« 2015年7月 | トップページ | 2015年9月 »

2015年8月

2015年8月31日 (月)

ちょっとテンション高し

 今晩遅く、愛する娘のどん姫が来る。料理をどうしよう、酒をどうしよう、なにを買い出しに行こうか。シーツが少しくたびれてきたから新しいのに取り替えよう。あまり愛想のない娘だが、顔を見ているだけで嬉しいのは親ばかである。

 それだけではないけれど、なんとなく気持ちが昂ぶっている。そういうときは読書に集中できない。すぐに関連したことが次々に頭に浮かんできて先へ進めなくなる。

 山本七平の「人生について」という本を読んでいる(何冊か並行して読んでいるうちの一冊)。山本七平の父は紀州尾鷲の出身で、内村鑑三の弟子であった。

 ここで、尾鷲と言えば先日の熊野行が思い出されてくる。そして、内村鑑三といえば、教会の存在に否定的で、その思想からキルケゴールに敬意を表していた。そういえばCZTさんのキルケゴールに関する文章が突然中断消去されたのはどうしてだろう・・・。キルケゴールといえばデンマーク、デンマークに行きたい。しかし来年はデンマークではなく、フィンランドへ行くことになりそうだ。私がテレビで観て、行くことをいつもの仲間に提案したからだけれど。

 山本七平は内村鑑三の言葉をいくつか引用している。そのなかに「批評されるものとなれよ、批評するものとなるなかれ」というのがある。これが頭にしみこんでいるので山本七平は「評論家」という言い方に非常に抵抗感があるというのだ。

「誰かを批評すると、した方がむしろ害を受ける。というのは、なにも業績がないのに相手と対等のような錯覚をもってしまうからである。否、時には相手以上だという錯覚をもち、それでいて内容はカラだという状態に陥りやすい」

 なるほど。

 そういえば、いま小林秀雄の「考えるヒント」という本も読んでいる。その中で、小林秀雄が夏目漱石論を書こうとして、たまたま目にした江藤淳の夏目漱石論を読み、瞠目したという文章がある。そのとき、まだ江藤淳は学生であった(すごい)。

 江藤淳はそのあとライフワークとして「漱石とその時代」という評論を書き続けた。全部で五巻になるが、彼の自死で未完に終わっている。すべて揃えているが、まだ第一巻の途中までしか読んでいない。そもそも夏目漱石を全部読み、さらに読み、してからでないと、この本のすごさはわからない。

 批評、評論というのはここまでのレベルでないとできないものだということを考える。

 実はもっと妄想は展開し、あちこちから本を引っ張り出したり、地図を取り出したりするので、たちまちあたりに本が散乱する。だから読書はちっとも進まない。

 きりがない。さあ、買い出しにでかけるとするか。雨は大丈夫だろうか。

今日でお別れ

 本日は定期検診日。母の危篤から葬儀の間が長かったので、持参した薬が足りなくなったし、飲みそびれた日などもあったから、血液検査の結果はやや心配だったが、オールセイフ。体重などはいままでで一番少ない(ちょっとだけど)。

「煙草やアルコールは?」
「煙草は吸いません。アルコールは好きです」
「ふだんどのくらい飲みますか?」
「500mlのビール一缶と、日本酒をコップ一杯(もっと飲むことも多いけれど)」
「えっ、それは多い!」
「これでも昔の三分の一以下です(五分の一か)。ものすごく節制しています」
「・・・。そうなんでしょうね」

「たいへん良好な結果なので、もう少し体重が減ったら薬をもっと減らしましょう」
「それはありがたい」

ここで看護婦さんが、
「先生は九月いっぱいで退職されます」と口を挟む。

 どういうことか。昨年結婚したはずだ(名字が変わった)。おめでたか?しかしそんなぶしつけなことを私は訊けない。

「そうですか。いろいろお世話になりました」
とだけ言って頭を下げた。

「こちらこそありがとうございました」
と先生もにっこり笑って頭を下げた。

 次回の検診は十月なのでこれで先生とはお別れだ。ちょっと寂しい。

百田尚樹「大放言」(新潮新書)

Dsc_5291

 「永遠のゼロ」の大ヒットで作家デビューし、次々にベストセラーを出しているこの人の本を実はまだ一度も読んだことがない。映画の方の「永遠のゼロ」もまだ未見。息子から、好い映画だったと聞いているので観てみたいと思っている。

 百田尚樹はまた「放言」がマスコミにたたかれていることでも有名だ。テレビでその風貌と豪快な笑い方とともに「放言」を聞いたこともある。あの早口のしゃべりの中での言葉を一部だけ捉えれば、マスコミが狂喜するようなところを拾い出すことは容易だろう。マスコミは文脈で捉える、ということをしない揚げ足取りが得意(というよりそれに終始している)だから、この人などは格好の餌食になる。

 この本はそれを逆手にとって、自分の言いたかったことを思うさまぶちまけた本であり、痛快である。当たり前のことが当たり前に書かかれているような気がするが、これではまた叩かれるだろう。

 しかしいくら叩かれても、本業で実績を積み重ねていれば、マスコミのバッシングなどこの人にとって屁でもなかろう(本音はしんどいのはわかっているが、それをあえてするのがこの人の生きがいみたいなもので、ある意味たのしんでもいるのだろう。強い人だ)。

 おかしな揚げ足取りでへなへなと崩れ去る政治家と違って、マスコミも勝手が悪かろう。

 この本では、最初に「コスパ」という言葉がやり玉に挙げられる。この言葉、私も不動産会社のCMで初めて聞いて、イヤな言葉だな、と感じていた。なぜイヤな感じがするのか、明快に指摘されていて、その通りだなと思った。コスパになじむものとなじまないものがあるのだが、それをわきまえない人が多すぎる。

 図書館についての著者の意見に大賛成。そもそも新刊のベストセラーくらい自分で買え!というのが私の考えだ。図書館は手に入りにくい、高価だったり古い本を置く所で、新刊をただで読ませるところではないと思う。これでは本屋や出版社は成り立たない。

 最後にいままでの放言のいきさつと、とりあげられた部分を含むその文脈全体が書かれている。もちろん著者も認めているように「放言」であることは間違いないが、マスコミが正義の味方を気取って騒ぎ立てるようなものだとは私は考えない。

 この本を読んで、マスコミに与するか、著者に与するか、なにかの識別によさそうだけれど(うっかりとんでもない「放言」をしそうになるではないか)、そもそもマスコミに与するような人は、図書館でただで読めるとしても、まずこの本を読まないだろうなあ。

2015年8月30日 (日)

ハノイの蓮

 録画してあったNHKBSの「世界で一番美しい瞬間(とき)」というシリーズの番組で、ベトナム・ハノイのタイ湖の蓮が取り上げられていた。

1310_152 はるかに霞むタイ湖

 私がハノイに行った時は残念ながら蓮の花の時期ではなかった。タイ湖では6月が蓮の花の最盛期で、その香りが街にあふれるという。普通の蓮の花弁が17枚なのに、タイ湖の蓮は花弁が100枚もあり、花弁が匂いをこもらせるので、特に芳香が強いそうだ。

 ハノイの名物に花売り娘があり、蓮の花の時期には自転車やスクーターに蓮の花を満載して売り歩く。ひとびとはこぞってそれを買い、部屋に飾ると部屋が芳香に満たされるという。

1310_112 ハノイ旧市街へ

 このタイ湖は水質が特別だ。それは近くを流れる大河である紅河(ホン河)とタイ湖が地下でつながっており、常にタイ湖の水は入れ替わってきれいなためだ。

 タイ湖の蓮は一日目には朝少しだけ開いて夕にはつぼみにもどり、二日目はもう少し開いてまた夕に閉じる、そして三日目に完全に開き、もう閉じない。四日目には花は散ってしまうのだそうだ。

 蓮の花の香りを茶葉に移して蓮茶にする。ずいぶん手間暇のかかるお茶だ。私も買って帰ったけれど、いれかたが悪かったのか、安いのを買いすぎたのか、残念ながらそれほど蓮の芳香を感じることができなかった。

1310_104

 蓮の実はスイーツにしたり、料理に使う。これは中国でもよく食べた。市場でよく売っている。砂糖漬けを食べたことがあるひとも多いだろう。

 もちろんレンコンも食べる。ベトナムでは生でも食べられて、甘いし、暑気冷ましに良いそうだ。

 番組で知ったことをただ備忘のために書き記した。蓮について、そしてハノイについてちょっと新しいことを知った。ハノイは本当に好い街だ。思い出してなつかしい。

平岩弓枝「ベトナムの桜」(毎日新聞出版)

Dsc_5271

 私は情が薄い人間だと思っているが、それなのに涙もろいのはどうしたことか。ただ涙腺が弱いだけなのだろう。この本のラストで熱い涙がこみ上げた。

 瀬戸内海の高取島という小島に生まれ育った兄弟が、別れ別れになる。弟は兄が乗るはずだった朱印船で東南アジアへ。しかし幕府は鎖国政策を進めている。

 このままでは弟は日本に帰ることができなくなる。それを知った兄は長崎へ行き、オランダ船に乗って弟の行方を追う。

 はたして兄は弟を見つけ出し、兄弟は無事日本に、そしてふるさとの高取島に帰ることができるのか。

 鎖国前後に人々に降りかかったさまざまな苦難、それを乗り越え、切り抜けて兄弟は男として成長していく。兄と弟が互いに思い合うすがたに、胸が熱くなったのだ。そのときのキーワードが表題の「ベトナムの桜」である。

 多少話の展開に都合のよい偶然が多すぎる気がするけれど、こんな面白い本、読まずにどうする。

2015年8月29日 (土)

中立性を犯すものではない

 国連の潘基文事務総長が、来月の中国の抗日70周年式典に列席することに、日本政府が「国連の中立性を犯すものだ」と抗議を申し入れたことに対し、事務総長は「中立性を犯すものではない」と反論した。

 普通に考えれば、国連の事務総長が、中国の国威発揚、軍事力誇示の式典に参加するのは、国連の中立を犯すものだろう。それを、そうではない、と平然と答えるところが、潘基文国連事務総長の中立性の欠如を示している。

 潘基文事務総長は、国連の中立性の証拠として「広島の原爆記念式典に国連の事務官を派遣したではないか」と言ったそうだ。

 中国の抗日式典と、広島原爆記念式典を同列に論じる神経がおかしいし、そもそも広島の式典に潘基文事務総長が参加したわけでもない。

 しかし日本の抗議にこのように反論したことが伝われば、韓国では拍手喝采を浴びるだろう。彼の点数はますます上がる。

 いろいろ国難をとりあえず切り抜けて、朴槿恵大統領の支持率が急上昇した。こうして気分をよくした朴槿恵大統領と潘基文国連事務総長が、中国の抗日軍事式典に同席して、習近平主席の前で晴れがましい姿を世界にみせる。

 めでたいことだ。そういえば日本の元首相の村山富市氏もその中国の軍事力誇示の式典に個人の立場で(当たり前だ)列席するそうだ。戦争反対を唱えながら、こんな式典に参加するこの人の頭の構造はどうなっているのだろうか。やはり晴れがましい気持ちでいっぱいなのだろうなあ。

葉室麟「鬼神の如く」(新潮社)

Dsc_5273

 藤沢周平がふるさとの山形県庄内地方を舞台にすることが多いように、葉室麟は北九州が舞台の小説が多い。北九州についてはなじみがないので、その取り上げられる歴史についても初めて知ることが多い。もともと日本史にはそれほど詳しくない。

 今回は江戸時代初期、徳川秀忠から徳川家光に代が変わろうという時代の九州豊前・中津の黒田藩が舞台。あの黒田官兵衛(如水)の孫・黒田忠之が藩主。その家老のひとり、栗山大膳が藩主を謀叛の疑いありと訴えた「黒田騒動」がこの物語である。

 当時幕府は各藩に言いがかりに近い瑕瑾をもとに、取りつぶしや減封を行っていた。実際に、この物語の中でも、加藤清正の封じられた肥後熊本藩はその子・忠正の代に改易となっている。そんなときに藩主に謀叛あり、などと訴えれば黒田藩は危機に瀕する。それでは栗山大膳は藩を潰してまで意地を通そうとする叛臣で大逆者なのか。

