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2015年2月

2015年2月28日 (土)

映画「エージェント・スティール」2013年カナダ・アメリカ

 監督ジョナサン・ソボル、出演カート・ラッセル、マット・ディロン、テレンス・スタンプ他。

 カート・ラッセルを初めて見たのは「ニューヨーク1997」だ。それ以来のファンで、出演作の半分くらいは見たのではないか。あまり話題にならないけれど「ゴーストハンターズ」という映画が特に気にいっている。彼が出演していると、それだけでわくわくするので、映画の出来は見えなくなる。とはいえこの「エージェント・スティール」は面白い。

 腹違いの弟(マット・ディロン)に騙されて刑務所に服役することになった美術品泥棒のクランチ・カルホーンは、五年半の刑期を終えて出所し、足を洗ってスタントのオートバイライダーをしている。そこへ古い仲間から誘いの声がかかる。仲間を訪ねると自分を裏切った弟がそこにいる。いろいろの葛藤があるが、とにかく仕事を請け負うことにする。

 昔の仲間たちで行おうとするのは世界で二番目に印刷されたという秘本の「グーテンベルグ聖書」を盗むことだ。じつはこの本は収められていた美術館から偽物とすり替えてすでに盗み出されていて、それがたまたま輸送中にカナダの官憲の保管庫にそれと知らずに押収されていた。

 困難な仕事をなんとかやり遂げて、依頼主にその本を届ける段になったところで、弟があるアイデアを提案する。依頼の報酬よりもはるかに金になるというその話に疑心暗鬼ながらしぶしぶクランチは同意する。

 着々とそのアイデアに従って準備を進める面々だが、そのためにそれぞれが手持ちの金を出し合わないと経費がたりなくなる。そして準備万端となったころ・・・。

 彼等窃盗団を追う間抜けなFBIに無理矢理アドバイザーとして刑務所から連れ出されている、もと窃盗犯の男(テレンス・スタンプ)がじっとかれらを見つめている。あの「ワイルドバンチ」のロバート・ライアンみたいだ。

 ラストで、このテレンス・スタンプが刑期を終えてむっつりした顔で刑務所を出ながら、最後にニヤッとするところが最高にかっこいい。往年の名優の面目躍如だ。

 こういう映画を観ると、本当に映画って面白い、と思える。

二度と起こらないようにする

 何か問題が起きたときに、当事者が「二度と起こさないようにする」というのはそれこそ問題だ。その問題を起こそうとして問題は起きたのか?もしそうなら過失でなくて故意であり犯罪だ。

 だから「二度と起こらないようにする」と当事者は言って謝罪する。東京電力の社長が、漁業組合の組合長に対して汚染水の漏洩についてそう謝罪していた。しばしばこの言葉を聞く。しかし、起きないと思っていなかったことが起きてしまったのなら、起きないようにしようとしてもまた起きるだろう。当事者は「二度と起こらないようにする」とふたたびみたび言うだろう。

 できない約束を平然と言うことに、なんの恥ずかしさも感じていないその姿に怒りを覚える。

 そもそも問題はどんな手を尽くしても起きるときは起きる。絶対に問題が起きないようにする、などというのは人間には不可能である。問題は起きるものだ、ということを承知して、その回数をいかに減らすのか、そして起きたときに、どう被害を最小にすべく迅速に対処するか、それができることのすべてである。だから問題が起きたときどうするかをとことん考え抜くことが結局問題を減らすことにつながるし、被害を最小にすることにつながる。

 原発事故の根底的な問題は、問題は起きるものである、ということが見失われていたことによる。これが安全神話と言われているものだけれど、安全神話の意味がほとんどの人には見えていないのではないか。

 万全を尽くしても問題は起こりえる、というあたりまえのことを決して認めようとしないマスコミ主導の世論が、原発の安全対策を論じることを許さず、ために原発側までが原発は絶対安全というお題目を唱えざるをえず、自分のついた嘘をいつしか自分も信じ込んでしまった、という笑えない愚かな経緯で安全対策を怠った、というのが今回の原発事故の実態だったとわたしは思っている。

 ただし、福島原発の電源喪失の危険性は、過去東京電力と学者たちの会合で論じられていたことが明確に記録されている。ではそれを問題なしとしたのはだれなのか、どういう根拠に基づいて対策を不要と決めたのか、それは責任問題として追及するべきであると思っている。危険性の指摘を否定するに足る論理的根拠なしに否定した人物がいるのなら、今回の原発事故という結果について断罪を受けるのは当然だろうと思う。東京電力にもいるし、また東京電力の意向に沿い、迎合するような学者がいたのだろうと思う。関係者はみな分かっているのだろう。 

 マスコミは、なによりもその責任者を暴くことこそ、もっとも今後に利するように思うがどうだろうか。それこそそのような無責任な責任者が安易に安全神話を語れなくするために寄与するからだ。

 これは戦争についての論議も同様だろう。戦争の危険は常に存在する。ではどうするのか。

2015年2月27日 (金)

巨大プリント

 撮った写真を大きくプリントしたい気持ちはだれにでもあるけれど、普通のプリンターではA3ノビくらいまでが限度だ。案内があったので、少し前に「ズバリ巨大プリントPLUS」というソフトをネットで購入した。思ったより安かった。

 玄関の壁にバリ島で撮った石像の写真をA4の四倍にして貼ってある。魔除けのつもりだ。もともと魔除けの石像のはずだからそれで良いのだ。最大で横14倍、縦20倍まで拡大プリント出来る(はず)。もっとできるのかも知れないけれど、マニュアルを読んでいないので知らない。縦横四、五倍が普通の家の壁面で貼れる限度だろう。

1409212_45 玄関の写真

 何となく拡大プリントがしたくなって、縦横三倍、つまりA4で9枚に拡大プリントをして遊んだ。プリントアウトしたら、のりしろがあるのでそれを目安に切り貼りする。きちんとマークがあるのに不器用なために微妙にずれたりして、多少不細工な仕上がりとなったが、我慢出来る範囲だ(自分には甘いのだ)。それを合計四枚作成して壁面に貼り付けた。うん、はなれて見ればまあまあだ。

下の四枚を拡大した。

Dsc_0179 木曽駒ヶ岳にて

251 下北半島・仏ヶ浦

Dsc_0038 北海道・積丹半島

1409212_326 バリ島

 やり方を覚えたので次にやるときはもう少しきれいに仕上がると思う。紙は写真用の光沢紙ではなく、スーパーファイン用紙くらいが丁度良い。光沢がない方が多分良いと思う。

 このソフトは遊べる。ただしプリントしたものを貼る壁面がたちまちなくなる。空いている壁が欲しい。まあ貼り替えれば良いのだけれど。

リズム

140925_172 踊る人

 ダンスが体育教育の正課になると言う時代にその教育を受けるという立場にないことを喜んでいる。ダンス教育を否定するものではないが、小学校でフォークダンスをはじめ、学生時代のダンスパーティなど(これは寮で、ある役割を受け持っていたので寮生の懇望を請けて主催することがたびたびあったから参加を余儀なくされた)で、ダンスというものに縁がなかったわけではないけれど、ついにダンスそのものが楽しかったという記憶がない。

 音楽にあまり縁がない育ち方だったので、音痴であった。しかし幸い自分の音が外れていることだけは分かったので、次第に修正することができた。しかし如何ともしがたいのはリズム感のなさである。これはあまり改善されなかった。リズム感こそダンスの基本であろう。だからわたしがダンスが苦手なのはここに原因があり、偏見ではない。

 しかし問題はリズム感ではなくリズムである。

 十日ほど不在でいると、自宅に帰っても自分のリズムがなかなか取り戻せない。在宅しているときとそうでないときとで、やることが全くといっていいほど違う。そのために寝付きまでおかしくなり、昼間うたた寝してしまうこともしばしばある。やりたいことの半分もできないことが気持ちに焦りを感じさせる。時間が無駄になるのが何より嫌いなのだ。

 昔と違って、切り替えがスムーズに行かないのは老化も多少影響があるのだろうか。歳をとると変化が苦手になるのかも知れない。つまり疲れるのだ。疲れることが平気だったのが、歳とともにしんどくなったということだ。

 だからといって変化がない単調な生活が続くことが望みかと言えば、やはり生きているからには変化を求めたい。そこに生きている実感が感じられるからだ。旅は旅そのものが楽しくもあり、離れた日常が慕わしくもあり、ということを発見することができる。

 しかし自分の意思とは違う切り替えは(わたしの場合は老母の介護)少し長い出張みたいなもので、変化を楽しんだり日常を懐かしむようなものではない。

 リズムをなかなか取り戻せない、つまりこれもリズム感のなさの故か。

140920_193 踊る神様

映画「オンリー・ゴッド」2013年デンマーク・フランス

 監督ニコラス・ウィンディング・レフン、出演ライアン・ゴズリング、クリスティン・スコット・トーマス、ヴィダヤ・パレンスリング他。

 第66回のカンヌ映画祭でパルムドール賞候補となった映画。絶賛する人と酷評する人が半ばしたが、それはこの映画の過剰な暴力描写をめぐってのもの。

 デンマークとフランスの合作映画だが、舞台はすべてタイのバンコック。映像は赤を基調にした前衛的なもので、台詞はきわめて少なく、観ていればストーリーを追うことに問題ないが、説明的な部分は徹底的にそぎ落としているので、普通の映画を観るつもりでいると戸惑う。

 バンコクの歓楽街の、闇の世界で生きている兄弟の兄が殺される。16歳の娼婦の少女を惨殺した復讐として父親に殺されたのだ。兄弟の母親(クリスティン・スコット・トーマス)がバンコクにやってくる。そして弟のジュリアン(ライアン・ゴズリング)に兄の死の報復を命ずる。ジュリアンは掟に従ってその父親を殺しに行くが、その男は片腕を切り落とされた姿で見つかり命乞いをする。

 結局ジュリアンは父親を殺さない。そして兄が殺されたとき、他にも人がいたことが分かる。母親は自ら息子の報復に動き出す。

 母親に依頼された殺人者が父親を殺す。そしてその父親に復讐を強制させた警察のチャン(ヴィタヤ・パンスリング)にも殺人者たちの刃が向かう。

 チャンは凄腕だった。そしてジュリアンとチャンの直接対決があり・・・。

 エディプス・コンプレックスのもととなったギリシャ神話のオイディプス王の物語を思わせる背景が母子のあいだにあることがうかがえる。オイディプスには兄弟はないが。

 エンターテインメント映画のつもりで観るとかなり違和感があるので知っておいた方が好い。前衛的な手法に多少とも理解があり、過激な暴力描写が苦手ではなければこんな映画も面白いかも知れない。

 ライアン・ゴズリングは無表情が特徴な俳優だが、この映画にはうってつけ。何を考えているか分からない表情が、いったい何を考えているのだろう、と相手に様々な妄想を抱かせる、という不思議な役柄を生かしている。たしかにジュリアンは登場人物の中では比較的にまともで異常者ではないように見えるが、彼に見えている世界はまともではない。

 ラスト近くに母親の口からジュリアンの原罪が語られる。

2015年2月26日 (木)

いい女になった

 吉川英治の「宮本武蔵」は、本位田又八という人物を造形したことが物語を膨らませた。又八は武蔵になれない武蔵であり、凡人である私である(だからあまり好きではない)。誰かの受け売りだけれど。

 ところで「宮本武蔵」を読んで、気になって忘れられない登場人物が朱実という女性だ。映画化されたときに倍賞美津子が演じたことがあったような気がするが、うろ覚えである。とにかく気になる。

 市川海老蔵が主演したNHKの大河ドラマ「ムサシ」で朱実を演じたのが内山理名。最初はちょっと田舎くさく見えて、どうしてこの人が朱実なんだろう、と思ったのだけれど、幼さから、女に変貌していくところに色気が感じられ、とても気になる女優として記憶に残った。

 池波正太郎の大ファンとして中井貴一主演のNHKBSの「雲霧仁左衛門」を見ないわけにはいかない。昨年第一シーズンが放映され、いま第二シーズンが放映中である。不在だったので録画しておいたものを見ている。今回は全八回で、これで完結するはずだ。凄絶なラストはどう描かれるのだろう。

 ここで内山理名は七化けのお千代を演じている。映画では岩下志麻が演じた(雲霧仁左衛門は仲代達矢)。清純な乙女にも妖艶な年増にも化けられるというので七化けのお千代と呼ばれる女盗賊である。これを内山理名は見事に演じ、その上、叶わぬと知りながら雲霧仁左衛門をひたすら慕う女心の切なさも違和感がなく、すばらしい。いい女になった。妖艶さばかりだった岩下志麻のお千代より好い。

 雲霧仁左衛門はある大望のために自らを死地においている。お千代の心を知りながら、彼女に応えることを自らに禁じている。そういう男だからもてるのだなあ。物欲しげな男はやはりだめだ。

 繰り返すけれど内山理名、いい女になった。全く似ていないけれど、むかし太地喜和子感じた魅力を感じた。

2015年2月25日 (水)

今小町

「今小町」は阿波池田の造り酒屋、中和商店の銘酒だ。

徳島に住む先輩が、そこの絞りたての生酒を送ってくれた。感激的に嬉しい。

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嬉しいので特にわたしのお気に入りの酒器をはべらせてみた。

いちばん左は燗酒を飲むときの九谷焼の猪口。次がぐい呑み用、ヒレ酒などはこれで飲む。そのとなりが韓国・ソウルで買ってきた青磁の盃。これが一番使用頻度が高い。本当はもっと好い色なのだが。お酒をおいた次が、会社を退社するときに金沢の諸君が記念に買ってくれたやはり九谷焼の猪口。これは特にめでたいときなどに使用。右端が中国の敦煌で買った夜光杯。石を薄く削り出したもので貴重品。二つある。夜光杯はワインを飲む足つきが普通だが、あえて日本酒用の猪口のかたちのものを買ってきた。もちろんいろいろ貰っているので他にもあるけれど代表だけならべた。

さあどれで飲もうかな。

 

神々廻楽市(ししばらいち)「鴉龍天晴(がりょうてんせい)」(早川書房)

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 第二回ハヤカワSFコンテストの最終候補作だという。これがSFか?関ヶ原の戦いの勝敗を決したのは西軍の小早川秀秋が東軍の寝返りだったと言われる。

 この物語ではその小早川秀秋が寝返らず、しかも西軍にも与せず、東西が和睦して日本の国が二つの国となった世界の、幕末が舞台である。

 意味が分からずこんがらがってしまうが、西は妖(あやかし)重視の国、東は科学重視の国というところだが、その妖も科学も私たちの思うものとはだいぶ違う。つまりファンタジー的な異世界なのだ。

