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2016年2月

2016年2月29日 (月)

内田樹・光岡英稔「生存教室」(集英社新書)

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 思想家にして合気道の高段者で、道場を主催している内田樹老師と、武術家の光岡英稔氏の、武道についての対談である。

 人間は社会的な存在であるけれど、その前に生き物であって、身体という自然をベースに生きている。その身体のありようを内側から見直すものとしての武道、という考え方が論じられている。

 人間は昔のように自然豊かななかでは生きられなくなりつつある。しかし武術をなり立たせていたものは、その自然の中で生き抜き、生活することによって作られた躰を基準にして洗練され、継承されてきた。自然と離れれば躰も変わる。武道が失われていくのはとうぜんなのかもしれない。

 養老孟司氏も、人間が自然を離れてしまうことは、生命力の衰退につながる、と危惧している。人類はそろそろ成長拡大の限界点に来ているのかもしれない。

 そういう意味では、私も(いうのも恥ずかしい程度だが)多少の武道をかじったことで、この対談でいっていることの意味がわずかながら分かるつもりだ。息子にも武道を身につけるように仕向けた。

 世の中は、これからあまりほのぼのとした時代ではなくなっていくことだろう。殺伐として、他人を信じることが難しい時代になっていくだろう。プライバシーをここまで護らなければならない時代、というのはたぶん人間の歴史のなかで初めてのことだろう。それだけ悪意が蔓延し、それらが悪用されるのが普通になっていることの表れなのだから。

 この本の副題が「ディストピアを生き抜くために」というのを見て、そんなことを感じている。私は最悪のディストピアを見ないうちに退場するであろうから、いいけれど・・・。

 この本では、特にスポーツ武道について論じてはいないけれど、論ずるに足りない、ということなのだと思う。勝敗の問題ではないのだから。

池波正太郎の鶏の小間切れ料理

 「快食会談」(本の紹介記事では、「会食会談」と間違えて書いていました。訂正しておきました。ごめんなさい。本の表紙があるので、「間違えたな!」と分かったことでしょう)のラストは池波正太郎と「すきやき」について論じている。すきやきから話が派生して、池波正太郎が鶏肉の小間切れの簡単な料理(とも言えないが)を紹介しているのでここに引き写しておく。

池波 これは牛肉ではないんだけど、鶏肉のうまい食い方がある。昨日もやったんだけど、鍋に昆布だしをパーッと沸騰させておく。そして、その小間切れを入れちゃあ食うわけです。
荻 大根おろしか何かで?
池波 大根おろしは入れない。唐辛子とポン酢だけ。で、食うでしょう。それで一杯飲んで食ってると、小間切れのスープがものすごく出るわけですよ。そしたら、そのスープに一回日本酒をあけて、別の鍋へダーッと注いで漉す。で、またガスにかけて、沸騰したら熱いご飯持って来て、上からスープをかけるんですよ。おじやにはしない。塩をちょっと、胡椒をパーッと・・・。夜はまだ残っているから、それも煮て食う。翌朝、そのダシをもとにして味噌汁を作る。鶏の小間切れで三食食っちゃうんですよ。
荻 実にムダがないし、うまそうだ。鍋ものとしてはたいへん純粋ですね。それを池波家では、何と称していらっしゃるんですか。
池波 何とも称さないですがね。

 鶏肉がブロイラーではなく、ダシのよく出る地鶏だったらさぞうまかろうと思う。でも私はブロイラーのもも肉のぶつ切りなんか嫌いではない。スープはともかく、ただ鶏だけを唐辛子をきかせたポン酢でひたすら食べて、それを肴に酒を飲むなんて、簡単だしうまそうだ。ほかの具材が入らなければ下ごしらえも不要、これこそ男の料理ではないか。

まさかと思うが

 日本全国の火山活動が活発になっているように感じる。特に最近は九州の火山が文字通りきな臭い。

 これで思い出すのが、数年前に読んだ石黒耀「死都日本」という本だ。小松左京の「日本沈没」が、現実にはあり得ない日本列島の水没という状況を想定して、日本国家と国民がどのように行動して民族の存続を図るのか、というシミュレーション小説であったように、「死都日本」は九州で数万年に一度という、超巨大なカルデラ爆発が起きた場合の、パニック状況と、そのあとに起こる日本の未曾有の危機、そして日本民族の存続のための国家の対処がシミュレーションの形で描かれた本である。

 「日本沈没」は先程も述べたように、現実にはあり得ない事態が実に巧妙に、いかにもあり得るように描かれているけれど、「死都日本」で描かれる超巨大カルデラ爆発は、実際に起こったことがはっきりと分かっていることであり、その痕跡も地質学的に残っている。最後の噴火から7~8000年経過しているとみられるらしい。

 想定外のことが起こることを、東日本大震災で日本人は体験した。あのような巨大地震は千年に一度あるかどうか、といいながら実際に起こったのだ。では超巨大カルデラ爆発だって起こるかもしれない。

 もし過去起きたような大爆発が起こると、長期間世界の気候変動を起こし、農作物は壊滅的な影響を受ける。日本は爆発による直接の人的被害よりも、そのあとの降灰の被害の方がはるかに甚大だと予想される。九州でそのような爆発があれば、ほとんど日本の西半分は、長期間人が住めないことになるらしい。

 まあそんなことは起こらないし、もし起こりそうならその兆候はすでに現れているはずだと思うが、相次ぐ九州の火山活動活発化の兆候のニュースを見て、無責任な妄想をした。

2016年2月28日 (日)

荻昌弘「会食会談-味のふるさと-」(旺文社文庫)

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 旺文社文庫は残念ながらすでに1987年に廃刊になっている。旺文社文庫にしか収録されていないものも多い。私は内田百閒の随筆集を旺文社文庫で揃えている。五十冊くらいある。これは旧仮名遣いのまま。後に福武書店、現ベネッセで現代仮名遣いの内田百閒全集が出ている。実は福武書店のものも持っているのだけれど、こちらは欠巻がある。

 この「快食会談」の著者である荻昌弘は映画評論家が本業だが、食通で食に詳しく、また名エッセイも残している。すでに1988年に物故。この本は食のテーマ別に、12人の論客たちと題名どおり快食し、会談した対談集である。多くがすでに物故しているのは、食に詳しい人ほど短命であるためだろうか。

 テーマは、雑煮、ホルモン焼き、おでん、鯛、コロッケ、すし、カレー、そば、どんぶり、石狩鍋、おふくろの味、すきやき。それを論じながら荻昌弘が亭主としてその食を供し、その地方別の違い、料理の成り立ちと変遷などの蘊蓄を披露し、話は日本人、そして日本の文化にまで及ぶ。

 楠本謙吉、開高健、安岡章太郎、末広恭雄、辻静雄、邱永漢、飯沢匡、田辺聖子、池波正太郎等々が相手なのであるから、そのレベルの高さ、話の広がりの広さ、そしておもしろさが想像できるであろう。たとえば開高健とのホルモン焼きの話は、とうぜん「日本アパッチ族」のイメージがあるから、こちらもよだれが湧いてくるではないか。

(舌代)として、それぞれの話の始めに「亭主敬白」と称する前書きがあるのだが、それが一行49文字、その細字であること、眼が衰え始めた当方にはまことにつらい。また、蘊蓄などの注釈も詳しく入れられているが、それもそれと同じ細字。若いときは何とも思わなかったのだから年を取るのは哀しいものだ。
 
 ほとんどレシピに近く詳しい料理法も書かれているので、例しにその通り作ってみたくなる。

アメリカ国民の不満

 いまのアメリカ大統領候補選びの様相を見ていると、アメリカの良識はどうなってしまったのか、と首をかしげている人が多いだろうと思う。これはアメリカ国民の政治不信に発しているのだ、という専門家の解析は間違いないのだろう。だから職業政治家とエスタブリッシュ出身者は苦戦を強いられている。

 日本とおなじように、アメリカの中流階級の多くが、自分たちが中流ではなくて下流になってしまったと感じている。政治が悪いから自分たちが貧しくなってしまった、と思っているようだ。

 人間は、一番良かった時を基準に自分の豊かさをはかるらしい。だからいまその豊かさが損なわれている、それは誰かのせいだ、と考えるのだ。

 トランプ氏の人気は、豊かさを損なった犯人だ、と次々になにかをやり玉に挙げて非難することが、不満を持つアメリカ国民の心に響くからだろう。職業政治家、エスタブリッシュ、ウオール街の投資家たち、アメリカの難民たち、ついには日本、ドイツ、中国、韓国まで名指しで非難されている。彼らこそがアメリカの豊かさを奪った犯人だ、と声高に叫ぶと拍手喝采である。

 不思議なのは政治家やエスタブリッシュや投資家を非難するのに、大金持ちのトランプ氏は別だと考えることだ。トランプ氏は高卒で苦労して金持ちになったのであって、アメリカンドリームの体現者である、というとらえ方なのだそうだ。アメリカは成金に優しい国らしい。アメリカナイズした日本の成金を日本人の多くが嫌うけれど(私だけか?)、アメリカンドリームをドリームするアメリカ人は違うみたいだ。

 しかし誰がアメリカ大統領になろうが、アメリカ人の夢見る過去の豊かさが再び戻ることはあり得ない。

 世界経済が不安定で、世界がその立て直しに躍起になっているなかで、アメリカだけは右肩上がりの好調な経済を持続し、経済のバロメーターの失業率も近年最低の水準となっている。これはシェールガスや、シェールオイル、軍事費の削減などが大きく寄与しているのだろう。

 だから国全体としては、大国としては唯一豊かな国であるのに、貧しいと感じている国民が多いのは、他国との比較ではなく、ただひとえに過去の豊かさとの比較の故である。

 日本や中国や韓国の国民が豊かになってきているのは、アメリカの富を奪っているからだ、というのがトランプ氏の論理である。難民も奪っている、政治家も奪っている、と叫ぶ。そうだ、そうだ、と国民はうなずく。そうだったのか、と納得する。

 そもそも世界の富はアメリカに集中的に集まり、世界中の貧しい国民が働いて得たものを、アメリカがその多くを享受してきた。だからアメリカ人は、世界でダントツに豊かな生活を謳歌してきた。そういうシステムをアメリカは巧妙に構築してきた。しかし、世界中が努力して、アメリカとの不公平なハンディを乗り越えて、少しずつ貧しさから脱却してきた。

 世界の人々が貧しさから脱却すれば、少しずつ豊かになっていく。結果的に、アメリカに偏在していた富が世界に拡散する。アメリカ人だけが豊か、というわけには行かなくなるのはとうぜんではないか。

 トランプ氏はそれを過去のアメリカ、強いアメリカに戻す、と公言している。つまり世界を豊かさから引きずり落としてやる、といっているのだ。だから世界中はあきれ果て、不快に感じている。

 アメリカだけが得をする世界の復活を夢見るとき、その時代錯誤の故にアメリカは没落に向かう道を選びつつあると思える。それに世界が巻き込まれて、世界の混迷に拍車をかけることになりかねないから、アメリカ選挙の行方は他人事ではない。

経験に学ぶ

 或日、ライオンがロバとキツネをさそって猟に出かけました。沢山の獲物があったので、ライオンはロバに、それを分けるように命じました。ロバは苦心して三等分し、どうぞ、お上がり下さい、といいました。
 するとライオンは怒ってロバに襲いかかり、食い殺してしまいました。それからキツネに向かって、今度はおまえが分けてみろ、と命じました。そこでキツネは大半をライオンの分として差し出し、残りのわずかを取ったので、ライオンは、「ほう、誰がおまえにこんな分け方を教えたのかね」とききますと、キツネはこう答えました。
「ロバの災難です」

 イソップのお話。イソップは失敗から学ぶことを教えてくれるが、失敗の経験を生かすことが出来ないのが人間だ。

2016年2月27日 (土)

北へ流れたい

 いやなことがあるとき、あったときは、酒を飲まないのが私のルールである。酒がおいしくない。酒が可哀想だ。

 昨晩は眠れなくて朝まで飲んでしまった。家にあるビール、日本酒はすべて飲み尽くし、あまり好きでないウイスキーだけ少し残っている。こんなことはずいぶん久しぶりだ。

 ルールは破るためにある、と格好をつけても、自分で自分が恥ずかしいことに変わりはない。それに体にも良くない。

 なにかにとらわれるというのが嫌いなのに、とらわれてしまう。嫌いなのは、とらわれやすい自分を知っているからだろう。そろそろ旅に出る潮時かもしれない。

 三月初めにいくつか用事があるけれど、それが済んだら冬(もう春は近いけれど)の東北へ湯治の旅にでも行こうか。のんびり湯につかり、読書三昧。ただし、自炊である。それなら一泊五千円以下で泊まれるのだ。心はもう北へ飛んでいる。

教え方と教えられ方

 ベートーウェンの父親はテノール歌手だったが、手のつけられない酒飲みで、正確破綻者といってもよかった。幼いベートーヴェンは、どれほどこの父親から被害をこうむったことだろう。ヨハンという彼の父は、息子ルードヴィヒを音楽家にしようと思い、見境もなくピアノの練習を強要したことはよく知られている。むろん、我が子を立派な音楽家に育てたい、という理想あってのことではなく、息子を、いわば食いものにしようとしたのだ。少年ベートーヴェンは、貧困に加えて、この父親と戦わねばならなかった。

 とうぜん父親の教え方はめちゃくちゃだったが、しかし、世の中には、いつの時代にあっても、教えられ方の巧みな子供がいる。反対に、どんなにいい教師についても、教えられ方が下手なばかりに、いっこうに伸びていかない子供がいる。人間にとって何より大事なのは、教えられ方を自得することだ、と私は思う。
 ちなみに、最近の日本での教育論議は、もっぱら教え方ばかりに集中しているようである。すべてを教師のせいばかりにして、肝心の教えられ方の方を問題にしない。もちろん、いい教師にめぐまれることは幸運にちがいないが、いくら立派な師について学んだところで、教えを受ける側に、教育される素地がなければ、ヌカにクギのようなものであろう。

 これはベートーヴェンについて述べた森本哲郎師の文章の一部である。

 私は高校時代、古典が特に苦手(得意なものはほとんどなかった)で、教師が悪いと思っていたが、そうか、教えられ方が悪かったのだ。おとなになって、古典の本にチャレンジすると、分からないなりに少しだけ読めてきて、もっとちゃんと勉強したら良かった、と悔やんでいる。

 内田樹老師の本に「先生はえらい」(ちくまプリマー新書)というのがあって、そこに、師はどんな師であってもえらいのだ、ということが書かれている。つまり弟子は教えられ方を自得することで向上するということで、おなじことを言っているのだと思う。

 いまの教育を考えるとき、大事な考え方のような気がする。いまは、子供が先生から教育を買う、と思っている時代だ。だから教え方が悪いのは教育という商品の品質が劣る、と思って親はクレームをつける。

大げさですが

松崎さん(もうしわけないけれど、すこし前のブログを見てください)から、クラシックのレコードを聴き較べるようにいわれた。良く聞くと指揮者によって、おなじベートーヴェンが違う音楽と聞こえる。そんなこと、教えてもらわなければ、一生知ることはなかっただろう。指揮者によって、そして楽団によってどれほど音楽が違って聞こえるのか、そのことを「分かるか?、分かるか?」と問われた。聞き分ける耳などないから、分からないけれど、違いがあるのだろうなあ、と思った。

酩酊がつづく

 いま、午前四時。酒を飲み続けている。

 ドラマより、紀行ものを見ながらちょっと涙ぐんだり、そこへ行ってみようと、行きたいところをメモしたりしている。

 人生は自分が思うほど長くない。なにを自分にとって優先順位の上位におくか、それが人生の生き方だろう。

 それを基準にものを考える、当たり前のことを思いながら、うろたえている自分を笑っている。

 わが家にある酒をほとんど飲んでしまい、それでも眠れない。

私だって

 私だってホルモンの働きで、若いときにはこれはと思う女性にアタックした。これはという女性に、考えに考えて(ほとんど自分のことしか考えていないけれど)おつきあいをお願いしたけれど、勇気を出したらたいていOKだった。
 それは私にOKではない。そんな当たり前のことに気が付いたのは、だいぶあとになってからだ。
 女の人はわかりにくい。分からないのが当たり前で、自分と自分以外の人は違う人間なのだから。
 そもそも相手を選ぶのは女性である。女性に選ぶ権限がある。それが男には分かっていない。そのことは語り出すときりがないからやめておく。
 男はそもそもバカである。
 女の人から見たら、もっともっとバカだろうなあ。

もてるかもてないか

 兄貴分の人たちのなかに、もてるかもてないかにこだわる人がいた。もちろん冗談である。だって、その人には可愛くてやさしいくて、うらやましいくらいの嫁さんがいるのだから。

 男にとって、もてるかもてないか、とても大事なことだけれど、私などは、はるか昔にそこからドロップアウトしていた(もちろん、強がりです)。

 私のブログの解析を見ると、女性の割合がとても高い。そして三十代と四十代が合わせて三分の二以上あるらしい。えーっ、信じられない。たぶん私のことを知らないか、実像と違うものを見てくれているのかもしれない。

 酩酊しながら、今後の作戦を考えている。

酩酊しています

 理由があって眠れなくて、夜中に起き出してずっと酒を飲んでいる(こんなことはめったにない)。自分の人生設計を根本的に変更しなければならないような状況に追い込まれ、意気地のないことにうろたえて眠れなくなったのだ。そういうときは本を読んだり録画した映画などを観る。

 そこで録画していた「鉄道絶景の旅 冬の北陸本線」を見ながらこれを書いている。峠恵子さんのナレーションを聞いているとちょっと元気になる。冬の日本海は淋しくて厳しい風景だから、却って元気になる。すぐ冬の日本海を北上してみたくなる。

 自分の考えていた、すべてからフリーの生き方をしようと思ったことが、自分をがんじがらめにしている。誰かががんじがらめにしているというより、自分自身でがんじがらめになっているような気がする。自縄自縛というやつだ。

 いまは笑うしかない。笑えたらこちらの勝ちだ。いまは息子と娘にちょっとだけ泣き言を言いたい。泣き言を言うバカ親父を笑いながら慰めてくれるはずだけれど、彼らはあまり私のブログを見ないから、私がめげていることを知らないし、私も知らせようと思わない。 

 ああ、恥ずかしい!

