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2014年8月

2014年8月31日 (日)

永井荷風「濹東綺譚」(岩波文庫)

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 「濹東綺譚」の濹は墨ではない。このことは本文中に永井荷風が言及している。

 この小説を若い頃読んだ。読んだはずである。読んだことだけは覚えているけれど、内容はほとんど忘れていて、今回初めて読んだような気がした。半年前に読んだ本でも、あらためて読むと大半を忘れていて、始めて読むように読めるのだからあたりまえか。

 滝田ゆうの「寺島町綺譚」という漫画がある。まさしく「濹東綺譚」と同じ場所、玉ノ井界隈を舞台にしている。今回「濹東綺譚」がとてもイメージ化しやすかったのは、滝田ゆうの「寺島町綺譚」のおかげもあるかも知れない。

 この岩波文庫版では朝日新聞に連載されたときの木村荘八の挿絵がたくさん掲載されているのも嬉しい。当時の裏路地の外灯の明かりの弱々しい光と、その光すらささない影の暗さの雰囲気がよく分かる。この話は戦前の話だけれど、戦後生まれのわたしが小さかった頃の夜の暗がりもこんなものだった。

 永井荷風は和風ポルノの「四畳半襖の裏張り」の作者だ、といわれていることなどから、この「濹東綺譚」も玉乃井の私娼との交情などにそのような描写があるのではないかと期待して若いときに読んだけれど、案に相違したので記憶が薄いのかも知れない。

 わたしも多少の人生経験を経て、ようやくこの小説の中の主人公や雪子の気持ちがしみじみと分かるようになったらしい。やはり評価の高い小説はひとのこころをうつものがある。いま読んで良かった。

朝の楽しみ

 朝食のまえかあとに自分以外の方のブログを拝見するのを日課にしている。たくさんの素敵なブログがあるのだろうけれど、たまたま目についたブログの中から10数件をお気に入りに入れてあり、それを見るのが楽しい。

 皆さんそれぞれのスタイルが個性的で、センスがある。猫が好きなので、猫の写真はとくに楽しく、見飽きない。飼いたいけれど、マンションの一人暮らしの上に、出かけることが多いとあっては面倒を見切れないので猫のために飼うのをあきらめている。

 自分では選ぶことのないテーマの情報を教えてくれるものもあって参考になる。毎日少しずつ拝見しているうちに何となく新しい分野についてのイメージが得られるのは有難い。

 前にも書いたが、とくに女性のブログの中に楽しいものが多い。

 拝見したら「ポチッと」や「いいね!」をして「読みました」と伝えるようにしている。それなのにそのボタンを設定していないものもけっこうあって何となく残念な気がする。「ポチッと」や「いいね!」をもらうと嬉しいものだ。設定してくれるといいのにと思ったりする。

 出来ればコメントを入れたいが、書きかけて何となくピント外れのことを書いたような気がして止めてしまうことが多い。

 たまにしか書かない人もいる。今日もなしかな、と思ったら出会えたりすると嬉しいものだ。

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2014年8月30日 (土)

長谷川慶太郎「平和ボケした日本人のための戦争論」(ビジネス社)

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 長谷川慶太郎は経済はもちろんだが、理工学分野も得意であり、そして戦争論についても一線級の知見を持っている。戦争論と言えばクラウゼヴィッツの「戦争論」が有名だが、それを長谷川慶太郎流に解析した「新『戦争論』の読み方」という本を過去に出版している。

 今回読んだ本は、現在の世界情勢を鑑みて、全く違う本に近いまで大幅に改訂加筆したものだ。

 クラウゼヴィッツの『戦争論』は19世紀、ナポレオンの退場のあとに書かれた本だが、その後世界中がこの本をもとにその時代時代に即して戦略や戦術を検討してきた。もちろん戦前の日本の軍部も検討したけれど、それを全く活かすことが出来なかった。戦争の冷徹な真実から目を背けて、精神力を戦力に組み込むという、愚かな戦略や戦術に終始し、その結果はご承知の通りである。

 そして、その軍部の愚かさを笑いながら、戦争論そのものから目を背けてきたのが戦後の日本だった。戦争をしない、という国策をとるのならば、戦争とはそもそもどんなものか、という研究をしなければならない。戦争を研究することは戦争への道を啓くことだからいけない、という暗黙の圧力が、日本を現実から遊離させてしまった。

 戦争中に敵性言語だと言って、英語をことごとく日本語に置き換えた愚かな行為を笑いながら同じ事をしているのだ。いまの差別用語の異常に神経質な忌避に、全く同じ匂いを感じてしまう。

 日本が軍国化するからそれに対応する、という中国の軍国化、軍事的圧力に対して、日本がとるべき道を考えるとき、最悪の事態を研究しないでどうするというのだ。いまは韓国まで同じような動きをしているというのに。

 それを長谷川慶太郎は「平和ボケしている」というのだ。

 この本では世界情勢について長谷川慶太郎の把握している情報に基づく世界観が説明され、過去の戦争の歴史から、現在の世界の中での極東情勢と各国の動きを予測しつつ、日本がとるべき道について語られている。

 長谷川慶太郎の世界観に賛同するかどうかは別にして、一度耳を傾けてみても良いのではないか。

モンキーセンター(3)

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小さな猿たち。20センチ足らずの小さな猿たちが集められた建物があった。暗い。夜行性の猿たちらしい。こんな小さな身体では昼間は敵に襲われてしまうだろう。好奇心が旺盛な猿が多くて可愛かった。暗いので感度を上げたけれどボケているのはご容赦。まさかストロボを焚くわけにはいかない。かわいそうだ。

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一匹が寄ってくると他の猿もなんだなんだと集まってくる。

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可愛い顔の猿も、面白い顔の猿も、年寄り臭い顔の猿もいて楽しい。向こうから見たらわたしはどう見えているのだろう。

2014年8月29日 (金)

モンキーセンター(2)

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ヤクニホンザル。

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夏バテのヤクニホンザル。寝ている。

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こんなところで寝ている猿もいる。

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毛づくろい。若い猿は元気が良いが、大きなおとなの猿はほとんどぐうたらしていた。

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アヌビスヒヒの猿山。少し元気。

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ボスヒヒか。

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二匹揃って水を飲んでいる。もっと何匹も揃っていると絵になるのに。

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家族だろうか。右のお父さん?いちもつが・・・。

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病気の猿か、お年寄りか、それとも両方か?

モンキーセンター(1)

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気分転換とカメラの調子の確認のために犬山のモンキーセンターへ出かけた。とにかく沢山の種類がいる。

ただ、檻の中の猿は撮りにくい。暗いし檻が邪魔するし、動きは速いし、そのうえ猿はこちらと目線が会うとかならずそっぽを向く。

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確か猿にはモンキーとギボンとエイプがあるはずだけれど、あまり自信はない。このモンキーセンターにはその説明があるがしっかり見なかった。

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テナガザルの手。

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鉄塔から見下ろす猿。

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珍しくちゃんと撮れた猿。檻を噛んでいるのだ。

このあとヤクニホンザル(屋久島に棲むニホンザル)の猿山と、アヌビスヒヒの猿山を見に行く。ここには檻がないのだ。

卑劣な犯行をした人間はマスコミが騒ぐと喜ぶ

 盲導犬を刃物で刺す、というおよそ正常な精神の人間には考えられないような卑劣な事件が話題になっている。

 普通の事件は窃盗などのように自分の利益(不当だが)を目的としたり、相手が自分の邪魔であるから傷害に及ぶというように不利益を回避するためであったりするので、普通の人にも(了解は出来ないまでも)理解は可能だ。

 しかし盲導犬を刺すという行為にはそのような動機が見えないのでかえって話題になる。

 だが話題になることこそが犯人の目的ではないか。

 ここからは推測である。犯人は自分の存在感が実感できない人間だ。生きている実感が持てないでいる。他の人間とは違う自分自身を獲得するためには、犯罪を犯して自分を際立たせることが存在証明になると考えて犯行に及ぶ。それには犯行は人の非難するようなものであるほどよい。

 犯人は自分がおこなった犯行で断罪を受けることをおそれてはいるだろう。しかしマスコミがこぞってこの犯行が卑劣であると非難すればするほど、自分が他人とは違う、という実感を享受しているのではないか。自分探しには成功するわけだ。

 だからマスコミは騒ぐな、などと云いたいわけではない。

 このような人間は必ず存在する。しかしこのような人間がいま増えてきているのではないか、というわたしの思いに共感する人も多いのではないか。つかまった犯人の得意そうな顔を最近何度見ただろう。

 問題はどうして生きる実感が持てないのか、ということだろう。    
 一言では言えないほどこの問題は根が深い。先日の佐世保の高一女子の猟奇殺人事件などもあわせ、考えるために小浜逸郎「この国はなぜ寂しいのか」(PHP研究所)を読んでいる。酒鬼薔薇事件やオウム真理教事件などのあった頃に書かれた本だが、とてもユニークな視点なのに分かりやすくて、その心理的な分析は傾聴に値する。

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2014年8月28日 (木)

からまわり

 気分転換に今日は出かけようかと思っていたのに朝、雨。しばらくしてやんだけれど出鼻をくじかれた。どうも本を読む気にも映画を見る気にもならない。テンションが低いわけではなく、何だか頭が空回りしていてものに集中できないのだ。

 そういうわけで中国の写真集や地図などを眺めて時間をつぶしていたらあきてしまった。こう云うときは単純作業に限る。撮りためた写真や昔撮ったフィルムからデジタル化したデータファイルがばらばらになっている。その整理でもしようか。ダブっているものなどを整理しないとハードディスクがパンクしてしまう。

 ところで民主党の党首選を前倒しすべきだの何だのとやかましい。その関連ニュースを眺めていたら、古賀連合会長が「いつまでもバラバラ感のある政党だ。これでは国民の信頼がもどることはない。まだ普通の組織になっていない」などと苦言を呈した、というちょっと前の記事を見つけた。

 もともとバラバラの思想の人々の集まりだもの、まとまるのは難しいだろう。せめて統一した目標を掲げて皆を同じ方に向かせるようなリーダーシップのある党首がいれば、という思いがあるのだろうけれど、海江田さんにはそのようなカリスマ性はかけらもないし・・・。

 (これも少し前の記事だが)その海江田さんが日経新聞に噛みついたらしい。「民主、統一会派を打診へ 生活・社民と共闘」という記事がお気に召さなかったらしい。「統一会派に言及したことはあるが、個別の党名をあげたことはない、事実無根だ」と厳しく日経新聞を批判している。

 いま民主党が党全体として共闘しようと呼びかけてもそれに応えそうなのは生活の党か社民党くらいしかないだろうなあ。誰にも分かることを日経新聞は親切に党名をあげてくれたわけだ。

 つまり民社党は泡沫党への道をまっしぐらに落下している党の一つだと言われたことに、海江田さんはお怒りになったのだろう。

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どこにでもいるけれど

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 どこにでもその結果について考えることが出来ない人間というのがいる。しかしそれにしても・・・。

 香港の見習い飛行機整備士が、上司に叱られた腹いせに飛行機のコンピューターの配線を14本切断したという。これにより自動操縦システムや衛星通信システムに損傷が与えられた。

 見習い整備士は財産の損壊と他人の生命を危機にさらした罪で起訴された。コンピューター関係の配線が切断されても手動での操縦は可能だったという弁護的意見もあるらしい(!)。

 結果を想像できない人間は恐ろしい。

 そういえば少し前に中国で「毒蛇を自然に帰すために公園に放した」というネットの書き込みがあったという事件がニュースになっていた。

 いたずらかと思ったら、ある女性が百歩蛇(噛まれると百歩歩くうちに死に至るという猛毒の蛇)やコブラなどという極めて危険な毒蛇を広東省の公園に放していたことが明らかになった。

 中国の報道では「公園利用者が毒蛇に遭遇したらどうなる。徳を積む行為か、罪を作る行為か、考えて欲しい」と伝えていたそうだ。

 そもそも公園は自然ではない(そういう話ではないか)。

 何だか、して良いことと悪いことが分からなくなっているらしいのが恐ろしい。

谷沢永一「人生を励ます100冊」(潮出版社)

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 谷沢永一の対談集である。谷沢永一の政治的な文章は、その主張に賛同するところもあるけれど、わたしにはやや冷静さを欠いていて決め付けが過ぎるような気がする。しかし書評について言えばおおむね評価している。

 その該博な知識を背景にした書評は歯に衣を着せぬ激しいものだが、それが痛快でもある。何しろ目配りが広い。目を通している本の数が尋常ではないのだ。いったいどれほどの数の本を読んでいるのだろう。そのうえ、うわべを読むのではなく眼光紙背に徹している。

 だからいったんエネルギーが途切れると、うつ病の様相を呈し、全面的に休息してしまう。それはそうだろう。そもそも人間業を超えた集中力だ。ときにはスイッチを切らないと燃え尽きてしまう。

 博覧強記とはこの人のことだ。

 この本では何人かの人といろいろなジャンルの本について対談している。テーマを決めたり、特定の本を決めて話し合ったりとさまざまだ。谷沢永一が相手に選ぶような人だからそれぞれ一家言の持ち主で、その知識は半端ではないから、対談は神様どおしの話のように見える。

 自分の読んだことのある本も多いが、著者名すら知らないもの、縁のないような本も多い。その本を読んでみたくなるのがこう云う本の手柄だ。

 推奨の本の中でわたしも膝を打った本(たまたまわたしも人に勧めたい本)であまり知られていない本として、青木正児「江南春」、石田幹之助「長安の春」、薄田泣菫「茶話」、佐藤春夫「退屈読本」をあげておこう。人に勧められなければ決して出会うことのない本であり、波長があったらこれほど面白い本はない。

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 谷沢永一の書評を読むなら「完本 紙つぶて」がお勧めだ。文藝春秋から文庫本も出ている。そう言えばこの本をトイレに置いておいて拾い読みしていたのだが、ある日あまり本を読まない友人が我が家に泊まったときに、トイレに入ったきり出てこない。具合が悪いのか心配するほど出てこない。ようやく出て来て「この本が面白くて途中でやめられなくなった」と言ったことを思い出す。

 谷沢永一の本を数十冊持っていたのだが、ほとんど処分してしまった。一部の書評の本だけ残してあるはずだ。また読みたくなった。文庫で出ているものだけでも買って読み直そうか。

2014年8月27日 (水)

取り付け工事

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 新しい電気温水器の取り付け工事が先ほど終わった。

 一人暮らしなので一回り小さいものでも良かったのだが、容量を変えるとそれを新たに申請しなければならないとかで、手間と費用がかかり、あまりメリットがないらしい。容量を変えても電気料は使用するお湯の量で決まるので、早く入れ替えたいならそのままの方が良いと言われた。

 素直にそれに従うことにした。

 工事で水道の圧を少し高めて貰ったのは有難かった。マンションの水道は、漏水事故被害を少しでも軽微にするために水圧を下げている。しかし貯水タンクを新しくしてから、今まで以上に水圧が下がり、洗濯するにも水のたまり方が遅くてイライラしていた。もちろん風呂もなかなか湯がたまらない。

 おかげで蛇口から出る水の勢いが明らかに変わった。その代わり漏水には今まで以上に気を遣う必要がある。集合住宅なら当然のことではあるが。

 新しい温水器だと電気代が安くなるのか、と聞くと、ほとんど変わりません、と答える。冷蔵庫のようにコンプレッサーそのものが変わって熱効率を上げるような仕組みにはなっていないからだそうだ。ようするにヒーターでただ水を温めるだけ、ということらしい。それで耐用年数がある、というのは釈然としないが、そんなものらしい。

 工事の人たちの手際の良さはいつ見ても気持ちが良い。お茶も出さないで御免ね。ご苦労様でした。

スマホばかりするとバカになる?

 今年の小中学生の一斉学力テストの際に、携帯やスマホの利用時間をアンケートしたそうだ。

 一日の利用時間が30分以下の子供と4時間以上の子供を比較すると、小学生も中学生も、全ての科目で4時間以上の子供のほうが大幅に点数が低かった。科目によっては平均で18ポイント低いと言うから明らかな有意差だ。

 これは携帯やスマホばかりしていると成績が悪くなると云う事が明らかだとして、今後使用時間の制限をどうするか検討するそうだ。

 ここまではっきりと結果が出るとその弊害は否定できないと云う事になるだろう。

 しかしこんなことを云うと顰蹙を買うかも知れないけれど、携帯やスマホにのめり込んでしまう子供というのがそもそも知的レベルの低い子だ、ということもあるのかも知れない。

 本を読んだり、いろいろなことに知的好奇心を感じていたら、携帯やスマホに淫することからまぬかれると思うのだけれど。

 バーチャルにのめり込み、リアリティ、つまり現実世界と向き合えない子供たちがどう云う大人になるのか心配だ。バーチャルでコントロールされるというディストピアはSFで散々描かれてきた。オウム真理教なんてまさにその実際版ではないか。

 養老孟司が言うように脳の中の世界だけで生きているのと同じで、生物としては劣化している。携帯やスマホの利用時間を制限するよりも、子供に定期的な田舎暮らしをさせるようにして、自然との接触を増やし、生物として再生していかないとならないのではないか。

 しかしたかが虫にわあわあと騒いでおそれるような子供が多くなっているのを見ると、もう手遅れかとも思う。すでにその子供の親からしてバーチャルに生きているのだろう。

 世界はバーチャルで支配される階層と、支配する階層とに二極化しつつあるのかも知れない。

1208_117かわいそうに!

