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2014年9月

2014年9月30日 (火)

ボロブドール(1)

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貴族の家だというお屋敷でランチを食べた後、ボロブドールを訪ねた。

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全くの逆光の中に威容が現れる。ボロブドールを実際に見ることができるとは思っていなかったから感激だ。

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ボロブドールは仏教の遺蹟。上空からみるとこの図のようになっている。これそのものが曼荼羅世界なのだ。

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こうして階段を上る。

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ふり返ればここへの参道が美しい。

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階段は急でしかも段差が大きい。上へ行くほどそうだ。

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仏像の頭がないものがいくつもある。これらはインドネシアを植民地にしていたオランダ人が持ち去った。これを見ると西洋人というのは実は野蛮人だと言うことがよく分かる。一部はタイにあるそうで今返還交渉中だそうだ。

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猿だろうか。

外面にほどこされた彫刻は全て仏教に関連する話をモチーフにしている。どれも素晴らしくてたくさん写真を撮ったが、それからいくつか抜粋する。

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一部の彫刻に黄色い色が見えるだろう。これはオランダ人が彫刻を見やすくして見栄えを良くするために塗ったものだそうだ。やはり野蛮人だ。出来るだけ取り除き、風化してようやく薄らいできた。

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ちゃんと頭があればこれだけ神々しいのに。

ここからさらに最上部のパゴダのある廻廊まで登る。

母の入院

昨日弟から母が入院した、と連絡があった。呼吸で取り込む酸素の量が減っているのだという。肺の下部に影が見えるらしい。軽い肺炎かも知れない。

点滴と酸素吸入をおこなって様子を見るとのこと。

今すぐどうと言うことはないらしいが、体力が落ちていることから在宅介護では心配な状態なのだろうか。とりあえず最大二週間の入院と言うことなので、ずっと病院にいなければならないわけではない。

思えば母が急激に衰えたのは三年前の父の死後のことだ。(昔の男なら普通そうであったように)父は無口で真面目で正義漢だったが、人付き合いが苦手で出かけるのもあまり好きではなかった。社会生活をしていくのに大事なことは母が常にリードしていた。何かを決めるのも母がすることが多かった。

だから子供の目から見たら、母が父をリードしていたように見えたのだが、意外なことに実は母は父に頼っていたのだといまなら分かる。母の社交的で好奇心旺盛で出かけることが好きな母の性格は、父の庇護のもとだから成り立っていたのだ。

一回り近く(11歳違い)歳が離れていたのだから当然なのかも知れない。

父が死んでから、母は何だかなにもかにもに興味を失ってしまった。生命力が衰えたのが目に見えて分かった。もちろん元気を回復して少しでも生きていて欲しいけれど、どうしたら生きる意欲をもう一度取り戻せるのか分からないのが哀しい。

2014年9月29日 (月)

プランバナンの遺蹟

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一日だけバリ島からジャワ島東部のジョグジャカルタに飛んだ。主な目的はボロブドール遺蹟をみることだが、その前にプランバナンの遺跡などを訪ねた。

ボロブドールは仏教遺跡で、プランバナンはヒンズー教の遺蹟である。前にも書いたが、インドネシアは火山の国で、多くの遺蹟は火山灰に埋もれていて近代になって発掘された。

バリのデンパサール空港からジョグジャカルタまで約1時間半。一日フルで観光するため、朝五時にホテルを出発した。
ジョグジャカルタのほうがバリより暑い。

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プランバナンの遺蹟の前にこの遺蹟に立ち寄った。ここも火山灰の中から掘り出された遺蹟で、なんと20メートルも深く掘ったという。中央の内部に入ることが出来る。人影が見えるのはこの遺跡を発掘したというお年寄りとその家族らしい。

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ご存知リンガとヨニ。屹立しているのがリンガで、下の台がヨニである。むこうのオレンジの服の人がジョグジャカルタでのガイド。

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塔内部の天井。

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入り口の石像。140924_13

とにかく炎天下も塔の内部も暑い。早々に引き上げる。

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プランバナンに到着。待合室にはこの遺蹟最大の塔の内部の写真が展示してあった。シヴァ神を祭ってある塔で、いま修復中のため、ここだけ内部を見ることができないそうだ。

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この塔は写真で見たことがある。

このような塔が大小240余りあったそうだが、最近の大地震で多くが崩壊。いま何とか塔らしい姿をしているのは24のみ。修復の経費は日本の補助金がメインであり、近年日本の補助が減り、修復が進まないそうだ。・・・自分でやれよ!とちょっと思った。

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このがれきが修復の材料。ここにも塔があったと云うことだ。発掘しなければ地震で倒壊することもなかった。

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木陰で涼んでいる家族がいた。夫は後ろにいる。

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塔の入り口周辺。入り口まで急な階段を上らなければならない。汗が噴き出す。

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塔の外部のレリーフ。どこも絵になる。

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かどの石頭。

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塔の内部。右に見える女性が同行の姉様。像が大きいことが分かるであろう。

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顔が四面にある。

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塔上部の廻廊。

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別の塔の内部。神様を乗せる神牛。瘤があるのは雄牛のしるし。

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帰り道。木陰は多少しのぎやすい。

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椰子の実ジュース屋さん。こんなに並んで商売になるのだろうか。

ここからジャコウ珈琲の店に連れて行かれた。

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ジャコウネコ。小さな猫くらいの大きさ。このジャコウネコが珈琲の実を食べて、消化されない種だけが体内で発酵し、排泄される。それを洗うと・・・。

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こんなふうになり、さらにこの種の皮をむいてローストしたのがジャコウ珈琲だ。日本では一杯千円とか二千円するそうだ。

一杯御馳走になったが確かに旨い。でも買わなかった。ごめんなさい。ジャワ式は濾過しないで上澄みを飲む。中国のお茶と一緒だ。

タナロット寺院の夕陽

海の中に船のように浮かぶ岩の上のタナロット寺院、そして沈む夕陽。幻想的な風景を見た。

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完全な逆光。まだ日が沈むには間があるが眺めのいい場所を確保するためには待つしかない。

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反対側の岬にも人が集まりだした。

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こんな波のきつい場所にも。

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こちらも岬の先端に近いところのいい場所を確保して座り込む。

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サーファーが喜びそうな波が打ち寄せる。

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人々の顔も夕陽に染まる。

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こんな感じでわたしも座っている。白人が多いが、ほとんどオーストラリア人。オーストラリアはインドネシアのすぐ隣の国なのだ。このあと人はさらに増えた。陽はなかなか落ちない。

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海が黄金色に染まった。

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ようやく太陽を直視できるほどになった。

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もうすぐ海面につく。

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着水。

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本当に海に沈みだす。

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半分沈む。

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沈みだすと早い。見る間に暗くなる。

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頭の先がかすかに残る。そしてついに日没。

人々が一斉に帰り道につく。海岸の駐車場は我先に帰る車でごった返している。

われわれはこれから残光の中、海辺のレストランで夕食。

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いいでしょう!

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壁面にはヤモリらしき生き物が・・・。明るい色をしていて日本のものとは全く違う。トカゲだろうか。

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食事の席からはこんな景色が見える。

これを眺めながら風に吹かれ、ビンタンビールを飲み、陶然とする。

2014年9月28日 (日)

タマン・アユン寺院

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タマン・アユン寺院はバリ島で二番目に大きな寺だ。ここはお堀がめぐらされている。

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外堀はほとんど水が涸れている。

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橋の欄干の石像。

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鐘楼。刻を告げる。

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この門は閉じている。

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門の上部。どの石像も素晴らしい。

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内堀。内側は門が閉じているから入れない。

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残念ながらつぼみ。

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猫は出入り自由。

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のうのうと寝ている猫。うらやましい。

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塔はストゥーパ(聖人の墓・骨が収められている)でもある。奇数であり、数が多いほどえらい人。屋根は棕櫚の繊維らしい。

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日も傾いてきた。次は夕陽の沈む海のタナロット寺院へ。

ウブド

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バリ中央部ウブドへ行く。ウブドはバリ最大の観光地らしい。王宮の周りに農村が拡がり、海のリゾート地とは違うディープなバリを堪能するのにいいところとされている。だからホームステイや小さなホテルに長期滞在するのが本当なのだが、ただ観光に寄ると俗化した街の中心部しか見ることができない。

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王宮入り口。

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交差点の向こうからみるとこんな感じ。

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正面の門は閉じている。これは合掌している姿を現し、普通の人は入ることが出来ないことを表す。

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門にかかる石像。

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絵物語のレリーフ。

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東南アジアならお馴染みの大型四阿(あずまや)。風が吹き抜けてこの下は涼しい。

石像をいくつか。

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庭と植物。

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見飽きたのでウブドの市場へ向かう。王宮のすぐ近くにある。

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実物のおじさんではなく木彫り。

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通りはこのように車がひしめき、渋滞している。歩き疲れたので休憩することにした。暑くてクラクラする。

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ガイドとの待ち合わせ場所近くの店に入る。

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ここではあえてバリハイビールを飲む。ビンタンビールより少しだけ高い。うーーうまい。

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待合場所にて。

ウブドはただ寄るだけならあまり面白くないところだった。市場もむかしは生鮮品などもあったらしいけれど、いまは土産物屋ばかりだ。野菜や肉や魚がみたかったのに・・・。

棚田

王宮のある観光地、ウブドへ向かう前にバリの棚田を見に行く。

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周りの樹木がなければ日本の棚田と同じだ、などと云えばみもふたもない。

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棚田を見下ろす道沿いにはたくさんの土産物屋や小さなレストランがひしめいている。

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こんな感じ。これは日本の棚田にはない風景だ。

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下から見上げればこんな感じ。

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棚田を見下ろす小さな小屋は食事処になっている。

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バリ島の農村らしい風景には違いないが、駐車場などないから、道路は景色を見るために車が停められていてすれ違うことも出来ず、すごいことになっている。そのほうがインドネシアらしい。

キンタマーニ高原

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バリ島東北部、キンタマーニ高原で昼食。崖上のレストランのオープンテラスの席を確保。風がさわやかで涼しく快適。

左手の山がバトゥール山という活火山。裾野の黒いところは溶岩の流れた跡。右手にバトゥール湖と云うバリ最大の湖があるが、噴火のたびに溶岩で面積が縮小しているという。

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バトゥール山。標高1717メートル。

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霞んでいるけれど、湖と溶岩が分かるだろうか。溶岩の中をトレッキングの道があり、バトゥール山に登ることができる。

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こんな感じの席だった。

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飲むのはもちろんビンタンビール。

2014年9月27日 (土)

象の洞窟

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バリ島のヒンズー教の何かが祭ってあるところはこのような門が必ずある。山が割れている状態だとも言い、合掌の両手を表しているとも言う。そして両脇には必ず石像が建っている。特に申請で観光客が入れないようなところではこの両側の門が閉じている。

バリ島では大きなものを象と言うらしい。だから象の洞窟、というのは象とは関係なく、大きな洞窟という意味だ。

バリ島は(インドネシア全体がそうだが)火山が多く、過去に何度も噴火している。いろいろな旧跡はほとんど火山に埋もれていて、近代になって発掘されたものが多い。ここも厚い火山灰層を発掘したものだという。

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右側の大きな顔の石像の口が象の洞窟。

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洞窟に入るには本当は身を清めなければならない。

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男性用と女性用の沐浴場所に別れている。これは女性用。

パスする。もちろん誰も水を浴びたりしないが、祭礼のときなどは水を浴びるようだ。

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いよいよ中に入る。

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中はほとんどまっ暗。思った以上に狭く、強烈に蒸し暑い。これはリンガとヨニを象徴したもの。雑に言えば、つまり創造と破壊、女性と男性、女性器と男性器と言うことだ。ヒンズーの根源的なシンボルである。これはそこら中のご神体として見ることになる。日本でも同様。

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発掘された者のどこがどうなっているのかわけが分からなくて置かれている石たち。永遠にこのままかも知れない。同様のものはジャワ島でも見た。

インドネシアは地震が多く、石が崩れてその上に火山灰が降って埋もれてしまい、遺蹟になってしまうのだ。

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遺跡の入り口の外には土産物屋が並び、帽子やらジャワ更紗やらいろいろな物を売りつけに来る。気安く相手をすると買う気があると思ってつきまとうが、しかし中国ほどしつこくはない。

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独特の色使いとタッチの絵。そこら中で見かける。巧拙はなはだしいが、嫌いではない。

バリ島・朝の散歩

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ホテルを出て右に折れて少し歩けば海。朝の海を見に行く。

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海へ行く途中にあるレストランの入り口。バリ島にはこんな石像が無数にある。まん中がガネーシャの像。ちょっと寄りたいレストランだったが、入る機会がなかった。

