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2016年8月

2016年8月31日 (水)

長谷川慶太郎「2017年 世界の真実」(WAC)

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 まだ2016年の8月だというのに、長谷川慶太郎が早くも2017年の世界についての展望を語る。

 長谷川慶太郎はすべて口述筆記であるという。それを文章に起こし、それがそのまま本になるのだそうだ。それができるようになるまで経験を積み、今ではほとんど手直しも必要ない。これならあっという間に本ができるが、それしてもいろいろな情報を頭の中で整理して、すらすらと口述筆記出来るというのはすばらしい記憶力と構成能力だ。1927年生まれというから、もうすぐ90歳だというのに凄いことだ。

 長谷川慶太郎の本がすらすらと読みやすいのも、彼が語ったものを文章にしているからなのであろう。

 今回はイギリスのEU離脱決定後にその影響を考慮して世界の展望を語っている。EUの今後の見通しについては、先般読んだ木村正人の「EU崩壊」とシンクロするところが多く、得心のいくものであった。つまりとても悲観的、ということだ。

 中国はゾンビ企業(赤字垂れ流しの国営企業)の処理をしない限り、経済的に立て直しができない状態になっているが、すでに手遅れとも言える。李克強首相は早くから国営企業のリストラ推進を主張していたが、ほとんど何もできていない。そもそも経済面は主に首相の専権事項だが、その権限を著しく制限してきたのが習近平であり、今はその権限の7割近くを奪っているともいう。

 それが李克強の意外な能力不足によるもの、という見方もあるが、そもそも習近平が権限を与えていない、というのが長谷川慶太郎の見立てで、私もいろいろな本やニュースからその見方のほうに組みする。李克強は胡錦濤の後継者と目されていた人物だから、その能力を活かすつもりなど習近平にはもともとないのではないか。

 経済音痴(私の勝手な思い込みの部分もある、今後の成果を見れば分かる)の習近平が、中国経済のガンである赤字国有企業にどのようメスを入れるのか、それとも放置するのか、それによって中国の現体制の命運が決まる。命取りになるかもしれない。なにせガンの処置なのだ。

 長谷川慶太郎は今まで明日にも中国の現体制が崩壊しかねないような物言いをしていたが、そのトーンはなりを潜めている。もし大きな変かがあるとしてもそれはすこし先のことだということなのか、それとも崩壊が近いことは言う迄もないことなのでもう言わないのか。

 アメリカの大統領選についてはあまり悲観的ではない。誰が大統領になっても破滅的なことにはなりようがない、と見ているようだ。もともとヒラリー・クリントンには批判的だ。もちろんトランプについては論外であるが。ただ、アメリカが一国最強の地位を降りてしまうのは、遅かれ速かれやって来る事態だった。

 世界が平準化していく、という私の見立てと矛盾しない。

 今後は北朝鮮とロシアにどう対峙していくのか、世界の展望に大きく立ちはだかる問題なのであろう。

 長谷川慶太郎は、相変わらず日本の未来にとても楽観的な見立てをしている。それは巨大災害のときの日本国民の行動を見れば分かることだ、というのにうなずく人は多いだろう。そして日本のものづくりに対する真摯な姿勢を高く評価しているのだ。日本人が思っている以上に世界は日本を高く評価しているのだという言葉にそうかも知れないと思うか、そんなはずはないと思うか、人によって意見が大きく分かれるだろう。

 日教組的な教育を受けて育ち、日本は悪い国だと擦り込まれた上に、日本を貶める物言いを続ける中国や韓国に洗脳されている人が多い日本で、若い人たちがそこから自由になることを希望したい。

人恋しくて

 人恋しくて・・・、つまり飲み相手が欲しくて、大阪の友人達に声を掛けたら、みな快諾してくれたので本日は大阪にて飲み会。

 泣き言を言いたいこともあるけれど、それは楽しい会話に水を差すことになるので、今回は控えることにする。

140920_57 お友達(みんな気を悪くしないでね)

 みな自由人なので、昼過ぎに合流して早めに飲み始める。大阪なら昼から飲める店はいくらでもあるのだ。早めに飲み始めれば早めに終わるから、日帰りできる。今大阪で急に宿をとろうとしても難しいのだ。

 天王寺での待ち合わせである。前回、四天王寺の周りをちらりと見てきたが、今回は少し早めに行って、丁寧に拝観してこようと思う。飲み会にカメラは危ないのだが、最近は昔ほどバカ飲みしないので大丈夫だろう。

2016年8月30日 (火)

矢崎泰久編「永六輔の伝言」(集英社新書)

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 本日八月三十日は、永六輔のお別れ会の日。

 永六輔が特に嫌いでないなら、ぜひこの本を読むことをお薦めする。

 永六輔が自分の出会った人たちとの出会い、そのひととなり、エピソード、その人の死までを語り尽くしている。いずれも魅力ある人たちである。そんな書き残された文章を、永六輔と生涯にわたって親交のあった矢崎泰久が編集し、全体を整えて本にした。

 冒頭が渥美清である。最近渥美清の死後一周年を機にテレビで特集が組まれていて、それを見たばかりだ。その人となりについてイメージしていたことを永六輔の文章は裏切らず、さらにやさしい膨らみを加えてくれている。小林信彦が渥美清との親交を多少手柄顔に書いているのとくらべると、この永六輔の文章のほうに抑制の効いたつましい美しさを感じる。そのほうが渥美清にふさわしい。

 ほかに淀川長治、岸田今日子、三木鶏郎、淡島千景、三木のり平、丹下キヨ子、黛敏郎、三國連太郎、中村八大、いずみたく、坂本九、石井好子、三波春夫、美空ひばり、小沢昭一、野坂昭如、やなせたかし、住井すゑ、水上勉、井上ひさしなどが語られている。

 その人の永六輔が実見した真実の姿を語り、ともすれば暴露的になりそうなところをそうならずに踏みとどまり、その人を魅力的に感じさせるのは、永六輔の人に対する懐の深さとやさしさがあるからだろう。永六輔は誰に対してもやさしかったわけではないだろう。嫌いなものは断じて嫌いだったにちがいない。それを分けているのは永六輔の価値観、いや美学であろうか。

 この本はさまざまな人たちを語ることで、永六輔という人間の生涯がどのようであったか、永六輔とはどんな人であったかを語る形になっている。人を語るということは、それを通して自分を語ることなのだということが良くわかる。 

 読んでいるうちに、語りたいことがあふれてきて舌足らずな早口になってしまう永六輔がラジオから語りかけているような気持ちになり、ときに胸が熱くなった。

乱れまなこの斜め読み(3)

 日韓通貨スワップ再開協議開始について、韓国の新聞がどう報じていたか、ネットで二、三拾ってみた。

 中央日報は「韓日通貨スワップ、話を切り出してすぐ受け入れた日本」の見出しで、この件を報じていた。麻生財務大臣が待っていたように受け入れたことを強調していた。「韓国から申し入れた形式をとったが・・・」という書き方に、じつは韓国にとってそれほど必要ないのだが、の意味を込めているつもりらしい。

 記事によれば、「通貨スワップはすぐ使うために結ぶよりは、万一に備えた通貨防衛同盟の性格が濃い。韓日通貨スワップがこれまで曲折を経たのもこうした象徴性のため」だそうだ。現在韓国が各国と結んでいる通貨スワップは1190億ドルで、そのうち中国が最大の560億ドルである。THAAD問題などで韓中関係の不確実性が増しているので、中国偏重から多角化を図る意味で日本とのスワップ再開を提案したのだ、と続けている。

 何のことはない。韓国として必要だから日本にお願いしているということではないか。「日本もやはり東アジア域内で中国の影響力が過度に大きくなるのを牽制するためにも韓国との協力を強化する必要があるだろう」と結んでいる。ちょっと恩着せがましい。

 同じ中央日報の社説でも「通貨スワップなど米国発の金利引き上げ対策を立てるとき」という見出しで今回の協議について必要性を説明している。

「通貨スワップは緊急に外貨が必要なときに自国通貨を預けて相手国の通貨や米ドルを借りてくる制度だ。1997年の外国為替危機時に1ドルでも惜しむ経験をした韓国としては、外国為替危機を遮断する安全弁になり得る」と説明しているが、その通貨危機に際して日本が助けたことには一切言及していない。

「韓国はすでに1190億ドルの通貨スワップを締結しており、外国為替保有額も3698億ドルと潤沢なので、非常時の外国為替の防御は心配ない」のだそうだ。

「中国が半分近くを占めている通貨スワップを多角化するために日本とのスワップを再開するのは意味がある」ことであり「日本経済の規模や国際金融市場で日本円の影響を考慮すれば日本との通貨スワップを拒む理由はない」と続く。

 韓国が申し入れたのに「拒む理由はない」とはどういうことか。これでは日本から申し入れたかのようだ。「日本との協定が終了したのは、過去の歴史摩擦によって両国関係が疎遠になったことに伴う余波である」という。然らば歴史摩擦は解消している、ということなのであろう。

 アメリカFRBのイエレン議長は九月にも金利を引き上げると示唆している。海外からドルがアメリカに吸い上げられる方向にお金の流れが変わることは確実だ。韓国は中国との関係に深入りしすぎてしまい、中国経済減速によって輸出が減少し続けてとまらない。外貨保有高が突然減少する可能性がある。そのために日本に通貨スワップで債務保証をして欲しいのだ。正直に言ったら良いのに。もしそれで再び三たび助けても、助けてもらってありがとう、という感謝の言葉はないだろう。

 ハンギョレ新聞では同様に「韓日通貨スワップ、再開の見込み」という記事で報じている。韓国側から提案したことを明らかにした上で、「しかし、今回のスワップ再開議論は、韓日関係の改善という政治的背景が作用しているという見方が多い」そうだ。なぜならば「世界貿易の決済比重が5%にも満たない日本円の地位や豊富な韓国の外貨準備高など、対外健全性を念頭に置くとき、日本との通貨スワップを急ぐ経済的理由は大きくないためだ」からだそうだ。

 日本円の決済が世界貿易のたかが5%というが、では中国元はどうか。3%にも満たないのである。そのことは知っていても書かない。

 続いて、専門家らの意見として、日本とよりもアメリカとのスワップを再開すべしという。アメリカとは、2008年の世界金融危機の時に協定を結んだが、2010年に終了した。その後再開を韓国から再三申し入れているが、アメリカは応じてくれないらしい。アメリカは「頑固にも」その必要性を認めないのだそうだ。

 日本が頑固でなくてよかったね。でも仏の顔も三度までというよ。すこしは礼儀をわきまえてね。

なにごとか

 深い水の底で眠りについていた。

 深夜一時過ぎにその眠りが破られた。固定電話のコール音がしている。固定電話はいつも留守電にしているから、すぐ「ご用件を・・・」の受け答えが始まった。しばし無言のあと、電話は切れたようだ。

 今友人知人はほとんど携帯に連絡をくれる。固定電話は公的なところか銀行か勧誘しか架かることはない。深夜の電話は間違い電話しかないが、間違いなら無言ということはない。

 夜中に電話がある用件といえば、あまり良くないことに決まっているので、不安がきざすが、私の電話は古いから相手の番号を表示するものではないので、どこから架かったのか分からない。

 たたき起こされた形になって眠れない。いったいなにごとか。そのあと固定電話にも携帯電話にも電話は架かってこない。

2016年8月29日 (月)

乱れまなこの斜め読み(2)

 シンガポールでジカ熱の感染患者41人が確認された。いずれもジカ熱の流行している中南米などへの渡航歴がないとのことで、国内感染と思われる。ジカ熱は感染しても症状を発しない場合が多い。実際には感染者は41人をはるかに超える数存在するということだ。そして、ジカ熱を媒介する蚊がシンガポールにたくさんいるこということだ。

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 患者の内、31人が外国人労働者、それも建設現場作業員だった。外にいて肌をさらし、蚊に刺される確率の高い人たちだったのだろう。シンガポールには多くの観光客が訪れる。知らずに感染して自国に持ち帰る人もいるだろう。東南アジアや中国に感染拡大しないことを祈りたいが、拡大は時間の問題かもしれない。それなら早くジカ熱の対処法が確立する事を願うしかないのか。

 韓国の外相が、過去八ヶ月で脱北して韓国に入国した北朝鮮エリート層の数が過去最多になっていると明らかにした。

 北朝鮮国民で脱北が可能なのは、国境周辺に住む人々か、国外に出る機会のあるエリート層などに限られる。エリート層はそもそも一般国民よりも暮らしはそれほど苦しくないはずである。それが危険を冒して脱北しようというのだから、生活の苦しさよりも生命の危険を感じているからかもしれない。それほど今の北朝鮮が異常な国家であることの表れなのだろう。

0071 向こうは北朝鮮、手前はイムジン川

 誰かがコメントしていたが、北朝鮮の人々は戦後70年にわたって、徹底的に管理され、二世代三世代も現体制で暮らしてきた。すでにそれが定常状態であると観念しきっているのではないかという。豊かで自由な暮らしなど経験したことがなければ、それを求める気持ちも湧きにくい。知識として北朝鮮以外の国ではそのような自由があると知っても、それが具体的に実感できない期間があまりにも長すぎた。

 知らないものは希求できない。だから北朝鮮の人々は自らの手で体制を打破するという意志を持つことができない。これほど長期に徹底的に情報管制と刷り込みを矯正された国民は過去例がないのかもしれない。

 もしそうならば、北朝鮮を救うのは外部からの力しかあり得ないことになる。中国でもアメリカでもかまわないから、とにかく今の金正恩体制を倒すことを期待せざるを得ないのではないか。そうでないと人権主義など絵空事だ、ということを認めることになると思うのだがどうか。

 田嶋陽子女史に金正恩と話し合ってもらうよりも、そのほうが世界のためになりそうだと思うが。

乱れまなこの斜め読み(1)

 ニュースを流し読みした。ザル頭に引っかかったいくつかを。

 イタリア中部で発生した地震の被害は、地震の規模のわりにずいぶん大きい。これは地震の深度が浅かったことと、建物の構造上の問題があったためであるようだ。石や煉瓦を積んだだけだと地震にとても弱いことが見て取れた。

 イタリア検察当局は手抜き工事による増改築が被害を大きくしていた疑いがあるとの見解を示しているという。イタリアのことだからさもあらん、と思うのはイタリアの国柄に偏見があるからか。

 ところで築地市場の豊洲への移転が問題になっている。新しい豊洲の市場が使い勝手がわるいことが明らかにされているようだ。どうも実際に入居する仲卸の人たちに十分な確認もせず、数学的な割り振りをしたため、一軒ごとの間口が狭すぎるらしい。なぜ入居者を考慮しないものが建てられたのか。

140408_7 隅田川から見た築地

 問題はさらにある。構造上の強度について粉飾の疑いがあるとスクープされていた。一部二階のコンクリートの厚さが10ミリ厚として強度計算がされているという。コンクリートにはバラス(砂利)が入るから、砂利の大きさより薄いコンクリートなどあり得ない。実際には150ミリ厚のコンクリートが敷設されている。ではなぜ10ミリで強度計算をしたのか。安全係数の範囲に入るためには二階の重さが問題で、それから逆算してコンクリートは10ミリでないとならないからではないかという。

 さらにこの豊洲の市場の建設費用は当初予算の約三倍にふくれあがっている。資材がそれほど高騰しているという事実はなく、まったく理由不明である。このことはあの2020年東京オリンピックの競技場の予算のふくれ方を思わせる。

 東京都の金にゆとりがあることを良いことに、頭の黒い鼠がそれを食い物にしている構図が見えるではないか。舛添氏が公私混同でチビチビと蓄財しているあいだに、東京都の金は大きく蝕まれていたのではないか。小池氏がどこまでそれに切り込めるであろうか。

 このような構図の中では手抜き工事だっておこる可能性が大きくなるのではないか。事実と異なる強度計算が罷り通る世界である。プロの見直しが必要であり、そうでないと首都直下型地震などが起きたとき、安全なはずの建物や高速道路がばたばた倒れて世界の笑いものにならないとは限らないではないか。

 これでは中国やイタリアを笑えない。

木村正人「EU崩壊」(新潮新書)

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 EUについておぼろげに分かっているつもりだったが、実際のEUが抱えている問題について知りたいと思ってこの本を読み始めた。読んでいるうちに統計値などが2013年までしかないことに気がついた。奥付きを見ると2013年11月に出版された本であった。

 こういう時事ものの本は生ものである。三年近く前の本では背景となる状況がずいぶん変わっているはずだ。現に最初のほうはギリシャ危機とギリシャのEU離脱が主要テーマとして論じられている。

 しかし読み進む内に、この本を読む値打ちがあることを確信した。EUのそもそもの成り立ち、そして国と国の力関係、周辺の国とEUの関係、それぞれの国のEUに対する立ち位置などがとても分かりやすくまとめられているのだ。

 この本を読んでいると、EU設立の理念と現実の食い違いが次第に大きくなりつつあることを実感する。その軋み音が聞こえてきそうである。三年前に書かれているこの本が、イギリスのEU離脱をほとんど予言している(すでに2013年にキャメロンは国民投票を提言しているから不思議ではないが)。

 この本ではEUの存続にかなり悲観的である。それほどEUが抱えている問題は多く、しかもそれが解決しつつあるというよりも、増大しているというのが著者の見立てだ。

 この見立ては、私がいつも参考にしている長谷川慶太郎の見立てに似ているところが多い。

 あたりまえのことだが、世界はすべて関連して動いている。その世界の動きにとってEUは原因であり、結果となっていく。そしてその影響力はEU諸国にとって残念なことに、次第に小さくなっていきそうである。世界は平準化して行く、というのが私の世界観だが、EUはまだそこのところの認識と覚悟が足らないのかもしれない。

 それぞれの国が描くEUのあるべき姿が、あまりにもばらばらであることがEU崩壊の原因となるであろう。

2016年8月28日 (日)

日韓通貨スワップ再開検討で合意

 日韓の財務会談で、韓国側からの申し入れにより、スワップの再開を協議することで両国は合意した。

 会談の前から麻生財務大臣はスワップ再開に前向きの発言をしていたので、予想外の合意というわけではない。

 1990年代に韓国が通貨危機によってデフォルトの危機に陥ったとき、金泳三大統領から橋本首相に救済の懇請があり、急遽スワップの設定が行われ、円の後ろ盾、つまり日本政府が債務保証をした形となって韓国は危機を回避することができたことは、韓国国民以外にはよく知られている事実だ。

 その後、韓国は急回復、急成長を遂げ、国際収支の劇的改善により、外貨保有額が増えている。日韓のスワップについては、期限の延長を日本側が提案していたが、日韓関係が冷え込んだことを期に韓国側が拒否、日本側の再三の念押しに対して、韓国側は木で鼻をくくる回答が続き、完全にスワップは解消した。

 その間に韓国は中国と巨額のスワップ協定を結んでいる。

 あのときの韓国政府や韓国マスコミの日韓スワップについての物言いはどのようであったか。

 あたかも日本側の都合で結んでいたスワップだから、日本政府が理不尽であるからスワップの再延長など韓国は応じられない、といったのだ。

 強い国が弱い国に対して援助したことを恩着せがましく言い立てることはとるべき態度ではない。だから日本政府は韓国の対応に沈黙を守り、「そうですか」という姿勢を貫いた。

 あのときの韓国の態度は忘恩の国だなあ、と思わせるものであった。韓国民は日本に助けられた、などということは知らされていないのであろう。知っていて国を挙げて忘恩ということはまさかあり得ない。

 それにしても日本の念押しに、にべもない拒否をした韓国が、その舌の根も乾かないうちにスワップ再開の申し入れをしてくるというのは信じられないことだが、それが韓国という国なのだろう。

 韓国では、今回も韓国が日本に申し入れをした、ということが国民に伝わっているのだろうか。またぞろマスコミは事実をねじ曲げてあたかも日本がお願いした、というように報道しかねない。

 恥知らずにもほどがあるが、悪の国の日本に対しては何をしても恥にはならないのだろう。それと、そこまで韓国は経済的に追い込まれているということの証なのかもしれない。

 プライドを持つということ、それを美学と考える日本と、そんなものが通用しない苦難の歴史を歩んだ韓国の功利的な価値観の違いを強く感じさせられる。

養老孟司・南伸坊「老人の壁」(毎日新聞出版)

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 こんな本がこの春に出ていたのだ。気がつかなかった。

 養老孟司先生は損得とは違う価値観で生きているので、普通の人と考え方が異なるところが多い。そのユニークさの故に、先生となめらかに対話するのは案外難しかろうと拝察する。損得で生きている人間には先生の論理についていくことができないからだ。

