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2014年10月

2014年10月31日 (金)

無為

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 本も読まず、録画したドラマや映画も見ず、さりとて外出もせず、無為に一日を過ごしている。いつもなら少しでも時間に隙間が出来ると、もったいないと思うのに、ときどきそんな無気力な気分のときがあり、しかもそれがしばらく続いたりする。

 オーバーヒートかガス欠か。いつかはまたごそごそと動き出す。

 仕事をしていたときはそれをねじ伏せて、決まった仕事と時間に追われる日々だった。けれどもいまは無為なら無為でもかまわない。これが自由であることの喜びだ。

 空虚と充実のメリハリの中に心のメリハリも存在する。

 しかしあまり放電しすぎると再起動に時間がかかりすぎることになる。連休明けくらいには自分の尻を叩こうか。

 空っぽのままぼんやりと時間が過ぎている。

大石英司「尖閣喪失」(中央公論新社)

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 こういう小説は生ものと云って良いかもしれない。小説の背景である国際的な状況が時々刻々と変わっているから、書かれているものと現実との乖離が生じてきて多少興を削ぐ。とはいえ尖閣問題が(問題などそもそもなく、問題にしているのは中国の一方的なものだが)いまだに不快なとげのように存在していることは事実である。

 中国でチベット問題、ウイグルのテロの続発、貧富の格差拡大、環境汚染問題が深刻化し、中国国民の不満のエネルギーが中国の政権にとって看過できないほど高まっているという状況は、この小説の背景と実際の現実と同じだ。むしろいまのほうが右肩上がりであった経済がそろそろ息切れしてきている分、不満のエネルギーは高まっているかも知れない。

 日本で、長期政権(自民党が想定されている)を倒して国民の大きな期待を受けて誕生した新しい党(民主党が想定されている)が政権を担ったが、そのバラ色のうたい文句に反して未熟さを露呈、対米対中国をはじめとした外交の失敗、財政改善の失敗、長期不況からの脱却の失敗で国民から総スカンを食らい、ついに衆議院の解散に追い込まれる。その政権与党の大敗は必至と見られる状況のさなか、中国の尖閣周辺での動きに不審なものがあることに気が付いた人々がいた。

 政権交代の時に生ずる空白に乗じて中国が尖閣に対して何らかの行動を起こす可能性が高い、と判断した人々が秘かにその対策のために対抗策を準備していく。

 それぞれが極秘でそのD-ディ(与党が選挙で大敗し、政権交代前後に責任の所在があいまいになるだろう日)に向けて動く。中国側の作戦が語られ、そして日本側の準備が語られていく。日本側の可能な限りの秘策の駆使は、これなら行けるかも、と思わせてくれる。そして中国は自分たちの意図が日本に洩れていないと思い込んでいる。

 ついに中国が作戦を開始する。可能な限り万全の準備をしていた日本はギリギリのところで中国の作戦に対抗していく。しかし中国側は自己正当化のために絶対に火器の使用はしないはず、と考えた日本側の読みは正しかった。しかし中国側の投入する船団の数は凄まじい。

 日本側の対策のための反撃は中国の想定を上回って強硬なものである。焦る中国。並行して日本側は必死でアメリカが乗り出すよう要請し続けるのだが・・・。

 この攻防は大迫力である。結果は読んでもらいたい。2012年の本だから探せば店頭にまだあるだろう。全てが済んだあとの、あれは何だったのか、というラストののどかさが、妙にリアリティを感じさせる。

2014年10月30日 (木)

漂流郵便局

 「あさチャン」という朝のテレビ番組で「漂流郵便局」が紹介されていた。「漂流郵便局」というのは正式の郵便局ではないので、郵便局の業務はおこなっていない。瀬戸内海の粟島にあった(いまは閉鎖)された郵便局を芸術作品として改装して公開し残してあるもので、いろいろな仕掛けがある。

 その「漂流郵便局」あてにたくさんの郵便物が届けられる。もとの郵便局の局長だった人でいまは「漂流郵便局」の局長さんが、届けられた郵便を受け取る。

 届けられる郵便物は現実に届けることが出来ない宛先のものである。過去、現在、未来にまたがり、関わった人たちや動物、もの、思い出などが宛先である。かわいがっていたけれど死んでしまったペットや、過去の初恋の人、これから出会うであろう恋人、死んだ人への思いが綴られたはがきが「漂流郵便局」あてに届けられる。

 何かへの思いは心の中にあるけれど、それを手紙に書くなどしてかたちにすると、いっそうその思いがつのり、くっきりする。いくつか紹介されていたけれど、心に響くものがあった。キャスターの夏目三久さんが、それらを見て聞いて涙ぐんでいた。「最近死んだ祖母のことを思い出して・・・」と言う。多分映像を見ながら彼女なりの祖母宛の手紙を心の中で書いていたのだろう。

 番組の最後に赤い目をして「お見苦しいところを見せてすみません」と謝っていたけれど、いえいえ好いものを見せてもらいました。彼女はチャーミングで好きだけれど、ますます好きになった。

 「漂流郵便局」への郵便は原則公開を了承しているものとして扱われるので、郵便を送ることもここを訪ねることも郵便物を見ることもできるようである。詳しいことはネットで調べられる。

ノラへ(漂流郵便局あて)
 君は寝ている僕の布団にもぐり込む。僕の胸に身体を預けて眠る。僕の顔に君の息がかかるから僕は目が醒めてしまう。君の体温でこちらはほかほかだ。

 あの至福の時が永遠だったら素晴らしいけれど、君はもういない。君の魂はちゃんと天に召されただろうか。僕は君のことが忘れられず、いつも心の片隅に君への思いがある。それが次第に薄れてきたのが哀しいけれど、それも40年以上経っていれば仕方のないことだ。でも決して忘れないよ。君は永遠に僕の中で生きているよ。

翔田寛「誘拐児」(講談社)

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 病院での老母の介護は以前のように下の世話も食事の手助けもいらない、ただ万一のことがないよう脇にすわっているだけ、と言うきわめて暇なものなので、ぼんやりしているか本を読むしかない。

 おかげで読みそびれていた本などをただひたすら読んだ。在庫一掃払いだ(多すぎて一掃は無理だけれど)。その介護も昨日の退院で一区切り。夜名古屋へ帰る。

 いま東名高速の集中工事中であることを失念していた。中央高速で帰れば良かった。トラックだらけの中の夜の高速の渋滞はかなり消耗する。えらい目に遭った。疲労困憊。トラックの運転手さんたち、本当に毎日ご苦労さん。

 さて、この本は2008年出版、第54回江戸川乱歩賞受賞作である。そういえば書きそびれたけれど、この前に取り上げた酒見賢一の「陋巷に在り」は中島敦記念賞受賞作だ。中島敦については・・・と書き出すととまらなくなるので止めておこう。

 プロローグは昭和21年8月、終戦から約一年過ぎたばかりの五歳の男の子の誘拐事件。犯人逮捕の最大の山場、身代金の受け渡しに万全の体制で臨む警察。しかし思わぬ事態が起こり・・・。

 そして舞台は昭和36年に変わる。

 一人の女性が夜道で襲われ、烈しい暴行を受けた後絞殺される。事件を追う警察。仲の悪い二組の刑事たちが、違うアプローチで犯人に迫る。

 それと平行してその事件の頃、母をガンで亡くした二十歳の青年が、死んだ母が実は本当の母ではないのではないか、との思いから母の残された手帳を手がかりに母の過去を調べ始める。

 これら三つの筋が交互に語られ、殺人事件の真相と過去の誘拐事件が深く関係していることが次第に明らかになっていく。そして明かされる事実とそれを糊塗しようとする意外な犯人の逆襲。危地に追い込まれる青年とその恋人の運命は・・・。

 青年の母への複雑な思いは、全ての真相が明らかになったとき熱い涙となって浄化される。

 最後まで昭和36年がメイン舞台だとは思わなかった。現代を舞台にした場面もあるのかと思ったのだが、少し考えすぎだったかも知れない。昭和36年、不肖私は小学校五年生であったから、この物語に描かれる世相風物は自分の記憶の中に在る。なつかしい、と言うほどでもないが、思い出した。

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2014年10月29日 (水)

家へ帰りたい

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 今日老母が退院した。先週手術(点滴用ポートの埋め込み)後の抜糸をしたので、退院はいつでも可能だったのだが、家へ帰ってからの受け入れ体制がなかなかたいへんなため、今日になった。

 老母は入院する前とうってかわって元気になり、あと長くても半年、などと云われていたのがうそのように活発に動く。上半身の太い血管に直接高カロリーの点滴が出来るようになったからだ。そして家に帰りたい気持ちを、言葉に出来ないからしきりに仕草で表す。

 でも寝たきりで誰かの介護が常に必要であることは変わりがなく、病院なら専門の看護師が入れ替わり立ち替わり面倒を見てくれるけれど、家に帰れば当然そこまで行き届かない。

 そのことを言って聞かせて待つように言うのだけれど、帰りたい気持ちが強い様子だ。どうしてなのだろう、と思っていたのだが、何となく分かってきた。

 看護師にはわがままが言えず、従うしかない。しかし家に帰れば気を遣う必要がない。自分の希望を自分のペースで主張できるのだ。多分そういうことなのだと想像している。

 金銭的には入院しているより自宅介護のほうがありがたい。本人もそれを希望しているし。しかし介護するほうはこれから再び気が抜けない日々が続く。

 私も疲れた。家に帰りたい。

酒見賢一「陋巷に在り 13 魯の巻」(新潮社)

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 これがシリーズの最終巻。シリーズものはたいてい全て揃ってから読むことにしているけれど、このシリーズは新刊を購入するとすぐ読んで、次を待ちかねていた・・・はずなのに、この最終巻だけ10年以上読まずにいた。なんと2002年出版の本を今頃読んでいる。12巻目を読んだのはさらに昔だ。

 実は大きな山場、つまりクライマックスは終わっていた。12巻で終わりにしても良いくらいだ。では13巻とは・・・。

 その前にこの本がどんな本なのか知らない人も多いだろう。題名から想像がつくと思うけれど、「陋巷に在り」という言葉は論語にあり、これは孔子の最愛の弟子、顔回が陋巷(裏町の貧民街とでも言おうか)に住んでいたことをいう。この本は孔子と顔回が主人公の物語なのだ。

 確かに読むためには漢文の多少の素養と、ある程度の中国の古代についての知識があると良いけれど、そんなもの読んでいると身につく程度のもので、物語のおもしろさはそんなハードルを軽々と越えさせてくれる。

 ときは春秋時代末期、呪術が心を通して物理的に作用するという時代、権謀術数渦巻く魯の国。儒というのが現代の我々の認識とは全く異なる力を持っていた。

 戦国時代とは下克上の時代、春秋時代の国王たちは実権を失い、臣下の傀儡になり、やがて完全に王権を奪われ、国によっては分裂した(たとえば晋の国は韓・魏・趙の三つに分裂、斉は田氏に奪われた)。

 「春秋」は孔子が表した歴史書とされている(実際は違うともいわれる)が、孔子はまさにその時代の末期にいたのだ。孔子のいた魯の国はすでに三家に実権を奪われており、孔子はそれを正し、王に実権を取り戻そうと努力した。その魯の国を崩壊させ、乗っ取ろうとしていた奇怪な人物たちがいた。これは歴史書に残っている事実である。

 こんなことから書いていると切りがなくなる。つまりそのような奇怪な人物たちとの不思議な戦いがこの物語なのだ。そして最後に残った首魁である少正卯(しょうせいぼう)との戦い、そして隣国から送られた女楽(媚をもって国を傾ける恐るべき集団)との戦い、そして孔子の出魯がこの第13巻の物語だ。一応物語は終了する。

 孔子が少正卯を断罪したことは「史記」などの歴史書に書かれている史実だ。そして孔子が音楽を愛していたこと、そして淫楽を毛嫌いしたことはよく知られている。
 
 顔回がなぜこれほど孔子に愛されたか、どんなところか優れていたのか、論語を読んでも(あんまりよく読んでいないけど)良く分からない。この本の通りの存在なら、孔子が高く評価したのは当然であり、私の心の中ではすでにそのような存在になってしまった。

 著者のあとがきにも書かれているが、孔子は魯を追われるように出国して10年以上各国を放浪し、艱難苦闘の日々を送ることになる。晩年ふたたび魯の国に戻り、二度と政界に出ることなく静かな余生を送るのだが、そのときにはもう顔回はこの世にいない。

2014年10月28日 (火)

ノーマン・メイラー「黒ミサ」(集英社)

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 野島秀勝・訳。解説にはこの作品はフランスの耽美派作家J・K・ユイスマンの「彼方」という小説をノーマン・メイラーがシナリオ風に翻案脚色したもの、とある。

 十九世紀末のパリ、小説家のデュルタルは、十五世紀の悪魔主義者ジル・ド・レの伝記の執筆に没頭している。彼はついにジル・ド・レを幻視し、その所業を目の当たりにする。

 ジル・ド・レとはあの聖女ジャンヌ・ダルクとともに戦い、フランスを救った若き英雄だが、ジャンヌ・ダルクが火刑に処せられたあと、幼児を次々に陵虐して惨殺するようになった人物である。

 究極の悪に救いはあるのか。

 マルキ・ド・サドの小説世界のようなおどろおどろしい光景が一部描かれているが、サドのものほどこれでもか、というしつこさはない。

 しかし宗教にとことんのめり込むと、ついには地獄に近い世界にはまり込むというのはどうしてなのだろう。

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 表題の「黒ミサ」のシーンも描かれるが、黒ミサに陶酔する人々というのが私には理解不能である。オウム真理教でもおかしげなヘッドギアを装着し、神がかり的な呪文を唱えて陶酔する姿を見た。私にはデモ隊が先頭のリーダーのシュプレヒコールに唱和して、口々に同じ言葉を叫ぶことすら忌まわしい。

 だからこの小説も、そのおぞましい行為を行う悪魔主義者の心性に共感するにはあまりにかけ離れすぎていて、届くものがない。

 破壊のかぎりを尽くす絶対悪こそ再生につながるという、バリ島で見たヒンズーの思想につながるところがこの「黒ミサ」にはあるのだろうか。とてもそうは思えない。悪魔主義者は神が存在しなければ存在し得ない存在ではないか。だから盲信を突き抜けると悪魔主義に陥るのではないか。

 これ以上想像を膨らませると何が飛んでくるか分からないことを書きそうなので止めておこう。

 ノーマン・メイラーには「裸者と死者」という硫黄島らしき島での日本軍とアメリカ軍との壮絶な戦いをフラッシュバックの手法を多用して描いたすばらしい小説がある。それ以外の本もいくつか読みかけたけれど、あまりなじめるものに出会えなかった。

宮家邦彦「哀しき半島国家 韓国の結末」(PHP新書)