11041_158 中津城

 黒田藩が置かれている危機的状況を的確に把握し、自分がなにをなすべきか認識した栗山大膳が、自分の名も命も捨ててかかった大戦(おおいくさ)の顛末は、次から次に、それでどうなるのだろうとハラハラすることの連続で、最後まで飽きさせない。

 竹中采女正(うねめのしょう・竹中半兵衛の息子・豊後府内藩藩主で策士)、夢想権之助、宮本武蔵、天草四郎、柳生十兵衛や柳生宗矩などが登場する。

 主人公はもちろん栗山大膳だが、夢想権之助の弟子で、その栗山大膳の護衛を命じられた深草卓馬と舞の兄妹が物語の進行役のような形をとる。

 栗山大膳はいったい何をなそうとしたのか、この謎は最後に明かされる。いつも葉室麟の小説を読んで、人間が性根を据えてかかるとここまでのことができるのか、と思う。ことをなす、というのはそれほどたいへんなことであるが、それを人間はなすことができると知ることに、なにか明るい希望のようなものを感じる。

2015年8月28日 (金)

曽野綾子「人間の分際」(幻冬舎新書)

Dsc_5266

「なせばなる、なさねばならぬ、何ごとも。ならぬはうぬがなさぬなりけり」という言葉がある。これは私の父がしばしば口にしていた。

「やればできる」と人は言う。「やればできる」と「なせばなる」とは同じことだろうか。

 試験の成績の悪い子が、「勉強したらできたはずだったのに」、と思う。いまは親までそう思う。勉強してもできない子供もいることは誰でも内心知っているけれど、そんなことを言うと袋だたきに遭うのが現代だ。

 練習すれば誰でもプロやオリンピックの選手になれるわけではない。みんな知っているのに「やればできる」、と尻を叩く。

 「できるのにやらない」人に対して「なせばなる」という言葉があるのだろう。あきらめて、なにもしなければできることもできない。しかし人にできて自分にできないことは、人生にたくさんある。

 自分を知ること、それが「自分の分際」を知ることなのだろう。自分に足らないもの、願っても叶わないものがあることを知り、そのことこそが自分自身であることを引き受ければ、人生の不幸の多くは解消する。

本文から
「お金の問題はやはり低い次元の話である。しかし低い次元の部分には却って単純明快なルールを自分で作っておかないと、心が腐ってくる。
  得をしようと思わない、それだけでもう九十五パーセント自由でいられることを、私は発見したのである」

「日本では、安全が普通で危険は例外だと思っていられる。飽食はあっても飢餓がない。押し入れは物でいっぱいで、部屋にあふれた品物が人間の精神をむしばむ。もちろん世の中には、お金も家もなくて苦労している人がいるが、それより数において多くの人が、衣食住がとにかく満たされているが故に苦しんでいる。
  人間の生活は、物質的な満足だけでは、決して健全になれない。むしろ与えられていない苦労や不足が、たとえようもない健全さを生むこともある。
  このからくりをもう少し正確に認識しないといけない」

「私たちは自分のお金で好きな時に好きな所に行ける。嫌な人に会わねばならない時もあるが、たいていの時は会いたい人にだけ会っていられる。多くの場合心にもないことを口にしないで済む。非人間的なほどの忙しさに苦しまない。
  それもこれもすべて自分の小さな力の範囲で「分相応」に暮らす意味を知ったからである。
  その釣り合いがとれた生活ができれば、晩年は必ず精巧に輝くのである」

内田樹編「日本の反知性主義」(晶文社)

Dsc_5294

 物事には人によって無数の見方があり、世界は複雑である。同じことを見ても人によって受け取り方が全く違うのに驚くことがある。他の人は自分と同じように世界を見ていない。その違いはときに絶望的なほどである。

 知性とは、知れば知るほどますますわからなくなる世界の複雑さを引き受けながら、絶望せず、なんとかあるがままに認識しようとする態度のことであろうか。

 だから反知性主義とは複雑さに耐える忍耐力に欠け、世界を単純化し、簡単に説明しようとする態度のこととでもいおうか。

 反知性主義者として典型的なのは、レッテル貼りにいそしむ人々であろう。

 何人かの論客が、求めに応じて自分の考える反知性主義について、そしてますます反知性主義的になっているという観点から日本の現状を論じている。

 このなかに高橋源一郎が書いた、「『反知性主義』について書くことが、なんだか『反知性主義』っぽくてイヤだな、と思ったので、じゃあなにについて書けばいいのだろう、と思って書いたこと」という一文がある。

 書かれている内容も興味深くてしかもわかりやすいのだが、この馬鹿に長い表題そのものにも意味がある。

 「反知性主義」とひとくちに言っても、なかなか一義に論じられるものではない。そのことは多くの人がよく理解していて、その点では知性的である。しかし、なかにはせっせと自分の考える反知性主義を詳細に語る人や、めったやたらにレッテル風の言葉を乱発している人が見られるのは残念なことである。

 つまり「反知性主義」をわかりやすく単純化して説明しようとすると、いつの間にか「反知性的」な文章になりやすいということなのだ。ではくだくだしく長く書けば良いかというとそれでは読む方が耐えられない。

 「反知性主義」について書こうとして、自分の考える「反知性主義」について書くと、「反知性的」になる。では「反知性主義」は語ることができないのか。それを乗り越えている文章が高橋源一郎のものであり、内田樹のものである。もちろん他の論客の中にもその罠から脱したものもある。つまり「知性的」なのだ。

 だから私はこの本を簡単にまとめることができない(うまい言い訳だ)。読んでもらうしかない。ただ、朝日新聞や、テレビのコメンテーター、市民運動(の一部)、シュプレヒコール、共産主義、中国や韓国のマスコミ、ネットの意見、社会の悪を断罪する正義の味方等々(なんたる並べ方!)、品性に欠けることの多いものが私にはなんとなくうさんくさく感じるし、はっきりいえばきらいな理由がおぼろげにわかった気がする。

 別に私が知性的であるなどと主張はしないけれど、そうありたいとは思っているということでご海容(内田樹先生のよく使う言葉)ください。

2015年8月27日 (木)

工事本格化

 昨晩は大阪で友人たちと歓談し、大いに飲み、大いに食べた。

13051415_62 天王寺公園から通天閣を臨む

 三時に天王寺で待ち合わせ、そんな時間でも飲める店に行く。なにせみんな語りたいことがたまっているから、てんでにしゃべって収拾がつかない。ある程度自分の言いたいことを言い終わると、ようやく他の人の言っていることに耳を傾けるようになった。

 五時過ぎに一次会はお開き。私が鶴橋に泊まることから、みんなで鶴橋に行くことになった。鶴橋といえば焼き肉だ。JRの鶴橋駅のホームに立てばいいにおいがする。友人が人気店を検索してそこへ向かう。「空」というその焼き肉店の前には行列がならんでいる。

 それでも次々に席が空いて、それほど待たずに店に入ることができた。私は焼き肉に目がない。だから焼き方にうるさい。みんな承知しているからあきらめている。

 初めて聞いた名前の部位などを面白がって注文する。開高健の「日本三文オペラ」で、ホルモンを食べたことのないうちから美味しさにあこがれたほどであったから、いったん焼き始めたらわき目もふらずに食べ続ける。至福の時である。

 全身が焼き肉のにおいにまみれたところで散会。

 今朝鶴橋のホテルで起きて、京都か奈良に寄ることも考えたが、カメラを持参していないのでそのまま名古屋に帰った。

 予告されていた階上の部屋の工事が本格的に始まっていた。床をはがしてフローリングをやり直す気配だ。これは当分賑やかなことだろう。これでは、昼間は本を読むのは難しい。その代わり、テレビの音を多少大きくしても隣近所に迷惑ではないだろうと勝手に解釈し、映画やドラマを大音量でたのしむことにしようと思う。

2015年8月26日 (水)

豊田有恒「国防音痴が、国を滅ぼす」(祥伝社新書)

Dsc_5268

 他の人が書いた本なら、こんな題名の本は買わない。遙かなむかし、SF少年だった時代、小松左京や星新一に続く、眉村卓、豊田有恒、石原藤夫、光瀬龍などのSF小説を濫読したものだ。なつかしい名前なのでつい手に取った。

 人類という種には、他の生物より過剰に暴力衝動が備わってしまっているから、戦争がなくなることはなく、それに備えるのは当然であるという。

 そもそも平和を求める強い思いから、軍備について過剰なアレルギー反応をする日本は異常だ、という。

 戦争を回避するためにこそ戦争について、そして軍備について知ることは必要なのだという。

 いっていることはわかる。その通りだとも思う。それなのにおじいさん、あまり興奮しない方が好いよ、とも思う。なるほど、知らなかった、そうなのか、ということがないのが残念であった。


 本日、大阪で友人数人と会食するので、もう少ししたら出かける。心配していた雨はようやく止んだ。なんとか傘なしで行けそうだ。久しぶりに会う友人たちと、楽しい時間が過ごせる。

 九月には九州、11月にはキューバへ行くことになるだろう。今回は、その二つのグループの友人が一堂に会する(みなむかしからの知り合いだけど)。両方にまたがっているのは私。わくわくするようなことの、ときどきある日々をしあわせに感じる。

 今日は飲み会に徹するので、着替えと洗面具と本三冊だけで、カメラもパソコンも持参しない。次のブログは明日の夜になるだろう。さあ仕度をしようか。

イルカショーは動物虐待か?

 きちんと見ていなかったので、どこの国の話か(フランスだと思う)明確ではないが、ヨーロッパの話のようだ。イルカやシャチのショーが動物虐待であるという抗議集会が、水族館の前で行われていた。

 イルカやシャチをえさで釣ってショーをさせて利益を得ているのは虐待だというのだ。演技ができないとえさを与えず、イルカやシャチは飢えていると抗議している。水族館側はイルカやシャチは十分えさを与えられて、飢えてなどいないと反論していた。

 シャチやイルカのためにこんな行動をして、自分の正義感に昂揚している人々にあきれた。もちろんマスコミの取材を意識してのパフォーマンスの部分もあるのだろうが、多くは自分が正しくて世の中が間違っている、という信念に輝く顔をしている。

 それならえさ代を自分の生活をかけて払うか?と問えば、まさか、と答えるだろう。間違っているのは世間で、自分ではないのだから。

 彼らにとって、イルカやシャチは人間に見えているかのようだ。もしかすると人間以上なのかも知れない。自分の正義感を振り向ける先として、イルカやシャチよりも優先度の高いものがあるとは考えられないようだ。

 世のなかには不条理とも言えるほど不幸な人々がいる。それほど正義が行いたいなら、その人たちのために一肌脱げば好いのに。みんな自分のことで忙しい。イルカやシャチに同情する余裕があるならできるだろう。それではマスコミが取り上げてくれないから、好い気持ちになれないのか。

 ところでこのような抗議集会をして、水族館の営業に悪影響を与えれば、入場者が減り、えさ代が捻出できなくなって、イルカやシャチが飢えるだろう。そんなことは知ったことではないのだろうな。

 彼らにとって水族館も動物園も、あってはならないものなのだろう。そもそも世界そのもののあり方が間違っていると確信しているのだろう。そうして彼らはぬくぬくとしあわせに生きている。自分たちが俗物そのものであることに気がつくことは決してないだろう。

2015年8月25日 (火)

中国のせいじゃない?