 この二つの国がペリー来航で開国を余儀なくされていく中で危うい均衡が崩れ出す。どちらが主導権を持つのか、もちろん東は開国、西は攘夷を建前とするのは史実のとおりだが・・・。

 文章は戯作調で過剰な装飾にあふれている。濃度が高くてセンテンスが長いから読むのに時間がかかる。よくも現代でこんな文章が書けるものだと感心する。これもたいした才能である。

 昔、親父のわずかな蔵書の中の「新撰組」という本を読んだことがある。ぶ厚い上に旧仮名遣いで戯作調、しかも新撰組などほとんど登場しない不思議な本だった。作者は残念ながら覚えていない。そのときを思い出した。

 この本を面白いと思うかどうかは人により全く違うだろう。

 ところでなんたる作者名だ。どこまでが姓だか分からない。こういうわけのわからない名前はどうもいらっとする。題名も「画竜点睛」をもじったもので、内容を読めばその意味が分からないことはないが、おもしろいと思えない。表紙は、内容がアニメみたいな装丁だけれど、たしかにこれをアニメ化したら分かりやすくて楽しめるだろう。映像化しやすいストーリーだし、映像化して貰わないと、文章だけではこういうものの好きな人以外はついて行けない人が多い気がする。

 しばらくぶりに名古屋の自宅に帰宅した。今日は午後から雑用の処理と買い出し。冷蔵庫の中はほぼ空だ。

 いささか疲れたのでちょっとぼんやりする。明日からは録りためたドラマや映画を観るつもり。

 留守中に四国の兄貴分の人から徳島の新酒が送られてきていたがもちろん受け取ることができなかった。今日再配達されるので、楽しみだ。

2015年2月24日 (火)

都甲幸治「狂喜の読み屋」(共和国)

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 出版社はeditorial republica 共和国、である。初めて出会った。

 本が好きだから書評も好きである。しかし著者は少し毛色の変わった本の訳者が本業であるからほとんど取り上げられている本にはなじみがないし、読んだことのある本は二、三冊だけだった。そして探してでも読みたくなるような本も少ししかなかった。しかしこうして紹介されなければ全く知ることのない本ばかりである。その本について存在を知ることが出来ただけでも多としなければならない。

 昔濫読していたころ(いまでもそうだけれど)アメリカの小説も読んだ。この本ではサリンジャーについて特に詳しく言及があるが、「ライ麦畑でつかまえて」だけは読み直しても好いな、と思った。

 北米、中南米の作家や作品が特に数多く取り上げられている。この辺の小説の好きな人ならこの書評本は楽しめるだろう。私はこの書評のレベルの読み方にはまだ至っていないので、ついて行けないところもところどころあったけれど、たまたま最近読んだ小島信夫の文章が引用されていて、そこを手がかりにして一気に食らいつくことができた。本は読んでおくものである。

 それにしても読書家のレベルにも上には上があって、その世界は奥深く、自分が余りにも低レベルであることを思い知らされたことであった。死ぬまでに少しはレベルアップ出来るのだろうか。時間は限られている。

 せめてこうした駄文を書くことで、ザル頭ですくい取ったわずかの本のエキスを記録にとどめたい。

下村敦史「闇に香る嘘」(講談社)

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 第60回江戸川乱歩賞受賞作。

 審査員たちがほとんどが絶賛するというのはこの賞としてはめずらしい。それだけすばらしいと言うことだけれど、そのミステリーのもっとも大事な謎をわたしは読み始めてしばらくして直感で気づいてしまった。

 これは自慢ではなく、そういうこともある、ということだろう。だからといってこの物語を読み進めるのに興味をそぐことは少しもなかった。同時に自分の直感にも自信はあった。

 全盲で初老の男が主人公というのはきわめて難しい設定だろう。しかも一人称である。そしてわれわれ読者が知ることが出来るのはただ彼が外界から受け取ったものに限られる。盲人が登場すると、つい自分が盲人である前提で感情移入し、ときに他の登場人物まで盲人であるような錯覚を起こしたりして混乱するのはわたしの読み方が雑だからだろうか。

 とにかくとても面白い。感激する。盲人であることが前提での破綻はあまり感じられず(しばしば眼開きの情報が混じってしまうものだ)、すべての伏線に矛盾がない上にそれが深い意味を持たされている。突っ込みどころなしに読めるミステリーだ。審査員が絶賛するのは当然だろう。

 ぜひこの謎にチャレンジして欲しい。最後にあっと驚ける人は幸せである。テーマになっている中国残留孤児、そして満州開拓団の人たちの悲劇について、余りにも日本人は知らなすぎることを思い知らされながら、その上で、その思いが加わるから、面白いし感激する。 

 本の装丁が黒を基調としたもので、なんだかミステリーと言うよりもホラーのように受け取られてしまうのではないか。題名もいかにもそんな感じだし。だから内容のおもしろさのわりに手に取る人が少ないのではないか、などとちょっと心配する。黒は盲人の見ている世界という意味で、ホラーの要素は全くありません、読んで損のない上等のミステリーです。

2015年2月23日 (月)

鬼女紅葉(上水内郡)

 これも信濃の昔話集から

 むかしむかし、鬼無里(きなさ)の村に呉葉という女の人が暮らしておった。呉葉はかつて都で位の高いお方に仕えておったそうじゃが、一体どうしたことからか主人をうらぎったという罪でな、この里に流されてきたのじゃった。
 鬼無里というところは、人里離れた山奥のそれはそれは寂しい里でのう、女がひとり暮らすには何ともわびしいところなんじゃ。呉葉は毎日山を見ながらひっそりと暮らしておったが、やがてどうにも寂しくてたまらんようになったのじゃのう、ある日のこと、思い切って家を出ると、谷川に沿ってどんどん下っていったそうな。
 こうして三日三晩呉葉は歩きつづけ、四日目のこと、ようやく一人の猟師と出会うた。猟師は上品で美しい呉葉を見てたいそう驚き、さっそく里長のところへ連れて行ったんじゃよ。事情を聞いた里長も、呉葉の身の上を気の毒がってな。村に一軒の家を建ててそこに呉葉を住まわせてやったと。それに村人たちもみな、それはそれは親切な人ばかり、美しい呉葉をお内裏さまと呼んで、それは大切にしたということじゃ。
 こうして呉葉は、だんだん里の生活にもなじんでいった。じゃがいくら落ち着いたとはいえ、ことあるごとに思い出すのはやはり都のことばかり、思い余った呉葉は、日ごとにつのる都への思いをたち切ろうと、名前を「紅葉」と改めてな、里の人間になりきろうとしたそうじゃ。ところがのう、いくら努力したところで、都への思いは増す一方。毎日毎日すさんだ暗い気持ちで月日を過ごしておると、人間の心も変わってしまうものじゃろうか。いつしか紅葉は里から荒倉山中へと住まいを移しかえてな、そこでとんでもないことをやらかすようになったんじゃよ。こうなればどんな手を使っても都にもどろうと決心した紅葉は、都へ上る費用を手に入れるため、夜ごと里に出ては強盗を働くようになった。さすがに恩を受けた人々には危害を加えんかったが、金のありそうな旅人や商人を見つけると、その美ぼうで相手を油断させ、すきを狙って殺しては金品を奪っておったという。
 そんなことが続くうち、いつしか紅葉は「鬼女紅葉」と呼ばれてのう、人々からたいそう恐れられるようになった。それにこんなことが噂にならぬわけがないわ。人の口から口へと、紅葉の所業はどんどん広まっていってな、とうとう都にまで届いたんじゃよ。
 こうして、鬼女紅葉と呼ばれたあわれな呉葉も、ついには死ぬときが来た。都から噂を聞いてやってきた平維茂(たいらこれもち)という武将の手にかかってのう、あえない最期をとげたということじゃ。
 いま、柵(しがらみ)村にはこの鬼女の墓が、ひっそりと残っているんじゃそうな。

(私感)
 
 有名な話らしいが、こんな悲しい昔話は知らなかった。
 
  呉葉が鬼無里に流されたのは、たぶん主人になびかなかったからであろう。

 都へのつのる思いとは、呉葉の後悔であろうか。主人の意にそうか、そわずに罰を受けて流されるか、それ以外の道がないことを怨み抜いたのだろうか。

 ついに夜叉であり鬼女である紅葉に成り果てる彼女は哀れだ。

 落語に「鰍沢(かじかざわ)」という話がある。行き暮れた雪の山の中の小屋で、思いもかけぬ都風の年増女に出会った旅人が経験する、恐怖の一夜の物語だ。この女もほとんど「鬼女紅葉」である。三遊亭圓生でこれを聞いたら雪深い山のその小屋に、その女と囲炉裏を挟んで対面している心地がする。この女も夜叉となっているが、同時に哀れでもある。それを思い出した。

十三塚(須坂)

 信濃の昔話。ちょっと心に残ったのでそのまま転記する。

 ずっと昔、須坂に一人の若者がおった。毎日朝早くから田畑に出てはこつこつ働いておったものの、暮らしはいっこう楽にはならなんだと。 あるとき、若者は知り合いのつてで都に上った。そうして公家のお屋敷で働くことになったそうな。都というところは、田舎とはまるっきり違う。何を取ってもめずらしいもんばっかりなんだと。それでも若者は相変わらずまじめに働くもんで、仲間からも好かれてな、半年もたつ頃には、主人からも一目置かれるようになったそうな。
 ところでこのお屋敷には、小夜姫という主人の娘がおった。若者は一目でこの姫を好きになったちゅうが、姫の方もまじめで正直な若者に次第に心ひかれるようになってな、そのうちにとうとう二人は固く末を誓い合う仲になったんだとさ。
 ところがこのことを知った主人は、かんかんになった。大事なひとり娘を使用人なんぞにやるわけにはいかねえとな、それはそれは怒ってなあ、とうとう若者はひまを出されてしもうたんじゃよ。一方姫はそれ以来、毎日泣いて暮らすようになった。一人で部屋にとじこもっては飯も食わねえ、ただ若者を思って泣いてばかりいたそうだ。
 そんなある日のこと、思い余った姫はとうとう家を出たそうな。若者のいる須坂に向けてなあ。そんとき、十三人のお供が姫に従ったってことだが、それから何日も何日も歩きつづけた末、やっとのことで姫は須坂にたどり着き若者と再会したってことだ。
 二人の気持ちを知った若者のおっかさんは、どうにかして二人をいっしょにさせてやりたいと思うたもんの、しょせん身分の違うもの同志だ、いっしょになったところで幸せにはなれんと思うたんじゃろ、結局は許してはやらず、可哀想にのう、姫はいまさら家にも戻れねえ、この里のはずれでひっそりと暮らすようになったんだそうな。
 けれど、毎日つらい思いで日を過ごすうち、やがて姫は病気になってしまったと。そうしてお供の者たちの看病もむなしく、とうとう死んでしまったってことだ。姫が死んだとなると、従ってきた供の者たちも互いにのどを突き合って果ててしまった。
 それから若者がどうなったか、だあれも知る者はいないんだと。ただ、あわれに思った村の人々が、その霊をねんごろに弔ってやったそうな。姫の霊は相森神社にまつられた。人々は若者といっしょになれんかった姫の気持ちを思いやってか、婚礼のときには必ず、ここをさけて通ったという。また十三人のお供が葬られた墓は「十三塚」と呼ばれてな、いまでも浄念寺の境内にひっそりと残されているんだそうな。

(私感)
 十三人の供の者は、姫が連れ出したのではないし、もちろん自発的でもないであろう。父親が娘のことを思ってつけたに違いない。
  それでも姫を家に入れない若者の母親とは何者か。
 そのときいったい若者はどうしてしまったのか。

 不幸になるかも知れない、と危惧して、結局すべてを不幸にしてしまう、母親の息子を思いやる心とは何か。

 姫が嫁になれば母親と姫とはことごとく育ちの違いから行き違いが生ずるだろうと母親は危惧したのかも知れない。それならば自分のエゴだ。母親の中に鬼が住んでいる。

月村了衛「土漠の花」(幻冬舎)

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 シリア、シラク、リビア、ウクライナをはじめ、人の命が鴻毛のように軽いところが世界各地に存在する。理不尽な、暴力的な死が突然人を襲う。

 ソマリアは海賊が横行する不法地帯だ。日本の自衛隊も日本船などの航行を護るために多国籍軍の一員として駐留している。

 この小説の舞台はソマリアと隣国ジプチの国境付近。そこで遭難したヘリコプターを救援に向かった自衛隊員たちが遭遇した事件から壮絶な生存のための戦いが繰り広げられる。

 人はどんなことをしてでも生き延びなければならない。そしてときに人を生かすために、すすんで自分を犠牲にしなければならない。平時には想像もつかない限界状況の中で、自分の役割を理屈ではなく直感で受け止めていく隊員たち。互いのあいだにあったいろいろなわだかまりや誤解は霧消していく。

 自衛官が銃を撃ち、敵を殺傷するという事態がいままで起きていないことこそ奇跡であり、いつでも起こりえることだと言うことを知る。事態に直面すれば議論の暇などなしに対処せざるを得ないことは自明のことである。

 だから自衛官を海外派遣することは是であるか非であるか、という議論も含め、観念の世界ではなく、現実の問題として考えなければならないが、それはそれとして、物語は熱い。自己犠牲というのは人間の持っているもっとも崇高なものなのだが、それは人間におのずから備わっているものなのか?本屋大賞受賞作。

2015年2月22日 (日)

相場英雄「リバース」(双葉社)

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 オムニバス形式の警察小説だが、全体で一つの大きな物語になっている。

 巨大なプロジェクトには巨大な利権が伴う。東日本大震災、特に福島第一原発の避難地域の復興という、巨額の金が動く世界にも闇にうごめく大小の頭の黒いネズミたちがいる。

 西澤刑事が万引きの老女を取り調べる。そこから彼女が震災復興を騙った詐欺の被害者であることが判明する。それをきっかけに、西澤刑事がこの詐欺グループを摘発するというのが第一話。そして逮捕された男の一言から巨悪が闇にひしめいていることがほのめかされる。

 西澤は警視庁の知能犯係のグループに属していたが、そのグループに重大なミスがあり、グループの何人かが責任を取らされて飛ばされた。西澤は目白署に飛ばされていた。そのもと知能犯係の面々が横のネットワークを駆使して一つ一つの事件をあきらかにし、解決していく。

 最後に官庁と電力会社、外資系企業が関係する巨大な贈収賄を摘発して物語は終わるが、この本の中に書かれている被災地の実態と原発避難民の姿は、この事件を起こした電力会社や官庁の責任を強く感じさせる。

