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2016年7月

2016年7月31日 (日)

内田樹・姜尚中「世界『最終』戦争論」(集英社新書)

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 内田樹老師は、最近その政治的なスタンスがわたしと相容れないところがあって、その色彩の強い本については敬して遠ざけてきた。今回読んだこの本にもそのきらいがあるけれど、その語ることばは相変わらず尊敬に値する深い思索と知識に裏打ちされていて圧倒される。

 世界観が違ってもその言説に敬服するというのは、それがそれだけ優れていると言うことの証でもある。同意する言説に共感するのはあたりまえだからだ。

 姜尚中氏については漱石論らしきものについて書かれた本などを読み、いささか軽く見ていた。この本での氏の世界観は確固たるもので、敬服に値する。お見それしました。前に読んだ本が多少感情的に感じられて誤解していた。社会学的なことに絞って、文学的なことにはあまり手を出さないほうが良いのでは、などというのは言い過ぎか。いわでものことながら、ご子息の不幸に心の乱れがあったのか。

 この本で語られている世界の将来像は、現代のグローバリズムの世界観からみて意想外のものである。でももしかしたらそうなるかもしれないね、と思わせるのが内田樹老師の説得力だ。少なくともわたしはそう思わないが、否定もしない。

 ただ、世界はいままでに経験したことのない状況を迎えることは確かだろう。アメリカも中国も、このまま群を抜いた大国として君臨することはないとの老師の見通しは正しいだろう。そのとき、日本はどのような国を目指すことになるのだろう。

池内紀「池内式文学館」(白水社)

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 本屋や図書館の棚にはたくさんの本が列んでいる。手当たり次第に本を読んできたつもりでも、自分が手に取る本のジャンルは限られていて、まったく向こうからお呼びのないコーナーもある。というよりそのほうが多いくらいだ。

 この池内紀の本には、わたしが好きな作家もいくつか取り上げられているけれど、わたしがまず出会いそうもない本も多い。どうしたらこのような本に出会い、その面白さを読み取ることが出来るのだろう。

 ドイツ文学者である著者は、当然外国語にも堪能であるし、海外に行くことも多い。だからそのカバーする知識はわたしなどとくらべて格段に広い。

 そういうときに外国語を真剣に学んでこなかったことの後悔を強く感じる。能力がなくても努力すれば多少は世界がひろがっただろうに。

 それにしても差がありすぎることを恨みに思う。はるかに広い上にはるかに深く読み取ることが出来る能力を、どうして身につけることが出来るのだろうか。

 同じものを読んで、そこから連想するもののボリュームが違うのだ。

 ここで取り上げられている本を自分も読んでみたいと思う。思うけれど、物理的にとても追いつけない。いま読みたい本、これから読みたい本が山のようにあって、手が回りそうにない。だから著者の案内を頼りにその本のかおりを楽しみ、空想するばかりである。

 そしてその案内が絶妙で的確だから、実際に読むよりもその本を楽しんでいるかもしれない。

 本屋のコーナーでいつも気になるのは、本について書いた本のコーナーである。本読みの達人たちが、たくさんの本について蘊蓄を傾けてその楽しみを教えてくれる。自分の代わりに読んでもらったようなつもりになって、そのさわりだけを楽しむという楽しみ方も出来る。

 気がつくと自分の蔵書の中にそのような本がたくさんある。そういう本は時間をおいて読むとほとんど内容を忘れているので、再び三たび楽しむことが出来る。何度も読んだ本が多い。

 今回読んだ本もそういう本の仲間入りをする。繰り返し読むに足る本である。

2016年7月30日 (土)

自己嫌悪

 名古屋から車を飛ばして千葉へ。夏休みだからか土曜日だからか、車がふだん以上にとても多いから、あまりスピードを出せない。それは予想のことだから特にストレスではない。首都高の用賀料金所手前あたりからいつも以上の渋滞。反対方向の下りはもっと渋滞。

 その渋滞を眺めていたら、突然あることに気がついた。忘れものである。

 なんと明日の法事のための礼服を部屋につり下げたままで持参するのを忘れているではないか。靴やワイシャツは間違いなく車に積んである。服だけがない。

 昔ならいざ知らず、東京まで来てから、また名古屋に取りに戻って又来る、などという体力気力はない。無理したら自分がアウトになる。

 いまさらどうしようもない。自己嫌悪に襲われる。

 なんだか体中から力か抜けてしまった。弟の家について事情を説明、他人事だからみんなカラカラと笑う。笑ってくれてありがたい。自分のバカさ加減を自分でも笑えるようになった。

 どうも自分が心配している以上にボケてきているみたいだ。

 あんなに忘れものがないか念押ししたのに! グシュン。

室谷克実「韓国は裏切る」(新潮新書)

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 もともと嫌いな人はいっそう嫌いになり、どちらでもなかった人はこの本を読めば韓国が、そして韓国人が嫌いになれる。

 書かれていることは事実ばかりであろう。韓国と違って、日本では普通歴史的事実に嘘など通用しないからだ(一部歴史学者にいまだに妄想的な世界にいる者がいるようだがいずれ消えさるだろう)。

 韓国人がこの本を読んだら(読みはしないだろうが)、韓国が嫌いになって自分に絶望するかもしれない。書いてあることの一部だけでも信じたら、のはなしだけれど・・・。 

 最近、日本人の韓国が嫌いな人の割合が、増減を繰り返しながら結果的に次第に増え続けている。過去には、韓国で起こる異常な反日のニュースをきっかけに一時的に増大しても、日本人は忘れやすいから、しばらくすると韓国が嫌いな人は減少した。それが高止まりし、さらに増え続けている。

 その理由は嫌韓プロパガンダのせいだろうか。もちろんそれもあるだろう。現代の日本人はヘイト的な言動が嫌いである。だから嫌韓プロパガンダに対しても不快を感ずる人の方が多い。ではその影響をなぜ受けるのか。

 それは韓国からのニュースを繰り返し見続けているからだ。そこで取り上げられる反日のパフォーマンスをうんざりするほど見せられてきた。ヘイト的なものが嫌いな日本人がそれを見せられ続けてきて、影響を受けないはずがないではないか。

 テレビではソウルの日本大使館前での反日デモをことあるごとに見せるが、そのデモが数十人、ときに百数十人のデモでも、ソウル中の人がデモに参加しているが如きの印象を植え付けてきた。韓国人は日本が、そして日本人が嫌いなのだ、と報道し続けてきた。

 そのあげくに隣国なのだから仲良くしなければならない、などとおためごかしを言った。

 積極的に嫌いであることを知らされたら、特に嫌いでない人でも相手が嫌いになるのは当然である。

 そうして修復がほとんど絶望的になるほど、この本のような嫌韓本が売れるようになるのは道理である。

 ではなぜわたしはこんな本を読むのか。書いてあるのが事実であり、そのことを基準に韓国との関係を見直さないと仕方がないだろうと思うからである。仲良くしましょう、などと幼稚園の先生のような呼びかけをしても意味がない。現状を知り、そこから出発しなければならないと思うからである。

 もし関係修復を考えるなら、その意味ではスタートラインからはるかに遠いのはまぎれもなく韓国であろうと思う。例えば百メートル競走をするとしたならば、韓国は、日本が歴史的に犯罪者であるから日本のスタートラインはハンディをつけて、ゴールから120メートルのところに立つべきであり、韓国は被害者なのだからゴールから50メートルのところに立つべきである、と主張しているように見える。極端だけれど実感はそうだ。

 しかしそもそも韓国がスタートラインに立つ日が来るのだろうか。

 感情的ならないための訓練にこの本は有用である。

2016年7月29日 (金)

高島俊男「お言葉ですが・・・別巻②」(連合出版)

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 偏屈老人と言ったら怒るだろうか。恍惚老人、ではなく硬骨老人高島俊男師は偏屈であるから、そう呼ばれてもこちらに悪意がなければ笑って許してくれるのではないか。

 この人のこのシリーズは、「言葉」にこだわった随筆集と言って良いと思う。私は内田百閒、山本夏彦につながる者として位置づけしている。世間に対してそれぞれの理由から鬱屈を持ち、それが偏屈と言うしかないような文章のスタイルを生み出しているのではないか。

 このような偏屈な人の文章が大好きな私は、たぶん多少偏屈なのだろう。もしそういう意味で偏屈だと言われれば光栄だと思うものである。

 一般的に偏屈老人とは、世のなかはこうであるべきである、という固定観念を持ち、それとは違う世間のことごとに不快感を持ち、異を唱える人とイメージされるだろうか。しかしわたしの言う著者を含めての偏屈老人とは、そのように世の中に希望をまだ持ち続けているような自己中心的な老人のことでは決してない。

 ある意味で世の中に対してすでにほとんど絶望している老人たちである。「ほとんど」というのは、かすかな希望を持たないわけではないということでもある。世の中に、自分と同じような思いの人間もいるかもしれない、というかすかな希望である。そうでなければこのような文章を残すはずがない。

 だからそのような鬱屈したものを人々が面白がっているのを、冷めた眼で眺めてため息をついているだろう。面白がっている人々が、あるとき突然自分に牙をむくことも覚悟している。

 彼らはそのような人のために書いているのではなく、自分の思いに真に共感する、もしかするといるかもしれない人、に向けて書いているのだ。だからときに軽妙洒脱に、ユーモラスに見えたりもするけれど、それは決して軽く書き飛ばされていない。片言隻句にも心を砕き、言葉を選び抜いている。メッセージとはそういうものであろう。

 わたしがそれを受け取る人と言えるかどうか心許ないが、ようやくこのごろそのようなことを感じられるようになった。それがあまりに遅きに失していることを残念に思ってもいる。

 もっと本をしっかり読むべきであった。もっときちんと勉強すべきであった。手遅れである。

ようやく真夏の太陽がでた

 太陽が朝から照りつけて、ようやく本物の真夏がやって来た。昨日床屋へ行って伸び放題の髪を刈り上げてもらい、ひげもさっぱりとそり落とした。自分も真夏モードである。

 母の一周忌なので、明日から三日ほど千葉県の実家(いまは弟の家)に行く。寺での法事なので正装。明日の早朝に出発する予定。

 普通ならそのまま北関東かどこかへ遠出するところだが、夏休みで人出も多く、そこら中に子どもがひしめいていると思うとその気になれない。

 来週早々に帰宅して、しばらくクーラーの効いたわが家で避暑に専念する。本を読んだり、録りためたドラマや映画をとことん楽しむことにする。そうこうしているうちに盆休みには息子や娘が帰省してくると思う(声をかけないと来ない可能性もあるので来週連絡するつもり。彼らもいろいろ忙しいし、混む時期に来るのも大変だろうが、そうやって来ないでいるとそれに慣れてしまう。それではこちらがさびしいのであえて声をかける)。

 これから数日は読んだ本のことをまとめて書いておくのでその話が続くことになる。一応パソコンは持参するので、なにか思い立てば追記することにするつもりである。

米澤穂信「真実の10メートル手前」(東京創元社)

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 2015年のベストミステリ大賞を取った「王とサーカス」はとても面白かった。その著者のあたらしい短編集である。それぞれの事件の真相をあきらかにするのは、ここでも「王とサーカス」同様大刀洗万智なのだが、彼女の一人称ではなく、事件ごとに別の人間の一人称の形で書かれている。

 わずかな情報をもとにそこから手品のように真相を引きだしていく大刀洗万智の様子が、第三者の目から語られていくのだ。神の視点(つまり著者の視点)でもなく、探偵でも犯人でもなく、第三者の視点で描く方法は特別珍しいものではないが、この短編集は選ばれているその第三者のキャラクターがユニークなものであり、そのことによって大刀洗万智という不思議な女性が、読者に立体的にイメージ化されていく。

 評価されているミステリはみなもちろん面白い。しかし、この大刀洗万智が主人公のミステリは格別である。極上の時間を楽しませてもらった。ミステリ好きだけではなく、面白い小説を読みたい人すべてにお薦めしたい。失望はしないはずである。

2016年7月28日 (木)

再び「彼はなぜ笑ったのか?」

 朝書いた「彼はなぜ笑ったのか?」という拙ブログに、あの笑いは犯人の計算ずくではないか、というコメントをいただいた。そう考えた人も少なくなかったと思う。精神を病んでいると罪に問われない、という判決がしばしばなされる。少年法とともに、この刑法39条に理不尽さを感じている人が多いのではないか。

 先進国の多くが同様の条項を適用しているから、日本だけの問題ではない。ただ、日本との違いは、海外ではそのような重罪を犯した精神病者は刑務所ではなく、特殊な病院で、刑務所よりももっと厳しい禁固状態に置かれるのが普通である。危険なあいだは隔離するシステムが確立している。

 ところが、日本ではそのような患者も一般の精神疾患者と同じ病院に収容される。医師も看護士も特にそのような異常者専門ではないことが普通だ。さいわいそのような異常者を治癒したとして退院させたときの再犯率が高いことが明らかになるにつれ、最近は以前と比べて病院から退院することが極めて難しくなってきているらしいことはさいわいである(少年は別らしいが)。
 
 そもそもひとを殺すなどというのは異常なことであり、尋常な精神状態の人間に出来ることではない。ではみんな精神的に異常な状態で殺人を犯したのだから、刑法39条が適用されてしまうことになるのか。弁護士はしばしばそれを主張する。そのことが法律の例外規定ともいうべき刑法39条の濫用を招き、刑法をゆがめている。

 正義の名のもとに過剰な人権主義が唱えられることで、犯罪者の人権は守られるが、被害者の人権は守られていないのではないか、と言う思いをもつひとは少なくないだろう。だから裁判員制度が発足した。しかしそれも次第に形骸化しつつある。素人の判断を軽視する専門家がそろっていては当然そうなることは避けられない。

 弁護士に対して、日本人はあまり良い印象を持たなくなっているのではないか。今回の大量殺人の異常さと、あの逮捕送検時の犯人の笑いを見て、これは飯の種になる、売名のチャンスだ、と弁護の名乗りを上げる弁護士が必ずいるにちがいない。あの光市の母子殺人事件の犯人の異常な弁明を指導した弁護士と同様、世間の人々はさらに弁護士に対して不快感をもつことになりそうだ。

 弁護士は、犯罪者の人権を守るつもりで犯罪者を、特に精神異常による犯罪者を差別している。正当な社会的な法律の適用を除外されることは、最大の社会的差別ではないのか。

 ところで私は、あの犯人の笑いは狂気を装うような計算ずくの笑いではなく、本当におかしくて笑ったのだと思う。その理由は朝のブログに書いた。

 こういう事件が起こるかもしれないからこういう施設を新設することに反対する、という人々が増えるにちがいない。そしてそのことこそが日本の精神病理の原点のような気がする。犯人はそれを笑ったのである。それこそが彼の目的だったのだから。

 それは世界に蔓延するテロリズムと同じ論理なのである。

彼はなぜ笑ったのか?

 障害者施設を襲い、収容されていた人たちを虐殺した元職員の若者は、車で護送されるときに確かに笑っていた。なぜ笑ったのか。彼が理解不能の狂気の男であり、多くのひとは、その笑いを狂人の笑いであると受け取ることだろう。そうでなければこの事態を了解できないからだ。

 確かに常人の理解を絶するこの行為は、そのように納得するしかないのかもしれない。

 しかし、犯人が主張する、障害者は社会にとって不要であるのだからそれを排除した、と言う言葉は、じつは我々に突きつけられた鋭い刃であることに気がつかなければならないように思う。

 彼は社会にとって無用であるどころかお荷物でしかない重度の障害者を選んで抹殺していった。それが自分の使命であると確信していた。彼をそう確信させたものはなにか。

 この障害者のための施設は、歴史も古く地元に受け入れられていたという。施設側も努力し続けてきた。しかしこのような施設をどこかに新設しようとしたら、地元から激しい反対運動が起こる。保育園の新設ですら激しい反対運動が起こる時代である。老人用の施設だろうが精神障害者の施設だろうが、身体障害者の施設だろうが、すべて激しい反対に遭うだろう。

 そもそもそのような施設は排除されるべきもの、という社会的なコンセンサスがすでにこの日本では醸成されてしまった。弱者を護る、という名目のもとに弱者についてのあらゆる言葉を使用不能にし続けてきたマスコミは、護るのではなく、排除することに加担した。いや、加担したのではなく、率先して排除の思考を人々に植え付けた。

 弱者は覆い隠され、存在しない者として扱われ、語られるときは観念的な、具体性のない理念的な、もの、として扱われた。

 これを今回の犯人は、障害者はこの世に存在してはならない者、それを抹殺することが社会的使命である、と認識した。それが間違っていることはもちろんだが、この社会的なお荷物である障害者は社会から排除されるべきだ、とみんな本当に思っていなかったのか?

 障害者からの、今回の事件についての悲痛な訴えを聞くとき、そのことを我々に問うているという認識で聞いた人間がどれほどいるのか?

 犯人が異常者であり、異常者が間違っていることは疑いえないけれど、異常者は社会の空気を鋭くかぎ取り、それを異常な精神活動の中で増幅したのだと言えないか?  

 犯人はなぜ笑ったのか。なぜ悪いことをしてしまったとしてうちひしがれていないのか。自分を取り囲むマスコミの騒ぎに自分の正しさを確信し、そしてマスコミがどのように自分を非難するかも承知の上で、彼らの正義をあざ笑ったのだろう。

 いつものように、行政側からは二度とこのようなことのないように、施設の警備を万全にするよう対策を急ぐ、などというコメントが出されていた。施設を要塞化しようとでもいうのか。

 社会にこのような異常者は必ず一定の数存在する。彼らが攻撃対象としてこのような施設に向かわないためになにをすべきか、まずそれを考えることが先決なのだが、そんなこと思いもよらないだろう。再び三たび似たような事件が起こるにちがいない。異常者はしばしば模倣する。

 テロではないが事件は拡大化する。模倣者は先達者を越えようとするものだ。いやな世の中になった。

2016年7月27日 (水)

封人(ほうじん)の家

「封人の家」とは国境を護る役人の家のことで、奥の細道で「封人の家」と書かれているのは、仙台領と境を接する新庄領堺田村の庄屋の家、旧有路家住宅のことである。

   大山を登って日すでに暮れければ、
   封人の家を見かけて宿りを求む。
   三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す。

      蚤虱馬の尿する枕もと

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封人の家。

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入り口に立つ芭蕉翁と門人曾良の二人。

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二人が見つめるものはなにか。

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入り口から邸内を見る。

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奥が床の間のある部屋だが、芭蕉たちは手前の部屋に泊まったらしい。

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この人が案内人の中鉢さん。この仕事について10年になるという。しばらく雑談した。

中鉢という名字は山形県側ではなく宮城県側の鳴子に多い。中鉢さんによればそもそもは自分も宮城県側の人間かもしれないという。この封人の家の辺りは山形県最上郡だが、もともと伊達藩領であった。伊達と最上義光との戦いで伊達側が敗れ、この辺り一帯が最上領となって以来、宮城と山形の県境も宮城側に食い込んだ形になっているのだという。

いろいろ歴史的なことや、近くの温泉の情報を教えてもらう。関連する資料を頂戴した。湯治宿も教えてもらい、なかなか評判が良くて予約が取れないので、自分に任せてもらえばもしかすると宿が取れるかもしれないから声をかけるようにいわれる。名刺も頂戴した。大事にしたい。

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入り口そばの厩。ここは曲がり屋ではないが、雪深いところであるから屋敷内に厩がある。尿(ばり)をしたのはここの馬である。

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前庭に芭蕉の句碑が。これはそのまま読める。

尿前の関で時間を食い、この封人の家に泊まらざるを得ず、しかもそのあと嵐で足止めを食ってここに二泊三日間滞在した。

時間を食ったのは当時、用事もないのに中山越えして出羽国に入るものなどいなかったので、怪しまれたためらしい。

あの句を詠んだのは馬の小便のけたたましさが印象に残ったのであろうが、尿前の関を意識していることは明らかだ。

尿前の関はもともと地名に由来するもので、芭蕉の奥の細道より前の時代からあり、この句が由来ではないようだ。

長々と旅の話を続けたが、ここで終わりとする。
おつきあい、ありがとうございました。

堺田分水嶺

封人の家に行く。封人の家については次回に詳しく紹介するが、その前に近くの分水嶺に立ち寄る。封人の家の駐車場から歩いて五分ほどである。


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分水嶺への道を歩き出す。分水嶺は宮城県と山形県の県境に近いが、山形県に属する。

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山中から流れ出したせせらぎが小川となって流れる。

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出羽の山々から流れ下ってきたのだろう。

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小川が見え隠れして分水嶺を案内する。

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堺田分水嶺。向こうから流れて来た小川が、日本海と太平洋に別れて流れ下る。

今年の早春、ここへ来たのだが、今年は雪が少なかったとはいえ、普通の靴ではここまで来るのが困難だった。

そして封人の家は冬ごもりしていて、入ることができなかった。だからもう一度訪ねたのだ。

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道筋にあった紫陽花。もう梅雨明けも近く、日差しは真夏である。花も終わりのようだ。