2014年8月26日 (火)

鷲田小彌太「定年と読書」(文芸社)

 わたしにとって定年後の楽しみの半分は読書である。だからこの本に書かれていることの大半のことに賛同する。ただ、読書にテーマを持つことについては、もちろん意味があることだと思うけれど、それにとらわれると目的意識が優先しすぎて楽しみが損なわれるような気もしている(どうせたいした本を読んでいるわけではないが)。

 いそがしくて細切れにしか本を読めないようなときほど本が読める。これは誰にも実感できるのではないだろうか。定年で毎日が日曜日になったらどれほど本が読めるかと思っていたのに、仕事をしていたときの二倍も三倍もは読めないものだと知った。 

 20年ほど前から、著者名と本の題名だけは手帳に記録してきた。当初簡単なメモをつけていたけれど、いそがしくてそれだけ記録した。だからどの年にどんな本を読んだのか、何冊読んだのか、手帳をひっくり返すと分かる。さいわい定年後しばらくしてブログを始めたので、読みっぱなしだった本について、ブログに記録として文章を残すようになった。手帳への記録も続けている。

 一人旅に出かければ、宿で長い夜を読書して過ごすことも多い。温泉に湯治に出かけるときは、車に読みそうな本を大量に積んでいく。大半は持って行って持って帰るだけになるが、何を読みたくなるか、そのときにならないと分からないからそれで良いのだ。

 一度に並行して五冊も六冊も読んだり、一冊を集中して一気に読んだり、十日以上一冊も読まなかったり(読めなくなる)とずいぶんむらがあるけれど、本棚や積んである本を眺めると、心が豊かな気分になる。

 著者も本は自分で買うべし、といっているがわたしも賛成だ。買って読まずにいる本も数多い。しかし本に金を使うことについては全く惜しいと思ったことがない。読みたくなるかも知れない本がすぐ手元にあるだけでしあわせではないか。

 本があり、見たい映画を大画面のテレビで見ることができ、酒がおいしく飲め、ときには友に会い、旅に出かける、こんな極楽があろうか。

1208_13君たちも本を読めよ!

暴言の背景

 韓国俳優のイ・サンが、セウォル号事件の遺族に暴言を吐いた、として話題になっている。

 イ・サンと言えば韓国の時代ドラマの王様の名前だが、同じ名前の俳優もいたのだ。どんな人か知らない。

 この遺族というのは、セウォル号の沈没の際に死んだ高校生の父親で、セウォル号特別法制定を要求して断食を続けていた人物らしい。断食40日目に健康が急激に悪化、病院に搬送されたという。

 この父親に対して「そのまま断食して死ね。それが娘を真に愛することであり、政治的なプロパガンダとは違うことを立証する道だ」と暴言をSNSに掲載したのだそうだ。

 なぜそんな事を云ったのか分からなかったが、少しさかのぼってニュースを見直したら、理由が分かった。

 韓国の国会ではセウォル号沈没事件の真相解明のための特別法をめぐって与野党が対立していた。対立の争点は、この特別法により設置される予定の真相究明委員会に捜査権を与えるか否かであった。野党はもちろん捜査権を与えるべし、といい、与党はそれを認めずに膠着状態になっていた。

 7月末の補欠選挙で与党が圧勝したことを見て、ようやく野党が妥協し合意したのだが、これに遺族たちが猛反発した。それを受けて野党が合意を破棄したために再び紛糾して、特別法の成立はいつになるか分からなくなってしまった。

 これが原因でいま韓国の国会は、法案処理が出来ない機能不全状態に陥っている。

 この状態をもたらしたのは遺族たちである、としてイ・サンという俳優はあの暴言を吐いたのだろう。国会が何も決められなければ国家そのものが機能不全になってしまう。それを憂えてのことなのだろうが、韓国国民はこれをどう見ているのだろうか。

 遺族という立場が最強だという前提の正義は、どうやら韓国の日本に対する言動によく似ているではないか。

映画「ディア・ピョンヤン」2006年日本・韓国

 監督ヤン・ヨンヒ、出演ヤン・ヨンヒとその家族。

 先日見た「愛しきソナ」の前に公開された映画。この映画が公開され、評価されたことで北朝鮮はキム・ヨンヒの入国を拒否することになり、彼女は自分の三人の兄とその家族、もちろんソナとも会えなくなってしまった。

 「樹を見て森を見ず」という。個別にとらわれていると全体を見失う、と云う意味だけれど、全体ばかりを見ていると個別を見忘れて、実感よりも観念的になる。

 キム・ヨンヒはあえて個別にこだわり、徹底的に家族のみを描く。そこには彼女の、そして家族の生の思いがあふれている。在日の人たちの気持ち、そして北朝鮮を理想の国と信じて渡った人たちのそれぞれにさまざまな思いがあるのだろう。彼女は朝鮮総連の幹部であった父親に、執拗にそれが正しい行動だったのか問い続ける。

 そのために自分の兄三人が北朝鮮で暮らすことになり、どんな思いをしているのか、それは直接語られることはなく、映像でのみ分かる。それが北朝鮮にとって不都合であったのだろう。

 韓国にいる在日の人々は99%が現在の韓国出身者だ、と冒頭で語られる。それなのに多くの人が韓国籍ではなく、北朝鮮籍を取得した。そして多くの人が北朝鮮で暮らしている。それが正しかったかどうか、彼等は決して語らない。本音を語れば身の危険があるのはもちろんだが、それは自己否定につながってしまうからだということがこの映画を見ていると痛切に感じられる。

2014年8月25日 (月)

万城目学「悟浄出立」(新潮社)

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 わたしの大好きな中島敦という作家がいる。現代国語の教科書にあったこの人の「山月記」という短編小説を、半年もかけて詳細に読み込むという授業を受けた。この授業をした先生はわたしの師(by内田樹先生)である。
 若くして死んだ中島敦は作品の数が限られているが、その中に「悟浄出世」と「悟浄歎異」という短編がある。あの西遊記に登場する沙悟浄が、孫悟空たちとの生き方の違いを比べながら、自分の存在の意味を思索する、という変わった小説だ。
 今回読んだ「悟浄出立」は中国を題材にした五つの短編集だが、表題の「悟浄出立」は中島敦の短編を意識しているのは間違いない。中島敦の小説に登場する沙悟浄に対しての万城目学の回答だろう。
 他に「趙雲西航」、これは三国志の趙雲子龍の話。「虞姫寂静」はあの項羽の寵姫・虞美人の話。「法家孤憤」は間接的に秦の始皇帝時代の李斯の話。最後の「父司馬遷」は司馬遷の娘の目を通した司馬遷の再生の話だ。
 人はただ生きるのではなく、自分の意志で真に生きることを選びとらなければならないことがある。脇役が自分の意志で立ち上がるとき、彼は自分自身にとっての主役なのだ。
 万城目学の本には興味があったのだけれど、読んだのは初めてだ。気に入った。そうなると彼の本をまた何冊か探し出して読むことになりそうだ。
 蛇足ながら、「万城目」と書いて「まきめ」と読む。

鍵をつける

 明らかに重大な犯罪は犯人も世間も「悪」だと認識している。認識していなければ社会に適合出来ていない人間で、場合によっては病院に入らなければならない。
 最近万引き事件がメディアに良く取り上げられるようになった。万引きは人のものを盗むというれっきとした犯罪なのだが、いままで世間の一部には、子供のいたずらの延長であるかのような見方をする者が数多くいた。
 いまはものが昔より売れないから、生き残り競争のためにどうしても薄利での販売を余儀なくされている。利益率が低いのに万引き被害に遭えばその損失は甚大だ。書店を始め、万引きにより閉鎖倒産に追い込まれた店は多い。
 万引きと同じように、目立たないけれどいたずらの延長としての郵便泥棒がある。マンションなどの集合住宅で郵便受けが一斉に荒らされる、ということがあるが、警察も真剣に追わないらしく、騒ぎのあとはしばらく大丈夫だが、忘れた頃にまた起こる。
 わたしのマンションでも、玄関口がフリーなので郵便受けは誰でも空けることが出来る。少し前になるが、年賀状が一斉にごっそりやられた。わたしも元旦の分が全てやられた。着いた手紙は分かっても、着かない手紙は誰が出したのか分からない。これは怒り心頭に発した。
 さすがに警察も郵便局も本気で対応し、年賀状の景品狙いだと読んで、まとめて持ち込んだ人をチェックするなどしたが、犯人は分からずじまいだった。
 その後郵便受けに鍵をつけた人も多少いた。しかし金目のものの入ったものや大事な手紙は書留で戸別に直接配達されるから、郵便を狙っても犯人にはその成果はあまりない。それに比して、いたずらされたほうの不快感ははるかに大きい。
 最近郵便受けが続けていじられた形跡があった。郵便受けの状態でそれが分かる。それがわたしだけではなく、鍵のついてない郵便受けの多くがその状態なのだ。極めて不快である。仕方がないからわたしも遅ればせながら小さな鍵を取り付けた。
 どうも冬休みや夏休みという、子供たちが長期の休みの最中にこのような事件が頻発するようだ。彼等はいたずらのつもりかも知れない。これに制裁を加える方法はないものか、といま思案中だ。
 子供をおだてすぎる世間のおかげで、子供が増長しているような気がする。悪いことはしてはいけない、という当たり前のことが分からない子供を産みだして社会を破壊しようとしているのだろうか。
120605_23 おれは怒ってる!

2014年8月24日 (日)

安佐南区八木

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息子から貰った広島の安佐南区の八木の映像。

息子がここに住んでいたので、この辺りはわたしも二度ほど訪ねている。息子はいまはここから移っているので人ごとでニュースを見ていたけれど・・・。

映画「アジョシ」2010年韓国

 監督イ・ジョンボム、出演ウォンビン、キム・セロン他。

 韓国映画の暴力描写は半端ではない。あまり女子供には見せられない、と思ったりするけれど、今どきは女子供のほうがこのような暴力シースになれているようだ。

 麻薬や臓器売買、児童虐待など、これでもか、と目を背けたくなるようなシーンが続く。これが2010年の韓国映画の興行収入一位の映画で、主演のウォンビンは韓国の映画賞の主演男優賞に輝いている。

 アジョシとはおじさん、と云う意味である。ひっそりと質屋を営んでいる寡黙で不気味な男のテシク(ウォンビン)を、近所の人は正体不明の男として避けているが、ただ一人、麻薬浸りの母親に育てられている少女ソミ(キム・セロン)だけは彼を「アジョシ」と呼んで慕っている。

 ヒモの男にそそのかされて、麻薬取引の麻薬を奪った母親をマンソク兄弟という、札付きの暴力団たちが襲い、母子は拉致されてしまう。ソミを助け出そうとテシクが立ち上がる。

 実はテシクは軍の凄腕の暗殺者という過去を持っていた。

 凄まじい闘争能力と智能を持ったテシクの、犯罪者たちへの攻撃が開始される。さらにそれを警察が追う。

 犯罪者が極悪であるほどそれを打ちのめす主人公はヒーローとして輝く。敵には強敵がいて、それが意外な役割を果たすのだが、それは見てのお楽しみ。

 キム・セロンと言えば「冬の小鳥」で絶賛した少女ではないか。この映画でも彼女の独特のキャラクターが活きている。ホントに素晴らしい。

 ラストシーンでなぜテシクが命がけでソミを助けようとしたのかが分かる。テシクは妊娠した妻を殺されて喪い、リタイアした。ソミは生まれることのなかった彼の「娘」なのだ。

映画「華氏451」1966年イギリス

 監督フランソワ・トリュフォー、出演オスカー・ウェルナー、ジュリー・クリスティ他。

 Wikipediaでこの映画の項を見たら、フランソワ・トリュフォーはSFが嫌いだとある。だからこの映画もSF的な匂いを極力排したらしい。しかしこれは紛れもないSF映画であり、いわゆるディストピアものである。それに、トリュフォーはあの「未知との遭遇」という、誰が見てもSF映画に出演している。この「華氏451」があたったことでSF好きに宗旨替えをしたのだろうか。

 華氏で451度(約233℃)というのは紙の発火温度だ。

 描かれている世界では本の存在が許されない。本を秘蔵していれば逮捕され、公衆の面前でその本はすぐ焼却処分にされる。それを執行するのがファイアマン(消防士)だ。日本語ではその皮肉がわかりにくいが、映画の中で「昔ファイアマンは消火することが役割だったらしい」「まさか!」という台詞がある。ファイアマンが本来の火男として存在する社会なのだ。

 このような世界の整合性の矛盾を突けば切りがない。しかし現に特定の本の存在を認めずに焚書している国が日本の近くにあるではないか。その日本だって戦争直前から戦時中には多くの本が存在を許されなかった。「特定の本」を「全ての本」に拡大した社会を描いたのがこの映画なのだ。

 本は社会を悪くする、という論理を否定することは簡単だが、それが公衆に受け入れられた世界では、それが正義になる。ネットについても同様だろう。北朝鮮や中国の、言論をコントロールしている世界を知れば、この映画を荒唐無稽と笑うことは出来ない。

 本のない世界は衰退する。ではそれに近いことをしている国はどうか。

 ラストの、本を守る人々がおこなっている行為は意外なものだが、誰にも感じられるように無理がある。そもそもこれでは新たな本を生み出すことが出来ないではないか。

 本好きにとっては、本のない世界など地獄だ。

2014年8月23日 (土)

映画「冬の小鳥」2009年韓国・フランス

 監督・脚本ウニー・ルコント、出演キム・セロン、パク・ドヨン、コ・アソンほか。

 文句なしにコレクションに残すに足る良い映画だった。こう云う映画に出会えるから映画を見るのが喜びなのだ。

 もし日本で同じような映画を撮ったら、これだけ台詞を抑えて静かな映画が作れるだろうか。

 それに主役を演じたキム・セロンという少女を見つけ出したことで映画は半分完成したようなものだ。素晴らしい。

 父親が大好きな娘・ジニ(キム・セロン)は、わけがあって養護施設に預けられてしまう。自分は他の子供とはちがい、父親が迎えに来る、と言い張って仲間と打ち解けないジニ。

 彼女が施設で出会ういろいろな人々、そして出来事が彼女を次第に変えていく。彼女は父親に捨てられたことに否応なく気づかされていくのだ。そして彼女にきついあたり方をした人ほど実は彼女に優しいことが説明的でなく描かれているのが心に染みる。

 どうしようもないことで去って行く人たち。そしていろいろな家に引き取られていく仲間たち。しあわせになるだろう、と予想されることも不幸が予感されることもある。子供たちがその仲間を歌を歌って見送るシーンは切ない。

 いちばん仲の良かった仲間・スッキ(パク・ドヨン)が去り、小鳥の死を見て自分も死を思い、そこから再生するシーンは象徴的だ。
 
 多分そうだろう、と思っていたら、やはりこれは監督自身の実体験を元に作られた映画だった。

 カンヌ映画祭の特別招待作品で、2009年の東京映画祭の最優秀アジア映画賞を受賞している。

 娘が自転車に乗る父親にしがみついて背中に頬をつける、そのぬくもりと匂いをわたしも感じる。同時にわたしが父親として、その娘の体温を感じる。

出費

 年金暮らしでは入金より出費のほうが多い。ささやかな蓄えはこうしてますますささやかになる。節約に努めて何とかバランスをめざしていた。そんなときに限って大きな出費の事態が起きるものだ。

 数年前から深夜電力でわかす電気温水器の調子が悪い。今年で21年目だそうで、修理に来て貰うたびに電気の基盤の寿命が来ているのだ、と言われていた。基盤はすでに(とっくに)換えがないそうだ。本体はまだもう少し使えても、基盤がアウトだと全部交換しなければならない。

 いつかは交換の時期が来る、とは覚悟していたけれど、もう少しもって欲しかった。しかし温水器の不調は水漏れにつながる。現にマンションでもいくつか事故が発生しており、温水器の交換をしている家をしばしば見かけていた。

 言い値を一割ほど値切って新しい温水器の購入を決めた。一割の値引きは相手も想定以内だっただろう。痛いが仕方がない。

 9月にインドネシアへ行く。そのときに新しいカメラを買いたいと思って何度も名古屋駅前のビックカメラで眺めては、ため息をついてあきらめていた。

 いま心はカメラの購入に大きく振れている。

 大きな出費があると、出費を抑えるよりもさらに出費をしたくなる。これは昔からだ。何だか風雲ただならぬものを感じる。大丈夫か。

120408_54何とかなるよ!

