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2014年6月

2014年6月30日 (月)

平湯大滝

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平湯大滝は日本三大名瀑の一つだそうだ。滝好きなので、以前から一度見たいと思いながら見そびれていた。高さ60メートルあまり、幅6メートルのこの滝は予想以上の迫力だった。
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坂道を車で上っていくと大滝公園に出る。車はここまで、ここから500メートルあまりの急坂を登るのだが、公園にはシャトルバスがある。この500メートルを片道100円で滝の近くまで運んでくれる。炎天下できつそうなのでこれに乗る。正解であった。そこからは100メートルほど渓流沿いに行く。水が綺麗だし川の上を渡る風は涼しくて気持ちが好い。

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どーんとど迫力の平湯大滝。

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滝壺のそばまで行けないのが残念。

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下りもバスを頼む。大滝公園に戻って昼食にそばを食う。

バスの運転手のおじさんが蕎麦屋の主人らしく、さらに土産物店も仕切っているらしい。なかなか忙しいのだ。

売店の裏手に無料の足湯がある。ここで食べ物をテイクアウト出来る。かすかに硫黄臭のするこの湯はけっこう熱い。

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ドン姫のおみ足。

ここでゆっくり足を休めて、涼しい風を浴びてから帰宅の途についた。好い旅であった。

2014年6月29日 (日)

新穂高ロープウエイ

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天気に期待していなかったのに朝食を食べ終わる頃日が差してきた。それなら新穂高ロープウエイに行こう、と予定変更。

新穂高ロープウエイは標高差1000メートル以上、日本一だという。写真はちょうど下りとすれ違うところ。

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瞬間的に雲間から槍の穂先が見えた。

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このあとはずっと頂上付近は雲。

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もう夏。雪はほとんど消えかけている。

気温は13℃。快適であった。ドン姫ともども「日頃の心がけがいいからね!」と自賛する。

飛騨の里・つづき

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飛騨の里には合掌造りばかりではなく、板葺きの建物もある。

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神社の前の子犬の狛犬。小熊か?

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階段から見おろすとこのように左右に鎮座している。

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菖蒲?アヤメ?植物も鳥も名前がよく分からないことが多い。恥ずかしい。

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黄色いのは珍しい(か?)

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火の見やぐら。

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ドン姫が屋根を見上げているので何だろうと思ったら・・・

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屋根のあちこちにキノコが生えているのであった。

これで飛騨の里はおしまい。

2014年6月28日 (土)

飛騨の里

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高山を訪ねたらたいていの人はこの飛騨の里に寄るだろう。

前日、飛騨地方は雨だったから緑がしっとりしている。

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池の縁の目の前に鴨がいた。そばによっても平然としている。

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飛騨の里と言えばもちろん合掌造り。この建物が一番オーソドックスな形をしている。

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その合掌造りの建物の縁側に合掌造りのミニチュアが・・・。障子も丁寧に作られて精巧なものだ。

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園内にはお地蔵さんや道祖神が所々にある。

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これは道祖神。男根、つまり男性生殖器をかたどっている。

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建物の裏手に藁で作られた小さな小屋があったので、何だろう、と思ったら、便所だった。「使用出来ません」と書いてあるけれど、こんなもの、使用する人がいるはずがない。

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一番高台の小さな神社が特別に開帳されていた。この天上絵が見物だという。天上板に直に書かれている。

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雛壇、左側の像。こちらは弓で、右側は太刀を持っている像。

 

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像の下の寅の絵。「ねこ?」と私が言ったらドン姫が笑った。

 

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園内至る所に大量の毛虫を見たけれど、このチョウチョはその親だろうか。

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見たくないでしょうが、おまけ。

宿の周りの植物

前夜来の雨で宿の周りの植物がしっとりと美しい。

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玄関先でも花がお出迎え。

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朴木に伝染病が発生していると聞いているが、このへんはまだ大丈夫のようだ。

植物を美しいと思うけれど、この歳になってもその名前をほとんど知らないというのが哀しい。

2014年6月27日 (金)

Dsc_0045 宝山荘別館

奥飛騨温泉郷のひとつ、栃尾温泉に宝山荘という宿があり、子供が小さいときには毎年のように夏休みに泊まっていた。今回泊まったこの宝山荘別館は名前の通りその別館。

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写真のような状態だったのでうっかり見逃して通り過ぎてしまった。

Dsc_0050 露天風呂への案内

露天風呂は履き物を履いて建物をぐるりと回り、川のほうへ一段下りた場所にある。

Dsc_0051 露天風呂脱衣所

露天風呂は時間によって男女が分けられているけれど、大半の時間は混浴。

Dsc_0052 露天風呂

露天風呂は川を見下ろせる爽快な風呂。このたたずまいは栃尾温泉の宝山荘の露天風呂とよく似ている。部屋数は少ないが(だから選んだのだけれど)小人数の温泉旅行ならこの宿はおすすめだ。

新穂高の宿

Dsc_0041 宿の窓から

 昨晩は新穂高温泉の宿に宿泊した。夕方は雨。この宿の看板を木の陰で見落としてしまい、行き過ぎてしまった。穂高のロープウエイまで行って引き返す。

 川を見下ろし、山に対面する、まことに景観の良い部屋で、なんと客は私たちだけとのことであった。だから風呂はどれでも好きなように入ってくれという。

 風呂が広々として気持ちが良い。食事もとても心がこもっていてうまい。特に山椒味噌をつけたイワナの朴葉焼きが美味。

 ついお酒を過ごしてしまい、どん姫になにやら一生懸命語っていた。

 行き過ぎたり、飲み過ぎたり、しゃべり過ぎたりと、やたらと過ぎた。

2014年6月26日 (木)

飛騨の里の衝撃

娘のドン姫と小旅行に出かけ、今新穂高温泉の宿にいる(食事が美味しくて酒を飲み過ぎた)。

昼は高山に寄り、うまいそばを食べた。

時間があったので合掌村を再現している飛騨の里へ行った。ここは何度行ってもいいところだ。

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飛騨の里では書きたいことがいろいろあるが、とにかくいちばん衝撃的だったのは写真の通り。

ドン姫は多少のことではびくともしない。それが時々キャアキャア言っていた。木の下を歩くとやたらにぽたぽた落ちてくるものがある。気がついてみればそこら中が毛虫だらけなのだ。

私?毛虫は食べるのでなければ、見るのも触るのも何ともない。

飛騨の里の話は詳しくはあとで。

名馬・磨墨(するすみ)と梶原景季

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 郡上八幡と高山をつなぐ国道158号線はせせらぎ街道と名付けられているが、ここは紅葉の美しいところである。

 このせせらぎ街道の郡上側に明宝村がある。明宝村は中京地区の人なら明宝ハムでお馴染みだ。峠のすぐ麓に名宝温泉湯星館という日帰り温泉があって時々行く。露天風呂から見る星空が素晴らしい、といわれているが、残念ながら夜訪れたことはない。

 ここから下り坂を一気に郡上へ下って行く途中に道の駅・明宝(磨墨の里)があって、シンボルとして磨墨に跨がる梶原源太景季の像がある。

140514_55右手の堤の先端に記念碑があるのだが、工事のため、避難していた

 先日京都の宇治川へ行ったときに先陣争いの場所を見たいと思ったのだが、工事中で記念碑を見ることができなかった。
 義経が木曾義仲を追討するために宇治川に陣を敷き、旗下の佐々木四郎高綱と梶原源太景季が馬で対岸に渡る先陣争いをしたことは有名だ。佐々木四郎高綱は生喰(いけづき・生月、池月とも書かれる)、梶原源太景季は磨墨という名馬に乗って川を渡った。

 この馬についても源頼朝との関係で二人には因縁があるのだが、とにかく先陣争いは磨墨がやや先行して進む。そこで佐々木四郎高綱が「鐙(あぶみ)が緩んでいるぞ」と声をかけるのだ。慌てて足もとを見た景季は一瞬遅れてしまう。そして佐々木四郎高綱が先陣の栄を賜ることになる。

 梶原源太景季の父、梶原景時は義経を讒言した、というので悪役と見られることが多い。これは頼朝の命によるものだから仕方がないことだ。梶原一族は頼朝の死後、滅亡してしまうがそれは後のこと。

 とにかく明宝村はその名馬・磨墨の里であると云うことだ。

 本日は娘のドン姫と本当に久しぶりで温泉(奥飛騨温泉)への小旅行に行く。ドン姫はよく寝る娘なので多分ずっと横で寝ているだろう。

2014年6月25日 (水)

長谷川慶太郎「朝鮮崩壊」(実業之日本社)

 北朝鮮の体制は崩壊し、南北朝鮮は統一へ向かう、と長谷川慶太郎は断言する。その理由は中国からの援助が途絶えるからだ。

 そしてそれに続いて1~2年で中国が崩壊すると断言する。これは経済的な破綻が起こるからだそうだ。

 北朝鮮から韓国に雪崩を打って人々が押し寄せ、韓国は危機的状況に陥る。それはもう目前に迫っているという。

 正直、今の中国や韓国の日本に対する異常な言いがかりは日本人として理不尽に思える。だからこの長谷川慶太郎の断言は不謹慎ながら「そうなったら面白いな」という気持ちにさせられる。

 そうなったときに中国や韓国に滞在している日本人がどうなるのか、ということを考えるとそう人ごとみたいにしてもいられないけれど、でもこの本の予言というか予測は荒唐無稽のものでもないような気がする。

 予測では今年中にも激震が起こりそうだと言うから、遠からず歴史の大きな曲がり角を目の当たりすることになるかも知れない。

130321_27先のことは分からないものよ!

志賀直哉「清兵衛と瓢箪・網走まで」(新潮文庫)

 志賀直哉を読み直している。新潮文庫にある五冊はすべて持っている。これが二冊目。この本についての文章を先ほどまで書いていたのだけれど、うっかりして下書きを消去してしまった。もう一度一から書き直す気がしない。

 三冊目を読み終わったときにでも覚えていたら詳しく書くつもりだ。

 とにかく志賀直哉は肌合いが合うのか読み出すと止められないくらい面白い。

120329_46しっかりしろよ!

2014年6月24日 (火)

歯がちょっと

 歯がちょっとウズウズする。先日詰め物をしてもらったところが具合が悪い。だいぶ前に奥歯にかぶせたものがとれてしまった。酸っぱいものを食べると歯が浮いてしまい、うずく。ラッキョウすら食べられない。

 というわけで、歯医者に行かねば・・・と思いながら決心がつかない。歯医者と床屋はなかなか出かけるまでの迷いが長いのだ。ほかの人はどうなのだろう。歯医者に行くのが好きでワクワクする、なんて人はいるのだろうか。

 ほうって置いたら良くなる、と云うことがないので、仕方なく先ほど思い切って出かけた。運良く予約の隙間で、あまり待たずに治療してもらうことが出来た。多少違和感が残っているが、とりあえず一安心した。前回も言われたけれど、知覚過敏はどうしようもないということである。

 今の歯医者は治療技術も上がり、器械も良くなっているけれど、むかしの人はさぞつらかったことだろう。昔の人でなくて良かった。

 さて、次は床屋だ。昼から行くことにしよう。うーん、気が重い。

Dsc_0039_2わが輩は歯には自信がある

仁木英之「僕僕少年」(角川書店)

 人気シリーズの、中国が舞台のファンタジー小説「僕僕先生」とは全く関係のない、「青春"格闘小説"(by 帯)」だ。新刊が出るのを楽しみにしている「僕僕先生」シリーズとは違うことは承知で買ったけれど、本当に全く関係ないとは思わなかった。

 主人公は大学生で成人している年齢だから、少年と言うより青年なのだけれど、何となく少年ぽい。ひょんなことから総合格闘技のジムに通うことになり、趣味で始めたことなのにいつの間にか全力でそれにうちこんでいく。

 何かに全力で取り組むとブレイクスルーが訪れる。人間的にレベルアップするのだ。今までの生き方では見えなかったものが見えるようになる。その成長物語である。

 主人公のブレイクスルーの苦しみを読むことでそれを疑似体験するけれど、こちらはレベルアップするわけではない。やはりそれなりの努力と忍耐をしないといけない。いつもいつもぼんやりしているわけにはいかないのだ・・・などとちょっと思ったりした。

001_11しっかりしろよ!