2016年2月26日 (金)

能ある鷹は爪を隠す

 能ある鷹は爪を隠す--という。才能ある者、実力ある者は、その才や力を、みだりに誇示しないものだ、いや、けっして、ひけらかすべきではない、という戒めである。たしかにそれは謙譲の美徳ではあるだろう。
 けれども、一見、謙譲のようにみえるそうした態度は、往々にして打算を裏に秘めている。つまり、自分の力や才能をむき出しにしては損だ、という計算である。なぜなら、おのれの正体が相手にわかってしまうからだ。正体をさらせば、相手は、すぐにつけ入るスキを見出すだろう。対応策を練るにちがいない。それは相手を利するだけで、こちらには何の得にもならない。それよりは、自分の正体を不明のままに、いや、むしろ低く見せておけば、相手はタカをくくって油断するだろうし、とうぜん警戒心を持たなくなる。そこにこちらがつけ込めばいいのだ、という策略である。

 これは私の文章ではなく、森本哲郎の文章である。宮本武蔵よりも佐々木小次郎に魅力を感じる、として佐々木小次郎について論ずるなかに、宮本武蔵の一見すると純粋な求道的な生き方が、実は打算的で、佐々木小次郎のあたかも傲岸にみえる態度にこそ純粋さがあるのではないか、というのだ。

 吉川英治の筆の力で、宮本武蔵が努力の人、そして佐々木小次郎が非情な天才であるように描かれているから、読者はみな宮本武蔵に武道者の理想をみる。しかしよく考えれば、武蔵は立ち会いの場に、決められた時間に登場せず、ほとんど奇襲の形で勝利を収めることが多い。相手を研究して、勝てる戦いしかしなかったともいう。

 だから宮本武蔵は柳生宗矩や小野次郎右衛門などと互する力がありながら、幕府にはついに徴用されることがなかったのだろう。

 強いこと、賢いこと、金持ちであることを、相手に不快感なく受け入れさせるのは難しいのかもしれない。その人に魅力があってたいていの人が受け入れても、ただ自分がその人より劣ることが許せない、と妬み、怨む人間は必ずいる。

 だから謙譲の美徳、というよりも、自分の身を危険から守るために、ひとは能があっても爪を隠そうとするのかもしれない。でもそれとなく気づかせるようにしていたりすると、ただの厭味だけれど。

初期化する

 そのことだけに集中して消化すれば、なんとか全部こなせるかもしれない。それが本と映画を録画したディスクだ。蔵書で床がギシギシする、といってもその程度の本(物理的に絶対読めないほど沢山ではない)しか持っていない。けれど、朝から晩まで毎日本を読み続けるほどのエネルギーはないから、私にとってついに棚に列んでいるだけに終わる本も少なくないだろう。

 本はいつか突然読みたくなって手に取るかもしれない存在だからそれでも良いと思っている。しかし問題はせっせとため込んでいる映画のディスクだ。BD(ブルー・レイのディスク)に数百枚、いつか観るかもしれないと次々に映画を録画してきた。観たもののうち、十枚に一枚くらいはコレクションとして残し、ほかは初期化して、次に備えてブランクディスクとしておく。

 しかし、映画は昔と違ってそう毎日観ない(とはいえ月に十本以上は観るけれど)。カルト映画が嫌いではないから、つい録画する。だからたまる一方で、気が付いたら数百枚もあるのだ。しかもブランクディスクは補充するばかりである。

 カルト映画は、五本観たら一本くらい「観て良かった」と思えるものに出会う。観なければよかったものが四本あるからこそ、その一本との出会いがよろこびなのだが、いまはその四本を見る体力気力がない。 

 昨日から思い切ってせっかく録画したBDを次々に初期化している。残すのは三分の一くらいになる予定だ。

 最近は質の良いドラマやドキュメント、紀行ものを見ることが多くなった。たまった映画のディスクが減ることが、なんだか爽快な心地になっている。あるから「観なければ」というストレスになっていたことに気が付いた。時間を生み出している気分だ。

 しかしこんなにブランクディスクだらけになってどうしよう。

西丸震哉「イバルナ人間」(中公文庫)

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 古い話だから実名を出しても好いだろう。学生時代、一年だけ山形で下宿したときに、四年生の松崎さんという先輩がおなじ下宿にいた。この人に囲碁を教えてもらったし、クラシックのおもしろさも教えてもらった。酒を飲みに連れて行ってもらったことはもちろんである。あまり酒が強くないから、私がすいすいのむのを見てハラハラしていた。

 ワンゲルの副部長をしていて、雪の残る春の蔵王の縦走に連れて行ってもらった。彼の思惑では入部させたかったのだろうが、こちらにはその気がない。新入部員は大荷物をかつぎ、ヒイヒイ言っているが、私は部員ではないから、ほとんど手ぶらでついていく。何度か吾妻や蔵王など、あまり難しくない山についていった。

 その松崎さんは、冬山に一人で行く本物の山男だった。飯豊や朝日連峰の冬山に入り、吹雪の中で三日くらいビバークしても平気であった。明るくて穏やかな性格で、その上容子もいい男だったから、部員の女子学生にもモテて、よく部屋に集まっていて私も混ざったりした。下宿の主人の高校生の娘がどういうわけか焼き餅を焼いていたものだ。

 この「イバルナ人間」という本を読んでいたら、その松崎さんを思い出した。福島県のどこかの高校の先生になったはずだが、その後どうしているか知らない。

2016年2月25日 (木)

まぶしい!

 今日は夕方まで吸血ゾンビみたいであった。血が吸いたくなった・・・わけではなく、明るいところがまぶしくて暗がりに逃げこんでいたからだ。

 しばらく前から左目の奥にかすかな鈍痛があり、目がかすむようになっていた。特に朝起きたときが、調子が悪い。しばらくするとおさまるので放置していたら、だんだん違和感が強くなり、朝だけではなく、眼が疲れる夕方以降にも不快感が感じられるようになった。左目だけ少しかすんで見える気もする。

 先日、右目と左目の像が重ならなくなった。ほんの一時的にこんな風になったことはあるが、数分それがつづいて、もう戻らないかと焦った。さいわい間もなくおさまり、その後おなじことは起きていない。

 いつも拝見しているおキヨ姉上のブログで眼科検診の話があり、自分の眼の異常についてコメントを入れたら、「すぐ眼科へ行くべし!」とお答えをいただいた。それに背を押されて(もちろん押してもらいたかったのである)本日眼科へ行った。

 ほんとうは昨日行くはずが、なんとなく行きそびれ、これではならじ、と今日行ったというわけである。あまり待たずにすぐ検査。瞳を開きっぱなしにする薬を点眼され、眼の中をいろいろ覗かれる。

 医師の診断結果は、「年齢相応の軽い白内障はあるけれど、治療の必要はない。眼に器質的、病的異常は見られません」ということである。ではこの違和感は何故か?とは思うけれど、とにかく眼科の医者が問題ない、というのだからいまはホッとしておくところか。

 そのせいで夕方まで瞳は開きっぱなし、白い壁も、道路の白線も、路上の車の反射光も、真っ白な洗濯物も、蛍光灯も、すべてギラギラと眼を撃つ。

 そういうわけで、カーテンを閉めた暗がりで落語のCDを聞きながら瞳の機能の回復を待った。普通は四、五時間で元に戻るのだが、どういうわけか私はこのギラツキの回復がとても遅いのだ。ほかの麻酔は効かない上にすぐ醒めるのに不思議だ。

 今晩は無事を祝って残りの酒をいただくことにしよう。さて、肴は何にしようか。

野々村某とおなじではないか

 東京電力が、炉心溶融の基準を記したマニュアルを見落としていた、と五年もたってから公表した。


 見落としていた、と強弁することで言い訳になるとでも考えているのだろうか。そもそもマニュアルの内容を公表していないではないか。公表していれば、誰も気が付かないなんてことはあり得ない。

 こんなもの、最初から炉心溶融だ、と分かっていて、それを誰かが公表を止めさせたにちがいないのだ。

 東京電力の誰が止めたのか、菅直人が止めたのか、もう決して明らかにしないよ、だってマニュアルはようやくいま気が付いたことだから、というわけであろう。

 嘘に決まっているのに、ニュースでは繰り返しこのことを言い立ててこれを既成事実化しようとしている。

 マスコミは東京電力に逆らえない、と良くいうけれど、まことに日本そのものが「裸の王様」だ。

 責任逃れの嘘八百を押し通そうとすること、野々村某とどう違うというのだ。われわれは彼らにバカにされている。

森本哲郎「続 生き方の研究」(新潮選書)

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 この人の文章に出会ったことで、自分の人生観が激変した。初めて出会ったのは高校生くらいの時の朝日新聞の日曜版である。こんなものの見方、世界観があるのか、と目が覚める思いがした。記名の記事だったから、名前は覚えていたけれど、朝日新聞の記者だから、本が出ているなどとは知らなかった。

 次の出会いは偶然書店で手にした本だった。会社に入ってまもなく仕事に行き詰まり、自分に自信がなくなって沈んでいたとき「生きがいへの旅」というその本を見たときに、「森本哲郎」という著者名を見て、あの文章の人だ、とすぐ分かった。

 その本は私に新しい世界を見る目をくれた。ああ、世界はこうなっているのか、と教えてくれた。もちろん本には直接そんなことは書いていない。ベトナム戦争のさなかのベトナムの人たちと、北欧の高福祉の老人の生活をくらべてみたり、フランスの哲学者が、中国の書物に書かれた分類の、理解不能な奇妙さを取り上げて、しかしその理解不能であることにこそ文化というものの違いそのものではないか、と語った、と記していたりする。

 漱石が語られ、蕪村が語られる。私にはその本が宝石箱の中のようにきらびやかに感じられた。

 時代はまさにニューサイエンスからスーパーサイエンスへ、そしてオカルト、新興宗教へと時代のムードが流れていた。オウム真理教などが擡頭したのはまさにこの時代である。私もいろいろと関連する本を読んだ。もしかしたら森本哲郎師の本に出会わなければ、オウムに・・・、ということはないと思うけれど、分からない。

 この「続 生き方の研究」は初めて読んだ。「生き方の研究」同様、日本ダイナースクラブの月刊誌「SIGNATURE」に連載されたものだ。しばらく前に「生き方の研究」を再読し、一緒に買ってあって未読のこの本を読んだ。

 あらためて森本哲郎師の文章が私に合っていることを実感した。なんの抵抗もなくするするとこちらの心に入ってくる。分かる、ということが一段高い意味で分かる。あとで内容について二、三取り上げてみようと付箋をつけてある。

2016年2月24日 (水)

酩酊しての雑感

「矛盾しているか」
 韓国駐在の中国大使が、韓国のTHAAD配備の動きを非難し、もし配備すれば、一瞬にて中韓関係は破綻するであろう、と脅迫した(北朝鮮によく似ているなあ)。
 中国は、南シナ海に建設した軍事基地に東および東南アジア全体をカバーする大型の高周波レーダーを配備した。これが非難されると、自衛のためのものだ、と一蹴した。
 韓国メディアはその二つのニュースを並べて伝え、中国の主張は矛盾している、と報じた。
 韓国のみならず日本でもアメリカでも、いや、世界で中国以外は、中国の主張は矛盾している、と考える。しかし、中国にとって中国の主張は断じて矛盾していない。中国に対して「矛盾している」などと言えるのは中国だけなのである。対等でないもの、自分の劣位にあるものが、世界の中心、この世の中心の国に対してそんなことを言う資格などない。
ましてや韓国や日本などと云う劣等国においておや。
 韓国は、中国にそう思われていることに、そろそろ気が付いたかなあ。無理だろうなあ。二千年も気が付いていないからなあ。

「視聴率が悪い理由」
 フジテレビ系(名古屋では東海テレビ)の番組の視聴率が悪い理由?どういうわけかチャンネルを替えると、CM中の確率が一番高いのがフジテレビ系だと思う。CM時間が他の局より長いかどうか知らない、ただ、廻すとたいていCMなんだ!

「成金の定義」
 叶姉妹や神田うのさんとお近づきになることで自分のステイタスを感じる人。

「いたずら」
 爆破予告や爆発物を仕掛けたというメールで社会がたいへんな迷惑を蒙っている。そのために多くの人が休日を返上したり、セレモニーが休止に追い込まれているが、多くが未成年のいたずらであることか多いという。
 もし犯人が判明した場合、三年以下の懲役か五十万円以下の罰金だが、未成年の場合、ほとんど説諭で放免されるそうだ。
 社会的な損失にまったく見合わないのだが、民事で賠償請求をしても、そもそも資産を持たないから、弁済不能、で終わりらしい。
 罪に対して罰が見合わないまま放置していれば社会は不安定化する。そのコストは直接的な被害よりもはるかに甚大である。そんないたずらをしたら人生を棒に振ることになるらしい、と思い知らせないと、次々に真似をする者が出てくるではないか。
 社会奉仕十年、とか、本人が身にしみて反省するような罰を、早急に考える必要があると思うがいかがか。人権派の人は反対するか。

今夜の愉しみ

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四国・徳島に住む兄貴分の人(兄貴分の人があちこちにいるのだ)から、蔵開きに行ったからとお酒が贈られてきた。

徳島県三好市の芳水酒造というところの酒らしい。

いま肴をあつらえて、まず、絞りたての原酒の方をいただくことにする。

いちどきに飲んでしまったらもったいないので、もう一本は今度にするつもりだが・・・さて我慢が出来るやら。

M田さん、なによりのものありがとう。感激です。

野合のそしり

 松野氏ひきいる維新の党が、民主党と合流することになりそうだ。民主党の発展的解党と党名変更が当初の合流の条件だったが、民主党が党名を変更することを受け入れて、それで合意したという。

 いつものように、民主党内には党名変更反対の動きがあるようだが、岡田執行部は押し切るだろう。相変わらずの内紛は党勢を削ぐばかりだし、いまは人数を少しでも増やすことを優先したいはずだ。しかし烏合の衆という。いくら数があっても、力にはならないこともある。

 これは誰かが「野合だ」と言うな、と予想していたら、案の定自民党の谷垣氏が「目指すものが統一されていないまま合流するのは、『野合とそしられることを免れないだろう』だろう」といっていた。

 さすが、うまいなあ!谷垣氏本人は「これは野合だ」などと下品なことは言っていない、そういうことを言う人もいるかもしれないよ、といっているのだ。野合だから野合なのだけれど、直截そう言ったりすると、それに激しく噛みつくことで野合でなくなると思う民主党議員が必ずいるからなあ。

 松野さんもお土産(なかまたち)つきで民主党に出戻るのに、大義名分として党名変更を強要して形をつけているのだろうけれど、真っ当な国民から見れば、うろうろと節操のない連中だ、としか見えない。

 それにしても松野氏はどうしてああ躰を微妙にふらふらと揺らせながらしゃべるのだろうか。見ていて落ち着かない。人間的に落ち着きがないからか。

 松野氏ひきいる維新の党の面々のなかにも、さすがにこれはまずい、と思って離脱するものが出てくるだろう(その動きがあることも報じられている)が、さて、どこへ行けばいいのか。身から出た錆とは言え、首筋が寒かろう。

 民主党はますます昔の社会党化しているから、いっそのこと「社会党」と党名を変更したらどうだろうか。まさか社民党もクレームをつけないだろう、社民党も合流したりして・・・。

追い詰められる

 BSの海外ニュースを見ていたら、韓国が伝えるニュースとして、中国の銀行が次々に北朝鮮との取引を停止していると報じていた。

 これは銀行独自の行動なのだそうで、中国政府からの指示ではないらしい。それなのに何故取引を停止するのか。銀行は北朝鮮の個人や組織に対して貸し倒れになることを危惧しているのだという。

 つまり、もう北朝鮮は危ないと中国の銀行が判断した、ということだ。ただ、国境付近での物流の決済は、ほとんど現金になっているので、直接的な北朝鮮へのダメージは僅かだとみられている。すでに北朝鮮はクレジット(信用)を失っていたのだ。

 韓国のある新聞は、北朝鮮の外貨の多くがその地下資源の売却によるものであるから、それを止(と)めるべきだ、と提案していた。もっともである。もちろんその地下資源は、大半が中国に輸出されているのだから、中国が買わなければ売却が止まる。
 
 ところで誰が猫に鈴をつけるの?

