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2016年11月

2016年11月29日 (火)

小松和彦「妖怪学新考」(講談社学術文庫)

 鬼といい、妖怪といい、物の怪といい、神という。これらの区別があいまいなのが日本の国である。そんな乱暴なことがこの本に書いてあるわけではないが、それらの全部を論じている本である。そして副題に「妖怪からみる日本人の心」とあるように、そもそも妖怪は人間の心が生み出したものである、という原点が呈示されている。日本の妖怪を考えることで、日本人の心をさぐるわけである。

 しかしそれはそれらのものは実在しないもの、妄想であり、迷信であると決めつけているわけではない。それは大変大事なことで、そのことを外してはならない。明治以来西洋の科学的な思想が日本に流入して、そのような妖怪は迷信であり、盲信であるとして、学者達はそれをなくそうと尽力した。井上円了(東洋大学の創始者で哲学者、教育者)などはその筆頭で、各地のそのような言い伝え、民話、伝説を収集し、それがいかに非科学的なものであるかを講演して回り、民衆を啓蒙した。

 そのような収集活動によって失われるはずだった話が残されることになったという側面もあって面白い。

 (書きかけです。残りは台湾から帰ってから)

2016年11月28日 (月)

小谷野敦「本当に偉いのか あまのじゃく偉人伝」(新潮新書)

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 いわゆる有名人が本当に有名であるにふさわしい人なのかどうか、実際より大げさに評価されていないかどうかを、いろいろな人の名を挙げて評価する。

 たしかにひとりの英雄が名を残すとき、そこには多くの無名に終わった人たちがいて、それらを合わせて有名であることは歴史上にはままあることである。また弟子が多数いると、それらの人たちが師匠を偶像化することで、実際より高く評価されていることも多々あることである。学問の世界などではそれが普通だともいわれるくらいだ。

 またある人が偉いと一般に認められたりすると、もう信仰のようにすべてその人の言ったこと行ったことが正しく美しく見えてしまう崇拝者というのも現れる。

 人間というのはすばらしいこともするし、愚かなこともする。正しいこともするが、ときにわるいこともする。ときにとても愛情深いが、ときに残酷である。そんなことはおとななら知っているはずだが、崇拝した人はその崇拝する相手をすべて美しく思いたい。

 著者はそのような、あまりに実像と離れた、作られた虚像を打ち破りたいと思ってこの本を書き始めたのかと思って、私はこの本を読み始めたのである。

 たしかにそんな面もある。しかし全体としての印象はこの人は好きだがこの人は嫌いだ、というのが評価の基準であるように見える。もちろん好き嫌いにはきちんとした理由が挙げられているから、思い込みとまでは言い切れないが、好き嫌いで評価するならこの本は書かれている偉人の話ではなく、その偉人を通しての小谷野敦の自己紹介のようなものになってしまう。それに理解できないから嫌いとしか読み取りようのない部分もある。それが自分に問題がある場合についての自覚があるのかどうか。何しろ小谷野敦氏は頭脳明晰であるから、その小谷野氏が理解できないのは相手がわるいとしか思えないに違いない。

 取り上げられている人は数多く、アレキサンダー大王から石原慎太郎まで何十人といる。私の知らない人もいて、私が無知だから知らないのかと思ったら、たぶん普通の人は知らないだろうが、とわざわざ著者が断っているから知らないのも当然なのだろう。しかしその人が偉い人の仲間にされているところを見ると、冒頭思ったこの本の目的とは違うことが分かる。

 帯に「裸の王様」をぶった斬る、目からウロコの新・偉人伝!とあるが、残念ながら私の目のウロコは剥がれることがなく、小谷野敦も焼きが回ったな、という読後感だけが残った。名を残すにはそれなりの功績があるのである。それを謙虚に認めた上で評価をするのが礼儀だろう。ゴシップ記者ではあるまいし。本当に斬るべき相手もこのなかに何人かいるようだが、それが紛れ込んで見えないではないか。

 私が評価しているのにこの本で酷評されている人がしばしばいるのでちょっと辛口のコメントになった。最後に石原慎太郎を評価しているけれど、それだけで著者との意見の相違を感じる。もちろん石原慎太郎の初期の著作は高く評価する。しかしこの十年の著作は目を掩わんばかりの愚作駄文が多いと思っている。私も好き嫌いで評価してはまずいか。まあ私では何を言っても誰にも影響を与えないし、迷惑も掛けないから勘弁してもらおう。

2016年11月27日 (日)

佐藤愛子「九十歳。何がめでたい」(小学館)

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 母は佐藤愛子が好きだった。直木賞を取った「戦いすんで日が暮れて」(昭和44年)を二人で読んで感想を言い合った覚えがある。父との関係をこの小説に仮託して感じるものがあったようだ。母はどちらかというと積極的に人と関わって生きるタイプ、父はひとりで生きる事を好むタイプである。父は小説のようなダメ親父ではなかったけれど、母には不満があったことをこの小説の話をしたときに感じた。思えば私がまだ成人前のことである。夫婦とはなんだろうと思った、といえばそれらしいが、仲が良いばかりのものでないことぐらいは分かっていた。

 母は(もちろん私も)曽野綾子、上坂冬子と合わせて三婆ガラス、いや三羽ガラスの辛口おばさん達がお気に召していたので、読み終わるたびに母の元へ届けた。読むのをたのしみにしていたようだ。

 その佐藤愛子の新刊がこの本である。ベストセラーとなっていて、すでに35万部突破!と帯にある。読んでいないなら是非読むべし。とても面白くてつい声を出して笑ってしまう。もちろんこの面白さは歳をとっていればいるほど、老齢の身体の無理のきかなさ、不自由さを実感している人ほど身に沁みるだろうが、それが哀しみではなく笑い飛ばせるのである。元気が出ました、と手紙が来たそうである。そうだろう。

 母に読ませたかった。声をあげて笑っただろう。目に見えるようである。読んだら寿命がもうちょっとだけ延びていたかもしれない。

2016年11月26日 (土)

「ガラスの靴」

 安岡章太郎を読み始めたのはいつからだろうか。きっかけは孤狸庵先生遠藤周作である。軽妙洒脱なエッセイ、孤狸庵シリーズを読んでいるうちに北杜夫、三浦朱門、安岡章太郎、吉行淳之介たちとの交友を知り、気がついたら安岡章太郎が好きになっていた。

 小説は岩波書店から1986年に刊行が始まった著者自選の「安岡章太郎集」全十巻を揃えている。予約刊行ではなかったので、新刊が出るたびに購入していたが、第十巻の「大世紀末サーカス」だけは買いそびれて欠本である。アマゾンで探したがそのときは見つからなかった。すべて読んだわけではないが、ときどき拾い読みしている。しかし最近はこの小説ばかりの全集の方ではなく、エッセイのほうを読むことが多い。

 急にまた彼の小説が読みたくて最初から読み始めているところだ。そこで読んだ「ガラスの靴」という短編がなんだか頭に残ってぐるぐる回りしているのでそのことを書く。この小説は安岡章太郎の文壇デビュー作である。

 物語は、主人公の大学生・僕がアルバイト先の銃砲店の配達で訪ねたアメリカ軍人の家で出会ったメイドの女性・悦子との恋愛のようなものである。恋愛のようなもの、とあえて云ったのは二人の関係は中途半端なままでついに成就(肉体関係には到らない)せず、主人公の屈辱と怒りの感情だけを残して終了するからである。

 時代は戦後しばらくしたころで、この軍人は進駐軍の中佐、住んでいる家は米軍に接収された邸宅である。主人公の仕事は主に銃砲店の夜番であるから、昼間は暇である。夏休みの時期であり、この軍人の家族は休暇で長期の旅行に出かける。主人公はこの家に入り浸り、親しくなったメイドの悦子と戯れる。それはときに子供の遊びのようでありながら、ときに心ときめくものである。

 はじめはそれほどでもなかった悦子に、主人公はだんだん惹かれていく。それは悦子の女の本能のようなものが彼を翻弄するからである。しかし悦子は精神的にも肉体的にも成熟していない。それなのに男を翻弄するところが女である。

 女が男を選ぶ。男は女に選ばれるために女とのゲームにつき合う。鳥や獣でしばしばオスのほうが派手で美しいのはメスに選ばれるためである。それが美しさでなく、強さや大きさであることもある。人間の女が美しく化粧し、着飾るのは、男に自分を追わせて男たちを競わせ、自分が選ぶためである。

 そのようにして悦子は僕を進駐軍の軍人の留守宅で遊びにつき合わせ、翻弄する。しかし悦子自身はその意味が理解できていない。そして悦子が僕の夜番の銃砲店を訪ねてくる。僕はついに自分が選ばれたと感じて彼女に迫る。

 そこで彼女に拒否されたことで感じる僕の屈辱と怒りが、読んでいる私に強烈に実感されて、その感覚がぐるぐると回り出して止まらないのだ。彼女はまだ稚ない。そう理解しようとするけれど、行き所のない欲望の炎が怒りに変じた僕は悦子を決して許せない。

 こうして僕と彼女の夏休みは終わる。それだけの小説なのである。

 初めて読んだときは不器用な二人の恋愛のようなその手前のような話としか理解できず、僕の屈辱と怒りがそれほど実感できなかった。今回、どうしてこの小説が高く評価されるのか理解しようとして丁寧に読んで、感情がざわめいた。

 安岡章太郎はこの小説で作家デビューして、第三の新人と呼ばれるようになった。悲惨な戦争と米軍占領下という苦難の戦後時代を経験しながら、脳天気にこんな恋愛小説を書いていることに批判もあった。しかしここに戦後の世相が色濃く表れていることはよく読めばわかる。それを深刻ぶって書いていないだけである。そのことは一部の評論家に認められている。この煮え切らない若い二人にアメリカと日本の関係をみる見方もあるというが、それには作者も驚くかもしれない。深読みしすぎだろう。

 文学もじっくり読むと面白い。

2016年11月25日 (金)

明日から台湾

 明日から台湾に行く。関空に朝8時集合なので、いくら早く出かけても名古屋からでは間に合わない。そこで今晩は天王寺泊まりである。帰りも遅いので天王寺泊まり。愛用のパソコンは持参しないので、ブログをアップすることができない。帰ったら撮った写真を中心にいつものように旅の報告をするつもりである。

 しかしまったく更新がないのもさびしいので、事前に何日分か予約記事を書いおいた。何時書いたか問題ではない読書記録である。

 昨日必要な荷物を引っ張り出しておいたのだが、今頃カバンに詰め込んでいる。娘のどん姫が留守中様子を見に来てくれることになっているので、部屋も少しくらいは掃除しておかなければならない。昼頃には出かけるつもりなので今朝は忙しいのだ。こんなことだから大事なものを忘れたりする。パスポートと金さえあればなんとかなるけれど。

 台湾はたしか四度目か。ほとんど国内旅行に近い感覚で行ける外国なので、ちょっと緊張感が足らない気がする。とにかく、いままでとどう台湾が変わっているか、それを見てきたい。それと、いままでは台北周辺だけだったけれど、今回は台南、台中にも行くのでそれが楽しみだ。天気が良ければいいが。

2016年11月24日 (木)

ニュース雑感・続き

 日韓軍事情報協定GSOMIAがようやく締結に漕ぎつけた。それを非難して中国外務省は「関係国家が冷戦思考に固執して軍事情報を強化することは、朝鮮半島の対立を激化させ、地域に新たな不安定要素をもたらす」と述べた。

 中国が無視せずに、わざわざ嫌がってみせるところを見ると、とにかく締結はめでたいことらしい。

 外務省報道官は続けて、「関係国が軍事協力をおこなう際は、周辺国の安全への関心を適切に尊重すべきだ」と語った。

 ほお、周辺国は宗主国の中国の許可なしに勝手に協定など結んではならないぞ、とおっしゃっているようだ。大国の驕りが見え見えである。このような驕りは自国の内部の病理を見えなくすることを歴史は教えている。すでに中国は衰退に入りつつあるのだろう。

 キューバが全土でいっせいに軍事演習をおこなった。しばらくなかったことで、この演習はトランプ氏の大統領当選を受けたものであるという。トランプ氏はオバマ大統領が進めていたキューバへの制裁緩和に反対であろうとキューバは受け取っており、再び緊張関係になると考えていることを示している。

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 アメリカには亡命キューバ人がたくさんいる。共和党にはルビオ氏などのキューバからの亡命者の二世三世が何人もいる。その人達はキューバとの融和を志向すると思ったら大間違いである。彼等は革命政権に追われた者たちであるから、現在のキューバ政権を憎んでいる。制裁緩和にもっとも反対する勢力なのである。さて、キューバの命運はどうなるのか。昨年行ったところなのでどこよりも気になるのだ。

 韓国の経済指標が軒並み悪化している。それを総評して来年度について悲観的な見通しを述べた記事が掲載されていた。坂を転がり出すとなかなか止まらないのは誰でも経験があって承知している。その不安は韓国全体に蔓延して、その責任を問う怒りの声が朴槿恵大統領に向かっているのは毎週末の大群衆を見るとよく分かる。

 チェスンシル氏との異常な関係は当初の見立てよりはるかに根深いものがあるようで、どこまで波及するか分からない。非常事態に対して団結してことにあたろう、という声はまだ上がっていない。しかし遅れれば遅れるほど傷は深くなる。国家や家族の危機の時にこそそれを救う傑物が現れるという。致命的になる前にそのような人物は出てこないのだろうか。

 隣国の多少の不幸は高みの見物ですませるが、今のままだと朝鮮半島が大きな災厄の火種になりかねない。トランプ氏の率いるアメリカは積極的に関与するとはとても思えないし、日本一国で支えるのは荷が重い。それに支えてもそれを恩義と感じる国ではないことは今まで何度も経験している。

 韓国が日本を呪い、その呪いを日本が跳ね返したために、韓国は自分の掛けた呪いに呪われている、とイメージするのは最近「妖怪学新考」などの本を読んで、頭に呪詛とか憑依という言葉が渦巻いているからだろうか。

ニュース雑感

 今朝は東日本では雪が降っている。東京都心で11月に雪が降るのは54年ぶり、積もれば観測史上初めてだそうだ。地球は温暖化しているらしいが、こういうこともあるのだ。いつもよりも早い21日に冬タイヤに交換したのは正解だったようだ。

 震災による原発事故で福島から横浜に避難していた子供が、学校でいじめに遭っていたことが分かって話題になっている。本人がその事実を告白して明らかになったものだが、それを苦にして自殺という最悪の事態とならなかったことは不幸中の幸いである。子供というのはときにひどく残酷なものだが、いじめを繰り返し、「賠償金をもらっているだろう」と言いがかりをつけて150万円もの金を奪い、仲間たちで遊興に使っていたというからいじめなどというレベルではなく、明らかな犯罪である。

 小学生で賠償金を理由に金をゆするなどというのはおとなの入れ知恵でもあったのだろうか。子供を叱るのは悪さをした直後に限るという。すでに二年も三年も経ってのことを叱っても、たぶんいじめた子供たちはふてくされるだけだろう。逆恨みするのが落ちかもしれない。

 そのいじめのあった時点で両親や警察から連絡があった学校側はその事実を確認したが、いじめとは認識しなかったという。ゆすられた金も、加害児童が「おごってもらった」といったから自発的な金銭提供だと思ったそうだ。常識を欠いた発言だが、いまはいじめであり強請(ゆすり)であったことが明らかになっている。それなのにそのような言い訳を繰り返すのは恥知らずだ。「不明であったことを恥じる。申し訳ない」の言葉はなかったのだろうか。

 福島の高校生達が、自発的に周辺の放射線量の測定を続けているというニュースが流れていた。そのグループの女の子は、自分が子供のときから親に連れられてよくハイキングに行った近くの山がすでに安全な線量になっていることを確認して、原発事故以来学校のハイキングコースから外されているけれどもう大丈夫である、と親たちに報告していた。

 自分で確認して科学的に検証して生活空間をひろげようと考える。いい話だな、と思ってみていたら、親のひとりが切り口上で「安全だ、とあなたはいうけれど、自分に子供がいたらその山に連れて行けますかっ!」と問い詰めていた。女の子はなぜそんな言われかたをするのか分からずに涙ぐんでいた。

 その親にとってはその少女が悪の権化である東京電力の回し者に見えたのであろう。被害者である自分が被害者でなくなっていくことが残念なのだろうか。それともこれも被害妄想の一種か。この親の子供はたぶん可哀想な生活を強いられているかもしれないと想像した。そしてこのような女性が被災地とは違うところにすんでいて、被災地の人々を見たらどのような反応をするのか。過剰反応して福島=放射能、という思い込みから、あの横浜の加害児童の親の予備軍に参じていたのではないかと妄想する。

2016年11月23日 (水)

なんだかなあ

 朝、いつものようにぼんやりテレビを見ていたら、上越市が上杉謙信の刀を買うべきかどうか論争になっているという話題を取り上げていた。その刀は銘刀で、岡山の個人が所有している。時価は何と3億2千万円だそうだ。

