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2017年1月

2017年1月31日 (火)

身売り

 富士通がニフティを分社化し、法人向けは残すけれども個人向けの事業は家電量販店のノジマに売却することになったという。かねてから言われていたことだけれど、決定したらしい。詳しいことは分からないが、ブログもノジマが管理することになるのだろうか。

 富士通という会社は電電公社と共に大きくなった会社で、その過程から法人向けは大事にするけれど、個人向けはあまり考慮しない会社だと私は思っている。富士通がNECに対抗してパソコンの分野に進出した頃(大昔だけれど)、けっこう魅力的な製品を出したので私は圧倒的なシェアを持っているNECではなく、富士通を選んだ。へそ曲がりなのである。ところが富士通の方針はころころ変わり、顧客を大事にしてないなあ、と実感することになった。その経験が富士通に対する印象となった。

 だからニフティの身売りの話のとき、危ういものを感じた。ノジマがニフティをどう扱うかはこれからのことだから何も分からない。しかしこれからニフティの新規参入者はますますへり、ニフティから離れる人は逆に増えるような気がする。そうなればノジマもニフティを維持するメリットを失うだろう。

 今すぐどういうこともないに違いないが、あまり遠くない将来、ニフティの個人向け事業は再び身売りされ、同業のどこかに吸収されていくだろう。私が気になるのはブログが私の日記がわりであり、それはわたしの財産であり、それが損なわれることである。

 念のため過去のものをハードコピーしてファイル化しておくことにしようと思う。すでにその作業は進んでいる。インクも紙も金がかかるが、私のブログは金に換えられない私自身の分身である。

 ずっとニフティでこのまま続けたいと思っていたけれど、いつかそれがかなわぬことになるのを覚悟する日が来る予感がする。

ひどい映画を観た

 どんな学芸会並み映画でも、探せば見所の一つや二つあるものだ。だから低予算のカルト映画でもそれなりに楽しめる。酷評された映画でも、観てみたら案外面白かったりするものだ。

  ところがまったく救いようない映画と云うのもときにはある。それは私が感じたのであって、他のひとにはもしかしたら面白いかもしれないというものもあるはずだけれど、今回観た映画は、だれが観てもひどい映画だったと思うような気がする。

 「NINJA THE MONSTER」(2015年日本)と云う映画で、85分という短い映画だけれど、あまりのお粗末さに腹が立って仕方がなかった。主演はディーン・フジオカ(姫の護衛の忍者役)、ヒロインのお姫様は森川葵という人、付き人役が和田聡宏など。

 この映画では全員が下手くそな役者にしか見えない。ひどい映画ではまともな役者も大根役者に見せてしまうことを教えてもらった。

 ディーン・フジオカはNHKの連続ドラマ「あさが来た」で人気を博したが、もともと台湾やアメリカで活躍してたくさんの映画やドラマに出ている。純粋の日本人で、英語も中国語もネイティブ並みにこなせるバイリンガルである。アメリカで人気のあった「荒野のピンカートン探偵社」で途中からレギュラー出演していた。WOWOWで観た。演技もアクションも一流である。

 和田聡宏はNHKの時代劇「妻はくノ一」で忍者の統領で出ていた。冷酷な役柄をクールにこなしていた。下手な役者ではない。だからこの映画が始まったとき、彼の顔を観て期待もしたのに、何という役柄だ。彼のキャラクターと全く違う最低の男を演じさせられていた。死ぬときだけとってつけたように格好を付けさせても救われない。

 お姫様役の森川葵は初めて観た。ほかにも映画に出ていてそれほど酷評されていないようだが、この映画では絶望的だ。そもそもこの髪型は何だ。彼女の顔に合わない上に、お姫様の髪型としても変だ。この映画しか観ない人は二度と彼女の出るドラマや映画を観たいと思わないに違いない。

 アメリカなどでは忍者映画は人気がある。恐ろしいのはこの映画が海外向けを意図して松竹が制作した映画であることだ。この映画を観たアメリカ人はあまりのお粗末さに日本の映画をバカにし、そして日本をバカにするかもしれないことだ。この映画はアメリカ人が喜びそうなものを意図して作ったのかもしれない。だとしたら日本人もアメリカ人も両方バカにしている。

 それほどひどい映画であった。もし目にしても決して観ない方が好いと思う。そういうと観たがる人がいるだろうなあ。

2017年1月30日 (月)

話したいことと聞きたいこと

 コメントを良くいただく「けんこう館」さんのコメントに返事を書いていて、思ったことがある。

 父や母に生前に聞いておきたかったことが、今になって次から次に湧いてくる。父がどういう育ち方をしたのか、親や兄弟についてどう思っていたのか。中学生時代にふるさとを出奔(まさにそうだったようだ)してからおとなになるまでどんな苦学をしたのか、専門学校を卒業してすぐに中国に渡り、どんな暮らしをしていたのか、戦争中に何を考えていたのか。

 母のことは、母が自らしばしば語ってくれたので、ずいぶん承知している。承知しているのだが、聞いておけば良かったことを次々に気づいたりする。

 昔実家に友人や先輩を連れて行った。たいてい酒盛りである。父は下戸だからビールを舐めるだけだが、息子の友人を歓迎するつもりなのだろう、つき合って坐っていた。客が父にいろいろ昔のことを質問する。それに父は答える。それによって父の昔のことを初めて知ったことが多い。

 母は話したいことだけ私に語った。父は特に話す必要を感じないし、何を私が知りたいと思っているのか分からないから何も語らなかった。何も聞きたくないだろうと思っていたのかもしれない。

