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2015年3月

2015年3月31日 (火)

白川郷から五箇山

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東海北陸道を北上し、白川郷ICで降りる。白山がまぶしい。
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わが愛車、アテンザ。
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五箇山の集落で見つけた。
このあと、五箇山の合掌集落の一つ、相倉集落に向かう。

目黒孝二「活字三昧」(角川書店)

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 著者のひと月に購入する本が、文庫をのぞいて120冊から150冊、一年間の読破目標が1000冊という。読めない日もあるから、一日三冊読まなければ達成出来ない。私のようにリタイヤして朝から晩まで読書出来る身分ではなく、仕事を持ちながら、である。

 目黒孝二、又の名を北上次郎。いまや書評家としてその名はよく知られている。彼の活字に対する淫し方は、椎名誠が「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」の文章にデフォルメして表現している。

 彼の読書の仕方をこの本で知る。本をきっかけにそれに関連した本を読み、そこから次々に展開して本をあさって読破していく。これはまことに正しい読書の仕方だけれど、必ず展開していくごとに読みたい本が増えていく。物理的に読破不可能な、膨大な本の山に踏み込むことになる。

 このとき目がくらんで引き戻せれば良いけれど、ここで嬉々としてその山に踏み迷う人、それが目黒孝二だ。

 ここまで嬉しそうに本を読む人、そして語る人はうらやましい。本を読むエネルギーが無限にあるようだ。自分では多少は本を読む人間だと思っていたけれど、けた違いの書痴に脱帽した。しかし更に上を行く人がいくらでもいるのだから世の中は恐ろしい。くわばらくわばら。

*「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」については「旅する文学館」→「椎名誠の仕事 聞き手 目黒孝二」で検索するとその作品の背景などが分かります。他の作品についても二人が語っていて、とてもおもしろいので一度見てみてください。椎名誠の初期の作品の解題になっていて、お勧めです。

2015年3月30日 (月)

金沢へ行く

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 しばらく単身赴任で金沢に暮らしていたので(子どもが巣立ったのでいまも独り暮らしだが)、名古屋へ戻ってからも自家用車のスタッドレスタイヤは金沢のタイヤリース会社で毎年借りている。交換したタイヤを預かってもらえるし、古くなれば自動的に新しいタイヤが借りられるので、多少割高になっても重宝している。ついでに金沢を訪ねることもできるし、若い友人に会うこともできる。

 若い友人にいつまでもロートルが時間を割いてもらうのはちょっと気が引けているが、先日名古屋を訪ねてくれた別の若い友人が「声をかけたら喜ぶと思いますよ」と嬉しいことを言ってくれたのを頼りに連絡したら、会うのを楽しみにしている、と返事をもらった。素直に嬉しい。

 というわけで明日は金沢へ行く。さいわい明日の天気はなんとか持ちそうだ。明後日は雨、どこにも寄らずにただ帰ってくることになりそうだ。それに3日には大阪泊まりだからそれでよいのだ。しばらく出入りが続く。その後はまた千葉へ老母の介護の手伝いにしばらく実家に滞在予定。

 3日に会う予定の友人と二人で群馬の周大兄を訪ねたいと思っているが、老母の介護の前か、帰ってからか、いまは決めかねている。

やっぱり!

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 本日は定期検診日。体重はリバウンドしている(たった3キロ)し、最近はほとんどドライデーを設けていないから、もしかして、と思っていたら・・・。

 やっぱり血糖値は正常値をオーバーしていた。

 いつもの女医先生はちょっとおかんむり。「体重を元に戻しなさい」と冷たく言い放つ。先生、いつの間にか名字が変わっていた。まさか結婚したのではなく、離婚したのだろうか。

 朝食を抜いたから(空腹時の血液検査のため、絶食)腹ぺこだ。さあ、たっぷり食べるぞ。

金田一春彦「ことばの歳時記」(新潮文庫)

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 詩が苦手である。ときに心を動かされるものがあるが、詩からイメージを想起することがうまくできないことが多い。とくに俳句や短歌に嫌われている。数多くの句や歌をそらんじている人を見ると感心して尊敬するとともに自分にその才のないことに悲しい思いがする。

 理由の一つに、樹や草花、鳥や虫などの名を知らないことがあると思っている。花鳥風月を愛でる気持ちはある。しかしそれを言葉で表現出来ない。名前や表現を知らないからだ。俳句や和歌に表現された植物や動物の名前を知らなければ、それをイメージ出来ない。

 高校生のときに古典がとくに苦手であった。苦手なまま敬遠してそのまま生きてしまったから、勉強する機会を失ったままだ。

 しかしこの歳になってそれが残念なことであったことにようやく気がついた。いつも拝見しているブログで鳥や草花や樹や虫の写真と名前を見ることができる。その知識に敬意を感じるとともにうらやましさを覚える。私よりも見えている世界の濃度と密度が高いからだ。

 この「ことばの歳時記」という本は、一日一ページ、一年三百六十五日、その季節にちなんだことばを取り上げて文章にしている。知らなかったことが多い。著者にとって「ことば」は自家薬籠中のものである。ユーモアを交えたその文章は軽くて読みやすい。書かれた時代(昭和四十年)が時代なので、話題に古いものもあるが、それも一興である。

 ことばを知るには古典の素養が必須であることを教えられる。ときには古典をひもとくことにしようか。

2015年3月29日 (日)

フライイング

140401_36 名古屋城お堀のさくら

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昨年と一昨年の名古屋城のさくら。今年のさくらはまだ見に行っていない。

 

ちょっとフライイング。

年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず。

 

2015年3月28日 (土)

廃墟

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海辺のペンションででもあったのだろうか。プールは水を張れば使えそうなのに建物は朽ち始めている。夜、こんな建物の中に入ったらさぞ気味悪いことだろう。

こういう建物が全国の観光地に点在している。廃墟は浸食する。

海の彼方に見えるのは利島(としま)。

石平「なぜ中国は覇権の妄想をやめられないのか」(PHP新書)

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 著者の石平氏は天安門事件で中国を離れたという経緯から、当初やや感情的に中国の言動を批判する論調の本を書いていたが、最近は冷静で論理的なものになってきた。立ち位置は中国に批判的であることに変わりがないが、一方的なものの見方をすることはない(親中国的な人からはそう見えないかも知れないが、それは逆にそのような人が一方的な見方をしているからだともいえる)。
 昨年出版された「なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか」は山本七平賞を受賞している。歴史的に日本が中国との交流が盛んだったときと距離を置いたときとを比較してみると、日本が中国と距離を置いたときの方が、日本は平和で文化的にも経済的にも成熟していたことをあきらかにしたものだ。新しい視点を提供したことが評価されたのだろう。
 「中華思想」というものなど存在しない、という歴史家もいる。過去の中国にそういうものがあったとしても、現代中国にそんなものはないという者もいる。それを完膚なきまでに打ち砕くのがこの本だ。現代中国は「中華秩序」を再建するべく行動していることを事実を列記して明快に証明している。
 中国人自身にその自覚があるかどうかが問題なのではない。すでに深くその心性が組み込まれてしまっていることにより、その思考は「中華思想」に基づき「中華秩序」を求め続けることが彼等の本能的なものにまでなっていることを歴史的に、そして現在の習近平の行動の解析を通して明らかにしているのだ。
 この本を、先入観を持たずに読み通して欲しい。どうして中国はこんな理不尽なことをするのだろう、なぜ韓国はその中国にすり寄るのだろう、ベトナムはどうして中国に対して強硬な姿勢を取るのだろう、等々の疑問がすべて氷解するであろう。そして日本が中国に対してどのような行動を取るべきかという答えもおのずから明らかになる。
 やはり中国は世界の安定のために民主主義の国になる必要がある。それは極めて困難なことではあるが。
 この本は良書である。養老孟司も絶賛しているというではないか。

2015年3月27日 (金)

長生き

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 長生きは目的ではなく、結果だと思う。だれだって長生きしたい。秦の始皇帝のように永遠の命は求めないけれど、せめて平均寿命くらいは生き続けたいと思う。

 けれどもどんな状態であっても生き続けたい、というわけではない。最近そう思うようになった。自分がほとんど自分ではない状態で、ただ生きている、というのが本当の長生きといえるのか。生物としての体は本能的に生き続けようとするだろうけれど、人間は生きる意味を意識して生きるものだ。そうでない人もいるかも知れないけれど、私はそうだ。

 だからその生きる意味が希薄になればそろそろお迎えが来てもあきらめもつくし、人生に満足もできる。そういう意味ではいまはおまけの人生を生きているような気がしている。連日そこそこ楽しんで生きている。いまさら誰かのためにせっせと励む、というつもりもない。その体力も気力もない。したいことはするけれど、したくないことはなるべくしない。役立たずは退場せよ、というなら退場することにやぶさかでない。

 願わくば、人の世話にならないで自分のことは自分でできる状態がなるべく長く続いて欲しい。

 いま、人は長く生きすぎるようになった。

*別に、鬱状態ではない。本音である。この頃ずっとそう思っている。しかしそれも健康を損なえば気持ちがどう変わるか自信はない。

Dsc_3492 理想の長生き老人?

2015年3月26日 (木)

富士山を見る

伊豆東海岸から天城を越え、三島経由で名古屋へ帰った。

三島から伊豆縦貫道という新しい道路ができていて、極めてスムースに新東名に乗ることができた。

本日も快晴。伊豆高原から富士山がきれいに見えた。

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五つ年上の兄貴分の人、十歳年上の長老との三人旅。兄貴分の人はちょっと体調がよくない上に腰痛らしく、だんだん機嫌が悪くなってきた。丁度好い加減の切り上げ時であった。長老はいつもどおり体調万全、静かにニコニコしている。人間の出来が違うのだ。名古屋駅で解散。走行距離約1300キロであった。

伊豆の夜明け

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夜明け直前の大島。

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太陽が顔を出す。

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水面から離れる瞬間。

今日も快晴。本日、名古屋に帰る。

2015年3月25日 (水)

銚子と海ホタル他

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銚子の海から昇る朝日。

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オーシャンビュー。左手に犬吠埼の灯台がある。

Dsc_3565 木更津を通って海ホタルへ。今日も富士山が見える。風がとても冷たい。

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木更津側。これから湘南海岸を通り、伊豆へ向かう。

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伊豆のホテルの部屋もオーシャンビュー。正面は伊豆大島。

2015年3月24日 (火)

富士山と灯台他

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千葉県の西南端、洲崎灯台から富士山がくっきりと見えた。冬でもめずらしいことである。

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洲崎灯台。

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野島崎灯台。

房総半島の太平洋側を北上する。養老渓谷へ立ち寄ろうとしたら、選んだ道が通行止め。あきらめてそのまま太平洋側を銚子へ向かう。

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犬吠埼灯台。

夕方までずっと快晴が続く。今晩の宿はこの灯台のすぐ近く。

地球が丸く見える展望台へ行く。本当に丸く見える。ここは絶景。

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展望台から飯岡方向を望む。有名な屏風ヶ浦の断崖。

明日は伊豆へ。

富士山が見える

ホテルの部屋の目の前は海。

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正面に館山の街の一部が見える。左の山は鋸山の裏側と思われる。

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左手にきのうふぇリーに乗った乗った三浦半島が。

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更に左手に目を転ずればかすかに富士山が見える。

2015年3月23日 (月)