このあとようやく封人の家に行く。封人の家は芭蕉が奥の細道の旅で立ち寄って、三日ほど足止めされた場所である。

封人の家とはなにか。

高島俊男「お言葉ですが・・・別巻①」(連合出版社)

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 細部にこだわる。こだわり抜く、というのが著者の生き方である。それはときに世間を狭くするが、世間体を考えてこだわりを控えればそれは高島俊男ではない。生きにくい生き方をあえて選び、そのことがときにしんどいにちがいないが、世の中にはその高島俊男の言い分に共感する人もいる。その共感者からの賛意こそ、彼の生きる原動力である。

 著者は、週刊文春の連載打ち切りの理由について詳しいことは書いていない。通告されたから受け入れた、とだけ最後の第11巻に記しているだけである。書いていないから、なぜなのだろう、とつい想像を働かせてしまう。なんとなく誰かの逆鱗に触れて文藝春秋に圧力がかかった気配もある。それが事実だと仮定しても、もちろん誰だかまったくわからない。

 この別巻シリーズは、著者がいろいろなところに掲載した小文を集めたものであり、巻末に初出が記されている。現在別巻⑥まで出版されているようであり、引き続き彼のこだわりに接し、それを楽しむことが出来ることは嬉しいことである。  

 掲載された場所が違うので文章には長短があり、内容の突っ込み度合いも浅深がある。それでも、どの文章からもあたらしい知見が得られ、新しいものの見方が教えられることはいままでどおり。

 私は、しつこいのは嫌いだけれど、著者のこだわりは嫌いではない。著者はときに他者を批判する。その批判は明確で、ときに歯に衣を着せぬ激しさがある。しかし、たいていはそのこだわりの俎上に載せられたテーマについてのものであり、個人を攻撃しているのではない。誰だって誤謬はある。著者自身だって誤謬はあるので、それを指摘されればすなおに訂正し、言い訳ではなくどうしてそう考えたのかの道筋を明らかにしてくれる。それは決して釈明ではない。

 たぶんその批判を個人攻撃と受け取った何者かが、文藝春秋に圧力をかけたのではないか、などと想像されるが、著者がなにも語らないからわからない。

 批判に正当な反論をすれば、著者は正々堂々とそれに応じて詳しく回答するだろう。しばしばそうしてきたように。それを闇夜から鉄砲を撃つような卑怯なことをした者がいるのではないか。

 どうも著者のこだわりとは違う、私の悪いこだわりがでてしまったのだろうか。著者はそういうことには表面上恬淡としているのに申し訳ないことである。

2016年7月26日 (火)

尿前(しとまえ)の関

鳴子は峠の手前の平地にある。そこから峠にさしかかるあたりに尿前の関がある。久しぶりに立ち寄った。ここを訪ねる人はほとんどいない。


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駐車場に車を置いて急な階段を下りていく。

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木下闇の暗がりを抜けていく。昔より階段が整備されて歩きやすくなった。

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来た道をふりかえる。

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これが出羽街道 中山越えの道。

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尿前の関入り口。

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関の隅に芭蕉翁の銅像が。

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銅像の前から関の全景を見渡す。

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関の近くにも芭蕉の句碑がある。

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明治時代に立てられたものらしい。なんとか読み取れる。

  蚤虱 馬の尿する 枕もと

この尿を「ばり」とよむか、「しと」と読むか、意見が分かれる。

尿前の関にちなめば「しと」であろうし、馬の小便のけたたましさを思えば「ばり」とよむのが妥当であろう。いまは「ばり」が主流のようだ。

義経終焉の地、高館義経堂(たかだちぎけいどう)

遠野を訪ねたあと、平泉の高館義経堂に立ち寄った。平泉の中尊寺や毛越寺はたびたび訪ねているし、じつは今年の春にも訪ねている。そこで以前から気になっていた、高館義経堂を訪ねることにした。


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駐車場から山道を少し歩くと高台に高館義経堂がある。ここは義経が藤原泰衡の兵に急襲されて追い詰められ、妻子とともに自害した場所である。じつは逃げ延びて蝦夷地から大陸に渡り、ついにはジンギスカンになったという伝説があるが、そうであって欲しい、と言う思いからの伝説である。

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この坂の上に小さなお堂がある。それが義経堂である。もともとの高館は義経が自害したあと火が放たれているから焼失して存在しない。

藤原泰衡は頼朝に脅されて義経を討たざるを得なくなった。鎌倉幕府と戦う力はもう藤原氏にはなかったのだろう。

しかしその藤原氏も頼朝に討ち滅ぼされてしまう。泰衡の父、秀衡は戦ったら勝てないと承知していても、むざむざと平泉の地を蹂躙されることは許さない、という気概を持っていたが、泰衡にはその意地はなく、みすみす義経を殺したという汚名を歴史に残すことになった。

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義経堂から北上川を望む。

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右手の山、左手奥の衣川など、この一帯が古戦場である。

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義経の供養塔。

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芭蕉の句碑。

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   夏草や 兵どもが 夢の跡

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義経堂の手前に小さな展示館がある。この仁王像、どことなくあの遠野の常堅寺で見た仁王像に似ている。素朴で一見稚拙に見えるが、私はいかにも「みちのく」らしく感じて良いと思う。

往古を回顧し、感懐を抱いて高館義経堂を後にした。

魯迅(中島長文訳注)「中国小説史略1」(東洋文庫)

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 魯迅が中国の小説史について講義したときの原稿に手を入れて本にしたものである。この全体の前半部にあたる1は、古代から元の時代(一部明)まで、そして後編にあたる2は明から清の時代。もちろん現代中国の小説は紹介されていない(魯迅は亡くなっている)。

 小説、であるから史書や経書は含まれない。ここには私の好きな志怪小説や伝奇小説が、山のように紹介されている。有名なものは私の本棚にも列んでいるけれど、知らないものの方が多い。中国では失われた書籍のほうが、残っているものよりずっと多い。残っていてもほとんどが完本ではない。

 ただ、中国では時代時代に膨大な書誌目録が残されている。だから、その時代にどのような本があったか、知ることが出来るのだ。

 もともとが講義録だから、書名と、わかっていれば著者名、編者名、ほかの本との関わり、変遷、内容紹介があり、その内容があとで書き直されたり書き足されているかどうかについての考察が行われる。

 もともとの魯迅の書いた本文に対して、章ごとにひとまわり小さな活字で訳注が続いている。この訳注が本文よりもずっと分量が多い。丁寧に訳注を読んでいると途中で投げ出したくなるので、読みにくいところは流し読みした。

 魯迅がただの小説家ではなかったことがよくわかる。

 人は物語をつむぎださずにはいられないものらしい。そしてそれを読みたい、そして聞きたい人がたくさんいる。それは書き加えられ、書き足され、改編されて次々に変貌していく。またさらにあたらしいものが生み出されていく。それなら全体として膨大なものになるのは当然である。

 多くが戦乱などで散佚しているが、それでも運良く残されたものを我々は目にすることが出来るのだ。そのときの流れと人の情念のようなものを感じた。中国の白文での文章をそのままわけもわからずに読み下していると、ほとんどわからないながら、なんとなく感じ取れるものがないではない。

 これは並行して読んでいた高島俊男師の本で教えられた中国の文章の読み方だ。わからないなりに読み下しているとそこからなにかがつかめる。それに慣れてくるとつかめるものがおのずから増えてくるものだという。もっと早くそれを知っていればもう少しレベルアップしていたのに残念だ。いままでは漢和辞典を引き引き逐語訳していたが、それではたいした量は読めないし、そもそも面白さもわからないものだ。

 水滸伝についての高島師の論考のところで、この魯迅について言及があり、魯迅の解釈が批判されている。それはそれで面白かったが、もちろん高島師は魯迅を貶めているわけではない。魯迅が高島師の意見を読めば、「なるほど、そういう見方もあるね」というだろう。

2016年7月25日 (月)

河童淵

映像で見る遠野といえば必ず河童淵が取り上げられる。


遠野伝承園から近い。歩いて十分ほどである。

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ホップ畑のなかを歩いて行く。けっこう観光客が多い。遠野にあこがれる女性が多いらしい。

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常堅寺という寺の中を抜けていく。

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常堅寺の山門。

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面白い表情の仁王様。

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よく見ると山門の彫り物がすばらしい。ほかにもたくさん良い彫り物があった。

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狛犬が河童の顔である。アルカイックスマイル。自分自身の姿に照れ笑いしているようだ。

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寺の庭を抜けて裏の川の方へ歩いて行くと、かっぱこばしがあって、これを渡る。かっぱ橋では上高地だからかっぱこばしである。

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川沿いに進む。

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カッパ渕の木の標柱。よく見ると釣り竿の先にきゅうりがぶら下げられている。

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カッパを釣りたい人にはきゅうりの餌付きの釣り竿が貸し出される。いましつらえられているのは、カッパ釣り名人のものだからさわらないように注意書きがある。

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遠野物語のカッパについての記述の一部が紹介されている。

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カッパのほこらに頭を下げる若い女性。

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日差しは暑いが風はさわやか。だから帽子はとてもありがたい。私がかぶっていた帽子である。伝承園に戻って帽子のお礼を言って、カッパの小さな焼き物と、遠野の案内書を購入した。

遠野には見所がほかにもたくさんありそうだが、一度に見るのはもったいないのでここまでとした。つまりまた来ようというのだ。期待以上に面白かった。



遠野伝承園(4)

曲がり屋の裏手の炭焼き小屋などを見に行く。


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こんなものを見つけてぎょっとした。猿らしい。

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蚕の神様が祀られているのだろうか。

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花の大きな桔梗。

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空気が澄んでいるので、夏の花が鮮やかに見える。

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炭焼き小屋。薪は積んであるが、シートがかぶさっていては炭は焼けないだろう。

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裏の畑。遠野の風景の一部か。

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金精様が祀られている。豊穣への願いのシンボルだ。

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水車小屋。これは稼働していた。

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現在の遠野の風景。山上遠くに発電用の風車が回っている。

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日差しが強いので、この麦わら帽子を「河童の皿」といって貸してくれる。かぶらない人が多いが、私はずっとかぶっていた。伝承園の女性が、薬草茶をふるまってくれた。しばらく話をする。客はずいぶん多いらしい。観光バスもよく来るという。

河童淵への道を聞いたら、簡単な地図をくれた。

日差しが強いから、その帽子をそのままかぶっていっても良いですよ、と言うのでありがたくお借りする。

それをかぶったまま歩いていたら、向こうからやって来た妙齢の女性たちが笑いながら「お似合いですよ」と言った。なんだか河童になったみたいで、ちょっと胸を張りたい気持ちになった。私の言う妙齢の女性は年齢にかなり幅があるけれど。

十日ほどひげを剃っていないので、ごま塩ひげの大きなじいさんが河童の麦わら帽子をかぶってふらふらと道を行く。似合うはずだ。

一週間分の洗濯

 昨夕、無事わが家に到着。帰ってさっそく一週間分の洗濯をした。夏だから汗をかく、ズボン以外は毎日すべて着替えていたから、ハンカチや靴下も含めてかなりの量になる。三回に分けて洗濯したら乾すためのハンガーや物干し竿が足らなくなった。

 さっぱりとしたあと、買い出し。冷蔵庫のなかは日持ちのするもの以外すべて片付けてしまったので、補充しなければならない。適当な総菜で、旅のことを思い出しながら例によって一杯やる。

 今回の旅には10冊ほどの本を持参したが、そもそも毎日移動していれば本を読む時間はあまりない。一日一冊くらい読めると思ったのは間違いであった。結局読んだのは三冊半。予定の半分だ。かついで出かけてまたかついで帰ってきた。と言っても車のトランクに入っていただけなのだけれど。

 今朝起きてすぐに窓を開けた。名古屋としては案外涼しいのだけれど、いままでの山の朝の冷気のさわやかさとは違って、むっとする。この空気で名古屋へ戻ったことをあらためて強く実感した。

 日常と旅とのモードの違いがある。生活のリズムがまるで違う。旅のモードにはすんなり入っていける。わくわくしながら日常からするりと抜け出すことが出来る。しかし旅のモードから日常のモードに戻るのはしばらく時間が必要だ。

 女は港、男は船よ。と言う言葉がある。船は港につなぎ止められたままでは船ではない。船は航海していてこそ船だ。山頭火や放哉にあこがれるのは、そもそも船には旅にさすらうことが習性として仕組まれているからだろう。

 いまは海に出ることを忘れた船や、航海に出る港もあったりするけれど。

 老船や廃船になる前に、可能な限り海に漂いたいというのは、衰えに抵抗するためのムダなあがきか。芭蕉は奥の細道の旅をしたあと間もなく亡くなっている。旅の途中で死ぬことも覚悟しての旅であった。旅とはそういうものであって、そういうことをこの歳になってしみじみと感じることができるようになった。

 旅こそ人生、などとちょっと気取ってみたりしている。どうせいつかは遠い旅に出るのだ。

2016年7月24日 (日)

遠野伝承園(3)

曲がり屋の奥にオシラ堂がある。オシラサマがたくさんいる。


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あふれかえるオシラサマ。

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オシラサマは好いことのお告げをするともいわれる。だからそのオシラサマに願をかけるようになったようだ。

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とにかくあまりの数に圧倒される。それぞれに気持ちがしっかりとこめられているのだ。

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馬とのペアではないものもある。

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曲がり屋の外へ出る。強い日差しに鉢の睡蓮の緑が濃い。

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あらためて曲がり屋をふりかえる。

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   語り部や 川の ほとりの 春障子

伝承園、まだちょっとつづきます。


遠野伝承園(2)

むかしの農具が置いてある。どういうわけか、赤い字で俺のだ、と書いてある。


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曲がり屋に行く。

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入り口の土間に蚕が。

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丸々と太って・・・もちろん生きている。じつはこのあと聞くむかし話に関係があるのだ。

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曲がり屋の中の昔語りを聴ける部屋。あの板倉とは違う。その部屋の外の柱にこんな大きな、木のお面が。

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このおばあさんがお話をしてくれる。地の言葉、訛りの強い方言なのだが、とても聞きやすい。

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こんな風になっていて、囲炉裏の傍にすわってゆっくり話を聞く。オシラサマ伝説の話と、五徳の話の二つの話が語られた。

オシラサマ伝説は、「遠野物語」では

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このようになっているが、おばあさんの話は10分くらいの長い話になっている。馬と娘を失ったあと、両親は深く悲しみ、後悔する。そのあと死んだ娘が両親の夢枕に立ち、天に昇って馬と幸せに暮らしていることを伝え、臼の中に宝の虫をあげる、という。それが蚕なのである。

蚕の顔は正面から見ると馬のような顔をしているという。背中には蹄のような模様もあるそうだ。両親は蚕を育て、繭から絹糸をとって絹織物を作り、それで裕福な暮らしを送ることが出来たという。だから蚕が部屋の前に置かれていたのだ。

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馬と仲むつまじい娘。

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馬が死んで嘆き悲しむ娘。

オシラサマがなぜ馬と娘の一対なのか、これでわかった。


五徳の話をする(うまくまとめられるかどうか)。

五徳を知っているだろうか。囲炉裏や火鉢にあって、三本脚で、鍋などを置く台である。むかしは四徳と言って四本脚であったそうだ。

話はいきなり始まる。むかし、犬は三本脚だったそうだ。三本脚でちんばを曳いていた(いまどきちんばなどというと、たちまち差別だと非難されるだろう)。犬は走るのに困難なだけでなく、歩くのにも不自由していた。

それを哀れに思ったのが弘法大師であった。そこで四徳に、「お前はどこへ行くでもなくそこにじっとしている。別に四本脚でなくても不自由するということがない。だから一本、脚を犬にくれてやってはもらえないか」、といった。四徳がそれを承知したので、その一本を犬にくれてやった。

犬はお陰で四本脚となり、自由に走り回ることができるようになって大いに喜んだ。

犬は小便をするとき、弘法大師にいただいた脚に小便がかかることをもったいないことに思い、必ずその脚を持ち上げるようにようにした。いまでも犬が脚を上げて小便をするのはそういうわけである。

弘法大師は四徳のことをほめて、お前は三本脚になったけれど、徳を一つ積んだのだから五徳としよう、と言った。

だから五徳は三本脚なのに五徳というのだ。


中塩原温泉にいる

 中塩原温泉にいる。那須高原には友人と来たり、母と二人で二、三度泊まったが、塩原に来たのは初めてである。こんなに景色の良いところだとは知らなかった。そういえば塩原は日光国立公園に含まれるのを思い出した。

 那須からその塩原の景色の良いところをさらに奥に進むと、比較的に平らな、普通の田舎の里山の風景になる。中塩原とはそんなところだ。泊まっているのはこじんまりした旅館で、部屋も少ない。トイレも洗面所も外。そのかわり食事は部屋へ運んでくれる。品数は多くないし、刺身などちょっと無理に出さずに良いのに、と思うようなものだが、全体として私の好みに合っている。料理に気持ちがこめられているのを感じる。

 昨夕、ドカドカと音がして、隣の部屋でもドシンバタンとするのが聞こえる。何事か、やかましいお隣さんで困ったものだと思ったら、それ以来ぱたりと音も話し声もしない。

 夕食のときに仲居さんに話を聞いたら、登山客の団体が泊まっているのだそうだ。やかましくてすみません、と言う。あの音は大きなリュックサックを肩から降ろす音だったのだ。朝五時に食事、六時前には出発するので、朝も賑やかになりますからご容赦下さいという。

 申し訳ないがそれを片付けてからあなたの食事の用意をするので、食事を朝8時にさせて下さい。了解しました。こちらも今日は帰るだけであるから問題ない。そのかわりほかの客が出立後にゆっくり朝風呂に浸かることにする。

 昨夕は、那須塩原インターを下りてから、来週母の一周忌で行く弟のところへのお土産を買うために、千本松牧場に立ち寄った。夏休みに入ったところで、子ども連れの人々でごった返していた。なにか催し物をしているのだろう。マイクで喚く声が聞こえる。適当にお土産を見繕ってほうほうのていで逃げ出した。やかましいのは嫌いだ。

 自分用のカマンベールチーズ二種類も買ったが、これは冷蔵が必要だという。部屋には冷蔵庫がないので、宿の冷蔵庫に預かってもらった。

 宿の前の川のせせらぎが雨の音のように聞こえて、四時前に目が覚めてしまった。登山の人たちより早起きしてしまった。寝についたのが九時頃だから睡眠は足りている。そうしていまこれを書いているところなのだ。

 体力にあふれたときと違って、旅は移動ばかりしていてはやはり疲れる。二泊ずつか三泊ぐらいゆっくりしながらもっと温泉をじっくり楽しんでいれば、いくらでも旅が続けられるだろうけれど、貧乏性なのだろう。じっとしていられない。今度は計画を立ててゆっくりする旅をしてみようか。

 久しぶりになにも予定を立てない旅をして、無駄な時間もずいぶんあったけれど、それも丸ごと楽しめたのは有難いことだった。

2016年7月23日 (土)

遠野伝承園(1)

今回の旅にガイドブックは持参していない。持参したのはツーリングマップのみである。このバイク乗りのための地図にはいろいろな情報が書き込まれていてけっこう役に立つが、その文字が小さいので読み取るのに苦労する。


遠野には一度立ち寄ったが、そのときは高台の大きな曲がり屋から遠野を見下ろしただけであった。

今回どこに立ち寄るのが良いか地図を見て、この伝承園を選んだ。正解だったと思う。絶対寄りたいと思っていた河童淵にも近い。

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伝承園入り口。ワラ屋根が入り口で、中は広々している。見所も多い。

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伝承園全体図。

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柳田國男の「遠野物語」の語り部、佐々木喜善の記念館。彼の語る物語を柳田國男が聞き取って文章にした。

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左の後ろ向きの人物が佐々木喜善、右側の原稿用紙らしきもの
を前にしているのが柳田國男である。

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当時の写真。佐々木喜善は地元のただのおじいさんだと思ったら、大学にも行った学問のある人で、宮沢賢治とも親交があったという文人だったらしい。この土渕村の村長も長く務め、地元の歴史遺産や文化を残すことに努めたという。

この人がいて遠野物語が残され、そしていまの遠野が残されているのだ。

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園内。

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板倉。もともと板でかこっただけの蔵だが、ここが座敷になっていて、子どもたちに語り部のおばあさんが昔話を話して聞かせる場所として使用されている。

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右手の場所でおばあさんが語り、左手の机の前で子どもたちが話を聞く。絵を描いたり、メモをとったりできるようになっている。