 世界同時株安が上海の株式の大幅下落に端を発していることは誰の目にも明らかなことであろう。だから世界中が今回の世界同時株安は中国発であると報じた。

 しかし中国の政府高官は、これは中国が原因の株安ではない、と強弁した。では何が原因か、ということについては何も語らないので却ってただの言い逃れにしか聞こえない。

99120151 黄昏の中国

 中国の物流統計値や電力消費量のマイナス数値を見れば、今年の中国経済が急激な減速状態にあることは歴然としている。生産が低下し、生産設備の過剰による生産過剰で在庫が増加しているのだ。海外からの資源購入量も激減している。だから鉄鉱石の価格は暴落し、原油も大幅に下がっているのだ。それなのに中国政府は、GDPは相変わらず7%成長を維持している、と言う。

 中国の統計数字に疑わしい点があるとはいままでも言われていたことだけれど、まさか、という思いもあり、違っても誤差程度のことだと皆思いたがっていた。

 それに危機となれば政府が大型の財政出動をして何とかするだろう、という期待もあった。

 中国経済は実体経済よりも投資で膨らんでいる面が大きかった。その最大のものが不動産投資であったが、不動産価格が高くなりすぎて、一般国民に手が出ない事態となってしまい、日本のように不動産バブルがはじける懸念が大きくなったために、中国政府は強引にそれを冷却するとともに、その投資を株に振り向けるという政策をとった。

 今度は株に投資が集中し、たちまち五割以上の高騰を招き、株成金が続出、われもわれもと小金持ちたちはなけなしの資産を株に投資をした。

 しかし企業の実態は先に述べたように生産過剰で内容が伴っていない。株価と実態が乖離すればいつかは下落するのは理の当然である。今のところ高騰前にもどっただけで、もとのもくあみと言うところであるが、多くの個人投資家は高くなってから参入しているから皆損をしている。

 中国政府は再三財政出動で株価を戻そうとした。しかし一時的に戻しても焼け石に水であった。結果的に戦力の逐次投入をしただけということになった。もしかすると前回リーマンショックのときのような4兆元(当時のレートで50兆円ほど)という大型の財政出動をするだけの金がないのかも知れないし、あの財政出動による副作用の大きさに中国政府は苦しんだのかも知れない。

 確かにあのカンフル剤は中国経済をいちはやく復活させ、世界経済の回復にも大きく貢献したけれど、あの金の多くが政府高官たちの懐へ吸い込まれたことも間違いない。シャドーバンクの資金の多くはまさにその金だともいわれる。

99120150 16年前の中国

 中国の経済弥縫策のぼろが露見した。疑わしいだけだったのが、信用できない、という見方に変わった。その結果が今回の株安の原因だろう。

 中国政府はとにかく対策をとるだろう。なんとか副作用の小さい方策を考えだすにちがいない。だから中国経済は簡単には崩壊などしないだろう。しかし長期的に見ればしばらくは苦しい時代が続くにちがいない。日本と同じようなデフレ経済の苦しみを苦しむことだろう。

 そうなれば最もそれに打撃を受けるのは韓国やドイツだろう。特に韓国はたちまちのうちにデフォルトの危機に陥る恐れさえある。韓国は前回の通貨危機による経済危機の時、IMF管理で苦しんだ。それを救ったのが日本との通貨スワップだった。ウオンを日本円で国際的に信用保証したのだ。

 その事実を国内に知らせず、あたかも日本がお節介をしてそれで利益を上げたかのような言い方をした。そして日本との通貨スワップを解消してしまった。

 代わりに中国と日本以上の通貨スワップを設定した。では中国不調のとき、韓国の危機を誰が救うのか。韓国がギリシャの二の舞になる恐れもある。それがなんとなく自業自得にしか思えない。これは中国のせいではなく、日本のせい?

NHK取材班「アフリカ」(新潮新書)

Dsc_3051_2

 まだ私が高校生くらいだったころ(五十年近く昔だ)、商社マンだった叔父が、これからは中国の時代だ、と言った。そして中国のあとはアフリカの時代だ、と言った。

 たしかに中国の時代が来たように見える。しからばアフリカは?

 大阪万博(1970年)のとき、列の長いアメリカ館には行かず、アフリカ館に行った。展示物もめぼしいものがなく、見物の人もまばらであった。そのとき、ウガンダの展示場で椅子に座った大柄な黒人の姿がとても印象に残った。ウガンダの人なのであろう、万博の派手やかなパビリオンの中で、自分たちの展示物が場違いなほどわびしいことを感じていたのだろか。だが手持ちぶさたのその様子とは裏腹に、その眼は力のあるものだった。

 ウガンダという国のことはほとんど知らなかった。そのあとアミン大統領という怪人がウガンダという国を有名にしたけれど、ウガンダという国がアフリカの文明開化の先頭の国であることは間違いない。

 この本ではアフリカをリードする東アフリカの国々が紹介されている。残念ながらウガンダについての取材が少ないけれど、あの「悲劇の国」、ジェノサイドのあったルワンダ(死臭の臭うようなその惨劇のあとの様子は曽野綾子の本で詳しく語られている)が、いまは「奇跡の国」であることを知った。

 ケニア、ウガンダ、ルワンダ、エチオピア、ザンビア、タンザニア、ボツワナ、ジンバブエ、南アフリカについてわれわれ日本人はどれだけ知っているだろうか。私はほとんど知らなかった。

 いますばらしい国でも、明日どうなるかわからないのがアフリカというところだ。しかし優れた指導者がいれば、叔父がむかし言ったように、ポスト中国はこの東アフリカの国々かも知れない。

 それがわかっているから中国は巨額の投資をこれらの国々に行っている。これは日本が行ってきたものを、日本が手抜きをしている間に横取りしたような格好だ。このことについて語るとまた別の話になってしまう。鈴木宗男という人の功罪は再検証する必要があるのではないだろうか。

バンコクの写真

06112324_109

 写真を撮ったらプリントアウトするのが当然だと思っていた。デジタルカメラはもちろんだが、プリンターの性能もよくなった。フイルムから印画紙へプリントするのに匹敵するだけのきれいな写真が簡単に作成できるのがとても嬉しかった。

 フイルムだと自分でカラー写真を現像焼き付けするのは難しい。だから写真屋に頼むのだが、お粗末な仕上がりにがっかりすることが多かった。カメラが悪いのか、自分の腕が悪いのか、本当に悩んだものだ。

 だからデジタルカメラで撮った写真をプリンターでプリントアウトしたときのきれいさに感激した。そしてフイルムスキャナーで昔のフイルムをデジタル化して同じようにプリントアウトしておどろいた。とてもきれいに撮れているではないか。

 街の写真屋のプリントがあまりに雑でひどかったことがよく分かった。安くする競争をして質を落とし、写真屋は自滅した。このことは繰り返し言っていることだ。でも何遍でも言いたくなるほどくやしい。

 そういうわけで出かけるたびに撮った写真をプリントアウトしてきた。エスカレートしてA4サイズで、プロ仕様の写真用紙にプリントアウトするようになったので、紙代もインク代も馬鹿にならない。それでも仕事をしていて定収入のあるときは趣味代として苦にならなかった。いまはきりがないのでほとんどプリントしなくなったけれど。

 気がつくとプリントされた写真が山のようにたまっている。久しぶりにそれを整理して眺めると、一枚一枚にいろいろな思い出があってなかなか楽しめる。しまい込んでおくのはもったいない。

 というわけで、二ヶ月ほど前から自分用の写真のギャラリーを開設した。場所は・・・トイレの壁である。トイレでは本を読むことが多いが、ときにぼんやり写真を眺めることもある。現在展示しているのは九年前に行ったタイ旅行の写真。

 バンコクで爆発事件があった。だからというわけではないが、写真を見て感慨が深い。料理も美味しかった。また友人と行きたいけれど、いまの情勢では危うい。

06112324_136 この色彩と造形。

06112324_096

06112324_140 スコール迫る。

06112324_146 美味そう。

06112324_155 こんなところもいまは爆弾が怖い。

2015年8月24日 (月)

頭痛

 二日酔いで気持ちが悪くなることはあるけれど、頭痛になったことがない。そもそも頭痛というのはほとんど経験していない。唯一の例外は、むかし中耳炎で中耳に膿がたまって内圧が高くなったときだけだが、鼓膜に穴をあけてもらって(グワシャンと凄い音がする)頭痛は解消した。

 もしかしたら人並みに頭痛がしているのに、頭痛を感じる神経が足らないのかも知れない。それは幸いなことだろう。

 頭痛がする。

 ただし頭の中ではなく、頭の表面だ。手でさわるとコブができている。さわると痛い。それで思い出した。温泉で庇に頭をぶつけたのだ。檜風呂の足元が温泉ですべる。それに気をとられていたら、しきりの庇に頭を打ったのだ。

 普通の人ならたぶんあたらない。六尺を超える身長のせいだ。ふだんは本能的に頭上の危険を回避するのだが、年齢とともにセンサーが劣化してきたようだ。毛髪が些少になっていることもダメージを大きくしている。

 ボンクラ頭に多少の刺激は必要だが、劣化しつつある中身にさらにダメージを与えるようではたいへんだ。気をつけよう。

通行止め

国道168号線は新宮から本宮、十津川を通って奈良県五条へと通じるメイン道路である。この道路が十津川で崖崩れのために通行止めだという。


できれば十津川へいってみたいと思ったので、せめて熊野川のダムあたりまで行けないだろうかと本宮から北上してみた。崖崩れはどんな具合か見に行こうという野次馬気分もあった。

Dsc_5242

この橋を渡って山道を行けるところまで行く。

Dsc_5245

思ったよりずっと手前で通行止めとなっていた。今年の台風九号(?)の豪雨で崖がくずれたそうで、復旧の見込みは今のところないそうだ。

Dsc_5248

この「七色」という小さな休憩所までは行ける。愛車のアテンザ。他に車は全くない。当たり前だが。

Dsc_5252

休憩所の横から熊野川を見下ろす。こういう道を走ってきた。

Dsc_5013

「七色」といえば、初日に走った北山川(熊野川の支流)沿いの国道169号線にも「七色峡」という景色のよい場所があった。

Dsc_5015

水の色が青く、美しい場所だったが、地図で見ると全く違うところだ。

Dsc_5257

通行止めの場所から引き返し、168号線の支線にあるこの道の駅「ほんぐう」で一休み。ソフトクリームを頼んだら、ボリュームたっぷりでしかも美味しい。甘いクラッカー式のコーンなのがちょっと残念(ウエハー式の味のない方が好き)だが、大満足。糖尿病で甘いものは控えないといけないのだが、旅先では気にしないことにしている。

これで熊野への小旅行の話はおしまい。

2015年8月23日 (日)

反知性主義

Dsc_3836

 森本あんり「反知性主義」(新潮選書)と内田樹編「日本の反知性主義」という本を並行して読み始めた。

 反知性主義者とはどのような人々を指すのか。反知性主義というから、知性などというものを侮蔑する老荘的な考え方かと思うが違う。反知性主義者は、自分では一般大衆よりも知的であると確信している。そして知的であろうと努めている。もちろん自分を反知性主義者などというはずもないから、外部的な呼び方である。

 問題は、世界を複雑系としてではなく、シンプルに解釈する態度にあるようだ。世の中の現象を、原因と結果、正義と悪など、誰にもわかりやすく解釈することができると信じている。

 まだ本当に読み始めたばかりだから、とりあえずわかったのはこの一つだけ。けれどこれだけでも、あれのことか、これのことか、とわくわくしてくるではないか。

 当分これで脳みその洗濯ができそうだ。

 昨日就寝しようとしたら、急に今までに経験したことのない不安感が押し寄せてきて眠れなくなった。

 孤独にはかなり耐性があると自負している。それなのに孤独感が突然猛烈に迫ってきたのだ。理由はいくつか考えられるけれど、そんなこと、いままで何とも思わなかったのに。

 眠れないからしばらく音楽を聴きながらゲームをした。今朝はさいわい何ともない。私も人並みに神経があるらしいので安心した。

Dsc_3815

瀞峡

十数年前に子どもたちと遊覧船による瀞峡巡りをしたことがある。そのときは小雨交じりのあいにくの天気で、熊野川には川霧がたちこめていた。


久しぶりに訪ねた今回はさいわい雨ではない。そもそもこの熊野地方は日本でも有数の多雨地方だから、雨に降られるのは珍しいことではない。

さあ出発

Dsc_5152

ジェット船の船内。川の水深が浅いところが多いので、特別の構造をしているそうだ。上瀞まで20キロ以上の距離を約50分で行くからけっこう速い。帰りはくだりなのでさらに早い。現地での散策を含めて往復2時間弱。