 いったい北朝鮮は追い詰められているのか、そうでないのか、それがそろそろ見えてくるような気もするのだが。

2016年2月23日 (火)

不倫騒ぎ

 世に名前が知られていたり、お金があったりすると、誘惑も多いと思う(有名でもないし、お金もないから誘惑された経験がないが)。人間、木石ではないから、ときに心が動くこともあろう。

 メディアが有名人の不倫を報道するのはいつものことだが、このところその騒ぎが特に喧しい。

 ベッキーのは、相手のゲス某は不倫(つまり遊び)、ベッキーは本気だったらしく、ちょっと可哀想だけれど、いい年をして愚かと言えば愚かだ。相手を選べよ!

 政治家・宮崎某のはほとんど病気。ホストクラブにでも転職したらいい。

 今度は桂文枝が話題になっている。このひと、桂三枝のままで良かったのに。桂文枝の名前が可哀想だ(私の感想です)。こちらの不倫は十年前のものだそうだ。ほかにも二股愛だのなんだの次々にやり玉に挙げられている。

 いま芸能人やスポーツ選手は戦々恐々ではないだろうか。

 芸能レポーターという、この世に賤業があるとすればその最たるもの、というべき人々は、その持っているネタをいつどのタイミングで公開しようか、手ぐすね引いているのではないか。

 話題のつなぎに散発させるより、連発する方がどうも盛り上がりそうだ、とメディアは計算しているのかもしれない。出し尽くすことは決してない話題だろうから、後は順番の問題だけだ。

 よけて通るのは、話題にされても平然とされる輩である。じたばたしてくれないと、視聴者読者の正義感に訴えることがうまく出来ない。だから話題にされたら開き直ることだ。

 騒いでいる方は、そもそも有名税で誘惑が多いことに対して、うらやましさからの妬みから騒いでいるだけだ。何のことはない、自分がその立場に立ったら真っ先に誘惑に負ける人ほど騒いでいるにちがいないのだ。

 しかし民放のニュースはCMだらけの上にこのような不倫報道ばかり流すから、世界や日本がいったいどうなっているのかさっぱりわからない。これも国民を「よらしむべし、知らしむべからず」、という自民党安倍政権の陰謀か?それともNHKを見ろ、ということか。そのNHKが不倫報道をしているからなあ!

 NHKBSのニュースは幸い今のところ無事である。

茶番

 語るに値打ちのないことだけれど、テレビであまりにもたびたび目にするのでちょいと書きたくなってしまった。

 元兵庫県議、野々村竜太郎被告の詐欺事件公判についてである。「記憶にございません」と強弁し続けることが、本人に不利となっているのではないか、とテレビのコメンテーターたちがしたり顔で心配している。すでに罪を認めてお金も返済し、検察に対して反省文も提出しているから、そのまま公判で罪を認めていれば、執行猶予の判決がでることはほぼ確実だ、と弁護士たちは口を揃えて言う。

 しかし突然いままでの経緯を無視して、そもそも事件は警察のでっち上げであるかような証言をしてみたり、都合が悪くなると「記憶にございません」とひたすら繰り返すにいたり、裁判官、検察、弁護士そして傍聴人、そしてその経過を(面白半分に)興味をもって見ていた人々すべてを虚仮にする、という態度に出たから、世の中大騒ぎである。

 「なにを考えているか分からない」というのが大方の感想だろう。なあに、なにも考えてなどいないのだ。あの世界中をあっけにとらせ、日本の恥さらしをして、爆笑させた記者会見を見ただけで、なにかを考えて行動などしている人物でないことは明らかではないか。

 どういう育ち方をして、どういう社会で生きてきたのか知らないが(知りたくもないが)、幼児のように泣きわめき、無意味なことばを相手の反応などお構いなしに繰り返すと、相手はあきれ果てて結果的に自分の都合の良いようになっていく、ということを学習してしまったのだろう。

 そんなことが通用しないのが世間であることを、教えることが出来ないのがこの日本という国の現状だ、と言うことがよく分かって情けなくなる。

 「記憶障害」など嘘に決まっているので、だから診断書など出てこないではないか。こんな診断書など、どうせ嘘か本当か分からないのだから、医者はいくらでも出せる。でもここまで騒ぎになると、うっかり診断書を書いた医者はとことんマスコミに追いかけ回されて追求される。売名の利得より、後の煩わしさを考えたら、書く気にならないだろう(いまに診断書を書く医者が出てくるかもしれない。アメリカならすでに出ているだろう)。

 この世に「記憶障害」という病気は存在する。だからマスコミは万一をかんがえて、野々村某を「嘘つき!」と言えずになんだか奥歯にものの挟まったようなもどかしいコメントに終始する。

 まさにその様子こそ、裸の王様の世界ではないか。

 みんな嘘だと分かっているのに、「嘘だ!」と言わない。馬鹿みたいだ。

天ぷら

 若い頃、新潟の得意先で、とても厳しい人がいた。こちらのいい加減なところをびしびしと指摘されて、ぐうの音もない程やり込められた。そういう人が大好きだ。だからとことん教えを請うた。かわいがられて、その人を通じて沢山の人と仕事の縁が出来た。

 その人は春は山菜、秋はキノコをなかまたちと採りに行く。セミプロの集団なので、私は足手まといだ、といわれ、その人の家で帰りを待つだけ。昼頃に帰ってきた人たちと、沢山の収穫物を皆で料理して食べる。私はただごちそうになるばかり。うまそうに食べ、うまそうに新潟の地酒を飲んで酩酊してみせる、という芸しか私にはないから、それに徹する。

 しあわせな思い出である。

 そのときに、キノコというものがこんなに美味いものなのか、と心から思った。大学で山形に暮らし、一年間だけ下宿したときの主人夫婦が、やはり山菜とキノコ採りのセミプロで、名前も知らないキノコや山菜をばくばくと食べたら、こんなに手放しでうまそうに喰う下宿生はいない、と喜ばれた覚えがあるけれど、それがなにも考えずに出来る私の芸である。そのときよりもうまかったのだ。
 
 新潟のその人の家に時々泊めてもらった。キノコが好きだから、と近くの農家から、わざわざ栽培椎茸の取り立てを分けてもらってごちそうになった。取り立ての身の厚い椎茸は、ジューシーでうまい。たぶん食べたたことのない人には想像出来ないだろう。

 突然こんな話を書いたのは、昨日思い立って天ぷらを作ったからだ。普通は一人では作りすぎるので、大好きだけれど滅多に作らない。たまたま何とかいうキノコの天ぷらをテレビで見て、それがちょっとエリンギに似ていたので、エリンギの天ぷらを作ってみよう、と思い立ったのだ。

 それだけでは淋しいから人参の天ぷらやかき揚げも作る。かき揚げはネギを大量にきざみ、バナメイ海老のむき身と一緒に揚げる。これはいつも作る。エリンギの天ぷらは想像通り。もう少し高めの温度で揚げて、からっとさせた方が良かったかもしれない。キノコは案外水分の多いものなのだ。エリンギは椎茸ほど美味いものではないが、食感は悪くない。

 キノコについては桐生に森産業という栽培キノコの会社があって・・・という話になると、果てしなく話がつづいてしまうので、また機会があったときにする。それはそれで沢山思い出があるのだ。

 新潟のその人との関係はわずか二年足らずで終わった。私の個人的な事情もあって、名古屋へ転勤になったからだ。その人からは十年くらいはつき合って、自分の知っていることを出来るだけ教えてやろうと思ったのに、と恨みを言われて、申し訳なくて思わず涙を流した。

 天ぷらを揚げて食べながら、そんなことを思い出していた。

2016年2月22日 (月)

アメリカ型愚かなヒロインは可愛いか

 ドラマはほとんどリアルタイムで見ないで、録画しておいて後から見る。

 「アメリカ型愚かなヒロイン」はハリウッド映画の定番だが、NHKの大河時代劇ドラマでそれを見ようとは思わなかった。

 長澤まさみ演ずる「きり」が、自分の置かれている状況などお構いなしに奔放な行動をし、思ったままを放言する。そのことで回りがたいへんな迷惑を受け、危機に瀕するのだが、自分のせいだとはまったく考えない。

 もともと「タッチ」のヒロイン、南役の長澤まさみは私のイメージと違ったから、なんとなく好みではなかったのだが、この「きり」のような女性は大の苦手である。

 ではますます長澤まさみが嫌いになったのかと言えば、逆である。このような役をうんざりする女として見事に演じていることに感心して、実は見直した。

 真田昌幸の妻で、真田信之、信繁の母親が、似たような性格の女性であることを見事に高畑淳子が演じている。しかしこの女性はそもそも公家の出だから、これでいいのだ。

 しかし「きり」は違う。たぶんこんな女性は当時日本にはいなかったはずだ。そのような育て方をする親はいないし、それでは生きていけなかっただろう。江戸時代ならば、いたかもしれない。それは江戸の街が、男性に対して極端に女性の数が少ない世界だったからだ。

 そしてハリウッド型の愚かなヒロインは、まさに西部劇の時代の圧倒的に男性に対して女性の数の少ない、特殊な社会にこそ出現した。内田樹老師が喝破したように、ほとんど女性との縁が得られない男性社会では、男どおしの関係がきわめて濃密になる。そんななかで、たまたま女性との関係が生じても、男社会の関係と、女性との生活のどちらを取るか、という葛藤が生ずる。そのとき、男は女より、男同士との関係を選ぶことがしばしばであっただろう。

 そうなると、女と別れた男は「女というのはわがままで、立場や状況をわきまえず、愚かである」となかまに言う、それになかまたちは、深くうなずく、というのがパターンであっただろう。

 これがアメリカの男社会での心性ではないか、それが反映したのがハリウッド型の愚かなヒロインと言うイメージではないか、というのが老師の解釈から私が読み取ったことである。アメリカ型のウーマンリブはそれをどう乗り越えるのか、というアメリカ女性の運動だった、という見方も出来るのではないか。

 そのイメージそのもののヒロインが「きり」という女性ではないか、と勝手読みしたのである。それが計算されたものなのかどうか知らない。ただ、面白いな、と思ったので述べた。

 繰り返すが、「きり」のような女性は、いくら美人でわがままこそが可愛くても私は苦手である。ものを知らなかった若いときならいざ知らず、わがままなところが好き、などとは決して思えない。でも可愛いさだけが見えている男が多いのかなあ。

漱石の「愚見数則」から

 小生素養不足理解能力劣弱の故、その文章をただ読み流すことしか能わざりしが、幸いにも意味が朧気に勝手読み出来たところも僅かにあり、興にまかせてそこだけ抜き書きす。粗忽者の抜き書きの故に本来の意味を損なっていること確実なれど、御海容願いたし。

 勉強せねば碌な者にはならぬと覚悟すべし、余自ら勉強せず、而も諸氏に面する毎に、勉強せよ々々という、諸氏が余のごとき愚物となるを恐るればなり、殷鑑遠からず勉旃(これつとめよ)々々。
(漱石が教師として学生に対して述べている)

 余は教育者に適せず、教育家の資格を有せざればなり、その不適当なる男が、糊口の口を求めて、一番得易きものは、教師の位地なり、これ現今の日本に、真の教育家なきを示すと同時に、現今の書生は、似非(えせ)教育家でも御茶を濁して享受し得ると云う、悲しむべき事実を示すものなり、世の熱心らしき教育家中にも、余と同感のもの沢山あるべし、真正なる教育家を作り出して、これらの偽物を追出すは、国家の責任なり、立派なる生徒となって、かくの如き先生には到底教師は出来ぬものと悟らしむるは、諸氏の責任なり、余の教育場裏より放逐さるるときは、日本の教育が隆盛になりと時と思え。

 善人ばかりと思う勿れ、腹のたつ事多し、悪人のみと定むる勿れ、心安き事なし。

 多勢を恃んで一人を馬鹿にする勿れ、己の無気力を天下に吹聴するに異ならず、かくの如き者は人間の糟(かす)なり、豆腐の糟は馬が喰う、人間の糟は蝦夷松前の果へ行(いっ)ても売れる事ではなし。
 
 厭味を去れ、知らぬ事を知ったふりをしたり人の上げ足を取ったり、嘲弄したり、冷評したり、するものは厭味が取れぬ故なり、人間自身のみならず、詩歌俳諧共厭味のあるものに美しきものはなし。

 権謀を用いざる可らざる場合には、己より馬鹿なる者に施せ、利慾に迷う者に施せ、毀誉に動かさるる者に施せ、情に脆き者に施せ、御祈祷でも呪詛でも山の動いた例しはなし、一人前の人間が狐に胡魔化さるる事も、理学書に見えず。

 馬鹿は百人寄っても馬鹿なり、味方が大勢なる故、己の方が智慧ありと思うは、了見違いなり、牛は牛伴(づ)れ、馬は馬伴れと申す、味方の多きは、時としてその馬鹿なるを証明しつつあることあり、これ程片腹痛きことなし。

 言う者は知らず、知る者は言わず、余慶な不慥(ふたしか)の事を喋々する程、見苦しき事なし、況んや毒舌をや、何事も控え目にせよ、奥床しくせよ、無暗に遠慮せよとにはあらず、一言も時としては千金の価値あり、万感の書もくだらぬ事ばかりならば糞紙に等し。

 損徳と善悪とを混ずる勿れ、軽薄と淡泊を混ずる勿れ、真率と浮跳とを混ずる勿れ、温厚と怯懦とを混ずる勿れ、磊落と粗暴とを混ずる勿れ、機に臨み変に応じて、種々の性質を見(あら)わせ、位置有って二なき者は、上資にあらず。

 欺かれて悪事をなす勿れ、その愚を示す、喰わされて不善を行う勿れ、その陋を証す。

 一部のみ紹介。こういう文章は変換がなかなかスムーズに行かないのでちょっとたいへん。読み直してまちがいのないように注意したつもりだが、ないとはいえない。ただ、漱石独特の漢字の使い方をそのまま写しているから、まちがいに思えるものがあるかもしれない。

技術流失

 シャープが支援を最終的にどこに求めるのか、今月25日の役員会で決めるというニュースを見た。それが最終決定になるのかどうか、さらに二転三転するのかもしれない。

 シャープにはユニークで貴重な技術があるという。そのようなオリジナリティのあるものなら、うまく生かせば会社がここまでひどいことにならなかっただろうと思われるから、生かし方がお粗末だったのか、経営陣そのものがお粗末だったのか(それともそれほどの技術でもないのか、というのはここではおいておこう)。

 シャープの去就はともかく、その技術の流出が懸念される。

 では台湾企業が支援したら技術流出し、日本の連合体が支援したらその技術流出は食い止められるのか?