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河童淵の河童か。

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オシラサマと語り部のおばあさん。

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オシラサマは娘と馬が必ず一対になっている。

それはなぜなのか?あとで昔話を聞いて初めて分かった。

遠野伝承園の項、つづきます。

石川啄木記念館

記事にリアルタイムとのズレが生じている。

八幡平のあと、花巻の宿に向かう前に石川啄木記念館に寄る。東北では、宮沢賢治とならんで私の中で強く意識している存在だ。
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石川啄木の等身大。身長156センチ、体重45キロ、無意味に大きな私だと、つい見下ろしてしまう。当時の男としても小柄だったのではないか。
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よく知られている啄木のイメージはこの像だろうか。
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記念館の内部。
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妻、節子についての詳しい解説がある。啄木を看取ったあと、次女を出産、しかし啄木と同じ病に冒されていた節子もしばらくしてなくなっている。
啄木は今風にいえばずいぶん自分中心に生きていた。それにもっとも振り回されたのは節子である。しかし節子は啄木を見放さなかった。節子の身を案じる節子の実家に、啄木は絶好を申し入れ、節子にも交流を禁じた。
節子は啄木と同年生まれで、早くから互いを意識していたようだ。節子は女学校を出ている。当時の女性で女学校を出ているということは、家庭もよく、本人も知性ある人だったのだ。そのことが彼女を啄木に縛り付けたのかもしれない。どうしてそう思うのかは説明が難しい。
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渋民村の小学校の代用教員をして食いつないでいた頃の啄木の様子。
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当時の渋民小学校の教室。
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代用教員時代に借りていた斉藤家。節子と娘と三人で暮らした。
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入り口にこんな歌がかかっている。
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座敷。
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奥から入り口を見る。
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啄木が二歳から十歳まで預けられていた宝徳寺。記念館から歩いてすぐ。啄木の父はこの寺ではないが寺の住職だった。しかし問題の多い人のようで、住職を失職し、家族は路頭に迷うことになった。のち啄木は父の住職復職のための運動をしたが、父の家出で頓挫した。

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報徳寺の門前の野仏。

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同じく門前の六地蔵。赤がまぶしい。

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ついに山の雲は晴れず。

宮城県鳴子温泉の一つ、中山平温泉にいる

  宮城県鳴子温泉の一つ、中山平温泉にいる。ここは紅葉の絶景で有名な鳴子峡のすぐ近く、鳴子温泉群の中ではいちばん山の上にある。鳴子峡の写真や映像を見たことのある人は多いだろう。

 親しくしている大阪の兄貴分の人は、温泉の中でこの温泉がいちばん、という。よほど良い宿に泊まったのだろう。中山温泉のキャッチフレーズは「シントロの湯」である。濃度が高いのだ。鳴子温泉は、いちばん東側の川渡(かわたび)温泉、東鳴子温泉、鳴子温泉、そしてこの中山平温泉に入った。合わせれば十回をはるかに超える回数来ている。私のお気に入りの場所だ。

 今回の宿は二回目。部屋も客のあしらいも悪くないのだが、残念ながら料理が今ひとつなのである。お酒のつまみにはもの足らないし、御飯のおかずとしても少し違う気がする。料理は食べる人の嬉しそうな顔を思ってひそかに喜びとするような料理人に作られれば、どんな素材も美味しく食べられるものだ。ただ、作りましたよ、これで良いでしょ、という、食べる人のことを考えていない料理はもの足らないものだ。

 こんなことを書いてしまうと宿の名前が記せない。

 週末だから客が多い。多くは初老の夫婦。定年後の楽しみとして温泉旅行をしているのだろう。不思議なのは三十代四十代の一人旅の男だ。なんだか面白くなさそうな顔をして酒も飲まずにめしを食っている。こんなところで仕事とは思えない、そもそもどんな職業なのかもわからない。

 そう言えば晩飯に酒を飲まない人が多い気がする。いきなり御飯を食べている。そんなのそれぞれの勝手だろうが、もったいない気がする。だから料理人も料理に魂がこもりにくいのだろうか、などとつまらぬことを思ったりする。

 昨夜も爆睡。ドライブ疲れもあるだろうが、とにかくよく眠れる。お陰でほとんど本が読めない。

 今晩は那須塩原の温泉に泊まる。もう帰り道なのだ。明日は名古屋に帰る。ずっとこんな旅が続けられれば幸せだが、寅さんではないからそういうわけにも行かない。残念なことだ。

 今日は奥の細道の「封人の家」と分水嶺を見に行く。そのあと「尿前(しとまえ)の関」を訪ねたら、一気に栃木県まで南下する。距離があるから高速に乗る。土曜日だから休日割引があるのが有難い。

運転したことがなければ、違反履歴はない

 クリーンであることを標榜する候補が、その機会がなかっただけであれば、クリーンかどうかわからない。

 クリーンであるというのは、あまたの誘惑をはねのけて、出来るけれどもしなかった、という実績の上にいうことの出来ることである。

 だから、その機会のなかった人間が、自分がクリーンであることをいうのは詐称であると私は思う。

 多くのひとは、自分の権限がもたらす金の誘惑に出会う機会がない。そもそも権限のある立場に立つことがなければ誰も誘惑などしない。

 誘惑に負けた人間を、人々は激しく糾弾する。当然ではあるけれど、そのあまりの激しさに、自分にチャンスがなかったことの恨みがこもっているように見えるのは、私の考えすぎか。

 それならば、その激しく糾弾する人のなにがしかの人々は、機会があれば同じことをするのではないか、などと思ったりする。

 運転免許がないから、またはもっていてもまったく運転しない人は、スピード違反をはじめ、運転者の起こす違反をまったくすることがない。

 ではその人は無事故無違反だから優良運転者であるのか。そんな理屈は通用しない。

 鳥越俊太郎氏はクリーンを標榜する資格がまだない。

2016年7月22日 (金)

宝仙湖から八幡平へ

打当温泉から八幡平が遠くない。

田沢湖方面に戻って東へ曲がり、峠を越えて宝仙湖を回り込めば八幡平の西に出る。ただ、宝仙湖へ抜ける峠道が狭そうで心配だった。

宝仙湖側の数キロがすれ違い困難な狭い道だったが、ほとんど車も通らない道なので、ストレスなく国道341号に出ることが出来た。

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宝仙湖。玉川など周辺の山から流れ出た川をせき止めているダム湖である。この湖も青い。晴れて青空ならもっと青いだろう。

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水がきれいだから青いばかりではなく、なにか理由があって青いのかもしれない。

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こんなところで独りでキャンプしてひと晩過ごしたら青く染まるだろう。

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打当温泉のあたりもそうだったけれど、このトンボが無数に飛び交っている。飛び交っている写真はうまく撮れないので、ガードレールにたまたま止まったのを撮った。ムギワラトンボに似ているけれど、ひとまわり小さい。

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八幡平ビジターセンター前の大沼。

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遊歩道の入り口にクマ注意の看板が。

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自己責任で少しだけ散策。

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緑一色。

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こういう赤い色があると鮮やかで目立つ。

このあと八幡平の山道をひたすら走る。標高1500メートルあまりの山の景色を何枚か。

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たくさん撮った中からランダムに選んだけれど、イメージをしてもらえただろうか。

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たぶん行く手に岩手山が見えるはずなのだが、ついに雲は切れることがなかった。

このあと石川啄木記念館に向かう。


マタギの里、マタギ資料館

国道から打当温泉方面へ曲がる場所のすぐ先に道の駅がある。


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大きな木彫りが迎えてくれる。

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熊さんも、

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もちろんマタギも。

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こんなのが山にいるらしい。

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ここには秋田内陸縦貫鉄道が走っている。温泉への道の途中にある阿仁マタギ駅。熊に注意、という看板が立っていた。

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温泉の隣にマタギ資料館がある。宿泊者は見学無料で、宿の中から見に行ける。こういう刃物を見るのが好き。欲しいけれど使う機会はない。

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ここにも熊が。狸とお友達なのだろうか。

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なんでオコゼが?

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山の神様は女性で、しかも醜い姿をしているらしい。オコゼを見ると自分より醜い、といって喜ぶのだそうだ。

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罠いろいろ。

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銃いろいろ。

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こんな風に熊を撃ち殺し、

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こんな姿にされてしまう。

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肉は人間の胃袋に収まり、頭の骨はこうして陳列される。

所詮同居は出来ない間柄なのだ。

それにしても今年の熊の出没の多さはどういうことなのだろう。一時的なのか、それとも熊が本気で集団で反撃に出ようとでもいうのか。


花巻・台温泉

 花巻の台温泉というところにいる。花巻は宮沢賢治のふるさとであり、宮沢賢治記念館もあるので何度か来たことがある。十年ほど前に、母がこの宮沢賢治記念館に来て、いたく気にいり、薦めてくれた。あの円空仏好きの友人を連れてきたら感激していた。そのときもこの台温泉に二人で泊まった。ここは遠野にも近いし、平泉にも近い。

 トイレなしの安い部屋を予約したのだが、部屋のテレビが調子が悪い。別に旅先ではテレビなど見ないでも平気なので、かまわない、といったのだが、風呂場にも近く、トイレ付きの部屋に換えてくれた。

 食事のあと、前泊のマタギ温泉ではそのまま寝込んでしまって夜の風呂に入り損ねた。ここでも危うくそうなりそうになったので、すぐ温泉に浸かった。長湯して飲んだ酒を良い具合に全身に廻らせ、汗をかきながして、好い気持ちになった。たっぷりと用意してくれていた冷たい水が、風呂上がりにとてもうまい。

Dsc_0334 朝日を浴びる宿の風呂場、百合が咲いている

 本を読み始めたけれど、眠気の方が先に来た。九時前に就寝。爆睡。五時前にさわやかに目覚めて朝風呂を浴びる。いま風呂上がりにぼんやりしているところだ。予定日数から、もう旅は後半。日曜には家に帰る。本当はひと月くらい、せめて十日くらいは山の温泉にずっと滞在したいところだ。

 今回はさすらう旅がテーマなので、移動を主にしたが、歳のせいかいささかくたびれる。それも楽しいけれど。

 今日は遠野にでも行ってみようか。

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そういえば昨夕、走行距離を見たら、5のぞろ目になっていた。そういうことはあまり気にしないのだが、たまたま気がついた。9月が最初の車検だから、間違いなく年間20000キロは走る。これでも以前より少ない。

ところで走行距離476キロと走行可能距離606キロを足すと1000キロを超すのがおわかりだろうか。愛車のアテンザは満タンでたいてい1000キロ以上走れるのだ。平地なら、燃費17キロ前後はキープできる。これならハイブリッドは必要ない。

2016年7月21日 (木)

田沢湖に寄る

カーナビが選定したルートは角館から田沢湖の前を通る。

角館も田沢湖も今年の初春に来たばかりだ。だから角館はパスしたが、時間があるので田沢湖を少しだけ見ていこう。

Dsc_0209 田沢湖

天気は晴れたり曇ったりと変化が激しい。

Dsc_0187 御坐の石神社大杉

湖畔の御坐の石神社に立ち寄る。

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神社ではなにかの行事をしているらしく、お祈りの声がしていた。

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蛇身の辰子姫にご挨拶していく。

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空が晴れていないのに、神社前の水の色はこんな濃い青色をしている。

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足元の湖面を覗くと、魚がたくさん泳いでいるが、さざ波が反射して見えにくい。よく見るとわかる。

静かなら深い水底が見えて引き込まれるような気のするところなのだ。

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本当にこんな青い色をしている。もっと不思議な神秘的な青さである。

駐車場の前の店でソフトクリームを食べて満足し、もとの道に戻って打当温泉に向かう。

象潟

鶴岡から酒田、さらに秋田県を日本海沿いに北上する。


残念ながら雲が低く垂れ込めて、鳥海山はまったく見えない。それでも湯田川を発つときは雨だったからそれがやんだだけましか。

Dsc_0171 建物の後方、この雲のなかに鳥海山があるはず

象潟の道の駅で小休止。立ち寄ったのはいくつか理由がある。一つはここに秋田の地酒の売店があって、みやげに買うのだ。

Dsc_0168 象潟の海

むかし象潟は名前の通り、潟であった。その潟のなかに島が点在して、風光明媚であり、松島と並び称されていた。九十九(くじゅうく)島という。

芭蕉が奥の細道で

   松島は笑ふが如く、象潟は憾むが如し

と記し
   象潟や 雨に西施がねぶの花

と詠んだ。

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なんと、西施がいるではないか。西施は呉越の戦いのときに登場する絶世の美女。ひそみに倣うという言葉の、倣われた美人は西施のことである。

九十九島は江戸時代後半に地震でこの一帯が隆起し、島ではなくなってしまった。だから芭蕉の見た絶景を我々は見ることができない。

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これが九十九島のなれの果て。

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これもそうか。

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これがねぶの花。合歓(ねむ)の花である。北陸道から北では、初夏高速沿いにこの花をよく見る。

象潟のいまと、九十九島を見たので一応満足。

マタギの湯

 打当(うっとう)温泉マタギの湯というところにいる。ここの住所は北秋田市阿仁地区になる。昨日の宿、鶴岡の湯田川温泉から日本海沿いにひたすら北上し、秋田の手前から東へ向かい、角館、田沢湖を経由し、そこからまた北上する。田沢湖を過ぎるとほとんど車がなくなる。道はちゃんと整備されているからとても快適なのだが、ときどき大型のトラックが通り過ぎる。

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 思ったほど山深いところではない。外観から想像するよりも部屋は広くて手入れも行き届いている。きれいで、設備も充実している。なにより浴場が広々として明るくて気持ちが好い。これなら数日ここに滞在しても良いくらいだ。

Dsc_0223 部屋の窓から

 ただし本来は私は別館の安い部屋で予約した。今回は部屋が空いているので本館のずっと高い部屋をサービスしてくれたそうだ。食事もいいし、飲んだ地酒も絶品であった。

 食事のあとにもう一度風呂に入ろうと一息入れている中に眠ってしまった。思ったより疲れていたのだろう。のどが渇いて目覚めたら夜中を過ぎている。こうなるとなかなか寝られない。

 冷たいものを飲んだあと、読みかけの高島俊男「お言葉ですが・・・別巻①」を読了し、別巻②を読み始めて、そのこだわりの文章の面白さにやめられなくなっていたが、さすがにこれでは寝不足で翌日の運転に響く。むりやり横になったが眠れない・・・

2016年7月20日 (水)

生きている万華鏡

山形県鶴岡の加茂水族館に行った。ここは水族館だから魚の展示もあるし、アシカショーなどもある。海猫の餌付けをしながら生態を観察する場所もある。しかしなんといってもここの売りはクラゲである。

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水族館の入り口のモニュメントももちろんクラゲ。

大好きな魚の、それも自分になじみの深い魚の写真も何枚か撮った。鯵、キス、ホウボウ、オニオコゼ、鰯、etc.

しかしそれよりもクラゲに圧倒されたので、今回はそのクラゲの写真を並べる。クラゲは不思議な形をしている。そしてそれが動く。まるで生きている万華鏡のようだ。

コメントは入れずに写真を並べるのでご笑覧下さい。二枚ほど小生が映り込んでいるのはご愛敬。
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お近づきになりたくないもの、美しいもの、不思議なもの、いろいろあって見飽きなかった。

鼠ヶ関(ねずがせき)灯台

鼠ヶ関はいつも通過するばかりである。


この鼠ヶ関の灯台のある弁天島はぐるりを歩ける、と地図にあるので立ち寄ってみることにする。

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案内図。どんよりと曇っていた空がにわかに晴れて、日差しが暑いくらいになった。いろいろ歩きたいが、少しだけにする。

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弁天堂。後背地の小山の向こうに灯台があり、ぐるりと周りを歩くことができるようだ。

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左側から回り込む。なるほど灯台の頭が覗いている。空が晴れたら海の青さが鮮やかになった。

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だんだん道が狭くなる。大丈夫か!

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手すりにつかまらないと回り込めないほど狭い。

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こんなところを回り込んで、そして登ってきたのである。また手すりがすべて華奢で、ぐらぐらするから頼りない。

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鼠ヶ関灯台の勇姿。左手遠くに見えるのは粟島。

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走ってきた新潟方面を遠望する。雲がかかっている。ずっと曇り空だった。

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灯台は気象庁ではなくて、海上保安庁の所管なのだな。考えてみれば当然か。

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鼠ヶ関漁港。近くに魚を食べさせてくれそうな店があったが、酒なしではもったいないのでパス。

このあと鶴岡の加茂水族館に行く。水族館の文字を見ると引き寄せられてつい寄ってしまうのだ。ここはクラゲの展示で有名らしい。クラゲの写真を撮るのは難しい。結果は次回。

湯田川温泉というところにいる

 山形県鶴岡市の湯田川温泉という所にいる。ここは小野川温泉とならんで山形県で一番古い温泉だという。小野川温泉といえば、米沢の郊外にある温泉で、あそこの河鹿荘にはある団体の新年会で何度か泊まった。冬だから外は雪である。あのあたりは尋常な雪ではない。雪見酒、雪見風呂を楽しんだ。

 この湯田川温泉はどうだろうか。

 こじんまりした温泉で、普通の街中に旅館が何軒か建ち並んでいるばかり。奥の方には大きな旅館もあるようだ。川があればそれなりの風情もあるのだが、それもない。湯治には良いかもしれないが、景色を楽しむところではない。

 泊まっている宿は(私から見れば)若い夫婦がやっている小さな宿で、風呂場も小ぶりだけれど、もったいないほどの湯量の掛け流しで、いつでも入れる。食事も美味しいし部屋食である。

 湯田川温泉にはむかし新徴組の面々が宿泊したことがあるらしい。官軍に敗れて落ち延びたときのことだろうか。詳しいことはわからない。鼠ヶ関が近い。鼠ヶ関は義経や芭蕉も立ち寄ったところだ。昨日はそこの灯台と弁天堂に立ち寄った。あとでその写真はまとめて掲載する。

 鶴岡から最上川をさかのぼれば、あの清河八郎の出身地、清川村もある。藤沢周平の生家も遠くない。記念館のようなものがあるらしいので一度機会があれば立ち寄りたいと思っている。今回は向かう方向が違う。

 男鹿半島に行こうと思ったが適当な宿がない。宿はあるが予算が合わない。秋田の山の中にマタギの宿、というのを見つけた。今晩はそこに予約を入れた。さて、どういうコースで走り、なにを見ようか。

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海岸に住む人にとってはあたりまえの景色だろうが、わたしにとってはこれだけでも旅に出る値打ちがある。

2016年7月19日 (火)

フォッサマグナミュージアム

フォッサマグナという言葉は学校で習うから誰でも知っている。糸魚川と静岡を結ぶ構造線が知られているので、フォッサマグナは一本の断層帯みたいなイメージを持っている人が多いのではないか。じつはわたしがそうだったので、皆さんが正しいことを知っているなら恐れ入ります。


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糸魚川にフォッサマグナミュージアムという施設がある。一度のぞいてみたいと思っていた。フォッサマグナについて知ることが出来るし、化石の見事な展示物や鉱物の資料の豊富さ美しさに感激することも出来る。たいがいの人が行ったら面白いと思うだろう。

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ミュージアムの裏手、駐車場の前に石を割って化石を探すことが出来る場所がある。料金を払うと、道具と石を渡されるらしい。親子のスキンシップに最適である。

話を戻すが、フォッサマグナというのはむかし二つに裂けていた日本列島の間の大地溝帯に、火山などが噴火して隆起し二つの島を一つの島につないだあとなのだ。

西の端が糸井川-静岡構造線、東の端が柏崎-千葉構造線であり、その間に富士山や八ヶ岳、浅間山、妙高山などがある。こうして構造線の外側と内側とが全く違う地質になっているのだ。

特に隆起した場所はもともと生みの底であったから、化石も多いし、特殊な鉱物も多数産出するというわけで、姫川のヒスイもそういう理由で採れるのだ。

説明が雑だからわかりにくく申し訳ない。知りたければこのミュージアムへどうぞ。

入り口を入ると、

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巨大にヒスイの原石がゴロゴロと。

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入り口から館内が覗ける。見ただけでわくわくするではないか。

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貴重な白いヒスイ。ヒスイは緑が多いと思ったら不純物がなければ白いそうだ。つまり純粋なのである。鉄やチタンなどが混じると緑や青や紫になる。海外では黄色や赤もあるらしい。

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こんな石、磨くのが大変だ。

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切断面ではなく、立体的な化石。

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釣りの浮きみたい。

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長いのは苦手。

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苦手だと写真を撮りたくなる。

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これはどでかいアンモナイトみたいな化石。

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小魚が泥の中でそのまま化石になってしまったのだろうか。

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鉱物のコーナーでは写真を撮りまくった。私、鉱物も大好き。祖父が地質学をやっていたので多少薫陶を受けた。
鉱物を見るとちょっと興奮するのである。

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こんな石、どうしたら出来るのだろう?切りがないのでここまでとします。

石に興奮する傾向のある人は、ぜひここへおいで下さい。燃えます。


姫川源流湧水地

姫川の源流は日本でも珍しい明確なものなのだそうだ。


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ここに書かれているように急勾配な川なのである。

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国道沿いに入り口があるが、うっかりしやすい。看板はあるのだが、どこに駐めたら良いか迷う中に行き過ぎた。最初はこんな道を行く。