曽野綾子「人間になるための時間」(小学館新書)

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 結婚の適齢は何歳?などという。生物として(つまり子供を産み育てると言うこと)、そして経済的に考えてベターな年齢というのがあることは事実だろう。だからある年齢を過ぎると焦る気持ちにもなる。

 しかし最近はあまりそんなことは気にしなくなったのだろうか。そもそも結婚をしなければ、という精神的圧力が少なくなったようだ。聞いて見ると、積極的に結婚したくない、ということはないけれど、などという。

 語学を習うにも適齢があるらしい。若いほど良いという。いまは幼児どころか、赤ん坊に英語を学ばせる教室までテレビでコマーシャルをしている。たしかにどこの国でも、赤ん坊は生まれた国の、親の話す言葉をひとりでに覚えるものだ。ただ、赤ん坊にバイリンガルを期待して同時に違う言葉を教えることが良い結果を生むかどうか、多少心配でないこともない。

 歳をとると何をするにもとっくに適齢を過ぎていることを思い知らされる。歳をとっても出来るものであっても、ある程度その前の下地がないとなかなか満足な結果が出せないものだ。だから何をするにもおっくうな気がしてしまう。

 曽野綾子の「人間になるための時間」という本を読んだら、冒頭に「楽しければ何歳でもそれが適齢」とある。「楽しければ」というのがみそだろう。何かしなければ・・・と焦って始めたもので何かが達成できるとは思えない。

 何を始めてもかまわないし、「楽しもう」と思って始めればそれが適齢なのだ。気楽に行けば好いのだ。無理に時間を埋めようとしてはかえって時間を無駄にして残りの人生を縮めるだけなのだ。

 この本は彼女の何冊かの本からちょっと良い文章を抜粋したコンピレーション本だ。本来はもとの本を読むべきだが、ちょっと心にぴんと来たものを少し掘り下げて考えてみると、なかなか楽しめる本だ。

2014年8月22日 (金)

深見真「ゴルゴタ」(徳間文庫)

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 理不尽な暴虐に対する復讐譚というのは人の気持ちを奮い立たせる。ただその理不尽さと失われた者への強い思いが描き切れていないとその燃え方も中途半端になってしまう。

 陸上自衛官で最強と言われた主人公の妻が、五人の不良少年たちに陵辱された上に母親と共に惨殺される。妻は妊娠6ヶ月の身重であった。しかし五人の少年は無罪に等しい保護処分とされる。

 そして一年、完璧な準備と計画に基づいた復讐が始まる。

 この復讐のほうが理不尽だと考える者もいるだろう。しかし司法が犯罪者の人権を尊重する、という建前の元に正しく機能しなければ被害者は浮かばれないし、その身内は救われない。光市のあの事件のふざけた弁護士の弁護は記憶に新しいところだ(ドラえもんも、とんだところで引き合いにだされてしまった)。司法と一般市民のその感覚の乖離を埋めるために裁判員制度が発足したはずだが、いまだに司法やマスコミの過剰な人権主義には疑問を感じている人も多いだろう。

 犯罪を犯した者に対しては何をしてもかまわない、というのはいくら何でも行きすぎだが、普通の市民は復讐のすべがないから、このような強力な復讐者に快哉を叫びたくなる気持ちがないことはない。

 まあとにかくお話である。世界に復讐譚はたくさんある。身を捨てて復讐を果たし、そのあとは・・・。

炎天下の東山動物園(4)

炎天下の東山動物園でも涼しいところがある。コアラ舎だ。ここは空調が適度に効いている。しかしコアラにとって快適すぎるのは良いことかどうか、人のストレスを気温のストレスで紛らわす方が良いような気もする。

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眼が正面に並んでいる顔に人間は親しみを感じるようだ。猿はもちろん、熊や猫科の動物などは擬人化しやすい。コアラもそうで、ぬいぐるみのようだ。
コアラ舎は見物の通路が暗くなっている。コアラ側からはあまりよく見えないようになっているのかも知れない。この暗さが怖い、といって泣きわめいて入ろうとしない子供がいた。確かに暗いけれど、まっ暗というわけでもない。お化け屋敷に入ろうというわけでもないのに何を怖がるのか。
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コアラは普通こうしてそっぽを向いていることが多い。
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脚を垂らしておやすみしているコアラ。
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面壁十年。達磨大師か。

他にもいろいろ見たけれど、東山動物園はこれでおしまい。

2014年8月21日 (木)

佐伯泰英「弓張ノ月」(双葉文庫)

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 居眠り磐音 江戸双紙第46巻。このシリーズも大団円まであとわずかとなった。ネタバレで申し訳ないが、ついに佐野善左衛門が殿中で田沼意次の嫡子、若年寄田沼意知に斬りかかり、致命傷を負わせる。

 主人公の坂崎磐音と宿敵、田沼親子の確執も直接対決のないまま田沼側の没落で終わりを遂げることになるのか。

 この巻では磐音に関係する人々の日々の様子がつぎつぎに語られていき、物語の収束を予感させる。

 佐野善左衛門を使嗾したのは松平定信なのだが、そのことが明らかになれば江戸幕府全体にとっても都合が悪い。それを巧妙に隠蔽するために磐音たちが動く。

 田沼側はついに松平定信の闇討ちを強行するのだが・・・。

 佐野善左衛門がなぜ田沼意知を討ち果たすことを得たのか。あの浅野内匠頭は吉良上野介の眉間に傷を負わせることしか出来なかったのに。

 これは田沼意知を助けようとするものがいなかったからだ、とこの本では書かれている。親の威光をかさにきて部屋住みの身で若年寄になったことなどが妬まれたからだとされている。

 余談だが、柴田錬三郎の時代小説「孤剣は折れず」で主人公の御子神源四郎が関わる山里の姉妹はこの佐野善左衛門の忘れ形見だ。姉妹とも源四郎を慕うのだが、姉は宮本武蔵の養子、宮本伊織によって悲劇のヒロインとなってしまい、源四郎と結ばれるのは病弱の妹のほうだ。

 ここで柴田錬三郎は、佐野善左衛門が田沼意次を首尾良く討ち果たしたのを古武士のようだ、と評価している。確かに殿中のような人の多いところで事とをなすのは至難のことであったはずだ。

 それよりもなぜ田沼意次ではなく、息子の意知を討ったのか。それが何となく解せないとわたしも思っていたが、この本ではその理由が説明されている。得心はしにくいけれど、これも一つの解釈だろう。

 このあと磐音の身にどのような波乱があるのだろうか。

東山動物園(3)

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ジャガーは元気。ただし、いらついているようだ。暑さに対してというよりは見物人に怒っているらしい。「おしっこをかけることがあるので注意して下さい」と書かれていた。
そんなジャガー以上に暑さに平気そうなのが鳥たちであった。
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檻越しではなく直に鳥と接することの出来る鳥舎がある。
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さすがに猛禽類は檻の中だが、これらの鳥たちは手を伸ばせばさわれそうなところにいる。さわらせてくれるかどうか分からないが。

文字化け

INTERNET EXPLORERをブラウザに使ってきた。セキュリティに問題があったというニュースも承知しているが、変更するのが面倒なのでそのままにしていたら、しばらく前から一部が文字化けするようになった。どのように直したら良いか分からない。


そこで息子のアドバイスに従い、Googleにしてみたら、文字化けは解消し、動作も軽快になった。まだその違いはよく分かっていないけれど、今のところ問題はない。

INTERNET EXPLORERはこのような問題について認識していないのだろうか。私だけのトラブルなのだろうか。

2014年8月20日 (水)

炎天下の東山動物園(2)

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ほとんどの動物はあまりの暑さにぐったりしている。

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鹿はこのまま固まっている。

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このあと踞ったけれど、しばらくしたら立ち上がり、再びこの姿勢で固まった。

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シマウマもこの姿勢のまま。30分後に見たときも同じ
だった。

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ガラス越しのライオンも
じっとしている。視線はうつろ。

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さすがに雌ライオンはしっかりしている。しかしこのすぐあとに眠った。

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アザラシだかオットセイだか分からないが、狭い日陰で爆睡。

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いつもは元気なシロクマもぐったり。

次は名古屋の殺人的暑さでも元気な動物につづく。

映画「愛しきソナ」2011年韓国・日本

 監督ヤン・ヨンヒ、出演ヤン・ヨンヒとその家族。

 ヤン・ヨンヒ監督の両親は韓国・済州島の出身で、戦前日本にやってきて大阪の鶴橋に居をかまえた。大阪の人ならよく知っているように、鶴橋というところは、朝鮮半島出身者が多く、鶴橋駅のホームに立てば焼き肉の匂いがただよい、猥雑で喧噪に満ちた街だがエネルギッシュで生命力にあふれている。

 いまは多少変わったとも言うが、済州島出身者は韓国では差別されており、就職も出世もハンディがあるので日本に渡った人が多かった。あの「済州島四・三事件」という島民の大虐殺事件にはそんな背景がある。

 そのために済州島出身者には北朝鮮シンパの人が多い。朝鮮総連を通しての北朝鮮への日本からの支援や寄付も済州島出身の人が多く寄与している。そしてヤン・ヨンヒの両親も日本にいながら熱烈な金日成支持者として半生を北朝鮮に捧げてきたと云っていい。

 ヤン・ヨンヒには兄が三人いる。彼等は日本での差別により、進学や就職にハンディがあることを嫌い、成人前に当時地上の楽園と言われた北朝鮮に渡った。末娘のヤン・ヨンヒだけが両親と共に日本に残ったのだ。

 ソナはその二番目の兄の娘、つまりヨンヒの姪である。

 その兄には二人の息子を産んだ妻がいたが、病死した。そして再婚した後妻が産んだのが娘のソナである。

 この映画ではそのソナを訪ねるヨンヒとその両親の姿が映される。

 ソナがまだ小学校に上がる前の姿、そして後妻であるソナの母の病死、再々婚するソナの兄とその結婚式、成長するソナの姿がヨンヒ自身の手撮りの撮影によって映像化されていく。

 ヨンヒ自身は両親とは意見を異にするけれど、家族は家族だ。映画の中でヨンヒの長兄がうつ病で苦しんでいることが明らかにされる。その長兄と父が無言で歩く姿がヨンヒの、そしてヨンヒの父の気持ちを伝えている(もちろん彼を北朝鮮に送り出したことへの後悔であるが、それを認めてしまえば、父は自分の生き方を否定することになってしまうし、兄も惨めになってしまうから互いに無言なのだ。・・・こんな説明はしない方が良かった。見れば分かる。申し訳ない)。

 北朝鮮と日本という、行き来の困難な二つの国に別れて暮らす家族の姿を通して、北朝鮮という国がどういう国であるのか垣間見ることが出来る。しかし人はどんなところでも生きていく。そうして家族というものが生きがいでもあり、人を支えるものであることも教えてくれる。

 公開は2011年だが、その前にヤン・ヨンヒの父は脳梗塞で倒れ、半身不随となって北朝鮮を訪ねることが出来なくなる。その後、ヤン・ヨンヒも自分が製作した映画が元で、北朝鮮への入国が拒否されてしまう。

 だから映画の最後は、大学に入学したというソナの英文の手紙を映し出して終わる。

 ソナという少女の成長を映しながら、家族とは何か、在日とは何か、北朝鮮で暮らすと云う事はどう云うことか、朝鮮総連を通しての支援とは何なのか、そんなことをあらためて考えさせてくれる映画であった。

 この映画を以前録画しようとして、雷雨の影響で半分しか観ることができず、再放送を待ってじっくり見た。最初のときにはこれほど良い映画だと感じなかったけれど、見直してみてその良さを知った。見直したから良かった、というべきか。

自己中心的

 広島市が集中豪雨で水害に見舞われた、というニュースを朝から見ている。被災した安佐北区や安佐南区は可部線という鉄道沿いに山際に拡がる市街地だ。

 安佐南区の八木(まさに八木でも土石流で被害があった)、というところに一昨年まで息子が暮らしていた。二度ほど訪ねているのであの辺の土地勘は多少ある。

 いまも暮らしていたのなら気が気でなかっただろうけれど、申し訳ないことに今日は人ごとに聞いている。

 まことに人間は(わたしは、というべきか)自己中心的だと思う。もちろん被害に遭われた方にお見舞いの気持ちは大いにあるけれど。

「蜘蛛の糸」の呪縛

 暑いので本を集中して読み切ることがなかなか出来ない。寝床の枕もとに読みかけた本が山になっている。古い本で、表題に引かれて若いときに買ってほとんど読んでいない本、小原信「状況倫理の可能性」というのを睡眠薬代わりに開いたら、「カント倫理の問題はここにある。カントによれば、われわれが利害を考えて外面的に道徳法則に合法的であっても、感情的な傾向性によって道徳的な行為をなすとしても、道徳的であると見なさないのである。(中略)故に、満員電車の中で老人を見かけて席をゆずってあげる人は、老人がかわいそうだからとか、若い者が坐っていては格好がつかぬから、という理由で席を立つのなら、その好意はいくら善意にあふれていても、カント的に考えれば道徳行為ではないことになるのである」とあった。

 カントなんかほとんど分からないけれど、ここのところは珍しく全面的に分かった(分かったのは著者の小原信のおかげだけれど)。 

 芥川龍之介に「蜘蛛の糸」という短編があるのを知らない人はいないだろう。お釈迦様が地獄でもがくカンダタに蜘蛛の糸を垂らすのは気まぐれではない。悪いことばかりしていたカンダタが、ある日踏みつぶしそうになった蜘蛛をかわいそうに思って、思いとどまったというそのささやかな善行をめでてのことである。

 これを読んでから、わたしは平気で踏みつぶしていた虫たちが踏めなくなった。昆虫を捕まえて結果的に殺すことになるようなこともしなくなった。命というものの存在に目覚めたのかも知れない。

 しかしそれだけならけっこうなことである。

 しかし虫を殺さない、ということが自分が救われるためにおこなった善行であるならば、お釈迦様はそのこちらの心を見抜いているから善行とは勘定してくれないだろう、ということに気が付いた。

 善行は無意識でなくてはならない。こうして無意識の善行をしようと意識するからますます意識的になり、ついに善行がいとわしくなり、他人の善行に偽善を見るようになってしまった。

 カントの言う通りならば、わたしには永遠に真の道徳的行為がかなわない。これこそ「蜘蛛の糸」の呪縛ではないか。

2014年8月19日 (火)

炎天下の東山動物園(1)

140819_14サイのおしり

二、三日前から動物園に行きたくなっていた。名古屋へ出かける用事もあったので炎天下に出かけることにした。

午前中に用事をすませたあと、そのまま地下鉄で東山動物へ向かう。

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動物園入り口。この信号がとても長い。真夏の日射しで頭がくらくらする。あわてて帽子をかぶる。中学生以下は無料。おとなは五百円。

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女性には日傘は必需品。この橋にはミストが出るようになっていて多少の暑さしのぎになる。

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入り口のそばにインドサイがいる。お婆さん一頭とオス二頭。

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多分これがお婆さんサイ。暑さにぐったりしている。全く動かない。

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象が水浴びをしていた。

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よく出来ているけれどこれは象の像です。

ここで早くも休憩。ソフトクリームを食べたのだけれど・・・うまくない。ソフトクリームを食べてうまくないと思ったのは生まれて初めて。

ここは300円で他の場所では360円だったから、園内全てがまずいわけではないはずだが、さすがに食べ比べなかった。(つづく)

梨木香歩「海うそ」(岩波書店)

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 昭和の初め、南九州の西の海に浮かぶタツノオトシゴの形に似た遅島という島へ、島の研究のためにやってきた主人公が、人に出会い、自然を散策し、その歴史を知る。

 読者は主人公と共に島の豊かな自然の素晴らしさ、生命の息吹、その神秘さを感じる。そして明治の廃仏毀釈を境に失われた島の信仰の跡をたどりながら島の文化について主人公と共に考えさせられる。それはそのまま人間の営みについて考えることである。

 彼がある人物から渡された地図が彼の島の本格的な調査につながる。この地図を元にした地図が表表紙の裏に掲載されている。本文の主人公の行動をたどる手がかりとしてとても分かりやすい。

 両親を相次いで失い、許嫁まで失って間もない主人公の、その心を、島は癒やし、再生させていく。

 そして50年後、その調査結果を封印したままにしていた主人公が、再び島を訪れて見たものは・・・。ある意味では文化や自然との共生という生き方を見失った現代というもののむなしさであろうか。

 時間が過ぎ去ると云う事の意味が、現在と、過去と、そしてさらにその過去を語ることで、大きな流れとして迫ってくる。

 小松左京や光瀬龍の、悠久の時の流れを語る小説を読んだときのような読後感があった。

 表題の「海うそ」については本文で知る方が良いだろう。

2014年8月18日 (月)

韓国支局長頑張れ!