 上越市は上杉謙信の根拠地でもあり、それを売りにしているのだが、肝心の上杉謙信のめぼしい遺品はほとんどない。それはそうだろう。関ヶ原のとき、徳川に反旗を翻らせた責任を取らされて、領地替えで米沢へ移封されたから、謙信の遺骸とともにめぼしいものは米沢に移されている。

 だから今回の謙信が所持していたという銘刀は、上越市の博物館や観光関係の部署にとってのどから手が出るほど欲しいものである。上越市民に聞けば、普通の人は観光の目玉になるなら買えばいいという。しかしそれよりも優先して金を使うべきところがあるはずだといって市民団体の代表らしきむさ苦しいおっさんは反対意見を述べていた。いつもの光景である。

 その論争を取り上げていたのは羽鳥アナウンサーの番組だが、なんと番組内の、アナウンサーを含めた四人で賛成反対のカードでの投票をしていた。それぞれの意見がとにかく損か得かに終始している。金、金、金、と言い合っているように聞こえてきてうんざりしてきたので見るのはそこまでにした。世の中の価値はすべて金である、ということをこうして毎日日本全国に擦り込んでいるのがいまのテレビのようである。

 民進党の内部がきしんでいるらしい。蓮舫代表が野田氏を主要なポジションに据えたことが問題視されているという。野田氏はそもそも民主党を没落させた戦犯なのにその人物を起用するのは不愉快だということらしい。特に強く反対しているのが赤松氏(この人、愛知が地盤だが、むかしから大嫌いである)などの旧社会党系の議員達で、脱党も辞さない気配だという。脱党して社民党と合流して消滅していけばいい。それは民進党のためにもけっこうなことだと思うけれど、どうもそれ以外の派閥も強い反発を覚えているらしく、予断を許さないそうだ。つまり蓮舫氏には党内をまとめる力が不足しているらしい。二重国籍問題でも歯切れがわるかったし、うやむやなままである。

 民進党がTPPに強く反発しているのがどうしてもよく理解できない。TPPが自由貿易のためであるというのは、保護主義的なトランプ氏などが反対していることから明らかである。トランプ氏のもくろみは多国間の協定ではなく、二国間の協定に持ち込むことだというのは子供にも分かることだ。どうして二国間の協定にしたいか。それは大国が有利に決まっているからである。中国が南シナ海で、アジア諸国を分断して個別に話し合うことを提唱しているのと同じである。

 さらにTPPには日本国内の保護貿易的な面の中の、特に不合理な部分を改善したいという思いもある。構造改善で絶対必要なものがそこに含まれている。

 民進党がTPP反対を唱えているのは、むりやり理解しようとすれば、弱者に不利だという同情論らしい。しかし国際化した世界で、あまりにも生産性が低いのに何の対策も講じられずに無駄な金がつぎ込まれてきた分野がある。そこにメスを入れなければ、その産業は衰退するばかりである。

 犠牲になるべきでないという分野があるなら、そこに対策を講じる案を提示するのがTPP反対に不可欠である。ところが民進党はただ絶対反対であるという。その理由が次期アメリカ大統領が反対を公言しているから、TPPがまとまる可能性がないからだという。

 彼等は保護貿易を結果的に認める立場に立っていることに気がついていないのか、それとも日本も保護貿易をするべきだと思っているのか。とにかく民進党のTPPに反対する理由がどうしても理解できない。

「西遊草」

 中央公論10月号の特集「男のひとり旅」を読む。いくつかの記事で構成されているが、最初が椎名誠と眞鍋かをりの対談である。眞鍋かをりは男ではないが、椎名誠を敬する眼差しがほほえましく(私が椎名誠が好きだから私まで嬉しくなるのだろう)、語っているひとり旅の様子はまさに男のひとり旅そのものである。彼女は三十歳くらいから旅に目覚め、それ以来時間ができると予約もせずに海外でもどこでもひとり旅に出かけるという。リスクを構えることで識る世界というものがあるのだ。そしてそれを楽しみ、喜ぶのが男のひとり旅であろうか。

 一番読みたかったのはもちろん池内紀の「わが同行二人」。同行二人では男のひとり旅ではないではないか、などというなかれ。同行するのは生きている人ではない。すでに物故した古人、その人が物した旅日記、紀行文などの冊子である。池内紀先生のことであるから、それは名所旧跡の案内であるはずがない。何の目的で旅したのか分からないようなのが得にお気に入りのようである。そんな本の見つけ方が最近なんとなく分かるようになってきた。

 この記事でもたくさんのそのような先達の名が挙げられているが、最後に内田百閒、井伏鱒二、坂口安吾の名が挙げられている。内田百閒の「阿房列車」シリーズは何度も読んでいるので内容も精神も承知しているが、ほかの二人の旅の文章は読んだことがない。機会があれば出会いたいものだ。

 この特集を読んで清河八郎の「西遊草」のことを思い出した。これは清河八郎がふるさと(出羽)の母親と二人で西国へ旅した旅日記である。昨年南東北を旅したときに、清河八郎の生地である清川を訪ねたときに清河八郎の記念館で「西遊草」のことを知った。岩波文庫に収録されているのだが、大型店舗を探し歩いたが見当たらない。絶版になっているようである。

 今朝、もう一度アマゾンにないかどうかしらべ直したら、岩波文庫版は欲しい人の登録があるばかりでやはりないものの、東洋文庫版があるようだ。こちらは古本ではなく新本もある。ただし東洋文庫だから少し高い。欲しいけれど買うかどうか迷っている。

  どうも切りがないなあ。

2016年11月22日 (火)

今朝の地震

 朝六時前に目覚めてテレビの前に坐りニュースを見始めたとたんに地震速報と、そしてほぼ同時に緊急地震警報が流れた。一呼吸を置いた後、なんとなくゆらりと床が揺れた。その揺れはしばらく続いた。たぶんこの地震によって名古屋も揺れたのであろう。震度は小さいが、気味のわるいゆったりした揺れだった。

 それからテレビはすべて地震の報道一色。大事なことだから仕方がないけれど、普通のニュースは一切なし。EテレもBS101も102もすべて同じ同じものが流れている。いつもたのしみにしている海外ニュースはもちろん見られない。韓国がどうなっているのか、アメリカがどうなっているのか、中国はどうか、居ながらにして眺めていた世界は、地震によってブラックアウトした。

 NHKも、いくつかあるチャンネルの一つくらいは地震以外の報道をして欲しいものだ。「この緊急時に!」などとクレームをつける人間などいないと思うが・・・。だいたい一度にすべてのチャンネルをみる人間など以内のだから、地震報道は地デジとBSのチャンネル一つずつくらいでいいではないか。私など意地悪じいさんだから、地震を理由に番組を一本化して、サボって昼寝でもしているのか、などと考える人間もいるぞ。

 地震も津波も今のところたいした被害がなかったのは幸いであった。しかしどうも地面の下はずいぶん賑わしい気配だ。何が起こってもおかしくない。東海地区直撃の地震など来ないで欲しいなあ。もちろん東海地区以外に来ることを望んでいるわけではないけれど。

 それにしても福島第二原発の冷却水の循環が止まった件には驚いた。理由が分かり、すぐ復旧したからよかったものの、あれだけ問題の部分が明らかなのに、想定外の事態が起きるのはやはりたるんでいるのではないか。想定されていれば、一時的な停止は当然として対処できただろうが、そうではなかったようだ。同じ結果でも、原因がわからないでいれば対処ができるまで、不安を与える。その責任は甚大である。

丸岡城

昨日は金沢へ冬用タイヤの交換に行ってきた。リース式の契約をしていて、買うよりも割高だけれど常に新しいタイヤが借りられるし、交換したタイヤも預かっておいてもらえるのでありがたい。金沢に単身赴任していたとき以来だから、もう十年以上お世話になっている。


思ったよりタイヤ交換が早く済んだのでどこかへ立ち寄ろうと考えた。白山の那谷寺(なたでら)あたりの紅葉はちょうど良い時期かな、とも思ったが、シーズンだけに駐車場がいっぱいで、わずらわしいような予感がする。

そこで行きたいと思いながら行きそびれていた丸岡城へ行くことにした。丸岡城はもともとの城が残されている全国でも珍しいところだ。たしか全国で十カ所くらいしかないはずである。金沢から福井に向かい、北陸自動車道の福井の手前の丸岡インターを下りたら二キロくらいとすぐ近い。もう夕方だというのに駐車場はいっぱいである。出て行く車を待ってようやく駐車できた。

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丸岡城は三層のあまり大きくない城だが、やはりあとで造り直した城と違って風雪を経た本物の風格がある。

城主はいろいろ変わっているが、最後は有馬氏七代。一時本多氏が城主だったこともある。

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ベンチに本多成重が座っていた。この人、「一筆啓上。火の用心、お仙泣かすな馬肥やせ」という短い手紙のなかのお仙である。書いたのは父親の本多重次。お仙というから幼い娘だとばかり思っていたら、仙千代のことであったのだ。知らなかった。

これが縁で、丸岡は毎年短い手紙のコンクールがおこなわれている。ご存じの方も多いだろう。城の登り口周辺に傑作がいくつか展示されている。

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読めるだろうか。秀作とあるものよりこちらの方が面白かった。

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天守閣へ入る。階段の急なこと、全国一であろう。傾斜は60度以上あるそうだ。しかも段差が大きいのだ。ロープにつかまって登る。お年寄りやおばさんがワアワア言いながらロープにしがみつきながら登っている。登ったら下りなければならないし、上りも下りも同じ階段だから大騒ぎだし渋滞もする。

やめておいた方がいいのに人は高いところが好きなのだろうし、入城料を払ったからには登らずにおくものか、ということであろうか。私は片手にカメラを持って、すいすい上り下り致しましたよ。

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三階、ここが一番上である。丸岡の街が見下ろせる。心柱、通し柱ではないようだ。完全な木造。むかしのままなのであろう。

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城の周辺は紅葉が美しい。最盛期は過ぎたか。

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紅葉の向こうは丸岡の街だが、写真では分かりにくい。

つぎはおまけ。

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城の登り口にこんな石碑が建っている。朝日新聞の石碑かと思ったら、朝鮮と日本の親善の碑のようだ。1960年と記されている。誰が建てたのだろう。しかし日本に建っているのになぜ日朝ではなくて朝日なのか。日本人が建てたのではないのか。それとも迎合か。細かいところが気にかかる。

2016年11月21日 (月)

日本人とは何か

 評論家の加藤周一氏の「日本人とは何か」という小文(「日本人とは何か」講談社学術文庫に収録)の冒頭に、「日本人とは、日本人とは何かという問を、頻りに発して倦むことのない国民である」とある。日本人ほど日本人であることのアイデンティティについて語るのが好きな国民はいないといわれる。そして海外の人が日本人や日本について論じるのを見聞きするのも大好きであるようだ。

 しかしどうして日本人がそうなのか、あまり得心のいく説明を知らなかったが、この小文でなるほどとうなずくことができた。 

 ある国の国民である、という概念が確立したのは比較的新しい。そもそも現代の、国というくくり、国境というものが明確化したのは、ヨーロッパの長い歴史の中で血で血を洗う戦いの末のものである。地面に線が引かれていたわけではないから、国境などというものはしばしば変更され、もともとあいまいなものだったはずである。

 その国境が明確化してはじめて、例えばドイツ人、フランス人、という国民意識が定着した。国境を挟んで、向こうはフランス人、こちらはドイツ人と互いに認識することになったわけである。ではそれぞれのアイデンティティはどう確立されていったか。

 人間は相手の目に映る自分を通して自分自身のアイデンティティを確立する。相手との違いを識ることで自分自身と相手を違う存在として認識するのだ。国境を接していれば、繰り返しその差異の確認の反復がおこなわれる。そうして私はドイツ人でありドイツ人とはこういう国民である、ということを明確に確立していく。

 ところが日本人はどうであろうか。もともと島国であるから、外部との接触は極めて少ない。日本人としてのアイデンティティを意識し始めたのは早くても幕末であり、西洋と強く接するようになってからのことであろう。その前に中国などと接触してはいたが、こちらが強く意識していても出遭うことはまれで、しかも相手は日本など歯牙にも掛けていないから、互いの葛藤の中でのアイデンティティの確立がおこなわれることがほとんどないに等しかったのだ。

 その外部との接触が濃厚になり出してから、日本人は自らのアイデンティティを、つまり日本人とは何かを知ろうと努めはじめたのである(それまではそんなものは不要だった)。何しろたたき台をもたない国であるからいっそうそれを希求する。

 日本は二十世紀になって初めて世界から相手にされる国になったから、まだまだ自らの位置づけに成功していないのだ。だからテレビで見る海外との関係を論ずる話を見ていると、日本がどう思われているかばかり気にしているように見える。

 だから日本人は自らを論じることも外部から論じられることも大好きなのであるらしい。この小文からそんな風に受け取った。

 ところでちょっと気になったのは、韓国のことである。韓国も日本以上に自分がどう見られているのか気にしている国民のように見える。これはそもそも日本民族のルーツが韓国であることの証拠なのであろうか。だから似ているのか。それもないことはないが、韓国は日本よりもずっと遅れて開国したから、日本以上にアイデンティティが確立していないということで、もともとの国が分断されているところにもねじれが生じているし、韓国にとって日本という鏡を通してしか世界が見えないという習慣が染みついているからかもしれない。

 そして日本との不幸な関係が生ずるまでは、日本との関係以上に長年中国に影響され続けて、中国の価値観でものを見てきたのである。つまり対等の他国との関係というのを確立する機会がなかったのでまだ自国そのものをよく理解していないのである。さらに不幸なことに北朝鮮との関係をどう受け入れるのかも定まっていない。そもそも理不尽な関係だから仕方がないが。

 だから私は韓国がとても気になるのかもしれない。日本の鏡として。そして日本人として。

2016年11月20日 (日)

家族の責任

 認知症の老人が引き起こすトラブルのニュースが増えている。これは単純に高齢者人口の絶対数が増えているからであろうと思うが、なんだか報道のされ方だけ見ていると、認知症という病にかかる老人の割合そのものが増えているかのようである。

 認知症は以前器質障害ではないかのようにいわれたこともあった(これは精神疾患も同様である)。いまは医学も進んで、器質の変化が科学的に検証できるようになったことで、原因の解明も進められている。やがて多少は認知症の治療もできるようになるであろう。初期であれば進行を遅らせることも可能らしい。しかし進行してしまったものはもう無理であることは、将来も変わらないだろう。脳細胞も永遠に生き続けるわけにはいかない。

 できれば自分もその医学の進歩の恩恵に浴したいところだが、どうも間に合わないような気配で残念である。

 認知症を引き起こすウィルスのようなものがあるわけではないようなので、ある年齢の認知症患者の割合が有意に増えているわけではなく、ただ社会の中の高齢者の割合が増えたために、相対的に認知症の老人のニュースが増えているということだろう。

 先日本屋で雑誌を買った。面白いことにその本屋では月刊誌などのバックナンバーが二~三ヶ月分揃えてある。中央公論の10月号の特集は「認知症トラブルの家族の責任」と「男のひとり旅」である。興味のある特集であるから買いである。11月号は「中国強硬策の勝算」と「GDPを疑え」、これも買いである。12月号もあったがあまり興味を引かないテーマなのでパス。こんな調子で選んでいると切りがないのでほどほどにした。

 この認知症に関する特集は、認知症の老人がJRの踏切内に入りこみ、列車を遅らせた賠償責任を家族、特に老妻に負わせようと訴えた判決に関連してのものが中心である。認知症老人を管理保護すべき家族の責任を問うことができるかどうか、いろいろ意見があることだろう。最終的に最高裁でそこまで家族に責任は問えない、という結論になったことを手放しで喜ぶべきかどうか、という疑問を提示した意見に、ある意味で蒙を啓かれた。

 起こったことには誰かが責任を取らなければならない。誰にも責任がないとなると、それで被害を受けた人間は立つ瀬がない。最高裁の判決では病院や介護施設にも責任がある、家族にも責任があるが、今回の事例では、日ごろ手厚く介護をしてきた老妻に、賠償する責任までは問えないというものであった。

 この判決は、家族に責任がないといっているのではない。責任はあるが賠償はしなくていいというものなのである。そして病院にも施設にも責任があると明記されている。

 ここで何が問題なのか。病院も介護施設も家族もこぞって認知症の介護を回避するだろうという哀しい予測である。認知症老人が起こしたトラブルの責任を問われるのであれば、病院も介護施設も認知症の老人を家族に押しつけようとするであろう。そして家族の中で、介護を回避する人たちの中で、引き受けざるを得なかったか進んで引き受けた人だけが責任を負うことになっていく。

 もっとも努力し、苦労する人がもっとも重い責任を負わされる社会が健全であるはずがない。そのことを最高裁の判決は考慮していない、というのがこの記事の介護福祉士の和田さんや、意思で東大の准教授の米村先生の意見であった。卓見である。

