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2015年1月

2015年1月31日 (土)

観るよりたまる

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 家にいれば毎朝、番組表を元に録画予約する。連続もののドラマ以外は一週間先までの予約しか出来ないから毎日番組表をチェックするのだ。必要に応じてBDにダビングする。

 旅に出かけることもしばしばあるし、最近は母の介護の手伝いに実家に帰ることも多いので、不在がちである。帰ってくると集中的に録画したものを観ようと思うが、どんなに頑張っても映画なら一日三本までが限度だ。そうすると観るよりたまる一方で、録画したBDが棚にあふれている。

 この二日ほどで四本の映画を観た。

「REDリターンズ」2013年アメリカ
 監督ディーン・パリソット、出演ブルース・ウィリス、ジョン・マルコヴィッチ、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ、メアリー=ルイーズ・パーカー、イ・ビョンホン、アンソニー・ホプキンス、ヘレン・ミラン他。

 アクションコメディ映画という分類らしい。コメディは子どもの頃は大好きだったが、いまは肌に合わなくて嫌いだ。だから原則コメディは観ない。しかしこの映画は文句なしに楽しめた。ジョン・マルコヴィッチの意味不明の台詞の乱打は絶妙だ。この作品ではアンソニー・ホプキンスの存在感がダントツでさすがである。ただ、盛りだくさんすぎるので、もう少し短い方が有り難い。 

「リボルバー」2005年イギリス・フランス
 監督ガイ・リッチー、出演ジェイソン・ステイサム、レイ・リオッタ他。

 ジェイソン・ステイサムは大好きな俳優だ。特に声がすばらしい。映画を見始めてすぐに一度観た映画だと気がついたが、ステイサムなら好いか、とそのまま最後まで観た。ラストの意味が分からない。後半だんだん分からなくなり出してついに全く分からなくなる。無理に解釈出来ないことはないが、正直宙ぶらりんな感じだ。そういえば初めて観たときもそうだったから、印象が残らなかったのかも知れない。私の頭が悪いのか?

「レイクサイド マーダーケース」2005年・日本
 監督・真山真治、出演・役所広司、薬師丸ひろ子、柄本明、鶴見辰吾、杉田かおる、黒田福美、豊川悦司他。

 原作は東野圭吾の「レイクサイド」。主人公の並木(役所広司)という男が、よんどころない事情である殺人事件に関わり、その死体の始末を登場人物たちと行っていく様子が延々と描写されていく。ほぼ完全殺人が完成するのだが、男は当初知らされた事情がじつは違うもので、自分は騙されていたのではないかと気がつく。それを追求していくうちにおどろきの真実を知らされて・・・。面白かった。原作が良いのだろう。柄本明という俳優はやはり凄い。

「ブロークンシティ」2013年アメリカ
 監督アレン・ヒューズ、出演マーク・ウォールバーグ、ラッセル・クロウ、ギャサリン・ゼタ=ジョーンズ他。

 いまアメリカで話題になっている、警官による射殺事件そのもののような事件で犯人を射殺し、無罪を勝ち取ったものの警官を辞職して私立探偵をしているビリー・ダガート(マーク・ウォールバーグ)が、ニューヨーク市長(ラッセル・クロウ)の依頼で妻(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)の素行調査を行う。市長選挙が間近いときで、その依頼に不審なものを感じながら、市長の妻の密会現場と思われる様子を写真に撮ったビリーだったが、まもなくその密会相手が射殺死体で発見される。その密会相手はなんと市長の対立候補の選挙参謀だった。ビリーは市長に利用されていたことを思い知らされる。そして真相が判明して市長を追い詰めたとき、ビリーは市長から致命的な反撃を受ける。果たしてビリーはそのときどう行動したか。面白い映画だった。「極大射程 シューター」以来、マーク・ウォールバーグのファンである。この映画はおすすめ。

 ところで本日は新酒試飲会(いわゆる蔵開き)。昼前に友人たちと名古屋駅で待ち合わせ、デパ地下でつまみを仕入れて酒蔵へ向かう。毎年酩酊の限界に挑戦するような飲み方をするが、今年は少し控えようと思う(と毎年思う)。カメラを持って行くかどうか迷っている。失う恐れがあるのだ。でも、だから持って行く、という考え方もある。

2015年1月30日 (金)

あたりまえかも知れない

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 有効求人倍率が全国平均で1.15%になった。当然失業率も近年で最低になっている。政府はこれを景気回復の兆候と自賛するだろう。

 ところで日銀が目標にしている物価上昇率は、原油安のおかげもあり、消費税のアップ率を差し引けば大巾に未達である。とはいえ対前年同月比で2.2%、現実に物価は上昇している。そして一世帯あたりの支出額の平均は3.4%下落した。これを野党は、国民がますます貧困に向かいつつある現れだとしてアベノミクスの失敗を声高に叫んでいる。

 私は1950年生まれで、これはいわゆる団塊の世代の終わりの境界の年だ。そして今年で65歳になる。私は60歳でリタイアしてしまったが、過半数は継続して65歳まで働いている。今年は会社に残った同期がほぼ全員退職する。このように団塊の世代が数年前からどんどんリタイアして、一昨年から昨年は退職者数のピークであったのだ。

 だから有効求人倍率が上がったのは、企業が従業員数を増やしたこともあるかもしれないが、団塊の世代のリタイアによる欠員の穴埋めの要因が大きいのではないか。そして退職で収入が減少する高年世代が増えれば、消費支出が減少するのはあたりまえだ。どちらにしても会社に行かなくなれば使う金も自動的に減るし、将来のことを考えて財布のひもも締める。

 つまり求人が増えたことと消費支出が減ったことが同時に起こるのは当然の結果なのだ。

 一握りの金持ちと貧困にあえぐ国民という図式を描く一部野党の言い分には現実と乖離したものがあるように思う。

 たしかに理由があって本当に貧しさにあえいでいる人たちがいるのは事実だが、その人たちを救うためには、「貧しい人だらけで自分もその一人」、という被害者意識を国民に植え付けるプロパガンダはかえって困っている人を救うための弊害になりはしないか。自分は救われる人ではなく、救う側の人でありたい、という意識を国民は取り戻さなければならない。そうすればGDPが上がろうが下がろうが日本の国は豊かになると思う。それが景気がよくなる、ということなのではないか。

楽になる

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 奥谷まゆみさんの「おきらく整体生活」という本を読んでいる。学生時代に、ある格闘技の部活をしていて、整体を少しかじった。背骨のゆがみの補整くらいなら多少出来る。ただし自分の整体は出来ない。何冊か簡単な整体の入門書を持っている。自分で出来るところを読んで試してみたりする。

 いま読んでいる本はたしかに「おきらく」な方法で、挿絵もきわめてファジー、基本的に「体は自分の体を自分で直そう(治すが本来だが、整体だから直すが妥当か)とする」、「自分の体の具合の悪いところを自分の体に聞こう」という考え方で、その能力の衰えた現代人の感性の復活をめざし、直ろうとする体を補助してやるための、一人で出来る簡単な方法があげられている。本当に今すぐ出来て、少しやってみただけで楽になった。

 今日は朝イチで神経を抜いて穴の空いた歯(簡易的に詰め物をしている)にちゃんとしたかぶせものをするため、歯医者に行く。不思議なことにこの歯を治療しだしてからあごの動きがとても楽になった。

 抜かずに放置していた親知らずの隣の歯で、この歯が親知らずのせいで動いたためにかみ合わせ全体が狂っていたためと思われる。その歯が削られたために狂いが補整されだしている。歯医者も「少し安定するまで様子を見てからかぶせましょう」ということで今日になったのだ。

 歯のちょっとしたことであご全体が楽になる、たぶん肩こりも減るかも知れないと期待している。これに整体を加えれば完璧だ。

2015年1月29日 (木)

愛知県知事選挙

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 理想を語るのはすばらしい。政治家は理想を語らなければならない。しかし理想を達成するために自分が何をするのか、開かない扉をどうやって自分がこじ開けてみせるのかを語らなければ、居酒屋の酔客の政治談義と何ら変わらない。

 日曜日は愛知県知事選挙。

 共産党は地方末端ほど現場に密着してすばらしい。現職の大村知事に共産党推薦の「小松たみこ」候補がどこまで食い下がれるのか。「増税NO!」「脱原発」「平和憲法」、これはお題目として認めよう。ところで「反貧困」とは何なのか。共産党のめざすものは金持ちの存在を否定であり、全国民の貧困容認による平等化だ(これはこれですばらしい理念だ、なぜなら、みんな貧乏になれば、結果的に貧乏はなくなる)と私は思っていたけれど、党是に反しているのではないか!これでは社民党や、最近の民主党ではないか(みんなが豊かな社会をめざす)。脱原発も、18歳以下の医療無料化も、特養ホームの増設も介護の充実も、保育所や学童保育の拡充もしながら「脱増税」をしつつ「脱貧困」などと、出来もしないことを言ってはいけない。

 ところで「小松たみこ」のたみこは本名か。たみこがもし「民子」だとすれば、なぜひらがなにするのだろう。選挙民は「民子」という漢字が書けないと心配してくれているのか。誠に弱者に配慮した心やさしい人らしい。

 そういえば現職は「大村ひであき」(本来は秀章)さんという名前らしい。どっちもどっちか。こちらは「人が輝くあいち」と選挙公報で言う。「愛知」が書けない人、読めない人をちゃんと心配してくれているらしい。そう言いながら「日本一元気な愛知」などと同じ選挙公報に書かれている。支離滅裂だ。有権者を本当にやさしく馬鹿にして下さって有り難いことだ。

 日本人で、小学校で習う教育漢字が書けない人はきわめてわずかな人だ。その人を基準に選挙公報を作らなければならないのはどうしてだ。

  選挙公報には「この選挙公報は、候補者から提出された原稿を写真にとってそのまま印刷したもの」だと注意書きが添えられている。

ニュース雑感

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 イスラム国に対して中国外交部が強く非難している。中国は実際にテロが頻発している国でもあるから当然と言えば当然だ。ところでどうしてイスラム国はイスラム教徒を弾圧している中国をターゲットにしないのだろうか。根拠はないが、イスラム国の資金源である闇の原油の購入元は中国ではないのだろうか。お得意先は攻撃しないということだろう。中国はテロを強く非難することで、テロ対策を理由に少数民族の弾圧を正当化しているように見える。

 安倍首相が「安倍談話」をあらたに発表する意向らしい。それは「村山談話」とは違うものになるという。あたりまえだ。同じものなら何も改めて発表する必要はない。ところで中国は「村山談話」に強くこだわり、その文言が少しでも後退したら許さず非難する構えのようだ。ということは、「村山談話」というのは中国にとってよほど都合の良い談話だったらしい。

 中国の石炭消費量が2000年以降で初めて対前年マイナスであった。中国の石炭の質は悪く公害の元であるから公害対策が進んだからだろうか。とんでもない。そんなことで消費量が減る国ではない。大量に石炭を消費する電力業界や鉄鋼業界の消費量が減少したからである。エネルギー消費効率が上がったのか。それも違う。そのための設備投資は進んでいない。電力と鉄鋼の消費量が減少しているからだ。中国に鉄鉱石を大量に輸出しているオーストラリアは困っているようだ。それだけ生産が減少しても鉄鋼の在庫量は激増していると言うからこの状況はしばらく変わらない見込みだ。中国経済の減速は表面に表れる統計数字より大きいようだ。そもそも中国の統計数字は信用出来ないし。

 しかしなぜGDPが7.4%も伸びているのに中国経済は減速したとみられるのか(日本が7.4%も伸びたら大好況だ)。GDPの8%の伸びが、中国の好況持続のボーダーラインと言われるのは、たぶん少なくとも8%がお役人の懐に入っていると言うことなのだろう。習近平が必死にここにメスを入れるのは、中国経済の安定持続を維持するために必須の行動なのかも知れない。つまり8%のゆとりが中国経済にはあるということだ。日本にも岩盤規制というゆとりがあるが、シェールガスみたいに砕いて吸い上げるのは難しいようだ。農協が自分の身を守るためになりふり構わないのを見ているとよく分かる。

 ギリシャの選挙は緊縮財政反対の野党が勝利した。新政権はEUと交渉し、債務の減額を勝ち取って緊縮政策をやめて国民の生活を豊かにする、と約束した。EUが申し入れた緊縮政策をやめた上でなおかつ減額を受け入れることは考えにくい。あまりにも虫がよすぎる。EUももうギリシャは救う値打ちがない、と決断するかも知れない。ギリシャを切り捨てても、このままずるずるギリシャというお荷物を抱えるよりましだからだ。このままならギリシャのEU離脱は確実だろう。そうなればギリシャの債務を裏付けするものは無い。つまりデフォルトだ。デフォルトがどれほど国民に惨めな思いをさせるのか、ギリシャの人々は想像もしていないだろう。ギリシャの国債は暴落し、ハイパーインフレとなり、海外からものが買えなくなる。新政権は出来ない約束をしてギリシャ国民を塗炭の苦しみに追い込む。それはギリシャ国民の自業自得ではあるけれど・・・。

2015年1月28日 (水)

日本酒

 日本酒は美味しい。ちゃんと造れば必ず美味しい。そのことをこの頃つくづく実感させて貰う機会がしばしばあって有り難いことだと思っている。

 それなのにいまだにこの世にまずい日本酒があるのはどうしたことだろう。それほどたくさんの酒蔵を訪ねたわけではないが、ふつうの人よりは多いはずだ。そしておかげさまで新酒の絞りたてを飲む機会もあった。そのときに美味しい、と思えない酒を飲んだことは一度もない。

 懐不如意につき、このごろは紙パックの酒を飲む。愛飲しているのは菊正宗の二リットル入りの紙パック。これをじっくりと燗するとそこそこいける。酒にうるさい息子もうなずいていたくらいだ。

 今日はいつも買う店にその菊正宗がない。そこになんと三リットル入りの紙パックがいろいろ並んでいる。ダンピングもここまで来たか、という風情だ。乳酸菌で短期大量生産すると日本酒もこんな値段で売れるようになるのか。そこで、はずれがないはずの月桂冠の三リットルの紙パックを購入。

 まことに残念な結果であった。

 どうしてこんな酒を平然と造ることが出来るのか?神様は土曜日の新酒の感激を盛り上げようと、私にこんな試練を与えたのか!店はせめて菊正宗をおけよ!呑みながら腹を立てている。

 日本人が日本酒離れをしたのではない。日本酒のメーカーの多くが日本人を日本酒嫌いにしたのだ。作りたての美味しい酒をいじり倒してまずくしてから出荷している酒造メーカーの考えが分からない。多くの産業がこうして自滅していった。

「白鵬の批判」の批判

 白鵬が千秋楽の自分の取り組みの取り直し判定を批判している。批判が正当なら理解出来ないことはないが、実際に見ていた感じでは取り直しが妥当であり、歴然とした白鵬の勝ちとはいえなかった。白鵬ともあろうものがどうしたことだろう。

 白鵬が取り組みを終えて控え室に戻るとき、たくさんの人が大声で歓声を上げていた。多くがモンゴルから来た人たちのように見えた。この人たちが取り組みを見れば白鵬が当然勝ったと見なして判定に強く不服を言うだろう。それなのに取り直しになったのは、日本人がモンゴル人に含むところがあるからだ、などと勘ぐる者もいるだろう。それが白鵬に影響して、あの白鵬の審判に対する批判になったのではないか。

 だが、それよりも取り組みの前に大きな問題があったことをNHKの実況をテレビで見ていた人なら知っている。力士は自分の一つ前の取り組みが始まる前に自分の席に座っていなければならない。入場口で対戦相手は同時に場内に入るが、このとき日馬富士はしきりに後ろを気にしていた。白鵬がいつまでも現れなかったからだ。白鵬は遅れに遅れてなんと自分の前の取り組みの最中に入場する、という醜態を演じた。取組中の入場に場内は取り組みそっちのけで騒然としていた。これは相撲界でも前代未聞のことだ、過去に例がない、とアナウンサーも言い、解説の北の富士も満腔の不快感を示していた。「強く叱責すべきだ」と厳しく指摘していた。

 私が思うに、取り組み前に白鵬はモンゴルからの客の相手をしていて入場が遅れたのであろう。すべてつながっているのではないか。このことに白鵬が気がつけば良いが、叱責を受けて開き直るようだと彼は大鵬を超えるどころか朝青龍並みの愚かな横綱として名を留めてしまうだろう。さすがの彼も天狗になって自分を見失っているようだ。

自分のこと

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 とりとめのないことを書く。

 どうも自分が思っているよりも自分の頭がよくないらしい、と初めて気がついたのは中学生のころだった。努力すれば出来ることもあるけれど、努力しても出来ないこともあるらしいのだ。

 でもしばしばそのことを忘れる。壁にぶつかって、もがいたあとに「アアここが俺の限界か」と思い知らされる。でも出来なかったことがいつの間にか少しだけ出来るようになることもある。私に出来ることが出来ない人を見たりする。するとまた「うぬぼれ」が顔を出す。

 歳をとると少しずつ出来たことが出来なくなる。直感力が衰え、集中力が持続しなくなる。根気のいることが苦手になり、知っていたことが思い出せなくなる。そんなことはあたりまえのことなのにひどく気持ちにこたえる。自分の愚かさに呻吟している夢を見ることがある。若いときはこんな夢を見なかった。自信満々だったのだ。 

 独り暮らしでだれとも話さない日が続くと声がうまく出なくなる。友人から電話を貰って、「その声、どうしたんだ」と聞かれたことがある。うまく発声出来ずに声がかすれてしまうのだ。

 老母の介護で弟のところにしばらく滞在していた。弟夫婦と会話をする。夜は毎日飲んで知ったかぶりの話をする。弟たちはやさしいから(前に聞いた話でも)聞いてくれる。声がふつうに戻っている。仙人ではないのだから、やはり人とは話した方がよさそうだ。愚妻悪妻でもそばにいれば話をするから声は維持出来る。良妻なら何よりだろう。