 もうすぐ四年になる原発事故だが、その記憶を薄れさせるにはその処理はお粗末で、遅々として進んでいないことをあらためて思い出させ、憤りを感じさせる。

デモと訴訟の増加

 ネットニュースで見ていたら、韓国で労働争議の訴訟が急増しているという。本来労使のあいだで交渉して妥協したら良いものまでことごとく訴訟に持ち込まれてしまうようになったからだそうだ。これは司法側の判断が変更になり、いままで受理しないような案件を受理するようになったからだ。歯止めがきかなくなってしまったのだ。韓国の司法はいろいろなかたちで自分のテリトリーを拡大し、民意を反映させて法を解釈するという過剰サービスを始めているように見える。韓国の政界や学会、司法界などに北朝鮮の密かな援助を受けたものが多数存在する、というのはよく言われる陰謀説だ。それがどこまで本当か分からない(分からないから陰謀なのだが)けれど、結果的に韓国という国家にどうもマイナスに働いているように見えることが多いのは、北朝鮮の深慮遠謀が功を奏しているのかも知れない。韓国衰退の原因になりかねない気配が感じられる。

 韓国のデモがやはり増えているという。そのための政府の予算が馬鹿にならない金額になっている、というから日本のデモとは規模もその数も段違いで多いと言うことだろう。日本でも過去、安保反対デモや成田空港反対デモなど先鋭なデモがあったけれど、いまは反原発デモにしても静謐なものである。

 労使争議やデモの増大も格差拡大などがその原因で、それだけ韓国の社会不安が大きくなっていると言うことだろう。

 韓国の賃金格差がアメリカに次いでOECD諸国の中で上位だ、とニュースで報じていた。日本は中位以下で巷間言われるほどの格差ではないらしいが、その差が前年に対してどうか(著しく悪化していないかどうか)は注意してみておく必要があるのだろう。それよりバブルの夢はとうにはじけたけれど、そのときに生じた甘えの精神構造をそのまま残している中高年(若者はバブル時代を知らない)がいることは日本にとっての不安要因だ。

 韓国は中国とアメリカの板挟みになる道をみずから選んだ。その隘路をどうやってたどろうというのか。ミサイル防衛システムTHAAD受け入れ問題にしても日韓スワップ協定にしても、難しい選択を迫られている(すでにスワップは延長しないことが決定した)。そのもたらす結果についてひとごとのように高みの見物を決め込みたくなるのは、わたしも韓国の反日言動に対して(逆の意味で)強く影響を受けている一人であるということだ。

 ところで中国の戦勝70年記念行事(盛大な軍事パレードも計画されているそうだ)にロシアが招待され、韓国も参加しそうな気配だ。韓国が戦勝国かどうかはフランスが戦勝国であるようには明らかなことではないが(フランスはドイツに占領されたが国外に亡命政権を維持して、国内外で戦ったという実績が明確にある。韓国は20万人の従軍慰安婦、などと公言するが、その従軍慰安婦として連行される女性たちを護るために何らかの戦いや犠牲があったとは一切聞かないし、報じられたことがない。まことに不思議なことだ。わたしが韓国内ならいざしらず、海外に従軍慰安婦の少女像を設置するのは韓国人自身の恥ではないか、と感じるのはそういうことだ)、それは置くとして、海外メディアの一部が、日本が招待されないことを「日本はカヤのそとだ」などと言う珍妙なコメントをしている。日本は敗戦国で、中国との関係がどうあれ、招かれるはずなどあり得ないではないか。今回の70周年記念行事は過去最大規模だとも言う。時を経るほど盛大になる戦勝記念行事とは何だ。

 途中から本題と外れました。

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松代大本営跡、朝鮮人犠牲者追悼平和祈念碑。

ペーテル・レンジェル(松谷健二訳)「オグの第二惑星」(早川書房)

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 ハンガリーのSF作家の作品。今回持参したのはドイツやソ連、東欧の作品ばかりだった。

 地球人類とは違う人類(とてもよく似ている)、エーラ人の物語だが、ラストに地球人(なんとハンガリー人と日本人など)が少しだけ登場する。

  自分の住む惑星系の外を探査するために宇宙を航海してその役目を終え、母星に向かっている星間探査船にはエーラ人、899人が乗っていた。900人が乗って出発し、二人が死亡、一人が誕生、そしてみなが人口睡眠中の船を操縦しているのは母星のエーラについて知識はあるがまだ実際に見たことのない若いイゴだった。

 彼等にとっては約60年の旅だが、母星のエーラでは約700年が経過しているはずだ(相対性理論をご存じの方なら自明だが、説明はわたしの手に余る)。

 やがて母星に近づくとともにすべての乗員が無事覚醒、宇宙船は長い減速に入った。母星がどうなっているのか、不安と期待を胸にエーラの二つの衛生の一つ、プロクロンの上の宇宙基地に通信を開始した。ところが何の返事もない。そして母星エーラからも。数日が経過して突然エーラから通信が入る。その通信には現在のエーラについての情報があり、それが定期的に送られてくるようになった。乗員たちはエーラについての知識を次第に得ていく。700年というときの経過による変化は大きいのだ。

 そしてそのときイゴだけがその通信から得られる情報に不審なものを感じる。

 やがてその謎を全員が認知する。謎を胸に秘めたままついにエーラに帰還した人々はやがて隠されていた謎の正体を知ることになる。

 人類が迎えた絶望的な危機をどう乗り切るのか。危機を何とか乗り越えようとする人々と、絶望的機を秘匿しようとする人々との暗闘があったりする。長いときの流れの中の壮大なドラマが語られる。物語の最後では千年単位の流れの中で想像を絶する世界を見ることになる。

 SFってやっぱり面白い。

2015年2月21日 (土)

閑中忙あり

 本日、弟夫婦は息子夫婦と孫たちとともに早朝から小旅行に行っている。老母の介護は、だから朝からすべてわたしがやっている。ふだん手伝いをしているつもりだったけれど、実際にはほんの一部をやっていただけであることを知らされた。結構忙しい。

 薬を砕いてすりつぶし、とろみづけをして飲ませるのがなかなか難しい。下手をすると半分が口の外へ漏れてしまう。なかなか口が十分に開かないのだ。一汗かいてしまったが、飲ませられる方もくたびれただろう。検温、血圧測定、尿パッドの尿の検量と廃棄、口内清掃、点滴パックの交換とパッチ薬の張り替えなど、一つ一つはなんということもない作業だけれど、全部を手順良くやるのは慣れていないと一仕事だ。

 経口での投薬は朝だけだったのだが、昨日から抗生物質を朝昼晩と三回投薬しなければならなくなった。そのたびに薬をすりつぶし、溶かした後で飲ませなければならない。

 いつもは暇で、緊急事態に備えて老母のそばで本を読んでいればいいだけなのだが、今日は忙中閑ありではなくて、閑中忙あり、なのだ。

2015年2月20日 (金)

冷たい人間

 「お前は冷たい人間だ」。そんなストレートな物言いではないけれど、ほとんどそう取るしかない言い方で、死んだ父がわたしに言ったことがある。わたしが若い頃のことだから父もそんなことを言ったことを覚えていなかっただろうし、じつはそういう意味ではなくて、もっと一般的な、わたしだけを評したものではないものだったのかも知れない。

 それでわたしが傷ついたかというと、それほどでもない。うすうす感じていたことでもあったから、それが父の言葉ではっきりと自覚されたことだけが記憶にある。そうなのか、わたしは冷たい人間なんだ、と思った。

 冷たい人間を自覚したからとことん冷たく生きる、ということもなく、冷たい人間と思われたら生きにくいだろうな、という思いのもとに、他人に冷たいと思われないように多少気は遣った。それが奏功しているかどうかは自分では分からない。

 ただ自覚があるからそういうことが意識出来たので、父には感謝している。いまでも、あっ、これか、と思うようなことがあるけれど。

クシャお婆さん

 昔「クシャおじさん」というのがあった。あごの骨だかを自由に外せるようになったおじさんが、普通の顔から突然くしゃっと顔下半分を縮めてみせる。顔が縦方向に半分ぐらいにつぶれたように見える。

 初めて見たときはびっくりすると同時に笑った。笑うしかない瞬間芸だった。

 自分の老母をクシャお婆さんなどと言っては顰蹙を買うだろうけれど、まさにそのイメージがぴったりのように顔が縮んで来た。医者によると、人間の顔はあごを閉める筋肉と開く筋肉がバランスをとって安定しているらしい。ところがあごを開く筋肉は使わないとどんどん衰えていくのに対して、閉める筋肉は余り変わらないからあごがどんどん縮んで見えることになるのだそうだ。

 老母は発語障害から嚥下障害と口を使うことが困難な筋肉の衰え方をしているので、ひときわそれが際立つのだ。

 顔をじっと見て話しかけても、じっと見つめ返すだけで余り表情に変化がなくなってしまった。そして興味を失うとそっぽを向いてしまう。うるさいのかも知れない。昨日は妹が来ていたが、いつもは顔を見るとちょっと嬉しそうな顔をするのに、わたしに対してと同じような反応だったのでちょっとがっかりしていた。

 口を開く筋肉を刺激するやり方を医者に教わったので、毎日五分くらい頬の筋肉をマッサージするのも介護の日課の一つになった。口の中側と外側からやるので本人はいやがる。

140920_148 ここまで歪んでいません。縮んでいるだけです。

アルカジイ&ボリス・ストルガツキー(深見弾訳)「蟻塚の中のかぶと虫」(早川書房)

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 今回実家に持参した海外SFノヴェルズのシリーズは三冊。この本は第二冊目である。ストルガツキー兄弟はソ連時代の代表的SF作家。ソ連SF界の巨星エフレーモフ亡き後、それを継ぐものだ。

 しかしソ連のSFは読みにくい。暗喩だらけで、言葉の説明なしに次々に造語が繰り出されるから、さっぱりわからないままに引き回される。それなのに最後まで読める、というのはそれなりに面白いからだろう(読んでいる最中にはとてもそう思えないのだが、途中でほうり投げることができない魅力がある)。

 例えば160ページ、
(前略)きわめて危険な科学進歩の転換の結果生じたり、或いは生じる可能性があるどんな倫理的動揺よりも、科学に道徳的・倫理的禁制を加えることの方がはるかに恐ろしい。己の影響下に活動的な才能ある集団と重要なエネルギー施設を集中している有力な才能ある専門家がそうした原則を信奉しているとき、その視点は、それ自体の力学(ちから)で畏敬の念を呼び起こし、若い科学者のあいだにどんなことでもいうことをきく擁護者をみつけだすことは間違いない。つまり実践的過激派がわれわれコムコン-2の大切な顧客だったのだ。ところが、ブロンベルグ爺さんは、理論的過激派だったから、まさにそれが理由で、きっとわたしの視界に一度も入ってこなかったに違いない。その代わり、見てのとおり、彼は生涯かかってエクセレンツをいらいらさせて腎臓や肝臓、胆嚢をだめにしてしまったのだ。
(後略)

 主人公マクシム・カンメラーは秘密調査員。エクセレンツは彼の上司である。コムコン-2は彼等の属する組織なのだが、最後の最後までどんな役割の組織なのだがよく分からない。

 延々とこんな文章が続いていく。そしてこの物語が語られている世界は果たしてどんなものなのかは説明がないから断片的にしか見えてこない。その上突然別の星での冒険談などが語られていく。それがどんな意味があるのか分からない。カンメラーが命令にもとずいて調査した男「進歩官」はいったい何者だったのか。最後の最後で一応明らかにされるのだが、それが人類にとって危険な存在だったのか、何でもなかったのかもついにはっきりしない。

 絶好調の状態で読んだので読了出来たけれど、奇跡的なことだ。不思議な読後感であった。

2015年2月19日 (木)

村上陽一郎「科学の現在を問う」(講談社現代新書)

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 この本の内容を、要約ではなく、著者のあとがきから抜粋する。

(前略)科学・技術に関しても、私たちは、同じような転換の時代を経験しつつあるのではないか、という感覚は、頭脳というよりはむしろ皮膚に訴えるようなかたちで、私たちを揺り動かしている。そうした感覚を、自分なりの枠組みのなかで多少とも整理し、将来の展望をきり拓く礎石の一つとしたい・・・(中略)

 本文の中でも触れたように、現代社会は、科学・技術という社会的な営為が、直接・間接に人間の生を制御し、管理し、支配するような社会である。そうした社会は、人類のこれまでに経験しことのない性格のものである。私たちが通常「社会科学」と呼んでいる様々な学問も、おおむねはそのような状態になる以前の社会を対象に成立しており、そうした学問自体が、新しい人間社会と取り組むことが求められている。それは人文系の学問についても全く同じである。真理はいつの時代にも変わらない、という聞きなれた遁辞は、しかし、その真理が現れる現実への真摯な対応なしには、文字通り遁辞に過ぎない。
 他方、科学や技術に携わる人々も、自分たちの営みが、自分たちを超えて、社会や人類全般に関わりを持つような事態になっていることに、決して鋭敏とはいえない。理工系の大学では、学生が人間や社会についての理解を深めるべき機会は減る一方である。
(後略)
 
 著者の村上陽一郎は科学史を歴史学的、宗教学的、社会学的、つまり哲学的に解釈して、科学のあり方を考えてきた。それを分かりやすくまとめたものがこの本だ。

 「科学研究の変質」「技術と安全」「医療と現代科学技術」「情報と科学・技術」「科学・技術と倫理」「科学・技術と教育」という章立てのこの本はそれぞれで一冊の本になるような重要なテーマを含んでいる。科学・技術が関係したいろいろな問題(小保方さんのSTAP細胞の話などを考える上でも)について基礎から見直すために、理科系の人はもちろん読むべき本であるし、文化系の人も読んで参考になると思う。

李登輝「新・台湾の主張」(PHP新書)

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 世の中には志を持つ人がいる。志を持っていても途中で薄汚れてしまう人もいる。大半は志すら持たない。そんな中で李登輝という人は高い志を持ち続けてきた希有の人だと思う。尊敬に値する。

 彼が蒋介石の息子、蒋経国に引き立てられて、台湾市長を経て六十歳の時副総統になり、蒋経国の急死によって総統となったいきさつはドラマのようだ。もともと李登輝は学者であり、政治家をめざすつもりはなかった。

 もともと国民党という外省人(戦後中国大陸から台湾にやってきた人々)の一党独裁の政党に内省人なのに官僚として抜擢され、総統まで登り詰めたのは奇跡である。ここから魑魅魍魎のような国民党を相手に孤軍奮闘し、ついに一党独裁から台湾を民主化するところまで持って行ったのはどれほどの苦労であったろうか。高い志がなければ決して叶わないことだったであろう。

 その高い志こそ自分が日本人から教えられた「日本精神(リップンチェンシン)」であると李登輝は公言する。その日本に彼は裏切られた。しかし裏切ったのは一部の日本人、志がないか、低いものたちであって「日本精神」を持ち続けている多くの日本人がいることを彼は信じている。