 三角おにぎりみたいな風貌の南伸坊はその点で先生と相性が良い。先入観のないところがこの人の良いところで、素直に相手の言葉を聞いているから、相づちや返す言葉は的確である。これなら先生もゴキゲンで対談できる。

 老人であることを、あれができなくなった、これができなくなったと嘆くことはやめて、もっとあるがままに楽に生きることを提唱している。そう言えばそうだった、と思い出させてもらった。

 定年を延長せず、やりたいことをやりたくて早々にリタイアしたときの、あの喜びを思い出した。人間は一生仕事に就くべきだ、という生き方もあり、それも否定しないけれど、養老先生のように、老人になったらしたいことをしても良いのだよ、といってくれるととても嬉しい。

 そんな励ましと安心を与えてもらえる本であった。

大曲の花火大会

 いつも拝見しているブログ「信夫の郷にて」のしゅうちゃんさんのお勧めがあったので、BSNHKで大曲の花火大会を見た。

 感動した。

 花火はやはり音が必要である。アンプの低音を効かせて、すこし大きめの音量にした。マンションのお隣さんには少々迷惑だったかもしれないが、勘弁してもらう。

 テレビで見る花火など・・・というなかれ。部屋を暗くして見入っていると現場にいるような気になった。それとアナウンサーが花火の打ち上げの最中にとやかく言わずに黙っていてくれたのが良かった。

 花火の素晴らしさを久しぶりに堪能した。

 花火の写真はしゅうちゃんさんの「信夫の郷にて」で見ることができるであろう。

2016年8月27日 (土)

酢ごのみ

 最古の落語の種本といわれる安楽庵策伝の「醒睡笑」という笑話集がある。角川文庫の上下巻のものを持っている。最近講談社学術文庫にも入ったようだ。高校時代に分からないなりに通読した。笑話集だから読もうと思えば古文が苦手でも読めるのだ。

 ごく最初のほうにある小咄。

「痩法師の酢ごのみ」とは、八瀬の寺は昔より禁酒にて酒を入れず。僧の中に酒をこのみ、えこらえぬあり。常に土工李(とくり)をもちて行き通ふ。もし人問ふ事あれば、「酢にて候」といふ。日を経ずかよひしげし。また問ふときも同じ返事なるまま、諺にいひならはし、やせの法師はすごのみや。

 痩せている者にしばしば信じられないほど酒の強い者がいる。その意味も掛けてあるのはもちろんであろう。

 尾籠な話で申し訳ないが、便秘と下痢が交互にあってどうも胃腸の調子が定まらない。そこで酢を飲むことにした。飲用の酢はいろいろあるが、最初から甘いのは敬遠して、鹿児島の黒酢のすこし高いのを購入した。蜂蜜をすこしだけ垂らして水で割って氷で冷たくして飲む。最初は独特のアミノ酸の匂いが鼻についたが、慣れるとけっこう美味しく飲める。

 息子が盆休みで帰省してくる前に、鹿児島へ旅行に行った。そのみやげだといっていろいろと買ってきてくれた。私は蒸留酒が苦手だが、芋焼酎とバーボンだけは好んで飲む。美味しい、くせのない芋焼酎は、息子と娘と三人であっという間に空になった。

 鹿児島のオリゴ糖入りリンゴ黒酢というのもみやげのひとつである。腸内のビヒィズス菌を増やしてくれるそうだ。今飲んでいる黒酢がなくなったら飲もうと楽しみにしている。
 そういうわけで私も酢ごのみになっている。

ゆがみ

 上向きに寝て、片足ずつ両手で膝を抱え込み、腿を胸につけてみる。左脚は真っ直ぐできて問題ない。右脚は真っ直ぐ引きつけられずに痛みがある。どうも左脚が付け根の部分から歪んでいるようだ。

 そこを重点にゆっくりストレッチをしてみる。繰り返しやっている内に次第に腰が楽になる。やはり身体が歪んでいたのだ。

 無理をしないように少しずつやっていけば、たぶん腰の痛みは解消するような気配だ。体中の筋が歪んだまま硬くなっている。それも少しずつ伸ばしていくように、ストレッチを心がけよう。

 身体が楽になると安眠できる。それにしてもここのところ睡眠時間が続けて長くなっている。ずっとこのままでは時間がもったいない気がするが、元に戻るのだろうか。寝過ぎるとテンションもあまり上がらないのが心配だ。安定化しすぎると、人間はボケるような気がする。

2016年8月26日 (金)

山本夏彦「最後の波の音」(文藝春秋)

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 帯に本文の一部が抜粋されている。

「諸君!」巻頭「紳士と淑女」の名高い匿名子の友の一人が私の旧著四、五冊を熱中して読んでいわく「なんだこの人いつも同じことばかり言ってる」。
 匿名子応えて言うには「寄せては返す波の音と思え」。友だち甲斐にかばってくれたのである。たぶん彼は文を読めと言ってくれたのだろうと私は勝手に解釈している。

 山本夏彦ではないが、私もブログで同じことばかり言っているはずだ。だってそれが私だから。

 私がいつも拝見するブログがいくつかある。そのブログを書いた人の眼で世間を見る。のぞき穴みたいなもので、そのブログを書いた人が開けてくれて見せてくれているものだ。自分にはないのぞき穴から、自分ではふだん見ることのない世界を見せていただくことは大変ありがたいことだと思っている。 

 私のブログを読む人も、私の開けた穴から私が見ている世界の一部を覗き見ている。なるたけ違うものを見てもらいたいと思っても、そもそも自分の世界など狭いものだ。よく考えれば世界を見てもらうことが目的ではなく、世界の見え方を見てもらいたいのである。それが私の自己紹介であるから。

 今回読んだ「最後の波の音」は、雑誌「諸君!」と「文藝春秋」に連載されていた文章の内、著者の晩年にあたる時期のものを抜粋して本にまとめたものだ。内容が分類して並べられているので、いっそう同じことが繰り返されたものになっている。

 それでも読むごとに山本夏彦が沁みてくる。彼に出会えたことは私の幸せであった。

模倣犯

 プロファイリングというのがしばしば話題になる。犯罪事件が起きたとき、その犯人像を推定して捜査対象を絞り込む手法のようである。

 どうして犯人像を推定できるのか。それは犯罪はしばしば、というよりもほとんど模倣犯であるからである。模倣犯であれば、すでにおこされた同様の犯罪の犯人を統計的に解析して、犯人像を推定することができるはずだという考え方である。

 特に大量殺人や連続殺人の場合には非常に有効で、アメリカでは実績も上がっているようだ。

 今回の東松山の河川敷で殺されていた少年の事件などはまさに模倣犯の典型のようである。全裸で川を泳がせた上で力尽きて溺死させたと見られている。これは昨年の中学生の集団殺人事件とうり二つではないか。下半身だけ河原の砂利の中に埋めてあったと言うが、素手では砂利を掘るのは難しいだろう。掘るための道具を用意していたとすれば、計画的な殺人である。

 相模原の障害者施設での大量殺人以後、各地の施設で襲撃に備える訓練を実施していることがしばしば報じられている。これはまさに模倣犯を想定しているからだろう。

 いまだかつてないような事件などほとんどない。それは犯罪の多くが模倣犯だからだ。そして模倣犯は必ず模倣する事件よりもよりセンセーショナルな事件にしようとする。それは模倣していることを認めたくないからで、エスカレートすることがオリジナルである証左だと思いたいからだ。

 模倣犯であるならば、予防措置が可能な場合があるとも言える。このことはとても大事なことである。起きなかった事件、阻止された事件は事件ではない。だから予防措置はマスコミの激しい非難を受ける。人権侵害だと糾弾される。そして事件が起きると、兆しがあったのにどうして防げなかったのか、と警察はバッシングされる。

 事件の発生を少しでも減らすことが何よりも優先させなければいけないことは誰にでも分かることだ。そのために、ときにプライバシーや人権に抵触する場合もある、とみんなが理解し了承しなければ、せっかくのプロファイリング手法も活かされることはないだろう。

 実際には犯罪、特に凶悪犯罪の件数は戦後から現在までずっと減少し続けているという。計画的ではなく、経済的な理由や発作的な犯罪が減っているからではないか。それでも凶悪な犯罪がかえって増えているように見えるのは、エスカレートした模倣犯による犯罪が際立つからではないか。それなら予防措置が有効である可能性はないか。

 想像に想像を重ねた物言いではたわごとだが、そのような視点から犯罪を分類し、科学的にその可能性を統計値として呈示して国民の理解を深める努力が必要な気がする。

 二度とこのようなことのないように、と責任者は常套句のように言うが、模倣犯は二度三度繰り返すものなのだ。それならばそれを想定した対策があるのではないか。

よく知らないことをいう

 気がついたらけっこうオリンピックを見ていた。熱心な応援をしたとはとてもいえないが、興奮し、感動したことも多い。

 勝敗は時の運、という。精一杯戦っても破れることもある。ときに勝利の女神がほほえむこともある。とはいえ結果がすべてである。不本意な結果に終わった選手は心中に深く期するものがあることだろう。

 ところでサッカーはなんだか不完全燃焼だったような気がする。初戦のナイジェリア戦に敗退したときの選手や監督のコメントを聞いていると、なんとなく危うい気がしたのはわたしだけなのだろうか。そのときにこれはこのままずるずると予選敗退するだろうな、という予感がした。

 そう言えば地元のチームである名古屋グランパスは鳴かず飛ばずも良いところで、サポーターの気持ちはすでに怒りに変わっていたところ、ついに小倉監督の更迭となった。どうしてこんなことになったのだろう。小倉元監督も何をどうしたら良いのかまったく方策が見つけられなかったようだ。

 それ以前に中日ドラゴンズの低迷も続いている。こちらも少し前に谷繁監督が更迭されている。なすすべが見つけられずに顔を見ていても暗かった。あれでは意気が上がらない。選手に託すと言うよりも、監督がすべてを自分の問題として引き受けすぎて空まわりしていたように見えた。

 グランパスやドラゴンズを応援している子どもたちの夏休みは、さぞ口惜しい残念な日々だっただろうと思う。

 選手たちの気持ちが前向きかどうかで実力を発揮できたり、まったくできなかったりするような気がする。リーダーが選手をその気にさせられるかどうかで結果が違うことは誰にも想像できることだけれど、ではどうするのか。応援する子どもたちをはじめとするファンのためにも新しい監督がそれに成功することを期待したいものだ。アンチジャイアンツのわたしとしては、せめてジャイアンツだけには意地でも勝って欲しいところだ。

2016年8月25日 (木)

亡霊の嫉妬

 宋の張士能の妻の鄭夫人は美人であった。張が太常博士になったとき、夫人は病死したが、臨終に際し、「あなたはきっと再婚し、わたしのことなど思い出さなくなるでしょう」というので、彼は泣きながら、「そんなことをするはずがない」と答えると、「人間の言葉など、あてになりません。それなら、天を指して誓いを立てたらどうです」という。そこで、「わしがもし約束を破るようなことがあったら、去勢された男になって、碌な死にかたはしないだろう」と誓った。
 さて夫人が、「わたしが死んだら恐ろしい形相になりますから、遺体は空室に安置し、誰にも伽をさせないように。幾日かそうしておいてから納棺して下さい」と、再三遺言して息が絶えた。
 彼は遺言どおりにするに忍びず、一老嫗をやって遺体の番をさせた。と、夜半になって屍体が顔を覆った面帛(べーる)を自分ではねのけ、ガバと立ち上がった。その姿はまるで夜叉である。老嫗は肝をつぶして大声に叫ぶ。家人が壁に穴をあけて内を覗く。そして数名の男を呼び集め、棒を手にして戸外を囲む。夜叉は室内を歩き回っていたが、やがて寝所に戻り面帛を覆って横たわる。しばらくして家人が室内に入って窺うと、それは死んだときのままの姿であった。
 それより三年して、張は鄧洵仁という高官のもとに右丞になった。鄧公はその娘を妻合わせようとするが、彼は固辞して受けない。鄧公は内々で勅旨を仰いで強いて結婚させた。彼はこれより鬱々として楽しめなかった。
 あるとき昼寝をしていると、亡き鄭夫人が窓から下りてきてその違約を責め、寝台に登ってきたかと思うと、手で彼の陰部を打った。彼は激痛を覚えて家人を呼んだが、来てみるとなんの姿もない。
 これより彼は去勢されたようになってしまった。
                   (「夷堅志」から)

 あそこを打たれる痛みは男にしか分からない。もっとすさまじいのもある。パターンはほとんど同じ。

 呉興の袁乞(えんきつ)、その妻が臨終に夫の手を取って、「わたしが死んだら再婚なさるでしょうね」と問う。彼は、「そんな気になれない」と答えたが、その後やはり再婚した。亡妻が白昼にあらわれて、「あなたは前に誓いを立てたのに、それを破りましたね」というなり、刀で彼の陰部を切った。死には到らなかったが、それっきり使い物にならなくなった。
                   (「太平広記」から)
 次のも恐ろしい。

 南鄭県の属官だった李雲というもの、長安で一妾を納れようとしたが、その母が許してくれないので、「誓って結婚はしないから」といって許してもらい、妾を楚賓と名付けた。数年して楚賓が死去。一年たつと南鄭の長官だった沈氏の娘と結婚した。
 婚礼の日、李雲が入浴していると、楚賓が薬を持って現れ、「結婚しないと誓ったのに、今度は沈家の婿になりなさる。何もありませんが、香一包みを入浴用に差し上げます」といって、粉末を湯に入れ、釵(かんざし)でかき廻して去った。
 彼はひどく不安に思ったが、身体が疲れて湯から出ることができず、ついに死んだ。肢体は綿のようになり、筋肉もばらばらになっていた。
                   (「太平広記」から)

 しかし、死んだ者が生きている者に嫉妬して危害を加えるのは、本当に相手を愛していることになるのであろうか。
そもそも臨終の誓いなど、相手を安らかに逝かせるための気休めではないのか。

 そう言えば落語の「三年目」も死んだ妻が幽霊で出てくる話だ。こちらはユーモラスだけれど。

おなぐさみに

 馮夢龍(ふうむりゅう・またはふうぼうりゅう)の「広笑府」から。

 さる男が妻を娶った。香炉が八個入った箱を携えてきた。内の一個だけは新しくて、灰の痕跡がない。わけをきくと、「七つは次々に死んだ夫を供養したもの。もう一個の新しいのは、今度の役に立てるために用意してきたもの」と答えたという。

 七人も八人も夫を死なせるような女は、その死後にはどういうことになるのか。

 おなじみの袁枝の「子不語」から。

 江蘇省句容(こうよう)県の南門外に九夫墳という墓があった。伝えるところによると、美しい女がいて、夫がいて一幼児あり、家も裕福だったので、新しい婿を迎えた。一子を生む。夫はまた死んだので前夫の傍らに葬った。次にまた一人の入り婿を迎えたが、同様に死亡し、かくて次々に九夫を迎えて九子を生み、ずらりと九つの墳墓がならんだ。やがて女も死んで九墳のあいだに葬られたが、夕暮れになると、その地に陰風が吹きおこり、夜は罵り騒ぐ声がして、あたかも互いにこの妻を奪い合うごとくであった。行人も絶え、近村でも不安なので、官に訴え出て、各墳の頭に杖三十の罰を加えたところ、それからは静かになったという。

 この世には男と女があり、生と死がある。愛憎の葛藤は生死を超えて絶えない。死んだ者が生きている者に執着を残すことでのこわい話は無数にあり、なかには凄惨な話もある。そんな話を次回は紹介しよう。

2016年8月24日 (水)

話はつたわるか?

 わたしが愛読するエッセイストの一人に山本夏彦がいる。一時期心酔して、影響を受けた。この人の文章は、分かる人には一読伝わり、分からない人には混乱を、そして誤解を与える。

 以下の文章(抜粋)を見てどうか。

 私は私の話が難解だといわれることが多いから、いつも我とわが身を疑うことにしている。どこが難解か私は聞かねばならぬ。相手はそれがどこか言うことができない。それが言えれば分ったのだからできない。私は手をかえ品をかえ迫ってようやく合点する。
--私は老人のいない家庭は家庭ではないと書く。そう言えば老人は喜ぶ。若者はいやな顔をする(ここまでは分る)。けれども今の老人は老人ではない。迎合して若者の口まねをする、追い出されるのはもっともだ。
 字句に難解なところはないが、一転し再転するところが分らない。貴君は老人の敵か身方か。ははあと私は分った。分ったけれど私は悔い改めるわけにはいかない。私でなくなる。
 
 私もときどき展開に置いて行かれることがあって読み返し、読み返ししないといけないこともあるが、おおむねすっと胸に入る。

 わかる人には分かり、分からない人には分からないことは世の常で、話が必ずしもつたわらないこと、そしてそのことの方が多いらしいことをしばしば実感させられる。

 話せば分かる、などと安直に言うな! そう言う人間ほど相手の話を聞こうとしないし、聞いていないことが多いのは不思議なほどである。

好村兼一「命買うてくれ」(徳間書店)

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 かなり切ない展開が続く時代小説。

 伊予藩士の遠山弥吉郎は、重臣に藩のためとして密命を受け、暗殺を決行する。ところがそれは仕組まれたもので、手引きされて殺した相手は他人、すべて謀略であった。妻子とともに必死の逃亡の末、江戸にやってくる。

 そこで彼と家族が出会う辛苦が物語の大半である。武士の矜持を失わないことと生きることが両立しない世界。そこでくじけそうになるとき、家族の明るさと勁(つよ)さが彼を支える。

 照る日曇る日雨の日がある。絶望の淵にいたつもりでも手をさしのべるひとがいる。貧しい故にそこにある人情の温かさを知る。ささやかながらなんとか食べることができるようになると、運が開けてくる。ようやく暮らしにゆとりが出来そうになったとき、出会ったのが自分をこの境遇に落とし込んだ藩の重臣だった。

 意地にかけて仇を討とうと思い立つ。しかしそのことが生活のもととなった仕事を失う羽目につながってしまう。そのうえこどもたちが重い病にかかってしまう。そのための借金を抱え、八方ふさがりにおちいるが、そういうときには誰も助けてくれない。

 ここで自暴自棄になっても仕方がない。ついに自力で生きる道を探し出す。特技を活かし、まだ幼い息子の助けを借りてさらに実入りのいい仕事をはじめるのだが・・・。

 こうして浮いては沈み、絶望と希望の繰り返しの中で、彼は唯一残されていた武士の矜持すら捨てなければならない事態に追い込まれる。その果ての決断が「命買うてくれ」なのである。

 あまりにつらい試練の数々にラストはすこし甘い。そうでないと読んでいる方も重すぎると作者が配慮してくれたのだろうか。

 江戸時代の、日銭で暮らしていた人々の生活は、多かれ少なかれこのようなものであったと思う。自分の不幸を嘆いていても何にもならない。覚悟を決めたとき、明かりがさすのは現代も同じではなかろうか。他人のせいにばかりして生きるひとは、人は助けて欲しいときにしばしば助けてくれないものだということを知らない。

朝寝坊

 ふだんの睡眠時間は6~7時間で、ほぼそれで十分である。8時間も9時間も眠ることはないし、だいいち眠れない。

 昨晩は11時頃に寝たのに、目覚めたら9時を過ぎていた。

 ひとにとっては特別なことでもないだろうが、自分としてはほとんどないことなので書いておく。このごろ腰が痛い。脊椎などの骨が痛いのではない気がする。姿勢がわるいことからくる筋肉や筋のこわばりによる痛みだろうか。

 わたしの本を読む姿は人には見せられないもので、かなり奇妙なかっこうで読んでいて、自分でおかしく思うこともある。重力の影響を強く受ける身体をしているので、ころがっていることが多い。重い本もあるから身体をへんてこにゆがめているおそれはある。

 腰ではなく背中が痛いのであれば、腎臓や膵臓などの内臓の疲労や異常による痛みかもしれない。その辺が自分では判別がつかない。温泉に行ってマッサージしてもらったり、整体をしてもらうとたぶんすっきりしそうだが、暑くて出かける気にならない。

 我慢できないようなものではないので様子を見ている。夏の疲労の蓄積が原因だろうか。

2016年8月23日 (火)

母性本能

 福岡で子ども四人が死に、長女を殺した罪で母親が逮捕された。四人とも母親が手に掛けたと思われる。それにしても親が子を殺す話はどうにもいたたまれない。

 澤田瑞穂という人の「鬼趣談義」という本(中公文庫)をときどき拾い読みしている。中国の膨大な数の怪異談を、テーマ別に思いつくままに語っていて面白い。

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 たまたまそのなかに、紀昀(きいん)の「閲微草堂筆記(えつびそうどうひっき)」からこんな話が紹介されていた。