房総へ

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三浦半島の久里浜からフェリーで浜金谷へ渡った。

浦賀水道はさすがに船の行き来が多い。今晩は館山の先のホテルに泊まる。オーシャンビューのすばらしい部屋。

夕方から風が強くなり、波頭が白くなった。

春の房総半島

 今日から兄貴分の人たちと三人で、春の房総半島、銚子、伊豆半島にドライブ旅行に行く。房総半島や銚子は、もともと千葉生まれで千葉育ちの私としては自分のグラウンドである。とはいえ千葉を離れて40年以上。いまの千葉を詳しく知っているわけではない。距離感と地名だけは記憶にあるが、道路もずいぶん変わった。ほとんど初めて行くのと変わらない。

  気温は低いらしいけれど、さいわい天気は大丈夫らしい。愛車のアテンザでせいぜい春の千葉と伊豆を堪能して来るつもりである。

2015年3月22日 (日)

シンシアリー「韓国人が暴く黒韓史」(扶桑社新書)

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 著者は韓国人だという。韓国人の歯医者である、とこの本でも語っている。すでに「韓国人による恥韓論」「韓国人による沈韓論」という著書が扶桑社新書から出版されている。題名が読者の目をひくために多少過激で誤解しそうだが、内容は冷静で感情的なものではない。

 韓国について書かれている本は表面的な事象のみあげ連ねた嫌韓論的な本(嘘が書かれているわけではない。それなら論外だ。けれど、論に都合の良いものだけを選んでいることが多い)か、韓国に長く親しみ、韓国が好きな人が、現状の韓国の反日激化を憂えた本である(こちらは、問題は韓国マスコミや学者、政治家にあり、韓国民自体はそれほど反日ではないとする立場が多い)。

 ではこの本はどのような立場にたって書かれているだろうか。

 韓国人として、韓国の現状の異常さを心の底から憂えている。韓国の長い歴史から醸成された国民性を丁寧に語り、それが近代史にどのように反映されたか、そして戦後、大韓民国が成立してからの現代史の中でどのような政治が行われてきたのか、自国のアイディンティティーを確立するために、どのように反日を利用してきたかが克明に記されている。

 読むのが多少つらいところがあった。韓国人は哀れだ、と感じさせられた。彼等自身が著者のように自国の歴史に真正面から向き合わない限り、韓国は真の自立を達成出来ない。

 韓国という国は国際社会の一員としてはまだ驚くほど未熟な国だということが、ここまであからさまにされたのは初めてだろう。中国と同じくまだ精神が子どもだなのかも知れない。だから法律というものがどういうものか、条約というものがどういうものか、正しく認識出来ないのだ。そして他国を自国の価値観の中でしか考えることができない。

 この本は韓国人こそ読むべきだと思うけれど、いまの韓国人にはこの本を読む勇気はないだろう。迷妄だとして激しく否定するだろう。

 この本で指摘しているように、韓国が心から願っているのは日韓条約を、改訂ではなく、なかったことにしたいということなのだろう。そう考えるといまの韓国の行動の多くが得心される。

 正直恐ろしい本だ。多少は持っていた韓国に対する希望が打ち砕かれてしまう。しかしその絶望から構築しないと、つまり無関係から関係を始め直さないと、韓国との正常な関係は始まらないのかも知れない。

本文から(冷静な著者もここでは多少興奮して激しています)
 
 相手を否定することでしか自分を肯定できないバカも、自分を否定することで誰かを肯定出来ると思っているバカも、問題解決にならないのは同じです。

 どちらが韓国で、どちらが日本だか分かりますよね。

江戸川乱歩「魔術師」

Dsc_3404 横尾忠則の挿絵 左の文字の部分に注意!そう、この挿絵は逆さまに綴じられている。

 明智小五郎は、難事件「蜘蛛男」を解決して疲労困憊した心身を、静かな湖畔の宿でいやしていた。そこで彼は美しく魅力的な女性、玉村妙子と出会い、親しく歓談するようになり心ひかれる。彼女は宝石王の娘であった。その彼女は叔父が脅迫状らしきものをもらったと聞き、急遽帰郷してしまう。

 あり得ない状況で届けられる連日の脅迫状、そして完全な密室での殺人、不思議な笛の音、不思議な長身の怪人、そして名探偵明智小五郎も事件に巻き込まれていく。

 この事件の真犯人は明智小五郎の最強の敵と言っても良い。なんと明智小五郎も犯人の手に落ちてしまうのだ。その明智小五郎を助けたのは意外な人物であった。

 犯人「魔術師」の目的は父の復讐であった。その復讐が成功したかに見えるのだが、危機一髪で被害者は救出され、「魔術師」は不思議な呪いの言葉と供に倒れる。

 事件が落着したかに見えた後に、もうひとつ魔術師の大きな仕掛けが秘められていた。そしてそれを明智小五郎が見破ることによってこの事件のすべてのトリックの真相が明らかになる。

 後に明智小五郎夫人となる女性との不思議な出会いがこの物語に華を添える。「怪人二十面相」や「少年探偵団」にも出てくるあのすばらしい女性だ。

 小林少年など、紅顔の少年を身近に置くことから、明智小五郎は同性愛者ではないか、との指摘もあるが、ちゃんと夫人がいるのだ。そんなことを言ったらシャーロック・ホームズにはワトソンがいる。男でコンビを組んだらみんな同性愛者か?中にはそうとしか見えないのもあることはあるけれど・・・。

 しかし同性愛者ではないことを強調する、というのは同性愛を否定することで、偏見があるとして非難されるかもしれない。変な世の中だ。

2015年3月21日 (土)

葉室麟「春雷」(祥伝社)

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 羽根藩が舞台の第三作だそうだ。それぞれまったくつながりはなく、独立した話だ。

 私利私欲とは無縁の清冽な生き方をする主人公を造形するのは著者の得意とするところだが、この本の主人公はその突き抜けかたがいままでとは違う。すでに死を覚悟している、というより、すでに自分を死んだものとして生きている。だからほとんど彼の生き方が理解されることはない。辛酸をなめながら歪まず曇りなく世の中を見ることのできる一握りの人だけが主人公の真の姿を感じ取ることができる。そのようなひとは人一倍生きるのに苦労するのがこの世の中だ。

 鬼と呼ばれてひとから憎まれながら、更に困難な状況に自分を追い込んでいく主人公には秘めた目的があった。最後は息を呑むような緊張感の中で彼の哄笑が響く。こうなるだろうというラストは鮮烈だ。

 あらすじをまったく書かないのは、今回は面倒だからではなく、これから読むひとのためを思ってのことだ。絶対おもしろい。

 蛇足だが、この本の中では、正論で主人公を弾劾する藩の重役や御用学者の正義を激しく非難している。私にはそれらが、正論のみ唱えて現実の問題解決になんの寄与もしない、いまの野党やマスコミの姿を映し出しているように見えた。葉室麟はあんがい硬派なのだ。

雑感

 くしゃみが立て続けに出る。眼のまわりが痛痒い。七、八年前から典型的な花粉症の兆候を呈しているが、のべつ幕なしと言うほどでもない。年ごとにひどくなるように聞くし、つらい思いをして病院に行く友人もいるが、我慢出来る程度のままだ。

 床屋に行こうと思いながら一日延ばしにいるうちに、なけなしの髪ながら伸びすぎるほど伸びてしまった。床屋へ行くのがおっくうなのもあるが、それよりいまはくしゃみが怖い。髪を切っているときはもちろん、髭でも剃っているときなら危険だ。

 とはいえあまりにもむさ苦しくなったので様子を見ながら昨日思い切って床屋へ行った。さいわい、かすかにむずむずするだけでひげそりまでは無事終了したが、最後の整髪の最中に、たえきれずにわかにくしゃみを連発した。

 リタイアしたら屋久島に住みたいと思っていた。庭にちょっとだけ野菜でも植えて、魚は自分で釣りでもして、時には漁師に分けてもらって、日がな一日読書三昧でもしたらどれほど幸せか、と想像した。人嫌いと言うほどでもないが、独りでいることはそれほど苦にはならない。

Dsc_3417 屋久杉・400年前に切り倒された。切り株の中のうろは十畳敷きの部屋ほどあるという。信じられない大きさだ。

 そんなことを思ったのは、屋久島の中古住宅なら四百万円も出せば庭のある土地付きの家が買えると知ったからだ。どんなところか知らないし屋久島には行ったこともないのだが。だからテレビで屋久島が紹介される番組があると気がつけばたいてい見る。

 K市の周大兄が遊びにおいで、という。美女といっしょに待ってくれているという。行きたいけれど、たまたましばらくはいろいろ予定が飛び飛びに立て込んでいる。もちろん、行く、と決めれば無理出来ないことはないし、いろいろ泣き言を聞いてもらいたいこともあるのだが、せっかく行くのならゆったりした気分で訪ねたい。

 NHKの時代劇ドラマ「雲霧仁左衛門」の第二シーズン(全8回)がもうすぐ終わる(昨日第7回放映)。物語はここで完結するので次はないのが残念。

2015年3月20日 (金)

物まね

 韓国が腐敗撲滅運動を行うらしい。それだけ腐敗が多いのだろうか。思うに、中国の習近平による腐敗撲滅運動が民衆の喝采を浴びて、結果的に支持が極めて高いことが、支持の低迷している朴槿恵大統領にはうらやましかったのだろう。同じことをすれば支持が回復すると期待しているのかも知れない。まず前大統領の李明博氏がやり玉に挙げられている。こうして韓国の大統領は辞めた後にほとんど哀れな末路を迎える。

 ところで安倍首相がアメリカ上院と下院合同議会の会場で演説することがほぼ決まったようだ。この話がアメリカで検討され始めたとき、韓国が繰り返しアメリカに対して安倍首相の議会演説を取りやめるよう要請していたというニュースを見た。アメリカ議会では、例の反日言動を繰り返しているマイク・ホンダ議員だけが反対(日系だからこその反日なのだろう)を叫んでいるが、おおむね了承しているようだ。

 しかし他国の首相が他国の議会で演説することを阻止しようとする韓国とはどんな国だ。しばしば中国がダライ・ラマや李登輝の訪米に際して同様の介入をすることがあった。アメリカだけではなくイギリスやもちろん日本にも外交的な圧力をかけてきた。とはいえそれ以外にそんなことをする国は思い当たらない。

 安倍首相が演説した内容について、後からクレームをつけるのなら分からないことはないが、韓国がなぜこれから行われる安倍首相の演説にたいしてそれほど阻止したいのか、いろいろ解析はあるようだが、正直理解不能だ。アメリカもそう思っているのではないか。

 これも腐敗運動と同じく、中国の物まねなのだろうか。そういえば朝鮮は自ら小中華と名乗り、そう呼ばれることを誇りとしていたというからまねするのが当然で、おかしいと言われたらびっくりするかも知れない。

 中国はいま言論統制が強化されている。ジャーナリストや学者が中国政府批判らしきものを発表すると次々に拘束し、時に投獄している。いままでもそうだったが、大分エスカレートしているように見える。そういえば韓国も言論統制を強化するらしく、そのための政府の部署が新設されるというニュースも報じられていた。これも物まねか。朴槿恵大統領もなりふり構わなくなってきた。しかしそれで支持率が回復し始めているのだから、韓国という国は不思議な国だ。

カルタゴの遺書

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 チュニジアでテロがあった。ISが犯行声明を出したという報道もある。チュニジアと言えば、おお、カルタゴのあったところではないか。カルタゴはチェニスの近くにあった地中海に面した小さな国だ。

 カルタゴは二千年以上前に通商国家として繁栄、古代ローマ帝国はまつろわぬカルタゴを嫌い、軍事力で圧力をかけたがそれをはねのけた。ハンニバルが率いた軍隊は古代ローマ帝国に勝利までしている。しかしそれは一時的なものだった。ついには徹底的に破壊された。それはなぜか。