 台湾大地震のときの日本のいち早い救援隊の派遣と多くの義援金に感謝し、三億円を財団から拠出した曽野綾子に対し、もし日本にことあらば台湾が真っ先に駆けつける、と約束した。東日本大震災のとき、その約束を果たすため、すでに総統の地位を引いていた彼が働きかけてNGOの救援隊を派遣した。また台湾政府もそれに遅れたものの続いて救援隊を派遣した。ところがあろうことかそのとき日本政府(民主党菅直人政権)はそれをなかなか受け入れず、なおかつようやく受け入れても行き先すら連絡しなかったという。李登輝は曽野綾子との約束が守れなかったことを痛憤している。

 日本政府が震災一年後に各国に対して国名をあげて謝意を表明したが、世界で最も多くの二百億円という義援金を送った台湾の指名献花はないという非礼を犯した。これに義憤を感じた日本人はたくさんいて、多くの非難が殺到したことは記憶に新しい。安倍政権になり、遅ればせながら初めて安倍首相が台湾国民に向かって謝意を表明したことは台湾の人々にとって大きな感激を持って迎えられたという。しかしこのことを日本のマスコミは報道したのだろうか。中国におもねることは外務省もマスコミも同じだ。

 台湾大震災のときに李登輝総統は被災地を駆け回り、復興に全力を傾けた。その経験から、菅直人首相がヘリコプターで被災地の上空を旋回し、被災状況を視察した様子を見て、これはだめだ、と思ったという。たしかに菅直人は原発にかかりきりで、被災地を直に回る様子はわたしもほとんど記憶にない。安倍首相があれほど多忙を極める中でも頻繁に被災地を訪問していたのとは対照的だ。

 日本人に多少がっかりしているけれど、李登輝がそれ以上に心配しているのが台湾だ。せっかく民主化を断行した台湾が政争に明け暮れ、利権に群がり、中国の餌食になりかけていることに強い懸念を表明している。この人にはめずらしいくらいに現・馬英九総統に対して激しく罵声を浴びせている。志がない指導者は李登輝にとっては嫌悪を催すものであるようだ。

 日本と台湾との関係が、李登輝の生い立ちから今日までを語ることでよくわかるように書かれている。できれば志のある日本人に読んで貰いたい本だ。日本人であることの誇りを取り戻さなければならない。

2015年2月18日 (水)

K・H・シェール(松谷健二訳)「オロスの男」(早川書房)

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 久方ぶりに本格SFを読む。ハードカバーの「海外SFノヴェルズ」シリーズは何回かに分けて刊行されたが、わたしの本棚には半分以上の五十冊ほどが並んでいる。この本は昭和53年刊行、20代の頃に揃えたのだ。(わたしにとって)貴重品である。

 冥王星探査の司令官、エルトロンは高慢で厳格、有能だが嫌われ者だった。きわめて困難なその任務は、しかし彼が司令官だから遂行出来ている、ともいえる。多くの犠牲者を出しながらその任務が終わりに近づき、地球への帰還船を迎える頃に、その冥王星に未確認飛行物体が落下する。

 エルトロンを含めて四名がその調査に向かうのだが・・・。

 ファーストコンタクトものでもあり、異星人に乗り移られる、おなじみのパターンの物語でもある。当初はジョン・カーペンター監督の映画「遊星からの物体X」のようでもあり、「エイリアン」のようでもあるけれど、この本に登場する不定形生命体ははるかに知性的で平和的であり、哲学的でもある。

 どうも人間の方が怪物のようだ。

 著者のK・H・シェールはあの世界一長い連続SF(現在も続いている)「ペリー・ローダン」シリーズの当初からの著者の一人だ。シェール&ダールトンのコンビで書き継がれていた。今は600巻か700巻くらいまでいっただろうか。日本でもほとんど後追いで翻訳されているはずだ。わたしも150巻くらいまで読んだけれど、忙しくてついて行けなくなった。

 久しぶりのSFは幸い面白かった。

宮部みゆき「英雄の書 (上)(下)」(新潮文庫)

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 宮部みゆきの最新刊を買おうと思ったら、帯に「英雄の書」に連なる物語だと書かれている。そこでこちらを先に購入した。

 ファンタジー小説はその世界観に自分を同調させるのがうまくいくかどうかでおもしろさが全く違う。昔はすんなりできたことが錆付いた頭になってしまったいまは苦労することが多い。だから梨木香歩の本も未読が何冊か積んであるが、こちらのエネルギーをある程度充電してからでないと読み始められない。

 この本も出だしで少し苦労した。しかし宮部みゆきである。この天才的ストーリーテラーの手に身を委ねればいつしか主人公とともに異世界の景色を驚嘆しながら眺めている。理屈など不要。ただただスケールアップしていく不思議さの中にどっぷりとはまればいい。

 400ページを超える本が上下で二冊、それを朝から読み始めて夕方には読み終わっていた。読み終えて、夢から覚めて現実に戻る。しかしまた夢が見たくなる。

 小学校五年生の少女友理子が主人公だが、彼女にシンクロ出来るとは、わたしのぼんくら頭もまだまだ錆びきってはいないらしい。本の世界、物語の世界がテーマだから、本好きにはたまらないはずだ。ファンタジーを全く受け付けない人は無理だろうけれど、そうでない、物語が好きな人には一読をお勧めしたい。

 この物語の解釈はいくつか考えられるけれど、いまはそれを語ろうとは思わない。

2015年2月17日 (火)

長谷川慶太郎「アジアの覇権国家『日本』の誕生」(実業之日本社)

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 もともと長谷川慶太郎は勇ましくて、日本の将来についてもポジティブに捉えるけれど(それが好きなのだけれど)この本はいつも以上にハイな気分で書かれている。ここまで言って大丈夫?と心配になる。北朝鮮はまもなく崩壊するそうだ。その前に早く拉致された人々を助けなければならない、という。

 韓国も中国もそう遠くない将来自滅するらしい。

 こうなるのではないか?ということを、こうなる!と断言するのが長谷川慶太郎節だ。それにしてもこの本では、こうなるべきだ!という願望まで、こうなる!と断定されているような気がする。

 ところで韓国は日本とのスワップ協定の最後に残った百億ドル分を延長する気がないようだ。日本側からの、それでも良いのか?という質問を無視しているらしいから自動的に解消されることになるだろう。

 このスワップ協定で、韓国はウオン暴落による通貨危機のときデフォルトを免れることができたけれど、そのことを韓国民も日本人の多くも知らない。今回のニュースで韓国のネットのコメントには、韓国が日本を助けたような書き込みがある。知らぬが仏、韓国経済は深刻な減速状況が目前にあるのにいざというときどうしようというのだろう。中国のネットでは、そのときは韓国は中国を頼るだろうけれど、韓国なんか助けていられない、という意見もあった。中国の本音だろう。 

 ついこの間まで日本人は韓国が特に嫌いではなかった。それを韓国が嫌いになるようになるように仕向けて、日本人は今どこの国よりも韓国が嫌いになってしまった。いざというとき日本に泣きついても日本国民は韓国救済に賛同しないだろう。それに、もし救済しても韓国の国民には知らされないことは前回と同様だろう。

馳星周「雪炎」(集英社)

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 原発が三基もある道南市は、東日本大震災以後原発の稼働が停止して経済的に疲弊していた。そんな中、市長選に反原発の候補が立候補する。原発再開を公約にして再再選を目指す現職市長が圧倒的に優性とみられている中で、主人公の和泉は同級生だったその反原発候補・小島から協力を頼まれる。小島は正義派の弁護士、そして和泉はもと公安警察。互いに相手に一目置いているものの全く相和するものの無い間柄だったのに、和泉はある理由からその依頼を引き受ける。そして小島が和泉に協力を依頼したことにも理由があった。

 巨額な利権である原発に群がるものたちは小島陣営に対して様々な妨害工作を始める。警察はそれを見て見ぬ振りをする。和泉は公安警察時代に培った能力で密かに敵に反撃していく。そんな中、殺人事件が発生する。選挙で殺人まで起きることは通常ない。これは双方にとって全く想定外のことであった。

 ここから和泉の犯人追及と暴走が始まる。

 選挙の勝敗は彼我ともに明らかなはずなのに権力者側には選挙以上に大きな思惑があった。

 もともと馳星周の小説は後味のすっきりさわやかなものは少ないけれど、そしてそんなものを書こうともしていないけれど、それにしてもこの小説の後味は微妙だ。読んでいるときは夢中で一気にラストに突き進んでしまうけれど・・・ちょっとそれはないだろう、という気にさせる。

2015年2月16日 (月)

ストックホルム

NHKのBSで、世界の街を歩く番組がある。大好きなのだが、基本的にアジアの街のときだけ見る。欧米は訪ねたいと思わないので興味があまりない。でも北欧は別である。

ストックホルムの街歩きは特に良かった。

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細い路地も石畳。

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どこへ行っても子どもは可愛い。

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ストックホルムに行きたくなった。

何より行きたいのがデンマークのコペンハーゲンなのだけれど、なんたることか、テロが起きた。

ところでイスラム教は偶像崇拝を禁止している。偶像そのものを否定しているのだ。では指導者を神格化して偶像化し、その偶像をパロディ化したことにたいして激怒する、というのは偶像崇拝の否定と矛盾するのではないのか。

異文化や異宗教に対して一定の敬意を表するのが正しい人のありかただと思う。自分と異なるからといってそれを否定したり笑いものにするのは思い上がりだと思う。しかしそれはそれとして、パロディ化は宗教を否定することなのか。パロディ化にはそれなりの理由がある。何かの逸脱に対する揶揄であろうか。パロディ化されたぐらいで揺らぐことを恐れる宗教とはかげろうか。

映画「ミッドナイト・ガイズ」2013年アメリカ

 監督フィッシャー・スティーヴンス、出演アル・パチーノ、クリストファー・ウォーケン、アラン・アーキン他。

 刑務所に28年間服役したヴァル(アル・パチーノ)が出所してくる。出迎えたのは、ドク(クリストファー・ウォーケン)。二人の掛け合いの言葉、特にヴァルののべつ幕なしの言葉はひどく乱暴なのだが、結構深い意味があってうるさくない。ヴァルのわがままな要求をドクは黙ってかなえていく。脳天気に見える二人に重くのしかかる過去。その過去は現在も生きている。

 二人とその周りの人間たちとの関係、住む世界が次第に見えてくる。生きること、それも偽りではなく、損得でもなく真に生きること、とはどういうことかが、ヴァルの饒舌な言葉の中にちりばめられている。

 彼らが自分たちの運命として受け入れていた状況に立ち向かう決断をしたとき・・・。

 おとなの映画だ。出来も良い。

 クリストファー・ウォーケンが大好き。あの眼とあの口元は独特だ。「ディア・ハンター」でアカデミー助演男優賞を取ったけれど、それよりも私が初めにウォーケンを観たのは「デッド・ゾーン」という、スティーヴン・キング原作、クローネンバーグ監督の映画だった。それで惚れ込んでしまった。この人の出た映画はずいぶん観ている。最近も結構出演作がある。観るのが楽しみだ。

2015年2月15日 (日)

映画「キラー・トーナメント」2014年ニュージーランド

 監督マシュー・ジョン・ピアソン、出演ジェームズ・トレヴェナ=ブラウン、レニー・カタルド、ロブ・ヤング他。

 ニュージーランドのバイオレンス映画というのはめずらしい。

 組織の黒幕がいままで自分の使ってきた殺し屋五人を一気に片付けるために香港から超A級の殺し屋リー(ロブ・ヤング)を呼ぶ。殺しをやりやすくするため、五人の殺し屋にはそれぞれ仕事を与えており、その場で抹殺していこうというのだ。それぞれの殺し屋が仕事を片付ける姿とそれを見届けた上でその殺し屋を消していくリー。さらにそれに並行して主人公のマーシャルの行動が描かれていく。

 じつはマーシャルは五人目の男だった。

 マーシャルはかろうじてリーの襲撃から逃れる。そしてリーとマーシャルの追いつ追われつの戦いが繰り広げられる。黒幕はリーの不手際を知り、別働隊を繰り出し、リーもろともマーシャルを抹殺しようとする。その上、怒りにまかせてさらに自分の最強の部下たちも戦いに投入する。

 マーシャルは秘密のアジトに潜むが、それはすでに相手に知られており、次々に敵が襲撃してくる。さてどうなるのか。

 とにかく撃ちまくる。こんなに撃ちまくったら銃が加熱するし、すぐ弾切れになってしまうが、映画だからいいのだ。銃撃シーンが派手で、撃たれた血しぶきや銃による人体の損傷の様子がリアル。バイオレンスだ。結末はお約束どおり。

映画「パニック・トレイン」2013年イギリス

 監督オミッド・ノーシン、出演ダグレイ・スコット、カーラ・イントン、イド・ゴールドバーグ、デヴィッド・スコフィールド他。

 低予算映画らしいがなかなか良く出来ていて、最後まで夢中で見ることが出来た。

 夜行列車が何者かに乗っ取られ、暴走列車となる。救急医師(ダグレイ・スコット)とその息子を含めて六人の乗客は必死に列車を止めようとするのだが、考えられる緊急停止用の手立てを尽くしても全く止めることが出来ない。列車はますます加速し、外部からの減速停止の措置も奏功しない。列車はディーゼルなので運転席で停止させる以外に方法はないのだ。そしてその運転席には、手持ちの道具ではどうやっても入ることができない。列車は終点の駅に向かってばく進する。運転している何者か(運転手は途中で放り出されたことがわかっている)は乗客もろとも華々しく死ぬつもりとしか思えない。

 舞台はすべて列車の中。暴走が始まるまでの、登場人物たちのそれぞれの性格が前半で丁寧に描かれている。その乗客たちが危機に瀕してパニックになりながらも、自分をさらけ出すことによって次第に人間性を回復していくという展開はなかなか良い。イギリス映画はたいてい期待を裏切らない。

2015年2月14日 (土)

「わが体験 人生こぼれ話」(潮出版社)

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 月刊誌「潮」の「わが体験」欄に掲載された著名人の文章からまとめられたものである。初版は昭和53年(1978年)、この本は改訂版で平成6年(1994年)に出版されている。ここに収録されているのは28人、多くが作家であり、さすがに内容の濃い名文ばかりだ。

 名文でも心にグッとくるものと観念が先行してわかりにくいものがあったりして、好みは分かれるだろう。実際に書かれたのは昭和四十年代後半であり、終戦からまだ三十年たっていない頃だ。だから戦争前後の強烈な経験が多いのも当然である。それらは私自身が親から聞いた話にシンクロしている。