 劉某の住居は六間分の室があったが、中の二間に自分が住み、東廂の一間には亡妻の棺を安置し、西廂の一間には幼児と己の妹を住まわせていた。
 ある夜、幼児が激しく啼くのに妹の声はしないので、妹はまだ台所から帰らないものと思い、こちらの窓の隙間から覗いていると、月明かりのもとに一筋の黒煙が蜿蜒として東廂の戸口から出て西廂の窓のあたりを這い廻る。幼児に添い寝していた妹が目を覚まして児をあやすと、黒煙は漸次に東廂に吸い込まれていった。
 これぞ妻の亡魂と知り、月夜には幼児の啼き声を耳にするたびに、こっそり起きて窓から覗いたが、いつも同様であった。妹にこの話をすると、妹は感激して泣いた。
「悲しいかな父母の心や。死するも尚その子を忘れざるか。人の子がその父母を追念するも、よく是(かく)のごとくなるや否や」と紀昀先生も感激している。

 人の子がその父母を追念するや否や云々はともかく、親子の情は格別のもので、怪談でさえそのような話は人を感激させるのである。

 母親が子どもを殺してしまうとはどういうことであろうか。

「閲微草堂筆記」は前野直彬訳の上下巻本が平凡社ライブラリーから出ていて、わたしも読んだけれどこの話は記憶にない。

梅棹忠夫「美意識と神さま」(中公文庫)

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 大阪万博の跡地の奥に国立民族学博物館がある。行ったことがある人はその素晴らしさをご存じだと思う。まだの人は一度訪ねてみることをお薦めする。わたしは一年おきくらいに三回行った。その国立民族学博物館の初代館長(1977-1993)が梅棹忠夫氏である。

 何冊か氏の本を読んだが、「まだ夜は明けぬか」が特に忘れられない本である。梅棹忠夫氏は突然失明した。ある朝起きて目を開けたら真っ暗である。夜中なのかと思ったら、いつまでたっても明るくならない。やがて自分が光を失ったことを知る。

 視力の喪失は私の最も恐怖することである。糖尿病の治療にまじめに取り組んでいるのは、糖尿病による網膜剥離などの視力喪失の危険を承知しているからである。

 今回読んだこの「美意識と神さま」という本は、単行本は1981年、文庫は1984年に出版された本で、ずいぶん昔に買ったのに、読みかけのまましまいなくしていた。押し入れの本を整理していたら出てきたので最初から読み直したものである。

 いろいろなところに掲載したたくさんの文章が収められている。そしてそれをどういう経緯で発表したのか、という前文がつけられていて、しかも後日の追記も一部収められている。こういう本は古くならない。戦後間もなく書かれたものから出版直前までの長期間にわたり、しかも内容も多岐にわたる。何十年も前に書かれているのにいま書かれたような新しさがある。それくらい梅棹忠夫氏が世の中を長いスパンを持った視点で眺めていたということで、全体を読むとそれがよく分かる。

 読んでいる途中で考えたことはいくつかブログに書き記した。
(「独り酒」、「計量法」、「開けたら閉めるについて再び」)
 表題の通り、著者の美意識が明確に分かり、肯くことが多い。

2016年8月22日 (月)

独り酒

 梅棹忠夫氏の「比較芸能論」という文章を読んでいたら、「独酌型の飲酒習慣が大規模におこるのは、日本の場合では、十八世紀以降のことではないかとわたしはかんがえている」とある。

 どうして芸能論に酒の話が出てくるのか。

 そもそも古代では、芸能も酒も神事に関わるものであった。ハレとケという。ごく雑に言えば、ハレとは祭、ケとは日常である。神の前に人が集まり、日常にはない精神の高揚状態になるのが祭であり、そこに芸能は奉じられる。酒はその高揚状態をもたらすものであろう。

 祭は独りでするものではない。

 十八世紀以降というのは、酒が大量に生産できるようになり、個人が消費することが一般化した時代ということである。そして芸能も大衆が楽しむものに変わっていった。

 詳しいことは梅棹忠夫氏の文章を読んでもらうとして、独り酒のことである。 

 わたしは気の合う相手と飲む酒が好きである。しかしいつもいつも相手がいるはずもなく、ふだんは独りで飲む。細君がいて、彼女に話しかけながら飲めば、それはもう独り酒ではない。酒とつまみを前にして無言で飲むのが独り酒である。

 会話は酒の美味しさを引き立てる。無言ではハレにはならず、酒は本来のすばらしい力を発揮しきれない。仕方がないから、その淋しさを肴に飲む。慣れたらそれも味わいである、などと負け惜しみを言おうか。

主語がない

 先日、弁護士に「Oさん(わたしのことです)は、主語がない言葉遣いをするので相手にこちらの意思が伝わりにくい」と言われた。

 主語がないと、意味があいまいになると同時に、ことばの強さが損なわれるのだそうだ。つまり誰が誰に言っているのか不明確になり、相手の勝手な解釈を生み出すことをゆるしてしまうことになるらしい。

 なるほど、法律家らしい指摘である。

 西洋のことばには必ず主語があるのと違い、日本語には主語がなくても通じるところがある。それだけあいまいなことばだとも言われる。西洋のことばは日本語と違って論理的で、意味を明確にすることにこだわる。ただ、これは優れているとか劣っているとかいう話ではなく、文化的な違いによるものではないかと思う。

 ただ、交渉ごとなどでは、誤解や言い逃れを避けるためにことばの厳密さが必要で、それを日本的感性で行うと間違いが生じるということなのだろう。

 わたしはそういう意味でとても日本的なのかもしれない。そしてそのことを弁護士に指摘されて初めて知った。わたしはしばしば理屈っぽいと言われてきたので、最初心外であったが、よく考えると思い当たることがなくはない。

 どうしてこんな誤解を受けるのだろう、と思ったことが何度かあった。それはたぶんわたしが言ったことばに、相手を非難する匂いを感じて不快に思われたからではないか。たいていそういうときは自分のことを自嘲的に言っただけで、相手に対して含むところはなかったはずなのだが、皮肉と受け取ったのだろう。

 わたしと親しい人たちは、たいていわたしのことばが普通に通じている。親しくなれなかった人たちは、たぶんわたしに足らないところがあったからにちがいないが、ことばに理由があったことも多いのだろう。ただ、この歳になって、いまさら主語を明確にして親しくする人を増やそうと努力しようという気にはならない。

 そんな努力なしに、今のまま親しんでくれる人たちとの交友で十分に幸せである。話が普通に通じるのだもの。

誉田哲也「ブルーマーダー」(光文社文庫)

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 池袋の雑居ビルの空き室で服役を終えて出所したばかりの暴力団の組長の惨殺死体が発見される。滅多打ちにされ、全身の骨が折られていた。鉄パイプのようなもので殴られたように見えるけれど、それでは説明のつかないところもあり、どんな凶器が使われたか分からない。

 この凶器について、犯人が凶行に及ぶ際に何度か言及されるのだが、具体的によく分からない。最後の最後にはっきりとイメージがつかめるような説明がある。これは読者を引っ張っていくための著者のしつらえた謎なので、わざとあいまいな描写をしているのだろう。

 この死体発見に続いて、半グレ集団(暴走族上がりの組織の形態の違う犯罪者集団)のOBと不良中国人が同じような惨殺死体で発見される。この犯行の目的は何か。警察は総力を挙げて情報収集に努めるとともに、組織どおしの疑心暗鬼から起こる報復合戦を厳重警戒をする。ところがそれぞれの組織集団にはまったく動きがない。なにかに脅えているように。

 それにしてもこのような殺し方はすさまじい。この凶行シーンを書きたいために、著者はこの小説を書いたのではないか。

 主人公は池袋所の刑事・姫川玲子。「ストロベリーナイト」から続くシリーズは前作の「インビジブルレイン」で壮絶な結末を受けて一度ピリオドを打った観があった。その顛末の責任をとって警視庁本部の姫川班は解散し、彼女は池袋署に転属となっている。

 この池袋の連続殺人事件の犯人像が、過去と現在を前後させながら次第に明らかにされていく。犯人の動機はしかし、なかなか得心のいくものではない。犯罪とはそういうものだといえばそれまでだが、そこのところがこの凶器と殺し方を書きたいためにこの小説を書いたのではないか、とわたしが言う所以である。

 主人公のキャラクターが魅力的で面白い小説だが、かなり殺しのシーンがすさまじいので、そういうのが苦手な人はつらいかもしれない。

2016年8月21日 (日)

前から考えていることですが

 人間ばかりでなく、生き物にとって水は生存に必須のものである。ところが世界は砂漠化している。地球上に水がないわけではない。地球には海水という膨大な水がある。しかし地上の生き物は海水をそのまま摂取できない。

 アフリカなどでは海からすぐ近くにある砂漠もある(例えばナミブ砂漠など)。この海水をくみ上げてパイプで内陸部へ送り込み、砂漠に散布するか、低いところにため込んだらどうだろうか。乾燥し、高温で太陽が照りつけるなか、たちまち海水は干上がるであろう。海水には大量の物質が含まれている。多くは食塩であるが、それ以外のあらゆる物質がそこに蓄積される。それを工業的に利用できるであろう。

 本来の目的は太陽熱による水の循環促進である。砂漠で気化した水蒸気は雲となり、雨となって降り注ぐ。海上に降るのはもったいないから、出来れば地上に降るような風向きの場所を選ぶと良いだろう。

 海水をくみ上げて砂漠に送り込むエネルギーは、出来れば太陽光発電によれば一石二鳥である。しかもそれは砂漠をすこしは冷やすことにつながるから、地球温暖化を食い止めることにもつながる。

 それらすべてを考えれば、このプロジェクトは人類にとって、そして地上の生命にとってとても有用なことではないか。ここにこそ世界が協力することが可能なテーマがあるのではないか。

 こんなことすでに誰かが考えているはずだと思うけれど、いつまでたってもそんな話が聞こえてこない。良い考えだと思うのだけれど。

計量法

 これも梅棹忠夫氏の本を読んでいて考えたこと。

 梅棹忠夫氏が計量法について問われて文章を書いた。メートル法を基準とすることを決めた際に、計量法で尺貫法を使用することを国家が罰則まで適用して禁止したのは行きすぎではないか、というのが氏の意見であった。

 メートル法は地球を基準とした単位であり、尺貫法は人間の身体を基準とした単位であるという。ときに尺貫法のほうがなじみやすいこともある。職人仕事には尺貫法でなければ困ることが多い。

 母は洋裁も和裁もしたが、特に和裁が得意であったから、尺や鯨尺の物差しを持っていた。それを弟とチャンバラの刀にして遊んだものだ。ところが計量法によって尺貫法の物差しは作ることも売ることも禁止され、それに違反すると摘発されることになった。

 私達が傷めてしまった物差しを、母は新しく買い換えることが出来なくなった。母はその物差しを宝物のように大事に使い続けた。

 そのことを思い出したのである。

 梅棹忠夫氏はメートル法に反対したのではない。公的な単位をメートル法にすることには煩雑さをなくすという意味でむしろ賛成なのである。ただ、尺貫法も必要な人がいるのだから摘発してまで禁止することは行きすぎではないかと書いたのだ。

 梅棹忠夫氏とはべつに、当時永六輔たちが同様のことを言い、自ら尺貫法の物差しやはかりを手に入れて必要な人に販売するという運動を起こした。もちろん摘発覚悟である。というより摘発されることで話題を盛り上げ、行き過ぎを告発しようとしたのだ。

 尺貫法の物差しを販売したとして、地方のお店が摘発され続けたのに、永六輔はついに摘発を受けなかった。騒がれるのがまずいと判断したのだろう。地方のお店の主人は計量法の意味がよく分かっていなかった。永六輔は分かってやっていた。それに対する法律の適用の異常さを感じるところだ。

 その後あまりに批判が大きくなったことから、メートル法との併記のものならば許可されることになった。つまり暗黙に行き過ぎを認めたのである。併記されているといっても尺だけ使えば尺貫法を使用していることと同じことである。

 もちろんすべての公的文書には尺貫法の単位は使用が許されない。ところがヤードやフィート、ポンドが公的文書に登場することがあるという。このことはどういうことなのか?尺貫法を撲滅することこそが正義だったのだろう。これは漢字排斥論者の論理に似ていることを梅棹忠夫氏も指摘している。漢字をなくすことなどあり得ないことだろう、と梅棹氏は言うが、韓国は漢字を禁止し、ハングルに統一した。

 梅棹忠夫氏の文章に対して当局の役人が専門誌に激しい非難を浴びせた。その批判はメートル法をやめて尺貫法に戻せなどという暴論は許しがたい、というものだった。

 梅棹氏はメートル法をやめろなどと言っていない。メートル法に統一することは合理的であると最初から認めている。ただ、必要なこともあるのだから、尺貫法も場合によって使用を認めても良いのではないか、摘発してまで禁止するのは行きすぎではないか、と問題提起しているのである。 

 わたしにはこのように文意をまったくくみ取ることが出来ずに非難する人がある意味で恐怖である。突然矛先が向いてきた経験もある。自分が正義である人の思い込みはときに愚かだが、それだけにその怒りには止めどがない。触らぬ神にたたりなしで除けて通る方がいい。梅棹忠夫氏もあえて反論は控えたようだ。そもそもそういう人に、反論の文意をきちんと読みとってもらえる可能性はほぼないのだから。

誉田哲也「歌舞伎町セブン」(中公文庫)

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 私はこの本はハードボイルドではないと思う。もちろんこの本を典型的なハードボイルドではないか、と思う人もいるだろう。

 新宿歌舞伎町のダークサイトを描き、そしてその過去を追われる男がいる。

 歌舞伎町が舞台のダークサイドを描いた小説といえば、馳星周の「不夜城」、「鎮魂歌-不夜城Ⅱ」、「漂流街」が思い出される。これは紛れもなくハードボイルドだろう。主人公の置かれている状況が似ているところもある。
 
 ただ、馳星周の小説の主人公が、とことん虚無を貫いた末の、どうしても捨てきれない人間性に苦しむのに対して、この「歌舞伎町セブン」では、帯にあるように「ダークヒーロー」なのである。

 ハードボイルドは男の美学である。その美学は主人公の考える美学であり、ときに社会から逸脱するが、それに共感できれば読者にとっても美学となる。

 ただ、ハードボイルドと相性がわるいのが正義である。「ダークヒーロー」はダークだがヒーローなのであり、正義を口にする。そうなると「必殺仕事人」と同じである。

 「必殺仕事人」は池波正太郎の「必殺仕掛人」から派生したものであるが、「必殺仕掛人」の藤枝梅安は、「必殺仕事人」の中村主水のように正義のためにひとを殺しているのではない。藤枝梅安は彼だけの美学を貫いているし、自分の行為の正当性についての同意を求めることは決してしない。それがハードボイルドなのだと思う。

 そう言えば主人公が最後に殺す相手が、「必殺仕掛人」の最高傑作の殺す相手と似ている。具体的にいうとネタばらしなので言わないが、読んでいればいやでも分かる。

 わたしがハードボイルドと思わないからといって、この本が面白くないと言っているのではないので念のため。とても面白いから読み始めたらやめられなくなって、夜更かししてしまった。

 「歌舞伎町セブン」に記憶があったので一度読んだのだろうかと思ったが、同じ著者の「ジウ」シリーズ、第三作「ジウⅢ 新世界秩序」にその名が出ていたらしい。どんな言及がされていたのか忘れているが。

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 じつは誉田哲也の新作「硝子の太陽N」を買ったら、帯に「誰が歌舞伎町セブンを売ったのか?」とあって、この「歌舞伎町セブン」を読むことにしたのだ。

 このあとにさらに「歌舞伎町ダムド」という本があることも知った。これも探してきて読まないといけない。そう言えば「歌舞伎町セブン」には物語が続くことを暗示するところがラストにあった。それを読まないと「硝子の太陽N」がいつまでも読めないではないか。

2016年8月20日 (土)

開けたら閉めるについて再び

 子どもが小さいとき、わたしが親として口ぐせのように言っていたのは「開けたら閉める」ということばであることは以前書いた。これのサブとして「脱いだ履き物は揃える」というのもある。同じことだ。

 もうひとつ、「出したらしまう」というのもあったのだが、自分が出来ないことを子どもに言っても逆に突っ込まれるだけなので、途中からあまり言わなくなった。それはいま自分自身に言い聞かせている。

 本を読んでいたら「下司(げす)の一寸、上(じょう)ぴたり、下々(げげ)の下等(げとう)はあとをかまわず」という歌があるのだと知った。戸やフスマの行儀をよんだもので、「ぴたり」としめるのが一番上等なのだが、行儀のわるい人は、あと一寸というところで、最後のしまりをしない、あとをかまわずあけっぱなしというのは、もはや論外であるという。

 出入りしたあとの戸をきっちりしめるということは、昔は、社会生活におけるもっとも基本的な行儀の一つであったと、この文章を書いた民俗学者であり、文化人類学者である梅棹忠夫氏がまとめている。

 この意味での「下司」や「下々の下等」にしばしば遭遇する。電車の通路のドアや飲み屋などの部屋の出入り口のそばにいたりすると、繰り返しその後始末をさせられて腹が立つ、と梅棹氏が書いていて、わたしも同じ経験をして不快な思いをすることがしばしばなので笑ってしまった。 

 いまは自動ドアがそこら中にあるからうっかりすることがあるかもしれないが、そもそも自動ドアでなければ自分で開けたはずなので、それでもきちんとしめないのは、もともとしめるようにしつけられていないのだろう。そういうのはおとなとはいわない。

 些細なことなのだが、人間の基礎的な部分に関わる大事なことでもあるとわたしは思うが、大げさだろうか。

故郷

「故郷を出て故郷が見え、失って初めてその価値に気づく」と星野富弘さんが書いていた。

 車寅次郎はしがらみを捨て家族を捨てて、旅にさすらう生き方を選んだ。しかし彼は故郷を捨てたはずなのにその故郷の葛飾柴又に戻った。

 故郷を離れて、心に故郷を思いながら故郷に戻れない人々が、寅さんの帰る葛飾柴又にふるさとを感じる。寅さんの旅する、どこか懐かしい場所にふるさとを感じる。

 その故郷は現実の故郷なのだろうか。いま故郷は大きく変わってしまい、古い記憶の故郷などほとんど残っていない。寅さん映画を作るために、スタッフが必死で記憶のふるさとといえるような景色を探し求めて、ようやく映像に切り取った光景があの懐かしい故郷「のようなもの」である。

 多くのひとは故郷を離れたが、戻りたくても故郷はすでに失われていて、そこへ行っても記憶のままの故郷はすでにない。

 寅さんの訪ねる柴又もまた地元の努力のお陰で残されているとはいえ、やはり映画のイメージを損なわずにおくための、作られた故郷ではないか。

「故郷を出て故郷が見え、失って初めてその価値に気づく」ものだけれど、故郷を離れたから故郷が失われたのではなく、故郷そのものの多くがすでに失われているのかもしれない。

「ふるさとへ廻る六部は気の弱り」と藤沢周平は書く。

 車寅次郎は捨てた故郷になぜ戻ったのか。なぜ捨てたはずのしがらみにからまりに戻ったのか。寅さんに気の弱りが忍び込んだからだろうか。

 故郷に戻れば、家族をはじめとして現実の社会とのしがらみがそこに待っている。蜘蛛の巣のようなしがらみに絡まってもがきながら、彼は「奮闘努力」する。それはもがけばもがくほど回りに迷惑を掛けるだけの結果となる。もがけばもがくほどがんじがらめになるのが現実だが、しかし寅さんはするりとそこから逃れ出す。

 捨てたはずの故郷を旅先で思慕していたけれど、その故郷の現実に触れれば、自分の思っていた故郷との違いと重さに気づかされる。そのときあの「とらや」の面々だからこそ懐かしく思い出されるのだろう。実際にはあんな善い人たち、寅さんを迷惑に思いながらも同時に心から心配してくれる人などいない。すでにあんな人情などふるさとと同様すたれかけている。

 寅さん映画を観ると好い気持ちになれるのは、実際にはない故郷と、実際にはいない善い人たちを見ることが出来るからなのだろう。

 そしてそれを見るためにわたしは旅に出かけ、そこに現実を越えた自分の見たい幻像を見ようとしているだけなのかもしれない。 

 寅さんのさすらいの旅の寂寥をちょっとだけ味わい、失われた故郷のかけらを探す。それは中国の雲南省の僻地にも、西安や上海や台北の裏道にもあった。そしてそれはわたしの見たくて見ただけの幻なのだろう。