 これについてその歴史を詳細に語り、どのように繁栄したのか、なぜ古代ローマ帝国に毛嫌いされたのか、なぜ滅びたのかを考察したのが森本哲郎「ある通商国家の興亡」(PHP文庫)である。

 バブルの崩壊を前にした(この本は1989年に出版された。文庫化は1993年)日本の未来をカルタゴの歴史を通して暗示する、という意図のもとに書かれている。

 世界史は大の苦手だが、森本哲郎先生の本だから通読出来た。非常に示唆に富んだ本で、いま読んでもいろいろ考えさせられるはずだ。まだ日本はその途上にある。

 だからチュニジアは私にとって遠い国ではない。その国がテロのターゲットになったことに激しい憤りと哀しさを感じている。

2015年3月19日 (木)

理由はどうあれ

 本日3月19日は名古屋大空襲の日だそうだ。終戦の年、昭和二十年のこの日未明の空襲で、800人以上が焼夷弾で焼き殺された。そのときの目撃者で、かろうじて生き延びた老人がその体験を語っていた。

 防空壕などで蒸し焼きにされた人たちの死骸が鶴舞公園にうずたかく積まれていたのを見たという。「最初ピンクに見えたその山が何を意味するか分からなかった。その山の途中から足が一本にょっきりと突き出しているのを見て、あっと思い、眼を逸らしたが、そのままそれが頭に焼き付いてしまった」そうだ。

 だれが戦争を始めたのか、その責任がだれにあるか、それは問われ続けなければならないけれど、一般市民を焼き殺すことだけを目的に空襲を行う行為は人間としておぞましい行為だ。戦勝国とはいえ、それが正義のためであった、という言い訳にはならない。しかしアメリカは原爆についても空襲についても決して謝ることはないだろう。正義とはそうしたものだ。

江戸川乱歩「猟奇の果て」

Dsc_3403 横尾忠則の挿絵

 双子でもないのにまったくうり二つの人間がこの世に存在する。一人はまともな科学雑誌の社長で、もう一人はどうも奇っ怪な人物らしい。科学雑誌の社長の友人がたまたまそのうり二つの男を目撃したことを伝えると、「実は・・」といっそう不可解な事実を告げられる。

 当初、実際にうり二つの人物が存在するのか、又はトリックなのか、どちらとも取れる展開がつづき、はっきりしない。それよりもその社長の友人という男についてのくだくだしい説明がある。江戸川乱歩にはしばしばこうして事件に巻き込まれていく変な男が登場する。これは江戸川乱歩自身のことでもある。

 前編はこの男がついに真相に迫ったところで終わり、後半はがらりとトーンが変わって明智小五郎の登場する探偵物語になるのだが、それ以上にSF的な味わいのあるものに変わってしまう。

 違和感のある話のまとめかたは、話を完結させるために致し方のないものだったのかも知れない。出版社から明智小五郎を登場させて欲しいと懇望されて無理やりそうしたともいう。無理があるので、明智小五郎がスーパーマンだったりお粗末だったりして、食い止められたはずの無用な殺人が起こってしまう。その代わりトリックのネタが分かりやすい。何をやっているのだ、明智小五郎!俺でも分かったぞ。

2015年3月18日 (水)

とても嬉しい

 今日、大阪の(私から見て)若い友人から夕食に誘われた。急だけれど否やなどあろうはずがない。こんな嬉しいことがあろうか。彼は全力で仕事に打ち込むタイプだから、忙しくて会うのは久しぶりである。会いたい理由が向こうにもあるのかも知れない。

 多少見当はついているけれど、私は素直でないので根掘り葉掘り聞かない。自分の考えだけを勝手にしゃべらせてもらった。彼等はこれからますます苦労するだろう。何をその中からつかんでいくのか楽しみだ。

 願わくばそれをじっと見つめて支えるひとのあらんことを!私はもう部外者だ。その布石は打っておいたつもりだけれど・・・。

 好きなようにやってみな。君は正しい道を歩んでいると思うよ。

苦手なのに次々と

1310_190 不思議な海に迷い込む

 面倒くさいことが大嫌いである。煩わしいことが重なると逃げ出したくなる。だれでもそうだというけれど、自分では格別横着者だと思っている。それでも生きていくのに最低のことは処理していかなければならなかったから、なんとかこなして来た。

 だから、それすらやらずにのうのうとしている人を見ると人一倍腹が立つ。親のすねをかじりながらフリーターや引きこもりをしている若者(最近は必ずしも若くなくなってきたようだ)にはつい辛口の気持ちになる。甘ったれるな!

 営業だったので、車で地方まわりをすることが多かった。移動の時には車でラジオを聞いている。人生相談も好きな番組の一つで、嫁しゅうとの関係や遺産相続、夫婦関係についての相談と合わせて、教育に関しての相談も多い。とくに子どもが不登校になった、という相談が多かった。

 そんなとき教育評論家や教育学者はほとんど口を揃えて、無理に学校に行かせようとしてはいけない、自発的に本人が行く気になるまで黙って見守りなさい、そのまま不登校が永遠に続くことは決してあり得ない、立ち直ります、と回答していた。

 多少疑問を感じながらもそんなものかと納得していたし、ひとにもそれを受け売りして言った記憶がある。

 いま考えてみれば、不登校の理由はさまざまあったはずで、いじめや教師との相性など、外部的な要因が大きいものはその問題を解決することがまず必要だろう。先生にもひどいのがいるし、生徒にもどうしようのないものがいるのはだれでも知っている事実だ。

 内因性のものには、自分で、これではいけない、と立ち直る場合もあるだろう。教育学者や教育評論家はそのような例ばかりを選んで取り上げていたのではないか。

 不登校から引きこもりになり、そのまま成人となり、三十を過ぎ、いまでは四十を過ぎてそのまま引きこもっているものもいる。自分のことだけを中心とした世界に住み続けて妄想の世界にはいり、ついに淡路島の男のように人を殺傷することもあるのではないか。

 不登校児童、学生がどのような経緯をたどっていくのかきちんと追跡調査したものがあるのだろうか。教育学者や教育評論家は理想論からのご託宣を口から出任せに言うよりも、そういう地道な仕事をしたらどうか。親に対して、見守りなさい、といい、放っておきなさい、としか聞こえない言い方をした彼等には責任がある。

 話が逸れたが自分のことだ。ようやく煩わしいことから解放されて自由になった日々を楽しんでいたのに、暗雲がたちこめてきた。老母の介護のことは良い。これは自分で納得出来ている。意にそわないことがそれに被さってのしかかってきそうな可能性が出て来た。それについては説明出来ない。だから何のことか分からないだろうけれど・・・。

 私は煩わしいことも面倒くさいことも人一倍嫌いなのに!なんだか胃のあたりがキリキリする。

 今日、名古屋で用事ができたので、昨晩千葉から名古屋へ帰った。東名高速の大事故(?)で音羽蒲郡と岡崎のあいだが通行止めになってしまった。音羽蒲郡で国道一号線に降ろされたが、降りるだけで一時間かかった。深夜の国道一号線下りはトラックでぎっしり。家へ帰り着いたのは三時過ぎ、四時のテレビで通行止め解除を報じていた。参った。

2015年3月17日 (火)

江戸川乱歩「虫」

Dsc_3401 横尾忠則の挿絵

 人が死んで腐爛していく様子を克明に描いた画や話はいくつかある。この話もその一つ。愛する人を独占したいために相手を殺してしまう。しかも相手は自分を毛嫌いしていた、などという話は身勝手すぎて現実には常人の理解の外だが、江戸川乱歩の筆にのせられるとそれが必然的な出来事のように思えてくるから怖い。

 そうして自分だけのものになった愛する人が、「虫」によって異様な変貌を遂げていく。その現実の死体の変化と、狂気の主人公の目に映る愛する人の姿が微妙に異なりながら、リアルに描かれていて死臭が漂うようだ。

 しかし実際には、本当に起こりえることの中から江戸川乱歩が選択して描写していることを分かる人は分かっている。このことを描けば狂気の熱も冷めてしまう、という哀しいこともあるのだ。

 書き手も読み手もそうしたことを承知の上で想像の限界を楽しむ。人間には心の闇をのぞき込みたいという奇妙な欲望がある。そこから危うく現実に戻ってバランスを取りたいという心の働きがあるのかも知れない。心のバネが健全であることの証でもある。

 怖いのは、たがが外れてそれを超えてしまう者だ。残虐な事件に嫌悪を抱きながら強い好奇心を持つのは、ひととは何か知りたい、という思いの表れだろうか。自分探し、などという言葉に心が動くのはそのためかも知れない。

 物語のラストは身の毛もよだつ、正視に耐えない恐ろしいものだ。

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江戸川乱歩「押し絵と旅する男」

Dsc_3402 横尾忠則の挿絵

 江戸川乱歩の最高傑作と評する人の多い短編だ。主人公が魚津の蜃気楼を見て、不思議なものを見た興奮がさめやらぬ帰りの列車の車中で、ふと眼が合った男から見せられた一枚の大きな画と、語り聞かされた夢のような物語。その画のなかには二人の人物の、精巧を極めた押し絵が収まっている。

 ある意味でおとなのファンタジーなのだが、そこには残酷な事実が隠されている。

 押し絵の美しい若い女に恋をして、自らも押し絵となって彼女のかたわらに収まった男の至福は永遠のものだったのか。その男の気持ちを想像出来る者だけがこの物語の残酷さを感じることができるだろう。

 夜汽車の中でふと目が合った男に話しかけてはいけない。

 画の中の女性に恋する、といえばあのスーパーマン俳優、クリストファー・リーブが主演した「ある日どこかで」という不思議な映画を思い出す。大好きな映画だ。時空を超えた恋は不思議な成就の仕方をする。

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2015年3月16日 (月)

長谷川伸「相楽総三とその同志」(講談社学術文庫)

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 この本は歴史小説として読むことができる。著者の長谷川伸も、当初論説を書くつもりだったが、取りやめてこのようにしたと語っている。資料を集めて本を完成するのに十三年かかった。

前書きに言う。

 相楽総三という明治維新の志士で、誤って賊名のもとに死刑に処された関東勤王浪士とその同志であり又は同志であったことのある人々のために、十有三年間、乏しき力を不断に注いで、ここまで漕ぎつけたこの一冊を、「紙の記念碑」といい、「筆の香華」と私はいっている。

 著者の長谷川伸は「沓掛時次郎」「瞼の母」「一本刀土俵入」など俗にいう股旅もので知られる時代小説作家である。家の事情で小学校二年までしか就学していない。独学で小説家になった。門下に、村上元三、山岡荘八、池波正太郎、平岩弓枝など錚々たる面々がいる。

 たびたびいうように池波正太郎や平岩弓枝の大ファンなので(祖父母の蔵書にあったので、村上元三や山岡荘八の本も若いときに少なからず読んだ)、長谷川伸については興味があり、股旅ものを何冊か読んでいる。しかし股旅ものの作家がなぜこれだけの人々の師匠であるのか、正直不思議であった。

 今回この「相楽総三とその同志」を読んで、長谷川伸の巨大さを初めて知った。これも相楽総三にずっとこだわってきたお陰であり、不思議な縁を感じる。

 この本は昭和18年(1943年)に上梓された。戦時中である。その後1971年に出版された「長谷川伸全集」に納められたものを底本に文庫化したものだ。長谷川伸は1963年に亡くなっている。

 膨大な資料、かろうじて生き残っていた係累の人々を訪ねての聞き書きをまとめて、そこから長谷川伸が考える維新前後の様子が描かれているが、もちろん異論も多く、それも分かる限りで併記されている。

 とにかくたくさんの人物について詳述されている。過去ほとんど取り上げられることのなかった人々についてはいちいちその人物の小伝を添えてある。この本のお陰で自分の祖父が、先祖がどういう人であったか初めて知った、という数多くの便りが長谷川伸に寄せられたという。