 好いなあと思ったものと紹介したいものとはすこし違う。読後感が特に強烈だったものを一つだけ紹介する。

  「地獄の配膳」大庭みな子

 敗戦の夏、わたしは十四歳だった。広島市から20キロ余り東にある西条という町にいた。賀茂鶴というお酒の出来る、水の美しい、合歓の花が霧の中で咲く盆地である。
 その前年、女学校二年生のときわたしは愛知県からこの町にやって来たのだが、その頃はもう広島と呉は連日空襲を受けるようになった。両親は最初わたしを広島の女学校へ転校させようとしたが、思い直して町の小さな県立の女学校に入れた。お陰でわたしは命拾いをした。もし広島の女学校に通っていたら、八月六日の原爆でわたしは死んでいただろう。わたしと同じ学年の広島の女学校の生徒はほとんど全員死んだという話を後になって聞いた。一、二パーセント助かったのは、丁度そのとき、学校を欠席していた者か、何かの都合で学校にいなかった者だけなのだ。原爆が落とされたのは八時十五分だったから、全校の生徒が朝礼で校庭に集合していたときなのだ。爆心地で、あの死の光を真上から受けたのである。
 敗戦後まもなく、八月の末から九月にかけて、県下の女学生たちは原爆後の救援に動員された。二、三十人の私たちの班が配属されたのは太田川のほとりにある小学校で、鉄筋のなかなか立派な校舎だったが、行ったときは窓ガラスは一枚もなく、吹き曝しの鉄骨と崩れた壁だけの残骸であった。そのとき広島市は見渡す限り瓦礫の原で、文字通り市街は壊滅の状態だったから、ともかくも残骸をとどめている建物というだけでも貴重な避難所だったのだ。第×収容所と称して引取手のない三百人余りの原爆の患者たちが収容されていて、その世話が私たちの仕事だった。

蛆の這う唇に水を流し込む
 私たちは雨風の吹き込む教室の一つに雑魚寝して、毎日患者たちのために校庭で三度の食事をつくるのだった。風呂桶のような大きな鉄の鍋の下に火をたき、雑炊を煮るのである。じゃがいもやかぼちゃなどを入れ、米を放り込んで何時間もぐつぐつと煮て、それをバケツに入れて患者たちの間を縫いながら柄杓で一杯ずつ配った。
 床に投げ出されてひしめき合っている被爆者たちの形相は此の世のものではなかった。睫は焼け落ち、髪の毛はなく、皮膚は赤むけで、えぐれた火傷には無数の蝿と蛆がうごめいていた。生きている者と死んでいるものの見分けがつかない凄惨さであった。
 糞尿にまみれてうずくまっている人間たちのほとんどは声も立てなかったが、ときどきわけのわからないことを喚き、腕を振りまわして蝿を追う者もいた。頭のおかしくなっている者も大分いた。比較的軽症な者でも、這いずりまわっている怪物という感じだった。そういう三百人の患者の間を縫って、私たちは黙々とバケツに雑炊を配って歩いた。
 朝の食事のとき生きていた者が、平均、日に五、六人から十人近くが息をひきとった。死体は校庭の隅に掘ってある大きな穴に放りこんで火をかけた。雑炊を炊く釜の火と並んで雨の中でいつも死体を焼く煙がいぶっていた。
 食事を配るたびに、わたしは心の中で今度はどの患者がこときれているだろうということをぼんやりと考えていた。だが、いったいどうすることができるというのだろう。
 私たちにできることは数滴の水を蛆の這う唇に流し込んでやることだけだった。それさえも幼い女学生の多くは脅えきって「みずう、みずう」と叫ぶ患者につかまると幽霊の喚く土饅頭の前に水を放り出すようにして逃げてくるのだった。
 わたしが唇の中に水を注いでやった老婆は糞尿にまみれたござの下から財布をひきずり出してわたしに寄越そうとした。わたしが首を振って立ち去ろうとすると、「あ、あんた、どうか蝿を、蝿を追っておくんなさい」と赤むけの顔をひきつらせてあえいだ。
 瞼のふちにも鼻の穴にも唇にも蛆を這わせた老婆がわずかに身をもがくと、蝿はのろのろと彼女の皮膚から飛び上がり、再びゆっくりとそのぬめった皮膚の上に舞いおりた。
「どうか、どうか、このござをひきずって、あの雨の降る中に出しておくれんさい。雨に当たれば少しは、少しは・・・金はみんなあげる。財布ごと」
 まわりの患者たちは無表情に老婆を眺め、蝿の中で寝返りを打った。一時間後、この老婆は死んでいた。
 私たちにできることはただ雑炊を炊くことと、配ることだけであった。私たちが米をとぐのは水道の管が切れて流れっぱなしになっている瓦礫の間だったが、まわりには一面白骨が散らばっていた。指の骨、脚の骨、肋骨などがあった。骨の間に水が流れ、こぼれた米粒や馬鈴薯の皮が流れた。

蝿の中でうごめく人間
 ここに収容されていた患者のほとんど全員が遅かれ早かれ死んだのではないかと思う。私たちの仕事は地獄の中の配膳作業であった。
 教室の一つには医師と看護婦がいて連日つめかける被爆者たちを看ていたが、彼等とていったい何ができたというのだろう。薬品といえばマーキュロチンキとオキシフルぐらいのものだった。歩いてやってきて列を待つほどの体力のある患者をさばくだけがせいいっぱいだった。絶対に助かる見込みのない、蝿の中でまだうごめいている人間からは、ただ顔をそむけて立ち去るしかなかったのである。
 その頃、米軍が東京に進駐した、と新聞は報道した。人々はこの地獄の絵図をくりひろげた原爆についてまだ何も知らなかった。これが日本の敗戦を決定した恐ろしい新兵器だということだけが囁かれ、この爆弾による火傷がただの火傷ではないということだけが、現在の事実から得た判断であった。
 二百十日がやってきて、連日雨と風が吹き荒れた。街は水浸しになり、えたいの知れない疫病が発生した。そしてまた更に多くの人間が死んだ。雨の中で雑炊の鍋の下の火は燃えず、私たちは煙にいぶされて目を真っ赤に泣き腫らした。死体もまだ焼けきらないうちに火が消えた。
 いま思えば放射能障害によるわけのわからない下痢症状を、人々は集団の赤痢だと思い、集団の罹病が気づかわれて、女学生は動員を解除された。私たちは広島駅のホームに着いた汽車の窓から荷物のように車両の中にほうりこまれて、西条に送り帰されたのである。
 十四歳の夏、私はものを言わなくなった。そしてこの夏の記憶はわたしの生涯を大きく変えた。歩き始めると、甦るこの記憶はわたしを立ち止まらせ、人間というものを考え直させる人骨の杭となった。

(語る言葉がありません)

台湾・蘇花公路

明日からまたしばらく老母の介護手伝いに行く。そうすると録りためた映画もドラマも旅番組も見ることが出来ない。そこで今日は手当たり次第に見ている。

旅に行きたいが、何があるかわからないので、いまは旅番組を眺めて慰めとしているが、民放のタレントの出る旅番組は、CMはもちろん、その無意味な感嘆詞だらけのわめき声が耐えられないので、よほど行きたいところ意外は見ない。

そこでNHKのBSの番組を録画して、ゆっくりと見ることにしている。

今回は「台湾の蘇花公路」。台湾は二度行っているけれど、ほとんど台北中心の北部だけ。行きたいと思っているのは九份、ここは映画「非情都市」の舞台で、この映画ではあの国民党軍による台湾知識人虐殺が描かれていた。それと蘇花公路である。海に面した断崖の道、そして漁村、温泉などがある。

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断崖の右上が道路(蘇花公路)。

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原住民の像。

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太魯閣(たろこ)渓谷。

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南方澳。台湾三大漁港の一つ。

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漁港のおばさんたち。

蘇花公路のハイライトは清水断崖というところで、海面から800メートルの高さの断崖から海を臨む。

行って見たい!台湾なら何時でもいけるなあ。

写真は番組から写した。

ハンパない

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 どうしてもなじめない言葉というのがある。その一つが「ハンパない」という言葉だ。あるときからテレビで芸人によって使われ出していまではそれがあたりまえに使われるようになっている。この言葉はもともとあったのか、ある地方ではあたりまえの言い方だったのか知らない。でも私は「半端ではない」としかいえないし、「ハンパねえ」は「半端じゃない」としかいえない。

 「ハンパない」という人を見ると、それだけでその人の知性を疑ってしまう。私がおかしいのだろうか。

おまけにもうひとつ

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 日垣隆「急がば疑え!」からもうひとつだけ引き写す。

   「悩みは無駄」

 悩みに時間を費やすほど無駄なことはない。
 言うまでもなく、悩みとは、二つ以上の選択肢の中でどれも選べない心理状態のことだ。その総てを選べるのなら、人は悩まない。いずれにも一長一短があるから、ああでもないこうでもないと悩むのである。
 とすれば、やはり悩むという行為自体が無駄だと言わざるをえない。
 これが1番で、あれが2番・・・と順序が明確であれば、1番を選べばいい。第三の道がベストだったという場合も稀にはあるが、それを思いつかず悩んだ者が浅はかであるにすぎない。順序が明白でないにもかかわらず、どれかを択一しなければならない場合にのみ悩みは生ずる。だから、即答するに限る。
 選択するまえにあれこれ悩んでも、やってみないことにはわからない。そのような類の選択に人は迷うものなのである。直感でもくじ引きでもいいから迅速に選び、その後にこそベストを尽くす。それしか処方はない。
 ベストな選択なるものが客観的に存在すると勘違いするから、その後に努力もせず、失敗すると他人のせいにしてしまう。
 どちらに転んでも地獄だという悩みにおいてもそうだが、喜ばしいオファーとて例外ではない。その場で決断出来ない人は、そのようなオファーを全く想定していなかった、というだけで無能の烙印が押される正当な根拠を持っている。

 ちょっと辛口。でも人生なんてそんなもの。だから私は後悔が嫌い。後悔しても元には戻せないから。とはいってもね・・・・。

2015年2月13日 (金)

映画「デッド・ドロップ」2013年アメリカ

 監督R・エリス・フレイザー、出演ルーク・ゴス、コール・ハウザー、ネスター・カーボネル他。

 メキシコの麻薬組織に潜入して2年以上になるCIA工作員のマイケル(ルーク・ゴス)はボスのサンチアゴ(ネスター・カーボネル)の親友となっていた。ところがとつぜんサンチアゴに襲われ、銃撃されて飛行機から放り出される。この落下シーンが繰り返しマイケルの回想として現れる。ここから始まるのだから、もちろんマイケルは奇跡的に助かる。

 CIAからは死んだと思われているのだし、もう潜入はやめるように命令されるが、マイケルは復讐のため独断でサンチアゴを追う。身元が割れたわけでもなさそうなのになぜ突然サンチアゴが自分を襲ったのか、真相が知りたいという思いもあるのだろう。

 転々と居所を変えるためにサンチアゴの追跡は困難を極める。しかもCIAは指示に従わないマイケルの抹殺へ動き出す(この辺も少しあやしい)。サンチアゴの金づるの拠点を次々に壊滅させながらマイケルが迫る。ところがマイケルの最愛の恋人が人質に取られ、攻守が入れ替わる。そしてマイケルとサンチアゴの直接対決となる。

 ラストに分かる意外な真相と結末は少しだけひねりがきいている。謎を最後まで明かさず引っ張るのでおもしろさは持続する。

 主演のルーク・ゴスのまぶしそうに細める目がちょっとクリント・イーストウッドの目に似ている。

化石

奥出雲多根自然博物館の化石の写真をしまい込むのは惜しいので、一部を掲載します。化石は自然が残してくれたタイムカプセルなのです。

1502_41 恐竜頭部

1502_57 宝石化したアンモナイト

1502_43 シダ類などの化石

1502_49 ウニの化石

1502_50 蟹の化石

1502_52 うちわエビ

1502_53 エビの化石

1502_54 きれいなアンモナイト

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1502_62 古代魚の化石

1502_40_2 生きているときはこんな風?

 

日垣隆「急がば疑え!」(日本実業出版社)

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 著者は週刊「エコノミスト」の巻頭に「敢闘言」という名前のコラムを書き続けてきた。この本は2001年から2005年までのものにそれぞれ表題をつけてまとめたものである。あとがきで著者は「コラム執筆にあたり、その時々にもっとも注目された事件や事象を睨みつつ、数年後または数十年後に振り返って、あれがエポックだったのか、と思い起こせるテーマを選ぶことを心がけました」と書いている。それをいま読んだわけだ。そういえばこんなこともあったな、という話題が多い。そのときに自分なりに考えたつもりだったのに、忘れかけていた。ある意味なつかしい。

 この本の最後が以下の文章である。

    「急がば疑え」

 人は社会の一員にすぎないわけだが、しかしそれは無為無策を合理化しない。つまり、大状況(施策)と小状況(処方箋)は違う。
 実にあたりまえのことなのに、非常に良く混乱される関係にある。口角泡を飛ばして天下国家を論じるインテリに多い錯誤の数々は、後者を全く捨象して前者のみを念頭に置いてしまうゆえに生じてきた。
 正午からレストランが込む、インフルエンザが流行っている、少子化が進む・・・。これらは皆大状況であり、もちろん全体を改善する余地はある。が、大状況はそのままでも、昼食の時間帯をずらす、うがい手洗い予防接種をする、3人くらいは子どもを生み育てる・・・という選択は個人の守備範囲だ。
 旧パラダイムの下では、冷戦が終わらなければロシアと良好な関係は築きえず、春闘勝利なしに労働者の権利が守られることはなく、文科省が反動をやめない限り子どもたちに平和は訪れず、憲法9条を改正しなければ日本に未来はない、と本気で信じられていた。
 言いにくいことだが、自然災害にあうことは確率の問題でも、避難所生活を一週間で終えるか一年続けるか、マンション買いに失敗しても短期間で軌道修正出来るかどうかは、リスク管理つまり備えの問題である。
 エゴのことを言っているのではない。すべて他人のせいか、と問うてみる。地震はありえないのか、安すぎると疑問に思わなかったのか。明日の希望のために、急がば疑え---。

2015年2月12日 (木)

映画「ゴールデン・スパイ」2013年香港・中国

 監督スン・ジェンジュン、出演アンディ・ラウ、リン・チーリン、他。

 何じゃこの映画は!豪華俳優と大金と特撮をふんだんに使ってなんたる映画を作るのか。シーンは細切れ、話のつながりもつじつまも全く無視して映画は突っ走る。

 撮りたい画を撮るためにシーンがあり、映画も観客も二の次にしか見えない。でもこういう映画を面白がる人もいるだろうなあ。

 アンディ・ラウが女好きの凄腕スパイという設定自体がめちゃくちゃ違和感がある。

 私には無駄金遣いの駄作映画に思えた。頭がかたいのか? 