あこがれる

 今年の8月が渥美清が死んで丸20年、NHKBSで寅さんシリーズの一部を放映しているけれど、それ以外にも特集番組をいくつか放送していた。それぞれいろいろな思いで見たけれど、1995年の『渥美清の“寅さん”勤続25年』という番組が印象に残った(録画したものを今日観た)。全48作のうちの47作目の撮影に同行しての記録やそれ以外の映像、渥美清に対するインタビューなどが収められている。

 渥美清自身が寅さんについて語っている。

「この映画を観た男の人のうちの、すくなくない人が寅さんのような、家族とのしがらみもなく、社会の縛りもなく自由に生きる生き方にあこがれたでしょうね。実際にはそんな生き方はなかなか出来ないですけれど」というような意味のことを語っていた。

 自由に生きるということは、ときにひどく厳しく、そしてさびしいものであろう。野垂れ死にも覚悟しなければならないかもしれない。世間のしがらみから自由であることと引き替えに出来るほどうらやましいことかどうか分からない。だから人はあこがれるけれど、寅さんのようには生きない。

 寅さん映画には日本各地の古い、日本らしさの残る場所が寅さんの旅先として必ず描かれる。そこはどこか懐かしい。そのなつかしさと人の温かさとがじかに映画から伝わってくるのは、寅さんがさびしい人だからではないかとわたしは思っている。

 さびしい気持ちは心を繊細にする。あたりまえに見過ごす景色や物音が、寅さんのさびしい心の眼を通すと、その美しさ、なつかしさが際立つ。映画は忘れてしまっていたそんな景色を感じさせてくれる。

 寅さんがあれほどマドンナに恋い焦がれるのに、マドンナから慕われるとほとんど峻拒してしまうのは、女性と結ばれて関係が出来てしまえばそこにしがらみが生じてしまうからで、そうすれば寅さんは寅さんでなくなってしまう。

 渥美清が田所康男としての自分の家族を決して公にしなかったのは当然だと思う。

 このドキュメントを観てわたしが思ったのは、定年退職して一人旅をしている自分の気持ちの有り様が、どこか寅さんに影響されているということだ。だから景色のすばらしいところも良いけれど、特に思い出に残っているところは日本らしさの残る風景のような気がする。

 寅さんの映画はすべてブルーレイディスクにコレクションしてあるが、まだ三分の二ほどしか観ていない(特に後半に観ていないものが多い)。もちろん五回以上観たものもあるけれど。これをあらためて旅のガイドブックとして見直すというのも良いかもしれない。ずいぶん時間が経っているから同じ景色は望めないだろうけれど、その変化を見るのも一興であろうか。   

 あこがれはそんな形でかなえられる。それはとてもありがたいことなのだと思った。

2016年8月19日 (金)

オバマ大統領が中国を訪ねるらしい

 少し前のブログで、習近平国家主席がオバマ大統領に首脳会談を要請したらしい、と書いた。そのような情報があったからだが、そのときは習近平がアメリカを訪問するように受け取っていた。しかし実際に決まったのは、9月はじめにオバマ大統領が中国を訪問して首脳会談をすることのようだ。

 中国は経済的にも外交でも追い込まれる立場にあり、巻き返しに躍起のようである。習近平は打開のための点数稼ぎを模索しているところだろう。大統領選挙前のオバマ大統領と会談しても、特段の成果があるとは思えないが、もしかしてウルトラCがあるかもしれない。

 それが北朝鮮の金正恩排除とTHAAD配備撤回を天秤にかけた提案である可能性はまだ残っているのではないか。

 もしそんな提案があったら、オバマは受け入れるのだろうか。

 金持ちは続々と海外へ逃亡したり資産を国外に移していて、中国の外貨は公表されているより目減りしているのではないかといわれる。当然元安が進むことになるが、そのことで輸出が楽になるはずなのに、輸出は減り続けている。いろいろな要因で中国全体の資産が減り続ける方向にある。そうして中国経済が落ち目になると生活にも悪影響が出るから、国民の不満のエネルギーがたまる。

 中国の体制批判に対しての情報管制と批判者に対する拘束はエスカレートしているようだ。今中国にいる外国人も次第に自由がきかなくなるような気がする。

 尖閣周辺海域への波状的な漁船や艦艇の侵入は、経済不安から国民の目を逸らすためにエスカレートしていくかもしれない。不測の事態が起きないか心配である。 

 なんだか次第にきな臭くなっている。

 中国は輸出重量は伸びているのに輸出額は減っている。つまりダンピングによる廉価販売をしているということだ。だからアメリカやEUからダンピングに対する制裁課税が次々に掛けられはじめた。中国は多くが国営企業だから安値販売をしても会社がつぶれことは、ほとんどない。国営企業がつぶれるのは、つまり政府がつぶれるときである。そこまで突っ走るつもりなのだろうか。

川合章子「あらすじでわかる中国古典『超』入門」(講談社+α文庫)

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 「『超』入門」と言いながら、中国の古典にほとんど予備知識がないのにこの本を読んでも、中国の古典の概観がつかめる、というわけにはいかない。中国には膨大な書物が遺されているから、全体を一気に語るのは詳しく論じるよりはるかに難しい。

 ただ、「『超』入門」であろうが「入門」であろうが、そういう本を読もうと思う人は多少興味があるからこういう本を手にするので、それで良いのだろう。

 例えば「三国志」や「水滸伝」を知って、ほかにどんな本があるのだろうか?と思ったときなどには参考になるかもしれない。

 それにしても詩から論語、諸子百家、史記、山海経(せんがいきょう)、西廂記(さいしょうし)、三国志演義、水滸伝、西遊記、金瓶梅、封神演義、聊斉志異、儒林外史、紅楼夢、児女英雄伝、三俠五義などが、たった200ページあまりで一気に紹介されると、頭が混乱する。本の中身の重さの見当がつかめないのだ。

 まず面白そうな本を一冊手に入れて分かるところから飛ばし読みしてなじんでいくのがいちばんだ。初心者にとって、この本がその手がかりになるかどうか。

 魯迅の中国小説史を読んでいる途中なので、それと並行して、概観をもう一度おさらいをするのにすこしは役に立つかと思ったが、物足りなく感じた。

やさしすぎる?

 思いがけないことを言われた。弁護士先生によれば、わたしはやさしいそうだ。もう少し厳しくきつい言葉を言わなければ相手に伝わらないこともあるのだという。脇にいて歯がゆいそうだ。

 自分ではずいぶん感情的な物言いもしたし、きつい言い方だったと思ったのに、やさしいすぎるとは・・・。

 でも相手が傷つくかもしれないことを計算ずくで言うなんて私にはできない。なぜ出来ないのか。やさしいからではない。そういう無神経さが嫌いだからだ。わたしは同じことを他人に言われたら、腹は立つけれど案外傷つかない。それは営業という仕事をして鍛えられたから受け流すことが出来る。

 そしてそういう言い方をする人を心の中で軽蔑してきた。だから私はできるけれどしない。それで損をするなら仕方がないではないか。

 損をしても自分で承知していれば笑えるときも来る(はずだ)。

 我ながら甘いなあ!

2016年8月18日 (木)

疲れた

 本日の用事が思ったよりも早くすんだ。うまくいったのではなく、まったくらちがあかないので切り上げたのだ。

 たぶん記憶にあるなかでもっとも話がかみ合わない思いをした。

 最初から期待が薄かったけれど、もしかして何らかの進展があるかもしれないとひそかに希望を持ってもいた。それが粉微塵に打ち砕かれてしまった。心の底から萎えてしまったけれど、却ってさばさばした気もする。

 わたしの妻はもう私の知っていた妻ではなかった。もう関わりたくない。

 今晩はやけ酒にならないように、馬鹿話と互いの自慢話をしながら弟と一杯やり、明日朝早く名古屋に帰ることにする。自分を建て直してブログをまた再開するつもりだが、さて、大丈夫であろうか。考えてもしようのないことはしばらく放っておくことにする。

山口瞳「わたしの読書作法」(河出書房新社)

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 この本は読書論に似て、読書論ではない。だから「読書作法」である。本を読みたい、読まなければならぬ、と思いながら新聞や雑誌を何種類も揃えてそれを丁寧に読んで日が暮れる。本をじっくり読む時間がない。活字中毒者であることでは人後に落ちないと自負する著者の悩みが書かれている。

 著者の山口瞳が心底敬意を持って「先生」と呼ぶのは高橋義孝である。ドイツ文学者で大学教授でもあった高橋義孝は、内田百閒の衣鉢を継ぐエッセイストとしても知られる。わたしの叔父に熱狂的な高橋義孝好きがいて、自分の息子に義孝と名付けた。そのエッセイはひょうひょうとして簡単に書かれているようだが、じつは推敲が重ねられていることは内田百閒と同じである。そしてさらにその高橋義孝の薫陶を受けた山口瞳がその影響を受けていないはずはない。

 この本もそういう意味ではまさにエッセイである。そして彼が直木賞を受賞した「江分利満氏の優雅な生活」は、小説というよりエッセイに思えた。

 ただ、この本は単行本に未収録の文章をまとめたものなので、長短入り交じり、しかも項目立ても難しい雑多なものになっており、当然統一性に欠ける。本人が生きていれば、一つにまとめるときにいろいろ手を入れたかったであろう、と拝察する。

 山口瞳は1995年に物故。

2016年8月17日 (水)

おとなになったどん姫

 一昨日は息子と娘が帰省して三人がそろったのだけれど、どん姫は仕事で夜遅くなり、わたしは息子とすでに出来上がってしまって、ちゃんとどん姫の相手が出来ず、食べるものもあまり残っていなかった。作るための材料はあったけれど、もう料理を作る元気もない。どん姫は勝手に酒を飲んでつき合ってくれたけれど、すまぬことをした。

 そこで今日になって仕事が終わった頃合いに、娘のどん姫に「ごめんね」のメールを入れたけれど、何の返事もない。

 怒っているのかな、と心配していたら、夜遅くに「近いうちにまた行くよ!」とメールが返ってきた。とても嬉しい。こちらの気持ちがちゃんと分かるようになったのだ。いや、もともと分かっているけれど、わざわざメールを返すことなど決してないのがどん姫である。

 それがメールを返してくれたからとても嬉しい。いま千葉の実家に再び来て、弟と飲んで出来上がっているのでちょっとくどい。申し訳ない。

 明日があるので飲むのを控えようと思ったのだけれど・・・。

 バカ親父は元気が出た。

I MISS YOU.

 愛しているということの原点は「I MISS YOU.」だと思う。このことばを知ったとき、英語もいいところがあると思った。

 あなたがいてくれてうれしい、あなたがいなかったからさびしい、あなたはわたしにとってかけがえのない存在である。

 そういう意味が「MISS」に込められていると勝手に解釈している。

2016年8月16日 (火)

休むかもしれない

 明日、行ってきたばかりの千葉に再び行く。昨年来の懸案事項にひとつのけじめをつけるのが目的である。そのことがしばらく前から心の中にわだかまっているのだが、これで区切りとしたいと思っている。

 自分の思い通りの進展の可能性は低そうである。そろそろあきらめるしかないものはあきらめようと考えている。いつまでも堂々廻りををしていては精神に不健康である。

 そういうわけで、そのことに集中するために、二三日ブログを休むかもしれない。ゆとりがないとブログは書けない。

 何のことやら分かりにくいが、うまく説明できるようになったら書き留めることがあるかもしれない。

2016年8月15日 (月)

仁木英之「三舟、奔る」(実業之日本社)

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 幕末の三舟(さんしゅう)といえば、山岡鉄舟、勝海舟、高橋泥舟の三人で、歴史に名を残す傑物たちである。彼らは互いに深い関係にあった。

 山岡鉄舟が死期の近いことを悟り、訪ねてきた勝海舟とともに自分たちの青春時代の回顧談を語るという筋立てになっている。話はまだ三人がほとんど無名の時代のことである。安政の大獄より以前のことであり、尊皇攘夷などまだ叫ばれていないが、しかし世の中は不穏な空気が漂いはじめている。

 当然この物語には若き日の清河八郎も登場する。ほんの少し清河八郎にこだわっているところなので、三舟に興味があるというより、清河八郎がどう扱われているか知りたくてこの本を手にした。

 残念ながら清河八郎の狷介さ、倨傲さがデフォルメされていて、たぶんそれは実像に近いのかもしれないが、わたしの心情とはかなり隔たりがあるのは残念だった。山岡鉄舟と清河八郎は友人であり、虎尾の会という有志の集まりに名を連ねている。そして新撰組を募集するときも、一緒に幕府に働きかけている。

 だからこの本に書かれているような清河八郎と山岡鉄舟の間柄はすこし違うと思う。この物語のあとに親しくなったのだろうか。

 著者の仁木英之は中国が舞台のファンタジー小説「僕僕先生」のシリーズの著者で、その他にも中国が舞台のものはみな必ず読んでいる。今回読んだこの本はそういう意味ではまったく毛色が違っている。

 残念ながら、傑物である三舟のキャラクターがうまく描かれているとは思えない。まったく架空の人物を使って同じ物語を語ったら、そのほうが面白かったのではないか。

 この本には書かれていないが、山岡鉄舟は最期に座禅を組んで、そのまま息をひきとった。

施餓鬼

 今日は、今年が新盆の家族の代表がお寺に集まって施餓鬼供養をする。わが家は弟と私が出席する。菩提寺の住職は、寺を三つ掛け持ち、しかも大学教授でもある。かなり高名な人で、法話も面白いが、長い。

 それが済み次第名古屋に帰る。息子が広島から帰ってくるのだ。昨晩は弟と飲み過ぎた。たぶん今夜も息子や娘と飲み過ぎるだろう。三人がそろうのは正月以来だから久しぶりで、とても楽しみだ。渋滞がなければよいのだが。

長谷川慶太郎「世界大激変」(東洋経済新報社)

「次なる経済基調が定まった!」そうである。

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 この本は今月11日発刊されたばかりで、たぶん原稿が書かれたのは6月末から7月はじめと思われる。その時点で著者が入手できていた情報をもとに世界がどうなるか(いつものことだが)すこしデフォルメして予測を語っている。

 トランプ現象やイギリスのEU離脱決定、中東情勢、中国の内情が分析されていく。すべての現象は、世界がデフレ状態であることによる必然的なものだと言う。なぜデフレなのか。それは世界が大きな戦争が二度と絶対に起こせないようになったからだと解く。

 そもそもインフレは戦争に伴って起こる経済現象であり、戦争がなければ必ずデフレになるのが歴史的必然だというのだ。そこから世界を見直さなければならない。そこから見える直近の世界は、さもあらん、ともいえるし驚きでもある。それはこの本を読んで楽しんで欲しい。

 日本についてのいくつかの見通しや分析で注目した点だけを特に取り上げたい。

 日銀のマイナス金利導入である。日銀の黒田総裁は2%程度のインフレへの誘導を約束している。そのための方策としてマイナス金利という禁じ手を使ったと激しい非難をする向きもある。確かにどんな手を使っても今のところインフレ誘導はまったく成功していない。那須金利をさらに強化してもたぶんインフレにはならないだろう、と著者は見る。

 そしてそれは黒田総裁もたぶん承知しているだろう、というのだ。マイナス金利にはじつは隠された別の目的があるにちがいないと読む。

 すでにメガバンクは多大な困難を乗り越えてほぼ三行に統一された。多くの支店がなくなってしまった。重い負債を解消して身軽になり、その内容は劇的に改善され、いまもっとも資産が豊富な銀行に変貌した。世界中の大企業が投資のための巨額資金を日本のメガバンクに頼っている。そのような巨額の資金需要にこたえられるのは日本のメガバンクしかないのだそうだ。

 EUはギリシャをはじめ多額の債務を抱え込んでいて余力がない。アメリカはリーマンショックの傷がまだ完全には癒えていない。中国は赤字垂れ流しの国有企業の債務を抱え込んで内容がどんどん悪化している。これから地方の債務(国有企業の債務とうらおもてでもあるが)も激増するとみられるから余力など全くない。その中国にEUは頼ろうとしてAIIBに参加したが、内情が分かりだして今中国に背を向けだしている。

 話がくどくなった。

 だからメガバンクはマイナス金利でもびくともしない。しかしそれ以外のすべての日本の銀行、そして農協(農林中金)、生保はほとんど体質改善のための合理化が進んでいない。これを進めなければ日本経済の脆弱さは改善されない。

 日銀のマイナス金利はこれらの金融機関を直撃する。日銀に金を預けるだけでぬくぬくと生きのびてきた金融機関は、必死で投資先を見つけないと生きのびることができなくなった。これからそれらの金融機関の統合が進んでいくだろう。現にそれが進んでいるのも見えている。

 ここに最大のターゲットである農協にメスが入るチャンスもある。時代の変化を無視して不合理きわまりない状態に納まり返っている農協が、体質改善を迫られる。それが第二の農地解放につながるかもしれない。現に農協が抱え込んでしまっている耕作放棄農地がどれほど多いか、農協は明らかにしない。明らかにしたとたんにそこからの農協改革が迫られるのが分かっているからだ。農業を護ると言いながら、じつは自分たちの保身存続だけを考え、かえって農業の体質改善を遅らせて、農業を損なってきたのが農協である。

 そこが安倍首相の言う岩盤の一つであろう。

 さらにマイナス金利は、ため込まれて塩漬けになっている企業の巨額の内部留保を動かすためにも作用するはずである。個人の預金はマイナス金利をつけることが出来ない。そんなことをすればだれも貯金なんかしない。みな銀行から引き下ろすだろう。しかし企業の貯金にはマイナス金利をつけることがあり得る。すでにヨーロッパのマイナス金利を実施している国ではそうしている。これは強制的に金を回すことにつながる。貯金していても資産が減るなら、企業は新たな投資に動くか、給料を上げることになるだろう。

 それこそがマイナス金利強行の隠れた目的であるというのだ。

 面白いなあ。それを意図してかどうか知らないが、そのようになったら、世の中は少し良いように動くかもしれないではないか。

2016年8月14日 (日)

森本哲郎「サムライ・マインド」(PHP研究所)

 侍精神は日本人の精神的支柱であった、という論が展開される。「あった」のであれば、いまはないのか。本当に「あった」のか。それはいつからで、いまはどうなのか。

 「サムライ・マインド」は万人が等しく持つようなものではないが、日本人にはなんとなく分かるもので、外国人にはそれが日本人に対する理解の難しさと、若干のリスペクトを感じさせるものでもあるだろう。

 まず幕末の武士階級がなくなっていくなかでの喪失感から、失われたものはなにかが問われる。次いで突然「ドン・キホーテ」の騎士道が武士道との対比で語られる。もちろん「ドン・キホーテ」は騎士道をカリカチュアしたものだが、その裏にはセルバンテスの「騎士道」に対する強い思いが込められているという。さて騎士道の精神的支柱とは何か。そこに著者はキリスト教を見る。

 では「武士道」の精神的支柱である「サムライ・マインド」は何に支えられているのか。そこから「葉隠」の必死の美学が説明され、そして芭蕉の「不易流行」の意味が語られる。

 続いて、中国宋の時代の「士太夫」のエートス(後天的に形成される性格、気質・ある意味で品位のことか)が対比される。時代の要請による朱子学の登場、そのモラルとルールは武士道に似ていなくもない。士太夫の精神はある意味でスノッブなエリート主義でもあるが、英国のジェントルマンでもあるエリートのノブリス・オブリージュ(高い身分にはそれに伴う義務を負うという自覚)の精神と相通じる。宋の時代の中国の情勢を語りたいが切りがないのでやめておく。

 さらに続いて、朱子学、それを美学の基本に置いた徳川幕府と、日本の知識人達の系譜が語られる。山鹿素行、太宰春台、大原幽学、貝原益軒、宮本武蔵、沢庵禅師、鈴木正三(しようさん)、山岡鉄舟、さらに明治となり、夏目漱石、正岡子規、新渡戸稲造、福沢諭吉、西郷隆盛の「サムライ・マインド」が個別に論じられる。

 最後にルイス・ベネディクトの「菊と刀」が批評される。戦時中に日本人の精神構造、特に武士道を論じたこの本は、戦後一時日本でももてはやされたが、じつは著者のルイス女史は「日本に行くことが出来ない(戦時知勇だったから当然だが)から資料が不足していた」と言い訳しているが、もともと英語で書かれていて、アメリカで普通に手に入る新渡戸稲造の「武士道」すら読まずに、自分の日本人に対する思い込みを論拠に書いたかなりお粗末な本である。

 そのことがいかにアメリカの日本観を損なったか罪は重い。そこに「サムライ・マインド」に対するアメリカの偏見が影響し、それがひいては日本人の本来的な美学である「サムライ・マインド」を損なわせる結果につながったからである。