 ふだんブログを書いているので自分の考えをまとめる練習が多少出来ていて、知能の衰えの歯止めに少しだけなっているかも知れない。やはり定期的に意識して友人たちに会うことが良いようだ。

 昨晩夜中に名古屋に帰ってきた。また独り暮らしだが、幸い土曜日には友人たちと新酒の試飲会があり、歓談する。楽しみだ。

江戸川乱歩全集から

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 第三巻「孤島の鬼」を読んでいる。この巻には短編中編合わせて五編が収められている。そのうち「孤島の鬼」はすでに先日読了している(読むのは五回目くらいか、この小説が乱歩の中でいちばん好き)。 それ以外の中から
「陰獣」
 これは香山美子とあおい輝彦の主演で映画化されている。まがまがしい話なのに、実際に殺されたのか事故死なのかはっきりしない死が一つと自殺がひとつのみの事件だ。解釈が幾通りもあり得て物語は二転三転する。一応の結末はあるものの結局不可解なまま終わってしまう。ストーリーをおぼろげに覚えているから、乱歩の仕込んである伏線を味わいながら読むことになるが、突っ込みどころがないではない。だがそこにこそ謎が謎として残されるわけで、その巧妙さに感心する。ところで正体不明の春泥という作家はまさに江戸川乱歩そのものであり、春泥こそが真犯人であるともいえる。著者が自分自身の過去の作品とその世界をトリックに使うという前代未聞のこういう小説は画期的だ。ところで静子のような不思議な女性は横溝正史の登場人物に多いが、江戸川乱歩の方が隠微で官能的だ。

「芋虫」
 寺島しのぶの主演した映画「キャタピラー」はこの小説を下敷きにしているが、著作権の関係からそれを公認していないようである。それにしても昭和初期にこのような小説が当局に禁止されることなく出版されたと言うことに意外な思いがある。戦争で四肢を失い、聴覚も失い、話すことも出来ず、かろうじて目だけが見えるだけという不具になって夫は帰ってきた。英雄としてもてはやされながら、自分の身の始末が全く出来ない物体のようになった夫を妻の目が冷たく見つめる。二人の異常な関係が破綻したとき、その物体が驚くべき行動をとる。こんな小説は江戸川乱歩にしか書けない。

「蜘蛛男」
 この小説の犯人、通称「蜘蛛男」の、殺人にためらいのないところ、死体を損壊するところはアメリカのシリアルキラーを先取りしている。残虐性が際立つ。際立つからそれがかえって現実味を失わせてしまうかも知れない。鋭い読者なら前半部で犯人が分かってしまうけれど、著者のトリックにはまると事件の不可解なことに首をかしげるばかりだろう。最初に登場する名探偵がなかなか真相に迫りきれないところへ、最後にあらたな名探偵が登場し、あざやかにそのトリックを解いて見せ、犯人の裏をかいていく。初めて読んだときから犯人が分かってしまい、後半の部分が無意味に感じられるところもあったけれど、江戸川乱歩ワールドを堪能することは出来た。著者は探偵小説ファンなら早くに犯人が分かることを想定していたのかも知れない。あらためて猟奇的でしかも映像的な世界に浸った。

2015年1月27日 (火)

藤沢周平「雪明かり」(講談社文庫)

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 これも先日読んだ「冤罪」(新潮文庫)同様、著者の初期の頃の短編集だ。全部で八編のうち、「潮田伝五郎置文」と「冤罪」の二つがかぶっていて、こちらは市井物と武家物がほぼ半分ずつの構成となっている。

 全般に暗い話が多い。こういう構成で見れば、藤沢周平の初期には暗い話が多い、という指摘はその通りだと思ってしまう。

 解説で駒田信二が藤沢周平の文章を引用しながら、なぜ藤沢周平が時代小説を書くのか解析している。駒田信二が指摘するとおり、藤沢周平は人間を描きたいのだ。そしてそれが時代小説の、特に江戸時代という設定の中でこそリアルに描けると考えているからだ。同じことを現代に置き換えるとリアルさを失う恐れが大きい、というのは言われてみればよく分かる気がする。

 巻末に置かれた、表題の「雪明かり」のラストで、主人公の菊四郎が「---由乃は、跳べと言っている」と心に聞き、そして「---いま、跳んだのだ」と思う。「跳ぶ」、とはどういうことか。身分や社会的関係が現代よりはるかにがんじがらめのその時代の、越えられないと見えた壁が、じつは自分の気の持ちようで幻影と見ることも出来ることに気づき、それを軽々と越える一瞬の心持ち。

 その壁が実体として彼をはたき落とすのか、それともほんとうに幻影に過ぎないと彼が確認するのか、それは別の物語だ。

渡辺一枝「消されゆくチベット」(集英社新書)

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 子どもの頃からチベットにあこがれてきた著者が、たびたびチベットを訪れて見聞きした様々なことが語られている。著者はほとんど日本人であることよりもチベット人であることを願っているように見える。それほどチベットに同化し、彼らと親しく交わってきた。

 チベットが置かれている歴史的な状況、そして失われていく独自の文化、中国の弾圧によるチベット仏教とチベット語の否定、漢人による経済的な搾取にチベット人は苦しんでいる。

 著者は失われつつあるものを辛うじて突き止めて紹介しているが、その次にそこを訪ねたときには、もはやそこには影も形もなくなっている、という哀しい実情がある。

 こうして淡々とチベットの現状が語られていくうちに、彼女の心の中の悲しみと怒りが燃え上がっていく。中国がチベットに対して何をしてきたのか、そしていま何をしているのか、なぜ焼身自殺者が一年に百人を超えるのか、読者は著者とともに激しい怒りに駆られるだろう。

 世界は中国におもねってチベットを見殺しにしている。我々もその共犯者なのだ。その自覚がないと「人権」を口にする資格はない。

 この本のどこにも書いていないけれど、著者は椎名誠夫人。椎名誠は旧姓は椎名だが、彼女と結婚して渡辺性である。つまり著者はあの「岳」君の母親なのだ。

 この本はただチベットにあこがれてきた女性が、片手間に聞きかじったことを書いた中途半端な本ではない。本格的にディープなチベットを経験した上で書かれた本である。いまチベットについて多少は知りたいと思うならこの本は好適な入門書だろう。

2015年1月26日 (月)

藤沢周平「密謀(上)(下)」(新潮文庫)

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 これは時代小説と言うより歴史小説だ、と解説の尾崎秀樹も書いている。主人公は直江兼続。本能寺で信長が殺される少し前から関ヶ原の戦いの少し後までが主な時代背景。

 上杉景勝(直江兼続の主君)が、秀吉の死後、京都や大阪で勝手放題の家康の招請(つまり臣従の強制)を蹴る。徳川は大軍勢で上杉討伐の軍を北上させる。その機に乗じて西では石田三成が反徳川の勢力を糾合して西軍を蜂起させる。これは徳川家康が暗に狙った状況だ、というのが定説であり、一気に反徳川勢力をたたきつぶし、天下を取ろうと考えたのだとされる。

 表題の「密謀」というのは、北は上杉、西は西軍、というかたちで、徳川勢力、つまり東軍を挟み撃ちにしよう、という石田三成と直江兼続の密約を指す。だが上杉軍は自軍の勢力を南下させなかった。東軍の勢力は出払っていて、宇都宮からそのまま江戸へ攻め込むことも可能であったのに、だ。

 それがなぜなのか、このことが後半で詳しく語られている。

 物語では秀吉と上杉との関係、太閤秀吉の死後の各大名の暗闘、そして上杉と徳川との関係、それらについての上杉景勝と直江兼続の意見交換の様子が述べられている。意見交換と言っても、上杉景勝の無口であることは歴史的にも有名なので、ほとんど直江兼続の一人語りになるのだが、景勝のかすかな表情の変化と、それを読み取る兼続の様子がたくまざるユーモアになっている。

 物語では直江兼続が使っていた草の者たち(忍者集団)も活躍する。ただ、その忍者たちの物語と、兼続たちの話の溶け合い方が多少不十分な気がする。別々の話が並行している感じがするのだ。それが物語のおもしろさを損なっていると言うほどでもないので、気にしなければどうと言うことはない。

 それにしてもいつも不思議に思うのは、秀吉子飼いであった加藤清正や福島正則などを始め、豊臣勢力の要であった大名たちの多くが、どうして徳川方についたのか。それほど石田三成という人物に人望がなかったのか。理由の一つに朝鮮出兵があることが分かっている。成果のない、無益な戦いの恨みが文官であって秀吉の側近だった石田三成に向けられたのだろう(秀吉を怨むことは出来ない。もしそれなら秀吉に叛かなければならないからだ)。つまり豊臣を滅ぼす原因を造ったのは、じつは豊臣秀吉であった、ということか。この秀吉の愚かな行為が韓国の反日の原点の一つでもある。そして朝鮮の救援のためにすでに衰えかけていた明国は軍事に巨費を投じ、結果的に清に倒されてしまう。日露戦争でロシアが疲弊し、ついにロシア革命によって倒されてしまったのと同様に。日本は結果的に、世界に対して大きな影響を及ぼしてきているのだ。

多田等観(牧野文子編)「チベット滞在記」(講談社学術文庫)

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 川口慧海のチベットへの苦難な旅は「チベット旅行記(1)~(5)」や「第二回チベット旅行記」に詳しい。これらはすべて講談社学術文庫に収められている。私もこれを蔵書としているし、大変興味深く読んだ。亡くなった父は若い頃ダライ・ラマ十四世に会ったことがある(ただ見たことがあるだけかも知れない)と言っていたので、これらの本を見せたらたちまち読了して遠い目をしていた。

 当時チベットは厳しい鎖国体制だった上に、イギリスの政策(チベットを外部と遮断する目的)により、インド側からチベットへ入ることが非常に困難だった。だから川口慧海はなんと単独でヒマラヤ越えをしてチベットに潜入した。川口慧海のように仏教の原点を知るためにチベットに潜入しようとした人はいたが、成功した人はまれである。しかし川口慧海の「チベット旅行記」にも二、三の日本人がチベット入国に成功したことが記されている。ただし互いに交換したという記述はない。

 この本の著者の多田等観はそんな中、当時のチベットの政治的、宗教的なトップであったダライ・ラマ十三世に正式に招請を受けてチベットに滞在出来たほとんど唯一の日本人である。そういういきさつなので、彼は日本人であることを隠し続けなければならなかった川口慧海たちとは違い、自らが日本人であることをあきらかにしたまま仏教の修行をすることが出来た。

 その多田等観ですら最初にチベットに入るまでは大変な苦労をしている。

 単なる冒険談として読むなら、川口慧海の「チベット旅行記」の方が面白い。しかし多田等観は直接ダライ・ラマ十三世やその側近とも親好をとることが出来たし、もともと本願寺の大谷光瑞の指示でのチベット滞在であることから、社会的な視点が高い。1967年まで生きていたために、戦後のチベットの命運をよく承知していたから、自分の滞在していた時代と世界情勢をきちんと把握出来ている。

 多田等観という人は短期間にチベット語を学び、しかもトップクラスの人と不自由なく交歓出来ている。日本に帰ってからも東大や東北大学の講師をしていたと言うから知的なレベルが高い人なのだ。表紙の写真を見ても分かるとおり、ずいぶん若いときにチベットに行ったようだ。

 この本に語られている僧院生活やチベットの習俗などはいまではどんどん失われつつあるのだろう。それは時代のせいばかりではない、中国のチベット支配がチベットの宗教と文化を徹底的に破壊し尽くしたした結果なのだ。それはブラッド・ピット主演の映画「セブンイヤーズ・イン・チベット」に詳しい。だからこの本に書かれている情報は貴重だ。

 しかしチベットの人名はなじみのないものなのでなかなか覚えられない。ひとがらや関係が書かれているのに、別のところで名前が出て来ても、どの人のことか分からなくなっている。どうもカタカナの名前は苦手だ。これをすべて頭に入れておける人というのは凄い。

2015年1月25日 (日)

シュリーマン(石井和子訳)「シュリーマン旅行記 清国・日本」(講談社学術文庫)

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 ドイツ生まれで、辛酸を舐めた人生の後、才覚(特に語学)によって巨万の富を得、当時お伽噺か伝説としか思われていなかったトロイアの話を実話と信じて、巨費を投じてトロイア遺跡を発掘して世界をあっといわせた男、それがシュリーマンである。

 そのシュリーマンがトロイア遺跡発掘をする六年前に世界旅行をしている。この本はその中の中国(当時は清国)と日本を旅行したときの見聞録である。翻訳した石井和子さんは特別な専門家ではなく、縁あってこれを翻訳(つまり、大部の旅行記のうちの中国と日本の部分だけ翻訳)、私費出版した。それを読んだ東大名誉教授の木村尚三郎が目にして講談社学術文庫に収録されることになった。

 ずいぶん翻訳には苦労したと想像される。正確さを期すためにシュリーマンの足跡や、ギリシャの旧宅(大豪邸・巻末に写真が掲載されている)を訪ねたり、裏付け調べなども丹念に行っている。こういう人がこの世にいることは本当に有り難いことだ。

 シュリーマンは西洋優位、東洋蔑視の先入観をあまり持っていないことが彼の旅行記から読み取れる。前半の、上海から北京、そして万里の長城訪問の中では中国を、そして中国人を酷評するけれど、それは人間としてあるべき体裁を欠いている、というその点を彼が批判しているので、だから中国人はだめだ、などという断定は見られない。

 中国の汚さと無意味な煩雑さは壮絶だったようで、それに閉口している様子がうかがえる。だから日本に入ってからの日本の清潔さについては驚嘆することになるのだ。衛生的な清潔さだけではなく、賄賂などを決して受け取らない役人たちの精神の潔癖さについても大いに驚いているのだ。

 彼が日本を訪問したのは明治維新に先立つこと三年前の六月、江戸では外国人を付け狙うテロが横行し、アメリカ公使館以外はほとんど市中から横浜方面に引き上げている状態のときである(アメリカ公使館として使用されていた善福寺は二度襲撃を受け、護衛の幕府の役人も含め二十名以上が斬り殺されたり重傷を負っている)。そんなときに手づるを駆使して江戸に滞在するというのはシュリーマンというのは剛胆な人物だ。

 このシュリーマンの文章そのままに、当時の日本を彼の目を通して見ることは実に楽しい。彼は日本式の読み方も記録しているが、微妙なずれ加減が笑える。多分私が片言で英語でしゃべればこんな風なのかも知れない。

 シュリーマンの若き友人であるグラバーについての記述もある。あの長崎のグラバー邸の主だったグラバーだ。そして訳者の文庫のためのあとがきに、このグラバーの長男のその後の運命が記載されている。それを読むだけでもこの本を読む値打ちがあるほど重要な一節だ。ぜひ直接読んで欲しいので、あえてそのことはここに書かない。 

宮沢章夫「彼岸からの言葉」(新潮文庫)

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 著者の本としては新潮文庫の棚ではいちばん新しかったけれど、じつは平成二年に角川書店から単行本が出た後、平成五年に角川文庫に収められたものらしい。その頃は笑いをとろうとして書いていた、と著者は述懐している。たしかに笑える話がずらりと並んでいる。

 いまは笑いをとろうとしていないのか?ただ無理な笑いをとろうとしていない、と言うことなのだろう。でも無理にでも笑いをとろうとしたこの本がこれほど面白いのだからそれで良いと思うけれど。
この中から一つだけ話を引用する。

 「他人の口の中を毎日、見る」

 他人の歯を、およそ毎日のように見続ける行為とは、彼にとって何だろうか。まして、歯を見る目的とは無関係に、つい見てしまう他人の喉の奥の光景は、彼に何をもたらすだろうか。いずれにしろ、彼が彼岸に入って行くには、それだけで十分である。
 彼岸の歯医者があったのだ。
「S歯科医院」は、のH駅を出て数分歩いた場所にある。ふつうの住居を改造したらしいその外観は、注意深くなければ歯医者だとは誰も気づかないだろう。小さなパネルの「S歯科医院」という文字が、辛うじて歯医者であることを知らしめる。
 奥歯を虫に侵され、その激痛に一晩中眠れなかった私は、翌朝「S歯科医院」のドアを押した。
 中に入ると、奇妙なことに、この歯科医院には「受付」というものが無かった。仕方がないので、「あの、初診なんですけど」と、待合室から体を半分、診察室の方へ出して私は言った。そのとき医師は、老婆の口の中に手首の半分を埋没させているところだった。そして、その格好のまま、そのいかつい顔とは裏腹なかん高い声で、
「そこで待っていてください」
 と言った。「保険証は?」と私は言おうと思ったが、老婆の口の中に手首の半分を埋没させているような人に、何を言ってもしょうがないと悟り、私はおとなしく待つことにした。「受付」が無いことはすでに書いたが、もう一つ発見したのはこの歯医者には、その医師の他には、医院側の人間がだれもいないということだった。
 歯医者に行く、それだけでもかなり不安なことであるが、私は少しずつ「彼岸」の匂いにおののき始めていた。
 一時間ほど待って、私は診察室に入った。旧式の診察椅子が二つ。一つには中年の女性が座っていた。
 そのときになって初めて分かったのだが、診察室の奥にもう一つ小部屋があり、そこにもう一人の男がいた。男はこちらに背中を向け、まるでこちらとは関係ないかのように、一心に義歯を造っているらしかった。奇妙なのは、男が独り言をぽつりと洩らすことで、それは例えば次のような言葉だった。
「まぶしいなあ・・・」
 意味が分からなかった。
 私は診察室でじっと待っていた。待っているうちに、すっかり臆病になっていた。その臆病になった私に対して、医師は、針のような器具を手に治療を開始する。そしてその針の先端を虫歯の穴に突き刺すのだ。体が宙に浮遊する感覚を味わい、後に残ったのは激痛である。しかし医師は、当然のような表情とかん高い声で言った。
「これは痛いでしょう」
 言葉を発することの出来ない私は、ただ、目をギョロギョロさせるしかなかった。医師は何事か思い出したかのように次の準備を始めた。私は恐怖してそれを待ったが、ふと奥の小部屋を見ると、独り言の男は、相変わらず一心に義歯を造っている。
 その後の治療中、少し変だな、と私が思ったのは、医師が時々、いなくなることである。うがいなどをして顔を上げると、どこにもいないのである。仕方なき、奥の小部屋を見るしかないわけだが、男は、相変わらず一心に義歯を造っている。
 こうして治療が終わり、歯の痛みも治まった。薬を貰い、治療費を払おうとして初めて気がついたのだが、カルテがないのである。「おいくらですか」と訊いてから、どうやって計算するのだろうと黙って見ていると、医師は、少し考えた顔をし、それから指を折って数えるのである。五本の指をすべて折ったところで、彼は言った。
「千五百円でいいや」