 韓国の朴槿恵大統領が、セウォル号事件の際に動静がしばらく不明であったことが韓国の新聞や国会で取り上げられたことを紹介した産経新聞が、名誉毀損で韓国の民間団体から告発されたことは既報の通り。

 とくにその時間、男に会っていたのではないかと云う噂を韓国紙から引用したことが問題視されている。

 この告発を取り上げて韓国の司法は産経新聞のソウル支局長・加藤達也氏の出国を禁止する措置をとっていたが、このたびソウル中央検察は加藤氏の出頭を命じ、任意の事情聴取を開始した。

 産経新聞は、韓国大統領を誹謗中傷する意図はなく、韓国の記事を引用しただけのコラムが名誉毀損とされるのは理解に苦しむが、捜査には真摯に協力する、と述べている。

 引用した者が告発され、もとの記事を書いたほうは不問に付されている、というのは明らかに異常だが、日本がしたことは同じ事でも悪である、といういつもの論理なのだろうか。 告発があったから取り調べているのだ、と云うのが司法の言い分だろう。しかし韓国は中国と違って民主国家である。韓国は中国にすり寄るあまり、表現の自由すら制限する国になろうというのだろうか。こんなことがまかり通るのであれば国際的にまともな国とは評価されなくなると思うがどうだろう。

 ソウルの海外紙の記者たちは韓国の出方次第でどう報道するかいま注目しているとも言う。彼等がいる。加藤支局長は毅然として反論し、がんばり抜いて欲しい。

手を握る

 韓国を訪問していたローマ法王が18日にソウルでミサをおこなった。ミサの目的は貧困や対立で苦しむ人々をねぎらう、ということだったが、最前列にはもと慰安婦だという女性7人が座っていた。法王が彼女たちの手を握ると、その一人が慰安婦問題を象徴するチョウのバッジを法王の胸につけたそうだ。

 法王はミサで「罪を犯した兄弟を完全に許しなさい」と述べ、慰安婦問題など日韓の歴史問題への言及はなかった、と韓国メディアは伝えている。

 今回のローマ法王の韓国訪問は、セウォル号事件の死者を慰霊する目的もあったのだろうと拝察するが、韓国はそれをそっちのけでローマ法王の韓国訪問を、慰安婦問題の世界へのアピールに利用しようとしていたように見える。それが必ずしも成功したとは思えないが、少なくともセウォル号事件が霞んでしまったことは韓国政府にとってさいわいであった。

 しかし、こうして韓国の自浄の機会が失われたことは韓国の国民にとってさいわいとは言えないと思う。これまでそうだったように、また似たような事件が起こるだろう。

そう思われている、と思う

 人民日報が、韓国のメディアが日本での民族差別、ヘイトスピーチをとりあげたニュースを元に、日本の嫌韓問題を記事にした。

 記事では、日本人に根深い嫌韓感情が拡がっている、という前提で、その理由を「日本人は東アジアの人々を二等民族だと思っている」からだと指摘した。

 さらに安倍政権が「日本が軍隊を持ち戦争が出来る国にするために、脅威論を振りまいて国民に信じ込ませようとしている」からだという。

 人民日報は「そのために韓国が日本に警戒心を抱くようになったことは、アジア太平洋地域の安全にとっては悪い話ではないかも知れない」と不思議なコメントを付け加えている。 

 子供の頃、近所のおとなたちの口ぶりから、朝鮮半島の人々や中国人にたいして差別的な言い方をするのをしばしば聞いた。父は中国が大好きで、若くして中国に渡ったくらいだったし、母もわたしが幼い頃、農村に暮らしたとき、極貧で誰もつきあわない朝鮮半島の家族と普通につきあい、わたしもしばしばその家である、土間にむしろを敷いただけの小屋に遊びに行ったくらいだから、差別的な者には嫌悪を感じるほうだった。

 しかし、いまその当時のような差別的な考えを持っている人間がどれほどいるだろうか。そのような思考はあとから刷り込まれるもので、日本ではそのような刷り込みをすることはほとんどなくなったと言って良いだろう。だから日本人が一般的にアジアの人々を二等であると差別的に見下している、というのは一部の特殊なひとを除いて間違っていると思う。

 それより自分の中にそのような過去の思考の残滓がないかどうか、それを気にしすぎるくらい気にしている、と云った方が正確な気がする。

 韓国や中国のメディアがそのように言うのは「日本がそう思っている」と思い込んでいる、ということなのだろう。そう思われるような歴史を持っていることについては日本人として反省しなければならないと思うけれど、そのことを反日の根拠にするのは彼等自身がそこから永遠に抜け出せない蟻地獄にいるような気がする。

 日本の嫌韓はそのような理由ではなく、韓国の切りのない謝罪要求に嫌気がさし疲れてしまった日本人の自然の反応だろう。だから根深いものではなく、忘れやすい日本人は韓国が融和的に態度を変えるだけでコロリと好韓に変わるだろう。韓流ブームでせっかく良くなった関係を損なった責任は重いけれど、その責任を日本だけにあるように云うのは納得できないと思うのはわたしだけではないだろう。

 韓国の反日化で、韓国人と日本人が得たものと失ったものを考えるとその責任は大きい。そしてこれからさらに大きなものが失われ続けるような気がする。

リベリアの狂気

 西アフリカのリベリアは海賊で有名だが、現在エボラ出血熱が猛威を振るっている国のひとつである。

 そのリベリアのエボラ出血熱の感染者の隔離病棟を、武装した男たちが襲撃し、患者約20名が逃走した。

 襲った男たちは「エボラ出血熱など存在しない。政府のまやかしだ」と叫んでいた。「大統領は援助の金が欲しいだけだ」と語っていたという。

 現在治安部隊が感染地区を封鎖して拡散を防ごうとしているという。現場は市場が閉鎖するなどして食料が高騰し、混乱しているようだ。

 このようなゲリラが活動できると言うことは、治安部隊の封鎖も万全ではない、ということだろう。エボラ出血熱はさらに深刻な事態を迎えているように見える。

 アフリカはエネルギッシュな大陸であり、ポスト中国で勃興し、21世紀はアフリカの時代という見方もあった。しかしアフリカはエイズの発祥の地であり、部族の戦いからいまだに脱出できないでいる。そこへ今回のエボラ出血熱の蔓延だ。アフリカの闇は深い。

 大統領が援助の金をあてにしている、というゲリラの指摘は多分真実なのだろう。各国、団体が援助をおこなってもその何割かが患者へ届かず、とちゅうの誰かのふところへ入ってしまうと言うのはいままで普通にあったことで、これからもあるだろう。アフリカの闇は深い。アフリカの時代はいつになったらやってくるのだろうか。

2014年8月17日 (日)

風向き

 光復節での朴槿恵大統領の演説の、日本に対する物言いが多少和らいだトーンになったとかならないとかニュースで言っていた。演説全体の中でのニュアンスがそう受け取れるようであったのかも知れない。

 ニュースで伝えられているものを見ていると、韓国のマスコミや市民の反応の中に、朴槿恵の反日言動が多少疑問視されてきた、やりすぎではないかと思われ出したなどというのが取り上げられている。

 ことさらに韓国の反日行動の部分だけを取り上げる傾向が日韓のマスコミにあった。日本大使館前のやや過剰な反日行動を韓国全体の行動のように報じてきたけれど、実は五十人しかいなかったと言うことがしばしばだったようだ。

 その今年の光復節の日、男がひとりだけ日本大使館前で興奮して反日アピールをおこなっている映像が映し出されていた。報じられるから彼も演じているのだろうけれど、一人だけではほとんど狂気の姿である。あの姿は朴槿恵大統領のいまの姿だ、とまでは言わないが。

 メディアの報道は目立つものを取り上げる傾向がある。果たして伝えられているものはどこまで本当なのだろう、とあらためて思った。

 しかし韓国の国民が日本に対する反感を深く根に持っていることは多分間違いないのだろう。これは長い歴史と民族の精神性に根ざすものであろうから、風向きが変わったとしても楽観は出来ない。それは日本人も感じていることだ。隣国とはそういうものであるらしい。それを認識した上で相手と向き合わないと行けないと云うことだろう。話せば分かる・・・ことばかりではないのだ。

詐欺にも三分の理

 日本に留学している中国人の女性のもとへ友人の名前でLINE詐欺メッセージが入った。たまたまグループ内で詐欺に注意するよう警告を受けていたので彼女はそれに気が付いた。

 彼女は犯人に対し、中国語でなぜこんなことをするのだ、と尋ねた。

 犯人はあなたが中国人とは知らなかった、中国人ならだますつもりはない、と返事が来た、という。日本人は昔中国に対して悪いことをしたから自分は日本人を狙って詐欺をしている、のだそうだ。

 中国メディアにこの話が取り上げられていた。

 どうして詐欺犯が中国人だと分かったのかがよく分からないが、詐欺に遭わなかったのはさいわいである。詐欺犯にもだます理由がある、ということなのだろう。中国人を代表して犯罪をおこなっているつもりらしい。

 日本が悪いから反日暴動をするのだ、略奪行為も破壊行為も日本が悪いからだ、という暴徒を我々は目の当たりにした。悪いことはしてはいけない、という人間のルールを踏み外す者が、社会には残念ながら必ずいる。しかしそれがなにやら正しいことであるような風潮を容認してしまうと、その社会は崩壊してしまう。

 この詐欺犯の話を読んだ中国人は、まさかそれもそうだ、などと思わないだろうことを願う。

2014年8月16日 (土)

映画「ラスト・アサシン」2011年フランス

 監督ジェローメ・ル・グリ、出演メラニー・ロラン、クロビス・コルニアック、チェッキー・カリョ、ジャン=クロード・ドレフェス他。

 大沢在昌の「ライアー」で「アサシン」を話題にしたからではないのに録画した映画の山から選んで見たのはこの「ラスト・アサシン」であった。あの「ニキータ」の後日談のような話で、主人公の女暗殺者には女の子がいる。その子のためにもこの仕事から足をあらおうとするのだが、説得されて最後の仕事に向かう。その仕事の顛末がこの映画のストーリーだ。

 プロの暗殺者とはとても思えない不注意さと手際の悪さ、テンポは遅いしアクションも緊張感もない。主演のメラニー・ロランのプロモーションビデオでも見せられているようだ。

 標的をなかなか殺せないのに、突然その標的が死んでしまうに至っては何の事やらわけが分からない。こんな暗殺者がよくこれまで生き延びてきたものだ。

 日本では公開されていないらしいが当然だ。これでは金を取れない。

ところで地上波で放送していた「MOZU」のシーズン1が今日からWOWOWで放送されている。シーズン2から見たりしないで待っていて良かった。

大沢在昌「ライアー」(新潮社)

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 日本版「アサシン(暗殺者)」だ(「アサシン」はリュック・ベッソンのフランス版「ニキータ」がオリジナルの映画で、ハリウッドで「アサシン」としてリメイクされている。オリジナルのほうが強烈だった)。

 普通の妻として家庭を持ち、子供を育てているが、実は暗殺者、という女性が主人公。冷静に任務をこなしてきた彼女が、夫が見知らぬ女性と二人で変死体となって発見されるという事件に直面し、自らの意志でその真相を追う。

 夫は果たして自分の知っていた夫とは違う裏面を持っていたのだろうか。自分が夫をだましていたように夫も自分をだましていたのか。そして機械のように冷酷に任務をこなしていた彼女は、自分自身にいままできざしたことのない感情がわき起こるのを知る・・・。

 生島治郎、大藪春彦というハードボイルド小説の先達の衣鉢を継ぎ、日本は北方謙三、大沢在昌、馳星周という素晴らしいストーリーテラーを得ることが出来た。この三人の小説はどれも外れがなく面白い。

 大沢在昌は新宿鮫シリーズで一躍名をあげたけれど、それ以外の小説もとても良い。この本も読み出したら止められなくなること請け合いだ。もう一冊新刊を読む予定で購入している(「雨の狩人」(幻冬舎)分厚いのだ)のだが、細切れでは絶対に読みたくないので、タイミングを計っているところだ。映画も見たいし読みたい本も山のように積んであるし、いそがしいのだ。

 車の渋滞を避けるために、今朝早く息子は暮らしている広島に帰っていった。こうして子ども達もみないなくなった。さびしいけれど仕方がない。天気が回復したら何処かへ出かけようかな。

2014年8月15日 (金)

高島哲夫「首都崩壊」(幻冬舎)

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 東日本大震災により、首都圏直下型の大地震が誘発されるであろう、という研究データが出る。必ず地震が起きるわけではない、と否定するものもあり、また、その情報からパニックになることをおそれて、政府はその情報の公開を差し止める。しかし次第に頻発する地震の規模が大きなものになり、その研究データが信憑性が高いことが実証されていく。タイムリミットは当初の想定よりも短いことが明らかになってきて、対策が急務であることが誰にも納得される事態となる。

 ありえない話ではない。政府に対策チームの一員とされた主人公は起死回生の案を作成し、提言する。一笑に付されたその案が、それしかないと認められるまでの紆余曲折があり、そのプロジェクトが進行する。

 こうして希望の灯が点されるのだが、全ての背後にアメリカのバックアップがあったらしいことがほのめかされて物語は終わる。アメリカはすでに状況を把握し、日本発の大恐慌を回避するために動いていた、ということらしい。

 予測されたM8型の地震は起こるのか?過去にも起こったことであり、ありえないことではない。東京に全ての機能が集中しているとき、そこが壊滅的な被害を受けたとき、日本は再起不能となりかねない。この本のようなシミュレーションは必要なことだろう。

 政治家の自己保身のための右往左往ぶりは実際にこうなるだろうな、と思わせられるだけにいらだたしい。ただしここで登場する政権党は自民党と言うより民主党を思わせる。多分福島原発事故を戯画化しているのだろう。

ローマ法王の韓国訪問

 ローマ法王が昨日韓国を訪問した。韓国は当初元慰安婦と法王との面談を用意して、国際的に慰安婦問題をアピールしようとしたらしいが、法王がそれを拒否したと伝えられている。しかしミサには元慰安婦も参加していた。

 さらに法王は朴槿恵大統領とも会談したが、会談後の演説では南北統一に対する韓国政府の努力に敬意を表するとの趣旨の発言が盛り込まれたが、慰安婦問題については言及しなかった。当然朴槿恵大統領からも会談に慰安婦問題が取り上げられた、との発言は出なかった。大統領から言及があったかも知れないが、法王から何の反応もなければ、それに言及するわけにはいかなかったのだろう。

 韓国のマスコミや慰安婦支援団体は今回のローマ法王の韓国訪問を世界へのアピールの絶好の機会ととらえていたようだが、さすがにローマ法王もそれには乗らなかったようだ。当たり前だけれど。韓国でも海外でもローマ法王の政治利用ではないか、と強い批判が出ているようだが、韓国はなりふり構わない。それがかえって韓国にマイナスの印象になりかねないとは考えないようだ。

 それよりもバチカンと中国の関係だ。近年バチカンと中国の間は緊張関係にあった。前の法王であるヨハネ・パウロ2世がアジアを訪問したときはわざわざ中国領空を飛行することを避けた。バチカンは領空を通るときにはその国に挨拶を通すのを通例としており、中国とのやりとりを避けたからだとも言われる。

 今回はその中国の領空を通過して韓国に入っているので、筋を通したものと思われる。中国の環球時報は、ウオール・ストリートジャーナルの記事を引用し、今回のローマ法王のアジア訪問で中国との関係改善に乗り出す可能性があると伝えた。

 さらにバチカンは中国政府との関係改善のために台湾と断交する意向であるとも伝えている。中国は1951年にバチカンと断交しており、バチカンは台湾と外交関係を維持している。

 バチカンが国家として功利的に動こうとしているのか、それともローマ法王自身がその意向なのか気になるところだ。宗教組織が政治とは無関係で成り立つなどという幻想を持っているわけではないが、あまり気持ちのいい話ではない。

 ローマ法王の訪韓に関するニュースをまとめてみた。

2014年8月14日 (木)

映画「ヒプノティスト 催眠」2012年スウェーデン

 監督ラッセ・ハルストレム、出演トビアス・ジリアクス、ミカエル・パーシュブラント、レナ・オリン他。

 たびたび言うが、北欧の映画はハリウッド映画を見慣れていると、ひどく新鮮だ。心の深いところにぐさりとくる鋭さがある。ユング心理学やフロイト心理学の症例がそのまま投げ出されたような世界が展開する。日本人にはありえない世界に見えるけれど、実際に北欧ではこのような事件があるのだろうか。

 詳しく話すとまともにネタバレになるのでストーリーは追わないことにする。北欧映画に馴染みがあると犯人は推察がついてしまうかも知れない。

 催眠を精神治療に応用している医師が、ある事件で弾劾を受け、催眠療法を禁止される。その医師に緊急で警察から催眠の依頼が入るのだが・・・。

 この医師の妻を演じているのがレナ・オリンではないか。歳をとったので最初分からなかった。この人は「蜘蛛女」(「蜘蛛女のキス」ではないよ)で強烈な印象を受けた。主演のあのゲイリー・オールドマンを喰ってしまう怪演であった。

 それがねちねちとしつこく夫である医師に過去の(なんと二年前)浮気をなじり、夫の言葉に耳を傾けようとしない。それがあのある事件が背景にあることがあとで分かるのだが。

 この夫婦の息子が誘拐されるに及び、俄然レナ・オリンの眼がきらめいてくる。他罰的だった女が次第に目覚めていくのは母親の本能か。

 ラストはスリリングだけれど作りすぎか。これでは警察は役立たずの能なしみたいだ。もっと手際よくやれよ、といいたくなる。全般に警察が無能力すぎるのは監督か脚本家が警察嫌いなのだろうか。

 全般としては面白い映画と云っていいだろう。

 ラストシーンに見覚えがあるような気がする。もしかしたら一度見た映画かも知れない。だんだん自分に自信がなくなってきた。おかけで何度でも楽しめるけれど。

山中康裕「臨床ユング心理学入門」(PHP新書)

 PHP新書が創刊されて最初に出版された本だ。1996年出版の本だから、いま診断名が統合失調症と変更された精神疾患がまだ当時の分裂病の名前で語られている。

 若いときに心理学に興味を持つ人は多いだろう。人の心のあり方の不思議さに思いをいたし、人の心の奥底を解釈するフロイトやユングの入門書を分からないなりに読んで見たりした。少し深入りして精神病理の本に興味を持ったりもした。

 この本でも前半は心理学の発展史を語るが、そこでフロイトとユングの違いが分かりやすく説明されている。簡単に言えばフロイトの精神分析学は神経症の治療に効果的で、ユングの手法は分裂病を主な対象にして分析と治療を行うものだ。だから二人が当初意気投合しながらついには袂を分かつことになったのも当然であろう。

 この本の本論は表題の通り、ユング心理学をどのように臨床に応用してきたのか、その効果と成果はどのようなものであるのか、今後に何が期待できるのか、が実際の著者の経験を下に詳しく書かれている。

 精神科の治療には長い時間とぶれのない粘り強い患者との対応が必要であることが強調されているのだが、実際の精神病院での治療は短時間の面談しか出来ない。患者の数に対して医師があまりにも少ないのだ。しかも担当医師は病院の都合でしばしば変更されることが普通だ。

 著者のような真摯な医師の治療を受けられるのは極めて幸運な患者だけだろう。

 ユング心理学がどのようなもので、実際の精神科の治療にどう応用されているのかを知るために分かりやすい入門書である。この本が書かれたときから約20年、どのくらいその治療方法は進化したのだろうか。