 いま「サムライ・マインド」は衰亡しつつあるが、失われたわけではない。それは阪神大震災、東日本大震災、熊本大震災のときにまったく暴動がないことに世界が驚嘆したことに現れている。そう、それが損得を越えた日本人の美学として生きていると私は思う。そして損得を最優先にするアメリカのグローバリズムに侵された人々を見ると、なんとなく不快感を感じる心につながっている。もっともノブリス・オブリージュを持たねばならない人々ほどアメリカ式、ときには中国式のグローバリズムに侵されていることに、危機感を感じる。

 この本は1991年に出版された本であるが、いま読んでも新しい。いろいろなことを考えさせてくれる本だった。

お盆

 母の一周忌を済ませたばかりだが、新盆なので明日菩提寺で施餓鬼がある。そういうわけで再び千葉県の弟の家(もとの実家)に来ている。忙しいのだ。弟だけに任せたいところだが、弟にぜひにと頼まれれば、両親のことをすべて弟に任せている立場上、兄として決して断るわけにはいかないではないか。

 明日には息子と娘が帰省してくるので、施餓鬼が済み次第名古屋へ帰る。多少強行軍だが体力的には問題ない。問題は渋滞にはまるかどうかである。時期が時期だから仕方がないが、出来れば渋滞には遭いたくない。自分も渋滞の原因なのに身勝手で申し訳ないことだ。

 今日は妹もやってくる。久しぶりに兄弟三人で母のことなど話そうかと思う。 母の若い頃の話など、二人が知らないことがけっこうあるかもしれない。

思いつき

 長谷川慶太郎の新刊を読んでいる。そこからヒントをもらって、ある予感がひらめいた。妄想で、あり得ないようだが、もし的中すれば自慢できるのでここに記しておく。

 北朝鮮のことである。

 中国が北朝鮮に対する国連の制裁決議を阻止した。

 中国がTHAADを理由に韓国に対して数々の嫌がらせをはじめた。

 中国が尖閣諸島海域で再び強硬姿勢を開始した。

 これらは陽動作戦ではないか。

 9月に習近平が中国を訪問して中米首脳会談を行いたいと打診し、オバマ大統領はそれを受けるらしい。 

 これがポイントである。今中国とアメリカが話し合う状況にあるのか。話し合うのは関係を修復するためか、何かを合意するためであろう。しかし関係修復は根回しのあとに真打ちが登場して行うもので、いまそのような状況にあるようには見えない。関係修復ではないなら、いま突然何を合意するというのだろう。

 中国は北朝鮮をコントロールできていない。この場合北朝鮮というより、金正恩がまったく中国のいうことをきかない、というほうが正しいだろう。それにいらだっていた中国だったが、いらだつだけでは収まらない事態が起こっている。核開発がドンドン進み、しかもその核をミサイルに積み込むことを目指して、着々と実験を繰り返している。

 大陸間弾道ミサイルに積み込むのは技術的にとても困難なので、まだ当分は猶予があると見てアメリカは案外危機感が低い。しかし韓国や日本に対しての核攻撃は、核ミサイルの小型化が成功すれば早晩可能になるであろう。

 その危機感を感じて韓国はTHAAD配備を受け入れた。それを中国は深刻に受け止めた。いままでの韓米と中国の対峙の力関係が、変更されてしまうと考えている。のど元に刃を突きつけられたと感じたのだ。

 THAAD配備の名目は北朝鮮の行動である。それならその原因を排除しなけばならない。中国は北朝鮮を崩壊させて南北朝鮮が統一することは望んでいない。北朝鮮は存続させたい。しかし今のままでは中国にとって不都合である。

 話が回りくどくなった。

 ここで中国が採れる強行手段がある。金正恩の排除である。現在中国は中朝国境に大量の軍隊を配備している。ここから平壌まで機械化部隊なら6時間ほどで行くことが可能なのだ。

  中国は手遅れにならないうちに軍隊を越境させて、金正恩の排除を実行することを決断している。その了承を求めるために、習近平はオバマ大統領を訪ねるのだ。そこでその了承に伴い、金正恩排除後の北朝鮮の中国による傀儡政権による存続、THAADの配備の中止、南シナ海に対してのアメリカの干渉中止、尖閣に対するアメリカの干渉中止などを求めてくるだろう。

 アメリカにとっても金正恩の排除は願わしいことだから、北朝鮮の存続とTHAAD配備の凍結ぐらいは呑むかもしれない。それ以外はアメリカがどう判断するか分からない。判断保留し、次の大統領に委ねるだろう。

 中国はしかしそれほど悠長にかまえている時間がないと思っているから、金正恩の排除は想像以上に早く実行されることになるであろう。それにより、中国は国際的な再評価を期待もしている。

 オリンピック騒ぎが終わったら、大激震が走ることになる、というのが私の読みである。もちろん北朝鮮もうすうすきな臭い匂いをかいでいることだろう。北朝鮮のミサイルの向きが変わるかもしれないのだ。

2016年8月13日 (土)

映画「ターミネーター:新起動/ジェネシス」(2015アメリカ)

 記念すべきターミネーター第一作は、前評判らしきものもなしに封切られた。口コミで次第に評判になったらしいが、こういう映画が好きな人でも劇場で見逃した人の方が多いであろう。

 自慢ではないが、私はたまたま知った雑誌の新作映画情報でこの映画を知り、公開初日に劇場で観た。予想通りの傑作だと思った。それ以来何度観ただろう。コナンシリーズ以来シュワルツェネッガーのファンだったし、SF映画好きだから外すはずがないのだ。

 シリーズを通しても、やはり第一作は傑作である。そして今回観た映画は、まさに第一作、第二作へのオマージュがふんだんに盛り込まれたとても面白い映画であった。随所に過去のシリーズを思わせるシーンがある。

 冒頭からしばらくは第一作をトレースしているだけに見える。ジョン・コナーによって過去に送り込まれたカイル・リースが、サラ・コナーを護るべく動き出すが、そこで出会ったサラ・コナーはリースが知らされていたようなサラ・コナーではなかった。

 そこから話は急展開していく。タイムトラベルのパラドックスを巧みに取り入れて、あり得ないことがあり得ることになっていく。世界そのものが変わってしまっているのだ。その変わってしまった世界でも機械と人間の戦いが起こることになるのだが、それを阻止するためにコナーやリース、そして古いT-800,つまりシュワルツェネッガー扮するロボットが活躍するのだ。

 そしてそれに立ちはだかるのが信じられないことに・・・。これを言うとネタばらしが過ぎるのでやめておく。

 とにかく随所に強敵が現れる。前半はひたすら過去の新型ロボットたちであり、最後の究極のロボットは今までにないものである。

 当然最後は敵を倒して大団円なのだが、長いエンドクレジットの途中に、ちらりと何かを暗示するものの姿が。

 これでまた続編が可能になったわけだが、シュワルツェネッガーは次にも出られるだろうか(たぶん本人は今回で終わりにしたいと思っているだろうけれど・・・)。
 
 大変良く出来ていて面白かった。ただ、リース役は第一作のマイケル・ビーンがはまり役だったので、今回のジェイ・コートニーは割を食っているかもしれない。

ブログの更新

 毎日ブログの更新をする。今は一日二度三度更新している。我ながらご苦労様なことだ。読んでいる方も大変だろうと思う。ときどきだと一気に読むことになってうんざりするのではないか。

 今はブログを書くことが楽しい。楽しいから続いているのだが、それでもこのペースで書き続けるのはけっこう大変である。それでも続けているのは、自分がもう何も書くことが出来なくなるほどカラカラになるかどうか知りたいと思うからだ。今のところまだ大丈夫だと思っているが、突然赤玉が出るかもしれない。

 赤玉の意味は知っている人は知っているだろうから説明はしない。男にはもうこれで最後だよ、というときが来るということだ(女には赤玉はないらしい)。

 ニフティが上場を廃止した。しばらくは大丈夫だろうけれど、今後どうなるのか分からない。70歳までにアクセス累計50万、死ぬまでに100万を夢見ているが、自分が先にアウトになるか、ココログがどうにかなるか。まあ先のことを考えても仕方がない。

 少しづつでも新しいことを仕込み、咀嚼し、考えて、ボケ防止に役立てていくつもりだ。よろしければ今後とも、ときどきおつきあいをお願いしたい。

ふらつく

 いつもは月初めに片付ける雑用を先延ばしにしていたので、盆休みに入る前の昨日、名古屋に出かけた。風があり、しかも熱風ではないので多少しのぎやすい。

 それなのに歩いて10分あまりの最寄りの駅についたらふらついた。暑気あたり(以前は熱中症のことをこう言っていたと思う。まったく同じことかどうかは知らない)だろうか。

 それにしてもこんな短時間に突然熱中症になるものだろうか。電車は冷房が良く効いて快適である。多少治まってきた。炎天下の名古屋で歩き回って大丈夫だろうか。心配だったがそのときはそのときである。

 最低限必要な用事だけ済ませ、いつものように本屋に立ち寄る。思ったより冷房が効いていない。来たばかりだから目当ての本二冊だけを購入して切り上げる。相変わらずテンション低し。

 名古屋駅に向かって歩きながら、はたと気がついた。どうも熱中症ではなく、低血糖による脱力感ではないか。駅で甘いカフェラテをぐい呑みする。ホームのベンチで一息入れると、あーら不思議、おじいさんはたちまち復活、定常に戻ったのであった。行きの電車では読む気にならなかった本を帰りは集中して読むことが出来た。危うく乗り越しそうであった。

 それほど節制していないのに、リバウンドしていた体重はいつの間にかもとにもどったまま納まっている。近頃無性に甘いものを間食したくてたまらない。ここが我慢のしどころ、と堪えているのだが、身体が甘いものを求めているのだ。これは低血糖のサインだったのか。

 我慢を続けるか、すこし緩めてやるか、それが問題だ。
(TO BE OR NOT TO BE .THAT IS THE QUESTION!)

2016年8月12日 (金)

映画「天使と悪魔」(2009アメリカ)

 監督ロン・ハワード、出演トム・ハンクス、ユアン・マクレガーほか、原作ダン・ブラウン。

 前作の「ダ・ヴィンチ・コード」の続編であるが、主人公がラングドン教授(トム・ハンクス)という点が共通しているだけで、話は連続しているわけではなく、全く違う話である。

 はっきり言って明らかに首をかしげざるを得ない点があるのだが、それを置いておけば最高に面白い映画であった。トム・ハンクスはあまり好きではないのだが、やはりうまい。だんだん好きになりそうである。

 とにかく次から次にハラハラドキドキさせながら、観客に息をつかせないのが初期の映画であった。この映画はまさに映画の常道を行く映画だから面白いのだ。出だしは最新科学の世界である反物質が詳しく描かれ、続いてあまり内情を知らないバチカンという世界が舞台となるから、二重に興味を引く。ダン・ブラウンの博覧強記が満載のドラマなのである。

 理屈はとにかく、ラングドンは瞬時に謎を解きながら突っ走っていく。それがもう一歩というところで手遅れになることが繰り返されていく。何が犯人の本当の目的なのか解らないから、途中で実行犯が正体を現しても、実際に誰が実行犯を操っていたのかはっきりしない。

 もちろんこういうドラマのお約束の通り、最後の最後に意外な真犯人が明らかになるのだが、その目的が私にはついに理解できなかった。じつは原作ではその点が矛盾なく描かれているが、映画では大事な点が大幅に省かれ、変更されているという。だからラストがこじつけにしか見えなくなっている。

 とにかく面白さという点では超一級の映画であった。こういう映画を観ると、本当に映画って好いなあ、と心から思う。

ニュースが見たい

 日本選手の活躍で日本中がオリンピックで盛り上がっている(ように見える)。テレビをつければ朝から晩までほとんどオリンピック一色だ。同じシーンが繰り返し放映され、次第にイライラしてくる。あまりに繰り返し、使い回しが多すぎる。

 特にNHKは限度を超えている。私は朝起きたらまず世の中がどうなっているのか知りたい、ニュースを見たい。そのニュースがほとんど放送されない。さすがに7時頃のニュースは定時に放送されるが、ほとんどがオリンピックのことで埋め尽くされるから、また同じシーンと、選手以上にはしゃいだアナウンサーの下手くそなインタビューを見せられる。オリンピック以外のことはほんのちょっとだけ。それもいつ報じられるか分からないから延々と待たされる。

 朝5時台や6時台のニュースはほとんど消滅している。たまにニュースはあるのだが、いつもの時間ではない。せめて今日のニュースは6時15分から、とかテロップが入るなら良いのだが、それもないから分からない。

 いつも楽しみに見ているBSNHKの海外ニュースはまったく消滅している。こういうときこそBSがいつもの放送内容を維持していればその存在意味が発揮できるのに、残念だ。
 ドラマやバラエティ、ドキュメント番組をオリンピックを機会として夏休みにするのは仕方がないだろう。そんなに長期間ではないのだから。しかし、世の中は止まっているわけではないから、ニュースは日々放送するべきものだろう。

 ニュースが見たい。

 オリンピックのときはいつもこんな風なのだろうか。今まではもう少し普通の番組も放送されていた気がする。

 人間は繰り返しに堪えるのにも限度がある。あまりに同じことを繰り返されると、人間はときに精神を犯されるという。そういうことに鈍感な人もいるだろうが、私は精神がひ弱だから、このオリンピック放送の氾濫と繰り返しに堪えられず、発狂しそうだ。もちろんテレビを見なければ良いのだが、私はニュースが見たいのだ。

 これは日本人をどうにかしようというNHKの陰謀か?中国の力が働いているのではないだろうか(もちろん私の妄想である?)。だって尖閣のニュースもオリンピックでかすんでいるではないか。

米食い虫

 最近は主食に御飯を食べる割合が減っている。もともと晩は酒を飲むので主食は採らない。昼はほとんど麺類で、朝はパンか麺類にすることが多い。夏は友人が信州の美味しいそばを送ってくれる。うどんや冷や麦、そして素麺は夏の定番だし、何より冷やし中華が大好きなので、御飯の出番が少ないのだ。大量の野菜を加えた焼きそばもエントリーされることが多い。

 気がついたらしばらく御飯を炊いていない。久しぶりにお米を研いだら、虫がいる。正式の名前は知らないが、米びつに棲みつく虫だ。放っておくと羽が生えて小さな蛾のようなのが飛ぶ。

 米びつには虫除けを入れてあるのだが、そう言えばずいぶん久しく入れ替えていない。米びつの米も残り少なそうなので、ドンドン炊いてしまう。米びつを空にして、あたらしい虫除けを入れることにする。

 炊いた御飯は小分けして冷ましてから冷凍庫にほうり込んでおく。食べるたびにレンジでもどせば、けっこう炊きたてと同じ味で食べられる。

 それにしてもうっかりした。タンスの虫除けもあたらしいのに入れ替えないと、やられているかもしれない。

 それにしてもどこからやって来たのだろう。虫は凄いなあ。

2016年8月11日 (木)

和田誠「ブラウン管の映画館」(ちくま文庫)

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 和田誠はテレビ番組の月刊情報誌に、これからテレビで放送される映画を紹介するコーナーを連載していた。この本はその1987年から1990年の分をまとめたもので、もちろんテレビ放送された映画だから、書かれたとき以前のものばかりである。

 和田誠はイラストレーターが本業だが、音楽評論家や映画監督としてもプロである。映画監督作品としては「麻雀放浪記」や「怪盗ルビイ」などが知られている。「麻雀放浪記」は、若き日の阿佐田哲也がモデルの主人公を、真田広之が熱演した白黒映画の傑作だった。この映画を観て、自分は賭け事には向かないことを思い知らされた。あんな生き方は出来ない。

 和田誠は1936年生まれだから、私より14歳年上だ。観ている映画がすこし違う。本に取り上げられている映画の数は非常に数が多い。私が見たことのないひと世代ふた世代前の映画が、この本でたくさん取り上げられている。私が見たことのあるものも、もちろんたくさんある。

 私が映画館でいちばん映画を観たのは学生時代だ。なけなしの金で名画座などを見て歩いた。金がないから昼飯を抜いて本代と映画代にした。腹を空かし、寒さに歯を鳴らしながら冬の場末の映画館で朝から晩まで観ていたこともあった。

 そんな懐かしい映画と、見たことのない古い映画のことがふんだんに語られている。

 この本にとりあげられた映画の中で、私の観た映画はほんの一部なのだが、それでもかなりの数がある。映画のシーンや俳優についていろいろなことを思い出した。読んでいるうちに、この本を手がかりに自分の観た映画のことを書き留めておきたくなった。

集中力

 人生の要諦は集中力だと確信して生きてきた。集中力を欠けば実力を発揮できない。集中が出来ればそれまでにため込んだ潜在力も加わって、今までの限界を超えることが出来るものである。

 もちろん不断の努力、積み重ねなしに実力以上の結果が得られることは決してない。精神力だけで結果など出ないことは、先の大戦で身に沁みるほど思い知らされた。積み重ね、蓄えのないまま、精神力で勝て、などというのは奇跡を神頼みするだけの愚かなことで、そんなものに神が手をさしのべることなどあり得ない。神風は吹くべくして吹くのだ。「待ちぼうけ」に歌われているような僥倖を願ったときに日本は負けが確定した。

 オリンピックを見ていると、実力を発揮し切れずに負けたケースもあるようだ。努力と精進を重ねてきて、確かに実力はあるのだろう。私はその勝ち負けの差は集中力の差だと思う。

 武芸者が無念無想になるほうが勝つ、などというのも、雑念のない、心の集中が出来たほうが勝つと言うことだろうと思う。

 今回、体操の内村航平の、劣勢に立たされた中で瞑想しているような静かなたたずまいが印象に残った。そして最後の鉄棒でいままで以上に完璧な演技をした。あのとき彼は真に無念無想、完全な集中力のなかにいたと思う。

 その前のいくつかの演技で不本意な評点が出ていたように思えた。たぶんそれに対して内心に波騒ぐものがあったであろう。よくぞそれを鎮めたものだ。その精神力の素晴らしさに拍手を送りたい。

 あらためて集中力が人生の要諦だと確信した。

ノック

 ドンドンと玄関のドアを叩く音(と思った)で目が覚めた。時計を見ると夜中の三時前である。最近の普通の朝の目覚めはややスイッチが入るのに時間がかかるのだが、いきなり全開のモードに入った。

 玄関ののぞき窓から外を覗くと誰もいない。夢ではない。確かに耳が音を聞いている。なんだったのだろうか。向かいの部屋の音だったのだろうか。外のなにかの物音だったのか。

 釈然としないまま、もう眠れそうもないのでテレビでオリンピックを観ることにした。四時過ぎからBSNHKで男子の体操の個人総合。内村はほぼ完璧に近い演技を続けているのに、途中経過で第三位である。どうしても日本びいきになるからか、内村の点数が低い気がしてしまう。もちろん上位の選手の難度はときに内村よりも高いところがあるけれど。

 やはり海外選手は団体よりも個人のほうが得意なのだろうか。つまりやる気が出やすいのかもしれない。人のためより自分のため、といったら言いすぎか。

 そうしている中に柔道の男子と女子の金メダルの速報が続けてテロップに流れた。やるではないか。柔道だって個人競技であるが、日本の場合は柔道チームの一員としての意識のほうが個人としての意識よりも強いのではないか。

 結局鉄棒で内村航平の大逆転があり、奇跡の金メダルになったが、たぶんベリヤーエフは不満だろう。確かに演技内容は劣るし、着地にミスもあったが、あそこまで低い点が出るとは信じられなかったにちがいない。それでもため息を一つついたあと、にこやかに内村に祝福の握手を求めたのは美しかった。

 そう言えば点差がついて逆転が難しい状況の中、内村は一人静かに気持ちを落ち着けるように努力していた。そこには近寄りがたい厳しさが感じられたのだが、海外のコーチや選手が声をかけた瞬間、それににこやかにこたえていたのも美しかった。

 みな人間的に美しい。

 中国の選手が途中で目標を見失ったように失速していったのが、逆に際だって目についた。オリンピックを初めて長時間見た。よく見ていると、思うこと感じられることがあるものだ。

2016年8月10日 (水)

キューバ

 朝日新聞デジタルにキューバの記事があった。朝日新聞デジタルは有料だから出だしの部分しか読めない(金を払っても読みたいわけではないので)。昨年秋にキューバに行ったので、キューバのニュースが目についたのだ。

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 アメリカとの国交が回復して、キューバの観光客が増えているという。2015年は17%増、そのうちの日本人観光客は82%増の1万4千人だったそうで、私もそのひとりだ。

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 観光客の増加で恩恵を受ける人がいるけれど、そうでない人が大多数で、貧富の差が拡大していることが問題だという。そのことを強く思ったから、本来のキューバが損なわれないうちに見ておこうということで昨年キューバを訪ねたのである(ちょっと後付け気味のところもあるけれど・・・)。アメリカナイズされ、貧富の差が大きくなってアメリカナイズされたキューバは、カストロやゲバラが革命によって作り上げたキューバではなくなってしまう。

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 気になったのは、記事で「その恩恵を受ける人たちもいるが、取り残され、配給制度に頼る人々も多い」という部分だ。キューバでは就労しているすべての国民が国家公務員であり、基本的に食糧をはじめとして生活物資はすべて配給である。だから「取り残されて、配給制度に頼る人々」という言い方は変だ。取り残されていなくても普通の人はみな配給政度に頼って生活している。

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 キューバで流通している貨幣には二種類あり、一般国民は人民ペソを使用し、観光客は兌換ペソを使用する。一般国民は通常人民ペソのみしか手に入らず、人民ペソでは手に入らないものが多いし、兌換ペソを手に入れないと長距離バスにも乗れない。これは以前の中国と同じだ。そのことが観光客の増加とともに今後格差拡大の要因になるかもしれない。

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 キューバは国も国民も貧しい。そしてその貧しさは権力者も同じで、そういう意味で平等である。平等に貧しいから、不満はあるけれどそれが怒りにつながらず、みな陽気である。食べてさえいければとりあえず善しとしているのだろう(これが毛沢東時代を懐かしむ中国の一部の人々の思いの根底にある)。

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 格差拡大は富めるものを生み出す。それをうらやみ、妬みを生む。たしかにこれは問題なのだが、格差拡大の罪が重いのは、さらに貧しい人々からの収奪につながるからである。食べてだけはいけた人々が、食べるのに困る状態に追い込まれる。国が豊かになるに連れて物価は高くなるのに、貧しい人々の収入は増えない。暮らしはさらに苦しくなる。これが怒りにつながるのだ。

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 不思議なことに国が経済的に豊かになるほど貧富の差が拡大する。これこそが資本主義のもっとも大きな弊害だろう。だから現在の資本主義国家は、みな資本の再分配をして、その弊害を緩和するシステムを導入している。日本の福祉制度などはそのもっとも良く出来た制度であろう。

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 しかしその再分配が不十分だと、格差は怒りのエネルギーに変わる。たぶんアメリカのトランプ現象もその現れではないか。アメリカのグローバリズムという名の新自由主義は、再分配を否定するものだと思う。だからアメリカのグローバリズムが蔓延するに従い、世界の格差が拡大し、不安定化が進んだ。グローバリズムは根本的に間違いではないのか。

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 グローバリズムはそのことばの意味と矛盾するアメリカのローカルなものだ、というのは内田樹老師の指摘であり、その通りであることを今アメリカは示しつつある。

 そんな時代だからこそ、キューバはとても興味深い。グローバリズムの洗礼を受けたとき、キューバがどうなっていくのか、それこそ冷戦終了後の世界の流をそのままたどるのか、違う新たな道を見つけるのか。

 朝日新聞デジタルには、私の読んだ冒頭部のあとにどのように書いてあったのだろうか?