自主規制?

 台湾の故宮博物館の至宝の一部が日本で公開されることになっていたが、そのポスターに記載されている博物館の名前が正式なものでないことから、台湾側から激しい抗議を受け、あわや開催中止の事態となった。

 日本側が台湾の要請を受け入れ、正式名称に訂正することになり、何とか開催にこぎ着けることになったのはさいわいであった。

 正式名称は「台北國立故宮博物院」であり、ここから「國立」を除いた名前でポスターが作成されていたのだ。

 名前が長いときに、一部を省略することは普通に行われることだが、今回台湾がこだわったことには重い意味があることは分かる人には分かっている。

 中国と国交正常化した際に、日本は中国の強い要求によって台湾を国家として正式には認めないことになった。中国は、台湾が中国の一部である、という主張をしているから、台湾を国家として認めることは、もし台湾を接収するときには他国を侵略占領することになってしまう。

 日本はあれほど親日的で経済的にも関係の深い台湾を政治的には切り捨てたのだ。これは外交的ないきさつだからある面ではやむを得ない面もある。

 しかし今回の展示会は政治的なものではない。それなのに「國立」が省かれたのは中国の反発を意識した自主規制ではなかったのか。だから台湾は問題視したのだろう。

 マスコミの一部には「國立」を省略することは内諾が得られていたのではないか?などとして台湾の抗議に首をかしげる向きもあるそうだ。中国に対しては自国以上に過敏に神経を使う気持ちが見え見えではないか。こんなマスコミでは中国の理不尽な言動に対しては及び腰の報道しか出来ないから、中国の真実など伝えることが出来ない。

 ところで今回の展示品の目玉である、あの「豚肉」と「白菜に虫(コオロギだったっけ)」はすごい人だかりになることだろう。でも一度見たら何度も見たいというものでもない。石なのに実物に似ている、と云うことが珍しいだけなのだけれど。もう見たからいいや。

75オラ、わかんねえ

2014年6月23日 (月)

謝罪する

 東京都議会のセクハラヤジを飛ばした都議が明らかになった。「都民や自民党の皆さんにお詫びをしたい」と言い、「会派を離脱する」と述べたそうだ。ヤジの相手の女性議員に対しては謝罪するのだろうか。

 石原伸晃環境大臣が福島を訪れ、大熊町の町長に金目発言を謝罪したようだ。町長は謝罪を重く受け止め、謝罪を受け入れる意向を示したそうだ。

 謝罪とは自分が間違っていたことを認め、謝ることだ。謝ったところで言う前の昔にもどれるわけではないけれど、謝らなければ何も始まらないから、とりあえずは一段落だろう。

 しかしこの人たちは本当に自分が間違っていた、と認識しているのかどうか。

 このことで自民党に対する国民の不快感はかなり高まっただろう。自民党は数を恃んでおごっている、とみんなが感じ始めた。ダメージの大きさをどこまで自覚しているのか。

 ヤジの都議会議員と石原伸晃大臣はこれからその罪に見合う罰を覚悟しなければならない。マスコミが騒いだことなどまだその序の口だと分かっているのだろうか。

1208_66分かってないぞえ! 

一番やられる

 麻生副首相兼財務大臣の麻生太郎が、宇都宮で開かれた自民党栃木県連の会合で、集団的自衛権の説明をする際にいじめをたとえ話に出して、「勉強は出来ない、ケンカは弱い、だけど金持ちの子、これが一番やられる」と述べたそうだ。

 これは中国にいじめられ、アメリカにもヨーロッパからも冷たくされ、ている日本のことを言っているのだろうけれど、ケンカが弱くて金持ちなのは分かるとして、「日本国民は勉強が出来ない」というのは誰との比較で言っているのだろう。

 どうもここでたとえられているいじめっ子は何となく麻生太郎氏御本人のことか?と思ってしまうのは考えすぎか。

 本人は勉強が出来ないともケンカが弱いとも思っていないだろうけれど、首相時代にちょっとお粗末なところを見せていたことを思い出す。

 一定の条件が揃うといじめの対象になりやすい、との発言は問題である、などと例によってマスコミはとんちんかんな反応をしている。

 いじめについて私見を述べると問題視する、というのは、戦争について私見を述べると戦争肯定している、と騒ぐのに似ている。

 麻生太郎氏はいじめを肯定しているとは思えないけれどなあ。

 それともこれを問題視している人は、いじめっ子にターゲットを教えるのはまずい、とでも心配しているのだろうか。

 マスコミは麻生氏の発言そのものを問題視しているわけでは決して無いだろう。問題視する人がいるに違いない、と先読みして問題視していると言うことだろう。こうして自主規制のしがらみにがんじがらめになっていく。

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品位の問題

 東京都議会で、女性議員が質問中にセクハラヤジが飛ばされたことが問題になっている。ヤジには一言で相手を凍り付かせる働きがある。この時も一瞬この女性議員は絶句し、次いで苦笑いすることで必死に気持ちを立て直そうとしていた。

 都議会に限らず、国会でのヤジにも極めて品位に欠ける個人攻撃のヤジがしばしば聞かれる。「私は下品な男です」と表明しているようなものだが、問題はそのヤジに対して周りが一緒にせせら笑うと言うことにあるように思う。

 今回のセクハラヤジに対して笑う人たちがいた。まともな神経の人であればあのようなヤジには揶揄された議員と一緒に凍り付くのが普通の神経で、それを笑うというのはほとんど同罪だ。ヤジった当人はその笑いに賛同者を感じて気持ちが良かっただろう。今更非難されて驚いているのではないか。

 ヤジは喝采を浴びることでエスカレートする。

 笑うしかないから笑ったので失笑しただけだ、というかも知れないが、あの笑い声は誰にも「よくぞ言った」というように聞こえる。

 このことでヤジに多少の抑制がかかると良いのだけれど、今のように犯人捜しのみにスポットが当たっているようではあまり期待出来ない。

 そもそも品位がないのだろう。

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2014年6月22日 (日)

藤沢周平「橋ものがたり」(新潮文庫)

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 江戸の市井の人々の物語が10作品収められている。

 人の暮らしは波風が全くないと云う事などない。しあわせそうに見える人の生活にも何かしら問題が起こるものだ。よしんば大きな問題が起こらなかったとしても心の隙間にふと影がさして見たくないものを垣間見たりしてしまう。

 最後に人のぬくもりが見えて救いがあるもの、自分の今までしてきたことの報いを受けるもの、さまざまな物語が語られている。もう少し余韻を味わいながら読みたいと思いながら、面白いので次々に読んでしまった。まことに人は悪いことを重ねた人が思いがけず人を助けたり、善人に魔が差したり、不思議なことである。

 「橋」というのは、ある世界とある世界をつなぐものであり、出会いの場所であり、別れの場所でもある。江戸の街には水運のために川が幾筋も流れていたから当然橋も数多い。

 男と女の間には「深くて暗い川が流れている(by 野坂昭如)」けれど、そこには橋が架けられていない。

140513_50飛騨川に架かる橋

350万組

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 中国民政部の発表によると、2013年の中国の離婚件数は350万組だったそうだ。

 350万組と言うことは、昨年だけで700万人が離婚したことになる。中国の人口がいくら多くてもこれはすごい数だ。

 日本の毎年の新生児の数が150万人を切って久しい。中国の人口は日本の約十倍、そして一人っ子政策を続けてきたのだから、新生児の数は1500万人よりずっと多いと云う事はないだろう。

 それなら毎年生まれた人の半分近くが離婚する計算になってしまう。もちろん結婚適齢期には大きな幅はあるけれど、毎年それに加わる人は新生児と大きな違いはないだろう。それに退場する人もいる。

 それとも繰り返し離婚している人がいるのだろうか。

 中国の離婚率は毎年上昇し続けて、昨年は対前年で14.8%増えたという。昨年の離婚の上昇率のまま(そんなことはないだろうが)なら単純に計算して5年で離婚件数が倍になる。結婚件数に離婚件数が迫るかも知れないと言うことだ。

 一人っ子政策でわがまま放題に育てられた若者は、我慢を知らないから相手に合わせるのが苦手で、時に我慢が必要な結婚生活の継続が困難なのだ、というような話も聞く。

 親は大事に育てた子供だから、結婚相手には高望みをする。結婚の条件はますます厳しくなり、中国では結婚難なのだと言われている。しかも男女比率の著しい差(男がだいぶ多い)が社会問題にもなっている。

 資産がなければなかなか結婚出来ない。満足させられなければ結婚しても別れることになる。中国の若い男たちのフラストレーションは高まる一方だろう。

 貧しくても愛があれば、なんて夢物語になってしまったのだろうか。物質的に豊かな社会は、実は貧しいとは皮肉なものだ。

2014年6月21日 (土)

伊良湖

老母の医療スケジュールの方針も決めたので名古屋へ帰ることにした。介護のお手伝いと言ってもあまりやることがないのだ。ただのお留守番で無駄飯食いと無駄酒を飲むばかり。母も私がいて喜んでいるのかどうかよく分からない。

そういうわけで早朝に千葉を出発、ただ帰るのも何なのでちょっとだけ伊良湖へ寄った。

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椰子の実は見当たらない。曇り空。

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知多・師崎港や鳥羽行きのフェリー乗り場の側で。

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紫陽花が活き活きとしていた。

何となく盛り上がらず、散策もせず、このまま帰った。

来週はずいぶん久しぶりに写真嫌いの娘と二人でドライブに出かける。

2014年6月20日 (金)

川合章子「あらすじでわかる中国古典「超」入門」(講談社+α新書)

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杭州・霊隠寺・飛来峰にある三蔵法師一行の石彫り。三蔵法師はかろうじて分かるが弟子たちは皆頭部が失われている。文化大革命でこのような無惨な姿に打ち欠かれた。無知であることがどれほど害悪であるかがよくわかる。

 中国の神話、思想、史書、漢詩、戯曲、小説を新書で網羅しようという「超」入門書。数をやたらに取り上げるのではなく、特に重要と思われるものを丁寧に紹介しながら基礎の基礎を知ることが出来る。

 中国人のものの考え方が、これらを基盤にしていることは間違いない。ただし、日本と違って中国には知識人と庶民とは厳然たる階級の違いがある。知識人のベースと庶民のベースは全く違う、と云うようなことは、この「超」入門を知ったのちにわかってくることだろう。

夏目漱石「思い出すことなど」(岩波文庫)

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 「修善寺の大患」といわれる漱石の胃病による大喀血前後について書かれた文章が表題の「思い出すこと」。それに別の七編を加えた随筆集である。