 ところで、この話をいとうせいこうにしたところ、彼の行く歯医者も少し変だという。治療が終わり帰ろうとする彼に、その医師は必ず次のように言うのだ。
「気が向いたら、また来て下さいね」
 歯科医院における「彼岸化」の現状は、かなり深刻なようである。

 ところで著者のいう「彼岸」についてはこの本の冒頭の短文に書かれているけれど、別にそれなしでもこの文章は楽しめるだろう。

 著者の新潮文庫に収録されているものは私が見た限りでは六冊、そのうち「よくわからないねじ」という本だけが本屋の棚に見当たらなかった。探してまで読むべきかどうか迷っている。

 本日、弟夫婦は息子夫婦娘夫婦たちと落ち合って一日遊んでくる。普段は老母の介護で二人揃って出かけられないからちょっとした息抜きだ。なにがしかの役に立てることは嬉しい。

2015年1月24日 (土)

成田山新勝寺

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弟に連れられて成田山の新勝寺に行った。

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成田山は大混雑。

昼時なので、まず腹ごしらえを先にすることにした。

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贅沢にウナギ。向かいは弟。久しぶりに食べたのでうまい。一人なら多分食べない。

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目的の一つが古いお札を納めること。帽子が弟。お札を納める窓口。

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本堂右手の三重の塔。

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本堂左手。葉ボタンがきれい。

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釣り灯籠。

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この巨大な塔の内部に展示物がある。海老蔵の写真が飾ってあった。そういえば新勝寺と歌舞伎は縁が深い。もうすぐ豆まきだが多分やってくるのだろう。

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成田山は大きな公園になっている。まさか成田山でいじめる者もいないから、鳩は人を恐れない。

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梅園の梅はまだつぼみだったが、一カ所だけ咲き始めていた。

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白梅も一本だけ咲き始めていた。

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成田山の堂宇にはこのような木彫りが無数にある。アップにしようとすると金網にピントが合ってしまう。手動でピント合わせをしようとしても目が・・・。

二時間以上歩き回って、いい運動になった。

藤沢周平「冤罪」(新潮文庫)

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 藤沢周平の初期の頃の短編集。武士という者の立場の悲哀が描かれている小品が多いが、あんがいそこからの出口がほの見える明るい作品もある。藤沢周平は、当初暗い作品が多かったけれど次第に明るさを増していった、などとよく評されるけれど、この作品集の中には結構明るさと、運命のくびきからの脱出を意識的に成し遂げようとする勁さを持つ登場人物が見られる。それは同時に読者を励ましてくれる作品でもある。

 全部で九話あるが、今回読後感が特に良く感じたのは「臍曲がり新左」、「冤罪」。今回、とあえて云ったのはときに違う思いをすることも多いからだ。「臍曲がり新左」は何となく「頑固爺」に自分をなぞらえているからつい気持ちが入ったようだ。こんな風な、娘との仕合わせな関係にあこがれのような気持ちもある。

 人は、自分の本当の姿を見透かされるのは多いに恥ずかしいことだけれど、同時に大いなる安らぎとうれしさを覚えることもある。 

「きやばる」と「くるこない」

 「きやばる」という言葉が標準語かどうか知らない。我が家では使われていたが、友人に聞いたら「そんな言い方、知らない」と言われたから、どうも他の人には通じないような気がする。

 子どもが何かに夢中になって興奮状態になることをいう。おとなが遊ばせているうちに、声もうわずり始め、息も荒くなって止めどがなくなることがある。異常なテンション状態になってしばらく元に戻らない。そうすると「そんなにきやばらせるんじゃないよ」などとたしなめられるときなどに使われる。「きやばる」のは子どもで、「きやばらせ」ているのは相手をしているおとな、または少し年長の人間である。

 弟のところによく甥の家族が遊びに来るので弟の孫の相手をすることがある。男の子はだいたい乱暴なことが好きで、少し荒っぽく相手をしてやるとものすごくうれしがる。途中でこちらがくたびれてしまっても、「もっともっと」と際限がない。ついには興奮状態になる。「きやばらせてしまったな」、と思う。

 「くるこない」は私が育った地域ではあたりまえに使われていた言葉だ。「来なくていい」という意味で、いわれてみればなるほど、という程度の言葉だ。学校で先生が「明日は臨時休校だから学校へくるこない」などと言う。そのまま親に言うと母がいつも笑う。母は他の地域で育ったからその言葉がおかしかったのだ。

 「くるこない」「くるこない」と母が笑うので、私もたしかに妙な言葉だな、と思うようになった。

 いま寝たきりで、口も利けず、ほとんど感情の表出がなくなってしまった母に「くるこない」と言ったらほんの少しでも頬をゆるませてくれるだろうか。

2015年1月23日 (金)

宮沢章夫「考えない人」(新潮文庫)

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 人はふつう考える。考えまいとしても「考えまい」と考えてしまう。だから「考えない」というのはまことに難しい。しかし世の中にはどう見ても「考えない人」としか云いようのないひとがいる。「考えない人」のありようとはどんなものか多岐にわたって考察した(この著者だからそんな大げさなものではもちろんない)のがこの本だ。

 その「考えない人」のパターンがいろいろ取り上げられていて、よくまあ次から次にそんな例があるものだと感心する。文章を読んでいるとさらさらと書いているようだが、著者は遅筆で有名らしいから、じつはずいぶん苦労して絞り出しながら書いているのかも知れない。

 「考えない人」といえば、うかつ者、うっかり者がまず考えられる、また人は窮地に立つと頭が真っ白になって考えられない状態になり、つまり「考えない人」になる。さらに無神経な人はしばしばはたから見れば「考えない人」だ。そして本当に首から上に問題があって「考えない人」もいるけれど、これを詳述するのは差し障りがありすぎる。また、人の話を全く聞かない人、会話の成立しにくい人もいる。

 これらは迷惑このうえない事態を起こすこともあるけれど、しばしば笑いを呼び、または笑うしかない状態を生む。これを積極的にとらえて、どうしたら「考えない人」になれるのか「考えた」のがこの本だからややこしい。

 「考えない人」になれるかどうか分からないけれど、とにかく笑える。

富坂聡「中国 無秩序の末路」(角川oneテーマ21)

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 中国で報道された事件の中からセンセーションを特に呼んだものをいくつかに分類して章立てしている。第一章 虚飾に踊らされる中国、第二章 根深い幹部汚職の実態、第三章 おさまらない民衆の不安、第四章 軽んじられる人命 とならべられているのを呼んでいくと、中国はいったいどうなってしまい、これからどうなっていくのか、と人ごとながら心配になる。心配になるどころではない、ある種の恐ろしさすら感じる。

 題名にある「無秩序」こそキーワードではないかとたしかに思う。

 たまたまいま読みかけている「シュリーマン旅行記 清国・日本」の中にこんな一節があった。

「(幕末の日本の統治制度を見て)これは騎士制度を欠いた封建体制であり、ヴェネチア貴族の寡頭政治である。ここでは君主がすべてであり、労働者階級は無である。にもかかわらず、この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる」

 シュリーマンはあの有名なトロイア遺跡発掘に先立ち、世界旅行をした。そのとき中国と日本を訪れていて、その旅行記がその本である。その中で中国の猥雑さと無秩序を酷評(北京が特にひどかったようだが、英仏軍による暴掠が大きな原因でもあったことは考慮に入れる必要がある)している。そしてそれに較べての日本についての記述が上の文章なのだ。秩序は民族性の上に宿るのではないか、と思ってしまう。

 普通貧富の差が大きいことが無秩序の原因であり、テロ行為の原点であるように思う。では当時の日本に貧富の差があまりなかったか?とんでもない。シュリーマンが書いているように「労働者階級は無」だった。そして明治維新は革命と言うにはあまりにわずかな犠牲者で成し遂げられた。ここに日本人の美徳を読み取るのは司馬遼太郎だけではない。そして太平洋戦争に至ったときの日本人はすでにその美徳を失っており、さらに戦後ますます道を見失っているのではないか。

 中国の「無秩序の末路」がどれほど恐ろしい世界か。日本が中国化しているような気がしているのは私だけだろうか。この事件簿を集めた本が日本の将来を暗示しているのでなければよいが。

(19歳の少年(!)が万引きを演じ、食べ物に異物を射しこむ映像をとくとくとネットに流したりするのはまさに特徴的な秩序破壊の前兆だろう。例を挙げれば切りがない。それにイスラム国などという存在は、世界秩序そのものを全否定する存在ではないか)

 スクラップ&ビルドなどという。しかしそれは等価なものではない。スクラップはきわめて容易で、ビルドには人々の長い時間と営為が必要である。壊す人と積み上げる人がせめぎ合って、世界は多少積み上げる方が多いから成り立ってきた。いま壊す人が優勢になってしまえばどうなるのか。イスラム国に参加する若者(バカモノ)には想像力がないのか。スクラップを標榜する者に禍あれ!

宮沢章夫「アップルの人」(新潮文庫)

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 巻末には専門誌にアップルに関する文章を連載したものを集めたものだと書かれている。でも著者はアップルとは関係ないことも結構書いた、ともあとがきに記している。パソコンを、まだパソコンという言い方が定着しなかった頃から使って、ネットもいち早くやり出したとはいえ、著者はいわゆるパソコンオタクと言うほどではないから、当然かも知れない。

 私もゲームがやりたくて富士通のFM-8などというパソコンを大枚はたいて買い込み、マシン語を雑誌から打ち込んでインベーダーゲームやら何やらを夜中までやって遊んだものだ。その前にはMSX機でBASICなどと言う簡易言語で簡単なプログラムを作って遊んでいたこともあるが、レベルアップするところまで行かなかった。私のバカの壁がそこにあった。

 何であのときNECのPC-8001や8801にしなかったのか。へそ曲がりだからだ。結果的に富士通を選んだことはあの時点ではあまり良い選択ではなかったとずっと思っている。同じへそ曲がりならアップルにしたら良かったかも知れない。

 アップルファンならもっとこの本を面白く読んだかも知れない。アップルならではの特徴や癖が実感として分かるからだ。いつものように面白いところも多々あるものの、多少置いて行かれたような気持ちになるのはそのせいか。過剰な無意味さこそがこの人の文章のおもしろさだけれど、あまり続けて読むといささか疲れる。とはいえ、後二冊買ってしまっているからそれも近々読んでしまおうと思っている。

 ネットがつながりにくい。弟も最近調子が悪いと言っている。実家は電波状態の悪い場所らしい。夜はほとんどつながらない。ここは日本のチベットか。

2015年1月22日 (木)

村上陽一郎「奇跡を考える」(講談社学術文庫)

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 副題は「科学と宗教」。科学史、科学哲学を専攻する著者(東大名誉教授)の本を何冊か読んだことがある。西洋起源の「科学」というものがキリスト教を一つの源流にしていることはいままでに著者の本で教えられた。もう一つの源流がギリシャ哲学であることの意味をルネッサンスと絡めてこの本でも論じられている。

 世界史に興味を持ち、特に西洋史について知識のある人ならば自明であることを私はほとんど知らない。世界史のうちの中国関連についてなら多少は知っていることもあるし、その流れについてのイメージも持っているけれど、西洋史については無知である。その無知であることをこれほど残念に思わされたことはなかった。

 前半で西洋の古代から中世について語られていることは全て始めて知ったことばかり。それをベースにしてルネッサンスの時代区分の見直し、そしてその意味を論じている。そうだったのか。西洋史を学ぶ意味が私にもあったのだ。

 あの映画「薔薇の名前」(ウンベルト・エーコ原作、ショーン・コネリー主演)で、中世からルネッサンスへの過渡期のヨーロッパの姿を初めて見た気がする。あの映画でも、ヨーロッパがアリストテレスを発見するシーンが見られる。

 先日読んで、なるほど、と思った本(どの本か失念)に「ヨーロッパはギリシャ文明をわが文明として取り込んで西洋絶対中心主義が確立された」という文言があった。ルネッサンスとはそういう意味があったのだ。

 いまから西洋史を学び直すのは時間的に無理があるが、せめて大まかな流れだけでも何とかつかめるようにしたいと思うけれど・・・。 

 そんな知的刺激の楽しみと学ぶ意欲を高めてくれる本だ。

河原宏「日本人の『戦争』」(講談社学術文庫)

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 学生時代、自分のテーマと決めたのが「日本はなぜ太平洋戦争を起こしたのか」ということだった。そのために太平洋戦争についてのいろいろな本を読み、明治維新以来の日本の近代史を知ろうとした。当然その前から始まっていた日中戦争についても知らなければ太平洋戦争のことは分からない。

 そこからあの巨大な清(中国)が、いくら軍備が優秀とはいえ、艦隊でやってくる限られた西洋の兵隊にあれほど簡単に蹂躙されたのか知りたいと思った。そうして気が付いたら中国の歴史にはまり、ついに春秋戦国時代にまで遡って太平洋戦争は二の次になっていた。

 もちろん自分の決めたテーマだからそれにこだわって本を読んできたが、今回採りあげたこの本は、その中でもっとも感銘を受けた本だった。一冊の文庫本でこれだけ何度も考えさせられたのは生まれて初めての経験だった。すでに二回ほどその断片を紹介したが、それは本当にほんの一部で、他にも深く考えたいこところが無数にある。

 今度はノートにメモしながら自分の考えを書き加えつつ読み直すつもりだ。本に線を引くのは嫌いなので普段は決して線は引かないが、今回はもう一冊買って線を引くことにしようと思っている。

 戦争を論じると、好戦論者である、とレッテルを貼られ、戦争を直視しないのがならいになってしまった日本人にとって、この本は必読書ではないだろうか。日本があの戦争を境に失ったものが何か分かるし。

2015年1月21日 (水)

宮本輝「錦繍」(新潮文庫)

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 宮本輝は大好きな作家だ。その宮本輝の作品でもっとも好きなのがこの「錦繍」という、手紙文のやりとりだけで構成されているこの小説だ。この本のハードカバーを持っていたはずなのにいくら探しても見つからない。もう忘れたけれど、多分誰かに貸したままなのだろう。ないとなると急に読みたくなる。慌てて近所の本屋で購入した。

 何度目も読んでいるのに今回は特にびしびしと感じた。いままで何を読んでいたのだろう、こんなにすばらしい小説だったのだ。どうしてこんなに人の心が見事に描けるのだろうか。

「前略
 蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すら出来ないことでした。(後略)」

 この書き出しにまず参ってしまう。ここに物語の伏線が全て語られている。巻末の黒井千次の解説にこのことが詳しく論じられているのでどういう意味なのか分からない人は読んだ後に参考にして欲しい。

 個人的にもこのダリア園からドッコ沼へ、と言うのが鮮明にイメージ出来る理由がある。大学に入学したばかりの四月に、同じ下宿の隣の部屋の先輩に蔵王縦走トレッキングに誘われたのだ。その四年生の先輩はワンゲルのサブキャプテンで、新人勧誘もかねていたのだ。

 土曜日の朝、ダリア園からゴンドラに乗らずに徒歩でドッコ沼へ、そして山上の大学のヒュッテ(有名なあの樹氷原の傍にある)に一泊し、刈田岳を経由して宮城県側まで登山靴ではなく、ゴム長靴でトレッキングした。お釜を見下ろす急な坂をシートを尻に敷いて滑降したのもなつかしい。そのことはいい。このダリア園の広々した空間が頭に映像として残っているのだ。

 この物語には死と生がテーマとして語られている。そしてある事件をきっかけに、互いに愛する心を残しながら別れた夫婦が、その事件で受けた傷を乗り越えて再生していく物語なのだ。そのためには自分をさらけ出さなければならない。自分をさらけ出すという作業はなかなか対面しては出来ないものなのだ。だから手紙でのやりとりになる。手紙であれば繰り返し読むことが出来て、考える時間を持つことが出来るから、相手の心の動きを忖度することが出来る。

 この物語は普通の男女関係破綻からの再生としてのハッピーエンドとは違う終わり方をする。そのことが必然として心にずしんと残る。宮本輝の本は名作が多いけれど、繰り返すがこの本はその中でも特に傑作だ。

日高義樹「中国、敗れたり」(PHP)

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 習近平が率いるようになって以降の中国の、外交、軍事政策が失敗であった、と論評する向きが多い。実際にヨーロッパや東南アジアのニュースを見ていると、たしかにそうかも知れない、という気がする。そしていままで日本に替わって巨額の投資を行い、人的投入を行ってきたアフリカ諸国でも中国に対しての評価は低いようだ。

 この本では特に軍事面からの中国のポテンシャルをアメリカや日本と比較することで中国の実力が意外に張りぼてであると伝えている。経済が強大化すればそれだけ軍事費を投入出来るとはいえ、そのベースになるべきものが中国には大いに不足している、と指摘している。

 アメリカと中国の軍事能力の差はまだまだとても大きいというのだ。近年とみに力を注いでいる海軍力にしてもまだまだレベルが低いと断言している。大騒ぎしているあの空母「遼寧」にしても実際はほとんど役に立たないことは著者だけではなく、専門家が口をそろえて行っていることだ。