知らぬが鬼

 韓国の中央日報によれば、トランプの口から「ジャパン」ということばが消えているのだそうだ。もちろんトランプは非難する意味で国名をあげていた。なぜ消えたのか、それは日本が官民挙げてアメリカに努力して働きかけてきた成果だという。それに引き替え・・・というのがこの記事のいいたいことだ。最近はトランプの口から「ジャパン」の代わりに「サウスコリア」が増えているらしい。

 知らなかった。本当だろうか。

 トランプがものを知らないことは恐ろしいほどだ。先日もウクライナ領だったクリミヤ半島をロシアが一方的に接収したことを知らなかったようで、記者達から失笑を買っていた。そもそもクリミヤ半島がどこにあるのか知らないし、ウクライナがどこにあるのかすら知らないのではないか。

 同じように、アメリカにとって日本がどういう存在であるか知らなかったのだろう。そしてそのことを誰かに教えてもらったのではないかと私は思っている。だから日本バッシングのことばが減っているのかもしれない。

 知らぬが仏、というけれど、世界一強大な権限を持つアメリカ大統領がこれほど無知では恐ろしい。知らぬが仏、どころか知らぬが鬼、ではないか。

やかましい

 祭がうるさいと言って火炎瓶を投げこんだ初老の男がいた。祭など一年中やっているものではない。祭のときだけ我慢するか、どこか静かなところへ一時的に待避すれば済むことである。この男は突然うるさいと感じたのではなく、以前から祭のたびにそう不満を言っていたらしい。

 この男もいきなり祭がやかましいと思ったわけではないだろう。口やかましい女房のことばを繰り返し繰り返し聞かされれば、ついに亭主が発することばは「やかましい!」である。あるとき祭がうるさいと感じたこの男の中で、うるさいと思う気持ちだけが肥大化していく。前の年の祭のときの思いに次の年の思いが重なり、さらに大きくなり、ついに彼の心の中には「うるさい!」が溢れかえる。ほかのことは考えられなくなってしまったのだろう。

 彼の気持ちの推測は無理に立てれば立たないことはないが、それにしても異常である。受け入れられるはずなどない。冒頭に書いた通り、祭は一年中続いていたのではない。まともな人間なら「うるさい」という思いは、翌年の祭までにほとんど薄れるものだ。人間はある思いにとらわれてしまうと、ついには悪魔にとらわれてしまうこともあるということか。

 保育園の周辺住民から騒音の苦情が持ち込まれることがあって、園児が庭で遊ぶことも出来ないという。だから保育園の新設にもこの問題が立ちはだかって困難になることが多い。

 騒音は確かに物理的な、つまり肉体的な苦痛もさることながら、精神的な苦痛をもたらす。拷問にも音を鳴らし続けるものがあるらしい。だから騒音について我慢できないレベルがあり、それが訴訟の対象になり、公害と認定されることがある。ただ、騒音は人によりその苦痛の程度が違う。どこからが障害的な騒音なのか線引きは難しい。

 具合が悪くて横になっているときなど、ふだん気にならない回りの生活音や子どもの声がやけに耳にうるさく感じる。歳とともにうるささに不快を感じるようになった。だからといって世の中の音を排除しようなどと考えない。世の中があって私がある。私があって世の中があるわけでないことくらいはわきまえている。人はまともであればそれくらいわきまえている。そのわきまえを越える暴力的なものに対しては抵抗するけれど、そうでないものは我慢する。そうでなければ生きていけない。

 そのわきまえを見失い、自分が異常に肥大化した人間が今度の火炎瓶の男だ。ところが世の中は人権という名のもとに、自己肥大を助長しているように見える。「私」が肥大化し過ぎた人間は社会に害をなすが、その予備軍がどんどん増えているような気がする。やたらに怒っている年寄りをそこら中で見るようになった。

2016年8月 9日 (火)

映画「イントゥ・ザ・ウッズ」(2014アメリカ)

 監督ロブ・マーシャル、出演メリル・ストリープ、エミリー・ブラント、アナ・ケンドリック、クリス・パイン、ジョニー・デップほか。

 もともとはブロードウエイのミュージカルで、この映画もミュージカル映画である。久しぶりにミュージカル映画を観た。学生時代に初めて観たミュージカル映画は、「フィニアンの虹」という不思議な映画であった。あまり知られていないが、あとでフランシス・コッポラが監督をしていたのを知った。ストーリーはほとんど覚えていない。ただ、ミュージカルは、観ていると恥ずかしくなるものだと思っていたのに、案外楽しく面白いことをこの映画で教えてもらった。

 このあとバーバラ・ストライザンドの「ファニー・ガール」を観て、完全にミュージカルにはまり、機会があれば見るようになった。もちろんミュージカルのベストワンは「ウエストサイドストーリー」である。名画座のリバイバルで観て感激し、三回くらい通った。

 この「イントゥ・ザ・ウッズ」は西洋のお伽噺がいくつも組み合わされたストーリーになっている。赤ずきんやシンデレラ、ジャックと豆の木、それにラプンツェルの話などである。

 狂言回しは子供のいないパン屋の若夫婦で、隣人の魔法使いが呪いをかけたことで子どもが出来ないことを知らされる。その呪いを解くためには四つのものを三日以内に集めなければならない。

 真っ白な雌牛、真っ赤なマント、トウモロコシの毛のような黄色い髪、そして金色の靴である。

 それぞれのお伽噺の主人公がその呪いを解く鍵になるものと関係している。あちら立てればこちらが立たずの状況になるが、それをなんとか解決して魔法使いの呪いは解かれ、パン屋には子どもが授かり、シンデレラとラプンツェルは兄弟王子とそれぞれ結婚してめでたしめでたし、となるのが前半なのだが・・・。

 そこから後半は、話がねじれてくる。後半がなければ楽しいお話だが、あのジャックの豆の木の、巨人の妻のすさまじい復讐(あの巨人はジャックが豆の木を切りたおしたので死んでいる)に村や王国は壊滅的な被害を受け、思わぬ人も巻き込まれてしまう。
 
 歌詞がとても寓意的でひねりがきいている。良く聞くといろいろ人間の生の根源的な哀しみも歌われていたりする。どこまで意味を読み取ろうとするかによって、楽しみ方もいろいろ変わるだろう。

 ジョニー・デップは赤ずきんに出てくるオオカミである。物語の通り、おばあさんを呑み込んでおばあさんになりすまし、あのお約束の問答もある。ただ、赤ずきんちゃんがあれほど大食いだとは知らなかった。

 パン屋の若妻役のエミリー・ブラントが私にはなんとなく宮沢りえに似て見えた。この人、私好きである。魔法使いのメリル・ストリープはうますぎて何も言うことはない。まいりました。

 めでたしめでたしだけを期待すると、うっちゃられる映画である。勝手な解釈をしても良いが長くなりすぎのでやめておく(たいしたことを思いついたわけでもないし)。

ひげ

 七月の後半、三週間近くひげを剃らずにいた。あえて伸ばそうとしたわけではない。こんなに剃らずにいたのは久しぶりだ。白に近いごま塩のひげがそこそこ伸びたので、もっと伸ばしたらどうなるだろうかと鏡を見ながら想像したが、よく見ると左右のひげの濃さが違う。左はかなり密度があるのに右はかなりまばらである。口の周り、特に鼻下のひげはもともと濃くない。だから全体としてのバランスがとても悪い。どこかを集中的に伸ばしたところでひげの似合う顔にはなりそうもない。

 本を読んでいるときなど、無意識にひげを引き抜いていることがある。場所によって抜くときの痛さがずいぶん違う。あごのひげなどはとくに痛い。痛いわけで、むりやり抜いたあとに見てみると、同時に二三本抜けている。意識的に抜いているのではないから、ひげのバランスなど意識していない。もしかしたらひげの薄めのところは、長年にわたって抜いたひげが多かったところかもしれない。

 そういうわけでひげを伸ばすのはやめることにした。

Dsc_3960 こんなに伸ばすつもりはなかった

突然もんじゅのことを考えた

 外は暑いから出かける気にならない。それにたぶん夏休み真っ盛りだから、どこも混んでいることだろう。テレビをつければオリンピックだらけ。本でも読めばいいのだけれど、そうなると却って読む気が減退してしまう。

 頭が空回りし出すと、思ってもいないことを考えたりする。突然もんじゅのことを考えた。あの敦賀半島の先端部にある高速増殖炉のことである。これは電力を供給するのが目的ではなく、MOX燃料(プルトニウムとウラン燃料の混合燃料)という燃料を使う実験炉である。これが成功すれば、通常の原子力発電所の使用済み燃料を再処理せずに燃料として再び使用できることになる。

 原子力発電所の最大の問題は使用済み燃料の処理であるから、これが成功すれば夢のような話であるといわれていた。もんじゅは巨額の費用をかけて建設された。それだけの費用をかけることが認められたのであるから、理論的には可能であると判断されたのであろう。

 ところが稼働したとたんに事故が続き、しかもその事故の対処はお粗末きわまりないもので、さらにその事故を隠蔽しようとした。もんじゅを管理する人々が、そもそももんじゅの仕組みも理論もわからずに実験をしていたとしか思えないようなお粗末さであった。

 解っていなかったということでは、猿に任せていたのと変わらない。異常の警報が鳴ったら、どういう手順で炉を止めるのかマニュアルがあったらしいが、炉を傷めたらまずいから、という理由で手順に従わなかった。そのために警報が鳴り止まなくなり、うるさいからと警報のスイッチを切った。じつは問題が拡大していたのだが、警報を切ったから新たな異常の発生を見逃した。

 炉を傷めないためという、優先順位をまちがえた本来あり得ない判断が、結局炉を大きく損傷させることにつながっていたことがあとになって解ったようだ。

 これはあの福島第一原発の事故を思い出させるではないか。炉心冷却をするために、炉がどうなろうとまずベントを開け、海水注入でもしていれば炉心溶融までに到らなかったかもしれなかった。この場合は、その最終判断はもちろん現場ではなく、トップにある。トップはそのような判断をする責任があるが、判断できずに手遅れになった。トップにはその権限があるが、想像力も判断する能力も欠けていたのだ。

 もんじゅの事故を教訓にしていればすこしは違っていたかもしれないが、そんなこと、東京電力のトップは学ぼうとは毛筋ほども思っていなかったのだろう。

 もんじゅでは問題点をすべて調査して、改善すべき点を明らかにした報告書を提出した。ところがそれが杜撰きわまりないものであった。立ち入り調査したところ、報告書と現実が違うところが千カ所以上見つかったというニュースを見た覚えがある。それでは再稼働を申請しても許可が下りるはずがない。結局いつまで経っても何も進まないままである。

 所管の文科省は、日本原子力研究開発機構をもんじゅの管理会社から外すことを決めたが、さて、どこがあとを引き受けるというのか。現場で働く人を総入れ替えしたくても、そのような人材が簡単に集められるとも思えない。今のままでは廃炉にせざるを得なくなりそうだ。 

 原子力発電所の最大の問題である使用済み燃料を使用することが可能になる夢の高速増殖炉はどうして頓挫したのか。ここからは私の妄想である。

 高速増殖炉で生成されるプルトニウムは、通常の原子力発電所で生成されるプルトニウムよりも原子爆弾を作ることがたやすいらしい。つまり高速増殖炉が稼働すれば、日本は原子爆弾製造能力が飛躍的に上がることになる。

 それを望まない国があるのではないか。それはアメリカであり、中国だろう。そして日本国内でもイデオロギー的にこのような原発維持拡大を絶対悪だと信じている人々もいる。彼らはもんじゅの事故を内心で拍手喝采して眺めているにちがいない。

 それらの思いが現実のなにかの力となって作用した可能性があるのではないか、というのが私の妄想である。そうでなければあの事故の頻発はあまりに異常である。破壊工作にもこのような巧妙な工作があるのではないか。

 眠れぬ夏の夜の悪夢として・・・。

2016年8月 8日 (月)

映画「黒衣の刺客」(2015 台湾・中国・香港・フランス)

 監督・ホウシャオシェン、出演・スー・チー、チャン・チェン、妻夫木聡、忽那汐里ほか。

 とにかく台詞の少ない映画である。だからストーリーが明確ではない。断片的な一言から、時代や人間関係を推察するしかない。時代設定は、唐の末期ということで、その時代背景を知っているから地方軍閥である節度使と朝廷の緊張関係がわかるけれど、知らないと何のことやらちんぷんかんぷんだろう。

 女道士に預けられた娘が、暗殺の術を極めた上で、節度使の暗殺のためにふるさとに帰ってくる。それが黒衣の刺客である。しかし情が移ってなかなか暗殺が決行できない。妖僧が出てきたり、権力争いや、節度使の疑心暗鬼による別の暗殺が画策されたりして、話はけっこう複雑なのだが、物語はほとんど盛り上がりらしい盛り上がりがないまま、静かに淡々と進んでいく。

 この映画が各種の賞を取ったことが信じられない。映画として出来が悪いとは思えないが、この映画がすんなりわかる人がそれほどいるとは信じられないのだ。
 
 この映画は優れて映像的である。風景や夜の宮殿の中のシーンなどがすばらしい。たぶんそれが評価された理由だろう。ギリギリ映画になっているけれど、もうちょっとで監督のひとりよがりに終わるおそれがあった。

 妻夫木聡と忽那汐里が出ていることに、最初まったく気がつかなかった。中には日本人的な顔立ちの人もいるものだなあ、などと思っていて、ラストでようやく気がついた。私のように知らないで観たら気がつかない人もいるのではないか。それほど重要な役でもないし。 

 もう一度観たくなるような映画ではないが、シーンの美しさだけは忘れられないだろう。

池内紀「あだ名の人生」(みすず書房)

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 有名無名合わせて24人の人生が語られている。考えてみれば、有名な人や自分だけではなく、すべてこの世に生を受けた人それぞれに人生はあるわけだ。

 知らないでいれば「存在しない人」が、著者がこうして取り上げ、詳しく紹介してくれれば、その人は私にとって「存在した人」に変わる。よしんば名前だけしか知らなかった人も、こうしてエピソードを紹介されることで「確かに存在した人」に変わる。

 その手がかりは通り名、あだ名である。あだ名こそ、その人自身を象徴するもの、そしてそのあだ名について説明されれば、その人物が歴史の中から際立ってくる。

 私が好きなくらいだから、著者の池内紀は権謀術数の人や、売名の人、姑息な人が大嫌いである。世に認められなくても一生懸命自分が与えられた仕事を貫いた人、人生に手抜きをしなかった人が選ばれている。読んでいるこちらもそれが嬉しく感じられる。

 このことは自分の父や母、祖父母など身近な人に対してもそのような眼差しを持つべし、と教えてくれる。

 実家から、母方の祖母の遺したノートを持って来た。祖母は折あるごとに和歌を作ってそのノートに書き留めていた。何冊もあったはずなのに、遺されているのは晩年に近い頃に書かれたもの一冊だけで、最初はきれいな文字だったのが、最後のほうは手が震えたのか、字が乱れている。

 祖母が祖父に先立たれて何を感じたのか、そこから読み取れないかと思ったりしている。

 そのノートに父の書いたメモが何枚か挟まれている。それには俳句や和歌がぎっしりと書き込まれている。父は俳句も和歌もまったくやらなかったから、たぶん新聞や雑誌の投稿作の気にいったものを、こまめにメモしていたのだろうと思う。

 戦争で青春を損なわれた自分を想い、もし平和であれば俳句か和歌でも作ったかもしれない自分を想像していたのではないか。

映画「アンフェア the end」(2015)

 監督・佐藤嗣麻子 出演・篠原涼子、永山絢斗、阿部サダヲ、加藤雅也、寺島進、佐藤浩市ほか。

 テレビではニュースを見ていることが多い。ところがオリンピックが始まったとたん、それ一色になってしまって好きなニュース番組が見られない。特に海外ニュースが見られないのは残念である。たまにあるニュース番組もオリンピックの情報ばかりで、世の中がどうなっているのかわからない。

 尖閣に大量の漁船と武装した海警局の艦艇が押し寄せていたけれど、どうなったのかまったく報道されない。それを狙って中国はこんな行動を起こしたのだろうか。どさくさ紛れの卑劣な行動だ。それにしても日本のマスコミの脳天気ぶりは中国の読みどおりだ。

 そんなわけで映画でも見ようかとこの「アンフェア」シリーズ三作目を観た。たぶんこれが最終回だろう。なんと前作で死んだと思っていた佐藤浩市がまた現れた。

 それにしてもこのシリーズの登場人物の裏切りの連鎖は異常である。とにかく誰も信用できない。現実の警察がこんなことになっていたらえらいことだが、まさかこれほどひどくはないであろう。

 最後にこいつもこいつも裏切るだろう、今まで裏切らなかったけれど今度は裏切るだろう、と思ってみていれば、まさにその通りの展開となるのであった。予想通りに裏切る、というのは裏切るというのだろうか?などとおかしかった。もうこちらは騙されない。結末は途中で、というよりほとんど最初からわかってしまう。

 それなのに裏切りに振り回されるのが主人公の篠原涼子だ。今までさんざん裏切られ続けて人が信用できなくなっていたはずなのに、また騙される。クールでスタイリッシュに見えてちっともクールではないのだ。雪平(篠原涼子)は学習しないなあ。

 それにしても篠原涼子は格好良い。阿部サダヲははしゃぎすぎで格好悪い。ふざけているようで、シリアスな不気味さをちらっと見せるところでもあれば救われるけれど、これではただのバカだ。

2016年8月 7日 (日)

野嶋剛「台湾とは何か」(ちくま新書)