水しぶきが激しく立つのに窓を開けていてもかかることがないのが不思議だ。

Dsc_5153

熊野川をどんどん上流へ。

Dsc_5165

目の前で鮎釣りをする人がたくさんいる。

Dsc_5172

釣れるかな?釣りは嫌いではない。

Dsc_5181

背後の杉の林が熊野らしい。

Dsc_5185

こんな急流がたくさんある。昔はもっと水量が多く、筏で下ったらしいが、いまは上流にダムができて筏くだりはできなくなったそうだ。

Dsc_5214

ここが遊覧船の終点。しばらくあたりを散策する。

Dsc_5201

崖の上の旅館。建っている場所は奈良県。左手の吊り橋を渡ると和歌山県。旅館の対岸は三重県。

Dsc_5223

さらに少し上流を船で案内してくれる。昔はただ引き返したはずだ。いろいろな岩に名前をつけて何やら説明していたが、あまり興味がない。この岩は獅子岩。そう言われてみれば・・・。

Dsc_5226

こんな景色がそこら中にある。ただ眺めた。奥瀞はさらに上流だが、それは特別の遊覧船のみが案内してくれるらしい。

ここまでで十分満足。

2015年8月22日 (土)

再び熊野本宮大社

二日目、瀞峡へ行く前にもう一度熊野本宮大社に参詣。寄りたい用事があった。


四カ所の参拝についてあらためて順番を記す。

一番目に参詣するのは、向かって右から二番目にある

Dsc_5141

二番目に参詣するのは向かって右から三番目にある

Dsc_5144_2

三番目に参詣するのは向かって一番左端にある

Dsc_5146

最後が一番右端の天照大神。

Dsc_5142

つまり熊野本宮大社の主神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)ということか。

ここに「平家物語」に記された、平重盛が参詣したときのくだりが立て札になっている。

Dsc_5143

父親の平清盛を諫めたい気持ちと、父に従わなければならない子としての立場を「忠ならんと慾すれば孝ならず、孝ならんと慾すれば忠ならず」と悩んだことが書かれている。

Dsc_5145

ここは熊野速玉神社や那智大社のような丹塗りではないが、この黄金色の釣り灯籠が華やかさを添えている。

おまけ

Dsc_5147

庭の片隅に南高梅が植えてある。初春なら梅の花が香っているだろう。


熊野速玉神社

Dsc_5097

熊野速玉神社参門。

Dsc_5098

ここが全国にあまたある熊野神社の総本宮らしい。

Dsc_5102

たたずまい。

Dsc_5107

本社正面。

Dsc_5111

宝物館の脇に顔の真っ黒な大男が立っている。よく見たら弁慶ではないか。そういえば弁慶はこの地方の出身だったはずだ。

Dsc_5116

神社のすぐ裏手は熊野川。ここはもう海に近い。かすかに潮のにおいがする。

熊野川は近畿地方最大最長の川。源流は大台ヶ原だが、十津川からの流れと北山川からの流れも合流している。とにかく本宮から新宮あたりの川幅はとても広い。

2015年8月21日 (金)

熊野那智大社

Dsc_5078

熊野三社の二番目として熊野那智大社へ行った。

那智の滝を背景とするこの神社は山の上にある。滝のある場所から階段を登って参拝する人が多いが、滝の散策をパスして車で山上まで登ることができる。ただし道は狭く急である。

Dsc_5060

那智大社本殿。

Dsc_5066

シンボルの八咫烏。

Dsc_5067

ここにも八咫烏。すべて三本足。

Dsc_5069

那智大社の隣にある那智山青岸渡寺。

Dsc_5072

アップで。こちらの方がたたずまいが好い。

このあと三重の塔へ。

Dsc_5088

三重の塔に拝観料を払って登れば那智の滝の滝壺まで見ることができる。ちょっとピンぼけ。

Dsc_5083

おまけ。熊野道はこんな階段を歩いたらしい。こりゃハードだ。後白河法皇は何と三十回以上も熊野詣でをしたという。
もちろん自分の足で歩いたわけではないのだろうが。

熊野本宮大社と那智大社は四十キロ以上離れている。次に行く熊野速玉神社は那智大社に近い。それでも簡単に歩いて行ける距離ではない。


昼からビール

Dsc_5258

パソコンの時間は14:42。

本日はジェット船で瀞峡巡りをしてきた。帰ってすぐに湯を浴びて汗を流し、ビール。ビールの向こうに見えるのが清流、大塔川。

眺めていると、

Dsc_5128

こんなのや

Dsc_5130

こんなのや

Dsc_5261

こんなのが流れていく。

好い気持ち。暑い中お仕事中の人、すまぬ。

熊野本宮大社

熊野三社の一つ、熊野本宮大社は川湯温泉や湯ノ峰温泉に近い。


Dsc_5027 鳥居と参道

Dsc_5030

見かけほど急でもなく段差もきつくない階段なのに、突然膝が痛くなった。コンドロイチンが不足しているのか。しばらく我慢していたらおさまった。

Dsc_5034 参門

Dsc_5035 好いたたずまい

Dsc_5041 正面から

屋根が傾いている。

Dsc_5049

参拝は四カ所。まん中が一番最初、次に向かって左側、二つならんでいるのでまず右側から、そして一番向こうで三番目、最後に一番こちら側の天照大神に参拝する。

Dsc_5051

この厄除けのお札を購入した。

Dsc_5053

熊野神社のシンボル、八咫烏(やたがらす)の石板と大黒石。足が三本では歩きにくかろう。

このあと那智大社に向かう。

2015年8月20日 (木)

朝は雨

Dsc_5002

早朝から名古屋を出発し、伊勢道から清和多気インターを下りて、国道166号や169号を乗り継いで熊野三山に詣で、川湯温泉に投宿した。

三重県の山の奥から奈良県の北山村を走る道は、センターラインがないところが多く、山道なのにガードレールもないところもしばしば。乗用車同士でもすれ違いが難しいことが多い道をダンプカーが次々にやってくる。生きた心地がしない。

そうなのだ、この辺はこんな道が多いのだ。安全な道を選べばよかった。愛車のアテンザは車幅がとにかく大きい。自他共に認める運転下手の私がこんなでかい車でこんな狭い道を、しかも雨が降るなかを走ったら危険ではないか。

北山と言えばおお、北山杉の産地ではないか。見わたすかぎりの深い山々に杉がぎっしりと植えられている。

車窓から見る景色はよいのだが、なにせ雨が降り続いている。カメラが濡れてしまう程激しく降っている。今度天気のいい日にもう一度・・・イヤイヤ二度とこんな怖いところはごめんだ。

途中で天川村への分岐があった。内田康夫の「天川伝説殺人事件」の舞台であり、一度訪ねたいと思っているけれど、こんな細い道を行くのなら勘弁して欲しい。

昼を過ぎたら雨は上がった。熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉神社を参詣。それはあとで。

Dsc_5120

窓からこんな川の景色が見える宿に着いた。さて一風呂浴びるとするか。

2015年8月19日 (水)

出かける

 明日から二泊三日で和歌山県新宮の近くの川湯温泉に出かける。一昨年の七月に事故で愛車をクラッシュさせた(私はクラッシュしなかった)のは、熊野の近くであった。だから三重県から和歌山県方面は鬼門として、行くのを敬遠していたけれど、思い切って出かけることにした。

 那智大社や熊野本宮は大昔、一度訪ねたはずなのだが、写真もなく、記憶もあまり鮮明ではない。今回がほとんど初訪問である。天気予報では当初なんとかもつ見込みだったのに、どうも台風の影響からか明日は雨のようだ。

 もし写真が撮れればよし、だめなら温泉三昧で、宿で本でも読んで過ごすことにしようと思っている。

 ネットのアクセスが急に遅くなった。どうしてだろう、と思ったら、今月の通信量が7Gを越えている。確か私のモバイルルーターの契約では7Gを越えると、スピードが128Kにダウンしてしまうはずだ。まさかそれを越えることはないと思っていたのになんたることだ。これでは今月中はずっと128Kで使用しなければならないのか。うーん困った。これでは昔のISDNより遅いではないか。やはり家では光を使う方が良いのだろうか。マンションだとあまり感激的に速くなかったから、とっくに解約してしまった。今月だけ通信量が多かったと思いたいけれど・・・。

「ふるさと」(「カルテの向こうに」から)

 紹介された外科病棟の患者さんの診察を終えて、エレベーターを待っていると、「先生、先生」と言って呼び止める人があった。
「先生、さきちゃん、元気でしょうか。先生の本に出てくるさきちゃんです」
「さき」というと、学生時代の下宿屋の女主人(あるじ)が谷口咲さんだった。でも、その人のことは本には出てこない。すると別のさきちゃん、と思いを巡らせているうちに気がついた。岡山の長島愛生園に住む、南さきさん。
「ええ、そうです。うち、同じ小学校に通っとって、一年下でした。さきちゃん、背が高うて、ええ子で、勉強もようできて。遠足の日の朝、トラックが来て、さきちゃんトラックに乗せられて、遠い診療所に連れていかれた。皆がトラックの後を追っかけて、『早う帰ってきてよ』って言ったんです。さきちゃん、元気でしょうか」
 ハンセン病の診療所に、鳥取を故郷にする人たちが、いまも数十人いる。でも、その人たちの安否を尋ねる人は、誰もいない。ぼくは初めて尋ねられた。
「元気だと思いますよ。あなたの名前と電話番号を、さきさんに伝えておきます」というと、その人は、「うち、主人が癌で、もう食べれんで、ずぅーと病院に泊まり込みです」と声を落とした。「忘れとると思うけど、森下みちがそう言って尋ねておったって、伝えておいてください」
 4月の末の連休の日、ぼくは小学五年生の末娘を連れて、瀬戸内海にある長島愛生園に行った。橋の上から、カキ棚の浮かぶ瀬戸内海を見渡して、「ワー、きれい」と娘は叫んだ。
 本土から瀬戸内海の長島へ行くには、かつてはフェリーに乗らなければならなかった。日生(ひなせ)港から四十分、虫明港からだと十五分かかった。隔離されている島という感じがあった。本土と長島の距離は、瀬溝と呼ばれる一番短いところでは、たった三十メートル。だのに、五十八年間にわたって橋はかけられず、隔離は続いた。「人間回復の橋を」という患者自治会の十七年間に及ぶ架橋運動が実って、橋が架かったのが三年前(1987年)だった。橋が架かって、バスが走り、速達や宅急便が一日で届くようになった。
 鳥取を出て二時間四十分で愛生園に着いた。
「意外に近いじゃん」と末娘。潮干狩りに来ている人たちがいたが、園内は人影も少なく、静かだった。
「どうぞ。お嬢さんですか。あがってください」
 夫婦舎団地の一角に、南さきさんは住んでいる。庭にアザミや山ブキやボタンが咲いていて、その向こうに瀬戸内海が広がり、その向こうに小豆島が大きく見える。「お久しぶりですね」と言って、お茶を淹れてくださる。
 およそ十年前、ぼくはさきさんから、ハンセン病にかかってからの半生について聞かせてもらったことがあった。さきさんのお父さんもハンセン病で、家で亡くなり、四人姉妹の三女だったさきさんは、同じハンセン病にかかった次女と二人で、昭和十三年に長島愛生園に収容されたのだった。次女である姉は、昭和十九年に腎不全のために島で亡くなった。さきさんは元気で、農芸部で知り合った男性と結婚する。さきさんの一番上の姉の子(甥)も発病するが、治癒し、同じ病気を経験した女性と結婚、社会復帰して、子供もできている。
「私ね、このあいだ、甥坊主の車に乗せてもらって、鳥取に帰ってきたんですよ」
 父も死に、「おまえが帰ってくるまで、この家を守っている」と言い続けた母も死に、家も土地も他人の手に渡って、さきさんの故郷の家は、すでになかった。
「でもね、あたりのたたずまいや、川面の湯気や遠くの山々がね、やっぱりなつかしいのよね」
 瀬戸内海を背にして坐っていた兵庫県出身の宮部修さんが、「最近は土、土への郷愁ですね」と言う。園内は昔から、時代先取りの夫婦別姓だ。宮部さんは最近、四十七年ぶりに弟に出会っている。発病して故郷を去ったとき、弟は三歳。対面したとき、不思議な親しみをお互いに覚えたそうだ。いま、弟に、四十七年間の療養所生活を、手紙として書き送っている。
 さきさんがジュースやお菓子を持ってきてくださる。娘はジュースを飲み、イチゴも食べる。
「政府がもしね、隔離してすまなかった、あらゆる保障はするので、どこでもいい住み直して下さいと言ってきたら、どこに住みたいですか」とぼくは聞いた。宮部さんは、「うーん、やっぱり、故郷の神戸にしてくれって言うかもしれんな」 と答えた。さきさんは、「うちは違うな。ここでいいっていうか、ここがいいですって言うと思うな。昔はいろいろ思ったけど、ここが自分たちの場じゃないかって思うし、ここでなきゃ、実際暮らせないしね」と答えた。
 生きがいは、と尋ねると、ご主人は『弟への手紙』いう小説を完成させたい、と言ったが、さきさんは、選択したり、料理したり、花を作ったりすることだと言った。
「私、連絡をいただいてから、森下みちさんのうちに、何回か電話かけたんです。でも誰もでなかった。元気にやってるって、伝えてください」
 別れて、車で静かな園内を走ってみた。海が見渡せる道の端に立っている盲導響から、唱歌の『ふるさと』が静かに流れていた。
 愛生園から帰って一週間くらいして、病院の玄関で森下みちさんにバッタリ会った。ご主人が亡くなり、葬儀を済ませ、書類や支払いのことで来院したらしい。「さきちゃん、とても元気でしたよ」と言うと、「そうですか、よかった。うちの話、さきちゃんにだったら聞いて欲しいな」と言って、森下みちさんはちょっと目をうるませた。
 長島愛生園については、私の尊敬する神谷美恵子さんの著作で詳しく知っている。「神谷美恵子著作集」全十巻プラス補遺二巻(みすず書房)は私の宝物である。

