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2015年5月

2015年5月31日 (日)

映画「ロング・グッドバイ」1973年アメリカ

 監督ロバート・アルトマン、出演エリオット・グールド、ニーナ・ヴァン・パラント、スターリング・ヘイドンほか。

 原作はレイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説「長いお別れ」。主人公は私立探偵のフィリップ・マーロウである。これは日本でも翻案されて浅野忠信の主演でテレビドラマ化されている。

 小説のフィリップ・マーロウのイメージとこの映画の主役を演じたエリオット・グールドとなじまないのだが、不思議なことに案外悪くない。やはり原作が傑作だからか。

 深夜訪ねてきた友人に頼まれ、彼の逃亡を助けたマーロウは、翌朝警察に拘束される。友人は妻を殺害した容疑で追われていた。マーロウは友人が無実であると考え、真相を調べはじめる。そのマーロウに、行方不明の夫を探すよう作家の妻から依頼が入る。

 無関係に見えたこの二つの件につながりがあることが次第に明らかになっていく。マーロウはこの作家が精神病院にいることを突き止めて連れ戻すのだが、やがて事態は思わぬ方向へ。

 終始クールなマーロウが真相を知ったとき、どんな行動を取るのか。映画ではクールというのが、生死の境目を平気で乗り越える覚悟にあることがきちんと描かれている。ハードボイルドに人気があるのは、主人公がクールであること、ある面ではサムライであることが美しいからだ。自分の美意識に忠実であろうとするもの、それがサムライだ。

 ラストが非常に印象的。記憶に残る映画だ。この映画にはマッチョなチンピラ役でシュワルツェネッガーが出ているが、その気で見ないと分からない。

ニュース雑感(3)

 日本の世界遺産登録に異常なほどの反対をしている韓国。日本の明治時代の産業革命の遺産であるといくら言っても、そこで朝鮮半島出身者が徴用されて死者が出たということにのみこだわり、遺産登録の意味を取り違えているようだ。反対のことばから無理に推測するに、この世界遺産登録を認めることは、日本のあの戦争の正当性を肯定することにつながる、ということらしい。日本から見れば被害妄想に見えるが、それが世界に訴えられればいかにもまことしやかに見えるのが困ったことだ。

 日本と韓国がこの問題で会合をしている。日本側は趣旨の説明をし、韓国の誤解を解こうとしている。韓国側は日本側に、徴用のあった場所の登録を取り下げるよう交渉するつもりでいる。先日韓国メディアが何社か「日本側から妥協案が提案された」と報道した。日本側のメディアはそんな報道はしなかったが、韓国の報道は伝えたから、いかにも日本側が譲歩案を出したような具合である。

 中国メディアまでこれを取り上げて、「日本側からの妥協案を韓国が拒否」と報道した。

 ところが菅官房長官は、日本からの妥協提案を真っ向から否定した。そんな事実はない、と言明したのだ。

 協議中の委員たちからはなんのコメントもないところを見ると、どうもそんな事実はないらしいと思われる。もし事実があれば、それを否定したことに怒って韓国側が協議を拒否するはずだからだ。

 ところがその後も中国や韓国のメディアは日本の批判を続けている。菅官房長官を「二枚舌」などと言っている。

 ああ、これが韓国流であり、中国流であり、あの朝日新聞流だな、と思った。自分の言ったことばが事実でないと否定されても、それをいったん言い出したら引かずに強弁し続ける。ついには自分もそう思い込んでしまう。従軍慰安婦も、竹島問題も、尖閣問題も、みな同じように見える。

 韓国政府高官は日本記者団に、「(朝鮮半島出身者の強制労働があった)7施設を世界文化遺産の登録からはずして欲しいという基本的立場は変わらない」としながら、「日本が誠意ある方策を示せば、いくらでも検討できる」、と妥協策を模索する考えを示したそうだ。

 なんだ、妥協策を提案したのは韓国側なのか。

ニュース雑感(2)

 韓国のシンクタンク・東アジア研究院と日本の民間非営利団体「言論NPO」が日韓両国で共同世論調査をした。この調査機関がどんなところか分からないし、正直こんな調査は質問の仕方で結果が大きく変わるのであまり意味がないのだが、全くのでたらめでもないだろう。

 韓国人の56.9%が日本を「軍国主義」だと見ているという結果であった。日本人は日本自身をどう見ているかは報道がない。それが一番知りたいところだ。また日本人の55.7%は韓国を「民族主義」と見ていたそうだ。

 さらに相手国の印象を「良くない」と答えたのは韓国72.5%、日本52.4%であった。そして、首脳会談の必要性については、韓国人の86.8%、日本人の81.5%が必要だと答えている。どうしてこんなに高いか分からない。そういう答えしか選べない、必要ですか、必要ではありませんか、という質問だったのだろう。いま無理にする必要はないと思っていても、普通なら首脳会談は必要だから、必要だ、と答えるしかないではないか。

 私なら、朴槿恵大統領と安倍首相がいま会談しても、朴槿恵大統領はいままでの姿勢を変えることができないから(日本人には信じ難いことに、朴槿恵大統領はいまでも親日過ぎると批判を受けているのだから)無意味であって、韓国経済がもう少し不調になって、韓国ののぼせが少しおさまって、国民が朴槿恵が多少の妥協をしても許せるくらいになってからの方が良いと思う。

 日本がこれから軍国主義に向かいかねない、という懸念は最近しばしば言われているが、すでに日本が軍国主義だと本気で韓国人の半数以上が思っているとしたら、それは韓国のマスコミ(日本の一部マスコミも)と韓国政府の刷り込みの要因が大きいだろう。

 安倍政権が安保法制を改定しなければならないとしているのも、中国の覇権主義が理由であることを世界中の多くの人は分かっている。それを「軍国主義」だといって批難し続ければ、しからばそうしよう、となってしまうのが人間である。騒げば騒ぐほどそのことばに呪縛されていく。そのことが心配だ。国会の質疑を見ていても、あの民主党など野党のやじのひどさ、質問の枝葉末節でお粗末なことは目を覆うばかりである。ついには安倍首相にもそのやじが移ってしまった。

 私には安倍政権をもっとも支えているのは民主党に見える。過去戦後の自民党を長く支え続けたのは、第二党だった社会党であったことがいまだから分かる。

2015年5月30日 (土)

ニュース雑感(1)

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 韓国日報によれば、韓国・ソウル市内の公立図書館では毎年25万冊の本が廃棄処分されているのだという。これが自然な本の傷みではなく、借りた人間の粗雑な扱いによるものが多いというから驚いた。

 本が雨に濡れたもの、ジュースのシミやガムのついたもの、落書きが書き込まれているもの、一部が切り取られたもの等々。「返却された本に下線が引かれていたので図書館員が、落書き禁止だ、と注意したら、重要と思ったところに線を引いたので落書きではない、と平然と答えられて絶句した」などと記事は伝えている。ひどいのになると、ミステリーの冒頭部分に、犯人は誰々、などと書き込んであったという。これは本を楽しみにしていた人に対してあまりにひどいいたずらだ。

 私は本が好きだから大事にするほうだ。こんな話を見るとうんざりする。私は原則として本は自分で買う。下線を引きたかったら自分で買った本に引け!日本でも同じようなワルモノがいるかも知れないが、ソウルだけで年間25万冊というのは尋常ではない。

 韓国の聯合ニュースは、「韓国の若年層の教育水準は世界最高レベル、でも失業率も最高レベル」という記事を伝えた。これにネットでさまざまな意見が寄せられていた。教育レベルが高いのにノーベル賞受賞者がいないことを指摘するものもある。教育費負担がとりわけ重いと言われる韓国だが、そうして大学を出れば親や親類はかれに大きな期待を抱くことだろう。それに応えることのできない大学卒業者は社会に恨みを抱くのではないか。こうして社会不安が増大する。それが反日のエネルギーになっているというのは考えすぎか。みんな誰かのせいにしたくなるものだ。上記の図書館の本の扱いにもそれが現れていると見るが、それも考えすぎか。

 韓国メディア・ニューシスは朴槿恵大統領のことばをこう伝えている。「近いうちに全産業と社会の分野で新商品と新市場が融合した新産業を創出するビッグバンをおこす見込みだ」。例によって何を言いたいのか分かりにくい。具体的には自動車産業や無人機製造に期待してのことばらしい。 

 しかしこのことばに空疎な響きしか感じられないのは私だけではないらしく、韓国でも批判があるようだ。近いうちにいかにも重大な発表でもありそうだけれど、それを楽しみにするとしよう。

眠れない

 いまより体重が10キロも重かったときは、昼間突然強烈に眠くなることがあった。十分とは言えないけれど、それなりに睡眠時間はとっていたが、いわゆる睡眠時無呼吸症候群というやつで、睡眠の質があまり良くなかったらしい。社内旅行で大いびきをかいて、ときどき呼吸が止まっているのをビデオに撮ってみせられた。見たくなかったけれど認めざるを得なかった。そのかわり床についたらほぼ瞬時に眠ることができるのを特技としていた。大学時代に寮で暮らして、プライベートなどなく、うるさくて煙くて明るいところで寝るのに慣れているのだ。

 不眠症だ眠れない、などと聞くと、眠れなければ起きていれば良いのに、と思ったものだ。

 それがこの頃夜中になってもちっとも眠くならない。もちろん眠くなければ起きている。ごそごそと本を読んだり音楽を聴いたり、ときには落語を聞いたりしている。さすがに映画は興奮しすぎるので見ない。

 だからといって翌日ほとんど眠くなったりしない。気がつかないうちに短時間の睡眠を取っているのだろうか。記憶がないけれど・・・。

 本を読むのは集中力を必要とする。集中力にはエネルギーが必要だ。だからテンションの高いときに本が良く読めるのだけれど、あまりにテンションが高いと今度は気が散り出す。躁状態になってくるのだ。どうも眠れないようなときはこの躁状態になっているらしい。理由は分かっている。気になっていることが片付くのは大分先になる。

 軽い精神安定剤でも飲んだ方が好いのだろうか。ちょっとオーバーヒート気味である。こんなときは旅に出るか、誰かに会って酒でも飲めば良い。来週には犬山の兄貴分の人と名古屋で久しぶりに飲むことになっている。来週の週末には友人たちと三人で九州へ出かける。それまで持つかなあ。

2015年5月29日 (金)

高島俊男「お言葉ですが・・・」(文春文庫)

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 自分が書いた文章(文章と言うにはお粗末で気が引けるが)の誤字脱字間違いに、後で気がついて恥ずかしい思いをする。気がついていないときは何とも思っていないのだから、それはもっと恥ずかしい。

 この高島俊男先生の本は、「週刊文春」に連載しているエッセイをまとめたもの。私は九巻まで持っている。先生は中国文学専攻だから、漢字や中国古典についての言及が多い。しかしそれはふだん私たちが目にする、日本語になってしまっている「ことば」について考える中でうんちくが披露されるので、中国の古典の紹介がテーマではない。

 こんな書き出しだと読む機会がない本だと思ってしまうとしたら、私の出だしの書き方が悪い。新聞でのことばの誤用、漢字の間違った使い方、テレビのアナウンサーのことばの誤用、読んだ本の間違いが、次々にやり玉に挙げられていて、痛快無比でおもしろい上に、勉強になる本なのだ。

 私の少々理屈っぽいブログに酔狂につき合ってくださる人なら、この本を楽しめることを保証する。本屋で探して購入して読んで後悔しません。

 ただ、人のことばや他人の文章のあらが目立ってしまうことだけが難点と言えば難点か。申し訳ないが、いつも拝見しているブログにもつい間違い探しの気持ちが働いてしまって困った。ましてや自分の文章においておや。

やり玉に挙げられていた文章をいくつか

 稲は五寸ばかりに伸びていた。水田の面を時雨が叩き、無数の波紋をこしらえ、若い稲がいっせいに葉先を揺する。

 これ、どこがおかしいか分かりますか?芭蕉の「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」、山頭火の「うしろすがたのしぐれていくか」の句のイメージで分かるように、時雨というのは初冬のサァーッと降る冷たい雨のことを言う。高島先生、「二毛作ではあるまいし」とおっしゃる。ここで先生、実は失策をやらかした。この場合は二期作でなければいけない。このことを指摘されて、それを認めるとともにいささかの釈明をしている。それもほほえましい。

 豊かなバストにきゅっと締まったウエスト。見事なプロポーションを披露するのは、豪シドニーのスー・ミラーさん。(・・・)実は彼女、もとはニューサウスウエールズ州の警察官。「ヌードでモデルになったのが“石頭”の上役のゲキリンに触れ、クビになった」そうだが人間至る所青山あり、潔く制服を脱ぎ捨て栄光のカバーガールに。これからも頑張ってね!。

 これはときどき目にする間違い。「人間到る処青山あり」が正しい。(このことばは幕末の月性(あの月照とは違う人)の「海防僧」という詩の一節である)。到るが至るになっているし、処が所になっているのは間違い。ところで、この場合の人間は「じんかん」と読み、世のなか、ということである。それ以上にこの引用は本質的に意味を知らずに使われている。「青山」とは死んだときに埋めてもらう山のこと。草莽の志士が、たとえのたれ死んでも構わない覚悟を唱ったものだ。知らないで格好をつけるとみっともない。

2015年5月28日 (木)

自分のことばの責任

 水泳の富田選手がカメラの窃盗容疑で訴えられ、韓国で裁判中である。富田選手は韓国で拘束された当初、窃盗を認めていたが、身柄が釈放されたら、冤罪である、と言っている。

 冤罪であることは否定できないところもある。しかし、真犯人(もしいれば)でも捕まらないかぎり、彼が犯人ではないことを証明することは出来ない状況のようだ。

 だれでも思うけれど、なぜ最初に罪を認めたのか。身の危険を感じたから、とか、否定し続けると日本に帰れなくなりそうだから、とか言い訳していたように記憶している。

 ここが私にはどうしても分からない。自分が犯罪者であることを認めることと、自分の身柄の安全とを較べて罪を認める、という判断をどうしてしたのだろう。韓国の警察で、罪を認めれば無罪放免する、などと言われたのだろうか。そしてそれを鵜呑みにしたのだろうか。まさか拷問などされていないだろう。

 当たり前のことだが罪を認めれば、犯罪者であると見做されるであろう。多くの冤罪が、自白の強要によって起こる。富田選手が供述を翻すのならば、自白の強要の事実を訴えるしかないと思うが、そのような主張はまったくされていないようだ。

 最初から罪を認めなくても罪を問われることがあるのが世のなかである。罪を認めてからそれを否定して無罪を勝ち取るのは極めて困難であろう。日本人はみな心配しているけれど、彼は自分のことばの責任を取らなければならない。まさか本当は罪を犯したけれど、それを否定し続ければ無罪を勝ち取れるかも知れない、などと弁護士か誰かにそそのかされた、などと言うことはないだろうなあ。

 私でもちらりとそう思うのだもの、韓国の人の多くがそう考える可能性は大いにあるだろう。彼の分はずいぶんと悪いと思う。

フラッシュシンドローム

 こんなことばがあるわけではない(もしかしたらある?)。ネットで確認したら、クラッシュシンドロームということばが出て来た。もちろん私が言いたいものとは全然違うものだ。

 胃カメラを呑まされるときに、腕への注射と喉の麻酔薬を飲む。その作用で、網膜の神経が影響を受けて、瞳が閉じにくくなり、取り入れる光のコントロールが麻痺してまぶしくなることがある(運転は半日くらい控えるように注意される)。

 また、眼底検査のときには瞼を開いたままにする薬を点眼されて強い光を眼に受けるので、しばらく光の調節ができにくくなる。それはフラッシュのような強い光を眼に受けたためにまぶしくでしばらくものが見えにくくなるのと同じ状態である。

 私はそれが特に強く出てしまう体質らしく、どちらの検査のときも、しばらくはまぶしくてたまらない。翌日に及ぶことさえある。アメリカでは閃光爆弾という目くらましの爆弾があって、凶悪犯などに使用される。あんなものを食らったら私はショック死するかも知れない。

 友人から聞いたけれど、中国のニセED薬の副作用でそういうことがあるらしい。体験したことがない(必要がない)ので分からないが、私は多分作用が強いので実験台には適任かも知れない。

 糖尿病、痛風、高血圧のための薬を朝晩服用している。お陰で問題ない範囲に収まっているが、先日、薬を服用した上で酒を飲み、その後風呂に入った。私はときどきのぼせるほど風呂に浸かる。とことん入るのが好きなのだ。そのときもいつものように本を読みながら風呂に浸かっていたら、次第にまぶしくて見えなくなってしまった。

 文字がまぶしい光で虫食いになって読み取れない。目をつぶると真ん中に白くまぶしい部分があり、その周辺が赤黒く、くらくらする。目を開けてあたりを見るとぎらぎらしてまぶしくて目が開けていられない。風呂を出てしばらくしてからようやくおさまった。

 初めての経験だけれど、服用している薬でもこのような副作用があるのだろうか。それとも別の理由なのだろうか。今度医師に確認しよう。今のところ再発はない。

 昨晩は風呂にゆっくり入ってから薬を飲んで酒を飲んだが、さいわいフラッシュシンドロームは発現しなかった。順番の問題なのだろうか。

 読書、映画が好きで、旅行やブログを趣味にしているが、どれも見ることにつながっている。眼に問題が起こるのが何より怖い。それこそ人生が暗くなる。糖尿病の治療に素直に従っているのも、この病気が眼にくることが怖いからだ。私には身体のなかで眼が一番大事なのだ(多くの人がそうだろうけれど)。

 歳とともにあちこち不具合が生じるようである。

2015年5月27日 (水)

蜂蜜

 スーパーで蜂蜜を買った。ホットケーキや蜂蜜レモンに使う。

 棚に並んでいる蜂蜜は値段がばらばら。一番安いアカシア蜂蜜を買った。高いものの四分の一くらいの値段だ。案の定中国製。中身の表示はアカシア蜂蜜となっているが、水飴が混ぜられていても蜂蜜が入っていれば蜂蜜の味がするからこちらには分からない。こんなことを思わせるのもいままでの前科があるからだ。

 蜂蜜をお湯で割ってから氷を入れ、ポッカレモン(果汁100%)をドバッと入れる。炭酸があればいうことはないが、贅沢は言わない。風呂上がりに最高。ただし血糖値検査の前には決して飲まない。中国製の飲食物はほどほどにしないといけないけれど、どうせこちらはあと何十年も生きるわけではないから好いのだ。

 今日はちょいと無茶をした。早朝に出発して、車で千葉まで往復。約850キロ。いま帰り着いた。先送りしても良い用事だけれど、いろいろなことが後にずれ込んでいくのがとてもイヤなので、思い切って出かけたのだ。その処理については明日専門家と打ち合わせる。多少ふらふらするが、けっこう大丈夫なものだ。これから風呂に入ってさっぱりする。もちろん風呂上がりは蜂蜜レモンではなくてビール。

2015年5月26日 (火)

矢口祐人「奇妙なアメリカ」(新潮選書)

 副題「神と正義のミュージアム」。

 アメリカにはミュージアムやメモリアルが数多くある(小さなものを含めれば日本にもたくさんある)。その中から8つのミュージアムを取り上げて紹介しながら、そのテーマについてどう取り上げているのか、それをもとにアメリカという国を論じている。著者は東大教授。