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海岸手前にホリデイインがある。その前の高い樹。朝日を浴びている。ホテルのレストランはプライベートビーチに面している。

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バリの夜明けは少し遅い。まだ砂浜は目覚めたばかり。

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サーファーを波のある沖まで連れて行く船。支度中。海岸にはバイクや車に乗った連中が続々と乗り込んでくる。白人が多い。

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ボードと共にこうやって出かける。船外機つき。

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だんだんにぎやかになっていく。

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遊歩道を歩いて行くと如何にもリゾート地の風景がある。暑いけれども日陰で風があれば気持ちがいい。不思議と蒸し暑くない。

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遊歩道をさらに進む。こんな景色がずっと続く。

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ヒンズーの像はこんな魅力的な像が多い。インドネシアは9割がイスラム教徒だが、バリ島はヒンズー教徒が多いのだ。

ここから海岸をあとにして通りに向かう。

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狭い道を歩いているといろいろな像に出会う。

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こんな道を抜けていく。ジョギング中の入れ墨男がやってきた。おっかない顔をしているのに「モーニン」と挨拶してニッコリ笑った。

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道はいつのまにかリゾートホテルの中を通っていた。庭の大きな樹。

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ホテルの近くのロータリーに建つ石像。これが帰り道の道しるべ。ここを右へ曲がるとすぐホテル。

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ホテルの前庭にある大きなレリーフ。

ただいま。さあ朝飯だ。

インドネシア第一夜

友人たちと関西空港で合流し、ガルーダ航空でバリ島・デンパサール空港へ。生まれて初めて赤道を越えて南半球へ行く。11:00発17:10着。時差が一時間あるので実際の飛行時間は7時間あまり。普通の人より一回り以上大きいので苦行の時間だ。いつものようにワインとビールをせっせと飲む。

到着後ガイド(名前を何度聞いても覚えられなかった)と共にホテルへ。滞在するアストン・クタ・ホテルは空港からも近く、バリで最も早くリゾート地として開けたクタ地区にあり、海も近いし繁華街にも近い。

バリ島は観光地だから観光客に愛想がいいけれど、ホテルの従業員もにこやかで礼儀正しく気持ちがいい。ホテルへ荷物を置いて早速三人で夕食に出かける。

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夕食はアヒル料理がメインだという店に決めた。通りに面したオープンテラスの席に座り、地元のビンタンビールとともにインドネシア料理を食す。写真は食事をした席から見上げた夜景。料理につけて食べる香辛料入りのたれがけっこう辛い(最後の夜には辛く感じなくなったのは慣れたからか)。

最近は料理の写真は撮らない。酒を飲むのと料理を食べるのに集中したいから、というのは言い訳で、たいてい食べ終わってから写真を撮り忘れたことに気が付くのだ。

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帰りに近くのショッピングモールに立ち寄る。モール前の広場には店がいくつも並び、地元の人々が賑やかに会食している。

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屋台風の店々。

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帰り道にはこんな小さな店もある。言葉がしゃべれて現地化すれば、こんな店もいい。

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近くのKマート(そこら中にある)でビールとワイン(これが驚くほど安い)とつまみを買う。もちろん部屋で二次会だ。これが楽しい。毎晩続く。

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ホテルの入り口。前を行く二人が同行の友人たち。手に提げているのはもちろんビールとワインとつまみ。  

つづく

2014年9月26日 (金)

インドネシアに行ってきました

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インドネシアに行ってきた。バリ島のホテルに滞在し、一日だけジョグジャカルタに行きボロブドールなどを見た。

バリはばりばりのリゾート地。極楽であった。暑さは30℃前後と思ったほどではない。風がさわやかで、炎天下に立たなければ快適である。

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こんな可愛いリスが目の前に現れたりする。

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バリ島の南部には大型リゾートホテルが沢山あってホテルから海にすぐ行けるし、このようなプールもあり、砂浜に面したレストランでのんびりカクテルやビールを味わい、ゆっくりと食事を楽しめる。私たちはリゾートホテルではなく、普通のホテルだったけれど、自由にそんなところに出入りできるし、ホテルを通り抜けるのも自由なのだ。

ここは一人で行くところではない。話し相手ととりとめのない話に興じながら極楽気分を味わうところだ。

観光地などもいくつかめぐったので、明日から紹介していきたいと思う。

今日午後、帰ってきてすぐこのブログを書こうと思ったらいつのまにか眠っていた。やはりちょっと疲れたらしい。

2014年9月20日 (土)

一週間ほど休みます

明日から友人とバリ島に行ってきます。関空から出発なので今日から大阪に入ります。晩は大阪の友人たちと会食します。飲み過ぎないようにしなくては。

パソコンを持参しても良いのですが、今回は家でお留守番をさせることにしました。

そういうことで旅の報告は来週の金曜日の晩か土曜日になる予定です。そのあいだしばらく休みますのでお見限りのないようよろしくお願いします。

2014年9月19日 (金)

明治村(9)

明治村の、わたしが特に好きなところを駆け足で見て回ろう。

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北里研究所本館。

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座漁荘(ざぎょそう)。西園寺公望の別邸。

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入り口。

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蝸牛庵・幸田露伴邸。ここで幸田文も露伴から厳しいしつけを受けた。

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蝸牛庵を外から見る。

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ここも明治村のシンボルの一つ、煉瓦通り。

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森鴎外、夏目漱石邸。もちろん同時に住んだことはない。

この石段下から見る景色がもっとも好きなところ。紅葉の時期は特に好い。

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書斎の縁際。

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吾輩は猫である。名前は・・・ない。

紹介したいところはまだたくさんあるけれど、明日から旅に出かけるのでその支度がある。これで明治村をおしまいとする。おつきあいいただきまことにありがとうございました。

明治村(8)


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これも明治村のシンボルの一つ、宇治山田郵便局。実際に手紙を出すことが出来る。

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尾西鉄道蒸気機関車一号。

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ブラジル移民集会所。サンパウロから移築。移民の苦労を慰め合って頑張ったのだろう。

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シアトル日経福音教会。入鹿池に面して建っている。

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第四(だいし)高等学校の武術道場「無声堂」。第四高等学校は旧制金沢高校。

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竹刀の打ち合う音が聞こえるような・・・。その音を流しているから本当に聞こえるのだ。道場の独特な匂いがして懐かしい。

奥が弓道場。

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弓道場。

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こちらに的をおいて射る。

このペースだとあと何回かかって回りきるか分からない。明日の朝には出かけるのであと一、二回で切り上げます。

おまけとして村内の植物などを

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明治村(7)

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明治村村内を北から南下。池に架かる橋の一つに天童眼鏡橋がある。天童は将棋の駒で有名な山形県の天童だ。ここに眼鏡橋があったらしい。ただし工事中で渡れない。

橋の下で、腰の上まで池の水に浸かりながら作業していた。まだ水は冷たくないとはいえ、たいへんだ。

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明治村のシンボルの一つ、呉服(くれは)座。

むかしはどこの街にもこのような小さな劇場があったものだ。わたしの育った街では大きな池の端に「ダイヤモンド」という小屋があった。いま考えると変な名前だ。演芸、落語、ときには映画が掛かった。

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外壁にかかる額。「明治一代女」、「滝の白糸」、「婦(おんな)系図」の絵だ。

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内部。畳敷きの席だ。天井が低く感じられるが、坐るとちょうどいいのだろう。

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これは「勧進帳」、安宅の関の場面か。

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呉服座の右手は風呂屋。いまは実際に足湯には入れる。一回100円。

右手に駄菓子屋がある。

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子供のときに胸をときめかせてのぞいたことを思い出した。親があまり駄菓子屋で買い食いなどをさせてくれなかったから、たまに許しを得たときの手に握りしめた小銭の感触は何とも言えない。何を買おうか迷いに迷ったものだ。

この駄菓子屋が小泉八雲が避暑に滞在したという静岡県の家だそうだ。

明治村(6)

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内閣文庫の外庭を「魔女の宅急便」のキキみたいな黒猫が通り過ぎた。あわてて撮ったのでピンぼけになった。

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その庭に、りっぱな皇居正門石橋飾電燈がある。

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細部が凝っている。いまはここまでのものは作れないのではないだろうか。

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この見事な彫刻を見よ!

内閣文庫の隣に川崎銀行本店の正面がある。

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立派だけれど映画のセットみたいに正面だけで背面は展望台になっている。くたびれるから登らなかった。かなり高いから村内が良く見渡せることだろう。今度登ることにしよう。

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そのさらに奥、どん詰まりに大明寺聖パウロ教会堂がある。和風の教会堂で火の見やぐらみたいだ。中は

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こんなふうになっていて、如何にも庶民的な教会だ。

ここまででほぼ北側を一回りした。これで全体の4分の1ほど。これでもいくつかはしょってみている。ていねいに見たら丸一日たっぷり楽しめるが、足が疲れる。

2014年9月18日 (木)

明治村(5)

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金沢監獄正門。
高台から下りてもう一度帝国ホテルの前へもどる途中にこの煉瓦造りの門がある。絵になる。

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村内を回るバス。村内の交通機関は蒸気機関車と市電とこのバスがある。蒸気機関車と市電は一度乗るたびに500円。しかしこのバスは一度500円で切符を買えば何度乗り降りしても良い。村内は可成り広いので、足の弱い人にはお勧めだ。

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帝国ホテル前に広い芝生の庭があり、ここでコロッケが食べられる。

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こんな感じでくつろげる。

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花のむこうに見える店でコロッケを売っている。うまい。

ここから村内のいちばん北の高台、正門からはいちばん遠いところにある内閣文庫へ向かう。

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内閣文庫遠望。手前は新大橋(むかし隅田川にかかっていたもの)。

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内閣文庫。

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内閣文庫の中でこんな展示があった。シルエットになっているのがわたし。

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展示品の一つ、国会議事堂。こんな展示物が一部屋にたくさん並べられていた。個人の人が作った労作だという。

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廊下。

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階段。なんということもないが、何となく好い。

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内閣文庫前から酒蔵を眺める。大きいでしょう。

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聖ザビエル天主堂を望む。

明治村(4)

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酒蔵の高台のすぐ下に聖ザビエル天主堂が見える。その向こうに見えるのは入鹿池。冬はワカサギが釣れる。江戸時代に作られた人造湖である。

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ちょっとアップ。

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天主堂正面。左奥に見えるのが酒蔵。

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礼拝堂内部。ここはステンドグラスが素晴らしいのだけれど、暗いからなかなかうまく撮れない。

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正面の上部にかかっているのと同じステンドグラスが展示されている。とても大きい。

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これがいまかかっているステンドグラス。

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これはキリスト像だろう。祭壇手前の壁にいる。

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祭壇。

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使徒たち(?)の像。

明治村(3)

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帝国ホテルあたりから正面の高台に大きな建物がいくつか見えるが、ちょっと異様な巨大な木造の建物が、菊の世酒蔵である。真下から見上げるとこのような姿をしている。高台にあるのでいつもは見るのをパスしていたものだ。140917_46k

横から見てもでかい。

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崖側と反対が入り口になっている。

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大きな木樽と入り口のしめ縄、そして杉玉。

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館内には酒造りの道具が並べられている。

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シンプルな酒器も好い。

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入り口から外を見る。

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ちょうど汽車が通った。

2014年9月17日 (水)

明治村(2)

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宮津裁判所の裁判官。

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金沢監獄・監房に入る。

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個室(?)の様子。正面にちらりと見えている桶が排便用。

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トイレ付きのカプセルホテルか。

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中央で各方向を見通せるようになっている。

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吹きさらしでもなく、雑居房での人間関係の苦労もなく、健康ならこんなのもありか。

人間はそもそも見えない監獄に暮らしているようなものだとも言う。

明治村(1)

 先日久しぶりに一時間ほど歩いたらふらふらした。汗のかきかたも何となく変だった。暑いのでクーラーの効いた部屋でごろごろしてばかりいて、身体がなまったのだ。さいわい汗をかいたらだいぶすっきりした。

 今度の日曜からインドネシアに行くのにこんなことでは危ない。ということでせっせと散歩に努めている。今日は明治村まで行って半日歩き回ることにした。今日の天気は曇り。写真を撮るには多少不満だが、歩くには有難い。

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カーナビにまか
せたら、いつもの道よりだいぶ近い。その代わり北入口の駐車場に案内された。ここは蒸気機関車の終点で、帝国ホテルに近い。いつも正門から歩いてこの辺りまで来ると疲れているし飽きてきて少し見るのが雑になる。今回はその辺をていねいに見ることにする。これがSL東京駅であり、園内への北口でもある。