 読みかけをようやく読み終わった。漱石の臨死体験ともいうべきこの経験は、彼の精神性を新しいステージに導いた。この経験で世界の見え方が変わったことが繰り返し語られている。しかしそれは闘病生活から日常に戻るとき、その経験の鮮やかさが薄れるとともに幻のように消え去ろうとするものでもあるらしい。

 とはいえそのような境地にあったことは忘れないのではないか。観念的に知るということと真の経験として識ることの違いとは何か、考えさせてくれる。小文ごとの末尾に俳句か漢詩が添えられているのだけれど、漢詩はほとんど読みこなせないのが悔しいし情けない。

勇気がある

Photo ソウルの路地にて 

 韓国の首相候補に指名される予定の与党の候補者が、過去に親日的な発言をした人物だとして野党やマスコミから激しく非難されているようだ。

 しかしこの候補者は全く辞退するつもりはなさそうだという。朴槿恵大統領があえてこの人物を正式指名するかどうか、注目されている。

 反日こそが正義、と云う韓国の異常な空気のなかで、びくともしないこの候補者の勇気を評価したい。果たして朴槿恵大統領は彼を正式指名する勇気があるだろうか。

 韓国人に日本人に対する反感があるのは長い反日教育や、マスコミによる洗脳から仕方がないけれど、実は本音のところではそれほどごりごりに日本を憎んでいるわけでもないような気がする。

 だからこの人物は、過剰な反日からの改善に案外期待されている、と云う感触があるのではないか。彼が韓国国民から支持されることを祈りたい。

 まさか首相になったとたんに反日的な言動に転じたりはしない、と思いたい。

2014年6月19日 (木)

読書三昧

 実家で留守番がてら老母の介護の手伝いをしているが、やらなければいけないことは限られているので時間がたっぷりある。テレビを見る気もしないので、読書をして時間をつぶすことが多く、幸い集中力が維持できているから(全く集中できないときもある)読書三昧である。

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藤沢周平「日暮れ竹河岸」(文藝春秋)
 前半は短編よりも短い掌編というような短い話がたくさん集められている。あとがきを見ると藤沢周平がアイデアを出し、編集部がそれに合わせた浮世絵を探し、その画のイメージを膨らませた形で物語を作った、と云う。

 この本の本文にはその浮世絵は収録されていないのが残念だが、本の外箱は写真のようなものである。なかなか好い。

 だから時間経過をたどる、と云うよりも、あるワンショットを起点にそれまでのいきさつが浮かび上がるような挿話が語られ、そのあとがどうなるのか、読む方が自分で考えるようなかたちでぷつんと終わる。

 私が好きな、演歌の歌詞のような体裁で、一瞬のスナップのなかに過去と現在と未来が撮しこまれた写真のような作品が多い。ここでは写真ではなく画、らしいけれど同じことだ。

 人にはそれぞれの生き方、そして運命があるけれど、その中でうちひしがれるようなことがあっても、そこにわずかな光が差すだけで再び生きる力がわいてくる。「そんなことってあるよね(by内田樹)」というところだ。

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藤沢周平「早春」(文藝春秋)
 これも短編集。時代小説が主だが、表題の「早春」だけはめずらしい現代小説である。人生のすれ違い、思い違いのようなものがあからさまでないかたちで現れて苦い後味を残す。人生には心に秘めたままで過ぎ去っていくことというのがあるのだ。そしてそれは実際に起こったことよりも心に重く残るもののようだ。それが生きる、と云うことかもしれない。

内田樹・高橋源一郎編「嘘みたいな本当の話 みどり」(イースト・プレス)
 テーマに基づいて公募したショート・ストーリーを内田樹先生と高橋源一郎が選定してまとめたもの。これは二冊目に当たる。

 テーマは二十くらいあるけれど、たとえば「私が会ったなかで、いちばん酔っ払っていた人の話」や「私が会ったいちばん粗忽な人の話」、「あとからぞっとした話」など。

 本当の話だろうか、と云うようなものや、つい声を出して笑ってしまう話、ぞっとする話がたくさん集められている。内田樹先生の選定基準の一つが「奇妙な後味」だというとおりのものがおおい。

 それこそ「こういうことってあるかもしれない」と思わないと楽しめないかもしれない。

東海林さだお「ショージ君の『さあ!何を食おうかな』」(文春文庫)
 東海林さだおの食い物の話はとても具体的でリアリティがある。表現力が優れているのだ。

 食べ物やそれを供する場所には階層差がある、と云うことを人はあまり意識しない。しかしショージ君はそこを敏感にかぎ分けてこだわる。
  
  この文章が書かれた時代よりすでに三十年以上経っている。そうしてその階級差はその時代より無意識化されているけれど、実は厳然とある。先日の、水が一杯五百円、とかいうことで物議を醸した有名料理人のレストランの話が思い出される。

 そのことを皮肉交じりに書いていて痛快であるとともに何となくペーソスも感じるところがこの人の感性の優れているところだ。

東海林さだお「ショージ君の一日入門」(文春文庫)
 何とか教室、と云うものがたくさん出来たのがこの文章が書かれた時代なのだろう。それは今でも続いている。ファッションモデル、私立探偵、美容師、バレエダンサー、乗馬、水泳等々、世に教室の種は無数にある。

 それを手当たり次第に一日講習を受けてそれを文章にしたものだ。

 ショージ君は自分自身の不器用さをとことん戯画化して見せているのだけれど、そこには実はそのような世相そのものを何となく冷たく見ているショージ君があるのだ。

 縁のないはずの、普段知ることのない世界がここに身近に紹介されている。

井波律子「一陽来復」(岩波書店)

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 中国文学者、井波律子女史のエッセイ集。富山県高岡生まれで京都育ち、そして現在も京都住まいの日々を、季節の移ろいとともに綴っている。女史は1944年生まれだから、今ちょうど七十歳だ。

 季節ごとの京都の風物、そして幼い日の富山の風物を語りながら、中国の風物や漢詩をそれに重ね合わせて短い文章のなかに織り込んでいる。とてもフレンドリーな文章でこちらの心にその思いがしみじみと伝わる。あっという間に読み終わってしまうが、繰り返し読み直したくなるいい本だ。

 一陽来復、というのはもともと冬至のことをいう。陰が極まり、再び陽がめぐってくる日という意味だ。転じて冬が転じて春になること、そして暗い時期が過ぎて明るい日々が始まることをいう。


 寝たきりの老母に胃瘻を勧められたけれど、その気にならず、昨日医師に相談に行った。

 医師の個人的な意見としては、平均寿命を過ぎたこの歳では胃瘻はやはり最後の手段だと思う、とのこと。つまり脱水症状の危険回避のために取れる手立てをもう少し尽くしてみて、万やむを得ないときに胃瘻を考えたらいいだろうとのこと。胃瘻をしても食事は口から摂取は出来るが、やはり負担はおおきいらしい。

 極力自力での水分摂取を本人に促し、補助的に週一度程度の点滴を考えることにした。目安は排尿が一日0.5リットルを切るかどうかだという。それ以下では泌尿器系のダメージがおおきいのだそうだ。今ちょうどそれくらいの排尿量だ。

 早速かえって母に水分をもっと積極的に摂取するよう話しかけてみた。どこまで伝わっているのだろうか。心許ないが、繰り返し話しかけてその気になってもらうしかない。

 延命が苦痛を伴い、負担がおおきすぎるなら、私自身は延命措置はしてもらわなくていいと思うけれど。

2014年6月18日 (水)

内田樹「街場の文体論」(ミシマ社)

 文学と思想について内田樹先生が思いのたけを尽くして講義で語ったものを本にしたもの。これは彼が大学で行った最後の講義であり、熱がこもっていて、ラストは感動的でもある。

 あとがきに


何しろ、最後の授業ですから、学生たちに「これだけはわかっておいてほしい」と思うことを、かき口説くようにお話ししました。

とある。

 この本では先生が文学理論や言語学について、繰り返し語ってきた「アナグラム」、「エクリチュール」、「リーダビリティ」、「宛て先」と云うおなじみの言葉をあらためて丁寧に一から説明し直した上で、それを駆使して自分の考えを講義している。

 ここで語られたことを私自身の言葉で語れるように、自分の心のデスクトップに常に置いておきたいと思っている。

 現在の日本の人文科学の現状についての苦言については、人文科学にとどまらない日本の問題点として感じるところがおおきい。

 夏目漱石の「虞美人草」について言及されているので、読んでみたくなった。そういえば虞美人草とはひなげし、つまりポピーのことだと知ったのはつい最近だった。

 内容についてはよく考えた上で語りたいことが山ほどあるけれどしばらく発酵するのを待つつもりだ(ほとんど忘れてしまうだろうけれど)。

失言

 人は外観と語り口で評価されることが多い。特に政治家はそうだろう。

 今回の石原伸晃環境大臣の失言は、時と場所をわきまえぬもので、誰が聞いても本音と思うだろう。政治家なんてみんなそんなものだ、とはたいていの人が分かっているけれど、まさかそれを口にされてしまうと見逃すわけにはいかないではないか。

 この石原伸晃という人、外観も語り口も軽佻に思えて私は昔からあまり評価できなかった(千葉県知事の森田健作よりはましだが)。総裁選に加われる人材とはとても思えない。あえて云えば親の七光りではないか。それを自分の実力のように勘違いしたから今このような立場に立たされている。日本という国をこうしたい、と云う熱い思いのようなものが多少なりとも伝われば救いがあるけれど、口先の情勢分析ばかりが巧みでこざかしい(本当は違うのかもしれないけれどそんなところを見たことがない)。

 政治家なんてそんなもの、と云ってしまえばそれまでだけれど、まだ安倍首相のほうが志が見えるような言動をしている。間違って石原伸晃が首相になったりしなくて良かった。

 政治家の語り口は人気におおきく影響する。たとえば菅直人、仙谷由人、小沢一郎などの語り口に好感を持つひとがいることが信じられない。語りかける相手に対して好戦的で、敬意のひとかけらも感じられない。それがそのまま失言につながることも多い。

 失言はそれまでの生き方、考え方が自ずからでてしまう恐ろしいものだ。マスコミはそれを引き出すのがとてもうまい。それはマスコミに政治家と同じ心性が備わっているからだろう、とは私の皮肉な感想である。

高速鉄道

11031_41 昆明駅

 少し前のニュースで、この一年以内に甘粛省の蘭州市から新疆ウイグルのウルムチまでの高速鉄道が開通する予定だという。これにより、北京からウルムチまで最速で十時間で行けるようになるそうだ。

 10年ほど前に敦煌に行ったときには、北京から飛行機で行くのに数時間かかった。三十人乗りの小型ジェットなので、蘭州などを給油で中継するので北京での待ち時間や中継での待ち時間を入れるとずいぶんかかった。それが遙かに遠いウルムチまで十時間で行けるとは凄い。

 もう一度シルクロードに行きたい、と思っていたのでこの高速鉄道の旅も選択肢に入れることが出来る。

 しかしたびたびウイグル自治区でのテロ事件の報道を見聞きすると迷う。特に駅などは最も危ないだろう。なつかしい雲南省の昆明でもあんな大惨事があった。夢は夢のままに終わってしまうのだろうか。

 老母の誤嚥がひどくなってきて、食事も細り、何より水分補給が著しく減少している。このままでは夏に向かって脱水症状による危険性が高まる、と訪問看護師が懸念をしている。