 昨今高齢者ドライバーによる事故多発の問題も、認知症が大きく関係しているようである。その事故の責任を家族は負うことができるのか。被害者はどう救済されるのか。このことを社会全体のこととして考えなければならない時代が来たことを示している。

 高齢化社会、そして核家族化からパラサイトシングル化して家族が解体しつつある現代に、高齢者の介護を家族に期待する政府の施策の問題点をもう一度見直す必要があるのかもしれない。すでに金の問題ではなくなっていることをそろそろ気がつかないといけないのではないか。

 福祉は経済的に限界に来ているのは事実であろう。だからといって自分自身の問題として考えれば、負担を回避することなどできない。それならみなが生活レベルを下げてその負担の金を拠出するしかないではないか。そういう主張をするなら民進党にも救いがあるが、生活レベルを下げることなど口が裂けても提唱しないで、そうなった責任だけを声高に叫ぶであろう。現に給料が下がったら年金を下げるという、当たり前の年給支給改正法案に絶対反対を唱えていた。

2016年11月19日 (土)

冷凍保存

 イギリスの(アメリカだったかもしれない)少女が不治の病にかかり余命幾ばくもないという。その少女が自分を冷凍保存するように両親を訴えたそうだ。母親は冷凍保存に前向きだったが、しばらく前に離婚した父親が反対したために少女が訴訟を起こしたという。少女が18歳未満なので、両親が認めないと冷凍保存ができないからだそうだ。判事は少女の生きることに前向きな姿勢に感動した、といっているそうだ。

 まさか生きているうちに冷凍保存するということではないと思う。生きたまま冷凍して生き返るという補償はないから、それでは場合によって冷凍殺人になってしまう。ということは死後に冷凍するということであろう。死んだ人間を冷凍しておくと、遠い未来ではそれを解凍して生き返らせることができる、そして不死の病を治すことができると少女は信じているのだろうか。まあ科学の発達には予想を超えたものがあるので、絶対にあり得ないことではない。

 この場合この少女が不治の病であり、普通の生を全うできない、という前提があるからその判事のようなコメントも出てくるし、話題にもなるのであろう。

 しかし誰もが、遠い未来での不死や若返りを期待して冷凍保存を望んだらどうなるのだろう。そこら中に冷凍保存された死体やら、ときに生体が保存されている社会というのは想像を絶する。

 突然だが、高速道路などで渋滞したときに、渋滞している車を尻目に路側帯を走る車がいる。しばしばとても高級な車で、まじめに走っている車を鼻で笑って通りすぎているように見えることがあり、不愉快である。この冷凍保存の話にその路側帯を走る車のことがオーバーラップして見えた。

 渋滞したとたん、多くの車が路側帯を走り出したら、路側帯を走る利得はなくなる。死後の冷凍保存も、みなが冷凍保存を望むようになると、世界は先送りになるだけで、冷凍保存の意味がない。冷凍保存された死体は数多くの人に支えられて維持されてこそ復活の可能性が消滅せずに済む。このような特別あつかいが前提の話は、私はあまり良いことではないと思う。

 人は死ぬのである。早く死ぬ人理不尽に死ぬ人がいる。長生きできる人は運がいいのであるが、死なない人はいない。何が平等といって、この必ず死ぬということに関してだけは人は絶対に平等である。

 だから冷凍保存はただの夢であろう。不治の病の少女はそのような夢を見ざるを得ない気持ちなのだろう。お金が有り余っている家族なら、それを叶えて冷凍したら良い。しかしそれを維持する人は本人を知る身内の何人かだけであり、それらの人たちもいずれ死ぬ。そして冷凍保存された死体はついには解凍され荼毘に付されるだろう。そのための手間について少女は想像が及ばないのだろう。

 自分を、冷凍保存された身体を維持し管理する人間の立場に置いてみる想像力が必要だろう。そのときどんな世界が見えるのか。

言って良いものかどうか迷う

 いろいろな方のブログを拝見するのをたのしみにしている。面白いブログはたくさんあるのだろうが、物理的に読める数に限度があるから、常に拝見するのは三十件弱である。いろいろな視点があるので参考になるし、コメントを書きたいこともあるが、考えがまとまらないことが多いのでサボっている。相手を患わさずに済むことになっているかもしれない。

 自分のブログはいちおうアップする前に見直してチェックしているつもりだが、あとで見て誤字脱字、意味の通りにくい言い回しなどに気がついて恥ずかしい思いがする。国語のテストなどで、誤りを探す問題が普通の人より得意だったのだが、自分には甘いのだろう。

 そのような心性であるので、他のひとの誤字脱字が気になる。内容と関係ないところにこだわってしまう。とても面白いのに、その欠点が普通より目につく性格なので、指摘したくなってしまう。

 しかし、自分がそれを指摘されたら、私はありがたいと思うけれど、不快に感ずる人がいることも承知している。わざわざ人を不快にさせるおそれがあることをする必要はないと思い直して黙っている。

 以前ある人に自分の意見をコメントしたら予想外にきつい反論が帰ってきて驚いたことがある。私は相手の考えが間違っている、などという指摘をしたわけではないし、読み返してもそう取られるような書き方をしていない。同じことを見て、わたしにはこう見えました、という自己紹介のつもりだったのだが。

 非常に論理的な文章を書く人だったので、私の意見をたたき台にもう一歩突っ込んだ話になれば面白い、というつもりもあったが、誤解されたらしいことを残念に思った。

 だからコメントには慎重になっている。慎重になっていてこのコメントか!と笑われそうだが、世の中には言って良いかどうか迷うことが多い。

何をいきまいているのか

 安倍首相が世界の首脳の第1番目に次期アメリカ大統領のトランプ氏と会談した。一番最初であることが自慢すべきことであるかどうかは意見の分かれるところであろうが、民主党の安住氏はなぜいの一番にしたのか、と何かわるいことでもしたかのような剣幕で非難していた。この人、もう少しまともかと思ったけれど、見損なったようだ。この人の言い方はときに人をひどくイラつかせる。

 民主党の代表の蓮舫氏が、安倍首相はトランプ氏とどんな話をしたのか公表すべきである、とインタビューで話していた。自分が何を言っているのか承知しているのであれば、この人は異常である。自国の首相が来年一月から世界に大きな影響を与えるであろう次期アメリカ大統領とどんな会談をしたか公表せよ、と言ったのである。

 蓮舫氏の論理では、首脳どおしの話はすべて国民に開示するのが正しいことである、ということらしい。そこに何の疑いも抱いていないことは、そのことを語っているときの昂然たる姿勢に明らかである。この世の中には公表できることと公表できないことがあるなどということは理解の外であるらしい。 

 公人であれば誰かと二人だけで話したことをすべてあきらかにするべきであるなどという人間は、責任ある立場に立つ資格がない(蓮舫氏のことである)。そもそもいつでも誰にでも公表できる話しかできない人間が責任者であるような組織などこの世に存在しない。責任を引き受けると言うことはそういうことである。

蓮舫氏は海外で要人と会ったら、そのはなしをすべて公表すると約束できるのか?それでは海外の要人は蓮舫氏にデリケートで大事な話をするのをためらうであろう。蓮舫氏はまったく社会的な常識を欠く人間であることを公表したのである。そしてその自覚がないことに心から驚く。それに対して、「殿、そんなことを言うのはまずう御座る」と誰も言わないのが民進党なのかと情けない思いがした。

 安倍首相も帰ってきたら差し支えない範囲でどんな話をしたか語るであろう。それを待てばいいのではないか。なにを口を尖らせていきまいているのかわからない。

 昨晩酩酊して見たニュースに感じたことをその場で書いた。少し節度を欠いていたら申し訳ない。

2016年11月18日 (金)

何たることか!

 何たることか! 今夕は甘いかほろ苦いかは別にして、一段落してのうま酒を飲むつもりであったのに、裁判の裁定は次回に持ち越すことになってしまった。理由は先方の高額請求の理由の根拠に当たる資産の書類の不備である。そんなのどうでもいいと思うが、裁定金額の計算に必須のものなのだそうである。あちらは金持ちだから正直に出しにくかったのだろうか。

 次回は1月末。融通の利かなそうなタイプの裁判官であったが、弁護士によれば見た目どおり頭は硬いが、不公平な人ではないという。先方とこちらが対面した状態で裁判官から質問を受け、それに答えていく。その都度いまの質疑応答を証拠として記録に残してよろしいか?と確認がある。全員肯く。この繰り返しである。

 裁判官の審問が終わったあと、弁護士と本日の反省会。今後の作戦について弁護士の意見を聞く。こちらで追加する言い分についていくつか考えておくように言われる。それを元に12月に入ってから弁護士事務所で、裁判所に提出するための書類作成の打ち合わせをおこなう。たぶん二度ほど打ち合わせが必要であろうとのこと。こうなったらそれに従うしかない。

 前にも言われたのだが、また、「Oさんは善い人過ぎるから・・・」と言われる。善い人で文句を言われてもなあ。もちろん笑いながら言われているから傷つくことはない。ふだんうんざりするような善くない人たちと折衝しているので、私みたいな人間が善い人に見えてしまうらしい。職業病であろう。

 さあ、これから買い出しに行って美味いものでも作り、独り手酌酒を飲もう!

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お口直しにキューバの夜明け。

ニュースはかたよる

 ニュースを眺めていて面白いニュースが目白押しのときもあれば、目をひくものが全くないこともある。ニュースを見てぼんやりと考え、ブログのネタにしようと思っても、ネタのないときにはニュースもないし、書くことがいくつもあるときには面白いニュースにあふれていたりする。とかくこの世はままならぬものなのである。

 ところで記事の内容が偏るものについて面白い例があった。

 韓国は朴槿恵大統領の、ご友人との公私混同問題で大騒ぎであるが、これは韓国の国内問題であって海外との継続協議事項は国内問題と一緒くたに論ずるべきものではない。検討が遅れることはあっても、白紙に戻すようなことではないのはもちろんである。

 慰安婦問題については昨年末にいちおう日韓で合意が成立したのだから、それを白紙に戻すなど、国際信義にもとる。このことはさすがのあの目張り金切り声の金慶珠女史でも当然であると認めていた。ところが韓国野党の中には犯罪者で裏切り者の朴槿恵大統領が指示して決めたことは、外国とのあいだで決めたことでもすべて白紙にするのが当然との意見があるようだ。相変わらずゴールポストを動かすのに何のためらいもない国柄である。ゲームのルールを勝手に変える相手は誰も相手にしたいと思わないが、隣国となるとそうも行かないところがつらいところだ。

 その代表的な事例が、日韓GSONIA問題である。これは日本と韓国のあいだの軍事情報包括保護協定のことで、すでに合意にいたり、仮署名も済んで正式の締結を待つだけである。これについて野党が「売国協定」として、責任者としての国防長官の解任決議案を国会に提出した。それを報じた韓国の代表的な新聞二社の記事が正反対の論調で面白い。

 まずハンギョレ新聞。「政府が突然GSONIAの再推進の速度を上げているのは朴槿恵大統領の指示である。GSONIAはもともとアメリカの要請によるものであるから、アメリカ新大統領の意向を確認してからで良いので、急ぐ必要はない」。どこやらで似たような物言いをみたなあ。民進党などがTPPについて言っていることとそっくりである。

 ところでハンギョレ新聞は別の記事で「朴槿恵大統領は大幅に支持率が低下した直後にGSONIAを強行、さらにTHAADも推進し、国定教科書も推進した。これは植物状態の朴槿恵大統領の暴走である」と書いている。

 これに対して朝鮮日報の社説。見出しは「韓日GSONIA仮署名に気が狂った韓国野党」。
「韓国国会の過半数議席を持つ野党三党が、国防長官の解任決議案を国会に提出することで合意した。GSONIAに仮署名した責任を追及するというのが理由である。野党三党はこの協定は「売国協定」で、中には「日本の再軍備を認めるもの」だという意見もある」と報じた上で、
「そもそもこのGSONIAは韓国よりも優れた情報を持つ日本と軍時関連の情報交流をおこない、北朝鮮の核兵器やミサイルによる挑発を事前に阻止、あるいは対応に当たることが目的である。野党はこの事情を承知しているはずで、それを決まり切った文句で大衆心理を無責任にあおるのは狂気の沙汰である」、さらに、
「協定はそもそも朴槿恵大統領の問題とはまったく関係がない。協定が締結されたからと言って朴槿恵大統領の立場が好転することも一切ない」
「国会に重大な責任のある過半数を持つ立場でありながら、北朝鮮から国を護る韓国軍の中心である国防長官に圧力を掛けるとは、気でも狂ったのか」と結んでいる。

 どう見ても朝鮮日報の言い分に肩入れしたくなるではないか。野党やハンギョレ新聞は、どうやら韓国の国防が強化されることを阻止したいようである。見方によっては朴槿恵大統領問題にひっかけて北朝鮮や中国に媚びているように見える。

 むかしの社会党や朝日新聞が正義の衣をかぶって中国に媚びていたのによく似ているではないか。民進党は母体の多くをその社会党に置いているから、似ていることは驚くほどである。だからこのままなら同じ末路をたどるだろう。沈没船から早く逃げた方が良いのに、どうしてしがみついているのだろう。セウォル号の高校生か!いちはやく逃げ出すのは船長である旧社会党の面々だったりして。そういえば小沢一郎は真っ先に下船したなあ。

サイバー主権

 毎日新聞のネットニュースの記事から。

 中国・習近平国家主席は、浙江省の烏鎮(懐かしいなあ、いいところである)で開催された「第三回世界インターネット大会」のビデオメッセージで、「国際社会とサイバー主権の理念を堅持し、世界のインターネットを公正で合理的な方向に進めていく」と述べた。

 記事によれば「サイバー主権」とは、ネット空間を国家が管理し他国の干渉を認めないとする、中国が提唱する概念、だそうである。中国政府は、ネット検閲を合法化し、事実上の実名制を盛り込んだ「ネット安全法」の施行を決め、ネット空間の統制を強化しているところである。

 それがどれほど本来のインターネットの理念とかけ離れているかは言うまでもないが、その「サイバー主権」という考え方が、「公正で合理的」というのだから、白を黒と言わんばかりにしか見えない。これではまるでジョージ・オーウェルの「1484年」の世界である。中国国民も再びこんな時代が来ようとは思ってもみなかったことだろう。中国が世界の国々と共通の価値観の国になるためには、極端な全体主義による破滅的な限界を超えないといけないのだろうか(つまり中国の北朝鮮化である)。それともそれはすでに目の前に来ているのか。

 ところで、この大会では各国、そして国際組織のネット担当者や企業幹部が集まって、ネットと従来型産業の融合のあり方を話し合うそうだ。どんな国や組織、企業が参加しているのだろうか。日本からも誰か参加しているのか。習近平の意思に賛同しているのなら手を挙げなさい。

2016年11月17日 (木)

欠席

 今年のノーベル文学賞に決まったボブ・ディランがストックホルムの授賞式を欠席するという。「先約がある」からだそうだ。変更ができない、よほど大事な約束なのだろう。

 ノーベル賞に決まっても授賞式に参加しないという先例はあるそうで、選定側は、「彼が特別ではない」と述べているそうだ。

 ところでノーベル賞受賞者は受賞後半年以内に記念の講演をおこなうことが義務づけられているという。選定者は「講演を楽しみにしている」と述べているそうだが、それもすっぽかしたら何というのだろうか。それが楽しみである。

 ホブ・ディランがなにを考えているのか知りようがないが、こんな煮え切らない態度を取るくらいならノーベル賞が権威主義の象徴だと見なして、いっそ最初から辞退した方が彼らしかったような気がする。その方がノーベル文学賞の選定員達を虚仮にして、その不見識を明らかに出来たのに。

マスメディアの敗北

 昨晩のプライムニュースを途中から見た。トランプの勝利をマスコミ報道の問題点との関連から論じているところで、古森義久氏と木村太郎氏がゲストとして意見を述べていた。木村太郎氏はトランプの勝利を予言した数少ないコメンテーターとしていま評判らしい(しかし両候補は僅差だったから、どちらが勝つとも断定しかねるといったコメンテーターは多かった。それが普通で、それをトランプが勝つと予言するのはちょっとスタンドプレーの臭いがする。多少の根拠はあっただろうが私はそれほど評価しない)。

 アメリカのメディアが偏向していることは周知である。日本のメディアが中立の建前を取っているのとは異なり、アメリカでは積極的に誰かに肩入れするのは特に問題にならないようである。そのアメリカのメディアが圧倒的に反トランプで動いていたにもかかわらず、トランプは勝利した。ヒラリーが敗北したと言うよりメディアがトランプに完敗したというのである。

 世論調査の方法についてもその時代遅れの手法が問題視されている(電話によるアンケートなど時代遅れだという。その通りだと思う。私もそのような電話を受けたことがあるが、煩わしさにイライラした)。それは日本でも同様だろう。そして世論調査がメディアによって大きくことなることもしばしば問題である。番組でも言及していたが、アンケートする側が望む答えを聞く傾向がどうしても避けられないのだ。だから某新聞社の世論調査などは設問をよくよく見極めないと、巧妙に誘導される。