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線路をくぐる道。しゃれた煉瓦造り。以前はこんなふうではなかった。

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陶板の絵が好い。少し傾いた。

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こちらは大丈夫。こんな絵がもっとたくさんある。

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ガードをくぐって坂を下りると煉瓦の陸橋。この上を蒸気機関車が走るのだが、残念ながら見ているときには通らなかった。

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さらに坂を下ると左手に帝国ホテルが。いつ見ても姿がいい。

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正面から。青空だともっと映えたかも知れない。

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金沢監獄中央看守所。

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百日紅もそろそろ終わりか。監視台の中のライトがちょっと良いでしょう。

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宮津裁判所。初めて入った。

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裁判所内の風景。

「馬鹿力」(「子不語1」より)

 俗伝によれば、凶人の臨終には必ず悪鬼が現れ、その力を持って兇人を制するという。揚州(江蘇省)の唐氏の妻某はもともと嫉妬ぶかく、妾や婢がその手にかかって死ぬもの数を知らずという有り様。どうしたことか、その妻がにわかに病にかかった。口でなにやらムニャムニャ言い、がみがみ怒鳴る様は日頃の悪態つきの様と変わらない。隣に徐元というものがあり、膂力の強いこと人に絶していた。それがその一日前から昏倒し、鼾をかき叫び罵って、人と格闘でもしているかのようであった。その翌日初めて正気付いた。どうしたのだと問われると、こたえて言った。

「おれは鬼どもに借用されただけのことさ。鬼が閻羅王の命を受けて唐の妻を捕まえに来た。ところがこの女は馬鹿力で軍鬼も制することが出来ぬ。それで俺の力を借りてこれを縛ったというわけだ。三日間格闘したすえ、昨日彼女の足を引き倒して、これを縛り軍鬼に引き渡した。それでやっと帰って来れたんだ」

 唐の妻のところに見に行くと、果たして死んでいた。左足に青い傷があった。

中国の台頭を恐れる国

 中国の軍事ニュースサイトの「中国の台頭をもっとも恐れる国々」という記事を見た。八カ国の名前が挙げられている。

 それによると栄えある第一位は日本だ。「売国奴以外の多くの中国人が想像している通り、日本は中国の人々に多大な迷惑をかけたからだ」そうだ。

 第二位がアメリカ、第三位がイギリスで、四位以下はインド、インドネシア、ベトナム、韓国、イスラエルと続く。

 一方「有事の際に命を賭けて中国を守る十カ国」として、パキスタン、北朝鮮、ミャンマー、カザフスタン、ロシア、カンボジア、バングラデシュ、ラオス、スリランカ、スーダンが挙げられている。

 日本が中国の台頭が恐れているのは間違いない。しかし10年前なら中国がいくら台頭しても日本人は中国をこんなに恐れることはなかった。いま日本人が中国を恐れるのは、まさに軍事的に突出し、周辺国を侵害する行動をおこない、非難を受けてもそれを平然と正当化してしているその態度を見ているからだ。あげられている八カ国の多くは中国のその態度を不快に感じている国であることは間違いない。中国もさすがにそれを感じているのだろう。

 ところで、この記事を書いた人間は有事の際に中国を「命がけ」で守る国などがあるなどと本気で思っているのだろうか。

 ロシアが中国を守る??

 そもそも中国にはこれらの国を守るつもりなどないのに。

2014年9月16日 (火)

「美女いじめ」(「子不語1」より)

 平陽(浙江省)の県令の朱鑠(しゅしゃく)は性甚だ酷薄であった。

 彼が所管する役所では、特に厚い枷や大きな梃を作って拷問にそなえた。案件が婦女に関わるときには、必ず色仕掛けでこれを訊問し、妓女に杖を加えるときは下着を脱がせ、杖は陰部に及んだ。その腫れ物がつぶれて数ヶ月してから、
「女がどんな風に客に接したかを見るがいい!」
と言って、その臀部の血を嫖客(女郎買いの客)の顔に塗るのであった。

 美しい妓女には特に苛酷で、その髪を剃り刀で両の鼻孔を切り開いた。
「美しいものを醜くすれば、妓風が根絶するのだ」
と説明するのであった。同僚に会えば必ず自ら誇って言った。
「動ずる色も見せないのは、鉄面冰心のわしでなければどうしてできようか」

 任期を終えて山東で新しい任につくことになった。家族を連れて荏平(じんへい・山東省)の旅店に宿った。楼上は堅く封鎖してある。朱がそのわけを尋ねると、店主は答えた。
「楼中には妖怪がいて、長年開けていないのです」
朱はもともと気ままだから、
「なんの害があろう。妖怪はわしの威名をきいて、早々に退散するだろう」などと言うのであった。

 妻子がしきりに諫めるが聞こうとしない。妻子を別室に泊まらせ、己は一人剣を携え燭をともして楼上に座した。三更に至って戸をたたき入ってくるものがある。白い髭をはやし深紅色の冠をかぶっている。朱に向かって長揖(ちょうゆう・両手を上げ下げしてお辞儀をすること)した。朱はわめいた。
「なんの化け物だ」
「それがしは化け物ではない」と老人は答える。
「この地の土地神でござる。貴人のおいでと聞き、まさに群怪殲滅の時と思いまして、歓喜してお迎えに参上した次第・・・。ところでまもなく妖怪が現れますぞ。ただ、すべからく宝剣を揮われるがよかろう。それがしが相助けて進ぜる。首は必ず貴殿のものになりましょうぞ」

 朱は大いに喜び謝してこれを去らしめた。しばらくすると青面のもの、白面のものが次々と現れる。朱が剣をもって撃てば、撃つごとに倒れていく。最後に牙の長い嘴の黒いのが現れる。これまた剣をもって撃つ。妖怪は痛い、と叫んで倒れた。

 朱は歓喜し、誇らかに急ぎ店主を呼び、事の次第を告げた。ときに鶏はすでに鳴き、家人が燭をともしてやって来た。照らしてみれば、部屋中死体が横たわっている。それが悉く妻妾子女であった。

 朱は大声で叫んだ。
「わしは妖鬼に翻弄されたのか」
慟哭して息絶えた。

きれいごと

 広辞苑によれば「きれいごと(綺麗事)」とは、①手際よく美しく仕上げること。②体裁をつくろうこと。また、物事の実態を見ようとしないで、表面だけをとりつくろうこと。③よごれないで済ませられる仕事。とある。普通は②の意味で使うことが多く、良い意味で使われる言葉ではない。

 ただ、きれいごとを言う人の言うことは、正しいこと、考慮に値することが多い。だから何となく違和感がありながら反論がしにくい。それがさらに不快感を生むことになることも多い。

 分かっている人は、きれいごとを言うのを控えるようにしている。自分がきれいごとを言ってるな、と自覚したときなどは気恥ずかしいものだ。

 ところが近頃きれいごとが大声で叫ばれるようになり、叫ぶ人間は気恥ずかしさを感じるどころか昂然としている。

 どんなことがきれいごとか具体的に言うと、いまではそのことで顰蹙を買うことになってしまいかねない。正しいことであってきれいごとではない、というわけだ。

 その風潮が戦後、戦争のことを論じるのを封じ、フェミニストを暴走させ、朝日新聞が自滅することにつながった。

 あえてあげればイルカ、クジラに関する世界からの日本バッシングなどがそれにあたるだろうか。不要な殺戮は非難に値するけれど、かわいそうだ、というだけで非難されるのはかなわない。

 わたしは世の中にきれいごとは必要だとも思っているけれど、きれいごとを言うことが権利であり、権力になっている事態は如何なものかと思っている。そして本当に言いたいことはいろいろあるのだけれど、今日はテンションが低いのでこれまで。

「毛人の親切」(「子不語1」より)

 関東の人、許善根は人参(いわゆる朝鮮人参)掘りを業としていた。

 昔から人参掘りは闇夜にやるものと言われている。あるよ、許は例によって出かけたが、疲れが出て砂上に宿った。目が醒めると、自分の体は一人の巨人に抱かれていた。身のたけ二丈ばかり、体中赤い毛で蔽われている。それが左手で許の体を撫で、また許の体で自分の毛を擦っている。珠玉でもいじっているかのようであった。擦るごとに狂ったように笑って止まらない。

 許は自分が巨人の腹に納まってしまうのではないか、と恐れていると、巨人は許を抱いて一つの洞窟の中に入っていく。中には、虎筋、鹿尾、象 牙の類いがわんさと積んであった。許を石のベッドに置き、虎や鹿の肉を取り出して許に勧めるのであった。

 許は思ってもみない待遇に喜んだが、さすがにそんなものは食えなかった。巨人はしばらく俯いて考えごとをしていたが、やがて頷いて自ら納得したかのようであった。石をたたいて火を起こし水を汲み鍋で煮炊きを始め、それができあがるとこれを許にすすめた。許はたらふく食った。

 夜が明けると、巨人はまた善根を抱えて出かけた。身には五本の矢をたばさみ絶壁の上にやって来た。そこで巨人は許を高い木に縛り付けた。許はびっくりして射殺されるのではと思った。突如郡虎が人間の匂いを嗅ぎつけてぞろぞろ穴から出て来た。それがわれ先にと許に襲いかかる。

 巨人は矢をつがえてこれを斃してから、許の縄をほどき、またも許を抱え虎を引きずって帰った。それを昨夜同様煮て許に差し出すのであった。許はようやく、巨人は虎を捕らえる方便として自分を利用しているのだ、と悟った。

 こうして一月余りが過ぎた。許には何事もなく、巨人は大いに肥えた。ある日、許は家が恋しくなり、巨人の前に跪いて泣いて再拝し、しきりに東方を指した。巨人もまたはらはらと涙を落とした。許を抱えて前に人参掘りをしたところに連れて行き、帰りの道を教えた。その上人参の良く採れる場所を教えて許に謝意を示したのである。

 許はその後金持ちになった。

2014年9月15日 (月)

スコットランド独立の賛否

 いよいよ18日にスコットランドが独立するかどうか決まる。

 ところで、もともと強い独立の意見を唱えていた人々がいたけれど、つい最近までは賛成派よりも独立反対派の方がずっと多かったように聞いている。それがなぜにわかに賛否が拮抗するほどになったのだろうか。

 とくに賛成でも反対でもないけれど、今のままでいいんじゃない、と云う人がたくさんいたのではないだろうか。それが独立気運が高まるにつれ、何か独立すると良いことがあるんじゃないか、と思い出して賛成に回っているような気がする。

 国が独立すれば当初は混乱し、乗り越えなければならないいろいろな苦難が起こるだろう。いきなりいいことばかりが起こることはまずありえない。

 そのとき、もともとの独立派は一生懸命国を確立することに努力するだろうけれど、反対派は「だから独立なんかするべきではなかった」と言うだろうし、途中から賛成に回った人は「こんなはずではなかった」と不平を鳴らすだろう。

 それを全て呑みこんで責任をとる覚悟が賛成派にあるのかどうか。

 賛否が拮抗しているのに、賛成が一票でも多ければ独立に踏み切るというのは、如何にも危ういように思うがどうだろうか。

「蟒(うわばみ)の死」(「子不語1」より)

 常州(江蘇省)の王というものが幕遊(ばくゆう・郷里を離れて地方官のもとで事務員として勤務すること。多くは郷試、会試などの受験準備をしている書生のアルバイト)をしてよすぎをしていた。

 ある年の暮れに帰省した。王は張氏の青山荘の園林の美を愛していたから、風呂敷に布団を包んで遊びに出かけたところ、たまたま園中で白二官に出会った。昔から馴染んだ俳優である。喜びもまた格別で、遊び終わって園に同宿した。王は気持ちが高ぶって眠れない。すると、白二官が首を伸ばして灯を吹いた。灯までは白の寝ているところから二丈余りほどあり、白の首はその二丈余りも伸び、灯を消したのである。

 王は大いに驚き布団で首をくるんで寝た。白が王の床の前に来て布団をめくり、手を上下して気配を窺っている。その押さえているところが鉄のように冷たい。王は驚き叫んだが、こたえるものはなかった。忽ち窓の西に一つの黒いものが現れた。豚の頭をして毛と爪がある。外から飛び込んできて、白二官と相撃つ様はまことに凶猛で、勝負がどうなったのか分からない。にわかに天が明るくなり、床の一部が鮮血に染まり、蟒が一匹死んでいた。

 急ぎ白二官の家に行って尋ねると、二官は痼疾(精神が惑乱する病気)を患うこと半年、それが一朝にして癒えたという。その病が癒えたのは、王が白二官に出会っていたときであった。