 一時的なものなら点滴で補給できるが長期にわたって点滴の針を打ちまくるのはなかなか困難だそうだ。そういうわけで胃瘻(いろう)を勧められている。胃に穴を開けて食べ物や水分を直接補給するのだ。胃瘻は患者の負担が大きくてあとで後悔する、と言う話を聞いているのだが、今は口から食べ物を摂ることも可能だという。

 専門の医師に現在の胃瘻の実情を聞きに行くことにした。

 一日2リットル以上の水分を摂り、少なくとも1.5リットルほどの排尿をしないと腎臓や膀胱の浄化が仕切れず、長期的には危険だという。母は先月までほぼそれが出来ていたのに今は0.5リットル以下しか水分を摂らず、排尿はそれ以下で、尿は著しく濁り頻繁に膀胱洗浄が必要だ。しかし、医師によると膀胱洗浄の頻度が多すぎると逆に雑菌混入ののリスクが高まるそうだ。

 つまり何らかの方法で強制的に体に水分を入れ、洗い続けないと命に関わるということらしい。

 延命と本人の苦痛とのどちらを選ぶ、と云うことだが、何もしなくても最終的にはつらいことが待っているわけだし・・・。

 人間は必ず死ぬけれど、なかなか楽に死ぬわけにはいかないものらしい。

2014年6月16日 (月)

深代惇郎「深代惇郎エッセイ集」(朝日新聞社)

 一時期の天声人語はこの人が執筆していた。天声人語の文章が模範とされるようになったのはこの人の文章に与っているとも言われる。すでに故人(1975年暮れに死去)だが、久しぶりに引っ張り出して読んだ。

 前半は主にロンドンやニューヨークに海外特派員として滞在していた頃の話が収められており、後半は朝日新聞の日曜版に連載していた「世界名作の旅」、という世界文学の名作にゆかりのある地を訪ねた文章が収められている。

 良くも悪くも朝日新聞社の世界観をそのまま体現しているような文章だと感じた。若いときほど名文、と感激しなかったのはこちらの世界観の変化によるものだろうか。

 そのほかにも、先週来映画やドラマを見る間に本も読んだ。そのいくつかを備忘録として列挙する。

「日本の文脈」内田樹vs.中沢新一(角川書店)。対談集である。テーマは多岐に亘る。二人ともある狭いジャンルに留まらない知の世界を渉猟している学者であり、二人の対談から普段見慣れている世界が一皮めくれて見えたりする。

 中沢新一はオウム真理教について擁護する言説を唱えた、として学会から総スカンを食らい、すべての意見表明の場所を干されていた。私も単純にそのように受け取っていたけれど、実際は全く違うようだ。

 そもそも中沢新一自体が学会の枠に収まるような仕事をしていないので、彼等に煙たがられていて、あれを契機に中傷誹謗した、というのが真実のようだ。内田樹先生も中沢新一も私とおなじ1950年生まれ。同じ年生まれである以外はその知の集積と世界観の広さのレベルの違いが大きすぎて情けない。

「考える読書」養老孟司(双葉新書)。「小説推理」という雑誌に養老孟司の読んだ本を中心に書いた文章がまとめられている。

 これを読むと如何にこの人がたくさん本を読んでいるのか驚く。読むのがとても早い。雑誌の性格上取り上げられているのはファンタジーや海外ミステリーが多いが、ファンタジーは知る人は知るようにまことに分厚いものが多く、しかも巻数も多い。いったん読み出すと果てしなく続きが出るのだ。シリーズを読み始めたら収拾がつかなくなるのだが、養老孟司はそれをいくつも読みこなして楽しんでいる。

 養老孟司は内田樹先生ほど易しく説明してくれない。何十年も考え抜いたことを結論として文章の中に抛りこんであるので、その意味がよく分からないことが多い。でも最近読み慣れてきて前よりは分かるような気がする。繰り返し読み直せばもっと分かって「なるほどそうか!」と膝を叩くことが多くなるに違いないが、そうするためには彼の本ばかり読まないといけなくなる。

「中勘助随筆集」渡辺外喜三郎編(岩波文庫)
 夏目漱石門下の一人だが、多少毛色が変わっている人だ。内田百閒も門下生だから、変わっている人は少なからずいたので珍しくはないが。

 中勘助の「銀の匙」という小説を読んだことがあるだろうか。名文と言われ、夏目漱石も高く評価している。近々読み直したいと思っている。

 というのはこの随筆集で、中勘助の人生とはどんなものだったのかを初めて知ったからだ。どれほどのつらい日々を送ったのか。身内(元九州帝大の教授だった実兄)に精神病の病人を抱えることの苦難はその立場にならないと分からないことだが。しかも苦労したのはそのことばかりではない。

 兄を見送り、その世話に一生を捧げた嫂を見送り、彼が妻帯したのは五十八歳である。

 クセのある文章は慣れないと違和感があるが、嵌まり出すとその繊細な言葉遣いに強烈なインパクトを受ける。彼の独特の価値観はずいぶん生きにくかったことだろうが、良き友人と良き師に恵まれたことが救いだった。

続々ドラマ三昧

131120_31雲仙岳

 昨晩遅くまでかかって「マグマ」というWOWOWのドラマを見た。少し前に放映されたものを録画してあったものだ。地熱発電をめぐる話だが、テーマは日本のエネルギー問題だ。日本のエネルギーが利権をともない、食い物にされてきた実情の一端が明らかにされている。それがどれほど本来のあるべき姿を損なってきたのかを思うと憤りを感じる。

 九州の地熱発電の会社が破綻するが、それを外資系のファンド会社が買収し、再建のために派遣されたのが、尾野真千子が扮する主人公・妙子だ。この会社は画期的な地熱発電の研究をしており、成功すれば地熱発電は飛躍的に有望な再生エネルギーとなる。しかしその研究費が負担となってこの会社は行き詰まったのだ。

 妙子は現社長(谷原章介)に替わり、社長となってその研究部門を不採算として切り捨てようとするが、次第に研究所長(長塚京三)の語る夢に耳を傾けるようになる。すでに研究は最終段階であり、もし成功すれば会社を建て直すことが出来る。その夢に賭けることに妙子の上司は難色を示すが、強引に研究の続行を進める。

 3.11以後、注目されるエネルギーは原子力発電から自然エネルギーへと傾きつつあった。焦る原発推進派、自然エネルギーの利権に群がる政治家たち。そんな中、次期幹事長とも噂される中堅代議士(石黒賢)が妙子の地熱発電会社のライバルに肩入れし、悪辣な手段で妙子の会社をつぶしにかかる。実はこの代議士にはこの地熱発電会社に個人的な恨みがあった。

 次々に襲う危難を歯を食いしばって切り抜ける妙子たちだが、ついに上司から妙子は馘首されてしまう。しかも研究所長が白血病で倒れる。

 研究は続行出来るのか、そして成功するのか。会社は生き残れるのか。

 ラストに感動した。優れたドラマなのでまた再放送されるだろう。すでに何回も再放送されている。尾野真千子は好い女優であることは承知だが、このドラマでもその才能を遺憾なく発揮している。悪役側の石黒賢の妄執も良く描かれている。まあ原作が真山仁だから好いドラマになるのは当然か。

2014年6月15日 (日)

続・ドラマ三昧

 今日もWOWOWドラマを集中的に見ている。「トクソウ」という新しいドラマを先ほど見終わり、「マグマ」というドラマを見ている途中だ。それぞれ全五回。シリアスで見応えがある。

 「トクソウ」は吉岡秀隆と三浦友和主演の、検察庁特捜部のドラマだ。あの検察の暴走とも言える現実の事件を意識して作られているから、なかなか興味深い。正義のために巨悪を撃つ、という目的のための手段が、事実の裏付けなしに行われるとき、検察特捜部という正義の城は砂上の楼閣となる。ラストにいささか救われる。

 弟から連絡があり、寝たきりの母の容体がちょっと心配な状態になっているという。命に別状はないけれど、場合によって胃瘻(いろう)を覚悟しなければならないらしい。私は胃瘻には反対だけれど、食事が取りにくくなっていて、このままだとやむを得ないかも知れない。明日用事を済ましたら千葉の実家へ走る。

 一昨年まで一緒に温泉に行けるほどだったのにこの急激な衰えはどうしたことか。本人に気力がなくなっている気配が強い。それは私が母を励ます気持ちが足りないことにあるような気がしてならない。

 介護で下の世話をするときなどの、こちらのうんざりしている気持ちが母の気力を奪ったのではないか。今更遅いけれど、そんな事を考えた。

120710_66谷川岳のロープウエイに乗る母。この頃は、脚は覚束ないが元気だった。

ドラマ三昧

 数日前から録りためていたWOWOWで放映されたドラマを見ている。まことに面白い。

 CMが入らないのがなによりだ。CMそのものが興を削ぐし、CMが終わって再開したときのCM前のワンシーンがもう一度繰り返されるのが腹立たしい。一週間前のドラマの続きを見ているのでは無い。わずか二、三分前のことをもう一度教えてもらうほどバカではない。視聴者はニワトリ頭か!このことは繰り返し言っている。

 スウェーデンのドラマ「刑事ヴァランダー」の第二シーズン三話と第三シーズン三話を見た。一話ごとに完結し、毎シーズン三話で終了する。スウェーデンの地方都市の警察が舞台で、主人公は警部のクルト・ヴァランダー。演じるのは名優ケネス・ブラナー。北欧の陰鬱な雰囲気が漂い、ヴァランダーはいつも疲れている。娘との心の行き違いが切ない。ヴァランダーは娘だけでなく昔の妻やドラマの途中で亡くなる父親とも心がすれ違う。仕事に夢中になると周りが見えなくなるからであり、その代わり上司や部下は彼に一目置いている。勝手に何ヶ月も休んでも職場に復帰出来るところがすごい。本当だろうか。ちょっと重いけれど、とても面白いからこのシリーズが再放送されたら是非見ることをお勧めする。ただしWOWOWと契約しないといけないけれど。

 WOWOW製作のドラマの「地の塩」全四回、そして「血の轍」全四回を続けて見た。WOWOW製作のドラマはほとんど外れがない。下手な映画よりはるかに出来が良くて面白い。

「地の塩」は考古学の捏造事件と殺人事件が錯綜するというドラマで、大泉洋がはまり役の考古学者を熱演している。陣内孝則は嫌いだけれど、その嫌いないやなところがドラマに活かされている。誰もがそう感じていて、彼もそれを意識して演技しているとこがなかなか良い。板尾創路が不気味な役柄を嬉々として演じている。

「血の轍」は元警察官の殺害事件にからんでの警視庁の刑事部と公安部の暗闘が描かれている。刑事部の刑事が谷原章介、公安部が原田泰造、裏で原田泰造を操るのが高嶋政伸。谷原章介に協力する特殊捜査班の女性刑事を演ずるTAOは有名なモデルらしいが、スレンダーな美人で演技もなかなか良い。完全に公安のデカとして洗脳されたはずの原田泰造が公安になりきれたかどうかがラストの鍵になる。

 WOWOWのコマーシャルをしても仕方がないが、私はWOWOWに大満足している。

 ところでWOWOWではないが、NHKBSで「夢千代日記」を毎日曜日に再放送している。すでに「夢千代日記」、「続夢千代日記」各五回は終了。今日から「新夢千代日記」だ。ビデオで撮ったものをDVDにダビングしてコレクションにしているが欠番がある。これで前部揃えることが出来るのが嬉しい。