 だがこの張りぼての軍備に対して過敏に反応しているのは日本のマスコミばかりではない。アメリカのオバマ政権も中国を脅威としていた。そのためにアジアから一時前線を下げる動きが見られたが、それに中国が悪のりして嵩にかかり、尖閣や南シナ海でやりたい放題に行動したために、慌ててアジア回帰、などと言っている。

 フィリピンのスービック基地にふたたび米軍の駐留を容認されることになったことは中国にとって大きな誤算だったろう。そして資源を購入してくれる大得意先として中国べったりの政策をとり続けてきたオーストラリアも、さすがに中国と距離を置こうとしている。

 これらが中国の想定していたストーリーと異なることは明らかであり、そのことは中国軍部にとっても意外なことであるようだ。

 著者は日本人なのにアメリカの最新鋭の軍艦や潜水艦に乗る経験をしているめずらしい人だ。日本よりもアメリカの方に人脈が多いのではないか。その軍事情報は多分日本では突出しているものと思われる。だからその中国とアメリカや日本との軍事力の差についての話は多分かなり真実に近いと思われる。

 だがいくら人脈があるとはいえこれほどアメリカ軍に優遇されているのだろうか。

 うがった見方かも知れないが、著者を通して特定の情報を伝えることで、アメリカ軍は日本や中国に対して特定のイメージを形成させようとしているのではないか。それがどういう狙いなのか、そして中国はどう対応しようとするか、この本を読んで考えてみても面白いのではないか。

 老母の介護手伝いのために実家に来ている。

 出がけにモバイルルーターを持つのを忘れた。これではネットが出来ない。もちろんブログも出来ない。弟のネット環境はちょっと混雑していてどのルーターが生きているのかよく分からない。弟は仕事で会社に行っている。

 夜帰ってきたけれど、二人とも酒を飲み始めたからネットにつなぐのは翌日。

 と言うことで先ほどめでたくネットにつなぐことが出来るようになった。

 ところでイスラム国による日本人誘拐と身代金の要求には本当に腹が立つ。しかし最近世界中で人間が壊れているとしか思えないような自分勝手な理屈で、他人を傷つけたり、自己正当化をしてみたり、正当化すら考えずに、ただ騒ぎになることで自分が有名になることを喜ぶものが次々に現れている。

 バカモノが世界の中でほんの一握りのうちならいいけれど、ある限度を超えて数が増えたらむちゃくちゃなことになるのではないかと思うと恐ろしい。

 もちろんバカモノはそれをこそ願っているのだろうけれど。

 高速道路が渋滞しているときに路側帯を走るバカモノがいる。自分がいかにも賢いと考えているらしいが、他にほとんどの人がまともに正しい道を走るという前提でしか彼の利益は生み出されない。みんなが路側帯を走り出せば彼の利益は失われ、混乱はいっそう激化する。

2015年1月19日 (月)

手嶋龍一&佐藤優「賢者の戦略」(新潮新書)

Dsc_3046カバーの上にカバーがしてある

 副題「生き残るためのインテリジェンス」。2012年から年一回、この二人が「インテリジェンス対談」したものが本になっいる。だからこれはシリーズ第三冊目と言うことになる。二人は一般に知られていないことや、政府関係者ですら知らないことを極秘で入手するルートを持っている。

 しかしそれをおいそれと公表するわけにはいかない。と言っても一般に知られていることだけを本にしても仕方がない。知られていないけれどギリギリセーフの話を二人でよくよく練り込んで作られた本なのだ。だからとにかく、本当だろうか、と思うような話がちりばめられている。

 「インテリジェンス」とは何か?本文中に二人の考える「インテリジェンス」が書かれているので引用する。

手嶋 いま、佐藤さんは、「インテリジェンスの感覚」と表現しましたが、そもそも「インテリジェンス」とは、一般に思われているような「極秘情報」とか「スパイ情報」とかいったものとは、いささかニュアンスが違い、欧米の識者の間ではもっと広い意味で使われています。インテリジェンスの文化が日本では根付かなかったからでしょうか、いまだに正確な日本語訳すらありません。ですから、そのまま「インテリジェンス」と言っていますが、これは膨大で雑多な「一般情報」つまり「インフォメーション」の海の中から、ダイヤモンドの原石のような貴重な情報を選り抜き、分析し、問題の核心を示すエッセンスとして紡ぎ出した情報。まさしく最後の一滴が「インテリジェンス」です。国家の命運を委ねられた指導者が、和戦の岐路に立たされたとき、最後の決断を下す決定的な拠り所が「インテリジェンス」なのです。
佐藤 おっしゃる通りです。ですから国家の安全保障を委ねられたリーダーは、「インテリジェンス」の真贋を見極め、その軽重を判断する感覚を磨いておかなければいけないんですね。そうなると、「インテリジェンス」は、国家指導者の専有物のように見えてしまいますが、決してそうじゃない。物事の判断の基軸ですから、会社の経営者も、管理職も、就活や婚活に挑む若者にとっても、「インテリジェンス」の感覚を磨くことは大切になってくるんですね。
手嶋 国家の情報機関から指導者に上がってくるような「諜報報告」がなくても、市井の人々でも、「インテリジェンス」を自力で紡ぎ出すことは出来るわけです。誰でも目にしている日々のニュースは、その格好の素材です。ニュースそのものは、雑多な「インフォメーション」に過ぎなくても、そこから貴重な「インテリジェンス」を生成して、組織や個人の決断の拠り所にすることは十分に可能です。
「ベタ記事畏るべし」という言葉があります。・・・・以下略。

 ここで二人で北朝鮮についての断片的なニュースから「インテリジェンス」を駆使して拉致問題についての北朝鮮のスタンスを読み解いてみせる。思わずうなずかせるこの分析を、本書を読んで味わって欲しい。

 この本の最初にウクライナ情勢について二人の見立てが語られる。普段日本のニュースを見てばかりいると意外に見えるだろう。しかしNHKBSの海外ニュースでロシアが流すニュースを見ていると、二人の言っていることがよく分かる。日本のマスコミは本当に皮相的なものしか見ていないことが分かるし、自分であまり考えず、アメリカなどの意見をそのままただ流しているのだ。

 いまオバマ大統領はイランの核開発を押さえるために融和的に交渉を進めている。そしてアメリカ議会はイランの核開発を阻止するために制裁強化を決議しようとしている。どちらが世界にとって正しいことなのか、太陽か北風か、これはイランという国が歴史的にどういう国であったのか、そして何をめざそうとしているのか、それを知らないと判断出来ない。

 佐藤優氏が「インテリジェンス」を磨くには歴史を知ることである、と喝破しているように、歴史の知識も必要らしい。オバマ大統領という人は歴史に学ばない人らしい。中国との関係で第二次世界大戦前にヒトラーと宥和政策をとったイギリスのチェンバレン首相の轍を踏みつつあるとしばしば言われているが、その結果がどうだったのか、我々は知っている。

百目鬼(どうめき)恭三郎「奇談の時代」(朝日新聞社)

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 この本は若いときに先輩から頂戴した。ガチガチの理科系で、文化系の本など読まないと思い込んでいたその先輩がこの本を読んでいたのでのぞき込んだら、「もうすぐ読み終わるからあげるよ」と言って、しばらくしてからくれたものだ。奥付には昭和56年出版とある。むかし飛ばし読みをして、その後しまったままだったけれど、こういう関係の本を最近時々読むので引っ張り出して読み直したのだ。

 著者は朝日新聞学芸部の記者を長く務めたが、中途退社。批評の舌鋒が鋭すぎて自ら傷つくことも多かった。百目鬼という姓は、知らないと読めないめずらしいものだけれど、特殊ではない。

 とにかく盛りだくさんの本で、参考文献の数が巻末に上げられているが、150冊を優に超えているだろう。しかもちょっと抜き書きした、と言うようなレベルではなく、じっくり読み込んで引用されている。こういう博覧強記の人、というのはいるもので、おかげでずいぶん知らなかったことを知ることが出来る。

 もちろん「奇談」がテーマだから、そのような不思議な話、奇怪な話ばかりが膨大な数、紹介されている。多くが日本のものだが、当然中国や西洋の話も取り上げられている。

 ほんの一部をあげれば、たとえば「今昔物語集」「日本霊異記」「宇治拾遺」「耳袋」などよく知られているものの他にも私が初見のものも多い。中国では「子不語」「閲微草堂筆記」など私がつい最近読んだものや、読みかけのもの、「抱朴子」「列仙伝」「神仙伝」「捜神記」「酉陽雑俎」などがあげられている。

 奇談を「人異篇」「神怪篇」「異類篇」というかたちで分け、それをまた細かく分類して採りあげていて、それぞれの話を比較し、中国と日本の話の違いからその伝播の仕方を考えたり、時代の変遷を推察したりしていて興味深い。

 そもそもがこういう本が大好きだから何冊も持っているけれど、それを横断的に採りあげたこのような本は今後の読書に大いに参考になる。

 いつになるか分からないが読みたいと思って引っ張り出してある「鬼趣談義 中国幽鬼の世界」澤田瑞穂著(中公文庫)という本が似たような「博引旁証の大著」(帯のうたい文句)であり、読むのを楽しみにしている(すぐ読めばいいのだが、他に読みたい本が山のようにあって、順番がなかなか回ってこないのだ)。

 民主党の党首が岡田さんになった。「民主党は変わらなければならない」と三人の候補は口を揃えて言った。よくよく聞いていれば、岡田さんと長妻さんは「変わると言ってもあなたたちを追い出したりしませんよ」とお年寄りと左派の人たちに呼びかけているように見えた。だから勝利したといえる。結局「変わらなければいけないけれど変えないことにします」と思っている人が党首になった。変わる期待があまり持てなくなったのだ、意見が分裂して何も決められない体質が残る民主党は、当然さらに没落するだろう。

 土曜日に神経を抜いた歯に仮に詰めてあるセメントがぽろぽろと崩れていく。これではものが食べられない。今日午前中は糖尿病の定期検診だ。固形物がほとんど食べられないから体重が落ちていてちょうどいいけれど、ちょっとふらふらする。昼から、歯の治療に割り込めるだろうか。明日から一週間あまり老母の介護に行く予定なので忙しい。

2015年1月18日 (日)

熱田神宮

名古屋へ転勤で移ってから毎年熱田神宮に初詣に行く。(理由があって)15日に原則行くことにしているが、今年は雨降りだったので16日に行った。15日の雨はめずらしい。


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我が家からは名鉄で乗り換えなしで行ける。名鉄川の大鳥居から参道を行く。

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どういうわけか今年は鴉の数が多い。

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ここで手洗いと口すすぎをする。

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奉納された愛知県のお酒。今月末には新酒の試飲会に行くが、そこの酒蔵の酒が見当たらない。

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ご神木の大楠。

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信長が寄進した土塀。桶狭間の戦勝を祈願し、勝利のお礼に寄進したもの。日本三大土塀の一つだそうだ。

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ここでお賽銭を上げて祈る。頭を下げただけで何もお願いしなかった。

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ここで厄除けのお守りを購入。だから神様は厄を除けたいという願いをご存じのはず。子どもたちの分も購入。親心なのだ。

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拝殿。子どもの七五三をここでお願いした。

このまま帰る気にならなかったので、ボストン美術館に行くことにした。名鉄だと、この熱田神宮へ来る「神宮前駅」とボストン美術館のある「金山駅」はすぐ隣なのだ。
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何が展示されているか調べずに来たら、こんなテーマの展示だった。浮世絵がたくさん展示され、それに影響を受けた印象派の絵が対置されていて、思った以上に興味深く楽しむことが出来た。ちょうどいいくらいの混み具合で、絵を丁寧に見ることが出来たのはありがたい。浮世絵は間近で見なければその良さが分からないし、印象派の絵は少し距離を置いてみた方がその良さが分かるものが多いのでそれが自由に出来るのは嬉しいことなのだ。

このあと本屋へ行こうか迷ったが、今月はかなりたくさん購入して予算をオーバーしているので次回にすることにした。平岩弓枝の「新御宿かわせみ」シリーズの新刊が出ているはずなのだけれど・・・。

内田樹「内田樹の大市民講座」(朝日新聞出版)

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 少し前に読み終わっていた本。もともと雑誌「AERA」連載の900字コラムを編集したもので、いろいろな話題について著者の考えを展開している。いつものようにユニークで、うならせてくれるものが多い。
 要約して紹介するのは難しいので、二、三、本文をそのまま書き出してみる。少し長くなります。
 「何でも食える」ことの大切さ
 何でも食える。どこでも寝られる。誰とでも友だちになれる。生存戦略上の三大原則である。特に「何でも食える」は生き延びる上で大変有用な資質だ。
 現在の食品行政は万人にとって安全な食物をどう確保するかをめざしている。メディアも「安全な食品を」と唱和している。だが、そろそろ発想の転換が必要ではないか。食品業者の衛生意識の低下も問題だが、人間の「食べる」能力の低下の方がより深刻なように思われる。
 たとえば、多少の毒や腐敗物なら「食べても平気」というタフな消化器を私たちはもう持っていない(祖先たちはごく最近までそのような能力を備えていた)。賞味期限を見なくても、臭いと舌触りで「食べられないもの」を検知できる能力もあらかた失われたようである。
 わが国の食文化はどうやら有史以来の繁盛のようであるが、ヴィンテージもののワインの年号を言い当てる能力よりは、「食べられるものは何でも食べられる」能力を涵養する方が急務であろう。
 現代人のひ弱でデリケートな消化器でも耐えられる無菌で安全な食品を製造するために要するコストと、「食べられるもの」と「食べられないもの」を自力で選別出来る(無理すれば「食べられないもの」でも食べてしまえる)身体を養成する教育コスト。両者を比較すれば、どちらが費用対効果に優れているかは考えるまでもあるまい。
(全面的に賛成だが、現代のように防衛的本能が強い女性が食品選別に主体的に関わっている時代では暴論と受け取られる恐れがある。by OKCHAN)
  塾通いの子どもとテレビの論客の共通項
 夏休みに入り、塾通いの子どもたちとよく電車に乗り合わせる。彼らの会話を立ち聞きすることは、私の止みがたい趣味の一つである。男の子たちの会話の特徴は、誰かが提出した話題を「つぶす」スピードと切れ味の競い合いだという点にある。なかなか興味深い論点を一人が提示しても、それを軸に話頭は転々として奇を極めるということはまず起こらない。それは話を面白くするための努力を彼らが惜しむからである。むしろ、そのような努力が存在すること自体を知らないように見える。
 別にそれほどむずかしい仕事ではない。いちばんシンプルなのは「それって、具体的にはどういうこと?」「もうちょっと詳しく話してくれない?」という「促し」である。「促し」というのは「自分の知らない話題」「どこをめざしているのかわからない話」について先駆的に面白がる能力を要求する。この能力がある人々が集まってはじめて、「話が弾む」という状況が出来するのである。
 テレビに出てくる論客たちは自分に理解出来ない話に全く反応しない。論件そのものを「存在しないもの」として扱う。たしかにそのようにふるまっていれば「知るべきことは全て知っている人間」のようには見えるだろう。けれども、そういう人からは「自分は知らないけれどなんだか面白そうな話」に対するセンサーの操作法を学ぶことは出来ない。
(コミュニケーション能力とはそういうものだろう。先日読んだ福田定良著「雑談の中の哲学」を思い出す)
 「待ったなし」でも破滅しない
「待ったなし」という言葉が議論を打ち切るときの決めの台詞に採用されるようになったのはいつからだろう。「タイムリミットが迫っている。ぐずぐず議論している余裕はない」と言い立てた後、「さあ、私の提案する改革案か現状維持かどちらかを選べ」と迫られる。現状には問題があるからこそ議論しているわけで「現状維持」という答えはあり得ない。その上で、「私の提案するプラン」か「現状維持」を選べと言う。「ちょっと待って」と言うと、「『待って』というのは『現状維持に賛成』と見なす」と畳み込まれる。
 そういう言い回しが流行している。政治家もメディアもネット評論家たちもご愛用である。だが、人々がこのような言葉づかいに慣れてしまうことに私は強い不安を覚える。
 普天間基地問題も、TPP問題も、消費税増税も、原発再稼働も、古くは郵政民営化も、教育再生も、年金制度改革も、その都度「待ったなし」を宣せられ、「プランAか現状維持か」(プランBはない)で選択を求められた。そのつど国民は「じゃあプランA」と答えた。
 だが、しばらく経ってから振り返ってみると、どれも別に「そこで選択を誤ったら日本はもう終わり」であるような決定的分岐点などではなかった。
 郵政民営化は選択そのものが謝りだったと7年後にカミングアウトされた。タイムリミットに遅れたら日米関係は取り返しのつかない破局を迎えると脅された普天間基地も、「バスに乗り遅れるな」と尻を叩かれたTPP問題も、だいぶ前にタイムリミットを過ぎたようだが、日米関係にカタストロフが来たという話はとんと聞かない。多分、アメリカはもうずいぶん前から日本政府の問題解決能力について何も期待しなくなったのだろう。「待ったなし」の(つまり思考停止による)問題解決という手法に固執している限り、内政でも外交でも、日本政府が難問解決の道筋をあざやかに示して諸国の敬意を集めると言うことは絶対に起こらない。日本人だけがそのことに気づいていない。
 武道では、責め立てられて選択肢が狭められることを「後手に回る」という。後手に回るとかならず負ける。
(安倍政権になって、問題解決能力は多少改善されているけれど、代わりに決断の拙速と独断が懸念されている。なかなか理想どおりには行かないものだ)

2015年1月17日 (土)

長良川に沿って・郡上八幡散策

城への登り口に安養寺という大きなお寺がある。

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そこからお城を見上げる。
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天守閣から見下ろすとこうなる。実際の高低差は100メートルくらいあるのだけれど。

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安養寺の鐘。

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郡上八幡は水の街。

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用水路を流れる水は澄んでいる。

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こんな水の流れも。

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こんな景色も。

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有名な宗祇水。

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以前この松の木をくぐりそこなって頭をしたたかに打った。

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郡上八幡は郡上おどりの街。「かわさき」は十種類ある郡上おどりの一つ。