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 この本では韓国は韓国、北朝鮮は北朝鮮だが、朝鮮全体を語るときはコリアという呼び方をしている。だから朝鮮半島はコリア半島、そこに住む人はコリアである。これは何らかの価値観の導入ではなく、便宜的なものだ。

 そのコリア半島の近未来(10年から20年くらい)を予測するための準備として、コリアの人たちの心性、韓国や北朝鮮の現状などが具体的な事実に即して語られたあと、コリア半島の歴史を語っていく。

 この本がユニークなのは、いままでコリア半島の歴史を語るとき、コリア半島と中国との二国関係で語ることが普通であるが(最後は日本とも関係するが)、この本ではその二国関係にさらにいまの中国東北三省、戦前で言えば旧満州地区を独立した地域としてマンジュ地区と仮称し、三つの地区の関係として地政学的に歴史を語っていく。

 コリアの人々、つまり民族としての朝鮮族は、今は完全に中国となってしまったマンジュ地区にもたくさんいることはご承知の通りである。コリアというエリアは歴史的に大きかったり小さかったりしていて、いまの鴨緑江をもって中国と接する、と言う境界は歴史的にはつい最近のことだ。 

 その三つの地区の関係をもとにした歴史を語ったあと、それぞれの地区の状況別の分類を行う。中華地区(コリアという言い方と同様、中国地区を国ではなく地域として呼ぶ言い方として中華地区と仮称する)が分裂しているか、強力な統一国家であるか(中国の歴史を見れば分裂していた時代がしばしばあり、さらに漢民族が統一していた時代と同じくらい異民族が国家を形成していた時代が長い)を基軸にして、コリア半島、マンジュ地区が分裂していたか、統一国家が存在していたか、外部により支配されていたか、と言う分類を行い、その視点から歴史を眺め直す。つまり2×3×3=12通りのパターンに分類するのだ。

 この分類に基づいた歴史の見直しを簡単にまとめて前半が終わる。これでコリア半島の地政学に基づいた近未来予測のための基礎的な準備が整った。

 後半部は、コリア半島の近未来予測を中華地区が統一を維持し、強力である場合、中華地区が分裂し、弱体となる場合に分け、さらに北朝鮮の体制がどうなるか、緩やかな崩壊(ソフトランディング)、急激な崩壊(ハードランディング)、北朝鮮存続・金一族失脚、北朝鮮軍事侵攻という四つの状況に分類する。つまり分類としては八つになる。

 さらにそれぞれの分類について、半島分裂継続、半島統一、半島統一失敗による再分裂という三パターンを考える。最終的に全てで24通りのシナリオを想定する。大変ややこしいが、あり得る場合を論理的に網羅するとこのようにならざるを得ないようだ。

 この24通りのシナリオについて一つ一つ検証し、日本にとっての利害得失、その対応策を考えていき、日本にとって望ましいコリア半島の結末はどれか、最悪はどういう場合か、考察する。

 これが地政学というものらしい。読むのに骨が折れると思ったら、著者は書くのに当初考えていたよりもだいぶ骨が折れた、と語っている。そうだろうと思う。

 意外と言って良い結論(それほどでもないか)になるが、単純な嫌韓論などの及ぶところではない論理的考察の結果なのだ。

 それで結論は? もちろん本を読んでください。パズルよりも知的訓練になりますよ!

2014年10月27日 (月)

宮部みゆき「荒神」(朝日新聞出版)

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 朝日新聞に連載した小説を単行本にしたものだが、大巾に加筆修正されているそうだ。連載中に断片的に読んでいたけれど、あまりストーリーが分からなかった。それもそのはず、最初からきちんと読まなければおもしろさが分からない物語なのだ。

 物語の中では「荒神」という名で呼ばれたりしないけれど、まがまがしい怪物が出現する。

 関ヶ原の戦いから約100年、元禄の頃、南東北の山間の村が一夜にして壊滅状態になる。ここは永い因縁を持ち、常に係争の絶えない二つの藩の堺にあたる。

 村の壊滅の真相を目撃した少年・蓑吉や、わずかな生き残りのひとの言葉は信じがたいものであり、そのためにかえって不審なものとして不幸な目に遭ったりする。

 やがてその「まがまがしいもの」が実際に人々の目の前に現れる。人々はとてつもなく巨大なその怪物にたちむかうのだが、まるで歯が立たず、なすすべもなく次々と喰われてしまう。

 この怪物の正体とは何か、なぜいま出現したのか、そしてそれを倒す方法はあるのか。少年・蓑吉、幕府隠密、苛斂誅求な藩の重臣・曽谷弾正、その心優しい妹・朱音、若侍の小日向直哉、朱音を守る自称用心棒の居候・榊田宗栄、怪しい絵師・菊地圓秀、そして不思議な知識と能力を持つ「やじ」と呼ばれる若者などをはじめ、大勢の人々が登場する。

 この小説はいわゆる伝奇小説といえるだろう。古くは小栗虫太郎や国枝史郎、最近では(そんなに最近ではないが)半村良のテイストを持つ。

 イメージとしては「もののけ姫」の「タタリ神」、「千と千尋の神隠し」の暴走する「カオナシ」を思い出してもらえば良いだろうか。

 このような物語を思いつくことは、想像力の豊富な作家であればいくらでも可能だろうけれど、それを壮大な物語としてまとめ上げるのは尋常な能力ではない。現に先ほどあげた国枝史郎や小栗虫太郎の奇怪な伝奇小説は完結していないものが多い。

 たっぷり時間のあるときに、この大部(563ページ)の物語を一気に読めば、宮部みゆきの世界にどっぷりとはまるという至福の時間を楽しめるだろう。

 ああ面白かった。こんな面白い本、読まないなんてもったいない。

2014年10月26日 (日)

馳星周「帰らずの海」(徳間書店)

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 刑事・田原は20年ぶりに故郷の函館に戻ってくる。故郷から逃げるように札幌に去ったきり、一度として戻ったことがなかった田原に、函館西署への異動が命じられたのだ。

 そして赴任の日、殺人事件の一報が入る。被害者は彼がむかし愛した女だった。  

 中島みゆきの歌ではないけれど、人は五年たったら変わる。ましてや20年、変わり果てた彼女の姿に田原は過去を嫌でも思い出す。いや、思い出そうとしなくても常に過去は彼に強く付き纏い続けていた。

 犯人の捜査と田原の過去の回想シーンが交互に繰り返され、犯人捜査以上に過去に何があったのかに読者は強く興味を持たされる。

 真相は最後の最後までなかなか明かされない。そして馳星周らしく、烈しい暴力の果てに強い哀愁を残してジ・エンドとなる。

 警察小説であり、その枠を越えたハードボイルドである。そんな分類なんて余り意味がないか。つまり馳星周なのだ。読めば分かる。

2014年10月25日 (土)

140920_9 これは丸顔

 父の系統はおおむね面長である。母の系統はあごの骨が張った四角い顔だ。弟は父の系統で、私は母の系統だ。

 病院で寝ている老母の顔を見ていると、昔はそれなりにふくよかだったのが、肉が次第に落ちて骸骨に張り付いたみたいになっているので、ますます四角い顔になる。顔が小さくなっている。

 母は口が利けないので、話しかけると瞬きしないでじっとこちらの顔を見つめる。にらめっこみたいになると、無心の母にはとうてい勝てないからこちらが目をそらす。人はそんな風に人を見つめない。多分ほとんど赤ん坊みたいなものなのだろう。赤ん坊に見つめられるとこちらも何となく下手くそなほほえみをもって応えるしかなくなる。

 照れるぜ。あんたの息子だよ。ここにいるよ。

増えているのだけれど

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 中国メディアが、中国の観光客が韓国に行く人の割合が増えていることを取り上げて、日本を敬遠して韓国に観光客が向かっている、との記事を掲載していた。

 では日本に来る中国からの観光客は減っているのだろうか。そんなことは全くなくて、中国から日本に来る観光客は右肩上がりで増えている。円安の恩恵は中国や韓国、そして東南アジアの人々の足を日本に向かわせている。

 何より日本へはリピート客が多い。一度行って日本の客へのあしらいに感激して、ふたたびみたび来る人が多いのだという。リピート客があるかどうかは観光地の存続の要だ。

 どこまで本当か分からないけれど、中国の観光客が韓国に行ったあとに、不満たらたらのネットへの書き込みをしているのを見ることがよくある。

 韓国人の中国人に対する思いは、日本人に対するのとは違う意味で複雑なものがあるのだと聞いている。実際に済州島に行ったとき、大きな船(一回に何千人という数らしい)でやってくるようになった中国人に対して、現地の人やガイドの辛辣な物言いをしているのを聞いて、意外な思いをしたことを思い出す。それを中国の観光客も敏感に感じるのかも知れない。

 朴槿恵大統領の思いは知らないけれど、観光客の半分以上が中国人になることを韓国の人は歓迎しているのだろうか。大勢来て、たくさんお土産を買ってくれればそれで良いのか。

2014年10月24日 (金)

気がついたこと

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 この写真をいまデスクトップの壁紙にしている。

 インドネシア・バリ島のケチャダンスのヒーロー役、ラーマ王子だ。写真で見るとおり、女性が扮している。女性に髭が描かれていて、ちょっと滑稽に見えるのだけれど、本人が大まじめなので全く違和感がない。けっけいだけれど違和感がないことは実際に見ないと分からない感じ方かも知れない。

 よく見ると顔の周りに煙が漂っているのが分かる(無理かなあ)。これは髪に火のついた太い線香が飾られていて、そこからの煙だ。

 彼女の腕の肉感が感じられる。そして右側のラーマ王子の后の黒髪がぼってりと写っている。私はその王子の后よりも王子の方に色気を感じた。そういうことはケチャダンスのときにはかすかにしか感じられなかった。

 この写真をデスクトップの背景にしてぼんやりと眺めていると、そういうことの感じが何となく分かったりする。

 写し取られたものの意味、瞬間を切り取ったことの意味を感じる。多分もっともっと瞬間には盛りだくさんの何かがある。

言論統制

 いつも楽しみに拝見している「もなさん」のブログ「アラフィフの海外で節約生活」を見たら、香港のデモの影響か、ココログのブログを見ることができなくなったという。すでにヤフーなどのブログは見ることができなかったらしいが、ココログも規制されだしたようだ。

 かろうじて書き込みはできる(だから私も拝見することができたのだ)が、アップした自分の記事すら見ることができないのだという。当然彼女はこちらが書き込んだコメントなども見ることができない。

 なんという国だろう。こんなことをしないと体制を守れないほどの国というのは、そもそも存在自体に無理があることを明らかにしているようなものだけれど、当事者は全くそう思っていないらしい。

 中国崩壊論が喧伝されているけれど、それが荒唐無稽とは思えなくなってきた。習近平という人は歴史の必然にあらがって、中国をいったいどうしようというのだろうか。

大沢在昌「雨の狩人」(幻冬舎)

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 ハードボイルドである(むかしコメディアンの内藤陳が「ハードボイルドダド!」というギャグで受けていたけれど、そんなこと知っている世代はもうごく少数か)。これもハードカバーで600ページを超える。比較的最近出た本。

 「北の狩人」、「砂の狩人」、「黒の狩人」と、「狩人」が題名に入る小説が何冊かあるが、「新宿鮫」のシリーズとは違って主人公も物語も別々である。

 ハードボイルドが好きで、むかしハメットやチャンドラーをよく読んだけれど、日本には正統派のハードボイルドは無理だと思っていた。しかしいまはそうそうたる顔ぶれが揃っていて読み出したら切りがないくらいになった。北方謙三、大沢在昌、馳星周の三人の作品が特に好きで、新刊が出れば大抵買って読む。そしてこの三人は多作なのに外れがまずない。主人公にどっぷりと感情移入して、生死を超えた男(ときには女)のぎりぎりの生き方にしびれさせてもらう。

 凄腕過ぎて部内でも浮いている新宿署暴対課の刑事・佐江と警視庁捜査一課の谷神が、新宿で起きた殺人事件を追ううちにプロの暗殺者の影をかすかにつかむ。そしてその背景をたどるうちに日本最大の暴力団・高河(こうが)連合の巨大な企みに気づいてしまう。

 ストーリーの前半では明かされていないので、ここでは控えるが、今現実に話題になっていることがこの企みに関係があり、そういうこともあるかも知れない、と思えてしまう。

 タイから日本人の父親を探してやって来たハーフの少女の物語が複層的に重なり、しみじみしたとエンディングが余韻を残す。面白すぎて夢中で読んでいたら夜中過ぎになった。眠い。

 次は馳星周の「帰らずの海」を読み出した。これも出だしからすばらしい。いける。

 本日は船橋で「兄貴分の人(複数いる)」の一人と久しぶりに会食する。いまから待ち遠しい。その前に読み終わらなければ。途中で切り上げるのは嫌だから。

2014年10月23日 (木)

「知らねえよ!」

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 この言葉はフーテンの寅さんの言葉だ。どんな場面でこの言葉を発したのかは覚えている。でも第何作目かは覚えていない。ただおいちゃんが森川信だったからシリーズ初期の頃だ(多分第一作か)。

 いろいろ屈折することがあって、寅さんがおいちゃんの大事にしている角(サントリーのウイスキーの角瓶)をこっそり飲み出したところへがやがやとみなが登場して、慌てて押し入れの中に隠れる。

 家族やタコ社長が寅さんを口々に非難する。そういわれても仕方がないことがあったあとだから、寅さんも押し入れの中で黙って聞いているしかない。

 そのときおいちゃんが頭を抱えて「横になりたい」という。そしてさくらに「まくら、さくらを出してくれ」というのだ(ちょっとみんながずっこける)。

 枕は押し入れにある。寅はぎょっとする。さくらは言われるとおりに枕を出そうとして押し入れを開ける。

 寅の悪口を口々に言っていた面々は押し入れの寅を見て、絶句する。「寅、そこにいたのか」というおいちゃんに、「知らねえよ!」と答える寅の気持ちが分かるだろうか。

 私の中ではこの「知らねえよ!」が時々突然聞こえる。

 生きているとそうとしか言いようのないことが何回かあった。そのことが突然夢で思い出されたりすると、まことに引っ込みのつかない追い詰められたような思いがする。

 そんなときは開き直って「知らねえよ!」と言う。

 そして、夢だと気がついて、そんなことを言わなくても良いんだ、と思って涙がこぼれるような安心な気持ちになったりする。

月村了衛「機龍警察 自爆条項」(早川書房)

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 ハヤカワJA文庫の「機龍警察」の続編である。しかし単独の読み物として読んで全く問題なかった(今のところ前作や、このあとの続編を読むつもりはないが)。

 重火器による凶悪事件が世界に多発するようになっていき、本来は戦争用に開発された装攻兵(人間が乗り込んで一体化して操縦するロボット型の兵器)が警察の特殊部隊として配備され始めたという近未来のお話である。アニメの「機動警察パトレイバー」と似た世界観といえようか。