燃えない

 世の中はワールドカップに湧いているようだけれど、どうもその熱気になかなか加われない。というよりもテレビがワールドカップの話題だらけになるほど、こちらは醒めてくる。生来の天の邪鬼のせいなのかとも思うが、若い頃はオリンピックに興奮したものだった。歳のせいか。

 世の中が、あげてワールドカップで盛り上がらなければならないかのごとき風潮に感じられて、その雰囲気に反発を感じてしまう。本当にそれほどみんながサッカーに夢中とは知らなかった。

 こちらはニュースのハイライトと結果だけで良しとしよう。それも一回見れば十分だ。多分ニュースもサッカーだらけになるのだろう。始まる前からやや食傷気味である。

 私のブログなど読む人は限られているけれど、今こんなことを云うと腹を立てる人もいることだろうなあ。燃えてる人が夢中になることは当方一切差し支えないのだけれど。

2014年6月14日 (土)

藤沢周平「三屋清左衛門残日録」(文藝春秋)

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 藩主の側近く務める用人だった清左衛門は、藩主の死去にともない新藩主に引退を願い隠居する。その隠居の日々の出来事を淡々と綴った物語だ。一話完結の短編集が、全体で一つの事件の顛末を語るものになっている。

 私が藤沢周平の小説の中で大好きなものの一つである。

 これはだいぶ前にNHKの時代劇シリーズとして放映された。清左衛門を仲代達矢、里江を南果歩、みさをかたせ梨乃、佐伯熊太を財津一郎、その他各回のポイントの人物をなかなかクセのある俳優が演じていて好いシリーズだった。かたせ梨乃はあまり好きではないが、このシリーズでのかたせ梨乃はとても良かった。みさ、という役柄が好いからだ。

 今回久しぶりに読み直して、隠居してからの清左衛門の心の揺らめきに強く共感した。自分が現役で仕事をしているときにはあまり気が付かなかったことが多い。清左衛門の実感でもある。

 自分の心身が次第に衰えていくこと、やらなければいけないことがあまりなくなり、自分がやろうとしなければやることがなくなっていくこと、自分が現役だった頃にどのように生きたか、が友人や周りの人々との老後の関係と強く関係すること。当たり前のことなのにそのことを気づかされる。 

 老人になることは夕景のように寂しいものだけれど、同時に深い安らぎでもあることを感じた。「残日録」というネーミングが素晴らしい。

2014年6月13日 (金)

司馬遼太郎「この国のかたち 六」(文春文庫)

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 このシリーズもこの巻が最後となった。いわゆる絶筆である。海軍についていろいろな面から言及しているがそれも途中で終わっている。半分以降はシリーズとは別の文章だ。

 あの戦争はアメリカから石油の供給を断たれたことが直接的なきっかけで日本からしかけたといわれる。それなら日本海軍は手持ちの石油の備蓄の中でしか行動出来なかったのは明らかで、戦争の終結を想定して、終戦の絵を描いておかなければならなかったはずなのに、その様子が見られないのはどうしたことか。

 始めたものはいつかは終える、という当然のことを誰も言い出せない「空気」というものを山本七平が「空気の研究」の中で日本人の不思議な特性として詳しく論じている。これが最悪のかたちで表れたのがあの戦争だった。

 陸軍が暴走したのは事実だ。しかし海軍も第一次世界大戦後の軍縮交渉の中で、省益にこだわり、文民統制を形骸化させていった。海軍こそ世界が見えていなければならなかったはずなのに、その戦争責任は陸軍に劣らず大きい。今更言っても仕方がないが、真珠湾への奇襲攻撃が中途半端に成功したことが、戦争の幕引きを見失わせたという恨みがある。

 止める、と誰も言い出せない「空気」があの戦争をあそこまで悲惨なものにしてしまった。戦後、戦争について論じることが、戦争を美化することだ、と糾弾されることをおそれて戦争について語れない「空気」が続いた。おなじ「空気」である。このことが日本自身によってあの戦争の責任というものを総括することを出来ないようにした。「東京裁判」というかたちで外国に総括されたことを問題にするよりも、日本人自身があの戦争を総括しなければ、再びみたび同じ事が起こるだろう。

 戦後、歴史であの戦争をきちんと教育してこなかった。歴史観を教えるのではない。あの戦争は何だったのか考えることの出来る若者を産み出さなければならなかったのに、応仁の乱と第二次世界大戦が同列に論じられているような歴史を知らされてもそれは歴史を考える教育をしたことになどならない。

 司馬遼太郎が繰り返し日中戦争から太平洋戦争の時代について言及し、思考し続けたのはそれを憂えてのことだろう。

2014年6月12日 (木)

映画「未来警察」1984年アメリカ

 脚本・監督マイケル・クライトン、出演トム・セレック、シンシア・ローズ、ジーン・シモンズほか。

 ロボットが一般家庭の中にも普及し始めて、工場や工事現場や家事の一部を担当するようになったような未来のお話。今から見るとそのロボットのあまりのお粗末さに笑ってしまう。もちろんマイクル・クライトンのことだから、ちゃんとしたものを作りたかっただろうけれど、予算の関係もあってこの程度でお茶を濁すしかなかったのではないかと同情する。

 その代わり武器はなかなか優れものが出てくるのは如何にもアメリカらしい。 

 ロボットにも若干のロボット権というものが認められているのか、ロボットの誤動作などに対応するのが警察のロボット課だというのが笑わせる。そのロボット課のベテラン警察官がトム・セレック。

 悪役たちはロボットを誤動作させて社会を混乱に陥れるべく、そのための特殊なプログラムを書き込んだICUを大量に生産、あちこちで深刻な事故が多発する。

 どうもアメリカではアシモフのロボット三原則は無視されているようだ。そもそもその発想がない国なのかも知れない。なにせ銃規制が出来ない国だから。

 もちろん主人公の活躍で最後にめでたく事件は解決するけれど、こんなに簡単にロボットを誤動作させることができるのなら、おなじような事件が次々に起こって事態はさらにエスカレートするだろう。

 マイケル・クライトンが言いたいのはそういうことなのだろうか。西洋人というのはロボットに強い不安感、不信感と反感を持っていると言われるからこのような映画は受けたことだろう。

 さいわい日本では手塚治虫のおかげで、ロボットには親愛感があっても、反感は普通ない。

オーバーアチーブ

 お金に細かい人というのがいて、わずか十円のことにもこだわる。お金は粗末にしてはいけないことは分かっているけれど、そういう人にはあまり好感を持たない。割り勘の最後のところはファジーでかまわないし、それで損をしたなどと思わない。

 会社に勤めているとき、仕事があまり得意ではない方だったので、いただく給料が自分の成果に対していつも過剰のような気がしていた。だから何とかそれに見合う仕事をしなければ、と云う気持ちを持っていた(なかなか出来なかったけれど)。

 ところが自分の仕事に対してもらう給料が見合っていない、と考える人もいることに驚いたものだ。確かにそういう人はよく仕事をする。良い査定をするとさらに頑張る。そして出世欲が強い。ただ、不思議なことにそういう人はたいていほかの人との協調性に欠けることが多く、人と自分の仕事の責任のけじめに極めてうるさい。

 グローバリズムが求める人材はこのような人のような気がする。仕事の報酬は成果に見合うものであることを求め、その代わり仕事は一所懸命にする。だから査定が意に染まないときは非情に反発して不満を言う。

 そのときの様子が、お金に細かくこだわっているときによく似ている。

 海外では知らないけれど、日本の会社で仕事をするとき、たった一人で成果を上げると言うことはほとんどない。成果は多くの人のバックアップがあってのものだと考える。それぞれの人の仕事に境目がないのが普通だ。旨く回っている職場は互いのカバーするものが重なり合っている。

 ところが成果主義で個人の評価を重んじると互いの責任範囲は重なり合わなくなる。どちらともつかない部分というのは仕事にはつきものだけれど、互いに自分の責任とは考えなくなるような隙間が出来ることになる。

 問題は必ずその隙間で発生する。誰も引き受けないところで起きた問題は、誰も片付けようとしないから放置され、先送りされ、蓄積される。

 韓国のセウォル号の事件と日本の失われた年金記録問題とはある意味では同根なのだ。そんな事例は無数にある。これこそグローバリズムの最大の弊害だろう。

 誰のものでもない隙間の仕事を黙って引き受けることを内田樹先生はオーバーアチーブという。誰の責任でもない仕事をする人がいる組織は問題を起こさない。問題がないだけで成果には見えないので評価もされないけれど、このような組織は強く、そして生き残っていく。

 日本の組織はそのような要素を持つが故に競争力を持っていた。今オーバーアチーブする者よりも、評価と成果を等価に考える者をかき集めている企業が多い。大学に企業が求めているのも即戦力と称する人材だ。

 能力が高くて、そして金に細かい人の多い職場は、如何にも強力そうだけれど、働きたいと思わない(もう働かないけど)。

(この項は内田樹先生の本を読んで考えたものなのでほとんど受け売りです)

坂東眞砂子「鬼神の狂乱」(幻冬舎)

Dsc_0441中国雲南省で見かけた犬 

 山の斜面に張り付くように暮らしている高知の山村に起こった集団異常行動を題材にしている。犬神憑き(この本では狗神憑き)というのは西日本一帯に見られる現象だが、これはいわゆる狐憑きの一種かとも思われる。

 時代は天保の大飢饉をようやく脱したばかりの江戸時代の終わりに近い頃。もともと山村で耕地も少なく田畑でとれる収穫では年貢を納めれば生きていけるのがやっとの土佐豊永郷岩原村で、突然村人の一部が奇矯な振る舞いを始める。いわゆる狗神憑きだ。それは伝染するかのように次々と新たな狗神憑きを産み出す。

 この騒動の顛末記がこの物語なのだが、それが単に精神異常によるものなのか、社会的な要因によるものなのか、はたまた実際に怪異現象だったのか。それらが複合していた、と見ることもできるように書かれていて結論はない。

 坂東眞砂子は高知県生まれなので四国が題材の小説も多い。「死国」や「狗神」などいくつかの作品を読んだ。共に日本のホラー映画として映画化されている。

 平井和正の人狼シリーズ(主人公・犬神明)の中では犬神は狼であり、日本の狼人間であるように書かれていたと記憶するが、これは西洋の狼男と日本の犬神を混合するようなキャラクターを作るために作り上げた話で、実際の狗神は全く違うもののようだ(管狐のような小さなものだ、という説もあり、この話の中でもそれを思わせるシーンがある)。

 坂東眞砂子の「狗神」はやや人狼的な話になっているけれど、今回の「鬼神の狂乱」での狗神は本来の四国に伝承されている狗神憑きに近い。しかも周りが狗神憑きと見ているのに、当人たちは自分たちは狗神ではないという。

 まことに不思議な結末であるが、このような物語としてはスケールの大きな世界観で終わっている。ある明るさをともなう希望のようなものが見える。

 坂東眞砂子は残念ながら今年初めに亡くなってしまった。

2014年6月11日 (水)

神経過敏

 南シナ海でベトナムとフィリピンの軍人のスポーツ交流イベントが行われた。大国・中国に一方的にやられている両国が、敵の敵は味方、として親交を深めるのは当然だ。

 それに対して中国外交部の報道官が「中国に対する一種の挑戦」であり、「あんな小細工は、せいぜい下手なドタバタ劇でしかない」と決め付けた。さらに両国に対し、「騒動を誘発し、紛争を複雑化・拡大化するような行為」は止めるよう求めたそうだ。