2014年9月14日 (日)

石の小箱

 趙州(河北省)の周道澧(どうれい)は、難蔭(なんいん・清朝の制度で、公務に殉職した役人の子弟を採用する)により陝西の隴州の知州(州の長官)に選任された。役所に到着したあと、慣例に従い牢獄を見て回った。獄中に石の匣(はこ)があった。大きさ一尺ばかりで厳重に封がしてある。周は開けて見たいと思ったが、獄吏は頑なに開けさせまいとする。
「言い伝えでは、この匣は明末からあって何が入っているか分かりません。ただ記すところでは、ある道人が、開ければ官にとって都合が悪いことになる、と言ったということです」

 周は生来気ままなところがあり、どうしても見たくなり、匣を斧でこじ開けた。中に人影がちらと見え、真っ裸で血だらけ、顔つきがどうもはっきりしない。急に寒気がして、周は見るのを止そうとしたところ、中から硫黄の匂いがたちこめ、中の巻幅(巻物のことか?)が燃えつき、紙灰が空に舞い上がって失せた。周は大いに驚き、病を得て隴の地で死んだ。結局、なんの怪なのか分からなかった。

 以上は侍講学士の周蘭坡先生が私に話したところである。この州牧(知州のこと)は彼の従孫(兄弟の孫)だそうである。

「負債」(「子不語1」から)

  洛陽の水陸庵の僧に大楽上人と号する人がいて、大変金持ちであった。その隣人に周某というものがいた。県の小役人をしていて、家は貧しかった。税金の督促を請け負っていたが、しょっちゅう使い込んでしまう。決算期がくるごとに、上人に借りることになる。それが数年も積もったので、七両にもなっていた。上人は彼には償還の能力がないのを知っているから、取り立てることがなかったのである。周は頗る恩義を感じ、上人に会えば必ず言うのである。
「私は上人の恩に報いることができません。死んだらきっと驢馬になってご恩をお返しいたします」

 そうこうしていると、ある夜遅く、烈しく門を叩くものがある。
上人が
「誰だ」と問うと、
「周です。ご恩返しに参りました」

 戸をあけてみたが人影は見えない。上人は、誰かのいたずらだろう、とその時は思った。その夜、飼っていた驢馬が仔を産んだ。翌日周を訪れると、上人の思惑通り果たして彼は死んでいた。上人が驢馬のところに近づくと、生まれたばかりの駒が首をもたげたり脚を上げたりする。まるで見知っている仲みたいであった。

 上人がこれに乗るようになって一年が過ぎた。あるとき山西からの旅人が庵に泊まったが、その駒が気に入って買い求めたいと言う。上人は承知しなかった。なぜかと聞かれても、それを言うに忍びなかった。

「ならば、某県で宿をとるまで拝借して乗って行きたいが、いかがであろうか」
上人は承諾した。すると、旅人は鞍上にまたがり手綱を取って笑った。
「それがし、和尚を騙しましたぞ。この驢馬が気に入りました。乗った以上、返す気はありません。代金はもう払いました。あなたの机の上に置いてあります。部屋に戻ったら、きっと受け取ってください」
と言うなり、旅人は振り向きもせず、駈け出した。上人にはどうすることもできなかった。

 部屋に入って机の上を見ると、白金七両、ちょうど周の負債分が置いてあった。

2014年9月13日 (土)

「下僕の阿龍」(「子不語1」から)

 蘇州の徐世球は木瀆(ぼくとく・江蘇省呉県)にいたが、幼いうちに県城内に移り、韓其武の家で読書していた。韓のところには阿龍という下僕がいて、年は二十、書室に伺候してすこぶる勤勉であった。

 ある夕、徐は楼上で読書していたがね阿龍に下におりて茶を取ってくるよう命じた。しばらくして、阿龍が度を失って戻り、
「白衣のものを見ました。階下で狂ったように歩いています。呼びかけても返事をしませんから、多分鬼なのでしょう」

 徐は笑って信じない。翌日の夕、阿龍はあえて楼に上ろうとしなかった。徐は柳というものにその代わりをさせた。二更にいたって柳は茶を取りに下りた。階下で足が何かに触れて倒れた。見れば阿龍が死んでいる。柳は大声で呼ばわった。徐と韓家の諸賓客が皆やって来た。調べてみると、阿龍の首の下に引っ掻き傷がある。青黒く、柳の葉ほどの大きさであった。耳、目、鼻がみな黄色い泥でふさがっている。死体となって横たわっているが、気はまだ絶したわけではない。生姜汁を飲ませると、生き返って、「私が階を下りたとき、昨日の白衣のものに出会いました」と言う。

「年は四十余り、あごひげは短く、黒い顔でした。私に向かってものを言い、舌を一尺も伸ばすのです。私は叫ぼうとしましたが、そいつは私をうちのめし手で喉を締め付けました。側に一人の老人がおり、ひげが白く高い冠をいただいていました。それが
「彼はまだ若い。いじめてはならん」
とかあれこれ言い合い押さえつけようとしている間に私はほとんど気絶しかかりました。たまたま柳さんが私の足にぶつかりましたら、白衣のものは突然屋を突き抜けて飛び去りました」

 徐は人々に名士でこれを扶け起こし、床に寝かせた。床の上のあたりには鬼火が数十、極大の蛍のようなのが夜中絶えなかった。翌日になると阿龍はほおけてしまって食事もしない。韓氏が女巫を呼んで見てもらったら、
「県官を堂上にお呼びして朱筆してもらいなさい*」と言う。
「病人の心臓の上に「正」の字を一つ、首の上に「刀」の字を一つ、両手に「火」の字をそれぞれ一つ書けば、それで助かりましょうぞ」

 韓氏はその通りにした。左手に「火」の字を書くだんになって、阿龍は目を見開き大声で叫んだ。
「俺を焼かないでくれ。出て行けばいいんだろう」

 それから以後は妖怪はついに出ることはなかった。阿龍は今も健在である。


*この世の貴人は鬼や妖怪を恐れさせるとされている。県官は貴人と見なされていたのだ。

山田風太郎「半身棺桶」(徳間文庫)

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 「人間臨終図鑑」で山田風太郎は政治家や軍人、文化芸能人、名の知れた犯罪者など、年月日などが伝えられている古今東西の有名人920人の臨終の様子を記した。読みたいと思いながら、実はまだ未読だが、この「半身棺桶」はそれをベースにしていることはもちろんだ。

 この本は作家山田風太郎のエッセイの一部を集めたもので、「半身棺桶」はその冒頭部のエッセイである。自分の死に方をあれこれ考えていくが、希望は滑稽な死に方だ。

 山田風太郎がこれほどユーモリストだとは知らなかった。読んでいて思わずニヤリとしてしまうものがある。これも自分自身を特別扱いにしないで突き放し、相対的に見ることができているからだろう。自分の生き方にこだわっているようで、実はすでに我執を去っているというか、諦観のようなものも感じられるのは読み過ぎか。それよりもこのような人の妻の役を淡々と続けてきたらしい夫人に敬意を表する。山田風太郎がうらやましい。
                                                            
 山田風太郎は純粋な人なのだろう。人間に好奇心は必要だけれど、あまり手を広げすぎてしまうと素直な驚きに出遭いにくくなるのかも知れない、などと思った。

 この本は20年以上前に読んだ本だけれど、この本を書いたときの山田風太郎の年代になったので改めて読み直したのだけれど、楽しく読むことができた。そもそも本の内容を殆ど忘れているので、初めて読んだのと同じだっだ。

「妖怪を射る」(「子不語1」から)

 直隷(河北省辺り)の安州参将(武官名)の張史貴は、官舎が甚だ広すぎるので、家屋を城東に買い求めた。人のうわさではその家屋にはものの怪がでるとか。帳は生来かた意地で、是が非でもここに住もうと思った。移ってみるとその中堂では夜な夜な撃鼓の音が聞こえ、華人は恐れおののいた。張はそこで弓矢をたばさみ、燭をともして座した。深夜にいたって、梁上に忽ち一つの首が現れ、睨みかつ笑う。張はこれを射た。もんどり落下したのを見れば、ずんぐりと黒く、また肥えている。腹の大きさは五石の匏(ふくべ)ほどもある。矢はその臍を深さ一尺ばかり射抜いたのであった。鬼は手で腹をなで笑っていった。
「見事な矢だ」

 またこれを射ると、なでて笑うこと前と同様であった。張が大声で呼ばわると家人が一斉に進み出た。鬼は梁上に昇り、歩きながら罵った。
「きっとお前の家を滅ぼすぞ」

 翌日明るくなって参将の妻がにわかに死んだ。暮れてからはその子がまた死んだ。張はもがりをすませてから悲嘆にくれた。それから月余ほどで、また壁の中で呻吟する声が聞こえた。行って見ると、そこにはもがりした妻子がいる。生姜汁を飲ませると揚々として平生の通りになった。二人がともに話したところでは、
「自分はまだ死んでいない。ただ、昏々として夢を見ている感じで、大きな黒い手が自分をここに抛り投げたのが見えた」

 棺を開いて中を見ると、もぬけの殻であった。

 これをもって見れば、人の死にはそれぞれ天命があって、いかに悪鬼が怨もうが、彼は幻術でもってこれをからかうことができるだけで、殺すことはできないということが分かる。

2014年9月12日 (金)

「糞がうまい」(「子不語1」から)

(ちょっと尾籠な話で恐縮です)

 常熟(浙江省)の孫君寿は性甚だ獰悪で神をおかし鬼をやっつけるのが好きであった。人と遊山したとき、便意をもよおした。荒れた墓の骸骨をとらまえ、その上にうずくまって、糞便を呑ましめて問うた。
「おい、お前うまいかね」
骸骨が口を開く。
「うまい」

 君寿は大いに驚き、逃げ出した。骸骨が追っかける。地を転げ回ること車の如しだ。君寿は橋にやって来たが、骸骨はそこには上がれない。君寿が高いところから眺めていると、骸骨はまた転げるようにしてもとのところに戻った。君寿が家に着いたときには、顔は死灰のようだった。やがて病気になり、日に大便をするごとにこれを手にとって呑み込んだ。そして自分に問いかけるのである。
「おい、うまいかね」

 食い終わると、また垂れ、垂れ終わるとまた食うという具合で三日にして死んだ。

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(口直しにどうぞ)

手術

 妹の亭主が心臓の弁に異常があり、大学病院で手術をした。当初は最新医療で自分の弁を修復してつけ直すはずだったが、思いの外具合が悪くて、再使用に堪えないというので、急遽人工弁を取り付けることになり、9時間という長い手術になった。

 幸い手術は無事終わり、丸一日ICUに入れられたあと、普通に面会可能になった。明日私も見舞いに行く予定。義弟は糖尿病に高血圧で、厳格な食事制限を受けている。たばこを吸っていたけれど、絶対禁煙を申し渡されたそうだ。それは家族にとっても有り難いと妹は笑っていた。

 義弟の母親は私の老母よりも年上だ。ある程度動けるけれど介護が必要で、妹はてんてこ舞いをしている。もともと口うるさかったのが輪をかけてわがまま放題にあれをしろこれをしろとうるさいのだそうだ。

 妹は、私の老母(もちろん妹の母親でもあるが)が「口が利けないのは静かで好いわよ」という。なかなかどこも大変だ。

 ところで見舞いに何を持って行こうか悩んでいる。「食べ物はいらないわよ」と妹はいっていた。うーむ、タオルかなんかと一緒に見舞金を渡すのがいちばんか。

2014年9月11日 (木)

身代わり志願(「子不語 1」から)

 江西に李と云う通判(役人)がいた。大変な金持ちで、家には七人の妾がおり、珍宝の類いが山と積まれていた。それが二十七才で病没してしまった。

 日頃から忠義者の老僕がいて、主人の若死にを悲しみ、妾たちと共に祭壇を設けて供養をしていた。そこにふらりと一人の道士が奉加帳を持って現れ、布施を求めた。老僕はつっけんどんにはねつけて、
「この家じゃ主が若死になさったのだ。おまえなどに取り合っている暇はない」
道士は笑って言う。
「おまえでも主人を蘇生させたいと思うかね。わしは魂を呼び戻すやり方を知っているんだが」 