リフォーム

 残念ながらわが家をリフォームするわけではない(やりたいところはあるけれど先立つものがない)。

 昨夕、いつものようにぼぉーっとしていたら、チャイムが鳴った。戸口に出てみたら工務店のひとであった。マンションのわが家の真上の階の部屋のリフォームをするので挨拶に来たのだ。全面的な改装なので、十月はじめまで工事が行われるという。

 多動性症候群ではないか、と冗談で言っていた階上の人は、とにかく物音がうるさかった。鈍感なこの私がイライラするくらいだ。それが数ヶ月前からぴたりと物音がしなくなり、あとで引っ越したことを知った。安らぎの日々が続いていたが、再び喧噪の日々に変わるらしい。

 わが家も工事をしたことがあるからお互い様だ。我慢しなければならない。できれば音を階下に伝えにくいような防音のフローリングにして欲しいものだ。そして願わくば工事のあとで入居する人が多動性症候群の人でないように。

 九月中はなるべく家にいないように出かけ倒すことにしようか。それにも限度はあるけれど。

2015年8月18日 (火)

坊主憎けりゃ・・・

 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、とことわざに言う。

 韓国の男性アイドルグループのステージ衣装に日本文字がデザインされていたことで、激しいバッシングを受けて謝罪した。こんなことでバッシングにさらされるとは狂気の沙汰としか思えない。

 旭日旗に感情的な反感を持つことには、異常さは感じるものの、理解できないとは言い切れないものがあるが、今回はただの日本文字である。これでは鬼畜米英を叫び、横文字をすべて禁止した戦時中の日本社会の狂気と同じものしか感じられない。

 いまの韓国社会は、戦時中の日本と同じような、「空気」で言論を統制している社会なのかも知れない。そう考えると得心のいくことが多い。まともな人がまともな意見を言いにくい社会は不幸で危険な社会である。北朝鮮と同じではないか。私は朝日新聞的正義には同じ臭いを感じるけれど、過敏に過ぎるか。

 ところでどうして坊主が憎まれるのか。同じように疑問を持つ人が多いらしい。ネットで見てみたら、答えが見つかった。江戸時代、寺が幕府の統治機構に組み込まれて権力を持ち、その力を濫用して僧侶が憎まれることが多かったためだという。なるほど、本当に憎まれていたのか。

せっせと初期化する

 WOWOWやNHKBSが放映する面白そうな映画をBD(ブルーレイディスク)に録画する。いまは見終わったら初期化して再び録画できるBD-REディスクを使っているので、一定枚数あればそれほど新しいものを買う必要はない・・・はずなのだが、録画する本数が観て初期化する枚数より多いので、録画されたBDの枚数はひたすら増殖している。

 アキレスと亀ではあるまいし、これでは永遠に追いつくことができない。

 数百枚ある録画ディスクの中から二百枚あまりを再チェックして、できればすぐにでも観たい、と思わない優先度の低いもの五十枚あまりを思い切って初期化した。迷い出すと残したくなる。目をつぶって作業した。

 残りについても再チェックをしようと思っている。お陰でだいぶゆとりができた。

 そもそもどうしてこんなにたまってしまったのか。全部観ることなど多分不可能なのに。逆に言えば、どうしていつか観ることができるだろうと思ったのだろうか。

 時間には限りがあり、人生には終わりがある。如何に時間を効率的に無駄なく使っても、できることには限度がある。

 人はそれをつい忘れてしまう。使い切れないものをため込んで満足していても、使い切れないというその事実に気がつくときが来る。いや、全く気がつかずにひたすらため込む人もいる。そういえばゴミ屋敷の住人のあの狂気こそその典型的なものだろう。

 少しずつ片付けなければ、と部屋を見回す。しかし、多分またゴミ屋敷の狂人の如く、いつの間にか使い切れないものをため込んでいることだろう。

ドラマ三昧(2)

 イギリスドラマ「主任警部 アラン・バンクス」シーズン4 全六回。シリアスな警察ドラマ。

 モノトーン調のやや暗い映像と、ほとんど笑わない主人公のバンクス主任警部のキャラクターが大好きである。全三話、それが前後編に別れているので六回の放送。バンクスの両親との関係や職場の部下たちとの関係が事件と同時に描かれていて、人間というものを深く考えさせてくれる。

 ほとんど感情を表に表さず、口数も少ないバンクスが、稀に感情を表にだすとき、観ているこちらもびくっとする。激しい思いが伝わるからだ。今回のシリーズでは母が急死し、もともと関係の良くない父親との行き違いがバンクスを激しく苦悩させる。さらにラストでは、ひそかに愛する人に初めて思いのたけをぶちまけたことが、さらに自分と相手を悲しませることになるという悲劇が待っている。

 「死の臓器」全五回。
 富士山の樹海を取材していたテレビクルーが女性の死体を発見する。一見自殺にしか見えないその死体が、思わぬ大きな事件を背景にしていることが、クルーのリーダーである記者の取材で次第に明らかになる。

 腎臓移植、そして臓器売買、その実態が暴かれていくのだが、医療という現場と、患者の要請と、それに対応できない現実。何が正しいか間違っているか、二元論的にはこたえられない究極の世界が描かれていく。

 主人公の記者に小泉孝太郎(好演)、同僚に小西真奈美、腎臓移植を次々に手がけ、公的に認知が定まらない手術法を推進する医師に武田鉄矢が扮する。武田鉄矢は絶品。この人本当にうまい。

 ドラマは臓器移植や臓器売買がテーマなのだが、同時にマスコミとは何か、マスコミのかかげる正義とは何なのかが鋭く問われている。正義か悪かと言う論法では裁けないことを、正義の名のもとに一方的に断罪する権利がマスコミにあるのか、という問いかけは重要だ。マスコミは事実を報道することを本分にすべきで、正義の味方になってはいけないこともある。

アメリカドラマ「リゾーリ&アイルズ」シーズン5
 ボストン市警女刑事ジェイン・リゾーリと主任検屍官モーラ・アイルズのコンビが事件を解決していく。こちらはイギリスドラマと違って、事件は陰惨だが、会話はウィットに富んで軽快。私は特に男っぽいリゾーリが大好きだ。こちらは録画はするが、録りためずにすぐ観ることにしている。面白すぎて待ちきれないのだ。いまは全十八話の第六話まで観たところ。 

NHKBS時代劇ドラマ「一路」
 浅田次郎原作。この人は読者を面白がらせる天才だ。まったく経験がないのに参勤交代の大役を命じられた若者が、次々に降りかかる難題を解決しながらつとめを果たしていくというストーリー。全九回のうちまだ半分までいっていない。これもそのつど観ている。苦難が若者を成長させる。このような成長ドラマはなんだか自分の背が高くなるようなよろこびを、観ていて味あわせてくれる。

 こんな風にドラマを見ていたら映画を観る暇がない。困ったものだ。

2015年8月17日 (月)

徳永進「カルテの向こうに」(新潮社)

Dsc_4981
 徳永進医師についてはだいぶ以前に書いたことがあるけれど、気がつくと彼の本が十冊近く手元にたまっている。久しぶりにその著書を読んだ。

 彼を知った(もちろん会ったことはないし知人でもないけれど)のはテレビドラマだった。彼を演じたのが平田満、徳永夫人は平淑江(この人はいわゆる美人ではないかも知れないけれど、私は美しい人だと思う)だった。

 病院に勤める医師としてその臨床で出会った患者たちとの関わり、そこから患者のたどった人生というドラマがうかがえる。徳永進という人が、そういうものを聴き取り、引き出し、感じ取る能力があるから短い文章の中にそれを伝えることができるのだろう。さいわい私も多少なりともそれを感じ取ることができる。

 いろいろなエピソードが語られているけれど、その一つを引用してみる。

「死んでもええぞ」(「カルテの向こうに」から)
 七十八才のみきばあさんが、下血のために救急車で運ばれてきた。輸血し、血圧もよくなり冷や汗がひくと、「下血だなんて、陛下と同じだね」と、看病をしていた八十一才の姉さんと七十五才の妹が言って、笑った。「便の色がよくなったよ」「お茶飲むかい」「すまんなあ、世話させて」「心配せんでええよ」「わたしが紙おむつを捨ててくるから」「ありがとう」
 仲のいい高齢三人姉妹だった。

 みきばあさんを初めて診たのは、八年前であった。体がだるい、と言って外来にやってきた。肝硬変だった。それから一ヶ月に一度の割合で通院していた。「肝臓の検査はどんなあな。あがっとりゃしませんか」と口ぐせのように尋ね、「大丈夫、全然心配ないよ」と、ぼくは検査値も見ずに口ぐせのように答えた。
 診察が終わるとばあさんは、「先生、廊下に置いときましたから、持って帰ってください」と、耳元で、大声でささやいた。廊下には黒い帯でしばった段ボール箱が置いてあった。土のついたジャガイモ、タケノコ、卵百個、油揚げ五十枚が入っていた。油揚げは、みきばあさんの住んでいる谷の村の豆腐屋さんが作っているもので、ぶ厚くてうまい。

 みきばあさんが「このごろやせる」と言ったのは二年前。「心配ないよ、年だもん。誰でもやせるよ」と言いながら、腹部超音波の検査を指示した。返事には、「肝癌が疑わしい」とあった。すぐに入院し、血管撮影で確認した。抗がん剤を冠動脈に注入し、エタノールアルコールを腫瘍内に注入すると、直径三センチの腫瘍は直径二センチに縮小した。ばあさんは元気を取り戻し、「命拾いしました」と言って退院していった。

 みきばあさんの下血は少しずつ続き、輸血しても顔色はよくならなかった。内視鏡検査では、食道静脈瘤は軽度、胃から十二指腸球部までには出血性潰瘍はみられない。球部より向こうの出血か、チビチビした食道静脈瘤からの出血が考えられた。
「どんなもんでしょう、おばあの具合は?」
 まるまると太った長男が廊下で聞く。長男は五十五才、谷の村で散髪屋をしている。説明をすると、「つまりもう、耐用年数がきたぞ、とこういうわけですな」、あっけらかんと言う。その大雑把なとらえ方に思わず頷いた。

 入院五日目、下血もなく、高齢三姉妹は団らんの時を過ごしているように見えた。
「先生、もう死ぬってこれが言いますけど、そんなこたあありませんわなあ。わしが先だもん」
 と姉さんが言うと、みきばあさんはこっちを向いて、「わしゃあもう死んでもええ。先生になあ、死に水とってもらったら、それでもう言うこたあない」と言う。顔色は悪く、頻脈だった。