 統計学もその辺の恣意的な設問を排除するための心理学的な歯止めを掛けないと、調査結果そのものが意味をなさなくなる。今回の大統領選の世論調査はそのよい教訓となるだろう。 

 そのことはさておいて、アメリカのメディアの多くが反トランプ報道をくりひろげたというのは事実のようである。そうなれば、日本のメディアはただその報道を垂れ流しするだけであるから、日本人は反トランプ報道にずっと洗脳され続けていたことになる。だからどうしてこれほどひどい人物が当選したのか理解できない。トランプの良いところなど、まったくニュースで見ることがなかったからだ。

 そういえばトランプについての報道はほとんど決まった絵柄と、極端な言動の部分だけが報道されていたように見える。まともなことを一言も言わなかったかのようである。それ以外のことをまったく知らない日本人が、なぜトランプがアメリカで支持されるのか理解不能なのは当然である。

 もちろん、だからといって私は考えを変更してトランプを見直すというわけではない。嫌いだと思い込んだものはよほどのことがなければ好きになることはできない。

 アメリカ人は、ではどうしてメディアに洗脳されなかったのか。それを番組の中で古森氏と木村氏が説明する。すでにアメリカのメディアの言うことは誰かのための偏向報道であるとアメリカ人の多くが気がついてしまったからだと。それならある意味で日本人よりアメリカ人のほうが全体としては賢いのかもしれない。

 ただその賢さは、格差に対する怒りや、現在についての不満の集積がもたらしているものであるなら、日本人はそこまでの怒りや不満をまだ抱えていないのであろう。

 アメリカのメディアに対する不信感は、たぶんインターネットの普及に発しているものと思う。巨大メディア以外の情報源があることが洗脳に歯止めを掛けているということか。さらに、ネットニュースの情報源の多くが、きちんと取材に基づくことが多いこともアメリカの優れたところであるという。

 日本では大新聞やテレビ局ですら自ら取材する努力を怠ることが多く、どこかのニュースをただ横流ししたり、当局の発表をそのまま流していることはしばしば指摘されている。ネットニュースはそのテレビや新聞の抜き書きばかりだから、メディアそのものである。結局週刊誌ばかりがスクープをすることになる。

 日本の記者クラブ制度がどれほど記者のモラルを下げ、能力低下を招いたのか、という話はしばしば聞かれることだが、さいわい日本人はまだメディア不信がつのっていないから、のうのうとしていられるようだ。

 しかしアメリカのメディア不信は今後日本にも波及してくるような気がする。たぶん中国ではとっくにそうであろう(メディアが偏向すれば信頼を失うのは当然であることの証拠である)。韓国は日本より早くそれに気づくだろうか。それは今回の朴槿恵大統領の問題に関連して明らかになるだろう。

 新聞の購読をやめ、海外の放送局のニュースを見るのを日課にしはじめて、少しだけ洗脳から逃れ始めている。面白いことに、天下のNHKですら番組により、そしてキャスターにより、微妙に色合いが違う。当たり前のことだが、それが不偏不党の衣を纏っていることの欺瞞のなかにいるので、却って際立つ。

 しかしこんなにニュースばかり見ていて、ちょっと振り回されすぎかもしれないなあ。テレビに淫しすぎているから、少し山奥の温泉に湯治にでも出かけて、テレビを見ない日々を持つ必要があるかもしれない。

池内紀「きょうもまた好奇心散歩」(新講社)

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 健康のための散歩はやや汗ばむ程度がよいという。しかし著者がこの本で勧める散歩はときに時間を三倍に、つまり三倍の時間を掛けた散歩の勧めである。

 私が若いころ、事情があって少し年上の人とアパートに二人暮らしをしたことがある。その人は歩くのがとても遅い。一緒に歩いているつもりでふとふりかえるとはるか後方にいたりする。その人がしばしば「O君、あそこの店先にこんなものがあったね」とか「あの家の庭に何々の花が咲いていたね」とか、あとで言う。私にはその記憶がない。

 その人はとにかくあたりをゆっくりと観察しながら悠々と歩くのである。決してきょろきょろではない(きょろきょろでは挙動不審者である)。こうして歩くことで得られる情報量は私よりはるかに多い。いや、私も五感を通してたぶん同じ情報を受け取っているのだろうけれど、それを情報化するという、もうひとてまをかけているかどうかの違いなのだ。情報はそこに意味を付与することで活きる。自分との関係が生ずるのだ。

 池内紀は三倍時間を掛けて歩く散歩をする。歩いていて目にとまったものを眺めて佇む時間を入れての三倍であろう。文字の彫られた石柱を見ればそれを読み解き、その背景を思う。それなら三倍時間がかかるのは当然だ(三倍ただゆっくり歩いていたら病人である)。

 この本では主に都内を中心に散歩する。どうということのない、普通の人が目にとめないような場所を意味を見つけて歩いて行く。時間はゆっくり使うと無駄になった気がしてしまうのが現代人だが、そのゆっくりの中に意味を込めれば、時間は無駄どころがとても貴重な使われ方をしたことになる。浅草や深川界隈、日本橋界隈、羽田界隈、小石川界隈と散策した場所は数々あって、東京の人なら、自分も出かけてみようか、と思うに違いない。何しろほとんど金がかからないでこれだけ楽しむことができるのだ。

 同じ散策を私もときどきすることがあるが、もう少し意図的に事前準備をした上で、自分の周辺からやり直してみたい気がした。

2016年11月16日 (水)

おろしそば

 そば打ちを趣味にしている友人がいる。何度か打ち立てのそばをもらって食べた。年季が入っているので美味しい。私も子供のときからのそば好きである。

 そばが美味いと心から思ったのは、東京に住む叔父に連れられて浅草寺へ初詣でに行き、浅草で盛りそばを食べたときである。叔父は大学が信州で、それ以来の大のそば好きである。冬に盛りそばであったが、とても美味かった。ざるそばと盛りそばの違いは・・・と叔父仕込みの蘊蓄を言い出すと切りがない。私はざると盛りとあれば必ず盛りを食べる。分かる人には分かるであろう。

 そのそばの食べ方におろしそばというのがある。文字通り、大根おろしの辛みで食べる。池波正太郎の「鬼平犯科帳」にも信州のおろしそばの話が出てくる。そこではおろしそばはそれ専用のねずみ大根という小さな、そして辛みのある大根が使われるとある。

 福井もそばの栽培が盛んで美味い蕎麦が食べられる。大野でそのおろしそば用の小さな大根をもらったこともある。ただ、池波正太郎の小説で読んだものとは少しイメージが違うので、違うものかもしれない。

 郡上白鳥から峠を越えて九頭竜川沿いに山を下ると越前大野へ向かう。途中から永平寺へも行ける。その大野への道に鄙びたそば屋がところどころにあって、その一軒でおろしそばを食べた。辛い、そして美味い。隣の席にいたおばさんが辛すぎると店に文句を言っていたが、そういうものです、と店主に一蹴されていた。その味が忘れられなくてたまに寄る。

 最近は自分でおろしそばを作る。作るといっても気にいった乾麺のそばを茹でて水にさらし、自製のそばつゆに大根おろしをたっぷり加えてそばに振りかけて食べるだけである。そのときの大根おろしは必ずしっぽに近いところ、できれば一番先の方が望ましい。そして、決して皮をむかないことである。皮の部分が一番辛い。そしてしっぽの部分が辛い。大根は少し早めにおろしておくと辛みが増すようである。

 辛さにヒイヒイいいながら食べる。食べれば食べるほど辛みが増す。そして最後に残ったかけ汁に熱湯を注ぐ。するとあら不思議、辛みは消え去り、そのまま飲むことができる。至福の時である。昨日大量に豚汁を作った。大根の先の方はそのためにとってある。これで二、三回おろしそばが楽しめる。

来年のカレンダーを眺めながら

 毎年カレンダーを誰かにもらうので不自由したことはなかったが、今年は一つももらえなかった。手元においている手帳のカレンダーで用は足せるが、壁に掛かったカレンダーの日付を見る習慣が果たせないのはなんとなくさびしい。

 そこで昨日、本屋で大きめのカレンダーを購入した。写真も絵もない、書き込めるタイプのものだ。ずいぶんいい値段である。デフレ時代に良い商売があるものだ。カレンダーも縁起物みたいなものなのだろうか。さっそく壁に掛けたが、1ページ目は来年の一月なので今のところ役に立たないし、そんな先には書き込む予定もない。

 予定といえば明後日は裁定の日なので名古屋の裁判所に行かなければならない。こちらはどのような裁定でも受け入れるつもりだから、これでいちおう一区切りつくだろうと期待している。しかし裁定によっては先方が不服申し立てをして本裁判に持ち込まないとは限らない。そうならないように、一方的にこちらの言い分が通ったりしない方が良いような気がしている。

 いまはこの泥仕合が終わることが何よりの望みで、そのために多少理不尽でも金を払うのはかまわないと思っている。どうも先方がこの争いに生きがいを感じているらしいことに驚くとともにうんざりしている。今回の裁定申立人は、私の名目上のつれ合いの母親である。今回の申し立ては過去にさかのぼっての生活費の請求なので、母親にしか申しての権利がないのだが、高齢の義母がそんな申し立てをするわけはない(性格的にも考えにくい)ので、この件にエキサイトしている人間が別にいるのだ。お金があるのでお金にとても厳しい人で、正義の基準はお金なのである。義母が死ぬとこの請求権が遺産として残される可能性があるというので、一生懸命なのではないかという。

 明後日の夕方は、一段落して美味しい酒を飲んでいることを期待するばかりである。そしてこんなことを二度とこのブログに書くことがなくなるように心から願っている。お目汚しでまことに申し訳ない。承知で書かずにはいられないのである。

2016年11月15日 (火)

一時退避

 咳が一月以上続いていたので、したくてもできないことがあった。咳は完全になくなったわけではないが、咳がくせになっているだけのような気もする。しかし胸の奥になにかが潜んでいて、きっかけがあればまたうごめき出すような気もしている。

 したくてもできなかったことというのは床屋に行くことである。髭を当たっているときに咳が我慢できなくなったらと思うとつい先延ばしにしていた。もともと床屋は好きではないし。

 しかし、今週は裁判所に行くし、来週末は旅行である。むさ苦しいままではまずいだろう。マンションの工事の騒音からの逃走をかねて出かけることにした。思い切って刈り上げてもらう。本当は髪を全部短髪にしてしまいたいのだが、台湾に行くのに、パスポートの写真と違いすぎてしまうような気がして短髪は今度にすることにした。伸びきった襟足を切ってもらってさっぱりした。頭も軽くなった気がする。いやそもそも残り少ない髪を切ったからといってそれほど変わるわけがないから、もともと軽かったのか。

 格安の床屋なのであっという間に終わる。これではまだ工事は終わっていない。時間つぶしに車で一宮のショッピングモールに行く。昔はよく行ったところだけれど、拡張して全面的に改装したのでとても広くなっている。ずいぶん久しぶりなので、どこに何があるのかさっぱりわからない。いろいろな店を冷やかし、本屋に立ち寄って雑誌を買い、下着を買う。セーターやブルゾンも気にいったのがあれば買おうと思ったが、残念ながら欲しいものがなかった。

 ショッピングモールというのは時間つぶしにうってつけである。もちろん時間が無為に過ぎるところでもあるから、毎日は願い下げだが、無用の人間としてふらふらしていても不自然でないところがよろしい。それにしても買う気のないものでも眺めているとなんとなく欲しくなる。これが敵の作戦であろう。

 眺めくたびれたので帰宅。まだ工事は続いていたが、夕方だから今日はもうそろそろ終わりであろう。やれやれ。

騒音のなかにいる

 いま住んでいて終の棲家になりそうなマンションは、建ってから三十数年になる。さいわい管理がしっかりしていてメンテナンスが充分にされているので、外観はまったく古びていない。しかし各戸の内装は住む人によって傷み方がずいぶん違うようだ。

 特に水回りは定期的な補修が必須で、それを怠るとほかの家に大変な迷惑を掛ける。そのような事故はときどきあるようで、マンションの組合でも保険を掛けているし、各戸に事故を起こさないよう注意が強く呼びかけられている。

 そういうわけで、その補修工事が次々に行われるわけである。わが家でも十数年前に台所、風呂場回り、床下ごとのフローリング全面張り替えなど、大がかりな工事を次々におこなってきた。しばらく前には深夜電力を使う大型の温水器の入れ替えもおこなった。

 先日来断続的に工事の音が響いている。マンションは鉄筋コンクリート構造なので、風呂場や床の工事をおこなうときの音がとても伝わりやすい。両隣の音もそうだが、上下二階分はほとんど隣で工事をしているような騒音である。

 工事をすることは、たいてい工事業者が挨拶に回ったり、案内のチラシが郵便受けに入れられたりしているので承知しているし、騒音の覚悟もしている。しかし本を読んだり、ものを考えているときに長々と大きな音や響きを聞かされるのはかなりつらい。特にドリルの音は神経に障る。

 マンションだから水回りの補修が必要な時期は重なるのであろう。あとは諸種の事情でいつやるかだけだ。だから五月雨式に次々にこの工事の音を聞かされることになっている。昼間家にいなければ何ほどのこともないのだが、そうそう出かけ続けわけにもいかないし、今月後半は出かける予定が立て込んでいるからいまは家でじっと工事の音を聞いている。

理解できないこと

 寅さんが「それをいっちゃあおしめえよ!」と言う。誰かが発した何気ない言葉が、一見強靱そうな寅さんの心に突き刺さったことが、言葉を発した人間や周りの人間にも瞬時に理解される。そんなつもりではなくても、相手の触れられたくない部分にかすかに触っただけで傷つけることがあると知る人々だからこそ、寅さんはそれに非を鳴らすのである。寅さんは、鈍感な人間に対して「それをいっちゃあおしめえよ」とは決して言わずに黙ってその場を去るだろう。寅さんは優しいのである。

 それほど繊細な寅さんはしばしば「それをいってはおしまい」であるような言葉を相手にぶつける。タコ社長などはその被害者だろう。しかし言われたタコ社長は涙ながらにそれを非難し、寅さんに食ってかかる。それができるのである。しかし寅さんは言い返すことなく、黙って旅支度を始めるのである。

 オバマ大統領はホワイトハウスを訪ねたトランプ次期大統領とにこやかに握手を交わし、二人で懇談した。それが私には理解できないのである。あれだけ互いを手ひどく侮辱するような言葉を投げつけあったなかではないか。「それをいってはおしまい」の限度をはるかに超えている。

 営業という仕事をしていたので、相手から思いがけないひどい言葉を聞くことがある。立場上たいていは言い返すことができない(ときには皮肉たっぷりに返すので回りがハラハラしていたが、それは計算ずくである)。自分の優位を笠に着た物言いをしているという自覚のない人間を私は決して忘れない。

 限度を超えた侮辱は、本人の品性の発するものだと私は考えるから、そのような人とは利害関係がなくなれば決して過去を忘れて手を握ることなどできない。だから自分がある人に暴言を発したことをいまだに忘れられないのである(その暴言には理由があるので、全面的に後悔しているわけではないところが人間ができていない証拠である)。

 政治や商売はすべて利害関係だからそのようなエスカレートした言葉の投げ合いも仕方がないのだ、という考えもあるし、現実にそうであろう。しかし今回のアメリカ大統領選の中傷誹謗、罵詈雑言の投げ合いは限度をはるかに超えていた。これが民主主義なら、民主主義とはずいぶん愚劣な、そして下品なものである(実際にそうであることを先日読んだ本で確認した)。

 あれを見て多くの人々が、ディベートというのが言葉による殴り合いであることをさらに確信して、世の中は言葉の暴力がエスカレートしていくのだろうか。北朝鮮もまっ青、ではないか。彼等もインフレが過ぎて対抗する言葉のネタが尽きたのではないか。

 当方は「それをいっちゃあおしめえよ!」と背を向けて旅にでも出るしかないか。

2016年11月14日 (月)

限界を超える

 先週土曜日の韓国では、朴槿恵大統領の引退を求めるデモの参加者が主催者側の発表で100万人、当局側の発表でも20万人を超えた。朴槿恵大統領に対する怒りは一時的なもので、ときとともに次第に収まるのだろうか。そうとはとても思えない。収まるための限界点を突き抜けてしまったようだ。

 朴槿恵大統領はいま大統領としての責務を遂行できる状態ではない。大統領には権限が法的に認められているが、国民のほとんどがその権限を認めなければそれを行使することができない。彼女の命令を受けて行動すれば、後日訴追されるおそれが大きいから、誰も命に服することはないのだ。

 彼女は名前だけの大統領で実質はなにもなくなっている。ではどうして引退しないのか。引退して大統領ではなくなったとたん、彼女は訴追を受けることになる。これは韓国の歴代の大統領が、次々に体験したことである。訴追を先延ばしするためにだけ引退しないのだろうか。それもあるだろう。

