は年に一二度しかそんな事はなかったのに。

 息子や娘が家に来て、ちょっと話が途切れたりしたとたん、横になるとテレビがついていて明かりが皓々としていても、たちまちぐっすり眠る様子を見ていると、我が子だなあ、と思う。

 日頃忙しく働いて、たまに帰ってくると安心して眠る、というのは親としてこんなに嬉しいことはない。彼等なりに頑張っているに違いない。

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2014年5月 2日 (金)

柴田錬三郎「霞の半兵衛」(廣済堂出版)

Dsc_0087 鍵屋の辻

Dsc_0090 荒木又右衛門の刀

 シバレン流の短編集。柴田錬三郎の時代小説は虚無感を帯びている。眠狂四郎などはそれでも後期に書かれているので暗さのなかに何か希望のようなものが見て取れるけれど、この短編集では救いのあるものはあまりない。

 表題にもなっている「霞の半兵衛」と云う小説にはたまたま先日行った伊賀の「鍵屋の辻」の決闘が描かれている。一応主人公は半兵衛という、荒木又右衛門と雌雄を決したいと願っている剣客なのだが、もちろん本当の主人公は荒木又右衛門である。

 仇とされている河合又五郎に与することで、荒木又右衛門と闘うのだが、その勝負は意外な結末を迎える。

 剣豪小説、と云えばそうなのだが、そこに描き出されているのは剣というものに人生のすべてを賭けてしまった人間の悲劇だ。しかもそれに賭けた人生を当人はいささかも悔いないところに空しさがあるともいえるが、空しいと見えるのは我々凡人にとってであって、当人は大いに満足しているのかもしれない。                  

 奥付を見ると、昭和46年・第七刷発行となっている。古い本だ。当時夢中になって読んだことを思い出してなつかしい。

漫然と見る

1208_81

写真は一昨年に角館に行ったときのもの。 武家屋敷が並ぶ通りだ。最近はこれをデスクトップの背景にしている。

眺めていると、そのときのことが思い出されてなつかしい。じっくりと細部を見ると、道路左右の白いラインの消失点辺りまでくっきりと写っていて、今のカメラの性能の高さに感心する。

シャッターを圧すときにどれほどこれらを意識していただろうか。直感的に「画になる」と感じて写しただけに過ぎない。

カメラで写し取ることに夢中になると肉眼で見ることがおろそかになる、と云う。だから旅に行くときはカメラを持たない人も多い。でも私はカメラなしに旅をするということは考えられない。

CZTさんという方の「CZTのブログ」をいつも拝見しているが、特に興味のあるのは美術展などの感想が書かれているものだ。

一枚の画を眺めてこれほどいろいろなものを見取ることが出来るのか、と感心する。これに比べてこちらはただ漫然と見ているだけだ。

人生も同じ経験を濃度を高く感じ取る人と、漫然と過ごして生きてしまう人では、総量がとんでもなく違うものになっていると云うことか。

長生きすれば良いというものでもないようだ。

もう少し、せめて皮一枚余分に深く、良く見ることが出来るようになりたい。

それにつけても飛蚊症は鬱陶しい。

2014年5月 1日 (木)

アルバム

 暇なので実家にあるアルバムを開いたら、祖父母の写真や父や母の古い写真があった。ずいぶん久しぶりに見たけれど、記憶に無くて(忘れているだけかもしれない)初めて見た写真もあった。

 写っている人の多くがもうこの世にいない。写真が時間と共に重みを重ねていくと云うことをあらためて感じた。思い出という重みだ。

 しかしそれもさらに時間が過ぎると、写されているものに記憶を呼び覚ます人が誰もいなくなり、再び重みを失っていくのだ。

 息子にそのアルバムを見せて、そこに写っている人のことを説明したけれど、私がいなくなれば誰が誰だか分かる人がいなくなるときが来る。

 思い出はかけがえのないものだけれど、人によってかけがえのないものは違う。誰かが生きていた、と云う痕跡のようなものが、ここにあるけれど、次第にその影が薄れて消えていく。それは仕方の無いことだけれど、それで良いのかもしれない。

阿川弘之選・監修「自分の生き方を持つ人々」(光文社)

 「本当に信用できる人物」というテーマで募集した文章の中から、阿川弘之が選んで本にしたのが第一集(未読)。この本は第二集だが、「続」とせず表題のような名前に替えた、と前書きに書かれている。

 確かに信用できる人、というのは自分の生き方を持つ人でもあることは、この本に集められた文章からも頷ける。

 文章を寄せた人々は文章のプロでは無いから、一部言い回しがぎこちなかったり、何となく読みにくいところがあるけれど、その人自身の人生を決めたり変えたりした実体験を元にしているので、内容には力がある。

 では振り返って自分にとってそのような人物との関わりがあっただろうか、こんな文章を書くなら誰のことを書くだろうか、そして他の人にとって自分は信用に足る人物であっただろうか、などと考えたりした。その答えはここでは控えておく。

帰省

 本日は息子を連れて寝たきりの老母の元へ来ている。弟のところで面倒を見てもらっているが、母のところへ来たのだからこれも帰省というのだろうか。

 いつ何があってもおかしくないので、子供には機会のあるときには母に会わせておきたい。母も喜ぶし親孝行だと思うことにしている。いやがらずについて来てくれる息子には有り難いと思っている。

 早朝の東京は大雨。特にレインホーブリッジの辺りでは激しく降っていたが、千葉に着いたらほとんど雨は上がっていた。これで連休は天気が良い日が続きそうだ。今回は介護の手伝いはほとんどしないですぐに帰る。

 弟はカレンダー通りの休みだとのことで、夜に飲みながら息子も交えていろいろ話をしようと思っている。

 五月中には大阪の友人と歓談したいと思っているし、いつも旅に行く友人ともどこかにドライブに出たいと考えているので、介護とのスケジュールあわせをしなければならない。

 介護されている側(母のこと)が世話になっていることの感謝の表現があれば、周りもどれほどか救われるのだろうが、全く当然のような顔をしているのでちょっと哀しい。もちろん誰も感謝されるために介護しているのでは無いけれど。

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