 実はその逆ではないか、という意見もあり、私もそちらに与する。首をかしげる方もいるだろう。シャープは台湾企業に対し、社員の継続雇用を強く要望して、傘下に入る条件としている。だが、日本の連合体に支援を受ける場合、銀行の強い指導により、大幅なリストラと報酬低下が必至である。

 そうなれば技術を持った優秀な技術者は会社を離れ、よりその技術を生かせる場所へ転身するだろう。まず海外へ行くものと思われる。

 いつも拝見している、shinzeiさんの「shinzeiのブログ」に、画期的なガンの治療薬を日本で発見しながら、その開発に応えるところがなくて、みすみす海外にその功をもたらしてしまった話(2/19)が取り上げられていた(shinzeiさん、勝手に紹介してごめんなさい)。このような話はたくさんある。

 日本にオリジナリティのある技術がなくて物まねばかりだ、と長くいわれてきたけれど、それは大いに間違っている。そうでなければノーベル賞を取るような研究者がこれほど輩出するわけがない。そのようなオリジナリティのある技術を開発し、製品化することに投資するような、見識があり、勇気のある経営者や銀行家がいなかったのだ。

 私は繊維製品の製造や加工を行う会社を得意先として営業してきた。私の四十年近くの営業人生は、日本の繊維産業のピークから衰退を見る人生だった。日本中の繊維の産地の多くが縮小衰退消滅していったのをこの目で見てきた。

 もちろんまだ日本にも最先端技術を次々と生み出して、世界と互している立派な会社や産地がある。とはいえ多くの会社は韓国や中国の人件費の圧倒的な安さには抗すべくもなく、リストラを続け、ついには退場していった。

 経営者はそのような状況の時、まず設備投資を控え、リストラを行う。リストラされる人に、しばしばその会社にとって金の卵を産む鶏が含まれる。というよりも、そのような優秀な人間は正論を語るので、上司や回りに煙たがれている上、高給で遇されていることが多いので、真っ先にターゲットにされる。信じられないことだが、私が、この人は生来楽しみな優秀な人だ、と思って積極的につき合った人ほどリストラされたのを見てきたから事実だ。

 そういう優秀な人が韓国や中国の会社から、三年程度の契約期間で高給で引き抜かれていった。リストラされているから引き抜かれたのではなく、自分の意志だけれど、見た目にはそう見える。結果的に彼らの赴任先の工場はあっという間に日本の技術レベルに追いついてしまった。

 彼らも退職金とそのあとの短期間に入ったまとまった金で、その後の生活を確保することが出来たし、かれらを引き抜いた会社もわずかな投資で大きな利益を上げることができた。失われたのは長年かけて蓄積された日本のノウハウであり、その価値はリストラで得られたものとはけた違いに大きい。

 シャープの経営再建について、多くの人が技術流出を懸念すると思うが、必ずしも日本の企業や銀行が支援すれば流出が止まる、というものではないことを知っておいてもらいたいと思う。

2016年2月21日 (日)

長谷川慶太郎「今世紀は日本が世界を牽引する」(悟空出版)

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 悟空出版という会社は初めてだ。

 表題は「日本が」となっているが、そのことよりも中国や北朝鮮の危機的状況が、いままで著者のいってきた通りに推移していることを喜ばしげに書いてある本だ。当然韓国はそれに引きずられて破綻する、ヨーロッパもこれからますます衰退する、というのがご託宣である。

 それらはそのまま、もしそうならなんとなく痛快であるかもしれない、というこちらの気持ちをくすぐるから、読んでいて実に面白い。しかしある意味でその予想が的中した世界は怖いものがある。こわいけれどもあながち荒唐無稽ではない。そして、こうして想定されてしまったことは、いまさら「想定外」と言い訳することができなくなった。

 そのときにどう対応するのか、その後どうなると予想を立てるのか、考えておくことも必要だろう。私ごときが考えてもなんの足しにもならないが、なにも知らず、皆目分からない、こわいこわいとただ震えているのは嫌いだ。死ぬなら死ぬと分かった上で死にたい。


 これから起こることで最もありそうなのが、北朝鮮の体制崩壊だという点は私も同感だ。いや、私がそう考える根拠の多くが、著者の意見に影響されているから当然か。さて韓国はどうするのだろう。

 このところの歴代の韓国大統領は任期の末期になると反日標榜を強化して人気取りに走った。そうしないと、退任してから厳しい訴追を受けるのが韓国のならいだからだ。分かっていても引退後の運命があのていたらくだから、命がけの反日なのだろう。

 ところが、朴槿恵大統領は就任早々反日を掲げてしまって、行くところまでいってしまったから、もうこれ以上どうしようもない。どうしようもないから今のところ黙っているようだ。残っている人気取りは南北統一しかないが、いまは平和的な方法を選択出来ない。となればいっそのこと強引に北朝鮮をつぶしてしまえ、といまは思っているのではないか。

 すぐにはつぶれはしない。ちょうど危なくなった頃、彼女は任期満了となる。退場して評論家としていいたいことを言えば良い。彼女の失政に対する非難は、どさくさ紛れにうやむやになるだろう。韓国国民などどうなろうと知ったことか。

 彼女が思っている声がそう聞こえたような気がするのは空耳か?

君子、危うきに近寄らず

 北朝鮮が核実験につづいて(事実上の)ミサイル打ち上げを強行したことに対して、朴槿恵大統領が開城工業団地からの撤退をはじめ、制裁措置を発動した。いつもに似ず迅速で強硬な行動に対し、韓国国民の大統領支持率は大きく回復しているという。

 この人の判断は、自国にとって最も大事なこと、が基準ではなく、国民の人気に基づくものだから、支持率が回復するのは狙いどおりだろう。当然その判断に一貫性などない。とはいえ、現時点で北朝鮮に対して何らかの行動を取らざるを得ないのだから、ほかの選択肢はないのだけれど。

 問題は中国との関係である。アメリカ、中国、日本などとの関係のなかでの韓国の立ち位置は、大きく中国寄りであった。中国との経済的な関係がますます大きくなっていくなかで、政治的にも中国寄りになることをアメリカは危惧していただろうと思う。

 その中国へすり寄る行動の、大きな要因が反日であることも確かなことに思われる。露骨に日本と距離を置くことを選び、積極的に外交を進めた朴槿恵大統領は、外国を訪問するたびに日本の悪口を言い、日本をナチスドイツと同等の犯罪国であると非難してきた。外交の目的がそもそもなんだったのかよく分からない。反日プロパガンダが目的なら、日本を訪れることなど考えたこともないだろう。国民がそれを望まないからだ。  

 朴槿恵大統領は、習近平との親しい関係が構築出来た、と自負していたのだろう。確かに中国は、北朝鮮よりも韓国を上位においているように見えた。だから、北朝鮮の制裁について朴槿恵大統領が要請すれば、習近平はそれに応えてくれる、と信じていたのかもしれない。そうなれば、彼女の国際的な評価も国内の人気も大いに上がったことだろう。

 ところが案に相違して、中国は朴槿恵の要請に無反応だった。つまり無視した。韓国の要請にこたえて北朝鮮の制裁に動く、などという選択肢など、はなからないようだ。

 習近平の対応は、韓国との関係など斟酌する必要があるほどのものとも思っていない、と感じさせたのだろう。それがきっかけか、朴槿恵の中国に対する態度が激変したように見える。

 韓国はにわかにアメリカにすり寄り、中国の最もいやがるTHAADの設置まで推進しようとしている。これが対北朝鮮対策というより、中国を対象にしていることは明らかだ。朴槿恵は嫌がらせのつもりが本気になってしまったのかもしれない。

 中国は北朝鮮になにもしないだろう。制裁もしないが今以上の支援もしない。もし北朝鮮になにかことが起きて金王朝が崩壊しても、国境を越えようとする難民を銃を用いて阻止しようとするだけだろう。そうなれば難民は南へなだれ込むしかない。韓国は同胞を撃つことなどできないから、受け入れるしかない。

 すでにそのようなぎりぎりの状態になりつつある、と思える。韓国でも多くの人がそう感じ始めているのではないだろうか。

 韓国のメディアなどでは、南北統一を前提とした夢を語るものが散見される。韓国の人口は四千万人足らず、その人口は少子高齢化が進んでそろそろ減り始める。人口は国力だから、南北統一による人口増は韓国の成長に寄与する、と期待しているようだ。

 夢は統一の後の世界の話であり、統一に至るまでの困難について、また、想定される経過を語るものを見たことがない。考えている人は少なくないはずだが、韓国のメディアはそんなものを取り上げないのだろう。

 その際に韓国を援助するのを期待されているのがどこであるか、まさか中国ではあるまい。慰安婦問題について政治的な幕引きを強行したのが、そのための日本へのメッセージだと韓国は思っているかもしれないが、日本人はよほどお人好し以外はそう思わないはずだ。ところが、今年に入って日本人の嫌韓比率が急減しているというニュースを見た。日本人はよほどお人好しなのだろう。

 北朝鮮の金王朝の崩壊の可能性が高くなっている。あんな異常な体制が、そもそもいままで存続してきたことこそが不思議なことではないか。その異常さがさらにひどくなっているのだから、当然崩壊の可能性も高まっているはずではないか。

 北朝鮮の異常さのエスカレートは、実は無意識に「もうだめだ、助けてくれ」というメッセージではないか。

 この有事を想定し、日本は準備しなければならないし、さいわいそれが可能なのが日本だが、韓国にはその準備ができていない。有事となれば韓国は日本に救いを求めるだろうが、できればなるべく日本はそれにかかわらない方がいい。日本が助けても、「過去の贖罪である」、とか、「やましいと思うから助けたのだろう」、とふたたびみたびいわれ続けることがほぼ確実だからだ。

 最低限朴槿恵大統領が日本に来て「韓国国民を代表してお願いします」と頭を下げること、さらに「反日を二度としません」、と約束することが前提だろう。そんな約束は「足元を見られたものだ、させられた約束だ」と後でいうかも知れないが。  

 こんな事態が妄想であり続ければいいのだが・・・。

 「君子、危うきに近寄らず」の「危うき」は、変節を何とも思わない、朴槿恵という怒れる女性のことで、そのことを書こうとしたら、文意が逸れて、思わぬ長文になってしまった。申し訳ない。

2016年2月20日 (土)

平岩弓枝「私家本 椿説弓張月」(新潮社)

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 一昨年の秋に新刊として店頭で見かけたが、買いそびれていた。今回みつけてためらわず購入。

 椿説は「ちんせつ」が正しい読みらしい(私は「ちんぜい」と読みなしていた。理由は後で述べる)。これは源八郎為朝の話である。為朝は源義朝(頼朝や義経の父)の弟である。つまり頼朝の叔父さんだ。強弓を引く豪傑として知られている。この英雄談は、あの「南総里見八犬伝」を書いた滝沢馬琴によって、「椿説弓張月」という物語に仕立てられている。

 英雄でありながら不遇に終わった生涯だったが、物語では生きのびて琉球で大活躍することになっている。

 滝沢馬琴の「椿説弓張月」を、子ども向けにした本を小学生の時に読んで、為朝の活躍に胸を躍らせた。実に痛快な本だったが、そこには「ちんぜい」とルビが振られていた。源八郎為朝は一時九州に落ちのびて、わずか三年で九州北部を制圧、そのために鎮西八郎と称された。だからそれを掛けて「ちんぜい」と読みなす場合もあるのだ。

 前半は保元の乱から平治の乱にかけての時代。その中で時代の波に翻弄されながら義に生き、そのためにつねに損な役回りを引き受け続ける。史実ではそのまま死ぬのだが、人々はそのような英雄を生き延びさせるものだ。

 後半は一転して舞台は琉球へ。琉球王朝が暗愚な国王のために侫逆な臣や妖婦の暗躍するところとなり、そこへ妖人まで現れて、義臣は陥れられ美姫は無惨にも命を落とす。その怪を晴らすのはもちろん八郎為朝であり、その子の舜天丸である。

 彼らはいままでかかわってきた、不遇に死んだ人たちの魂に守護されながら、琉球の暗雲を払い、後に舜天丸は琉球の中山王となる。

 後半は怪異に満ちた波瀾万丈の物語であり、実に楽しい。南総里見八犬伝の怪異的な話の作者である滝沢馬琴の原作のおもしろさそのものである。映像にしたらさぞ楽しめる映画となるだろう。

西丸震哉「食物の生態誌」(中公文庫)

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 著者は食生態学者にして冒険家。兄は西丸四方、島崎敏樹(ともに精神病理学者)、彼らの母方の大叔父は島崎藤村である。1923年(大正12年)生まれ、関東大震災の年の九月生まれなので震哉と名付けられた。

 この人の本は、書きたいことを書きたいように書いたものでありながら、読んでいてとても楽しい。血筋からくる文才があると共に、書き添えられているヘタウマのイラスト(本人が書いている)も味わいがある。

 生物としての人間が、文明の発展と共に生命力を失っていくことを憂いながら、それに順応していく人間と、それについて行けない人間のそれぞれの立場から世の中を見直す。

 人間が増えすぎて食糧が足らなくなる、と警鐘を鳴らし、ユーモラスな書きぶりなのに、未来についてはきわめてペシミスティックである。これが書かれたのが四十年近く前だから、ご託宣どおりだと、世界はかなり絶望的なことになっているはずだが、さいわいまだ世界はなんとか回っているようだ。

2016年2月19日 (金)

山口瞳「禁酒 禁煙」(中公文庫)

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 山口瞳はサントリーの宣伝部に在籍していた。つまり開高健の後輩である。そのことを知っていて山口瞳を読み始めたわけではない。それに開高健と山口瞳は文章の肌合いが全然違う。けれど、私にとって、二人ともとても肌合いが合う。さらに山口瞳が「先生」として敬愛している高橋義孝先生(ドイツ文学者で、エッセイスト)も、私は大好きだ。高橋義孝の影響をおおいに受けているのだから、山口瞳が面白くないわけがない。酒に飲まれるほど飲んで、稚気あふれる失敗(はたの人間にとって、ときに迷惑だが)をするところまでよく似ている。

 この本は「男性自身」シリーズのなかからのアンソロジーである。「男性自身」シリーズも、「江分利満氏」シリーズも、私小説風エッセイと言えようか。「男性自身」はエッセイに近く、「江分利満氏」は私小説に近い。

 私は二百人近くが暮らす大学の寮で、ただ一人煙草を吸わなかったのが自慢である。ただし私の部屋はたまり場でもあったので、いつも数人が煙草を吸い、部屋は煙で霞んでいたから、ほとんど喫煙しているのと変わりがない。だから人が煙草を吸うことに抵抗はない。嫌煙権などを振りかざし、喫煙者に目くじら立てる風潮にはなんとなく違和感を感じる人間である。

 煙草は試しに吸ってみたことがある。いままでにひと箱分くらいは吸っただろうか。まったくむせずに吸うことができるが、吸い続けようとはついに思わなかった。そもそも煙草はおとなの男のシンボルの意味合いがあるように思う。だから成人前の少年が、煙草を吸うことで、自分が一人前の男であることを誇示するのだろう。誤解を怖れずにいえば、女性の喫煙にも、男性へのあこがれとコンプレックスがあるのではないかと思う。そうではなく、ほんとうの安らぎのために喫煙している女性も知っているので、すべてとはいわないが。

 酒は、父は下戸だが、母方の祖父や叔父が大酒飲みだったので、高校生の頃から年に二三回だけだが、祖父の家で人並みに飲んでいた。もちろん泥酔するほどのませてはもらえないが。だから大学に入って飲む機会がたくさんあったのはなんとなくおとなになった気がして嬉しかった。こちらはしばしば飲み過ぎて粗相をし、迷惑をかけた。

 米沢という雪国は、酒豪が多い。けた違いに強い人がいる。そういう先輩達に鍛えられたので、いつしか躰が酒になじむようになってしまった。

 「禁酒 禁煙」というけれど、喫煙しないから禁煙をすることが出来ない。それに、今のところ必要に迫られていないので、禁酒するつもりはない。

 肝心のこの本の話だが、読むにしくはない。ところどころ著者の強いこだわりが書かれていて、その繊細でありながら強い意志の表されているところが、読んでいてなんとなく嬉しくなる、そういう本である。

乱れまなこの勝手読み(32)

 中国で最大、そして世界で最大といわれる銀行は、中国工商銀行である。スペイン・マドリードにある中国工商銀行マドリード支店にスペイン警察の捜査の手が入り、支店長以下数人が逮捕拘引された。巨額のマネーロンダリングを行っていた、という容疑がかけられているという。中国ならば、いかにもありそうなことだとつい納得してしまう。国家的な背景があるのか、中国工商銀行独自のものなのか、今のところ明らかではない。明らかになるとも思えない。

 中国ではアングラマネーや政府高官達の巨額の汚い金が、その隠し所を求めていることであろうから、おそらくそういう金を合法的なものにする魔法をかけていたのであろう。

 これがスペインで暴露された、ということの意味はどこにあるのか。中国政府が情報をリークしたのか、それとも欧米、勘ぐればCIAあたりがそれを暴いたのか。失礼ながら、スペイン単独でこのような成果が揚げられるとは思えないのだ。しかもスペインである。これは、より巨額なものをこれから暴露するぞ、というなにかの脅しの意味があるような気がするが、考えすぎか?