 その日の夜の八時、ぼくはみきばあさんの病室にいた。そのときばあさんは苦しそうにしはじめ、そして大量の下血と、膿盆一杯の血を目の前で吐いた。姉と妹がティッシュペーパーやタオルで、顔や枕についた血を、「かわいさあに、かわいさあに」と言いながら一生懸命に拭いた。手首で触れていた脈が、スーッと消えていった。「濃厚赤血球十パック!輸血がくるまでヘスパンダー。酸素を五リットル、エホチール1A側管、ソルメド一グラム、気管チューブの挿管の用意をして!」と、次々に看護婦さんに指示をした。「皆さんに至急に連絡を取ってください」と姉と妹にも言った。

 みきばあさんの呼吸は苦しそうになり、みるみる下顎呼吸にかわり、いまにも止まりそうだった。救急カートが運ばれてきた。点滴を全開で落とし、挿管した。呼んでも強く刺激しても反応がなかった。呼吸器が来るまで、ひとりの看護婦さんがアンビューバッグを押し、もう一人の看護婦さんが心マッサージを始めた。すぐに濃厚赤血球がきて、パンピングで三本を注入した。注入し終わるころ、レスピレーター(人工呼吸器)が到着した。「スーストン、スーストン」と言う音が病室に響きはじめた。
 五本目の血液を注入していると、ドアが急にあいて、慌てた顔の長男が入ってきた。夕方に見た病室と全く違った気配の病室をみて、「そうか」と呟いた。そしてつかつかとみきばあさんのベッドサイドに行って手を握り、目に涙を浮かべた。
「おばあ、来たぞ。皆がおるぞ。よし、死ね。手を握っとるけえな、死ね。もう、心配せんでもええぞ。な、死んでもええぞ」
 と言って歯をくいしばった。亡くなっていく人の前で、「死ね」と声をかける家族に初めて出会った。

 「脈、触れます」と看護婦さんが言った。輸血の効果が出てきた。止まりそうに見えたこきゅうは、止まらずにいつまでも続いた。みきばあさんは、首と手を動かした。「わかるか?お祖母さん」と二十六才の孫息子が耳元で叫ぶと、おばあさんは頷いた。
「わかる!わかっとる!」と皆が言い、次々にみきばあさんの目の前に顔を並べた。「がんばれよ、死ぬなよ、あしたはズガニ取って来て食わせたる」と孫息子が泣きながら言う。ズガニは谷の川で取れるカニで、みきばあさんはズガニをご飯と一緒に炊いたのが大好きだった。

 呼吸器を止め、抜管すると、みきばあさんは声を出した。「わかっとるで、ありがとう。おかあちゃん、おるか。あんやはおるか、姉さん、おるな」
「生き返った。なんだあ、テレビドラマみたいだなあ」と長男が呟いた。次から次に親戚の人たちが自分の名を言い、手を取った。

 一時間後、再び血圧は下がり、仲のよかった姉や妹、そして孫たちに死に水を取ってもらい、病室一杯の人たちに見守られて、午後十一時五十五分にみきばあさんは息をひきとった。

ドラマ三昧(1)

 本を読む集中力が足らず、このところドラマ三昧である。NHKBSとWOWOWのドラマを主に録画して、あとで一気に観ることにしている。もちろんドラマのうちのお気に入りのもののみを選んで録画しているのだが、どのドラマも良くできていてインパクトがあり、一つ観るごとにずしりとこたえる。

イギリスドラマ「ブロードチャーチ」続編、全八話。
 前回、少年の殺人事件を巡って謎が謎を呼び、ブロードチャーチの住民たちの闇が次々に明るみに出され、誰が犯人でもおかしくないような展開の中で、ついに犯人が確定し、本人も自供して事件は解決した・・・はずなのに、犯人が自供を翻して無実を訴えたためにふたたびブロードチャーチは混乱の巷と化す。

 前回のこのドラマの紹介のときに言及したけれど、捜査に当たった警部があまりにお粗末で、独りで苦悩し、独りで体調を崩し、混乱の種をまいた。それはこの警部がこの事件の前に捜査に当たった事件が未解決で、それが尾を引いているのだが、今回はその事件の謎も同時に暴かれていく。

 今回は無罪を主張する犯人の弁護についた優秀な弁護士により、ブロードチャーチの住民たちすべてが犯人の有罪を確信しているにもかかわらず、裁判は思わぬ方向に展開していく。

 弁護士は捜査の不備を次々に暴き、次第に目撃者の証言も、犯人の自供も、証拠として採用されなくなっていく。弁護士の仮定の話があたかも事実のように陪審員に印象づけられていく。

 これもすべてお粗末な警部の不手際のなせるわざなのだ。だから観ているとイライラがつのってくる。

 かたや告発側に立つのはシャーロット・ランプリングが演じる弁護士。引退を決意していたけれど、犯人の弁護士が自分のかつての部下であること、真偽よりも勝ち負けにこだわる人物であることを知っていることから、あえて不利を承知で告発側の役割を引き受ける。

 全八話はとにかく長い。被害者の家族や住民たちの苦悩する姿は見るに堪えない。だから裁判の意外な結果、そしてドラマの結末に「当然だ」という思いとともになにか重いものが残された気がする。

 「さらば美しき人」という衝撃的な映画で出会って以来、シャーロット・ランプリングは強烈に私の記憶に残されている。ずいぶん歳をとったけれど、以前よりもさらに不思議な魅力にあふれた女優である。彼女に再び巡り会っただけでもこのドラマを観た甲斐があった。

 彼女はどこか倍賞千恵子に似ていると私は思うがどうだろうか。 

2015年8月16日 (日)

昨日は終戦記念日

 昨日は終戦記念日だった。四年前に死んだ父は専門学校を出てすぐに中国に行って、戦争が終わるまでほとんど中国にいた。満鉄系の会社に勤めていたけれど、日中戦争以来一度ならず招集されて、従軍していた期間の方が長かったようだ。

 主に華北地区、山西省のあたりを転戦していたという。終戦のときには寡兵で山に立てこもっていた。八月十五日を境にまったく敵から弾が飛んでこなくなったそうだ。そして「戦争は終わったから投降するように」というビラがたびたび降ってきたという。当初は謀略だ、として疑っていたけれど、食べるものもほとんど尽きていたので、約一ヶ月後に皆で相談して山を下りた。

 約一年抑留されたのち帰国した。

 父はほとんど戦争の話をしなかったから戦争時代の父をほとんど知らない。語学の学校を出て中国語が得意だった父は、単身で支配地ではない中国の街などに潜入したこともあったらしい。私の顔の洗い方が中国人みたいだと笑ったあとで、顔の洗い方一つで日本人と見破られる、などとポツンと言ったことがある。

 戦争を語り継ぐ、などというが、従軍した戦地での経験は語り継げるようなものではないのかも知れないと思っている。

 今月死んだ母はしばしば戦争時代の話をした。家族で暮らしていた千葉の家は空襲で焼尽した。祖父母と母と叔父たち三人は焼夷弾の降るなかを逃げ惑い、奇跡的に全員生き残った。目の前で直撃を受けた人も見たという。翌朝焼け焦げた数多くの屍体を見た時には感情が麻痺して何も感じなかったそうだ。友だちも死んだ。

 母は大事にしていたアルバムすら持ち出せず、わずかに数枚の写真のみが残った。それが戦争までの家族のすべての形のある記録である。  

 そのあと疎開した九十九里に近い町から千葉の勤め先に通う母の乗った列車も米軍の艦載機に何回か襲われた。子どもを狙って弾を撃つ飛行機も見た。子どもだとわかっていて銃撃したのだ。叔父のひとりはパイロットの顔をすぐ間近に見た、と言った。

 それでもふだんの生活はそれほど暗いものではなかったようだ。祖父からは終戦よりだいぶ前に「この戦争は負けるだろう」とひそかにいわれていたという。終戦の日、灯火管制が解かれ、おおいをつけずに灯りをつけることができて、ようやく終わった、とほっとしたそうだ。

「安倍談話」批判の批判

 拙ブログをブログを読んでいただいている藤子さんのコメントにこたえて書いた私のコメントが、私のいまの気持ちなのであらためてここに掲載します。

 「安倍談話」が安倍首相本人の言葉ではない、と批判しているものが多いようです。

 確かに安倍首相の意に染まない、当初避けたかった後ろ向きのキーワードを使用せざるを得なかった経緯が想像されます。

 だからこそ、それだけ対外的に精一杯配慮したということでしょう。それを批判するというのは、安倍首相が思想信条を自分たちが思うように変更するまで許さない、と言っているのと等しいわけで、その方が理不尽でしょう。

 多分多くの国が安倍首相の談話を是とすることで治まることと思いますし、国民も一定の評価をするでしょう。そうあってほしいと思います。

遺憾の意を表明?

 韓国の聯合ニュースが伝えるところによると、国連の潘基文事務総長が「安倍談話」に遺憾の意を表明したという。

 本当に遺憾の意を表明したのかどうかは確かではないが、韓国ではそう報道されているのだ。日韓の和解が不十分であることがその理由と説明されているが、和解は片方だけではできない。

 それよりも今回の「安倍談話」に対して国連事務総長という立場から「遺憾の意」を本当に表明したのならそれこそ問題だ。自分の国の立場に一方的に立っての発言は批判されても仕方がない。

 以前にもこの人は少し首をかしげる発言があった。今回の報道は韓国メディアによる本来の趣旨と違う偏った報道であると思いたいが、もし報道通りなら、この人は巷間言われているように次期韓国大統領をひそかに目指しているのかも知れない。

2015年8月15日 (土)

佐伯泰英「意次ノ妄」(双葉文庫)

 時代小説作家の佐伯泰英にはシリーズがたくさんある。人間業とは思えないほどの多作ぶりだが、それがどれも面白い。一時期は四シリーズくらいを並行して読んでいたけれど、読む方が書く方に追いつけないので、いまはこの「居眠り磐音」シリーズのみにしている。

 今回読んだのはそのシリーズの第四十九巻。だいぶ前から五十巻で完結させると公言していたので、いよいよだと思っていたら、何と五十一巻で完結させることになったとあとがきで明らかにしている。このシリーズは山本耕史が主人公の坂崎磐音を演じてNHKの時代劇ドラマになったので、愛読している人も多いだろう。

 これだけ長いと数多くの登場人物にもなじみができて、まるで知人のように感じられてしまう。ただ主人公の坂崎磐音が強くなりすぎて、敵役がだんだんいなくなってしまった。

 宿敵の田沼意次が失脚して二年、ついにその意次も死ぬ。しかしその意次の妄執は死後も残され、磐音たちを倒そうとする七人の武芸者たちが意次の死とともに山から下りてくる。

 それにそなえる尚武館の面々、そして磐音の息子空也の成長。

 田沼意次の死後幕府の実権を握ったのは松平定信。彼はその危機をひそかに救った坂崎磐音を取り込もうとしたが、磐音は距離を置こうとする。そのことで松平定信は、磐音をかえって危険な存在とみなしている気配だ。なかなかたいへんなのだ。

 活字が大きいので読みやすいけれど、夢中になって読んでいるとあっという間に読み終わってしまう。またしばらく次を待ち続けないといけない。

快適になった

 インターネットエクスプローラー(長い!)をブラウザに使っていたら、息子に「替えた方が良い」と言われてグーグルクロムを使い始めていたが、ブックマークの移動の仕方などいくつかのことがよく分からなくて、IEも併用していた。

 IEで使用しているとニフティはページ移動を急ぐとすぐフリーズするし、何より愛用のATOKのかな漢字変換が、入力中に勝手にカナから英文字に換わってしまい、使いにくいし腹が立つことが多かった。

 今回息子がIEのお気に入りからグーグルクロムのブックマークに移してくれた。さらに設定などを見直し、便利な使い方をいくつが教えてくれた。

 IEはマルチタスクではないのではないかと思うほど、すぐフリーズするし遅いし不具合はあるしで欠陥ブラウザだと思う。もちろん使い方が下手なせいもあることだろうが。

 念のため、とFirefoxをブラウザにすることも出来るよう設定してくれたので、よりどりみどりだ。

 何より嬉しいのは、カナが勝手に英文字に換わるなどという、あり得ない異常が解消したことだ。快適である。

 しかしいろいろなことをさくさくと設定している息子を見ると、自分が如何にものを知らないか、思い知らされた。

2015年8月14日 (金)