 老僕はびっくりして内に駆け込み、妾たちに話した。女たちがぞろぞろといぶかしげに出てきて挨拶しようとしたときには、道士はすでに去っていた。老僕は女たちと神仙を軽侮して去らしめてしまった咎を互いになすりつけ合った。しばらくして、老僕は街でたまたま道士に出遭う。驚くやら喜ぶやら、しつこく詫びをいい、どうかよろしくと頼み込んだ。道士のいうには、
「わしは、おまえの主人を生き返らせる手間を惜しんだわけではない。あの世の役所の決まりでは、死人をこの世に戻すには身代わりがいるのだ。多分お前たちのところでは、代わって死ぬものはおるまいと思ったから、そのまま立ち去ったのさ」
「ご相談いたしたいのですが」
 
 老僕は道士を伴って家に帰り、女たちにわけを話した。彼女らははじめ道士が来たと聞いてひどく喜んだが、そのあと身代わりのことを聞くと、みなぷりぷりと怒り出し、互いに顔を見合わせて押し黙っている。老僕は毅然として、
「皆さんはまだまだお若い。わしなんぞは、この年だ。何の命が惜しかろう」と言い放ち、道士の前に出た。
「わしのようなものでも身代わりになれますかい」
「後悔もせず、こわくもなくやれるのなら、構わないさ」
「やれますとも」
「君の誠意には感じ入るね。親戚や友人のところに行って別れを告げてくるがいい。わしが手立てを尽くす。三日で法が成就し、七日で霊験が現れよう」

 老僕は道士を家に迎え入れ、朝夕礼拝すると共に、こっちの家、あっちの家と回り歩いて涙ながらに別れを告げた。知人たちの中には笑うものもあり、感心するものもあり、憐れむものもあり、からかって信じないものもあった。老僕は、日ごろ尊崇していた聖帝廟(関帝廟のこと)のそばを通ったとき、中に入って拝しかつ祈った。

「それがし、主人に代わって死にまする。聖帝様には、どうか道士が主人の魂を救いこの世に戻れるようにお力添えくださるようにお願いいたします」

 と、烈しく叱する声が聞こえる。
「お前は顔中妖気が漂っている。大きな禍がやって来るぞ。わしが救ってやるが、このことは誰にも洩らすな」
見ればはだしの僧が案(つくえ)の前にすっくと立っている。包み紙を老僕に与えた。
「いざというときにはこれを取り出して見るがいい」

 言い終えたときにはすでに姿はなかった。老僕は帰ってからこっそり包みを開いて見た。手の爪が五つと縄が一本入っている。これを懐にしまっておいた。瞬く間に、三日間の期限の日が来た。道士は老僕に命じて牀(とこ)を移して主人の棺と相対して置かせた上、部屋には錠前をかけ壁に穴をあけてそこから食事を出し入れさせた。道士は妾たちの部屋に近いところに祭壇を設け呪文をとなえていた。数日たったが何の変化もない。老僕には疑いの気持ちが起こった。牀の下でなにやら音がした。そのとたん二人の黒い男たちが躍りあがった。緑色のくぼんだ目をして、体じゅう短い毛で蔽われている。背丈は二尺ばかりだが、頭は車輪ほどもある。目はらんらんと老僕をにらみ、にらみながらも、棺の周りをぐるぐる廻った。歯で棺の継ぎ目を噛んでいたが、その継ぎ目があいてしわぶきの音が聞こえた。主人の声にそっくりであった。黒い鬼どもが棺の前部を開き主人を扶け出そうとするが、主人は気息奄々として病にうちひしがれている。鬼どもが手で腹をさすってやると、ようやく口をきいた。老僕の目には、確かに主人なのだが、声は道士なのだ。老僕は、はっとした。

「聖帝のみ言葉に験のなかろうはずがない」
急いで懐中から紙を取り出したとたん、五つの爪が飛び出し、それが忽ち金色の龍と化した。その大きさ数丈もある。それが老僕を捕まえると、虚空を突き抜け、これを縄でもって梁に縛り付けた。老僕がうつろな目を下に注ぐと、二鬼が主人を棺の中から扶け起こし老僕の牀に連れ出してきた。が、そこはもぬけの殻である。主人が、
「法術は失敗だ!」
とどなる。二鬼はすさまじい形相で部屋じゅう老僕を捜し回ったが、どうしても見つからない。主人は激怒して、老僕の牀や帳や布団などを引き裂くのであった。鬼の一方がふと頭をあげて老僕が梁の上にいるのを見つけ、歓声を上げて主人ともども身を躍らせてかかって来る。が、梁まで来ないうちに忽ち雷鳴がとどろき、鬼の体はもんどり打って床に倒れた。気がつくと棺は元通り閉じていて、鬼どもの姿も消えていた。妾たちは雷音を聞いてから戸を開けて中をのぞいた。老僕は今見た様を彼女らに語り、取り急ぎ道士の様子を見に行った。道士はすでに雷に打たれ祭壇のところで死んでいた。死体の上には硫黄で大書してあった。
「妖道士は法を弄び姿を変え、人の財貨の横領を企み、かつ女色を貪った。よって天は掟通りこれを斬罪に処した」

宮脇淳子「かわいそうな歴史の国の中国」

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 身もふたもない中国論である。もちろん中国の現状と将来に悲観的で、今の体制に対して批判的である。

 彼女は中国学に対する泰斗である岡田英弘氏の教え子にして夫人である。もともとウイグルの歴史が専攻であるから、ウイグル、チベット、モンゴルなどの、中国で少数民族といわれ、いわれなき迫害を受けてきた人々に対する思い入れが強い。後半のそれに関する記述は中国に対してかなり攻撃的である。

 書かれていることは多少感情的だが、事実であることが多い。しかし中国国民でその事実を知らされている人は殆どいないし、知っていても公言できないのが今の中国だ。

 習近平という人物が権力を掌握しようと、いま権力闘争の真っ最中だが、それは習近平自身に中国を導くだけの能力がないことの裏返しだ、と断じ、それを軍部につけ込まれて今対外的な強権を発動して迷走している、と読み解いている。

 最後に中国が崩壊しても、それは中国自身の責任であり、以前のように日本は中国に手をさしのべてはならない、と締めくくる。たしかに戦後日本は中国にどれだけ手をさしのべ続けたのか、しかも中国政府はそれを自国民にいっさい知らせることなく、反日教育を強化して恩を仇で返してきた。援助の金がどれだけ権力者の懐を潤し、浮いた金がどれだけ軍事費に回されたか。しかしそんなことをするのは日本が後ろめたいからであり、日本が悪いからだ、と云うのが中国の論理なのだ。

 そんな国が大過なく成長を続けられるはずがないではないか。そういう中国に対する呪いの書である。

丈武琉「キルマ1945」(角川書店)

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 日本を救うため、2015年の日本から、70年前、敗戦直前の1945年の沖縄の小さな島、輝琉真島に転送された自衛隊の特殊部隊五人が、圧倒的に火力で優勢な米軍と戦いを繰り広げる。しかも隊員たちは転送の制約により、武器を携行して転送することが出来ない。丸腰である。

 現実にはあり得ない話だが、それを受け入れて物語にはまり込めばそれなりにおもしろい。

 時空を超えれば必ずパラドックスが生じることはよく知られているが、この転送そのものが矛盾の中にある。片道切符で過去へ転送された隊員たちが個人的に抱えている問題がそれぞれの性格に影響するが、圧倒的な敵の兵力の前にそのような事情など木っ端みじんにされる。

 半村良の「戦国自衛隊」(映画化もされた)という小説があったが、あれは予期せぬ出来事によるタイムトリップだった。しかも現代の兵器装備で過去へ跳んでいる。タイムトリップという点は同じでも状況は全く違う。

 隊員たちが当初予備知識として知らされていたことと実際に転送された過去では矛盾が次々に明らかになるが、それはタイムパラドックスによる時空のひずみが原因だけではなかった。

 その矛盾の意味が最後の戦闘の前後に明らかになっていく。なかなか得心のいく説明になっていないけれど、どちらにしても寡兵が圧倒的に強力な軍隊を次々に破る痛快さ、と云ういちばんの眼目は楽しめる。和製「ランボー」を楽しめます。

2014年9月10日 (水)

芥川龍之介「猿蟹合戦」

 蟹の握り飯を奪った猿はとうとう蟹に仇を取られた。蟹は臼、蜂、卵と共に怨敵の猿を殺したのである。---その話は今更しないでも好い。唯猿を仕止めた後、蟹を始め同志のものはどういう運命に逢着したか、それを話すことは必要である。なぜといえばお伽噺は全然このことは話していない。いや、話していないどころか、あたかも蟹は穴の中に、臼は台所の土間の隅に、蜂は軒先の蜂の巣に、卵は籾殻の箱の中に、太平無事な生涯でも送ったかのように装っている。


 しかしそれは偽りである。彼らは仇を取った後、警官の捕縛するところとなり、悉く監獄に投ぜられた。しかも裁判を重ねた結果、主犯蟹は死刑になり、臼、蜂、卵らの共犯は無期徒刑の宣告を受けたのである。お伽噺のみしか知らない読者はこういう彼らの運命に、怪訝の念を持つかも知れない。が、これは事実である。寸毫も疑いのない事実である。


 蟹は蟹自身の言によれば、握り飯を柿と交換した。が、猿は熟柿を与えず、青柿ばかり与えたのみか、蟹に傷害を加えるように、さんざんその柿を投げつけたという。しかし蟹は猿との間に一通の証書も取り換していない。よしまたそれは不問に附しても、握り飯と柿と交換したといい、熟柿とは特に断っていない。最後に青柿を投げつけられたというのも、猿に悪意があったかどうか、その辺の証拠は不十分である。だから蟹の弁護に立った、雄弁の名の高い某弁護士も、裁判官の同情を乞うより外に、策の出ずるところを知らなかったらしい。その弁護士は気の毒そうに、蟹の泡を拭ってやりながら、「あきらめ給え」といったそうである。尤もこの「あきらめ給え」は、死刑の宣告を下されたことをあきらめ給えといったのだか、弁護士に大金を取られたことをあきらめ給えといったのだか、それは誰にも決定できない。


 その上新聞雑誌の輿論も、蟹に同情を寄せたものは殆ど一つもなかったようである。蟹の猿を殺したのは私憤の結果に外ならない。しかもその私憤たるや、己の無知と軽率とから猿に利益を占められたのを忌々しがっただけではないか?優勝劣敗の世の中にこういう私憤を洩らすとすれば、愚者にあらずんば狂者である。---という非難が多かったらしい。現に商業会議所会頭某男爵の如きはだいたい上のような意見と共に、蟹の猿を殺したのも多少は危険思想にかぶれたのであろうと論断した。そのせいか蟹の仇打ち(原文のまま)以来、某男爵は壮士の外にも、ブルドックを十頭飼ったそうである。


 かつまた蟹の仇打ちはいわゆる識者の間にも、一向好評を博さなかった。大学教授某博士は倫理学上の見地から、蟹の猿を殺したのは復讐の意志に出たのである、復讐は善と称しがたいといった。それから社会主義の某首領は蟹は柿とか握り飯とかいう私有財産をありがたがっていたから、臼や蜂や卵なども反動的思想を持っていたのであろう、ことによると尻押しをしたのは国粋会かも知れないといった。それから某宗の管長某師は蟹は仏慈悲を知らなかったらしい、たとい青柿を投げつけられたとしても、仏慈悲を知っていさえすれば、猿の所業を憎む代わりに、かえってそれを憐れんだであろう、ああ、思えば一度でも好いから、私の説教を聴かせたかったといった。それから---まだ各方面にいろいろ批評する名士はあったが、いずれも蟹の仇打ちには不賛成の声ばかりだった。そういう中にたった一人、蟹のために気を吐いたのは酒豪兼詩人の某代議士である。代議士は蟹の仇打ちは武士道の精神と一致するといった。しかしこんな時代遅れの議論は誰の耳にも止まるはずはない。のみならず新聞のゴシップによると、この代議士は数年以前、動物園を見物中、猿に尿(いばり)をかけられたことを遺恨に思っていたそうである。


 お伽噺しか知らない読者は、悲しい蟹の運命に同情の涙を落とすかも知れない。しかし蟹の死は当然である。それを気の毒に思いなどするのは、婦女童幼のセンティメンタリズムに過ぎない。天下は蟹の死を是なりとした。現に死刑の行われた夜、判事、検事、弁護士、看守、死刑執行人、教誨師等は四十八時間熟睡したそうである。その上夢の中に、天国の門を見たそうである。天国は彼らの話によると、封建時代の城に似たデパアートメント・ストアらしい。