 歴史には見方によっていろいろな価値観が生じる。長谷川伸の価値観はある面で関東勤王労使たちを正当化しすぎているかも知れない。しかしそれは維新後明治大正を通じて汚名をかぶせたままうち捨てられていた彼等のための鎮魂の書、「紙碑」であるからだ。偏ったものを修正するにはある程度バランスを取るためにこのような見方を提示するのは許されることであると思う。

 この本に書かれたことは維新に関しての無数の出来事のうち、ほんのわずかな出来事といってもいい。歴史というのはライトの当てかたでこれほど奥深く興味深いものであることをあらためて教えてもらった。

 歴史を知るということはこういうものではないか、いまの歴史教育には根本的なものが欠けているのではないか。先日読んだ林望「知性の磨きかた」で、学ぶ、というのは方法を知ることである、ということが力説されていた。ものを知るための方法を正しく身につければ、それはすべてに応用出来る。その方法を子どもたちに教えず、知識だけ網羅的にならべていても、永遠に知性は磨かれない。知識はスマホでいくらでも調べることができるからだ。

 ただ知っているというだけの無意味さを教育者は気づかなければならないだろう。とはいえものを考えるための最低の素養は必要だ。

 今回相楽総三という人に対して持ち続けた強い関心が手がかりで明治維新前後の歴史に新しい視点を得ることができた。これは村松剛「醒めた炎」を読んで以来のことである。ある手がかりをもとに新しいことを知る、この喜びは何物にも代えがたい。

2015年3月15日 (日)

相楽総三

 「赤毛」という映画がきっかけで、赤報隊と相楽総三についてずっと気になっていた。あまりにも毀誉褒貶の差がありすぎるからだ。

 勤皇派は幕府と戦い、幕府を倒すことで新政府が初めて樹立出来る、と信じていた。だから坂本龍馬たちが仕組んだ大政奉還では徳川幕府の力がそのまま残存してしまう、つまり維新ではなく、革命が必要だと考えていたのだ。

 そこで薩摩はなんとか幕府側を挑発し、戦に持って行こうとした。そこで薩摩藩の江戸上屋敷を拠点に江戸市中でテロ活動を行うことにした。西郷隆盛や大久保利通の指示を受けて京都から派遣されたのは、益満休之助、伊牟田尚平の二人の薩摩藩士と江戸生まれ、江戸育ちの小島四郎の三人である。小島四郎は薩摩藩士ではない。

 小島四郎たちは関東の勤皇派の志士たちを糾合して薩摩藩に集めた。江戸市内で幕府に親しい豪商を襲い、金品を無理矢理供出させた。しかし実際には薩摩方がやったものよりも偽の勤王を語り、旗本の食いはぐれの次男三男などの押し借りの方が多かったようで、ために江戸の夜は無法地帯となった。これは薩摩側にとって思うつぼでもあった。

 同時に薩摩屋敷から関東各地に蜂起の画策が行われた。栃木宿、出流岩船、八王子、相州などに志士たちが派遣された。

 それらの画策は成功を期したものではない。幕府側が挑発に乗りさえすれば成功なのである。

 案の定、憤激する者たちを押さえきれずに、幕府は庄内藩を先頭として薩摩藩上屋敷の攻撃を命ずる結果となった。

 これがきっかけで戦いの大義名分が成立、鳥羽・伏見の戦いとなり、徳川は賊軍となり、勤皇派は官軍となったのだ。

 この小島四郎こそ相楽総三である。志士たちはとにかく変名をむやみに使う。この場合、本名が小島四郎で、相楽総三が通称である。他にもいくつか名前がある。だから資料を読み取るときに、その変名をしっかり押さえておかないと、同じ人を何人もの別の人と勘違いしてしまう。

 このような重要な役割をしてきた相楽総三なので、ニセ官軍などであるわけがないのだが、新政府は彼の名誉を長く回復せず、彼の名誉が回復されて、正五位を贈られたのは昭和三年のことだった。五十年の月日が過ぎていた。この雪冤については相楽総三の孫、木村亀太郎の血のにじむような苦労があったのだが、それは「木村亀太郎泣血記」という文章に表されている(長谷川伸「相楽総三とその同志」の冒頭に納められている)。

 御前崎の近くに相良という地名がある。私は当初勘違いしてここが相楽総三の出身地ではないか、などと考えたのだが、字が違うしまったく関係がないことをしばらくして知った。これも相楽総三のことが常に念頭にあったからだ。

シャグマ・補遺

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 前回のブログで、赤報隊がシャグマをかぶっていなかっただろう、と述べた。ところが「相楽総三とその同志」のなかに(本文P.478~479)

「相楽はその以前にも、林茂右衛門の世話になったことがあったのだろう。出立のとき、白鞘の短刀一口と、毛兜、采配などを、かたみだといって贈り、赤報隊の幹部からも乳切木を贈った。」

とある。毛兜とはシャグマのことではないか?それなら前回の話は根底から違うことになる。果たしてどうだったのだろうか。

 ちなみに乳切木とは「両端を太く中央に行くにしたがって細く削った棒で、護身用にする」ものだ。

 本日は用事で朝から出かける。精神的に疲れることになることが分かっている。戻ってからブログを書く余裕があるかどうか自信がない。

2015年3月14日 (土)

シャグマ

 昨日から長谷川伸の「相楽総三とその同志」(講談社学術文庫)という本を読んでいる。600ページ近くある上に丁寧に読んでいるので、多分二日間でも読み切れないだろう。

 相楽総三を知ったのは、「赤毛」という映画を観てからである。監督は岡本喜八、主演は三船敏郎、この映画で相楽総三を演じたのは田村高廣だった。相楽総三は赤報隊隊長、官軍の先鋒隊をつとめ、京都を出て信州諏訪、そして碓氷峠へと諸藩を鎮撫した。

 しかし進軍中、偽官軍と断じられ、賊徒の汚名を着せらて斬首された。鎮撫のために年貢半減を認可され、それを公言して歩いたことが新政府としては都合が悪かったため、相楽総三らの独断であるとして、なかったことにしたのである。これを指示したのは岩倉具視らであるとみられている。

 細かいことは読了した後に書くことにして、いまはシャグマについてである。シャグマとはあの官軍がかぶっていたライオンのたてがみのような赤や白の毛のかぶり物のことだと私は思っていたが、本来は赤い熊のことを言うのだそうだ。ただ、あのかぶり物のこともとくに赤いものはシャグマと呼んだようだ。映画でもそう呼ばれていた。

 赤いかぶり物は薩軍関係、白いかぶり物は長州軍と区別されていて、黒い毛のものもあったという。相楽総三はもともと下総の郷士で関東人だが、薩摩との関係が深いので、薩軍のシャグマをかぶっていたという映画の設定はおかしくないように見える。赤報隊と言う名前とも整合する。

 シャグマの毛は払子(ほっす・あの、坊さんが振りまわす、白く長い毛のついた棒)についている毛と同じく、ヤクという野牛の毛からつくられている。ヤクはチベット高原にしかいない動物で、普通の牛よりはるかに大きい。だから当時の日本では貴重なものであり、そんなものがにわか仕立ての官軍にふんだんに配布されることはあり得ない。

 時代考証家によれば、兜などの飾り物にこのヤクの毛をつけることもあり、江戸城の蔵に収蔵されていたのだという。江戸城開城の際、その蔵から官軍が略奪放題をしたときにこのヤクの毛がたくさん見つかった。そこでかぶり物に仕立てたと言うことらしい。

 そうであれば、赤報隊がシャグマをかぶっているはずがない。まだ江戸城は開城されていないからだ。つまり、「赤毛」という映画は肝心のシャグマがないので成り立たなくなってしまう。単純に「赤報隊始末」とでもしなければならないのだ。ただし会津戦争のときにはかぶっていただろう。

 長谷川伸や相楽総三については次回に少し述べる。 

11031_359 雲南省にて

ヤク。真っ白いのや真っ黒いのもいる。これは飼育されているヤクなので野生のものよりずっと小さい。雨の中、バスの窓越しに慌てて撮ったのでピンぼけです。

宮本輝「水のかたち 上、下」(集英社)

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 どうしてこんなところでじわっと涙ぐんでしまうのだろう。この本を読んでいてそんなことがたびたびあった。とくに泣かせようとしているところではない。ただ人間ていいな、変な人間でなくてよかったな、自分なりの美意識に忠実に生きて来てよかったな、と思ったのだ。

 いままさに更年期を迎えた主人公の志乃子という女性が、お伽噺のような幸運をつかみ、それをきっかけに次々に新しい出会いを経験して、自分自身を、そして家族や友人を見つめ直し、あらたに開かれた世界に飛翔していく。

 主人公の志乃子という女性が経験したことを、自分だったらどう受け止めてどう行動するだろうか。志乃子はたぐいまれな素直さと明るさをもともと持っている魅力的な女性だが、そのことに自分では気がついていない。彼女がその美質に気がついたとき彼女は大きく脱皮していく。平凡な世界がそのとき光り輝くものに変わるのだ。

 こういう本を読むと心が洗われる。どうして宮本輝という人はこんなに見事に人の心をうつ小説が書けるのだろう。

 読まないともったいないようないい小説です。あえてあらすじは書きません(うまくまとめるのが面倒くさいだけですけど)。宮本輝の世界にどっぷりはまってください。

2015年3月13日 (金)

悪夢

 縁は消えてなくならない。

 縁あった人の母親の認知症が進んでいるという。そのことで、東京で人と会わなければならなくなった。できることとできないこと、しなければならないかどうかは別として、したくないこと、というのがある。

 避け続けてきたことにいやでも直面しなければならないこともあることは承知しているけれど、じわじわと自分が浸食されそうな不快感がある。変な夢を毎晩見る。

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M・K・ジョーゼフ「虚無の穴」(早川書房)

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 よりによって今回持参したSF三冊のうち二冊がこういう本であった。シュールすぎて読むのに骨が折れてかなわない。現代音楽を無理矢理聴かされているような心地がする。

 ここに描かれているのは論理を超えた世界。宇宙の果てで、それ以上先は物理学を初め、論理が通用しない世界であるが、そこで遭難した者たちが見るものは何でもありの理解不能の世界で、それが描かれている。

 いま読んだ文章と次のページに書かれている文章にはなんの脈絡もない。時間は超越し、あるものであってしかもあるものでなく、なんでもありうるものでなんでもありえないものとして自分が存在する。

 あらゆる無数の物語がごった煮のように次から次に書き連ねてあり、瞬間的にイメージを結ばせると、次のページではまったくそれとは相容れない物語が展開する。このイメージ一つずつをきちんと統一した、完結したストーリーにすることも可能ではないかと思うが、それが次から次にめまぐるしく提示されるとついて行くことがついにできなくなっていく。

 これだけたくさんのイメージを紡ぎ出す著者の才能に敬意を表するけれど、二度と読み直したくない。きちんとついて行ける小説のほうが有り難い。疲れた。こういうのがいいという人もいるのだろうなあ!