 何だかとてもみっともない、見苦しいとしか言えない主張をしている(いつもそうだけど)。

 中国は確信犯的にベトナムやフィリピンに対して(日本に対しても)挑発を繰り返しているのは公然たる事実だけれど、たかが他国のスポーツ交流に、一国の外交部が非を鳴らすなどと言うのは神経過敏と言うべきか。

 案外こんなことが中国にとってはとても気になることなのだろうか。気にすべきことはそれ以外に山ほどあると思うのだけれど。

 ところで中国外交部の報道官というのは、どうしてあそこまで不快感を人に催させることが旨いのだろうか。その見事さに感心する。北朝鮮など足もとにも及ばない。

池波正太郎「黒白(こくびゃく)」(新潮社)

 池波正太郎が好きなので、多くの本をハードカバーで持っている。特に好きなシリーズは「剣客商売」と「鬼平犯科帳」だ。これは全巻ハードカバーで持っている。

 この「黒白」は「剣客商売」の番外編で上、中、下の三巻の長編。秋山小兵衛の若き日の話で、お馴染みの何人かが、若い姿で登場する。

 秋山小兵衛は、試合でかろうじて勝つことの出来た波切八郎という武芸者から真剣勝負を申し込まれ、一年後に試合することを快諾する。

 その後の二人に訪れた運命の日々が綴られている物語だ。人の運命は思わぬ出来事の連続であり、特に波切八郎を襲う過酷な日々は誰も想像出来ないものだった。(なぜ真面目で好人物の波切八郎がこのような荒波に揉まれることになったのか?これは秋山小兵衛との比較のなかで読者が感じることが出来る。それを読み取ることも読む楽しみだろう)。

 この世には暗部がある。そこに落ち込んだ波切八郎のもがきが、比較的に順調な日々の秋山小兵衛との対比で描かれる。波切八郎の転落と再生、そしてその人生の結末は、そして二人の勝負はどうなったのか。

 波切八郎が失ったものと得たものがラストで暖かく伝えられて、胸が熱くなる。

 池波正太郎、なんべん読んでもいいなあ。

2014年6月10日 (火)

ニワトリ頭

 左右に二本の柱を立て、そこに金網を張る。腹を空かせた動物の前の金網の向こうに餌を置く。金網に首を突っこんでもぎりぎり届かないように置いてある。やがて賢い動物なら左右の柱を回り込むと餌の所へ行けることに気が付く。

 ところがニワトリは必死にクビを伸ばすばかりで回り込むことに気が付かない。

 ニワトリを抱えてぐるりと回り込んで餌のところへ行けることを教えてやる。さすがに今度は同じ事をしても途中で自分で気が付いて回り込んで餌のところへ行くことが出来る。

 ところがこのニワトリをしばらく別の部屋に入れておいて一定時間を過ぎてから同じ事をしてみると、ニワトリは再び金網に首を突っこんで餌をとろうとするばかりだという。

 これをニワトリ頭というそうだ。自分で試したことはなく、聞いた話だから本当にそうかどうかは知らない。でもイメージはよく分かる。

 何だかこの頃自分がニワトリ頭になったような気がしている、というのが言いたかったことである。

内田樹「街場の教育論」(ミシマ社)

 まえがきに、神戸女学院大学・大学院の教育論をテーマにした2007年の講義録を編集したものだ、と書かれている。もちろんその録音を元に内田樹先生が一から書き直している。

 内田樹先生は、思想信条は私とはいささか異なるものの、その世界を視る見方は画期的で、大変参考になる。新しい視点をいくつも教えてくれる、私の先生(先生の言う「師」である)である。

 師とは、私が師として認識してそこに存在することですでに師であり、私を引き上げてくれるものだ、と先生は言う。その通りだと思う。そのような師に何人も出会えたことが私のしあわせだ。実際に直接お目にかかったことがある人はほとんどいないけれど。

 この本からいろいろ自分なりに感じたことがあり、そのことをテーマにして一つ一つよく考えてみたいと思っているが、今はそれを熟成させるためにすこし時間を置きたい。

 大きなテーマとしてはグローバリズムと個性尊重とコミュニケーション能力の関係。三題噺みたいだが、それがそれぞれに大きく関わり、世界が、そして日本が、そしてまさにこの本で中心に語られている教育がそれに大きく影響を受けている、ということだ。

 それを自覚して、どう修正していくのか考えていかなければならないのだけれど、どうもそうなっていない。「教育再生」という呪文こそが迷妄から覚めることを妨げているものなのかも知れない。

 日本が教育をビジネスモデルでとらえる考えから脱却出来る日は来るのだろうか。

 教育に興味のある人、そして若い人には是非読んで欲しい本だ。レトリックが駆使されているので、最初は多少読みにくいかも知れないけれど、嵌まると爆発的に先生の言っていることの意味が分かり、感激するはずである。

2014年6月 9日 (月)

映画「L.A.ギャング・ストーリー」2013年アメリカ

 監督ルーベン・フライシャー、出演ジョシュ・ブローリン、ライアン・ゴズリング、ニック・ノルティ、エマ・ストーン、ショーン・ペンほか。

 あの「ゴッドファーザー」と比べても遜色がないと思っているセルジオ・レオーネ監督の映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」もユダヤギャングの話だったが、この映画はロサンゼルスを拠点に勢力を拡張してのし上がっていくユダヤ人ギャング、ミッキー・コーエン(ショーン・ペン)とロサンゼルス市警の死闘を描いたものだ。

 時代は1949年第二次世界大戦が終わってわずか四年、朝鮮動乱が始まる前の年である。ほとんどアメリカの暗黒街はアル・カポネの禁酒法時代と変わらない。マフィアが牛耳るシカゴと同様、ロサンゼルスもマフィアたちが我が物顔にのさばっていた。その中で急激に台頭してきたミッキー・コーエンによって警察も裁判所も意のままになり、警察内部も腐敗していた。

 そんな中、金に動かない男たちが警察本部長(ニック・ノルティ)の意向を受けてミーキー・コーエンつぶしに立ち上がる。そのやり方はほとんどギャングと変わらない荒っぽいものだった。

 凄まじい闘争とその結末。暴力に暴力で立ち向かう男たち。これはほとんど西部劇だ。それが痛快だと感じるのは私も暴力的だからだろうか。男が命がけで仕事をすることに美学を感じるのは暴力が好きだからではない。

 もともとギャング映画が大好きだ。そして思った以上に出来の良い映画だった。お勧め。

愚かな人

 たまたま韓国のセウォル号の転覆事故を話題にしたある討論番組を見ました。韓国の人も三人ほどいました。普段典型的な韓国的見方考え方を見せてくれる金なんとか云う女史も加わっていました。普段は甲高い声で自分の主張を語る彼女も、今回の事件を韓国人としてどう受け止め、どう今後に活かしていくべきか真摯に考えている様子に好感が持てました。当たり前のことですが、自分の国が好きであること、だからこそ国を憂えているのです。

 そのときに一人の参加者が、今回の事故は韓国の本質的な問題だ、と嬉しそうに言い放ちました。それに続けて、韓国の国民そのものに問題があり、韓国の歴史がそれを物語っている、などとカサにかかって韓国そのものを誹謗する言葉を連ね始めました。さすがに見かねて司会のアナウンサーが割って入りましたが、言葉は留まらず、再三にわたって如何かと思えるような言葉が続いていました。

 何と云う愚かな人だろうか、と唖然としました。確かに韓国には歴史的にこうしたら良かっただろうに、と云うような曲折点があったことは事実です。そして今回のセウォル号の事故の背景になるような韓国の社会的な問題があることは確かでしょう。だからそのことを韓国の人も認識してそのような言葉を語っていたのです。

 日本だってそのような反省すべきことが山ほどあり、あの戦争に突き進んでしまい、そのことのツケがいまだに日本を大きく傷つけています。

 韓国を誹謗するこの人のおかげで、彼が誹謗している韓国人よりも日本人の方が愚かであるような気分になり、まことに不愉快でした。このような人の言動に快哉を感じる人がいるからこのような人が再びテレビに出てくるのでしょう。出来ればそのような人がなるべく少ないことを祈るのみです。

 討論を、相手の意見を一切聞かずに自己主張だけ喚き立てる場だと勘違いしている愚か者をみるとうんざりします。どんな相手であっても最低限度のリスペクトを失わないようにしないといけない、とあらためてこの愚かな人から教えられました。

寝起き

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 以前は朝、目を開けた瞬間にパワー全開、フル稼働でした。それがなんたることか、一年ばかり前から、目が醒めてもすぐに起き上がれない、頭もしばらく働かない。ゆっくりとエンジンを掛けてエネルギーが全身に行き渡るのを待たなければならない。その起動とフルパワーまでのタイムラグが次第に長くなってきました。パソコンに重いソフトがたくさん入って動作が遅くなるのに似ているけれど、残念ながら私にはたいしたものが入っているわけではない。

 単に各部の劣化が進んでいるだけなのは承知していますが、それを毎朝思い知らされるのは切ないもので、特に夜更かししたりすると負荷が大きいようです。劣化が進むのを遅らせるためにもなるべく無理はしないようにしなければと、残り少なくなった脳細胞で考えているこの頃です。

 昨日はその負荷によるダメージを回復するために休養しましたので、さいわい今朝の目覚めは爽快でした。なにせ八時間も熟睡しましたから。

2014年6月 8日 (日)

本日休業

昨日息子が友だちの結婚式があると云うので広島からやってきた。娘のドン姫も夜中に帰ってきた。そして朝の五時頃まで飲んだので、二時間くらいしか寝ていない。ブログをやる気力が湧かないので本日は休業しました。

2014年6月 7日 (土)

葉室麟「紫匂う」(講談社)

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 本屋に並べられてすぐ購入したのに、ほかの本を読んでいて珍しく読むのが後になった。読み出したら止められず、一気に読了した。

 葉室麟の描く世界はまことに心地が良い。どっぷりと浸かって、ただただその心地よさにひたれば読後感はさわやかである。話ができすぎだ、などと言うなかれ。面白くて良い気持ちになれる小説で良いではないか。

 主人公は人妻の澪(みお)。澪、というのは海や川で特に筋状に流れが強いところで、底がそのためにえぐれて深くなっている部分のことやその流れそのものを言う。

 砂浜の海水浴場などで、一見フラットに見えていても、浜から強く沖合に戻る流れの筋がある。知らずに嵌まると浜に戻ろうとしても沖に流される。そんなときは浜に平行に逃れてから戻らなければならない。

 人妻・澪は剣の達人と言われながら一見凡庸で静かな夫に嫁いで二人の子供をもうけていたが、嫁入り前に一度だけ契りを交わした想い人がいた。

 その想い人が江戸であらぬ嫌疑のためにとらわれの身となり、国元に護送される途中に逃走したと知る。そして成り行きでその男をかくまうという思い切った行動を取る。そのことは夫や子供たち、夫の両親に累が及ぶ事をそのときには深く考えていなかった。

 想い人、そして夫、男たちの真の姿が澪の眼に明らかになっていったとき、彼女は心の底の自分の本当の気持ちに気が付く。

 ぎりぎりの状況を切り抜けたときに人は真のしあわせをつかむ。

 いいなあ。あんまり切り抜けてこなかったものなあ!