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だんだんこんな道になっていく。湧水地は荒神社への参道でもあるのだ。

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こんな道をさらに行く。

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荒神社。このすぐ近くに源流がある。

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源流を表す石碑。ここまで歩いて10分程度。お年寄りでも楽に来られる。休むための四阿もある。

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源流の源流。左手は藪だけ。その下に水がしみ出している。

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湧きだしている水は透明で清澄。

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こうして流れ出した水が集まり、

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姫川となって流れ下るのだ。

大いに森林浴を楽しんだ。こういうところは虫だらけなことが多いが、ここはそれほどでもなく快適。

このくらいの散策が手頃で有難い。それでも汗をたくさんかいてしまった。

姫川温泉

泊まっている姫川温泉の、昨日夕方の外気温は24℃。ニュースでは日本中の高温の話を見たが、別世界である。ただ天気は小雨交じりであった。


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昨日の部屋の窓からの景色。下に姫川が流れ、目の前に鉄橋がある。

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今朝の景色。晴れている。窓を開けると涼気が入ってくる。

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鉄橋を列車が行く。山と川に反響して大きな音がする。

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このすぐ下手に大きなダムがある。ダムの先のトンネルを境にして、長野県から新潟県に入る。

昨晩長野県の地酒と新潟県の地酒を飲み比べた。何という銘柄か、聞いたけれど忘れた。ともにうまかったことだけ覚えている。

団体客がたくさん入っているそうだが、おばあさんたちの宴会とのことで、静かであった。

個人客は一人旅の私と、やはり一人旅らしき四十代の男性。食堂ではなく、しつらえられた部屋で二人で食事をすることになったが、無口な人で会話にならない。こちらも特に話したいわけでもなく、黙っていることも特に苦痛ではないので、料理と酒を楽しむことに集中した。料理はまあまあだが、やや薄味。

突然大声で怒鳴り散らす男の声がした。狂人か呆け老人の喚き声か、と気色ばんだが、仲居さんが言うことには板前どおしの喧嘩だという。連休で客が多く、段取りがうまくいかずに爆発したらしい。「配膳室に行くのがこわい」というのでしばらく部屋にいておしゃべりをした。

湯はとても良いし湯量も豊富だが、カランがこわれかけで、使いにくい。諸処にさびれかけている宿の老醜の気配を感じる。

ここまで書くと、宿の名前が書きにくいのでやめておく。

2016年7月18日 (月)

碌山美術館

蝉時雨に背を押されて出立。いつもなら地道を行くところだが、今日は月曜ながら祭日、車が多いから時間がかかりすぎるし、高速は休日割引があるから、中央高速に乗る。

心配していた天気は案に相違して良好、快適に、しかしゆっくりと走る。松本の先、安曇野インターで下りる。

思い立って碌山美術館に立ち寄ることにする。松本に親友がいるのだが、この碌山美術館に行こうという話をしていた。美術には興味のない友だちなので、他分嫁さんに勧められたのだろう。いつも酒を飲み過ぎて果たせないので一人で勝手に行くことにする。

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安曇野を下りてしばらく走ったあと、交差点のそばに道祖神があった。古いものではないが、安曇野には似合う。

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碌山美術館は碌山公園の前の道路を挟んですぐそばにある(碌山美術館の前に碌山公園を作ったのか)。

碌山萩原守衛は彫刻家であり、画家である。この安曇野で生まれた。碌山が相馬愛藏、相馬黒光夫妻(新宿中村屋をつくった)と深い関係があることは知られている。特に相馬黒光は碌山にとってパトロンであるとともにマドンナであった。

有名な「女」という傑作は黒光がモデルではないかともいわれる。

新宿中村屋と言えば、インドの革命の志士ボース(あのチャンドラ・ボースとは別人)をかくまったことでも知られる。後、夫妻の長女がボースと結婚している。この話までひろがるときりがない。

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建物の中の展示品はもちろん撮影禁止。外のこの彫刻は大丈夫のようだ。

「文覚」という彫刻などはエネルギーにあふれている。凄い迫力であった。彫刻という芸術がこれほど凄いと思ったのは初めてである。来てよかった。

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この建物が碌山の彫刻を展示している建物。

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外側からしか撮れないのが恨めしい。

ほかに高村光太郎(高村光太郎の作品もすばらしくて圧倒された)や碌山の友人達のすばらしい作品も展示されているので、じっくり見ていると、時の経つのを忘れる。ぜひ訪ねてみることをお薦めする。

これから出かけます

 最近はなじみのところばかりに出かけていた。一度泊まったことのあるところに泊まり、その周辺を若干ディープにさぐることが多かった。

 今回は全く知らないということはないけれど、少しパターンを変えて、なるべくあまりなじみのないところを歩く。歩く、といっても車で走るのだけれど。

 今晩は小谷村(おたりむら)の姫川温泉に宿を予約した。

 姫川はヒスイの里。姫川は糸魚川に注ぐ。姫川沿いの道は、塩街道と呼ばれる。日本海の海の塩を、姫川沿いに山間部へ運んだのだろう。むかし西洋人がこの姫川の流れを見て、「これは川ではない、滝だ」、と言ったという。それほど急傾斜を一気に流れ下る川なのだ(日本海に注ぐ川はそんな川が多い)。だからヒスイもその流れに押し流されて人の眼につくところに現れるのであろう。それにしても、塩を運んだ人夫の苦労はいかばかりであったろう。

 そういえば、母方の祖父は地質学が専門だった。むかし祖母とこの姫川に遊び、大きなヒスイの原石をこっそりと持ち帰って長いことかけて磨いていた。原石といっても一部だけヒスイの、たいした値打ちのありそうなものではなかったけれど、あれはどうなっただろうか。

 さあ、それでは出発。

2016年7月17日 (日)

僧玄昉(げんぼう)と藤原広継(2)(「今昔物語集」から)

 討伐軍が九州で軍勢を集め、広継を攻めようとしていることを聞いた広継は、「わしは朝廷のためを考えて奏上したのであって間違ったことはしていない。それを理不尽にも誅伐しようというのは、僧玄昉の讒言によるものにちがいない」と言ってこちらも多くの軍勢を集め、討伐軍を待ち受けた。

 戦いが始まったが、情勢は討伐軍が優勢となり、広継は追い込まれていった。広継には寵愛している竜馬がいる。この竜馬がいたから午前に京都の朝廷に勤め、飛んで帰って午後には九州の太宰府にいることが出来たのだ。

 天皇の御威勢によるものであろう、ついに敗勢に追い込まれた広継は、攻め立てられて海岸に退くと、竜馬に乗り海上を飛んで高麗に行こうとした。ところがこの竜馬がいままでのように飛び立つことが出来ない。

 広継は「さてはわが運は尽き果てたのか」と悟り、馬と共に海に入って死んでしまった。攻め手の東人は広継が海に入ってしまったので姿を見つけることが出来なかった。

 そうこうしているうちに沖から風が吹き、広継の死体を浜辺に吹き寄せた。東人は打ち上げられた死体から広継の首を切り取って都へ凱旋し、朝廷に奉った。

 それからしばらくして、広継は悪霊となった。悪霊は朝廷を怨むと共に玄昉に対して復讐しようとした。赤い装束を着け、冠をかぶった悪霊が玄昉の前に現れるやいなや、玄昉をつかんで空に飛び上がり、その身体をひき裂いてばらばらにして地上に落とした。玄昉の弟子たちはその身体をかき集めて葬った。

 その後も悪霊の荒れることが止まないので、天皇はひどく恐れ、「吉備の大臣は広継の師である。彼を広継の墓にやって霊を鎮めるようにさせよ」と命じた。

 吉備真備はその宣旨を受けて、九州へおもむき、広継の墓の前で言葉を尽くして霊を慰めようとしたが霊力が強くて真備のほうが危うくなりかかった。しかし吉備真備は陰陽道の大家であり、その術を駆使して、さらに言葉をこめて霊をなだめたところ、その霊のたたりはようやく治まった。

 その後、霊は神となり、その地に鏡明神として祀られた。あの玄昉の墓はいまも奈良にある、と伝えられている。
(この話は終わり)

 これまで取り上げた「今昔物語集」の三つの話が、いかにも仏教の尊さや神秘を語っているようでありながら、じつは見方によってはすべて権力に対する抵抗、反抗の話ばかりであることに気がつく。私がそれを選んでいるところもないではない。というのは面白いものを選ぶとそういう話が選ばれてしまうからだ。

 ところで明日からしばらく旅に出るので、「今昔物語集」はしばらくおやすみする。帰ってきたら、次は久米仙人の話あたりから再開することにしようか。

子どもはお祭りが好き

 録画していたNHKの新日本風土記「水の都 大阪」を観た。大阪は言葉どおり水の都であり、たくさんの橋が川や運河に架けられていて、そして水辺ではいろいろな人々の生活が営まれている。

 大阪の会社に就職したけれど、大阪にはひと月くらいしか暮らしたことがない。だから大阪のことは知っているようであまり知らない。先日天王寺の四天王寺をちょっとだけ見て来たけれど、あらためてあちこち見に行きたいと思っているところだ。

 この番組の中で天満宮の祭のなかの、どんどん舟が紹介されていた。手こぎの舟に太鼓を乗せてどんどんと叩くのでどんどん舟という。大人の舟と子どもの舟があり、たくさんの漕ぎ手が櫂でこいで道頓堀川を行く。

 櫂で漕ぐのは難しい。だからひと月あまり練習が必要である。親に連れられて、親に言われたから参加した、などという子供がいる。最初はほとんど水を掻くことも出来なかった子どもが、一ヶ月後、見事にそろって夢中で櫂を漕ぐようになっている。

 その子どもたちの顔は晴れ晴れとして輝いている。一度参加すると翌年からはたいてい自発的に参加するという。

 私も子供のとき、街の祭りで山車を曳いた。炎天下に、ほとんど一日中曳き続けるからふらふらになるし、くたくたになるけれど、最初は小声だったかけ声も次第に大きな声が出るようになって、夢中になる。休憩のときのお菓子やジュースがもらえるのがとてもうれしい。周りの友だちの顔が光り輝いていたのを思い出す。

 子どもはお祭りが好きなのだ。そのことをこの番組を観てあらためて強く感じた。だから子どもをお祭りに参加させることは大事なことだと思う。

 大学時代、米沢で暮らした。五月の初めに上杉祭がある。上杉祭のときには、上杉公園の周りにおおくの店が出て賑わう。ある年、酒田北港建設に絡んでやくざの抗争があり、仙台で殺人事件があり、米沢でもその影響で、地元のやくざと大阪や東京から進出してきたやくざがにらみ合いをしたときのことである。

 夜店に人手がたくさん出ているのに、祭が不気味なくらい静かな気配に包まれていた。物音はしているし、スピーカーから音楽は流れているのである。そのときに子どものかん高いざわめきがないことに気がついた。子どもは敏感にこの祭の裏側にあるものを感じたのだろう。

 祭の大好きな子どもが、祭を楽しめず、顔も輝かず、ひっそりしている祭は、祭でないと感じたことを思い出した。そして大阪のどんどん舟の子どもの顔が輝いていることをめでたいことに感じた。大阪の素晴らしさであろう。自慢してよいことである。

 故郷の祭は、そして上杉祭では、子どもたちが目を輝かせているだろうか。そうであることを願う。

松本利秋「なぜ日本は同じ過ちを繰り返すのか」(SB新書)

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 太平洋戦争に学ぶ失敗の本質、と副題にある。そして帯に、日本軍と現代企業に共通するジレンマとある。

 それを見れば、太平洋戦争の失敗と、現代の東京電力、東芝をはじめとする企業の問題や官僚の政治家の保身と事なかれ主義、先送り体質などが、比較して論じられているものと思うではないか。

 この本では太平洋戦争の経緯が概観して語られている。特に、どうしてこんなお粗末なことになったのか、という呆れるばかりの愚かな事実が並べ立てられている。当時の責任者にもそれぞれ言い分はあるだろうし、ここまで言わなくても、という気もしないではないが、こういう見方が間違っているとも思わない。実際に死ななくてもいいのに死ななければならなかった人がたくさんいたのだから。

 辻政信や牟田口廉也に代表される軍隊のトップの話は、何度読んでも怒りと空しさに襲われる。彼らは何万人を無意味な死に追いやりながら、責任をとらずに生きのびた。東京裁判は連合国の裁判であった。やはり戦争についての責任を日本の国そのものが裁き直すべきだったという思いがある。裁かれるべき人間が裁かれていないという思いがある。

 ひところ太平洋戦争についての本を集中して読んだ時代があったので、この本で、それをまとめて読み直すことになった。

 しかし、この本を読もうと思ったのは、それらの過去の話を鏡にして、現代の責任者たちの無責任を糾弾し、その本質をえぐり出すことを期待したからである。そして過去の失敗に学び、どうでなければならないのかを考える、ということが書かれているはずだと思ったのである。

 ところが太平洋戦争についての記述がほとんどで、現代の問題点は名前が挙げられているだけで、内容の分析はほとんどない。全くないと言って良い。知っていることをただ繰り返し読まされるだけで、あたらしい視点をほとんど与えられない。

 戦争をまったく知らない人が読むにはいいだろう。でもそれならもっと良い本が山ほどある。この本を選ぶ必要は全くない。

2016年7月16日 (土)

僧玄昉(げんぼう)と藤原広継(1)(「今昔物語集」から)

 聖武天皇の御代に、玄昉という僧がいた。大和国の人で幼い頃から仏法を学び、とても賢かった。

 霊亀元年、唐に渡り、知周法相(ほっそう)を師として学び、多くの経典を持ち帰った。唐の帝は玄昉を尊び、三位を授けて紫の袈裟をつけさせた。かの国に二十年いたが、遣唐使の多治比の真人広成という人と共に帰国した。

 経論五千巻や仏像を持ち帰り、朝廷に仕えて僧正となった。天皇の后である光明皇后が特にこの玄昉を尊んで帰依し、寵愛した。人々はその寵愛ぶりを見て、あれこれと良からぬ噂をした。

 その頃藤原広継という人がいた。大臣の不比等の孫であり、式部卿の宇合(うまかい)の子である。家柄も良く品格もあったので世評も高かった。吉備の真備(まきび)大臣を師と仰ぎ、賢才の誉れも高く、右近の少将となった。

 この人は普通の人ではなく、午前中は右近少将として都にいて朝廷に仕え、午後は九州に下って太宰少弐として太宰府の政治を行っていた。家は肥前国の松浦郡にあったが、世間の人は不思議なことだと思っていた。

 この広継が玄昉の話をきき、太宰府から「天皇の后が僧玄昉を寵愛なさっていることが世間の悪い噂になっております。おやめになるように」と奏上した。

 天皇はこの奏上に対し、「広継がどういうわけで一国の政に口を出すのだ。こんな男は国の禍になるにちがいない」として、誅伐のため、勇猛心もあり、智謀に長けていることで知られる御手代東人(みてしろあずまひと)を召し出して「ただちに広継を討ち取れ」と命じた。

つづく 

金もないのに

 自分に自信がなくなっている。体力的な衰えは年齢によるものだから仕方がないのだけれど、ひとよりも衰えが大きいのではないかと不安である。先日のヤケドさわぎではないけれど、もっとも大事だと思っている集中力が低下しているらしいことが、自信をなくす主な理由である。 

 それなら、なにかするのを先延ばしにしても意味がない。楽しめるときに楽しみ、経験すべきものを経験しておくほうが良さそうだ。有難くなってからでは遅い。

 などと理屈をつけて、さてまず何がしたいか。旅に出かけたい。旅に出たくなるような本が好きだが、当然そんな本を読めば旅心が動く。衝動的に宿の予約を入れた。名古屋から長野県、新潟を抜けて山形、そして秋田の宿を予約、その先は行ってから考える。来週初めから一週間程度を予定している。そのあと母の一周忌があるのでそのくらいで切り上げなければならない。

 今回は北へ流れるのが目的なので、温泉でゆっくり読書したりするわけではなく、移動することそのものを目的とする。そこでなにを目にするのかそれを考えるとわくわくする。

 金もないのに脳天気なことだが、もう人参をぶらさげて我慢する必要もないのだ、と思いなしたのである。ただ、事故にだけは注意しようと思っている。

高島俊男「お言葉ですが・・・第11巻」(連合出版)

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 高島俊男氏の「お言葉ですが・・・」は週刊文春の辛口コラムとして人気があり、文春文庫にシリーズで収められている。文庫になっているのは第10巻まで。言葉についてこだわりを持つ人であればこんな面白い本はない。

 今回購入したのは第11巻のハードカバーで、連合出版から出版されているものである。文庫化するのを待ちきれなかったのか?そうではないのである。文藝春秋が出版を拒否したので、この第11巻は、文庫化されないと思われる。わたしは週刊文春は読んでいないからそれを知らず、いつまでもあたらしい文庫が出ないなあと思っていた。

 この第11巻の巻末に、突然週刊文春から連載打ち切りを告げられたことが記されている。その理由は書かれていない。編集者とは和気藹々と別れたように書かれているが、何があったのだろうか。

 この巻の最後のコラムは2006年8月のもの。

 ジュンク堂でたまたまこの本を見つけた。棚には別に「お言葉ですが・・・」の別巻シリーズが列んでいるではないか。店頭には第6巻まであった。さすがにすべて一度には買い切れないので(ほかにも買いたい本があったので)第3巻まで購入。

 別巻の第1巻を開くと、週刊文春の連載打ち切り後、著者があちこちに書いた文章が、ある程度たまると本にまとめていくというスタイルらしい。これを読んでいけば、いきさつが多少はわかるだろうか。

 今回読んだこの本の巻末には文庫も含めての、すべての目次と通巻索引が添えられている。  

 高島先生は、最近眼が悪くて本の読み書きが困難になり、人に読んでもらって本を読み、口述筆記で文章を書いているらしい。おいたわしいことであるが、意気ますます軒昂、辛口ぶりは変わらない。多少くどくなっているのはお年のせいかもしれないが、それがそれほど不快ではないので、この本も楽しく読ませてもらった。

2016年7月15日 (金)

役の優婆塞(えんのうばそく=役小角(えんのおづぬ))の話(「今昔物語集」から)

 (聖徳太子の次の話は行基菩薩の話だが、飛ばす。)

 文武天皇の時代に役の優婆塞という聖人(しょうにん)がいた。大和国の葛城の上の郡、茅原村の人である。俗姓は賀茂といった。

 長年葛城山に棲み、藤の皮を衣とし、松の葉を食い物にして、四十年以上山の洞窟を住まいとしていた。清らかな泉を浴び、心の垢を洗い清めて、孔雀明王の呪(しゅ)を唱えていた。

 あるときには五色の雲に乗り、仙人の洞に通ったりした。夜は多くの鬼神を召し使って、水を汲ませ薪を拾わせる。優婆塞に逆らうものはなかった。

 金峰山(みたけ)の蔵王菩薩は、この優婆塞の祈りによって生じた菩薩であった。だから優婆塞はいつも葛城山と金峰山の間を通っていた。

 有る日優婆塞は鬼神たちを集めて、「この葛城山と金剛山をつなぐ橋を架けよ」と命じた。これを聞いた鬼神たちは嘆いたけれど、優婆即は許さない。優婆塞に強く催促され、鬼神たちは大きな石を集めて準備を始めた。

 鬼神たちは「私達は醜い姿をしておりますので、夜な夜な隠れて橋を架けたいと存じます」と優婆塞に申し入れた。すると優婆塞は葛城の一言主の神を呼びつけ、「おまえは一体何の恥があって姿を隠すのか」と咎めた。

 一言主の神が「そういわれるのならとても橋は作れません」というと、優婆即は怒って呪文によって一言主の神を金縛りにして谷底に置いた。

 その後、一言主の神は都の人に乗り移り、「役の優婆塞は謀略をもって国を滅ぼそうとしております」と訴えた。

 これを聞いた天皇は驚いて役人を差し向けて優婆塞を召し捕らえるように命じた。しかし優婆塞は空に飛び上がってしまったので捕らえることができない。そこで役人はその母親を捕らえた。

 優婆塞は母が捕らえられたのを見て姿を現し、自らとらわれの身となった。天皇は優婆塞を伊豆の島に流した。優婆塞は伊豆にいても海上を軽々と浮かんで、陸上にいるように走り回り、また、山の峰峰を飛び回ることは鳥のようであった。

 昼の間は朝廷をはばかって配所におとなしくしていたが、夜になると駿河国の富士山に行って修行したりしていた。

 三年経って優婆塞に罪がないことが判明し、召し帰された。
(以降欠落)

東京都民ではないけれど

 ジャストシステムの一太郎をずっと使っている。一太郎の辞書はATOKというが、このごろ変換がおかしい。バージョンアップするごとに変調がひどくなり、大昔の初期のRUPOなどのバカワープロ並みになりつつある。