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 取り上げられているのは「創造と地球の歴史のミュージアム」、「全米原子力実験ミュージアム」、「クリスタル・ブリッジス・ミュージアム」、「犯罪と罰のミュージアム」、「全米日系アメリカ人ミュージアム」 、「ルイジアナ州ミュージアム」、「ナショナル9.11メモリアル」、「戦艦アリゾナ号メモリアル」。最初の二つについてはすでに先日取り上げた。それぞれ非常に興味深く、アメリカを感じさせるものだ。

 本文中の著者の文章から

 多数の人びとが体験した過去を公の場で記憶していこうとする行為には、不可避的に包摂と排除が伴う。全ての関係者が満足する方法はない。語りと沈黙、記憶と忘却は表裏一体である。いかなるストーリーも全てを語り尽くすことはできない。忘却や不在のないミュージアムやメモリアルは存在しない。
 問題はこのような施設が、記憶と忘却、存在と不在の境界線をいかに設け、その結果、何を残し、何を周縁化していくか、そしてそれが現代のアメリカ社会の何を示しているかについて考えることだ。

 展示されていないもの、言及されていないものについて考える、というのはとても示唆的で考えさせられた。このことは内田樹先生もしばしば言っている。

 巻末に本文にとりあげられた以外の、著者が見学を勧めるミュージアム、メモリアルがいくつか提示されている。

旅心うずく

 いろいろな方のブログを拝見しているが、皆さんあちこちへお出かけになっておられる。たいへんうらやましい。それを読んでこちらの旅心もうずく。

 旅は日常と違う経験ができる場であって楽しいけれど、四六時中やれるものではない。それにけちけち旅行をしたとしてもふだんよりずっと金がかかる。

 前にもこのブログに書いたけれど、BS朝日・木曜の夜八時からの「鉄道・絶景の旅」を毎週楽しみに見ている。ナレーションの峠恵子さんの声が好きだ。挿入される彼女の歌も何度聞いても好い。

 ローカル線に乗って車窓から見える景色をぼんやり眺めたい。この番組の気にいっているところは、途中下車したとき、降りたった駅のホームと列車をしばらく映すところだ。ひとり旅の寂しさとわくわく感とが混ざった何とも言えない気持ちを感じさせる。

 画面はカメラ目線だけで、だれも人物は登場しない(特集のときだけ、たまにゲストが登場するが、うるさい)。峠恵子さんが旅をしていることになっているが、峠恵子さんの顔も姿もまだ見たことはない。たまに手だけ映る。ある程度年齢のいったらしい女性の手であろうか。太めの指に絆創膏が貼ってあったりしたこともあってちょっと笑えた。峠恵子さんの手ではないと思うのだが・・・。

 先週は姫新線の旅だった。これ、「ひめしんせん」だと思いこんでいたけれど、「きしんせん」であることをはじめて知った。途中で紹介された竜野に行って見たくなった。フーテンの寅さんで、竜野が舞台になったことがあった。あの太地喜和子が竜野芸者に扮していた記憶がある。姫新線のさらに西には津山がある。一度寄ったが津山も好いところだ。私が見ていないところが紹介されていた。姫新線は旧出雲街道、見所のある場所がいくつもあるようだ。

 来月、友人二人と九州へ行くことになっている。駆け足の旅の予定だが、帰りに広島にいる息子に会うことにした。そのまま帰るか、竜野あたりに立ち寄るか。旅心がいま騒ぎはじめた。

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2015年5月25日 (月)

ルーツ

 酒を飲んだときに、弟が、死んだ父のことを話してくれと言うので知っていることを話した。たった四歳違いなのにずいぶん知らないことが多かったようで、こちらはそのことに驚いた。

 その話をまとめて書いておいて欲しい、といわれた。自分の子どもたちにも読ませたいという。そういえば私の子どもたちにもほとんど話していないから知らないかも知れない。

 しかしいざそれを整理して書こうと思うと、調べ直して確認しなければならないことが多すぎる。母に聞きたくても、意思の疎通がほとんどできない今となっては不可能だ。こちらの記憶もずいぶんいいかげんになっている。だから約束はしなかった。もう少しきちんと父に聞いておけば良かったと思うが後の祭りである。

 私のルーツはほとんど不明のままである。

密かな陰謀

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 陰謀は表に現れないから陰謀で、まさか、と思うようなところに意外な事実がある、というのがメル・ギブソン主演の映画「陰謀のセオリー」だった。

 3Lサイズの私が問題なく座れる椅子に、隣とまたがってすわる人をしばしば見かける。座席のしきりにわずかな段差があっても、すわりにくいだろうに無理にまたがっている。誰かの邪魔がしたいのだろうか。どうも最近はそれを当たり前のように見る。

 最近の通勤電車や地下鉄などのよこずわりの席が、二人とか三人分のしきりのポールで区切られているものが増えた。こちらはそのしきりの想定の人数に無理があるのか、すわるにはいかにも狭い。小柄の女性に合わせているかのようで、男が二人や三人並んで座るのはいかにも窮屈だ。私が座れば隣が女性でも迷惑を掛けてしまうから、すいているとき以外はすわるのをあきらめることが多い。

 多くの人がそう思っているのだろう。三人分のところに二人、二人分のところには一人しか座らずに空いたままのことも多い。これがだんだん定常状態になり、座席をまたがってすわることが当然だという風潮につながっているにちがいない。最近はしきりのないときでも七人すわれるはずのところに四、五人でいっぱいになるような微妙な間隔で座り、あらたな参入を拒んでいるのをしばしば見る。

 日本人には人に譲る、という美風があった。このような美風は数々あって日本人のある意味の強さの表れであるが、上記のような風潮が定常化しているのは、その美風を破壊しようとする陰謀の一つではないか、というのが私の憶測である。美徳を破壊していけばその民族は劣化する。それをもくろんでいるにちがいない。

 些細なことと笑うなかれ。たまたま気がついたのがこのことだけれど、無数にこのような小さな陰謀が、密かに行われているにちがいない。それが奏功しつつあるような懸念がある。

 そういえば、列に並ぶときに、前の人との間を大きく開けて立つ人間がこのごろ目につく。一人分ならゆとりだが、二人分も三人分も空いていると、並んでいるのかただ立っているのか分からない状態になるし、他の人の邪魔にもなりやすい。

 これも陰謀にちがいない。

 検診に行った病院で、待っているあいだに見かけたものからいろいろ妄想していた。まことにひまである。おかげさまで検査結果は良好。レッドゾーンの項目はなかった。今晩は祝杯を挙げるぞ!

聞く力

 私は、生活にはなんとか差し支えない程度だが、子供のときからやや左耳が遠い。中耳炎を繰り返し、中耳にたまった膿を抜くために一度となく鼓膜に傷をつけたからだ。鼓膜が厚く硬くなっている。熱のあるときなど左耳だけ違和感がある。

 海外へ一緒に行く友人は、どこの国へ行っても相手のいうことを聞き取ってオウム返しに繰り返し、すぐいくつかことばを覚えてしまう。ところが私には相手のことばが正確に聞き取れない。語学は聴力だと心底思う。

 人の話を聞き間違う。そんなことを言うはずがないと気づいたときは、ちょっと考えて何を言ったのか分かることが多いが、無意識で聞いていると意味不明になって、自分でびっくりする。テレビの音量は少し大きめにする。最近特に話し声の部分が聞こえにくい気がする(これは歳のせいか)。映画を観ていても、音楽ばかりが良く聞こえて、会話の音量が低く感じる。日本の映画は特に会話が聞き取りにくい。

 その代わりに話す力や読む力が発達する、ということはないのが残念だ。

 今日はかかりつけの病院での定期検診日。朝一番に検尿、血圧・体重測定、血液検査などを受けて、その結果が出るのを待って医師の診察がある。

 (薬をきちんと服薬していれば)この一年ほど血糖値はギリギリ正常値におさまっていたのが、前回レッドゾーンに戻ってしまった。今回もまたレッドゾーンだと医師からきついことを言われるだろう。糖尿病専門の女医さんに診てもらっているが、結果の良いときと悪いときの表情が大きく変わる。悪いときに怒られるのがけっこう応える。センセエ、演技派なのだろうか。

2015年5月24日 (日)

WOWOWのドラマを見る

 WOWOWのドラマにおもしろいものが多いことについてたびたび書いてきた。WOWOWは有料だからそれを勧めるのは余計なお世話かも知れないけれど、映画二回分の料金でこれだけドラマや映画を見ることができるのだ。内容からいえば間違いなく料金以上の値打ちがある。鑑賞する時間的ゆとりがあり、ドラマや映画が好きなら視聴しないのはもったいない。いま私にとってもっとも金のかからない娯楽だと思っている。

 WOWOWがつくるオリジナルドラマは見応えのある良い作品が多い。また、海外ドラマもすばらしい作品を見ることができる。各国でおびただしい数が制作されている中から選んで放映するから、当然レベルが高くて、時間の無駄になったことはあまりない。

 あまりにも回数の多い作品はついて行くのが困難なのでパスすることが多い。韓国や中国のものは回数が多すぎる。暇な人向きだろう。以前は韓国のスパイものなどに優れたものがあったから見たが、いまはたいてい敬遠している。WOWOWが制作するドラマはだいたい一話一時間、四、五回で完結するのでちょうど良い長さだ。イギリスや北欧のミステリーもたいていその長さだから私は好きだ。しかも内容も充実しているし、何よりパンフォーカスで抑えめのダークな色調の映像が気にいっている。
 
 アメリカのドラマは回数は多いけれど、たいてい一話完結でテンポが良い。シリーズものの中にお気に入りのものが(「リゾーリ&アイルズ」など)いくつかある。リアルタイムで見ることはほとんどない。録画しておいて一気に見てしまう。

最近見たもの

 「新米刑事モース オックスフォード事件簿」第七話、八話。
第二次大戦の余塵の残る(つまりいまから50年以上むかし)イギリス・オックスフォードが舞台の、知能派刑事モースの活躍が描かれる。第八話では警察に巣くう巨大な悪をあぶり出したことでモース自身が刑事生命を失いかける物語で、今までで一番スケールが大きい。このシリーズは再放送があったら見逃さず見て欲しい作品。

北欧サスペンス「凍てつく楽園」シリーズ
 スウェーデンのストックホルム群島が舞台のミステリー。あの「ミレニアム」(これがハリウッドでリメイクされて、評判になった映画「ドラゴン・タトゥーの女」がつくられた)を見て分かるように、北欧のドラマは重厚でシリアス。
  「死者は静かな浜辺に」、「森に眠る少女」、「ヨットに響く銃声」の三作品、それぞれが全三話だから合計で9回。主人公の刑事の捜査が多少鈍くさいきらいがあるが、実際こんなものかもしれない。小島の閉塞的な人間関係とレジャーにやってくる都会の人間との関係などが良く描かれていて、北欧の人のものの考え方、価値観がとても興味深い。
 
北欧サスペンス「ジャーナリスト事件簿 匿名の影」全六回
 こちらはノルウェーのミステリー。一話完結ではなく、全体で一つの話である。新聞記者の兄が経済事件で告発され、自殺する。告発側でもあった主人公がその自殺の背景にあるノルウェー経済界、政界の闇に迫っていく。主人公の家族との関係、男女関係などがいかにも北欧的。記者は刑事と違って捜査などの権限がないが、徒手空拳で巨悪に挑んでいく姿にはこちらの血も熱くなる。当然自分や周りの人間にも危害が及びはじめるが、頼りなげな主人公がそれだからいっそう燃えていく姿はりりしい。

 六月にはイギリスの「主任刑事アラン・バンクス」の第四シーズンが放映される。苦みのきいたアラン・バンクスの表情がたまらない。楽しみだ。またアメリカの「アンフォゲッタブル 完全記憶捜査」の第三シーズンが放映される。うーん、こちらはどうするか迷うところだ。なにせ全13話と長いし。さらにWOWOWのオリジナル時代劇ドラマ「ふたがしら」というのが始まる。こちらもおもしろそう。

 今録りためているドラマもいくつか(オリジナルの「テミスの求刑」、「夢を与える」、アメリカのSFドラマ「エクスタント」など)ある。これは完結したものを見た時点であらためてまた感想を書くつもりだ。

組織としても拠点としても

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 朝鮮総連の代表宅が先日家宅捜索された。このことを受けて、韓国のハンギョレ新聞の記者が記名記事を書いていた(今朝のヤフーの韓国のニュースに掲載されていた)。

 朝鮮総連という組織の成り立ちと歴史、その役割、在日の人たちにとっての存在意味が語られている。ドキュメント映画「ディア・ピョンヤン」などで多少は知っていたことだが、この記事は良くまとめられていて、分かりやすい。

 北朝鮮への金の流れに関与したと見られる朝銀は破綻し、日本の税金が1兆円以上つぎ込まれた。総連も朝銀もその経理は不明朗だったと言われる。だから総連ビルは接収されたのだ。関連した日本の政治家の名前も何人か挙げられている。

 朝鮮総連を支援する在日の人たちは減り続けている。三世四世の世代は北朝鮮とのつながりをほとんど持たない。だから組織としても拠点としても総連はほとんど力を失いつつある。その象徴が今回の総連代表宅の家宅捜索であるという。

 このほかにも韓国の現在の反日観について批判する寄稿記事(もちろん韓国の新聞である)などもおもしろかった。歴史は繰り返す、という韓国の歴史観のゆがみ、先入観を冷静な切り口で分析し、批判している。韓国では100年前の朝鮮半島情勢と現在の韓国の情勢が似ていると見られている(私もそう思う)。ただし韓国そのものが100年前とはまったく違う国であることを自覚しなければならないという。しかも他の国にとっての朝鮮半島の重要性は100年前よりもはるかに小さくなっていると見ている。ではどうであるべきかというのがこの寄稿記事のテーマである。

こういうまともな文章を見ると嬉しくなる。

2015年5月23日 (土)

アニマル・ファーム

 数日前のことだが、沖縄県の翁長知事が沖縄独立論について問われて「戦後沖縄は日本政府に長い間見捨てられていた。今後(積極的な独立ではなしに)日本から切り捨てられる、という状態でなら(独立は)あり得るかも知れない」と述べた。

 戦後沖縄を長くアメリカが統治していたのは事実である。その統治の続きのようなものがまだ一部残っていることも残念ながら事実と言って良い。ただ、それは日本政府が沖縄を見捨てたのではなく、敗戦国としてやむを得ざる状態であった。だからアメリカと交渉して、(譲るべからざるものまで譲って)なんとか本土復帰に漕ぎつけたのだ。それをわざわざ「見捨てて」と言い方をするあたりに、この人のポピュリズムが見える。

 それよりも、「沖縄独立論」を翁長知事が「まったく考えていない」と一蹴しなかったことが気になる。ニュース解説では、翁長知事はブラフとして、日本政府に対し、基地問題がこのままではそういうこともありうる、といったのであろうと分析していた。つまり脅しだろう、というのだ。

 ことばは魔物である。一度そういう文言が口から発せられれば、「沖縄は日本という国から切り捨てられ、やむを得ず独立する」という観念が動き出してしまう。

 だれがそれを最も望んでいるのか明白な時代、不用意な発言は魔物を呼び出し、取り返しがつかなくなることにこの翁長知事という人は考えが及ばないようだ。これは翁長知事にかけられた呪いではなく、沖縄県民に掛けられた呪いとなりかねない。

 もともと沖縄は琉球王国という独立国だった、というのが沖縄独立論の根拠なのだろう。世界中にそのような例はたくさんある。将来そのような昔の小国が独立するという動きが盛んにならないとは言えないが、少なくとも独立するについては独立を維持するための国家としての要件を現実問題として考慮する必要がある。

 ただ基地に反対だから独立するぞ、というのは空論以外の何物でもない。群れを放れた草食動物を虎視眈々と狙う肉食獣はそこにいる。肉食獣は群れから離れる個体をおびき出そうと、あの手この手を尽くしている。肉食獣にへつらう狐もいる。まったくこの世界は「アニマル・ファーム」そのものなのだ。

古谷経衡「インターネットは永遠にリアル社会を超えられない」(ディスカヴァー携書)

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 長いタイトルだ、打ち込むのが面倒くさい。

 タイトル通り、多くの人はインターネットがリアル社会を超えているか、超えつつあると思っている。それは錯覚であることを繰り返し論じ、根拠を挙げて否定しているのが本書である。

 たとえば今の若者は新聞を読まない、テレビでニュースも見ない、その代わりにネットでニュースを見ている、という。

 ではネットのニュースを伝えているのはだれか。ほとんどが大手マスコミである。個人やネットユーザーは取材する資金もなく、組織もなく、事件を報道する力がない。マスコミがネットを使って伝えているか、それを引用してネットで報じているに過ぎない。

 インターネットが世論を作り出す時代になったという。では選挙にネットを活用した場合とそうでない場合との違いはどうか。実際の実例で調査してみると今のところまったくネットの効果は確認されない。

 私もしばしば日本や海外でのネットの意見を見ることがある。いかにもそれが多数意見のように見える。ところがアンケートをとってみると、ネットの意見とはまったく違う結果になることがほとんどである。ネットの意見は極端なものが多く、実際の意見を反映していない。サイレントマジョリティとネットの意見は違うものであることをこの本は明らかにしている。

 ネットの炎上がしばしば話題になるが、1000件の激しい非難の書き込みがあっても、調べてみると実は数人が繰り返し書き込んでいただけ、ということもめずらしくないという。同じ人間が名前を変えて何百と書き込んでいるのだ。

 これらはまだネット社会が成熟していないからだという意見もあろう。しかし成熟してもリアル社会を超えられないという当たり前のことをクールに断言しているのがこの本で、大変勉強になった。

 ただ、残念ながらテーマについての繰り返しが多くて、それが少し煩わしい。

2015年5月22日 (金)

言って良いことと悪いこと

 二週間近く不在だったので、録画しておいたその間の「そこまで言って委員会NP」を二週分見た。この番組は東京エリアでは放映されないから、録画しておくしかない(どちらにしてもCMが煩わしいから民放の番組は録画しておくことが多い。後でCMをとばせる)。

 内容について、今回もおもしろいのだけれど書き留めておきたいのは別のことだ。

 死刑制度の是非について壇上のパネラーがそれぞれ自分の意見を述べた。いろいろな意見があっていい。当たり前のことだ。ただこの番組の性格上、死刑制度は是であるという意見が多い。その中で田嶋陽子女史がいつものように孤軍奮闘、死刑制度絶対反対、身内が殺されようがどんな残虐な犯罪だろうが絶対反対、ととなえていた。

 たまりかねた桂ざこばが、「少しは殺された人の身になって考えてえや」 と振り向いて声を掛けた。それに応えたことばに絶句した。

 「死んだ人のことなんか知らない。死んでしまった人のことなんかわかるわけがない」と確かに言ったのを聞いた。

 この番組は時事ネタを使った一種の娯楽番組である。パネラーとして壇上にいる人は時に極端な意見を言う。それがおもしろい。ただし、その極端さはあるぎりぎりの線を越えることはない。超えたときには番組がその部分の音声を消すことで見ている人に想像させるという手を使う。パネラーは絶妙なその加減を承知して語るプロたちである。

 テレビに出ているコメンテーターと呼ばれるタレントや学者はそれが本能的に分かっているプロなのでおもしろいのだが、時として素人がそれを真似をして顰蹙を買う。ビートたけしの真似は普通の人間にはできないのだ。だから素人のコメントには聞くに堪えないものも多い。わざわざそれを素人に語らせるマスコミの無意味さに腹が立つこともある。経験があるけれど、マイクを向けられたときにきちんと自分の意見を言うのは難しいものなのだ。