鼻で笑った

 鼻先で笑うというのは最も相手を侮辱することである。

 今日の安倍首相の「安倍談話」について、民主党の岡田党首がコメントを語り始める前に、まず鼻先で笑ったのを確かに私は見た。

 今晩の「安倍談話」については、安倍首相として内外に対し、きわめて配慮を込めたものとなっていて、いま日本の首相としてできる最高の談話であったと私は評価したい。

 多分中国や韓国からは多少の批判はあるにちがいないものの、おおむね了解の方向の対応があるものと確信する。それだけの談話だと思う。

 しかるに岡田党首は鼻先で笑った。この人のまじめさを私として多少は諒とするところがあったが、この瞬間に、二度とこの人を評価するまいと心に誓った。

 この人自身の問題か、民主党という政党の本質が彼をそうしたのかは知らない。しかし日本の国がどうあるべきか、世界にどう見てほしいか、という真摯な気持ちが多少でもあるのであれば、こんな態度はあり得ない。

 これでは鳩山氏と同じである。情けないことだと痛切に思った。

おわび

 今日夕方、「安倍談話」が公表される。お詫びの言葉があるのかどうか、それがどのようなものなのかいろいろ取りざたされている。

 それに先立ち、鳩山由紀夫元首相が韓国で土下座をして謝罪をしていた。誰も頼んだわけではないけれど、彼は個人としてというよりも日本人を代表して謝罪しているつもりであろう。だが彼は自分がその日本人の一員であると本当に意識しているのかどうか。

 明日、日本のすべての戦争が終結して70周年を迎える。

 韓国では明日、朴槿恵大統領の演説が行われる。「安倍談話」を受けてどのような演説を行うのか。

 韓国のマスコミや政治家は毎日のように「安倍談話」はこういうものでなければならない、と上から目線であれこれ喧(かまびす)しい。

 私は「安倍談話」にお詫びの言葉を入れればいい、と思う。戦争にはどんな大義名分があろうと蛮行であることはまちがいがなく、謝罪すべき事柄は数多くあっただろう。戦争が終わったあとに謝罪すると言うことは古来ほとんど例がないことではあるが、だから謝罪をしてはいけない、などということはないと思う。

 謝罪をしたのだから賠償せよ、補償をせよ、というのはまた国と国との間の話し合いで解決すべきことで、それについてはすでに国家間で話が済んでいる。それを蒸し返すのはその約束を反故にすることで、国家間の約束を守るという信義をどう考えるか、という話になるが、それでも謝罪したら補償賠償をせよ、と言うなら、国民ひとりひとりがその金を税金とは別に拠出することは当然で、たとえば国民すべてが一万円なり十万円なりを等しく国家に収め、それを賠償金とすることで国民が先の戦争の責任を引き受けるのが当然であろう。

 鳩山由紀夫氏にそれを国民に呼びかける勇気があるのか。それこそが国民を代表して謝罪するという意味であることを理解しているのか。

2015年8月13日 (木)

帰宅

 娘のどん姫は午後から仕事があるので、それに間に合うように朝早くに息子と三人で名古屋へ帰った。さいわい首都高速も東名もスムーズに走ることができた。

 息子は帰宅してからもせっせと働く。取るものも取りあえず飛び出したので家の中は片付いていなかったが、それを片付け、掃除し、台所まわりを拭きまわり、レンジやダクトを掃除し、掃除機のゴミを捨て、ほこりのたまっている棚などを拭きまわり、汗をかいたからといって風呂に入っては風呂の掃除をしている。

 わが息子ながら不精者の私とはずいぶん違う。私が無精だからそういう息子が出来上がったので、これも私のお陰だと思っている。

 飲み物とつまみを買ってきたので早めに二人で酒盛りを始める予定。働き者の息子も明日には広島へ帰る。

一段落

 昨日、母の葬儀も滞りなく終わりました。お盆で帰っている父といま出あっていることでしょう。そして手を携えてあちらへ逝くことと思います。

 長いような短いような慌ただしい日々が終わりを告げ、ようやく一息ついています。こんかいは息子がけっこう活躍してくれて、親としてみなにいい顔ができました。おとなになったなあ。

 不規則で寝不足の日々が続きましたので、体調を損なわないようしばらくだらだらしようと思います。そして来週からはまた全開で人生をたのしみます。これで何の心配もなく遠出ができるようになりました。手放しでそれを喜んではいけないのだけれど、親不孝者は正直ホッとしています。お母ちゃんごめんね。

2015年8月11日 (火)

亡国の首相

 菅直人元首相が安倍首相を「亡国の首相」と非難したそうだ。

 菅直人氏は、この世で安倍首相を非難する資格が最もない人のひとりだと私は思っているのだが、彼には自分こそが「亡国の首相」であったという自覚がまったくないことがよく分かった。

 原発再稼働が始まった。再び事故が起きる心配をしているひとが多いのは当然だ。しかしそのなかに、万一事故が起こった時に「それ見たことか、だから私が反対しただろう」と言う機会が来ることを無意識に願ってしまうような人たちがいる。菅直人氏はそのような呪いの気持ちが強い人に思えてしまうのは私の偏見か。

2015年8月10日 (月)

葬儀費用

 葬儀屋に頼むと、思ったよりかかります。でも葬式をするなら普通はそのような専門家に頼むしかありません。考える時間はほとんどありません。本当に信じられないくらい考える時間はありません。次から次へこれをどうする、あれをどうする、という雑事が押し寄せます。

 だからある程度の蓄えが必要です。

 すべてのことをファイルにとっておくのがいいです。今回は父のときのすべてを弟がファイルにとってあったので、ずいぶん作業が楽になりました。

 雑事が悲しみを紛らわせる、などと良くいいますが、雑事は疲れます。悲しみは悲しみです。

 葬儀屋は商売ですから、こちらがまあいいか、と言う落としどころを察知して自分で選んだつもりが相手に選ばされているようなところがあります。ある程度は仕方がありませんが、こちらがある程度言うことも向こうは想定しているので、言うべきことは言ってみることは必要です。

 昨日と本日、弟とともに葬儀屋といろいろ段取りをして感じたことです。まだ経験したことのない人はちょっと参考にして下さい。

連日飲む

 一週間飲めなかったので、昨晩と今晩は弟と息子と三人でひたすらビールを飲んだ(とてもたくさん飲んだ)。甥も少しだけ参加。

 甥の子どもたち(弟の孫たち)も加わって楽しく笑いながら飲んだ。母の告別式も終わらないのに不謹慎かも知れないけれど、父も母もそうやって楽しく飲み食いする家族を見て喜んでくれるはずだ。

 母は夕方エンバーミングのためにいまいない。明日の夕方に葬儀会場に綺麗になって帰ってくる。そこでみんなでまた楽しく飲もうといっている。言っているのは私と弟だけれど。

 一度名古屋に仕事でもどっていた娘のどん姫も、明日の夜にはそれに参加する。

 にぎやかに母を送るのだ。

藤沢周平「ふるさとへ廻る六部は」(新潮文庫)

 新聞や雑誌などに載った小文を集めたもの。久しぶりの再読。

 東北の庄内に生まれ育った著者は、意外なことに東北をあまり歩いていないという。作家になって取材も含めて東北各地をたずねるようになり、東北にルーツをもつ者として、そして若くして東北を離れ、そのままもどることのなかった者として東北を見つめ直している。

 私も、父が山形県の最上郡の生まれなので東北がルーツであるし、大学四年間を山形に過ごしたので、この小文集に登場する地名はなじみのあるところが多い。その場所の映像を思い浮かべることができるのだ。

 仕事をリタイアしてからは年に二三度東北に足を運んでいる。芭蕉についての入門書などを読んだりして、奥の細道の旧跡などを一度丁寧にたずねたい思いがつのっている。この本はその気持ちをさらにかきたてる。

 そういえば「しずかさや岩にしみいる蝉の声」のあの山寺へは学生時代にたびたび行き、一度は母とその友人を連れて登った。母もまだ四十代だから途中一度休憩して力こんにゃくを食べただけで、すいすいと登った。

2015年8月 9日 (日)

永眠しました

 日付の換わったばかりの夜中の一時、がんばり続けた母が逝った。一昨日ごろからときどき呼吸が停止、そのたびに呼びかけると蘇生するということを繰り返していたが、昨日昼からは呼吸も静かに、そしてだんだん小さくなっていき、ついにあちら側に旅立って、もどらなくなった。

 まったく苦しがることもなく、命が薄れて消えていくような最期だった。まわりに駆けつけた子どもや孫たちもあまり深刻にならずに談笑しながら見守った。その笑い声を聞くたびに母は名残惜しそうに繰り返し息を吹き返した。

 医師が臨終を告げる言葉に、さすがに女性たちは声を詰まらせ涙ぐむ。泣くはずがないと思っていた私も目が潤んでしまい、あたりがぼやけてしまったのであわてて席を外した。

 それからがまた慌ただしい。臨終の悲しみをかみしめる間もなく、葬儀屋への手配(これは弟夫婦がした)、これ以降の段取りの打ち合わせが続く。その間に看護師さんたちが母のなきがらの清拭をしてくれる。思えばたいへんな仕事だ。夜明け前、三時過ぎに母とともに帰宅。母を寝かせて、そのまわりの仕度を調え、みな疲れ果ててようやく就寝。

 危篤の連絡を受けて駆けつけてからほぼ丸六日間、仮眠をとることはとるものの毎晩の徹夜が続いた。それにしても母はよく頑張った。母も私たちもようやく静かに眠った。

120710_66三年前の母

母は高いところが好きだった。これは谷川岳のロープウエイで下を見下ろして喜んでいるところ。リフトでも平気で、足をぶらぶらさせていた。

2015年8月 7日 (金)

強いですね!

 肺炎で片肺がすべて白くなり、肩やあごや全身での呼吸をするようになって、すでに丸四日。一昨日からたびたびその呼吸が止まる状態なのに、母はまだ頑張っている。

 医師によれば、この状態になると24時間から48時間しかもたないのが普通なのだという。「お母さんは強いですね!」と感歎していた。心臓の強さのみで命を長らえているのだそうだ。

 昨晩は私の弟、妹、その妹の娘(看護師)、私と私の息子の五人で付き添いをした。もうさすがに限度だろうとみな考えたからだ。ところがいまも母は全身で呼吸し続けている。

 入院している病院にはほとんど個室がない。主治医である院長のはからいで、家族が気兼ねなく介護できるように、数少ない集中治療用らしきその個室をあてがってくれた。その個室は、実は一昨夜救急車で運び込まれてきた若い女性が入っていた。今日昼、手当のかいなくなくなったので空いた部屋だ。どんな病気か事故か知らないが、駆けつけた家族や友人はみな若くて一様に呆然としていた。

 一息入れたら今晩も徹夜の付き添いをするつもりだ。

 医師、看護師、介護士、他の患者とのことで次々にいろいろなことがあるけれど、それが夢の中のように眼前を通り過ぎていく。あとで思い出すことがあるだろうか。

2015年8月 6日 (木)

藤沢周平「義民が駆ける」(中公文庫)

 天保義民一揆という、きわめて特異な騒動があったことだけは聞き知っていたが、詳しいことをこの本で初めて知った。藤沢周平の本はずいぶん読んだけれど、長塚節について書いた「白き瓶」とこの「義民が駆ける」だけは未読であった。

 羽州庄内藩に、幕府から突如青天の霹靂のような国替えの沙汰がくだされる。そもそもの発端は理不尽なものであるのだが、庄内藩としてそれを表向きに拒否することは不可能だ。藩として手の限りを尽くして裏工作するのだが、国替えの実施が遅れる程度で、覆す望みはほぼない。

 そんな中で庄内藩の百姓たちが行動を起こす。幕府の実力者たちや各藩に対して駕籠訴という手法で次々に嘆願が行われる。そのようなことをすれば訴えたものや、それに関わったものが厳罰に処せられることがわかっているのに、なぜ彼らは身を賭してそのようなことをしたのか。そしてその背後で誰が動いたのか。画策したのは誰なのか。

 読み始めたらとても面白い。つい先を急いで当時の文章の引用部分を飛ばし読みしてしまった。読み終わってからその辺を読み直した。人間はきっかけを与えると保身よりも激情が優先した行動をとる。それがうねりとなるとすさまじいエネルギーとなり、ついにあり得ないことが起こる。