 中国の中央銀行(日本の日銀にあたる)である中国人民銀行が、火曜日と木曜日に限定していた定例公開市場操作を毎営業日に変更する、と発表した。金融不安回避のための措置を迅速にするためだそうである。つまり定例公開市場操作ではなく、常時公開操作となるわけで、つねに中国の株価は中央銀行が操作することを公言したわけである。緊急時に行うべきことをつねに行うというのは、自由市場とは決して言えない。

 中国で株で利益を上げている主な人種は、この株価操作がいつどのように行われるのか事前に情報を持っている人だけ、といわれる。それはそうだろう。

 中国の王毅外相が、韓国に対して、六カ国協議に先立ち、北朝鮮をテーブルに着けるために、「朝鮮半島の非核化」と「朝鮮戦争の休戦協定から平和協定への転換」を提案した。韓国は、非核化を優先するとして提案に反対した。

 朝鮮戦争が硬直状態になり、休戦協定を結んで戦争は停止している。ただし休戦協定であるから、それを破棄すれば宣戦布告せずに開戦することができる状態なのだろう。実際北朝鮮は昨年だったか、休戦協定は破棄状態だ、という脅しのことばをとなえていた。

 ところでその休戦協定は連合国軍と北朝鮮との間の協定なのか、中国も加わっていたのかはっきりしなかったので、Wikipediaで見てみたら、中国も報徳懐(建国の功労者だが、後に毛沢東の大躍進政策を批判し、失脚する。彼の粛清が文化大革命の血祭りの始まりであった)が休戦協定に署名しているようだ。中国は義勇軍として北朝鮮に肩入れした、という建前だったが、ある時期からは北朝鮮軍よりも中国人民軍のほうが多数の兵力で、しかも戦死者も一番多かったはずだ。最終的に中国人民軍が受け入れなければ休戦協定は結べなかっただろうから、その休戦協定に中国の代表が署名するのは当然だろう。

 ということは、韓国と北朝鮮の間だけではなく、韓国と中国も休戦状態のまま、ということだろうか。えーっ、そうするとそういう関係の相手国の国威発揚の軍事パレードに参加する朴槿恵大統領とは、どんな感覚の持ち主なのだろう。無節操というべきである。

 もともと休戦協定を平和協定、平和条約へ、という要望は、北朝鮮がアメリカに対して強く求めているもので、それを王毅外相が代弁したに過ぎない。韓国が受け入れるはずがない。王毅外相という人、いかにも紳士然とした端正な顔をしているが、だんだんその顔が陰険な歪んだ顔に見えてきている。もちろんわたしの偏見である(のだろう)。

 弟夫婦が私の両親と同居して面倒を見てくれて、最期を看取ってくれた。だから弟の家が私の実家である。義妹(弟の嫁さん)にはほんとうに世話になったと感謝している。

 その義妹の父親が亡くなり、通夜と葬式があったので、義妹の実家のある静岡県の清水に行ってきた。96才の大往生である。

 義妹の両親には何度か会っている。私の両親の葬儀にも老体をおして来てくれている。具合が悪いことはきいていたけれど、こんなに急に亡くなるとは思っていなかった。

 実は義妹の父親と私の父とは戦争中に同じ部隊にいたことがあるのだそうだ。一時的だったので、私の父はうろ覚えだったようだが、義妹の父親はよく覚えているといっていた。不思議な縁である。

 とても頑固で、というのが義妹のことばだが、私にとってはとてもやさしい、温厚な人だった。こころから冥福を祈っている。

 昨日、自分のブログについて、どんな気持ちで書いているのかをあえて書いたら、たくさんコメントをいただいた。どれも嬉しくなるようなものばかりであった。

 正直、どういう風に読んでいただいているのか、書いている本人にはなかなか分からないものなのだ。けっこう自信がないというのが本音のところだが、いまは木に登った豚の状態である。

 これを励みにしてさらに駄文を書き続けようと思う。

 私は苦言を頂いても、それに反感を持つということは絶対しないつもりである。だから、あれっ、ちょっと変だ、と思ったらどんどん指摘していただいてかまわない。いわれなければ分からないことを教えてもらうくらいありがたいことはないのである。

2016年2月18日 (木)

おおげさですが

 自分のブログを継続的に読んでくれる人がいることはとても嬉しい。たまたま読んで面白くなければふたたびみたび読んでくれることはないだろう(はずだ)。

 以前私にとってのブログは自己紹介だ、と書いたことがある。なにかを見た、観た、旅に行った、読んだ、そうしてどう思ったか、をブログに書くことは、私がどんな人間であるかの表白そのものだろうと思うからである。

 そんなものを見ず知らずの人が読んでも、ふつうは「あ、そう」で終わりである。それをせめて「へえ、そう」にできないか、くらいのことは考えて書いているつもりである。

 そのためには誤字脱字、まちがい勘違いを極力少なくしなければと思っている。それなのにこのていたらくか、といわれれば恐れ入るしかない。てにおはや句読点についてもおかしな使い方をしていないか、気にしているつもりなのだ。ただ、ちゃんとした文章の勉強をしていないので、自信はない。

 三十代の頃、一念発起して文章の基礎を勉強しようと、NHKの通信講座を受講したけれど、ちょうどその頃仕事が忙しくなって、ほとんど最初の頃だけで継続出来なかったことが、今になって悔やまれる。もう一度チャレンジしてみようか。

 センスというものがある。ほとんど生来備わっている才能といって良いかもしれない。高校生の頃、プロのカメラマンを目指す、というクラスメイトがいた。兄が職業カメラマンだといい、彼はその兄から宿題を出されていた。一日フィルム三本以上の写真を撮ること、というのがその宿題であった。それを自分で現像し、プリントする。彼は当時千葉でいちばん高層であった、できたばかりの千葉県庁の屋上に上がる許可をもらって、連日そこから写真を撮ったりしていた。

 生まれて初めて一眼レフというカメラを見たし、写真集(ガウディの建物の写真など)やカメラ雑誌も彼に見せてもらった。もともと写真好きだったけれど、さらにそれが高じたのは彼のせい(おかげ)である。彼がプロの写真家になったかどうか、高校卒業後行き来がないので知らない。

 なにが言いたいかといえば、センスは生来のものであるけれど、研鑽が必要だということである。センスがあってもそれがなければ才能は開花しない。ましてやその才能がないものは、せめて多少の努力をしなければ、誰にも「へえ」といってもらえない。

 だから駄文をせっせと書いている。以前より少しでもましになっているのかどうか自分では分からないが、「良くなっているよ」といってくれる優しい友人もたまにいる。

 短文を書き散らしても、ほんとうの文章の研鑽にはならないと承知しているが、それでも書くことが楽しみであり、読んでくれる人がいることがよろこびであり、しかも惚け防止に多少はなっているかと思えば、ありがたいことである。

2016年2月17日 (水)

開高健「ああ好食大論争」(潮文庫)

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 どうでもいいことからいう。開高健は「かいこうたけし」が正しい読みなのだが、私はこの人の本に出会ったときに「かいこうけん」として記憶してしまい、いまだにそのままであって、もう直す気もない。
 
 中学三年生の時に最初に読んだのが「パニック」という短編小説で、小説のおもしろさをあらためて知るきっかけになった。その後高校生の時に「日本三文オペラ」を読んで強烈な印象が残った。その印象は、後に米沢で学生生活を送ることになったときのホルモン好きにつながった(読んだことのある人なら意味が分かるはず)。

 更にその後、小松左京の「日本アパッチ族」を読んで、ある意味でその類似性を感じるとともにその違いも楽しんだ。この小松左京も対談相手に選ばれているのが嬉しいではないか。

 この「好食大論争」という本は、対談集である。きだみのる、檀一雄、阿川弘之、石井好子、黛敏郎、草野心平、團伊久磨、牧洋子、小松左京、荒正人、池田彌三郎、安岡章太郎たちと、食に関して大いに語り合う。錚々たる面々、多くは私が敬愛し、大好きな人々である。

 こうしょく、といえば好色が普通である。好色と好食に通底する人間の本能的なものがあることを、冒頭のきだみのる・檀一雄との対談(「美食とエロスと放浪と」)で大いに論じている。

 開高健の対談集に「午後の愉しみ-開高健対談集」という大部の本(愛蔵している)があるが、その中から二つほどがこの本に収められている。その本も、この「好食大論争」も、健啖、豪酒、強記、博覧、奇味、珍味、怪味、魔味について盛りだくさんに語られている。

 巻末の解説で、向井敏が開高健そのものを論じている。この人はきまじめで、わたしの大好きな書評家であるが、開高健の友人の一人でもある。開高健を真に論ずることができるのは、この向井敏と谷沢栄一しかいない、とわたしは思っている。

 潮文庫というのはいまもあるのだろうか。もしなければこの本は手に入らないかもしれない。

2016年2月16日 (火)

東海林さだお・椎名誠「シーナとショージの発奮忘食対談」(文春文庫)

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 ひところ「食」や「酒」に関する本を書店で見つけると、購入して楽しんでいた。料理の本あり、食通の本あり、肴と魚の本あり、ゲテモノ食の話ありだが、もちろん高い本などは買わない。そんな本ばかりを整理してみたら、文庫本だけで五十冊を超えている。トイレや寝床で読むのにまことに手頃で良い。

 さっそく読了したのがこの本である。

 食べものについて自分の人生観を投影させる二人である。そのこだわりはユーモラスであるけれど、ふざけているわけではなく、二人は決して譲れない厳然たるものを持っている。そしてそのことに私もほとんど共感してしまう。

 ところでこの中の「魚介月旦」は、読んでいて思わず声を出して笑ってしまった(もちろんほかもすべて楽しい)。月旦、というのは字だけでいえば月の初めの日、ということだが、正しくは人物評という意味である。古代中国では人物評価が非常に重要であり、その批評名人が月の初めにその批評会をしたことから来ている。たぶん名人は密かな情報網を持っていたのだろう。

 「魚介月旦」では、人物ではなく、魚介を擬人化して批評していく、という趣向なのだ。二人のセンスが抜群なことが読んでいてよく分かる。イカが色っぽく横座りしているところなどが想像されておもわず笑ってしまうのだ。どうしてなのかは読んでみて欲しい。

 しかもその月旦が延々と続けられる。二人とも興が乗ると果てしがないのだ。このエネルギーにも感心する。こんな風に遊べる相手がいたら、酒が楽しいだろうなあ、とこころから思う。 

 こんな変わった食べものの話も楽しいですよ。

にわかに多忙

ほとんど「毎日が日曜日」という日々なのだが、昨日立て続けに用事が舞い込み、今日から多忙。


実は日曜日から兄貴分の人と雪見酒温泉旅行に行こうと予定していた。それが兄貴分の人の、にわかの体調不良でキャンセルとなり、一人で出かける気にもならず、ぼんやりしていたのだが・・・・。それが却ってさいわいしてその用事で走り回ることが可能になった。

というわけで、ゆっくりブログを書いている時間がとれるかどうか分からない。最低一日一回くらいは、なにか書くつもりだけれど。


2016年2月15日 (月)

山口瞳「愛ってなに?」(新潮文庫)

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 著者得意の短編集。江分利満氏のシリーズとはだいぶ趣を異にした、男と女の物語集である。ある人生の一断片から、主人公とそれにかかわる人々の人生の過去と未来が、フラッシュに照らされたように浮き上がる。

 ここで描かれる男と女の関係は、たぶんもう一昔前のものだろう。われわれより若い人たちにはこのような関係は理解しにくいかもしれない、などと思うけれど、実は普遍的なものなのかもしれない。何しろ物語に描かれるこのような体験はほとんどないので、よく知らないけれど、想像はできる。

 男の身勝手さ、女の狡猾さ(狡猾であるくらいの賢さのある女性こそ魅力的に見えるのか)は、男と女の関係では普通のことで、ほとんど本能的、生理的なものなかもしれない。それが苦い記憶としてそれぞれに刻印されていくのが人生なのだろうか。

 作家というものが、ある一瞬の情景や会話からどんな物語を空想し、創造するのか、そしてそれがどれほど読者に感情移入させるのか、その能力に敬服する。さらりと読みやすいように書いているけれど、実はおそろしいほど研ぎ澄まされた感性がそれを可能にしているのだろう。

 蛇足だが、高倉健主演の映画「居酒屋兆次」の原作は、この山口瞳の「居酒屋兆次」である。

前渡不動山(2)

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仏眼院本堂側から山門方向を望む。中央左手の瓦屋根は鐘楼。

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横手にあった大きな陶器のなす。大柄な私でもこの上に座ることができる。ベンチがわりなのだろうか。しかし冬には尻が冷たい。

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承久の乱、摩免戸(前渡)の戦いについての趣意書。

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木曽三川を挟んでの両軍の対峙図。尾張側に陣を構えた鎌倉側と、美濃側に陣取った京都側だが、鎌倉側が圧倒的な兵力で、圧勝した。

鎌倉の源三代での滅亡、北条執権への権力委譲のどさくさに乗じた後鳥羽上皇が、政権奪還を狙って兵を挙げたが、鎌倉側に粉砕された。

両軍の戦死者たちをこの辺りに葬ったらしい。

動揺する鎌倉をまとめたのは北条政子(頼朝夫人)の声涙下る演説だったという。

私の母はこの北条政子が嫌いで、だから政子、という名前も嫌いだった。女傑が嫌いなのだ、といっていたが、政子という名の嫌いな人がいたと思われる。読んでくれている人に政子さんがいたらごめんなさい、私は特に嫌いではありません。

下りの道筋で見た石像をいくつか並べる。

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素朴であるが、味がある。

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最後に、これは弘法大師と思われる。膝から下をはだけたものは珍しいと思う。暑くて足がほてったのだろう。杖がわりの枝が似合っていて、ちょっと楽しい。

これで各務原小ドライブは終わり。


2016年2月14日 (日)

前渡不動山(1)

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名古屋の北側、木曽川の南岸に江南市がある。となりの岩倉市を挟んでそのむこうだから、わが家からも近い。中国でただ江といえば長江、つまり揚子江のことで、江南といえば揚子江の南側という意味である。それに倣って、日本では大河である木曽川の南側の街を江南市と名付けたのだろう。

その江南から川を渡って岐阜側へ、つまり尾張から美濃へ渡る橋の一つ、愛岐大橋を渡ればそこが各務原である。各務原の市街に入る手前の川岸は工業団地になっている。さらにその向こうは各務原の自衛隊基地である。航空基地であり、ブルーインパルスの航空ショーが開かれるところなので、知っている人も多いだろう。航空宇宙博物館があるのはそういう場所だからである。

そこよりもずっと川岸に近い、愛岐大橋からすぐのところに前渡不動山がある。海抜90メートル足らずの山で、正式名称は矢熊山という。麓に駐車場があり、営業でこの近くを走り回っているときはそこにあるトイレがありがたかったし、時間調整でここに立ち寄ることもあったけれど、山の上には登ったことはない。

Dsc_7974 登り口

一度上に上りたいと、三十年思い続けて、今回初めてその思いが叶った。

この周辺は鎌倉時代に起こった「承久の変」の戦いの場所である。そのことは後で記す。

登山道の両脇には古人が寄進したと思われる石造りの仏像がたくさん列んでいる。寄進者の名前も彫り込まれているけれど、古いものは摩滅してよく読めない。

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登り口近くのよだれかけ付きの石像。

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登山口近くに木像もある。これもかなり傷んでいるが、もうひとつはもう像の体をなしていない。

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こんな石像もある。不動様か。

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このように道筋にずらりと並んでいる。いったい何体あるのだろう。

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つづれ折りの坂道を上り続けると仏眼院というお寺がある。眼病に御利益があるらしい。山門前にはこのように石像がずらりと並んで出迎えてくれる。

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本堂の両脇に仁王が睨みをきかせている。ばちあたりなことだが、格子の間にレンズを入れて撮影。

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矢熊山は見晴らしがいいので、あたりがみわたせる。左斜め上から右手前にかけて木曽川が流れる。このあたりが古戦場だったのだろう。川向こうは犬山か。小牧も近いはずだが、小牧城がどこか分からない。

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西北側を見れば、先程までいた航空宇宙博物館の青い建物が見える。その向こうは各務原の市街だ。

つづく

朝寝

 高杉晋作が即興で作った都々逸だという、「三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい」、のような朝寝がしてみたいのだが、相手になってくれるような女性はいないし、そもそも貧乏性で、夜更かしをしてもたいてい六時過ぎには目が覚めてしまう。

 それでも夜明け前にちょっとだけ目が醒めてしまい、二度寝したときなどに、たまに朝寝ができるときがある。たいてい目覚めたときに「しまった、寝過ごしてしまった」と思い、なにか疚しい気持ちを感じたりするけれど、まれに目覚めがとてもさわやかなことがある。

 何時に起きても別にかまわないのであって、誰にも迷惑をかけないことがようやく意識にしみこんできたようだ。さはさりながら、「規則正しく明るい生活」を標榜し、自分にある程度の歯止めをかけておく、というルールは守りたいとも思っている。

 そんなぎりぎりの狭間のところの、心地よい朝寝の目覚めを、今朝は寝覚めた。・・・・どうも理屈っぽくていけない。

2016年2月13日 (土)

航空宇宙博物館(4)

飛行機やヘリコプターが所狭しと並べられているのでそれぞれ一機だけの写真を撮りようがない。機数が多すぎるのか、会場が狭すぎるのか、両方だろう。


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このコーナーはヘリコプターが並んでいる。

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そばで撮ればこうなる。

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さつき一号ロケット、とあるがよく知らない。

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これはおなじみ、H-Ⅱ型ロケット。いまは改良型が飛んでいる。

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ロケットを縦割りにしておいてある。右下の人物とくらべると大きさが分かる。

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日本が有人飛行に成功するのはいつだろうか。

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T-1ジェット練習機。

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T-2 CCV研究機。

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T-2高等練習機。

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ジェットエンジンとジェットの排気口。

むかし、ソビエトのミグ戦闘機が北海道に飛来し、パイロットが亡命を求めてきたことがあった。丁度そのとき、千歳空港の滑走路上の飛行機のなかにいた。

スクランブルのジェット機が次々に目の前から飛び立つのを見た。そのときのジェットの排気口のオレンジの色が鮮烈に記憶に残っている。

航空宇宙博物館はこれでおしまい。期待した以上に面白かった。各務原ではもう一カ所行ったので、次はそこの写真を。

航空宇宙博物館(3)

前回、機名が不明と書いたけれど、


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この複葉機は乙式一型偵察機だと、ちゃんと分かるような写真があった。

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さて大きな建物の中のこの飛行機はSTOL実験機「飛鳥」。なかを見学できる。

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あこがれの操縦席。

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なかは機器だらけ。

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後部には可愛いトイレが。こんなところで用を足すのだ!