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街灯も風情がある。

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郡上八幡旧庁舎。

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おまけ。

先ほど歯医者から帰宅。表から見えない部分の歯の内部が割れていて神経に通じる亀裂が出来ていた。

「これは痛かったでしょう!」と歯医者に言われた。麻酔を打って歯の中をくりぬき、神経をとった。とにかく麻酔が効かない体質なので、いつものように三倍量打ってもらう。それでも最後の方でちょっと痛かったけれど、我慢した。

仮処置なので再来週にまた行かなければならない。「多分もう痛みはないと思いますよ」と言いながら痛み止めをくれた。


I.E.(Internet Explorer)

 ニフティのポップアップCMの一部やアクセス解析などの文字が文字化けしはじめた。おかしいな、とおもっていたら、ついに昨日からはメールの文字の一部まで文字化けするようになって文章を書くことが出来ず、使用不能に陥った。ブログの入力もカナ漢字変換が勝手に英文字になってしまい、しかもしばしばフリーズする。

 これはWINDOWS8に特有なのだろうか、WINDOWS7のパソコンでは全く問題ない。

 試しにグーグルからニフティを開いて同じことをした。何の問題もない。つまりWINDOWS8用の最新I.E.に問題があるらしい。息子からは、今時I.E.を使ってるなんて!と言われていた。セキュリティから考えても危ないし、トロいよ、と言うわけだ。

 I.E.に本質的な問題があるのか、最新のI.E.とニフティとの相性に問題があるのか、はたまた私が変換辞書にATOKを使っていることが原因なのか、不才の私にはわからない。

 明らかなのは、I.E.からニフティは使えない状態であるということだ。さいわいグーグルから開けば使えるので何とかなっている。

 それが原因ではもちろんないが(あたりまえだ)歯が痛い。以前治療した部分だけれど、残念ながら歯医者にこちらの不具合がうまく伝わらず、ずっと違和感を感じていたところだ。昨夜になって痛みでよく寝られないほどになった。土曜日だけれど、無理矢理に午後、治療をしてもらうよう頼み込んだ。

 おまけに歯にかぶせてあった金属を失ってしまった。長年きちんとはまっていたのに最近ちょっとした拍子に外れるようになっていたのだが、気が付いたらなくなっていた。探し回ったが見つからない。呑み込んでしまったとしか思えない。ぐらつきだしたのは電動歯ブラシの振動で接着が外れたためではないか。

 なんだかつきが落ちだしているようだ(もともとついていたわけではないが)。注意する必要がありそうだ。

長良川に沿って・郡上八幡博覧館

博覧館の近くの駐車場に車を置くと便利なので、いつも博覧館に立ち寄る。あまり広くない建物だが、郡上を知ってもらいたい、という気持ちがこもっていて居心地がいい。

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郡上八幡は水の街。
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先ほど見てきた郡上八幡城。川は吉田川。
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長良川は鮎釣りのメッカ。
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古今伝授の図。
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古くから織物や染め物が盛ん。養蚕も盛んだった。
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蚕の繭の細工物。花びらなどが全て繭で作られている。他にも見事な作品がある。
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鏡仏。後ろ側は鏡だ。
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人形たちの勢揃い。
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福助。古いものほどおでこが極端。
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ひな祭りに合わせて展示を待つ雛人形たち。下は段ボール。この展示館ではひな祭りに合わせて創作の変わり雛が並ぶ。とても楽しいのでまた来てみたい。
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この二つの人形にはいつもほほえんでしまう。上の人形は胸を見ると山姥みたいだけれど髭が生えている。髭の生えているお婆さんもいるけれど、ここまではなあ。

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郡上踊りの実演があるというので見学。右側のおねえさんの説明が上手でとても楽しい。一緒に踊りましょう、と言われたのでちょっと引いたが、座ったまま手振りをまねればいいというのでホッとした。踊りは超絶苦手なのだ。簡単なのにしばしば間違える。でも、上手上手、とおだてられて汗をかいた。真ん中のお姉さんは可愛いのに無表情。でも終わった後、にっこりして、また来て下さいと言った。緊張していたのだ。

このあと市内を少しだけ散策。

2015年1月16日 (金)

宮沢章夫「わからなくなってきました」(新潮文庫)

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 先日読んだ著者の「牛への道」があまりにも面白かったので、何冊かさらに買って楽しみながら読んでいる。何がどう面白いのか説明するより読む方が早いが、巻末の解説で別役実がそのおもしろさの秘密を分析(というほどのものでもないが)していて、そのために引用されているのが本文の中の以下の文章。

  「カーテンに弱いから」

 いま気になっているのは、「弱い人」だ。「弱い人」は、「弱者」とは違う。何かのことを苦手とするとき、たとえば、「俺、夏に弱いんだ」というように、「弱い」を使い、「弱い人」であることが宣言される。「弱い人」が奇妙なのは、弱いくせに、宣言しても別に何の問題も起こらないところである。
 たとえば、「機械に弱い人」だ。
 ステレオの配線ができないといっては、「私、機械に弱いから」と言う。自ら弱点をさらしても問題に七位のは、「機械」に対して、誰もが、何らかの弱さを持っているからではないか。「あいつはべつに、特別な人間ではない」という意識が働く。けれど、特別な人間ではなくても、「俺、毒ガスに弱いから」というのはかなり問題である。なぜなら、そんなことはわざわざ宣言しなくても、あたりまえだからだ。また、ちょっとどうかと思うような弱い人もいるかも知れない。
「私、カーテンに弱いから」
 そう宣言されても、どういうことなのかわからないだろう。ただ、カーテンに弱いのである。そばに寄ると巻かれたりするのだろうか。或いは、カーテンを引こうとしてもうまく引けないのだろうか。
「私、三十八ページに弱いから」
 そんなことをいわれても、なにがどうなっているのか困ると思う。また「私、朝が弱いから」という、「弱い人」もいる。おそらく低血圧なのだろう。「朝が弱い=低血圧」という図式があり、そのことはたいてい了解されているから、誰もそのことを変に思わない。これが、「私、昼に弱いから」ということになると、ちょっとまずいのではないか。やはり、なにが、どう弱いのかよく理解出来ないのだ。
 もう一度、「機械に弱い人」の話に戻ろう。
 たしかに、それを問題視することはあまりない。「あいつ、機械に弱いんだな」と同情すら抱くこともあるが、そこに彼らの甘えがあることも見逃してはいけない。彼ら、「機械に弱い人」は、機械の前ですぐにあきらめるらしい。あきらめるとは、思考を停止することだ。たとえば、携帯電話でもいい。私の知人の、「機械に弱い人」が、あるとき携帯電話からダイヤルしようとしていた。ところが、何度、つなげようとしても相手に通じなかった。そして彼は言ったのだ。
「俺、だめだから。こういうの、だめだから」
 だが落ち着いて考えてみれば、それはただ、電話番号を押し間違えているだけである。ここには二つの問題点があるのではないか。一つには、ただの電話だったら彼も落ち着いて考えられたはずだという点。それが、「携帯電話」になったとたん、もう彼には手に負えない、「機械」になった。そして第二に、「機械」を前にしたとたん、その理由を考える努力を放棄する点だ。
 そのことが、また別の知人から聞いたエピソードにつながる。それは知人たちがバスに乗っていたときのことだという。夏だったが、バスの車内に冷房はなく、ひどく暑かった。一緒にバスに乗っていた、「機械にひどく弱い男」に知人が声をかけた。
「ちょっと、窓、開けてくれよ」
 すると、「機械にひどく弱い男」はびっくりしたように「え?」と答え、バスの窓を見た。よく知られているように、バスの窓には、左右にホチキスに似た形の金具がある。それを押して止め金をはずし、上にガラス全体を動かす。「機械にひどく弱い男」はちょっとのあいだそれを見ていたが、すぐに困ったような表情で言ったのだ。
「俺、機械に弱いから」
 あれが機械なのだろうか。私たちからすれば、あきらかにあれは機械ではない。だが彼の目にはあれが機械に見えた。そうであると決まった瞬間、彼には、それ以外のこととして考えることは不可能だったのだ。

 別役実は「ホップ、ステップ、ジャンプ」という言い方で宮沢章夫の文章の展開を説明する。「ホップ」は「機械に弱い人」、これは分かる。次に「ステップ」は「カーテンに弱い人」、ついて行こうと思えば何とか分からないことはない。そして「ジャンプ」が「三十八ページに弱い人」、こうなるともう飛躍がありすぎて芸術的である。この奇妙な芸術的才能が宮沢章夫であり、それが芸術作品とはとてもいえない文章になっているところがおもしろさの秘密だというのだ。確かに糞真面目な人からすればこんな文章、読んでいてもなにを言っているのか分からないし、ちっとも面白くないだろう。

 ところで、上記の文章は1997年以前に書かれているので、携帯はいまほどあたりまえに使いこなされていないし、バスの冷房がないことがあった頃の話である。念のため。

 それよりも、私は「機械に弱い人」の甘えの意識に注目する。毎日必ず拝見する「おキヨ」お姉さんのブログ「正直ばあさん記」の「よく似たタイプ。」に出てくる甘えた男性の姿に同じものを見る。家事を手伝わない、妻女がいなければ食事も作れない男に「機械に弱い人」と同じ甘えを見るのだ。

 そういえば弟と同居している母が、私に電話するのに気兼ねしているようなので携帯電話を持たせようとしたら、強い口調で「そんなもの使えない」と拒否したことを思い出す。「機械に弱い人」だった父と違い、ビデオの操作も何とかこなしていた母なのに意外だったが、思えばその頃から母の精神の衰退が始まったのだ。 

長良川に沿って・郡上八幡城(2)

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郡上八幡は山内一豊の妻の千代の出身地らしい。城内のあちこちにこんな布が下がっている。シンプルなのが好い。

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入り口の上に展示している駕籠。階段を登ってから振り返らないと見えない。いつも思うけれど、昔の人は小柄だったようだ。それにしてもこんな中に長時間入っていたらさぞ窮屈だったことだろう。

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たいていの城と同じように武具や衣装などの展示がある。大好きな刀の展示。鎖鎌もあったが、本当にこんなものが使われていたのか。

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こちらはお姫様が使ったのだろう貝合わせ。きれいな桶にはたくさん入っていた。和風の神経衰弱だ。

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宝暦騒動という事件があったことを知らなかった。藩の財政不足を補うために農民に対し増税を行おうとして一揆に発展することになり、その責任を問われてその当時郡上藩の藩主だった金森氏は改易となった。これは「郡上一揆」という映画になっているそうだ。

このとき、命がけの農民たちにより江戸幕府に再三直訴が行われたが、なかなか採りあげられなかった。最後は目安箱への投書により藩の処分へとつながった。その処理が問題視されて当初直訴を受けた老中など幕閣も何人か処分されている。直訴を行った農民たちは当然だが斬首の刑に処されている。義民としていまも祀られているそうだ。私の生まれた千葉県にも佐倉惣五郎という義民がいる。こちらは歌舞伎にもなっている。

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ゆっくり見学して、雪の残る郡上八幡城を後にした。

次は麓の博覧館へ行く。

2015年1月15日 (木)

長良川に沿って・郡上八幡城(1)

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 お城は美しい(中にはちょっと不細工なものもある)。機会があれば苦手な山城でも登って訪ねることにしている。郡上八幡城は小ぶりだが特に美しい。山の上にあるけれど、そのすぐ近くまで車で上がれるので有り難い。ただし道は狭くてカーブもきつく、いまの愛車のアテンザは普通の車より一回り大きいので二カ所ほど切り返しが必要だった。運転技術に問題もあるが、登山道の登り口には「運転に不慣れな人は歩いて登って下さい」という看板がある。

150114_47 城門から見た正面

城内の観覧券と、郡上八万博覧館(後で行く予定)のセット券650円を購入して場内に入る。

150114_64 天守閣の天井を下から見上げる

写真のようにこのお城は木造である。だから上の階を歩く人がいるとギシギシいうけれど、立て付けが悪いわけではない。

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天守から郡上八幡の街を見下ろす。川は長良川の支流、吉田川。

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天守から城門方向を見下ろす。分かりにくいけれど、山際に下呂方向に行く、せせらぎ街道(国道472号線)が走っている。秋の紅葉がとても美しい道だ。郡上八幡からはもう一本、国道41号線へつながる国道256号線がある。

150114_69 郡上八幡城の高さ指標

次回は城の内部の展示物を紹介する。

映画「アウトロー 哀しき復讐」2010年韓国

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 監督キム・チョルハン、出演カム・ウソン、チャン・シニョン他。

 映画によって残虐なシーンがある。しかしこの映画の中での残虐シーンには救いがない。だから復讐に必然性が出てくると言えばその通りなのだが、ここまで狂的な異常犯罪者が裁判で無罪になってしまうとすれば、韓国の法律はどうなっているのだろう。いくら何でもひどいではないか。それとも本当にこんな状態なのだろうか。信じられない。

 多分韓国の若者は、こんな風な無法がまかり通る世界が日本統治時代にも定常的にあったと思っているのかも知れない(もちろんこの映画は現代の韓国の話だ)。とんでもない思い込みなのだけれど、日本の若者の一部までそう思っている節があるのは哀しい。

 韓国では第二次大戦後に済州島事件をはじめ、大量虐殺事件がいくつか起きている。隠蔽された血塗られた歴史だ。これを韓国自身が総括しなければ韓国の戦後は真に終わったとは言えない。戦後70年たっても、日本も韓国も戦争を引きずり続けているのにはそれぞれにわけがある。韓国からすれば余計なお世話、というところだろうが。

 日本は自らの手によって戦争の責任者を処断しなかった。あたかも日本人が全て戦争の被害者だったかのような顔をしている。止められる戦争を拡大させてしまったのは誰か、誰も責任者が存在しないなどと言うことはあり得ない。あの福島第一原発事故についても全く同様。

 話があらぬほうへ行ってしまったが、韓国のこの残虐さ(映画の話だが)は繰り返すが尋常ではない。そして韓国の犯罪発生率は先進国の中では突出しており、人口あたりの殺人事件や凶悪事件の件数はアメリカを超えているらしい。強姦も信じられないほど多いが、その7割が拘置もされずに済まされるという。本当だろうか。

 こんな終わり方でいいのか、と思う終わり方でこの映画は終わる。

2015年1月14日 (水)

長良川に沿って・洲原神社

150114_7 長良川

 長良川沿いの景色が大好きで、しばしば走る。しばらく車を動かしていなかったので、おなじみのところをドライブすることにした。途中まで東海北陸道を使い、美濃インターで国道156号線におりる。いつも立ち寄る洲原神社に寄る。

150114_1 洲原神社入り口

150114_28 山門

150114_31 山門の上には大きな太鼓

150114_27 左手は本殿入り口

150114_19 狛犬

150114_23 拝殿の額 長いのは木刀

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今日は曇天。薄ら寒い。それでも長良川の水は青く澄んでいる。天気がいいと青空を写してさらに青い。本当にきれいな川だ。これから郡上八幡に向かう。

逸名作家(池上俊一訳)「西洋中世奇譚集成 東方の驚異」(講談社文庫)

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 この本は三部に分かれている。第一部はラテン語で書かれた「アレクサンドロス大王からアリストテレス宛の手紙」、第二部は同じくラテン語バージョンの「司祭ヨハネの手紙」、第三部は古フランス語バージョンの「司祭ヨハネの手紙」である。

 だからなんなのだ、それが何で中世奇譚になるのか、と思われることであろう。

 ところが内容を読み始めると、これが想像を絶する奇妙奇天烈なトンデモ本であることが分かる。ここでは「インド」という名で、アフリカ、中近東からインド一帯全てを含む地域についての摩訶不思議な風物自然が大まじめに記述されている。夢枕獏も真っ青、というほど怪物怪獣魔の植物異態の人間たちの記述にあふれている。

 原文が原文だから(訳者は訳出するのに大いに苦労したことであろう)多少読みにくいが、細部にこだわっても意味がない。ただただ唖然とすればいい。でもとにかく面白いのだ。

 ラテン語で書かれていたのは当時字が読めたのは有識者に限られていたからで、彼らはラテン語で読み書きしていたからだ。そしてそれが一般人にも多少識字する人々が増えたことにより、古フランス語での物語が登場した。だから第二部と第三部は本当は同じ物語なのだが、第三部はだいぶ簡略であり、内容も変化している。

 これはお話として流布したところもあるものの、一端は真実であるとも思われていた。ここで司祭ヨハネと名乗る人物は、西洋の伝説の主、謎のキリスト教国の国王、プレスター・ジョンという。彼を探して大まじめに捜索隊が派遣された。当時聖地奪回のために十字軍がオリエントにたびたび派遣されたが、プレスター・ジョンはそれに援助を申し入れたとされており、伝説の通りならとても強力な援助が期待されるからだ。

 本としては薄い本なので、それほど読み切るのに時間はかからない。中世のヨーロッパの人々にアジアはどのように認識されていたのか、その認識にこのような伝説が関わっていた、ということはきわめて興味深い。

 コロンブスがイメージしたインドとはこういうものだったのかも知れない。

映画「レッド・ドーン」2012年アメリカ

 監督ダン・ブラッドリー、出演クリス・ヘムズワース、ジョシュ・ペック他。
 
 アメリカが突如外国軍に侵略されてしまい、それに対して一部の市民がゲリラ的に抵抗し、それをきっかけに市民をあげての反攻につながる、というストーリーの映画は過去にもあった。まだ未熟な若者たちが主人公になるという映画もこれが初めてではない。

 地球が、圧倒的に優位な宇宙人に襲撃されて壊滅的な状況になりながら屈せずに抵抗を続け、ついに逆襲に転ずる、という映画も少なからずある。考えてみれば祖国や地球を守る、という点では同じものだといえる。アメリカが自己防衛のために市民が武器を持って立ち上がるという心性こそ、アメリカの銃社会を支えるものなのだろう。この映画でも次々に武器が市民の間から供給されるのは驚くべき事だ。もちろん多くの武器は敵から奪取したものだけれど。