 これこそが革命だ。この物語はある小さな革命の成功談と言って良いだろう。ただし、革命の収束は難しく、そして成功を持続するのも難しい。ジャスミン革命の成功は革命以前よりも人々に不幸をもたらしている。天保の義民一揆という革命は、その希有な成功の例といっていいだろう。

2015年8月 5日 (水)

交替

 今晩の付き添いは昨日駆けつけてくれた息子が引き受けてくれたので、布団で休めることになった。手を握ってもほとんど反応のなかった母が、かすかに握り返すようになった。確かに気持ちだけだけれど、持ち直しているのかも知れない。

 娘のどん姫は仕事が代わって半年足らずなので、あまり休めない。顔も見せたし、母の顔も見たしするので一度帰した。

 母は肌の一部に内出血の紅斑が見られる。どんどんそれが増えている。血小板の量が低下して内出血しやすくなっているので、成分輸血をした。改善は難しいかも知れないけれど、進行は止まるかも知れない。他にもいろいろあちこちがこわれていく様子が見て取れる。いままであまりひどくならなかった褥瘡(とこずれ)が目立つようになった。呼吸は相変わらず肩呼吸。見ている方がくたびれる呼吸だ。

 五人入れる病室に一人だけ太ったおばさんが同室している。わがままで看護婦さんを困らせている。寝ていない時は常に何かぶつぶつと言っている。夜中だとあたりに斟酌のないその声が良く響く。とてもイライラする。鼻つまみなのでここに入れられているのかも知れない。ときどき唾を吐く。食事を食べさせる看護婦が気にいらないと、食べたものを吐きかける。こんな普通やらないことをするというのは、精神を病んでいるのかも知れない。

 看護婦さんという仕事は本当にたいへんだと思う。そしてその人のわずかな対応がこちらには「いい看護婦さん」に感じられたり「感じの悪い看護婦さん」に思われたりする。相性もあるのだろうけれど。

ご心配をおかけしています

母のことで皆さんからコメントをいただき、ありがとうございます。ご心配をおかけして申し訳ありません。

肺炎で、レントゲンで見ても、肺の半分以上が真っ白に映る状態となり、医師も手の尽くしようがないということでしたが、輸血や抗生物質、栄養剤投与を続けた結果、一部肺機能が回復し、医師も「奇跡だ」とつぶやくほどに持ち直しました。しかしこれは一時的なもので、意識の混濁は続いており、一時的な延命かと思われます。

私も二晩病院に泊まり込み、いささか疲労しました。いま休憩で実家にもどったところです。夕方にはまた病院へ行きます。

医師にもこの先の見込みは立たない状態で、もしかすると長丁場になるかも知れません。一時的でも意識が回復してくれるといいのですが・・・。

個別のコメントへのお礼は一段落したらあらためて申し上げますのでご容赦ください。

2015年8月 4日 (火)

ハハキトク

母危篤状態のため、昨晩から病院に詰めており、ブログが書けません。

呼吸が荒くなっていますが、それほど苦しそうではないのが救いです。

昨晩ちょっと仮眠しただけなので、いま実家で小休止中。また病院へもどります。

2015年8月 3日 (月)

危険センサーの劣化

 「イントゥ・ザ・ストーム」という映画を観た。巨大竜巻が主人公(と言うのも変だけれど)のパニック映画だが、駄作である。台詞が陳腐で、登場する人物が愚か者ばかりという、見ていて怒りばかりを覚える映画であった。

 危険が迫っているという情報が、十分与えられないことは確かにあるだろう。しかしその危険が間近に迫れば、「へんだぞ」、「これはやばい」と誰かに言われなくても、さすがに感じるはずだ。

 その危険センサーがまったく働かないで危機に陥る連中が、何とか生きのびた姿を見ても、ちっとも感動しない。

 言いたいことはこの映画のことではない。

 幕張メッセでゲームソフトのイベントがあり、想定外の人数が押しかけて会場の内外が人であふれかえった。炎天下で何時間も待ち、会場に入ってもまた延々と並ばされた。しかも会場でテロ行為を避けるために液体ものの持ち込みを禁止したので、飲み物がない。何とそのために持ち物検査まで行ったという。並んでいる道筋の自動販売機はすべて売り切れ。水分なしで猛暑の中に立ち続けて、熱中症で倒れる人が続出し、救急車が走り回ったとニュースで報じられた。

 イベント開催者の不手際の責任は大きい。大きいけれども並んだひとびとは誰かに強制されたわけではない。こんな状態が続けば危険だと思わないのか。自分の前にまだたくさんの人がいれば、あとどれくらい立ち続ければならないかわからないのか。

 会場で主催者に対して怒号を浴びせていたが、そんなことをする前に帰れよ!

 そんなゲームソフトに思い入れもないし、とにかくならぶのがきらいだからそんなことを言う、というわけではない。これは危ないかも知れない、という危険センサーは、本来誰にも備わっているはずなのだが、それが劣化しているのを見ると、愚か者だな、と思う。

 多分自然界では危険センサーの働きの悪い種は淘汰されて滅び、感度の良いものが生き残ってきただろう。それが人間だけ鈍感でも生きのびられるというわけにもいくまい。センサーの劣化したものばかりになれば、いつか突然人類は滅びてしまうかも知れない。

 ところで中国の軍拡の脅威に危険を感じるか、安倍政権の安保法制に危険を感じるか、センサーの感度はどちらに強く反応すべきなのであろうか。

Dsc_4707 靖国神社

妻を恋う幽霊(幽明録から)

 庾崇(ゆすう)と云う人が建元年間(晉のころ)に江州(江西省)で水に溺れて死んだ。ところが魂はその日のうちに家に帰り、ふだんとかわらぬ姿をして、たいがいは妻の楽氏の部屋にいた。妻は初めのうちはこわがって、毎日姪たちを呼んではそばにいてもらった。そこで幽霊もつきっきりでいることは次第に稀になったが、それでも時たまちょっと顔を出しては、腹立たしげにどなるのであった。「おれはあとに残ったもののそばにいたくてたまらないだけなのに、疑ったり嫌ったり、おれが帰ってきた気持ちにさからうなんて、もってのほかだ」

 そして姪が部屋の中で糸を紡いでいると、道具が不意に空へ舞い上がり、なにかにかき散らされたようになってしまうし、ときには地べたに投げつけられたりするので、姪はこわがって寄りつかなくなった。

 それからは幽霊がいつも姿を現すようになった。ひとり息子は三つになったばかりで、母親に食べ物をせがむと、母親は
「おあしがないのだから、食べ物など買えるものかね」
 と言う。すると幽霊はうちしおれて息子の頭を撫でながら言った。
「運が悪くてわしが早く死んだばっかりに、おまえにもつらい思いをさせるなあ。おまえにすまなくて、おまえのことを思うとまったくやりきれない気持ちになるんだよ」

 そして不意に二百貫の銭を持って来て妻に差し出すと、
「せがれに何か食べさせてやってくれ」
 と言った。こうして数年たったが、妻はますます貧乏になって、その日の暮らしも立たないありさまとなった。そこで幽霊が言うには、
「おまえも後家を立て通して、こんなにも貧乏に苦しめられるのなら、こちらへ迎えてやろう」
 と言ったが、それからまもなく妻は病気になって死んだ。それっきり幽霊も姿を現さなくなった。


 夫の幽霊は「妻が後家を立て通した」と言うけれど、こんな幽霊が憑いていたら再婚の話も来るはずがない。よく考えると幽霊のストーカーの身勝手さに腹が立つ。妻はあの世に連れて行かれたというけれど、幽霊のために疲れ果てて死んだのであって、あの世でも夫につきまとわれるわけだから絶望感は深いだろう。少なくとも食べる心配はなくなっただろうが(ただ、中国ではお供え物をあげないと幽霊はひもじい思いをするらしい。もう死んでいるから飢え死にすることはないだろうけれど)。しかし残された子どもは誰か面倒を見るのか。

2015年8月 2日 (日)

まちがい

 古川緑波(ろっぱ)という喜劇役者がいた。当時「東京新聞」は夕刊紙で、連日、著名人にその道楽・趣味を問うていた、ロッパ氏は「麻雀。三度のオマンマよりも好き」と答えた。翌晩、楽屋に配達されてきた同紙を見て、氏はとびあがった。重大な誤植があったのである。どの字をミスったかはご想像におまかせする。

 北京在住の日本婦人が、北京大学日本学科を卒業したばかりの通訳嬢を伴って病院へ行った。診察が終わると、男性の医師が何かのたまい、通訳嬢は、「センセのケツを調べるそうです」と訳した。お上品で慣らしたその日本婦人は、「少し、おなかが痛いだけですから、ケツは調べないように頼んでください」。通訳嬢は首を振り、「大丈夫、ほとんど痛くありません。幾らかケツをとるだけですから。
 「血」を「ケツ」と発音したのであった。日本語では「血液」とも云うから、その区別は確かに外国人には難しい。

 某テレビで、トレードされてキャンプインしたプロ野球の選手に記者がインタビューした。
 記者はその選手への期待感を披露したあと、「ところであなたの座右の銘は何ですか」。瞬時、とまどいの色がはしり、「両方とも一・五です」。
 記者は深追いをしなかった。 

 不思議な日本語。
「私はここからあまりちかい都市に出生しました」
「もしあなたが別に心とらなかったら、お茶を願います」
「常に私の朝ご飯は大食です」
「この重い箱をお助けて持ち上がらせてくれ」
「貴方はご計画を彼に話してはいいですか」
「貴方は考えがきめればお決意を知らせてください」
「私たちが何の料理を入用のことに服務員は急いで知りたいようです」
「私は馬鈴薯の泥と豌豆を買います」
「医者が私の余り肥すことを気がつきました」
「煙草を吸うなら健康に妨害することを医者から私に言いました」
「彼は学問深いですからお聞きに行きましょう」
「私は曲がる処の郵便箱に手紙を入れました」
「貴方は衣類に対する鑑賞の方が、あまり上手ですね」
 内モンゴル自治区の発行した日本語辞書から。ずいぶん古い話なのでいまはもう少しマシになっているだろう。それでも中国のホテルなどで見る日本語には絶句するような珍妙なものが多い。それぞれの文章の意味は少し考えればわかると思うので省きます。

「中国酔いがたり」という、コラムをまとめた本の中からピックアップしました。

2015年8月 1日 (土)

幽霊の顔(幽明録から)

 あるとき阮徳如が便所で幽霊に出あった。身のたけは一丈あまり、色は黒くぎょろりとした目で、黒いかたびらに武官の頭巾をつけ、すぐ目の前に立っていた。しかし徳如は落ちつきはらって、やがてにやりと笑って言った。
「幽霊というやつはいやらしいものだと世間で言うが、なるほどそのとおりだ」
 すると幽霊はまっ赤な顔をして退散した。


 子供のとき、夜の便所は怖いところであった。昔は和式で水洗ですらないから、下に暗い便壺が見える。しかも便所の灯りは小さく暗い。なにかがひそんでいるような気がしてしまう。

  ところで身のたけ一丈と云えば、十尺、いまなら約三メートルだが、当時の中国では一尺が24~25センチだから2.4メートルあまりか。それにしても見上げるような大きさだ。しかし阮徳如の入った便所には天井がなかったのだろうか。いくら高い天井でも幽霊の頭はつかえてしまうから屈んでいたのだろうか。狭いところに大きな幽霊はそぐわない。

 物語と関係ないけれど、便所の灯りが暗いと云うことから、「便所の百ワット」という言葉を思い出した。無意味に明るい、という意味で、某ジャイアンツ出身のタレントたちのことを思い出した。いまはLEDの時代、20ワットでも明るすぎて幽霊は出るに出られないだろう。

« 2015年7月 | トップページ | 2015年9月 »

最近のトラックバック

カテゴリー

  • アニメ・コミック
  • ウェブログ・ココログ関連
  • グルメ・クッキング
  • スポーツ
  • ニュース
  • パソコン・インターネット
  • 心と体
  • 文化・芸術
  • 旅行・地域
  • 日記・コラム・つぶやき
  • 映画・テレビ
  • 書籍・雑誌
  • 経済・政治・国際
  • 芸能・アイドル
  • 趣味
  • 音楽
2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