誉田哲也「国境事変」(中公文庫)

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 ジウ三部作や女刑事・姫川玲子が主人公の「ストロベリーナイト」シリーズでいまや人気作家の誉田哲也の、これはシリアスなドラマだ。

 公安警察が密かに内偵をすすめている件と、ある殺人事件がクロスする。互いに反目し合いながら、自分の属している組織以上に護るべきものがあると信じる男たちの気持ちが通じ合う。

 東京で起きた殺人事件と、対馬で目撃された不審な情報が、恐るべき謀略につながっていることが次第に明らかになっていく。そしてついに流血の発砲事件につながっていく。北朝鮮をめぐるいろいろな国の思惑が、その尖兵となる者たちを迷走させ、犠牲者を生んでいくのだ。

 この本を買ってから、何度か読みかけて中断していた。リズムに乗れなかったのだ。出だしに問題があるのかも知れない。しかし今回はそれを一気に突破することができた。リズムに乗れば一気呵成、誉田哲也の本ならおもしろいに決まっている。ただ、ラストの真犯人の説明で明らかになる事実は、ちょっとひねりがききすぎてリアリティが損なわれているような気もする。

2015年3月12日 (木)

小浜逸郎「頭はよくならない」(洋泉社)

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 みもふたもない題名だ。巻末のあとがきに

「ところで、私はときどき、こういう下品で挑発的な本を書きたくなります。二十年足らずのキャリアを思いだしてみると、少なくとも三回はそういうことがあったなと思います。一人の生活人としての実感と言論界の空気とのあいだのギャップを自分のなかで処理しきれない感じがたまってくると、それを八方破れに吐き出したくなってくるのですね。今回「ゆとり教育」批判が高まるなか、ただの教育論のかたちでこの批判風潮に乗っても、もうあまりおもしろくないな、何か別の切り口はないものかなとくすぶりを募らせていました(後略)」とある。

 まことに挑発的な本なのだ。

 頭はよくならない、とはどういう意味か、それは本を読んでもらいたい。なるほど、と感心するか、なんたる暴論を吐くのかと怒るか、よく読んで、そして自分が頭がよいかどうかの判定の参考にしてください。

 ところで私は本論とは別のテーマに見える第三章「頭のいい知識人、バカな知識人」がとても痛快でおもしろく読めた。著者も本全体のなかでこの章は飛ばしてもいいほど浮いている、と認めているけれど、あとがきの「八方破れに吐き出したい」ものが、ここにこそあるような気がする。

 大江健三郎と瀬戸内寂聴がクソミソに酷評されているけれど、私はおおむね著者の見解に近い思いを抱いていたので大笑いした。先日読んだばかりの「差別感情の哲学」の著者、中島義道先生も取り上げられたひとりだが、多少問題点ありの部分があるとしながらも、おおむね「頭のいい知識人」として遇されている。

 Wikipediaで「中島義道」を調べたら、小浜逸郎は中島義道を評価しているものの「?」付きであるような書き方をしていたので気になったのだが、これで意味がよく分かった。たしかに中島義道の社会性を否定するような生き方は、一般的な社会人としては問題ありだから当然だ。人間はときには人に迎合して我慢しなければならないときもある。

映画「曹操暗殺 三国志外伝」2012年・中国

 監督チャオ・リンシャン、出演チョウ・ユンファ、リウ・イーフェイ、玉木宏、アレック・スー、チウ・ジンシー他。

 中国が魏・呉・蜀の三国に分かれていた時代、最強だった魏の曹操の暗殺をめぐる話である。物語では関羽が呉によって殺され、その首が魏の曹操に送られてくるシーンがある。丁度そういう時代である。

 後漢は実質上滅んでいたけれど、最後の皇帝である献帝は魏にあって曹操に護られていた。曹操の息子曹丕は献帝を殺して曹操を皇帝にし、自分が曹操の跡を継ぐことを夢見ている。場合によっては曹操も死んで構わない。献帝はもちろん曹操を亡き者にして後漢を再興したいと思っている。

 こうして次々にそれぞれの思惑で曹操に対する暗殺が計画され、実行されていく。

 実はそれ以外に意外な人物が曹操抹殺を画策していた。十年の年月をかけて暗殺者集団が育成され、そのなかに男女二人の刺客がいた。

 曹操という人物のスケールの大きさをチョウ・ユンファがどっしりと演じている。血も涙もないように見えて実は感情の奥深さも桁外れな曹操に、刺客の一人である美女・霊雎(リウ・イーフェイ)は見初められて側女となる。そしてもう一人、刺客になるために宦官になった穆順(玉木宏)も曹操の宮殿である銅雀台に潜り込む。

 暗殺者と曹操との戦いがこの映画のテーマだが、しばしば蜀が正義で魏が悪であると見なされる三国志の、魏の曹操は実は傑物だったという見直しが近年では良くされる。この映画もそのような見方をしているようだ。

 実際に曹操は自分の生きているあいだは献帝を廃帝とせず、最後まで自ら皇帝を名乗らなかった。曹丕は曹操の死後直ちに献帝から皇帝を禅譲されている。

 曹操がなぜ霊雎を愛したのか、これについては映画の中でも後半で説明されているけれど、切ない話なのだ。次々に三国志時代の英雄豪傑たちの名前が出てくるが、知らないと何が何だか分からないかも知れない。

 ところで玉木宏が中国の映画に出ているとは知らなかった。台詞の中国語もうまくこなしているように見えた。ただ、この映画が公開された当時、中国が反日で盛り上がっていたために、映画のポスターから玉木宏は消されたという。

 盛りだくさんにしすぎておもしろさが削がれているのが残念な映画だった。

2015年3月11日 (水)

美味しくない

 韓国の醸造酒、マッコリの日本向け輸出が激減しているとニュースで報じていた。嫌韓が理由のようなネットの記事もあったけれど、私の実感としては、物珍しさから飲んだものの、あまり美味しくないから飲む人が減ったのだと思う。

 試しにいろいろな種類のマッコリを飲み比べてみたりしたけれど、ついにこれは美味しい、というマッコリに出会えなかった。多分、韓国の風土と料理のなかで飲んだら違ったかも知れない。そういうものだ。

 なるほど、日本で飲むから美味しくないのだろう。でもいまは韓国に行く気がしないから韓国で飲む機会もない。やはり嫌韓が影響しているのだろうか。

0006 ソウルで

正面真ん中の店で食べたソルロンタンは絶品だった。ただしそのときの酒はビールだった。

バリー・N・マルツバーグ「アポロの彼方」(早川書房)

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 金星探査のために派遣された宇宙船が帰還する。二人の乗組員がいたはずなのに乗っていたのは一人だけ。船長が見当たらない。いったい何があったのか。金星に着陸することはできたのか。

 ところが真相を知っているはずの、帰還した宇宙飛行士エヴァンズは発狂していた。

 この本ではそのエヴァンズのモノローグが延々と綴られている。船長がどうなったのか、次々に違う説明が行われて、読んでいる方は混沌の世界にほうり込まれていく。

 最後までわけのわからない悪夢のような話を、ついに最後まで読み切らせてしまうと言うのは著者の文章の力だろう。もう一度読んでもう少し何かを分かりたいか?イヤイヤ、勘弁してもらおう。

 EVUNS・・・・VENUS アナグラムの罠。

  そもそもこれはSFか?

映画「ロボコップ」2014年アメリカ

11031_15 中国のロボコップ

 監督ジョゼ・パジャーリャ、出演ジョエル・キナマン、ゲイリー・オールドマン、マイケル・キートン、サミュエル・L・ジャクソン他。

 1987年の「ロボコップ」のリメークではあるが、ストーリーもほとんど違うし、テイストも違う。ただし、五体満足だった人間がサイボーグになったことの苦悩については共通している。

 こういうリメーク映画は特撮ばかりが進化したのに目を奪われがちだが、脇役陣がすばらしいからか、二番煎じの感じがほとんどしない。アメリカン・ヒーローの典型的な役割を踏襲しながら、それなりに楽しめる映画になっている。

 ロボコップを生み出した張本人であるレイモンド(マイケル・キートン)の悪役さの加減が多少甘いので、最後に殺されるのは少し可哀想な気がする。ゲイリー・オールドマンがまともな精神を持つ博士の役であるのがちょっと笑える。マッドサイエンティストに変貌するものと思ったのに最後までまともだった。それよりサミュエル・L・ジャクソンが狂信的なナレーターを嬉しそうに演じていた。ときに世論はこのようなナレーターに扇動される。

 1987年の作品では、主人公は死んだことにしてサイボーグ化され、人間的価値観をほとんど喪失した状態だったが、こちらは生き延びるためにやむを得ないとして家族の同意の下にサイボーグ化されていて、人間感情を持ったサイボーグとして再生する。ただしそれでは戦いに勝てないので次第にその人間的な側面をなくされていく、という悲劇を描いている。

 しかしそれでも封じこめられた自分のアイデンティティは科学を超えて甦る、というのが前作同様であり、いかにもアメリカ的だ。ありえないけど。

2015年3月10日 (火)

中島義道「差別感情の哲学」(講談社学術文庫)

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 差別とは何か、それを徹底的に考え抜いた本である。

 哲学とは何か。それは考える方法ではないか。みな哲学とは無縁に生きていると思っている。しかし真に生きることは真に自分の生き方を見つめ直し、考え抜くことでもある。その考え方を知るために哲学はある。

 この本を「差別」について理解するために読むのもいい。しかしだれもが「差別」について徹底的に考えることなしにいながら、実は「差別」とはなんなのかを本当に理解しているわけではなく、自分の「差別感情」に戸惑うことがしばしばあり、それにどう対処して良いか迷っている。

 その「差別」という問題を手がかりに、この本では哲学的な思考を知ることが出来る。

 哲学なのにテーマが切実なのできわめて具体的で分かりやすい。こういう本にいままで縁のなかった人もぜひぜひ読んで欲しい。ものごとを哲学的に考えると言うことがこれほど厳密で厳しいものなのか、と思うだろう。そしてそれを知ることで世界が多少は違って見えるに違いない。

 この本の結論を見て、なんだこんな回答しかないのか、と思うかも知れない。しかし著者がもがき抜いて考え抜いてたどり着いた答えであり、あなたはあなたなりの答えを見つけ出さなければならない。それこそが哲学的に考える、と言うことである。

 「戦う哲学者」の異名を取る著者の面目躍如たる名著である。ただし、著者と同じ生き方は常人には困難であることを言い添えておく。つまり普通ではない。普通であることを徹底的に嫌って孤高に生きる人なのだ。

 なんだか興奮して分かりにくい書き方になってしまった。つまり、この本を読めば、あまり苦労しないで差別についてとことん詳しく分かる上に、哲学的な考え方も分かるという、一冊で二倍ためになる本だ、ということです。

養老孟司「『自分』の壁」(新潮新書)

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 昨年読んだばかりの本を棚から引っ張り出して読み始めたら、本をおけなくなって読了してしまった。養老孟司が思いつくままに語った言葉を編集者が文章に起こし直し、更にそれを養老孟司自身が手を入れたという。だから養老孟司がわたしに語りかけるようでもあり、本を読んでいると言うより、聞いているような気がする。

 しかも養老孟司が言うように、生で語るのではなく、一度編集者の頭で咀嚼し直して文章にし直したことに意味があり、それだけ読者に何かが伝わりやすくなっている。たしかに養老孟司の文章は分かりやすそうで、実は、よくよく読むと良く理解出来ないことも多い。

 だから二回目は一回目よりも少し理解が深まった気がする。彼が若いときから(ほとんど子どものときから)考え続けたことをただ読み飛ばしても分かるわけがないので、自分の考えてきたこととシンクロしたところを手がかりに読み解かない分からないところも多いのだ。

 わたしはシュプレヒコールが虫酸が走るほど嫌いだ。それに和している人たちを見ると、信じられないものを見るような気がする。養老先生に同じ心性を見たりすると、ちょっと嬉しい。レベルは大分違うけれど・・・。

2015年3月 9日 (月)