 田嶋陽子女史が自分の失言に気づかなかったはずがない。まわりもみな気がついただろう。しかし勢いを止めて釈明すれば失言の傷がおおきくなる。あわてて一気呵成にたたみかけてお茶を濁し、まわりもそれに触れなかった。ことが重すぎるからだ。

 私が興味深いのは、番組がこの部分をカットしなかったことだ。カットすると全体が使えなくなったからかも知れない。それともこれで田嶋陽子女子は使い捨てよう、すでに賞味期限切れ、と認定したのかも知れない。

 さて田嶋陽子女史の再登場はあるのか。再登場したとすると私の聞いたあのことばは空耳だったのか。

 確かに死んだ人のことは分からない。だったら加害者のことも分からない。だが加害者について本人の育った事情や社会背景を思慮せよとそれほど強く主張するのなら、加害者について大いに想像力を発揮しているのであろう。それなら被害者の無念の気持ちやその家族や関係者のつらい気持ちが想像できないはずがない。だからざこばは「少しは死んだ人の身になって考えてえや」と声を掛けたのだ。

 加害者の殺人に至った理由を社会や育ちのせいにして、加害者に配慮するべきだと声高に言うが、では同じような境遇に置かれた大多数の人が犯罪に至らないという厳然たる事実をどう考えるのか。「そんなことは知らない」と言うのか。

 この田嶋陽子女史の発言が大問題になったという話を知らない。私が知らないだけかも知れない。もし問題になっていないなら、悲しい。

WOWOWドラマ「翳りゆく夏」全五話

第49回江戸川乱歩賞受賞作、赤井三尋の「二十年目の恩讐」が原作のミステリードラマ。おもしろい。

 大手新聞社に採用が内定した女子大生が、二十年前に起きた新生児誘拐事件の犯人の娘であることが週刊誌にスクープされる。

 犯人は警察の追跡中を受けているときに運転を誤って事故死し、病院の新生児室から誘拐された男児は行方不明のままの事件である。

 採用を決めた人事部の役員・武藤(時任三郎)は採用の取り消しを頑として拒み、社長(橋爪功)もそれを支持する。

 取材のミスで資料部の閑職に追いやられていた記者(渡部篤郎)は社長に密かに呼ばれ、この誘拐事件の徹底的な見直しを命じられる。地道な調査を重ねるうちに、表面に見えることの裏に隠された事実があることが分かり、意外な関係者がクローズアップされる。ラストにこの誘拐事件の意外な真犯人と、誘拐された男児の行方、それらを隠蔽した人物がすべて明らかになる。 

 だれもがそこに見えている事実に目を奪われて、些細な矛盾に気がつかない。事件で人生を狂わされた人々と、それを乗り越えてそのことによってこそ強く生きていく人々、それが感動的である。

不正請求

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 介護施設による介護保険料の不正請求が、昨年度は216件告発されているというニュースを見た。いかにもありそうである。

 ではその不正請求はだれが見つけたのか。支払い側の自治体である。しかしこれは明らかにおかしいというものだから気がついたのかも知れない。ほかの適正な請求をしている施設との違いがあり、そしてそれを見抜く知的注意力があったから見つけたのだろう。しかし多くはそこまでのチェックはされずに見逃されているのかも知れない。不正請求は、実際はもっと多いような気がする。

 そもそも介護保険請求の確認は、ケアマネージャーが行うことになっている。介護認定の申請や(認定は自治体がする)介護に必要な備品の手配、介護そのものの内容など、ケアマネージャーの役割は多岐にわたり、介護を受ける人たちにはとても大事な存在だ。

 在宅介護でも介護施設でも、このケアマネージャーが介護内容の確認をして自治体に報告し、それに基づいて介護保険が適用される。

 つまり施設の不正請求は、ケアマネージャーが確認不備であったか、または施設とぐるになっていたことによって起こる。ニュースではケアマネージャーの多くが介護施設に所属している、という問題点を指摘していた。安定した収入と仕事の確保のためにどうしてもそうなってしまうという。

 もともとケアマネージャーの役割を公務員とすることも検討されたが、なるべく介護関連の仕事は民間に任すべきであるという考えや、予算の関係から公務員削減が叫ばれる中、今のかたちになった。

 自分が帰属する施設から手心を加えるよう要請されれば断りにくい、というのが実態なのだろう。

 しからばどうする、というのはこれからの話で、ニュースはここまでで終わりである。

 老母の介護ではケアマネージャーにたいへん世話になっている。実際にケアマネージャーがいないで、個人で同じことをすればどれだけ大変なのか、私の両親が私の母の両親、つまり私の祖父母の介護をしたのを見ているので身にしみて分かる。大変に有り難い存在だ。

 ケアマネージャーにばかり負担を掛け、責任を負わすことなく、行政がしっかりとチェックできる人材を配置する方向で検討していただきたいものだと思う。

 ところでこのニュースで思ったのは、介護施設が数多くあるなかで、見逃されているものがあるにしても、告発されている件数が少ないということである。

 まことに日本という国はきちんとしている国だと思う。チェックが甘ければやりたい放題が当たり前、という国もあるらしいが、日本は黙って正しくシステムが運用されているようだ。このことに日本人で良かった、という気持ちになった。

2015年5月21日 (木)

別役実「イーハトーボの軽便鉄道」(白水uブックス)

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 宮沢賢治の童話の世界はさまざまな解釈ができる。なにかの意味を見いだそうとして、人によってまったく違う世界を見ているらしい。

 人とは違う見方、人より深い見方のできる別役実だから、よりいっそう思いもよらない解釈を提示してくれる。

 宮沢賢治の童話を読み、この本のその童話を取り上げた章を読み、自分流の解釈も加えてこのブログにいくつか文章を書いたことがある。大分前のことでいつ頃だったか忘れた。

 前半のいくつかを取り上げたままで、この本も読みかけのままになっていた。今回そのいちいちを取り上げることなしに残りを読んだ。それでも別役実の解釈に首をかしげたり、なるほど、と膝を打ったりしてずいぶん読むのに時間がかかった。正直後半は素直に別役実の解釈を受け入れにくくなっていた。

 宮沢賢治もびっくり、ではないか。もちろん作者が思ってもいない深層心理を解釈する評論はごく当たり前に存在する。それにしても考えすぎではないか。想像のアクロバットが過ぎるように思う。それとも私がついて行けてないというだけのことなのだろうか。

 全面的に別役実の解釈を否定する、というのではない。八割方はおもしろいし賛同もするのだが、そこから先の過剰さが問題なのだ。

 宮沢賢治の不思議な世界をただ素直に読み直したい。

映画「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」1987年・香港

 監督チン・シウトン、出演レスリー・チャン、ジョイ・ウォン、ウー・マほか。

続けて「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー2」1990年・香港、「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー3」1991年・香港も観た。

 中国の怪異小説集「聊斎志異」の中の話が使われているという。この小説集の話になるとまたとまらなくなるのでやめておく。

 「2」は多少最初の話を引きずっているが、「3」は舞台が一緒というだけで時代も違う。ただ妖怪(ここでは妖女)は同じ魂ということにして一連の物語になっている。

 中国の怪異譚は好きなので、いろいろな本を持っているし、気が向くとそれを開いてたのしんでいる。短いものが多いし、あまりおどろおどろしくなく、人間臭くて、つまりあまり怖くなくて楽しい。

 それにしてもこの連続映画三作はお手軽な作品だ。良い意味ではない。ほとんど昔のテレビの妖怪ドラマに毛が生えた程度の作品だ。テレビと違うのは若干だけお色気があることだが、それも子供に見せられないほどのものでもない。

 たとえば堺正章が孫悟空、三蔵法師を夏目雅子が演じていたテレビの「西遊記」がちょっとだけ大がかりになった、というところか。

 ところで香港の映画というのはどうしてこう騒がしく汚らしく、つまり猥雑なのであろう。まずこれに辟易してしまう。

 そういえば「3」にあのトニー・レオンが主演で出ていた。えっこんな役柄をトニー・レオンが?とびっくりするような、ちっともおもしろくないコミカルな演技を披露していた。多分本人は決してこの映画を思い出したくないだろう。このままこんな役ばかり演じていたら今日のトニー・レオンは存在しないことだろう。

 もう少しマシな映画かも知れないと思ったのに残念であった。それなのに三作とも観るというのもご苦労様なことである。

奇妙な韓国

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 いま矢口祐人という人の「奇妙なアメリカ」(新潮選書)という本を読み始めたところだ。アメリカにある8つのミュージアム(博物館)を取り上げて、グローバリズムの国アメリカの、奇妙なローカリズムをもとにアメリカとはなにかを考えさせてくれる本だ。

 最初がキリスト教原理主義に基づく「創造と地球のミュージアム」。進化論を否定し、聖書を絶対的に正しいという前提で科学が構成され直しているという博物館だ。おもしろいのだけれど今回語りたいのは二番目の「全米原子力実験ミュージアム」に関連したことだ。

 ここでは核兵器が平和に貢献したこと、そして今も貢献している、という視点で展示がなされている。当然核兵器による悲惨な被害についてはほとんど言及されていない。アメリカの正義を支えているものの一つに核兵器があり、アメリカは正義であるという確信に満ちている。

 今回NPT(核兵器不拡散条約)で日本が提案した、広島・長崎への各国首脳の訪問が、中国の強硬な反対で削除されそうである。中国代表はあるまいことか「うんざりだ」と言ってのけた。だれがどう見ても反対のための反対で、勘ぐれば、自国が核兵器を使用することを留保するぞ、という脅しと取れないこともない。

 この場合歴史問題と広島・長崎の件が対比させられているのはどう見ても非論理的であろう。日本に歴史問題があるから日本の言い分はすべて拒否する、というのでは話にも何もならないではないか。

 そもそも中国は経済大国になったのをいいことに理屈抜きの強引なこり押しを平然とする国だから、みなあきれながらもまたか、というところだろう。

 問題は韓国である。中国の尻馬に乗って日本に反対をとなえていた。NPTは原則として全会一致ではないと物事が決められないのだという。日本の言い分は韓国と中国が会議に参加しているかぎりまったく通らないことになるのか。

 今回の場合、日本に賛同する国が数多くある。中国一国であれば大勢が日本に賛同すれば、中国も折れる可能性があったが、韓国が中国の肩を持った瞬間に日本の主張が通る可能性がなくなったと見られているらしい。

 韓国こそ北朝鮮の核の脅威に直面している国であり、中国の核も場合によって台湾や韓国や日本に向けられかねない。その韓国が脳天気に中国にしっぽを振っている姿は、多分世界から見たら奇妙なものに映っているのではないだろうか。韓国は中国に対して手柄顔だが、そのことが中国を勘違いさせてしまうという危険を承知しているのか。 

 朴槿恵大統領が世界遺産申請に対して日本を公式に批判した。明治維新前後の、日本という国が今のかたちのもとになった記念としての申請であることについては以前述べた。明治維新については東南アジアの各国をはじめ、植民地からの独立のとき手本にしようとした国はたくさんある。そのとき開国もできずに眠りから目覚めなかったのは当時の朝鮮であった。その覚醒の遅れがどのような結果をもたらしたのか、朴槿恵大統領は歴史に学んでいるのだろうか。朴槿恵大統領は言いがかりとしか思えない批難をしているように見える。

 朴槿恵大統領も日本批判でしか自国での求心力を確保できないとすれば、その政権の危機的状況は想像以上に深刻なのかも知れない。日本人も、中国のNPTの代表のように、多くの人が「もううんざりだ」と思っているのではないか。韓国の人は知らないけれど。

2015年5月20日 (水)

負け惜しみ

 自動車税と固定資産税を払った。年金生活者にはつらい出費だが、払うことができることを喜ぶべきか。もし払えなくなれば自家用車を処分するだけだ。手持ちに見合った生活をすること、当たり前のことだろう。贅沢はできないが、それで少しも貧しいと思わないし、不幸せだとも思わない。

 病気や天変地異を、起きる前から心配しても始まらない。悪いことのシミュレーションは精神の健康をむしばむ。

 平凡だけれど、毎日を無駄にしないように楽しく生きることだと思っている。人生楽しい、と思うと楽しいものだ。

得られたもの

 横浜市戸塚区の高校一年生の少年が、母親と祖母を包丁で刺したとされる(この「される」という言い方は刑が確定するまでのマスコミの常套句だが、なんだかおためごかしな気がする)事件で逮捕された。「勉強や手伝いをしないことや、ゲームのやり過ぎを注意されたから刺した」とその理由を語っている。

 この少年は多分少年院に入ることになるのだろう。何年か分からないが、成人するまではそこにいることになる。その間、ゲームは多分自由にできないだろう。父親は単身赴任で家にいなかった。親子関係はなくすことはできないが、いくら自分の息子でも、自分の母親と妻を殺したことを忘れるわけに行かないと思う。そうなれば親子関係はほとんど修復不能だろう。

 少年院を出てからこの少年はひとりで生きていかなければならない。世間の風当たりはきついだろう。生活も苦しい。ゲームをする余裕があるだろうか。多分ないだろう。

 少年はひたすらゲームがしたかった。それを邪魔するものは許せなかった。邪魔者を排除して、ところで彼はゲームをやりたい放題にやれるようになったのだろうか。彼が得たものはなにか。

繰り返される自己紹介

 頭に浮かんでは過ぎ去る想いというものがある。つかみ所のないものだが、それをむりやりつかまえていじっていると何となく形が見えることがある。

 そんなまだ定かならぬものを文章に写していくと、稚拙ながら一応まとまったものになったりする。書いているのは自分であって自分でないようで、書き出すと不思議なほどひとりでに書けてくる。だから嘘みたいだが、書いたものを見ると自分が何を考えているのか初めて分かったりする。

 書くことがきちんと決まってから文章を書くものだ、と思っている人も多いだろうが、私は少なくともそうではない。論文などはもちろん別だろうが、小説家などでもたいてい書き出すと独りでに筆が走っていく、というイメージで語る人が多い。

 だからブログを書くことは、ただ自分の想念や読んだ本、観た映画、聞いたニュースを頭で反芻しているうちに独りでに書けるので書くことにあまり苦労しない。

 以前ブログを自分の備忘録のようなもの、と書いた。人が読むことが前提だけれど、日記のようなものか。日記は人に読んでもらうものではないと思われているが、日記も読者がひとりもいなければ意味を失うような気がする。

 同時にブログは自己紹介だとも思う。匿名でありながら自己紹介というのも変だけれど・・・。ある物事について、私はこう思った、私にはこう見えた、ということを表明するというのはつまり私はこういう人間です、ということを相手に伝えていることに外ならない。

 自分で自分のことが分からないくらいだから、相手に伝えるとなれば、繰り返しさまざまな形で伝え続けなければ伝わらない。だから「繰り返される自己紹介」と表題をつけた。

 先日、いつも拝見しているブログに、「どんなときにブログを書くの?」という文章を見て、考えたことを少しだけ書いてみた。

2015年5月19日 (火)

司馬遼太郎「以下、無用のことながら」(文藝春秋)

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 有名な逸話だが、司馬遼太郎がある時代やある人物について本を書こうとすると、日本全国の古本屋からそれに関連する資料が払底してしまうという。

 司馬遼太郎は机の広い人だと思う。人はなにかを思索するとき、机にいろいろな資料をならべ、それを読み、考える。これは実際の机ではなくて自分の頭の中の机のことである。元々の資料の量も問題だが、そこに資料を拡げられる机の広さが、その人の思索の深さと広がりに大きく関係する。

 この本には単行本に収録されなかった膨大なエッセイの中から選りすぐられた71編が納められている。560ページという大部の本で、読みながら一つ一つにこちらもしばし考える時間が必要であり、普通の本の三倍くらい時間がかかってしまった。それでも飛ばし読みしすぎた気がする。

  人は思索することで物事の視点を獲得し、世界を解釈する。その世界観が違うから、といって司馬史観を酷評する者もしばしばいる。それはある意味で、自分の頭で考えることをせずにあまりにも司馬史観を信仰する人が多すぎることへの反動かも知れない。

 知らなかったことをこちらの机の上にがらがらとたくさんならべてくれる司馬遼太郎の本はそのことだけでも大変ありがたいものだ。残念ながらこちらの机が小さすぎて、ほとんどが机の下にこぼれてしまうのだけれど。

 本日で今月の老母の介護手伝いは終わり。夕食を戴いたら夜、名古屋へ走る。たいしたことはしていないけれど、実家であり、弟の家とはいえ自分の家ではないからくたびれる。帰ったら映画やドラマをまずのんびりと楽しもう。

司馬遼太郎の予見

 司馬遼太郎の「以下、無用のことながら」という本を読んでいる。

 このなかにこんな文章を見つけた。

 バスク人は知的な民族である。だからこそ、たとえばアジアなどに多い少数民族たちに先んじてそのことに気づき(前文の「少数者である特異な文化のなかに身や心を寄せ、その文化にくるまれ、小さな単位の中に一つの文化を共有するときこそ、真の心の安らぎがうまれる」という部分を受けている)、スペイン側にバスク共和国(多分に自治区的な)という小さな”わが国”を持った。古代以来、国家などを持ったことがない民族だったのだが、少なくとも文化的まとまりとして国を持ったのである。この傾向は、二十一世紀の地球を、あるいは予見できるような事象ではあるまいか。以下は、私の妄想である。二十一世紀では、普遍的文明は世界をおおうだろうということだ。むろんこのことは世界国家ができるといった政治的なことではなく、普遍的慣習の世界化とか、英語などの共通語の普及、またはファッションなど生活のソフト面の共通化といった文化的要素の共有性が高まるだろうということである。ただし--以下が大事なのだが--一方において、その大傾向に背をむけるようにして、少数者がはげしく自己主張し、多数者に背をむけ、少数者がその特異性を不必要にまで主張し、そのことによって多数者に顔色をうかがわせ、ときにバクダンを投げつけて自己の存在を示そうとする時代がくるにちがいない。しかもそのことが集団(国またはその類似団体)の唯一にちかい目的になりそうである。人類は、普遍性に覆われつつ--その便利さを享受する一方--特殊性を声高く叫ぶことに精神の安寧を感じる時代が来そうだということである。

  なんたる慧眼!