 ついでに蟹の死んだ後、蟹の家庭はどうしたか、それも少し書いておきたい。蟹の妻は売笑婦になった。なった動機は貧困のためか、彼女自身の性情のためか、どちらかいまだに判然(はっきり)しない。蟹の長男は父の没後、新聞雑誌の用語を使うと、「翻然と心を改めた。」今は何でも或株屋の番頭か何かしているという。この蟹は或時自分の穴へ、同類の肉を食うために、怪我をした仲間を引きずり込んだ。クロポトキンが『相互扶助論』の中に、蟹も同類を劬(いたわ)ると云う実例に引いたのはこの蟹である。次男の蟹は小説家になった。もちろん小説家のことだから、遊蕩の外は何もしない。唯父蟹の一生を例に、善は悪の異名であるなどと、好い加減な皮肉を並べている。三男の蟹は愚物だったから、蟹より外のものになれなかった。それが横這いに歩いていると、握り飯が一つ落ちていた。握り飯は彼の好物だった。彼は大きい鋏の先にこの獲物を拾い上げた。すると高い柿の木の梢に虱をとっていた猿が一匹、---その先は話す必要はあるまい。


 とにかく猿と闘ったが最後、蟹は必ず天下のために殺されることだけは事実である。話を天下の読者に寄す。君たちも大抵蟹なんですよ。
                  大正十二年二月

芥川龍之介「蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ・他十七篇」(岩波文庫)

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この巻にはなじみのある表題作の他にも読みやすい作品が集められている。解説を書いている中村真一郎が、「子供向け」を集めたというが、子供向けといえるものばかりではない。

 突然だが、私が日本の映画でいちばん怖かったと思う映画は、京マチ子主演、神保美喜がヒロインの「妖婆」という映画だ。この作品集に実は「妖婆」という中編小説がある。初見だが、あまりに舞台設定が映画の「妖婆」に似ている。もしやと思って調べたら、映画の「妖婆」は芥川龍之介のこの小説が原作となっている。

 小説に関係するところは映画の一部分のみであり、全体のほとんどはあらたに映画のために創作されたものだがこの小説を読んであの不気味な映画と京マチ子の大写しが頭に浮かんだ。

 「白」という作品を久しぶりに読んだ。中学生くらいのときに読んで単純に感激したことを思い出した。内容を説明してしまうと読む感激を損なうので、他愛ない話だが、興味があれば是非読んでみて欲しい。この話は確かに子供向きだ。

 おとぎ話から「猿蟹合戦」と「桃太郎」が、芥川龍之介流に皮肉な物語に仕立て上げられている。「猿蟹合戦」は短いのでこれもあとでここに掲載してみよう。

 他に「首が落ちた話」は、落語に似たような話があるし、話の展開はアンブローズ・ビアスの「アウル・クリーク橋の一事件」によく似ているところがある。ビアスのほうが時代が古いから芥川龍之介が読んでいる可能性が高い。いかにも芥川龍之介好みの作品の多い作家だし。

 「仙人」の話は結構いろいろなところで引用されているが、芥川龍之介の作品とは思わなかった。読んだのに忘れていたのかもしれない。

袁枚(手代木公助訳)「子不語 1」(平凡社・東洋文庫)

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 中国・清の時代の文豪である袁枚(えんばい)が書いた「子不語」の全訳全五巻のうちの第一巻である。袁枚自身が見聞きした不思議な話、奇妙な話がたくさん集められている。同じ清代の「聊斎志異」と同様、その不思議な話の意味やその結果について言及していないものも多い。説教臭くないのが有り難い。

 第一巻には130話が収められている。毎日寝る前に10話前後を楽しんで、(読まない日もあったので)ひと月がかりで読了した。結構怖い話もあるのだが、出てくるのは日本のお化けや幽霊ではないからどことなく人ごとで読める。

 わざわざこの本を買って読むひとも少ないだろうから、あとでいくつか分かりやすそうなものを選んでここにのせようかと思っている。

2014年9月 9日 (火)

加藤徹「貝と羊の中国人」(新潮新書)

 中国論は数々書かれている。同じものを論じるから似てくるのは当然だが、切り口が変わると新鮮で読み甲斐がある。

 殷周革命という。商周革命とも言う。殷王朝の人々は自らを商と呼んでいたからで、商業が得意だった。商人とはそもそも殷人のことである。

 この本のはじめに殷が東方の国で、商が西方の国であること、殷が貝に象徴され、周が羊に象徴されることが示される。

 殷は農耕の民で、周は牧畜の民である。中国はこうして農耕の民と牧畜の民とが混交して成り立っているというのだ。ここを原点としてその二面性から中国を論じようというのがこの本である。

 実際に読み進めると、その枠を越えたような話が結構あって必ずしも貝と羊にこだわっていない。

 本文中に、中国の元老のひとり、陳雲が部下に向かっていった言葉が引用されている。

「腐敗に反対しなければ国が滅びる。本当に腐敗に反対すると党が滅びる」

 習近平の腐敗撲滅運動の危うさを良く現しているではないか。

 また中国の善悪観の単純さについてもあらためて良く認識することになった。ヒーローは絶対正義であり、悪は絶対悪である。池波正太郎のしばしば言う、「悪人もときに善をなし、善人もときに悪をなす」などという深い人間観などない。悪い人間はただ悪いのであって永遠に悪人である。

 たびたび引用しているように岳飛がヒーローならその岳飛に反対した秦噲は永遠に悪人である。歴史的背景から秦噲にもそれなりの言い分があっただろう、と考えるのは日本人で、中国人はそうは考えない。

 だから日本人は悪をなした、と云う事実(ないしはすり込まれた思い込み)があれば、日本人はただひたすら悪人である。歴史的背景など考慮したりしない。しかも時間的経過はその善悪観に影響しない。

 反日の構図と中国人の思考様式を象徴する話が詳しく書かれていて興味深い。男と女の間のように、日本と中国の間にも深くて暗い川(この場合は海か)があるのだ。それでもエンヤコラ舟を出さなければならない。

 その川の姿を見せるのが、この本をはじめとする中国論の役目なのだろう。

長谷川慶太郎「大破局の『反日』アジア、大繁栄の『親日』アジア」(PHP研究所)

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 私のこうだったら良いな、と思う気持ちを、それ以上に鼓吹してくれるのが長谷川慶太郎なので、書かれている内容が似たり寄ったりにもかかわらず、つい買って読んでしまう。好い気持ちにさせてくれるのだ。

 おごっているように見える中国や韓国が衰退し、日本が再び元気になる、と云う論調がおもしろくないわけがない。そもそも私は悲観的な物言いをする評論家やコメンテーターが嫌いだ。もちろん根拠もなしにすべてがバラ色のようにものを言うのは論外だが、世の中に否定的な物言いをする人間の多くが、100点ではないからだめだ、という言い方をする。

 この世にすべての人が満足する施策などあるわけがない。誰かに良ければ誰かには不満になるのは普通のことだ。その不満を鳴らし異を唱える人を取り上げて全体を批判することを正義だと思う批評家が多すぎる。

 少数を切り捨てても仕方がないとは言わないが、全体が今より改善するならまずそれを行い、さらに問題点を減らしていく、と云うのが現実的な方策だろう。

 私が社民党に怒りを感じるのはそういうところだし、民主党がしばしば似たような政府批判をする姿にこの党の末路を見てしまう。

 話が脇に逸れすぎだ。

 長谷川慶太郎の予見には彼独自の情報とその意味を見抜く鋭い洞察力がある。その予測の的中率は驚異的だった。驚異的な的中率が最近かなり落ちていることは事実だけれど、間違っているわけではなく、事態が予想以上に激変している、と云う背景があると思う。むかし10年間分の長谷川慶太郎の翌年の予想を書いた本をためておいて、あとで読み直してみてそう思った。

 とにかく今回も楽しく読ませてもらった。

2014年9月 8日 (月)

中村稔「芥川龍之介考」(青土社)

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藤沢周平が良く引用する句、「故郷へ回る六部は気の弱り」ではないが、近頃は若い頃に読んだ本を再び読むことが多い。その藤沢周平や、池波正太郎、柴田錬三郎、司馬遼太郎、陳舜臣をとっかえひっかえ読み返している。

 さらに芥川龍之介、志賀直哉、夏目漱石、森鴎外などを引っ張り出して読み直している。無駄に馬齢を重ねたけれど、それでも多少は若いときよりも内容が身にしみる。濫読していた時代よりも(今でも濫読に近いけれど)おもしろさが分かる気がする。

 作家論の本はたくさんあるけれどあまり読まない。複数持っているのは中島敦に関するものくらいだ。たまたま本屋でこの「芥川龍之介考」を手にしてしまった。ちょうど芥川龍之介を読み直していたときだったので購入。著者は弁護士だが、詩人でもあり、日本近代文学館の名誉館長である。

 芥川龍之介の作品を、初期の作品、王朝小説、切支丹小説、「侏儒の言葉」、晩年の作品、詩歌、に項目を分けて考察している。他の芥川龍之介に対する評論を引用しながら持論を展開し、その理由が添えられている。

 もちろん賛同するものもあり首をかしげるものもあるが、作品は読者それぞれにとって違うものとして存在するのであるから当然だろう。ただ、浅読みの私に新たな知見を与えてくれたことは確かだ。

 芥川龍之介の詩歌については、そもそも自分が詩歌についてあまり得意ではないのですべてが全くの所見であった。その中で俳句に特に好いな、と思うものがあって、それを知ることが出来たことが嬉しかった。

   青簾裏畑の花を幽かにす


   短夜や泰山木の花落つる

    夏山に虹立ち消ゆる別れかな

   かひもなき眠り薬や夜半の月

もだえ絶叫泣き

 本日は定期検診で病院へ行く日。体重測定や検尿、血液検査をして、その結果を見た医師から指導がある。だから検査結果が出るまで待たなければならない。今日はとくに検査項目の多い日なので待たされることは覚悟していた。そのための本も持参している。

 病院にはいろいろな人が来る。やはり高齢者が多い。窓口の女性にくどくどとなにやら苦情らしきものを言っている人がいる。そのために並んでいる人が滞留してしまってみんながうんざりしている。窓口の女性に言っても仕方のないことを延々と言い続けているから聞かされている方もうんざりした顔をする。それが気にくわない、とまた何か言っている。最近こんな年寄りが多い。周りは全く見えず、自分のことしか考えられないらしい。

 名前を呼ばれても返事をする人はほとんどいない。聞こえているならせめて手をちょっと上げてアピールするくらいはしてもいいのにと思う。

 内科の診察室の奥に小児科がある。待合室で待っていると子供の泣き声が聞こえてくることもある。子供は医者が何をするのか不安だから泣くのだろうし、注射でもされればもちろん泣くだろう。

 ところが今日聞こえてきた子供の泣き声はそんなレベルではない。絶叫し、もだえ泣きしている。しかもそれがいつまでもいつまでも続いている。待合室のおばさんたちもあきれて「元気がいい子だねえ」と苦笑いしながら言い合っていた。そうとしかいいようがないのだろう。あれだけはげしく泣き続ける体力は確かに元気としか言いようがない。

 読みかけた本はさすがに読み続けることが出来なくなった。

 検査結果は・・・。おかげさまで全て正常値であった。γ-GPTが43ですぞ!奇跡だ。(現役時代は200~400が普通だったのです)

 医者に「寝起きにしばらく本調子がでない。寝るときはスイッチを切るように眠り、起きたらスイッチを入れたようにパワー全開だったのに・・・」と言ったら、「普通の人は、朝はそんなもんです」と一蹴されてしまった。

 これから一息入れて、寝たきりの老母の介護手伝いのため、千葉まで走る。

2014年9月 7日 (日)

レンタサイクル

 環境保護の観点から世界中で自転車が見直されている。もともと中国は自転車王国で、1990年前後には大きな都市の道路は自転車があふれていた。

 そんな中、レンタサイクルが世界各地に拡がり利用も増えているが、中国でも自動車の排気ガスによる大気汚染の減少につなげたいと公共自転車を導入している都市が増加しているという。

 ところがそのレンタサイクルの利用が思ったほど伸びていない。世界では成功していることがなぜ中国ではうまくいかないのか、環球時報が分析していた。

 レンタサイクルの数が急増しているのにそのメンテナンスが行き届かず、壊れていない自転車を探すのが困難だ、などというのが実態らしい。しかもレンタル料がどんどん値上がりして、借りる人が激減している。さらに新規に借りる場合の保証金が新しい自転車を買うよりも高いなどという例もある。しかもレンタサイクルのある場所へのアクセスが不便なケースなどもあった。