 彼女には自分が罪を犯したという実感があまりないような気がする。どうして自分がこんなに非難されているのか受け止めかねているのではないか。いま彼女のそばにはその理由をきちんと説明できる人が誰もいない。いままでこういうときに相談できた人々は次々に拘束されてしまった。引退すべきかどうか相談したくても、それを教えてくれる人がいないのである。可哀想に彼女はただ途方に暮れているのであろう。

 これを書き始めた時点(今朝)でまだ朴槿恵大統領は引退していない。

年寄りのてがら

 子供はおとなになったことがないからおとなの気持ちが分からない。若者は年寄りになったことがないから年寄りの気持ちが分からない。顔つきから相手が悲しんでいるのか怒っているのか喜んでいるのか、それくらいは読み取るかも知らないが、どうしてそういう顔をするのか、同じ気持ちになることはできないから分からない。

 なにかを感じるときの心の鏡は経験に裏打ちされている。生きてきた長い年月の積み重ねがたくさんの思い出になって、新しい体験に対する反応に現れる。

 年寄りは外見は年寄りでも、内面はときに子供であり、ときに若者であり、ときに壮年である。そのことは年寄りにならないと分からない。子供のとき両親や祖父母というのは自分とはまったく別のものだと思っていた。そして歳をとるとともに自分がだんだん変わっていって、親や祖父母のようになるのだと思っていた。

 どうも子供のときの、そして若いときの私が、そのまま外見だけ老化しているだけらしいことに、最近ようやく気がついた。だから私はしばしば10歳で、ときに25歳である。

 66歳の私が息子や娘のどん姫を見て彼等の気持ちを忖度するとき、私は彼等が小学生だったときの私であったり、中学生高校生であったときの私である。だからおとなになった彼等が私をじっと見返したりすると、我に返ってとても照れくさい気持ちになる。彼等の目を通して私の過去と現在がオーバーラップする。

 そういう複眼的なものの見え方を不思議と思わずに自分自身として受け入れることがひとりでにできること、そのことが年寄りのてがらかな、と思ったりする。

 生きているって面白い。

2016年11月13日 (日)

佐伯啓思「反・民主主義」(新潮新書)

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 この著者の本を以前読んで面白かった記憶があるが、書名が思い出せない。ところで、著者は民主主義を否定し、反対しているわけではないので念のため。

 この本の主旨は、民主主義は最高最善のシステムではないということである。民主主義は欠陥だらけだけれどその他のシステムよりはまだましだ、と言われていることを聞いたことがあるだろう。その民主主義の欠陥をとことん論じたのがこの本なのだ。

 どこに問題があるのか。民主主義の根幹は自由と平等である。ここにこそ問題の本質があるというのが著者の主張である。左翼が自由と平等を、そしてこれは民主主義とは直接関係しないが平和を至上の価値としている。そこに懐疑を少しも抱いていないことこそが、近頃の重みの感じられない左翼の人たちが胡散臭く見える理由であることが、この本を読んで私にもなんとなく分かった。

 自由と平等がなぜ民主主義の問題なのか。そもそも世のなかに平等などないことは自明であろう。すべての人が同じ能力を持っているわけではない。容姿も性格も資産も違うのである。平等は極めて限定的なものでしかない。差別狩りの欺瞞性は、違いがあるものをないかのように言いつくろうところにある。然らば自由はどうか。誰かが自由にふるまえば誰かが不自由になるのが世の中である。

 もちろんおとなならそのことをわきまえて自由と平等の限定性を承知して行動する。しかし人によってその限定性の枠組みが違う。民主主義を至上とすることは、しばしばその自由と平等の限界がないかのように錯覚させる。それが先鋭化してきたのが今の時代なのかもしれない。私の説明が下手で分かりにくいかも知れない。

 この本では、ギリシャ時代のアテネのデモクラシーから説き起こし、その歴史的必然性と、ときに衆愚政治をもたらしたシステムを説明する。そしてヨーロッパのフランス革命やイギリスの議会政治の歴史を概観する。そしてアメリカがどのような統治システムを構築したのかがハイライトである。

 アメリカはどのような人物が大統領になっても破綻しない統治システムを持っている、という。それはなぜなのか。そもそもアメリカ建国時にそのシステムを構築した人々が、民主主義に懐疑的だったからである、というのが著者の指摘である。つまり大衆は誤りを犯すものだ、という想定がシステムに組み込まれているというのだ。

 今回のトランプ旋風はまさに民主主義の衆愚政治的側面を現実化した。平等への強い情念を民主主義があおり、下層階層の人々が絶えざる不満を蓄積させた末のトランプ旋風である。トランプこそもっとも民主主義をよく知る人物だった、ということであろう。

 繰り返すが、この本は民主主義についての疑問をかなり詳しく解いて見せてくれて面白いのだが、読んだ内容をまとめている私が生かじりなので分かりにくくなってしまって申し訳ない。こりずにぜひ実際にこの本を読むことをお勧めする。少なくとも私の説明より分かりやすい。

 トランプの当選前に書かれている本だけれど、なぜトランプがあそこまでアメリカで熱狂的に支持されたのか、読む前よりも分かった気がした。帯の後ろには、フランスの思想家で19世紀前半にアメリカを訪ねたトクヴィルの言葉「自由な経済によって利益を得る者たちは決して公共精神をもたないだろう。そうした私的利益の集合が多数を集めて支配するだろう」が掲げられている。アメリカの現代を二世紀近く前に鋭く予言しているのである。

滝田洋一「世界経済 まさかの時代」(日経プレミアシリーズ)

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 10月11日に出版された本なので、書かれたときにはもちろんトランプ次期大統領は決まっていない。著者は日経新聞の経済分野の編集委員。経済的な視点から世界の現状を総観して、「まさか」が進行しつつあることを具体的なデータを元に論じていく。

 経済的な視点とは、つまり金の流れを読むことである。それを解析する指標はいろいろあって、丁寧にその話を読み取ろうとすると基礎知識がないので少し苦労する。

 この本の帯にあるように「ありえないこと」が、現実に世界で起こりつつあり、その経済的要因が詳しく説明されている。以下は私の勝手読みである。

 短期、中期、長期に分けてそれらを読み解けば、あまり楽観的な未来は予測できない。世界が再び好景気に沸くことはないようである。私の持論(もちろんいろいろの人のごちゃ混ぜの請け売り)であるが、世界は平準化していく。問題は富の偏在化であるが、それはひとびとの不満を買うだけであるから、是正されていくだろうと思う。いまが異常なのである。

 世界はデフレが続く。長谷川慶太郎によれば、戦争でも起きない限り決してインフレにはならない。然らば低金利のままである。それなら金融期間は利益を確保できないことになる。そもそも金を扱うだけで利益を生み出す、というシステムそのものに限界があるということだろう。巨額を扱うほど巨額な金を生むなどという打ち出の小槌のような魔法がいつまでも続くわけがないのではないか。

 「まさか」は異常を常態と誤認していたことが是正されていく中で起こることなのかもしれない。だから一時的な混乱は仕方がないのであろう。トランプ旋風などはそのさざ波のようなものだろうか。混乱があり、それが収まるのかそれともさらなる混乱へと拡大するのか、そういう予測はこの本には書かれていない。

2016年11月12日 (土)

格差社会

 少し古い(2007年7月24日付け)内田樹老師のブログから引用する。

「格差社会」という言葉が繰り返し登場する。
格差がどんどん拡大しているから、これを何とかしなければならないという現実的な(あるいは非現実的な)さまざまな提言がなされている。
どなたも「格差がある」ということについてはご異論がないようである。
だが、わたしはこういう全員が当然のような顔をして採用している前提については一度疑ってみることを思想上の習慣にしている。
「格差」とは何のことなのか?
メディアの論を徴する限りでは、これは「金」のことである。
平たくいえば年収のことである。
年収数億の人もいるし、数十万の人もいる。
とくに年収が低い階層のヴォリュームがこのところ急増している。
パラサイトシングルというのも、フリーター・ニートというのも、ネットカフェ難民というのも、過労死寸前サラリーマンも、要すれば「金」がないせいでそういう生活様態の選択を余儀なくされている。そういう説明がなされている。
ここから導かれる結論は論理的に一つしかない。
「もっと金を」
である。
しかし、この結論でよろしいのか。
私自身は、私たちの社会が済みにくくなってきた理由の一つは「金さえあればとりあえずすべての問題は解決できる」という拝金主義イデオロギーがあまりに広く瀰漫したことにあると考えている。
「格差社会」というのは、格差が拡大し、固定化した社会というよりはむしろ「金の全能性」が過大評価され、その結果「人間を序列化する基準として金以外のものがなくなった社会」のことではないのか。
人々はより多くの金を求めて競争する。
競争が激化すれば「金を稼ぐ能力」の低い人間は、その能力の欠如「だけ」が理由で、社会的下位に叩き落とされ、そこに釘付けされる。
その状態が大変不幸であることは事実であるが、そこで「もっと金を」というソリューションを言い立てることは、「金の全能性」をさらにかさ上げし、結果的にさらに競争を激化し、「金を稼ぐ能力」のわずかな入力差が社会的階層の乗り越えがたいギャップとして顕在化する・・・と言う悪循環に落ちこまないのだろうか。

 このあとにその拝金主義イデオロギーそのものから自由であると自負する老師の、違う価値観からの「格付け」について語られているが、長くなりすぎるので引用はここまでとする。

 私は老師ほどではないにしても、拝金主義からはかなり自由であると自負しているので、老師の言うことを素直に聞くことができるが、これを読んで腹の立つ人もいることだろう。それを言い争うつもりはない。正しいか間違っているか、という問題ではなく、当人の価値観なのである(と逃げておこう)。

 トランプ旋風を見ていて強く感じた違和感こそ、この拝金主義イデオロギーの吹き荒れる姿として私の目に映ったからである。拝金主義イデオロギーこそアメリカングローバリズムの根本思想そのものであろう。熱狂的トランプ支持者は「もっと金を」とたしかに叫んでいた。世界に瀰漫したこの拝金主義イデオロギーが人々の幸福を奪っている。 

 世界はこの精神病理から抜け出さないと、人々は幸福感を手にすることが出来なくなると思うがどうか。

 私は豊かではないけれど、ときどきは幸福である。

 抜け出し方?これは精神疾患と一緒で、病識があれば治癒が可能であろう。重篤な精神病者は、「自分はけっして病気ではない」と言い、そしてその確信は強固である。

映画「駆込み女と駆出し男」(2015)

 監督・原田眞人、出演・大泉洋、戸田恵梨香、満島ひかり、内山理名、陽月華、キムラ綠子、武田真治、樹木希林、堤真一ほか。

 井上ひさしの「東慶寺花だより」を原作とした映画。東慶寺といえば縁切り寺である。そういえばさだまさしに「縁切寺」という切ない歌があったけれど、この映画とは関係ない。

 江戸時代、男から女に対して一方的に三行半(みくだりはん)という離縁状を書いて離婚することが出来たけれど、女にはその権利はなかった。どうしても離縁したい場合には、鎌倉にあったこの東慶寺と言う尼寺に駆けこむことで庇護を受けて男の手を逃れることができた。

 ただ駆けこめばいいというわけではなく、それなりの手順と一定の期間尼寺での修行が必要だったが、この映画ではそれが詳しく描かれていて面白い。離縁したい女性にはそれぞれにやむにやまれぬ事情がある。その一人一人にかけがえのない人生がある。

 女が男を選ぶのだ、とわたしは思っている。男と女が生涯しあわせに添い遂げられるかどうかは、女が男を選んだかどうかによるとわたしは確信している。そういえばこの映画の前に観た「チャイルド44」という映画も、ライーサ(ノオミ・ラパス)がデミドフを選んだときに二人の愛は結実した。デミドフがライーサを選んだことを同僚に自慢するシーンがあるが、そのときのライーサの顔は引きつっている。古事記のイザナギ、イザナミの神話ではイザナミからの愛の声かけは不吉で、イザナギからの声かけで愛は成就するが、これは中国的な「牝鶏が時を告げる」ことの非を語る神話であって、愛の本質を言うものではないと思う。

 東慶寺に駆けこむ女たちとその事情、それを阻止しようとする男達。男達の阻止の理由はほとんど面子である。それを護るのは駆け込み女の窓口となる柏屋という駆け込み宿であり、東慶寺である。駆け込み宿の主人は三代目柏屋源兵衛(樹木希林)、それを補助するのが甥である中村信次郎(大泉洋)。

 男達による暴力や脅しで様々に危難が降りかかるが、それはいままでに経験を積んだことで排除することが出来るが、ときの老中水野忠邦、そしてその懐刀、鳥居耀蔵が東慶寺そのものをつぶしにかかるというこれ以上ない危機がやってくる。それをどうやって切り抜けるのかがクライマックスである。

 ここに登場する女たちがみな魅力的ですばらしい。それを戸田恵梨香、満島ひかり、内山理名、陽月華、キムラ綠子などが演じている(みんな好きである)。

 大泉洋の軽みが以前は嫌いだった。それが映画やドラマで度々見ているうちに嫌いではなくなっている。特に彼が主演した「青天の霹靂」という映画は思いがけず楽しい映画であった。しばしばこのブログに登場する兄貴分の人はいまだに毛嫌いしているけれど、この人、一度思い込むとなかなか変わらないから仕方がない。この映画でも大泉洋はいい味を出している。

 映画はとても面白くて楽しめる。唯一難を言えば、冒頭部の江戸の戯作者達のやりとりの台詞回しが懲りすぎていてしかも早口なので、聞き取りにくい。時代背景を知るのに必要なことがここにあるので、もう一工夫欲しいところだ。この映画を楽しむためにはその程度の知識は教えられなくても知っているべきだけれど、台詞が聞き取りにくいのはイライラする。わたしの耳が遠くなったせいであれば、申し訳ないが。しかし大泉洋の台詞は明晰に聞き取れていた。

2016年11月11日 (金)

映画「チャイルド44 森に消えた子供たち」(2015アメリカ)

 監督ダニエル・スピノーサ、出演トム・ハーディ、ゲイリー・オールドマン、ノオミ・ラパス、ジョエル・キナマン、ジェイソン・クラーク、ヴァンサン・カッセルほか

 正義など見向きもされない時代があった。いまもどこかにあるだろう。理不尽がまかり通り、人間の尊厳など歯牙にも掛けられない。大躍進時代や文化大革命時代の中国がそうであり、スターリンが支配していた旧ソビエト時代がそうであった。

 この映画はアメリカ映画ながら、舞台はまさにそのスターリンが恐怖の圧政を敷いて粛清の嵐が吹き荒れていた1950年代のソビエトである。

 画面は暗く、陰鬱な希望のない世界が描かれていく。反政府活動のスパイを捜査するソ連国家保安局のレオ・デミドフ(トム・ハーディ)は忠実に職務を遂行していたが、ときに国家権力を笠に着て暴走する同僚には怒りを覚えていた。

 逮捕したスパイから彼の妻のライーサ(ノオミ・ラパス)の名前が挙がる。彼は妻が反政府活動していた証拠を見つけて告発するよう命令されるが、彼女をかばったために左遷される。

 その左遷先で民警として働き出したデミドフは少年の死亡事件に遭遇する。その様子は以前モスクワで勤務時代に出遭った少年の死亡事件に酷似していた。その少年はデミドフの友人の息子だった。その件は事故として処理されたが、友人は犯罪による事件だと主張したものの握りつぶされた。それを見てもデミドフは見て見ぬふりをするしかなかった。

 なにかがおかしいと感じたデミドフは独自に捜査をおこなおうとするが、もちろんそれは許されない。当初それをモスクワから来たエリートの出しゃばりとして苦々しく見ていたネステロフ将軍(ゲイリー・オールドマン)はだったが、デミドフの疑いを調査して、驚くべき事実を知ることになる。同様の少年の死亡事件が多数起きていたこと、そしてそれがすべて事故として処理されていたのである。

 デミドフとネステロフ将軍は同一犯の連続殺人事件である可能性が高いと考える。そしてデミドフは行動の自由が束縛される中、妻のライーサとともに、行くことを許されていないモスクワへおもむき、捜査を進め、ついに犯人を突き止める。

 犯人を追い詰めたデミドフだったが、その彼の目前で犯人はあの暴走する同僚、いまはデミドフの後釜に座っているワシーリィ(ジョエル・キナマン)に射殺される。そしてワシーリィはデミドフとライーサをも殺そうとする。

 なぜワシーリィは犯人を射殺したのか、そしてデミドフ達までなぜ殺そうとしたのか。絶体絶命のデミドフはどうなるのか。

 自分の意思に反して妻にならざるを得なかったライーサが、ついにデミドフの愛を受け入れるシーンに感激する。デミドフが真に自分を愛し、必要としていることを心の底から信ずることが出来たからである。ノオミ・ラパスは美人女優ではないけれど、観るたびに強く魅力を感じるようになってきた。