帚木蓬生「閉鎖病棟」(新潮社)

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 長編小説は最初の50ページで決まる。何が決まるかというと、一気に読めるかどうかが決まる。最初の10ページがなかなか読み進めないと、50ページまで到達しないでそのまま次に手に取る機会を待つしかない本となる。

 この本は1994年出版の本。おもしろくないはずがない本なのだ。「閉鎖病棟」と言えば精神病院が舞台だとすぐ分かる。興味もあったし、行く機会もあったので、何度か精神病院を訪ねたことがある。もちろん鍵付きの閉鎖病棟も知っている。そこで出会った患者に奇声を発したり奇矯な行動を取る人はほとんど見られず、それよりも心やさしくフレンドリーな人ばかりだった。彼らは外界に耐えられず、閉じこめられていると言うよりも守られている部分もあるという印象がある。短時間だから実態とは違うのだろうが・・・。

 それなのにその精神病院がなかなか出てこない。冒頭部に伏線が描かれていて、そこがなじめなかったのだ。ある女性が産婦人科を訪れるシーンである。この未成年の女性の姿が描かれることでこちらが一定の先入観をいだくようになっており、それが物語り全体を読んだときに、意外な事実が明らかになることで、その伏線がどういう意味であったのか、はじめて分かる、という構成になっている。

 どうしてこの程度のことで何度も読むのを途中で止めたのか、今回読了して首をかしげた。なんの苦もなく50ページの山を越えられた。

 帯にあるように、最後は思わず熱い涙が湧いてしまう。精神病の長期入院患者は昔と違って今はずいぶん少なくなった。薬も良くなったし、比較的に早期に治療を開始することで難治化しにくくなったからだ。

 ただし精神科の医師は多数の外来を引き受けるためにひとりあたりの治療が極めて粗雑になっている。この小説に出てくるような、ほとんど患者の顔を見ないで決まり切った質問をするだけ、という医者がごろごろいる。そういう医者ほど治療件数をかせぎ、病院で評価され、データを大量に集めて学会で名を売るようになる。

 きれい事では済まない、人が見て見ぬ振りをし続けている世界がここに書かれている。人の不幸の、ある究極のかたちがあるともいえる。そこにも希望があることを描いて何となく救われるのだが、現実はなかなかそうも行かないものなのだ。そんな思いも重く心に残った。

光芒を失う

 橋下氏が政界を引退し、江田氏が維新の代表を降りるということで、維新の主要代議士たちが集まって今後について協議をする様子がニュースで報道された。

 その顔ぶれを見ていて、にわかに維新の党の輝きが失せてしまったことを実感した。東京のグループと、大阪のグループとに分裂してしまうのではないか、という憶測もむべなるかなと思う。

 民主党の枝野氏はさっそく維新との連携を呼びかけていた。この人のこういうところ、最近特に鼻につく。この人に人間的魅力が失われたように思うのは、あの原発のとき民主党政権の説明者として猫の目のように変わる説明をしていたのを見たからだろうか。本質的に口先だけの人に見えてしまう。あのとき公表すべき事実(スピードのデータのことなどいくつもある)を(菅直人首相の指示かどうか知らないが)隠していたらしいことも後で分かった。

 江田氏はもともと以前在籍していた党で野党連携を唱えたために意見が合わず、仲間とともに維新の党に移籍した経緯がある。野党連携は持論である。だから東京グループは民主党に吸収されるかも知れないと思われているようだ。 

 国民は二大政党に日本の政治のレベルアップを夢見た。だから野党再編はその夢の続きなのだ。だが、国民は異質なものをむりやり一つにまとめた党の無能力さをいやと言うほど見せられたのではないか。何も決められない党である民主党に幻滅したのではなかったか。その民主党が抱え込んだままの旧左派社会党勢力があるかぎり、その体質は変わらないのではないか。

 共産党が大阪都構想反対勝利を高らかに宣言していた。自民党大阪府連も含めての勝利を手柄のように語っていた。こうして勝利者の権利を今後行使していくつもりなのだろう。それが大阪府や大阪市の組合の力の復権をめざしていくことは想像がつく。役所の職員の天国が復活するのだろう。考えすぎか。

 自民党大阪府連は安倍政権の意向に逆らって大阪都構想反対の旗を振り続けた。維新の党に恨み骨髄というのがよく分かる。これは橋下氏側にも問題があったのかも知れないが、こちらも既得権益にこだわるところが大きかったのではないか、というのは邪推か。

 共産党と自民党大阪府連は同床異夢を見たのではないか。そこには大阪市民のため、という視点がどこまであったのだろうか。 

 橋下徹という光芒を失い、平生の維新の夢は潰えた。地方自治の抜本的な改革はこれで大きく後退する。抵抗勢力は勢いを盛り返す。そのことの意味をこれから国民は身にしみて感じるときが来るかも知れない。それとも愚痴だけ言いながら何も気がつかないままかも知れないが。

2015年5月18日 (月)

松原隆彦「宇宙はどうして始まったのか」(光文社新書)

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 SF少年で宇宙の話が好きだった。少年(最近は少女も)の多くはそういう話が好きだけれど、歳とともにそこから離れていく。私は多少遠くなったとは言え、離れきらずにいる。つまり今も興味があるし、SFや宇宙の話が大好きだ。多分この本はそういう人たちが読むことだろう。

 この本には数式が一切出てこない。数式でしか表現できないような最先端の宇宙論を、数式なしで書くのはまことに至難の業であろう。数式で説明してもらっても、どうせこちらはよく分からないけれど。

 現代物理学は、通常の世界で起きている現象をもとにした常識では理解できない不思議な世界を語る。量子論や相対性理論などをもとにして研究していくと、さらに不可思議な宇宙の姿が垣間見られるようになった。

 そこで語られるのは物理学であり、数学でありながら、ときに宗教や哲学のような観念的な世界である。仮説を立て、検証するというのが科学の方法で、信じ難い仮説が次々に検証されてきたのが宇宙論だ。そしてついに人類は仮説の検証が可能と不可能のぎりぎりの世界にまで至っているようだ。

 ものを知る、ということの究極の世界がここにある。そうなのか、そうかも知れない、という柔軟な思考のできる人ならこの本を楽しめるだろう。

頓挫

 大阪都構想が否決された。大阪の人は変化より現状維持を選んだ。私は大阪市民でも大阪府民でもないから、このことを自分のこととしてじっくり考えたわけではないのでその是非は分からない。

 橋下氏はさばさばしているようで、ある意味でホッとしているのかも知れない。燃えつきる前に立ち止まり、クールダウンすることができる。政治家を辞めるというのは本音だと思う。彼はやりたいことがあるから政治家になったのであって政治家になることが目的ではない。当たり前のことだが、今の政治家の大半がそうではないように見える。

 「どげんとせにゃいかん」と言って宮崎県知事となり、地方自治に一石を投じた東国原氏、「チェンジ」を合い言葉に大統領になったオバマ氏、そのほか変革を唱ったひとびとは多い。

問題があるのに少しも変わらない現状は、大都市の川底に淀んだヘドロのようなもので、それを何とかしなければ腐臭は漂い、生き物は死に絶えるようなイメージであろうか。

 橋下氏はそのヘドロを取り除くために立ち上がった。ヘドロはずいぶん取り除かれたように見える。ところが川はかき混ぜられたために一時的にさらに濁って見えた。ヘドロの逆襲のようなものである。

 さらに大がかりの装置で本格的なヘドロの除去をするのか、それとも川底をさらうのはもう止めるのか、というのが橋下徹市長の問いかけだが、舞い上がったヘドロに驚いたのか、もう十分だ、というのが今回の選挙結果だろうか。

 道半ばで止めるのは現状より後退する可能性が大きい。手法に強引すぎるところがあったとは言え、大阪の活力復活に寄与するところが大いにあったように見えるが、その評価は選挙に反映されなかったようだ。大衆は忘れやすい。

 今大阪の安いホテルはどこも予約を取るのが困難だ。中国やその他海外からの観光客があふれているからだ。この街の賑わいの底に再び大阪を食い物にするヘドロがたまらないことを祈るばかりだ。

2015年5月17日 (日)

知ったかぶり

 私は知ったかぶりをする。酒に酔うとますます知ったかぶりをする。それなのに他人が知ったかぶりをしているのを見ると、ときに顔をしかめる。少々の間違いに目くじらを立て、自分の知らないことだと、偉そうに、などと思ったりする。

 まことに自分で自分が恥ずかしい。もっと謙虚でなければいけないと、ときどき(!)反省する。

 人は自分の知識をもとに世界を見ている。知らないことを新しく知ることは自分の世界を拡げることであろうと思っている。だから話し相手がどうもこのことについて知らないらしい、と感じると、それについて知っていることと考えたことをしゃべりたくなってしまう。まったく善意のつもりなのだが、相手に対して優越感のようなものが生じないかと言えば、生じるし、それが嬉しくないこともない。

 自分の知っていること、考えたことをひとに話したい、という気持ちはだれにでも多かれ少なかれある。それを素直に聞いてくれる相手、そして相手が知っていること、考えたことを素直に聞ける相手と話すことはまことに嬉しいものだ。

 そこで知るのは交換された知識だけではない。世界をどう捉えているのか、と言う相手そのものについての知識でもあるのだ。

 そういうものよりも、多少優越感を感じたい気持ちの方が表に出てしまっていたり、つい不確かな部分、自分によく見えていない部分にまでことばがエスカレートしたときに、知ったかぶりの状態になっているようだ。だから他人の知ったかぶりにときに顔をしかめたり、自分の知ったかぶりに後で気がついて恥ずかしく思うのだろう。

 やはり相手を選んだうえで、控えめに知識や考えを披露するよう心がけなければならないようだ。

 ではこのブログはどうだろうか?(知ったかぶりだらけではないか!という声が聞こえる)

意味不明

 韓国の朴槿恵大統領が、閣議で「私たちの主要な目的は、今年達成しなければならないのはこれなのだと気を引き締め進むと、私たちのエネルギーを分散させるものをやり遂げることができる、というような心を持たねばならないということです」と述べたそうだ。

 はじめ、翻訳が悪い(韓国語が分からないから翻訳したものを見ている)のかな、と思った。意味が不明だからだ。

 しばらくして韓国でも「なにを言っているのか分からない」という声が多いことを知って、翻訳のせいだけではないらしいことが分かった。親切に、多分こう言っているのだろう、という解説もある。本当にそうかどうか知らないけれど。

 それによると「今年達成しなければならないことを確実に決めて、気を引き締めて進めば、私たちのエネルギーが分散することを防ぐことができ、これによって、『私たちは、やり遂げることができる』という自信を持つことが重要な目標だ」そうだ。

 これなら一応文意は通る。通るけれども、だからなんなのかはなにも分からない。多分前後のことばがあるからそれで分かるのだろう。

 朴槿恵大統領のことばは難解なのだそうだ。私ごとき非才には意味不明であるのは仕方がないことなのだろう。韓国の人たちは大統領のことばを解釈しようとして知能が磨かれるに違いない。

 韓国畏るべし。

いくら探してもない

 大事にしていた本がない。たとえばビアス全集全五巻など。そして早川から出ていた、ロアルド・ダールなどの奇妙な味の短編集10冊あまり等々。一通りは目を通したものの、歳をとって時間が自由になったらじっくり味わおうと思っていたものがいくら探してもない。

 若いときに揃えたものなので、実家にあるものと思っていたけれど、母の介護の合間に実家のあちこちにある自分の本を整理し直してみても見つからない。

 むかし私が育った実家は今とは別のところだった。そこにはずいぶん私の本が積まれていたけれど、私が残して欲しいものと処分して良いものとを分けて、今の場所に引っ越すときにその町の図書館に母が寄贈した。快く受け取ってくれたという。まさかと思うけれど、残して欲しいものもすべて処分したのか。手に入りにくい本があったのに。

 ないとなると無性に読みたくなる。そのことばかりが気持ちから離れない。いまさらどうしようもないのに。

 執着すること、こだわることから自由になろうとしながら、本のことだけはどうしようもなくてあきらめきれない。ないと分かっていても探し続けるだろう。ビアスの「アウルクリーク橋の出来事」をあの全集でもう一度読みたい!

2015年5月16日 (土)

何故だろう

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 「中国では倒れている老人を善意で助けたところ、加害者扱いされ、高額の治療費を請求される事件が多発している」という記事を見た。

 この話はずいぶん前から知っていたが、「多発している」というのを見てあらためて驚いた。

 以前このことを中国人のこころの荒廃の一つと捉えていたけれど、果たしてそれだけなのだろうか、と疑問がわいた。

 「加害者扱いし、高額の治療費を請求する」のは「善意で助けられた老人」本人なのだろうか。困っているときに助けたくれたひとに勘違いして悪意をいだく老人がいないとは言えないだろうが、「多発する」とは思えない。

 「高額の治療費を請求する」のは老人の身内か関係者ではないか。もてあましている老人をネタに善意の人から金を取ろうという人なら、今の中国なら少なからずいるのかも知れない。善意の人は騙しやすいと思われることだろう。

 老人がもてあまされている、ということについてもう少し考えてみると、文化大革命の時代に思い当たる。中国で1960年代を中心に吹き荒れたこの異常な熱狂の時代に青春時代を過ごした若者たちが、今老人となりつつある。彼らは教育を受ける機会を奪われ、なんの技術を身につけることなく、社会にとって無能な集団としてただ無為に生きているものが多い。

 彼らの多くは時代の変化についていけない。社会的役割も与えられないことが多かった。共産党一党独裁という体制にとっては無知な彼らはまことに都合の良い人々だが、改革開放時代にあってはお荷物でしかない。これは国にとっても家族にとっても同様なのではないか。

 そういう老人がカモを連れてきたら、それを好機と捉えて言いがかりをつける、というのはいかにもありそうなことではないか。

 根拠も裏付けもないが、現実に「多発している」と報じられているのだから、理由があるはずだ。

しかし理由がどうであれ、こんなことが知れ渡れば(すでにだれでも知るところとなっている)だれが困っている人を助けようとするだろうか。みなが見て見ぬ振りをする社会になるのは当然だろう。すでにもうなっているのかも知れない。

 中国はそれをどうにか是正することができるのだろうか。それともそんなことは当たり前の社会で、弱肉強食で生き続けるつもりなのだろうか。そんな社会に幸せなどないように思うが・・・。金さえあれば幸せか?

半村良「石の血脈」(早川書房)

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 マルコ・ポーロも言及している(と記憶しているが)イスラムの暗殺教団の話からアトランティスの話、シュリーマンの秘密、巨石信仰、吸血鬼伝説、狼男伝説、その背景にあるフリーメースンなど、古今東西の謎や秘密をすべて盛り込んだ伝奇小説だ。ここまで全部関連づける力業というのはさすが「嘘男」と自称する半村良だからできることだろう。

 どこまでが事実でどこから嘘なのかが分からない。まさかすべて本当だと思いこむ人はいないだろうが、境目が分からないから、あれよあれよという間にこのあり得ない世界にはまり込んでしまう。

 この小説はその壮大なほら話でまぶしたセックス小説、という見方もできる。かなり濃厚な情交シーンが満載で、それをたのしむだけでも読む値打ちがある。何しろ常人ではない人間のセックスだからその快感は想像を絶する(らしい)。この本を読んだのは、奥付きから昭和47年頃(初版は昭和46年だが、私の持っているのは47年の第二刷)と思われる。だからまだ学生であった。このセックスシーンにどんな感想を持ったのか、確かまだ未経験だったそのときの私に聞いてみたいものだ。妄想だけが膨らんだか、あまりよく分からずにストーリーだけ追っていたのか、記憶にない。

 日本が舞台の、古代からの裏社会(陰で政治や経済を支配しているという組織)の存在を同じような壮大なほら話として組み立てたのが「産霊山秘録」という半村良の伝奇小説だ。こちらは処分してしまったのか、蔵書に見当たらない。あえて探して読むかどうか、ほかにも読みたい本が山のようにあって迷っている。

 蛇足ながら、この「石の血脈」も「産霊山秘録」もれっきとしたSFである。ほら話の好きな人は読むべし!ちょっと長いけど。

2015年5月15日 (金)

無事帰還

 つき合いにくい人との丁々発止の戦いを無事終えて、ただいま帰還。

 幸せしか知らず、しかも裕福な人が金のことに細かくこだわっている姿を見ると、うんざりもするけれど、なんだか可哀想になってしまった。幸せしか知らない人は、他人に対して少しも思いやりがないのは不思議なことだ。

 その上に自分がすべて仕切りたがる。そして他人を支配したがる。しかもそのことに他人が腹を立てている(私は慣れているのでもう平気、腹で笑っている)ことが理解できないらしい。頭を下げて人にものを頼むと言うことがまったく頭に浮かばないらしい。

 自分が正しいのに何故頭を下げるのだ、などという。

 本日、最低これだけは前へ進めようと思っていたことを片付け、そしてできない約束はしないことをきちんと守れたから、私は一応満足なのである。今晩の酒は美味いはずだ。アア疲れた!これで今晩は安眠できる。

つき合いにくい人

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 思い込みの強い人とはつき合いにくい。正しい人にこの思い込みの強い人が多いのはどうしたことか。自分が正しいと思うことにこだわると、人に敬遠される。正しくてはいけないのか。

 問題は正しいか正しくないかではなく、こだわることなのだろう。

 自分が正しいと思うことと他人が正しいと思うことが違うという当たり前のことを人は忘れがちだ。自分と他の人は違うという、いわれなくても分かっていることを常に念頭に置くことは難しい。多分本当に分かっているわけではなくて、ただ知っているだけなのだろう。

 つき合いにくいから敬遠される人は、自分に理由があることに気がつきにくい。だから誰かのせいにすることで納得する。こうしてまわりが敵だらけになる。

 かたくなでこだわりの強い人はあいまいであることが許せない。人はあるときやさしく、あるとき冷たい。そういうこともあるよね、と思って、全体でその人を見れば良いけれど、冷たかったときのことだけが記憶に残される人は、やさしさに裏の意味を考えてしまう。

 人はそれほどいつも策略家であるわけではない。

 そんなことをちょっと頭に置きながら、これから気の重い場(自分たちが正しいと確信している人たちのいるところ)に赴くことにする。

2015年5月14日 (木)

宮部みゆき「悲嘆の門 上、下」(毎日新聞社)

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 この本が新刊で店頭に並んだとき、購入しようとして帯を見たら、「ベストセラー『英雄の書』に続く待望の長編」とあるではないか。『英雄の書』をまず読まねばならない。というわけでそれを読んだのがしばらく前で(ブログに取り上げた)、ようやくこの本に取りかかったというわけだ。

 殺人事件を追うミステリーと『英雄の書』のファンタジーが融合した、とんでもない物語になっている。そして『英雄の書』をきちんと先に読んだのは正しかった。読まなくても楽しめるかも知れないけれど、あの壮大な異世界をこの本だけでイメージするのは難しいだろう。

 この本をうまく説明できない。私にはとてもおもしろかったけれど、宮部ワールドに慣れていない人にはちょっとついて行けないかも知れない。

 予定を変えて次に半村良の伝奇SF『石の血脈』を読むことにした。四十年ぶりぐらいに読む。イメージが連続するのだ。

 明日は気の重い所用で朝から出かけるので、多分一日か二日ブログを書けないかも知れない。

映画「悪の教典」2012年・日本

 監督・三池崇史、原作・貴志祐介、出演・伊藤英明、二階堂ふみ、染谷将太、林遣都、山田孝之、平岳大、吹越満ほか。

 シリアル・キラーを描いたサイコ・ホラー映画。こんな映画を観ると、お話だと分かっていても子供を学校にやるのが怖くなる。確かに世のなかにはおかしな人間がいるし、先生にも変な人がいる。見た目で明らかに変な先生を吹越満(この人絶品)、まったく正常に見えて、ものすごく異常な先生を伊藤英明が演じる。

 実はこの映画のストーリーよりも以前の話がテレビドラマ化されている。それを先に見ると、よりいっそうこの話の全体の異常さが際立つ仕組みになっている。

 アメリカの投資会社で天才的なトレーダーとして活躍している主人公(伊藤英明)が、まわりから惜しまれながら突然退職して日本に戻り、高校の英語教師になる。すばらしい頭の持ち主であるし、人にも優しく快活で、たちまち生徒たちの人気者になっていく。