中国人は愚かではない!・・・か?

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 アメリカ海軍の原子力空母「ジョージ・ワシントン」に艦載されているE-2C早期警戒機の尾翼が白く塗られていて、その中心から放射状に赤い帯が伸びているのは、旭日旗を模したもので、日米同盟の堅牢さを象徴させようとしている、と中国の御用新聞環球時報が報じた。

 その環球時報は、安倍首相がG7で中国の覇権主義を牽制する発言をした事について、「中国人は愚かではない、安倍首相のパフォーマンスは見え透いている」と報じた。

 南沙諸島での中国に対するベトナムやフィリピンの非難に対する中国の言い分や、尖閣諸島での行動に対しての日本の非難に対する反論をみていると、その中国側の論理は理解を超えている。

 自らを省みる事が出来なくなるのは、大国のおちいりやすい病的な思考だが、それに気がつけないのを愚か者という。

 中国人は愚かではない!・・・のだろうか?

カミュ「異邦人」(新潮文庫)

カミュ「異邦人」(新潮文庫)
 この物語の舞台はアルジェリアのアルジェだ。この時代、ここはフランスの植民地だった。「アルジェの戦い」という映画がある。アルジェリアがフランスから独立するまでを描いた映画だ。この映画を学生時代に予告編で見た。予告編だけなのに弱者の戦争、テロリズムというものを強烈に知らされた。

 その後「ゲバラ!」という映画を見た。チェ・ゲバラをオマー・シャリフが演じ、カストロは大好きなジャック・バランスが演じていた。ゲバラの遺体を運ぶヘリコプターから見おろすボリビアの景色が忘れられない。

 「異邦人」とは関係ないみたいだけれど、主人公が撃ち殺すのはアラビア人だ。鬱積した感情を内に秘めて、我が物顔に振る舞うフランス人に憎しみの視線を送る彼等が見える。フランスは頽廃していた。彼等の残したものが今のアフリカの現状であることを感じる。

 カミュが主人公のムルソーの独白に託した倦怠と無関心はフランス、いやヨーロッパの精神の堕落そのものだったのではないか。今中国や東南アジアの若々しい熱気を見ると、そのことが強く感じられる。そして活気を喪った倦怠感はわが日本にも蔓延している。

 「異邦人」のムルソーに共感する若者は多いのではないか。それともこれを読む気力すら失われているか。少なくともムルソーは自分の無関心のなんたるかを反芻して考え抜くという努力だけは怠らなかった。だから諦念を(自分自身を)受け入れることも出来たのかも知れない。彼は考え抜くことで絶望の中に希望を見た。それは錯覚か?

2014年6月 6日 (金)

臨死体験

 夏目漱石が胃病から修善寺で大喀血をして危篤になった前後のことを書いた「思い出す事など」(岩波文庫)を読んでいる。ここで漱石は意識を失っていた三十分間が臨死体験だったのかどうか、考えている。

「われわれの意識には敷居のような境界線があって、その線の下は暗く、その線の上は明らかであるとは現代の心理学者が一般に認識する議論のように見えるし、またわが経験に照しても至極と思われるが、肉体と共に活動する心的現象にかようの作用があったにした所で、わが暗中の意識即ちこれ死後の意識とは受取れない。」

  中略

「仮定は人々の随意であり、また時にとって研究上必要の活力でもある。しかしただ仮定だけでは、如何に臆病の結果幽霊を見ようとする、また迷信の極不可思議を夢みんとする余も、信力を以て彼等の説を奉ずることが出来ない。」

  中略

「余は一度死んだ。そうして死んだ事実を、平生からの想像通りに経験した。果たして時間と空間を超越した。しかしその超越した事が何の能力をも意味さなかった(本分のまま)。余は余の個性を失った。余の意識を失った。ただ失った事だけが明白なばかりである。どうして幽霊となれよう。どうして自分より大きな意識と冥合出来よう。臆病にしてかつ迷信強き余は、ただこの不可思議を他人(ひと)に待つばかりである。

  迎火(むかいび)を焚いて誰待つ絽の羽織 」

 養老孟司先生は、死ぬというのは意識を失ってそのまま戻らないだけの事だ、と喝破している。どのみち死んでみない事には分からないし、死んでしまえば分かったところで仕方のない事だ。

コケモモのジャム

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 妙高高原でお土産にコケモモのジャムとカンズリ酒盗、そして藻塩を買った。カンズリ酒盗は酒のつまみに最高。藻塩は焼き魚や天ぷらに使う。天ぷらには天つゆ、というのが私の好みだが、この藻塩、とても旨いのだ。

 パンはあまり食べない。それでもときに口を変えるために食べることもある。食パンはトーストするのが好きだけれど、コケモモのジャムをトーストに塗ったりはしない。

 クリームチーズが好きで、ビールのつまみにするしパンにも塗る。うっかりすると食べ過ぎるので注意している。

 最近クリームソフトという、生クリームとバター(マーガリン?)をムース状にしたものを見つけた。以前からあったのかも知れない。これもトーストしたパンに塗るものではない。とても塗りやすく、旨い。これだけでも好いけれど、それにジャムを少し載せても旨い。

 子供のときバターを塗ったパンに砂糖をたっぷり載せて食べるのが大好きだった。実は今でも好きだけれど糖尿病だから我慢している。このムース状のバターに砂糖を載せてみた。久しぶりに至福の味を味わった。

出来ないことが出来ると思う

008020年以上前の中国

 中国の不動産価格が下落気配になっていることは繰り返し報道されている。中国の不動産市場はGDPの16%を占めているそうで、その価格の下落は中国経済にたいして大きな成長リスクとなる。

 中国の不動産がバブルであるかどうかは意見が分かれるとこらしいが、中国政府はバブルになることの危険性を考えて規制を強化した。このことが価格の上昇を抑える大きな原因になったわけだが、そもそもが都市部の不動産の価格はすでに本来あるべき価格よりもずいぶん高くなってしまった。

 上がることを前提にみなが投資目的で購入に向かっていたのに、上がらない、または下がる、と見なされれば、今度は売る、という方向に向かうのは必然である。儲けるつもりが損をするかも知れない、などというのは投資をするような人にとっては恐怖だからだ。

 不動産価格崩壊を食い止めるために、一部の都市では不動産価格の下落幅を15%以下に抑えるように指導するそうである。アナリストによるとその内の杭州市や東莞市が今後どのような価格動向になるか注視しているという。

 そもそもものの価格をコントロールする、などと云うことは市場原理の世界ではやろうとしても出来るものではない。不安が不安を呼んで価格の下落が始まったらどのようにそれを留めようというのだろうか。

 バブル崩壊を期待してしまう気持ちがちょっとある。世界経済にとってはマイナスらしいけれど。

0081子供も可愛かった

2014年6月 5日 (木)

映画「春との旅」2010年・日本

Dsc_0083増毛の海岸にて

 原作・脚本・監督・小林政広、出演・仲代達矢、徳永えり、大滝秀治、菅井きん、小林薫、田中裕子、淡島千景、柄本明、美保純、戸田菜穂、香川照之。

 主な登場人物をすべてあげたのは、これがロードムービーであり、主人公の二人が出会う人たちだからである。

 元漁師の忠男(仲代達矢)は孫娘の春(徳永えり)と二人で北海道の増毛の漁村に暮らしている。春は小学校の給食センターで働いていたが、小学校が廃校になったために失職する。それを機に東京に出て働きたい、と希望するのだが、忠男は脚が悪く、身の回りのことを自分でやろうという意志もないため、それでは生きていけない。

 こうして忠男の兄弟たちに忠男の面倒を見てもらうための依頼の旅が始まる。長兄が大滝秀治、末弟の嫁が田中裕子、姉が淡島千景、弟が柄本明。しかしそれぞれに事情がある上に、忠男のわがまま勝手にみな良い思い出を持っていないから、誰も引き取ろう、という兄弟はいない。

 こうして頑固で自分勝手な祖父との旅を続けるうちに、春の心が次第に変わっていく。

 やりとりの中で春の母親が自殺していることが分かる。そして突然春は父親(香川照之)のもとを訪ねることを思い立つ。春がまだ子供だった頃、両親は別れて父親は家を出て行った。それ以来会っていない父親に無性に会いたくなったのだ。

 そして最後に、なぜ父と娘が会わなかったのか、母親はなぜ自殺したのかが分かる。家族とは何か、心の底から問い直させられる。

 とても好い物語で、好い映画だ。ただ贅沢を言えば、仲代達矢の演技がうますぎるのが少し難点だ。ほかの人とのバランスがとれていない気がする。

 旅の出発点は北海道の増毛、そのあと気仙沼や鳴子温泉、仙台などが舞台となる。増毛はあの高倉健主演の名作「駅 ステーション」の舞台でもある。二年ほど前に訪ねた。鳴子温泉は私が毎年のように湯治に出かけているところだ。懐かしい。

 この映画は2010年に作られ、翌年の2011年に東日本大震災の津波で気仙沼をはじめ東北の太平洋岸は壊滅的な打撃を受けた。そのことをこの映画の思い出とともに仲代達矢がつらそうに話すのをテレビで見た。そのときから何度もこの映画を見ようと思いながら後回しにしていた。

 こうしてようやくこの映画を見ることができた。

04032_008牡鹿半島・鮎川浜

牡鹿半島のすぐ北側が気仙沼。この鮎川浜も津波で壊滅的な被害を受けた。

想像力の欠如

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 養老孟司の本(「考える読書」)を読んでいたら、想像力の欠如、ということが書かれていた。

 養老孟司が大学の講義で、学生たちに妊娠と出産についてのビデオを見せたときのこと、女子学生たちは口々に「参考になった」、と言った。男子学生の半数は同じように「勉強になった」、と答えた。残りの半数の男子学生は「中学の保健の時に教えられたからもう知っていることだ」と言ったそうだ。

 男にとって妊娠と出産は我が身のことではない。だから人ごとだ、と感じる男たちがいる。「知ってらぁ」と言う男たち。彼等は育児に協力しない父親になるだろう、と養老孟司は言う。

 想像力の欠如した者は「そんなこと知っている」と軽々しく言う。

 映画を見ても、読書をしても、こんな人たちは何も見ていない。彼等にとって世界は未知ではなく、既知である。これでは旅をしても喜びは少ないだろう。

 すでに知っていることにも知識のレベルに階梯があり、何事にも新たな驚きがあり、喜びがあることを忘れないようにしたいと思う。

カフカ「変身」(新潮文庫)

 新潮文庫は紐がついているので、栞が不要で好きだ。栞も好いけど風呂で読んでいるときにうっかり落とすことがある。

 訳は敬愛する高橋義孝先生(先生のエッセイを是非読んで欲しい。たくさん文庫本になっている。その酔っ払いぶりは絶品)。訳者あとがきで、第一次世界大戦が終わった直後のドイツの詩人の精神世界を、「人生は専ら、危険な不安定な、興奮に充ち満ちた、恐怖すべき、残酷な、嘔吐を催させる、暗鬱な、疑惑に満ちた、矛盾だらけの、分裂した、苦悩多きものとして映じた」としている。それを象徴したのが、ある朝目覚めたら自分が「巨大な褐色の虫」に変身していた、というこの小説ということなのだろう。