 この映画の評価はかなり低いという。暗い映画でしかも二番煎じ的な部分が多いからだというが、ほかの映画との比較など必要ない。この映画だけを観れば、絶望の中にこそ希望が、極限状況のなかにこそ真の愛と正義があるのだ、と言うメッセージを受け取ることが出来る。ラストに明るいものが見られてわたしは好きである。

ほんとかいな

 ネットニュースで韓国のハンギョレ新聞の社説が紹介されていた。ほんとかいな。

 それによると、あのセウォル号沈没事件のとき、7時間のあいだ連絡がつかず、どこにいたのか取りざたされてきた朴槿恵大統領は、じつはある整形外科病院で整形手術を受けていた疑惑があるという。

 あの事件のときに、経過報告が書面で14回大統領に届けられたが、一切回答がなかったといわれる。その日の午後遅くに中央災害対策本部にようやく現れた朴槿恵大統領は、支離滅裂なことをしゃべっていたそうで、それは麻酔がまだ残っていたからではないかというのだ(整形してあれかよ、などと失礼なことはいわないこと)。

 だから少なくとも愛人といたわけではなさそうである。

 チェ・スンシル氏が通っていたソウルの整形外科と老化防止専門の病院が話題になっている。その整形外科の院長は専門医ではないのにソウル大の客員教授に委嘱され、朴槿恵大統領の海外訪問に同行しており、大統領の訪問土産の中にはこの病院の関連する化粧品が含まれていたという。この病院の海外進出には大統領府の主席秘書官が関わり、便宜を図ったことも明らかになっているそうだ。

 老化防止の病院のほうは、チェ・スンシルの診療を始めてから、保健福祉部から研究センターに選ばれて国から支援を受けていた。朴槿恵大統領も度々この病院を訪れており、注射薬などをチェ・スンシル氏が代理で受け取りに来ていたという。老化は防止されていたのであろう。

 朴槿恵大統領はセウォル号事件のとき、本当にこの病院にいたのであろうか。

 今回のチェ・スンシル氏と朴槿恵大統領の癒着に関する一連のニュースは、次々と信じられないような事実を明るみに出してくれる。ばかばかしく情けないけれど、面白い。

ヒラリー・クリントンの敗因

 オバマ大統領は黒人であるから大統領になった。ヒラリー・クリントンは女性であるから大統領になれなかった。

 アメリカには根深い人種差別と女性蔑視があるのではないか。それではどうしてオバマは勝てたのか。黒人であっても、いや黒人だから支持してみせることがアメリカ人の正義感にかなったからである。

 ではどうしてヒラリーは勝てなかったのか。アメリカ人が女性蔑視に罪悪感を感じていないからである。トランプがあれほどひどい過去の女性蔑視の言動の事実を暴露されても、苦笑いされるだけで済んでしまったことから明らかである。このことは白人男性だけのことではなく、女性もそれを受け入れていることを選挙結果が示している。支持率調査で、隠れトランプの読みそこないがあったのは、さすがに女性蔑視を認めたくはなかったからだろう。

 以前ハリウッド映画に登場するヒロインはおおむね愚かで度しがたい女性ばかりであることを指摘した(ほとんど内田樹老師の受け売りだが)。すぐ泣きわめき、危機に瀕して愚かな行動をとって男の足を引っ張るのがヒロインの定番である。アメリカでは愚かしいのがかわいさであると擦り込まれているようだ。

 アメリカでウーマンリブが極端に暴走したのは理由がないわけではないのだ。それを真似して見せた日本のジェンダー論者達の愚かしさは日本とアメリカの区別がつかないことによるものだった。だから日本ではほとんど相手にされなかった。そもそも日本ではすでに女性は男性より自立している(男のほうが愚かしいことが多い)。

 繰り返すが、ヒラリーは女性であることで大統領になれなかった。それがアメリカなのである。

 こんなこと、マスコミはけっして言わないだろうなあ。差別がないのが建前だし、それで袋だたきに遭うかもしれないし。

2016年11月10日 (木)

前例のない暴挙

 与党四党はそろってTPPに反対である。その論拠はアメリカ新大統領が反対しているからいま急いで決める必要がないというものであり、もともとこのTPPがアメリカに都合がよいものである疑いがあるから反対というものである。

 アメリカに都合の良い協定であるのであれば、そもそもなぜアメリカの新大統領が反対するのだろうか。トランプが反対するのは、アメリカの一方的な利益になるように協定を見直すことをもくろんでいるための反対であり、TPPはそれなりの妥協に基づいたものである証拠ではないか。

 それに常々自民党政権は対米追従ばかりしている、と非難し続けているのが野党の面々である。アメリカが反対しているからTPPに反対、と唱和するのはまさに対米追従ではないか。

 それを何たることか、民進党の山井国対委員長はTPPの国会での決議を「史上例のない暴挙」と決めつけていた。「史上例のない」などという言い方を軽々に言うべきではない。このような言葉のインフレ的な使い方をする人間をわたしは軽蔑する。北朝鮮並みではないか。本当の暴挙がおこなわれたときに、彼にはどんな言葉の用意があるのか。

 ブログ「丸ちゃん」のtuyamaちかよさんから、トランプ当選についての蓮舫氏の発言内容の情報をいただいた。比較的に温厚で、当たり障りはないけれど妥当な文言のようで、そのことは一応評価したい。ちかよさん、ありがとうございました。

知りたいこと

 安倍首相が電話でトランプにいちはやく祝意を伝え、ペルーでおこなわれるAPECの場での面談の約束を取り付けたと報じられた。昨日、あの禿頭の巨漢、アーミテイジ氏が、「東アジア情勢の知識のないトランプを安倍首相が説得して、正しい認識を持たせるようにすることを期待する」と言っているのを聞いて笑えた。トランプが聴く耳を持つ人物であればよいのであるが。

 ところで昨日以来ほとんどBSで海外ニュースばかり見ていたので、日本での反応についてあまり知らない。いま一番知りたいことは、民進党の蓮舫氏がトランプの当選についてどのようにコメントしているのかであるが、コメントそのものがあったのかどうかも知らないのだ。

 ただ、TPPについて、山本農水大臣を辞めさせなければ審議に応じるわけにはいかない、と党を挙げて息巻いているところだけは見た。この人達は何をしているのだろうか。山本農水大臣の進退と、国会審議を秤にかけてみせる手法に、まともな国民はもううんざりしているのではないか。

 蓮舫さんの言い方はトランプの物言いに似ている、と息子が言った。そういう見方もあるし、確かにそうだ。「何にでも反対している、とわれわれ民進党はいつも批判されるけれども」と彼女は言った。そして「それを承知で反対しなければならないことがあるから反対しているのだ」と続けた。

 反対したあとに何があるのか、最近の民進党からは何も伝わってこない。安倍政権を打倒することだけが目標で、そのあとに何を目指しているのか、彼等自身にも何のビジョンもないように見える(むかしの民主党は実現の可能性は別にして夢を語っていた)。これで支持する人が増えると思っているのだろうか。

 世界が激変するかもしれないとき、トランプの当選に対してどのようなコメントをするのか、民進党を代表して蓮舫さんの言葉を聴いてみたいのに、いまだにその機会がない。いまこそ世界観を吐露して支持者を増やすチャンスではないのか。なにか言うと突っ込まれるのが恐ろしいのだろうか。

ディストピアを予感する

 トーマス・モアの「ユートピア」という著作にちなんで、理想社会をユートピアと呼ぶ。そこでは争いもなく、大きな貧富の差もなく、人々は幸せに暮らしている。そのような社会を目指すのがそもそもの共産主義だった。後に空想的な社会主義と批判され、「空想から科学へ」と言うエンゲルスの著作でユートピア的な理想社会そのものは空想的なものと見なされた。

 その辺のことは知識もないし、本を読んだこともほとんどないのでこれ以上書くと馬脚を現すのでやめる。

 未来はユートピアを目指して進歩するというのが西洋的な未来感であろうか。たしかに世界は豊かになり、疾病も減って寿命も延びている。それなら「ユートピア」が描かれた時代から見れば、現代はユートピアが実現されつつある世界と映るだろうか。

 拝金主義者で、金儲けがうまいことだけが自慢の歪んだ世界観の持ち主が、自分の無知をさらけ出して見せて却って「正直である」ことを評価され、アメリカ大統領になることができる世界は何を予感させるのか。

 「ユートピア」に対して正反対の、絶望的で悲観的な未来を「ディストピア」という。そこでは世界は破綻し、弱肉強食、奪い合いの争いに満ちている。

 悲観的なそのような世界を描いたSF小説や映画はたくさんある。そこでは人々の欲望はむき出しにされ、荒廃した世界が描かれる。大好きな映画である「マッドマックス2」で描かれたような世界がまさにそのようなものである。

 そんな悲観的な未来を予感させるのが今回のトランプ大統領の登場であるといえば言い過ぎだろうか。 

 クリントン候補が敗れて支持者の流した涙が、そのままアメリカという国の未来に対する涙に見えた。

2016年11月 9日 (水)

換えたら何かがある?

 いまが最悪だから換えたらいまよりましになるのではないかと思って換えてみたら、最悪よりわるくなったというのが民主党政権だったとわたしは思っている。もうそれを忘れて蓮舫女史を支持するひとがいるのは何だかなあ、と思うけれど、人はニワトリ並みに忘れやすい生き物なのだろう。

 「まさか」がここにも出現した。アメリカはトランプに換えてみることにした。傍で見ていると最悪のいまよりさらにわるくなることが歴然としているように見えるのに、当のアメリカ国民の多数が気がつかないでいる。

 トランプを選ぶことはさすがにまずいだろうと見ていた人たちよりも、トランプに期待していた人たちがトランプが期待はずれだったときの失望と怒りは大きいだろう。

 そのときの怒りを誰に向けようというのだろう。いまからそれを心配する。

 アメリカのシステムは最悪の大統領を選んでもそれが想定されているから、アメリカはびくともしない、と言うのが内田樹老師のかねてからのお考えである。しかしトランプの最悪さはアメリカの堅牢なシステムでも支えられないのではないか。

 アメリカは先進国の中で人口の増加率が際だって高い国である。それは出生率の問題以上に移民の流入によるところが大きい。トランプはそれをせき止めようとするだろう。アメリカの活力はそのことをはじめとしてトランプが敵視するものの中にエネルギー源がある。それを敵視することでやってくるのはアメリカの衰退である。

 NHKの街頭インタビューで、「トランプはビジネスマンだから、それほどひどいことにならないだろう」というビジネスマンらしい人が答えていた。

 政治や外交をビジネスモデルで考えるというのが拝金主義世界の蔓延をもたらし、富の極端な偏在を結果して不安定化させている、という事実に気がつかないと、そのようなおかしなコメントをすることになる。

 アメリカに、そして世界に必要な指導者はそのようなビジネスモデル的な思考から自由な人であることにまだ気がついていないから得々とそのような答え方をするし、それを見聞きして、なるほど、と感心してしまう。

 あり得ないと思っていた戦争の足音が聞こえ出すかもしれない。

 まさか。

 いや、そのまさかが現に続いているではないか!

楽しむ

 本日はアメリカ大統領選挙の速報を楽しもうと思う。NHKBS1の海外ニュースを見ていても、ほとんどの国がアメリカ大統領選挙の話題がトップである。しかしその伝え方、コメントにはお国柄が現れていて面白い。ところがその途中で見てみた八時過ぎの民放のバラエティニュースは博多の道路陥没の話題を延々と報道していた。どこのチャンネルに換えてもみな同じ、そのコメントもほぼ同じ、金太郎飴を見ているようである。チャンネルがたくさんあっても、一つしかないのと同じである。

 トランプは選挙結果にやや悲観的な印象を持っているように見て取れた。劣勢を感じているのだろう。選挙結果について、自分が勝てば良いが、負けたらその選挙結果を受け入れるかどうか分からない、と述べているらしい。つまり自分が負けたら選挙に不正があったと訴えるつもりがあるということである。

 自分が選挙を受け入れて立候補しているのに、結果がわるければそれを受け入れないというのも本当におかしな話だ。そうは言ってもその理屈が通用するのは僅差の場合だけで、大差がつけばただの負け惜しみだろう。たぶん負ければトランプなど誰も見向きもしなくなるであろう。

 さあそろそろ速報が始まるぞ。世の中まさかということがあるからなあ。どうなることだろう。

2016年11月 8日 (火)

ささやかな宴会

 昨晩、急遽どん姫もやって来たので、夜の10時過ぎから息子と三人でささやかな宴会となった。東北で買ってきた地酒は先日兄貴分の人が来たときに飲んでしまったので、久保田の千寿の一升瓶を買っておいた。

 それぞれの日ごろの様子を聞いているだけで、バカ親父はとても好い気持ちである。いろいろな話題で盛り上がったが、当たり前のことだが物事に関する感性がよく似ているのが、なんとなくおかしかった。別々に暮らしていても親子なのである。

 眼が疲れて調子がわるいとわたしが言うと、さっそくどん姫がマッサージをしてくれた。眼の酷使と噛み合わせの狂いで頸がかたくなっているという。かすかにしていた頭痛がスーッとなくなり、頭全体が軽くなった気がする。ちょうどNHKの「ためしてガッテン」で腰痛のテーマの再放送をしていた。息子は腰痛もちである。

 自分で出来る腰痛対策の体操を始めた息子を見て、どん姫が「身体が異常にかたい」と指摘。さっそく息子の腰回りのマッサージと整体を始めた。「いたたたた!」と叫ぶ息子にどん姫は容赦がない。さすがにプロフェッショナルである。たちまちどこの筋肉がかたくなっているのか、どのようにしたらいいのか探り当てて、かなり丁寧に療治していた。

 兄妹の久しぶりのじゃれ合いを肴に、つい飲み過ぎてしまった。

 二日酔い気味の朝、朝食をしっかり食べて二人は元気に仕事に出かけていった。息子は今晩も泊まる。どん姫は用事で今晩は来ない。そのかわり、明日の夕方、どん姫のアッシー君をするよう要請されたので謹んで拝命した。

 ははあ、これでサービスが良かったのか。

2016年11月 7日 (月)

貧しい巨漢

 トランプはアメリカ国民に向かって、「あなたが貧しいのは犯人がいるからだ、わたしはそれをただしてあなたたちをもう一度豊かにすることが出来る」、と繰り返し言い続け、熱狂的に支持されている。

 本当に貧しい人もいるだろうが、それほどでもない人も、「あなたが貧しいのは・・・」と繰り返し言われているうちに、自分は貧しいのだ、と信じ込まされている。

 この場合、貧しいのは金持ちとの比較の中での貧しさである。みんなが金持ちになることは出来ないから、ほとんどの人の貧しいと感じる気持ちは永遠に解消されないだろう。

 世界の過半数以上の人が、トランプの呼びかける貧しいアメリカ人よりも貧困である。だいたい腹一杯食べられない人はまだたくさんいる。

 しかるにトランプを熱狂的に支持する貧しいアメリカ人達の、何とふくよかなことよ!みな肥満した巨漢ばかりではないか。あんなにぶくぶくと肥え太っていて貧しいというのもなんとなく釈然としない。食べるものを少し控えて生活のゆとりに廻したらもう少し精神的に豊かになるのではないか?