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あらためて正面から。これが「飛鳥」の顔。

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となりにあったヘリコプターの操縦席。

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そのヘリコプターの顔。実は操縦席が見やすいように前半分しかない。

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階段下の隅に「はやぶさ」のコーナーがあった。あまり騒がれすぎたので、ちょっと私はひいている。

まだつづく

航空宇宙博物館(2)

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館内で入場券を買って入ると、最初にこの複葉機に出会う。なんという飛行機か見てくるのを忘れた。

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日本で作られた飛行機の勇姿がパネルになっている。

ほとんど軍機だ。

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三式戦闘機「飛燕」の模型。

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零式戦闘機「零戦」。

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三菱式通信連絡機「神風号」。

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当時の航空兵の装備。いまとなればなんとなくなつかしい。もちろんまだ生まれていなかったけれど。

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となりの大きな体育館のような部屋を覗くと、たくさんの飛行機が。

つづく

2016年2月12日 (金)

航空宇宙博物館(1)

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いつもその近くを走っているのに立ち寄りそびれているところ、というのがある。先日はその一つ、名古屋のオアシス21をクリアした。

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今日は各務原の航空宇宙博物館を訪ねた。この近くに得意先の工場があって、いつも案内板を見ていたのだが、来たのは初めてである。駐車場は無料。館内に入らなければ外の飛行機見学は無料。

入り口を入るとすぐのところにヘリコプターがある。

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名古屋消防局の救難ヘリである。かなり激しく使い込まれたのだろう、くたびれた姿である。ご苦労様であった。

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となりにあるのが日本の名機、YS-11。これは輸送機型。

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救難飛行艇US-1A。顔が面白い。

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こちらは対潜哨戒機P-2J。

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その正面の顔。コクピットに坐ったら、スリルがありすぎかもしれない。

ほかにもあるけれど、きりがないので館内に入る。入館料、おとな800円だが、60才以上はシニア割引で500円。ありがたい。

各務原は「かがみはら」と普通読むが、これは各務を「かくむ」からの転用で「かかむ」と読みなし、本来「かかむがはら」であったらしい。この博物館のプレートの「かかみがはら」というのは本来の読み方に近い。

つづく

バブルがはじけているのか?

 リーマンショックがきっかけの世界金融危機に対し、欧米は日本円にして60兆円を超える金融緩和を行った。日本は戦力の逐次投入といういちばんお粗末な対応をした。白川日銀総裁が批判されているのはそういうことだろう。しかし金融危機対策はそれでは不足だった。

 それに続いて中国は4兆元(当時のレートで日本円で約50兆円、いまなら70兆円)のお金を投入した。これが結果的に世界の金融危機を救った。右肩上がりの中国にはその余裕があった。世界は中国を評価し、その恩恵に感謝した。

 世界の経済が回復するなか、日本だけ取り残された。そんなさなかに東日本大震災が起きた。無策な民主党とはいえ、震災復興のために巨額の金を投入しないわけにはいかないから、金がつぎ込まれた。民主党政権が自滅し、安倍政権は黒田日銀総裁を選び、遅ればせながら、世界があっと驚くほどの巨額の金融緩和を行い、ようやく世界に追いついた。世界も中国も日本も金がだぶついている。

 まことに粗雑ながら、以上が私の世界経済についての認識である。

 いま世界は同時株安になっている。すべてがシュリンクしているように見える。どうしてこんな事態になっているのだろうか。

 中国が金融危機に対して投入した4兆元の金は、投機に向けられた。それは土地バブルにつながり、シャドーバンキングを膨らませ、貧富の差の急拡大を生んだ。中国政府がそれを是正するために、土地投機にブレーキをかけた。それによりバブル崩壊の可能性が出て来た。投機マネーの受け入れ先をもうける必要があって、中国政府はそれを株投機に振り向けた。中国株の異常な乱高下はその結果である。結局もとのもくあみ、というところだろう。

 まさに世界はこの中国の状況と同じではないか。金融危機対策として巨額の公的資金が投入され、限界ぎりぎりまでの金融緩和が行われた。市場に投入された巨額の金が投機に回り、世界の株価をつり上げてきたのではないか。原油高もそれに便乗したものだっただろう。これらの金は実態経済による金ではない。ただの数字である。

 夢が覚めればそんな絵に描いた金の正体が現れる。世界が不安定化すると、人は夢から覚めてしまう。株などただの信用債権であろう。不安になればただの紙切れである。紙幣だってそうだ。

 どこが世界の信頼の限界点なのか、いま誰も分からない。だから株は下がり続け、銀行は危機に陥り、原油は下がり続ける。

 これをまさにバブルがはじけている、というのではないのか?

 投機とは無関係に生きてきたから他人事で見ているけれど、年金が危機になることはまさかないだろうなあ。無傷というわけにはいかないだろうなあ。

2016年2月11日 (木)

冗談もほどほどにして欲しい

 顔面を興奮で真っ赤にしてわめいている、共和党のアメリカ大統領候補、トランプ氏を見ていると、まともな人間だとは思えない。品位のかけらすら感じられないではないか。

 みんな冗談で彼をもてはやしているのかと思ったら、どうも応援している連中が、本人同様興奮状態になって、本気で彼を大統領にしようと思い始めているらしい。

 アメリカは集団発狂したのだろうか。冗談もいい加減にして欲しい。彼はパフォーマンスで演じているだけで、実際に大統領になれば、まともに国を経営する、と信じられる神経が分からない。それともどうなろうとかまわない、世の中がめちゃくちゃになって欲しい、とやけくそになっているのだろうか。どうなろうといまの世の中よりもマシだと思っているのだろうか。

 ほとんどISと同じではないか。破壊の後にこそあらたな創造がある、というのは革命の論理そのものだ。その前の混沌の恐ろしさを知らないのだ。

 カルト映画はしばしばディストピアを描く。ユートピアが理想の世界であるのとは反対に、絶望の世界がディストピアである。そのディストピアを描いた映画は、ユートピアを描いたものよりはるかに数多く作られているのは何故か。もともとユートピアということばにはこの世には存在しない世界、という意味が込められている。ユートピアが存在しない世界なら・・・却ってディストピアこそがリアリズムなのだ。

 ディストピアの描く狂的な指導者の、なんとトランプ氏に似ていることよ!

精神のガス欠

 本を読む気がしない、映画も特に観たいと思わない、出かけるのも億劫だ。いまそんなテンションの低い状態にある。そんな時、読書したり映画鑑賞をすることは、しなければならない、というような義務的なものになって、あまり楽しめない。集中力もない。

 言わば精神のガス欠状態である。そんな時はエネルギーが充填されるまで待つしかないようである。さいわいこの精神のエネルギーは自然に湧いてくるもので、なにかを注入する必要はない。

 かえって何かを注入しようとすると、エネルギーの充填が進まないから、なにもしない方が良いようだ。だから音楽を聴きながら、パソコンと囲碁を戦わせたり、大戦略ゲームをしたりして、時間つぶしをする。こんなことをしていては時間がもったいない、と内心では焦っているけれど、仕方がないのだ。

 最近精神の起伏が大きくなっているようで、時々こんな状態になるのはどうしたことか。鬱病ではないけれど、軽い鬱症状なのかもしれないが、そんな風に思うとさらに悪化するのがこわいので、とにかくやり過ごすことにしている。つきつめていくと、生きている意味なんてない、などと思いそうなのだ。

 老年になっても、無為を楽しむ、という境地にはなかなかならないものだ。これも欲のせいか。

世界は不安定化しているのか?

 株価がどんどん下がっている。その原因は、世界が不安定化している、という懸念からではないかと思ったりしている。

 世界は不安定になったのか。不安定になったとすれば、いまなったのか、以前からなっていたのか。それともまだそれほど不安定ではなくて、不安心理だけが先行しているのか。

 世界の安定に重しとして寄与してきたと思っていたアメリカが、意外に頼りないことが世界中に知られてしまったことは、大きな理由だろう。その上アメリカ大統領選の様子を見ていれば、アメリカが世界の安定に寄与するという役割を放棄するだろうとしか思えない候補者が、ずらりと顔を揃えているではないか。

 アメリカは経済的指標だけ見れば好景気である。ところが国民はそういう実感がないらしい。当然候補者たちは現政権の批判を繰り返すから、国民はますます不安になるだろう。

 中国は、アメリカが内向きになって中国に口を出さなくなることを期待しているから、現在の大統領選の様子は大歓迎だろう。しかしその中国自身がぐらついている。そもそも独裁政権下の自由経済など、矛盾しているのだから、右肩上がりの時代は見えなかったそのひずみが、いつか顕在化して収拾がつかなくなるのは当然だ。

 どう見ても世界は不安定化している、と見える。しかしそれがほんとうか、一時的なものかはよく分からない。

 ただ、不安定化しているなら、当分の間世の中は、つまり景気は悪くなるばかりで、経済的にはつらい時代が続くことになるだろう。いまからそのことを覚悟しておく方がいいように思う。備えあれば憂い無しだ。備えがあまりないのがちょっと心配だが・・・。

 閣僚の不祥事があったのに、安倍政権の支持率が少しも下がらないのは、そんな世の中の不安をみんなが感じているからだろう。そんな時代には、野党よりは自民党の方がずっとマシだと分かっているのだ。

2016年2月10日 (水)

誰から助けるのか

 「稼ぐに追いつく貧乏なし」ということわざがある。一生懸命に働いていれば、それに追いつく貧乏神はいない、つまり働けば生活は何とかなるものだということだ。

 ところが現実は厳しいから「稼ぐに追い抜く貧乏神」ということばもできたそうだ。貧乏人は働き続けても貧乏から抜け出せないという、あきらめのことばだ。

 私は金持ちではないが、同時に自分が貧乏であるとは思っていない。慎ましく生きれば食べるに困らず、ささやかながら楽しく生きる事はできる。そんなに夢中で働いたわけではないが、そういう老後を送れるのは、運が良かったのかもしれない。

 リストラなど受けずに済む会社に勤めることができたという好運と、比較的に右肩上がり気味の経済の時代に生まれたことの好運とがあった。

 現代は「稼ぐに追い抜く貧乏神」の時代だと、民主党や社民党や共産党は声高に叫んでいる。貧乏な人が貧乏なのは安倍政権が悪いからだ、と糾弾する。「われわれが政権をふたたび与えられればそれを変えてみせる」と本気で思い、本気で主張しているようだ。そして本気でそれを信じる人も少なからずいる。

 しかし、世の中に恨み言を言いながら、慎ましく生きれば生きられるのに、自分が金持ちでないことを怨んで不平をかこつ人も多い。マスコミで取り上げられる貧困者の中には、よく見るとずいぶん無駄な暮らしをしていたりして、これでは蓄えを残せないだろうな、と思うこともある。そもそも時代が変わって、ゆとりのある時代ではなくなっている。そのことが分かっていない人をあおって弱者救済を叫んでいるのが一部野党の面々である。

 いうまでもないことながら、アメリカや日本が右肩上がりの経済成長ができたのは、中国をはじめとする、世界の多くの貧しい人々がいたからである。彼らが「稼いで」くれたものの恩恵をわれわれがさきに受け取っていたからである。その人々が「稼ぎに稼ぎ」次第に豊かになっていけば、分け前が減るのは当たり前である。中国は国内の貧富の差をその稼ぎの元手にしているが、それも限度があるだろう。

 だからますます自分で稼いだ分しか手元に残らなくなっただけのことである。いままでが過剰だったのだ。だから自分で稼いだ分でやりくりしなくてはならないわけで、夢よもう一度はもうないのである。もう金利生活などというものはあり得ないのだ。

 貧乏の基準を変えないといけない時代なのだ。世界はどんどん平均化していくだろう。エントロピーの法則は経済にも当てはまるらしい。金持ちでないことが貧乏なのではない。

 話を戻そう。限られた予算から誰かを救済するのなら、それに優先順位をつけざるを得ない。まず助けなければいけない人は、「稼ぐ」ことのできない人であろう。働く意欲がありながら、子どもや寝たきり老人を抱えて働けない人、自分が病弱で働けない人などである。

 それをきちんとしないで「稼げない」人ではなく、「稼ごうとしない」人を救済すべき弱者に含めてしまうと、弱者救済の主張は空論になってしまう。野党の主張がしばしばうさんくさいのはそのせいかもしれない。ほんとうの弱者だけでは票にならない。

 彼らは優先順位を考えないから、却ってほんとうに助けなければならない人が置き去りにされるおそれがある。

 社会の仕組みに正すべきひずみがあることは承知している。しかしそれが現実の世界である。その中で人は生きていくしかない。いまは選り好みしすぎなければ、仕事はたいてい見つかる。働く気があるかどうかなのだ。

 誤解されるおそれのあることをあえて書いた。

老年について

 「老年には、やはりさまざまな問題がある。年を取ると、人に嫌われること。耄碌と呼ばれる惚けが始まること。とりとめのないことを、やたらにしゃべるようになること。偏屈になること。あるいは心配性になり、気むずかしくなり、怒りっぽくなり、口やかましくなり、さらには貪欲にもなりかねないこと・・・。老人に見られるこうした傾向が、年寄りを敬遠させ、老人を孤独に追いやることになる。そこで老人はいよいよ頑固になる一方で、ますますひがみっぽくなり、いつも自分が無視され、うるさがられ、軽蔑され、はては、愚弄されているとまで思い込むようになってしまう」

 うわあ、おそろしい。いま自分がそのような老年に入り、そうなりつつあると思うとほんとうにおそろしい。実はもうそうなっているのに、自分で分からないだけかもしれない。

 これは森本哲郎先生がキケロ(ローマ皇帝時代の政治家)について書いている文章の一部を引用したものだ。キケロは「老年について」という本を残している。

 「さて老人の貪欲に至っては、一体何の意味があるのか余は了解に苦しむ。何故ならば、旅路が残り少なくなるにつれて益々旅費を多く持とうと努めるとは、世にこれほど愚を極めた事がまたとあり得ようか。」とキケロは書いているそうだ。

 不安が貪欲を生む、と言う言い訳もあり得ようが、限度を超えた貪欲をそこら中で見聞きする。そしてその貪欲はいまや老年にとどまらず、若年にまで蔓延しつつあるようだ。

 人類そのものが老化しつつあるのか。わあ、おそろしい。

緑茶、紅茶、コーヒー

 嗜好品は人それぞれの好みがあるけれど、その好みは変化するものらしい。緑茶はもともと大好き。そしてコーヒーより紅茶が好きだった。それがいつの間にか紅茶よりコーヒーが好きになっていた。

 私は喫茶店にはほとんど行かない。営業で外回りをしていたけれど、誰かと待ち合わせるとき以外は、はいったことはない。それもその当時はコーヒーがそれほど好きではなかったからだ。

 それが金沢へ赴任してから、毎朝営業所で女性が入れてくれるドリップしたコーヒーが飲めるようになって、コーヒーの美味しさを知ることになった。その香りを嗅ぐとおいしいというより心地よい、と感じるのだ。

 面倒くさがりなので、自分で豆を買ってミルでひいてドリップする、というところまではいかないけれど、いつかはそうしたいとも思う。もらい物だけれど道具はあるのだ。

 しばらく中国に行っていないので、中国に行くと必ず買う中国茶も在庫が底をついた。昨年横浜の中華街で買ったプーアル茶も残り少ない。今度は神戸の中華街にでも買い出しに行こうか。

 最近紅茶をまた飲み出した。たまたまティーバッグのパックを買った。昨年、花巻に行ったときにシナモンシュガー(液状)を買ったので、シナモンティーを飲もうと思ったのだ。甘さがやわらかくてシナモンの香りも強すぎず、紅茶の香りを邪魔しない。けっこういける。

 ある日、思い立ってミルクティーにしてみた。うまいではないか!お茶にミルクを入れたりしたらお茶が可哀想だ、などと私は考えていた。だから自分でミルクティーを入れて飲んだのは初めてかもしれない。

 嗜好品が一つ増えた、という他愛のない話。

2016年2月 9日 (火)

望ましいか?