 それをねたみ、異常に彼のことに執着して嗅ぎ廻るのが吹越満。妻に逃げられてますますおかしくなったという彼にはとんでもない秘密があった。

 ドラマでは吹越満の異常さが強調され、伊藤英明をそれに対応するために苦労する善良な先生のように見せ続け、それがきっかけで起こる校内のいくつかの事件の犯人が誰だか分からないように展開しながら、最後にヒロインである中越典子のナレーションの一言で、あっと驚くことになる。うっかりするとそのことに気づかずになんの話だ、と思う人もいるかも知れないぐらいさりげない一言なのだけれど。
 
 そうした教師たちや生徒のキャラクターをそのまま念頭に置いて映画を観ると、その人間関係やそれぞれの教師の性格が際立ってくる。

 巧妙にそれぞれの人物を陰で操りながら、人間を破壊したいという主人公の欲望を次々にみたしていく姿がなんだかゲームのように見えてくる。ほとんど完璧に処理されていく犯罪の数々、それがエスカレートしてついに大殺戮が始まる。

 三池崇史は過剰な監督だ。その過剰さについて行けなくて、しばしば辟易する。この映画やドラマの前に見た「DEAD OR ALIVE 犯罪者」三部作もそうだった。しばしば現実はこのくらい残虐で血も涙もないものだけれど、それを実際に見せられるのは勘弁して欲しい。それはなにも現実から目を背けたいわけではなく、わざわざのぞき込まなくても良いものは、見たくなければ見たくないと言うだけのことだ。

 殺人事件はしばしば起こる。目的のために起こる殺人(怒りにまかせての殺人だって、怒りを解消するため、という目的がある)がほとんどだけれど、たまに殺すことそのものが目的である殺人がある。

 「殺してみたかったから殺した」という犯人の供述は世間を不安にする。普通の人は、殺人は目的があってするものとしか思えないから、そのような供述は理解を超える。知らないことを知りたいと思う一部の人が、この「悪の教典」のような映画やシリアル・キラーの登場する小説を読む。

 そういえば、シリアル・キラーの元祖が「サイコ」というヒッチコックの映画であろうか。あれは怖かった。しかも実話をもとにしているのだ。シリアル・キラーは必ず模倣犯である、という。私もそういうサイコサスペンス小説や映画をずいぶん観てきた。さいわいそういう主人公にシンクロすることはなかったけれど、なかにはいるのだろうなあ。

2015年5月13日 (水)

和田秀樹「感情的にならない本」(講談社ワイド新書)

 感情的になる人は思い込みが強い人。相手の言動の意味を考えすぎてしまい、自分に悪意を感じてしまう人。たいてい相手はそこまでこちらに悪感情など持っていないことが多い。

 救いようのないほどその思い込みの強い人(結構いる)はできるだけ敬して遠ざけるしかない。自分がそうでないことを祈るけれど、自分では分からない。

 「シミュレーションをしすぎるな」ということばが強く記憶に残った。確かにそうだ。シミュレーションをしすぎるとあらぬ妄想の世界にはまり込んで、自縄自縛に陥り、下手をすると眠れなくなる。

 実は今そんな気にかかる案件を抱えているのだけれど、「何とかなるさ」「そんなこともあるよね」「まあぼちぼち行こうか」という態度を心がければ楽になる、というアドバイスは、本当に心が軽くなるような適切なものであった。
 
 和田秀樹先生、ありがとう。

 しょせん人は変えられない。それならこちらの気の持ちようを変えるしかない。振りまわされないようにするには、しばらく時間をおいて心の落ち着くのを待てば何とかなる(はず)。

 先生の言う「曖昧さ耐性」はいささか自信があるから大丈夫。
 
 この本、これからもときどき読み返したい本だ。

国家の自殺

 朝鮮日報のコラムが、月刊誌「文藝春秋」に掲載された論文、「日本の自殺」を引き合いに出して今の韓国の現状を憂えている。この論文は1975年に発表された。後にこの表題でいくつかの論文を集めた本が文藝春秋から出版された。著者は知識人グループの「グループ1984年」。これはオーウェルの「1984年」というディストピア(暗い未来)国家を描いた小説をもじっている。私はこの単行本の方を読んだ。読んで衝撃を受け、かなり右旋回したことを覚えている。

 朝鮮日報のコラムニストは、この論文が最近朝日新聞で取り上げられて再び話題になっている、と伝えている。このコラムニストはリアルタイムでこの論文を読んだことがあるのか、それとも朝日新聞が取り上げた記事で知ったのか分からない。私にはこの論文を朝日新聞が取り上げたことこそ意外な気がする(かなり右翼的なので)が、その記事を見ていないので、どういう取り上げ方をしたのか知らない。

 この論文では「古今東西のさまざまな文明について調べたところ、どこの国も『外的要因』ではなく『内部の要因』が原因で自ら崩壊したという結論を下した。彼ら(著者のグループ)はこの『国家による自殺』に共通する要因を『利己主義』と『ポピュリズム(大衆迎合)』と結論づけた。国民が目の前のわずかな利益ばかりを追い求め、国の支配層がそれに迎合したとき、その国は滅びの道を進むというのだ」と書かれているとコラムニストは言う。 

 もちろん文明の崩壊は外的要因ではなく内部の要因で起こるというのは「グループ1984年」が発見したことではなく、すでに近代の歴史家が繰り返し唱えていることだ。文明の崩壊を国家の崩壊に適用して、その原因となりそうなものを提示して見せたのがこの論文の骨子である。

 コラムニストは論文を引用しながら自分のことばで韓国という国を憂える。

 ローマ帝国が衰えたのは「一般大衆が権利ばかりを主張し、エリートが大衆の機嫌を取るためこれに迎合すると、その社会は自殺のコースを突き進むようになる。ローマも活力を失った『福祉国家』と怠慢な『レジャー社会』に変質し、衰退の道を進んだ」、「これはローマに限った話ではない。これまで人類歴史に出現したすべての国や文明はいずれも同じような原因で自滅していった」。

 ここでコラムニストは本論に入る。今回の公務員年金改革についての与野党の合意と破棄の茶番劇を批難するのだ。

 「改革に取り組むそぶりはしていたものの、実際、公務員年金が破綻に向かう構造的な要因には一切手をつけなかった。どう考えても実現不可能な約束を行い、そのポピュリズムは行くところまで行った。野党は国益よりも公務員集団を擁護し、与党がこれに迎合したのだ」。 

 「国家自殺の兆候は、実はさまざまな分野で目にすることが出来る。『行政首都移転』という甘言に惑わされ、その悪影響を知りながら世宗市を作り上げたことや、天文学的な費用がかかるだけで、たいした意味もないセウォル号引き揚げを決めたこともそうだ。福祉や保育の無償化が、逆に庶民のための政策に悪影響を及ぼすことを知り、またすでにそれを目の当たりにしているのに、それでも無償化を叫ぶ。ある集団の利益が国全体の利益よりも重要視され、将来を犠牲にして今楽をしようとするわがまま、あるいは駄々をこねることが完全に当たり前の社会になってしまったのだ」

 「今われわれが本当に心配すべきは日本の右傾化でも、また中国の膨張でもない。病理を知りながらこれを治癒する能力を失った問題解決力の喪失の方が深刻な問題だ。自分の考えも力も失った『亡兆』の国は、相手にやられる前に自ら滅んでいく。国の自殺に警鐘を鳴らした40年前の日本の知識人たちのことばが、今のわれわれに恐ろしいほどリアルに迫ってくる」

 なんだか韓国のことを言っているのに、日本のことを言っているように思えてくる。

 そもそも民主主義とその選挙制度は大衆迎合的になりやすい。税金を減らせ、福祉を増やせ、と相反することを国民の声であるとみなして、ついに日本の赤字は1000兆円を超えた。財政改善が簡単にできると国民に約束して民主党は政権を取ったが、ほとんど改善されずに不景気をひどくした。不景気で税収が減ればさらに財政は悪化する。

 共産党や社民党は、そもそもいまの日本の国など滅んでも構わないと思っているのではないかというような党だから論外だが、民主党の言うことが最近ほとんど同じようであることにあきれてしまう。「みんなが豊かになる社会」などというありえない幻想を捨てて、本当に困っている人がなるべくいないような社会をつくる、という程度の目標で良いのではないか。そのほうが国に活力が戻りそうな気がするが。

 ちなみに「1984年」という小説は国家管理が究極まで進んだ全体主義(ファシズム)国家が、見えない敵を打倒するというプロパガンダで国民を支配する、という小説だ。

 なんだか今の中国みたいな国なのだが、その中国の習近平主席が「日本はファシズム国家」だ、と叫んでいる。この手法こそが「1984年」的で笑ってしまう。

 また朝鮮半島は、古くから士大夫階級が国を支配するという構造を続けてきて、一般庶民と士大夫階級には厳然と階級差のある社会であった。その違いは漢字を読めるかどうかと言うことでもあった。文書はすべて漢字のみであったからそれが読めるかどうかが支配階級とそれ以外を分けていた。だから漢字を廃止するというのは階級差をなくすという意味もあったのだろう。

 ところが士大夫階級はそのまま残ってしまった。その代表が政治家であり、マスコミであり、学者たちである。彼らの支配構造は岩盤である。ここが韓国の最大の問題点なのではないかと言われるし、私もそう思っているけれど、韓国国民がどこまでそのことに気がついているのかどうか。

2015年5月12日 (火)

ピエール・ルメートル「その女アレックス」(文春文庫)

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 英国推理作家協会賞受賞作。今年最高の話題作と言われるミステリー。この賞をフランスの作家が受賞するのは珍しい。

 ミステリー評論家のオットー・ペンズラーが、この作品は「私たちがサスペンス小説について知っていると思っていたことのすべてをひっくり返す。これは近年で最も独創的な犯罪小説で、巧みな離れわざに私は繰り返し翻弄された。次になにが起ころうとしているのかやっと理解できたと思ったとたん、足をすくわれると言うことが二度も三度もあった」と述べているが、まさにそのことば通り。

 ところが購入してすぐにこの本を二、三度開きながら一ページ目で読むのをやめていた。なぜだかわからない。たぶんミステリーを読む気にならなかったのだろう。ところが今回いったん読み始めたら、もう本を途中で置くことができなくなった。とにかく意外な展開の連続で、先が読めない。とにかく予測を遙かに超えた物語なのだ。

 過剰な残虐シーンがあるけれど、それがどういう意味なのか、理由も含めて最後まで読めば得心がいく。

 とにかくアレックスという女が突然誘拐され、絶望的な状況で、おぞましい仕打ちを受ける。それが物語の始まりであり、途中経過でもある。ここから先はせっかくのこのミステリーの楽しみを損なう恐れがあるので書かない。

 ミステリー好きならこの本を読まないのは損だ。

小島環「小旋風の夢弦」(講談社)

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 小説現代新人賞受賞作。舞台は春秋時代後期の衛の国。

 中国古代が舞台の小説はつい手が出てしまう。私にとってはなつかしいのだ。そんな時代に生きていたわけではないが(あたりまえか)。

 小旋風(つむじかぜ)は小柄な若い青年。古い王朝の墳墓の盗掘を生業とする男の養子として育てられ、狭くて危険な盗掘穴をその小柄であることを活かして潜り込む仕事をさせられていた。

 彼がようやくある玄室にたどり着いたとき、そこで見たものは古代の衣装を纏(まと)った、生きているようにみずみずしい少女の亡骸だった。それに見とれているうちに盗掘穴の崩壊が始まった。養父にせかされ、彼が手に取ったのは彼女が抱えていた古代の琴であった。かろうじて脱出した彼の後ろで、彼を助けるために逃げ遅れた養父は落盤の下敷きとなってしまう。

 彼はその古代の琴を彼の得意の弁舌で高く売りさばき、独り立ちしようと心に決める。その琴を手に入れようと、幽鬼のような女や古物商、権力者たちが小旋風に迫る。彼は果たして自分の願いを叶えることができるのか。

 これも一種のビルドゥングスロマン(成長小説)だ。無知だった小旋風がそのときそのときを自分の才覚で切り抜けているうちに、いろいろな知識や人とのつき合い方を覚えていく。冷徹に見えた世界が、実は真剣に生きようという人たちの熱い思いに満ちていることに気がついたとき、小旋風は真に生きることの意味を知る。自分の身を捨てても大事なものを守ろうと決心するのだ。そのときに彼のかたわらにはあの玄室の少女の幻があった。

 夢弦は夢幻であろうか。

 ストーリーは文句なしにおもしろいけれど、私にはテンポが少し速過ぎる気がした。それと会話に少々難があるように思う(塚本靑史の中国小説に不満があるのもその点だ。そのことを解析しはじめると別の話になるのでこれまでとする)。伊集院静氏や花村萬月氏という錚々たる人たちがほめているのだから、難を感じるのは私の問題だけかも知れない。

 読後感が気持ちの好い小説である。それがなにより。

2015年5月11日 (月)

NHKドラマ「ここにある幸せ」

 良いドラマを見せてもらった。

 ここでも頼りない男が出てくる。同棲中の相手に愛想を尽かされて「出て行け」といわれた男(松田翔太)はどこへ行くあてもない。そんなとき思いだしたのは小学校時代に自分と仲良しだった友だちだ。その友だちは転校してしまい、ぜひ訪ねて欲しいとはがきを呉れていた。それからずいぶん時がたっているけれど、彼のいる九州の海辺の町を訪ねることにする。

 地域発のNHKドラマはおおむねおもしろいけれど、録画し忘れることが多い。これは福岡NHK制作のドラマ。

 その男浩幸は訪ねたその町で、元気で陽気なおばあちゃん(宮本信子)に声を掛けられ、強引に引き留められて彼女の家に泊まることになる。そして彼女・福子さんの生い立ちを聞かされる。次第に彼女に興味がわいた浩幸は、その話を詳しく聞き始め、それをメモしはじめる。

 なんに対してもいい加減に対応してきた浩幸が、はじめて心から興味を感じたのだ。

 人が生きてきた人生を、その場所でその人の口から直接聞く。これほど貴重な体験があるだろうか。

 そのメモがいつしか一冊の本になり、彼自身が生きている実感とはなにかを思い出し(決してそれを失っていたわけではない)取り戻す。

 そして何故福子さんが浩幸を引き留め、このような話をしたのがが明かされる。

 倦怠感あふれる浩幸(松田翔太)が次第に生きることの意味を思いだし、表情が生き生きしていく姿、それをあたたかく見つめる福子(宮本信子)のやさしさが胸を打つ。

 舞台となった福岡県福津市・津屋崎、その風情ある町並みや、登場する人々がすばらしい。実際に若い人たちがどんどんこの町に移り住んでいるというのも分かる気がする。いつかこの町を訪ねたいではないか。

 地域発のドラマにはすばらしいものがしばしばある。これもその一つだ。見て良かった。
 
 岡田惠和の津屋崎を取材してのオリジナルの脚本。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い

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 数日前のニュースだが、ソウル地方国税庁南大門別館が撤去されることになった。「日本統治時代に日本が徳寿宮の気の流れを止めるために立てたものなので、撤去することにした」そうだ。中国同様風水の考え方が定着している韓国らしい話だ。

 ただ単に古くなったから取り壊す、と言えば良いものをこんな言い方をする。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、とは言うが、ほとんど病気だ。そういえば台北の日本総督府は今でも残されているが、ソウルの総督府は戦後真っ先に取り壊された。

 韓国の経済が陰り気味である兆候が次々に報道されている。韓国銀行総裁は韓国経済の景気浮揚のためにさらに利下げもあり得る、と述べているようだ。韓国は、景気にブレーキがかかっているのに国際収支の黒字が増大している。そうなると益々ウオン高になる可能性が高い。つまり今は世界の金が韓国に集まっている状態だ。しかしアメリカが今年後半利上げに踏み切ると、その金利差によって一気に韓国から金が逃げ出す恐れがある。そのとき韓国はそれを支えきれるのか。

 日本の国の赤字は1000兆円を超えている。韓国はそれよりずっと身軽なのだが、赤字の増え方が尋常ではないスピードだ。だから公務員の共済年金を是正しようとしたり、財政改善をめざしているが、与野党が合意したと思ったらすぐに与党がその合意を破棄、事態にまったく進展がないことはすでに述べた。朴槿恵政権は泥沼にはまっている。

 日本の自動車メーカーはコストの点から韓国や中国の部品を使うことも多かったが、いまは円安のために日本の自動車メーカーの国産部品への回帰が起こっている。日本では内製率が10~20%増えるだけだが、韓国の部品メーカーにとっては大打撃となる。この趨勢は当分変わらないだろう。しかも韓国の自動車メーカーは韓国国内での販売が欧州車や日本車に追い上げられて低迷している。

 韓国の外交部が最近批判を浴びている。日本の国際的なポジションが上がったことで、韓国のポジションが低落した、というのだ。そんな面がないとは言えないが、それは日本を引きずり下ろそうとした韓国自身が自ら招いたことのようにも思える。誰かを引きずり下ろすより、自らが向上することにもっと傾注すれば、もう少し良い結果が得られたと思うのだけれど。

 その外交部の部長(日本なら外務大臣)は朴槿恵大統領の言いなりで、外交リーダーシップがないと批難されている。朴槿恵大統領の強硬な対日政策を修正することなく、韓国は歴史問題にこだわりすぎることで国際社会に埋没してしまったというのだ。

 しかし朴槿恵や外交部が対日融和策をとったら韓国のマスコミや野党はどうしただろうか。そのことが激しく批難されただろう。感情的になるとなにも良いことがないようだ。

映画「鬼平犯科帳」1995年・松竹

 監督・小野田嘉幹、出演・中村吉右衛門、多岐川裕美、梶芽衣子、世良公則、岩下志麻、藤田まこと、高橋悦史、御木本伸介、勝野洋ほか。松竹創業100周年記念作品。

 池波正太郎の原作から、狐火の勇五郎の話と大阪の闇の元締め、白子屋菊右衛門が仕組んだ卑劣な暗殺事件と、女賊・荒神のお豊(岩下志麻)の話の三つが、関連した事件として描かれているが、本来は別々の話だったと思う。あの白子屋菊右衛門の仕掛けた連続殺人をお豊が考えた、という設定には無理がある気がする。

 藤田まことが好人物を演じると、私は違和感を感じる。この物語の白子屋菊右衛門のような、底の知れない悪党を演ずる方が似合っているように思うがどうだろう。以前から言っていることだが、「剣客商売」の秋山小兵衛を藤田まことが演じるのは見るに堪えない。顔の長い秋山小兵衛などイメージと違いすぎる。ちょっと違うけれど、優しい顔の月形龍之介あたりがお似合いというところか。「必殺仕掛け人」の中村主水にいたってはそもそも池波正太郎が原作者であるなどというのはとんでもない。「必殺仕掛け人」は藤枝梅按しかいないし、中村主水などというキャラクターはどこにもないのだ。

 鬼平の最も信頼する密偵・おまさ(梶芽衣子)が、悩んだ末にただ一度だけむかし愛した男のために平蔵を裏切るのが狐火の勇五郎の話だ。このおまさの心情が哀れだ。彼女が平蔵のもとを去って、再び舞い戻ってきたときの平蔵の喜びはそのまま読者の喜びである。梶芽衣子のおまさはこれ以外にないほどの適役。おまさは後に平蔵のいきなはからいで大滝の五郎蔵と夫婦になる。二人のさらりとした関係は見ていてほほえましいのだが。