昔話

 寝たきりで会話もできない母の前で、弟と突然思い出した昔の話をした。

 わたしがまだ中学生になるかならないころ、母と弟と妹とで房総半島に行った。楽しい旅だった。車などはないからバスを乗り継いでの旅だった。母は出かけるのが好きで、私たち兄弟はついて行くのが大好きだった。天気は快晴で、海は青かった。バスの中で突然母が顔色を変えて「財布がない」といった。バスに乗る前にみんなでかき氷を食べたのだが、そこに忘れたらしい、というのだ。

 わたしと弟は母を責める眼をしていたのだと思う。母はしょげかえっていた。幸い戻った店に財布はあった。

 そのことを思い出して弟にその話をしたら、弟も良く覚えていた。母はいつものように無表情のままだったけれど、目がきらっとしたように見えた。

ジョー・ホールドマン(風見潤訳)「終わりなき戦い」(早川書房)

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 久しぶりにスペースオペラを読んだ。スペースオペラとは宇宙が舞台の活劇を言う。ハインラインの「宇宙の戦士」に似ているけれど、こちらは主人公が生きているあいだに戦争は終結する。主人公が新兵として訓練されて、初めての戦いに参戦してから10年足らずの物語だが、実際には1000年近い月日が流れる。縮潰星を利用する特殊な航法で時空をワープすることにより、このようなことが起きるのだが、この縮潰星というのはつまりブラックホールのことのようだ。

 映画「スターシップ・トゥルーパーズ」三部作は「宇宙の戦士」が下敷きになっている。戦う敵は昆虫型の生物だから、残虐に倒してもあまり罪悪感がない。しかしこちらの「終わりなき戦い」では、敵はヒューマノイド型の生物で、倒すことに正義があるのかどうか疑問を感じさせる。そのことが全編に通底として流れていて、この作品が書かれた1970年代という、ベトナム戦争反対の気分が色濃く反映しているのだ。

 未来が次第に人工的になっていき、管理社会に変わっていく様子も描かれていて、ハクスリーの「すばらしき新世界」を思わせる。これは著者が意図的に狙ったものだろう。

 こういうシンプルなSFは読みやすくていいし、素直に楽しめる。

林望「知性の磨きかた」(PHP新書)

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 物事について考えるためには物事を知らなければならない。しかし物事を知れば物事について正しく考えられるわけではない。考える考え方というものがある。自己流に考えてもひとりよがりに陥りやすい。先人たちが袋小路に陥ったり落とし穴にはまったり艱難辛苦してようやくたどり着いた正しい道をたどらなければ、それは徒労に終わる。

 師匠や先生や先達というものは、道を外れたものを元の正しい道に戻すのが役割であり、手を引いて導いてはならない。道を発見し、あらたに道を開くのは弟子自身の役割である。弟子はそのような師に会わなければならない(まったく同じことを内田樹先生も言っている)。

 ものを悟る、ということはほとんど奇跡のようなことである。そのことの意味、それはある一部の人にとっては、ほとんど人間が生きることの意味と言っても良い。

 リンボウ先生がこの本で語っていることはそのことである。そのことに気がつくための心得が書かれているのだけれど、いまの世の中はそこから遠く離れたシステムの中にある。効率の悪い中にこそ奇跡は起こる。奇跡は効率からは生まれない。

 この本の意味を正しく読む人が少しでも多いことを祈る。わたしのような愚かな者が言うのはおこがましいのだけれど。

2015年3月 8日 (日)

映画「(キアヌ・リーブス)ファイティング・タイガー」2013年・中国・アメリカ

 監督キアヌ・リーブス、出演タイガー・チェン、キアヌ・リーブス、カレン・モク、ユエ・ハイ他。

 のっけからキアヌ・リーブスが悪役で登場するのでびっくりする。それと主役のタイガー・チェンがわたしには氷川きよしに見えてしまって困った。顔ばかりでなくて体型もよく似ている。氷川きよしがいかにシリアスに演技しようとも強そうに見えない。現実の氷川きよしはマネージャーに対しては多少強面だったらしいが。

 貧しいがまじめでやさしいタイガー(タイガー・チェン)は太極拳の師匠の元で厳しい修行に励んでいる。そのタイガーが師匠のために密かに格闘技の大会に出場し、勝利をおさめる。それを見た闇の格闘技大会を主催するドナカ(キアヌ・リーブス、なんという名前だ。田中の意味か)はタイガーを闇の格闘技大会に出場するよう誘う。迷うタイガーを出場せざるをえないように追い込み、タイガーは次々に強敵と闘うことになる。

 強敵を倒すに従い、次第に勝利にこだわり変貌していくタイガーを師匠は叱責し、さとすのだが・・・。

 太極拳はじつは最強だ、というお話だが、どうも血湧き肉躍る映画というわけにはいかなかった。監督(キアヌ・リーブス)が悪いのか、原作が悪いのか、氷川きよしが悪いのか。

140920_75 これはタイガーではなく、ジャガー

ISと文化大革命(の中国)

 高校生の時代(文化大革命の始まったのが1966年、わたしが16歳、まさに高校生のとき)から文化大革命について知りたいと思っていたので、それから五十年近く、関連する本を読んだり、ドキュメントを見てきた。2006年放映のNHKBS「民衆が語る激動の時代 文化大革命を乗り越えて」という、録画していた番組を久しぶりに見直した。ほとんどは紅衛兵だった人、その紅衛兵に迫害された人、労働者たち、下放された学生たちに対するインタビューであるが、その間に文化大革命当時のフィルムが挿入される。

 それを見ていたら民衆が寺や博物館に乱入して遺跡や仏像などを徹底的に破壊している。その様子は先日IS・自称イスラム国が世界に流した、古代の遺跡を破壊する映像とまったく同じであった。

 こういう国に文化財が残りにくいのは当然だろうな、と思った。

 文化大革命については語りたいことが多すぎるので、簡単には語れない。ただ、朝日新聞(当時我が家は朝日新聞だったからそれしか知らない)が文化大革命を礼賛していたことを記憶している。しかし文化大革命によって中国人の良心がかなり破壊されたであろうことは間違いない。たとえば子は革命のために進んで親を告発した。

 本日から老母の介護手伝いのために千葉へ行く。介護のかたわらまた読書三昧の日々となる。

2015年3月 7日 (土)

映画「チスル」2014年・韓国

 監督オ・ミョル、出演ヤン・ジョンウン、イ・ギョンジュン、ソン・ミンチョル他。

 「済州島4・3事件」についてのドキュメント形式の映画。この事件について知らないと、この映画ではまったくいきさつも経緯も知らされず、わずかに最後に説明があるだけなので、何のことだか分からないかも知れない。そもそも実話だと思わない人もいるのではないか。

Dsc_0044 現在の済州島

 「済州島4・3事件」について日本人が知らないのはある程度やむを得ないけれど、韓国人でも若い人はほとんど知らないかも知れない。もし知っていても口をつぐんでいる。この事件は台湾の「228事件」と並んで韓国でも住民の大量虐殺があったという血塗られた歴史だ。この事件については大分以前に済州島について取り上げたときに言及した。事件を知りたい人はネットで調べて欲しい。

 わたしは済州島に行く前に本(文京沫「済州島四・三事件」(平凡社))でこの事件について読んでいたので、ガイドに特に要望してその事件の記念館を訪ねた。

Dsc_0243 四・三事件記念館

 この映画ではアメリカ統治時代のアメリカ軍の指示でこの事件が起きた、としているけれど、虐殺の実行者は半島から島へ来た韓国人たちである。殺された実数は判明しているだけで3万人。山へ逃げた島民たちは捕まると海岸で銃殺されたので、いまでも海岸で大規模な工事を行うと百人単位で人骨が掘り出されることがしばしばあると聞いた。済州島の人口は現在30万人、当時は20万人あまり、一説には子どもも女性も老人も区別なしに島民の二割以上が殺されたのではないかという(全滅した村も多くて実数が分からない)。

 この映画ではある村の住民が逃げ惑い、山の中の洞窟にこもる様子が描かれ、事態が理解出来ない村民たちが交わす会話が延々と続く。その間に虐殺者側のある一部隊の行動が対比して描かれていく。モノクロ。

 この事件が済州島で住民の口から語られ出したのは、ようやく21世紀に入ってからである。

映画「インファナル・ディール 野蛮な正義」2014年アメリカ

 監督クリス・ブリンガー、出演マット・ディロン、ウィレム・デフォーほか。

 犯罪組織の潜入捜査をしていた刑事カーター(ウィレム・デフォー)が逮捕した男ジェシー・ウェイランド(マット・ディロン)は組織のボス・リュタン(トム・ベレンジャー)の殺し屋だった。ジェシーの妻は身重で出産直前、逮捕されたために出産に立ち会うことができない。

 やがて男の子が生まれ、妻子のために死刑を免れたいジェシーは少しずつ組織の情報を提供する。FBIを初め、いろいろな犯罪対策の部隊がプロジェクトを組み、密かに組織の徹底的な調査が行われる。

 やがてある事件が起こり、ジェシーとカーターのあいだに男と男の絆が生じ、二人の型破りで命がけの組織との戦いが始まる。

 FBIから派遣されたグループのリーダー役が、現場を知らないのに知識ばかり豊富な新米であることが彼等の熱さを際立たせる。

 日本では考えられない荒っぽい捜査は、組織が強力で暴力的なだけ、見ていてひたすら痛快である。題名どおり「野蛮な正義」だ。

 マット・ディロンとウィレム・デフォーという男臭い異相の男たちがかっこいい。敵のボス・リュタンをトム・ベレンジャーが演じていたのをエンドクレジットを見るまで気がつかなかった。

 緊張感と熱気があって楽しめる映画である。

2015年3月 6日 (金)

ますます減る

0062 10年前のソウル

 アメリカ大使衝撃テロ事件を受けて、日本政府は韓国に対して要人警護の強化徹底を要請した。模倣犯がでる恐れが大であるから当然の申し入れだ。次に日本の要人が襲われる可能性は極めて高いと思われる。それでも事件が再び起これば韓国政府の責任は重大といわざるをえない。

 この事件を見れば、日本人の韓国への旅行は更に減るだろう。これから行くことを検討しようとしていた人は取りやめるのがまともだ。いまもっとも韓国への訪問の多いのは中国人だが、彼等はどうするだろうか。アメリカ人は多分減るだろう。韓国の観光の収支は日本からの観光客の激減で赤字となったようだ。中国からの観光客の激増では追いつかないということらしく、それは韓国人の日本への旅行が激増していることの結果でもある。いま日本でテロは起きないだろう。日本を訪問した韓国人が、韓国でいわれているような嫌韓一途の日本ではないことを認識してくれればそれにこしたことはない。百聞は一見にしかずだ。

 ところで今回の駐韓アメリカ大使に対するテロ事件について、ニュースを拾い読みしたものをまとめておきたい。

 幸い命に別状はなかったものの、顔の傷は頸動脈から1~2センチと、きわめて危ういところだったという。もし頸動脈が切られていたら間違いなく殺人事件になった。だから傷害事件ではなく、殺害未遂事件としての扱いになったのは当然だ。意外に重症だったのは、防御のために傷ついた左腕で、神経を損傷していて機能障害の恐れがあったという。幸い神経修復の手術はうまくいったらしく、多分大丈夫ではないかと報じられていた。しかし最悪の場合、全治一年以上の恐れがあるそうだ。

 韓国政府は今回の韓国側の警備担当者を厳罰に処することを表明している。また、今回の事件を今後指揮するのは対テロ捜査を担当する検察公安1課と決まった。つまりテロ事件として扱うということだ。

 ところでその前に当初、韓国の捜査当局はこの事件の釈明として「キム容疑者は政治団体代表として、主催者からこの日の朝食会の案内を受けていた(招待はされていない)」「アメリカ大使は要人警護の対象ではない」「アメリカ大使館から警護要請を受けていない」と述べている。