 うかつなことに(ちゃんと読んでいなかったことに)、今回読み直すまで、この「虫」が甲虫のような硬い殻をした虫だと思いこんでいた。

 脚がたくさんあること、父親に投げつけられた林檎が背中にめり込むことから、全身がぶよぶよした、やわらかい多足の虫らしいことが分かる。だから狭いところを無理に通るときに、傷ついて白い粘液が出たりする。

 主人公、グレゴール・ザムザは、自分が虫になってしまったことに気が付いた後も日常を続けようとして、しかもそれが可能であると思い込んでいる。家族はグレゴールを異物として嫌悪しながらも、彼の面倒を見続ける。

 グレゴールが変身したのか、それとも世界が変貌したのか。変身したグレゴールにとっては世界が変貌したのだろう。

 最後に家族が日常を取り戻す様子こそが恐ろしい。

2014年6月 4日 (水)

志賀直哉「和解」(新潮文庫)

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 父との長い確執を続けた後、和解に至るまでの物語である。主人公はほぼそのまま志賀直哉と云っていい。

 男の子は父を自分の前に立ちはだかる壁としてそれを乗り越えなければ一人前の男になれない。フロイトのようにギリシャ神話のオイディプスの話を引くまでもなく、それが世界共通の、男の通過儀礼だと思う。

 かくいう私も父とは長い間まとまった会話をしなかった。特に諍いがあったわけではないが、会話らしい会話を再開したのは自分に子供が出来たときだった。そのときのちょっと照れくさいようなひとときを今でも鮮明に覚えている。

 この小説でも妻の出産シーンが活き活きと描かれ、それが和解のきっかけになった。

 志賀直哉には狷介なところがある。確執の理由はひとつではない。父子とも互いを憎むわけではないのに自ら和解の道を求めようとしない。この関係はよく分かるけれど、主人公はいささか極端だ。ついに自ら頭を下げることで和解するけれど、それは主人公がついに大人になったことだと言ってしまえばそれまでのことだ。

 解説を安岡章太郎が書いている。

「少なくとも、これは単に実人生の経験をアリノママにたどったというような簡単なものでは有り得ない。親子にしろ人間愛というものは大きな意味でのフィクションであり、『和解』はそれを描いた小説である」と結ばれていて、そこのところに線が引かれている。

 私は本に線を引くのが嫌いだから、普通はそんなことはしない。以前読んだときに感心したのだろう。覚えていないけれど。

司馬遼太郎「この国のかたち 五」(文春文庫)

 この巻の主要テーマは「神道」「鉄」「宋学」。

 「神道」は日本独特のものであるらしく、海外の人には理解されにくい。現代の日本人の多くの人にも理解が困難になりつつあるようだ。ここであらためて日本の「神道」の成立とその変遷が司馬史観によって説明されている。興味深いのは八幡神社についての考察。宇佐神宮(全国の八幡神社の本社・大分県にある)へ行ったときのことを思いだした。また靖国神社とはそもそもどう云うものであるのか、が説明されている。靖国神社については中国や韓国からの視点を元にした朝日新聞の刷り込みをされてしまった日本人に、あらためて原点を見直す手がかりになるのではないか。

 日本人にはイスラム教やキリスト教などの一神教が馴染みにくいというのは、日本人の心性の中にやはり「神道」的なものが根付いているからではないだろうか。だから一神教が根付いている人々には日本の神道、そして日本人は理解しにくいのだろう。

 「鉄」については以前にも日本の森林と、韓国、中国の森林についての考察で触れていて重複するが、日本の自然の再生能力が高いことのしあわせをあらためて感じる。この項は「もののけ姫」を連想させる。

 「宋学」は極端な攘夷思想の源流として幕末に機能した観念的な思想である。何ら生産的なものを持たない思想だが、これを方便的に利用した薩長と、これに埋没した水戸藩との違いが、その後の茨城県の衰退を象徴しているような気がする。

2014年6月 3日 (火)

映画「エイリアン・インフェクション」2013年カナダ

 監督ロジャー・クリスチャン、出演クリスチャン・スレイター、エイミー・マティシオ、マイケル・テリュー、リンドン・ブレイ。

 月面基地に流星雨が降り注ぎ、壊滅状態になる。基地内に落下した隕石から見つけられた胞子状の生命体を誤って取り込んでしまった女性隊員は異形のものを産み落とす。基地内はパニックになる。

 インフェクションとは感染だから、感染するエイリアンというわけだ。

  原題は「Stranded」だから手詰まり状態になること、つまり立ち往生と言うところか。

 映画を見ていて腹が立つことは、登場人物がアホなことである。ホラー映画でもわざわざ殺される状況に嵌まっていく奴が必ずいる。この映画では登場人物がたったの四人、それがそろいもそろってアホばかり。常に彼等はばらばらに行動するから状況がさっぱり分からず、その上お互いを信頼せず、しかも自分だけの勝手な信念で行動する。見ていてこんなにストレスのある映画は珍しい。

 セットはチープでストーリーはいい加減。ラストは続編でも作れそうな終わり方だけれど、この映画を見て続編を見るような人がいるとは考えられない。ここまで駄作だとため息が出る。決して見てはいけない。

夢一夜(ゆめひとよ)

 NHKBSでフォークソング歌手の特集番組をやっていた(五月の初めに放映されたものを録画していた。再放送らしい)。イルカと泉谷しげるが司会で、武田鉄矢(海援隊三人組で)、南こうせつ(ソロで)、杉田二郎、山本コータロー(集団で)、山本潤子(ソロで)、りりィ(!)をはじめ、懐かしい歌手が大勢出ていた。

 山本潤子は元「赤い鳥」や「ハイ・ファイ・セット」のあの女性歌手。ユーミンの「ひこうき雲」と「翼をください」を歌った。素晴らしい。

 懐かしのりりィはあのかすれたような、苦しそうなハスキーボイスが影を潜めて少し綺麗な声になっていた。子供を育てた10年間で酒を控えて、喉がよくなってしまったそうだ。「私は泣いています」は昔のあの声の方が良かった。この人最近は映画やテレビに俳優として出る方が多い。実は大好き。意外な役で出ることが多く、気が付かない人もいるかも知れない。

 杉田二郎の「ANAK(息子よ)」は好い歌だ。ちょっとひねりすぎた歌い方をしていたのが残念。昔のような声量がなくなったのだろうか。このなかにし礼の意訳の作詞は痛切だ。親の悲しみが伝わる。

 こうして一つ一つ上げていくと切りがない。泉谷しげるが優れた歌手だったことをあらためて分からせる番組でもあったけれど、最後はこの人がいつものように暴走してわめき倒してジ・エンドであった。

 ところで南こうせつである。私はこの人のおためごかしの説教臭いところが大嫌い。生き方も嫌い、歌もほとんど嫌いだけれど、「夢一夜」という歌だけは大好きだ。歌詞が素晴らしい。今回の番組のテロップで初めてこの作詞が阿木燿子であることを知った。そうだったのか。

 船橋聖一の「ある女の遠景」という忘れられない小説がある。通俗小説、などと云われることもあるものだが、この物語の主人公・維子(つなこ)のことを歌ったものが「夢一夜」ではないか(多分違うけど)、と思うほどイメージがぴたりと重なるのだ。これを高校生の時に読んだ。こんな本を読んでいたと知ったら親は歎いただろう。

夢一夜
作詞:阿木燿子
作曲:南こうせつ

素肌に片袖 通しただけで
色とりどりに 脱ぎ散らかした
床に広がる 絹の海

着ていく服が まだ決まらない
苛立たしさに 口唇かんで
私ほんのり 涙ぐむ

あなたに逢う日のときめきは
あこがれよりも 苦しみめいて

ああ 夢一夜 一夜限りに
咲く花のよう 匂い立つ

恋するなんて 無駄なことだと
例えば人に 言ってはみても
あなたの誘い 拒めない

最後の仕上げに 手鏡みれば
灯の下で 笑ったはずが
影を集める 泣きぼくろ

あなたに逢う日のときめきは
歓びよりも せつなさばかり

ああ 夢一夜 一夜限りと
言いきかせては 紅をひく

あなたを愛した はかなさで
私はひとつ大人になった

ああ 夢一夜 一夜限りで
醒めてく夢に 身をまかす

2014年6月 2日 (月)

樹が好き

自然の樹が好きだ。今回の小旅行で撮った樹の中のいくつかを掲載する。写真が下手なので実際に見た樹の良さがわかりにくいのが口惜しい。

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本当に樹は好い。

2014年6月 1日 (日)

白骨と乗鞍

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白骨温泉に泊まった。温泉が固まっている場所からさらに山の中の少し離れた温泉だった。源泉の湯温が39℃と低いので露天風呂はぬるい。写真では誰も入っていないけれど混浴。

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露天風呂全景。ここの露天風呂は純正の混浴だから、男女とも水着など着用しない。女性はほとんどアベックで入っていて、単独や女性同士で入っている人はいなかった。

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翌朝、乗鞍高原へ行く。写真は善五郎の滝。滝壺までは下りなかった。この観瀑台まで歩いて15分足らず。

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こちらは番所小滝。駐車場から左右に分かれており、左手が河原に降りる道で、番所大滝を上からしか見ることができない。

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元へ戻って右手の展望台へ向かう。すべて階段。往きは下りだがかなりハード。戻りはもっとハード。しかし見に行く値打ちはある。

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見飽きない。

乗鞍の畳平までシャトルバスに乗るかどうか相談して、遅くなるからこのまま帰ることになった。

ということで今回の旅行はこれでおしまい。

渋温泉

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渋温泉はとても古い温泉らしい。特に宿泊した金具屋というホテルはレトロな雰囲気満載。これは待合室。

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夜はこうしてライトアップする。この二階が宿泊した部屋。このホテルのもう一つの素晴らしいところは仲居の女の子が若くて可愛く
、しかもしつけが行き届いていて応対が気持ちいいことだ。

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兄貴分の人(頑固爺)は早速特に可愛い女の子に話しかけている。私用の特大の浴衣を間違えて着ているので、裾がぞろりとしている。おかげで私は中(ちゅう)を着てつんつるてん。

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夜、隣の神社に行った。急な階段の上に神社はある。

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金具屋の看板。

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金具屋の玄関。大きな牛がいる。

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愛想の悪い猫もいる。これから私と交代で散歩に出るところ。

金具屋には温泉が大小10箇所くらいある。一晩ではすべて入ることは無理だろう。おまけに外湯がいくつもある。長期滞在したい温泉だ。

渋温泉はとにかく狭い。立派な温泉が狭い道の両側に櫛比している。ホテルの前に車を着けると、厳選のそばの駐車場まで持って行ってくれる。

志賀高原・草津白根

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志賀高原はまだ雪景色。

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草津白根・湯釜の周りを遠望。長野と群馬の県境・渋峠は国道の最高点、2172メートル!

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湯釜まで駐車場から坂を登る。せっせと登って15分あまり。かなりこたえる。階段ではなくスロープであることが有難い。登っている途中から見おろした景色。

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これが湯釜。次第に上空を黒い雲が覆いだし、遠雷が聞こえだした。ぽつりぽつりと雨も降り出した。山の上での雷は危険だ。慌てて下ることにした。雷は次第に近づき、いつしかまともな雨になった。下りるのは楽だが、急いで下ると自分の重みが膝に来る。

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草津側にさらに下って行くと火山ロープウェーがある。すでに雨はやんでいる。このロープウェーの駅で聞いたら、雷が危険なのでしばらく休止している、という。待っても再開の様子がないのであきらめた。渋温泉に向かう。

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