 映画は単純で、ある日突然アメリカが北朝鮮の軍隊に襲撃される。シアトル郊外に住む主人公の兄弟(兄は軍人で休暇中)が朝、聞き慣れない音と振動で目覚めると、空から次々に落下傘が舞い降りてくる。ぞっとするような恐ろしい光景だ。車で市街に向かった兄弟はアジアの異国の軍隊が街を制圧しようとしているのを目にする。辛くも追求を免れた兄弟は山の中の別荘に逃げ込む。そして仲間を糾合していく。

 電話も通じず、テレビも映らないから情報も分からない。やがてようやく映し出されたテレビは市民に冷静になることを呼びかけ、軍に逆らわず指示に従うように促す。それがすでに敵に支配されているテレビ局の呼びかけであると兄は即座に見抜く。

 やがて彼らの山小屋が敵の知るところとなる。それが察知された理由が哀しい。そして森に潜んでいる彼らに投降を呼びかけたのは捕らえられた彼らの父親だった。ここで英雄的な死がある。想像はつくだろう。

 それから彼らのほとんど蟷螂の斧ともいうべきゲリラ戦が始まる。兄の軍隊での知識を生かして次々に敵を倒していく。しかしそもそも若い者たちの統制の取れていない集団である。規律を守ることの意味を理解しないもの、感情的になるもの、戦いとなるとつい惰弱になってしまうものがあるのは当然だ。それをどう乗り越え全体をまとめていくのか。

 そもそもアメリカの軍隊はどうしたのか、どうしてそう易々と敵の襲撃を許したのか。それについてはそれらしい説明があり、それを可能にした敵の武器ともいうべきものを奪うのが物語のクライマックスとなる。

 多くの犠牲を払い、目的を達成したとき、彼らはすでに歴戦の勇士の顔になっていた、ということでジ・エンド。

 うーん、思想的には問題ありの映画でもあるが、実際に自分がそのような場に直面すれば、敵に従うか戦うしか選択肢がないのであって、男としてはできれば戦う側に与したいと思う(多分唯々諾々と従うだろう)。「敵にはただの領土であるが、我々にとって故郷である」というプロパガンダは多くの国の戦う人々の戦う理由の原点だろう。

 でもねえ、アメリカがそれを言うか?アメリカが戦った相手が思うことをアメリカ自身が鏡のように写しているようだ。アメリカは自分の国が侵略された経験を持たない。そのことがかえって強く国土侵略の不安をもたらしているのだろうか。

 中国は尖閣諸島をわが領土と言い張り、韓国は竹島を守るべきわが領土という。それを守るために戦いを辞さず、とプロパガンダをしている。常に正義はこうしたものだ。

2015年1月13日 (火)

葉室麟「影踏み鬼 新撰組篠原泰之進日録」(文藝春秋)

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 篠原泰之進は実在の人物であり、確かに日記を残しているらしい。ここに書かれている新撰組や伊東甲子太郎の描き方は、従来のものとはだいぶ異なる。新撰組の非情さが実感されるが、そういう時代であったし、そういう集団だったのだ。

 それよりも、もともと京都防衛のためとして清河八郎に詐術のようにして集められた浪士たちが、じつは勤王を目的として集められたことを明かされてから分裂し、わずかに残った佐幕派の集団が新撰組を結成したけれど、その新撰組の中にまだ多くの勤王思想の持ち主がいたことが驚きだった。同僚との人間関係や成り行きで、思うところと行動がずれたまま生きなければならないことは人としてしばしばあることで、武士とは特にそういうものだろう(新撰組にはもともと出自が武士でない者が多いけれども)。

 しかも新撰組という組織は隊規により、いったん加わればその思想の如何に関わらず自分の意思を通すことはかなわない。

 それが例外的に伊東甲子太郎一派のみ、御陵衛士として分隊が許された。それには篠原泰之心の尽力があったことは事実のようだ。しかし伊東甲子太郎は裏切り者として後に新撰組によって惨殺され、その死骸を引き取りにいったその仲間たちも殺されたことは今までもたびたび小説で描かれている。

 辛くも死地を逃れた篠原泰之進は、その後会津戦争、北越戦争に参戦、ついに余生を全うする。ラストに、人が生き残るということの意味が救いのように提示される。そこに葉室麟のやさしさが感じられる。

 道半ばで死んだ者はその思いを残せない。生き残った者だけがその思いを伝えることができる。「日録」というのはそういうものなのかも知れない。

こうとくしゅうすい、名はでんじろう

 住井すゑの「橋のない川」のなかで大逆事件の主犯として処刑された幸徳秋水が主人公兄弟の弟の目から語られている。小学生である彼の心に「こうとくしゅうすい、名はでんじろう」という声が響き続ける。社会主義者という極悪人だとおとなたちがいうが、彼にはどうしてもそう思えなかったからだ。

 またまた河原宏氏の「日本人の『戦争』」からの引用、『亡国の予感』を表したものとして、幸徳秋水が明治三十八年に渡米中に論じた『日米関係の将来』を紹介している。以下はその部分。

「余は此地に来りて感ぜり。我日本にして、今より十年、或は二十年、或は三十年、五十年後ち、更に他の強国と戦端を開くことありとせば、其敵手たる者は、仏に非ず、独に非ず、墺に非ず、無論、英・伊の二国にも非ずして、必ず現時我と尤も親善たり、と称せらるる北米合衆国其者ならん。吾人及吾人の子孫は、今に於て宜しく此戦争の防止に尽力せざる可からず」

 幸徳秋水は日米戦争の必然性とその防止のための警告を発していたのだ。そしてその予測は的中してしまった。

 幸徳秋水がそのようなひとであると私は知らなかったし、それよりも、明治三十八年頃は、世界で日本と最も親しい国がアメリカだったというのが意外だった。この本には、私が知らなかったこんな話がたくさんある。

2015年1月12日 (月)

映画「ザ・コール 緊急通報指令室」2013年アメリカ

 監督ブラッド・アンダーソン、出演ハリー・ベリー、アビゲイル・プレスリン他。
 
 アメリカでは警察への緊急通報は911である。その通報を受けて適宜対応すべき部署に連絡する係が緊急通報指令室である。そこには様々な通報がある。半数がそもそもそこに連絡する必要のあるような緊急ではないものだ。しかし人はどうしていいか分からないとき、そして身が危険にさらされて切羽詰まるようなとき、911に通報してくる。

 パニックに陥っている通報者を落ち着かせ、必要な情報を聞き出すためには冷静な対応が必要であり、その場に応じた臨機応変な能力が求められる。アメリカは日本よりも犯罪が多い。その対応が犯罪を未然に防ぎ、または最悪の事態を避けることにつながり、また犯人を逮捕することにつながっていく。

 知識として知っていたが、その仕事がどれほど大変なものなのかこの映画であらためて知った。

 有能で同僚からも好かれている主人公(ハル・ベリー)はその仕事を的確にこなしていたが、ある通報に対しての対応ミスで一人の少女を救うことに失敗してしまう。この電話を通じてのやりとりは緊迫感が満点で、一気に映画に引き込まれ、彼女の後悔と挫折感が実感として強く共感される。

 半年後、彼女は現場を離れて通報係志望者や新人の指導係をしていた。志望者を現場に案内していた彼女は、新人のオペレーターが受けた通報に対処しきれずにパニックに陥っている場に直面し、思わず替わって通報者とやりとりを始める。

 通報してきたのは誘拐されて車のトランクに閉じこめられた少女だった。ここから少女の携帯と通報室の緊迫したやりとりが始まる。少女を落ち着かせ、情報を可能な限り聞き出していく。そして彼女に対処法を支持していくのだが・・・。残念ながら携帯はプリペイド式のもので、GPS機能がなく、現在位置が分からない。

 少女はパニックになりながらも賢く勇気があった。トランクの中から指示に従って、次々に自分が閉じこめられているという知らせを外部に向かって発信する。そしてやがてそれを見たという通報が寄せられ、警察が急行する。

 これで救われる、とホッとしたのもつかの間、やがて「正しいことをする人」によって犯人に少女の行動が分かってしまう。観客はこの「正しい人」に怒りを感じるだろう。この「正しい人」は結局その「正しいこと」をする人ゆえの報いを受ける。これをざまあみろ、と感じてはいけないのだけれど。

 少女は絶望的な状況に陥るのだが、やがてある手がかりから犯人が判明する。しかし犯人と少女がどこにいるかは分からない。警察の必死の追求も空しく時間だけが過ぎていく。

 ラストは観客にとって納得出来るものだが、恐ろしいものでもある。この映画も息詰まる展開でハラハラドキドキした。面白い。

赤坂憲雄「東北学/もう一つの東北」(講談社学術文庫)

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 民俗学に興味はある。民俗学者である著者が、東北をフィールドワークした記録がこの本の前半の第一部である。そこで彼は柳田民俗学の日本観の限界を論ずることになる。そして彼が民俗学を志すようになったいきさつやその思想が、過去に発表したいろいろな文章を構成して語られるのが第二部である。

 著者が「東北学」という概念を掲げて、それについて述べた「東北学」三部作のこれが第三番目の本だということだ。

 この本は「東北学へ3 東北ルネッサンス」という原題で1998年に出版されており、講談社学術文庫には2014年11月に収められた。出版されてすぐ購入し、少しずつ読み進めて、先日ようやく読み終わった。

 前半途中から読んでいて次第に楽しくなった。知的刺激に富んでいて、頭がそれを喜ぶのだ。私は関東で生まれ育ったけれど、父が山形の雪深い村(大雪の場所として今年もたびたび名前の出ている最上郡の大蔵村肘折は父の故郷の隣村だ)の出身であり、学生生活も山形と米沢で過ごしたので、東北には思い入れがある。

 その東北はみちのくと呼ばれ、つまり都から僻遠の地として位置づけられ、その視点からだけ論じられ続けてきた。東北独自の世界について東北自身は語ることがなく、その視点で論じられたこともない。もともと無口な人々の住む世界なのだ。

 戦後柳田民俗学は一つの権威として民俗学の世界に君臨したが、その後それに対する批判が噴出し、今は柳田国男を非難するのがはやりらしい。柳田国男は神道同様、戦前日本国家に利用された側面があるのは事実のようだ。

 しかしそうして柳田国男を批判、非難する人々は柳田民俗学を乗り越える自分の民俗学を持たない者が多く、結果的に民俗学そのものを衰退させることに寄与している。

 そんな時代に著者はそれを承知であえて民俗学を我が道として選んだ。そして柳田民俗学を徹底して咀嚼し、並行してフィールドワークを繰り返すことで柳田民俗学の限界を知り、それを乗り越えようとしている。彼が紹介、引用する同じ志の何人かが今あらたな民俗学を開きつつあるのを感じる。

 民俗学が掘り起こすのは今に残る過去である。現代はそのような過去を急速に喪失しつつある時代だ。今こそそれを急いでフィールドワークにより収集するべきときのように思う。

 この本には東北について、民俗学について、芭蕉について(もちろん「奥の細道」について)、宮沢賢治について、縄文文化について、その他たくさんのことについて語られていてそのどれをとってもじっくり考えさせてくれる。今度はもっとじっくり考えながら読み返したいと思っている。いい本に出会えて嬉しい。

2015年1月11日 (日)

映画「ミッドナイトチェイス」2012年オランダ

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 監督ディエデリック・ファン・ローエン、出演バリー・アトスマ、スーザン・ヴィセール他。
「シートレマーズ」という映画があまりにもひどい出来だったので、オランダ映画はこんなにレベルが低いのか?と書いたけれど、あの映画がひどかっただけであることがこの映画を観て分かった。オランダ映画に対し謝罪したい。済みませんでした。どこだって出会いたくないひどい映画というのは量産されているものだ。この映画は金がかかっていないけれど、かなりハラハラドキドキするゆるみのないよい映画であった。

 いろいろな事情で心がすれ違いだしたオランダの中年夫婦が、何とか関係を修復しようと、娘を国に残して、二人がむかし過ごした(多分新婚旅行であろうか)アルゼンチンにやってくる。冒頭部はそのような夫婦の関係が、互いが撮り合うビデオカメラに映し出されていく。

 しかし関係の修復はかなわず、烈しいののしり合いになって旅を終えようとした夫婦は、帰りの飛行機に乗るために空港へ向かおうとするのだが、そこで見てはならないものをビデオに撮影してしまう。警官が殺人を犯すところを目撃し、しかも撮影してしまったのだ。

 ここから二人の必死の逃避行が始まる。もちろん警察には頼れない。言葉もかろうじて英語の分かる人を通しての会話しかできない。絶望的な危機を切り抜けながらも犯人の警察官とその仲間に次第に追い詰められていく二人。そしてついに二人はとらわれてしまう。

 絶対に助からなりそうもない状況は打開出来るのか、ただの不条理な物語で終わるのか。息詰まるようなラストがすばらしい。

崔碩栄(チェソギョン)「『反日モンスター』はこうして作られた」(講談社+α文庫)

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 本屋には嫌韓本がたくさん並んでいる。内容に具体的な裏付けがなく、ただ感情的な、観念的な嫌韓本は読んでいると不快になるが、納得出来る歴史観に裏打ちされていて、こちらが知らなかった事実を教えてくれるような本には読む値打ちのあるものもある。

 しかしこの本はじつはそのような嫌韓本ではない。この本が論じているのは韓国の『反日』という怪物(ケムル)の正体であり、それが作られ増殖していく社会的背景を含めた歴史である。その怪物を育て上げた韓国の政界、マスコミと、それに呑み込まれていく韓国国民の姿であり、その怪物が、自分を作り出し、育てた政界とマスコミすら呑み込もうとしているという今の韓国の姿である。

 だからこの本では韓国と日本のどちらに正義があるかどうか、などという不毛の言及はない(正義など常にどちらの側にもあるものだ)。ここにあるのは冷静な事実についての言及だ。

 著者はどれほど韓国でこの本を出版したいことであろう。日本語で書かれて日本で出版されたこの本は、もちろん日本の読者に向けて書かれているけれど、なるほど、そういうことなのか、と日本人が分かったところで日本人には如何とも何ともしようがない。著者は韓国民が目を覚ましてこの『反日』という怪物の増殖を止めることを心から願っているのだ。

 だがこのような本を韓国で発表しようものなら彼は社会的な生命を失うことになることは間違いない(賛同する人が結構いるはずだが、賛同したと表だっては決して言えないのがこの怪物の怖いところだ)。怪物の増殖を止めようと勇気を持って冷静に立ち向かったいくつかの実例がこの本にも挙げられている。その結果は無惨なものだった。

 山本七平に「『空気』の研究」という名著がある。『空気』とは、場を支配している目に見えない雰囲気のようなもので、じつはそれが肥大していくことで誰が決定した、という責任の所在のないままに事態が拡大し、戦争に突入していった日本のエネルギー源ともいうべきものだった。今でもKYが『空気読めない』の意味で、その場の状況を感じ取れない鈍感な人間を揶揄しているのを見ても、『空気』がどれほど日本人の本質に関わるものかが分かる。

 ところが、日本人に特有のものだと思っていたら、それは韓国にもあるようだ。それが「反日」という怪物を肥大化させているらしい。自己肥大を続けるこの怪物は、すでに韓国社会をむしばんでいる。そしてほとんど何びともそれに抗することができなくなっているように見える。しかし著者はわずかな曙光を見ている。それはきわめてかすかな希望ではあるけれど・・・。

 空気からの脱出は鈍感になることではない。正しい常識と知識と賢さを獲得して自己確立することだ。アイデンティティーこだわる西洋にも『空気』はあるだろうが、日本よりはわずからしいのはそのためか。

2015年1月10日 (土)

映画「海と大陸」2011年イタリア&フランス

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 監督エマヌエーレ・クリアレーゼ、出演フィリッポ・プチッロ、ドナラック・フィノッキアーロ他。

 地中海の貧しい島が舞台。島の人々は普段は漁業で暮らしているが、魚が昔のように捕れなくなって、船を手放して漁師を辞めるものも多い。夏の間だけやってくる観光客で何とか島は成り立っているという状態だ。

 息子を海で失い、孫のフィリッポと助手の三人で細々と漁をしている老人家族が物語の主役だ。家には死んだ息子の嫁、つまりフィリッポの母親が一緒に暮らしている。老人には漁師をしていた死んだ息子の他に、才覚があり手広く商売をしているもう一人の息子がいて、船も老朽化しているのだから漁師を辞めるようにすすめてくる。フィリッポの母親も本音では島を出て行きたいと思っているが、フィリッポには今の生活に特に不満がない。

 そんなとき、漁に出た船はアフリカからの難民を乗せた、船ともいえない船が漂流をしているのを発見する。法律では難民を幇助すると罪に問われることになっている。無線で海上警察に急報するのだが、船を見て数人が海に飛び込み漁船に泳ぎ寄ってきてしまう。海上警察からは難民との接触をしないよう注意を受けていたが、助けなければおぼれてしまう。泳ぎ着いた者やおぼれかけた母子を救ってしまったことで罪に問われかねない。漁船を慌てて回頭させ、密かに岸辺に着けると難民たちは争って逃げ去ってしまい、母子だけが残る。母親は臨月だった。

 こうしてこの母子をやむなくかくまう老人家族だが、法により老人の漁船は当局に接収されてしまう。かくまった母親はやがて女の子を産み落とす。家族はなんとか母子をかくまい通すのだが、やがてあらたな難民が島に迫る。最初にフィリッポが発見するのだが、彼は難民を助けずに見捨てる。

 警察の追及が厳しくなり、かくまいきれなくなった家族は何とか母子を逃そうとするのだが・・・。

 「大陸」とは難民のやってくるアフリカ大陸のことであり、同時にかくまわれた母子が夫が働いているというミラノのあるイタリア、つまりヨーロッパ大陸のことでもある。「海」とはそれをつなぐ海であり、この島でもある。地中海とはアフリカとヨーロッパの間にあることを改めて知らされる。