 また、韓国政府当局者は「いろいろな面でデリケートな時期にこんな事件が起きて当惑している」などと人ごとのようなコメントを出した。責任感のなさが如実に表れている。いまは大慌てでアメリカに対して謝罪を行い、経緯の報告を約束しているようだ。韓国外交部当局は「韓米両国は事件が両国の外交問題とは関係のない「個別問題」だという認識で一致した」と発表している。

 北朝鮮は例によって「戦争狂米国に加えられた当然の懲罰」などと論評している。

 それに対して韓国外交部は「事件の本質をゆがめ、かばうのははなはだ嘆かわしい。テロに反対するという北朝鮮の対外的主張が虚構であることを示している」と批判した。

 朴槿恵大統領は外遊先の中東からアメリカに対して謝罪の言葉を述べ、「決して容認出来ない事件」と語ったそうだが、どうも捜査当局などへの強い指示があったという報道が見当たらない(ないはずはないのだが)。また奇禍に遭ったリッパート大使に対しては「大使の苦しみはだれよりも(わたしが)理解出来る」と伝えた。そういえば朴槿恵大統領は、過去暴漢に顔を切りつけられるという被害に遭っている。またセウォル号事件のように徹底的に関係者に対する処罰に狂奔するのだろう。しかしまた事件は起こるだろう。

 テロはテロを呼ぶ。身を捨てて正義に殉じるという主張はいかにも英雄的に見える。模倣者が控えている。テロ行為に対する敷居が下がった韓国はしばらく危ないとみた方が良いようだ。わたしが言うまでもないけれど。

渡辺浩平「上海路上探検」(講談社現代新書)

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 1980年代初めに留学生として、1990年代に仕事で上海に暮らした著者が、その十年あまりの上海の変化を比較しながらディープな上海を紹介している。著者の目に見えたものしか語っていないから、針の穴から覗いて中国論を語るような半端なものではない。

 この本は1997年1月に発行されているから、ここに書かれている上海は1996年以前のもので、現在の上海とは異なる。わたしは1990年代から2000年代に、仕事やプライベートで何度も上海を訪問しているのでこの本の1990年代の姿はよく分かる、そしてこの本に書かれた後の上海も多少見てきたつもりだ。ただ、2010年以降は一度しかいっていないからほとんど知らない。

 上海一の繁華街で、おそらく中国一の南京路(ナンキンルー)を何度も歩いた。だからこの本に書かれている南京路はわたしにとってなつかしい。あのネオンが過剰にあふれかえり、人があふれかえる夜の南京路、店に入れば商品も過剰にあふれかえるその様子に、わたしもお上りさんみたいにわくわくしながら歩いたものだ。虹橋(ホンチャオ)界隈で食べた上海ガニ、豫園で食べた小籠包、地下鉄の入り口が分かりにくくて大汗をかいたことなどが思い出された。

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 仕事で初めて行ったとき、夜は一人で食事に出かけた。ドキドキしながらこれはという店に飛び込んで、身振り手振りで注文した。メニューで想像したものと出て来た料理がまったく違うものだったりして、それもいま思い出せば楽しかった。

Dsc_0067 蘇州河

Dsc_0005 ホテルの窓から

 息子と蘇州河の北側のホテルに連泊したことがある。この本にも書かれているけれど、蘇州河の北は昔の労働者の街だった。貧民街とはいわないが、それに近く、治安も悪い。泊まったのは格安で若いバックパッカーたちが泊まるようなホテルだ。両替もできない。でも蘇州河をわたれば外灘(ワイタン)まで歩いて行けないことはない場所だった。

Dsc_0095 蘇州河の北

Dsc_0117 すべて取り壊される 

 一日はそのディープな街を歩き倒した。思わぬ所に猥本屋兼おとなのオモチャ屋があったり、少数民族が高架歩道の上で雑貨を売ったりしていた。古い貧しい時代の上海の暮らしが見えた。しかし上海万博を控えて、スクラップアンドビルドが急激にすすめられていた。庶民の家がどんどん壊されていく最中であった。もうあの風景は見ることができないだろう。

 この本はモダンな上海とそのディープな上海が時間と空間を超えてすべて描かれている。また上海に行きたいような、しかしあのエネルギッシュな上海はもうわたしには手が届かないような気もした。

2015年3月 5日 (木)

気になったこと

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 ソウル駐在のアメリカ大使が暴漢に襲われて負傷した。あるまじき行為だ。日本でもライシャワー大使が暴漢に襲われて負傷したことがあり、国として恥ずべきことであった。国家はあげて外国の要人や襲われる恐れのある人に対する備えをする義務がある。その点で韓国政府に手抜かりがあったと非難されても仕方がない。しかし暴漢の目的がどこにあったのか、背後にどのような組織がいるのか、ということばかりが論じられて、警備の責任を問う論調があまり見られない。

 そこで思い出すのは、産経新聞の元ソウル支局長が朴槿恵大統領に対する名誉毀損の疑いで裁判所に出頭した際、暴漢たちに襲われ、本人に危害は加えられなかったものの車が汚物などで汚され、抗議文書が貼り付けられたりしていたことだ。しかもそのときそれを阻止する官憲の行動は映像を見る限りなかった。そして暴漢たちが逮捕され、処罰を受けた、という報道も見ていない。処罰したのかも知れないが、それが報道されないというのはこのような行動を正当化させてしまう恐れがある。

 安重根のテロを義挙としてたたえ続ける、という国は、このような暴挙をして見せ、英雄としてたたえられると信じる盲信者を生み出しやすいのではないか。どう見てもやむにやまれぬ正義感に基づくと言うより、喝采を浴びることを狙っているとしか思えない。正義を標榜し、戦争へ国を導いていったのはこういう輩だ。

 その後、日本のニュース報道の中で、韓国の警備の問題を論じるもの(読売テレビの「みやねや」など)がいくつかあったことを追記しておく。評価したい。

 それに対して報道ステーション(テレビ朝日)では、韓国の警備についてはまったく言及せず、結論的な物言いの中に、アメリカのシャーマン国務次官の言葉がこのような事態を招いた、との見解を示した上で、アメリカは上から目線で言うことが問題であり、そのような物言いに今後注意すべきだ、という驚くべきことを言っていたように聞こえた。

 シャーマン国務次官は韓国政府の最近の物言いがあまりにも国際常識に反して大衆迎合的である、という意味の苦言を暗にほのめかしただけであったが、それが報道ステーション、乃ち朝日新聞的認識から見れば、上から目線でアメリカは偉そうにものを言いすぎるから大使が襲われるような事態になったのだ、といっているらしい。

 そんなことを言わされている、ということを古館さんは自覚出来ないのだろうか。わたしだったらこんなことを言わされるくらいなら番組を降板するけれど。

少年法

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 川崎の少年惨殺事件をきっかけに少年法の見直しについてテレビで論じていた。未成年者による残虐な事件が起こるたびにこのように少年法の是非が論じられる。刑法は社会秩序を守る目的で存在するもので、万人に平等に適用されるべきものだ。もちろん適用に際してそれぞれの事情に対しての情状は考量されている。 その上更に刑法31条と少年法などという例外規定が設けられている。厳密に言えば、少年と精神に障害のある者は差別待遇を受けている、ということだ。その理屈から言えば、平等至上、差別絶対反対を唱える人ほど少年法などの変更に反対しているのは不思議なことだ。子どもとおとなは平等ではないのか。

 あるコメンテーターがこんなことを言っていた。「少年法を改正して厳罰化や低年齢適用にしたのに今回のような事件が起きる。それはそのような改正をしても犯罪の減少にはつながらないことの証だ」「実際に少年犯罪の件数が改正によって減ったとはいえず、横ばいである」。

 詳しい解析数字を持っていないけれど、少年法がより厳罰化することで犯罪の抑止力になり、一定の効果が上がっているような気がする。それでもそんな法律をまったく斟酌しない凶悪な少年が一定数存在する。彼等は少年法が厳しくなろうがどうであろうが関係なく犯罪を犯す。これはおとなと同じである。

 だから少年法を厳しくしてもしょうがないではないか、という意見と、そもそも少年法で護る意味のない少年に対しては成人の刑法を適用すべきである、という論に分かれるであろう。では少年法の主旨は。

 少年の更生が主眼である。凶悪犯の少年に更生が可能かどうかが判断の分かれ目だろう。人間としてあるまじき行為をなした者に通常の少年として再生の機会を期待出来るとするかどうかは人それぞれの意見があることだろう。同時に刑罰には個人の報復を国家が禁止し、その代わりに国家が変わって罰を与える、という面がある。

 いま裁判員制度で裁判員のくだす刑罰がプロの裁判官よりも重い傾向があるのは、いままではバランスが犯罪者側に有利だ、と多くの人が考えていることの証拠ではないのだろうか。先日の最高裁の判決はそれをご破算にした。

 いま選挙を含めて成人年齢を18歳に引き下げる方向で法律改正がすすめられている。いろいろな面で現実に即した正しい方向であろうと思う。当然刑法も連動するようにわたしは期待している。被害者にこそ人権を!

長谷川慶太郎「緊急版 大波乱」(徳間書店)

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 「長谷川慶太郎の大局を読む」シリーズ、最新版。

 題名と表紙がオーバーなわりに、内容はいつもより静かなトーンだ。日本だけが一人勝ちする、中国はまもなく崩壊する、北朝鮮も明日には体制崩壊し、韓国はその影響で崩壊する、などと言うことはこの本では述べていない。

 主にエネルギー問題、特に昨年末からの原油価格の急落がどういう背景で起きたものであり、それがどのように世界の国々に影響するのか、ということがメインに語られている。

 結果的にアメリカが非常に優位に立ち、日本もおおむね良好に推移するが、ロシアや中国はしばらく右肩下がりの状況が続くとのご託宣で、それは毎日の海外ニュースを見ていれば頷けることばかりである。

 中国から外資が撤退を始めていることを中国はごく例外的なことだとして否定するのに躍起になっているように見えるが、それこそが外資の撤退が中国にとって深刻な事態であることの表れだろう。中国は今月の全人代で、GDPの伸びの目標値を発表するはずだが、どんな数字が示されるだろう。実態は6%以下なのに相変わらず7%台を提示するようなら、中国の経済は習近平のコントロールが効いていないことの表れだ。コントロールが効いていれば、実態に合わせた正直な数字をもとに対策を講じることが可能だが、空想的な数字が提示されれば中国経済は問題なしとの判断の下に対策は後手に回ることになるだろう。

 その中国にますます肩入れする韓国、中国離れをしてロシアにすり寄る北朝鮮、という図式は朝鮮半島の不安定化の前兆そのものだろう。韓国が日本に対しての物言いのトーンを嫌々ながらも和らげ始めている、とマスコミは報じている。普通に聞いていると、とてもトーンを和らげているように見えないが、それを無理矢理そのように解釈する必要があるのかどうか。

 韓国は記録的で継続的な貿易収支の黒字が続いている。赤字が続いている日本から見ればうらやましいように見えるけれど、それが原油安を初めとした輸入の大幅減少によることは注目すべきことである。じつは輸出も減り続けているのだ。つまり経済活動全体が縮小をしながら黒字が蓄積しているので、結果的にますますウオン高が進んでしまう。すると更に輸出が低迷する。多分韓国は日本にならって大幅なウオン安を打ち出そうとするだろう。

 それが成功するかどうか。日本の国債は信用があるが、韓国はどうか。

 経済が苦しいから韓国は2018年平昌冬期オリンピックが大きな負担になってきた。どこかに助けて欲しいような話が聞こえてくるが、虫のいい話だ。いったい朴槿恵大統領は韓国経済をどうしようというのだろうか、まったく見えない。このまま手をこまねいていたら、韓国は社会不安が増大するばかりだろう。日本も当分韓国とは距離を置いた方がいいようだ。