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 新書を一冊読むのにこんなに骨が折れたのは久しぶりだった。難しいことが書いてあるわけではなく、中学生でも読めるであろう。ふりがながほとんどないために読みがわからないことにイライラしたが、それはもともと日本の国ではない地名や人名だから、ふりがなをつけようがなかったのかもしれないので、それが問題というわけではない。

 著者はもと朝日新聞の記者。シンガポール、台湾などに駐在し、アエラ編集部などを経て今年フリーになった。

 台湾について、新書でありながら極めて詳細に書かれている。まず、台湾の人々の考える台湾、台湾の人の考える中国、台湾の人々が考える日本が語られる。台湾にはもともとむかしから住んでいた人、戦後国民党とともに大陸から台湾にやって来た人がいて、それぞれ台湾についての、つまり自分自身についての意識がかなり違う。さらに年代によってもまったくと言っていいほど違う。

 自分が中国人なのか、台湾人なのか、その意識も時代とともに変わりつつある。

 ここから台湾と中国との関係、そして台湾と日本との関係がそれぞれの国民の意識から語られる。そう、極めて複雑なのだ。そしてその複雑であることこそ、台湾が生きのびるために採らざるを得なかった道でもあった。

 それらのことが著者の中にあふれるほどの情報と想いとともにあふれているのがこの本だ。

 そしてそもそも朝日新聞は親中国の立ち位置の新聞社であり、台湾とは距離を置き続けてきた。その朝日新聞が台湾について記事を次第に増やしていったのは著者の功績が大きいようだ。さもあらばあれ、著者の歴史的なものの見方に朝日新聞的な臭気がかすかに感じられてしまうところがある。

 すべてに対して、つまり日本でも台湾でも中国でもない公平な立場に立とうとすればするほどその臭気が感じられる。そもそもそんなことは不可能だからだろう。

 そこが読むのに骨が折れた最大の理由である。

 今年の秋には友人と台湾に行く予定である。三度ほど台湾に行ったが、久しぶりにまた行く。今回はいつもの顔ぶれに台湾に駐在していた友人が加わる。その旅行の参考にしようと思ったのだが、台湾に対する理解をさらに深めるため、もう一度読見直す必要があるような気がする。だがさて読めるだろうか。

 司馬遼太郎の「街道を行く」のシリーズの中に「台湾紀行」がある。行く前にそれは必ず読み直そうと思っている。

 台湾の若い人たちは、自然体で自分が台湾人であると思う人が大多数になっているという。このことは中国がどのようなプロパガンダや高圧的なことをしても変えることができない。民主主義というのはそういうものであろう。台湾はいつか必ず完全な独立国となるだろう。生きているうちにそうなるのを見たいと強く思う。

不思議なことにエンターテインメントが読めない

 時代小説やミステリーが大好きで、そういう本はボリュームがあるほど読みでがあって嬉しかった。読んだ本をカウントしているので、ついそんな本で冊数を稼いだりしたものだ。

 ところが最近あまりそういうエンターテインメント本が読めなくなった。もちろん中身の薄い、つまらない小説はもともと嫌いである。読み終わったときに時間を無駄にしたような気がする。

 昔なら十ページも読めば寝てしまうような、少々歯ごたえのある本が、最近は放りださずに最後まで読めるようになってきた。だから読むこと、意欲そのものがそれほど衰えているわけではない。

 面白い、と感じるものがどんどん変わることはあったけれど、どうも本質的に変わりつつあるのかもしれない。これは自分の持ち時間の残りがある程度読めるようになってきたからかと思う。 

 読みたいけれど後回し、というほど残り時間がない。それなら読んでおきたいと思うものから読むのはあたりまえではないか。同時に、今読もうとするこの本を読む人はたぶんあまり多くないであろう、然らば自分が読んであげなければ・・・などと思う。本の方から読んで欲しいと言ってくるのだから「あとでね」と言いづらいではないか。「あとで」っていつなんだ。

 本屋で面白そうな本を見ると、いつの間にかそれらの本を抱えて書店を出ることになる。本だけは自分に歯止めをかけることが出来ない。とは言っても読む能力に限りがあることは自分がいちばん承知している。

 そうして買った本を積んでおいて、呼ばれた順番に読ませていただく。ところが気がついたら、以前なら真っ先に読んでしまうはずのエンターテインメント本がどんどん残りだした。

 購入する本と読む本にズレが生じている。そのことをよくよく考えないと、買ったけれど積んだまま、というのではその本が可哀想だ。

 ちょっと身の廻りの本を整理していたらそんなことを考えた。

高層ビル倒壊の夢

 娘のどん姫が颯爽と帰ったあと、なんだか気が抜けたようになって、何もやる気が起こらなくなった。夜、残り物などでほんのちょっと飲んで、気がついたら寝ていた。

 変に早く寝たせいだろう、夜中に高層ビルが倒壊する夢を見た。

 たぶん30階建てくらいのそのビルにわたしは住んでいるのである。友人達三人でシェアハウスしている。けっこう豪華なマンションで、しかも住んでいる階が上の方で、天井から床までの大きなガラス窓から眺める眺望はすばらしい。

 その友人達と大金の入る何かがあって、しかもその金をそのマンションの部屋に隠してある。

 わたしは用事で近くの商用ビルに行く。そのビルの窓からわたしの住む高層ビルがすぐそこに見える。見ているとそのビルがゆらーりと揺れたような気がした。自分が立ちくらみでも起こしたのかと一瞬思った。地震でも起きたのかと思った。しかしそうではなくてその高層ビルだけが揺れていて、しかもその揺れが大きくなっている。 

 やがてゆっくりとそのビルはこちらに向かって倒れてくる。「ああ倒れる」と思いながらも身体はしばし動かない。ようやくあわててビルの外へ走り出す。

 高層ビルはしかし自分の飛び出した商用ビルを直撃することなく、しかしほんの少しかすめるようにして静かに倒壊した。そう、猛烈な砂埃のようなものはたったのに、音がほとんど聞こえなかった。

「ああ、お金を取りに行かなければ」と思ったけれど、「今は危険だし、たぶん火事でも起きて取りに行くのは無理だろうな」、などと考えた。

2016年8月 6日 (土)

何度も同じことを言う

 最近は映画よりもテレビドラマを観ることが多い。たくさん映画を録画してあるので、観たい映画もたまっているのだが、ドラマは生ものに近いから、そちらを優先的に見ることになる。

 観るドラマは、NHKかBSNHK、そしてWOWOWのドラマがほとんどなのだが、最近あの「相棒」シリーズの再放送を見始めたら、面白くてやめられない。メーテレ(名古屋テレビ・テレビ朝日系)のウイークデイに毎日放送しているので、それを録画しておき、CMを跳ばしながら観る。スペシャル版は不定期に土曜日に放送される。

 ときどきは観ていたドラマのつもりだが、ほとんど初見である。もし一度観たものでも見始めると、犯人を覚えていたとしても最後まで観てしまうのは、それだけ面白いということだろう。

 民放のドラマはCMだらけだ。CMを跳ばしながら観ていると、いかにCMがドラマを楽しむ妨げになっているのかがよくわかる。それと、「相棒」の初期のシリーズと、比較的あたらしいシリーズのドラマの長さが違うことがよくわかる。CMの長さが大きく違うためだ。CMが番組をますます大きく浸食してきている。

 番組をリアルタイムで観ない人が増えているので、視聴率の統計的な意味がなくなりつつあるという話は、だいぶ前から言われていることだ。これはみなが忙しいこともあるが、あまりにCMが氾濫して、それにみんなうんざりしているからではないのか。息子も娘もたいてい録画してCMを跳ばして観るという。若い人の多くはそうしているのではないか。

 CMはもうターゲットを、暇をもてあましている主婦と老人向けに絞る方が良いのではないか。

 「相棒」シリーズばかりではなく、ミステリー風のドラマは総じて面白い(恐るべき駄作も多いけれど)。NHKBSやWOWOWで紹介される、特に海外のミステリーはたいてい面白いが、涙を呑んで観るものを絞っている。人気のあった民放のミステリードラマのシリーズは、昼時間の穴埋めにいろいろ再放送されている。見始めたら切りがないけれど、沢口靖子の「科捜研の女」なんかは面白そうだ。いつか時間が許せば観たい気はする。

 あーあ、これでは録画しただけでまだ観ていない映画は、いつ観ることになるのだろう。

沢木耕太郎「銀の街から」(朝日新聞出版)

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 悩ましい。

 沢木耕太郎は映画を見て感じたことを、朝日新聞に連載している。この本はそれをまとめたものだ。あえて批評といわないのは、もう少し映画に近い位置に立っているからだ。客観的であるより、身内のような主観的な立ち位置をあえて選んでいるような気がする。だからわたしが映画を見たらこう思うだろうな、ということを先取りしているようなところがある。

 もちろん沢木耕太郎のほうが映画通で、しかもその見方の深度がはるかに深い。それでもそう感じるのは、ここで取り上げられている映画の何作かをわたしも観ているからだ。そして語られていることに全面的に賛同するからだ。

 沢木耕太郎の文章にすると、とりあげられた映画がどれも魅力的に感じられる。だからこれから見ようとする映画すべてを事前に沢木耕太郎に紹介してもらいたいくらいだ。そうすれば大事なところを見逃すことがなくなるのではないか。そして感動も倍加するような気がする。

 だからこの本でも、観ていない映画についての文章を読むとぜひ観てみたいと思う。しかし同時にもうすでに観てしまったような思いがするおそれもある。それが悩ましい、と言うのだ。

 この本では2007年から2014年まで、それ以前のものは「銀の森から」というタイトルで本になっている。少し前にこのブログでも取り上げた。じつは出版されたのはこの「銀の街から」が先である。

 特に共感した映画。「スカイ・クロラ」「レスラー」「千年の祈り」「カールじいさんの空飛ぶ家」「冬の小鳥」「トゥルー・グリッド」「そして友よ、静かに死ね」「ゼロ・グラビティ」。

2016年8月 5日 (金)

どん姫来たる

 今晩これから久しぶりに娘のどん姫がやってくる。先程食べるものとスパークリングワインを買ってきた。食事の仕度にかからなければならない。肉体労働をしている(マッサージ師)ので、細身なのにとても良く食べる。好き嫌いはわたしに似てほとんどない。

 あまりうまいまずいをいわない(無口なのだ)ので、食べっぷりで気にいったかどうかを見る。若いから揚げ物が好きだ。いつものように鶏の空揚げでも(大量に)揚げようか。

 酔うとおしゃべりになる父親の話を黙って聞いてくれる。おとなになって我慢できるようになったのだ。でもたいてい途中でごろりと横になってすやすやと寝てしまう。いつもお仕事お疲れ様。

出来るけれどしない

 昨日、寅さん没後20周年の上映会などがあったらしい。映画館で見たことがない若者が増えているというが、もうそんなに経ったのだ。しかし若い人でも寅さんファンはいるし、初めて観て大好きになる若者もいるという。

 その中の、ある若者のことば。
「寅さんは、自由に生きるという、したくても出来ないことが出来ているのがうらやましい」。

 ちょっとことばにこだわってもうしわけないけれど、自由に生きることは誰にでも出来ることである。したくても出来ないというのでは、誰かに自由にさせてもらえないかのように聞こえる。しないのは自分である。したくても出来ないのではなく、出来るけれどしないのである。

 そんなことを言ったって生活があるではないか。そんなことはわかっている。こんなときは、寅さんのように自由に生きることは、出来るけれどしない、それがわたしの生き方である、と考えて欲しいのだけれどなあ。

 明日からオリンピックが始まる。世の中は賑やかになるであろう。昔はわたしも興奮してテレビにかじりついたものだけれど、最近はそれほど気持ちが盛り上がらない。歳のせいなのだろうか。戦いのひりひりするような緊張がつらく感じるようになった。これはシリアスなドラマでもそうだ。

 興奮しなくなったのではない。あまりにも感情移入しすぎで、つまり興奮しすぎていたたまれなくなってしまう。年をとって意気地がなくなるとは思ってもいなかったことである。

 そう言えば父もそんなところがあった。だから「ドラマなんて嘘っぱちだ」と言った。リアルだと考えるといたたまれなかったのだ、と今ならわかる。

内田樹「内田樹の生存戦略」(自由国民社)

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 読者からの質問に老師が回答する、という本である。お悩みごと相談から政治的な意見の問い合わせまで、多種の質問が寄せられている。

 「はじめに」で書かれているけれど、「どうしましょうか」「どうすればよいでしょうか」という質問に、「こうしたらいいと思いますよ」という答えはあまりない。「どうして人はこういう質問をするのか」ということを老師は考える。そしてそこから質問者に対してときに辛辣な回答が返される。そのあまりの明快さに胸がすく思いがすることも多い。

 少なくとも前半はそうだ。面白くて次の質問に行くのが楽しみである。

 例えば、

「就職活動中なのですが、『なにやっとけばいいんですか?』」というクリエーター志望者の質問に対する答えなどは、とことん辛辣である。

 「あなたはクリエーターに向いていない、なぜならばわたしに『正解』を求めているからだ」
 「イノベーターは『どうすればいいんですか?』ということばを口にしない。それは標準的なふるまいを問うことばであって、『みんなは何をしていますか?』と問うことであり、さらにいえば『何をしていればその他大勢に紛れ込めますか?』を訊くことに外ならない」

 そういう態度は「クリエイティブ」とはいわないのだ、と断定する。

 そこからさらに「なにをやっておけばいいんですか?」という質問の中にこめられた心理が暴かれていく。

 一見「正解」を求めているようでありながら、求めているのは「ミニマム」であると喝破するのだ。この質問は「これさえやっておけば、失敗しても責められない最低ライン」の開示を要求していることに外ならない、と指摘する。

 現代の人々が、特に若者の多くは、この「最低ライン」をいつも質問する。それだけやればあとはやらなくていい最低限を知りたがる。つまり最低限の努力しかする気がないと宣言しているのと同じなのだ。

 この心性に対しての危惧、非難は繰り返し語られてきたことである。哲学とフランス語の教授であり(1960年に名誉教授)、武道家でもある老師からすれば、学問や武道に「ミニマム」という思考はあり得ない。いや、そもそも人生のあらゆる事に「ミニマム」、つまり「なにをやっておけばいいんですか?」という質問はなじまない。人間として「ミニマム」を求めて生きることにどんな意味があるというのか。

 これが現代の商業主義の普遍化でなくてなんであろう。最低の対価で最高のものを得ることに血道を上げる。人生を値切ろう、というのか。すべてを値切り続けて最低価格で手に入れることに喜びを感じる、それは同時に少しでも余分の金を払ったときに激しい後悔、損に対する嫌悪となる。

 だから「なにをやっておけばいいんですか?」という質問になるのだ。

 このあと仕事というものについての老師のお考えが述べられているが、長くなるので前半だけ。

 かほどに楽しく面白い本が、後半うんざりする本に変わる。政治的な質問ばかりになり、それに対する回答は当然ながら老師の政治的スタンスを答えることになるから、ほとんど同じことを繰り返し語ることになる。

 わたしが老師と同意見であればそれも心地よいかもしれないが、じつは政治的スタンスとそれに関わる世界観が全く違うので、読み続けるのが苦痛である。老師もそのことをあとがきで述べていて、多少残念に思っているようだ。

 前半だけの本なら良かったのに。

2016年8月 4日 (木)

「、と」

 いつも悩むのが、句読点を「と」の前に打つのか、あとに打つのかということである。それにそもそも句読点をどこに打つのかということも、とても悩ましい。

 句読点は文章を読むときに息継ぎになるところで、一つのリズムの区切りだと考えるので、適当に打っておいてからあとで読み直して、ときに足したりなくしたりする。

 「と」の前に一つの独立したまとまりが書かれていて、それ全体を受けて「と」を使うことが多い。つまり意識としては「と」の前に区切りを置きたい気がする。だからわたしの文章ではおおむねそのようにしている。

 しかしいろいろな文章を読むと、「と、」とするものがしばしばある。そのほうが普通かもしれない。もちろんわたしと同じような用法の人もいる。たぶん国語学者の「正しい」答えはあるのだろう。いまそれを調べて今後は「正しい」ものにするべきか、今のままで行くか。

 やはり、自分のリズムを基準にするほうが楽だから、いままでどおりに「、と」にしようか。そんなこと誰も気にしていないと思うけれども・・・。

表音文字のみにする

 いつも拝見している「shinzeiのブログ」のshinzeiさんからいただいたコメントによれば、「南北朝鮮の人々は『ハングルは科学的・合理的文字だ』と誇っている」そうである。ただし、shinzeiさんが南北朝鮮の人と同意見だというわけではもちろんない。ハングルのみにしたことで韓国の知性が損なわれたのではないか、と考えておられる。韓国の中にもそう考えている知識人がいるという。

 確かにハングルは表音文字として優れている面もあるといわれる。それならエスペラントは同様に科学的で合理的なことばであり、文字だと言われるが、どれほどの普及をしているのか。

 ことばも文字も文化である。文化はときに科学的でも合理的でもないが、文化こそ人間のアイデンティティを作る大事な要素であり、その継承は民族にとってかけがえのないものである。

 アルファベットも表音文字である。しかし単語の発音とスペルは一致しないことが多い。アルファベットが読めれば文意はともかく、文章を正しく読めるわけではない。単語はそれ全体で一つの表意文字だ、と言う意見もある。アルファベットで書かれた文章を単語ごとにイメージできるのが知識人だとも言う。

 それがイメージできない病気があるらしい(認知障害の一種)。有名なのはトム・クルーズだ。彼は文章から意味を読み取れないので、脚本を読んでもらって理解し、記憶するという。

 ひらがなだけで書かれた文章を想像してみて欲しい。日本語は同音異義語がとても多いことばである。これはもともと日本にあったやまとことばに、外来語である漢語をふんだんに取り入れてきたのが日本語だからである。だからひらがなだけで書かれると、その単語の意味が文章の前後を良く読み込まないとわからないことになる。漢字があるのとないのでは、理解のスピードが著しく違うはずだ。 

 ところが国語審議会は究極的に漢字をなくそうとした、というのが高島俊男師の主張である。それは荒唐無稽な話のように聞こえるが、じつは事実であるらしい。戦後、志賀直哉などが日本は日本語ではなくフランス語を公用語にすれば良い、などと主張したことは有名で(敬愛する志賀直哉がこんなことをいったのは残念でならない)、同様の言説が横行した。日本の文化そのものを断絶させることが、日本を二度と戦争に導かないための方法の一つであると考えられたのであろう(これは文化大革命的発想である)。

 国語審議会の意向はまさにそれに沿ったものである。漢字全廃までの一過程として、漢字を簡略化して、使用制限をかけたのだ(教育漢字・当用漢字の指定、当用漢字はのち常用漢字)。つまり日本も韓国がハングルのみにしたことと同様、ひらがなだけの国にすることを目指したのだ。韓国に出来たことが日本では出来ていないことを残念に思っていることだろう(同時に国民は愚かだから難しい漢字は手に負えない、だからやさしくしてあげようという意識があったこともうかがえる。国語審議会の面々の俗物根性が感じられるのはわたしの妄想か。結果的にそれが愚民化につながるかもしれないとは思わなかったのか)。

 つい話が高島俊男師の本の話をなぞるものになってしまった。

 表音文字だけの文字などは表現できる内容に限界があるとわたしは思う。漢字撤廃はいまはありそうもないことになっているのは幸いである(漢字習得に苦労している子どもたちは別だろう。でもその苦労があとで役に立つのだよ!)。そして誰もが古典を読めるためにも、漢字におかしな制限や改変を加えないで欲しいものである。

葉室麟「津軽双花」(講談社)

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 この本を読んだときのわたしの調子があまり良くなかったのだろうか。あまり集中できなかった。

 長編である「津軽双花」に加えて、「大坂の陣」「関ヶ原の戦い」「本能寺の変」の三編の短編が収められている。

 全体として、すべての物語での石田三成や高台院(寧々)、淀君たちの世界観は統一されている。その世界観は実際の彼らの考え方と言うよりは、葉室麟がこうだと好いなあ、と思った世界観だろう。

 それはいままで呈示されたことのない考え方である。確かにその考えに基づいて実際の歴史が動いたとしても、つじつまが合わないことはない。ただ、いままでの歴史観とは違うから、違和感があるのも否めない。

 人間として理想を求めながら、同時に自らの幸せを願う、このことがいかに困難であるか、これは現代でもそうなのであるから、ここに描かれている時代の人たちにとってはなおさらであろう。

 状況に合わせて自分を殺して生きることが当然であった時代に、自らの理想に殉じるという行動原理を持って生きる人がいたら美しいだろうなあ、という一つのファンタジーを葉室麟が描いたものかもしれない。