 語句の区切りを、そもそもあり得ないところで区切ったりする。当然それに合わせた変換をするから、とんでもない言葉を当てはめてくる。変換の能力を上げすぎて、考えなくてもいいことまで考えすぎて基本を忘れてしまっているのではないか。だから変換スピードも遅く、キータッチにしばしばついてこれなくてイライラする。

 ジャストシステムには有能すぎるプログラマーがいるのだろう。プログラムが人間を補助するのではなくて、人間をリードしようとして、通常あり得ない変換を行うようになっては、道具としては使い物にならない。人工知能に文章を書いてもらいたいわけではない。

 たぶんプログラマーは一太郎を使ったことがないにちがいない。少なくとも文章らしい文章をATOKを使って書いてみればすぐわかることである。

 いやいや、書こうと思っていることを書き出す前に愚痴が先行してしまった。

 都知事に立候補表明の記者会見のとき、鳥越氏が準備不足のせいもあるだろうけれど、受け答えがときどき変調を来し、とんちんかんなことを言っていたので大丈夫かな、と心配したが、少しずつまともになってきたのはめでたい。

 ただ、それは彼がまともになったのか、周りの人たちが彼をうまくサポートしているためなのかがわからない。いくら準備不足でも、そもそも都知事になぜ立候補したのかについての説明が、「参議院選挙の結果に、これでは日本が危うい、と思って」決然と立候補を決意したというような物言いをしていたけれど、それに違和感を抱いた人は多いのではないか。

 細かい政策はこれからだというのは認めるとして、都知事としてなにをするべきだと考えているのか今のところまったくわからない。自分が都知事に立候補したということの意味がよく理解できていないのではないか、と思えたりする。ドン・キホーテが風車に突進したように見える、というのは言いすぎか。

 それでも彼の風貌と、ガンとの闘いのお話に、彼の個性の魅力を感じて、彼に投票する人がたくさん出てくるような気がする。繰り返し指摘されてきた人気投票が、また行われてしまうのだろうか。

 鳥越氏はジャーナリストである。ジャーナリストは権力の監視者を自認する。権力の濫用を非難し、なすべきことの優先順位を正す役割を担う。それが正論であれば世間の喝采を浴び、それを名誉とする仕事だろう。

 都知事が権力者であるかどうか異論があるかもしれないが、私は権力者であると思う。巨額の予算の運用に預かり、それなりの大きな権限を持っている。

 ジャーナリストがその権力者になろうとするとき、自分の向けていた批判の刃が今度は自分に向かうことを鳥越氏は自覚しているのだろうか。ジャーナリストのまま都知事であろうとしているようにしか見えないのは私の思い過ごしか。

 そこのズレこそが当初の記者会見での違和感だったのではないか。いまはエスコートする人たちがいて、迷走しないように選挙をリードしてくれるだろう。しかし、都知事になってからもそのような人たちが面倒を見てくれるわけではない。ずっと面倒を見てもらい続けるのなら、それはそれらの人のいいなり、つまり傀儡ということだろう。まことに危ういものがある。

 まともな人ならいままでのことに懲りて、今回の都知事には実務型の人がなるのが一番いいと思うけれど、選挙がまた人気投票なら、おなじ轍を踏むことになるだろう。

 東京都民ではないから、投票権はないけれど、どうも他人事に思えないので書いた。

池内紀「目玉の体操」(幻戯書房)

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 歩き回ればいろいろなものが視界に飛び込む。飛び込んださまざまなものから、なにを選びとって意識に登らせるか。すべてが無意識のままに流れ去るのが普通だけれど、そこにふと心を止めたくなるものを発見できるのは、間違い探しの得意不得意に似た能力みたいなものだ。

 文章の中の間違いが、違和感として向こうから飛び込んでくる。そういう力が無いと、間違いはなかなか見つけられない。あれっ、これはそしてあれは一体何だろう、と気がつけるかどうか。それは風景に確固たる有り様を把握できているから、不思議なものに焦点を当てることができるにちがいない。ボーッとしていてはいつまでも発見する力などつかないのだ。

 こんな本を読んでいると同じ場所を訪ね歩いてみたくなる。しかし著者が見たものをあらためて見に行っても、自分が発見したものでなければ、その値打ち、面白さはほとんど失われてしまう。

 こういう本を読んで自分なりの発見が出来る旅をしたい、そのためにはただひたすらうろつかなければならない。さいわい金はないけれど時間だけはある。無性にカメラ片手に旅に出たくなった。

2016年7月14日 (木)

聖徳太子の話(5)(「今昔物語集」から)

 甲斐国から黒い子馬が献上された。この子馬は四つ足が白い馬だったが、聖徳太子はこの子馬に乗ると、空に登り、東に向かい、雲に隠れて見えなくなった。舎人の使丸というものが御馬の右に副って同じように空に登って行った。人々は空を見上げて大騒ぎをした。

 太子は信濃国にいたり、越前、越中、越後のあたりを廻って、三日後にかえってきた。

 太子の叔母の推古天皇が即位した。推古天皇も政をすべて聖徳太子に任せた。

 ある日太子は袈裟をつけて、高座に上って天皇の前で勝鬘経の講義をした。多くの名僧達もこれを拝聴し、数々の質問をしたが、太子の答えはすばらしいものだった。三日間の講義が終わる頃、天から蓮華の花が降り注いだ。花の大きさは三尺もあり、地上一面に三四寸も降り積もった。これを聞いた天皇はその地に寺を建てた。これが橘寺である。そのときの蓮華はいまもこの寺に残されている。

(このあと小野妹子と隋の衡山(ここにある寺)の話がつづくが、お経の細部にわたりくだくだしいので大きく省く)

 あるとき太子が難波から京に代える道すがら、片岡山のあたりで飢えた人が倒れているのに行き会った。太子の乗った黒い子馬はそこから動こうとしない。太子は馬から下り、この飢えた人に語りかけると、紫の着物を脱いで着せかけた。

 太子が宮に帰ったあと、この人は死んだ。太子は大いに哀しみ、この人を葬らせた。このことをよく思わずに非難した大臣達がいた。太子はこれら七人の大臣達を呼び寄せ、「あの片岡山に行って見よ」とおっしゃった。彼らが言ってみると、屍は消え失せ、棺の中は非常に香しい匂いが強くたちこめていた。みな驚き不思議に思った。

 その後しばらくして、斑鳩の宮にいた后に対して、太子は「私は今夜世を去るつもりだ」といい、沐浴して頭を洗い、浄い衣に着替えて、后と床を並べておやすみになった。

 翌朝いつまでも起きていらっしゃらないので人々は不思議に思い、ご寝所の戸をあけてみると、后とともに亡くなっていた。その姿は生きたままのようであり、香しい匂いがしていた。御年四十九歳であった。

 太子がなくなった日、あの黒い子馬は高くいなないて叫び続け、水も飼い葉も口にしないまま死んだ。

(後略)

 これにて聖徳太子の話は終わり。ただし今昔物語集には聖徳太子にまつわる話がほかにもいくつかある。多くは寺の縁起に関わるもののようである。

里山の記憶

 ウィンドウズの壁紙に使う写真をときどき換える。自分なりに良く撮れていると思うものを選ぶのだが、思ったほどではなくて、すぐお役御免になるものもあり、それほどでも無いと思ったけれど、たまたま選んだらとても気にいってずっと使い続けたりすることもある。

 最近まで使っていたのはこの写真。

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 新潟県村上市の瀬波温泉で撮った。三面川は鮭漁で有名である。ここで獲れた大ぶりの鮭に塩をして寝かせたあと、こうして干し上げる。水分の抜けた鮭は一年中食べることが出来る。少し酒を振りかけて食べるとなおよろしい。

 つい先頃から次の写真に換えた。

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 これは合掌集落で有名な白川郷で撮ったもの。あえて合掌造りの建物を入れないようにして撮った。この景色に幼少の頃の記憶がよみがえって、それを写真に残したかったのだ。

 父の仕事で三年ほど、いまでいう典型的な里山の中で暮らした。周りは田んぼと竹藪、池があり、神社がすぐとなりにあった。春には父は近くの山に入って山菜を山ほど採り、ときには一緒にセリ採りをした。池は小さなため池で、当時は垣根など無い。近所の子どもたちとよくザリガニ釣りをした。

 母にするめを少し切り分けてもらい、それを白い木綿糸でむすび、笹竹を釣り竿にして釣る。面白いように釣れて、たちまちバケツ一杯になる。するめがないときには、蛙の脚を餌にするが、するめほどには釣れない。

 そのザリガニの頭を取り去り、茹でたり味噌汁の実にして食べた。

 父の採ったゼンマイやワラビ、そして自分の獲ったザリガニ、香ばしいセリの味がこの景色を見たときによみがえったのだ。

 今のところこの写真も気にいっている。

天王寺で飲む

 昨日は友人達と天王寺で飲んだ。

 天王寺界隈では昼から飲める店がいくらでもある。待ち合わせよりも少し早めに天王寺に着いたので、四天王寺を見にいく。一キロ程度だから何ほどのこともない距離なのだが、何しろとてつもなく蒸し暑い。汗みずくになった。

 天王寺には何度も行っているのに、四天王寺には初めて行く。今昔物語の聖徳太子の話をブログに書いているので、どうしてもみておきたかった。予想以上に良い寺である。最初に仏法を広めた寺、という意味の大きな石碑が立っていた。今昔物語のとおりである。

 飲むために大阪に行ったので、カメラは持参していない。今度は四天王寺の写真を目的にもう一度行こうかと思う。

 昼から友人達と歓談して、酒を飲む。飲んでも飲んでもおいしいからいくらでも飲める。でも、いくら楽しくても終わりは来る。

 大阪で宿をとるのはなかなか難しい。そういうわけで、昨日中に名古屋へ帰る。途中に寄りたい店もあったけれど、さいわいブレーキがきいて、自宅で少しだけ一人で飲んでおつもりとした。

2016年7月13日 (水)

聖徳太子の話(4)(「今昔物語集」から)

 物部守屋にこう告げたものがある。「太子は蘇我の大臣と謀議をはかっているようですよ。軍勢を揃えたほうがよろしい」そこで守屋は阿都の家に立て籠もり、軍勢を集めた。中臣の勝海は加勢の軍勢を寄越して加担した。

 この二人が天皇に呪いをかけていることが噂に聞こえたので、天皇は蘇我の大臣と太子に、軍勢を率いて守屋を討つように命じた。守屋は城を固めて防戦した。守屋軍は非常に強力で、太子達の軍勢は三度打ち掛け、三度退却せざるを得なかった。

 このとき聖徳太子は十六歳。軍勢の後ろに立ち、戦闘指揮官である泰の川勝を呼んで「木で四天王の像を刻み、髪に挿し、鉾の先に捧げよ」と命じた。そして自ら願を発し、「われらをこの戦に勝利させてくれれば、必ず四天王の像を作り、寺塔を建てましょう」と誓った。蘇我の大臣もそれにつづいて同じく誓いを立て、戦った。

 守屋の大連は大きな櫟(いちい)の木に登り、物部氏の氏神に祈請しながら矢を放った。その矢は太子の鐙に当たって落ちた。

 太子は舎人の迹見の赤榑(とみのいちい)に命じて四天王に祈って矢を放たせた。その矢は遙か遠く飛び、守屋の胸に命中したので、守屋は木の上から真っ逆さまに転落した。

 これで守屋軍は敗勢となり、味方は攻勢に出て、ついに守屋の首を斬り落とした。そして守屋の家の財宝をみな寺の所有とし、領地も寺領とした。そして玉造の岸の上に四天王寺が創建された。

 また、太子の伯父の崇峻天皇が即位された。天皇は、政をみな太子にまかせると仰せになった。そのときに百済の国の使いの阿佐という皇子が来朝した。太子を拝してこう言った。

 敬礼(きょうらい)救世大悲観世音菩薩
 
 妙教々流通東方日国

 四十九歳伝灯演説

 その間、太子の眉の間からは白い光が放たれていた。


このあと、太子の不思議な話がつづく

法を否定して国を統治できるのか

 フィリピンが国際仲裁裁判所に提訴していた南シナ海問題について、当然といえば当然ともいえる裁定がでた。中国のいう九段線などというものがどれほど荒唐無稽なものであるか、該当地域の地図を見れば、誰にでもわかることである。

 こんなものが通用するなどと思う者などいない。中国政府だってわかっているが、中国政府の言い分をまともに受け取っている一部中国国民のみが裁定に憤激していることだろう。

 中国政府は予想通り、裁定を無視する、と公言している。つまり法を無視する、と公言しているのだ。裁定の結果に基づいて妥協すれば、自分自身の主張していたことが間違っていたことを認めざるを得ないから、こういうしかないだろう。

 もともと中国国民の、格差の問題をはじめとするいろいろな不満を逸らすために、東シナ海での日本との係争、南シナ海での常軌を逸したごり押しを行う挙に出ていることは明らかである。

 その中国の言い分が国際法によってほとんど完全に否定されてしまった。法に従えば引っ込まざるを得ないが、それを認めれば自己否定になってしまうから、裁定を無視するどころか、さらにエスカレートした行動に出ないとはいえない。

 中国政府はそのことによって中国国民に対して重大なメッセージを発している。自分が正しければ、法は無視して良い、というメッセージだ。もともと造反有理の国である。国民はそれに従うだろう。

 そのような精神的な荒廃をもたらしかねない事態のもと、中国はこれからどうなっていくのか。出発点から間違っていたことがわかっていても、いまさらそれを訂正できない。そもそも法の執行に不平等のある国である。その法を場合によって無視して良い、と政府が認めたのだ。こんな国はいまだかつてなかったのではないか。

高岡望「アメリカの大問題 百年に一度の転換点に立つ大国」(PHP新書)

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 著者はアメリカ・テキサスのヒューストンの日本総領事を務めていた。そこでの経験から見たアメリカの姿は、普通にマスコミなどが伝えているアメリカとは違う姿を見せている。そしてマスコミが伝えているアメリカをアメリカだと思っていると、いまのアメリカの真の姿が見えないのではないか、との思いからこの本は書かれている。

 この本を読んでいると、著者が領事館の椅子に坐ったままぼんやりしていたのではないことがよくわかる。いろいろな場所に飛び込んでいき、いろいろな人に会い、いろいろな経験をしている。とても行動的だし、その行動から自分なりのものの見方を獲得している。こんな外交官もいるのだ。

 テキサスといえば、いま人種問題、警察の過剰で違法な取り締まりが問題になっているところであり、銃規制などあり得ない、という土地柄であり、一般住民がスーパーマーケットに小銃持参でいくのが許されているところである(テレビでそれを報道していた)。 
 この本で取り上げられているのは、アメリカの格差の問題、移民の問題、銃規制の問題、地政学的な立ち位置、大統領選、エネルギー問題など。

 従来の日本人が知らされている世界観とは少し違った切り口からこれらの問題をとらえ直すための情報が書かれている。

 「百年に一度の転換点」というのは、あの第一次世界大戦後のベルサイユ宮殿での世界列強の交渉のあと、アメリカのウィルソン大統領自らが提唱した国際連盟に、アメリカはついに参加しなかった百年前のことである。あれから百年、トランプは海外とは距離を置き、アメリカを国内至上にもどそうとしている。トランプが大統領になるのかどうか、もし大統領になっても世界に対してのアメリカの影響力を維持しようとするのか、しないのか。それはいま分からない。

 それがある意味でアメリカ国民の意思であるとも言えるのがトランプ旋風であろう。たしかにアメリカは大きな転換点にいる。それがどのようなものになるのか、それが世界にとって、そして日本にとって、どのような結果をもたらすのか、そのことを考える材料がこの本に示されている。

2016年7月12日 (火)

聖徳太子の話(3)(「今昔物語集」から)

 百済の国から弥勒菩薩の石像が運ばれてきた。大臣の蘇我馬子が、その使者を迎えて労をねぎらい、自分の屋敷の東の方に寺を建てて住まわせた。

 大臣はこの寺に塔を建てようと考えた。それを知った太子は「塔を建てるのならば必ず仏舎利を入れなければならない」とおっしゃって、舎利を一粒手に入れ、これを瑠璃の壺に入れて塔に安置した。

 これ以後、大臣と太子は心を一つにして三宝を広めることになった。

 この頃、国内に病が流行り、死人が多数出た。大連の物部弓削の守屋、中臣の勝美の王という二人が、天皇に奏上して「我が国はもともと神を尊びあがめてきた。しかるにこのごろ蘇我の大臣が仏法を行おうとしている。このままでは国中に病が流行して民が次々に死ぬことになるであろう。だから仏法を禁止すれば人が死ぬのを止められるであろう」

 天皇は二人の意見はもっともだと思い、仏法の禁止の詔を発した。

 太子は天皇に奏上した。「あの二人の人は、いまだ因果の何たるかを悟っていないのです。善政を行えば必ず福が来るし、悪政を行えば必ず禍がやって来ます。この二人は必ず禍に遭うでしょう」

 しかし天皇はこれを聞き入れず、守屋の大連を寺に使わして堂塔を破壊させ、経典を焼かせてしまった。焼け残った仏像は難波の堀江に捨てさせた。そして三人の尼を笞で打って寺から追放した。

 この日、雲も無いのに大風が吹いて雨が降った。太子は「いまこそ禍が起きるにちがいない」とおっしゃった。その後、天然痘が流行した。その痛苦は焼き裂かれるようにつらいものであった。

 先の二人は悔い悲しんで「この病の苦しみには耐えられません、願わくば三宝に祈らせていただきたいと存じます」と奏上したので、天皇は勅を発して三人の尼を召し出し、二人のことを祈らせた。またあらためて寺と塔を再建し、もとのように仏法を崇めることになった。

 やがて太子の父の用明天皇が即位し、「私は三宝に帰依しよう」との詔勅を発せられた。蘇我の大臣はこれを受けて僧を召し出し、初めて宮中に僧を入れることになった。太子は大臣の手を取って涙を流して喜んだ。

「三宝の妙なることを誰もわかってくれない。ただ大臣だけが私を支持してくれるのは、この上なく嬉しいことだ」

*舎利・・・仏陀の骨
**三宝・・・仏・法・僧の三つをさすが、この場合は仏教そのもののことだろう

この後、物部守屋が反蘇我氏のための兵を集めるのだが、その話は次回に。

昭和一桁生まれの江戸っ子達

 永六輔が死んだ。

 テレビの黎明期からテレビに携わり、あれほどテレビ界に貢献したのに、テレビ界と断絶し、テレビ界から排除された。詳しいいきさつは知らない。しかし永六輔の筋の通し方には一目置いている。

 永六輔はラジオで良く聞いた。天知総子、後に遠藤泰子との掛け合いは楽しいものだった。彼の生きざま、価値観も良く理解できた。エッセイも何冊か読み、その本が残っていたので、母の看病のときに読み直した。実家にあったのは、母が読むために持って来ていたのだろう。

 フランキー堺、小沢昭一、加藤武、そして永六輔。この昭和一桁の江戸っ子達はすべてこの世から去ってしまった。思えば私にとって叔父さんと呼ぶべき人たちである。男の子の成長には、この叔父さんの存在が不可欠である、といわれる。

 忘れられない人たちであり、その影響は私の胸に残されている。もって瞑すべし。

富坂聡「風水師が食い尽くす中国共産党」(角川新書)

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 こういう新書の場合、どうしてもオーバーな題にして人目をひこうとする。内容によっては鮮度が重要であるから、人目をひいて短期間に売らなければ、その値打ちを失ってしまうおそれがある。

 著者の富坂氏が伝えたいのは、中国では風水師が一定の力を持ち、共産党の幹部にすら影響力を与えている、という事実である。人物によっては巨額の資産を持つに至っている者もある。信じられないような話で、日本ではあり得ないように思うかもしれないが、じつは日本でも風水師ではない何者かが、同じような力を持っているのかもしれない。

 中国共産党というシステムが建前はべつにして一党独裁であり、指導者は選挙で選ばれているとはいえない。選挙で選ばれているのなら、失政は選ばれたものの責任であると共に、選んだ国民の責任でもある。しかし中国では、失政は全面的に指導者のみがその責任が問われる。

 その重圧に耐えるために、風水師にお伺いを立てるのであろう。それは中国国民も同様である。自分の人生を自分の力で切り開いていくとき、イチかバチかの選択を選ぶ傾向があるのが中国人である。昨年の株価急騰のときには資産を投げうち、親族から金をかき集めて株を買い、その後、暴落して破産した様子が報道されていた。多くの破産者が自殺した。

 そこまでするのが多くの中国人なのである。そのような生き方をしていれば、そのイチかバチかを選ぶとき、論理的に考えるよりも、風水師のご託宣に頼りがちになるのは当然なのかもしれない。

 風水師の中には当たりを出し続ける特殊な人がいる。たまたま予測が当たっただけでは次に外れたときに誰もその言葉を信じなくなる。それが外れないのは超能力か、予言の言葉の巧みさか。どちらにしても能力があるのだろう。