 この物語はしかし装攻兵が闘うシーンが意外に少ない。いま始まるか、いま始まるか、と焦らせてラストに爆発的にすさまじい争闘が行われる。

 そしてこの物語は警察小説なのだ。しかも主人公たちのいる警視庁特捜部は警察の中では疎外されて白眼視されている部隊である。警察小説に良くあるパターンだ。あの「相棒」シリーズもそうだ。

 さらにこの小説のメインキャラクターのひとり、もとIRF(IRAの過激分派)のテロリストだったライザ・ガードナー警部の過去と、実際に進行していく事件がシンクロしていくという構造になっている。

 特にこの部分があることが文庫ではなくハードカバーとして出版された理由ではないかと思う。それだけ彼女の過去の物語はすさまじいのだ。

 この本も分厚いので後回しにしていた本だ。しかし読み始めて興が乗れば一気に読める。著者はもともと脚本家なので場面転換が巧みで、映像的な文章、台詞による登場人物の性格のかき分けなどがうまい。

 こういう本を読むとちょっと精神的にSFモードになるので、読み切れずにしまってあるSFを読みたくなるのだが、残念ながら自宅にいるわけではないのであきらめる。

2014年10月22日 (水)

石黒輝「死都日本」(講談社)

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 厚い。エンターテインメントは一気に読むと決めているので、後回しにしているうちに買ってから十年以上たっていた。2002年出版の本。

 南九州、霧島火山の下には加久籐火山という、古代に大噴火した大火山がひそんでいる。その真ん中に霧島火山群がちょこんと載っているのだ。その霧島火山帯で群発地震が多発。そのことの意味を数々のデータから察知した専門家たちがいた。

 膨大なデータと推論があふれるように記載されている。学術書なら決して読まないだろう文章をおもしろく読ませてぐいぐいと読者を引きつけていく。

 この本は新しいかたちの「日本沈没」だ。未曾有の災厄が日本を襲う。巨大火山噴火による災害がどれほど恐ろしいか、リアリティをもって知らされる。 

 東日本大震災を経験し、つい先日の御嶽山の噴火の記憶が新しいいま、この本を読んでいてこれが単なる小説で良かったと思う。と同時に各地の火山の活動が活発になっているという兆候の意味を軽く考えない方が良いのではないかと思う。

 とてつもないスケールと膨大なデータ、そして気の遠くなるような多数の死者の数に圧倒される。このタイプの本で久しぶりに興奮した。この本はベストセラーにならなかったのだろうか。日本がその壊滅的な状況を受け止めながら、それを再生のきっかけにするための起死回生のアイデアが盛り込まれている。残念ながらそこがこの本の弱点でもあるように思う。こんなにうまくいくはずがないけれど、そのために読後感が絶望的でないのが救いなのだろう。

 探してでも読む値打ちのある、おもしろい本である。そして東日本大震災の後であるいまだからこそ読み甲斐のある本である。

 民主党が政権を取り、東日本大震災への対処のお粗末さ、外交の無能さを露呈して期待外れに終わり、政権を追われたいま読むと、ちょっと滑稽な点もあるがそれは愛嬌だろう。

ローレンス・サンダーズ「汝姦淫するなかれ」(早川書房)

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 延原泰子訳。ローレンス・サンダースはアメリカの超がつくようなベストセラー作家で、若い頃はよく読んだ。この本は彼の十戒シリーズのひとつだが、出だしを読んだきりで積んだままになっていた。シリーズの外の作品と多少肌合いが違っていて、感情移入しきれず、没入できなかったのだろう。つまりおもしろいと思わなかったのだ。

 とはいえローレンス・サンダーズである。しかもこれもアメリカでベストセラーになった本だ。

 各作品の主人公は全く違う。この本の主人公ドーラは保険会社の女性調査員。「赤毛、身長百六十センチで体重六十八キロと、スマートとは言いかねる体型。しかも料理上手な夫をもったおかげで、ダイエットの決心も鈍りがち」。しかし凄腕のキャリアウーマンにはとても見えない外見の奥には鋭い頭脳が隠されている。

 ニューヨーク・マンハッタンの本店を始め、世界に支店を持つ宝石商が殺され、保険金三百万ドルが請求される。この宝石商一家は五番街のコンドミニアムに住む大富豪である。その一家にはいかがわしい新興宗教家や、得体の知れない美形の兄妹が出入りして深く関わっている。

 果たしてこの殺人に、保険金の受取人である一家は関係があったのか否か、ドーラの調査が始まる。

 読み進んでいくうちにドーラが魅力的に見えてくる。それも活き活きしているけれど当たり前の女性としての魅力だ。それが前回読み始めたときにはつかめなかったのだろう。

 そのドーラの人を警戒させない姿と、平凡さの中の魅力が相手の口を緩ませる。次第に明らかになる一家とそこに出入りする人間たちとの関係。そして新たな殺人が・・・。

 ドーラは表面上の調査では決して現れることのない事実を、不思議な能力を持つ人々の助けを借りながら、暴いていく。

 ウィットに富んだ軽妙な会話などがあって、けっこうどろどろした物語をおもしろく読ませるけれど・・・残念ながら私としてはローレンス・サンダーズの本の中では上位にあげにくい本であった。

上野修「スピノザの世界」(講談社現代新書)

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 不勉強でスピノザがどの時代の人か、その哲学がどんなものか知らなかった。それなのになぜこんな本を読んだのか。そして読んで分かったのか。

 正直ほとんど分からなかった。分からない、と言うことが分かったと開き直ろうか。

 高校生のとき、倫理社会という科目があった。分からないなりに興味があった。先生はキリスト教信者のようであった。そしてしかも教会否定論者のようであった。淡々と授業が進められ、静かな口調なので良く聞いていないと何を言ったか分からない。それなのに普通ならざわざわする教室が静まりかえっていてみな耳を真剣に傾けていた。

 聞いたこともないこと、考えたこともないことを先生は話す。すぐには理解できないが、大事なことを教えてくれていることだけは分かった。

 その先生がスピノザに心酔していたのだ。たびたびそのすばらしさを語り、その研究が自分のテーマだといっていた。

 その後分からないなりに哲学に興味を持ち、何冊か本を読んだ。一冊読んで分かったことがたった一つだけ、と言うこともある。一つあれば良い方で全く歯が立たないこともあった。でもたった一つ分かると、そこから何かがほぐれてきて、世界がちょっとだけ違って見えることも知った。

 倫理社会の先生のおかげだと思う(外にもいろいろきっかけはあるが)。だから先生の心酔したスピノザについていつかは多少知りたいと思って「エチカ」(スピノザの著書)を購入した。数学の論証のようなその文章はいままで読んだ本の中でヴィトゲンシュタインの本についでもっとも理解不能の本であった。

 そして頓挫して四十年、この本を読んだのだ。冒頭に書いたけれどほとんど分からなかった。でもいちばん肝心なこと、「神は存在するが世界の創造者ではない」というスピノザの原点が多少理解できた。もともとスピノザとは全く別の理由ながら、私もそうに違いない、と思っていたからだ。

 だから神に頼ることも神を怨むことも意味がないのだ。そもそも神には世界に手を加える力はない。そのことが本当に分かることは難しい。

 そんなことを考えた人がいたことがすばらしい。この本を何度か読み直した上で、いつかまた「エチカ」に挑戦してみようか。

2014年10月21日 (火)

諸井薫「老いの気概」(経済界)

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 「寄生虫的豚児の増殖現象」などという章があることから分かるように、かなり辛口のエッセイ集である。山本夏彦や會田雄次を称揚していることからも想像がつくでしょう?つまり私好みなのだ。

 ただ、男は生涯現役(あちらの話ではなく)でなければならない、と言う持論は、私のようにリタイアを急いだ人間には耳が痛い。仕事が嫌いというほどでもなく、おもしろくなかったわけでもないが、仕事が苦手だったから人の迷惑になりたくなかったし・・・つまり怠け者なのだ。  

 最初の変換で「老いの危害」と出た。なるほど、と変なところで感心した。男は歳をとっても毅然として生きるべしと云う著者の意見には全面的に賛成である。ひとのせいにしない生き方を貫きたいと思う。

藤村幸義「老いはじめた中国」(アスキー新書)

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 北京オリンピックが行われた2008年に、それに先駆けて出版された本である。読みかけで積んであったけれど、まさに中国がもっとも右肩上がりだったときにその先行きに対してマイナスの予測を立てていたこの本の言い分が、どれほど現在の中国の実態と比べて合っているのか違っているのか見てみようと思って読んだ。

 結論を言えば、ほぼ正確に現在の中国を言い当てている。もともとこの本は中国が崩壊するとか、経済破綻するとか極端なことは書いていないしそういう本でもない。

 一人っ子政策の弊害が顕在化し、人口構成のひずみが深刻化するであろう、とか農村からの安価な労働力が無尽蔵にある、と言う幻想は破綻するだろうとか、エネルギーの浪費などによる環境破壊が深刻化するだろう、とかそう言うことが実際の数字の裏付けをもとに語られているのだ。

 そして最後に、老い始めた中国はいつか反日の旗を降ろし、日本を必要とする国になると予測している。

 すべての予測はまだ途中段階であり、結論の出ているものはあまりないが、書かれた時点よりははるかに現実になったことが多いように思う。それならこのまま手をこまねいていれば中国はどうなるのか、それは中国人と鳩山元首相以外なら分かるだろう。奈落がそこに口を開けている。


 母は転院する、と言うのを退院する、と勘違いしていたのかも知れない。様子が何となく変で、もとの病院に戻っても落ち着きがなく、ベッドの上でやたらに動き、問われないのにイエス、ノーのサインを繰り返しだし、のぞき込むこちらにしがみついたりする。

 かわいそうだけれど、ポートを埋め込んだところの傷口がふさがり、抜糸するまでは帰れない。その間に受け入れ体制も万全にしておかなければならない。昨晩、点滴の袋の交換のやり方と注意点を看護婦から教えてもらった。

 あっ、いまは看護婦と言ってはいけない。看護師と言わなければならない・・・、バカな話だ。こんな言葉狩りにどんな意味があるのか分からない。うちわごときで大臣を辞任に追い込む民主党みたいな連中が正しいことをした、と好い気持ちになっているのだろうが、世間にとって迷惑この上ない。つくづく民主党も終わりだ、と思う。

 いま自民党は民主党議員たちの足元を徹底的に調査していることだろう。多分牙をむくのは来年の統一地方選挙の前だろう。タイミングを計りながら牙を研いでいるところではないか。

福島香織「中国食品工場のブラックホール」(扶桑社新書)

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 著者は2002年から2008年、産経新聞の中国総局に記者として駐在。2009年に退職していまはフリーのジャーナリストである。

 この本の前半は7月に上海のマスコミにスクープされた上海福喜食品の食品管理のずさんさに関する報道の検証である。実際にどんなことが行われていたのか、なぜ潜入捜査が可能だったのか、この会社が外資系の食品工場であることの意味、ではほかの中国の食品工場の実態はどうなのか、さまざまな切り口でこの事件の解析を行っている。

 残念ながら著者は直接現地取材を行っていない。しかし中国に駐在していたときの人脈などを駆使してかなり詳細な情報を入手しており、その解析は信頼にたりる。それに現地で簡単に日本人による取材が可能だとも思えない(実際には彼女の依頼でかなりディープな情報を入手した日本人記者もいたが)。

 それらの情報を整理してからこの本を書いたため、多少温度が下がっているかも知れないが、後半のこの事件や外の数多くの食品問題を通して彼女の語る中国の実態とその背景についての文章は、彼女がただ中国の問題点を暴き立てるだけのウォッチャーとは違うことを明らかにしている。

 中国の食の安全がきわめて危ういこと、そしてそれに対しての自浄作用が期待できないことはすでにいろいろ言われてきたが、そのメカニズムは想像以上に根深いことが改めてよく分かる。特に中国が都市戸籍と農民戸籍の二つに分かれていて、それがそのまま身分差別、階層社会、経済格差の根本的な問題の原因であること、そして食品問題とそのことがつながっている、と言う解析は正鵠を得ているように思う。

 先日桐生の周御大といつか中国に一緒に行こうと約束したけれど、これでまた中国に行く意欲がさらに減退してしまった。

2014年10月20日 (月)

長谷川慶太郎「2015長谷川慶太郎の大局を読む」(徳間書店)

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 毎年年末に翌年のことが書かれた長谷川慶太郎のこの本を買い、紅白歌合戦などと言うバカ番組を見ないでそれを読むのを楽しみにしている。外にも何冊か、経済や政治などの予測が書かれた本を一気に読む。

 それが今年はなんともう出版されてしまった。この人の本は鮮度が命なので、年末では書かれている情勢が変わってしまって齟齬がでて楽しめない。あとで予測がどのくらい当たったか、外れたか検証するのも楽しみでないこともない。

 本屋で類書を眺めると、アベノミクスが失敗に終わる、日本はハイパーインフレになる、日本国際は暴落する、と悲観的なことを書いた本がずらりと並んでいる。あの浜矩子女史などもその一人か。それについてそのような悲観的な予測は違っている、とご託宣を述べているのがこの本だ。

 もちろんそう言い切る(いつも断言するのが長谷川慶太郎。迷いがない)のはそれなりの根拠がある。この本で初めて言及する話もいくつかあり、なるほど、と思わせてくれる。この数日、株価が世界中で暴落に近い下がりかたをしているが果たして日本は持ち直すのか。高みの見物をしよう。投資などしていないからこちらは気楽なのだ。年金が少しずつ減り続けるのはつらいけれど、高みの見物代だろう。

ポート

 上半身の太い血管に、端にシリコンパッドの着いたカテーテルを射しこみ、全体を皮膚の下に埋め込む。これをポートと言うそうだ。このシリコンのパッドに点滴の針を射しこめば、点滴のたびに血管を探して針を打つ必要がない。しかも在宅で家族が簡単に点滴を行うことが可能になる。しかも太い血管につながっているので普通よりも大量に栄養を補給することができる。

 老母が入院していた病院では外科の設備がなく、この手術を行うことができないが、医師からは本人に苦痛の少ない延命措置として勧められた。そういうわけで先週その手術のできる病院に転院してポートを埋め込んでもらった。

 昨日その病院へ行き、母の様子を見る。こころなしか元気が良い。目の力がだいぶ違うようだ。エネルギー補充が十分になったからだろうか。

 今日はその病院からもとの病院へ再び転院する。様子を見て数日後に抜糸、自宅介護に戻る。母は自宅に早く戻りたいようだ。やはり病院は寂しいのだろう。

 その転院の手続きなどをしなければならないし、自宅へ帰る前の受け入れ体制の確認等を行わなければならないので、今週はいろいろ忙しいのだ。自宅に戻ってからの実際の介護となれば、万一に備えてただ傍にいるだけ、となる。本でも読みながら時々話しかける、と言うのが私の主な仕事だ。