 NHKが無作為抽出した人に対して電話でアンケートをしたところ、「憲法改正に賛成の人が国民の三分の二以上になることは望ましくないことである」という答えた人が過半数だったという。

 そうなのか、と聞き過ごしそうな話だけれど、ちょっと待てよ、と思った。

 憲法改正に賛成するのも反対するのもその人の自由である。その自由であることを「望ましいか、望ましくないか」と問うことはいかがなものか。どうして「憲法改正に賛成か反対か」という質問ではないのか。それも実は変な質問なのだけれど。

 「望ましいか望ましくないか」、と問うのは、「それは良いことか悪いことか」と問うのに似ている。この質問には、憲法改正は悪である、という意識が潜んでいる。さらに勘ぐれば、憲法改正は悪いことですよ、という教唆が込められているともとれる。

 私は憲法改正が是か否かと問われても、どのような改正が提案されているかによって答えが変わるから、答えようがない。憲法に不備があり、適正と思えるような改正案なら賛成する。当たり前のことである。憲法は「不磨の大典」ではない。

 いま左翼を標榜する人たちが憲法護持を叫んでいる様子を見ると、彼らほど右翼的な保守主義者はいないのではないかと思えてしまう。なにがなんでも反対、というのは断じて革新ではない。

伊丹十三「ふたたび女たちよ!」(文春文庫)

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 この前に読んだ「女たちよ!」とくらべると、一つ一つの文章がだいぶ長くなっている。また、蘊蓄自慢のようなものがかなり少なくなっている。一つ一つの話しがちょとした物語風になっていて、そういう楽しみが味わえる。

 伊丹十三は、やはり個性的である。そのスノッブなところが好き嫌いを分けるかもしれないが、私はぎりぎりで嫌いではない。それに猫好きであることもあって点が甘くなる。

 ところでスノッブというと俗物根性、というような意味で取られるが、伊丹十三については俗物では決してない。むしろ俗物とは最も遠いところにいると思う。彼を俗物と思うとすれば、そう思うことが俗物なのかもしれない。

 ある意味で物事にこだわり、三流を嫌う、という意味でのスノッブなのだ。そのこだわりがいい格好しい、と見られるだろうけれど、つまりセンスがいいのだ。筋の悪いのが嫌いで、妥協が苦手なのだろう。

 人は妥協もするし、なにかにこだわりもする。そのこだわりをこのような本で読んで、私などはつい影響を受けてしまうのだ。それが生きにくくなることにつながっていても、それでいいのだ。

2016年2月 8日 (月)

大山鳴動鼠一匹

 昨日、三重県を走っていた関西線の列車が、異臭騒ぎで二時間運行が止まってしまった。異臭はしたけれど、乗客に体調が悪くなった人はいなかったという。強いアンモニア臭がしたのだそうだ。

 先ほどのニュースで、どうも原因は臭豆腐であったようだ。

2_013 私が夜市で食べた、揚げた臭豆腐 うまい

 台湾へ行って夜市を歩いたことのある人なら、臭豆腐の匂いを体験したことがあるはずだ。確かに知らないと、なんだこの臭いは!と驚く。しかし台湾なら(中国本土でも)その臭豆腐を若い女性でもおいしそうに食べている。そして自分も食べてみると、その美味しさに一度で好きになる。

 普通の食べものだが、臭いが強烈、というものはいくらでもある。なじみのない臭いだと、異臭だと思うだろう。でも臭豆腐なら心配ない。

 サリンのような危ないものでなくてよかったね!

爆買い禁止?

 ネットニュースを見ていたら、中国政府が外貨持ち出し規制を強化する動きがあるとのこと。もともとひとり5000ドルまで、という法律があるのだそうだが、形骸化していて適用されることはなくなっていたのだが、それが復活するのではないかというのだ。

 しかし、その主なターゲットが、日本に出かける観光客である、などと報じられるといささか問題である。そう勘ぐる理由が「爆買いして日本を利すると、それが日本の弾薬に変わるのだ」などという反日キャンペーンがまことしやかに流されているというからだ。

 日本から見ればあり得ないキャンペーンだが、中国で毎日放映されているテレビ番組での日本軍や日本人の悪逆非道なことは、悪魔のようであるから、それを真に受ける中国人は少なくない。

 日本への旅行は規制し、韓国や東南アジアを推奨する、などということを半ば公然と始めよう、という動きがあるというから、ほんとうならば中国の異様さが分かろうというものだ。

 中国は一昨年、昨年と、年間10兆円を超える外貨が流出している。全体で600兆円を超える外貨をもっていることになっているから、今すぐどうということはないはずだが、実はそれほど残っていないのかもしれない、という消息通もいる。だから案外深刻な事態なのかもしれない。

 つまり爆買いを禁止しようという動きは、外貨流出が中国にとって深刻だ、ということを証明しているようなものではないか。特に日本にその外貨が流れるというのは、習近平にとって不愉快だ、ということなのだろう。

 習近平は意外に尻の穴が小さいらしい。

 中国人の観光客が増えて爆買いすることは、経済的なメリットもあるし、日本に来れば、中国で教えられている日本と、実際の日本が違うことを知ることができるという大きなメリットもある。両方とも習近平政権にとっては不都合なのだろう。

 ただ、私個人としては、そこら中にあふれる中国人観光客が多少制御される方が、やかましくなくてありがいけれど。

司馬遼太郎「濃尾参州記(街道をゆく 四十三)」(朝日新聞社)

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 先日も書いたけれど、私のザル頭はなにを読んでいたのだろう。この本も一度読んだはずなのだけれど、ほとんど初めて読んだような気がする。残念ながらこの本は書き始めて程なく司馬遼太郎が急死してしまい、未完である。桶狭間について書き、その周辺を散策し、次第に名古屋へ至ろうとした矢先である。

 もし最後まで書いてくれていれば、それを元にどれだけ名古屋とその周辺を歩き回る楽しみが増えたことだろうと思うと、残念でならない。それにしてもなぜ「濃尾参州記」がこんなに後回しにされたのだろうか。

 それは司馬遼太郎に聞かなければ分からないのだが、実は書きたいことがあまりに多すぎて、それをまとめるためにじっくりと時間をかけたのではないか。彼のなかで織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に代表されるこの地区の武士たちの重みがあまりにも大きかったのではないか。

 「国盗り物語」を始め、司馬遼太郎がこの地区の英雄たちに深い思い入れがあることは間違いないと思うのだ。斎藤道三や明智光秀など、美濃についても書きたいことが山ほどあったはずだ。残念だ。

 とりあえずこの本に言及されている場所だけでも一度訪ねてみたいと思っている。

2016年2月 7日 (日)

分かっているのだけれど

 使ったものを、用が済んだらそのつど片付けていれば、家の中はそれほど散らかるはずはないのである。分かっているのだけれど、気が付くと身の廻りが雑然としている。多少のものならたちまち片付けられるのだが、たいてい手遅れである。

 そうなるとその気になるまでなかなか腰が上がらなくなり、ますます収拾がつかなくなる。それに思いついて手元においたのに、「あとにしよう」とすぐ気が変わる。身の廻りは、要るような要らないような宙ぶらりんのものだらけになる。そもそも不要なものが多すぎるのかもしれない。

 そろそろ何とかしなければならないなあ、と思っている。それにしても、なにかしなければならないことがあるときほど、それ以外のことがやりたくのはどうしたことか。試験前の読書なんか、ほんとうに集中できたなあ。

高校野球に発す

 たかが野球、といえば不快に思う人が多いだろう。以下は私の偏見によるものなので、お腹立ちの向きには申し訳ないことである。

 私は徳光和夫氏が嫌いである(ついでに彼の甥だという女装の大男も嫌いである)。野球選手が才能に恵まれた上に人一倍努力して好成績を上げていることは認める。しかし神格化してはいけない。古代社会ならいざ知らず、現代で何者かを神格化することはあまりよいことではない。ファンであることは勝手だが、それを臆面もなく人前で涙を流してまで神格化してみせられると鼻白む。興味のない人間にすれば、たかが野球、である。

 健全な身体に健全な精神が宿る、などというが、これは「そうだったらいいなあ」という願望なのだそうだ。よく分かる。人は身体健全なのに精神が不健全な人を無数に知っている。

 この願望の典型的な例が高校野球ではないか。高校野球がきれい事だけではないことなど、知っている人はみな分かっている。しかし高校野球の選手は必ず紅顔の好少年である。そこで活躍する少年は純真無垢、欲得などとは無縁とみなされる。

 思えば清原少年もそうであったではないか。

 彼が超人であるかのごとくもてはやされていくなかで、自分自身を見失ったのも宜なるかな、である。そもそも見失うべき社会的な良識を持つことができていたのか。

 今回の覚醒剤事件の責任はもちろん本人にある。しかし担ぎ上げた人間達に、いささかも咎がないなどとはわたしには思えない。


 時々旅に誘い誘われる兄貴分の人と、来週温泉旅行に行く予定を立てていた。雪深い場所になじみがないというので、雪国に出かけて雪景色を見ながらゆっくり温泉につかろうと思ったのだが、昨晩連絡があって体調を崩したという。

 ゆうがた、救急車で運ばれて、点滴などを受けて落ち着いたところで本人が電話をかけてきたのだ。数年前に心臓が原因で一度入院して大きな手術を受けている。その再発ということではないと思いたいが、とにかく一緒に旅行に行けないことをいちはやく連絡しなければ、と気を使ってくれたのだ。そういう人なのである。心配だ。

 一人で出かけてもいいのだけれど、とりあえず予約をすべてキャンセルした。旅に出かけたいという気持ちが、ちょっと萎えている。とりあえずは近場をうろうろすることにしようか。

新酒試飲会

昨日は毎年恒例の新酒試飲会に行った。いつもより少し早めに友人達と待ち合わせ、つまみをデパ地下で見繕ってから、名鉄で酒蔵に向かう。駅から三十分歩くのだが、歓談しながら歩いているのでたちまち現地に到着する。早めにいったのにすでにたくさんの人が来ている。


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受付のための行列が延びてたちまち入り口の外までならぶ。

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このタンクは酒用の貯水タンク。受付をするとぐい呑みを渡される。

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絞りたての酒をぐい呑みについでもらう。

今年の酒はいつもの年よりもマイルドな感じだが、度数は21度と高め。パレットなどで席を作ってそこから何度も往復する。じっとしていないからすぐ酔いが回る。

しかし冷たい風が吹いていて、酔った尻から醒めていく。なかなかあたたかい席を確保するのは難しい。もう一時間早く来なければならないが、大阪から来る友人もいて、限度があるのだ。皆昔ほどバカのみをしなくなったので、だらだらと飲まずに定時に切り上げた。

名古屋で二次会をして解散。楽しい一日であった。

2016年2月 6日 (土)

流動児童

 文化大革命時代、朝日新聞を始めとするマスコミは、中国は理想的な平等社会だと力説した。その平等は資本主義社会の機会の平等ではなく、結果の平等である点に問題があるとは思っても、中国が平等であることに疑いをもつ人はいなかった。

 ところがその中国に厳然たる身分差があったことに驚いたことがある。その最たるものが農民と市民の戸籍の差である。農民は都市部で市民として生活できないようにして、農地に固定化するための施策である。

 しかし中国が経済躍進を遂げるために最も大きなエネルギーとなったのは、低賃金の労働力だった。その供給源が農民工と呼ばれる農村部からの出稼ぎ労働者達だった。世界の工場、と中国が呼ばれたのはこの安価な労働力のお陰であった。

 その賃金が上昇してきて、中国進出企業にとってメリットがなくなりつつあることが、中国の経済成長鈍化の大きな原因の一つであることは間違いないだろう。しかしそのことは置いておく。

 今朝のニュースで取り上げられていたのは「流動児童」の問題である。中国では共稼ぎが普通だから、農民工は男性ばかりではなく、女性も都市部に仕事を求めることが多い。祖父母に子どもを預けることが普通だったが、都市部での生活が固定化すれば、子どもたちを呼び寄せるのは当然だ。しかし農民工は都市部の戸籍を持たないために市民としての行政上の恩恵を受けることができない。

 その一つが、子どもが普通の都市部の学校に通うことができない、というものだ。そのような児童を流動児童というのだ。そのため、未認可の農民工の子どもたち向けの学校がたくさん開設されている。事実上の黙認状態であって本来違法である。

 劣悪な環境であることなどから、その教育レベルは低く(そもそも教師が教員資格を持たないのが普通である)、子どもたちは必然的にすさむ。

 なんと少年犯罪の半数がこの流動児童である。犯罪の頻度が高いのだ。これが社会問題化しているという。そういえば、日本でも中国残留孤児の子弟が、日本に帰ってきてから犯罪に追い込まれていったといわれる。在日韓国人の犯罪頻度が高い時期もあった。もちろんすべてではなく、一部の人の話ではあるが、社会から疎外されればそこへ追い込まれるのは必然なのかもしれない。

 それは社会のひずみから生ずる問題で、それが是正されるには、そのひずみを解消する必要があり、それがただされても、問題が解消されるまでに長い時間が必要であろう。結果的にひずみを放置したメリットよりも、はるかに大きなコストを支払うことになるのが世の中だ。

 中国は、流動児童、少数民族などの問題を始め、そのようなひずみをたくさん抱えている。経済が右肩上がりの間はそれを覆い隠せて顕在化しなかったけれど、いまそれらが次々に噴出している。それはまだ始まったばかりだ。

 習近平が情報管制、言論規制を露骨に行っているのは、それらの問題が多数発生していることを却って認めているということだろう。

 習近平は問題解決の優先順位を間違えている。それは彼が国民のことを考えるよりも、自分のことを優先していることに外ならない。中国危うし。

今日は新酒試飲会

 今日は友人達五人と名古屋駅で待ち合わせて新酒試飲会に行く。名古屋へ移ってから、ほぼ毎年どちらかの蔵へ行っているので、私にとって、もう30年以上続けている大事な行事だ。

 当初は津島酒造組合にエントリーして、組合から指定された酒蔵に行っていたが、いまは組合が衰退して主催できなくなっているので、蔵開きを頑張って続けている青木酒造に決めて、毎年そこへいくことにしている。

 山廃仕込みの絞りたての新酒はまだかすかに炭酸が残り、わずかにぴりりとしながらしかも甘く感じる。ただし、原酒だからアルコール度数は20度前後あり、甘くみるとえらいことになる。

 試飲会の様子については帰ってからあらためて報告する。飲み放題をいいことに、何度か飲み過ぎて失敗している。無事に帰れるかどうかちょっとあやういのだが・・・。

米澤穂信「王とサーカス」(東京創元社)

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 間口を拡げると収拾がつかなくなる。それが分かっているのに、つい面白そうだと新しい作家の本の新刊に手を出してしまう。

 米澤穂信という人には以前にも気になる本(「インシテミル」、「折れた竜骨」など)があったけれど、手を出さずに我慢していたが、いまミステリーづいているので、我慢しきれなかったのだ。

 予感どおり、とても面白い本であった。舞台はネパールの首都カトマンズ。主人公の雑誌記者の女性が、カトマンズの紀行文をものしようとカトマンズを訪ねたときに、大きな事件が起こる。

 ネパールの国王をはじめとする親族が王宮で殺害されてしまうのだ。これは実際に起こった事件だが、それをベースにしている。主人公の大刀洗万智は、その事件の取材を進めるうちに、あらたな殺人事件に巻き込まれていく。

 事件の展開が始まるまえに、カトマンズの街の様子がゆったりと描かれているのだが、それがちっともまだるっこしくなくて、次第に自分がカトマンズにいるような気分になってくる。

 ラストで事件の真相を知った主人公が、二転し、三転する思いを感じる部分は強烈である。ネパールの人の、よそ者に対する感情を生で思い知らされるのだ。これはネパールだけではない。異国を(特に貧しい異国を)深く知れば、必ずこのような経験をすることになる。この部分だけでもこの本を読んだ価値がある。

 これでは米澤穂信(ちなみにこの人は男性らしい)の作品をまた探して読みたくなるではないか。

 余談だが、学生時代に「カトマンズの恋人」という映画を観たことがある。ヒッピー風の西洋人の若い男女が、マリファナかなにかでふらふらしながら(そのころ、ネパールは大麻が比較的に自由に手に入った。いまも普通の国より規制は甘いようだ。)、カトマンズを幻視している。女性が死にかけているのを後ろに乗せて、バイクかスクーターでただただ走り回ったりする。そんな記憶しかない映画なのだが不思議に忘れられない映画だ。抜けるような濃い青空が特に印象に残っている。

2016年2月 5日 (金)

情報管制?