 おまさのむかし愛した男、二代目狐火の勇五郎(世良公則)は狐火の名前を騙って畜生ばたらき(殺人など凶行をいとわない盗み)をする腹違いの弟を掟によって処断するために江戸へやってくる。その弟というのが実は白子屋菊右衛門の手配によって江戸へやってきた、ということで話がつながっているが、それは無理筋だ。

 全体としてむりやり話をつなげたために白子の菊右衛門の卑劣さがぼやけてしまい、原作での鬼平の苦渋と怒りが表現されていない。

 テレビの時代劇ドラマの配役総出のお祭りとしての映画で、松竹の創業100年記念映画としてはお粗末だが、大画面でテレビを見るつもりなら、そこそこ楽しめる。

 連休から十日ばかり映画やドラマばかり見ていて、そのメモを持って実家にきている。実家にいるあいだは映画は観ないので、メモを見ながら反芻してブログを書いている。メモはたくさんある。

2015年5月10日 (日)

映画「WOOD JOB~神去なあなあ日常~」2014年日本

 三浦しをんの「神去なあなあ日常」と言う小説を映画化したもの。神去は「かみさり」で三重県の山村、神去村のこと。「なあなあ」は地元のことばで「ぼちぼち行こう」「まあ気持ちを落ち着けていこう」という感じか。なあなあ、なのだ。

 監督・矢口史靖、出演・染谷将太、長澤まさみ、伊藤英明、優香、光石研、西田尚美、柄本明ほか。

 受験に失敗した主人公・平野勇気(染谷将太)が当てずっぽうに決めた自分の進路は、たまたまポスターの女性に引かれて選んだ林業研修生だった。

 この平野勇気という若者はちゃらちゃらしていて好い加減、そもそも受験勉強だってまともにしていないのだから落ちるべくして落ちたと思われる。そんな男が林業研修などに参加しても勤まるはずがない。研修初日の晩に研修所から逃げ出そうとするのだが、なんと先客がいた。先客がいると自分の姿が見えたりする。

 そしてあのポスターで一目惚れした女性(長澤まさみ)に出会ったことでかろうじて逃げ出すのを思いとどまり、なんとか研修を終了する。

 研修を終了すると一年間、現場での実習が控えている。勇気は彼女のいる神去村を希望したのだが、そこは最も山間部奥深く、しかも配属されるのは厳しいことで知られる中村林業である。ここには研修のときに鬼のように厳しかった飯田予喜(よき・伊藤英明)がいる。研修仲間たちは勇気の勇気に感心するが、後の祭りであった。

 しかも彼が一年間居候として暮らす家はなんとその飯田予喜の家だった。

 彼の一年間の神去村の生活が描かれ、林業とはどんな仕事なのか、山村の暮らしとはどんな暮らしなのかが描かれる。へらへらと生きてきた勇気にとってはことごとく戸惑うことばかりだけれど、不思議なことに彼はそんな生活になじんでいく。ときには命がけのことのある日々が彼を成長させていく。 

 小説やドラマで感動的なものにビルドゥングスロマンという分野がある(私は大好き)。教養小説などと呼ばれるけれど、ニュアンスはちょっと違って、未熟な若者の成長物語、というのが妥当だろうか。

 いろいろな苦労をしているうちにいつの間にか一人前の大人に成長していく、というその物語はおとなにとって郷愁を呼ぶものであり、若者にとってはおとなへのあこがれを感じさせるものだ。

 若者は厳しい通過儀礼を経過しないとおとなになれない。現代社会はその通過儀礼をなくしてしまい、いつまでも若者がピーターパンの世界にいる。いや、ピーターパンならまだ自分がネバーランドにいること、そこから出たくないという明確な意思を持っている。

 今多くの若者たちは歳をとれば、ひとりでにおとなになるものだと思っている。しかし通過儀礼を経験していないおとなはおとなとは言えない。

 だから多分この映画を観て感動するのはそれが分かっているもの、おとなか、おとなになることの意味を知っている若者だけだろう。

 人間が生き物であること、自然の一部であることをやさしく教えてくれる楽しい映画だった。

 三浦しをんの祖父は三重県の山村で林業に従事していたと言うから、リアルな林業の世界を知っている。

 クライマックスのシーンがユーモア満点で、リンガとヨニの日本版は劇的である。

Dsc_4255_2 日本のリンガ

 「女たちの都~ワッゲンオッゲン~」という映画は観るのに耐えられなかったけれど、こちらの映画はすばらしかった。なにを伝えたいのか、そのメッセージがちゃんと伝わってきた。
 いい加減で頼りなくて、見ていて腹の立つような若者を演じながら、その若者にいつの間にか感情移入させていく、というのは、原作や脚本、監督も良いのだろうけれど、染谷将太という俳優もすばらしいのだと思う。
 前にも書いたけれど、最近の若い男性俳優に特にすばらしい人たちが次々に現れていて、とても嬉しい。
 ただ人気があるだけのタレントが、重要な役柄で登場したときの、ほとんど絶望的な演技に辟易しているけれど、本物が輩出しているから救いはある。 

映画「女たちの都~ワッゲンオッゲン~」2013年・日本

 監督・禱映、出演・大竹しのぶ、松田美由紀、杉田かおる、ブラザー・トム、長山藍子、遠藤憲一、中村有志ほか。

 監督の禱映は「いのりあきら」と読むらしい。日本人なのだろう。

 最初の15分でギブアップした。だからこの映画がどんな映画か分からない。見続けることができなかったのだから。

 出演者がみな全力で演技しているのだけは分かったけれど、物語がいつまでたっても展開しないし、気持ちが登場人物にシンクロしない。多分私とこの映画がまったく合わないからで、本当は好い映画なのかも知れない。

 途中を飛ばして最後を見たら、エンドクレジットが延々と続く。それだけたくさんの人たちが関わった映画なのだろう。舞台である天草をアピールしたいと願ったのだろう。私も天草をちょっとだけ訪ねたことがあるからその良さは分かる。だけれど、残念ながらこの映画は私に対して天草の良さを伝えることに成功していない。

 気持ちをこめれば伝わるというものではないようだ。

 本日から老母の介護手伝いのためにまた千葉へ行く。しばらく実家の弟の家に滞在する予定。その間は読書三昧となる。

2015年5月 9日 (土)

悲しみの器

 今晩のBSの歌謡番組に岩崎宏美がメインゲストで出ていた。司会は谷村新司。とても良かった。聞いているこちらの胸につたわるものがある。彼女の人生もいろいろあったらしいが、それをどうにか乗り越えて本当に魅力的な女性になっている。彼女は私の妹と同い年である。昭和33年生まれはそのほかにもたくさんすばらしい人がいる。

 この番組で、最後に岩崎宏美が「悲しみの器」をリクエストした。谷村新司の作詞作曲だが、オリジナルを歌っていたのは森進一だ。岩崎宏美が最も人生にめげていたときに、森進一のステージでこの歌を聞いて号泣したという。

 谷村新司が心をこめて歌うそばで、岩崎宏美がこらえきれずに涙を流していた。こちらもジンとしてしまった。

 実はあまり知る人のないかも知れないこの歌は、私の密かに好きな曲なのだ。私が特に好きでもなかった森進一を好きになったのは、むかし好きだった人が、森進一が大好きだったからだ。しばらくつき合って、私が森進一の歌を好いなあと思うようになった頃、彼女は親の勧める相手と結婚してしまった。私は呆然とするだけでなにもしなかった。

 森進一の歌は今も大好きだけれど、ベストヒットのCDを繰り返し聞くなかで、この「悲しみの器」が特に気持ちに響いていた。

 そんなことを思いだした。

あふれるほどの 悲しみだから
こぼしてしまえたら いいのに
ひびわれすぎた ガラスの心
受け止めきれなくて 叫んでる
こんなに遠く離れているなんて
こんなに強く愛していたなんて
儚い夢よ 儚い夢よ
僕を抱きしめて
はじめて泣いた はじめて泣いた
僕は夢のなかで・・・

心はいつも 嘘をつかない
ことばは悲しいほど 愛を語れない
こわれた心 ひろい集めて
両手であたためて くれたら
やさしい雨の降る あの丘に
静かに眠らせて くれないか
こんなに遠く離れているなんて
こんなに強く愛していたなんて
儚い夢よ 儚い夢よ
僕を抱きしめて
はじめて泣いた はじめて泣いた
僕は夢のなかで・・・

はじめて泣いた はじめて泣いた
僕は夢のなかで・・・

降りるタイミング

 勝負をしているときに一番大事なことは、降りるタイミングだという。これはギャンブルだけの話ではない。

 営業という仕事をしていたとき、他社と競合することが日常的にあった。その競合に勝つことが営業の仕事だ。だから勝つために価格競争もしばしば起きる。また得意先に都合の良い条件を呑むかどうか迫られることもある。そんなときに競合相手と果てしないたたき合いに巻き込まれてしまいそうになる。

 ここで冷静に事態を見直すことができるかどうか。一時的な損失が生じても中長期的に得られるものがある、という自信があれば一歩踏み込む。その判断が会社に説明できるものであることは当然必要な要件だ。

 しばしば相手が熱くなって引っ込みがつかなくなることも多い。そんなとき、私はある意味でチャンスだと思った。ギリギリ競争の限界を超えるところまで引っ張っておいて、サッと引く。競合相手は勝負に勝ったと思って鼻高々である。

 しかしその結果は、ただ相手の会社の不利益だけが残ることをこちらは見越している。自社の利益が得られないなら相手の利益を減少させ、体力を削ぐ。冷たいやり方だが、これが営業という世界だ。もちろんその判断の責任は、自分が引き受ける覚悟がなければできないことだ。

 東南アジアをはじめ、世界各国で日本と中国は援助合戦をしているが、もちろんそれはその国に対する経済進出を目的としている。経済活動と援助がセットになっていることが多い。

 たとえば鉄道関連などではレールの敷設工事や車両納入、関連インフラの工事、そして運行システムの納入などが期待できる。日本は従来から、ものを納入するが、実際の工事の従事者や、その後のメンテナンスについては相手国に委ねる、という方式をとってきた。それが結果的にその国の発展に寄与する、と考えていたからだ(善意的に解釈する)。

 ところが今中国のやり方はサービスの大盤振る舞いで、後のメンテナンスや事故の補償まで丸抱えで引き受ける、という条件を提示することが多い。日本がそれに追随しようとすると中国はさらに良い条件をつけたりする。

 中国にとって経済性は二の次、相手国に対して自分の国の影響力を増大させることが優先されているから、多少の持ち出しは安いと考えている節がある。本気で勝負したら勝てるわけがない。

 しかしそのことは結果的に相手国を甘えさせ、発展の機会を摘むことになるのではないか。それを思えば日本も多少の持ち出しを覚悟して勝負をすることもあって仕方がない。

 そうしてどこで降りるかを冷静に見極めれば良いのだ。中国も無尽蔵に援助し続けられるわけではない。経済が右肩下がりになれば無理もできなくなるし、そもそも中国が相手国と交わした約束を本当に守るのか、信用できないところもある。

 できない約束をすれば、約束は守りきれない。約束を守らなければ信用を失う。その領域に中国は踏み込もうとしているのではないか。中国は日本に対して熱くなりすぎているように見える。

 実際に中国べったりだった東南アジアの一部の国々で、中国離れが始まっているように見えるのはその現れだろう。

 今、日本は中国との熾烈な勝負を続けているが、その判断を過たないように期待したい。うまく降りて相手に負担を押しつける手もある。戦いに敗れても、負けた、負けた、と表面だけ見て批難しないようにしたいと思っている。 

世のなかなんてそんなもの(7)

04011214

 慰安婦証言を報道して朝日新聞の誤報の原因になった、もと朝日新聞記者の植村隆氏がニューヨークで講演し、「安倍首相のアメリカ議会での演説に失望した」と述べた。慰安婦問題について謝罪を行わなかったことを批難しているのだ。

 植村隆氏は右翼から激しいバッシングを受けていて同情の余地があり、彼の言い分にも聞くべきところがある。しかし自分の記事の裏付け確認を怠ったことについての反省も謝罪もない。植村氏には、ジャーナリストとして問題があるのではないか。自分の記事への批判があったとき、すぐ裏付け確認をすれば良いのに長年にわたって反論のみ行い、自分が正義で相手が悪であるような抗弁に終始したように記憶している。

 今回の安倍首相批判も、首相を批判することで、だから自分が正しい、と言わんとしているようにしか見えない。過去の自分のツケを他者批難でごまかそうとしているように見えてしまう。いま、彼のことばに耳を傾ける人はごく限られている。

 さらに植村隆氏は「私に対する攻撃は報道の自由に対する攻撃だ」と述べたと報じられているが、これほど傲岸なことばはない。彼は報道の自由の代表を体現していると自認しているらしい。彼こそ報道の真実のために、自分の間違っていた部分についての反省と謝罪をすべきだろう。太平洋戦争中に戦意昂揚に努めた朝日新聞(だけではない)が謝罪も反省もせずに戦後ずっと正義の味方を標榜しているのによく似ているではないか。

 韓国の湖南高速鉄道が開通して一ヶ月たった。開通初日から次々にトラブルが発生したことが報じられてきた。さいわい大きな人身事故は起きていない。

 利用者からはさまざまな苦情が寄せられていて、「毎週利用しているが、時間通りに運行されたことがない」などというのもあった。そういえば先日日本の新幹線がパンタグラフの事故で、連休の最初に運行が止まって混乱したニュースを韓国メディアが取り上げて、日本の新幹線だって定刻通りに運行できないこともトラブルもあるのだ、と報じていた。よほど嬉しかったらしい。

 潘基文国連事務総長がロシアの戦勝記念式典に出席するらしい。ウクライナ問題で西欧や自由主義各国がロシアに対して批難し、制裁に動いているときに、国連の事務総長がこの式典に参加することはいかがなものか、と私は思うが、事務総長は思わないらしい。

 国連という組織が戦勝国のための組織であることは国連憲章に明記されているから、問題はないという判断なのだろう。つまり国連とは戦勝国の親睦会であって、なんの権限も働きもないことを自ら明らかにしたわけである。

 潘基文氏は韓国民から次期韓国大統領に強く嘱望されている。彼が最有力候補らしい。果たして潘基文は事務総長の任期を終えたら立候補するのだろうか。そのつもりならいまのうちに韓国国民の喜ぶような実績を残すことに心を砕くことになるのではないか。それが日本にとって善いことであればいいけれど、どうもそうではない気配(国連事務総長の立場でありながら韓国の立場で日本批判をしたことがある)なので、いささか心配だ。

2015年5月 8日 (金)

私にとってのブログ

 ときどき旅に同行させてもらう兄貴分の人は、私が宿で朝晩ブログを書いたり、他の人のブログを読んだりしていると、いい顔をしない。そっぽを向くな、自分と対面せよ、という気持ちなのだろう。多分むかし娘のどん姫がメールのやりとりばかりに時間を費やしているのを見て、私がいい顔をしなかったのと似ている。今は多少マシになったけれど。
                                             
 私はブログをほとんど毎日、ときには一日二つも三つも更新する。駄文とはいえそれなりの時間を食う。

 では私にとってのブログとはなにか。

 人はなにかをしているとき、そのことだけでなく次々に雑多な想念が意識を駆け巡ってる。一瞬のその想いがなんだかかけがえのないもののように感じられるのに、それは過ぎ去り、再び戻ることがないことも多い。「自分」とはまさにそのような想念の集合体そのものなのかも知れない、と思ったりする。「自分探し」の自分はそこにあるのかも知れない。

 そうした過ぎ去り、消えゆくものを目の大きな網で捉えようと思ってきた。それを書き留めることで自分自身をあらためて見ることができるかも知れないと思った。網の目が大きすぎるので、引っかかるものはほんの僅かに過ぎないが、網の目を細かくすれば、それに追われ過ぎてしまう。

 本を読んだり、映画やドラマを見たり、旅に出て見聞きしたり、ニュースを見て感じたりしたことをことばにして書き留めること、それが私のブログである。

 無意識を意識化する、というのはコリン・ウィルソンの「アウトサイダー」のテーマだ。人は無意識に生きているときは真に生きているとは言えないのではないか、と言うのが彼の考えだ。一瞬一瞬を意識化することは人生を無限に延長することにつながる。それほど人はほとんど無意識に生きている。無意識から覚醒した者をコリン・ウィルソンは「アウトサイダー」と呼ぶ。「アウトサイダー」がどんなに困難な生き方をすることになるのか、それも彼の本に具体的な「アウトサイダー」たちの例を挙げて書いている。

 私はとても「アウトサイダー」とは言いがたいが、「アウトサイダー」たらんと意識はしている。その手段の一つがこのブログなのだ、と言ったらオーバーか。

*コリン・ウィルソン(1931-2013)
 イギリスの小説家・評論家。16歳で自ら学校を去り、大英博物館などにこもり、独学したのは有名。南方熊楠のような博覧強記の人。

 哲学・心理学・犯罪研究・オカルト研究・小説などの著作は信じられないほど多数ある。そしてそれぞれが膨大な具体例を調べて詳細に列挙されており、人間業で成し遂げたとは思えない。

 映画「スペース・ヴァンパイア」の原作者。原作名「宇宙ヴァンパイア」。

 集めたコリン・ウィルソンの本はほとんど処分してしまった。

 今日は私の65歳の誕生日。

 つまみをいくつかならべて、のんびりと一人で酒杯を傾けている。一人で寂しくなんかない。

 娘のどん姫が朝、「お誕生日おめでとう」とメールをくれたもの!