 そのために本だけは用意してある。

140920_78 こんな元気そうなお母さんなら良いけれど。

140920_135 こんな風に頑丈なお母さんなら安心。でもちょっとこわい。

2014年10月19日 (日)

岩明均「寄生獣 1」「寄生獣 2」(講談社文庫)

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 粗忽なことにこれが漫画とは知らずに買ってしまった。だって講談社文庫だもの。中を見ないで買ったから仕方がない。それに漫画は嫌いではない。でもこの漫画むかしちょっとだけ見たことがある気がする。

 奥付を見ると2003年に「寄生獣 完全版」全八巻が刊行されていることが分かる。今度映画化されるにあたり、新しく文庫になったようだ。

 漫画は嫌いではないからしっかりと楽しく読ませてもらった。でも全八巻だからあと六巻もあるのだ。

 娘のドン姫が仕事が休みで二日ほど家に帰ってきていて、この本をおもしろそうに読んでいた。もともとドン姫は「ベルセルク」のシリーズなど、かなり強烈な種類の漫画のファンで、それらの本もドン姫から借りて読んだのだ。

 人間に寄生してすべてを乗っ取ってしまう寄生獣が、たまたま脳まで支配しきれず、腕だけでとどまり、主人公と共生することで、ときに外の寄生獣にとりつかれた人間を退治するというストーリーだ。これからどうなるのだろう。

 寄生獣の思考は人間とはまるで違う即物的な思考であり、だからかえって迷いがないから強力でもある。そのことがいまの人間世界についてのある意味での皮肉になっているのが笑える。

誉田哲也「ハング」(中公文庫)

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 「ジウ」シリーズや「ストロベリーナイト」などでベストセラーを量産している誉田哲也の新しい文庫本だ。警察もの、と言えば確かにそうだが、姫川玲子が主人公の警察ものなどとは多少毛色が違う。

 主人公の津原英太(巻末の宇田川拓也の解説では瑛太となっているが本文では英太だ。間違いだろう)はついには警察官である枠を大きく踏み出してしまう。解説でも言及しているが、このままこの物語だけでこの津原英太が終わることなく、再びシリーズで登場することを期待したくなるキャラクターだ。

 物語の最初はやや引き気味の、人に譲りすぎるやさしい男が、次第に牙をむく男に変貌していく。ある意味では復讐談でもあるのだが、復讐の怒りの炎は読者も燃えさせるのだ。

 敵役の殺人鬼が異様な姿と性格を付与されていて物語にすごみを増している。ほとんど壊れているけれど、壊れていないところも残っている、と言うような、こんなキャラクターはは誉田哲也お得意の設定だ。こういうのは映像化しやすいかも知れない。でも最近こんな犯罪者が現実にもいるようになったような(もともといるのか)。

2014年10月18日 (土)

葉室麟「風花帖」(朝日新聞出版)

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 葉室麟の最新作。切ない。

 結末が最初に書かれていて、その結末へいたる物語が綴られていく。冒頭にいきなり主人公の死が描かれるので、正直その先を読むのが気が重いけれど、なぜそのような書き方になるのか理由があるはずだ、と思い直して読み進める。

 そうして読み終わったいま、主人公の印南新六の短い人生が実は充実して喜びに充ちたものであったことを思い知らされる。人を思うことにこれほどの重さが、そして深さがありうるのだと知らされる。

 千葉県の九十九里に近いところで生まれ育った私は風花(かざはな)を知らなかった。大学時代、山形に暮らすようになり、晴天なのに風に舞う雪片を風花といい、遙かな山の雪が風に乗ってくるのだと教えられた。何ともいい言葉だと思う。この本は題名だけでも私にとってじんとくるような気がする。

 いつもいつも葉室麟の小説には心が洗われるような思いがする。この本もそのような本だ。

 

 ところでこの頃自分のブログへのコメント欄をしっかり見ていませんでした。せっかくコメントを戴きながら失礼した皆様、大変申し訳ありませんでした。以後気をつけます。

 弟から連絡があり、老母の手術が無事終わり、手術だけのために入院していた病院から、来週もとの病院に転院するとの知らせ。その手伝いのため明日からまた千葉に行く。これで当分ドラマや映画はおあずけ。せいぜい本を読むことにするつもりだ。記事がしばらく本の話題中心になると思いますがよろしく。

杉浦日向子「うつくしく、やさしく、おろかなり ---私の惚れた『江戸』」(筑摩書房)

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 先日春日太一「なぜ時代劇は滅びるのか」を読んだから、そして宮部みゆき原作のNHKBSドラマ「おそろし 三島屋変調百物語」を見たから、と言うわけではないが、ひさしぶりにこの本を手に取ったら一気に読了していた。

 テレビでたびたび拝見していた彼女の愛らしい顔を思い出した。

 この人の文章はそのひとがらどおり、魅力的だ。センスが良く、ボキャブラリーは豊富、選ばれる言葉も適切である。文章にセンスのある女性の文章は本当にうつくしい。

 彼女のうんちくを文章にしたものが集められたこの本は、残念ながら彼女が生きているうちに出版されなかった。

 2005年7月、ガンにて死去。享年47才。冥福を祈る。

Dsc_2460 最後のページの彼女の絵 

ネットニュース雑感(2)

140920_70記事とは関係ありません

 韓国で、アイドルの野外コンサートで事故があり16人もの人が死んだ。排気口にたくさんの観客が乗ったために、重みでふたが落ちて観客多数が落下したという。排気口のふたにはそもそも多くの人をを乗せることは想定されていない。おわり。

 韓国の議員が、朴槿恵大統領にセウォル号事故発生の直後、遅くとも一時間後には「多くの乗客が船内に取り残されている」という報告が届けられていたことを明らかにした。

 問題は、朴槿恵大統領が何らかの指示を出した形跡がなにもないということだ。午前10時の事故発生から午後5時までの7時間、彼女の行動はいまだに明らかにされていない。大統領執務室にいて報告を聞いていたと言うが言葉だけで、なにも行動をした痕跡がない。

 これに対してネットでは「大統領は国民の命より自分の名誉が大事らしい」と批判されている。

 朴槿恵大統領が7時間後に現れて最初に言った言葉が「救命胴衣をつけているのにどうして出てこられなかったのか」だそうだ。逃げなかった乗客が悪かったみたいに聞こえる。

 この7時間をめぐって噂が飛び交い、それを取り上げた韓国メディアの記事などをもとに産経新聞のソウル支局長(当時)がコラムを書いた。そしていま彼は国外へ出ることを禁止され、韓国検察から在宅起訴されている。

 中国や北朝鮮ではあるまいし、世界的な常識から見ても異常である。だから日本の外信記者が、韓国外交部の報道官に「人権侵害ではないか」と質問したのだ。それに対し報道官は当初「検察の問題は外交部とは関係ない」と答えたけれど、重ねての質問に「質問の自由にも限界がある。大韓民国政府外交部の公式の立場に挑戦し、疑問を提起するような発言は非常に不快だ」と述べた。

 これに対しての韓国ネットの反応は「日本人に人権を言う権利はない」「日本政府や産経新聞はこのことで韓国に謝罪すべきだ」などというむちゃくちゃなものが並んでいるが、中には「記者の質問は間違っていない、韓国のほうが悪い」というものも散見された。

 朴槿恵大統領を非難する落書きがあり、これを警察が捜査しているそうだ。監視カメラに写った容疑者が生活保護受給証を見せた、と言う目撃者の証言から、警察が自治体に生活保護受給者の個人情報提出を要請し、一部の自治体がすぐそれに応じた、と云うのが問題になっている。 
 どうやら韓国の中国化は思った以上に進んでいるようだ。

 韓国政府は2018年の平昌冬季オリンピックのメイン会場を、予定の平昌ではなく江陵総合運動場に変更することを提案したそうだ。これに平昌市民が猛反発し、五輪返上運動が起こってしまい、あわてて韓国政府は提案を撤回した。

 ネットでの反応から推察するに、平昌はアクセスが悪く、莫大な予算を投入してもオリンピックのあとの会場の活用が期待できないと見られているようだ。韓国経済には暗雲が漂っているし、オリンピック開催が経済的な負担になりつつあるのかも知れない。

 国威発揚を期待した仁川アジア大会について、韓国政府は自画自賛して大成功だったと言っているが、内外で多くの批判が起きた。アメリカや中国では「韓国する」という言葉を流行らせよう、と揶揄されている。もちろんインチキをする、と云う意味だ。一般化されてはいないが、誰でもすぐ分かる言葉でもある。

 韓国の検察は侮辱罪でこの言葉を摘発したらどうだ。

2014年10月17日 (金)

井上芳保「つくられる病」(ちくま新書)

140920_79さすがにちょっとメタボ


 副題が「過剰医療社会と「正常病」」。

 医療がなにもかもを自分の領域に囲い込もうとしているように見える。そのことにそもそも無理があるのだが、その無理のためにいままで「正常」の範疇であった人が病人にされている。

 書き出しは、血圧、血糖値、メタボについての基準が世界の標準に比べて異常に厳しい日本の実情について。この基準を厳しくすることで誰が利益を得ているのか考察する。医者、そして製薬会社が巨額の収入を得、もしかしたら不要の投薬を国民は強いられているのかも知れない。しかも国民はふだんの刷り込みで洗脳され、正常を外れることに対する恐怖を刷り込まれているのではないか。全ての人が健康不安に追い込まれかねない状態だ。

 さらに精神医療の領域拡大もいささか目に余るものがある。

 精神科の診察を受けることに抵抗があまりなくなるに従い、人としてあたりまえにある精神の振れ幅を、病気だ、と思い込む正常な病人を大量に生み出しているのではないか。うつ病の治療薬が過剰に安易に投与されることで、かえって本当に病人になってしまった例が語られる。

 前々からどうもおかしい、と思っていたことに、なるほどそうなのか、と得心がいくことが多かった。前半ではいささか賛同しかねる論調も見られたが、最後まで読んでなぜなのかが分かる。

 最後に著者のいう「正常病」からの脱出のためのアドバイス、気持ちのありようが語られているが、とても参考になる。

 全ての医療に問題があるわけではもちろんない。過剰や過少が問題なのだ。それはなかなか素人には分からないけれど、なんか変だ、と思うことがそこからの脱出の糸口になる。この本はその参考になる本だと思う。

今朝は一休み

昨日は飲み過ぎたので今朝は一休み。

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2014年10月16日 (木)

春日太一「なぜ時代劇は滅びるのか」(新潮新書)

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 時代劇映画の製作本数が激減して久しい。いま時代小説がブームと云っていいほど盛況なのになぜなのか。特にテレビでは連続時代劇といえばマンネリ化した物語ばかりで、それが安心してみられる、と歓迎するお年寄りばかりしか見ない。「水戸黄門」がついに完全に終わってしまってからはそれすらもなくなった。

 そんな事になってしまった原因を著者は解析する。その理由として挙げられている数々は納得のいくものであった。時代劇は自滅していったのだ。

 時代劇には駄作が多い。現代劇なら多少の駄作でも出てくる俳優の魅力で隠すことが出来るけれど、時代劇はたちまち嘘くささがでてしまって見るに耐えないものになってしまう。

 時代劇映画の復活はあるのだろうか。著者はかなり悲観的だ。この本は著者の大好きな時代劇に対しての鎮魂歌かも知れない。

 しかしときには優れた作品も作られている。テレビでもNHKの時代劇ドラマなどの中には優れたものもある。もう私が生きている間だけ持てばいいや、などと思う。

 私ががっかりした時代劇は数々あるが、たまたま思い出したのは「武士の一分」と「四十七人の刺客」。それぞれの映画の木村拓哉と高倉健にがっかりした。特に木村拓哉は時代劇に出るべきではないと思った。脇役が良いからそれなりに仕上がっているが、駄作だ。山田洋次も救いきれなかったようだ。

 著者は岸谷五朗を酷評している。実は私もこの人のエキセントリックな演技を見たときのあの不快感はどうしてか、と常々思っていた。思い出しても寒気がするほどだ。要は不勉強でしかもへたくそなのだ。今度のNHKBS時代劇では「ぼんくら」の主演だ。見るのを止めておこうか。

 時代劇映画を見て育ち、映画が好きになった。この本にも書かれているけれど、時代劇映画はセットにしても衣装にしても金がかかる。本数が少なくなるほど一本にかかるコストも割高になり、俳優も食べていけなくなってしまい、バラエティに出演するようになって芸が荒れてしまう。

 中国や韓国で優れた時代劇映画が作られているのを見るとうらやましい限りだ。

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ネットニュース雑感(1)

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 アメリカで二人目のエボラ出血熱の患者が発生した。一人目はリベリアからやってきた男性だからアメリカ人ではない。しかし二人目はその患者を看護した看護師の女性であった。この女性が発病直前に国内線の飛行機に搭乗していた、と今朝のニュースで報じていた。今のところ蔓延の危険は低いというが、万一の事態が起こりうる事態らしい。

 ところで注目したのはこの看護師の飼い犬を殺処分にせず、経過観察下におくことが決まったというニュースだ。日本ならほとんど無条件に殺処分しただろう。当初はその予定だったらしいが、スペインで同様な事例があり、犬が殺処分を受けたことが動物愛護団体の反発を招き、騒ぎになったことから経過観察されることになったようだ。

 誰かの飼い犬にするわけにも行かないし、誰も引き受けないだろう。となれば公的機関がそのリスクと経費を負担するわけだ。死ぬまでそこで飼い続けるのだろうか。おためごかしのきれいごとにしか思えない。

 ところで犬はエボラ出血熱に感染するのか?