 足るを知るだけで貧しさはずいぶん軽減される。他のひととの比較ばかりしていれば、いつまでも必ず自分より上がいるものだ。

 なんだか世界中が金に振り回されて、豊かさとは何か、ということを忘れてしまったような気がする。世界の経済の仕組みが、必要ないものもほしがるようでないと成り立たないように作り替えられてしまったために、人は、過剰にものを持たないと貧しいと感じるようにマインドコントロールされてしまったようだ。

 だいたい何億や何十億と金を手にして、どう使おうというのだ。生きて楽しむだけならそんなに必要ではないのに、それがどこかに偏って集中してしまういまの世界はやはり異常だろう。

 それに対する怒りがアメリカで、韓国で、そしてイギリスやEUで、さらに世界中で野火のように燃え広がっている。わたしが民進党や共産党に腹が立つのは、トランプと同じ口調で「あなたは誰かのせいで貧しい」と言うからである。日本人もそれに乗せられて怒り出すだろう(しばしばコメンテーターには貧しくなんかないのに怒ってみせる輩もいる)。

 いったい世界はどうなってしまうのだろう。

 わたしは自分が死ぬまでに誰かに迷惑をかけずにささやかに楽しめればそれで十分である。肥満もだいぶ解消した(まだ不十分と医者には言われるが)。

なんとなく気ぜわしい

 今晩、出張で息子が広島からやってくる。わたしと違ってすべてにきちんとしているので、家の中を少し片付けなければならない。あまり雑然としていると心配されてしまうのだ。その点、娘のどん姫は私以上に大雑ぱだからやっつけでも気楽である。兄妹でもずいぶん違うものだ。

 散らかったものを片付け、部屋の掃除をして、食べるもの、飲むものの用意をする。昼間の仕事を終えてから来るので、やってくるのは夜遅いだろう。明日と明後日、名古屋で仕事らしいから、夜遅くにつき合わせるのは申し訳ないのだが、翌日にあまり影響しない程度には飲むつもりだ。

 明日の晩にはどん姫もやってくる。信州のリンゴを仕入れてあるので、それを持たせる約束をしていたのだが、ちょうど息子の来るときに重なったのだ。なんだか盆か正月みたいだ。明日の晩は本格的に宴会のつもりでいる。

 妹の娘が結婚すると連絡があった。今月籍を入れるそうだ。結婚式は来年の春になるという。最近はこんなのも普通なのだろう。籍を入れるということはその日から一緒に暮らすということだ。夏に会ったときに妹夫婦からそれらしい話を聞いていたけれど、決まったのだ。

 めでたいことである。わが家の二人はまだ何の話もわたしに聞かせてくれない。彼等の両親、つまりわたしとわたしの形式上のつれ合いの関係が影響しているかもしれない。

 その形式上のつれ合いとの関係の金銭的な区切りとなるだろう裁判所の裁定が、今月の18日に下される。最悪の裁定でも受け入れると弁護士には告げてある。先方の申し立て金額よりも支払うべき金額が少なければ、その差額の範囲で散財するつもりでいる。買いたいものやちょっと贅沢な旅行など、いろいろその金でやりたいことを考えて結果をたのしみにしている。まさか何も買えないということはないだろう・・・。

 そのあとに、タイヤ交換に金沢へ行く。すでに10数年、毎年頼んでいるタイヤのリース会社があるのだ。リースだからほとんど新品タイヤかそれに近いものが使えるし、夏タイヤは預かってもらえる。今年は雪が早いという。交換に行くとき、東海北陸道に雪がないといいけれど。一度雪に見舞われてこわい思いをしたことがある。

 さらにそのあと、月末は台湾旅行に行く。台湾にはすでに三回行っているけれど、いままでは台北周辺ばかりだった。今回は台中や台南も回るので楽しみだ。台風で被害があって見られないかもしれないと連絡のあったタロコ峡谷も入り口周辺は行けるようになったらしい。金はすでに振り込んであるので、あとは詳しい資料などが送られてくるのを待つばかり。それも楽しみである。

 そのほかまだ残余の用事などもあり、今月はけっこう予定が詰まっていて気ぜわしいのだ。まあそれも生きている証みたいなもので、ありがたいことなのだと思っている。

2016年11月 6日 (日)

あなただけ

 あなただけ特別に、いまだけ限定、等々の惹句のメールが次々に送られてくる。それぞれ必要な情報も取りたいところからなので、受信拒否にするわけにもいかない。

 このような案内は「いまならお得ですよ」、というお知らせのつもりなのだろうが、へそ曲がりのわたしには「このチャンスを逃すと損するぞ!」と聞こえる。

 他のひとがうまくやっているのに、得するチャンスを失って結果的に損をするのを人はとてもおそれる。そうして損をしたくないために不要なことをして損をする。

 なに、特別得などしたくないと思えば、特別あつかいのチャンスを逃すことなど何とも思わない。

歴史を忘れたか

 国難にあたり、それまで対立してきた人たちがそれを棚上げにして対処出来る国と、対立を一時棚上げに出来ない国があるようだ。

 韓国与党の国会議員全員が今回の朴槿恵大統領の問題を謝罪して、野党に対して共同してことにあたろうと呼びかけたが、野党はもってのほか、と一蹴した。

 この姿を見ていると、日清戦争前の、開国を迫る日本に対しての韓国の混乱や、日韓併合前の韓国の混乱の歴史を思い出す。 

 韓国の考える歴史では、その混乱は日本のせいである、と教えているようだ。しかし混乱したのは韓国自身である。

 そういうとき、日本は究極的な対立に到らずに、たちまちのうちに国がまとまっていく。そのまとまり方が戦争への道に通じてしまったは残念だが、明治以来の数々の国難に、日本は曲がりなりにもまとまって対処してきた。

 韓国は今国家の大事なことを決定することが困難な状態にある。韓国は国を経済的に引っ張ってきた財閥系の企業が盛りの時期を過ぎて衰退の様相を見せ始め、経済的にも暗雲がたちこめてそれに対する施策を講じなければならないときである。そんな時に政治的な停滞をしていてどうするのだろう。

 いま韓国は国を挙げて朴槿恵大統領糾弾の雄叫びを上げているが、それは朴槿恵大統領の身から出た錆だから仕方がないとして、これからの韓国をどうするのか、どう建て直すかの論議がまだ始まっていないようだ。

 昔のように延々と対立抗争を続けて、ついには国を失うに到るような道をたどろうというのか。北朝鮮は韓国の国難を大喜びして牙を研いでいるだろう。チャンスがあれば手を出しかねない。中国はかさにかかって韓国に無理難題を押しつけるかもしれない。そういう国である。水に落ちた犬を叩くのが世間というものだ。

 韓国は日本に対して再三歴史認識を問うてきた。韓国は自国の亡国の歴史を忘れたか。いつ目覚めるのか。 

2016年11月 5日 (土)

近藤喜博「日本の鬼」(講談社学術文庫)

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 少し前に読んでいる途中で一部紹介した。専門雑誌などに掲載した論考の文章を一冊の本にまとめたもので、1975年に桜楓社から単行本で出版されている。2010年にこの講談社学術文庫に収録された。

 あとがきに、表題を「日本の鬼」としたけれど「日本の神」とすることも考えたとある。そう、日本では鬼と神はじつは区別が難しい。人智を越えたものを鬼ともいい、神ともいう。人に害をなすものを鬼と名付けそうだが、神も人にたたりをなすことが珍しくないのだ。

 「日本の鬼」と題されているので、古代からの日本の鬼の系譜を知ることが出来ると期待したが、鬼らしい鬼の話は全体の一部である。内容はかなり専門的で、神社や古典に残された文章の引用が頻発するので、古典の苦手なわたしには歯ごたえがありすぎるくらいだったが、興味のある分野なので時間はかかったが投げ出さずに読了することが出来た。

 読後にザル頭のわたしの頭に残ったのは、鬼といい、神というのが、古代の人々の自然に対する畏怖の対象だった水や火、雷鳴落雷、そして刺突するものなどが、鬼や神の原型だったのではないかということだ。そのことの考証が繰り返し述べられているのだが、当初例によって検証出来ないことをむりやりこじつけて関係づけていると感じていたものが、次第に「そうかも知れない」、と説得されていた。

 現代の我々には、歴史の経緯を経て変形されてしまった日本の鬼や神の姿が見えているが、その原型をたどることで変形の意味も浮かび上がってくる。そして日本にはそれを類推することの可能な文献や痕跡が驚くほど豊富に残されているらしいのだ。

 この本のお陰でこういう論考を読まなければけっして知ることのなかった世界観を教えてもらった。今までにない視点をもらったのだ。私の最もよろこびとするところである。

 著者は古典文学、古代文化史、民俗学などを包括する形で古代を読み解くことに挑戦してみたという。それぞれの分野にはテリトリー意識があって、それをまたぐというのは必要なのに評価されず、反発批判も多かっただろうと推察する。そこにあえて挑んだこの本はとても面白い本となっている。
 以前宇治に行ったとき、橋姫神社という小さな神社が目にとまって心に残った。橋姫の多様な伝説がそこにあることを教えてもらったことも嬉しいことだった。

 日本の鬼について書かれた本については、これからも機会があれば探して読んでみたい。今回読んだ本では鬼についてに限れば、少し欲求不満が残ったので。

反日ではなくて反中国に(希望を込めて)

 韓国は朴槿恵大統領とチェ・スンシル氏の問題で大揺れである。このことは中国でも大々的に伝えられているという。ニュースは国家の見えない検閲を受ける中国だが、韓国のこの問題は今のところどんな報道をしてもチェックが入らないようで、大いに盛り上がっているようだ。

 中国漁船の傍若無人ぶりは韓国近海でもとどまるところを知らないようで、韓国の海上警察が違法操業の漁船を拿捕しようとすると集団で襲いかかってくると言う。海上警察は武器の使用が公認されるところとなり、先日は集団で襲いかかった漁船達についに機関銃の威嚇射撃をおこなった。ニュースによれば、韓国は違法操業で拿捕され、裁判で没収判決を受けた中国漁船を廃船処分にすることを決めた。

 中国は自国の違法漁船に対して処罰する動きがないことはないが、形だけで、実効性のあるものには見えない。違法操業は世界中で続いている。中国政府には取り締まる気がないとしか見えないが、取り締まろうとしても地元政府の役人は漁船を取り仕切るやくざのような連中とグルらしいから、どうしようもないのかもしれない。これでは倭寇のふりをして中国人自身が海賊行為を働いていた時代と同じである。中国は倭寇の残虐非道を日本人によるものだと歴史で教えるが、ほとんどが中国人による海賊行為だったことは教えていないようだ。

 中国は自国に非があっても危害を受けたとして相手を非難するのはいつものことで、韓国に冷静で温厚な対処をするよう申し入れている。これはお願いではなくて、命令口調に近い。中国外交部は、言うことを聞かぬと制裁するぞと言わんばかりの、いつもの木で鼻をくくる口調である。   

 韓国を訪れた中国人は昨年は600万人を超えた。近いから手軽なのだろう。中国政府はその韓国旅行客を20%減らせ、と全国の観光業者に命令した。他の国ではあり得ないことである。そもそもどこに行こうが個人の自由であるのがまともな国である。子供の数を国家が強制的に決める国である。それが当然だと思っているようだ。

 韓国は国内が不安定になったり、大統領の支持率が下がると、反日を掲げて国内の統一を図り、支持率の回復をもくろむ。毎度毎度のことだがそれがことごとく奏功するから日本にとってはわずらわしい。

 今のところまだ反日が再燃する気配はないが、またぞろその動きがないとはいえない。中国の韓国に対する締め付けなどが韓国にダメージを与え始めているから、このまま反日ではなく、反中国でいてもらうと日本も安泰なのだがどうだろうか。

 中国でも中国独自の慰安婦像の設置が決まり、お馴染みの韓国の慰安婦像と仲良くならんだものが上海に据え付けられるようだ。しかし韓国の慰安婦問題についての熱気は、日本から支払われた10億円を多くの自称慰安婦のおばあさん達が受け入れたことで、冷めつつあるように見えるのは幸いである。

2016年11月 4日 (金)

雪隠詰め

 EU離脱交渉を始めようとしたイギリスのメイ首相に待ったがかかった。離脱の通知には議会承認が必要であると訴えた市民団体があり、裁判所の裁定は議会承認なしで離脱の通知や交渉をしてはならないというものだった。イギリス政府は最高裁判所に控訴するが、裁定が覆るかどうか危ういという。

 もともとイギリス議会はEU離脱反対が多数である。これからEU離脱そのものの是非が論じられて収拾がつかないことになるだろう。少なくともメイ首相はイギリス議会から離脱交渉に様々な条件をつけられて身動きがとれなくなると思われる。

 議会制民主主義においては、国の議会の決定により国の方針を決めるのが原則である。ところがキャメロン首相はそれを無視して、一見民主的に見える国民投票にEU離脱の判断を任せた。

 国民の代表であり、国の方針を決めることを委嘱されている議会の意思と、国民投票の結果とが違うことになったのである。では国民の意思はどちらにあったのか。

 国民投票の結果が出たあとになって、EU離脱派が唱えていた話に明らかな嘘があったことを知った離脱賛成派の中に、それを知っていれば離脱反対をしたのに、という声が多く聞かれたと伝えられている。結果が違ったかもしれないという。

 議会では一つの結論を出すために議論がおこなわれる。いうまでもないことだが、だから議会という。その互いの主張の過程で、誤った根拠は是正される。しかし国民投票ではそのような議論を尽くしたとは思えない。だから間違いの情報も検証なしに流通してしまう。

 メイ首相は今後正式なEU離脱の通告も、離脱後の条件の交渉も困難になる。そもそも矛盾するものを同時に片付けることを求められるのであるから、まともな人間なら投げ出したくなることだろう。

 裁判所は「今回の裁定は、あくまで法律的な観点から判断したもので、EUの離脱の是非は考慮していない」と述べている。当然である。

 こうして、話は最初に戻る。そもそも国民投票などと言う手法で国民にEU離脱の是非を問うたこと、そのことがそもそも法律的に正しいかどうか問われなければならないことだったのではないか。いまさら言っても仕方がないことを言わざるを得ない状況、これは苦しい。他人事ながら同情する。

山本農水大臣は確信犯ではないのか

 山本農水大臣の二度の発言が問題となって、TPPの議会承認が出来なくなっている。そのまま見ていると、ただの愚か者が身内にこびを売るために失言した体である。

 しかし、もし山本農水大臣がTPPそのものに反対であって、それがつぶれれば良いと思っていたなら、その作戦は成功したのである。何しろ二度目の失言は、JAの会合でのものだ。JAはTPPに反対してきたことを思い出す。その場でTPPをつぶしかねない失言をして見せて、その結果が思惑どおりなら、内心快哉を叫んでいるのではないだろうか。

 そもそも自民党内にもTPPに反対している人が少なからずいるはずである。地方出身の議員の多くはそうだろう。

 TPPについて、わたしは自由貿易のために必要と思う者である。アメリカの大統領候補二人がそろってTPP反対を掲げるのは、アメリカの保護主義への後退の民意を汲んでいるからである。

 テレビのニュースバラエティを観ていると、どうしてアメリカも反対しているのに、日本はTPPの承認をこんなに急ぐのか?という声がしばしば聞かれた。TPPはアメリカ主導だったが、アメリカに追随ばかりするのはやめたらどうか、と言いながら、アメリカが反対しそうだから急ぐ必要はないと言う。自分で矛盾していることを言っているのが分からないらしい。

 ところで民進党はすでに旧社会党化しているから、自民党、すなわち政府が進める法案にはすべて反対の基本姿勢であり、内容などお構いなしにTPP絶対反対、廃案に持ち込む、と公言している。

 世界が保護主義にかじを切り直すためのお先棒をかつぐことになるかもしれない、という思いはかけらもないようだ。結果的にTPPをつぶそうという一部自民党議員の思い、山本農水大臣達に加担していることに思いが到らぬらしい。

 世界が保護主義に向かえば、自国のことだけ考える世界、世界大戦前の世界に戻ることになる。それが結果的に世界を危険な方向に向かわせてしまう。自由貿易を推進して世界を開いていかないといけないのに、それに逆行することに加担してどうしようというのだ。世界平和、憲法の絶対死守をお念仏のように唱えていても、何のたすけにもならない。

 自民党は、TPPに反対しているのは民進党である、と言う事実を明白化して、歴史に汚点を残させることに成功したのかもしれない。

面白がって申し訳ないが

 韓国を見ていると面白い。自国のことは案外分からないものだし、面白がってばかりもいられないが、他国のことは他人事(ひとごと)だからだろう。たぶん韓国や中国から見える日本も面白いのかもしれない。

 慢性的限界企業、などと韓国のニュースでいうから何のことかと思ったら、一年間で稼いだ金よりも、借りているお金の利子のほうが大きい状態が三年以上続いている企業のことをいうらしい。俗に言うゾンビ企業のことだ。自分では気がつかない(そう思いたくない)が、すでにほぼ死んでいるのである。 

 韓国ではそんなゾンビ企業が15%もあるというのである。韓国ではそのような統計値をいうときに必ず日本の数字を比較に出してくれるから分かりやすいが、日本は2%だそうである。それはそうだろう。ほぼ死んでいる企業が15%も存在するのはまともとは思えない。韓国経済はいま冷え込んでいるから、これらのゾンビ企業が立ち直る望みは低い。つまりこれから倒産する企業が続出するだろう、ということだ。

 韓国の投書欄の意見が採りあげられて報じられていた。済州島では中国人の犯罪が多発しており、治安が悪化しているという。しかし済州島には外国人犯罪の専門部署がなく、対応し切れていないらしい。

 その事態に対し、野党の国会議員が「中国人が恐れる中国公安に済州島へ来てもらおう」と提案したという。冗談かと思ったら、韓国外交通商部が「中国側と協議したい」と回答したそうだ。このことを投書氏は怒っているのである。

 韓国は中国の属国であるという性根が韓国には根付いているらしい。中国もそれを見越しているのだろう。韓国に対するものいいは常に上から目線であるが、プライドの高い韓国がどうして怒らないのかと思ったら、千年来のことで慣れてしまって何とも感じないらしい。

2016年11月 3日 (木)

NHKは何を考えているのか

 NHKの今晩9時からのニュースを見たら、トップニュースがSMAPの話であった。延々五分、こちらはSMAPなどに興味も関心もないのにどうしてこんなものをいきなり見せられるのか分からない。文化勲章を受けたわけでもない。突然解散したわけでも誰かが死んだわけでもない。なにをトップニュースとして視聴者に伝えなければならないとNHKが考えたのか、想像もつかない。