 風水師の暗躍という事実を追いながら、中国というもののある断面を描いて見せよう、というのが著者の意図であろう。その意図は読み取れた。

2016年7月11日 (月)

聖徳太子の話(2)(「今昔物語集」から)

 聖徳太子が六歳の年、百済の国から僧侶が経論(きょうろん)を持参して渡来した。太子は「その経論を見たい」と天皇に奏上した。天皇は驚いてそのわけをたずねた。

 「私はむかし漢の国にいたときに、南岳に住んで仏道の修行しておりました。今度この国に生まれ合わせたので、その経論を見てみたいのです」。

 天皇の許しがあり、太子が香を焚いて経論をみた後に奏していうことには、「月の中、八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日を六斉の日と申しますが、この日には梵天・帝釈様がこの地上の政治をご覧になります。それ故国内の殺生を禁じるべきです」

 天皇はこれを聞き入れ、国内に宣旨をくだし、この六斉の日には殺生を禁じた。

 太子が八歳の年の冬、新羅の国から仏像が運ばれてきた。太子は「これは西の国の神聖な釈迦如来の像です」と天皇に申し上げた。

 また百済の国から日羅と云う人が渡来してきた。その身から光明を発しいるという。太子はひそかに破れた衣を纏い、下仕えの童達と一緒に難波の館に行ってそれをご覧になった。すると日羅は太子を見て不審な顔を見せた。

 大使が驚いて逃げだそうとすると、日羅は跪き、手を合わせて太子に向かい、

 敬礼救世観世音(きょうらいくせかんぜおん)
    伝灯東方粟散王(でんとうとうほうぞくさんおう)

と申し上げると同時に、その身体から光を放った。すると太子もまた、眉間から光を放った。その光は日光のようであった。

つづく(次は仏教派の蘇我氏と仏教排斥派の物部氏などとの争いの話になっていく。この話は少し長い)

早くも夏バテか

 本日は定期検診日。病院のシステムが最近改善されて、待ち時間が短くなった。診察券を出しての受付が機械になったので、ほとんど列ばずにすむ。手際の悪い受付(どうしてもお年寄り相手のことが多いから仕方がないのだが)にいらだつことがなくなったことも含めて、手間が簡略化したのがありがたい。

 検尿や採血を受け、自分で体重と血圧を測り、待合室でゆっくり本を読む。診察予約が早い時間でも、血液検査などの結果が出なければ診察の順番は来ないが、その検査結果が出るのも早くなった。

 次の予約の手続きも、予約の受付を通す必要があったが、それも無くなった。そもそもなぜ予約のおばさんの手を通すのかよくわからなかったからとても良くなった。予約のおばさんはおしゃべりで、手際がとてつもなく悪いうえに名前を呼ぶ声が良く聞こえないので、みんなイライラしていたのだ。苦情でもあったにちがいない。

 少なくとも一時間は短縮し、最後に薬局で処方の薬を受け取って自宅に帰っても、まだ昼前いうのはとてつもなく嬉しい。唯一、病院での読書時間が半減してしまったのは残念だが。

 肝心の結果はまあまあ。前回と大差ないのは、節制したわりにその効果が出ていないということでもある。実際のところは身体の調子が今ひとつなのである。今までに無く切れがない。早くも夏バテだろうか。歳を十歳ぐらいとってしまったような気がしている。節制しすぎて糖分が足らないのかもしれない。検査のために朝は絶食だから腹も減った。さあ、少しこってりしたものでも食べようか。

安生正「ゼロの激震」(宝島社)

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 プロローグで画期的な自然エネルギー利用の話が展開される。何と東京湾の海底50キロまで巨大な穴を掘り下げてマグマに到達させ、その無尽蔵の熱エネルギーを利用しようというのだ。巨大なプロジェクトは現実化し、委嘱を受けた地下掘削のプロである主人公の進める困難な工事の様子が描かれる。そんな時、予期せぬ事故が発生する。

 そしてそれから9年後、日本は巨大な地熱エネルギーを手にしている。しかし事故の責任をとって主人公はプロジェクトを去って、高校教師に転じている。

 そんな中、日光の金精峠付近で突然山の崩落が起こる。そして間もなく、日光にほど近い足尾で住民が消息を絶つ。様子を見に行ったヘリが目の当たりにしたのは、死屍累々と倒れている町の住民の姿であった。そしてそのヘリも・・・。

 つづいて世界遺産のある富岡で信じられないような大火災が発生する。

 主人公のもとに政府の極秘の要請があり、次第にそれらの災害に関連があることが明らかにされていく。関東平野の地下に信じられないほどのマグマがたまりつつあり、それが究極的には関東平野全体を壊滅させるかもしれないというのだ。連続している災害発生にはわけがあったのだ。

 なにか対策はあるのか。そのために主人公は呼ばれたのだが、さらにその事実の裏に隠された原因があることも見えてくる。

 マグマの噴出、つまり火山の噴火が次々と起こり、避難命令が出され、多数の被害者が続出する。必至でそれを食い止めようとあがく主人公達。

 ついに隠されていた原因が明らかになったとき、事態はすでに絶望的な状況となる。はたして関東平野は、そして日本はどうなってしまうのか。

 多くの国民は必死で生きのびることを目指すが、一部の国民は政府の責任を追及するために暴徒と化す。かれらを扇動するのは災害の原因を知るある人物であり、主人公の知る人物だった。

 大変面白く読ませてもらった。このようなシミュレーションパニック小説は、そんなばかな、と思ったりしたら楽しめない。「日本沈没」や「死都日本」で提示されたすさまじい世界をどこまでリアルに感じられるかで楽しみ方も大きく違うだろう。

 多少はそんな楽しみ方をわきまえているつもりである。隠されていた災害の原因について科学的に説明されてはいるのだが、その点が多少理由付けとして弱い気がする。

 本日は定期検診日。今回は酒を控えているのだが、なんだか身体の調子がいまいちで、心配である。酒を飲まないことが、私にとっては定常ではないらしく、却って睡眠の質が低下しているために心身が不調になっている気がする。結果はどうであろうか。

2016年7月10日 (日)

聖徳太子の話(1)(「今昔物語集」から)

 聖徳太子は用明天皇がまだ親王だった頃、突部(あなほべ)の真人(まひと)の娘にお生ませになった御子である。

 母であるその夫人が見た夢に、金色の僧が現れていうことには、「私は世を救うと誓いをたてた。そのためにしばらくそなたの腹に宿ろうと思う」。
 夫人は「そういうあなたはいったいどこのどなたでしょうか」というと、
「私は救世の菩薩である。家は西の彼方である」と答えた。

 夫人は「私の腹はそのような尊いお方が宿るには汚れております。とてもお宿りいただくわけには参りません」。
 僧は「私はそのような汚れをいといはしない」というと、躍りあがって夫人の口から中に入ってしまった。

 夢から覚めて見ると、のどのあたりから中になにかを含んだような心地がした。そして夫人は懐妊した。

 用命天皇の兄の敏達天皇が即位した年、正月一日に夫人が宮廷を散策していたところ、厩(うまや)のあたりで産気づき、太子が誕生した。
 お付きの人が生まれたばかりの太子を抱いて寝殿に入ると、にわかに赤黄色い光が殿の中を照らした。そして太子の身体から馥郁とした香気が放たれた。

 生まれて四ヶ月後には、太子は言葉をはっきりと話すようになった。明くる年の二月十五日の朝、太子は両手を合わせて東に向かい、「南無仏」とおっしゃって礼拝した。

  つづく

炎上の恐怖

 今朝テレビを見ていたら、ネットの炎上について放送していた。

 言葉はエスカレートする。ネットでなにかを伝えたいと思うと、ふだんの対人関係のときには使うのを控えるような言葉を強調のために使いがちである。そういう言葉が次の過激な言葉を呼び、さらにエスカレートしていく、というのが炎上のエネルギーなのだろうと思っていた。

 確かにそうなのであるが、実際にはなにも火種がないのに炎上するケースがしばしばあるというのに驚いた。突然身に覚えのない中傷誹謗が浴びせかけられ、それが繰り返されている中に同調者が次々に加わっていく。そして匿名なのに名前や住所や家族までネット上にさらされて、生活は破壊され、精神的に追い込まれていくという恐怖の体験を被害者が語っていた。

 調査によると、扇動者と呼んでいい、一握りの人物がいるらしい。炎上に関わる人々のわずか0.1%だという。その扇動者の執拗な書き込みの繰り返しに扇動される同調者が加わることで、ほとんど物理的な攻撃につながっていく。

 番組では同調者の一人がその動機を語っていた。正義のために義憤に駆られてやっているのだという。自分から見て許されざる者とみなしたものに鉄槌を加えると、快感が得られるようだ。

 そのような同調者達はよほど暇で社会に恨みを持つ人たちなのだろうか。調査によれば、無職や学生の割合が多少高いとはいえ、多くは会社勤めのサラリーマンや経営者など、多岐にわたることがわかったという。つまりすべて外から見たら普通の人なのである。

 彼らは正義に飢えている。自分自身が匿名で正義を執行することに快感を感じている。自分自身が無謬であり、自分が悪と決めつけたものに鉄槌を下すことは正義だと確信している。

 これがISや北朝鮮の論理とどこが違うというのか。

 朝日新聞(いつも引き合いに出して済まない)に不快感を感じるのは、そのような正義を正義として布教したように思えるからだ。

 衆を恃んで暗闇で鉄砲を撃ちかけるのが正義などであるわけが無い。

 私も、抑えているつもりでも言葉がエスカレートしているときがある。人に言われて初めて気がついたりする。もしそのことで炎上したら、潔くネットとは縁を切るつもりだ。敵が見えない闘いに身を投ずる勇気は無いから。そのことでこれからの人生に不都合はないはずだ。

佐久協(さくやすし)「ビジネスマンが泣いた『唐詩』100選」(祥伝社新書)

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 著者はもと国語・漢文の高校教師。

 漢文というのは不思議な学問で、本来外国語である中国語の文章を、乱暴にいえば、漢字という表意文字を共通に使うことを利用して、そのまま読んでしまおうというものだ。もちろん文法が違うからそのまま読むことは出来ない。だから読む順番を日本式に読み直す。しかも中国語には「てにをは」や語尾変化がないから、それを読み解かなければならない。

 こうして漢文独特の読み取り方をすると、調子の良い、格調高く感じられる文章になる。特に漢詩はそうである。漢詩の書き下し文を声に出して読むと、特にそれを感じる。

 実際の漢詩は、あたりまえのことだが中国語で読むもので、中国語で読むと歌うような調子になる。以前NHKBSで、漢詩紀行として名詩を取り上げ、風景と共に日本式の書き下し文、そして中国式の読みかたを比較していたのは楽しいものだった。いくつか録画してある。

 いまの中国では漢字が簡体文字になってしまい、表意文字というより表音文字のようになってしまったので、中国文の漢文式の読み方は困難になった。

 今回読んだこの本では、唐の時代の名詩を、著者の翻訳、書き下し文、白文(もともとの漢字だけの文章)の三つ並べている。長い詩の場合は一節のみというものもあるが、全部で百の詩が、テーマ別にまとめられている。

   酒を勧む  于武陵

  君に勧む金屈巵(きんくっし)

  満酌辞するを須(もち)いず

  花発(ひら)いて風雨多く

  人生別離足る

この詩は井伏鱒二の訳で有名。

 コノサカズキヲ受ケテクレ

 ドウゾナミナミツガシテオクレ

 ハナニアラシノタトエモアルゾ

 「サヨナラ」ダケガ人生ダ

*金屈巵・・・取っ手のついた金属製の杯

 著者の翻訳は残念ながら井伏鱒二には到らない(それを求めるのは酷だろう)。だから、著者の訳はほとんど読まず、書き下し文を声に出し、白文を自分で読み直して楽しんだ。

 詩をたくさん記憶している人がいる。私は何度読んでも覚えられない。それでも好きな詩はいくつかある。いくつか取り上げたいが、漢詩は変換がスムーズにいかないのでとても面倒だ。大好きなものだけ書き下し文をあげる。

    山中対酌  李白

  両人対酌山花開く

  一杯一杯復(ま)た一杯

  我酔うて眠らんと欲す

  卿且(しば)らく去れ

  明朝意有らば

  琴を抱いて来れ


   元二の安西に使いするを送る  王維

  渭城の朝雨軽塵を浥(うるお)す

  客舎青青柳色新たなり

  君に勧む更に尽くせ一杯の酒

  西の方陽関を出れば故人無からん

*故人・・・知り合い


    早(つと)に白帝城を発す  李白

  朝(あした)に辞す白帝彩雲の間

  千里の江陵一日にして帰る

  両岸の猿声啼いて住(や)まざるに

  軽舟已に過ぐ万重の山


     楓橋夜泊  張継

  月落ち烏啼いて霜天に満つ

    江楓漁火愁眠に対す

  姑蘇城外寒山寺

  夜半の鐘声客船に到る


    江南の春  杜牧

  千里鶯啼いて緑紅に映ず

  水村山郭酒旗の風

  南朝四百八十寺(しひゃくはっしんじ)

  多少の楼台煙雨の中(うち)


    涼州詩   王翰

  葡萄の美酒夜光の杯

 飲まんと欲すれば

  琵琶馬上に催す

  酔うて沙上に臥すとも

  君笑うこと莫(なか)れ

  古来征戦幾人か回(かえ)る


 みな教科書に載っているような詩ばかりだから、なんとなくわかるだろう。江南には何度も行った。陽関も見た、寒山寺も見た。夜光杯も敦煌で買った(先日セットの一つを割ってしまった)。

 詩を声に出して読んでいると、中国を思い出す。

2016年7月 9日 (土)

今昔物語集を読み始める

 小学館の古典文学全集の中から「今昔物語集」を読み始める、と公言していたが、ちゃんと少しずつ読んでいたのだ。ただし、こういう本の場合は、まず最初の解説の部分を突破しなければならない。読み飛ばしても好いのだが、あまりにもなにも知らないので、基礎知識の意味で拾い読みする。

 「今昔物語集」はいろいろな話を集めて整理した本だから、ある作者の創作したものというわけではない。しかしまとめたのは誰か、ということについては諸説あるようだ。已に散佚しているけれど、この本に先行して「宇治大納言物語」という本があり、内容に重なるものがあるらしいことが知られている。散佚しているけれど、当時のいろいろな本に引用されているのでわかるらしいのだ。

 「宇治大納言物語」の著者が源隆国であることもわかっている。だから彼が選者であるとの説も有力らしい。しかしこの本の解説では、隆国だとすると内容に少し矛盾が生ずる、として否定している。解説では、「今昔物語集」が膨大な内容を持ち、しかもそれが極めて的確に整理されていることから、ある仏教集団(隆国の子である鳥羽僧正覚猷をリーダーとする)がこれを編纂したのではないか、という推論を提示している。また、まとめられたのは内容から考えて、1120年ごろと考えられている。鳥羽帝の治世で、白河院政時代である。

 「今昔物語集」は全三十一巻であるが、欠巻が三巻ある。それが失われたものか、最初から無いのかについても意見が分かれるという。また、巻によっては少なくない欠話が見られる。さらに虫食い状態の部分も少なくない。それが意図的に抜けていると見られるものもあり、保存状態で失われていると見られるものもある。むかし読んだものも白抜き部分が多かった。これらのことから、そもそも「今昔物語集」が完本ではなかったのではないか。まだ編纂が完了していなかったのではないか、という推論もあるようだ。

 小学館の古典文学全集は「今昔物語集」全体を全四巻にまとめてあるが、第一巻はもとの三十一巻のうちの第十一巻「本朝仏法」篇から始まっている。だからインドや中国の話の書かれた十巻までは収められていない。それも読みたかったのに残念である。

 一番最初は聖徳太子の話である。誰でも知っている聖徳太子であるが、なにを知っているかというと案外なにも知らない(私はそうだった)。

 では次回はその聖徳太子の話から始めよう。

首をかしげる

 少し古いけれど、7日の朝日新聞デジタルのニュース。

 国連の潘基文総長が、北京を訪問して王毅外相と会談した後に共同記者会見をした。

 フィリピンが国際仲裁裁判所に提訴した南シナ海問題について、12日に判決が出ることになっているが、王毅外相は、「平和的な紛争の解決に不利になるだけでなく、情勢の緊張をより激化させることになる」、とフィリピンを牽制した。

 王毅外相によれば「フィリピンは(中国との)対話を拒み、当事国の同意を得ずに一方的に強制的な仲裁手段を推し進めたことは法治の精神に違反するものであり、(国連)海洋法条約の理念をねじ曲げた」そうだ。だから中国は「判決を受け入れない」というのは正しいという主張である。

 潘基文国連総長は「国連事務総長として仲裁判決のコメントは控えたい」とした上で、「争いが平和的に解決できるよう、情勢の悪化または誤解が無いように希望する」と述べたそうだ。

 潘基文氏の言葉はそのまま王毅外相の言葉をなぞっていることが明らかである。これではフィリピンの行動が中国との緊張関係を生み出している、と認めているように聞こえる。

 これに続けて、潘基文総長は「中国は最近の北朝鮮の核実験や弾道ミサイルの国連の対応に中国が重要な役割を果たした」と中国を評価したそうだ

 これを読んでどう思うか。

 国連事務総長たるもの、仲裁裁定の中身について意見を述べるのは控えて当然であるが、国際仲裁裁判所の裁定を尊重するように中国にアドバイスするのは立場として当然に思う。そうでなければ仲裁裁判所の存在意味を否定したのとおなじである。それを中国の言い分のみを繰り返してどうするのだ。

 この人、中国の軍事パレードに嬉々として参加していた。中国で大歓迎されるのが嬉しいのだろうか。明らかに中立ではない。

 それにしても偏見を持って読むと、朝日新聞デジタルそのものが中国の言い分を伝えることに力点を置いているように読めてしまう。

 このニュースの表題は「国連事務総長、中国外相と会談 南シナ海問題を協議」である。協議ではなくて、「国連事務総長、中国の言い分を拝聴」ではないのか。

辛坊治郎「ニッポンのアホ!を叱る」(光文社)

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 辛坊治郎は、テレビキャスターの中では、まともなことをいう方だと思う。辛坊治郎が敬意を払うべき人物とはとても思えないから、つまりそれ以外がほとんどまともではないということでもある。たいていまともであることよりも、当意即妙、向こう受けのみを心がけているだけに見える。

 この「ニッポンのアホ」という標題を見て、自分が日本人だとしっかり自覚している人なら、自分がバカにされたように感じて不快であろう。そして自分は日本人だという自覚のあまりない、または積極的にそうでないような態度を示す人間は、こんな本には目をくれない。日本などどうでも良いと思っているからだ。

 書き出しで、この標題は自分がつけたものではない、と辛坊治郎は言い訳している。言い訳したくなる気持ちはわかる。おかしな題である。これで手にする人を減らしていることは間違いない。手に取るのは辛坊治郎ファンか私みたいな変人だろう。

 この本では、まず辛坊治郎お得意の年金問題が、詳しく、つまりくどくどと語られている。書かれている通りであろう。年寄りが若い人を食い物にしている。そしてその年寄りが年金に不平を鳴らし、その尻馬に乗って民進党や共産党(社民党も忘れないでいれてやろう)が安倍政権に非を鳴らしている。

 年寄りはいまより貧しくても仕方がないのである。若者が苦しいなら自分たちだけ楽をしてはいけない。確かに食べていけない年寄りはいるだろうが、それは一握りで、ほとんどの高齢者は遊んで暮らして余裕もある者ばかりなのをみんなちゃんと知っている。

 やはり年寄りはもう少し早く退場すべきなのかもしれない。もちろん自分のことを含めていっているのである。

 これに続けて辛坊治郎なりの情報から見たたくさんの話題(少子化問題、マイナス金利問題、地震予知問題、復興予算問題、中国問題、ジカ熱問題、性病問題などなど)が語られていく。私としては目新しいものは少ないけれど、知らない人が多いかもしれないことが明快にわかりやすく書いてある。彼は自分が体験したこと、実見したこと、勉強して納得したことに基づいて書いているので、誰かの受け売りではない。だから専門的なところはないけれど、その分わかりやすい。

 とはいってもこの題名ではどれだけの人がこの本を手にとって購入するだろうか。少なくとも買って金が無駄になったということにはならないと思うのだが。

 もともとは雑誌「FLASH」に掲載したものを訂正加筆して本にしたものだそうだ。写真週刊誌なんて読まないからなあ。

2016年7月 8日 (金)

馳星周「神奈備(かむなび)」(集英社)

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 ハードボイルド小説作家の馳星周の山岳小説である。舞台は晩秋の御嶽山。

 不遇の中で生を受け、苛酷な人生を生きる少年が、自分の生の意味を神に問うために御嶽山に登る。神に出会うため、最適な環境として彼が選んだ日の天候は、彼の人生よりも苛酷な試練を彼に与える。