句読点は難しい

 ブログを書いていると句読点をどこで打つか迷うことがある。ふだんはそんなことを気にせずに適当にやっているのだけれど、いったん気になり出すとどうして良いか分からなくなることがある。

 たぶん国語学者ならそれなりのルールのようなものがあって、答えを知っているのだろう。しかしそれをあらためて勉強するほどの気持ちはない。

 それほどこだわらずにリズムで書けば良いのだ、と言う誰かの文章を見たことがあって、ふだんはそれを念頭において適当にやっているのだが、人の文章を読んでいて何となく引っかかってしまうところがあると、それが句読点の打ち方が気になっていたのだと気がつくときがある。

 たとえば今読みかけの西村京太郎「飛鳥Ⅱ 着岸せず」(オール讀物五月号新連載)のなかの

「二人は、十一月十一日の乗船に、間に合うように、新幹線で、神戸に向かった。」

 という文章。句読点が必要以上に多いと感じてしまう。読むときのリズムが狂うのだ。西村京太郎のこの小説は全体がこんな句読点だらけ、ということはなく、他の部分はおおむね違和感がない。たまたま特に気になったところを取り上げただけで他意はない。

 そもそも昔の日本の文章には句読点などないものが多い。読む方が自分の呼吸に合わせて勝手に区切って読んでいたのだろう。むりやり句読点で区切られるよりも、そのほうが慣れたら読みやすいかも知れない。

 野坂昭如の初期の実験的な小説では、句点なし、一つのセンテンスが延々と続いて読点がほとんどない、などというものがある。それでも読めるし、却ってリズムがあったのを覚えている。

 ハードボイルドなどでは、クライマックスでわざとセンテンスを短く連ねて緊張感を感じさせる。

 この辺はあんがい好みに大いに関係しているかも知れない。

 誤字脱字、ことばの使い方の間違いは避けたいけれど、校正者を抱えていない身としては自らが校正者になるしかなく、見直しても見落としが多い上にそれすらサボって手を抜いている。不勉強の故に自分の間違いに気がつけないこともあるだろう。

 あれやこれや考えだすと、人に読んでもらう文章など恥ずかしくて書けなくなるけれど、ブログを始めたらそれが思った以上に楽しくて、いまのところ恥を承知で書いている。

2015年5月 7日 (木)

世のなかなんてそんなもの(6)

04011215

 韓国の与野党が公務員年金改革について合意し、国会で承認される予定だ。公務員年金の負担が増大し、国の赤字を増やし続けていることから、財政改善に必須であるとして朴槿恵大統領が施策の目玉としていたもののひとつだ。

 先般の地方選挙で韓国与党は完勝した。だから野党が歩み寄って合意したように見える。ところが朴槿恵大統領はこの改革案に強い難色を示している。そもそもの趣旨を大きく逸脱し、骨抜きに近いものとなり、ほとんど財政改善に寄与しないものになりはてているからだ。なんと公務員の年金の受取額は増大することになった。

 公務員は国家の状況に鑑み、「多く支払い、少なく受け取る」ことを了承して欲しい、と言うのが朴槿恵大統領の要請であり、スローガンだったが、「少なく支払い、多く受け取る」ように改訂される見込みだ。これをマスコミは「コブをとろうとしてコブをつけた」と揶揄している。

 今日になって、与党が合意を取り消した、と報じられた。さすがに国民の同意を得られないと判断したようだ。これも選挙で与党が勝ったことで方針転化したのかも知れないし、朴槿恵大統領の反対が思ったより強硬なのかも知れない。

 韓国がデフレか否かについて意見が分かれている。統計数値によれば明らかにデフレなのだが、国民はものが安くなっているという実感がないという。ネットでは、「韓国経済学者はアベノミクスは失敗だと言っているが、韓国はどうなのか」という声が見られた。

 ところでアベノミクスを推進したら明日にも日本経済が崩壊破綻すると声高に言っていた日本の経済学者や評論家はだれだったのか。それとももうすぐで破綻すると、まだ言い張るのか。日本の破綻を彼等は心から望んでいるだろう。そうすれば自分の言っていることの正しさが証明される。でも、そのときに彼等の出番が来るということは決してない。(つづく)

文芸月刊誌・「小説すばる・五月号」を読む(1)

 目黒孝二(北上次郎)の古い本を読んでいたら、文芸雑誌を書評している文章を見た。文芸雑誌などずいぶん読んでいない。

 高校生のときは「オール讀物」「小説現代」「小説宝石」などを小遣いがあれば購入していた。当時は五木寛之や野坂昭如、井上ひさしなどが新人として登場した頃で、多くの文章をこれらの雑誌で読んだ。野坂昭如の「エロ事師たち」や「火垂るの墓」「骨餓身峠死人葛」なども雑誌で読んだし、五木寛之の「モスクワ愚連隊」や「青年は荒野をめざす」「蒼ざめた馬を見よ」も、井上ひさしの「モッキンポット師」シリーズもそこで読んだ。

 思い立って、近くの小さな本屋の店頭の文芸誌二冊を購入した。その一冊が「小説すばる・五月号」であった。

 半分以上が連載物、小説を途中だけ読む趣味はないからパスして、読み切り短編六編と、書評やコラムなどを読む。

矢野隆「至誠の残滓」
 詮偽堂という骨董店の主人、河内勝は新撰組の生き残り、原田左之助の世をしのぶ姿であった。ここに新政府の警察官・藤田五郎が訪ねてくる。藤田五郎はもと新撰組の斉藤一であることは知られている。藤田五郎の依頼を拒否できない左之助は密かに連絡を取っていた旧友、山崎烝とともに新政府の役人を調べ始める。

 先日周御大と楽しく飲んだとき同席した美人は歴女で、それも新撰組については一級レベルの知識を持っているそうだ。こんな小説を読んだらどう思うだろう。鼻で笑うか、面白がるか。そもそも山崎烝が生き延びた、と言うのはあり得ることなのか、彼女に聞いてみたいところだ。

 それはともかく、この小説は短すぎて、長い小説のあらすじみたいだ。それぞれの登場人物が生きていない。もったいない気がする。

三浦しおん「胡蝶」
 芸のない言い方をすれば不思議な小説。時に予知夢を見る祖母との幼い日の記憶と、自分が成人してその祖母の葬儀で久しぶりに祖母の里を訪ねた主人公が、祖母の実像をあらためて知らされ、それが契機なのか、夢を見なかった自分も不思議な、信じられないほどリアルな夢を見るようになり、現実を侵食していく、と言うお話。

 「胡蝶」というのはもちろん「荘子」の「胡蝶の夢」の寓話を意識している。夢のなかで蝶になって飛び回るリアルな夢を見たが、その蝶である自分こそが真実で、人間である自分のほうが夢かも知れないという話だ。江戸川乱歩の「夢は現(うつつ)、現(うつつ)は幻」というのも同じことを言っている。

 生きていることの不確かさを覗かせてくれた作品だ。(つづく)

世のなかなんてそんなもの(5)

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 中国の経済週刊誌が、「韓国のAIIB(アジアインフラ投資銀行)の持ち分比率が第三位になる」と報じた。第一位はもちろん中国、第二位はインドである。

 しかしこれは実際の持ち分比率の検討状況からみて疑問がある。主要国際金融機構の持ち分率算定によれば韓国は第五位~第九位の水準だ。少なくともロシアがインドと同程度の持ち分比率になるはずで韓国が第三位というのはあり得ない。これは中国の韓国に対する単なるリップサービスなのか、韓国に対して負担を期待してのことなのか。

 韓国としてはAIIBの役員ポストへの執着がある。国連諸機関での負担の大きさに対して韓国人の役員の比率の少なさがマスコミから批難されている。だからポストを争うために、ない袖を振っても負担を引き受けると期待されているのかも知れない。つまり足元を見られているのだ。

 韓国ウォンの実質為替レートが大幅に上昇している。日本円とのレートの差が大きくなることで、対日輸出競争力が悪影響を受けている、と韓国では分析している。

 世界の主要26カ国の内、この二年間で実質為替レートが上昇したのは6カ国のみ。上昇したのは中国、 アメリカ、英国、韓国などである。だから韓国の輸出が減り、経済が失速した、というのが今までの言い訳だった。

 しかし最近の韓国経済誌のなかには、経済専門家の冷静な分析も紹介している。「最近はウォン・円為替レートが交易に及ぼす影響が縮小する傾向を示している。この場合、企業が非価格競争力を強化する必要がある」。

 これは長谷川慶太郎が早くから鋭く見抜いていたことで、「韓国経済は財閥の巨大資本投下により、低コストの製品生産で輸出拡大をしてきたが、技術力向上のための資本投下がなされていないから早晩中国にその座を明け渡すだろう。ただの組み立てによる製品生産(アッセンブリという)はコストの安いところが常に勝利する。日本はそのようなものの生産から撤退すべきだ。それにこだわったところは大きなダメージを蒙るだろう」と予言した。白物家電をはじめとする弱電関係のメーカーがたどった衰退への経緯はそれを見事に証明している。

 さいわい日本にはまだ韓国、中国よりも蓄積された技術力がある。それこそが日本経済復活の鍵なのだ。韓国が経済失速を脱するために日本を手本にしようとしてもその点が危うい。

 GMがアジア生産の拠点を韓国からインドへ替えるらしいという報道がある。すでに収益改善のためにインドネシアとオーストラリアの工場を閉鎖し、タイの工場も縮小した。

 GMは「韓国工場を閉鎖する具体的な計画はない」としながらも「韓国GMが競争力を維持するには経営改善が必要だ」と述べた。「GMは数年前、韓国工場の経営改善作業を始めたが、強力な労組が難題」であり、「会社として韓国の現実を直視する必要がある」という。(つづく)

2015年5月 6日 (水)

デカプリントとナイアガラ

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 巨大プリントのソフトでたのしんでいることは以前このブログで書いた。久しぶりに巨大プリントをした。玄関の壁に貼ってあった、バリ島の石像の写真はA4が4枚分。同じ写真を縦横5枚ずつの25枚の大きさに拡大プリントして貼り直した。

 プリントはプリンターがするからどうということはないが、それをのりしろを考えて切り貼りするのが大変だ。下手に貼るとつなぎ目がずれるし、全体が歪んだりする。前回の経験を活かして、慎重にやったけれど、いささかずれてしまったのはご愛敬か。もともとそれほど器用ではない。

 縦1.5メートルあまり、横1メートル以上の大きなものができあがった。でかい。さっそく玄関の壁に貼った。玄関の扉を開けると正面にこの写真があるから、我が家を訪ねてドアを開けたらびっくりするはずだ。これは魔除けである。

 夜はあかイカのネギ塩焼き、エノキのバター炒め等々を肴に酒を飲む。ビールの次に飲んだのが、先日の小旅行で松本の郊外の山辺ワイナリーで購入した白ワイン・ナイアガラ(辛口)。フルーティで少しずつ口に含むと口の中に香りが膨らむ。雑味がなくてまことにうまい。

 普通ワインはコルクを抜くと一度に空けてしまうが、これはもったいないので冷蔵庫に冷やしておいて何回かに分けて飲むことにしている。飲み足りない分としてフグのヒレ酒を追加した。

 本日は読書も少々だけ。映画も観なかった。こういう日もある。

知らないと恥ずかしい

 昼の民放のバラエティニュースを見ていたら、今回の世界遺産に関連して、明治維新のきっかけとなったペリー来航のときの衝撃を詠んだ狂歌、「泰平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず」が引用されていた。

 喜撰とは宇治の銘茶の名前で、上喜撰とはその上等なもの。上等のお茶はカフェインも多いから眠れなくなるけれど、もちろんペリーの蒸気船に掛けている。四杯は四隻の船のことだ。船のことを杯と呼ぶ呼び方もある。

 問題はこれを読んだ女性アナウンサーが四杯を「よんはい」と読んだことだ。だれもそれを指摘しない。さすがに呼ばれていた歴史コメンテーターはしばらくしてから読み直して「しはい」と正しく読んでいた。だがだれもそれに気づかなかったのか、黙っていた。

 うんざりしてテレビを消したので、その後訂正があったかどうか知らない。ものを知らないと恥ずかしい。「知るは一時の恥、知らざるは末代までの恥」と言うけれど、おとなになるとだれも教えてくれなくなるものだ。知らずに笑われている。同じことを感じた人も多いだろうけれど、自戒をこめてあえて書いた。

世のなかなんてそんなもの(4)

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 韓国の経済に暗雲が漂っている、と韓国メディアが伝えている。経済統計の数字がそれを示している。韓国ネットユーザーにはそれを「日本型の長期不況に突入してしまった」と嘆く声がある。

 日本の大型金融緩和による円安が韓国の輸出産業にダメージを与えているからだ、と言うのが韓国経済失速の原因と解釈されているようだが、それなら韓国も金融緩和をすればよい。日本型の長期不況だというなら日本の不況を手本に、ときには反面教師として対策すれば良いのだ。 

 「もう愛国宣伝にはごまかされない。政府は景気を良くしろ」という声などあって、するべきことをしていない、と韓国政府を批難しているものが多い。

 するべきことがなんなのか分かっていないのではなく、すでにその手を打っているのに事態が改善されていないような気もする。好景気に浮かれて、打つべき手を打つのが遅きに失した、ということかも知れない。だいたい世のなかとはそうしたものだ。調子が良いときにこそ破綻の芽が胚胎する。手を打ってもその効果が出るにはかなりのタイムラグがあるものだ。そうして浮いたら沈み、沈んだらもがいているうちにいつか浮く。

 日本にとってさいわいなのは、韓国は好景気のときに反日をやり過ぎて、不景気になってから反日によって国民の眼を逸らすという常套手段を使う効果があまりなくなったことだ。不景気のときに怨まれる方が本気で怨まれるからつらい。伝家の宝刀はいざというときのためにとっておかなければならなかったのに、抜く時期を間違えた。政治家の保身のために乱用しすぎたようだ。韓国国民が自国の実態を正しく把握することは、韓国の再生にとって有用だと思いたい。

 大江健三郎が、韓国、中国で「日本の良心」とたたえられている。安倍首相を敬称抜きで「安倍」と呼び捨てにして、アメリカ議会での演説を酷評したからだ。改憲反対や反核・反原発を唱えるのは個人の主張だから構わない。しかし自国の代表である首相を公然と呼び捨てにする態度にはいささか鼻白む。他人に対してリスペクトを欠き、自分が正義の味方の教祖のような祭り上げ方をされている姿は醜い。他人をあしざまに言っても自分が偉くなるわけではない。(つづく)

森本哲郎「老いを生き抜く」(NTT出版)

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 森本哲郎(1925-2014)。大学在学中に東京新聞入社、その後朝日新聞に移籍、長く記者を務め、五十歳を機に退社してフリーの執筆活動に入る。一時東京女子大の教授を務める。学生時代は東洋哲学を専攻、大学院ではカント哲学や実存主義哲学を専攻。哲学を基盤にした文明批評の著作が多い。世界各地を訪ねて思索した「・・・の旅」という表題の本がたくさんある。著作の大半は私の本棚に並んでいる。

 森本哲郎は、私が若いときに人生観を変えるきっかけを与えてくれた。そのとき読んだ「生きがいへの旅」という本はいまも座右の書である。森本哲郎は、心の師だと思った一番最初の人だ。

 この本は2012年に出版されているから最晩年の本である。前半は、老境のなかで考えたことを随筆風に語っている。森本哲郎は与謝蕪村に傾倒していて蕪村についての著作もある。俳句など詩が苦手な私だが、森本哲郎によって多少は手ほどきを受けた。その句を手がかりに老境が語られたものもある。

 後半は道元禅師の「正法眼蔵」への心の旅が綴られている。きっかけが夏目漱石の「門」のなかの主人公・宗助が参禅する文章から。漱石は自分の参禅をそのまま代助に語らせている。森本哲郎もそれに触発されて若いときに参禅した。 

 その後さらに印度へ仏教の原点を訪ね、道元禅師の立ち寄った中国の寺を訪ねたりして思索を深めていく様子が書かれている。それは人の生死とはなにか、と言うことを突き詰めていく旅だ。

 森本哲郎は死の床で答えを見つけたのだろうか。

 道元禅師と対比して古代ギリシアの哲人、エピクロスのことばが引用されている。彼は死など恐れる必要はない、と言う。なぜならば「私が生きているかぎり、死は私とともにいない。死は私とともになく、死がおとずれたときには、もう私はいないから」。

 歳とともに長生きしたいという気持ちが弱くなってきたのが不思議だ。やりたいことは残っているけれど、やりたいことのたいていはやった気がする。だから死に対する恐怖があまりなくなってきた。どうせいつか死ぬのだし。せいぜい無意味な生を生きないようにしたいと思うばかりだが、なかなか。

2015年5月 5日 (火)

世のなかなんてそんなもの(3)

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 明治の産業革命遺産23施設がユネスコの世界遺産登録に登録するよう民間諮問機関の国際記念物遺跡会議がユネスコに勧告した。この勧告が行われると、世界遺産に登録される可能性が高い。

 明治維新は世界の驚異であった。鎖国を解いた日本が、西洋列強との不平等条約に苦しみ、艱難辛苦して国力を増強し、ついにアジアで先頭を切って世界の強国たちの一隅に加わることができたのも、この日本独自の産業革命が逢ったからだ、ということを忘れてはいけない。

 そのとき中国はどうだったのか、朝鮮半島はどうだったのか。植民地だったアジア諸国は独立後、日本の明治維新を手本に国力増強に努めた。それを思えば日本はまことに良くやった、と胸を張って良いのではないか。その後のことはその後のことで別のことである。良いことの裏には必ず悪いことが張り付いているのがこの世のなかだ。

 その世界遺産登録に韓国が強く抗議している。韓国外交部は「我が政府の基本的な立場は強制労働が行われた歴史的な事実から眼を逸らし、産業革命施設に美化して世界遺産に登録することに反対する」と表明した。韓国国会は日本の世界遺産登録の動きを非難する決議をすでに採択している。

 他国の世界遺産登録を、しかもそれを審議するのはもちろん日本ではなく第三者機関なのに、それに反対決議をする国会とはなんなのが。不思議な国である。

 ところで韓国の反対の動きに対する日本政府の答えは「これは明治維新後の明治時代の産業推進の施設の世界遺産登録であって、強制労働とは直接関係のあるものではない。批難はお門違いである」という当然のものだ。その施設で昭和時代に強制労働があったかどうかは別の話だと云うことで、極めて分かりやすい。(つづく)

世のなかなんてそんなもの(2)

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 朴槿恵大統領は四日、訪韓中の米国戦略国際問題研究所代表団の日韓関係の今後の展望に対しての質問に、「日本を北東アジアの平和・繁栄の重要な友邦と考え、両国関係発展のために努力してきている」と答えたそうだ。

 相手によってものの言い方を変えるのはだれにでもあることで、外交ではそんなことは常識だと思うが、それをこれほど分かりやすい例で示してくれる人もめずらしい。

 韓国外交部は「歴史問題に埋没せず、それはそれとして指摘していく」けれども、「外交問題は別の観点に基づく明確な目標と方向を持って進める」と大統領府の主席秘書官会議で表明した。

 これは、対日政策では歴史・領土問題と安全保障・経済問題を切り離し、実利重視の現実路線で安保・経済問題に対応するという「2トラック戦略」を推進することの表明であり、それを朴槿恵大統領が正式に確認している、と韓国メディアは伝えている。

 もともと日韓関係はそれでやってきたし、それでよかったものを、韓国が反日を旗印にしたために関係を損なった。損なったのは韓国側だと日本人は思っているけれど、韓国ではメディアも政府も、安倍首相が原因だと報じてきたのではないか。政権末期にレイムダック化して自分の身に火の粉がかかりそうになった李明博前大統領が、苦し紛れの竹島上陸で反日の旗を掲げたのがきっかけであり、それは民主党政権のときで、安倍首相のときではない。

 こじつければ、そのときの民主党政権が、海外から、特に中国や韓国から、支離滅裂で弱体化している、と足元を見られたのだから、日韓や日中の関係がここまでこじれたのは日本に責任があるという見方もできないことはない。民主党政権といえど日本政府だったのだから。

 私は民主党に点が辛いのだ。のど元過ぎても決して忘れない。いま民主党はかつての社会党のように何でも反対党に成り果てた。その果てが今の社民党のようになるかどうかが問われているけれど、その自覚がないようなのが哀れだ。(つづく) 

世のなかなんてそんなもの(1)

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 韓国のニュースやネットを見るのはおもしろい。私が考えも及ばない発想で物事を見ているのが、以前は腹立たしいこともあった(今もないことはない)けれど、今はなるべく楽しもうと心がけている。

 朴槿恵大統領は、安倍首相がアメリカ議会での演説で韓国や中国への謝罪がないこと、慰安婦問題への言及がないことを強く非難している。大統領は南米訪問旅行で体調を崩して、一週間ほど公務を休んでいたが、ようやく復帰するとすぐに安倍首相を非難した。病床にあってもそのことばかり考えていたのだろうか。

 安倍首相は「隣国の信頼を回復する機会を生かせなかった」と云うから、それを多少は期待していたのだろうか。そもそも最初から期待していないから、韓国政府はアメリカ議会に安倍首相の議会演説を阻止するように働きかけていたのではなかったか。

 「日本は自ら歴史問題で反省することをしない。韓国も問題を解決してあげることは不可能だ」そうだ。残念なことである。しかし千年たとうが許さない、と明言しているのだから、謝罪してもしなくても同じことか。