 佐世保で女子高校生が同級生を殺した事件は記憶に新しい。その事件を起こした女子高生の父親が自殺したのは重ねて哀しいことであった。

 マスコミが世間を代表してその責任を騒ぎ立てていたことがこの父親を追い詰めたであろう事は誰にも想像できることだろうけれど、いつものように、マスコミは自分の責任などかけらも感じていないように見える。

 ところでネットニュースでは、父親の知人の話として長崎県教育委員会の報告も父親を追い詰める原因となった、と伝えている。マスコミの責任逃れの匂いもするけれど。

 少女が小学校六年生のときに、給食に異物を加えた事件や、今年三月に起こした父親へのバット殴打事件のとき、父親が学校など関係者に口止めをしたことが、学校の対応が不十分になった理由であるかのような報告書だったのだという。報告書は事実と異なる点も多々あり、反論したいけれど、いまは何を言っても言い訳としかとられないだろうから黙っている、と語っていたそうだ。

 どこの親でも娘の起こした事件をなるべく隠そうとするものだろう。それを一身に引き受けて何とかしようと家庭を壊してまで対応していたのがいままでの報道で読み取れるではないか。マスコミは一人になった父親が再婚したことをまるで悪いことのように報じていたように感じられたものだ。

 あのときにこうすれば、と思うことは誰にでもあり、それが取り返しの付かない事態につながるという不幸もある。そのことの責任は責任として、人間はそのような過ちも犯す存在であることへの忖度が必要だろう。正しい人の正義感からの糾弾も相手への思いやりを欠いていては人を傷つけ、ときには人を殺す。

 御岳山の水蒸気爆発は思った以上に多くの犠牲者を産んでしまった。全く運が悪かったとしかいいようがない。予知のための測定機器やそのための人員配置が不十分であったことがマスコミにとがめられているが、これも後知恵だろう。

 ところで草津白根山も活動が活発だとしてこの観光シーズンに通行止めになったと報道されていたが、解除されたのだろうか。昨年この世のものとは思われないような景色のあの峠を越えた。途中で車を停めたり窓を開けないように、との注意書きがあった。

 いま火山性の地震が起きていて活発化しているおそれのある山として、日光白根山、三原山、富士山、草津白根山などが注意が必要だそうだ。日光白根山は丸山高原のロープウエイに乗って、先日目の前で見てきたばかりだ。あそこで噴火が起きればひとたまりもなかっただろう。人生は一寸先は闇だ。遭遇するまでは決して自分の身に起きるかも知れない、などとは考えない。

宮崎正弘「台湾烈々--世界一の親日国家がヤバイ」(ビジネス社)

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 「ヤバイ」などという言葉を題名に使うのは著者の本意ではない、と思いたい。品位に欠けると思うからだ。品位は大事なことだ。

 中国ウォッチャーの著者が台湾への思い入れを大いに語る。それがそのまま中国批判につながっている。この中国批判は、中国に思い入れを抱いている人々にとっての中国(いまは幻想に近いが)ではなく、戦後中国を支配してきた中国共産党一党独裁という体制であり、それにどっぷりとはまって洗脳されてしまった中国の人々に対してだ。

 著者は中国に批判的だが中国好きだと思う。大好きだけど大嫌い、と言うのが私の中国に対する思いだけれど、私以上にそうではないだろうか。

 台湾については先日、金美齢・周英明「日本よ、台湾よ」を読んで台湾の人々の思いを考えた。戦後日本が中国との国交を結ぶにあたり、台湾を非情にも切り捨てたのは、やむを得ない事情がないとは思わないにしても、仁義に欠けることだった。当時、どうして台湾を切り捨てなければならないのかなかなか納得できなかったものだ。

 著者は台湾にこそよき時代の日本が残されている、と感じている。もちろん台湾にもいろいろな人がいる。中国人以上に拝金的な人もいるだろう。特に外省人(戦後国民党と共に本土から台湾に移ってきた人たち)は心性で中国本土にシンパシーを持っているように見える。

 台湾の馬英九総統はあたかも中国と台湾の統一をめざしているかのような言動を続け、それに対する反発が学生のこころに火をつけた。同じ思いの台湾国民も多い。馬英九はいろいろなスキャンダルで国民党の党首から降ろされている。だから総統としてはレイムダックになりつつある。中国は武力によらない台湾接収を夢みたのかも知れないが、それは今のところ夢のままだ。

 その台湾が変わりつつある、と言う。日本人以上に日本の良いところを残していた世代が交代しつつある。日本語は全く分からず、外省人の多いマスコミの反日的な論調に影響を受けている世代が主流になりつつある。中国は焦らない。じわじわと中国が台湾に浸透しているのだ。

 これは日本のとってきた、台湾に対する姿勢にも大きな原因があるとも言える。台湾にとって日本の位置づけが大きく低下してしまったのだろう。そのことがどれほど日本にとって懸念される事態を招きかねないか、信じられない事態になったあとに日本は気が付くことになるのかも知れない。

 台湾に行くたびに企業の中国進出による産業の空洞化の影響がひしひしと感じられる。進出した企業は中国で人質に取られ、採算が悪化してもなかなか台湾へ戻ることも東南アジアに転身することも難しい。経済の停滞、経済力の低下はしばしば国を誤らせる。

 台湾に行くなら今のうちなのかも知れない。すでに大挙して中国人が押しかけ始めている。中国人観光客の騒々しさに辟易している台湾も、その持ちこむ金に頼るようになれば、中国人に媚びるようになるだろう。

2014年10月15日 (水)

ドラマを楽しむ

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 自宅の大きなテレビで映画やドラマを楽しむことにしているので、家を離れると、外ではニュースくらいしか見ることが無い。

 久しぶりに家へ帰ると映画やドラマを見るのが楽しみだ。

 映画はもちろんだが、撮りためたドラマがたくさんある。ドラマはシリーズが完結したところで一気に見る。今回は昨日から、NHKBSで放映された「吉原裏同心」全10話と「おそろし 三島屋変調百物語」全5話をいま見終わったところだ。

「吉原裏同心」は原作が佐伯泰英、「おそろし 三島屋変調百物語」は原作が宮部みゆきである。面白くないはずがない。もし面白くなければ脚本が悪いか俳優が悪いのだ。

 たいへん満足した。

 「吉原裏同心」の主役、小出恵介は思いの外好演。良い俳優だと思う。なによりその妻役の貫地谷しほりが大好きなので、ドラマの世界にどっぷりとはまって楽しんだ。

 「おそろし 三島屋変調物語」は主演のヒロイン役を演じた波瑠と言う女優が原作のイメージにぴたりとはまっている(もちろん原作は読んでいる)。好きになってしまった。出演している俳優がほとんど全て外れがなく素晴らしい。このような不思議な世界を描くとき、へたくそ俳優が一人いるだけで全部ぶちこわしになってしまう。

 見たひとは同感だろう。見ていないひとは、もし再放送の機会があったら必ず見るように。その値打ちがあります。

足尾銅山

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桐生と日光は意外と近い。わたらせ渓谷鉄道と並行して渡良瀬川沿いに走るそこそこ景色の良い道だ。その途中に足尾銅山がある。

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当時鉱夫たちを運んだトロッコ列車に乗って通洞鉱に入る。

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通洞鉱内の駅。ここからは歩く。洞内はこの通洞鉱を中心に四通八達、上下1000メートル、述べにして1200キロ以上に亘る。信じられないほどの距離だ。人間ってすごい、とまた思う。

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鉱石運搬の人夫。

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江戸時代はこんなふうに背中に背負っていたのだ。

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昭和時代になってからの採掘現場。削岩機の音が聞こえるようだ。

洞内の横穴などに等身大の人形が作業している姿を見せている。ときには見学通路に立っていたりする。夜、誰もいないときに一人で歩いていたら怖いだろうと思う。そんなこと御免だけど。

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暗がり、右手に立っているのも人形。とても暗いのだ。

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出口の外にある、鉱石を砕く作業をしている女性たち。

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鉱石。

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アノードという粗銅のかたまり。

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銅のインゴット。

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各工程のパノラマが展示されている。これは一番最初の出入りの光景。銅貨を作るので、持ち出さないようチェックしたのだ。

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土産物売り場の入り口。坑道見学の出口でもある。たびたびここに来ているのだが、この看板を見るといつもニヤッとしてしまう。ずいぶん昔からある。

足尾銅山は精錬排水が原因で日本で最初の公害闘争が起きている。主導者の田中正造は確か栃木県佐野の人のはずだ。渡良瀬川は鉱毒水で、長いこと棲息する魚・鮎などを食べることが出来なかった。

このあと時間があるので草木ダムの手前の富弘美術館に寄ろうかと思ったけれど、今回はパスした。

2014年10月14日 (火)

ドン姫

140920_60親の欲目から見たドン姫

 昨晩の台風の中、仕事に出かけているであろう娘のドン姫が心配なので、車で送り迎えするから連絡するようにメールを入れていたのだけれど返事がない。ドン姫は仕事が終わるのが夜中の11時過ぎなので、もっとも風雨の激しいときだ。

 いつSOSがあっても良いように酒を飲まずにスタンバイしていたがいつのまにか寝てしまった。

 旅の土産も渡したかったし、伝えたいことがあったのに結局音沙汰なし。

 でも、多分今日あたり来るつもりだろうと見当が付いていた。私に輪をかけて横着者である。どうせ行くのだからわざわざ連絡しなくても良い、と思っているに違いない。

 案の定夕方になってやってきた。

 ドン姫も私に伝えたいことがあった。転職と転居をするという。友人(もちろん女性である)と暮らすことにするらしい。職場が遠くなるのでいまの仕事を辞めて新しい仕事を探すそうだ。

 いまは深夜に帰宅することの多い仕事だが、もう少し早く帰れる仕事を考えているようなのは親として喜ばしい。

 詳しい話はまた明後日泊まりでゆっくり来て話をします、と土産を手に帰っていった。家の片付けをするのだそうだ。とにかくおそろしく散らかっているからなあ。

 明後日は何かおいしいものを用意しよう。親バカは娘の顔を見るだけで嬉しいのだ。自分でも不思議だ。

奥日光

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温泉宿「とくさ」を引き払い、群馬県側から金精峠を越えて日光へ。この金精峠はいつ見上げても威容に圧倒される。

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そこから見下ろせば、男体山、そして湯の湖がきれいに見える。

湯之湖の湖畔の駐車場はいつも満杯で、違法駐車だらけだ。違法駐車は嫌いなのでいつも駐めることをあきらめて眺めるだけに終わるが、今回は早めだったので何とか駐められた。

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水の色が見る方向や時刻で微妙に変わる。カメラを持って湖畔を散策する人も多い。

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ほんの一部だけ紅葉が始まっている。

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湯の湖が中禅寺湖へ流れ下る湯川の途中に湯滝がある。立ち寄らない人もいるようだが、ここは正しいかたちの滝らしい滝で見応えあり。

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滝の頂上付近は多少紅葉が見られた。

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こちらはさらに下ったところの竜頭の滝。上側の駐車場に車を止めて本来の竜頭の滝(いちばん中禅寺湖に近いところで観瀑台の茶屋があるところ)までこのような流れが続く。もう少し先、もう少し先、と階段を下りていくといつのまにか下までいってしまうが、帰りがつらくなる。今回は半分少しのところで引き返した。

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斜めに切り取ると、まさに滝だ。

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紅葉しているところもちらほら。途中の岩に真っ赤な楓が引っかかっていたりすると絵になるのだが。

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一番上、道路に架かる橋から見下ろすと、この滝が中禅寺湖に一気に流れ下っていることが分かる。

中禅寺湖の湖面のきらめきを眺めながら半月山展望台へ向かう。ここも知らない人がいるようだが、ここから見る景色は絶景である。中禅寺湖畔から山をひたすら登るのだが、あまり遠いので、途中で道を間違えたのか?と不安になったりする。

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いちばん姿の良い眺めの男体山と中禅寺湖が見下ろせる。

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アップで。

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はるかに遊覧船が・・・。

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まん中の瘤のような山が日光白根山。先日丸山高原のロープウエイから見たあの山の裏側なのだ。

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ビニールに包まれた案内図が光って見えないので、私の影を利用。白根山の右手が金精峠らしい。

駆け足で奥日光を探索し、混んでいるらしい華厳の滝は次回にすることにして、足尾銅山に立ち寄ることにした。今晩は桐生泊まりだ。

谷川岳ロープウエイ

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谷川岳ロープウエイに行く。当日、午前中はまずまずの天気だったが、昼から雲が多くなり、谷川岳は見えないかも知れないと思ったが、それを承知で登った。どうも谷川岳とは相性が悪く、三年前に老母と来たときも同じような天気だった。

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ロープウエイの終点、天神平から笠ヶ岳方面は何とか日がさしていてみることが出来た。このずっと左手が谷川岳。

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後ろの、雲に半ば隠れているのが谷川岳。あたりは紅葉が始まっている。ここからさらにリフトに乗ると一ノ倉沢方面などが見える。谷川岳は二千メートルに満たない山だけれど、登るコースによっては日本でも有数の峻険な山で、遭難が多いがその分人気もある。この日も登山客がけっこう多かった。

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リフトから回りを眺めると、紅葉している、と言うより茶色く変色して山が焦げているようだった。

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リフト頂上から見下ろす。この尾根伝いに行くと谷川岳に登ることができる。いまから行く人も射るようだったが、山小屋泊まりする予定だろうか。軽装備だから途中まで行って見るだけか。

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もう少し遅ければこの辺りはもう雪が降る。前回は多少の雪渓が見えたが、今回は皆無。

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小さな神社がある。

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笠ヶ岳方面の山の案内だが、沢山あっていつものようにどれがどれだかよく分からない。今回拠点にしたところで頻繁に目にした武尊(ほたか)山が右手にある。案外高い山だ。滞在している宿「とくさ」は武尊温泉に属するらしい。

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リフトの客もまばらだった。

上着を持って来ていないのでとにかく寒い。多分10℃あるかないかだろう。皆ヤッケなどを着ている。もうすぐ初雪か。早く宿に帰って温泉に入ろう。

2014年10月13日 (月)

金美齢・周英明「日本よ、台湾よ」(扶桑社)

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 周英明氏の夫人が金美齢女史、つまり夫婦の共著である。台湾の良家育ちの金美齢と、そして日本生まれ(北九州)日本育ちで、戦後、家族で父の故郷の台湾に帰った周英明が、蒋介石の国民党が支配する台湾に絶望してそれぞれ日本にやってきて出会い、台湾独立運動に参加したために台湾への帰国の道が閉ざされ、その中で出会い、家族を作り、台湾が李登輝以後民主化することでようやく再び台湾の土をふむまでの歴史が、交互に語られている。

 この本が出版されたのが2001年、四十年ぶりに故郷へ帰った二人が過去を回想したものだ。

 いままさに台湾で、そして香港で、学生が中国の体制に組み込まれかねない動きに対して反対運動をおこなっている姿を見て、この本を思い出した。

 台湾は、太平洋戦争終了後、日本による統治から解放された。ところが毛沢東の共産軍に追われて台湾になだれ込んできた国民党に支配されることになってしまった。日本人なら知っておくべき昭和22年に起きた、2.28事件での住民の大虐殺(知識人を中心に数万人が殺された。知らない日本人のほうが多いのが信じられない)は、台湾にもともと住んでいた人々に大きく深い傷を残した。本省人と外省人との対立というのは表向き見えなくなっているけれど、実はいまでも根深いものがあるのだ。実際に台湾の官公庁やマスコミは数の少ないはずの外省人にほとんど占められているのだという。

 台湾が中国化するということがどう云うことか、考えるためにこの本を読んだのだ。

 東京理科大学の名誉教授だった周英明氏はこのあと2006年、癌のため73歳で死去している。冥福を祈る。

 香港や台湾で起きている事態を、人ごととしてみないで一度こう云う本を読んでみて欲しい。台湾について詳しく言及した本は、中国について書いた本よりはるかに少ないが、探せば必ずある。

急須を買った

急須を買った。いま使っている急須は誰かにもらったもので、ふたの丸ボッチ(正しくは何と云うのか知らないが分かってもらえるだろう)がとれてしまった。使えなくなったわけではないが、気に入ったものがあれば買い換えたいと思っていた。