 常人では滞在することの叶わない苛酷な状況のその山に、強力(ごうりき)をしている孤高の男がいた。彼に連絡が入り、彼は少年を救出するために独り山頂に向かう。彼は少年と無関係ではなかった。

 荒れ狂い、人間をたたきのめす試練が二人に襲いかかる。

 少年は神に出会えるのか。強力は少年を助けることが出来るのか。少年は神を信じ、強力の男は神を信じない。その二人が極限状況の中で見たものはなにか。

 読み始めたら小説の世界にはまり込んで、吹き荒れる風、吹雪、雪のホワイトアウト、ガスのホワイトアウト、凍りつく気温、それらがその場にいるように実感される。本当に寒く感じたのだ。

 御嶽山のあの噴火による悲惨な災害は記憶にあたらしい。私もまさにあの爆発の前の年にロープウエイのすぐ先ながら、7合目までは登ったので、あの山の景色、雰囲気はよくわかる。

 御嶽山は信仰の山である。そこら中に石碑や石仏がゴロゴロしている。無数にあると言ってよい。その信仰の対象である山に神が宿っているなら、どうして人に犠牲を求めるのか。

 そのことに対してこの本は考えさせてくれるし、自分で答えを出すための作者なりの手がかりを与えてくれている。

火傷する

 昨日、鍋に沸かしていた湯をひっくり返して左足膝下に浴びてしまった。こういうときはまず冷やすのが肝心なので、湯を浴びた部分を、ひたすら水道水を流して冷やした。

 それが功を奏したのか、足の甲の一部だけが赤くひりひりするだけで、大事に到らなかった。それでもあとでひりひりする痛みが強くなったのは、自分の不注意であるから致し方ない。この程度なら痕になるようなことはないだろう。しかし火傷の痛みは独特で、不快である。

 後片付けをしながら反省をしたけれど、どうして鍋がひっくり返ったのかよくわからない。それはまたおなじ事が起きるかもしれないということに外ならない。そのことになんだかがっかりしている。

140920_111 しょげてる私

2016年7月 7日 (木)

精神の縛り

 人には、してはいけないことがある。他人のものを盗むこと、人を傷つけたり、殺すこと、騙すこと、などである。これは宗教とは関係ない。

 これらの、してはいけないことは、しようと思えば出来ることでもある。だから、してはいけないことはしないように子供の時に繰り返し親などから教え込まれる。

 そのような精神の縛りが備わって人間になる。人前で排泄することは出来ないように、してはいけないことはしないようになる。

 芸人になることは人間を捨てることであり、恥ずかしいことをあえてすることが出来るようでなければならない、などという。公衆の面前で脱糞することが可能なくらいでなければならない、などと聞いたことがある。つまり人間を捨てるくらいの覚悟がいる仕事らしい。とても常人に出来ることではない。しかしいまはその馬鹿なことをする人間が拍手喝采を浴びる。

 人前で排泄することも、盗みをすることも、人を殺すことも、物理的に誰にでも可能なことである。可能だけれど、しないのは、そのように精神に歯止めが掛かっているからだ。

 その歯止め、精神の縛りを楽々と解いてしまう人間が増えているように感じられる。それがそもそも普通の人より歯止めが弱かったからなのか、その縛りを解くような社会的な催眠術が蔓延しているのか。

 人権という言葉の魔力が個人のわがままを正当化し、自分が肥大化し、社会と自分との関係を配慮するという、心の働きを持てない人間が増えているような気がする。

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 テロで次々にひとを殺戮する若者、通りがかりの人間を無差別に殺す高校生、バレエ教室の女性講師の親指を工具で切断する男、浮気の報復に相手の性器を切断する男、ついこの数日の間にニュースで報道された事件だ。

 社会は、してはいけないことはしない人、出来ないような精神の縛りが備わっている人間が構成するものであって、そこにその縛りの箍(たが)が外れている者がいれば、それは人家に出没する熊のようなもので、危険きわまりない。熊のように見た目でわからないからいっそう恐ろしい。

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 どうしてこんなことになってしまったのか。

 理由があってやむを得ず犯罪を犯した、という言い訳が肥大化している。正義が肥大化している。

 そのためにはしてはいけないことの精神の縛りを強化する必要があるが、それは道徳教育反対、という声によって否定される。人権至上主義になにか歪んだ正義を感じてしまうのは私だけだろうか。こうして精神の縛りの箍が緩んだ人間が次々にこの世間に輩出し、徘徊している。

痛快ではあるが

 小池百合子女史の都知事立候補をめぐり、自民党都連の対応のお粗末さは目を覆わんばかりだ。石原伸晃都連代表は、自らの意思表示も行動もないまま、醜態をさらしている。小池女史が、「分裂選挙などというけれど、分裂しているのは都民と自民党の間である」と喝破したのは痛快きわまりない。

 石原伸晃氏は「小池氏は自由人なんですね」と苦笑いしていたが、事態に腹が煮えくりかえっているのが見て取れた。こんなときにそんな皮肉を述べても、自分がみっともないだけだということに気がついているだろうか。

Dsc_3815 へっ?

 小池女史はそのコメントについて意見を求められると「その通りですね(自由にやらせてもらいますよ)」とにこやかに応えていた。役者が違う。

 いま誰よりも腹を立てているのは自民党執行部の面々だろう。石原伸晃氏の指導力のなさ、行動力不足、判断力の欠如が想像以上であることが露呈してしまったからだ(民進党はそれをチャンスにするどころか、それ以上にお粗末で救いがたい)。これが自民党そのものの難点として受け取られかねないことに危惧を抱いているのだ。もちろん参議院選に対する悪影響のことである。参議院選挙後の石原氏の処遇が楽しみだ。

 これで小池女史は女をあげたけれど、そもそも都知事選は都知事にふさわしい人を選ぶためのもので、小池女史が都知事にもっともふさわしいかどうかは別である。

宮部みゆき「過ぎ去りし王国の城」(角川書店)

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 昨年購入して途中まで読んだのに、読み切れずにそのまま机の脇に積んだままになっていた。この本の描く世界にうまく入り込めなかったのだ。

 今回は途中からではなく、最初から読み直した。世界に入り込む、というのがこの本のテーマでもあるのが面白い。ただ、この小説の中では、不思議な西洋のお城が描かれた絵に入り込む、という話である。

 さいわい、今回は物語に拒否されることなく、一気に引き込まれた。もともとこういう話が嫌いではない。

 主人公の少年が不思議な絵に出会う。そしてその絵の秘密に触れてしまう。少年はある理由から、いじめに遭っている、絵のうまい少女に協力を依頼することになる。そして二人で絵の中の世界に入りこみ、新たな人物に出会う。

 この三人が不思議な体験をしながら次第に絵の秘密の核心に迫っていく。そして全体をリードするのはその少女になっていった。

 彼らの行動がこの世界そのものを改変してしまうかもしれない。それに逡巡する少年と、あえて危険を冒す少女。その違いは二人の生活の本質的な違いによる。

 そして世界はどうなったか・・・。

 私だってこの少年の歳だったこともあるのだ。そのときの気持ちになってこの物語を楽しんだ。

2016年7月 6日 (水)

小松左京「ショートショート全集③」(ケイブンシャ文庫)

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 ショートショートといってももちろん長短ある。いちばん短いものとして有名なのが、アメリカのもので「世界は終わった。---きのう」。
 この小松左京のショートショート全集の中で短いものを一つだけ紹介する。

          海よさらば

「あれですか?」
芝生にホースで水をやっていた主人はふりかえって笑った。
「そばへよってよく見てごらんなさい」
 そこは海べの家で、低い垣でかこわれた庭のむこうが、すぐ遠浅の泥沼の干潟につづいている。
 私は、芝生の上にしゃがみこんだ。---さっきから、ぬれた芝生の上を、小さな灰色のものがたくさん、ぴょんぴょんととびはねるように動きまわっている。細長い形をしているから蛙ではない。小さなバッタかと思ったが、頭上に大目玉がとび出し、あしがないみたいだった。
「魚だ!」
一匹に眼を近づけた私は思わずさけんだ。
「トビハゼの一種です。有明海の方でムツゴロウといっているのに似た種類ですね」と主人はいった。
「この庭にすみついて、もう海へかえらないんですよ。もともと干潟の上、水の外をかなり長い間動き回れる魚ですがね。最近海がひどく汚れたのをいやがってか、芝生に毎日水をまいていると、集まってきてすみついてしまって、---だから冬でも水をまいてやるんです」
「自然もだんだんおかしな事になりますな」私はかたわらのみぞの中をのぞきこんでつぶやいた。
「よほど水が汚れているんですね。みぞの中で一匹死んでる」
「溺死したんですよ」と主人は肩をすくめた。
「魚のくせにね---少し過保護かもしれませんね」

 これに類した笑い話があって落語の小咄になっている。
 生物の環境適応能力には想像以上のものがあってこの話が荒唐無稽とはいえない事例がたくさんある。
 劣悪な公害環境下にいる中国人がついにそれに適応してしまい、旅行にやって来た日本の里山などで、きれいな空気や水にアレルギー反応を起こす、などという話も作れそうだ。もうすでにあるかな。

公園西口駅へ

「サツキとメイの家」から見上げる丘の上に展望台がある。ここからの視点は、さつきたちとトトロが、あのウロのある大きな木の上から見下ろしたものを想定している。


そこへ登る。

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こんな風に見える。場所が高いので、多少風が吹きすぎていき、いくらか涼しい。

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夏の雲が白く輝いている。

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帰り道の横の池には白い蓮の花が。

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あちこちに花が咲いている。この炎天は花にとって喜びなのだろうか。

もと来た道ではなく、少し遠いけれど、一つ名古屋寄りの駅である公園西口駅へ向かう。月の塔、というのを見たかったのだ。

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月の塔。これは雷神か。

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反対側には風神が。

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道の途中には水の公園などがあり、幼児を連れた母親が子どもたちを遊ばせていた。

その少し先に巨大な観覧車が。

乗ってみたい気もしたのだが、たぶん中は暑いのではないか。ずいぶんゆっくり廻っているので30分くらい乗ることになりそうだ。次回、機会があれば乗ることにする。

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遠くにリニモが走る姿が見えた。名古屋方向に向っている。15分間隔くらいで走っているから、ゆっくり歩いても次のに間に合うだろう。それにしても暑くてくらくらする。

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駅のホームからリニモの線路(?)を見る。どんな構造になっているのかよくわからない。

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付近は大々的に造成工事中。左手奥の林一帯が愛・地球博記念公園である。この先は瀬戸陶磁資料館駅があり、終点は豊田市の八草駅。陶磁資料館にはむかし何度かいった。今度またゆっくり訪ねたい。作家の芸術的な作品も良いけれど、この資料館には考古学的な石器が年代別に展示されていて、それが興味深いのだ。

このリニモのラインには、長久手の古戦場に近い駅や、トヨタ博物館に近い駅もあって、見所満載である。

長久手の古戦場にも寄りたかったが、あらためてくることにして帰路についた。

サツキとメイの家

日本庭園の一番奥にサツキとメイの家の観覧受付事務所がある。ここで510円支払って切符を買い、パンフレットと首からさげる入館カードを渡される。カードには入館時間とグループ名が書かれていて、ガイドが組ごとに案内する。入るまでに30分も待たなければならない。


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テントの下にベンチがあってそこで待つ。私のグループは10人ほど。若い人が多い。平日だから子供はいない。受付から「サツキとメイの家」まで歩いて5分ほど。出発前に注意事項が伝えられる。いろいろと面倒なのだ。それにしても暑い。

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門の前から。そう言えば草壁さんの家だったのだ。

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別の方角から。

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縁側、雨戸。父親の書斎である洋間を除けば私の子ども時代のわが家とそっくりなのだ。

映画は昭和35年の設定。そしてこの再現されている家はあれから一年後の昭和36年の設定だそうだ。

サツキは小学校4年生から小学校五年生に、メイは四歳から五歳になっている。母親も病が癒えて家に帰っているそうだ。

おお、私は昭和35年に十歳なので、小学校4年生、何とサツキと同学年だったのだ。

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雨樋の横にトンボが。芸が細かい。

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鬼瓦には「と」の文字が。映画にはこの文字はない。「と」ばかりで「ろ」はなかった。

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濡れ縁と靴脱ぎ石。ヤツデなどが植わっているのも私の育った家とまったくおなじだ。

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台所。設定では田舎だから、まだかまどである。水道はなく、井戸水。

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奥に風呂場がある。ここは五右衛門風呂であった。父親と娘二人で一緒に風呂に入っているシーンは忘れられない。

家の中にも入れるのだが、中での撮影は禁止。外から撮るのはかまわない。

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ここから小さなトトロが出てくるのをメイが見つけて後をつける。中を覗けば木の実が落ちているかもしれない。

しかしサツキもメイも五月という意味だろう。二人とも五月生まれにちがいない。

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裏に井戸があり、そこにはあの穴のあいたバケツが。

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父親の書斎の机。彼は考古学者だった。壁にメイお手製のカレンダーが掛かっている。

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メイの使ったものだろうか。

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サツキがトトロにはじめてあったバス停。あのときは雨が降っていた。

「となりのトトロ」は映画館で見ているし、レーザーディスクを買ったので、子どもたちと何度も何度も観て自分のことのように頭に記憶されている。蜩の啼く声がどこからか聞こえてくる気がする。

満足してここをあとにした。

2016年7月 5日 (火)

愛・地球博公園

来週の定期検診にそなえて少々減量しなければならない。

減量には汗をかくのがいちばんである。
そんなわけで炎天下にもかかわらず、出かけることにした。

目的地は愛・地球博公園。愛・地球博という博覧会の行われた公園だ。ここはむかし青少年公園といったはずで、小供を連れて遊びに来たことがある。

ここに来ようと思ったのは、この公園の中に「サツキとメイの家」があるからだ。あの「となりのトトロ」の映画の中に登場する、サツキとメイの家が忠実に再現されているのだ。

Dsc_9879 愛・地球博記念公園駅

この公園には、名古屋から地下鉄東山線の終点、藤が丘まで来て、そこからリニモに乗る。磁気浮上式のリニアモーターカーなのである。ただし、超伝導ではないから、そんなにスピードは速くない。

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公園内を歩くとこんなお迎えが・・・。当時の博覧会のキャラクターのモリコロ君である。

公園内はとてつもなく広い。また今日は日差しが強くて暑いから、その広さがさらに広く感じる。

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ほとんど人影がない中に、このように標識が立っている。

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日本庭園の池の前。ここまで駅から一キロくらいか。

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池も広い。池の横をてくてくと歩く。木はあるのだが、太陽がてっぺんなので、ほとんど影が出来ない。しかも風もほとんどないから思惑通り汗が止めどなく流れる。

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もうすぐ目的地の「サツキとメイの家」。池がいくつも続いた最後のところではスモークがたかれていて、朝霧のようだ。

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サツキとメイの家。詳しい話は次回。

教条主義を憎む

 人はみな違う。姿形、生活信条、政治的立場、思想、宗教がそれぞれ違い、どれが絶対的に正しい、などということはない。

 今回のバングラディッシュ・ダッカのテロで犠牲になった方々のことを思うと、その理不尽さに対する怒りをどこにぶつけていいか分からない。

 今回のテロ実行犯はバングラディッシュの大学生らしい。コーランを朗唱できないものは異教徒だから、とそれを殺戮の理由にしたと伝え聞く。十字軍に対する報復だ、との報道もある。

 十字軍が理不尽なものであったことは歴史的に確かであるが、だからその報復が正当である、という論理などあるはずがない。理不尽の非をならすなら、自らはその理不尽を決して行わないことでしか自分の正当性は主張できない。おなじことをするなら、十字軍となにも変わることがないではないか。

 人間を個別の個人としてみることが出来ず、仲間か敵か、という仕分けしか出来ない者は人間ではない。人間とは文字通り、人と人の関係があってのものではないか。関係は違いがあってこそ成り立つ。おなじものが、ただならんでいても社会は成立しない。そんなのはコンピュータの世界の話だ。

 シュプレヒコールに和しておなじ文言を叫ぶのを見ていると、私には日蓮宗のうちわ太鼓を叩いて法悦に浸る姿、「ショーコー、ショーコー」と和して麻原彰晃の名を唱えながら理性を失っていく姿が重なって見えてしまう。

 今回のテロの凶行を実行した大学生達は、なにかの理想を目指していたとは思えない。ただ、麻薬に冒されたように、自ら洗脳されて正義を実行したのであろう。なにかに熱中することは誰にでもあるが、自分の生命どころか魂まで投げ捨ててしまう愚かさに気づけないでは、死後に救済などあろうはずはなく、無間地獄しかないであろう。無意味な死を死に、そこに理不尽にも道連れを伴った。

 幕末の草莽の志士にも、そのような暴走するものもいた。テロに走ったものもいた。しかし、彼らは少なくとも来たるべき時代の礎として自らを投げ出すという理想を持っていた。イスラムの自爆者に似て、大いに違う。自分が死ぬことでなにかを生かそうというのと、ただ相手の殲滅のみを目的とするのではまるで違うだろう。

 それだけイスラム過激主義に走る人々に絶望が深い、ということだろうか。しかしそれが無差別殺戮をする理由になどなるわけがない。

 酒に酔うのは得意だけれど、教条主義に酔うことが体質的にできない。出来ないことをありがたいと思う。いまもシュプレヒコールに和して陶酔する人がどこかにいるだろう。

 蛇足だが、「教条主義」とは岩波国語辞典によれば、「権威者が述べたことを、その精神を深く理解せず、杓子定規に振り回す態度」だそうだ。

 権威者は権力者ではない。つまり、「教条主義者」とは自分の頭で考えない人、ということであろうか。

小松左京「ショートショート全集②」(ケイブンシャ文庫)

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 ショートショートはSFの手法の一つだ。SFは現実離れしていて、リアリティがないと毛嫌いする向きも多い。あり得ないこと、あり得ない世界、あり得ない視点から書かれていて、しかもとても短くて意表を突く結末なのがショートショートである。

 だからショートショートを楽しめるかどうかは、そのあり得ないことを抵抗なく受け入れる柔軟性があるかどうかにかかってる。

 歳とともに柔軟性が失われているから多少読むのに疲れるようになっているけれど(だから第一集は少し読むのに時間がかかった)、久しぶりに読んでいるうちに勘を取り戻した。

 やっつけ仕事っぽいものもないわけではないが、それはこちらが感応できなかっただけかもしれない。それにしても次から次に良くこれだけアイデアが浮かぶものだ。これはショートショートの名人である星新一にも、もちろんいえることである。そして読み方によってはそれぞれ鋭い文明批評が読み取れる。

 理屈抜きに楽しみながら、ときどき意味を考えさせるものにも出会い、面白く読んだ。残りは第三集のみ。

2016年7月 4日 (月)

今昔物語との出会い

 中学生時代に芥川龍之介にはまり、それ以降繰り返しいろいろな作品を読んだ。芥川龍之介の小説には「今昔物語集」の中の説話を下敷きにしたものがいくつもある。だから高校に入って図書館で東洋文庫の「今昔物語集」を見つけて、苦手な古典ながら、チャレンジした。芥川龍之介の小説とはずいぶん違うけれど、私には「今昔物語集」のほうが面白かった。もちろん拾い読み程度だし、恥ずかしいほどの浅読みであるけれど、いつかもう少しすらすら読めるようになりたいと思ったものだ。

 たぶんその流れがいまの中国の志怪小説好きにつながっていったのだと思う。芥川龍之介にも中国の話が下敷きになったもの(「杜子春」など)もある。

 手元には東洋文庫版ではなく、小学館の「日本古典文学全集」の「今昔物語集」がある。これは大部な本で、それで全部で四冊、現存する今昔物語の三十一巻、千数十の話がすべておさめられている。

 中国やインドの仏教説話や世俗説話が前半で、後半は日本の仏教説話、そして最後が日本の世俗説話である。私がむかし面白く読んだのは、最後の日本の世俗説話の部分の一部である。今度思い立って最初から通しで読んでみることにした。

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 たぶん一年もかければ四冊全部読了できるのではないかと思う。ただ、この「今昔物語集」は一部の話が「日本霊異記」と重複している。もちろんそのままそっくりおなじというわけではない。「日本霊異記」のほうが時代が古いから読み比べたいところだが、どうしようか。並行して読んでみようかと思う。

 もちろんこれだけを読むほどの粘り強さはないから、いままでのように小説や時事物の新書を読みながら、毎日少しずつ読み進めることになりそうだ。

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 わざわざここにこう書いているのは、このように公言しておかないと、たぶん途中で投げ出して三日坊主になるおそれがあるからだ。面白そうな話があれば紹介することがあるかもしれない。

   本日は依頼している弁護士の事務所で電話調停があった。進展を期待したのに、相変わらず迷走が続き、宙ぶらりんのままである。次々に先方が新たな申し立てをするので、落としどころをどこにしたら良いのか目処が立たないのだ。だからほっと一息ついて、美味しい酒を飲む、ということにならない。しかしとりあえずご苦労様、ということで、これからささやかに一人で酒を飲むつもりだ。