 香港の書店関係者五人が行方不明となっているが、そのうち三人がかねてから噂されていた通り、中国本土で拘束されていることがほぼ明らかとなった。

 中国は言論の自由が保障されている国ではない。しかしいままでは、情報が規制される場合はある程度推測がついた。ところが最近どこまでが規制されて、どこまでは大丈夫なのか分からない。

 私が中国に関するニュースを主に見ているのは、ヤフーの海外ニュースとBSNHKの海外ニュースである。

 そのヤフーの中国関連のニュースが激減している。中国関連として取り上げられる話題の半分が台湾のニュースである。いままではこんなことはなかった。

 取り上げるようなニュースがないのか、それともニュースになるようなものを中国政府が強力に管制しているのか。どうも取り上げられると中国政府として面白くないと考えるニュースを発信させないようにしているとしか思えない。

 中国は想像以上に北朝鮮化してるのかもしれない。これは習近平の方針なのか、それとも中国が危機的な状況なのか。怖いもの見たさで中国に行きたくなってきた。

インドネシア高速鉄道、出発せず

140923_140 貪り・インドネシアにて

 日本と中国が激しい受注争いをしていたインドネシア高速鉄道は、長期間の綿密な調査などに巨額の先行投資をしていた日本ではなく、直前に割り込んだ中国が金を積んで横取りの形で受注した。

 インドネシア側の国土交通省などは、これに大いに不満だったようだが、ジョコ大統領の有無を言わせぬやり方で強引に決定したようだ。

 受注後三年で完成させる、と中国側は約束している。当然すでに工事は始まっていなければならない。ところがいまだに工事は開始されていない、と海外ニュースが報じていた。

 安全性などの基準に沿わずに、中国側から設計が一方的に変更された形で申請が出されたため、当局が工事開始を認可しないのだ。これは約束違反だから当たり前の措置であろう。中国ならそれで通用するかもしれないけれど、インドネシアは中国ではない。インドネシアの国土交通省に反感を買われた状態であればなおさらのことである。

 中国は袖の下で、長期間にわたる日本の現地調査資料を入手して工事を進めるつもりだったが、資料だけでいきなり工事など始められるわけがない、と見る専門家が多かった。それにしても工事開始すらできないというのはお粗末きわまりない。

 これから次々に問題が続くと予想される。ジョコ大統領は今後この責任をとらなければならなくなるだろう。そして中国は世界の笑いものになることだろう。というより、そうなって欲しい、とつい思ってしまう。

 アフリカで、インフラなどに投資して影響力を行使してきた中国のやり方が、実は内容がとてもお粗末なものであったことが露見したということだろう。何でも金さえばらまけば通用するアフリカと、インドネシアとは違う、ということだろう。インドネシアは、金で通用するジョコ大統領のような人物のいる後進性と、民主的なまともな国の先進性が同居している、ということかもしれない。

2016年2月 4日 (木)

村松友視「デスマッチ風 男と女のショート・ショート丼」(徳間文庫)

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 伊丹十三のエッセイ数冊と一緒に実家から持ち帰った文庫本の中に、この本があった。薄いので読みやすかろうと思ったのだ。

 口惜しいけれど、自分が決してダンディになどなれない男だと承知している。ダンディであるための人生の授業料の支払いが、全然足らないのだ。いまさらもう遅いし。

 村松友視はダンディである。伊丹十三とも親交があった。女性に対する、冷たいやさしさが似ているような気がする。やさしいためにはあたたかくなければならない、などというのはダンディとは違うのだ。

 この本に書かれているような視線で女を見ながら、それでももててしまうというのは世の中は不公平だ。したごころがないわけではないのに。

 ダンディは生きざまであり、自分の臆病と面と向かえる強さだろうか。人は臆病なものだけれど、それを自覚するのを怖れる。時に鈍感なために勇気があるように見える者も、よく見ればただのバカである。

 この本はダンディズムについて書いてある本ではない。そんなことを書くのはダンディではない証拠だ。男と女のことばのやりとりのなかに、その違いと共通点を感じさせ、最後ににやりとさせてくれる。

 おとなのための本である。

シンクロする

 先日、千葉の実家へいったとき、司馬遼太郎の「街道をゆく」の第39巻から43巻までの5巻を持ち帰った。後ろから読み直してみよう、というのだ。シリーズや全集は最初の巻ほど力が入った読み方をするものだ。だから後ろから読み直すと、意外に見落としが多くてそれがかえって面白い。

 ましてやこのシリーズの最終巻、絶筆で未完となった43巻は「濃尾参州記」は私の住む愛知とその周辺が取り上げられているのだから地名にも親しみがある。

 初めて名古屋に転勤して来た30年あまり前には、山岡荘八の「徳川家康」に出てくる地名がそこら中にあることに感激したことを思い出す。

 その「濃尾参州記」を読んでいたら、眼科の馬島慶直氏の話が語られていた。馬島家は代々眼科の医師で、初代は足利時代、足利義満の頃に遡るという名家だという。いま、馬島慶直氏は桶狭間の戦いの場所に建てられている、藤田保健衛生大学の教授である。

 実は先日読んだばかりの、曽野綾子の「人は怖くて嘘をつく」のなかの「この両眼は三十三年間よく使わせて頂きました」という項(131ページ)に、この馬島慶直氏が登場する。失明する危機にいた曽野綾子の目を奇跡的に救ったのが、この馬島氏なのだ。

 このてんまつは曽野綾子の「贈られた眼の記録」で詳しく語られている。読み進むと、「街道をゆく」のなかにもそのことが取り上げられていた。

 名古屋地区は、むかしから医学が盛んで、特に眼科は優れているといわれる。このことも「街道をゆく」で言及されている。
 実は私の母も名古屋で白内障の手術をした。
私の母も幼児の時からの強度の近視で、裸眼で0.1すら見えなかった。それが白内障でさらに見えにくくなったので、私が勧めて、名古屋大の医学部から医師が派遣されて手術をしてくれるという、近くの病院での手術を勧めたのだ。

 片目は1.0、もう片方はやや手遅れで0.4ながら、過去に見たことのないクリアな世界を母は体験することができた。ただ、見えすぎ疲れる、などとぜいたくな不満を盛んに口にはしていたけれど。

 なんだかそんなことが全部シンクロして頭を駆け巡った。

 こんなことも続けて読まなければ断片的なことで終わっていたのだろう。ユングのいう集合的無意識に通じる、偶然を超えたものを感じた。

ホラばなし

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 伊丹十三のエッセイに書かれていたけれど、これは梅崎春生が安岡章太郎に話したもので、安岡章太郎の文章で読んだことがある。
もちろん伊丹十三もそれをことわっている。さらに元ネタがあるのかもしれない。

 モグラの害は、庭や畑をもっている人には困ったものなのだが、そのモグラを簡単に退治する方法。

 モグラの出没する場所に、安全剃刀の刃を縦に埋め込んでおく。

「そうすると前進してきたモグラは鼻の先から真っ二つに切れて死んでしまう。夕方、剃刀の刃を植えておくと、翌る朝は、あっちこっちにモグラの死骸が面白いようにたくさんころがっているよ。ぼくもむかし、モグラにずいぶん悩まされて、やっとこの方法で退治することができたんだ」

 真っ二つになったモグラがまざまざと目に浮かぶではないか。

 人をくった話。

 醤油を一升くらい飲むと危篤状態に陥る(当たり前だ)。この時には、ワサビを風呂桶に一杯すりおろして、そのなかに入ると、醤油が躰から抜けて一命をとりとめる。

 なるほど、おぼえておこうではないか。

 ところで風呂桶一杯のワサビをどう手に入れようか。それをだれにすってもらおうか。たいへんそうだから、とにかく醤油を一升も飲まないようにしよう。

2016年2月 3日 (水)

勇気を持った人の話

 これも伊丹十三の「女たちよ!」という本の中から。

 大江健三郎が徳川夢声さんに聞いたという話である。
列車の食堂で夢声さんが健三郎に話しかけた。

「大江さん、今日は一つ勇気ということについてお話ししましょう。世の中には、勇気を持った人がいる。私が、あるとき食堂車でめしを食っていると、向かい側の席に初老の紳士が腰をおろした。なにを注文するかと思って注意しておりますと、コーン・フレイクスを注文したのですな。やがてコーン・フレイクスがくる。まず、コーン・フレイクスそのもの、つまり、あの枯れ葉状のかさかさしたやつ、あれがお皿にのって出てきたわけだが、紳士は、ただちにあの枯れ葉状のやつをばりばりと食べ始めたのですな。そうして、紳士が枯れ葉をすっかり食べ終わったところへ、ウェイトレスが牛乳と砂糖を運んできた。紳士はしばらく牛乳と砂糖を見つめていたが、やがて意を決したものらしく、さらになみなみと牛乳を注ぎ、砂糖を四、五杯ふりかけると、皿を持ち上げて牛乳をごくごくと飲み干して出て行った。大江さん、世の中には、勇気を持った人がいます」


 これを読んだだけでも面白いけれど、実際に徳川夢声の語り口で聞いたらもっと楽しかろうと思う。ただし、徳川夢声の声と語り口を知るのは私の世代くらいまでだろうか。

スパゲッティの木

 イギリスで実際に放映されたというニュース。

 先ずイタリー北部の荒涼たる風景が映し出される。沈鬱な音楽が流れ、アナウンサーも沈んだ暗い声でいう。
「今年はスパゲッティ栽培者たちにとっては悪い年であった。異常な寒さと、長期に亙る雨によってスパゲティの木々は開花期に壊滅的な打撃を蒙ったのである」

 解説につれてカメラはスパゲッティの木々の間を移動していく。木のところどころにはスパゲッティが房のように垂れている。年老いたイタリーの農夫が木を見上げている。
「1907年以来といわれる凶作の今年。わずかに実ったスパゲッティの木を見上げる農民たちの表情は暗い」

 何しろスパゲッティが、そのまま木にふさふさと生えているという光景というのはよほど奇想天外であったに相違なく、この番組は大評判であった。


 もちろんこれは大嘘で、エイプリルフールの番組である。イギリスではころりとダマされた人が大勢いたらしい。

 こんな面白い噺がたくさん挿入されているのが昨日紹介した、伊丹十三の「女たちよ!」という本である。

危うく・・・

 このところ夢をよく見る。夢だからつじつまが合わないもので、とっくに死んでいる人が普通に出てきたことに、目が覚めてから気が付いたりする。

 子どもの頃はよく夢を見た。それもカラーの夢が多い。それだけ目覚めたときに、その夢を鮮明におぼえているからだろうと思う。とにかく眠りにつくとほとんど瞬時に爆睡し、眠りが深い。そして朝に向けて次第に眠りが浅くなっていく、というのが私の眠りのようだ。

 夢は眠りが浅いときに見るし、それが朝方で、起きる直前だとおぼえているということのようだ。そういうときは切れのいい寝覚めである。

 死んだ人が夢に出てくる、というのはいままでにあまり記憶がない。どうしてそんな夢が増えたのか、なにか過去にとらわれるようなことが心のなかにあるのかもしれない。

 昨晩、風呂に入りながら洗濯をした。洗濯はもちろん脱衣所においてある洗濯機がしている。いつものように本を読みながら長風呂をしていたら、洗濯機からの排水時の音が少しおかしいことに気が付いた。慌てて風呂を出て洗濯機を確認した。

 洗濯機は水受けのパンの上に載せて、排水は洗濯機の排水パイプを排水溝に差し込んである。漏れるはずはないのだが、排水パンに水がたまっている。

 さいわいあふれるほどではない。間もなく洗濯が終わったので、洗濯機をどけて配水管を確認した。洗濯機の配水管が一部避けている。そしてほこりや洗濯物のクズが長年にわたってたまったものが排水溝にたまっている。そのために排水が漏れかけていたのだ。

 パンを掃除し、排水口も掃除した。あとは洗濯機の排水ホースの補修だ。今日は耐水テープなど、使えそうなものを買って補修を試みる。

 集合住宅では、温水器、風呂、洗濯機、台所の排水の詰まりなどによる漏水トラブルがしばしば起きる。むかしそのことでひどい目に遭ったことがある。自分が加害者になる前に気が付いて良かった。

 しかし危ういところであった。

2016年2月 2日 (火)

伊丹十三「女たちよ!」(文春文庫)

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 題名では、上から目線で女性に語りかけているみたいだが、実際にそうである。博識で、食べものや衣装などにも詳しい。その詳しさは一流と言って良いだろう。だからちょっとスノッブなところがある。

 だけれど彼の語る蘊蓄は、雑学として身につけていると座談にはとても役に立つだろう。

 願わくばこの本を読んで腹を立てずに、にやりと笑うような女の人とお近づきになりたい。

 1975年が文庫の初版だから40年以上前の本である。紙も変色してシミだらけだけれど、中身はいま読んでも実に面白くてためになる。惜しい人をなくしたものだ。

 今日は空っぽの冷蔵庫の中身を補充し、晩の一人酒盛りの準備をするのでここまでとし、明日は内容を少しだけ紹介する。

これから結婚しようという男に贈る教訓的子噺

 実家に持っていった本を読み終わってしまったので、棚にあった伊丹十三のエッセイを読んでいる。その中から子噺を一つ。

 新婚旅行に出た花嫁花婿が、今日はお天気がいいから、というので馬に乗って、連れ立って散歩に出かけた。花婿の馬が先に立ってぽくぽくと林の中を歩いてゆくうち、花嫁を乗せた馬が低い枝の下を通ったものだから、小さな木の枝が花嫁の額をぴしりと打った。

 これを見るなり、花婿は馬からさっと降り立ち、花嫁の馬の側へつかつかと歩み寄る。そうして、馬の顔を、しばらくじっと見つめてから、
「一つ」
といった。

 散歩はふたたび続けられて、やがて二人はとある河のほとりにさしかかる。
と、花嫁の馬が、今度は石につまずいて花嫁を危うく振り落とそうとする。

 これを見て、花婿はただちに馬を下り、花嫁の馬につかつかと歩みより、しばらく馬の顔をまじまじと見つめてからいった。
「二つ」

 散歩はふたたび開始され、やがて二人は野原の中を歩いてゆく。
と花嫁の馬の前を兎が一匹、脱兎の如く横切ったからたまりません。花嫁の馬は驚いて棒立ちになり、花嫁は、どっと落馬する。この時すでに馬を下りた花婿は、花嫁の馬に向かって、
「それで三つだ!」
と叫ぶやいなや、矢庭に懐から拳銃を抜き出して、馬の眼と眼の間を見事に射ち抜いた。

 花嫁はあまりのことに茫然自失、しばらくは声も出ない風情でありましたが、やがて堰を切ったように喋り出した。
「まあ、あなたって!なんて非道い人なの!こんな可哀そうな生き物を撃ち殺すなんて!この馬になんの罪があるの!なんの罪もありゃしないじゃないの!それを撃ち殺すなんで!あなたは気違いよ!そうよ!いってあげましょうか!あなたはね!あなたはサディストよ!」

 この時花婿は静に花嫁のほうを振り返り、冷たい眼差しで花嫁の顔をじっと見つめていった。
「一つ」

 船越英一郎氏にはこの話を結婚する前に教えてあげたかった。

森本哲郎「日本語 根ほり葉ほり」(新潮社)

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 森本哲郎は私の人生観を構成している一人。著書を何度も読み返している。この本はしばらく前に読んだ「日本語 表と裏」の続編にあたる。

 日本語に特有のことば、言い回しを取り上げて、その独自性を明らかにし、そしてそこに日本人の思考様式や文化を見ようという本だ。あたり前に使っていることばが実はよくよく考えると不思議なことばであったりする。

 「けじめ」「そこを何とか・・・」という、そことはなにか、なんとかとはなにか、「べつに」、「その辺のところ」、「前向きに善処する」、「きたない」、「人間」、「手心」、「なーんちゃって」、「カンケイナイ」、「根ほり葉ほり」等々。

 これらをとことん解析していくと、けっこう日本人自身が見えてくるし、哲学的な考察になっていくから面白い。考えるネタはどこにでもあるものだ。

 森本哲郎は母と同い年、1925年生まれで母より一年前の一昨年に亡くなっている。私の人生観をレベルアップするきっかけをくれたのが、この人の「生きがいへの旅」という本であった。いまでも私の宝物である。知っている、ということの意味を教えてもらった。そして自分と他人は違うということも教えてもらった。

 精神的に隘路にはまると森本哲郎を読み直す。

2016年2月 1日 (月)

ストレスフルな日

 離婚調停三回目。その前に先方の家へ行って、妻にこちらの存念の説明と離婚承諾のお願いをした。両方の弁護士も同席である。先方が私に対して文書で事実と違う理不尽でおかしな言いがかりをつけてきていたので、徹底的に反論しておいた。ちょっとぐうの音もないほどいいすぎたかもしれない。

 午後家庭裁判所で調停員と現在までの状況説明などを行う。今回初めて妻が家庭裁判所へ来たようだ。来たようだ、というのは、家庭裁判所の調停員は、普通それぞれ片方ずつから話をきいて、それを相手に伝えて事態の前進を図る、ということになっているので、結論が出るまでは相手と同席しないのだ。

 調停員も私の意志が固いことを充分分かっていて、どうにかして相手に了承させ、離婚のための条件を協議する段階に進めたいようだ。

 だから一歩進んだ、ということなのだろうが、そうでもないところもあり、宙ぶらりんが続く。次回は5月。それぞれの弁護士や調停員、裁判所の都合がそれまでどうしてもつかなかったのだ。

 うんざりするが、少なくともそれまでそのことを考えないでいられるということだ。もうすべては相手次第で、私の言いたいことはすべて言った。しばらく念頭から振り払っておこう。

 長くてもあと二回で調停は打ち切る予定。らちがあかなければ裁判官の裁定となる。

 疲れたので、このまま名古屋へ帰るのはちょっとしんどい。今晩も弟の所に泊めてもらってゆっくり飲むことにする。弟よ、ありがとう、世話になるぜ。

曽野綾子「人は怖くて嘘をつく」(産経新聞社)

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 巻末によると、産経新聞に連載しているコラムの2012~2015年分から選んで本にまとめたものだ。

 人は自分のありのままを知られることを怖れる。だれでも多少は見栄を張っているものだ。だから嘘をつく、ということだろうと表題を見て感じた。もちろん嘘をつくのにほかにもいろいろ理由があるだろうが・・・。

 新聞のコラムだから、ひとつの文章が三ページ以内と短い。そのなかに伝えたい内容がよく吟味され、適度にユーモアが交えられていて、とても読みやすい。

 著者もとっくに後期高齢者となり、いろいろ自分の衰えを感じることもあるようだが、意気はいままでとおなじように軒昂である。こんな老後を送れることはしあわせだ。しあわせであるためには自然と親しみ、社会とかかわることを忘れてはいけない、ということを実感させてくれる。人間は死ぬまで働かなければならない、という言葉は耳にいたい。

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