映画「マックス・ペイン」2008年アメリカ・カナダ

 監督ジョン・ムーア、マーク・ウオールバーグ他。

 タイトルバックを見ながらあれっと思い、見始めてしばらくしてやはり一度見た映画だ、と気が付いた。普通ならそれで止めてしまうのだが、この映画は出来がいいし面白いのでそのまま最後まで観てしまった。

 マーク・ウオールバーグは「シューター 極大射程」で初めて名前を意識して記憶した。この原作がとても面白いものだったので期待して見た映画で、それを裏切らなかったのはウオールバークの演技も良かったからだと思っている。

 妻と生まれて間もない赤ん坊を惨殺された刑事マックス(マーク・ウオールバーグ)は仕事をそっちのけで、犯人の追跡と復讐だけしか意識にない。そんな彼はいつしか署内の鼻つまみになっていた。

そんな彼がもと自分の情報屋でいまは成り上がった男のパーティで若いロシア女性と知り合う。その女性が惨殺され、しかもそこにはマックスの身分証明書の入った財布が残されていた。

この事件の捜査が手ぬるいと非難したために、いまは疎遠となっている相棒だったアレックスに助けられたマックスだが、その後そのアレックスから事件の手がかりがつかめたかも知れないから会いたいと連絡が入る。

 マックスの家で待つ、という伝言で駆けつけたマックスを、潜んでいた賊が襲撃する。そして怪我をして気を失ったマックスのそばでアレックスの惨殺死体が発見される。

 マックスにあのロシア女性の姉が接近してくる。彼女はロシアマフィアのボスであった。彼女と協力することでマックスは新たな手がかりを得る。さらに彼の妻が殺されたのは、行きずりの強盗犯ではなく、理由があったらしいことが分かってくる。  

 ここからは一気呵成にマックスの暴走が始まる。

 死ぬことを全くおそれない状態を死境という。すでにマックスは死境に入っていて無敵だ。心の底では妻子のもとへ行くことを願っているのだ。そのマックスを、妻は「まだ来るのは早い」とたしなめる。

 エンドクレジットのあと、最後の最後に物語は終了していないことを暗示するシーンがある。前回はこれを見逃していたような気がする。何しろ洋画はエンドクレジットが延々と続くのでそこで終わりにしてしまうことが多いが、この頃は気をつけて最後まで観るようにしている。

 おもしろい。

 話は替わるが、いま10人あまりの方のブログを毎日楽しく拝見しているが、半数の方がお盆でいそがしいらしく、お休みの日が多くなっている。わたしも今日午後から息子と娘がやってくるので、明日の朝の更新は出来ないと思う(朝まで飲むはずで、二日酔いで起きられないと思う)けれど、何とかその日のうちには更新するつもりだ。

2014年8月13日 (水)

映画「スクワッド 荒野に棲む悪夢」2011年コロンビア・アルゼンチン・スペイン

 監督ハイメ・オソリオ・マルケス、出演ファン・パブロ・バラガン、ファン・ダビド・レストレボ、アンドレ・カスタネダ他。

 早く終わって欲しい、と思いながら、観るのを止めようとは思わずに最後まで観た。怖かった。怖かったけれど、何が怖かったのか、といえば何だかよく分からない。だから怖いのだ。怖いものがはっきりしたときに怖さは霧消する。あえて言えば人の心こそが怖い。

 山間部の基地からの連絡が途絶え、何があったか調べるために小部隊が派遣される。ゲリラに襲撃されたのではないかと思われたその基地の辺りには深い霧が立ちこめ、基地には人の気配がない。

 基地への階段下で援軍が来るまで待機する命令を受けた部隊だったが、隊員の一人がじれて勝手に基地へ潜入しようとする。それを止める命令を受けて追っていった隊員が地雷に触れて大けがを負う。

 けが人を治療するためにやむなく基地へと入った隊員たちだが、そこには大量の血の跡があるだけで全く人影はない。何があったのか全く分からず、無線は壊れ、孤立状態となる。

 やがて一人の隊員が魔除けの懸けられた部屋を発見、更にその部屋の壁の向こうから閉じ込められた女を発見する。全体の指揮を執っていたのは中尉だったが、基地で何があったのか、知っているのではないか、と隊員たちは疑いだし、次第に統率がとれなくなる。

 ばらばらになっていく男たち。中尉の命令を無視して、その女を拷問して何があったか聞き出そうとした軍曹が、死体で発見され、女の姿が消える。

 やがて夜がやってくる。

 とにかく暗いシーンが連続し、明かりに照らされた一部だけが見える。何かがあるような、それは恐怖心からの妄想なのか、明らかなものは何もない。ただ血と泥濘でぐちゃぐちゃの気味悪さが皮膚感覚で感じられるだけだ。

 ラストのラストにあれはどうした、と思わせたものが突然現れ・・・。

 いまに何かが出ると思いながらなかなか出ない怖さはストレスだけれど、それがこう云うホラーの楽しみでもあるのだろう。見終わって現実にもどってほっと出来るというのも快感には違いない。

夫の家事手伝い

 夫婦にアンケートをとったら、家事の手伝いを多少はしている、と答えた男性が多いのに、手伝いをしてくれない、と歎いている妻が多いらしい。

 テレビでその実態、というのを具体的な夫婦の様子で見せていて、それを見てなるほど、と思った。

 もともと手伝う気のない男は論外だが(そんな男はそもそも結婚する資格がないので、そんな男と結婚した女性は、自分の判断を反省してあきらめて男に期待しないまま生きるか別れるしかないだろう)、普通は手伝うつもりがある。しかしその根底にあるのは、自分は手伝うのであってメインは主婦であるという意識である。

 だから男が家事手伝いをしたのに、妻の言葉で嫌気がさしてしなくなった、というのが多いのだ。

 テレビで見ているととにかく夫のやることなすことに妻が口出ししている。我慢した夫が差しがにむっとした様子を見せると、まずい、と思うのだろう。そのあとは無言でじっと夫のやっていることを見ている。それも気詰まりなものだ。

 妻は、二度手間になるからちゃんとして欲しい、やり方が雑である、無駄が多すぎる、手際が悪すぎる、などと思っているようだ。

 男だから仕様がないなどとは思わない。やるからにはきちんとやるべきことで、家事だっていいかげんにやって良いものではない。

 しかし妻の意識の根底に、家事については自分の方が上位である、私はあなたよりもうまいと認めなさい、と云う気持ちがあり、その念押しが繰り返しなされているように見える。

 これは社会が(とくに日本社会が)いまだに男性上位の価値観にあることによるものだ、とフェミニストなら指摘するところだろう。確かにそれも事実だけれど、しみこんだ価値観はすぐには消え去らない。

 女性が口うるさいのは本能的ものだが、本当に賢い女性はまことに男性をうまくしつけていて、妻以上に家事の得意な夫を獲得している。どうしたらよいかは自ずから明らかだろう。

 料理や炊事洗濯の得意な男を探して夫にしようなどと思ってはいけない。しあわせは探すものではなくて獲得するものだ。

 それにしてもテレビで口うるさく言う妻に辟易しながらエプロンを着けて台所に立つ夫を何組を見せられたけれど、見方によれば仲の良いことで、それこそがしあわせな姿に見える。

 父に先立たれて、口うるさく言う相手のいなくなった母が口が利けなくなったことを思った。

忘れる国と忘れない国

 しつこい人とあっさりした人がいる。日本ではしつこい人は嫌われることが多い。だから世界中がそうかといえば、そうでもないらしい。

 戦後69年経ち、来年には70年になろうとしている。その間日本は海外で軍事行動を起こすことなく、当然それで戦死した兵隊もいないし、殺したこともない。

 先の戦争で日本が行った戦争は大儀がなく、海外の国民に対して多大な損害を与えた責任が重いことは事実である。しかもその大儀のない戦争によって自国民にも多大な損失を与えた。

 しかし、すでに戦争経験者は少数になり、その責任を海外に問われても、自分の問題として考えることの出来ない日本人が多くなっている。

 中国や韓国が日本の戦争責任を声高に叫ぶのに対し、日本国民は、いいかげんにもう忘れてくれ、と思っている。わたしもそうだ。すでに日本人は忘れていると云っていいからだ。なにしろ空襲や原爆で非戦闘員である一般市民を数十万人も虐殺したアメリカと仲良くしているくらいだ。しかし海外の人々は決して忘れない。

 これは永遠に言われ続けると覚悟しなければならないことらしい。日本人のように忘れる国民は珍しく、忘れないのが普通なのだ。このことは陳舜臣の本を読んでいて識った。その違いを識らないで韓国や中国の言い分を聞いているとあまりの一方的な物言いに感情的になりやすい。

 決して彼等は忘れない。

 しかしそのことを利用して目的を持って騒ぎ立てている者たちもいるのは確かだ。何事にもそういうことはあるが、思考の原点に、時間が経っても忘れないのが世界では普通なのだ、という事実を承知することが必要らしいと識ることはずいぶん大事なことかも知れない。

 なにせ太閤秀吉がおこなった朝鮮出兵の恨みを昨日のことのように言う国が相手なのだから・・・。

120329_60おれは日本人みたいにすぐ忘れるよ!

2014年8月12日 (火)

映画「ホタル」2001年・日本

 監督・降旗康男、出演・高倉健、田中裕子、水橋貴己、奈良岡朋子、井川比佐志、小澤征悦、小林稔侍、夏八木勲、小林綾子他。

 見たいと思って見そびれていた映画をNHKBSが放送してくれた。

 知覧の特攻隊の生き残りである山岡(高倉健)を主人公として、過去と現在が語られていく。特攻隊というものがどう云うものであったのか、それを抱えてどう人は生きてきたのか。

 山岡の妻・知子(田中裕子)の人生もその特攻隊と大きな関わりを持つことが次第に分かってくる。

 冒頭の夜明けの開聞岳、そして桜島の映像を見たとたんに何だかもう胸が熱くなった。ドラマは淡々と進み、激したやりとりは全くないのに涙が出て来たのは歳のせいばかりではないと思う(やはり歳のせいか?)。

 後半、日本人として特攻に散った金山少尉の遺品を夫婦で釜山に届けるシーンがある。朝鮮人として、日本のために命を落としたということが受け入れられない家族の姿にいまの韓国国民の気持ちがうかがえる。高倉健の、金山少尉の最後の姿について切々として訥々とした語る言葉に、やがてその家族たちも静かに耳を傾ける。

 そこで打ち解ける、などという甘いシーンなどなく、ラストの船を焼くシーンへ転換する。

 ひとつの役割を終え、特攻について沈黙を続けた男が初めて新聞記者に口を開く。

 8月15日が近いのでこの映画を放映してくれたのであろうか。おかげで観ることができた。いやあ、良かった。

 降旗康男と高倉健のコンビと言えば、たくさんの映画が撮られているけれど、初めて意識して観たのは「冬の華」という映画である。忘れられない。このコンビに田中裕子がからむのは「夜叉」という映画だった。ここでは田中裕子は妻ではなく、高倉健が暮らす漁師町に東京の匂いを連れてやってきた小さな飲み屋のおかみだった。それを追って狂犬のような男(ビートたけし)がやってくる。オッと、説明を始めると切りがない。

 また観たくなった。高倉健は好いなあ。

映画「ウルヴァリン:SAMURAI」2013年アメリカ・オーストラリア

 監督ジェームズ・マンゴールド、出演ヒュー・ジャックマン、TAO、福島リラ、真田広之他。

 裏切りが見え見えでは裏切りではない。どうも底の浅い裏切りの繰り返しに最後の大きな裏切りが明らかになったりすると、意外性に驚くよりもしらけてしまう。

 戦国時代は権謀術数の時代だったから、サムライの本質が信義を重んじるものだとばかりは言わないが、少なくとも日本人が、そして外国の少なからざるひとが、サムライについて思い込んでいるイメージは、そのような信義を重んじるものであるだろう。

 その思い込みを破るような映画だから裏切りの物語が生きる、はずだったけれど、どうもね。この映画で表されている日本は、一部ありのままで、多くがとんでもないものだ。これが実際の日本だ、などと思う人がいないことを願う。

 エキゾチック・ジャパンを強調しようとしてへんてこな映画に仕上げてしまったようだ。

デマ

 ありえない主張を見て興奮してしまったが、そもそもその主張はデマから発したらしいと知って驚いた。西遊記は韓国が起源だ、というあの話だ(拙ブログ「神の猿」8月8日付参照)。

 そもそもこの話は中国メディアのニュースで見たのだが、その根拠は中国ネットの書き込みが元になっていたという。しかしこんな主張をした韓国の学者など存在していないらしい。もちろん三蔵法師が持ち込んだお経の原本があるという寺も実在しないし、「花果山」と呼ばれたという山も実在しないそうだ。

 ありえないことだからそれに対して声高に「ありえない」と言ったつもりが、そのとおりなかった話だと知ってなんとなく気恥ずかしい。

 そもそも「韓国が起源」というのが変なのだ。「神の猿」にもその辺は意識して書いているのだが、「韓国が起源」ではなく「朝鮮半島が起源」でないとおかしい。韓国は第二次世界大戦後に出来た国だからだ。

 韓国がいろいろな物を韓国起源だと主張する、いわゆる「ウリジナル」がたびたび紹介されていたので、すわ、今度もか、と乗せられてしまったわけだ。

 韓国でも、さすがにこの話は「荒唐無稽だ」と見ているという。

Dsc_0036再び神の猿

 ところで産経新聞の韓国支局長が朴槿恵大統領に対する名誉毀損で出国禁止措置をとられたそうだ。身柄を拘束する一歩手前と言うところか。

 やや品位に欠ける噂のたぐいを取り上げて記事にしたのは新聞と言うより週刊誌のやり方であるが、産経新聞はそもそも韓国国会でのやりとりや、韓国メディアの記事を取り上げて記事にしたと言い訳している。

 それなら火元は韓国自身にあるわけで(それを見ていないので確かとは言えないが・・・ちょっと用心深くなっているのだ)、産経新聞だけをことさら罪に問うのはどうかと思うのだが。

 日頃産経新聞は韓国や中国に辛口だから、その恨みを晴らそうというのでは・・・まさかと思うけれど、中国同様やりかねない国だ(と思われている)からなあ。

2014年8月11日 (月)

渋滞にはまる

 昼前に出発したのに午後7時頃ようやく自宅に着いた。多少の混雑は予想していたけれど、考えが浅かった。

 土曜日から夏休みの会社も一部ある。それに休みでなくても有給休暇を取って土曜日から休んでいる人もいるだろう。その人たちも土曜日と日曜日は台風で動けなかったはずだ。それが今日一斉に動き始めたようだ。

 湾岸道路で渋滞にはまり、東名は川崎料金所から海老名まで25キロの大渋滞。おまけに三ヶ日から音羽蒲郡まで断続的に渋滞していた。何の事はない。お盆の渋滞そのものにはまってしまったわけだ。

 でも、前回渋滞にはまったときは9時間以上かかったし、事故がかさなったときは11時間かかったこともある。今回はとにかくのろのろだけれど動いてはいたので、途中の休憩を入れても8時間足らずで千葉から名古屋に来ることが出来たのはまだマシと言うべきか。

 くたびれたあ。

芥川龍之介「羅生門・鼻・芋粥・偸盗」(岩波文庫)

 中学生だったか、高校生になってからだったか、芥川龍之介に夢中になって、図書館にあった全集を読んだ。初期の作品にいわゆる王朝物と云って、中国や日本の伝奇を題材にしたものがある。そこから今昔物語を分からないなりに読んだりした。今もその趣味は代わらない。本棚には中国の志怪小説や伝奇集がたくさん並んでいる。

 この短編集のなかの「偸盗」以外は誰でも知っている話だろう。この「偸盗」は読んだはずなのにこれほど激しい争闘シーンが描かれているとは記憶になかった。それに腐乱した死体や瀕死の病人の姿をまざまざと描いてその腐臭が漂うような文章がすさまじい。

 それはもちろん太郎、次郎、沙金の想念の揺れを際立たせるための手法なのだけれど、読んでいると真夏の人通りの絶えた都大路に立っているような気分になる。炎天と砂埃とその臭いが直接感じられるようだ。

 人の生き死になど些細なことのようでも、自分の生死になれば別である。人は希望を失っていても死から逃れようともがく。欲望のままに生きているようで、しかしそれで良いのか、と心の底には疑念がきざすものもいる。人は自分の欲望をときに乗り越える不思議な生き物だ。

 子供のとき、捨て猫が田のあぜで野垂れ死にして腐乱し、ウジがわいているのを見て、その気味悪さにかえって目を背けられずに見つめたままになったことがあることを思い出した。

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父の気持ち

 お盆には早いけれど、今日名古屋へ帰るので昨日父の墓参りに行った。

 父は今考えればとてもわかりやすい人だったけれど、若いときには反発してあまり口をきかなかった。腕力で父に負けないだろう、と確信したときにようやく父と対等になった気がした。父は、私にとって乗り越えるべき壁だった。

 今考えれば家族思いの優しい父だったけれど、それをきちんと受け継いで、家族を何より大事にしているのは弟だ。だから弟は自分のことより家族を大事にするのが当たり前だと思っている。私は・・・。

 父は私をどう見ていたのだろう、とずっと思っていた。あまり気持ちが通じない息子だ、と思っていただろうと感じていた。でも今はそうも思っていただろうけれど、やはり自分の息子なのだ、とあるがままに私を見ていたことが分かる。そう思いたい、と云うことではなくてそう思っていた、と云うことが分かる。

 その父を看取り、寝たきりの母の介護も弟夫婦がしている。有り難いことだと思っている。私はただ母に顔を見せに来るだけだ。

 その私に、弟の嫁さんは「お兄さんが来ると、お母さんの顔色が活き活きしています」などと言う。ほとんど弟と酒を飲むためにいるだけなのだけれど。何の役にも立たずに今日名古屋に帰る。

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2014年8月10日 (日)

芥川龍之介「河童 他二篇」(岩波文庫)

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この前の記事では突然の河童の哲学者の言葉に驚いたり意味不明だったかと思います。

 実はこれは芥川龍之介の「河童」のなかの、河童の哲学者の言葉なのであります。スウィフトの「ガリバー旅行記」のなかで、馬が賢くて人間が野蛮な国「フウイヌム」の話がありますが、河童の国でも人間と河童を比べて、河童が賢く、人間が愚かであると喝破されています。

 人間の倫理というものをあざ笑う河童のその姿に、実は人間自身の真の姿が暴かれているのかもしれません。

 しかも河童の国から人間世界に戻った主人公は狂人として精神病院に収容されています。物語はその狂人からの聞き語りとなっています。この作品が書かれて半年後に芥川龍之介は自死しています。彼にもこの狂人のように、人の見えないものが見えてしまったのかもしれません。

河童の哲学者・マッグの言葉(抜粋)

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 阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている。

 

 最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないように暮らすことである。

 

 我々の最も誇りたいものは我々の持っていないものだけである。

 

 何びとも偶像を破壊することに異存を持っているものはいない。同時にまた何びとも偶像になることに異存を持っているものはない。しかし偶像の台座の上に安んじてすわっていられるものは最も神々に恵まれたもの、---阿呆か、悪人か、英雄かである。

 

 我々の特色は我々自身の意識を超越するのを常としている。

 

 幸福は苦痛を伴い、平和は倦怠を伴うとすれば、---?