佐伯泰英「白鶴ノ紅」(双葉文庫)

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 居眠り磐音シリーズ第48巻。著者あとがきによれば年内に50巻完結を達成させるべく構想中とのこと。前回の47巻で、50巻完結に合わせるために話の展開が少しまだるっこしくなった、と書いたが、なんとこの48巻では前回から突然二年半も経過しているのだ。著者もちょっとゆっくりしすぎたと思ったのだろうか。

 納まるべきものが次々に納まった状態になってしまって、いくらなんでも飛ばしすぎ、というのが正直なところだ。丁寧に描いて好い気持ちにさせて欲しいところが飛ばされているような気がする。あまり仕合わせなシーンばかり書くのも面倒くさかったのだろうか。さいわいそれでも結構この巻はそんなシーンは多い。

 田沼意知が殿中で佐野善左衛門に殺されて、全盛を極めていた田沼意次も凋落し、その権勢に群がっていた阿諛追従の者たちも次第に離れていく中、田沼意次の権力基盤だった十代将軍家治がついに死去する。

 坂崎磐音たちの最大の敵だった田沼意次が失脚して、ついに正面から闘うことなく物語は終わってしまうのだろうか。

 この巻では坂崎磐音の元許嫁、奈緒が浅草寺門前に紅屋(紅花に関連した染め物や紅を売る)という店を開業する話と、磐音の故郷豊後関前藩の藩主の妻、お代の方の還俗(ある事件に連座して鎌倉の東慶寺にいる)に関わる話がメイン。こうして一つ一つ物事が片付いていくのだが、田沼意次失脚の後、あらたに権力者にのし上がろうとする松平定信の影が次第に磐音に射していくのが不気味だ。磐音の配慮で、佐野善左衛門の田沼意知暗殺の背後に松平定信がいることを示す証拠は隠されたのだが、そのことが松平定信にとっては弱みとして認識されているからだ。権力者は、恩義よりも自分の保身を優先する者であるようだ。

 しかしこんなことでは坂崎磐音はいつまでも安心して生きていくことができないではないか。でも安心などというものは、そもそも叶わぬ夢なのかもしれない。

映画「アフターショック」2012年アメリカ&チリ

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 監督ニコラス・ロペス、出演イーライ・ロス、アンドレア・オズヴァルド他。

 どんな映画なのか全く知らずに見た。前半は若い男女たちの出会いとその愉快に楽しむ様子が延々と描かれる。なんだこの映画は、とうんざりするぎりぎりのところで、何が始まるのかという期待でなんとか見続けていたら・・・。その後がとんでもない展開になるのだ。知らずにこの映画を観て楽しみたい人のためにストーリーを書くのは控える。とにかくこの映画も最後は血だらけ。

 めずらしいアメリカとチリの合作という映画で、舞台は南米のチリだ。若者と言うよりすこし歳のいった男三人が、観光ぶどう園で若い女三人をナンパする。それぞれ慎重な人物あり、羽目を外す人物あり、が入り乱れてチリの観光地をめぐり、チリの夜を謳歌するのだが・・・。もちろんそれだけならただのチリの案内映画だ。それが突然、なんだなんだ、という状況になる。

 その後の彼らの運命は苛酷だ。そして危機を脱したとき何が起こるのか。観客は「アフターショック」という題名の意味をラストで思い知る。

2015年1月 9日 (金)

合理主義とニヒリズム

 河原宏著「日本人の『戦争』(古典と死生の間で)」(講談社学術文庫)という本を読み始めている。このなかに合理主義とニヒリズムについての著者の考えを書いているところがあって、なるほど、と感心したので忘れないようにここに記しておく。

 およそ戦いに明け暮れる戦国武将なら、自分一個の死生観を把持していない者はないともいえる。

(として、上杉謙信と織田信長の死生観の違いを述べていく。)

 ここで信長が謙信と異なるのは、信長は「下天のうちにくらぶれば」などと謡いながら、しかし仏教的な世界観自体を拒否していることである。拒否したのは厭離穢土的な無常観だけではなく、さらにその根底にある輪廻観でもあった。こうして彼は自分一人の死生観だけではなく、時代の世界観を変革した。それこそが彼の合理主義の帰結であり、したがって彼をニヒリスティックな決断主義へと導く原動力だった。
 合理主義なしにニヒリズムはない。ニヒリズムは合理主義の正当な嫡子である。なぜなら合理主義は、主体の自由を要求する。世界と人生のあらゆる事に合理性を貫くには、その事柄に付随するいっさいの事情・因縁・過去・来歴を無視する自由を必要とする。そのような自由は、究極のところ自己を拘束する既存の価値一切を否定するニヒリズムに至る。あらゆるものに価値と権威を認めないニヒリズムが、主体に内在した自由を保証することは明らかであろう。ここに置いてニヒリズムこそが、合理主義を支える根拠となる。
 今、合理主義を自称する日本人は多いが、大抵この辺りでたじろいでしまう。合理主義とはムードにすぎず、自らの内なるニヒリズムを支える強さは持たないからである。だが徹底しない合理主義とは、じつは非合理主義にすぎず、徹底した合理主義とはニヒリズムである。

(この本では、このあと信長の合理主義を検証していく)

 これを読んで、中国こそまさしく合理主義の国なのだ、と感じた。そしてアメリカは・・・言うまでもない。ヨーロッパはまだ「因縁・過去・来歴」を引きずってはいる。では日本は・・・。著者の言うとおり合理主義を正しいものとして目指そうとしている。そして「因縁・過去・来歴」を害のあるもの、愚かなもの、劣ったもの、と決めつけて捨て去ろうとしている。私自身も若い頃からそのように生きてきた。そして今頃になって失われたものに何か大事なものがあったらしい、と感じ始めたのだが、遅きに失しているらしい。

映画「マニアック」2012年フランス&アメリカ

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 監督フランク・カルフン、出演イライジャ・ウッド、ノラ・アルネゼテール他。

 スプラッターサイコ映画といおうか。主人公の異常者を演じるのはイライジャ・ウッド、彼には縁があるらしい。カメラの視点はほとんどこの異常者からのものであり、主人公自身は鏡や何かに写ったときにしか見られない。だから彼が女を異常な方法で襲うとき、襲うのは映画を観ている私自身でもあるのだ。

 主人公はマネキンの修復人であり、そのマネキンに取り囲まれて暮らしている偏頭痛持ちの性的不能者である。彼は次々に目をつけた女を襲っていく。襲う目的は観客には理解不能だけれど、彼なりの必然性があることが次第に見えてくる。

 物語が進むほどに血まみれになっていき、ラストの異常者の見る幻覚は限界を超えている。イライジャ・ウッドのあの大きな目が役柄にはまりすぎて気持ち悪い。

 ストーリーは全く関係ないけれど、むかしピーター(池畑慎之介)が主演した「薔薇の葬列」という白黒映画のラストの血まみれシーンを思い出した。

 こういう映画を観ていると夜、悪夢を見る。ナイトメアだ。

2015年1月 8日 (木)

サボアの人

140920_74 毎度おなじみの・・・

 これは全文宮沢章夫氏の「牛への道」のなかからの無断転載です。ごめんなさい。

 それは二月五日付(1992年)の「朝日新聞」の朝刊だった。スポーツ欄に「サボア日記」という囲み記事がある。中央に内容を示す見出しが、---「読んで下さい」20年前の手紙---とあった。世の中には、「いい話」という者が存在する。---「読んで下さい」20年前の手紙---は、そのいい話に属するのだろう、内容を簡単に書けば次のようなものだ。
 オリンピックが開かれたアルベールビルのメーンストリートで、この記事を書いた記者が年配の夫婦から声を掛けられた。隣の町でホテルを営む夫婦は、一通の手紙を携えて日本人の来るのを待っていたというのだ。手紙は日本語で書かれていた。「1972年に日本から来た手紙です。何が書いてあるか教えて下さい」それは二十年前、夫婦の営むホテルに宿泊した日本人から届いた手紙で、記者が目を通すと、世話になった夫婦への礼状だとわかった。そのことを伝えると、二人は笑顔を浮かべて言った。「ずっと気掛かりでしたが、これで胸のつかえがおりました」このエピソードには、国を越えた人と人との温かい触れあいが描かれている。全く、いい話このうえない。記者は記事の最後にこうも書いている。
「・・・地元での五輪がこの夫婦に日本人を思い出させた。うれしい出会いだった」
 読み終えた私も思わず、「ああ、いい話だなあ」としみじみするはずだった。しないのだ。少しはしみじみしたかもしれないが、完全なしみじみにはほど遠かった。このエピソードには、人にしみじみさせない何かがある。どうもひっかかる。何だかいけない。いったいそれは何だ。改めて私は記事を読み返すことにした。そして私は発見したのだ。
 このエピソードの登場人物は、どいつもこいつもばかものである。
 まず、通りで日本人が来るのを、ただ待っている夫婦は、なんだかばかものに見える。オリンピックが開催されたから日本人が来るかもしれないと考えるのはいいが、だからって通りで待つことはないだろう。だいたい二十年間、何してたんだこの夫婦は。日本語が読めるフランス人を探したっていいじゃないか。それにしても、二十年前に日本人が宿泊した夫婦のホテルに、その後、一度も日本人が来なかったのはちょっと変で、そう考えれば、この話は記者が捏造した「下手な、いい話」のようにもうがって考えられるが、まさかそんなことを朝日の記者がやることはあるまい。おそらく日本人は宿泊したのだろう。夫婦がばかものだから気が付かなかったのだ。
 さらにばかものなのは、手紙を書いた日本人だ。なぜ日本語で書いたのかわからない。相手が読めないだろうことは、そこに行ったことがあるんだからわかりそうなものじゃないか。フランス語で書くのが困難ならば、下手でもいい、英語で書くくらいの気遣いはあってよさそうなものじゃないか。無神経なのかもしれないが、やはり、ばかものである。
 そして、この記事を書いた朝日の記者もばかものだった。道でぼーっと待つフランス人のばかものにも気が付かず、手紙を書いた日本人のばかものにも憤ることなく、「うれしい出会いだった」なんてことをのんきに言っている場合じゃないだろう。
 こうして、このエピソードにはばかものしか登場しない。アルベールビルは、かなり大変なことになっているのだった。

宮沢章夫「牛への道」(新潮文庫)

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 久しぶりに腹から笑った。これも久しぶりの再読。この人の文章は面白いので本屋で探してみよう。文庫もたくさん出ている。

 2~4ページの短文が並べられていて、その発想のユニークさと転換が絶妙なのだ。紹介するなら全文掲載したくなる。

 著者は劇作家で作家、演出家。1985年に大竹まことや竹中直人、きたろう、いとうせいこう、中村ゆうじたちとパフォーマンスユニットを立ち上げた、という経歴を見ればどんなひとか分かるだろうか。その後マダガスカルに長期滞在、帰ってから作家活動をしているらしい。 

 「牛への道」という題に惹かれてこれを買ったときは「十牛図」という有名な禅画をイメージしていた。とんでもなく違うものだったのだが、でも考えてみると意外に・・・。

異物混入

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 メディアは食品の異物混入の話で盛り上がっている。マクドナルドの役員による謝罪会見をテレビで見ていると、クレーム処理についてはアメリカ式の対応を踏襲しているらしく、記者からの質問に対して、悪くいえば木で鼻をくくるような答え方をしていてかえって火に油を注ぐことになりそうな気配だ。会見の全体を見ていないから実際はそうでもないのかも知れないが、日本人の感覚では謝罪には見えない。

 うがった見方をすれば、マクドナルド側としては、これほど問題が頻発するのは悪意ある故意の混入が行われているのではないか、と考えているのかも知れない。実際そのようなコメントをしていたコメンテーターもいた。

 専門家を差し置いていうのもなんだが、クレームは拡大させないことが企業にとって最優先の対応だろう。クレームをつけた消費者がその対応で感情的になってしまっては失敗だ。今回の騒動ではすでにその炎上が連鎖反応を起こし始めてしまった。謝罪会見はその連鎖反応の制御棒の役割であるべきなのに、今回は逆にマッチポンプのマスコミにつけ込まれてしまった。

 日本式の、原因はともかくとして問題があったことを認めてまず謝ることで、消費者は自分の主張が受け入れられたと認識し、エスカレートしなかったのはないだろうか。まず責任は会社にはない、というところから入るアメリカ式の対応は、謝ることは全て責任を引き受けることであるという訴訟世界のアメリカでの防衛上の対応システムなのだろう。

 これはその責任を無限に引き受けさせられかねない異常なアメリカなら仕方のないことだが、それはアメリカが異常なので、本来責任には常識的な限度があり、その範囲にとどまるべきものだ。

 異物が入っていたら新しいものと交換し、相手に応じたサービス品を渡せば済むことが日本なら普通で、それでも嵩にかかってくる場合は何らかの意図があると見なされる。日本のほうが正常な社会だろう。

 もちろんクレームは全て報告が社内に上がることを徹底し、それを現場管理に反映させるのは当然で、それが結果的にもっともコストがかからない。問題が放置され、拡大すればそのダメージは大きく、ときには企業の命取りになるのだから。

 マニュアル化され、システム化したサービスは、笑顔とともに顧客に快適な気分を提供するが、クレームなどの問題発生によってそのシステムがほころびるとたちまちその空虚さが露呈される。

 私など面倒くさいからよほどのことがなければ多少の異物は取りのけて黙っている。日本ではたいていの人がそうだろう。それでも苦情を言う人はよほどの思いからだろう。それに対しての対応がお粗末だった責任は取らなければならない。

2015年1月 7日 (水)

映画「シアター・ナイトメア」2014年イギリス

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 監督フィル・ホーキンス、出演ロバート・イングランド、フィン・ジョーンズ他。

 同じ不条理映画でもイギリス映画はアメリカ映画と違うなあ。この映画はマジ、怖い。その怖さは突然暗闇から飛びかかられる怖さ(「13日の金曜日」みたいな映画)ではなくて、なんの斟酌もない悪意の怖さだ。被害者になる人間にとって全く理不尽そのもの、どうして自分がそんな目に遭うのか理解不能な怖さだ。

 犯人は初老の元映写技師、自分のシナリオに沿って若いカップルを恐怖に陥れる。周到に仕組まれたその罠にはまり、もがけばもがくほど見事に犯人の狙いどおりの役割を演じさせられていく。

 最後にさすがにその犯人もほころびを見せたかのように見えるのだが・・・。結末は言わぬが花。

 いうまでもなく、ナイトメアとは悪夢のこと。ナイトメアとといえば、「プラスティック・ナイトメア」というリチャード・リーニィの傑作ミステリーを思い出す。「仮面の情事」という邦題で映画化(トム・ベレンジャー主演)されたけれど、邦題がひどすぎたし、この作品は小説だから面白いので、映画にするのは無理だったような気がする。リチャード・リーニィ大好き。ミステリーファンにはコアなファンがいるはずだ。初めて「心引き裂かれて」を読んだときそのおもしろさに驚愕した。読んだことがなければ本屋で探してでも読む値打ちがある。今なら文庫本があるはずだ。

 リーニィ好きなら「ナイトメア」という言葉に反応してしまうのではないか、私がそうだから。

葉室麟「峠しぐれ」(双葉社)

Dsc_2802 ちょっとピンぼけ

 葉室麟の今までの時代小説とは作風が少し違うような感じがするが、読み終わってみればまぎれもない葉室麟の世界がそこにあった。ぎりぎりの生き方を強いられ、それに立ち向かった者こそが、かけがえのないものを守ることができること、をいつものように教えてくれる。そこでは命を落とす者もあるが、それは決して不本意な死ではない。

 朝霧峠の茶店の夫婦はじつは・・・というのが物語の始まりだが、この朝霧峠、というネーミングが好いではないか。本文中にもそのイメージが描かれているが、それをまざまざと思い浮かべることができる。

 先日偶然ドライブ中に見つけた朝霧橋、という地名についてこのブログでも言及した。こういうのをユングはシンクロニシティと言ったのではないか。

 この小説は、おもしろさという点では葉室麟の中でも上位にランクしてもいい作品だ。読まないのはもったいない。

映画「シー・トレマーズ」2010年オランダ

1310_185こんな海上に浮いている漁場が主な舞台

 監督ブライアン・ユズナ、出演マイケル・パレ、ジャナ・ファサート他。

 もしかしてつまらない映画ではあるまいかと思ったら、その予測があたりすぎた。絶望的にひどい映画であった。オランダ映画がひどいのか、この監督がひどいのか。たった87分の映画(エンドクレジットを覗けば80分もない)なのに、だらだらと無意味なシーンの連続で、テンポの悪さは救いがたい。

 トレマーズというのがよく分からないが、英語の辞書を見るとtremorというのは病気や恐怖に身震いするという意味のようだ。

 時間が惜しければ決して見てはいけない映画だけれど、それを最後まで我慢して観たのはラストがどうなるのか知りたかったからだ。不抜けた戦いで怪物を退治して一応ドラマが終わるが、そのあとヒロインがようやく訪ね当てた謎の少女のおぞましいシーンだけ、ちょっと目を引くところがないではない(エイリアンのパクリみたいなシーンと言えばネタばらしになってしまうが)。

 マイケル・パレもこんな映画に出るとただの大根役者にしか見えない。B級映画と言うよりC級映画だ。

 東南アジアの海が舞台だけれど、オランダ人にとってのアジアというイメージはこんなへんてこなものなのか、それともこの監督の無知の故なのか。どちらにしても今時こんな感覚の西洋人がいるとは・・・。まさかこれが普通の西洋人のアジアについての認識と言うことはないだろうな(大いにありそうで恐ろしい)。

2015年1月 6日 (火)

映画「ブラインド・フィアー」2013年アメリカ

140117_78 猫というだけの特別出演

 監督ジョゼフ・ルーベン、出演ミシェル・モナハン、マイケル・キートン他。

 報道カメラマンとしてアフガニスタンの戦場に従軍したサラ(ミシェル・モナハン)は、自爆テロで両目を失明してしまう。それから三年、恋人の助けでようやく引きこもりのような生活から脱しようとしていた。その彼女を襲う恐怖の一夜を描いたスリラー映画だ。