自業自得ながら・・・

 携帯を紛失した。保険に入っていたので替わりの携帯がもらえる。その携帯が昼過ぎに配達された。携帯からは電話とメールしかしないのでガラケーで良いのだけれど、いままでのが古すぎて、在庫がない。いままでパナソニックだったのを機能的に必要な要件の似ているNECのガラケーに替えた。

 使い勝手がだいぶ違う。いろいろ頭をひねりながらようやく使えるようにすることが出来た。自業自得とはいいながら、面倒くさい。これから住所録を見て電話番号の入力をしなければならないけれど、住所録に載せていない番号もたくさんある。わざわざ調べるより、かかってくるのを待つのが楽か。このブログを見て心配な私の友人諸氏は念のため電話を下さい。メールのやりとりをしている人は特に必要ありません。

映画「ワイルド・スワン」2013年アメリカ・ロシア

 監督ロバート・クロムビー、ソフィア・スカヤ、出演ソフィア・スカヤ、クリスチャン・スレイター他。

 アメリカ・ロシア合作映画というのはめずらしいのではないか。しかもロシア側の監督は主演の女優、ソフィア・スカヤ本人だ。ロシアマフィア対バレリーナの戦いが描かれるが、バレリーナであることがそのまま格闘の武器になる!というユニークなもので、しかもそれが嘘くさくない。

 ロシアで巨額の富を築いたアメリカ人の富豪(クリスチャン・スレイター)の妻となり、一人娘に恵まれたマヤ(ソフィア・スカヤ)は現役のプリマドンナとして活躍中。前半ではロシアの豪華な社交界の場やバレー劇場のシーンが華麗に描かれる。しかし次第にこの富豪の夫の廻りに不審な影が差し始める。

 前半のロシアテンポの展開は何となく馴染みにくいけれど、突然破綻が訪れて夫は殺害され、マヤも無実の罪で投獄されてしまう。かろうじて幼い娘を夫のアメリカの友人に託して、アメリカの夫の両親の元へ送り届けることが出来たことだけが救いであった。

 苛酷な刑務所での生活が続く。そんな中、夫の実家が襲われ、娘が拉致されたとの知らせが届けられる。

 ここからはマヤの逃避行と、娘奪還のためのアメリカでの壮絶な戦いが始まる。この顛末がマヤ自身の口から回想のようにして語られるのはアメリカの地方の保安官事務所の中である。

 そしてラストにさらにもう一つクライマックスがある。

 毛色の変わった映画だが、そこそこ面白かった。

 ロシアマフィアは恐ろしい。

2015年2月11日 (水)

ヒレ酒を待ちながら

 福井県の小浜はフグの養殖が有名。値打ちで美味しいフグ料理のフルコースが楽しめる。今回はそんな贅沢をするつもりがなかったので、宿の刺身料理で十分楽しめた。特に厚切りのヒラメの刺身が美味であった(活きが良すぎてちょっとモチモチしていたけれど)。

 代わりにフグのヒレを土産に買って帰った。10枚で300円。こんがりあぶって熱燗を注げばヒレ酒が味わえる。二枚で一合分といわれたけれど一枚で十分(ちょっとケチ臭いが)。さすがに明るいうちから飲むわけにはいかないので夜を待っている。

 つまみはこんにゃくのピリ辛炒め、グリーンアスパラのバター炒め、出来合いのナムル、そして梅おかか。梅おかかの瓶詰めにはまっていて、そのまま舐めても良いし、大根を薄切りにしてつけて食べてもうまい、おかゆを作ってこれで味付けをするのも好い。

 しばらく映画を観ていなかったので昨日から何本か続けて楽しんだ。

「ハード・パニッシャー」2013年イギリス
 監督スティーヴン・レイノルズ、出演ダニー・ダイア、ジョゼフ・アルティン他。

 仇討ちとか復讐の物語は皆大好きだ。理由があるから相手を思いっきりやっつけても罪悪感をあまり感じないで快感もある。日本の任侠映画なんてほとんどそうだ。まして主人公が最強の戦闘力があったりしたら文句なしだ。

 正義感の強い父親に育てられて英国特殊部隊の兵士として海外で特殊任務に就いてきた男が、ようやく帰国して聞いた知らせが両親の死であった。ギャングに襲われた女性を助けるために、父親がその一人を殴り殺してしまう。その復讐として家が襲われ、暴行を受けた上に生きたまま焼き殺されたのだ。

 ここからこの男の復讐劇が始まる。一人、また一人と犯人を見つけ出してはすさまじい方法で惨殺していく。警察を差し置いて犯罪者を狩る男に対して警察は犯罪者ではなくこの男を追い、男の属していた軍部も彼を追う。そして最後の一人を追い詰めた男に狡猾な警察の罠が仕掛けられており、そのために思わぬ悲劇が起きてしまう。男は窮地を脱することが出来るのか・・・。

 昔マック・ボランシリーズというアメリカの小説があった。マフィアに家族を殺されたベトナム帰りの特殊部隊員のマック・ボランがマフィアを次々に殺害していく痛快な物語で、文庫本で十数巻まで読んだ記憶がある。それに似ているけれども、この映画の主人公はマック・ボランほどスーパーマンではない。そういえばランボーだって同じようなものか。

 他に観た映画の話はこのあとのブログで。

2015年2月10日 (火)

災難に遭う

 災難、といっても自分の不注意によるものなのだけれど、携帯を紛失した。

 車が雪に埋もれていたのをスコップを借りて周囲をきれいにするのに30分以上かかり、汗だくになった。宿の親父は家の周囲の除雪にかかりきりで手伝ってくれないから、一人でやらざるを得なかった。約束したのに。

 ようやく雪の山から脱出して、30分ほど走った後に携帯がないことに気がついた。宿を出るときには身につけた記憶がある。除雪作業中に落としたのだろう。すぐ引き返して、宿の中と駐車場の周囲を探したけれど見当たらない。まさか鞄の中にしまい込んでいないだろうか、ということで荷物をひっくり返したけれど、もちろんない。

 宿のご主人夫婦に後を託して空しく引き上げた。舞鶴道に乗って敦賀に向かったが、除雪車の後ろに大型トラックの長蛇の列。時速20~30キロで走る。幸い敦賀からは普通に走ることが出来た。

 そのままdocomoショップに駆け込んで紛失を連絡し、携帯をストップさせた。GPSで調べて貰ったらたしかに宿の辺りにあることが判明した。保険に入っているから5000円で同じ機種が貰える。ポイントもたまっているからだいぶ安くつくので一安心。ただし、警察に届けて受理番号を貰わなければならない。しかし警察に行く必要はなく、ショップから電話で届けて受理して貰えた。これは有り難い。そしてサービスセンターで正式に手続き、二、三日で届くらしい。

 いままで使っていた機種は古くて在庫がないというので、別の機種が来るそうだ。いろいろ選べるから、というので説明を聞いたけれど、煩雑で機能が良くなったり省略されたりしている。海外使用の機能の充実しているものを優先に選んだ。カメラ機能やお財布携帯の機能は二の次。ほとんど使わないから。 

 理由はどうあれ、自分の不注意。ぼけたのかしら。

山中鹿介
 「山中幸盛・通称鹿介(しかのすけ)」は尼子氏の一族。尼子氏の居城・富田城を毛利氏が猛攻した際奮戦したが及ばず、富田城は落城し尼子氏は領地を喪う。後、尼子勝久を奉じて尼子氏再興に尽力するも叶わず。秀吉の毛利攻めに参軍し、上月城をまかされるが、ここも毛利氏の猛攻で落城し、尼子勝久は自殺、山中鹿介は捕らえられた後、護送途中で暗殺された。

 「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に向かって祈ったという逸話が有名。ブログに「我に艱難辛苦を与えたまえ」と書いたのはうろ覚えの間違いでした。父が時々こう言っていたのでそう思い込んでいました。訂正します。

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宿泊している福井県小浜の阿納尻というところの宿の庭。

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昨日の朝、奥出雲町の宿を出発。隣は看板のように雲南市。日本にも雲南があるとは知らなかった。雲南省にもう一度行きたい、と願っていたけれど、省ではなくて市ながら、雲南に行くことは出来たわけだ。ごらんのように外気温は-5℃。

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山陰道は横から強い風が吹き、雪が舞っている。

この辺りは車も少なく順調に走ることが出来たけれど、ノーマルタイヤで走っているのか?と思うような30キロ前後で走るのろのろ車が次々に現れて、たちまち車の行列が出来た。

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日本海は荒れている。

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ようやく9号線から北近畿自動車道、舞鶴道と順調に走り出し、渋滞を脱することが出来た。

小浜でおりて阿納尻の宿に向かうが、メイン道路から宿の方へおりる坂道が、ヘアピンに左折しなければならない上に深い雪で埋まっていて反対方向からでないと、おりられない。ところが行けども行けども向きを変える場所がない。数キロ走らされてようやくUターンすることが出来た。

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宿の部屋からの景色。目の前が海である。右上は庇からのしかかっている雪。

駐車場も雪だらけでようやくドアが開けられたけれど、今朝はどうなっているか分からないから心配だ。帰れるだろうか。

夜中に庇から雪の落ちるドーンという音に驚いて何度か目覚めた。

朝食のとき、宿のご主人が車の廻りの除雪をしてくれるという。道路の除雪が10時前に行われるから、急がないならゆっくりするようにというので、もうひとふろ入ってぼんやりするつもりである。

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宿の庭の雪の様子。このあとドーンという音とともに庇から大量の雪が落下した。

2015年2月 9日 (月)

否定から入る

 農協全中を改革しなければならない、というのは農業従事者の多くも含めて国民的な意向であるように思う。ではそれがどういうものであるべきかについては各論があってまとまらない。まとまらないから何も改革が進まなかった。

 このたび、ついに全中が政府の意向を受け入れて妥協した。その妥協については賛否両論がある。利害の反するところで妥協するのだからあたりまえだ。

 しかし少なくとも改革が一歩でも前に進むことになったのだからこれは評価しなければいけない。岩盤の一部に少なくとものみが打ち込まれたのだ。

 これに対して民主党の枝野氏が、全否定のコメントを表明していた。今回の改革は全く無意味で何をしようとしているのか全く理解出来ない、とまで言っていた。

 これで枝野さんという人を私は全否定することにした。自分が、そして自分たち(民主党)が思う農協改革と違う、と断定して、少しでも前進したことをいささかも評価せず全否定してみせる。このパターンはまさに社会党(現社民党)のパターンだ。100点でなければすべて否定する、という行動により、何も前進しない、というのがどれほど愚かしいことなのか分からないのだろうか。

 せめて安倍政権は良くやった、もっとこうしたら良かった、そのために我々も協力する、それが国民のためであるから、という言い方が出来ないのか。

 民主党の執行部が社会党そのものだ、という批判がある。まさにその通りであることを枝野さんがあきらかにしてくれた。自覚がないところが社民党にうり二つだ。

 枝野さんが何を言いたいのか、私には全く理解出来なかった。

 分かりにくい人もいたかも知れないので、蛇足ながら付け加える。

 100点満点の理想の結果を求めて努力し、とりあえず50点まで達成したら、そこでまず前進した、と一応の評価を行い、さらに50点から100点をめざす。少しでも現状の問題点を減らすにはこの方法しかあり得ない。いきなり100点を取ろうとして、50点の結果を否定して見せて、自分がさも正義の味方のように見せたつもりでも、だれも感心してくれはしない、ということだ。

奥出雲

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朝食は博物館の六階の展望レストラン。こんなストーブがあって暖かい。

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食卓からの眺め。

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今朝の長者の湯は雪の中。

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わが愛車(一番下)も雪の中。

このあと、次の目的地まで走り出したのだが、雪が次第に激しくなり・・・。

夜のミュージアム

夜のミュージアムを一人で見物しました。

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宿泊した奥出雲多根自然博物館の入り口ではこんな恐竜の骨がお出迎え。

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きれいどころばかり選んでみました。他にも鉱物や化石がたくさん展示されていて結構楽しめます。博物館と銘打つだけあります。

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かなり大きな化石です。

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玄関の外を見ると雪が降っています。路面も真っ白になっていました。寒い。

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昨日立ち寄った安来市の富田城。尼子氏の居城だったという。これは山中鹿介の銅像。「我に艱難辛苦を与えたまえ」

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こんな山道や階段を登った山の中腹にあります。

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尼子神社。尼子氏は毛利氏に滅ぼされました。城跡はここからさらにずっと山の上の方、足元が濡れ落ち葉で滑るし、階段の段差は大きいし、寒いし・・・、ということでパスしました。

 

2015年2月 8日 (日)

博物館に泊まる

Dsc_3202 昼まで暖かかったのに風が吹き、雪がちらつきだした。明日は雪らしい。

 今晩の宿は奥出雲多根自然博物館である。今晩は宿泊者限定のナイトミュージアムがあるというので楽しみだ。

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 夕食と風呂は博物館の近くの長者の湯を利用する。温泉は何度でも入れるというけれど、北風が強く吹き始めているから浴衣で行くわけにはいかない。一風呂浴びて夕食を食べ(もちろん酒も飲む)、帰ってからナイトミュージアムを楽しむことにしよう。

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部屋は洋室。いちばん長いのが私の愛車、アテンザ。窓から覗いた。明日はたぶん雪をかぶっていることだろう。

2015年2月 7日 (土)

澤田克己「韓国『反日』の真相」(文春新書)

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 著者は毎日新聞のソウル支局長。

 似たような本を次から次に読んでいるように思われるかも知れない。しかしそれぞれずいぶん内容が違い、読むたびにあらたな知見を得ることが多い。なかなか韓国の『反日』とは本当はどんなものなのか、本音のところで韓国人は日本のことをどう思っているのか分からない。

 日本人が当然と思っていることがじつは当然であるのかどうか疑わしいことに日本人は気がついていないのかも知れない。だから韓国人の考え方を知るために繰り返しこういう本を読む。

 毎日新聞的立ち位置、といえる視点であろうか。著者は日本と韓国のほとんど真ん中にいる。つまり日本人から見れば韓国寄りに見える。だからいままで読んだ本とは少し感じが違うのかも知れない。

 韓国人が日本を嫌うように、日本人が韓国を嫌いになりつつある。いまは日本人の方がその気持ちが強いかも知れない。そしてそれを韓国人に伝えると意外に思うらしい。自分たちがそれほど反日だと思っていないらしいからだ。

 この本で韓国人の考え方が述べられているけれど、日本人との違いの大きさに驚く。中国との関係についても地続きである韓国と海を隔てている日本では全く違うし、その歴史も全く違う。長い歴史ですり込まれた思いも全く違うのだ。