 

 自己を弁護することは他人を弁護することよりも困難である。疑うものは弁護士を見よ。

 

 物質的欲望を減ずることは必ずしも平和をもたらさない。我々は平和を得るためには精神的欲望も減じなければならぬ。

 

  哲学者の言うことですから良く意味が分かりません。ましてマッグは河童ですから。

陳舜臣「日本的・中国的」(祥伝社文庫)

 実家に置いてある古い本(実家の本のほとんどがわたしの本・だいぶ処分されたけれど、どんどん持ち込むのであまり減らない)を久しぶりに読んだ。この文庫は平成10年度に出版されたものだが、昭和46~47年頃雑誌に初出した文章を集めたものだ。

 先日も書いたけれど、陳舜臣はやはり中国人なのだ、と強く思った。視点が中国人であることを感じるからだ。しかし中国人から見たらそうなのかどうかは分からない。

 この本の中で、漢字について書かれた文章が特に記憶に残った。

 昔の漢字、中国式に言えば繁体字(台湾や香港はいまだにそうだが)が、日本では簡略化されて現代の日本式の漢字になっている。中国ではさらに簡略化され、もとの意味がほとんど失われた簡体字になっている。だから日本と中国は漢字文化を同じくする、と云っても一目で見て何という漢字なのかお互いに分からないのが実情だ。

 しかし陳舜臣はそれで良いのだ、と云う。なまじ同じ漢字を使うから同じ発想だと勘違いしてきたのが今までだが、実際には全く違う文化習俗発想の国なのだ。同じだと錯覚するから誤解が生まれる。違う、と云うことを認識するところから相手を理解しようとする意識が生ずるのだ、と云う。

 日本と中国は似た国ですらないのだ。中国が隣の国であっても実は全く違う国であることを、いろいろな例を引きながら書かれたこの本で知ることが出来る。

中国に行くことをためらうのは・・・

中国が好きで毎年のように独りで訪ねていたのに二、三年前から行かなくなった。理由は中国の観光地の俗化に嫌気がさしていることがおおきい。歴史のある場所が古いままに置かれずに、新しく手入れをされて金ピカになっていたり、土産物屋だらけになっている。もちろんそういうところにはたくさんの中国人の観光客が押し寄せて大声で話すのでやかましいことこの上ない。歴史を偲ぶよすがもない。

 外国人よりも中国人の観光客のほうが金を落としていくのは海外だけではないようだ。だから土産物店でも中国人のほうに熱心に声をかけるようになってきた。その分日本人は肩身が狭い。年金暮らしの私などなけなしの金をはたいてきているのだから彼らが喜ぶような買い物など期待されても出来ない。

Dsc_0355 水郷の村・烏鎮にて 

 来年の春にはシルクロードを訪ねて新疆ウイグル地区に行きたい、と友人と話しているのだけれど、どうもその気がだんだんしぼんできている。身の危険など何ほどのことがある、と思わないことはないが、無用に危険に近づくのもいかがなものか。

 今年の秋は友人たちとインドネシアのバリ島とボロブドールに行くことが決定した。バリ島には子供の時に見たテレビ番組で少し思い入れがあって、楽しみだ。

2014年8月 9日 (土)

これで好いんだ

 父が死んで丸三年経ったお盆です。明日はお坊さんがお経を上げに来るというので、弟夫婦とそこに独りで泊まりに来ている弟の孫娘が三人でその支度をしています。お供え物や提灯など、その準備は前年の経験がないとなかなか面倒なものです。小学生の孫娘が去年のことを少し覚えて手伝っているのを見て感心しています。それを見ている酔っ払いの私は何の手助けも出来ません。

 母は寝たきりの床からそれをじっと見ていますが、なにを考えているのか分かりません。なにも考えていないのかもしれないし、差配の出来ない自分を哀しんでいるのか。

 私の子供たちはまだ未婚なのでもちろん孫はいません。弟の所には孫が四人います。弟が母の世話をしているので、そこが私にとって実家です。だから弟の孫たちと良く会うので、私のような取っつきの悪い爺さんでもけっこうなついてくれています。

 適当に話に相づちを打てば彼らはどんどん近づいてくれます。半分くらいは言っていることが分かりませんが、何とか意思の疎通が出来ます。無理に分かろうとはしません。そのほうが良いようで、子供は勝手に納得してくれます。

 

 何となくこれで好いんだ、と思ったりします。

Dsc_0032 毎度おなじみ、酔っ払っている私

 

映画「アウトロー」2012年アメリカ

 監督クリストファー・マッカリー、出演トム・クルーズ、ロザムンド・パイク、ロバート・デュバル他。

 アウトローと言えば法の外の人、という意味だが、普通は無法者と訳される。しかしこの映画の場合は、主人公のジャック・リーチャー(トム・クルーズ)が身元を隠し、所在を隠し、免許証も持たずに存在を消して生きている生き方を指している。彼は元々憲兵隊の優秀な捜査官だった。だからきわめて戦闘力が高く、捜査能力も抜群という設定だ。原作のジャック・リーチャーシリーズはアメリカで人気の小説だ。

 ピッツバーグの立体駐車場から、眼下の公園に向けて無差別射撃が行われ、5人が射殺される。やがて駐車場の料金所のコインの指紋から元陸軍のスナイパーだったジェームズ・バーンが容疑者として逮捕される。

 ジェームズ・バーンは「ジャック・リーチャーを呼べ」とのみ捜査官に伝えて黙秘する。しかしジャック・リーチャーを探そうにも手がかりがなく、ジェームズ・バーンは護送車のなかでリンチを受け、意識不明となる。

 しばらくして突然警察署にジャック・リーチャーが現れる。自発的に警察に協力を申し入れ、狙撃の再現をこころみる。

 この事件はほぼジェームズ・バーンの犯行とみて間違いないのだが、どうしても腑に落ちない点が二、三あった。

 ほとんど疑いようのない鉄壁の証拠を前に、殺された五人の身元、殺される理由がないかどうかが調べられていく。五人には全く関係がないことが明らかになる。それなら全くの無差別殺人だったのか。

 被害者の、表面上見えている人物像と異なる裏面が容赦なく暴かれていく。そして犯行の動機がようやく推察されたとき、リーチャーへの襲撃が行われる。何者かが真実を隠蔽しようとしているのだ。

 こういう人物に男はあこがれるところがある。実際にこんな困難な生き方は出来ないけれど、すべてのしがらみを持たずに生きるのはそれこそ自由な生き方そのものだからだ。全く違うけれど、山頭火や放哉にあこがれるのとどこか共通しているかもしれない。

 アウトローというより、アウトサイダーという方が良いような気がするのだが、違うだろうか。

比べるから格差

 韓国のテレビの消費問題追及番組で、韓国の菓子メーカーの商品の国内向けと海外向けに違いのあることが取り上げられていたそうだ。

 韓国内では値段も上がり、内容量も減っているのに、海外向けは安くて量も多いだけではなく、チョコレートなどは海外向けのほうが高級な原料が使われているのだという。

 ネットユーザーからはそのようなメーカーに対して批判の声が数多く寄せられているが、そもそもこれが昔からの韓国のメーカーのやりかたであることを批判する人たちは知らないのだろうか。

 自動車についても電気製品についても韓国製品は国内が割高である。海外で安く売るために国内では利益を確保する、と云うのが今までの韓国メーカーの生き方だった。海外で価格の安いゾーンで拡販してシェアを伸ばしてきたのだ。安いゾーンはボリュームゾーンである。だから韓国経済は急激に伸びた。

 韓国国民は韓国の会社が海外で稼ぐために、お金を余分に支払い続けてきたのだ。

 ウオン高で韓国は海外での利益の確保がますます難しくなり、せっかく確保したシェアも失いかねない。となればますます国内と海外向けとの格差はおおきくなるだろう。

 国内向けと海外向けを並べて選ぶわけではない。比べるから格差なのだ。韓国国民にとっては製品は国内向けしかないのだ。それで満足すれば良いので、ことさらそれを比べて見せて正義面をするマスコミは、韓国メーカーにとっては迷惑な存在だろう。人ごとだから言う。

Dsc_0396 それでしかたないんじゃ・・・ 

映画「ギャング・バスターズ」2012年アメリカ

 監督バリー・バトラス、出演ビリー・ボブ・ソーントン、エヴァ・ロンゴリア、ダニエル・クドモア、クレイン・クロフォード、トラヴィス・フィメル他。

 どうせワルモノ映画を作るならこれくらいめちゃくちゃなキャラクターのほうが痛快でおもしろい。とことんシリアスか、あり得ないほど破滅的かどちらかのほうがいいのだ。この映画、好きだ。

 荒くれ者の三兄弟が、ある女性から依頼を受けて、しばりつけられていた街から飛び出してやりたい放題の暴力を振るい、そのためにばたばたと人が死んでいく。その依頼とは、ある少年を組織のボスのもとから強奪してくることだっただけなのだが。

 組織のボスだけ殺し損なったために、次々に組織の暗殺グループが三兄弟に襲いかかる。これがまたどれもとてつもない連中で、笑える。

 この三兄弟にはそれぞれ独特の個性があって、それが強みなのである。絶対にかなわないような相手に勝ち続けてしまう。誘拐してきた少年というのが、ホーキンス博士と同じような車いすに座ったままで会話も出来ない少年で、足手まといなのだが、三兄弟はその少年にも役割を与えることで少年を勇気づけたりしてほろりとさせるのだ。

 絶対に生き残れるはずがない状況をもちろん生き抜いて脳天気にラストを迎える。久しぶりにすかっとする映画を見た。理屈っぽい人にはお勧めしにくいが、楽しめることは請け合いだ。あまりまじめに考えないように。

2014年8月 8日 (金)

神の猿

Dsc_0036 はい、私が神の猿です

 韓国の学者が西遊記の起源は韓国である、と主張しているという。その根拠として韓国の寺に三蔵法師の持ち帰ったお経の原本があること、むかし花果山ともいわれた山があり、そこには神の猿がいたという伝説があることをあげている。そして中国が西遊記の起源を中国にあることを当然のように主張するのは「恥ずかしくてばかばかしいこと」だと言っているそうだ。

 その学者こそ「恥ずかしくてばかばかしい」とあざけられて然るべきかと思うが、百歩譲って西遊記の原作者が厳密は確定していないことから何を言っても説としては成り立たないことはない。しかし根拠として花果山や神の猿の存在をあげているのはこの学者の知性と理性を疑わざるを得ない。西遊記はお話である。お話の根拠に実際の山を引き合いに出してどうするのだ。

 日本語では猿とひとくくりだけれど、中国の猿には「猿」と「猴」とがあり、違うものだ。ニホンザルのは猿で、孫悟空はテナガザルであり「猴」である。「猴」は長江流域に数多く生息していた。漢詩に良く詠われる哀愁を帯びた猿声というのは「猴」の鳴き声のことだろうと言われている。その「猴」も今はほとんど絶滅状態らしいが。

 しからば朝鮮半島に「猴」はいたのか。まずその検証が先であろう。それにそもそもいまだかつて西遊記が韓国起源などという奇説は唱えられたこともまして聞いたこともない。この学者(?)は病院へ行った方が良いだろう。

 原作者が呉承恩というのが従来の定説ながら確定していないのは、そもそも西遊記の話はいろいろな伝説が融合して語り物として膨らんでいったものが原型で、それを文章化したものであるからだ。だから起源を言うのなら語り物としての時代背景を論じなければならない。韓国のどの時代にそんなものがあったというのか。

 そもそも三蔵法師の持ち帰ったお経の原本が韓国の寺にあるというのが信じられない。まさか漢字で書かれているのではあるまいか。インドから持ち帰ったのであるからサンスクリットで書かれているはずだが。

 この学者は玄奘法師という実在の人物と、三蔵法師という西遊記の物語の人物の区別も分かっていないのかもしれない。まあまともに取り合うに足らない主張ながら、あまりのばかばかしさに多少怒りを覚えてしまった。

映画「レイジング・コップス」2013年アメリカ

 監督ジョルジュ・セラフィーニ、出演ドルフ・ラングレン、ヴィニー・ジョーンズ、ランディ・クートゥア他。

 ドルフ・ラングレンが主演とされているが、なんだかうろうろと動き回るだけの麻薬取締官の印象でしまらない。だいたいこの人、「ロッキー4」で強敵のロシアのボクサー・ドラゴを演じたときがいちばんで、それ以外の映画でいいと思ったことがない。この映画でも彼の役を彼が演じなければならないところが何もない。もっと癖のある俳優のほうがしまりがでたのではないだろうか。

 自分がいちばん賢いと思っている(と云うことは最も愚かだということ)チンピラのフランクとエディは、のし上がるために麻薬を強奪し、それを密売する。それを追う悪徳刑事と裏の組織のボスは次第にフランクたちを追い詰めていく。

 無知ほど怖いものはない。無手勝流でのし上がることに成功しそうに見えたフランクたちの末路と悪徳刑事の結末が描かれている。

 作り方でもう少しおもしろく出来たはずなのに・・・。

映画「楽園の瑕 終極版」2008年香港

 監督ウォン・カーウァイ、出演レスリー・チャン、レオン・カーフェイ、ブリジット・リン、トニー・レオン、ジャッキー・チュン他。

 元々は1994年公開の「楽園の瑕」を未使用フィルムも合わせて再編集したものだそうだ。ストーリーは分かりにくい。だから一部の熱烈なファンを獲得したけれど、おもしろくない、と云うひとも多い。正直なところ、私もあまりおもしろくなかった。なんだか実験映画みたいだ。

 登場人物が次々にかわってその背景が断片的に語られていくのだが、理解する前に次にかわってしまう。それぞれが重なって関係しているようでもあり、別々のようでもあり、なのだ。

 映像は心象風景的で、ある意味で芸術的なのだが、見方によれば監督の独りよがりにも見える。そうそうたる俳優が出演しているのでそれを見るのは楽しいかもしれない。ベネチア映画祭で撮影賞を取ったそうだが、映像が評価された、と云うことか。 

映画「殺しのナンバー」2013年アメリカ

 監督カスパー・バーフィールド、出演ジョン・キューザック、マリン・アッカーマン他。

 「殺しのナンバー」といえば、「007は殺しの番号」という映画があった。これはのちに「ドクター・ノオ」に題名を変更している。007ことジェームス・ボンドが殺しのライセンスを持っていることからつけられた題名だ。

 こちらの「殺しのナンバー」はCIAの暗殺を仕事としていたエマーソン(ジョン・キューザック)が主人公だが、彼が殺しのライセンスを持っていたというわけではなく(技術は持っているが)、意味も違う。文字通りの「殺しの番号」だと云うことが映画を見ていると分かる。

 暗殺の際の目撃者を殺さなければならないのに殺すことが出来ず、左遷されることになったエマーソンは、イギリスの田舎の、閉鎖された軍事基地のなかの暗号所に配属される。実はここはCIAの世界に散らばるエージェントたちへの指令を行う大事な場所だ。暗号を送る女性とそれを守り、同時に監視する男の組み合わせが二組、二交代で勤務している。

 話はシンプルで、この暗号所が襲われ、あろうことか偽の指令が発信されてしまうというものだ。

 エマーソンと相棒の女性キャサリンが交代のために到着したところ銃撃を受け、かろうじて暗号所内に逃げ込む。暗号所内にも敵が潜んでいる。エマーソンと敵との攻防が中盤までの見所で、後半では何が起きているのか、敵の目的は何かを解明していく。すでに偽の指令が発信されているのだ。これが実行されるとCIAが致命的な打撃を受けることになる。しかし訂正の指令を出すための暗号コードとパスワードが分からない。