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これが新しく買った急須。敏感な人なら何となく違和感を感じるだろう。自分がこの急須を手に持って注ぐのを想像して欲しい。

そう、注ぎ口が逆に付いているのだ。これは左利き用。普通の右利き用にもう慣れているから別にかまわないのだが、面白いので少し高いけれどこれにした。娘のドン姫も私以上に左利き(食べるのも書くのも左)なので面白がってくれるだろう。

その上この急須にはもう一つ秘密がある。ふたの穴と注ぎ口を一直線に揃えると(写真はいい加減に撮ったので揃えていない)中で茶葉がお湯と一緒にぐるぐる回るのだ。

舞転急須という。急須の中でお茶の葉が空気の泡によりジャンピング攪拌(舞転)されることで、目詰まりせず、出が良くなる急須です、と説明書にある。

早速お茶を淹れてみた。心なしか同じお茶がおいしく感じた。単純なのである。

お気に入りの一品になるような気がする。

2014年10月12日 (日)

佐倉の秋祭り

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弟と老母が住む実家の市の隣が佐倉市。ちょうどその佐倉市の秋祭りだというので弟夫婦、弟の娘夫婦たちと見に行った。

最近は人混みが鬱陶しくて祭りや花火大会に行くことがなくなっていたので祭りなどを見るのは久しぶりだ。

佐倉の祭りの中心部、たくさんの山車が出る通りは狭くてそこへ人が集中する。そこを山車がすれ違ったり、回転したりするのですごいことになっている。

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こんな感じの山車がいくつもいくつも通る。太鼓に笛、そして面をかぶった踊り手、と言うのが定番のようだ。山車の屋根の上に常に数人乗っていて囃子で気合いをかける。

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山車の屋根の上からマイクでかけ声をかけているおねえさん。

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別の山車の上のおねえさんの後ろ姿。うなじが色っぽい。

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山車と山車がギリギリですれ違う。わかりにくいが屋根の上から大声で指図している。その上空には月が・・・。

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山車の足もとでコントロールする男たちはたいへんだ。

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気持ちばかりの寄付をすると升酒を振る舞ってくれる。どうしようかと眺めていたら弟が金を出して飲ませてくれた。

うしろは大和武尊の大きな人形。

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先導役のお嬢さんたち。

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別の山車のお嬢さんたち。

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興奮と疲れが交錯する。少女たちが真剣に活き活きと参加している祭りは何だか見ている方も嬉しくなる。

この祭りは麻賀多神社の祭礼なので、そこへお参りして帰宅した。

2014年10月11日 (土)

矢木沢ダム

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昨年は雨が少なくて矢木沢ダムの水が少ない、と報道されていたような記憶がある。今年は十分水があって幸いだ。

矢木沢ダムは日本最大級のアーチ式のダム。

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上から見下ろすと引き込まれるような気がする。

こんな巨大構造物を作るなんて人間は凄い、と思う。それにこんな山の中にダムを造ろう、と決めること、そのためにどれだけの人々と資材を投入したのか。

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ダムで発電した電気がこの鉄塔を通して関東へ送られていくのだ。

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人間も凄いけれど自然も凄い。そういえば人間も自然の一つなのだった。西洋人はそう考えないらしいけど。

楽しかった

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今日は桐生の周御大と楽しく飲んだ。

周御大はスリムになって(周御大を知る人は信じられないだろうけれど)軽やかに歩いている。

泣き言を聞いてもらって話が盛り上がったところでもう一軒行こう、と言う。美人がいる店で、しかもそこへ美人が来るから紹介してやるという。行かざるべからず。

話の通り、店には三人の美人がいて陶然とする。

カクテルなどを飲んでいると、隣に仕事を終えた美人がさらに一人加わった。

周御大から新撰組に詳しい歴女だと聞いていたのだが、歴史にも映画にもみな詳しいだけではなくホットだ。自分の考えと感性を持っていてほれぼれする。(残念なことに中国は嫌いらしい。それも当然だから、no probrem)

お店の三美人も加わってさらに盛り上がる。

こんなに楽しいのは久しぶりだ。

またおいで、と言われ、来たら必ず声をかけてね、と美人に声をかけられて、生きていて良かった、絶対また来よう、と思った桐生の夜であった。

2014年10月10日 (金)

照葉峡

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滞在している宿「とくさ」からは日光が遠くない。その途中から左へ折れて北上すれば尾瀬はもっと近い。とてもアクセスのいい場所なのだ。

宿のご主人から照葉峡経由で谷川岳、水上を一回りしてかえるコースを推奨された。実はこのコースは老神温泉に老母と泊まった温泉宿でも推奨されて、行ったことのあるコースだ。

行ったことはあるけれどもう一度行くことにした。尾瀬へ行く道をたどり、途中、鳩待峠方向へさらに左折。坤六(こんろく)峠を越えると照葉峡だ。

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坤六峠の標識。

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このあたりの山林は利根川の水源なのだ。

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峠からの眺望。山は色が変わりつつある。

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わが愛車のマツダアテンザの勇姿。購入してちょうど一年、ちょうど2万キロになった。先代も前のタイプのアテンザ。15万キロになる前に事故でご臨終にしてしまった。申し訳なかった。

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照葉峡の遊歩道への駐車場にて。遊歩道は昨年の大雨のため寸断されているらしい。ちょっと散策しようと思ったがあきらめた。

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渓流にはいくつも細い滝が落ちている。

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なかなかの絶景。

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こういう景色がたまらなく好きだ。

紅葉のスナップをいくつか。

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まだ紅葉は始まったばかり。これから見事な景色が見られるだろう。

このまま谷川岳に行くには少し早いので、矢木沢ダムによることにした。

丸沼高原

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120号線を沼田から日光に向かって走ると、金精峠の手前に丸沼がある。入り口は環湖荘というホテルの案内が目印なのだが、それを知らないと気がつかずに通り過ぎてしまう。

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いかにも高原という雰囲気だ。

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中央の湖岸にかすかに見える人たちはフライフィッシングの人たち。昼時なので竿は振っていない。

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昼にそばを食べたとき向こうの席ではたくさんのフライを出して手入れをしている人がいた。フライフィッシングというのは毛針という虫に似せた疑似えさを飛ばして釣る釣りのことだ。テクニックが必要なおもしろい釣りらしいがやったことはない。

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湖岸の向こうで仲良く食事をしている二人。

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湖岸にはこんな風景も。

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こんな風景も。

このすぐ近くのロープウエイに行く。あることは知っていたが行くのは初めて。

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6~8人くらい乗れるゴンドラだが、すいているし次々にやってくるので独りで乗ることができた。

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ロープウエイを下りると正面に日光白根山の勇姿が。活火山そのものの姿だ。

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草津白根や浅間、燧岳などが見えるはずらしいが雲かかって残念ながらはっきりしない。はっきり見えてもどれがどれやら知らないけれど。

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ここはちょうど標高2000メートル。そこになんと足湯が。

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みんな山を見ながらリラックス。

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下から見上げるとこんな感じ。最高です。

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下りで丸沼を見下ろす。沼の右手の奥が先ほど行った環湖荘の前。

このあと宿に帰りさっそく湯に浸かる。わはは、極楽じゃ。

2014年10月 9日 (木)

吹割の滝

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吹割の滝は二回目。変わった滝であり、周りの岩盤が凄い。

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吹割の滝は「ふきわれ」と読む。以前は「ふきわり」だと思っていた。ちなみに昨日言及した花咲温泉は「はなさく」である。なかなか名前はむずかしい。

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滝へ下りていく道の脇に土産物を売る店がいくつか並んでいるが、品物が雑然とたくさん並んでいて客はほとんど立ち止まらない。

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にほんのナイアガラなどと言われるがそれほどのことはない。

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立派な甌穴。底に大きな丸い石が・・・。

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甌穴進行中。

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上流に架かる吊り橋から見下ろす。河床は広い岩盤になっている。中央部が狭くなって、滝として流れ落ちているのだ。

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吹割の滝の背後の山。ほんのちょっと紅葉が始まっている。

旅の宿

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滞在中の温泉宿の部屋から見た景色。なんということもない田舎の景色。この渓流の水音が結構良く聞こえる。右手にも左手にも段差があるらしいのだ。この川は地図で見ると薄根川と言い、片品川とは合流せずに平行して利根川に注いでいる。

ここは「とくさ」という川場村の一軒宿で、前にも書いたようにテレビがない。風呂は透明なアルカリ性単純泉で、男女一つずつの内風呂しかない。部屋数が少ないから少し広めの内風呂だけで十分なのだ。部屋は八畳と二畳がしきりなしにつながっていて、実質十畳と広々している。

夫婦二人で料理も含めてすべてこなしているようだ。

家庭料理です、と言ううたい文句通り、丁寧に作った家庭料理風の献立は品数もあってお酒もゆっくり飲める。昨晩飲んだ地元の永井酒造という酒蔵の生酒は満足できるうまさだった。

唯一不満なのは朝風呂が7時からと言うこと。せめて6時からだといいのに。

ここを選んだのはとにかく安いからだ。だから若い人が多いようだ。それでも部屋は広いし料理はうまいし申し分ない。

この宿からさらに北上すると背嶺峠という峠を越えて花咲温泉へいたり、再び日光と沼田を結ぶ120号線に合流する。途中に武尊オリンピアや武尊牧場スキー場などが点在する。

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シーズンではないときのスキー場はなんだか寂れ果てている。

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駐車場も閑散。

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ところどころ紅葉が始まっている。

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峠を越えているのでこれは薄根川ではなく、片品川の支流の塗川。この渓流はところどころとても景色のいいところがあるのだが、車を止める場所がないのが残念。

このあと吹割の滝へ行く。誰かのブログの後追いをしているみたいだ。そうそう、「しゅうちゃん」さんの「信夫の郷にて」だった。そういえば近くの老神温泉に泊まったと書いてあったなあ。

2014年10月 8日 (水)

覚満淵と二荒山神社

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覚満淵は赤城の大沼のすぐ隣にある湿原であり浅い池である。

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覚満淵の周りの植物を守るためにネットが張り巡らされており、入場する人はそれを自分でくぐりぬけるようになっている。写真のように遊歩道がしつらえられている。

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湿原の草花は枯れている。

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縁の周囲の枯れ草やすすきが光っている。

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すすきは完全に枯れている。

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かもが泳いでいるけれど水深はきわめて浅い。

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横道に入ると大好きな木々が・・・。

このあと余り時間はないけれど、赤城の山を東側へ下りて、日光の二荒山神社へ寄ることにした。

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日光二荒山神社は東照宮の隣にある。去年東照宮に寄ったときに夜時間がなかったので一度見ておきたかった。

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山門。外人さんが多い。

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背後の杉は年を経た立派なものがうっそうとしている。

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二荒山由緒。二荒山とは男体山のことなのだ。

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くぐると縁結びの御利益があるという輪。くぐりかたも書かれている。今更縁結びでもないので眺めただけ(もしかして、と言うこともある。くぐれば良かった)。

二荒山神社が縁結びの神社とは知らなかった。若い女性もちらほら見られた。

宿へ行くにはここからいろは坂を昇り、中禅寺湖から金精峠を越えて群馬県に再び入る。東照宮による時間はない。

ニュース雑感

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 国慶節で長い休みの取れた中国人が日本にもたくさん観光にやって来ている。日本のネットに中国人の観光客の「非文明的な行為」の数々(具体的な事例はすでに食傷するほど知られているので省く)が書かれていることを中国のメディアが取り上げた。

 少しずつ改善されているけれど、まだまだだ、という意味で、意識を高めようとしたのだろうが、それに対しての中国のネットの反応は、その意見に賛同するものが多いものの、「日本人は中国人を馬鹿にしている」、「日本は歴史認識の間違いを追求をそらすためにこのようなことを言い立てる」などという噴飯物の意見や、「日本人だってアジア大会の富田選手のように窃盗を働くじゃないか」というのもあった。

 富田選手の窃盗事件は日本人だって悪い、という意味でこのように今後も引き合いに出されていくだろう。なんと日本の中国侵略と同格の扱いだ。

 北朝鮮のナンバー2が突然韓国を訪れ、関係融和に動いたことに関して、韓国でもいろいろの憶測が飛んでいるようだ。韓国は、北朝鮮と日本とが関係改善が進みそうに見えて歯がみしていたのだろう、北朝鮮以上に積極的に関係修復に動きそうだ。しかしその話に朴槿恵大統領の姿が見えてこない(この頃影が薄く見えるのは気のせいか)。

 姿が見えないと言えば金正恩だが、これにも数々の憶測が飛んでいる(私もいろいろ憶測した)。足を引きずっている姿から、美食による痛風ではないか、というのは有力な憶測だ。もし事実なら、痛風だ、と正しく報道すれば、国民が飢えているのに美食するからだ、と内外から非難されるのは確実だ。それで沈黙しているのだろうか。

 しかし痛風の発作(激痛が出るのを痛風の発作という)は慢性化する前なら通常長くて二週間でウソのように治まってしまう(何しろ経験者なので詳しいのだ)。一ヶ月以上の雲隠れは痛風だけでは説明がつかないと思うのだが・・・。

 日本人三人が今年のノーベル物理学賞に決まった。大変嬉しいことである。このことが中国のネットでも話題になっている。中国はたった一人文学賞を受賞しただけ、と言うことは中国人にとって残念なことであろう。今の共産党独裁体制では今後も日本のような受賞者が出ない、と悲観的ではあるが鋭い指摘も見られる。

 中国文明は理工学的な分野を一段下に見る傾向がある。ある時代まで世界最大最強の文明国だったのに停滞したのはそれが大きな原因だともいえる。世界最大の人口を抱え、優秀な人材もたくさんいるはずで、それが力を発揮できないのは体制の問題であると言う指摘は、なるほど正しい指摘かも知れない。

 基礎研究は金にならない、としておろそかにしてきたツケは今の拝金主義横行の中国では改まるのが難しいだろう。

 日本もその傾向がなきにしもあらず。そういえば事業仕分けでスーパーコンピューターの補助金に大なたをふるおうとしてバッシングを受けた蓮舫氏の感性には基礎研究をおろそかにする血があったのではないかといえばいいすぎか。

 火山噴火予知研究のための計測器や人員の予算を大幅に削減したのは民主党だとかそうではないとか騒いでいた。国民の実感ではそう思えるのは確かだ。

140920_82 歯医者。痛そう!