 日本が過去韓国に対して上から目線で曖昧に妥協してきたことのツケがいま修復困難な状況を生んでいる。

 いま日韓が友好を求めても、一気にその距離が縮まるとは思えない。互いに自分の側だけ余分に妥協したと考えてしまう。いまはしばらく政治的な関係は静観した方が良いのではないかというのが私のいまの気持ちだ。それに朴槿恵大統領では局面打開のための手を打つ力があるとは思えない。

 明日から二泊三日で小旅行に出かけることに決めた。その報告は旅行先で。

名越康文「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」(PHP新書)

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 著者は精神科医。それもちょっとユニークな精神科医。内田樹先生の文章にしばしば登場する。この本は表題の問いに対する答えは仏教にある、として実践的な仏教入門をすすめる。ユニークだ。

 ここで言う仏教は観念的、哲学的なものというよりも、行を通しての実践的なものだ。精神科医として人の心の悩みや迷いと直面し、闇を見続けた著者が、その闇を払う方法としての仏教の行の方法を紹介する。

 自分の心と自分が同じものだと人は思い込んでいる。自分の心は自分自身ではない。心は常に揺れ動き、瞬間瞬間で変化する湖のようなものだ。その湖に自分の姿を映し出そうとしても波立っていては写せない。その心の揺れを鎮めるための方法が行なのだ。

 旅に出て人に出会うことで自分自身を見つけるという自分探しという方法もあるけれど、自分の内面を、自分自身の内宇宙を静かな心に映し出して見るのも自分探しだ。

 そうして静まった落ち着いた心で世界を見直せば、感情に曇らされていた世界が晴れやかになるらしい。

 禅の世界のように聞こえるかも知れないけれど、著者は禅は一般の人には難しいだろうという。座禅をしてもなかなか無我の境地になどなれないものだ。著者のすすめる行はもう少し手がかりのある、とりつきやすい方法だ。

 著者の勧める初歩の手順に従い、自分の心を見つめようとしてみたら雑念が渦巻いて嵐が吹き荒れていた。

2015年2月 6日 (金)

迷う

Dsc_0009 冬の日本海

 旅への想い黙(もだ)しがたく、悶々としている。

 三月にはいつもの顔ぶれでトルコに出かけるはずだったが、中心メンバーのおねえさんがよんどころない事情で今回は行けないことになり、「あなたたちだけで行きなさい」と言われたけれど、おねえさん抜きではその気になれない。

 男二人で雲南省あたりへ行くことも考えたけれど、何となくその意欲もしぼんでしまった(理由はすでに述べた)。

 そうとなれば国内を旅すればよいのだが、出かけるとなればまとまってあちこち歩き回りたい。でも冬だ。それに老母の介護や歯の治療が予定にちりばめられていて自由がきかない。

 愛用しているツーリングマップを眺める。北海道、東北、関東甲信越、中部、関西、中国・四国、九州とすべてが揃っている。心で地図をなぞりながら旅を想像する。いくつかのモデルを作成してジャランで宿の選定をしてみた。

 あれこれ考え倒してせめて二、三日という短期の旅に出かける気になりかけているけれど、まだ決心がついていない。

ニュース雑感

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 和歌山県で小五男子が刺殺された。どんな理由で殺されたのか犯人がまだ捕まっていないから分からないが、理由が全く想像出来ない。19歳の女子名大生が老女を殺害した。こちらは殺人をしたかったから殺したと自供している。イスラム国の捕虜惨殺をいろいろ理由づけする論評があるけれど、じつは殺人をしたくて仕方がない人間が、大義名分の元に殺人が出来るから、という理由で集まっているのがイスラム国やボコ・ハラムという集団なのではないか。戦略や戦術など勝手にこじつけているだけではないのか、そんな気がする。

 19歳の女子大生と同じように、私の想像の及ばない心の闇を抱えた人間がこの世に存在する。それが私とは紙一重なのか、全くはるかに隔たるのか分からなくなってきた。

 そういえば名古屋の小学校の女性教諭がイスラム国で殺された人の遺体の写真を児童に見せたという。もちろん首を切断された遺体を見せたと言うことだろう。この女性教諭はそれが問題のあることだとは毛筋ほども考えなかったらしく、それが児童たちのためになる教育だと考えていたらしい。なぜそれが問題なのか教える言葉を持たなければ、我々は彼女を非難出来ない。

 新聞労連が朝日新聞の(あの第一原発の)吉田調書スクープ記事をジャーナリズム大賞に選んだという。あのスクープには朝日新聞の政治的な偏向意図がある誤報として非難され、朝日新聞は紙面で謝罪した。吉田所長の言葉の一部だけを取り上げて読者の誤解を招く結論に導いたことが問題であり、それを朝日も認めざるを得なかったのだ。新聞労連は結果的に誤報ではあるけれど、政府が公開しようとしなかった吉田調書をスクープしたことに社会的な意味があったとしてジャーナリズム大賞を授与することにしたという。これはどう考えてもおかしい。誤報と自ら認めている記事を顕彰するというのはジャーナリズムの自殺ではないか。正しいことならウソをついても良いというのはジャーナリストにとってはあきらかに自己矛盾だ。この新聞労連には愚かな大衆を導くことは正義だ、という「上から目線」が感じられる。

 中国を訪問する外国人の数が毎年少しずつ減っている。これを取り上げた中国の新聞ではその原因を、人民元のレートが1ドル8元以上だったのに、いまは6.2元で割安感がなくなったことが大きいという。もともと中国の旅行代金は他の国に較べて高いところに中国の物価高が輪をかけている。もちろんそれ以上に大きいのは環境汚染だともいう。わざわざ観光に行って健康被害に遭いたいとは思わない。

 しかし私が毎年行っていた中国に行かなくなった理由は他にもある。まず中国の観光地に群がる中国人観光客の混雑だ。その廻りに対して無神経な立ち居振る舞いとやかましさには辟易する。日本の観光地でしばしば実感する人も多いだろう。世界中でそう言われている。それ以上にテロに対する不安がある。もっとも行きたいシルクロードはもっとも危険な場所になった。いまはいけるときにいろいろ行っておいてよかった、と思いながらそのとき撮った写真を眺めて慰めている。

Photo 1992年・西安

映画「サプライズ」2011アメリカ

140925_186 これは映画のイメージ

 監督アダム・ウィンガード、出演シャーニ・ヴィンソン、ニコラス・トウィッチ他。

 冒頭で突然男が惨殺される。それに気がつかない女が洗面所に現れ、恐怖をあおる音楽が流れて女も殺される。「13日の金曜日」のテイストだ。あの映画を観たときはショッキングなシーンでは座席から自分の体が瞬間浮き上がったように感じた。怖い映画はあまり得意ではない。

 そしてメインストーリーが始まる。結婚35年を祝うため、両親とその子どもたち4人、その妻や恋人、総勢10人が人里離れた山中の別荘に集う。何かが起こる予兆のような気配があるがだれも気がつかない。隣の別荘に使いにやらされた次男の彼女エリン(シャーニ・ヴィンンソン)は中から音楽が聞こえるのにだれも出てこず、空しく引き上げる。この別荘こそ男女が惨殺され、死体のある場所なのだが彼女は気がつかない。何も起こらないことこそ怖い。

 恐怖は不安によって増幅する。ひとはなんだか分からないもの、正体の明らかでないものに不安を感じる。その不安こそ恐怖の核心だ。

 家族が集った晩餐の席で長男と次男が諍いとなる。兄弟たちの中に昔から確執があることが分かる。そんな中、突然窓ガラスが割られ、長女の彼氏の額にボウガンの矢が突き刺さる。惨殺の夜の始まりだ。

 こうして不条理な殺戮が次々に行われていくが、おびえ、うろたえる人々の中で唯一次男の恋人のエリンだけは毅然と事態に対処しようとする。彼女の反撃により、襲ってくる相手の正体が次第に明らかになる。正体が見えてくれば恐怖は激減する。

 おどろきの真実を知ったエリンは孤軍奮闘し、ついに警察が救援に駆けつけるのだが・・・。

 まさに「サプライズ」だ。最初は恐怖映画でそしてスプラッターに、さらにサバイバルになり、復讐劇となる。恐怖映画は苦手だけれど、サバイバルや復讐劇は苦手ではない。相手が分かるから。

2015年2月 5日 (木)

どうして?

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 信じがたいことだが、イスラム国が、世界のどこの国からも承認を受けていないただのテロ集団であることをいまだに理解出来ずに、一つの国家だと思い込んでいる人にしばしば出くわす。

 二人の日本人がイスラム国に惨殺された事件の責任を安倍首相に求める一部の野党議員やマスコミを見聞きする。いくら安倍首相が嫌いでも、安倍首相が惨殺したと言っているように聞こえてしまうのは逆効果だろう。今回の事件に怒りを感じている多くの国民にとって、そのような責任論に拘泥する様子は不快感を感じさせるだけだと思うけれど、違うだろうか。事件を利用して安倍首相批判がしたいだけではないか。

 今回の惨殺事件では日本政府の対応について世界中でどこの国からもその不手際を指摘する声は上がっていないし、安倍首相の中東訪問が原因だったなどと言う声も聞かれない。それを非難するのは日本のマスコミと一部野党のみである。ところでこの騒ぎの最中に、慰安婦問題についての記事をアメリカの女性の学者がニューヨークタイムス(だったと思う)に寄稿した。それによると韓国の四十万の慰安婦に対して、安倍首相や日本人は謝罪しろ、というものだったらしい。さすがにこの記事には歴史的事実とあまりに違うことを根拠にしているとしてアメリカの有識者から批判が殺到した。もちろん日本からも抗議があり、それらの一部は反論としてニューヨークタイムズに掲載されたという(ここが朝日新聞と違うところだ)。

 日本の立場が多少良くなったように見えたことに対する韓国の牽制にこの正義の味方の女性学者が利用された、と思うのは思い過ごしか。ところでいままで韓国や朝日新聞が二十万人と言っていた慰安婦が突然倍増したのには驚いた。しかし四十万だか二十万だかの若い女性たちが日本人に連れ去られたというのなら、それを漫然とみていた韓国の男たちとはどんな男たちなのだろう。それに抵抗して投獄されたり殺された、という話はとんと聞いたことがない。

 サッカーアジア杯の公式ガイドブックに、旭日旗が含まれていることに韓国の大学教授が抗議し、削除を求めたそうだ。明らかな売名行為だと思う。ニューヨークのオークションハウスの展示作品に旭日旗に似たデザインのものがあるとして韓国系の団体が抗議し、取り下げを求めているという。そういえばソチオリンピックのときに、マケドニアの国旗が旭日旗に似ているとして問題になったこともあった。どうしろというのだ。

 百歩譲って、韓国人に旭日旗に反感を持つことにわけがあると認めたとしても、太陽から放射状に光が射すという絵は昔からあり、子どもでも無意識に描くこともあるもので、それをことごとく抗議の対象にするというのは狂気の沙汰としか思えない。ところでよく言われることだが、朝日新聞の社旗はまさに旭日旗に酷似(半分だけ)しているけれど、韓国から抗議を受けたとはついぞ聞かないのはどうしたことだろう。慰安婦問題や教科書問題の火付け役をしてくれたことに恩義を感じているのだろうか。

井波律子「中国人物伝 Ⅰ」(岩波書店)

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 中国史に名を残した人物たちを全四巻で取り上げる。第一巻には「乱世から大帝国へ」、という副題で春秋戦国時代から秦、前漢時代までの人物たちが登場する。

 歴史に名を残すのは、あたりまえのことだが普通の人ではない。普通に善い人や普通に悪い人、普通の欲張りな人ではなく、自分を平然と捨てられる人であったり、とてつもなく悪逆非道であったり、すさまじい権力欲の持ち主であったりする人が、時と場所にかなうと歴史に名を残す。

 この巻でのキーワードは「侠」である。中国ではしばしばこの「侠」である人物がもてはやされる。では中国に「侠」はたくさんいるということか。そうではなく、中国というところは昔から生きるのに苛酷なところであったから、弱肉強食が定常であった。そんな世界では「侠」という生き方はよほど強い人間しか貫くことの出来ない生き方である。ほとんどだれにも出来ない生き方を生きる「侠」が希にしか出現しないからもてはやされるのだろう。

 一将功成り、万骨枯る

 名を残した人の陰に無数の無名の人々がいる。

22 鳴沙山上から月牙泉を臨む

2015年2月 4日 (水)

曼珠沙華(マンジュシャカ)

10071_357 傾城の美女

 山口百恵の「曼珠沙華」を藤あや子が歌っていた。藤あや子の妖艶さと、この歌が絶妙にマッチしていてうっとりした。振りも好い。

 藤あや子の妖艶さは男を破滅させるという。破滅したい。破滅するような生き方とは正反対に臆病に生きてきた私でもそう思う。

 藤あや子も大年増になった。化粧を落とした姿も想像出来る。でもその目、その唇、その頤(おとがい)が私を妖しく魅了する。

 酒に酔いながら、なかった人生を夢見る。

山田太一「今朝の秋・春までの祭り」(大和書房)

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  夜中の二時頃目が覚めてしまって眠れない。そこで枕もとに読みかけでおいてあったこのテレビドラマのシナリオ集を読んだ。

 この本には表題の二作を含めて五つのシナリオが収められている。実際にドラマを見たのは「今朝の秋」だけだが、各シナリオの冒頭に主要登場人物のキャストが書かれているので、それをイメージしながら読んだ。

 山田太一のドラマでは「冬構え」という作品が忘れられない。笠智衆が、死に場所を探して友を訪ねるドラマだけれど、老いと死、そして生きるとはどういうことか考えさせられた。病院のベッドに臥せる友・小沢栄太郎が、笠知衆の気持ちを察して「いけないよ!」と語りかける言葉が耳に残る。ずいぶん昔に見たドラマだけれど、私のベストワンだ。

 このシナリオ集には残念ながら「冬構え」は入っていないけれど、著者があとがきで言及している。「今朝の秋」は同じ笠智衆が主役のドラマで、これも忘れられない。独り暮らしの笠智衆が、自分の息子(杉浦直樹)が余命幾ばくもないことを知り、息子を病院から連れ出して自分が一人で暮らす山の中の家に連れてきてしまう。ばらばらだった家族がそれをきっかけにつかの間集まり、そして自分たちのいままでの生き方を見つめることになる。

 「あなたが大好き」というドラマは江戸前の家具職人一家を中心に、その息子(真田広之)が連れてきた女性(中川杏奈)が絡むという話だ。主の父親(田中邦衛)と妻(春川ますみ)、姉(かたせ梨乃)は、重役の娘であるというその女性は育ちが違いすぎるから嫁として一緒に暮らすのは無理だと思う。そうしてもちろんいろいろあって息子は一人で旅立ってしまうのだけれど、意外な結末となる。