2015年3月 4日 (水)

映画「エージェント・ライアン」2014年アメリカ

 監督ケネス・ブラナー、出演クリス・パイン、ケビン・コスナー、ケネス・ブラナー、キーラ・ナイトレイ他。

 名優ケネス・ブラナーが監督、出演(ロシアの大物実業家でマフィア)。文句なしに面白い。

 トム・クランシーが原作者であるジャック・ライアンシリーズはベストセラーばかりだが、いままで四本が映画化されている。題名とジャック・ライアンを演じた俳優をあげると、「レッド・オクトーバーを追え」アレック・ボールドウィン、「パトリオット・ゲーム」ハリソン・フォード、「いまそこにある危機」ハリソン・フォード、「トータル・フィアーズ」ベン・アフレック。これらはすべてトム・クランシーの原作がある。

 それらのイメージをもとにジャック・ライアンのキャラクターを生かして原作なしのオリジナルの映画としてつくられたのが本作だ。

 ロシアは、テロと金融操作とを連動させてアメリカに対する報復をもくろむ。それを阻止するのが若きCIA分析官のジャック・ライアン(クリス・パイン)である。ジャックライアンがどうしてCIAの一員になったのか、そして分析官として働くつもりの彼が、どうしてエージェントの役割を引き受けたのか、映画を観ているとすんなりと得心がいくようになっている。

 後半のロシアの実業家ヴィクトル(ケネス・ブラナー)とライアンの息詰まる心理戦、そしてそれにライアンの恋人で後に妻となるキャシー・ミュラー(キーラ・ナイトレイ)が絡んで息つく間もなく物語が進行していく。手に汗握るというのが実感出来るのでぜひお勧めだ。

 結末を知ってしまっても、もう一度観たくなるはずの映画だ。

2015年3月 3日 (火)

お粗末ですが

2月27日のブログで「巨大プリント」の話を書いた。具体的にどんな風か。

Dsc_3385

こんな風になっている。

貼り合わせが下手くそで、紙がしわしわになっていてみっともない。恥ずかしいから実際のところを見てもらうのを控えていたけれど、あんがい気にいっているのであえて見て戴く。いつか作り直すつもりだ。

下が映画やドラマを見るために愛用している52インチのテレビ。右下端にちらりと見えているのがAVアンプ。

上手にやればかなり見栄えのするポスターになりますぞ。

映画「ドラッグ・ウオー 毒戦」2013年香港・中国

 監督ジョニー・トー、出演ルイス・クー、スン・ホンレイ他。

 ジョニー・トーは過激で過剰である。

 中国公安警察が麻薬組織を追う姿がドキュメント的にリアルに描かれていく。それが次第にエスカレートし、互いに冷静さを失い、激しい暴力の応酬に変貌し始める。

 こんなに犠牲者を出し続けたら、警察官のなり手がなくなってしまいそうだが、中国は人が過剰にいるからそれで良いのだろうか。

 こういうラストが好きな人とそうでない人と別れるだろう。ジョニー・トーの映画にはそれが成功している場合と、そうでない場合とがある。

 無表情のスン・ホンレイ(警部役)が好い。

2015年3月 2日 (月)

井上ひさし「本の運命」(文藝春秋)

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 その蔵書、13万冊という井上ひさしが、本との関わりを語る。

 図書館と相性の悪い経験をしたことから(もちろんそれだけではないはずだが)、本はすべて自分で購入すべし、という信条を貫いた。これはじつは私もそうである。昔は本を図書館で借りたときもあるが、自分で稼ぐようになってからは図書館で本を借りたことはない。

 結果的に井上ひさしは蔵書13万冊(実際は蔵書数を数えた後にもどんどん購入したはずなので、もっと多いはずだ)、本はあるときから原則処分しなくなったようだが、これはそれだけの書庫を準備出来る人だから可能なことだ。

 月に最高500万円の書籍代、普通でも月50万円の支払いをする、という。ただし、それだけ稼がなければならないし、稼げるからできたことだ。うらやましいが物理的にそんなに読めない。でも井上ひさしは一日10冊さらには20冊読むとか、ちょっとしたミステリーなどは本屋の立ち読みのあいだに読み終えてしまう、というのは伝説だと思っていたら、事実みたいだ。

 その井上ひさしが司馬遼太郎に脱帽している。司馬遼太郎が小説の資料を集め出すと、神田を初め全国の古本屋から関連の本がすべてなくなってしまうというのは有名だ。その資料をすさまじいスピードで読破していき、そして何年後かにそのことが話題になると、いま読んだばかりのようにすらすらと内容を詳しく語ることができた。まるで頭脳の中の写真機で丸ごと写して保存してあるみたいだ、と井上ひさしが感歎している。上には上がいるものだ。

 井上ひさしの本は彼が文壇にデビューしたてで、「モッキンポット師シリーズ」の短編を月刊誌に掲載していたころ(わたしは高校生だった)から読んできた。大学で山形と米沢に暮らしたので、彼が山形県の川西町の出身であることに親近感を覚えたものだ。いま彼の蔵書はその川西町に遅筆堂文庫として贈呈され、図書館として閲覧することができる。

 紙の本は不滅だ、という彼の意見に全面的に賛同する。そして子どもが本を読まなくなったのは、親のせいだ、というのもその通りだと思う。

見識

 川崎で殺された中学一年生の村上君の事件について、現在までに分かった事実をテレビで詳しく報道していた。この凄惨な事件の背景と、実際の犯行の現場の様子が断片的ながら分かった。あまりこのような事件について詳しく知りたいと思わないが、ある理由があってその事件を報道するマスコミとコメンテーターたちの語り口に興味があった。

 事件があってまだ詳細が分かっていなかったころ、BSフジのプライムニュース(平日夜8時から2時間毎日放映)にコメンテーターとして呼ばれていたデービッド・アトキンソン氏(「イギリス人アナリスト日本の国宝を守る」の著者)が、この事件についてのコメントを求められた際に、顔を背けながら「語る言葉がありません」と言ってコメントをしなかった。彼はその日の番組で、経済的な問題について語るために呼ばれていると認識していた。それは彼の専門である。しかし事件については詳細な背景を知らない彼が、それについて語るのを拒否したのは彼の見識である。司会者から再び違う観点からコメントを求められても、まったく同じ態度で再び「語る言葉がありません」とだけ言った。

 各局でこのニュースを詳細に報じ、アナウンサーやコメンテーターたちがしばしば「おとなの責任」や「学校や警察のまずさ」を問題として語るのを見た。もちろん問題がないなどとはだれも思わない。思わないけれど、そういう問題にしてしまうとだれも答えようがない。ではどうする、と聞かれてもコメンテーターには答えられない。結局事件を騒ぎとして騒ぐだけで、問題を減らすための具体的な提案なしにまた再び事件が起こるだけだ。 

殺された少年がいたグループのようなグループは日本中に、いや世界中にごまんとあるだろう。それを一般化して賢しらげにコメンテーターたちは語る。では今回のような殺人事件はそこら中で起きているか?事件はそれぞれ個別のものであり、犯人はその事件に固有の犯人だ。事件を起こさない他の人たちとその犯人がどう違うのか、そこを説明してくれないとなぜ事件が起きたのか分からない。それを一般論で語るな!

 そんなことを言っていたらそもそもコメンテーターなどたいてい存在意味がなくなるけれど。

2015年3月 1日 (日)

うんざり

 戦いに勝利するために相手のスキ、弱点を突くのは有効な戦法である。ただしそこには節度が必要で、勝つためとはいえ、して良いことと悪いことがあるのは当然だ。

 ゲリラというのは弱者の戦法で、圧倒的に力の差のある弱者が強者に勝つ手法である。ベトナム戦争で、ベトコンがゲリラ戦によりアメリカに勝ったことは記憶に新しい。そしてテロ、これは独裁政権や、植民地を支配する国に対して行う戦法で、社会不安を作り出し、体制を弱体化させる。帝国どおしの軋轢で不安定だったヨーロッパは、セルビアで起きたテロにより第一次世界大戦へ突き進んだ。

 ゲリラもテロも、あらたな、めざすべき世界を念頭に置いて行い、それが達成されたときにのみ評価される。幕末の勤王の志士によるテロはまさにそのようなものとして歴史的に記述され、評価されている。

 ではイスラム国やボコ・ハラムに大義はあるか。渦中にあるとき、人はものがよく見えない。だからこれも後世の歴史の評価を待つべきか。歴史と言えばその歴史的遺産を破壊している映像をイスラム国は世界に配信した。彼等は原理主義に基づく復古運動を行っているつもりだろう。過去から見た未来である現在を否定するのであれば、彼等がめざすものは未来か過去か。

 人類に残された過去の遺産を見ることで人間は歴史を考える。それを否定して遺産を抹殺することは人間社会そのものの破壊につながることが彼等には理解出来ていないのか。いや、彼等は人間社会そのものを否定していることを自覚している。彼等は人類を道連れに自殺をしようとしているのだ。すでに多くの人が道連れにされた。

 そんなとき、日本の国会では何が起きているのか。

 安倍政権の弱点をひたすら攻撃して見せている民主党の面々。大きな敵に対するゲリラ戦を演じて見せているつもりなのだろう。では民主党に、敵を倒した後のどんなビジョンがあるというのか。そんなものは何もないことを前回の民主党政権は見せてくれた。多くの国民は、この民主党の姿を見てますます顔を背けるだろう。そして自民党はますます拡大し、増長(増長の象徴が金にルーズなその姿なのだが)してしまうだろう。それを助長しているのが民主党のように見える。

 日本の直面している現実の問題を見ることのできない、そしてそれを論じることのできない、知性が欠如しているとしか思えないその姿にうんざりする。

映画「コロニー5」2013年カナダ

 監督ジェフ・レンフロー、出演ローレンス・フィッシュバーン、ケヴィン・ゼガーズ他。

 近未来ディストピア(ユートピアではない、暗い未来が描かれる)映画。カルト低予算映画に多いテーマだが、SFでは良く描かれるもので、わたしは嫌いではない。この映画では地球温暖化対策のために気候コントロールをしようとして過剰に地球を冷却しすぎ、氷河期を招来してしまった世界が描かれる。人々は食糧確保ができずにその多くが死滅し、地下深くに数百人単位でいくつかのコロニーに住む人々だけがかろうじて生き延びていた。

 コロニーでは日に当たることがないから病気になりやすい。危険な伝染性の病気にかかった場合は、殺されるかコロニーの外への追放されるかを自分で選ばなければならない。いまや風邪ですらその危険な伝染病である。このように、生き延びるための規則でがんじがらめになったまま、人々は希望のない日々を送っていた。

 そんなコロニーの一つ「コロニー7」の生活を描きながら、やがてかろうじて交信が続いていた「コロニー5」から助けを求める通信が入る。詳しい話を聞く前に通信が途絶え、リーダーのブリッグス(ローレンス・フィッシュバーン)は二人の若者を連れて状況確認と救援に向かう。

 苛酷な凍った世界を通ってようやくたどり着いた「コロニー5」で彼等が見たものはこの世の地獄だった。そしてかろうじて生き残って逃げ帰ったサム(ケヴィン・ゼガーズ)とともに、その地獄が「コロニー7」にやってくる。

 ゾンビに似たおぞましい者が出てくるが、ゾンビは出てこない。ちゃんと銃弾を受ければ死ぬ。後半はわたしの大好きなディストピア映画、「マッドマックス2」のテイストに似ている。ラストのかすかな希望もお決まりだ。

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