電話

電話はかけることもかかってくることも週に一回あるかないか程度。それが昨日は四回もかかってきた。

 最初は赤城山の山中を走っているときに妹から。母の具合と今後の見込みについて話す。妹も母の様子を見に行きたいのだが、連れ合いが先日心臓の手術をしたばかりで、しかも連れ合いの母親を介護中とあって身動きが取れないのだ。だいぶストレスがたまっているのではないかとこちらが心配する。

 次に義兄から。これも運転中だったのでこちらからかけ直す。ややこしい話で長話になった。

 夕方宿に着いてぼんやりしていたら、桐生の周御大から電話。「近くまで来てるのに、水くせえじゃないか!」と開口一番。おっしゃるとおり遠慮していたわけです。つまらないこと(でもないか)などがいろいろあって多少屈折しているのは事実だ。鋭く「いろいろ話したいことがあるんだろ」と言われてとても嬉しかった。金曜日に桐生に泊まって飲む。早速宿をとる。

 夕食のあと、ゆっくり風呂に入り、寝床で本を読んでいたら大阪の兄貴分の人(いつも旅に行く兄貴分の人とは別)から久しぶりに電話。「なにしてんだ?」って、電話してきたのはそちらでしょ。旅の最中だ、と伝えてしばらく話したあと、「どこにいるんだ」という。だいぶゴキゲンの様子。「誰と飲んでるの?」と聞くと「お前の知らない美人とだ」とおっしゃる。大阪に行くときは必ず声をかける、と言う約束をして、話が堂々巡りできりがないので切る。

 独りだなあ、と思うときはその気持ちをさらに強めるために一人旅をする。そうすると突き抜けて元気になる。

 電話をいろいろ受けて話をしていたらとても温かい気持ちになった。

 独りじゃないんだ。

140920_251 みんぱく展示物から

 

2014年10月 7日 (火)

赤城山・小沼と大沼

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千葉まで来たので、その足で東北の温泉にでも行こうと思ったけれど、ちょっとしんどいので北関東に宿を探してみた。

いつもの老神温泉にしようと思ったが、周辺を探したら安い一軒宿の温泉が見つかった。沼田から120号線を東に行ってすぐ北上する。武尊山(これでほたか山と読む)の方へ向かう道の途中にある宿だ。

コンセプトが、テレビのない宿、と言うのが気に入った。

今着いたところだ。

これから風呂に入ろうと思っている。

今日は途中で赤城山に登った。赤城の大沼、小沼を眺め、赤城神社に参拝した。赤城神社と言えば確か天狗党がここで参拝してから中山道を西へ向かったはずだ。

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赤城小沼。静かだ。駐車場から無理に近道して湖畔を下りたら下がぬかるんでいて滑って尻餅をついてしまった。

幸い大事なカメラはしっかり確保、しかしズボンが汚れてしまった。踏ん張りがきかなくなっている。情けない。

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湖(沼か)がきらめいている。

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こちらは大沼。赤城神社を対岸から。

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赤城神社へはこの赤い橋を渡る。

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湖岸で見かけた鵜。

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橋の上から覗くと大きな鯉が何匹も泳いでいる。

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赤城神社。新しすぎて風情がない。

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大沼の水面もきらめいている。

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山の紅葉は始まったばかりだ。

2014年10月 6日 (月)

申し訳ないけれど・・・

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 昨日と今日、入院している老母の病院にいた。昨日は老母の誕生日なので弟の孫たち、老母にとってはひ孫たちが誕生祝いを持参した。老母はどこまで分かっているのか不明だが、多分喜んでいたのだろう。

 午前中は、千葉は台風のただ中にいたけれど、通過したとたんに青空になり、風も弱くなった。昼過ぎ、弟の嫁さんと二人で老母の病院に行く。肺炎の兆候は幸い消失。ただし、ものが口から食べられない状態が続いている。

 少しずつ口から食べ物を食べられるようにして退院、と言うのが病院のスケジュールらしいが、食べるたびに烈しくむせてしまい、見ていられない状況になる。看護婦たちもこわくてものを食べさせることができないのだという。

 どちらにしても肺炎の恐れが消滅すれば退院するしかない。胃瘻にするのか、鼻から管で食べ物を入れるのか、それとも点滴のみに頼っていくのか決断するように言われた。

 胃瘻は論外。鼻から管を入れても本人の苦痛があり、不快をいやがることでのトラブルもあるらしい(患者が管を引き抜くことでの事故)。

 昨晩、弟夫婦に判断を任せ、どう決めてもいいよ、その決定に従う、と言ったのだが、こちらが人ごとだと思っているように感じたような顔をしていた。

 今日は、だから医師にではないが看護婦に、胃瘻も鼻からチューブも希望しない、というのが家族の意向であると私から伝えた。

 夕方は私一人でしばらく母に一人で話しかけた。母と二人きりで話すことなどずいぶんなかった。母は話すことはできないから私が一人で語りかけるのだけれど、手を握りながら話せば、こちらの言っていることが分かっていることがもちろん分かる。

 私の、子供との親子関係についての話から、母と父を中心にした私が子供だった時代の家族の思い出を私なりに語り、いちばん言いたかったこと、「楽しかったね」ということを伝えた。 

 夜、仕事を終えた弟といつものように酒を飲む。私の思いや今回の旅行のことなど、酔った勢いでいろいろなことを話す。

 明日からは三日ほど北関東で温泉に浸かろうと思い、予約をした。なんだかとても疲れたのだ。弟夫婦には申し訳ないけれど、兄貴はちょっと強がりの、いい格好しいを続けられなくなってしまったのだ。

 今は、いつもは連絡する桐生の周恩来御大に連絡しようかどうか迷っている。

植村修一「不祥事は、誰が起こすのか」(日経プレミアムシリーズ)

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ここで言う不祥事は、誰かが悪いことと知りながらこっそり行う行為のことだけを言うわけではない。原発事故のような、本来見過ごしてはならないリスク対策を怠ったことなども含む、広い意味での事故事件を不祥事として論じている。

 著者はもと日銀マン。その経験を踏まえて数々の事件の構造を分析する。分析のもとになっているのは主にその事件の第三者委員会報告書である。

 マスコミは不祥事をあたかも悪意を持った犯人が積極的に行ったように書き立てる。これなら犯人を逮捕してそこから取り除けば再び同様の不祥事が起こることはなくなるはずだ。ところが同様の不祥事は次から次に起こる。

 社会的に考えれば問題があることでも、そしてわざわざ金などもらわなくても、人間はときに人間的な関係や社会的な関係の中で不祥事に荷担してしまう。企業にいればそのボーダーラインの事例に遭遇することはまれではない。

 不祥事はあってはならないことであるが、必ず起こるものだ、と言う認識のもとにその対策を考えなければならない。

 原発事故は決して起きてはならない、と言う束縛が神話を生み出し、実際に起きている数々のトラブルの報告をかえって隠蔽させてしまったのは記憶に新しい。トラブルが隠蔽されればその対策も不十分になるのは当然ではないか。

 人間は万全ではない。社会的な関係は利害が対立することがしばしばあるからきれいごとでは済まない。きれいごとばかり言っていると不祥事は隠れたところで増殖する。

 過去の不祥事からの教訓を生かし、起きてはならないことだ、と断罪するばかりではなく、再び起こるものだ、と考えて対策を取っていくことが必要だという著者の当然の意見は、当たり前のようでよく考えるべき大事な考え方のように感じる。

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 余談であるが、岐阜県の美濃加茂市長の収賄事件について現時点で思うことがある。

 この市長は全国最年少で、地元でも人気がある。彼が市長になる前、市議であったときに収賄があったとして今年になって逮捕された。これは贈賄側の自白をもとにしている。

 市長は逮捕拘留中に頑として収賄を認めることを拒否。現在保釈中で公務をこなしながら公判に臨んでいる。保釈の条件として面談をしてはならない人物を厳しく制限されたが、日を追うごとに制限は解除され、現在は公務に全く支障がない状態だ。

 公判で贈賄側が質問に答えた言葉。「現金を渡したことは間違いありませんが、どのような状況で渡したのか記憶にありませんでした。検察の人からいろいろな資料を渡されてそれでどんな経緯だったのか思い出しました」。

 何十年も前の話ではなく、忘れたというのは理解しにくい。検察の使嗾が入ったように聞こえるけれどどうだろうか。

 金銭授受があったかどうか真偽は分からない。しかしこの告発と逮捕が、若い市長の誕生に反感を持った一部の人々の思惑によるもので、若い市長を逮捕する、と言うセンセーショナルさで得点を稼ごうとした検察とその思惑が一致したことによるものであるように見える。

 私は金銭の授受は絶対になかったとは思わないが、多分美濃加茂に限らず市議などと言うのは共産党を除けばその質問の背後に多少の金が動くのは当たり前のことのように思っている。若い市議にどれほどの権限があるというのか。多分市長にしたら周りのベテランたちの姿が見えていただろうけれど、それを告発しても自分を正当化することにはならないことをよく認識しているだろう。

 贈賄側の曖昧さが市長の判断の正しさを現しているように思われる。

 願わくば無罪を勝ち取り、市の健全化に大なたをふるって市民のために頑張って欲しい。

 ニュースで知っているだけで、この市長と私はなんの関係もありませんので念のため。

そうですか、と言うしかないが

 北朝鮮の金正恩第一書記の姿が一ヶ月以上見えない。金正恩の側近で、一昨日韓国を訪問した北朝鮮の労働党書記は「金正恩第一書記の健康になんの問題もない」と語ったそうだ。

 なんの問題もないのに姿が見えないのはなぜなのかが語られなければ、とりあえずは「ああそうですか」と言うしかない。両足を骨折した、などというニュースもあったがあれはデマだったのか。

 理由が分からないから憶測が飛ぶ。

 拉致、行方不明者の調査の進展が余りにお粗末で日本に回答のしようがなくて面子が立たず、雲隠れしているのか。

 韓国と中国が北朝鮮に援助をすることを約束して、日本と北朝鮮との関係改善の進展を阻止させられたので日本に合わす顔がなくて雲隠れしているのか。今回にわかに韓国と北朝鮮が融和する動きが活発化しているのはそのせいか。金正恩が近々中国を訪問するとの話も聞こえている。

 それとも金正恩の対日妥協をはじめとするいろいろな政策が、彼を担ぎ上げている連中にとって不都合であると見なされて監禁されているのか。まさか粛清までされてはいないだろうけれど・・・。

 すべて私の妄想なので裏付けはありません。
 
 あんがいげっそりと痩せてやつれた姿で再登場するかも知れない。アントニオ猪木は友人として救出に行くべきではないか。

140920_68 これではやせすぎ!

 

2014年10月 5日 (日)

理由

140920_63  

中国から日本への観光客は今年7月までだけでも前年に対して40%も増加している。中国人の海外への観光客の増加は日本だけではないが、特に日本は増えているようだ。その理由は日本の「おもてなし」の心だとも言うが、日本でお金を使うことでものに変えよう、と言うつもりの中国人も多いのだそうだ。

 中国の先行きをもっとも心配しているのは中国人自身であり、手持ちの金の価値が急減することを見越して、換金性の高い信用のできる日本製品などを買い込むのだ、と言う。

 ところがその中国への海外からの観光客が減りだしている。日本からの観光客が減るのは反日がこれだけ報道されているから当然としても、他の国も軒並み前年よりマイナスらしい。

 それを中国のマスコミが解析して、考えられる理由をあげていた。大気汚染や食品疑惑問題はその大きな理由だが、観光客に対するインフラ整備の不足、サービス精神の欠如も大きいと分析されている。あげられていないがテロ事件の頻発も大きいだろう。

 確かに直接的な理由はそうかも知れない。

 だが毎年のように中国を訪問していた私がこの三年ほど行かなくなっていて、しかも是非行きたい、と言う気持ちがほとんどなくなったのはそんな理由ではない。

 昔は中国の観光地はほとんど外国人だった。わざわざ高い金と長い時間をかけるくらいだから中国に思い入れがあり、知識もある人が多かった。

 今はほとんどの観光地は中国人が圧倒的に多い。彼らは観光地を見学に来たのではなく、観光地に来たことを帰って自慢するためにきているかのように見える。歴史的な遺跡を見ながらただ大声でわめき合い、やたらに土産物をしこたま買い込む。だから観光地はほとんど土産物屋だらけになってしまった。

 観光地は観光客を呼び込むためになんたることか、遺跡を派手に、ときにはキンキラキンに飾り立て、あまつさえ今風に建て直したりする。歴史的な意味など意に介さない。

 毛沢東の文化大革命は信じられないほど多くの犠牲者を産んだが、実は大成功だったのだ。もくろみ通り、過去の文化遺産を破壊し尽くしたのみならず、文化の意味や価値の意識を中国人から失わせることに大成功したのだ。

 中国の史跡を訪ねてもその当時の本物はもうほとんど見ることはできない。だから現地に立ち、過去を幻想することで偲ぶことになる。

 それが大勢の中国人(佃煮にするほどいる)がひしめき合ってわめき合っている中に立たされたら、過去など偲びようがないではないか。

 それが中国を訪ねる気を失わせた大きな理由である。

 なんと日本の史跡でその大声の中国語が飛び交うようになって久しい。中国人から逃れるには土産物のない観光地に行くしかないようだ。もちろんそんなところはないけれど。

2014年10月 4日 (土)

台風の前に東へ

 入院した母の様子を見に明日夜明け前に車で千葉に行くことにした。着くのは昼前の予定。

 誤嚥があって食事がほとんどとれないため点滴主体の栄養補給になっているという。胃瘻は出来ればしたくないと弟と話しているけれど、その辺の相談をしようと思っている。

 台風は明後日に本格的にやってくる見込みらしいので、日曜に病院に行って様子を見て、月曜日は弟のところで台風をやり過ごすことになりそうだ。

 母の様子によってそのまま東北か北関東へ旅に出かけようかと思っている。それどころではないようならそのときに考えることにしてその支度をした。だから宿の予約はまだしていない。

顔のある世界とない世界

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 国立民族学博物館には世界の文化物が展示されている。原始的、呪術的なものから宗教的なもの、日常世界で使用する道具まで多様なものがたくさん並べられていて見飽きないのだが、ていねいに見ていると時間がいくらあっても足りない。それに足と腰が持たない。そのため休むための椅子がそこら中にあるのは有難い。

 漫然と見るよりもテーマを決めて見た方が良いと感じていたので今回は「顔」をテーマとした。

 各地域別に眺めていて、その顔があふれている世界と、全くと云って良いほど顔のない世界があることに気が付いた。アジアやインド、アフリカは顔があふれている。それに対してイスラム世界には顔は皆無である。そしてヨーロッパは・・・古代には顔があり、中世以後は顔が激減する。もちろん宗教的な絵などに顔はあるけれど、生命エネルギーに欠ける。

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 そう、実感したのは顔の多少こそ生命エネルギーの多少に他ならないのではないか、と言うことだった。そんなことを思うのは、私自身がアジア人であるからだろうか。

 イスラム世界はいま混沌としていて、たやすく生命が喪われている。自分の価値観と異なる者を決して受け入れない世界は、世界の多様性を拒否し、創造的世界というより破壊的世界への道をひた走っているように見える。これこそ生命エネルギーの衰退だと私は感じてしまう。

 イスラムなどの絶対的な一神教の信奉に未来はあるのだろうか。彼等は偶像を絶対的に排除する。偶像にこそ顔がある。偶像排除は顔の喪失だ。顔を喪失した世界は生命力も喪失している、と見るのは考えすぎか。

 そういう意味では中国の展示物に意外と顔が少ないのに気が付く。実際に中国を訪ねれば、昔の英雄豪傑や偉人の像は多数見ることができるから、必ずしも顔がないわけではないが、現代中国には顔があまりない。目につくのは宗教画のような中国の支配者の巨大な顔ばかりだ。

 中国の展示物で特に印象的だったのは下の写真。

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 拝金主義の象徴のようなこの顔こそ現代中国の顔らしい。

 韓国は整形があたりまえになり、美人があふれているが、次第に同じような顔になっていくように見える。これは顔を作ることで顔を喪失しているということではないのか。

バリ島には顔があふれていた。では日本は?