長谷川慶太郎&田村秀男「日&米堅調、EU&中国消滅」(徳間書店)

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 「世界はこう動く」の国際篇。

 二人は日本の財務官僚が親中国派であることについて酷評している。中国は構造改革を進めなければ、崩壊してしまうかもしれないという危機感を世界中が共有している。その認識はあるけれど、構造改革を進めれば体制自体が持たなくなるかも知れない、と恐れて手をこまねいているのが現在の中国共産党である。その意味ではもっとも危機感が弱い。

 中国の崩壊は必至なのに、それを回避して延命を図る中国に荷担するような日本の財務官僚の言動は、ある意味では自分たちが世界の命運を握っているという驕りであり、錯覚なのだ、というのが二人の意見である。ただ中国の崩壊は数年のうちにありうる、というのが長谷川慶太郎の持論だが、田村秀男は、かなり先であろうと見る。

 世界にとって中国の崩壊はあってはならないこと、何とか持ちこたえさせたほうが良いという世界の財務官僚達の考えこそが、却って中国発の危機を増大させるという二人の考えに賛同する。物事はなるようにしかならないもので、理不尽に目をつぶり、中国の無理を認容することは中国のためにもならない。

 大赤字を垂れ流して中国を中側から食いつぶしている国営企業の淘汰は絶対避けて通れない道なのだ。それをもっとも知るのは李克強首相であり、それを延命させて傷口を大きくしているのが習近平であることがますます明らかになっている。その危機から中国国民の目を逸らさせるために、中国政府は南シナ海などにさらに強硬に理不尽を通そうとするだろう。そして国民の喝采を浴び、引くに引けなくなって、とどのつまり・・・。あとは考えるのが恐ろしい。それはまさに過去日本が中国大陸で、あの泥沼の戦争に突き進んだ姿そのものではないか。人間はことほど過去に学ばない。

 この本はイギリスのEU離脱決定の前に上梓されているが、長谷川慶太郎は、イギリスのEU離脱はあり得る、としている。慧眼である。ドイツは、特にドイツの銀行は、内情が悪化しているという。そしてフォルクスワーゲンが不正による巨額の賠償金を支払うことで、危機に陥る可能性があり、それを銀行が支えきれるかどうか危ぶまれる事態にある。これからフォルクスワーゲンの販売量が落ちこんで、それが持続したりすれば、ドイツ全体が経済的に疲弊し、EUどころではなくなる。

 移民を受け入れる余裕がなくなり、極右勢力がますます台頭するおそれが出てくる。それがEU&中国崩壊、の標題の意味だ。

 世界が激変する。そのときに日本とアメリカだけが堅調でいられるものかどうか。どちらにしても私がやきもきしたところで何ともならない。最悪のことを覚悟した上で、高みの見物をするしかないではないか。ただ、なにもわからずに右往左往するより、多少はその時代の流れを知りながら流されたいと思うばかりだ。

2016年7月 3日 (日)

見た目で言って申し訳ないが

 今朝、民進党の都連は都知事候補として長島元防衛副大臣を擁立する考えらしいと報道された。自民党も、長島氏が当初から候補であれば、もともと安保法制などにも理解を示していたことでもあり、相乗りするかもしれないと言われていた人物だ。

 長島氏について詳しく知らないが、見た目で言えば蓮舫女史よりずっとマシに思える。しかし小池女史と張り合えるかどうか。

 ところで自民党の都連は何とか小池氏以外の候補の擁立をしようとしているようだ。総務官僚の桜井氏に拒絶されると、元岩手県知事の増田氏に要請するつもりだという。だが、マイクを向けられた増田氏は、正式の要請はまだない、と語っていた。内々で話をしていて、受ける可能性が高くなったら正式に要請しようというのだろうか。この辺がよくわからない。

 普通、当初から立候補しよう、と手ぐすね引いている人でもないかぎり、三顧の礼をもって候補を請願をされることで、この困難な局面で都知事を引き受けよう、という気になるものだろう。それを拒否されたときの面子を気にしていては話は先へ進まない。小池女史の唐突なやり方が不快だからと、意地で対抗馬をたてようと画策し、しかも断られたときのことも考慮するような及び腰では、なかなか受け手はないだろう。

 その都連の代表はあの石原伸晃氏。

 先日なにかの番組で、父親の石原元東京都知事が息子の石原伸晃氏のことを問われて、照れながらではあるが、よく勉強して知識も豊富であり、なかなか良くやっている、と語っているのを見て、この辛口の人も親ばかだな、と思った。

 私は石原伸晃氏はもともと見た目が嫌いである。何しろ政治家としての風格も力強さも感じられない。語り口も口先ばかりにしか見えない。実際の行動、政治的功績にしても、あまり印象がない。どうしてそれなりのポジションにいるのかよくわからない。

 彼は今回の都知事候補擁立についての都連の存在感のなさの責任をどう感じているのだろうか。他人事のような顔をしているように見える。自ら動いて関係者を説得する気配もない。もともと説得力などないのを自覚しているのだろうか。成り行きで小池氏に振り回されている姿を見ていると、哀れを感じる。

 この人、なんだか痩せてさらに貧相になり、ますます見た目が悪く感じられるのは・・・もちろん私の偏見なのだろう。

長谷川慶太郎&田村秀男「マイナス金利の標的」(徳間書店)

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 「世界はこう動く」と題した二冊のうちの「国内篇」である。

 対談相手の田村秀男氏は元日本経済新聞の記者で、後、産経新聞の特別記者、論説委員。

 長谷川慶太郎も田村秀男も共に日銀のマイナス金利導入に賛成である。しかし経済対策の目指すべきもの、つまりデフレ対策については意見を異にしており、それぞれの視点から日本経済、金融などについて現状分析が行われる。

 「マイナス金利の標的」という標題には、マイナス金利の裏に隠されている大きな目的のことが表されている。これをここで明かしてしまうと、推理小説の真犯人を明かすこととおなじで、この本を読む意味を大きく損なってしまう。それはルール違反なので、控える。

 二人は、口を合わせてマイナス金利はもっと早く導入すべきであったという。マイナス金利とはなにか。普通は淀んで停滞している日本の金の流れをむりやりにでも作り出そうというものだ。劇薬だ、という批判が多いが、それをせざるを得ないほど金詰まりがひどいことも大方の共通認識である。

 この本を読んでいると、今回の-0.1%という日銀の金利設定は、かなり限定的な適用である。それでもいままで行った数十兆円という巨額の国債などの投入よりも大きな効果が見られた、という。その効果をより顕在化させるためには、すでに海外で行われている-0.5%程度にすることも想定して良いのではないか、という。

 そんなことをして良いのか。そのことの利害得失を比較し、して良いのだ!というのが二人の意見である。

 銀行は利益が大きく損なわれるから大変であるが、一般国民の預金はマイナス金利にしたら誰も預けないから、決してマイナスには出来ないという。ただし企業の預けた金にはマイナス金利をつけるか、それが出来なければ、銀行は手数料という形で採算を合わせざるを得ないという。これはすでにマイナス金利を導入している国では常識である。つまり、いまの金詰まりのもっとも大きな原因である企業の社内留保を市中に流し出す働きがある。

 さらに仕組みがすんなりとは理解できなかったが、国債の金利が下がるという働きもある。国債の金利が下がれば国の赤字国債の利子負担が軽減する。これは日本政府にとって有難いことである。

 狼が来る、と叫んでいるように見える一部(かなり多い)の経済学者たちは、日本の国債の価値が下落し、つまり国債の利子が上がり、日本経済は破綻する、と唱え続けていた。日本の国債の利子はいつ上がるのだろう。あのソバージュのおばさんは、自分の言っていることと現実の格差のつじつまをどう合わせるのだろう。

 それにしても長谷川慶太郎は1927年生まれ、もうすぐ90歳である。年齢相応に少し古いことの繰り返しが多くなったとはいえ、まだまだ意気軒昂である。相変わらずわかりやすくて面白いのだ。

2016年7月 2日 (土)

節制と寝不足

140920_79 こんなに太っているわけではない

 飲酒量がじわじわと増え、しかもドライデーがほとんどなくなっていた。飲酒は一つの習慣で、飲むほどに飲まずにはいられなくなる。そのうえ私は食べずに飲むことが苦手なので、つい食べ物の量も増えてしまう。現役時代より控え目だと言っても、体を動かすことが激減しているから、過剰な摂取になっていることは間違いない。

 こんなことをしていたら、また血糖値が上がってしまう。ここはねじを巻き直さなければならない、と心に決めた。もう少しメリハリをきかせ、飲むときと飲まないときのコントラストをつけることにする。

 そういうわけで少し身体からアルコールを抜くことにした。これで3日間アルコールを飲んでいない。今晩も飲まないつもりだ。こういうことにはこだわるほうなので、一週間くらいは我慢できる。ただ、夜眠るのに少し時間がかかる。酒が入ればすぐ熟睡できるのに、眠りが浅くて何度も目が覚める。朝は普通に起きられるけれど、なんとなく寝足りない気がする。

 だから昼間ちょっとゴロゴロしていると、いつの間にかうたた寝している。ちょっとの時間なら良いけれど、けっこう本気で眠ってしまうので、それがまた夜の入眠をしにくくさせているようだ。

 リバウンドしていた体重も何とか押さえ込めているけれど、精神的にもっと落としたい、という気持ちからか、ただ冷たいものを飲み過ぎるからか、腹がゆるくなってしまった。

 体重が増えたり減ったりしているときに、あるラインを超えて次のレベルに増えてしまうと(私の場合は3キロ以上増えると)、自動的に下痢が始まる。身体が過剰なものを排出しようとするかのようだ。それがしばらく続いて、収まると今度はその増えた体重が定常状態になってしまう、ということを繰り返してきた。

 いまは増えていないのに、心身が「過剰である」と判断しているらしく、そのときのような身体の反応を起こしているようだ。不思議なことに友人と会食して暴飲暴食をしても、身体はそのような反応をしない。

 来週月曜日、懸案のことで弁護士事務所に行く。電話による調停である。それがストレスになって飲酒が増えているけれど、だんだん慣れてきてはいる。だから4日はそれが済んだあとに、禁を解いて早めにお酒をたのしむことにしている。それまでの辛抱である。お陰で本やドラマ鑑賞がふだんよりもたくさん出来ている。

 つぎの10日は参議院選挙、そして翌日11日は定期検診日。検査結果が問題なければ、また少しどこかへ出かけることにしようと思っている。そういう楽しみが控えていれば、多少の我慢は何ほどのこともない。

「沈まぬ太陽」

 WOWOW開局25周年記念ドラマ、「沈まぬ太陽」の第一部・全八話が終わった。このドラマは山崎豊子原作の同名小説をベースにドラマ化したものだ。

 国民航空の航空機墜落事故の第一報前後の様子が導入として描かれる。続いて時間をはるかさかのぼり、主人公の恩地(上川隆也)が国民航空の組合の委員長を引き受ける場面に転換する。

 このドラマの国民航空機の墜落事故が、あの日本航空機の御巣鷹山墜落事故を示していることは誰にでもわかる。もちろん、日本航空機の事故がこのドラマのままの原因や理由であったわけではないであろう。

 航空会社のあるべき姿がどういうものか、そしてどのような点がおろそかであると事故につながるのか、それを次から次に、これでもかというように取り上げていく。

 ドラマはある程度まとめて観ることにしている。このドラマもある程度たまったところで、一気に第一話から第三話まで観た。しかしそのあまりの重さにちょっと疲れてさらに続けてみることが出来ず、ようやく残りを昨日と今日で見終えることが出来た。

 事故そのものは第二部・第九話から詳しく描かれていくようだ。

 組合活動というものについて、政治的イデオロギーが嫌いなのであまり興味がないし、気持ちも動かないが、このドラマでは政治的なものはほとんど見られない。ただ組合員の労働条件の改善や、人員配置についての要求の話である。労働者は要求するが、会社側は経営を考慮して、出来ることから回答していくしかない時代であったことはわかる。しかしその回答があまりにも木で鼻をくくるものであったり、優先順位が偏向していれば、組合も強硬にならざるを得ない。

 航空会社が何よりも運行の安全を優先しなければならないことは自明である。ところがそうなっていないままずるずると経過していくとどうなるのか。それが小さな事故につながり、さらに次の事故が起こり、そして大惨事へと拡大していく。

 その様子を、主人公の恩地に対する会社の処遇を軸に危機が高まっていくのを描いていく。なぜ恩地は組合の委員長の任期二年を経た後、パキスタンのカラチに、そしてイランのテヘランへ、ついにはケニアのナイロビにと、足かけ十年も赴任させられたのか。それを観ていると、彼の怒りと悔しさがこちらに伝わってくると共に、彼の矜持の強さに感動する。

 なぜそれほど意地を通すのだ、と思う人も多いだろう。同期で出世コースに乗った行天(渡部篤郎)の妻役の若村麻由美の考え方は、ドラマを観ていれば腹は立つが、普通の考え方かもしれない。

 敵役達の想像力の欠如には怒りを覚えるが、それがあたりまえなのが世の中で、そんな危うい世界の上に我々は暮らしていることを思い知らされる。それが重いと感じた理由だろうか。

 骨太のずしりと来るドラマである。アフリカなどの映像も美しい。

平田オリザ「下り坂をそろそろと下る」(講談社現代新書)

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 副題が、あたらしい「この国のかたち」。ここから、司馬遼太郎の「坂の上の雲」や「この国のかたち」を連想するかも知れない。実際に引用もされている。坂を上る日本は、いま坂を下りつつある。その坂の下り方、このように下りて欲しいという思い、それに積極的に著者がどう関わって行動しているのか、そして彼の考える日本のあり方をまとめたものだ。

 人間が心身盛んな青年期、壮年期を過ぎれば、老境に到るように、いま日本はすでに下り坂を下りはじめているという認識は、私にもある。それは自分自身がそういう年齢だからそう感じるのかもしれない。

 しかし、だからおとなしく引っ込んでいろ、というということをこの本は訴えているわけではない。日本が坂の上り方を途中でまちがえたように、下り方をまちがえないようにするための考え方を提案しているのだ。

 内田樹師や藻谷浩介氏が帯に推薦文を載せている。これらの人たちや著者は、政治的な信条が私と違うところもあるけれど、その世の中を見る見方が独自のものがあって、なるほど、そういう考え方もあるのか、と教えてくれるところがある。そういう本は好きだ。

 著者は演劇を通して地方に文化を再興させようと尽力している。それはパフォーマンスとしての行動ではなく、確固たる信念と目的意識を持ってのことであることが、不思議なほど静かに諄々と語られている。えてして熱っぽく語ることよりも、静かに語られることでその内面の熱さを感じることが出来るものだ。たぶん彼が指導している青少年たちは、それを実感として受け取っているはずだ。 

 いくつかの論点があるが、少子高齢化についての考え方など、観念からの方策より、現実的な個別の人々の結婚の機会の創出についての具体的な提案が、あたりまえのことなのに目新しい。肝心のことが見失われているのかもしれない。待機児童の問題もそうだろう。

 嫌韓、嫌中について静かに批判している。多少蒙を啓かれた。ただ、彼の親しい韓国の人たちのような人ばかりだ良いのだけれど。

 彼が関わっている、小豆島、兵庫県の豊岡、四国の善通寺などを訪ねたくなった。彼の提唱する文化の再興に応える町は、どんな光を放っているだろうか。池内紀流の眼で眺めてみるのも面白い。

2016年7月 1日 (金)

こうしてはいられない

Dsc_4257 あれっ!

 ギリシャの賢人ディオゲネスは、寝泊まりできるような大きな木の樽を住処としていた。その樽をゴロゴロと転がして気にいったところに腰を据え、なにをするでもなく世の中を眺めて暮らしていた。

 あるとき、大きな事件だか、戦争だかがあって、街の人々が右往左往して走り回っているのを見て、ディオゲネス先生、住まいにしている大樽をゴロゴロとあちらへ転がし、こちらへ転がしはじめた。

 人々が「何をしているのか?」と問うと、「みんながああして騒ぎながら走り回っているのに、自分だけぼんやりしているわけにはいかないではないか、だから同じように走り回ったのだ」。

 ディオゲネスが人々の騒ぎをさとすために、その無意味さ愚かしさを自分が演じて見せた・・・と受け取ることになっているらしいが、ディオゲネス先生、本当にただうろたえていただけかもしれないと私は思う。そのほうがディオゲネスらしい。

 本日、月初めのいつもの所用で名古屋に出かけた。用事を済ませたあとでお気に入りの本屋に入り、面白そうな本を物色していると、次から次に欲しい本が目についた。そうなると止められない。気がついたら本を両手で抱えてレジの前に立っていた。

 家のあちこちには、読みかけやこれから読もうという本が山のように積まれている。そのうえこんなに買い込んでどうしようというのだろうか。6月はいつもになく本が読めなかった。そんなことでどうする。

 これからせっせと本を読まなければならない、と心底思ったら、こうしてはいられない、という言葉が浮かび、ディオゲネスのことが思い出されておかしかった。

 ディオゲネスのことは、小学生の頃に父に買ってもらった、世界の偉い人の話の本に出ていた。この本には風変わりな人がたくさん取り上げられていた。私の人生観に少なからず影響している気がする。どうして父はあの本を選んだのだろうか。

そんな事実はないというけれど

 東京電力が東日本大震災の津波によって損傷した福島第一原発で、メルトダウンしていたのにメルトダウンしていない、と言い続けていたことは間違いであり、事実の隠蔽だったと言われても仕方がない、と先日、社長自らが謝罪した。

 そのように社員たちに言わせていたのは、当時の清水社長だったことも明らかになっている。

 その件についての調査では、官邸から東京電力に対してメルトダウンという言葉を使うな、という指示が出ていたとも報告されている。 

 当時の菅首相、そして枝野官房長官はそのような事実はない、と強く反発し、抗議文を調査した部署と東京電力に対して提出し、参議院選挙前にこのような事実無根のことを公表するのは政治的なものだ、と激しく憤って見せている。

 実際にそのような指示が官邸から出ていたのかどうか、なにも記録が残っていなければわからない。たぶんそこまで否定するのだから、公然たる指示などなかったのだろう。しかし、だからといって現行政府の民進党に対する中傷誹謗だ、と抗弁するのは違うような気がする。

 日本でははっきりと言葉に出さずに、相手の言い分を忖度して行動する、という文化がある。メルトダウンという言葉は愚かな国民にパニックを起こさせるかもしれない、と心配する菅直人首相の気持ちをくみ取って、東京電力の清水社長が指示を出したのではないか。

 なぜそんな想像をするのか。

 あの原発事故の時、スピーディという放射能拡散予測システムが存在していたことは今ではよく知られている。電源喪失したからデータがない、といいながら、じつは完全ではないがデータが存在して、放射性ヨウ素がどのように拡散するのかわかっていたらしいことが、あとで判明した。

 あのときにそのデータを元にした避難をすれば、放射性ヨウ素の被爆の多くが回避できたこともわかっている。

 メルトダウンについても、このスピーディについても、原発に詳しい記者から再三質問が出されていた。そのとき枝野氏はどう答えていたか。メルトダウンではないと言い続けていたのは誰か。我々がテレビで見ていたのは東京電力ではなく、枝野氏であった。

140920_243 知らんぷり

 スピーディのことは知らなかった、とあとで枝野氏は弁明していた。じつは最初からわかっていたらしいけれど、菅直人首相から止められていたのであろうと私は思っている。

 言わずに伝える、聞かずに忖度して意を汲む、というのは責任が及ばないようにする慣習である。それに自信があるから感直人氏も枝野氏も、強弁できるのだろう。しかしあのときにテレビで毎日枝野氏の言葉を聞き続けて、その言葉が当初のものから次第に変わり、いったい最初に言っていたことは何だったのか、と強い不信を抱いたのは私だけではあるまい。

 それは東京電力の言うことを鵜呑みにしたからで、自分たちには責任はない、というのなら、自分のいった言葉が違ってしまったことを、東京電力にただすこともしなかった無能力者だったと認めるのか。もともと気がつきもしなかったのか。覚えてもいないのか。私は愚かな国民だけれど、あのときのことは忘れていない。

 その口で安倍首相が暴走している、などとよく言えるものだ。なにをもって暴走しているというのか、暴走でないどんな政策があるのかなにも言わずにただ非難だけしている。相手が悪いのだから私は正しい、という中国式の論理は不快である。このような信義を失った恥知らずな政治家は見るに堪えない。

 これは私が勝手に感じている怒りだけれど、あの震災のときの民主党の不手際な対応をみな忘れたのだろうか。覚えていれば、あのときたぶん官邸の指示があっただろうと思っているはずなのだが。

 人はこういうことについて、あったことを隠すことはあっても、なかったことをわざわざ言い立てることはあまりしないものだ。

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