 公共のものこそ大事に扱う、というのは公共心のはじめだろう。保証金が高いのもそれだけ借り手に対して信用がない、という社会を表している。

 中国の拝金社会が見失ったものを象徴している哀しいニュースだ。

00561992年・西安

ペットの死

 以前にも書いたけれど、マンション暮らしなのでペットは飼わないことにしている。部屋飼いは可能だけれど、ペットがかわいそうな気がするので。

 毎朝拝見しているブログの一つ「chibiaya日記」でchibiayaさんの飼い猫のチビちゃんが死んだ記事を見た。16年以上生きたと言うから猫としては長生きしたほうだろうけれど、その喪失感は共に暮らした人にしか分からない。

 むかし飼っていた猫が死んで、その幻影がちらつかなくなるまで10年以上かかった。

1210_15旅先で見かけた猫。飼っていた猫の写真があるはずだが見つからない。ほとんど白で、鼻のまわりと尻尾だけ茶色の雄猫だった。

 ところで愛読している「もなさん」のブログへの「いいね!」が出来なくなった。パスワードがどうのこうの、という文言が出るけれど、どう云うことだろう。

 明日は定期検診に病院へ行く日なので一昨日くらいから節制している。酒を飲まないからなかなか夜眠くならない。眠くならないから本を読んだり大戦略のゲームをしたり数独パズルをやったりしているうちに気が付けば日付が変わっている。生活のリズムが狂ってきてこのほうが身体に悪い。

 明日までの辛抱だ。あまり無茶はしていないので検査は問題ないはずだ。病院から帰ったら老母の介護手伝いに千葉まで走る。夜は弟と一杯飲めるのが楽しみだ。

2014年9月 6日 (土)

素人考えだけれど

 デング熱の患者数が急増しているのは日本ばかりではないらしい。シンガポールやフランス、イタリア、中国でも増えているという。

 中国では、広東省だけで毎年1000人前後の発症が確認されているけれど、今年はすでに1100人以上の患者が出ており、重症者も33人に達するという。

 日本のデング熱の患者数は今日70人を超えた。最初に3人の患者が発見されたときには、こんなに拡大すると予想する報道はなかった。海外で感染しウィルスを持った患者が蚊に刺されて、その蚊にたまたま刺された人がその3人であろう、ということだった。

 しかしそのオリジナルからの拡散ならこんなに数が増えるはずがないのではないか。

 最初にデング熱の患者を発見した医師は、デング熱の知見があったという。しかし医師でデング熱の知見のある人は極めて珍しいだろう。

 素人考えだけれど、すでにデング熱は一定数の拡散が起こっていたのではないか。デング熱と診断されていないだけで、患者は複数存在していて、たまたま知見のある医師に発見された、ということではないだろうか。マスコミが報道するから、蚊に刺されて発熱などの症状を起こすと診察を受けるようになったので、にわかにデング熱の患者が増えたように見えているのではないか。

 だとすれば、いまのような局所的な対応では収まらないおそれがある。多分専門家はそれを承知しているし、当局も分かっているけれど、パニックをおそれてそれを明らかにしていないような気がする。いつものことだが。

 とにかく日本中どこへ行っても蚊に刺されないようにすることが肝要だが、蚊がいるところで蚊に刺されないようにするのは難しい。運次第と云うところもありそうだ。

 今月後半にインドネシアに出かけるけれど、日本どころではないだろう。運を天に任せることにするか。

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葉室麟「緋の天空」(集英社)

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 天平時代、即ち奈良時代の話。聖武天皇の皇后、光明子が主人公である。物語はあの大仏の開眼法要の場面から始まり、平城京へ遷都したばかりの彼女の少女時代からいままでの出来事が回想されていく。

 この時代については、恥ずかしながら知識がほとんどない。登場人物たちについてはその名前を知るだけである。それがこのような小説の中で具体的なイメージを結ぶようになったことはありがたいことであった。

 この時代には女帝が多かった。持統天皇(飛鳥時代末期)、元明天皇(平城京遷都をした)、元正天皇(元明天皇の娘)、(聖武天皇)、孝謙天皇(光明子の娘)と続く。中国には女帝はただ一人、則天武后のみであることを思うとその違いは何なのかと思う。牝鶏が刻を告げることを嫌うのが中国か。日本はやはり母系社会と言うことか。

 光明子は藤原不比等の娘である。あの中臣鎌足が中大兄皇子と共に蘇我氏を倒し大化の改新をおこなって藤原の姓を賜り、藤原氏は政権の実権を握った。藤原不比等は鎌足の息子である。

 権謀術数渦巻く朝廷を掌握し、この国を律令の世にすべく、不比等は精魂を傾けるが、その志は光明子に引き継がれていく。

 反乱や災害、疫病が呪いによるものと見なされた時代のことである。呪詛は実際に力を発揮していた。そして呪詛を行う者はその呪詛により自らが呪われていく。物語のクライマックスは長屋王の乱である。

 闇を払う者となるように、との願いから父の不比等に光明子と名付けられた彼女は、そのときその使命を果たすことが出来たのだろうか。

 この時代の名前は現在の読み方とは違うのでなかなか覚えられない。それがそのまま読みにくさにつながってしまった。

身から出た錆

 池上彰のコラムの内容が気に入らないからと掲載を拒否した朝日新聞が、池上彰から連載中止を申し入れられ、それが話題になって批判を浴びたと知るやそのコラムの記事を掲載した。

 朝日新聞は八月初めの従軍慰安婦問題に関して、当初の記事に誤報があったことを認め、その誤報の部分の撤回と、検証記事を掲載した。

 これについて、池上彰は誤報を認めたことに敬意を表するが、この誤報が社会的に及ぼした影響を考えると、謝罪も合わせてするべきだったのではないか、としたのだ。

 過ちを糾弾し、それに謝罪を繰り返し求めてきたのは朝日新聞(他のマスコミも)である。だから今回の誤報の記事についても謝罪がないことが批判されていた。池上彰の記事などはその中でもまことに穏やかなもので、朝日新聞のために、そしてそれ以上に朝日新聞の読者のためを思ってこのことを指摘したものだ。

 それを掲載拒否するというのは朝日新聞の「正体見たり」というところか。自社を無謬の正義の神と錯覚しているのか。さらに週刊新潮の広告の一部を塗りつぶすという行為が明らかにされ、批判の火に油を注いだ。

 記事の差し止めや伏せ字など、まさに戦時中の検閲そのものではないか。マスコミが自ら自社批判の記事の検閲をするなど報道の自殺ではないか。このダメージで朝日新聞は部数を減らすだろうと噂されている。もし減らなければ・・・それだけいままでの読者に対する刷り込みが行き届いていたと言うことだろう。

 繰り返し言うが、日中戦争から太平洋戦争に続く時代に、新聞は戦争を煽ることはあっても戦争反対のプロパガンダなどしていない。朝日新聞はその中で末尾ではなく、先頭にいた。戦後戦争責任を舌鋒鋭く問い詰める朝日新聞が、自社の戦時中の記事について謝罪したとは寡聞にして聞いていない。自らのしたことに口を拭って、他者を糾弾する、という姿勢は、そもそもはそこから始まっている。

 池上彰は長年続いたこのコラムを継続するか否か考慮中だという。気分的には止めてしまえ、といいたいところだけれど、彼のことだから朝日新聞の読者のために継続するかも知れない。朝日新聞も内容について介入しにくくなっただろうから(そう願いたいが)、もう少し踏み込んだ記事が書けるかも知れないと期待して。しかし期待は裏切られるだろう。

Dsc_0234中国や韓国のように永遠に謝罪しろ、といっているわけではない

2014年9月 5日 (金)

たびごころ

 昨晩「アローン・イン・ザ・ダークⅡ」という2010年のアメリカ映画を見た。オカルトホラー映画らしいが、あまりのお粗末さに腹が立った。金はかかっていないし、台詞は陳腐、小学校の学芸会でももう少しマシだ。もしかしてラストに山場が来るか、と我慢して最後まで観てしまったけれど、ついになにもなかった。近年最低の映画だ。

 BS朝日の「鉄道 絶景の旅」三時間スペシャル「日本海絶景列車乗り継ぎの旅」を見た。今回は新潟から青森県津軽半島の三厩(みんまや)までの600キロを、日本海に沿って6路線を乗り継いで行く。

 鉄道では断片的にしか走っていないが、車では何度も通った場所だ。そして大好きな場所でもある。出だしを見そびれて、山形県に近い「笹川流れ」から見た。この海の青さ、素晴らしさは現地に行かないと分からない。
 
 そこから山形県へ、そして秋田県、鳥海山の眺望、男鹿半島、そして靑森駅、さらに津軽半島を北上して三厩へ。ラストはもちろん三厩から竜飛岬をめざす。新潟北部から北の日本海の、夏の海の青さ、冬のどんよりした鈍(にび)色の空と海が脳裏をめぐる。

Dsc_0004笹川流れの海の青さ

0611234_002冬の日本海
Dsc_0065鳥海山
1208_180男鹿半島ゴジラ岩
1208_199最後の青函連絡船八甲田丸・靑森駅前にある
8竜飛岬・岩の間の海峡亭という食堂兼民宿に泊まった
Dsc_0064津軽海峡側から竜飛岬を望む(フェリーから)

 ああ、行きたい。車で走り回りたい。無性にたびごころが騒いだ。

 この番組は気が付けば見るようにしている。ナレーションと挿入歌を峠恵子さんという人がやっているのだが、どんな人か知らない。でもやや乾いた声と語り口がとても好感が持てる。アルバムが出ているならCDでも探してみようか。たびごころを掻き立てるだろう。それを聴きながらドライブなんて最高だ。

豊浜(続々知多行)

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豊浜は知多半島の南端に近い西側に位置する。ここに「魚ひろば」という、いくつかの魚屋が集合で販売しているバラックの建物がある。むかしは鮮魚が多く売られていたのだが、いまは乾物が主体になってしまった。あまり売れないのだろうか、めぼしいものが見当たらない。アジの干物を購入。知多まで来てアジの干物か・・・。

魚ひろばの裏手にコンクリートの桟橋と漁港がある。桟橋のところで釣りをしている。

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時間が昼過ぎだから仕方がないが、ほとんど魚のあがっているのを見ない。夏は、朝早くか夕方なら小アジが釣れるだろう。でも知多は小さい魚しか釣れなくなった。わたしは釣りたいときには三重県の南島町まで遠征する。それも回数が激減した。

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魚市場をのぞいたらもちろん市は終わっているからほとんど魚は残っていない。コチだけがたくさん水槽に活けてあった。むこうのおばさんに「コチですね」と言うと「コチです」と答えた。

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上の写真は今回撮ったもの。下は昔撮ったもの。右手の「港口 スロー」のはずの看板が、下では「港口 ロー」、いまは「スロ」だけになっている。

豊浜にはずっと大きな新港がある。昭和天皇が行幸したときにとてつもなく広い駐車場を作ったけれど、いまはそのぐるりの防波堤が釣り場になってほとんど使われていない。

新港の釣りの様子を見に行こうとも思ったが、風が強くなってきた上にぽつぽつ来たので引き上げることにした。

2014年9月 4日 (木)

羽豆岬(続知多行)

140903_29羽豆神社

 羽豆岬は知多半島の最南端、高台に羽豆神社があり、そのふところの入り江にあたるところに師崎のフェリー乗り場がある。この師崎を中継として、三重県の鳥羽と伊良湖をフェリーが行き来している。残念ながら乗客の減少で間もなく休止すると言われている。

140903_11フェリーは見えず。日間賀島や篠島へ行く海上バスに人々が乗り込む。

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秋元康の詩による羽豆岬という歌の歌碑があった。SKE48の歌らしい。

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岬の高台への階段を上りきると羽豆神社の参道。

140903_28羽豆神社

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神社の裏手に羽豆城址の碑があった。知多には城が三つあったらしい。それぞれ熱田神宮などが宰領していたものだという。

140903_36展望台から見た篠島。

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遠望するのは野島か?知多から船をだしてスズキ釣りや鰺釣りなどをするのにこの島の周囲へ行くことが多い。良い根がある。

140903_50おまけ。周りの葉とこの花は関係ない。百合科と思われる茎が陰に隠れている。

仁木英之「仙丹の契り」(新潮社)

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 僕僕先生シリーズ第八弾。ついに王弁たちは吐蕃(チベット)国に入る。第六話で知り合った吐蕃の医師・ドルマの正体が分かる。吐蕃では国王のテムジンの病が篤いという。都のラサにはその風雲急を告げる情勢を見て多数の怪しい者たちが集う。