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仁川アジア大会は失敗?

140920_73国立民族博物館展示物から

 仁川アジア大会に対して問題点が数々指摘されている。前回の広州大会の十分の一の予算というのがそもそも無理があったし、韓国国民の盛り上がりも欠けている。

 開会式では、六万五千人収容可能の会場のチケットのうち三万枚が無料で配布されたそうだ。閉会式はそれより売れておらず、これも無償配布が発表されているが交通が不便であることなどから時間の無駄、として不人気だという。多分空席は開会式同様、軍隊や学生で埋めるのだろう。

 あの大いに盛り上がった卓球戦でも、一部の台が傾いていて、それに気づいた福原愛選手がそっと球をおくと勝手にころがったそうだ。国際大会では論外だろう。バトミントン競技での不可解な空調設備の送風の断続なども話題になった。意図的だったとしたらこれほど恥知らずな行為はない。

 判定競技でのおかしな判定は韓国の特技だが、ボクシング競技でたびたび信じられない判定により、韓国選手が勝利している。誰が見ても勝っていたモンゴル選手は敗北を知らされて座り込んでしまったという。相手にではなく、ジャッジに打ちのめされたのだ。これには朝青龍が激怒して自身のツイッターに暴言を書いたと言うが、気持ちは分かる。

 韓国のネットでも、さすがに韓国を擁護するものは少なく、自虐的なものが多いという。それほど見え見えだったのだ。中国のネットではまたいつもの韓国のやり口だ、とあざ笑うものが相次いでいる。

 四年に一度のアジア大会を自国で開催すると云う事の意味を韓国自身は自覚しているのだろうか。韓国の国威発揚が大きな目的のはずだが、次々に起こるお粗末な事態やトラブルは、韓国が二流どころか三流だ、と言う印象を世界に発信することになってしまったようだ。

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インドネシア・バリ島への旅行の前に大阪に泊まった。関空からの朝の出発のときは、いつもそうしている。

その日にはいつもどこかを散策することにしているが、今回は万博記念公園のそばの国立民族学博物館(以下みんぱく)を訪ねることにした。

今回はテーマを決めていた。「顔」である。みんぱくには展示物が多いが、「顔」がとても多い。面であったり人形であったり像であったりするが顔が必ずついている。

そのことに関連したことで書きたいことがあるがそれは別の機会にする。

みんぱくはフラッシュ(古いね!)を使用しなければ写真撮影は黙認している。しかし館内は暗い。今回感度を思い切り上げて写真を撮りまくった。もともとストロボは焚かない主義なので、手撮りでどこまで行けるか分からなかったが、いくつか何とか見られるものもあった。

と言うことで題目と関係のないそのときの写真をしばらく添付し続けることにしている。だからみんぱく独自の記事は掲載しないつもり。

2014年10月 3日 (金)

韓国検察が苦慮しているそうだ

140920_260国立民族学博物館展示物から

 産経新聞のソウル支局長が朴槿恵大統領への名誉毀損で韓国検察に繰り返し事情聴取を受け、出国を禁止されている。日本からは解放するよう要請しているらしいが、5回目の延長が認められ、すでに60日近くが経過してしまった。

 韓国側は産経新聞が謝罪することで幕引きしたいらしいが、産経新聞側が頑として韓国側の措置が不当であると訴えているために妥協点が見いだせず、韓国検察が苦慮しているという。

 実は朝日新聞の慰安婦誤報記事について韓国ではほとんど報道されていない。その時期にかぶせてこの産経新聞ソウル支局長の問題を大々的に取り上げて、朝日新聞の件を隠したような気配がある。

 だからすでに朝日新聞の件のほとぼりが冷めたいま、これ以上産経新聞ソウル支局長を韓国内に留めることは不要なことであり、海外マスコミにたいしても具合が悪くなってきた。産経新聞は10月1日付で支局長の日本国内への転勤の辞令を出しているので、いまやソウル支局長ではなく、韓国に留まる理由はない。

 そもそも韓国マスコミの記事を引用したコラムを名誉毀損としながら、もとの記事を書いた韓国のマスコミや記者におとがめがないというのは誰が考えてもおかしい。このことがおかしいと多くの韓国国民が感じていると思う。いや、思いたい。韓国は中国ではないはずなのだが・・・。

 最近の韓国の国際常識を欠いているように思われる行動をみていると、つい韓国に対して批判的な気持ちになりやすい。これではもし韓国が財閥系企業の利益減少で経済的に不調になった場合に、同情よりはつい、それ見たことか、という気持ちにさせてしまうだろう。

 日本が不調だと韓国や中国が喜ぶように、日本人が韓国や中国の不調を喜ぶようになり、ついにはそれを望むようになる。これが呪いでなくて何であろう。呪いを招くようなことはするべきでない。

140920_227同上

結果責任と罪の重さ

140920_39国立民族学博物館展示物から


 競泳の富田選手が韓国記者団席のカメラを窃盗した、として選手団を追放され、韓国の検察から罰金刑を受けてようやく帰国を許可された。

 帰国後、富田選手はインタビューで「私はやっていない」と述べた。詳しいことを記者が聞こうとしたらそそくさと立ち去ってしまったらしいので、そもそもカメラを盗んでいない、と言いたいのか、他のことを言いたかったのかよく分からない。意外な真実があるのかも知れないが、いまは不明だ。

 法律は平等だ。だからカメラを盗むという行為に対する罪は同じに扱われ、あとはそのときの犯意によって情状が酌量される。前から計画的に盗もうとしていたのか、つい誰もいないから出来心で手が出てしまったのか、などが考慮されるわけだ。

 しかし今回の窃盗が報道されている通り事実であれば、結果的に日本の国をおとしめ、日本人を辱めた責任は窃盗の罪よりけた違いに大きい。しかしそれを裁く法律は多分日本にはない。

 朝日新聞の慰安婦問題についての誤報と誤認が法律では罰することが出来ないけれど責任が極めて重いことと似ている。

 富田選手がそのことを自覚し、心から謝罪することが期待されるが、「私はやっていない」という言葉からはそれが感じられない。

 それともあまりの自分の罪の重さに耐えられずに意味不明の言葉を発したのだろうか。普通の日本人は、心からの謝罪は受け入れて、さらに追求したりしない。恥じる心を知る人間をあまり追い詰めると悲劇が起こることを知っているからだ。

 それをカサにかかって追い詰める人間は、多分そもそも恥じる心を知らない人間なのだろう。ある国の人たちは果てしなくカサにかかる。

2014年10月 2日 (木)

ケチャダンス

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バリ島最後の夜、今回の旅のハイライトはケチャダンスだ。

ケチャは舞踊劇になっている。ケチャそのものは土着宗教にもとずく魔除けの儀式が原型らしいが、これにラーマーヤナの物語が混交されていまの劇になったと配布されたパンフレットに書かれている。大まかなストーリーがあらかじめ知らされているのでだいたい分かる。

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中央が舞台。早めに好い席を確保した。いまは一時間も前なので観客席は疎らに見えるが・・・。

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次第に埋まっていき、最後はぎゅうぎゅう詰めになった。

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中央に火がささげられ、いよいよ始まりも近い。

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踊り手たちが口々にカチャカチャ言いながら登場すると一気に会場は盛り上がる。

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踊り手が輪になる。

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主役の登場。

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ラーマ王子と后のシータ。

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ついに日没。一気に暗くなる。

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向こうがラーマ王子で手前が弟のラクサマナ。

森の魔神を退治するように弟に命令している(らしい)。しかし弟はバラバラになるのはまずい、と逡巡する。

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ラーマ王子は自ら森に出かけてしまい。あとを弟に託す。そのラクサマナをシータがなじる。なじられて困るラクサマナ。

シータはラーマのあとを追うようにラクサマナに強要する。

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ここへわけの分からない黄色い人物登場。結局役割不明。このあとラクサマナは火の輪を二重にしつらえ、その中を決して出ないようにシータに言い置いてラーマのあとを追う。

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魔人登場。シータを奪いに来たのだ。

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しかし火の輪の中に魔神は入ることが出来ない。この場合の火の輪はこの踊り手たちである。

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魔神があきらめて去ったあと、老人が現れて言葉巧みにシータを誘う。実は老人は魔神の化身なのだ。

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化身にだまされてついにシータは捕らわれ、連れ去られそうになる。

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無理矢理シータを連れ去ろうとする魔神。

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そこへ巨鳥の化身が現れ、それを阻止しようとして魔神と争うが・・・。力及ばず魔神に倒されてしまう。

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とらわれの身となったシータと魔神にその世話をするよう命じられたトゥリジャタ。嘆き悲しむシータを慰めている。

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ここへ突然巨猿のハノマンが登場。観客席や舞台を縦横無尽に暴れ回り、滑稽な仕草をして見せて場内が沸く。

冒頭の写真は私の目の前に現れたので撮ったもの。迫力がある。

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見得を切るハノマン。

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ハノマンはシータを助けようとするのだが・・・。

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やがて魔神の手下たちが現れる。ハノマンとの大立ち回りが勇壮に繰り広げられる。やがて魔人も登場し、ついにハノマンは捕らわれてしまう。

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捕らわれたハノマン。

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ハノマンの回りに火がかけられ、焼き殺されそうになる。

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しかしハノマンは火の中から脱出、火を蹴散らす。あたりに火の粉が飛ぶ。

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ようやくラーマ兄弟が登場し、形勢逆転。

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ついにハノマンが魔王の首を討ち取って大団円。

思った以上に面白かった。見る値打ち大ありだ。

このあとインターコンチネンタルの迷路のようなレストランでゴージャスな食事をして、深夜の飛行機で帰国した。

インドネシアの旅、長いことおつきあいありがとうございました。

南十字星

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サンセットディナーのレストランは空港の南側、ホテルから直線距離にしたら近いけれど、空港をぐるりと周りこみ、さらに漁村のような田舎路をかなり走り、思ったより遠く感じた。

いちばん海側の砂浜にしつらえられた席を確保。空港が目の前なので頻繁に飛行機が着陸する。

南半球でしか見ることができない南十字星を見ることは叶わない夢だと思っていたけれど、もしかしたら、と考えていた。夕陽の落ちる西側の左手が南だから、暗くなってからその方角を眺めていた。縦に二つ並んだ星が見える。北半球にはあんな星はない。

ボーイに「あれはサザンクロスか?」と尋ねると「イエース」と答えた。

感激した。手持ちのカメラでは写真に残すのは無理とあきらめたが、いまでもくっきりと眼に残っている。

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席を確保したばかりの目の前の海。まだ明るい。

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日が傾き始めた。

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漁船。

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空が黄金色になり、波が輝く。

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夕陽が落ちていく。

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浜辺の人がシルエットになる。

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対岸の灯りが輝き始める。

このレストランはシーフードがメイン。食べる魚介類は自分で水槽のものを選ぶ。今晩は贅沢することで合意していたのでフエフキダイらしき大きな魚、伊勢エビ二匹、蟹、そしてハマグリに似た貝を選び、その重さを量ってもらって値段交渉する。

素材の味を活かす料理は期待できないけれど良い素材であることは間違いない。それに生で食べられると言われても心配だし。

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つわものどもが夢の跡。満腹でしかも酩酊している。

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音楽も楽しく、盛り上がってきた。

もちろんホテルに帰ってからビールを買いだして二次会。次回の旅行先を討議し、トルコに内定した。ようやく全員がリタイアしたので時間はたっぷりとれるのだ。金は・・・・何とかなるさ。

2014年10月 1日 (水)

バリ島・クタビーチ

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バリ島のクタビーチの近くのホテルに滞在していた。前日、ジョグジャカルタを日帰りして、夜遅かったので、朝寝をしてからゆっくり朝食を摂り、昼間のビーチを散策した。この日は一日フリーなので、歩き回ることにした。夕食は姉様の選んだサンセットディナーを食べに行く。

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そこら中に花が咲いている。花の名前は知らない。

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真昼に近いので太陽は真上近くにある。日本とは太陽の高さが違うのだ。

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海岸で撮った写真を見て下さい。

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ディスカバリーモール。バリで最大級のモール。

一度もどってからもう一度この右手のアジアンテイストレストランで昼食。

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食事の席の上の扇風機。ゆっくり回っているのに意外と涼しい。

昼のビールの酔いでいい気持ちになったので帰って昼寝。サンセットディナーはレストランから迎えに来てくれるのでそれを待つ。

ボロブドール(2)

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ジョグジャカルタへの日帰りは朝五時ホテル出発、バリに帰ったのは飛行機が少し遅れたこともあり夜十一時過ぎ、くたくたになって部屋に入ると・・・ベッドにこんなカエルが。

バスタオルを織り込んで作っていてしゃれている。目玉だけ小さな紙に黒丸を入れたものが乗せてあった(もちろん翌朝おかえしに枕銭をちょっとはずんでおいた)。

これで癒やされたので夜中に町にくり出し、小さなビアガーデンでビンタンビールと軽い食事。

さて話はもどるが、ボロブドールの続き。

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ボロブドール最上部へ登る。同行の友人が腰に布を巻いている。インドネシアでは神聖な場所では盛装の替わりとして腰布や色つきの帯を締める。何カ所かそんな場所があった。入り口で貸してくれる。

もちろんわたしも巻いている。絵柄を逆さまにして巻いたら、係員が笑いながらまき直してくれた。

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最上部、パゴダをめぐる廻廊。ここを奇数回回るとしあわせになるという。

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こんなふうに大きい。

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西(多分)向く仏像。

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ここは山が近い。

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参道が見える。

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周りはジャングル。

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ボロブドールはジャングルの中から発見された。

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パゴダ最上部。むかしはもっと高かったそうだ。

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人々のしあわせを祈ってくれている。しあわせとは心の平安だ。物欲の達成ではない(物欲には果てしがない。一兆円蓄財してもさらに貪るのが人間だ)。

ボロブドールをあとにしてヒンズーの遺跡をもう一つ訪ねた。何と云うところかよく分からない。

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こんな大木の前にあった。

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こんな塔が・・・。

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なかにはこんなぶつぞうが・・・。下が光っているのは、光が外部から差しているから。

この周りにもいくつか仏像があって写真を撮ったけれど省略。くたびれた。

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