 ファンらしき人が街頭インタビューでSMAPの素晴らしさを語っていたが、だからなんだというのだ。

 伝えるべきニュースがほかにないわけではないし、冒頭に伝えるべきものでもないと思うが、NHKはいつからそんな常識を持たない局になったのか。SMAPは引退間近らしいし、それに合わせてむかしからの歌を選曲してアルバムを作るらしいが、それをNHKはニュースの枠を使ってコマーシャルしているように見える。

 このことを非難する声はほかでもたくさんあると思うが、わたしも黙っていられないほど腹が立った。SMAPが格別嫌いなわけではなかったが、今日から大嫌いになった。

 これでNHKの受信料を払わない人がさらに増えるだろう。

韓国のことばかりで申し訳ないが

 韓国のことばかり書いていて申し訳ないが、最近韓国の情報が多いし、興味を引くものがたくさんあるのでついそのことについて書きたくなる。以前は中国発のニュースに、日本では考えられないようなユニークなものが多かったのでそれを取り上げたが、最近は情報量が少なく、奇想天外なものに出会うこともあまりなくなった。これは最近特に中国政府がコントロールしているからではないかとわたしは睨んでいるが、まことに残念なことである。

 世界で急激にシェアを伸ばしてきた韓国企業が、立て続けに各地で不公正取引の調査対象になり、課徴金などの制裁を受けているという。アメリカやEUだけではなく、ブラジル、インドネシア、中国でも億単位の課徴金が課せられ、企業の収益を圧迫し始めているらしい。最近は新興国が、韓国企業をターゲットにすることが増えている、とニュースは報じている。

 出る釘は打たれるのは世の習いで、ようやく韓国も世界に認知されたのであろう。それを乗り越えないと韓国の企業も生き残れない。

 韓国の対中国輸出が16ヶ月連続で前年比マイナスだった。今のところ輸出入の差は黒字が続いているが、次第に減少していて三年前と較べて半減に近くなっているという。もともと韓国はアッセンブリ(組み立て)製品の輸出が主であるから、同じ分野で台頭してきている中国とは当然競合する。資本力で勝る中国には最後は勝つことが難しい。日本も韓国財閥に勝てなかったように、このままでは韓国も中国資本に敗れるだろう。韓国財閥も身内で利益を分け合うことにかまけて知財の投資を怠ってきたから、これから大変だろう。

 韓国は中国・習近平に倣ってかどうか知らないが、汚職防止に力を入れることになった。金品提供や接待の限度額を大幅に引き下げたのである。その法令が施行されて1ヶ月、早くも贈答品関連や飲食店の事業者から悲鳴が上がっているという。当局が対象業者に調査をおこなったところ、70%がこのままだと持ちこたえられない、と答えている。統計長の調査でも9月の小売り販売は前年と比べて4.5%減少したというから深刻だ。つまり金品提供や接待が韓国では中国同様、経済の中で重要な部分を占めていたということのようだ(日本もそうだったけれど)。

 話は変わるが、朴槿恵大統領は首相や側近の首を次々にすげ替えている。自分の問題をそれで言い訳するつもりなら、どうも感覚がずれているように思える。現にそのことが韓国内で高く評価されているようには聞こえてこない。

 もともと朴槿恵大統領は側近以外には直接会おうとはしないといわれて来た。まるで日本の徳川将軍がお側用人を通じてしか話を聞かないのと似ているではないか。そうなればお側用人は強大な権利を有することになる。気がつくと将軍はつんぼ桟敷である。

 朴槿恵大統領に更迭された元側近達は口々に「すべて大統領の指示でやって来た」といって自らの責任を否定しているそうだ。わたしに責任がある、と引き受ける何人(なんぴと)もいないことは韓国の不幸だろう。

 ところでチェ・スンシル氏は大統領府の車を私用し、大統領府にフリーパスで出入りしていたという。身元確認などの検問をしようとした警察幹部は恨みを買って左遷させられたというから驚く。恨んだのはチェ・スンシルだろうが、怒って左遷させたのは朴槿恵大統領であろう。まるでバカ殿様である。

 朴槿恵大統領の父親である朴正煕大統領は腹心中の腹心に暗殺された。朴槿恵はそれを目の当たりにしてきたはずなのに、妹のように親しんできたチェ・スンシルに政治的に抹殺されることになったのは皮肉である。人は経験から学ばないものだ。

布団のこと

 昨日はたくさんたまっていた寝具の処理をした。押し入れにあった使わなくなった寝具をすべて廃棄処分にすることに決めて、すぐ捨てられるものを捨てられるようにした。圧縮してあったものもあってその量はずいぶん多い。

 母は自分で布団を作るから、古い布団の綿(わた)は打ち直し、新しい綿と合わせて新しい側(がわ)をつけて布団を作り直す。それを子供の時から見ていたし、子どもたちが小さいときにわが家にときどき来てはそうして布団を作り直してくれていた。

 だから常に新しい布団が何組もあったのに、子どもたちが巣立つときに新しめのものを持たせて以来、わが家の布団は新しくなることがなかった。二年前、母が綿(わた)の打ち直しを頼んだりしていた布団屋に、古い布団の処理と自分用の新しい布団を一組作ることを頼んだ。それで快適に寝ているのだが、それ以外の布団はずっと更新されていない。

 かろうじて子どもたちが帰ってきたときのための布団はそれなりに保持している。先日は兄貴分の人もその一つに寝た。その前に友人が来たときもそうした。しかし、出来れば来客用の布団を一組用意しておきたい。ところが使えない布団や夏掛けや毛布が山のようにあって押し入れにスペースがない。そこでそれを処分することに決めたのだ。使えないことはないけれど、自分がそれを喜んで使いたくないものに、他のひとを寝かせるわけにはいかない。

 じつは実家には布団が余分にあって、持っていくように弟に言われている。それをもらいたいけれど、こちらにはスペースがなかった。

 大量に処分することにして、ようやく一組や二組くらいはもらえるようになった。母の作ったかい巻きなど、わたししか使わない。寝間着もわたししか使わない。いい歳をしたおっさんは、母にくるまれて寝るのである。

 そうやっていろいろ家の中を片付けて気がついたら、歯医者の予約の時間を過ぎていた。朝、そのことは意識していたのだが、夢中になっていろいろ片付けているうちにすっかり失念していた。あわてて謝罪の電話を入れた。こんなうっかりは最近二度目である。自分がかなり危なくなっていることを思い知らされる。

 来週は息子が出張で二晩ほど泊まると連絡があった。娘のどん姫もちょうどその日に帰ってくる。彼等もなんとなく父親の危うさを感じているのだろうか?

2016年11月 2日 (水)

老境

 プリンター(キャノン)が老境に入った。写真をプリントすると微妙にムラが出始めていたし、文字が一部ぶれる(黒が二色あって、推測だが、重ねて吐出することで濃く出るようになっているようだ。それがずれるのか)。ユーティリティで度々調整しているが、その調整も限度があるようだ。あまりやると調整は出来ずにインクが無駄になるだけである。

 購入してすでに六、七年たつ。普通の人よりは使い込んでいると思う。もともと文字情報を画面から読むのがあまり得意ではないから、ハードコピーすることが多い。とても多い。わたしは紙にプリントアウトしたものを見て考えるタイプなのだ(電子書籍はたぶん死ぬまで購入しないであろう)。いまはそれほどやらないけれど、気にいった写真はA4の写真専用紙にプリントアウトする。だからインクの消耗量も多い。

 人間と同様プリンターにも寿命があることは、すでに何台も使ってきたからよく承知している。ユーティリティの調整は投薬治療みたいなものか。入院治療にあたる修理に出すことも考えたが、プリンターはそれほど高いものではないので入院治療費を考えると、可哀想だが引退してもらうことにする。

 もうすぐ年賀状作成のシーズンである。思い切って新しいプリンターを購入することにする。それにしてもプリンターが替わるごとにインクが変わるのはまことに不経済で腹立たしい。それにインクの高いことも非常に腹立たしい。使われている染料や顔料の量から考えたら、とてつもなく高いものを買わされているのだ。多少その知識があるからますます腹立たしい。どんどん改良されているから仕方がないのは承知しているつもりだが、本当にそれほど改良されているのかどうか分からない。

 いまのプリンターのインクの予備が多少残っているので、正式の引退はそれが尽きるまでということになる。余命宣告である。長く使うと情が移るけれど、ごめんね。

 兄貴分の人から先日の旅行のときの写真が送られてきた。わたしもお返ししたいので新しいプリンターを買いに行くことにしよう。

 各地から初冠雪の便りが告げられた。今回の旅で廻った乗鞍や北アルプスの山々、御嶽山、白山なども雪化粧していることだろう。

トランプが勝つかもしれない

 世のなかには坂が三つあって・・・と言うCMがあるが、その「まさか」の事態が出来するかもしれない。トランプ大統領の出現である。今のところ勢いはトランプのほうにあるようだ。

 トランプは、政治屋は金のことが分かっていない、自分が大統領になれば失われているアメリカの富を取り戻し、アメリカ人を再び豊かにしてみせる、と豪語している。人気があるのはまさにそこに期待するからであろう。

 アメリカは富が著しく偏在している。金持ちの資産はけた違いだが、貧しい人はとても貧しい。その数は当然圧倒的に貧しい人の方が多い。他の国から見れば豊かに見える生活をしている人たちも、心情的に自分は貧しいと感じている。昔より豊かではなくなっている人が多いからである。

 自分たちは誰かのせいで貧しい、と考える人であふれているのがアメリカである。だから、再び豊かにしてやる、というトランプに支持が集まるのであろう。

 トランプは、アメリカ人が豊かでなくなったのは、日本や中国や韓国やメキシコなど、アメリカにものを売り込んで職と富を奪っている諸外国であるという1980年代の考え方を掲げてアジテーションを繰り返した。

 時代錯誤も甚だしい考え方なのだが、じつはアメリカ人のほとんどがそう感じていたのだろう、そのアジテーションに熱狂的に賛同した。自分たちがわるいのではない、外部に犯人が、敵がいるのだ。

 当初富をたくさん抱えている人々、いわゆるエスタブリッシュ達はトランプを軽侮し、そして次第に恐れた。富の偏在を是正する動きを恐れたのだ。しかしどうも矛先は自分たちに向かわないらしいことに気がついた。それならべつに心配は要らない。アメリカが海外にかかずらうことのコストが低減するかもしれないとそろばんをはじいたかもしれない。

 トランプは、わたしから見れば拝金主義者にしか見えない。すべてが金(かね)に計数化されて判断が下される。そしてアメリカ国民の多くがその拝金主義者に熱狂している。アメリカの理性と理想は吹き飛びそうである。

 そもそもなぜ理想を求める必要がある?

 金の奪い合いをすることのコストは、理性的に配分するコストより高いことを人類は長い歴史の中で学んできたのだ。自国の領土内で他国との戦火に見舞われていないアメリカは、戦争を外部から見る眼を持つことが出来た。そうして理性的に世界をリードしようしてきたのがアメリカだったのではないのか。きれいごとに見える理想主義がじつは一番低コストであることをアメリカは、そして世界は再び見失った。そもそもそんなきれい事は嘘っぱちだと思うようになった。アメリカン・グローバリズムとはそういうものだと思う。そしてそれにもっとも共感したのが中国だとわたしは考えている。

 トランプはアメリカの富を世界が奪いつつあるからそれを奪い返す、と言っている。アメリカから見ればそうなのかもしれない。

 第二次世界大戦後に、アメリカだけが世界の富を集めて国民の多くが豊かになった。ドルが基軸通貨であることの有利さによるところも大きいだろう。豊かだからこそ移民が殺到したのだ。しかし他の国も歯を食いしばり、這い上がっていった。そうして次第に豊かになっていった。みな努力したのだ。その努力の仕方はアメリカよりずっと大きかった。ハンディがあるルールの中での戦いだから当然そうなる。

 世界が豊かになれば、アメリカにだけ富が集中していた時代よりアメリカ人は豊かではなくなるのは当たり前だ。そのうえアメリカ国内で富の偏在が進めばますます一般国民はいままでと同じ暮らしが困難になる。この原因が外部にあると言い立ててまた豊かにしてやる、と言うのがトランプなのであるから、トランプに支持が集まるのだろう。世界などどうでもいいのである。

 しかしアメリカのせいで世界が貧しくなれば、アメリカも貧しくなるのは自明である。それでも回復の努力を各国はするだろう。そんな時にアメリカ人はその競争に耐えられるのか。アメリカは衰退するだろう。

 しかし、そんなこと考える頭すらないのがトランプでもある。

 ここでヒラリー・クリントンにそれを論破する論理を展開する能力がないことが次第に明らかになり、まともな人たちの失望を買って失速しているというのがいまの構図だろうか。

 トランプが勝つことで世界は少なからず混乱するだろう。経済的にも大きなダメージを負う。しかし如何ともしがたい。間違いに気がついてアメリカも是正に動くであろう。なにがしかを学び、修正されるのにどれほどかかるか、想像に想像を重ねて高みの見物をするしかないようだ。世界はわるい方に動きつつあるのを感じる。

2016年11月 1日 (火)

クリントンに波及するだろう

 日韓で協議中の軍事情報包括保護協定の交渉がおこなわれる予定だったが、韓国側がいまのところ予定どおり進めるつもりと伝えられる中、日本側は協定の見直しをする見込みだという。チェ・スンシル問題で情報漏洩が明らかになっているいま、見直すのは当然で、これを進めれば日本政府や国民は非難するだろう。すべての情報の集まる韓国大統領府から、朴槿恵大統領の指示があったとは言え、何の障壁もなしに外部に洩らされていたのでは、現在の韓国で情報の保護など出来ていないのは歴然としている。

 情報の漏洩という意味では、クリントンの私的メールの中に国家的な機密情報が含まれていたのではないか、と言う疑惑が再燃してFBIが再び捜査を開始したと伝えられている。

 こちらは機密情報を意図的に漏洩していたというわけではなく、漏洩のおそれのある不用意な取り扱いをしたことが問題にされている。とはいえ、このような不用意な取り扱いはアメリカでは罪になるから捜査は当然なのだ。

 正確かどうか自信がないが、どうも10月以降のクリントン氏の私用メールが問題になっているという。それなら、これだけ騒ぎになって懲りているのに、それでもまだ同じ間違いを犯したことになり、事実ならクリントン氏は大統領という職にふさわしくない、と糾弾されるのは当然である。本当だろうか。

 だからだろう、大きく開き始めた支持率が再び縮まりつつある。

 そんな中で朴槿恵大統領の情報漏洩が世界中で取りざたされれば、クリントン氏にとっては、このメール問題が大きな逆風になるだろう。もしや、もともと大統領になるべき器ではないのであって、国民もそれを肌で感じているのかもしれない。

 どう見てもまともとは思えないトランプ氏が支持されるのも、クリントン氏のお陰なのかもしれない。そんな二人が大統領候補では、アメリカ国民は不幸である。もちろん身から出た錆だけれど。

 陰謀説に立てば、今回のチェ・スンシル問題は北朝鮮の仕組んだ謀略ではないか。その結果が、予想外に奏功したことを金正恩はほくそ笑んで眺めているだろう、というのがわたしの妄説である。

 韓国の没落も、アメリカの混乱も金正恩の望むものなのだ。結果を見て原因を推定するのは歴史の常道であろう。

 それは中国やロシアにとっても望ましいことであるが、北朝鮮や中国にとって望ましい事態は、日本にとっては望ましい事態ではけっしてないことを忘れて高みの見物を決め込んでいると、火の粉は日本に降りかかるだろう。

普通以下

 現代の日本人のマナーは海外でも評価されるほどよろしいようで、めでたいことである。これは戦国時代や幕末に、日本にやって来た外国人も認めていることであり、その記録も多数残されている。してみれば、日本人はおおむね礼儀正しく、素行の正しい民族だ、と胸を張ってもよろしいかと考える。

 とはいえ、日本人にもマナーのわるい人はいる。中国にもマナーの良いひとがいることも同様である。割り込みの当たり前の中国でも、きちんと列に並んでいる中国人は少なからずいるのだ。

 ここまでが前振りである。

 ハロウィーンを祝う人たちの経済効果が、バレンタインデーを超えたそうだ。あちこちで様々に仮装した人たちが街に繰り出し、ハロウィーンを楽しんでいる様子がテレビで報道されていた。中には泥酔して警官のお世話になっている人や、酔って人に迷惑をかけてパトカーに押し込まれている人も見られた。

 今年は騒ぎによる迷惑を回りに波及させないために渋谷などでは時間を区切って歩行者天国にしていた。ところが深夜になって歩行者天国を解除することになったら、警官の制止を無視してわざと騒いでいる連中がモザイク入りで映し出されていた。 顔をさらせば良い、と言う考えもあるが、こういう連中はテレビに自分の顔が写ったことを自慢したがるだろうから、制裁とはならない。

 そして騒ぎの翌朝はゴミだらけの荒廃した景色がそこにある。

 最初に述べたように、日本人はマナーの良い民族である。しかしすべての人がそうではない。中には普通以下の鼻つまみがいる。ハロウィーンというお祭り騒ぎはどうもそのような日本人として普通以下の人たちが楽しむものであるようだ。

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