 珍しく僕僕先生が苦戦する。そして如何にも無力の王弁がその僕僕先生の強い助けになる(いつものことだが)。そしてついに僕僕先生と王弁が仙丹を作るために交わる(?)。

 このシリーズは中国が舞台のファンタジー小説。僕僕先生は少女の姿をしているけれど仙人だから最強である。そして仙人が関係するから物語のスケールは大きい。

 ふだんは老いぼれ馬の姿をした天馬が随行するところ、無力で無垢な王弁、超強力な仙人、と云う組み合わせを見ていると、これは西遊記を彷彿とさせる。

 王弁がなぜ僕僕先生に気に入られているのか、その王弁はどう成長していくのか。それが楽しみなシリーズなのだ。

Dsc_0143表紙が素敵なので・・・

 本日は車の定期点検の日。来週はわたし自身の定期点検の日。それなのに、夜中にこの本を読み出したら止められなくなって、明け方までかかって読んでしまった。

2014年9月 3日 (水)

知多行

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知多半島へドライブに出かけた。天気はどんよりとした曇り空。写真は昔良く出かけた新師崎という場所から見たチッタランド。バブル時代に建てられたリゾートマンションだが、いまはどうなっているのだろう。場所も気候もいいところではあるのだが・・・。

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このリゾートマンションが出来て間のない頃に撮った写真。このときは快晴だった。

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以前はここにたくさんの浮き桟橋があり、ここで釣りをした。小アジや子サバが面白いように釣れた。春には海タナゴも釣れる。

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正面には日間賀島が手に取るように見える。海上バスや海上タクシー(もちろん船)で行く。

収拾がつかない

 今日は午後断水を予告されているので出かけることにしている。天気は下り坂だけれど、知多半島へドライブにでも行こうか。ついでに魚でも買ってくることにしよう。

 部屋はいま散らかり放題となっている。ハードコピーした写真(主にA4サイズ)が山のようにある。それをファイルしなおす作業をしている。同時にブルーレイディスクに撮りためた映画の整理もおこなっている。さらに本の一部を出し入れしているので足の踏み場がない。 

 むかしは撮った写真の半分近くを贅沢にもA4や2L版でプリントアウトしていた。いまは撮った写真をプリントアウトすることは少ない。キリがないし、金もかかる。倹約生活ではそんなにプリントアウトするのは無理なのだ。ただプリントアウトしたものを見るとパソコンの画像よりもきれいだし、見映えがする(と思っている)。細部をじっくり眺めていると、思わぬ発見があったりして、瞬間が凝縮している、つまり時間を切り取っている、という実感がある。動画にはついに手を出さなかった。

 こうして写真を眺めているとたちまち時間が過ぎていく。瞬間が永遠を侵蝕する。

 録画したブルーレイがたまっていくと、BSNHKやWOWOWの映画のどれをすでに録画して保存してあるのか分からなくなってしまった。もちろん見た映画は分かるけれど、まだ見てないものがたくさんあるのだ。整理していると同じ映画を二回録画しているものをいくつも発見する。今後ますますそのようなことが増えるだろう。

 そこで見た映画のデータ保存と、録画した映画のリスト作成をしているのだが、そこへ新しく録画したものが加わるので収拾がつかない。もちろん大まかなリストができ次第データベース化する予定だが、データベースを作成するときには、項目の選択を慎重におこなわないと必ず破綻する。何度も経験して痛い目に遭っている。作業をしながら案を練っているのだ。

 このような作業は自分の人生そのものの整理のためである。撤収するするときのために自分のささやかな存在証明リストを作ろうということらしい。

 しかし自分自身のように、収拾不能の状態だ。

 だから退場はとうぶん先にしてもらいたい。

映画「或る夜の出来事」1934年アメリカ

 監督フランク・キャプラ、出演クラーク・ゲーブル、クローデット・コルベールほか。アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚色賞を総なめにしている。モノクロ映画である。

 「ローマの休日」の原型みたいなお話。ただしこちらは最後まではらはらさせながらハッピーエンドなので、見終わったときの安心感のようなものがある。

 大金持ちの娘で、贅沢に慣れ、わがまま放題に育ったエリーはたまたまであった飛行機乗りのウェストリーと恋仲になり、結婚を望むが、ウェストリーは女たらしで名高い男であることから父親に強く反対される。フロリダの港に停泊する父親の船に軟禁されたエリーは、船から脱走し、ニューヨークのウェストリーのもとへ向かう。

 父親は探偵社や警察を総動員して娘の行方を追うが、エリーはその目をくぐり抜けて長距離バスでニューヨークへ向かう。

 そのバスに乗り合わせたのがピーター・ウォーン(クラーク・ゲーブル)という新聞記者だった。

 この二人の掛けあいの台詞が絶妙で、それがこの映画の高い評価になっているのだろう。

 高慢でわがままで無知なエリーに手を焼き、厳しく相手をするピーター。ピーターの言い分を受け入れざるを得なっていくエリーは、ピーターに本物の男の優しさを感じていく。

 ニューヨークへのバスの旅は紆余曲折し、二人は窮地に追い込まれていくのだが・・・。

 やはりアカデミー賞を席巻するような映画は面白い。

 ヒロインのエリー役のクローデット・コルベールは顴骨の張った顔で、あまり美人とは言えないのだが、次第に可愛く美しく魅力的な女に見えてくるから不思議だ。

2014年9月 2日 (火)

川端幹人「タブーの正体!」(ちくま新書)

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 現代日本社会は言論の自由がきちんと守られていて、あまりにも野放図に過ぎるくらいだ、と思う人も多いだろう。しかし実際にはがんじがらめであると著者は言う。

 とくにもっとも言論を守るべきマスコミが、実際にはタブーだらけであることを告発している。

 ここに書かれている著者の指摘している多くの事実のうち、タブーととるか良識の判断によるものか見方が分かれるものも少なくない。著者が指摘したことに対しての反論を試みることが可能なものもある。

 しかし大半は多分実際にタブーとして厳然と存在するのだろう。しかしそれは表に現れない。現れないからタブーなのだから。こう云うタブーがあることはおとなの常識として知っておく必要があるだろう。

 しかし著者が言うように、問題はタブーそのものではなく(それも問題だが、それを社会全体として解消するのは非常に難しい)、タブーを自発的に産み出して自己規制をしているマスコミそのものにある。

 タブーを産み出しているのは多くは権力だが(弱者の権力というのもある)、ときにはその権力に抵抗することこそ存在理由の一つであるべきマスコミが、自発的にタブーに荷担しているとすればゆゆしきことである。

 ある意味でこの本は恐ろしい本である。この本にあげられた多くの事例が今後いろいろな情報を見る見方にゆがんだ影響を与えるかも知れない。知らぬが仏のこともあるのだ。

映画「アメリカン・ギャングスター」2007年アメリカ

 監督リドリー・スコット、出演デンゼル・ワシントン・ラッセル・クロウほか。

 ベトナム戦争末期、ニューヨークのハーレムにバンピー・ジョンソンと呼ばれる男がいた。表では慈善家の顔を持ちながら裏社会を牛耳るボスで、マフィアとも深いつきあいがあった。

 その運転手をしていたフランク・ルーカス(デンゼル・ワシントン)がこの映画の主人公である。彼はバンピーにかわいがられ、バンピーの全てを見て学んでいた。そのバンピーが急死してしまう。

 バンピーの縄張りは雲散霧消し、大小の組織が狙う。フランク・ルーカスが得意な麻薬の取引にも質の低いものが流通し始め、誰かが暴利を貪り始める。実は警察の中に摘発した麻薬を再流通させて私腹を肥やす連中がいた。彼等は裏組織に金をもらいながらダニのように繁殖していたが、その権力を利用して次第に裏社会で大きな勢力を持ち始めていた。

 ここでフランク・ルーカスは起死回生の行動をとる。麻薬の入手ルートと販売ルートを新たに構築するために自らベトナムに飛ぶ。東南アジア奥地の麻薬を生産しているところに直接取引をもちかけ、米軍を利用したルートを自分のものにするのだ。

 いままで流通で暴利を得ていたマフィアや汚職警官たちは安価な麻薬の出現で大きな痛手を受ける。

 そのころ警察の内部にも秘かに汚職を嫌う警官たちを集めて麻薬ルートの撲滅を図る組織を立ち上げていた。そのリーダーがリッチー・ロバーツ(ラッセル・クロウ)である。彼はあたりまえの正しいことをしたために仲間の警官に白眼視され、相棒は死ぬことになっていた。

 この麻薬取り締まりグループの徹底した調査が始まる。末端から次第にさかのぼり、その実態がおぼろげに見えてきたとき、必然的にリッチーとフランクの対決がやってくる。

 しかしリッチーの本当の目的はフランクの摘発ではなかった・・・。

 デンゼル・ワシントンが凶悪な行動に出るときや屈辱に耐えるときに最高の笑顔を見せる。その凄味がこの映画の迫力を生んでいる。この人は正義感を演じても悪人を演じても完璧だ。そして過去の役柄を引きずらない。

 リドリー・スコットのこの映画は、あのセルジオ・レオーネの「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」を思い出させた。あれはイタリアン・マフィアに対抗するユダヤ・マフィアの話だった。もちろん物語のスケールとしてはだいぶ差がある。

 それにのし上がってやがて・・・という話としてはアル・パチーノの「スカー・フェイス」を思い出すが、ラストはずいぶん違う。

 黒人に対する差別はアメリカの病理だ。差別があり、それを過剰に反省した黒人優遇があり、その揺れは次第に収まるにしても、はるか先まで続くに違いない。この構造はいくらでもこの世にある。黒人問題に限って言えば、そもそもはアフリカ大陸から奴隷として人狩りをして、人身売買をしたという過去がなせることだ。起きてしまったことは起きる前には戻せない。その負債を現在と未来とにわたって払い続けなければならない。

 日本と韓国や中国との関係にもそれを見ることができる。過去をなかったことには出来ないが、過剰な贖罪意識も事態の解消にはならず、かえってそれを増幅させる。

2014年9月 1日 (月)

岡田英弘「中国文明の歴史」(講談社現代新書)

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 中国の歴史についてはいろいろな本を読んできた。読むたびに新しいのはこちらがすぐ忘れるからだが、この本はわざわざ「中国文明」としているように、従来の中国史の本とはいささか違う。

 いまは中国という国としてくくられているけれど、そもそも中国と云う国は西洋的な国とは国家感をかなり異にする。それがなぜなのか、しばしば中国の中華思想を理由に挙げるけれど、もう少し深く考察することも出来そうだ。

 この本には直接的な答は書かれていないけれど、最後まで読めば自ずからその答が見つかるだろう。

 なによりこの本が他の中国史と違うのは、とにかく中国を支配したのは主に漢族のように思われているけれど、それは違うこと、漢民族以外、東夷西戎北狄と呼ばれ他民族やその流れを汲んだ皇帝が支配している期間が圧倒的に多いことが明らかにされていることだ。

 中国史をある程度詳しく知るとそれは常識なのだが、そのことをここまであからさまに詳述した本は珍しいのではないか。だからカタカナ名前の人名が無数に出てくるので、読むのは多少苦労するかも知れない。

 日本人よりも中国人に読んでもらいたいくらいだ。きっと「中国人もびっくり!」に違いない。

祭りは参加しないと

 日曜日はふだんよりもテレビを見る。「たかじんのそこまで言って委員会」「笑点」「ザ!鉄腕!ダッシュ!!」「世界の果てまでイッテQ」をとくに楽しみにしている。おお!なんということだ。全て日テレ系、大阪なら読売系ではないか。というわけで昨日は全て24時間の特番で放送はなし。

 この特番を時々ちらちら見たけれど、登場する人々がそれぞれ大いに盛り上がって、ときに感涙にむせんでいるのを見ても断片的なので何の事やら分からない。リーダーの城島君はゴールできたのだろうか。

 九十九里浜に近い千葉県の地方都市で生まれ育ったけれど、高校生くらいからその街を離れた。街の祭りがあるときにたまたま帰省すると、祭りを仕切っているのは子供の頃の同級生や顔なじみだったりする。彼等の顔はとても活き活きとしているけれど、こちらはあくまで傍観者で部外者だと言うことを思い知らされる。

 祭りは参加しないと盛り上がらないし面白くもなんともない。

 「男はつらいよ」の第一作で、二十年ぶり(だったかな?)に柴又に帰ってきた寅次郎が帝釈天の祭りで見事に纏(まとい)を振り、見物を感嘆させる。たちまち祭りの参加者になる。これは脳天気な寅次郎だから出来ることだ。そして柴又のふところの深さと暖かさが許すことでもある。しかし本当のところは寅次郎は定住者ではない。街の住人と、よそ者との境目にいる。飛び入りは許されても、主催者にはなれない悲哀がやがて彼を再び旅に送り出すのだ。

 祭りを見に行くとその哀しみをこそ実感する。

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