 最近は日本人も友好をなかばあきらめるようになったから、嫌韓と云うより無視するようになってしまったように思える。日中首脳会談は開く方が良いという意見が多いが、日韓の首脳会談は別に急がなくても良いという意見が多いようだ。どうでもよくなったのだ。ところが韓国では、日本が嫌韓ブームだから韓国人が日本を嫌うようになったかのような論調が見られる。この発想はまことにおもしろい。(つづく)

2015年5月 4日 (月)

韓国は成功している

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 韓国は成功している。

 安倍首相が訪米してアメリカ議会で演説し、映像で見ているかぎり、厚遇されていたように見えた。しかし韓国は国を挙げて安倍首相を非難している。

 子供のときからかなり露骨な反日教育(日本人から見て、と言うことだけれど)を施し、韓国人の心には日本はゆがめられて映っているように思える。日本人がびっくりするほどの悪辣なイメージはほとんど妄想だ。

 隣国を敵として認識させ、国民の不満を逸らすと言う手法はしばしば行われるものだが、ここまで徹底させるとほとんど宗教のように国民の心にしみこんでしまう。もし反日教育をやめたとしても、それを払拭するには長い年月が必要だろう。

 朴槿恵大統領は「告げ口外交」と揶揄されるほど反日を絵に描いたような言動に終始している。政権が弱体であることによる危機をなんとか反日で切り抜けようとしているようだが、最初朴槿恵大統領の話に賛意を示していた各国も、次第にそのしつこさにうんざりしているようだし、韓国国民も、反日だけしか訴えるものがない大統領にはいささか嫌気がさしているようだ。

 ではどうして韓国は成功している、などと言えるのか。

 日本は韓国の反日のしつこさにうんざりし、世界中が韓国のしつこさを目の当たりにした。日本が韓国を併合したことは大失敗であったことを日本はもちろん、世界中が認識した。

 こんな国に関わり、侵略したり植民地にすることはまったく勘定に合わず、マイナスにしかならないことを、日本はもちろん世界は学ぶことになった。

 こうして韓国を侵略する国は存在しなくなったに違いない。これこそ韓国の防衛の大成功と云わずしてどうする。韓国は成功しているのだ。

映画「LIFE!」2013年アメリカ

 監督ベン・スティラー、出演ベン・スティラー、クリスティン・ウィグ、シャーリー・マクレーン、ショーン・ペンほか。

 わたくし、ベン・スティラーが好きではありません。これは全くの食わず嫌いで、外見から肌が合わないと思っているからです。「ナイト・ミュージアム」なんて予告編を見ただけで絶対見るものか、と思うくらいです。

 でもこの「LIFE!」だけは気になっていました。

 くやしいことにおもしろかったのです。

 物語の展開は荒唐無稽なものですが、そこにリアリティがあるのが不思議です。人間が血が通ったかたちできちんと描かれているからでしょう。ベン・スティラー、ななかなかやるな、と見直しました。

 だからといってベン・スティラーが好きになったということは残念ながらありません。

 全くの蛇足ながら(ファンが多いのにあえて云えば)「嵐」が嫌いです(申し訳ありません)。メンバー全員が嫌いというのはこのグループくらいです。これも理由はありません。彼等のでているドラマも映画も死ぬまで見るつもりはありません。あっ「硫黄島からの手紙」を見てしまった。くやしい。あの「嵐」のメンバーの何とか言う人は演技がひどかったことだけを覚えています(私の偏見によるのでしょう)。

2015年5月 3日 (日)

葉室麟「山月庵茶会記」(講談社)

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 帯には「葉室麟作家生活10周年記念作品!!」とある。

 政争に敗れ、身を引いて藩をでてから16年、武士を捨てて茶人として名をなした男が帰ってきた。目的は16年前の妻の死の真相を知るため。

 それを暴かれては都合の悪い人々がいるが、その妨害をものともせず、過去、自分と関わった人々をはじめ、多くの人を自ら山月庵と名付けた茶室に次々に招き、茶会を開いて次第に真相を明らかにしていく。

 そこで知ったのは、汚名を受けて死んだ妻の清冽な心と、そして自分に対する深い愛であった。そして真実は驚くべきものであった。

 茶会の会話だけで真実に迫っていくのは可能なのか、それが可能なのである。茶の湯というものの厳しさと奥深さを知った。招かれた側にもそれだけの覚悟があるのが茶の湯なのだ。

 最後のしみじみとした味わいはいつもの葉室麟だ。じわりと涙が浮かんできて紙面の字面がぼやける。

気になったこと

 今日が憲法記念日ということで、NHKが若者の憲法についての街頭インタビューなどを行っていた。選挙年齢が引き下げられる方向であることから、確かに若者に聞くことに意味があるだろう。

 「大学生」と字幕についた若い男が「憲法について知らないので教えて欲しい」と答えていたのに驚いた。憲法を大学生になるまで知る機会がなかったとでもいうのだろうか。憲法が受験科目ではないので学校でまったく教えなかったのか、そういう授業はあったけれど、本人が聞く耳を持たずに記憶にないのか。

 それよりも私が驚いたのは、大学生が自分で知ろうと思えば知ることができるということに気がついていないことだ。大学生とは自らが知りたいことを自ら学ぶことのできるものだと私は思っていたからだ。知ろうと思えば、憲法についてなら賛否両論まで含めていくらでも、だれでも知ることが出来る。

 若者の人口が減少しているのに大学は減らない状況では、大学を選ばなければだれでも大学に入れるような時代である。大学生の劣化が進むのも仕方がないのだろうか。しかしそんな風に大学に入ってお客様でいることにどんな意味があるのだろう。

 一部の大学を出た大学生だけが大学生だと見られ、そのほかは大学もどきに行ってきただけ、というのが社会の冷たい見方かも知れない。そう思わないで、自分も大学生だ、と思っているのは本人と親だけではないか。もちろん自ら学ぶことのできる大学生はどこの大学であっても真の大学生だが。

 若い女性がやはりマイクを向けられて、「法や憲法には抵抗があって・・・」とおっしゃっていた。なにか法や憲法について知ったり語ったりすることは正しくないことだと思っておられるようであった。

 そういえばニュースで、憲法論議についての各党のコメントのなかに、社民党と共産党が「論議そのものをすべきではない」と言っていた。なるほど、憲法を論ずることは正しくない、と言っているのだ。これを学校の教師も含めてたびたび聞かされ続ければ、「法や憲法には抵抗があって・・・」ということになるわけか。

 まだある。

 憲法について若者たちがミーティングしていたときにひとりの女性が「戦力で脅すのではなく、仲良くすることで戦争を回避できるはずだ」と言っていた。国というもの、人間というものなど、あまりり物を知らない若い頃はこのような空想的な理想論を口にしがちで、残念ながら「私はものをよく知りません」と表明していることになるのだが、善意からとしてほほえんで聞いておこう。

 尖閣列島は自国のものだ、と主張する中国から「尖閣列島が中国領であることを認めたら仲良くしよう、沖縄も中国領である歴史的事実があるのだから沖縄を中国領と認めたらもっと仲良くできる」と言われているけれど、「戦力で脅すのではなく、仲良くすることで戦争を回避できる」、から仲良くするのだろうか。

 ニュースをたった五分ほど見ていただけで、なんだか疲れることであった。

映画「バンコック・デンジャラス」2009年アメリカ

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 監督オキサンド・パン、ダニー・パン、出演ニコラス・ケイジ、チャーリー・ヤン、シャクリット・ヤムナームほか。

 タイのパン兄弟が、初期に作った映画をニコラス・ケイジ主演で自らリメイクした映画だそうだ。

 顔も名前も知られていない暗殺者(ニコラス・ケイジ)は自分がそろそろ引退の時期に来ていると感じていた。東ヨーロッパでの仕事を終え、タイへ最後の仕事にやってくる。

 今まで完璧にこなしてきた仕事に微妙に齟齬が生じ始める。ためらいもなく冷酷に殺してきた目撃者を見逃し、聾唖の美しい娘に心をひかれる。後で殺すつもりの使い走り(チャーリー・ヤン)の不手際を許し、ついには自分の仕事を知られてしまう。しかもその若い男に懇願されて殺しの技術を教え始める。

 タイでの依頼者からは四件の仕事が持ち込まれているが、その依頼者が自分の正体を調べ始めたのもこちらの気のゆるみがスキとなったためかも知れない。そして最後の四件目の仕事は、ひとの心に目覚め始めた彼にとって気の進まないものだった。

 実行してもしなくても依頼者は彼を抹殺しようとするだろう。勝算のない状況に追い込まれた彼は、迷った末に最悪の道を自ら選ぶ。

 最期だけ血の通った行為をすることで今までなしてきた行為のすべてがご破算になどならないけれど、「人は悪いことをしながらも、ときに良いこともするものだ」。これは池波正太郎のことば。

2015年5月 2日 (土)

漢字は負担?

 韓国で漢字教育を復興させる動きが政府・教育部により進められている。これを巡って賛否両論が沸騰しているが、父兄は漢字を子供に教えることに多くが賛意を示している。

 ところがハングル・教育者団体はそれに猛反対。理由は子供に負担が大きくなるからだそうだ。

 韓国の現状は漢字を使わず、ハングル文字だけをもって表記している。日本でいえば、ひらがなだけですべての文章を表記しているのに等しい。想像しただけでそれがどれほど煩雑で文章での意思疎通に支障を来すのかが思われる。

 英語もそうではないか、といわれるかも知れないが、英語は単語が一つの単位としてことばとなっている。表音文字だけで書かれているのとは違う。表音文字だけで書かれていては文字から意味を感じることが困難となる。

 そもそも中国と極めて接近しつつある韓国にとって漢字の必要性は増していることだろう。まして韓国の歴史を知ろうと思えば残されているのはほとんど漢字で書かれた文献ばかりだから、それが読解できなければ歴史を知ることが出来ない。

 歴史にこだわる韓国が、歴史を知るための漢字を失っている現状は、日本から見れば矛盾しているとしか思えない。ここにこそ韓国の、一般市民にはなにも知らせないための仕掛けを続けてきた歴史が見えるではないか。士大夫だけが知的営みをすればいい、庶民にはなにも知らせない、というのが朝鮮半島の統治の歴史であった。

 寺子屋のように庶民も読み書きができるように教育するシステムが存在したのは世界でも日本くらいだったのだ。その日本が漢字交じりの文章を植民地時代の韓国で教育したことに対する反発が根底にあるのだろうか。

 今回の漢字教育反対を唱えるハングル・教育団体というのがまさに士大夫階級の発想そのものであり、韓国に階級を厳然と残そうという意思の表れ、と見るのはうがち過ぎであろうか。

映画「バトルフロント」2013年アメリカ

 監督ゲイリー・フレダー、出演ジェイソン・ステイサム、ジェームズ・フランコ、ウィノナ・ライダーほか。

 チャック・ローガンの犯罪小説をもとにシルヴェスター・スタローンが脚本を書き、自ら主演するつもりだったけれど、寄る年波でハードアクションは無理と思ったのか、ジェイソン・ステイサムを主演に起用した。それが大成功している。

 ジェイソン・ステイサムは作品を選ばずにオファーがあれば何でも受けているのではないか、と思うほどいろいろな映画に出演している。だから駄作も傑作もあるけれど、この映画は傑作の方だ。もともとあの傑作映画「トランスポーター」で出会って大好きなので、駄作でも許せるけれど。

 麻薬取り締まり局の潜入捜査官・フィル(ジェイソン・ステイサム)は過激な任務と自分の意思と違う事件処理結果に嫌気がさして退職し、家族ともども過去を隠して田舎に引き込む。今までの事件の犯罪者たちからの報復を恐れたためだ。

 そして妻を病で失い、ひとり娘との二人暮らしとなる。自然と接し、安らかな日々が訪れていた。

 田舎はよそ者を受け入れない。娘が小学校でいじめっ子のいじめに対して手ひどく反撃したことを機にそのいじめっ子の親と諍いが起きる。それは些細なことのはずだったのだが・・・。

 田舎にも犯罪者がいる。そんな犯罪者にいじめっ子の母親が報復を依頼したために、次第に事態はエスカレートし、遂に彼の身元が犯罪者のボスに明かされてしまう。凶悪な暗殺者たちが大挙してフィルのもとへ向かう。フィルはそれをどう迎え撃つのか。

 こういう映画を観ていつも思うけれど、アメリカは病んでいる。世のなかには必ず問題を起こすものがいる。それは日本でも同じだから、病んでいない社会などないとも言えるが、その病み方がアメリカは尋常でないように見える。そもそも人間そのものに原因があるのかも知れないのだけれど。

 そうして犯罪者が暴力をもって傍若無人にふるまうとき、それに立ち向かうには勇気が必要だが、それには戦うだけの能力も必要だ。普通の人にはそんなものはない。だからヒーローが悪を倒すのを見ると快哉を叫び、溜飲を下げる。

 もちろんこの映画もそういう映画だけれど、特に強く記憶に残るのはいじめっ子の母親の悪意と、田舎の小悪人の情婦の結果を考えない無知の悪意である。事態が最悪となって初めて自分が何をしたのか気がつく。そういう人々がそこここにひしめいている。

ドラマ「ナイトメア 血塗られた秘密」(WOWOW)全八話を見る

 19世紀末のロンドンが舞台のゴシックホラー。ホラーの主要メンバーが総動員されている。吸血鬼に狼男、フランケンシュタイン博士、あのオスカー・ワイルドの唯一の長編小説「ドリアン・グレイの肖像」のドリアン・グレイも参加。

 

 ジョシュ・ハートネット、エバ・グリーン、ティモシー・ダルトンらが主要人物として共演する。

 

 ストーリーの骨格は、行方不明の娘・ミーナを探し求めるマルコム卿(T.ダルトン)とそれを助ける不思議な美女・ヴァネッサ(E.グリーン)、雇われ用心棒の、アメリカから来たガンマン・イーサン・チャンドラー(J.ハートネット)。彼等がその探索の過程で出会う不思議な人々や怪異現象が描かれていく。

 

 盛りだくさんで、多くのゴシックホラーの主人公たちが次々に登場し、ときにはあっけなく去って行き、ときには重要な役割を演じていく。それぞれの原作や関係する映画を知っていると、このドラマがそれらにオマージュを献げているのがよく分かるが、それを知らないからといっておもしろさが感じられないということはない。

 

 とにかくエバ・グリーンが熱演。クールで妖しい美しさを見せているかと思えば、官能的な女に変貌し、突然憑依された狂気の女となる。途中でヴァネッサという女性が何故マルコム卿の手伝いをしているのか、どんな来歴なのか、ミーナとどんな関係なのかが詳しく語られるが、それだからこそ益々分からないことが増えていく。

 

 かなり露骨な情交シーンや人体の損壊シーンなどがあるので、そういうのが苦手な人には刺激が強すぎるかも知れないが、こういうのが好きな人は見逃すのが惜しいドラマだ。一話ごとそれぞれがつまらない映画よりずっと良くできているのだから。

 

 今回の全八話は物語全体の導入部ということで、これから第二シーズンに続いていくようだ。あなたも世紀末の霧のロンドンの夜を彷徨しませんか。多分再放送があると思います。WOWOWと契約する値打ちはドラマだけでも十分にあると思うけれどなあ。

 

 ホラーは苦手なのに、このゴシックホラーだけは大好きだ。それに歳とともに恐怖感が鈍磨してきたようだ。ただ、怖さがあってのおもしろさなのに、それが多少減殺されているかも知れない。

2015年5月 1日 (金)

銀漢の賦

 葉室麟の「銀漢の賦」は直木賞受賞作。これをNHKがテレビドラマにしたものを録画していたので、全六話を一気に見た。

 主演は中村雅俊と柴田恭兵。原作も良いし、このドラマも素晴らしい。原作とは話の展開の仕方が違うけれど、脚本に全く不満はない。

 このドラマでは桜庭ななみがもうけ役で、いままでよく知らなかったけれど、好きになってしまうではないか。

 ドラマのことはここまでとする。このドラマで中村雅俊の娘役を吉田羊が演じていた。母の死にまつわることで父親に怨みを持っていて、冷たくあたる。それに閉口しながらも甘んじて厳しい言葉を聞き流す。

 この吉田羊の演じる娘(すでに人妻)の気持ちが痛いほど分かる。

 なんと、今晩のTBSの「ぴったしかんかん」のゲストにその吉田羊が出ているではないか。それも「吉田類の酒場放浪記」をもじって「吉田羊の酒場放浪記」。

 洒脱でお酒を楽しく飲むその姿にぐっときてしまった。こっちも息子の持って来た広島・福山の日本酒「天寳一」を飲みながら見ている。こんな女の人とお酒を飲めたら酒が旨いだろうなあ、と思った次第。

 今日名古屋に所用で出かけて、葉室麟の新刊「山月庵茶会記」などを購入したところ。葉室麟は好いなあ。ちょっと酩酊。

考古博物館

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松本市の東側に山辺ワイナリーというところがあり、そこでロゼと白のワインを二本買った。地図を見たら、その南の方に考古博物館がある。どんなところか覗いてみることにした。

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中山史跡というらしく、古墳群があり、縄文時代、弥生時代、奈良平安時代の遺物がたくさん出土していて、それを展示している。縄文時代の人骨も出土したそうだが、それは別の松本市内の博物館に置いてあるとのこと。

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博物館の横には竪穴式の住居が再現されている。

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出土品は思ったよりもよい状態のものがたくさん展示されている。あまり考古学に知識はないが、見飽きない。

入り口で問題集が手渡される。5つの質問があってそれに回答する。答えは展示品や説明書にヒントがあるのだが、直接書かれていないので良く内容を見て考える必要があり、結局展示を詳しく見ることにつながる。

結果は? もちろん全問正解。クリアシートを記念に頂いた。

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やはり縄文土器が魅力的だ。

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小さな土偶。

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こんなのもあった。長いの短いの太いの細いのといろいろ。

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博物館の前の景色。なんということのない景色だが、春を実感させてくれた。

これをもって旅の終わりとする。


小諸城址

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 懐古園は小諸城址公園である。門の上に掲げられたこの懐古園の文字は勝海舟の書いたものらしい。

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 桜はすでに散り終わりかけているが、多くのひとがゴザを敷いて春をたのしんでいた。

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 散り終わった桜も悪くない。残念ながらソメイヨシノは結果(実を作ること)しない。

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 城址の隅の展望台から千曲川が遠望できる。

 展望台の近くに「小諸なる古城のほとり、雲白く遊子かなしむ」で始まる「千曲川旅情の歌」の碑がある。

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 「千曲川旅情の歌」は島崎藤村の詩である。藤村はこの小諸の学塾に教師として招請されて滞在した。藤村の詩碑はほかにもいくつかある。藤村以外の句碑や歌碑もそちこちに見られる。

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 この「惜別の歌」の歌碑は懐古園の門外、小諸駅の側にある。懐古園は小諸駅のすぐ近くにあるのだ。

 この「惜別の歌」は私の愛唱歌。アカペラで歌詞を見ずに歌える数少ない歌の一つだ。

 元々の藤村の詩の一部が変更されていることと題名も変えられていることが問題となったが、遺族の了解により、この歌碑が残されたとある。どこがどう変わっているか、それは現地の看板を見て欲しい。確かに詩のイメージは変更によりもとの詩より全体として統一性に欠けていることは事実だ。

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