 不条理な侵入者に恋人を殺され、彼女も絶体絶命の状態に追い込まれるのだが、その侵入者には目的があった。

 彼女を襲う男、そしてあらたに加わった男(マイケル・キートン)、こういう映画は襲う側がシリアスさを欠くとたちまち恐怖感が雲散霧消してしまう。そういう点ではこのマイケル・キートンはとても怖い。

 マイケル・キートンといえば「バットマン」シリーズが有名だけれど、私はこの人が主演(敵役だけれど実質的には主役)した「パシフィック・ハイツ」の怪演が忘れられない。あのマンションを勝手に改造していく異常な男は夢に見るくらい恐ろしい。怖すぎてもう一度観たくないくらいだ。

 そのマイケル・キートンが15階のベランダからサラの飼い猫を放り出す。その躊躇のなさが恐怖を盛り上げる。昨日は犬が犠牲(「リベンジ・フォー・ジョリー 愛犬のために撃て!」)になったが、今度は猫なのだ。

 これでもか、というほど次々につらい目に遭うヒロイン。もちろんラストは助かるのだけれど、その頃には観ている方もヒロインとともにぐったりと疲れているのだ。

 ただし、いくつか突っ込みどころがあってそれが残念。たとえば彼女が外出から帰り、恋人が血の海の中にいるのに、目が見えない哀しさからなかなかそれに気がつかないシーンだ。あんな血の海になっていたら部屋に入っただけで臭いがするだろう!ましてや盲目になって三年もたてば常人よりも臭いに敏感になっているはずだ。 

井沢元彦&呉善花「困った隣人 韓国の急所」(祥伝社新書)

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 本屋の平積みコーナーに並んでいたので、てっきり新刊だと思って購入してしまった。昨年春に出版された本で、(多分)もう読んだ本だ。確認はできるけれど(くやしいから)しない。だから昨年のセウォル号事件や朴槿恵大統領の再三の反日言動については書かれていない(当たり前だ)。

 それでも韓国という国の病理的な部分がとてもわかりやすく書かれていて妙に納得してしまった(二回目だったからかも知れない)。韓国の屈折した反日の論理が歴史的な背景とともに詳しく書かれていて、これは日本人はもちろん、韓国の若者も読んだらいいのに、と思う(多分読まないだろうけれど)。

 ところで韓国はいったいどこへ向かおうとしているのだろう(韓国側は日本がどこへ向かうか心配しているらしい。お互いにお節介なことだ)。

なんだかやたらと括弧が多くなった。

映画「リベンジ・フォー・ジョリー 愛犬のために撃て!」2012年アメリカ

Dsc_0067 友人と愛犬

 監督チャッド・ハーボルド、出演ブライアン・ペトソス、オスカー・アイザック、イライジャ・ウッド他。

 私は猫派だから、犬に対するここまで強い親愛感は解らない。

 ある仕事をしくじって(どんな仕事だったのか最後まで分からない)身の危険を感じた男がいとこに別れを告げに行く。彼と一晩飲み明かして自宅に帰った男は、何よりも愛していた飼い犬が殺されているのを発見する。

 ここからいとこと主人公との復讐の物語が始まる。

 破滅型の二人がはちゃめちゃな行動をするたびに人が死んでいく。常人には理解出来ない異常さだが、何となく二人の論理にこちらもシンクロしてしまう。それだけ彼らが出会う相手がまともではないと言うこともあるが。 

 そんな物語なのに何となく任侠映画を観ているような気がした。任侠映画の主人公が命をかけてこだわる仁義と、愛犬を殺した犯人を追い詰めようとする主人公とが奇妙に似ているように感じたのだ。彼らは自分の命よりも大事なものを持っている。ある意味でこの映画の主人公もストイックなのだ。

 私の好みのラストだけれど、不満がある人もいるかも知れない。

 イライジャ・ウッドがはじめのほうに少しだけ出演している。えっ、これだけ!という出方で、それもしゃれている。

2015年1月 5日 (月)

映画「地球へ2千万マイル」1957年アメリカ

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 監督ネイサン・ジュラン、出演ウィリアム・ホッパー、ジョーン・テイラー他。

 地球へ2千万マイルと言いながら宇宙のシーンは全くなくて、全て地球上、それもイタリアが舞台なのだ。シシリー島の沖に巨大なロケットが墜落する。駆けつけた漁師の舟から二人の漁民がロケットの中に入り、二人を救出するが、まもなくロケットは海底に沈んでしまう。じつはこのロケットはアメリカが密かに打ち上げた金星探査ロケットだった。

 金星探査の任務を終えて帰還する途中に隕石にあたって墜落したのだ。乗員は17名だったが、生き残ったのは二人、しかも一人は救出後に死亡してしまう(金星で死病に罹って死んだのだけれど、それがどんなものかは最後まで問われないし、伝染する気配もなかったのはさいわいであった。でもそれならどうして死病に罹患したのだろう?)。そしてこの船には金星の生物の胎児が乗せられていたが、それが入ったカプセルが行方不明になっていた。カプセルは海岸に漂着していたのだが、子供が密かにそれを回収していた。

 やがて知らずにカプセルから取り出された金星の生物は見る間に大きくなる。

 見た目は醜く恐ろしい顔をしているけれど、この金星の生物はあまり攻撃的ではない。それなのに人間はみんなでよってたかって攻撃する。この人間の身勝手さはいかにもアメリカ的だ。この映画は、アメリカの問題点を風刺しているのか、ただ単に大まじめに怪物退治の話を描いているのかよく分からない。

 レイ・ハリーハウゼンの怪物の造形は見ものだが、物語と役者の演技はほとんど学芸会。白黒。ダサいけど、でもこういうのは嫌いではない。こんなレベルだから日本の「ゴジラ」に驚嘆したのだろう。

映画「ハンガー・ゲーム2」2013年アメリカ

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 監督フランシス・ローレンス、出演ジェニファー・ローレンス、ジョシュ・ハッチャーソン他。

 近未来だか異世界だか知らないが、デストピア(暗黒な世界)が描かれている。世界は極端な階層化が起きていて下層階級の人々は搾取されているのだが、その不満を逸らすために「ハンガー・ゲーム」という残酷なお祭り騒ぎが毎年行われる。地区ごとの若者の中から男女一人ずつの若者が選ばれ、しつらえられたジャングルの中で殺し合いをして、一人だけ生き残るというゲームだ。その様子は全て放送される。

 というのが前作の「ハンガー・ゲーム」だったが、ここで生き残った少女(ジェニファー・ローレンス)が英雄視されて、統治者としては不都合な存在になっていく。不満の解消と言うより反乱のシンボルになりかねない。そこで新に「ハンガー・ゲーム」が催されることになり、彼女も参戦を余儀なくされる。

 前回以上に苛酷なゲームが始まったと思いきや、そのサバイバル・ゲームを切り抜けていくうちに事態は意外な様相へ転じていく。

 この映画はなんとそこで終わってしまう。147分もかけて話は半分も進まないのだ。このあと多分「ハンガー・ゲーム3」が作られてクライマックスへまっしぐら・・・になるのだろうけれど、こんなところで終わりにするなよ!

 中国や韓国は「ハンガー・ゲーム」の代わりに反日教育で国民の不満を逸らしていると言われる。だいたい不満ををそんなことで逸らさなければ成り立たない国家などと言うのはまともな国家ではないと言うことだけはこの映画を観ているとよく分かる。

2015年1月 4日 (日)

中西輝政「中国外交の大失敗」(PHP新書)

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 中国の対日外交は21世紀に入って中国経済の強大化以後大きく変わったのに、それに気がつかない自民党や民主党は中国へ誤ったメッセージを送り続け、中国は日本に対してますます嵩にかかる強硬な態度に終始してきた。

 妥協と譲歩は違う。互いの主張の間に落としどころがあるのが当たり前なのに、日本は常に自分の立ち位置より後退する譲歩を行い続けた。

 習近平という人は毛沢東によく似ているように見える。鄧小平の路線を大きく踏み換えて、時代錯誤的な極端な覇権主義を推し進めようとしている。世界は中国の巨大な経済に期待し、もたれかかろうとしていたけれど、どうやら中国という国は法に基づいた国際秩序とは相容れない世界観の国であることに気づき始めた。

 表題の「中国外交の大失敗」というのは、中国がそれを世界に気づかせてしまったことを指している。当初、世界は中国や韓国の唱える「安倍首相の右傾化」を懸念していたけれど、じつはそれが中国の覇権主義の隠れ蓑としてのプロパガンダだと気がついてしまった、ということだ。それに気づかせたのは、安倍首相の熱心な外交努力の成果であることは確かだ。安倍首相はいっさい中国に対して譲歩しなかった。先般ようやく行われた日中首脳会談の共同声明についての著者の分析は明快であり、その意味が分かると痛快ですらある。

 今、日本はもちろんアメリカも中国から一歩引いている。東南アジアもおおむね日本以上に中国から距離を置こうとしており、日本に与しつつある。中国にのめり込んでいるのはそれが読めない韓国と、アメリカ嫌いのドイツだけである。アメリカがメルケル首相の携帯電話の盗聴をしていたのはメルケル首相が東ドイツ出身で生理的にアメリカ嫌いであることをアメリカが危険視していたからだ、というこの本での指摘は面白いし、よく分かる。

 金の切れ目が縁の切れ目、中国経済の失速が顕在化すればますます世界は中国から距離を置こうとするだろう。すでにオーストラリアは中国から距離を置いてアメリカに回帰している。

 ただしこの本では第一ラウンドは中国の大失敗だったけれど、第二ラウンドはすでに始まっている、と指摘する。中国の巻き返しがどんなかたちになるか、あらゆる場合を想定して空想的(妄想的)平和主義ではなく、冷静に日本のあるべき態度をしっかりさせよう、という主張は日本国民が皆真摯に聞くべきだろう。社民党や田嶋陽子が言うように、日本が右傾化軍国化しているから中国が軍備を増強し、日本に強硬な態度を取る、などという本末転倒した認識はもう止めようではないか。

 さいわい安倍政権は今のところ長期政権になりそうだから日本の態度はしばらくは首尾一貫したものになるだろう。中国が嫌うのは首尾一貫した態度を取る日本だ。

ここからは本文と関係がない。

 安倍政権を頓挫させる者は、今回の選挙結果を読み違えてやりたい放題を始める自民党の族議員だろう。今回の選挙では自民党の勝利に乗じて彼らも生き残ってしまった。

 民主党の党首選は細野さんと岡田さんの戦いになりそうだけれど、単純に見て、民主党内の旧社会党左派を切り離すのかどうかが隠れたポイントのように思う。それが切り離せなければ民主党は引き続き何も決められず、決めたことを全員が実行していくこともできない。結束を固めることが先決だ、という岡田さんのグループが勝つと言うことは、民主党が泡沫党へ至る道だと思う。多分岡田さんが勝つのだろうけれど、それは残念なことなのだ。

 国民は時間がかかっても、自民党に対抗する平衡感覚もあり、現実的な思考のできる野党の出現を期待している。それが早めに可能かどうかは民主党の党首選に大きくかかっているのだけれど、その自覚が民主党の議員たちにあるのかどうか心許ない。

 今朝息子が広島に帰った。寂しいような、でもちょっとほっとしたような気がしている。健康に留意して元気にやって欲しい。また気ままな独り暮らしが始まる。

2015年1月 3日 (土)

いらんことを言う

 前にも書いたけれど、私はよく得意先の自宅に泊めてもらった。酔った勢いで「家に泊まらないか?」と言われると(多分愛想で言ったことも多いはずだ)間髪を入れず「はい」と言った。迷惑をかけることは解っているけれど、泊まるこちらもとても気を遣う。計算ずくではないけれど、そのことが後で営業として助けになることもあった。

 そんなとき、よくお客さんの奥さんから子供の教育相談を受けた。父が教師だったので、教育問題に少し知識はあったけれど、特にそれを話題にしたわけではないのに。そのときに必ず言ったのが「子供さんはご飯を美味しく食べますか?」「友達がいますか?」ということだ。

 精神と身体が健康ならご飯が美味しく食べられて友達もいるはずだ。それこそ親にとって何より有り難いことではないか、というのが私の言い方だ(えらそうに!)。ほとんどそれで奥さんは仕合わせそうな顔になる。

 息子が帰省してくれている。明日、住んでいる広島へ帰るのだけれど、昨日も今日も晩は友達と飲み会に行っている。今日夕方出かけるとき、「毎日ご苦労さん」とつい言ってしまった。「二日だけだろう」と息子に言われた。その通りだ。私はいらんことを言う。私が息子だったらもっときついことを言ったかも知れない。

 息子は健康で友達がいる。

Dsc_0107 学生時代に一緒に蘇州へ行ったときの息子

Img203 私の心の中のイメージの息子

外山滋比古「老いの整理学」(扶桑社新書)

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 この本を書いた著者は九十歳。ベストセラー「思考の整理学」の著者であり、お茶の水女子大の名誉教授である。

 思いのままに短文が連ねてあり、とにかく読みやすい。自由闊達に書いているから書いていることにしばしば矛盾があるけれど、著者はもう仙人みたいになっているからそれで良いのだ。

 なるほど、と思うこと、当たり前だ、と思うこと、だから何なんだ、と思うことが書かれているからところどころ突っ込みが入れたくなるけれど、相手は仙人だから気にしないのだ。

 何より九十歳で健康であるらしいことが著者の手柄である。然しこれが自分の手柄であるように著者は云うけれど、こればかりは運不運のほうが大きいと思う。たまたま健康だから、健康が自慢出来るのだ。

 うらやましい(多分私は九十歳でこんなに身体と知能が健康でいられそうもないから)。

福田定良「雑談のなかの哲学」(西田書店)

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 先月から少しずつ読んできた本をようやく読み終えた。若い時に買って読んだ本だけどほとんど覚えていない。

 討論や会議の目的は、ある合意を目指すものだ。そういう前提を取り払い、そのような一致を目指さない、自分があるテーマについてどう感じたかを語り合う対話こそ「仕合わせ」になるための手がかりだ、ということが繰り返し延々と語られる。

 人が意見を主張し合うとき、自分のほうが正しい、という立場に立つことが普通だ。そこには多少勝ち負けの意識がある。そのような話し合いは話し合いとして、誰かが感じたことを表明し、それを他の人は否定しないで、そこから、でも自分はこう思う、というやりとりをすることで、自分とは何者であるのか、そして他人はどう思っているのかを知ることこそ表題の「雑談のなかの哲学」の意味である。

 自分と他人とは違う、ということをあるとき突然解ったことがある。当たり前のことだけれど、当たり前と思っていることの本当の意味、もっと深い意味が解ったのだ。それがきっかけで、解る、ということと分かる、ということの違いも解った。そして解ることのレベルには無限の階梯があることもぼんやりと解った。

 そのことが解ってから、多少他の人との会話にゆとりができて人の話も少しは聞けるようになった気がする。

 少しくどいけれど、そのことのヒントみたいなことが書いてある本である。ただし1977年に出版された本なので、今書店にあるかどうか知らない(多分ないと思う)。

2015年1月 2日 (金)

映画「ゼロ・グラビティ」2013年・アメリカ

 監督アルフォンソ・キュアロン、出演サンドラ・ブロック、ジョージ・クルーニー、(声)エド・ハリス

 期待通りの映画だった。無駄なところが全くなく、91分という短かさなのに盛りだくさんで、宇宙空間に放り出されたヒロインに、次から次に絶体絶命の危機が訪れる。宇宙空間は奇跡など起きない冷徹な世界なのだ。宇宙空間の無音の状態が実感として感じられる映画。見ていない人はぜひ鑑賞をお勧めする。ただし二度三度観たくなる映画ではない。

 ラスト近くに幻想的(というとちょっと違うけれど)なシーンがあって、それが結局彼女を救うことになるのだけれど、こういうシーン、好きだ。余韻が残る。

映画「ローン・レンジャー」2013年アメリカ
 監督ゴア・ヴァービンスキー、出演ジョニー・デップ、アーミー・ハマー、トム・ウィルキンソン、ヘレナ・ボナム・カーター他。

 こちらは150分と長い映画。ふざけているのかシリアスなのか微妙な展開が続いていくけれど、それが全て痛快なラストにつながっていく。

 ジョニー・デップがインディアンのトント役だが、化粧が濃すぎて最後までジョニーデップの本来の顔を見ることがない。ところで見世物小屋の老インディアンはトントのなれの果てらしいのだが、これもジョニー・デップだったのだろうか、しわだらけで分からない。

 子供の頃テレビドラマの「ローン・レンジャー」を見ていた身としてはこんなローンレンジャーを見るのは複雑な気持ちであった。「ハイヨー・シルバー」のかけ声と、あの気分の高揚する行進曲のような音楽とがこの映画みたいな使われ方をすると単純に楽しめばいいのだろうけれど、ちょっとね。

 たっぷり金をかけてこういう映画を作るのはアメリカだけだろうなあ。ところでローンレンジャーというのはたった一人のレンジャーなのだった。考えてみれば当たり前のことなのにこの映画で初めて知った。ずっとそういう名前なのだと思っていた。

 脇役のヘレナ・ボナム・カーター、大好き。どんな役でもこなすし、似合う。普通の人を演じることはあまりないけれど・・・。「ハリー・ポッター」にも出ていたなあ。

 息子は夕方飲み会に出かけた。こちらは独りでちびちびやっている。箱根駅伝が終わってしまえばテレビは騒がしい番組ばかりで見る気がしない。いくら正月でも度が過ぎないか。

おめでとうございます

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 新年おめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。

 31日の夕方から飲み続けている。数日で体重が3キロ近く増えてしまった。でも、相手(息子)のある酒は飲み続けていても好い気持ちに酔った状態が持続していて、いくらでも飲める。

 

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