 外部との連絡が取れず、外には敵が待ち構えている。絶体絶命のなかをどう切り抜け、対処するのか。閉じられた空間のなかで緊迫した事態が続く。やがて外部からの連絡が入り・・・。

 上映時間89分というのがちょうど良い長さであった。ひねりがこりすぎていないのがいい。

日本も同じ

 中国メディアが日本の地方議員の政治活動費の不正請求の暴露が相次いでいるのを報じ、日本も中国と同様腐敗が蔓延していると伝えた。

 不正額の大小で軽重を言っても仕方がないが、その不正の金額のレベルはあまりにも違う。もと三重県知事の北川氏が言った「不正が簡単にできるシステムの問題」というのが日本の場合の問題点の適切な指摘だろう。不正がやりにくくするように変更すれば改善は容易だ。しかし中国の場合はシステムを改善するには今の共産党独裁というシステムを変えなければならない。特権階級に権限が集中する仕組みこそが原因だからだ。

 日本の地方議員もこんなことを海外で取り上げて報じられるようなことは恥だと感じて欲しいものだ。

 あの兵庫県の号泣議員は「頑張ってようやく県会議員になったのだから多少の金を自分のものにして何が悪い、些細なことだ」と正直に言っていた。そんな気持ちの議員がたくさんいるのだろう。何をするために議員になったのだろう。

2014年8月 7日 (木)

ピーナッツ

 ピーナッツが大好きで、手元にあればいくらでも食べてしまう。ピーナッツの主な生産地、千葉県生まれだから、子供のときから、土つきの殻から生のピーナッツを取り出し、煎って食べるのがおやつだった。

 今千葉県産のピーナッツがとても高いのがつらい。だから中国産のピーナッツを食べる。値段は三分の一くらいだ。たくさん買い置きして映画を見ながらポリポリ食べている。

 中国の食品の危険性が盛んに報道されている。はっ、と気がついたら食べているピーナッツは中国産ではないか。それも毎日のように普通の人よりたくさん食べ続けている。そういえばこの頃じんましんのような症状が時々現れる。薬のせいだと思っていたけれど、もしかしてピーナッツ・・・。

 残念だけれど中国産のピーナッツを食べるのを止めることにした。手遅れでなければよいが。

熱くなる

 老母の介護手伝いのために本日千葉県の実家に帰ってきた。一週間弱滞在する予定。老母は食がいっそう細くなって流動食しか摂れなくなったので、少し痩せたけれども元気である。相変わらず(多分ずっと)口が利けないのでこちらが一方的に話しかけるだけだ。

 実家(弟の家)では朝日新聞を取っているので、気になっていた従軍慰安婦に関する六日と七日の記事を読むことが出来た。強制連行の証言の記事が、裏付けが摂れなかったので虚偽の証言であり、誤報である、と明記されている。

 しかし証言にあった済州島で、朝日新聞が裏付けをとったのは今年のことだ。これまで長い間この証言はおかしいといわれ続けながら今頃!と多くの人が思うことだろう。

 私の視点のせいかもしれないけれど、たくさん書かれている記事は言い訳がましく、この誤報の責任について謝罪らしいものが見当たらないのはいつも通りの朝日新聞らしい。論調としては、そもそも慰安婦という存在そのものが悪であるから、この証言の真偽は些細な問題なのだ、と云うものだ(どこやらの県議の言い訳によく似ている)。コメントを求められている有識者らしき人の多くが同様の論調である。

 あのすさまじいバッシングを受けた橋本大阪市長も、慰安婦は悪である、と明確に言っていた。そして軍隊のあるところに慰安婦が存在することは哀しい現実であり、問題になっている日本が設けた慰安所の慰安婦もそのひとつだ、それを日本だけが極悪であると言いつのるのは不公平だ、と云っていたに過ぎない。

 そもそも戦争が悪であり、日中戦争や太平洋戦争は日本により大きな責任があることを日本が否定したことはない。中国や韓国が極悪右翼と名指しする安倍晋三首相だってそれを否定などしないはずだ。

 朝鮮を併合して植民地化したことは日本の大きな過ちであった。朝鮮半島の人々に非難されるのは当然であり、それを前提として、しかし歴史的な必然性もなにがしかはある、と云うのが本当のところだろう(今は言わない方が良いけれど)。そして朝鮮を植民地化して日本は経済的な面も含めて何一ついいことがなかっただけではなく、その罪をいまだに負い続けている。

 朝日新聞のこの記事を読んでいて論点のすり替えなどが多くて結局何を言おうとしているのか良く分からず、頭が熱くなった。ましてあらたにインドネシアでの慰安婦問題には裏付けのある強制連行の事実がある、との記述がある。火を消そうとして火をつけて回るようなこの朝日新聞の姿勢にますます頭が熱くなる。この記事の件は今後大きな波紋を呼ぶだろう。アメリカがどのように受け取るのか知りたいものだ。

2014年8月 6日 (水)

誤報

 昨晩BSフジのプライムニュースを見ていたら、「朝日新聞が従軍慰安婦の報道の検証を行ったら、一部裏付けがとれないものがあったことが判明し、誤報があったと認めざるを得ない」という記事を掲載したことが伝えられていた。その記事は本日も続きが掲載されるそうだ。

 記事を見ていないので断定的なことは言えないが、裏付けをとれなかったのは「わたしは従軍慰安婦にするために朝鮮の婦女子を強制連行した」と告白した人物の証言である。彼の証言にもとづき、済州島で確認したら全く裏付けがとれなかったそうだ。

Dsc_0094済州島にて

 この人物の証言については疑わしいと言われ続けてきた。そしてその証言にもとづいた検証を多くの人が行って来たが、全く裏付けがとれなかったことはすでに再三報じられてきたが、朝日新聞はそれを無視してきた。

 最初に従軍慰安婦の問題を取り上げたのは韓国ではなく、朝日新聞である。そしてその報道の根拠の多くをこの人物の証言においている。つまり再三言われ続けていたように日本軍による従軍慰安婦の強制徴用はこの証言以外には今のところ証明されていないのだ。

 その裏付けを、記事を掲載してから17年も経って「裏付けがとれないので誤報だった」という記事を掲載したのは遅きに失する。批判を浴びたらすぐ確認作業が出来ることを怠っていた(または意図的に確認をしなかった)ことの責任は重い。しかしながら、責任が重く、遅きに失したからこそ、それを訂正するには大きな勇気が必要であったことは想像できる。そのことについては敬意を表する。

 本日の記事と併せてどのような朝日新聞としての従軍慰安婦報道の総括を行うのか注目に値する。

 それにつけてもどこのテレビでも、この朝日新聞の記事について大きく報道していないことがいささか気になる。あまりのことにあっけにとられてコメントの出しようがないのかも知れない。もし韓国ならたいへんな騒ぎになるのに日本では「あっ、そう」で終わり、ということにはならないことを祈る。

 国務省の関係者が、もと従軍慰安婦だったという韓国女性二人を極秘に招請し、面会したと報道された。そのあとホワイトハウス関係者も面会したという。この招請は韓国政府にも知らされずに行われたそうだ。

 韓国はいよいよアメリカが本格的に従軍慰安婦問題に肩入れしてくれる、と喜んでいることだろう。

 しかし、わたしは今回の朝日新聞の自ら誤報を認めた件と、この招請が関係しているような気がする。韓国の異常なエスカレートぶりがアメリカには不快であり、虚報にもとづく軽挙妄動である、と明らかにしようという意図があるのではないか。二人のもと従軍慰安婦はアメリカの尋問のプロにその証言の再聴取と分析を行われたのではないか。

 アメリカは朴槿恵の中国寄りの政策が日米韓の結束を大きく損ない、極東平和を損ない、アメリカの利益を損なうことにつながることを問題だと考えて手を打ったのではないか。

 朝日新聞の突然の行動には裏があるのではないか、何か大きな力が働いたのではないか、と愚考する。

品位がない

 雲南省の地震被害は建物の耐震強度が極めて低いために大きな被害になった。雲南省は地震の多いところで、地震が起きれば倒壊するのが分かっていても耐震性の建物を建てるという対策をとらずにいる。また同じようなことが起こるだろう。

 ところでこのたびの災害に対して各国は習近平主席に対し、お見舞いと哀悼のメッセージを伝え、必要な援助についての申し入れを行っている。関係が悪い国でもこのようなときは別である。お互い様だからだ。安倍首相も国を代表していち早く見舞いと哀悼、援助の申し入れをしたのはもちろんだ。これに対して中国政府は必要であれば連絡する、と答えたことが先日報道されている。

 中国国営テレビは各国の首脳からのメッセージを次々に紹介した。ところが安倍首相のメッセージは・・・なかったそうだ。報道されなければそもそもメッセージはなかった、と中国国民は受け取る。それを意図しての無視、であろう。

 こう云う失礼を平然と行うというのは中国政府、つまり習近平の品位の低さの表れとしか思えない。彼等の正義感から見れば安倍首相は悪人であり、悪人に敬意を払う必要はない、というのが無視した理由なのだろうと拝察する。こう云う思考方法では国際社会では敬意を払われることはない、ということを識ることが出来ない。不幸なことである。

 日本ならば・・・どれほど敵対する国からのメッセージであろうが、敬意をもってそれに対しての謝意を表するであろうと確信する。

目は醒めるのだけれど・・・

 目は醒めるのだけれど起き上がることが出来ない。立ち上がるまでしばらくかかる。目が醒めたら全開だった自分がなんたることか。

 医者から血圧を日常的に測るように言われていたが、病院に行ったときだけ測っていた。老母の看護のとき、老母が使っている、手首で測る血圧計でついでに自分も測って、ふだんの血圧の目安としていたのだけれど、自分用のものを買うことにした。

 肘の上で測る、記録が残るしっかりしたものを買った。早速測ってみたらなんとなんと、115-69と出た。高血圧の薬を定常的に飲んでいる。過去少なくともこの20年間、上は130を切ったことはなく、下も80を切ったことがないのに・・・。

 キリンの血圧は人間よりずっと高い。あんな高いところに頭があれば高血圧にしなければ届かないからだ。わたしは身長183センチ、しかも首がやや長い。つまり心臓から頭へ血を送るためには普通の人より高い圧力で送らなければならないから、やや高血圧くらいが正常だ、と思っている。

Dsc_0025

 医師によれば、夏は血圧は低めになるそうだ。それにしてもわたしにとっては低すぎる。低血圧だと朝は起きづらいという(俗説だとも言う)から、それで朝起きられないのだろうか。

 いろいろな方のブログを拝見するのが朝の楽しみだ。女性の方はセンスのあるものが多くて感心する。とても上手な写真や、センスのある写真、ペットの楽しい写真なども見ていて楽しい。ペットは猫のものが多いのはわたしが猫好きだからだ。

Dsc_0015あぢい!

 クマゼミの写真を何人かの人のブログで拝見した。クマゼミは用心深くてなかなか姿を見るのが難しい。良く撮ったなあ、と感心していた。あらためて近所で啼き声を頼りに樹を見上げていたら・・・あっ、いる。

 暑さのせいか、数が増えて不用心になったせいか、わたしでも容易にクマゼミの姿が見つけられるようになっていた。

2014年8月 5日 (火)

映画「漆黒の闇で、パリに踊れ」2012年フランス

 監督フィリップ・ルフェーブル、出演ロシュディ・ゼム、サラ・フォレスティエ、サミュエル・ル・ビアン他。

 パリ犯罪取締班リーダー・シモン・ワイス警部(ロシュディ・ゼム)のある晩の出来事を追う。彼は毎晩同行の刑事兼運転手を替える。今晩の運転手は若い女性警察官ローレンス(サラ・フォレスティエ)だ。

 パリの夜の街をひたすら車は疾走し、次々に店を訪ねていく。それは合法すれすれだったり、明らかに非合法の店だ。やがてワイス警部の日頃の仕事ぶり、暗黒街との微妙な癒着、顔役のガルシアとの親友関係などが見えてくる。

 しかしとにかくよく働く。こんなに一晩にたくさん動き回る警察官はいないだろう。しかも目配りは行き届き、娼婦もゲイたちにも人気がある。清濁併せ呑む、というけれど、こうでなければ情報など入らないだろう。

 そんな最中にガルシアがギャングのリンドネルの罠に嵌められようとしていることが分かる。ワイスはリンドネルを脅すのだが、そのときにはすでにワイスもガルシアごと陥れかけていることが明らかになる。

 次々に手を打っていくワイス。手を尽くした頃夜が明け、ある男が死体で発見される。そしてワイスは内務調査官に逮捕され拘留される。

 はたしてワイスはどうなるのか?

 尋問を待つワイスの前に現れる意外な人物・・・。

 アクションらしい場面はわずかしかない。とにかくパリの表通りから裏通りからやたらに走り回り、店を回るそのエネルギーに敬服する。これこそノンストップ映画だ。

 ご苦労様でした。

映画「ジャッキー・コーガン」2012年アメリカ

 監督アンドリュー・ドミニク、出演ブラッド・ピット、スクート・マクネイリー、ベン・メンデルソーン、レイ・リオッタ、サム・シェパード他。

 登場人物が饒舌に会話する。意味があるとかないとか関係なしに止めどなくしゃべる。だから殺し屋のジャッキー・コーガン(ブラッド・ピット)が相手の無駄口にひたすら耐えて沈黙を守り、じっと相手の目を見るときの凄味が際立つ。

 そそのかされて、チンピラ二人が賭場荒らしの強盗を実行する。その犯人を見つけ出し、処理することを依頼されたディロン(サム・シェパード)は病気のためにその仕事をジャッキー・コーガンに託す。

 賭場の持ち主であるマーキー(レイ・リオッタ)が、以前自分の賭場で狂言強盗により大金を手にしたことが知られており、マーキーが疑われている。しかしジャッキーはマーキーが犯人ではないことを確信する。彼は着実に実行犯とそれをそそのかした黒幕を見つけ出し追い詰めていく。

 その黒幕であるジョニーと旧知であるため、ジャッキーはジョニーの処分だけニューヨークの殺し屋のミッキーを呼び寄せて手伝わせることにするのだが、このミッキーがどうしようもない男で、ミッキーとジャッキーのやりとりが延々と続く。

 ジャッキーは事件の処理を依頼した組織の連絡役のフランクにマーキーの処分も提案するのだが、フランクはなぜそんな提案をするのか理解できない。珍しくジャッキー・コーガンはその提案の理由を丁寧に説明する。こうして標的が確定すると、次々に処理(殺害)が行われる。

 全てが終わったあと、フランクの支払額とジャッキーの要求額が違うことが分かる。フランクの「ディロンに聞け」という言葉に「ディロンは今朝死んだ」とジャッキーが答えるところで突然映画は終了する(エンドクレジットのあと、フランクの死体が港にでも浮いているかと思ったがそんなこともなかった)。

 タランティーノの映画もストーリーと関係のない会話にあふれているものが多い。それが苦手な人にはこの映画は面白くないかも知れない。あまりアクションシーンは多くない。殺し屋の凄味が表面上はあまり分からない。だからかえってこの映画は素晴らしい、と評価する人もいるだろう。

 わたしは・・・ちょっと微妙だ。駄作では決してない。

佐世保の事件

 高一の女子が同級生を殺害した事件が繰り返しテレビで取り上げられている。そこでの報道の仕方やコメントのパターンはだいたいいつも通りに見える。親や教師、そして児童相談所や精神科の医師の対応は適切だったか、十分だったか、と云う視点で、その責任を問うものだ。

 いつも思うのは、マスコミの加害者への手厚い配慮だ。事件を起こしたのは同級生を殺した少女であり、その責任はその少女にある。その少女に情状の余地として、周りの適切な対応があったかどうかが論じられるなら分かるが、根本に言及せずにそれをしているから、世の中はあたかも加害少女の親や児童相談所、医師に責任があるかのごとき報道になってしまう。こうした他罰的な視点が犯罪を増やすことにつながっていないか。

 少女の父親を知る人、というのが「父親が再婚して住んでいるのは娘と暮らせないような小さな家ではなく、豪邸だ」とコメントしていた。娘と暮らせるのに暮らさないのは娘から逃げたので、父親も悪い、といっているように聞く人もいるだろう。わたしにはただ、この人が「豪邸」に嫉妬しているだけに聞こえたけれど。

 父親は今年初めに、娘に寝込みを金属バットで襲われて大けがをしている。父親だから娘に情がないなどということはないはずで(現に娘を心配して夫婦で再三病院を訪れ、児童相談所にも相談しているというではないか)、情がありながら身の危険も感じ、おそれてもいた、ということだろう。

 マスコミのコメントはほとんど娘が一人暮らしを余儀なくされたことが事件の原因であるかのような報道だ。それならもしこの娘が自分の娘だとして一緒に暮らせるかどうか、真剣に考えてみたことがあるのか。

 この少女が不幸な少女であることをわたしも否定しない。何が不幸か。優れた智能を持ちながら正常な精神を持ち合わせなかったというそのことにおいてだ。そして精神の病に対してこの日本ではそれを受け入れるシステムが不十分であったことに対して、だ。父親が出したコメントに、入院を相談しても病院側から「個室を提供することは出来ない。他の病院もそうだろう」と言われた、とある。

 この父親の発表した、事件までの経緯を記した文章をマスコミはこぞって、なぜ今頃こんなことを発表するのだ、と懐疑的な受け取り方をしている。つまり、父親の責任逃れ、という見方なのだ。

 少女の起こした事件の責任は父親の対応にある、といいたいらしい。

 被害者の両親と違う意味で、いま加害者の父親は地獄を見ているだろう。その何割かはマスコミと世間の目による。

初期化する

 録りためた映画が山のようにある。思い立って大まかにアイウエオ順に整理したことがある。しばらくしたら新しく録ったものがたちまちたまってしまい、また収拾がつかなくなった。