 そのことにやはり心が揺さぶられて目頭が熱くなる(とにかく異常に涙もろいので)。生きにくい生き方を貫く人に感動するのは、自分には出来そうもないことをする人に感動するからか。

 しかし全体とすれば、いつもの葉室麟の小説とは違う気がする。

2016年8月 3日 (水)

高島俊男「漢字検定のアホらしさ」(連合出版)

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 お言葉ですが・・・別巻③

 この「お言葉ですか・・・」の別巻シリーズは現在第六巻まで出版されている。ジュンク堂にならんでいたのを(ついに)買い揃えた。

 「漢字検定」について、検定を受けるつもりまではなかったが、自分の漢字能力がどの程度なのか知りたいと思って問題集を揃えてみたことがある。正直、なんでこんな問題があるんだ、と思うこともあった。その違和感の意味を高島師は詳しく教えてくれた。

 漢字は文字である。読み書きするための道具である。その道具を使いこなすためにその能力を検定することは意味がある。ところが「漢字検定」はその本質を見失って、ただの物知り合戦、クイズみたいなものである、と言う指摘は、言われてみて初めてわかることであった。

 「漢字検定」の点数を上げる努力をしたところで、残念ながら漢字を使いこなし、文章を読み書きする能力が上がることはないだろう。漢字をたくさん知って知ったかぶりするためのものにしかならないような気がする。

 高島師は、戦後の漢字の簡略化を激しく非難する。そもそもの漢字の成り立ちを無視した簡略化は、意味を伝えるものであるという漢字の文字としての本質を見失わせている。正字(旧字)は漢字世界で完全に共通の文字だった。いまその正字を(中国では繁体字と言っている)使い続けているのは香港と台湾のみ。つまり文字を通して伝わった意味が、文字を変更したことで伝わらなくなった。中国の簡体字など、ほとんど表音文字と化し、意味をなさない。

 なぜ正字にこだわるのか。正字を知っていれば、漢字で書かれた過去の文化や歴史を読むことが可能だからだ。韓国はハングルを国の文字として採用したことで、過去の文化と歴史を読むことが出来なくなってしまった。韓国や中国の人々が過去の歴史を知らないことは恐ろしいほどである。何しろ直接読むことが出来ないのだから。

 これはハングルや簡体字を採用したことの副作用なのだろうか。それよりも過去の歴史や文化を国民に知らしめないための方策であったとも考えられる。たぶんその意味のほうが大きいだろう。

 日本でも、戦後常用漢字として使用漢字を国家が制限するという暴挙を行った。これは、そもそもは漢字を全廃して、すべて表音文字にするための一過程であったことは、すでに高島師によって論じられ、検証されている。

 戦前は、書くことは困難にしても誰でも正字を読んでいた。読みにくいものにはルビを振った。それでなにも不都合はなかった。

 極論すれば、これは意図的な国家による愚民化政策である。

 つまりいまの漢字は中途半端な文字なのである。そのことをよくよく承知しての漢字検定でなければ、漢字の能力を測ることにならない。その点で「漢字検定」は怪しげである、と言うのが高島師の言いたいことである。わたしも読んでそう思った。

 この別巻③の冒頭部が表題の話で、そのほかにたくさんテーマがあげられている。杜甫の「春望」という、誰でも知っている漢詩について、詳しく読み解いたものなど、ものを知った上で見えている世界の深さと広さに呆然とする。ものを知らないと世界は狭いのを思い知らされる。

 「寅さんあんたはトラなのか」という文章で、高島師が寅さんが好きであることを、そして渥美清が不世出の天才と讃えていることを知り、嬉しくなった。

 取り上げて語りたいことが山のように盛り込まれている本であった。

時間があるから出来なくなる

 仕事をしていたときは、限られた時間をやりくりして本を読んできた。定年でリタイアすれば、本を読みたいだけ読めるようになると心待ちにしていた。

 芥川龍之介の「芋粥」ではないけれど、食べたい、食べたいと思っていた芋粥を、山のように目の前に出されて「さあ食べろ」と言われると、見ただけで腹一杯になった気になる。時間がありすぎて、却って本を読む意欲が削がれた気がする。

 それでも好きなものは好きだから、がんばって読もうとするのだが、なかなか思うほど読めないものだ。

 七月は意識して読む冊数にこだわってみた。一週間ほどの旅行中は思うように読めなかったが、それでも一ヶ月で25冊読了(読書手帳をもう20年くらいつけ続けているので、どんな本をどれだけ読んだかすぐわかるのだ)。読めば読めるものである。しかし気がついたら内容をよりも読了することにこだわりがでてきた。これだとつい読みやすい本にばかり手が伸びて、歯ごたえのある、一日や二日では読めない本が遠ざけられてしまう。バランスが悪くなっている。

 とはいえ猛暑の時期でもあり、特に出かける用事もしばらくないので、お盆くらいまでは涼しい部屋でゴロゴロしながらいまの調子で読書と映画鑑賞を続けようか。時間的にはもっと読めるし、もっと観ることもできるが、なかなか計算どおりには行かないものだ。

 それ以上に近頃疲れが眼に来ている。目薬をさすと多少良いけれど、眼がかすんで、もやがかかったようになることがしばしばある。これがかなりつらい。なんだかヤワな身体になった。

雷雨

 昨夕、四時過ぎから空がにわかにかき曇り、遠雷が聞こえた。しばらくして激しい雷雨となった。すぐやむのかと思ったら六時過ぎまで雷は鳴り止まず、雨も横なぐりの風とともに断続的に降りつづいた。

 久しぶりのまとまった雨である。そう言えばむかし埼玉県の北部に住んでいた頃、仕事の帰りに利根川の土手を走っていたとき、前方を走っていた車に雷が直撃したことを思い出した。車であれば落雷の直撃を受けても大丈夫であるということは、知識として知っていた。前の車のあたりが真っ白になったあと、当然その車は止まった。わたしももちろん止まった。

 しばらくして前の車がのろのろと動き出したのを見て、ちょっとほっとした。

 北関東は雷の多いところである。梅雨の前後から、急に気温が高くなったときなど、すさまじい雷雨を見ることがしばしばあった。住んでいたマンションの四階の窓から、まるで花火を見るように落雷を眺めた。それはすさまじいものだった。

 そんなことを思い出させるような雷雨であった。

 瞬間的に二度ほど停電したが、特に電機製品にトラブルはなかった。ただし、BSはまったく見ることはできない。これは雷よりも強い雨が理由だと思う。

2016年8月 2日 (火)

負けるべくして負けた

 都議選の結果について、専門家を自称する人たちはみな予想通りであった、と口を揃えて言っている。確かに選挙後半には小池女史がリードしているらしいことは感じられた。しかしここまでの差がつくことを予測した人がどれほどいただろうか。

 増田氏の敗因は、石原親子に原因の一端があると評されていた。そうであれば、自民党がかつぐ候補はそもそも勝てるはずがなかったのかもしれない。それにしても党をあげて応援しながら惨敗し、その責任が問われない自民党とはどんな党か。石原伸晃氏は経済再生大臣として引き続き内閣にとどまるらしい。

 責任を感じて固辞することもないところがこの人の恥知らずなところだろう。ここで自ら責任をとれば小池女史を処分する動きも起ころうところだが、知らんぷりでは小池女史も処分するわけには行くまい。

 そもそもあの小池女史を応援したら一族郎党処分するぞ、と言う回状はなんだったのだ。やくざの破門状か。あれを石原伸晃氏は知らなかったと言い逃れしているらしいが本当か。小泉元首相が、「もし自分が小池女史を応援したら、小泉信次郎議員も除名するのか?」と呆れていた。あれが自民党のもうひとつの大きな敗因だろう。

 これが日本的な責任不問体質の典型的な様相だ。

 それ以上に言いたいのは鳥越氏の敗因だ。そもそもこの人が東京都知事の職をなんと捉えているのか、皆目不明であった。ジャーナリストとして弁舌さわやかに敵を非難して、もうすこし場を盛り上げるのかと思いきや、演説のたびに聴衆は減り続け、そっぽを向く始末だったというではないか。

 ジャーナリストには自分のこうであるべきだという世界観が確固としてあり、その視点から世の中を批判する人と、相手の提示したものの欠点を鋭く突くことに長けているけれど、たたき台がないとなにも言うことが出来ない人間がいる。鳥越氏はまさに後者の典型的な人物であるようにわたしは思っていたから、むかしからあまり評価しなかった。つまり彼の言説に、意見は違うとはいえ、目新しい、なるほど、と思わせるような話があまり感じられなかったのだ。

 今回の彼の行動は身内の人たちにとって「殿ご乱心」だったのではないか。

 病み上がりだと言われたことに激怒していたが、事実その闘病を売り物にしていたのだから病み上がりにはちがいないのであって、彼を病み上がり、と言うことが病人すべてを敵に回すようなことにつながるとは思えない。お身体大丈夫ですか、とやんわり言えばよかったのか。

 しかも高齢である。いまは元気でも任期の四年を勤め上げると80歳である。80を過ぎるとあの石原慎太郎でも眼に見えて衰えるのである。まして大病したあとの80歳はつらいだろう。

 それにしてもその人を担ぎ上げ、引き回し、正義の味方としてきた野党四党の面々の、あまりにとんちんかんな応援の仕方は、これがまともな知性の人たちとはとても思えないようなものであった。

 その姿を見た都民は鳥越氏に同情したのだろう。このままでは彼を都知事にしたら可哀想だ、と思ったから投票しなかったのだ。その優しさの足りない思いやりのない人たちだけが彼に投票した、などと言ったら怒られるだろろなあ。あんないい人が伏魔殿みたいな都議連の面々と正面から戦うことなど出来ない。命を縮めるばかりである。可哀想だろう。

 だから鳥越氏は負けるべくして負けたのだ。

 共産党の某女性都議が、さっそく小池議員の身体検査に全力を注ぐ、と息巻いていた。またあの騒ぎを蒸し返し、東京都政を停滞させようというのか。もう日本中みんなうんざりしているのだ。そろそろ前向きに待機児童解消などの問題点を解決するために働いたらどうだ。正義の味方はもうたくさんだ。

堂場瞬一「穢れた手」(創元推理文庫)

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 堂場瞬一と言えば警察小説である。鳴沢了のシリーズなど、一時期せっせと読んだものだ。主人公が地道に少しずつ薄皮を剥ぐように事件の真相を解明していくという、リアルな物語の進め方が多い。

 主人公と同期で親友の刑事が、警察情報をもらして収賄した罪で逮捕される。贈賄側の証言も得られていたのだが、親友は完全黙秘。そのうちに関係者が一人自殺、贈賄側の証言も翻される。結局事件は立証できず、親友は放免される。

 しかし、親友は逮捕された時点で免職となり、復職の目処は無い上に「汚職警官」の汚名はぬぐえぬままとなる。

 そんな中、主人公は真相を突き止め、親友の汚名を雪ぎ、出来れば復職を勝ち取ろうと単独で捜査を開始する。しかし警察組織は過去のこととして彼が動きまわることを許そうとしない。彼の操作は遅々として進展せず、彼が頼れる数少ない人たちからも、そして当事者の親友からも、これ以上関わるな、という強い忠告を受ける。 

 それでも単独の捜査を進める主人公は、贈賄側の男を尾行中に、意外な人物に会っているところを見る。さらに正体不明の人物が現れる。みなが、主人公になぜこの事件に関わらせようとしないように動くのか、それが最後に明らかになる。

 まさかこういう結末ではないだろうなあ、と思っていたような結末になっていく。そのことにはなんとなく釈然としないけれど、気がついたら最後まで一気に読んでしまった。

 巻末の解説に、堂場瞬一の警察小説はハードボイルドである、と書かれている。ハードボイルドは普通警察官ではなく探偵や孤高の男であるが、確かにハードボイルド特有の、組織ではなく、孤独な男が、ひたすら多くのひとと会い、会話を積み重ねることで事件の核心に迫っていく手法はこの小説でもそうだ。

 警察小説だが組織で動くのではないというのが独特なのかもしれない。そう言えば鳴沢了のシリーズもそうだった。

 本の帯にミスリードの罠が隠されている。

2016年8月 1日 (月)

佐藤優・宮家邦彦「世界史の大転換」(PHP新書)

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 もと外務官僚だった二人が現在の世界情勢を概観する。二人がテーマとして詳しく語るのは中東情勢である。中東が現在のような状態となった歴史を熟知し、それが世界にどのような影響をもたらしているのか、ディープに考察していくのだが、哀しいかな、中東についての基礎知識が当方にほとんど無いので、二人の対談のさわりをなんとか聞き逃すまいとするばかりで、知れば知るほどわからなことが増えていくことになった。

 世界が流動化して不安定化しているのではないか、と多くのひとが思い始めているのではないか。それはどういう原因によるものなのか、ここに一つの回答らしきものが提示されている。そしてこれから起こるだろうことを予想するために、なにに注目していけば良いのか、そのことにもいくつかヒントが得られるだろう。

 ヨーロッパが難民についてここまで苦しんでいるように見えるのには、ヨーロッパ自らが招いた過去の行為の結果であることは多少承知していても、どうしてそれを引き受けなければならないか、日本人にはわかりにくい。しかしヨーロッパの人々には自明のことであり、だからこそ極右の台頭も起こるというのだ。この辺の論理はわたしには説明が難しい。

 フランスでテロが続発していることの理由も、フランス社会そのものに要因があると語られる。そう言えば先日内田樹・姜尚中の「世界『最終』戦争論」でも、日本人には信じられないようなフランス社会の異質さが語られていた。語られているポイントは違うけれど、根は同じなのだろう。

 イランにたいしてアメリカのオバマ大統領が妥協に次ぐ妥協をしたことが、今後中東情勢をいっそう流動化させていくことになる。ロシアの介入を許し、サウジアラビアがアメリカと距離を置くようになり、イランとトルコが強大化していくという。やはり人口の多いところは経済的にも力を持つことになるようだ。

 さらに二人が注目しているのが中央アジア、フェルガナ盆地周辺である。新たなジハード拡散の拠点となるという。関わるのはキルギス、カザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、アフガニスタンなどである。そしてそのすぐ東、そもそもが東トルキスタンであった新疆ウィグル自治区である。

 資源が豊富にあり、中国ロシアをはじめとしていろいろな勢力がここに押し寄せつつある。もともと独裁者が支配している国々が多いが、みな長期政権にゆるみがでてきており、そろそろ大きな変革が起きてもおかしくない。

 中東情勢が飛び火する可能性が大きいのだ。

 このフェルガナ盆地も大国の勝手な線引きでむりやり国が作られたところなのである。

 しかし新聞をはじめとするニュースでは、この二人が語るような視点からの中東情勢はほとんど語られない。それはこの二人が特殊な、間違った世界観に基づいているからだろうか。私はこの二人の見方のほうを評価したい。だからこの本で指摘された注目箇所のニュースを目にしたら、よく記憶しておいてこの本に書かれているような視点からニュースの意味を考えることをたのしみにしたい。

 もちろん世界を論じているので、アメリカや中国、ロシアや韓国、そして日本も論じられている。大変参考になったが、繰り返すが、中東についてわたしがあまりに無知なので、二人が自明としていることが自明で無く、しばしば読み進めるのが困難なところもあってところどころ読み飛ばさざるを得なかった。

真夏

 早朝に千葉を出発した。車が比較的に空いていたので、五時間かからずに、無事名古屋に到着。千葉は小雨だったのに名古屋は快晴。じりじりと照りつけて肌が痛いような真夏の日差しだ。

 いま荷物を片付け、一息ついた。荷物の主なものは本。実家に置いてある本のうち、司馬遼太郎の『街道を行く』シリーズを持って来た。全巻単行本。すでに少しだけ運んだが、残りの三十冊ほどを今回持って来た。あとは出来れば江戸川乱歩全集をもってこようと思う。ほかにも山のようにあるが、それはもうないものと思って、処分するのも棚に飾っておくのも弟たちの自由にしてもらう。

 弟たちは本をほとんど読まないから本はたんなる飾りである。兄弟でどうしてこんなに違うのか不思議だ。妹はけっこう本を読む。だから実家の本棚には妹の本もある。

 妹の嫁ぎ先でも母親が亡くなって実家は空き家になった。古い家なので、いまそこに新築の家を建てる計画を立てている。妹もパートで働いているし、まだ同居している娘二人も月々食費を家に入れているから、なんとか家を建て直す金はあるそうだ。えらいものだ。

 今回、母の一周忌に来たので、新盆はパスしようと思ったら、弟から施餓鬼に参加するよう頼まれた。億劫だがこれも大事な用事である。だからお盆にはまた千葉へ行かなくてはならない。そのあと数日後にちょっと気の重い用事が同じ千葉県で控えている。その間弟の家にやっかいになることにした。

 松戸に一人、兄貴分の人がいるので、都合がつけばいつものように船橋あたりで歓談しようかと思う。もちろん酒である。

 息子と娘の盆休みの予定はどうであろうか。後半に用事が出来たから、前半に来てもらうしかない。都合はつくだろうか。会いたいけれど、向こうも予定があるだろうしなあ。

顔伯鈞(安田峰俊編訳)「『暗黒・中国』からの脱出」(文春新書)

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 表題に、逃亡・逮捕・拷問・脱獄と附されている。ただし、この本は嫌中本ではない(結果的に中国が嫌いになるかもしれないが)。

 編訳、とされているのは、そもそも著者に手渡された手記が膨大で、すべてそのまま訳すと普通の単行本で四冊以上になるため、読みやすく編訳したのである。

 これはすべて実話であろうとわたしは思う。そう思えば、いまの中国はどれほど恐ろしい国であるのか、と暗い気持ちになる。わたしが暗い気持ちになるのは、子どものころから中国の物語や歴史になじみ、中国にあこがれ、ついには日本の歴史よりも中国の歴史のほうが詳しいくらいになったほどだからである。

 とはいえ中国に詳しくなり、中華人民共和国成立から文化大革命前後の近代史を知るに及んで、中国共産党の支配する中国に激しい違和感と、ときに嫌悪感を感じていることも確かだ。

 いままでに二十回近く中国に行った。いまの中国に重ねて過去の中国を幻視して楽しむとともに、すさまじいスクラップ&ビルドの果ての惨状も目の当たりにした。文化というものを破壊尽くそうとした文化大革命の残滓が、残滓どころではなく中国人の基本的な思考に擦り込まれてしまったことを強く思い知らされた。

 その中国の習近平政権は言論封殺を進めている。独裁政権は言論統制をするものである。だからいままでの政権も自由な言論を許したりしていない。しかし習近平政権の言論統制はいままでとは格段に強化されている。それが毛沢東時代とまでは言わなくとも、鄧小平時代に近いといえるだろう。そしてこのようなことは歯止めを失うとエスカレートするものである。

 中国経済は明らかに減速しつつある。崩壊するかどうかは別にして、経済の減速により、隠されていた多くの問題が顕在化し、体制に対する不満は増大する。抑圧されればされるほど増大する。歯止めがきかなくなるというのはそういうことである。

 そんな中で、習近平の唱える汚職撲滅に連動して、共産党幹部たちの資産公開を求める運動が起こされた。著者もその運動に賛同し積極的に参加した一人である。

 そんな彼が反体制の危険人物として当局からマークされ、次第に追い詰められていき、逃亡に次ぐ逃亡をしたあげく逮捕され、どんな仕打ちを受けたか。そして放免された後に辛くも東南アジアに脱出して身を潜めざるを得なくなっている。

 もちろん彼の思想は民主化を是とするものであるから、当局からマークされるのも成り行きからあり得ることであるが、しかし彼の言動も主張も極めて穏当なものであり、体制転覆を謀る、などというものでは全くない。

 そのような人々を追い立て、投獄し、洗脳し、屈服させて罪を認めさせようとするシステムが中国では起動してしまった。

 中国はある意味で暗黒時代に逆戻りしつつある。いや、スイッチバックのように、逆戻りしながらさらに違う地平に中国国民を追い立てているのかもしれない。中国がわたしにとってどんどん遠くなりつつあることを思い知らされた本であった。

 この本はある意味では冒険小説のような、ハラハラドキドキするようなシーンが連続する。まさに「逃亡者」のドラマを観るようである。つまり読みやすくてわかりやすいのだが、現実に戻れば、いまの中国の人々が置かれている状況がどれほど苛酷なものか、なにが隠されているのか、思いやらずにはいられない。

 日本のマスコミはこのような現実を伝える努力を怠っている。

 先日も突然日中友好に働いている日本人が拘束されるという理不尽が平然と行われた。そんな国であることを朝日新聞が痛烈に批判する、などと言うことは決してない。然らば彼らもグルか。

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