 中川杏奈は先日亡くなった。映画「敦煌」であのエキゾチックな顔立ちが印象的な女優だったけれど、こんなドラマにも出ていたのだ。ドラマを見ていないのに、彼女が役柄を演じ、語るのをしみじみと感じた。冥福を祈る。

 他の三本(「なつかしい春が来た」、「表通りへぬける地図」、「春までの祭り」)もなかなかシリアスながらしみじみしている。メルヘンチックな話もある。シナリオを読むのはふつうの小説以上に自分で映像化する必要があるが、このようなシナリオから実際のドラマに仕立て上げることがどれほど大変なことか、それが思われた。

 倉本聰の「北の国から」のテレビシリーズ、第一集と第二集のシナリオを一冊にした分厚い本も持っている。近々また読んでみよう。

 ニフティのアクセスが今までになくとても遅い。まるでコールタールの海を泳いでいるようだ。たまたまのことだろうか。これからもこんな調子が続くようなら腹が立つ。

日下公人「いよいよ、日本の時代がやって来た!」(WAC)

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 自信を失っていた日本人も、安倍政権に変わってから、日本に曙光を見いだし始めている。いまだに「暗い暗い」と嘆いているのは被害妄想が好きな一部のマスコミだけだ。どんな時代だってつらいことはあるし、貧しい人はいる。問題を改善するには、本当に困っている人が救われるようにすることだ。みんなが被害者ではどこに手をさしのべて良いか分からなくなってしまう。

 それはさておき、この本は病からようやくいえ始めた日本人を元気づける本だ。元気になって明るい気持ちになる。こんなに楽観的で良いのかと思うが好いのだ。

 本屋の時事評論などの棚を眺めると、「日本は今のままでは壊滅的になる」、「明日国債が暴落する」、「日本の破綻は必至」などというおどろおどろしい予言をした本が数多く並んでいる。こんな本はいつもあってその通りになった試しはない。このようなことを書いている人たちがリーマンショックを予言したとも聞いていない。現実に起こったことを予言出来ず、ただ暗黒の未来をわめき立てる人たちは予言が外れても平然としている。「いつかは破滅する」とこの世を呪い続けるだけだ。彼らは日本が破滅しなければ予言が当たらないのだから、ひたすら日本の破滅を願い続けるだろう。

 それよりも景気の良い本の方が好いではないか。

 ところでこの本のところどころに出てくる、経営者たちの愚かで保身的である様子は、著者だけではなく、私も一目置くような優れた論者たちがしばしば指摘することだ。愚かで保身的な官僚たちと経営者が、喪われた二十年、いや三十年の主な要因であり、原発事故の電源喪失という最悪の事態を生んだというのは言い過ぎだろうか。

 日本がこれからが明るい、と言う理由の一つが、成功体験に縛られて時代の変化について行けなくなった経営者たちが世代交代し始めていることだ。成功体験を持つ経営者はチャレンジが出来ないから変化について行けない。ようやくそのような経営者が退場し始めたのだ。これが希望でなくて何であろうか。

2015年2月 3日 (火)

悔し涙

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 イスラム国に拘束された後藤健二さんたちの解放交渉を現地で行ってきた中山外務副大臣が涙を見せながら会見していた。力及ばず最悪の事態になったことに対しての悔し涙なのだろう。その心情が伝わってことらもグッときた。「男は涙を見せないもの」と教えられて育ったけれど、このような悔し涙は別だろう。

 涙と言えば、すぐ思い出してしまうのは国会での海江田民主党代表(当時)の涙だ(私はしつこいのだ)。あれも言われ放題の目に遭っての悔し涙といえないことはない。でも全く美しくない、いささか醜いものだった。あれを見た瞬間に、この人はだめだ、と思った。

 悔し涙といえるかどうか分からないが、昨年の兵庫県議員(名前を忘れた、と言うより覚えていない)の噴飯物の記者会見でのわめき泣きの涙を思い出す。本当に泣いたのか嘘泣きなのか分からないが、ご当人にとっては悔し涙なのだろう。

 同じ悔し涙だけれどどう違うのか。自分のために泣いているのか、人のために泣いているのか、ということかと思う。自分のために泣いているのは醜いのだ。中山副大臣も自分のために泣いているではないか、などという人は勝手にしてくれ。

平岩弓枝「千春の婚礼」(文藝春秋)

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 「新・御宿かわせみ」シリーズの第五弾。大好きなシリーズである。久しぶりの新刊で待ちかねた。気持ちが焦って読むスピードが早すぎてしまい、ストーリー展開の方が早いような、早回しの映画を観ているような気持ちになった。

 新シリーズは明治時代。世代交代して、若い世代が主人公である。世の中が大きく変わり、さらにどんどん変わっていく時代背景とあらたに加わった登場人物たちにだいぶ馴染んできた。もちろんなつかしい人たちに対する思いはいっそう強くなる。

 この巻では東吾とるいの娘、千春の婚礼を中心に麻太郎と源太郎の活躍が描かれる。主な登場人物たちが勢揃いするシーンが二回もあるのはこの物語に一区切りつけようと著者が考えているからなのだろうか。ラストはそれを思わせる。物語を続けようと思えば次は少なくともこの五年後になりそうだから。

 愛読しているこのシリーズは、テレビでも繰り返しドラマ化されているが、NHKのシリーズの配役のイメージが固着しているので、それ以外の配役で見ると違和感が強すぎて見るに堪えない。ちなみNHK版は神林東吾(千春の父、麻太郎の実の父)=小野寺昭、るい(千春の母で東吾の妻、御宿かわせみの女主人)、畝源三郎(源太郎の父)=山口崇。真野響子のおっとりした優しい微笑みはこのドラマに欠かせない。

 維新の戦いのさなかに行方不明になったままの東吾はいまだに行方不明のまま。いつ奇跡的に現れるのかと期待しているが、その期待はかなえられるか。

2015年2月 2日 (月)

可哀想に

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 国連事務総長の潘基文氏がイスラム国の後藤健二さんの殺害を強く非難する声明を発表した。当然だろう。

 それに対して韓国ネットに寄せられていたコメントの中に目を引いたものがあった。
「なぜ朴槿恵大統領は何の声明も発表しないのか」

 どこの国の元首がどのような声明を発表したのか詳しく知らないが、主要な国ではほとんどで非難声明が発表されているのを見たように思う。しかし韓国はそのような声明をいまのところ発表していないらしいことをこのコメントで知ることが出来た。

 たぶん日本に弔意を示しイスラム国を非難すると親日的だ、と国内で非難されることを恐れているのだろう。もし韓国人が犠牲になれば、安倍首相はすぐ弔意を表し、イスラム国非難の声明を発表するだろうことは間違いない。そんなあたりまえのことが出来ないらしい韓国は可哀想だ(異常だ)。

再発防止

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 参議院予算委員会をテレビで観ていたら、民主党の那谷屋議員が今回のイスラム国の日本人殺害に関連して「再発防止のために」という言い方をした。きわめて違和感のある言葉である。殺害をしたのはイスラム国であり、再発をさせるとしたら、これはイスラム国であり安倍首相ではない。今回の事件は安倍首相のせいで起きた、という言葉が喉から出かかっているのが分かる。

 ここから、集団的自衛権こそがテロの危機を増大させる、という論理展開での質問を繰り返し行っていた。どうも「テロ反対のための国際協調と集団的自衛権は同じものだ」とこの議員には認識されているらしい。テロ反対を云うからテロの危機が増すのだ、と驚くべきことを言う。触らぬ神にたたりなし、身を縮めていればだれも襲わない、などと信じているのだろう。これはしばしばテレビの女性コメンテーターの物言いで見聞きした。

 那谷屋議員とはどんな人かとネットで検索したら・・・日教組出身の議員であった。なるほど。観念的平和主義に基づき、どんなことでも集団的自衛権反対という「正義」の主張に利用しようというわけだ。

 中国のネットニュースを見ていたら、首相官邸前で安倍首相の退陣を要求するデモが行われたと報じていた。知らなかった。これを受けた中国人のコメントがいくつかあったけれど、「私は以前から安倍首相退陣を望んでいたけれど、今回のテロ事件への対応で安倍首相に非難されるような点はなかった。それを理由に退陣要求デモをしている民衆はアホだ」と言うのがあった。同感だ。

 昨日共産党の小池氏が「たかじんのそこまで言って委員会」に出演して農協改革反対を主張していた。TPP反対を言っているうちに農業を守るため、として農協改革反対を唱えることになったらしいが、言っていることはほとんど自民党のガチガチの守旧派と同じことだ。岩盤を打ち砕いて改革しようとすることを否定するとは・・・。「美しい日本の国土を守るために農業を守らなければならない」などという言い方はほとんど自民党農協族議員に近い。いつから共産党は革新の旗を捨てたのか。司会の辛坊治郎が「小池さん、共産党の本部に帰って大丈夫ですか、席がなくなったりしないでしょうね」と揶揄されていた。これは小池氏の暴走か、それとも共産党の公認の意見か。

伊集院静「無頼のススメ」(新潮選書)

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 無頼とは他者に頼らない生き方であるというが、たしかに文字からいえばその通りだ。ただし、人は人との関係なしには生きられないから、これは依頼心を持たずに生きる生き方をしよう、という意味であろう。まさに著者がそういう生き方を貫いて来たことは間違いない。

 最近多くの人が自分を弱者である、と認識しているらしいことなど、マスコミなどの刷り込みによる依頼心醸成の結果と言えなくもない。義務を負うことを嫌いながら権利だけ要求することがあたりまえの社会はおとなの社会とはいえない。そして弱者を生み出しているのは権力者や一部の金持ちだ、と誰かのせいにする。弱者は救われなければならない。しかし本当に救われなければならない人は声が小さいから自称弱者の人々の下敷きになったままだ。
  
 無頼とは強いこととは違うと著者は云う。自分がどうしようもない人間であり、怠け者であること、そういう弱い人間であることをとことん知っておくことが大前提だ、と云う。私はここで膝を打つ。その通りだ。その自覚から何とかもがいて動き出すのが無頼という生き方の出発点だとすれば大いに同感だ。

 著者が出会ったいろいろな人々の生き方、言動がたくさん紹介されている。魅力的な人々である。愛妻であった夏目雅子の姿にあらためて彼女のすばらしさを知った。彼女を病で喪った著者の喪失感の大きさはいかほどであったろうか。

 読み飛ばせばそれだけの本だけれど、読み方によれば自分を見直すきっかけにもなり得る本だ。

 イスラム国による後藤健二さんの殺害が国会でも取り上げられるようだ。野党の中には、最悪の結果についての政府の責任を問うところもあるだろう。批判は批判で構わないが、その批判は、こうすればもっとよい結果が得られたのではないか、という自分の対案を提示することを伴わなければならない。そうでなければこれからどうするのか与野党が一緒に考えることにならない。結果が悪かったから政府が悪い、だから自分は正しい、という表明をするだけならば、それはイスラム国の犯罪を利用して党利党略をめざすものでしかない。今回の殺害に対しての安倍首相批判をした民主党の岡田代表の文言にそのような臭いをかいだ。国民はそういう臭いに敏感である。そういうものを心の底で嫌い、軽蔑するだろう。

2015年2月 1日 (日)

新酒試飲会

 後藤健二さんがイスラム国に殺害された。安倍首相が言うように非道卑劣、残虐な行為だ。イスラム国は「安倍首相のせいだ」と声明で語っている。言うまでもなく、後藤健二さんを誘拐して拘束し、残虐に殺したのはイスラム国であって、イスラム国が安倍首相を、そして日本を非難するのは全く筋が通らない。もう少し手が尽くせなかったのか、という批判はあって然るべきだが、だからといって殺された原因を安倍首相に求めるのはイスラム国と同じ論理にたっているといわなければならない。先日、田嶋陽子女史が安倍首相がイスラエルで不用意な発言をしたからこんなことになった、とテレビでコメントしていたが、こういう物言いをする人は必ず現れるだろう。そしてその人はイスラム国を結果的に支持しているのと同じことに気がつかない。それこそ不用意だろう。

 韓国や中国のネットで「ざまあみろ」という書き込みがされることだろう。どこにも一握りのそう言うバカが必ずいる。韓国や中国が、国を挙げて反日をすり込んだ結果だろう。それらの国は、自国が正しいのだから、日本は間違っている、といっているように見えるが、じつは日本は間違っている、だから自国は正しい、といっているのだ。この違いは大きいが、分かるだろうか。「自国の正義」が、「相手が悪であること」を根拠にしている。だから日本は善い国である、または少なくとも悪い国ではない、ということを受け入れてしまうと、自国の否定につながってしまう恐れがある。極論を言えば、そう言う危うい成り立ちをしているのがイスラム国であり、中国であり、現在の韓国であろうか。

  きりがないので後藤さんの冥福を祈りつつ新酒試飲会の話へ進む。

150131_13 青木酒造

 昨日は天気はよいけれど風の冷たい日であった。
 名古屋駅で仲間たちと合流、総勢六人で高島屋のデパ地下でつまみの買い出しをしてから名鉄電車で現地に向かう。佐屋駅という駅から歩いて約30分。それでも歓談しながら歩いているとそれほど遠くない。到着は試飲会開催の30分以上前になるが、場所取りをしなければならないので遅いくらいなのだ。

150131_10 ごらんの賑わい

 いつも席をしつらえる場所はすでに他のグループが占領していた。仕方がないのでその隣にパレットなどでテーブルをしつらえる。続々と人が集まりだす。どんどん盛況になって人でごった返してくる。待つことしばし、絞りたての新酒がふるまわれる。

150131_7

 今年の絞りたての酒は20.9度と度数が高い。芳醇な香りとともに濃厚な甘みを感じる。甘い酒、というわけではないのだが、甘く感じるのだ。しかし席をしつらえた場所は日陰ではあるが、倉庫の壁際で風よけになると思っていたのに寒風が吹きすさび、ぐい呑みを持つ手がかじかんでくる。こんなに寒い思いをしたのは久しぶりだ。

150131_16 顔なじみの席

150131_25 中央が社長・いつもありがとう

 十分満足したわけではないが、あまりにも寒いので定時の3時を待たずに引き上げた。来年は日当たりのよい場所で風よけになりそうな場所を確保しよう、と皆で誓い合う。

 そのまま帰れば良いのに、何となく物足りない気分で、名古屋でもう一カ所寄ることにした。私が提案した、名鉄デパート屋上の「牡蠣のどんどん焼き」というのを食べに行く。缶に牡蠣をたくさん放り込み、穴つきのふたをして蒸し焼きにする。殻つきで蒸し上がった牡蠣を専用のナイフで開いて食べる。このうまいこと。あっという間に五人(一人用事で先に帰った。この連中と飲み続けると危ういと考えたのだろう)で6キロも食べてしまった。

 とても仕合わせな気分のまま、来年の再会を約束して解散。

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