 以前はLD、DVDソフトをずいぶん購入した。LDはDVDに落とせたので全てDVDのコレクションとして整理してあり、旅先にこれを持って行くこともある。

 ブルー・レイ(以下BD)が出現してから、BDのソフトを購入したことはあまりない。ほとんどNHK-BSやWOWOWからの録画にしている。当初はBD-Rだったけれど、いまはBD-REにしている。つまり繰り返し録画ができる。ダビングが遅くなるけれど、我慢出来ないことはない。

 WOWOWからは毎月プログラムとその内容の簡単な紹介が送られてくるので、それをチェックして録画の予定を立てる。BS-NHKのほうは月刊のテレビガイドを購入してチェックする。毎月これらをチェックするのがささやかな楽しみだ。

 本と一緒でいつか見よう、と思っているうちに山のようにたまっている。本ならば並べておくだけでも心が豊かになるけれど、BDの山は残念ながら心が豊かにならない。新しいものが増えないならいつか消化できるけれど、世界中で素敵な映画が次から次に作られ続けているから、全てを見ることができないことに気が付いた。

 昨日は午後からその録りためたBDから優先度の低そうなものを200枚ばかりセレクトして泣き泣き初期化した。夜中過ぎまでかかった。

 おかげでいくらでも録画できる状態となった。だめだこりゃ。

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2014年8月 4日 (月)

映画「ザ・フォース」2011年フランス・ベルギー

 監督フランク・アンリ、出演イザベル・アジャーニ、エリック・カントナ他。

 服役中の大物犯罪者・マカロフ(エリック・カントナ)は妻子のために更生を決意し、模範囚として保釈を待つ身であった。

 その頃黒ずくめの武装強盗団が次々に現金輸送車を襲って現金を強奪する事件が起きていた。犯人の目星はついているのだが、証拠は一切残されておらず、逮捕に至らない。

 そんな中、襲われた現金輸送車のガードマンが殺される。それが大臣の息子であったことから事件解決に対して警察に強い圧力がかかる。特別権限を与えられた検事総長は、事件を追い続けているダミコ警視(イザベル・アジャーニ)にマカロフをおとり捜査に使うことを命じる。

 マカロフはもうすぐ保釈されるというのに危険を冒すつもりがないので断るのだが、警察の仕組んだ罠により、無理矢理脱走犯に仕立てられてしまう。怒りに燃えるマカロフだが、警察に協力するしか生き延びる道がない状態に追い込まれる。

 マカロフは絶体絶命の状況を切り抜け、強盗団への潜入に成功する。だが実情を知らない妻はマカロフに縁切りを通告する。
 
 その物語と並行してダミコの息子の話が進行する。ダミコの夫は軍人で、夫婦共に息子の相手が十分に出来ていないから息子は悪の道に踏み込みかけていた。警察権限で罪をもみ消し続けていたが、それも限度があり、ついに少年院のような施設に入れられることになる。

 この息子と強盗団とがクロスことで物語はラストの悲劇的な結末へと一気になだれ込んでいく。

 マカロフの意外な行動は、実は彼の巧妙な考えのもとに行われるのだが・・・。ラストのダミコの悲痛な叫びが耳に残る。

 先が読めない展開は最後まで興味を失わせない。

陳舜臣「巷談 中国近代英傑列伝」(集英社新書)

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 陳舜臣は大阪外語大学で司馬遼太郎と同窓である。司馬遼太郎ほどではないけれど著作も多く、わたしも少なからず蔵書(といっても半分が文庫だけれど)がある。最近は中国についての深い知識にもとづく随筆を読むのが楽しい。

 この本では近代中国の英傑たちを取り上げて、その思想と行動を語り、それがそのまま中国の近代史となっている。取り上げられているのは、林則徐、左宗棠(さそうとう)、李鴻章、容閎(ようこう)、黄遵憲(黄遵憲)、康有為、劉鉄雲、梁啓超、孫文、魯迅、王国維、袁世凱、斉白石、張大仙で、もちろんそれに関係した多数の人々の名も記されている。アヘン戦争から辛亥革命頃までの歴史を動かした人たちであり、その歴史そのものでもある。

 陳舜臣には平凡社から「中国の歴史」全7巻の通史が出されている。そして同じく平凡社から「中国の歴史 近・現代篇」1~4巻が出されているのだが、こちらは袁世凱の時代までしか書かれておらず、近・現代篇と言いながら現代史がない。何かの事情で止めてしまったらしく思われる。

 陳舜臣を読んでいるとやはり彼は中国人だな、と最近感じるようになった。彼の立脚点は全く変わっていないから、以前感じなかったそのことを感じるのは、最近の中国の日本に対する姿勢の変化がこちらに影響して、こちらの視点が変わったのが分かる。

 そんなことが分かるから、彼は中国の現代史を書かないのかも知れない。

 この本では異民族支配だった清帝国の時代から漢民族の時代への脱皮のもがきが語られている。それぞれの人が自分なりのあるべき中国を夢みたけれど、それは同じようでずいぶん異なるものだった。それはそのまま現代へつながっているのだけれど、現代史への転換は日本との長い戦いの歴史をくぐらなければならなかったことをあらためて思った。


2014年8月 3日 (日)

映画「陰謀の代償 N.Y.コンフィデンシャル」2011年アメリカ

 監督ディート・マンティエル、出演チャニング・テイタム、トレイシー・モーガン、レイ・リオッタ、ジュリエット・ビノシュ、アル・パチーノ他。

 主演のチャニング・テイタムの顔に見覚えがある。いろいろな映画で最近よく見る。そう言えば「第九軍団のワシ」という映画で主演していた。

 三十歳近くなって亡き父と同じく警察官になったジョナサンは、昔父の同僚だったスタンフォード(アル・パチーノ、現在は警察委員長)に目をかけられ、しかも次期の時期警察委員長と目されるマサーズ警部の部下の新人刑事として働いていた。

 妻はそれまでの仕事を辞めて、急に刑事になったジョナサンが良く理解できない。そんなジョナサンのもとに彼の子供時代住んでいた集合住宅での殺人事件に関しての脅迫状が届く。

 この殺人事件で二人の男が殺害されたのだが、実はジョナサンはその殺人に関わっていた。そのことは親友のヴィニーしかしらないはずで、二人の絶対的な秘密のはずだった。そのヴィニーは家庭の事情で精神的に追い詰められ、精神の病で病院に収監されていた。

 このかこの事件の情報が新聞社にももたらされる。警察としてはこの未解決事件を再び陽の下にさらしたくない理由があった。警部の指示でこの事件を取り上げている女性編集記者(ジュリエット・ビノシュ)のもとを訪ねたジョナサンはこの事件をこれ以上追及しないように申し入れるのだが、それがかえって記者の興味を引くことになってしまう。

 映画の進行で語られる事実と、その間にジョナサンがどんな行動をしたのか、が微妙にずれてくる。だからジョナサンについて見ている側もジョナサンに疑惑を感じだす。そんななか、再びその女性記者を訪ねたジョナサンが彼女と言い争いをして分かれた直後、彼女は殺害される。

 ジョナサンの知らないところで何かが動いている。すでに病院を退院しているヴィニーのもとを訪ねたジョナサンは、情報をリークしたのはヴィニーしかいないと確信して彼を激しくなじる。

 この全ての背景となった過去の事件は断片的に語られるのだが、最後にその全貌が明らかにされ、それがなぜいまになって再び暴かれ、それを警察の誰が隠蔽しようとするのか。そしてついに悲劇が起こる。

 脚本がよく出来ているので、事件としてはそれほど劇的ではないのにずいぶんサスペンフルで、謎が謎を呼ぶ。ラストは想像通りになるのだが(こうしかならないのは途中で分かってくる)それが悲痛だ。

谷沢永一「司馬遼太郎の贈り物」(PHP文庫)

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 いくらでも本が読める時期が過ぎると、突然全く本を読む気がしなくなる。無理して読んでも集中できない。この二週間ばかりそうだった。そういうことがこのごろ定期的に起こる。

 二、三日前からようやくそれを脱してまた本を読み始めた。

 しばらく前に佐高信の司馬史観批判の本を読んだ。藤沢周平と司馬遼太郎を比較しながら、藤沢周平が善で司馬遼太郎が悪であるような書き方のそのお粗末ぶりにうんざりしたけれど、この谷沢永一など、佐高信から見れば右翼の極悪人にしか見えないだろう。わたしから見れば佐高信は害の多い観念主義者にしか見えないが。

 「司馬遼太郎の贈り物」はたしか五分冊くらいになっているはずだが、わたしは第二巻までの二冊しか持っていない。司馬遼太郎の著作の詳細な書評になっていて、著作が多いだけに書評も大部になった。

 「紙つぶて」という書評コラムで有名な谷沢永一は超辛口の書評家として知られる。書評家としてのその博覧強記ぶりは向井敏と双璧だ。「紙つぶて」をまとめたものが文藝春秋から単行本と文庫として出版されている。書評がこれほど面白いものだというのを教えてくれる本だ。

 蒐書家としても知られていて阪神淡路大震災のときには書庫の本が崩れて後始末に苦労したことを文章にしている。そのあまりの書籍量の多さには絶句する。

 その谷沢永一がライフワークとして司馬遼太郎の著作の全ての書評を行ったものがこの本だ。その引用の適確さ、読みどころの勘どころの指摘はこの人にしか出来ない。これほど親切な書評はこの人には珍しい。よほど司馬遼太郎に惚れ込んでいたのだろう。

 あまり惚れ込みすぎてしかも丁寧だから、司馬遼太郎の本から自力で読み取ることを妨げることにつながりかねない。当然のことだが原作を読まずにこの書評を読むのは興を削ぐから止めた方が良い。

映画「ヘッドハンター」2011年ノルウエー・ドイツ

 監督モルテン・ティルドゥム、出演アクセル・ヘニー、ニコライ・コスター=ワルドー他。

 あの「ミレニアム」三部作(北欧で作られた映画で、これがハリウッドでリメイクされて「ドラゴン・タトゥーの女」になった)のスタッフの作った映画だとあとで知った。無駄の無い緊張感のあるいい映画だ。ラストの台詞がとくにしゃれている。

 「身長168センチの男」と独白するロジャーはノルウエー有数のヘッドハンターで、モダンな邸宅と、画廊を営む長身で美貌の妻を持つ。そのロジャーには裏の顔が合った。

 彼はヘッドハンティングの際に知り合った人物から聞き出した情報で、相手の所有する絵画をよく出来た贋作とすり替えて盗み出す。ここで得た金で彼は豪華な生活を送っていたのだ。

 しかしなかなか大きな金額の絵画に出会わないでいた彼は、妻の画廊でクラスというアメリカの元軍人で情報機器メーカーの元重役と知り合う。このクラスが所有する絵がとても高価なものであることを知り、これを盗み出そうと考える。クラスをノルウエーの会社にヘッドハンティングすると称して情報を聞き出すのだが、やがてこのクラスという男が極めて危険な男であることが明らかになる。

 周到な準備のあとクラスの家へ忍び込んだロジャーは絵を盗み出すのに成功するのだが、そこである秘密を知ってしまう。

 このあとクロスの執拗な追跡にロジャーは逃げ惑うことになる。次々に逃亡先で人が殺される。全ての痕跡を消したはずなのに、なぜかたちまちクロスに見つかってしまう。これは怖い。 

 事態は次第に残酷な様相を帯び始めるが、ほとんど絶望的な状況の中でロジャーは次第に恐ろしい真相を知ることになる。ロジャーは逃げおおせるのか。

 最初はスマートに、やがて次第に残虐に、そして恐怖へとエスカレートしていく。面白い。だから北欧の映画は好きだ。

入院した?

 周永康の後ろ盾だった江沢民が入院したらしい。その背景を自己流(といってもいろいろな本や報道から勝手に推測しただけだが)にまとめてみた。

 習近平は中国の汚職体質を是正する、という名目で権力闘争を進めているが、周永康まで手を伸ばすのは無理ではないかと云われていた。そのためには長老として隠然たる力のある江沢民や胡錦濤の了解を得る必要があるからだ。しかし、もともと胡錦濤は江沢民に制約されてほとんどその実権を行使できず、最後の数年になってようやくそのたがが外れたと見えた矢先に反撃に遭って不完全燃焼に終わった(野田首相の尖閣問題国有化の不手際が利用された面もある。あれによる胡錦濤の面子の失墜は、中国の経済を成長させた成果を帳消しにしてしまった。そのトラウマが中国の権力者に日本との関係修復を不可能にさせている)。だから胡錦濤が習近平による周永康への攻撃に反対するはずがない。

 胡錦濤は上海閥の巨頭である江沢民の鉄道閥を解体した。そして薄煕来を処分した。薄煕来のバックは周永康であり、最後まで薄煕来を弁護し続けていた。習近平は軍事閥に手を入れた。そして石油や天然ガスなどのエネルギー閥に手を入れた。これらは全て江沢民につながっている。

 江沢民はつぎつぎに周囲を切り崩されて、もっとも大きな金づるであるエネルギー閥を、つまり周永康を守ることが出来なくなった。江沢民はうちひしがれているだろう。保身の意味でも入院したというのは理解できる。白旗をあげたと言うことだろう。習近平は江沢民に手をつけることはないだろう。

 もともと習近平の後ろ盾は江沢民だ。江沢民のおかげで国家主席になれた。江沢民は自分も毛沢東や鄧小平の晩年のようになることを夢想したのだろう。しかし江沢民の手は汚れすぎている。もともと江沢民には毛沢東や鄧小平のようなカリスマ性がない。それを金で代用した。そして国民の不満を逸らすために中国の反日をことさらに増幅した。それらのツケが中国にどれほどの実害を残したのか。

 習近平は江沢民の弊害を取り除かなければ中国が持たないことを国家主席になって痛感したのだろう。しかし間に合うのだろうか。

2014年8月 2日 (土)

長良川(4)

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郡上八幡の手前を右手に曲がり、山道を登ると大滝鍾乳洞がある。洞窟が好きなので東海地区の鍾乳洞の有名なものはたいてい入っている。この大滝鍾乳洞は五回目くらいだ。

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駐車場から登りだけ、この木製のケーブルカーに乗る。

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鍾乳洞の説明。中はやや狭くて天井も低い。わたしは六尺の大男なので、ほとんど屈み続けなければならない。しかもしずくが多いのでカメラが濡れないように注意が必要。

当然のことに中はクーラーが効きすぎたような15℃くらいの気温なので汗をかいた身体には心地がいい。

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大滝鍾乳洞というように、中には滝がある。春だと水量も多いが夏なのでだいぶ少ない。

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滝壺に亀の置物が・・・。この右手の壁面に彫り物がある。

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彫り物はかなり大きい。

 

滝の辺りが一番高いところで、あとは洞窟の中の階段と坂道をひたすら下る。思ったより登っている。外は38℃の表示。眼鏡が曇って見えない。

 

今回は同行者が数人いたからいいが、春先など誰もいないときがある。たった一人で洞窟内を上がったり下りたりしていると何となく不気味な気分になったりする(そのどきどきするのもまたいいのだ)。

 

外の売店で食べたソフトクリームがうまかった。このあと日帰り温泉に立ち寄り、汗を流して帰宅。 

これにて長良川小旅行はおしまい。

長良川(3)

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国道156号線を北上している。長良川沿いの景色のいい道であり、長良川鉄道と並んで走る道である。前を通るときに「釜が滝」という標識がいつも気になっていた。

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初めて滝をめざして山路を進むと、滝への登り口に定番の流しそうめんの店があった。夏休みだから家族ずれが沢山いた。

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子供が川で遊んでいる。このくらいなら危なくない。

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渓流沿いに坂道を登る。次第に登りがきつくなる。

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行者の滝・・・のはずだが、夏で水量がほとんどなく、しずくが流れているだけ。

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渓流沿いにさらに登る。涼しい風が吹き渡る。

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路面が濡れていて滑りやすいところも・・・。

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ようやく滝の入り口。

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やっと滝らしい滝を見ることができた。右手に回り込みたいのだが岩だらけで行くことが出来ない。

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少し道を戻り、急な鉄製の階段をさらに登る。滝を上から見られるようだ。汗が噴き出す。

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滝の上から。やぶだらけでうまく覗けない。あの滝は三段に落ちているようだ。上に上がってくる人は誰もいない。

さらに上に登れるらしいが息が続かない。なにせ暑い。ここでひきかえした。日頃の運動不足を実感。

流しそうめんを食べ、次の目的地、大滝鍾乳洞へ向かう。

2014年8月 1日 (金)

長良川(2)

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洲原神社本殿。中にはもちろん入れない。

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あれは山門でなくて楼門というのか。


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神楽殿から本殿をのぞく。

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神楽殿。内側に絵馬や扁額がいくつも懸かっているが、古くてほとんど読み取れないものもある。

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一心流というのは剣の流派であろう。木刀も奉納されている。烏天狗と天狗の面が懸けられている。

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明治何年なのか読み取れない。

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これは明治三十年。台湾守備のために派遣されたらしい。日清戦争が終わったあとのことだ。

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本殿前向かって左側の狛犬と石灯籠。いい顔をしている。

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ここが仏法僧の繁殖地だったことを初めて知った。

おまけ

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神社の近くのおとり鮎を売っている店の前で。4匹千円ならここで買って帰った方がスーパーで買うより安い。

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覗きこんだら売れ残りだろうか、鮎が1匹だけ泳いでいた。

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