 聞かれればそのことを語っただろう。人は相手が何を聞きたいのか知らない。聞きたいかどうかも分からない。だから聞きたいことをこちらから聞かなければならない。聞きたいことは相手を知りたいと想う気持ちから生ずる。すでに知っていると思うと何も聞きたいと思わない。

 相手を知りたいと思うことは相手を想うことである。そのことが伝われば、相手は聞かれたことに答えて語ってくれる。そういう意味で親のことについて知らないことだらけなのは、すでに相手を知っていると思い込んでいたからだろう。

 母親がしばしば子どもに根ほり葉ほり聞くのは、子どもを管理するためばかりではなくて、やはり子どもを想うからなのだろう。聞かれたら答えるのが子どもの務めであり、やさしさだといまなら分かる。

 今となっては聞きたいことを親に聞くことが出来ない。聞いたら答えてくれただろうし、聞いて欲しいこともあっただろうに、と思うとちょっと切ない。本当に私はバカ息子であった。

映画「大鹿村騒動記」2011年

 監督・阪本順治、出演・原田芳雄、大楠道代、岸部一徳、松たか子、佐藤浩市、石橋蓮司、小倉一郎、三國連太郎、瑛太ほか。

 この映画の企画は、テレビドラマでここを訪れた原田芳雄がこの大鹿村の大鹿歌舞伎を題材に映画を作りたいという思いから持ち込んだもの。この映画の公開三日目に原田芳雄は死去。病と闘いながらの演技であり、映画は彼の遺作となった。

 以前から観たいと思いながら機会を得なかったが、少し前にNHKBSで放映してくれた。だいたい思い描いていた通りの映画で、私にとって記憶に残るものの一本になった。

 リニア新幹線が近くを通ることが村の話題になるなか、大鹿歌舞伎の公演も間近となり、村人は稽古とリニアの話で騒然としている。そんな時、駆け落ちして村を出ていた治(岸部一徳)と貴子(大楠道代)が村に戻ってくる。貴子は大鹿歌舞伎の演目の主役・景清を演じる風祭善(原田芳雄)の妻であったが、善の親友の治と駆け落ちして18年が経っていた。

 善は離婚届を出していないので、貴子はいまでも善の妻、風祭貴子である。その貴子は認知症になってしまい、その面倒が見きれなくなった治は貴子を連れて村に戻るしかなくなったのだ。

 奇妙な3人の生活が始まる。スイッチが入ったり切れたりする貴子は善と暮らしていたときのままであったり、まったく別の人であったりする。

 こうした中で歌舞伎の公演はいよいよ迫り、稽古にも熱が入る。ところが思いもよらないアクシデントが起こり、女形として重要な役を演ずる予定の一平(佐藤浩市)が事故で演じることが出来なくなる。

 もともとこの役は貴子が演じていたものであった。認知症の彼女には代役を務めることが出来るはずはないと思っていると、何と彼女は台詞や所作を記憶していた。ただ肝心のときに彼女が役をこなせるかどうかは心許ない。

 その彼女は不思議なことにその役柄を演ずることになってほぼ普通の生活が営めるようになる。

 そして歌舞伎が始まる。

 それがどうなるのか。それは映画を観てのお楽しみだ。

 芝居が終わり貴子が真に自分を取り戻したとき、彼女はすべてを思い出し、どんな言葉を発したか。

 優柔不断とやさしさとは同じようで違い、違うようで同じである。やさしさには強さが必要だ。優柔不断はときに弱さから発する。しかしそれをしなやかに受け止めてやり過ごしたとき、やさしさとなる。この映画のやさしさは胸に来る。

 治が貴子を村に連れ戻したのは自分勝手な行為ではあるけれど、病んだ貴子はこの村のやさしさの中でしか幸せに生きられないことを感じたからだろう。保育園は子どもの声がうるさいから迷惑だ、などとわめき立てる人々にはこのやさしさは理解できないに違いない。

 貴子を演じた大楠道代についてはいろいろ思いがあって、書き出すときりがないので、良かった、だけにしておく。もちろん原田芳雄はすばらしい。自分の生きざまや思いをこの役柄にすべて込めて力演していた。身体は辛かっただろうが、幸せだったのではないか。

 もって瞑すべし。

 蛇足ながら、親子共演した佐藤浩市と三國連太郎も話題になった。その三國連太郎も鬼籍の人である。

亡くなっていたのか

 りりィが昨年11月に亡くなっていることを今日知った。肺ガンだった。享年64才。

 彼女のハスキーな声が好きだった。アルバムは持っていないけれど、ベストヒットの中から数曲コレクションしている。「私は泣いています」や「ベッドで煙草を吸わないで」が有名だが、確か母親が死んだときに作ったという「こころが痛い」が私は好きだ。

 ヘビィスモーカーで酒飲みだったから、のどをやられてあのハスキーな声になったと聞いたことがある。本当かどうか知らない。

 映画やテレビドラマにもしばしば登場して、意外なところで出会って元気にやっているな、と思っていたのに・・・。

 彼女の人生はどんなふうだったのだろうか。幸せだったかどうかは本人が感じることで、他人には分かりようがない。自分で自分の生き方を選んだと胸を張れれば、どんな人生でも悔いはないだろう。人のせいにしてばかりいる人には幸せはあまり訪れないけれど、彼女は自分なりの生き方をした気がする。

 追悼の意味でアマゾンでアルバムCDでも買うことにしようか。

2017年1月29日 (日)

父親の仕事

 内田樹老師の昔のブログをプリントアウトしてあって、寝床でときどき読んでいる。そこに「父親の仕事」について書かれていて、いろいろと思うことがあった。

 「父親」の最終的な仕事は一つだけで、それは「子どもに乗り越えられる」ことである。
この男の支配下にいつまでもいたのでは自分の人生に「先」はない。この男の家を出て行かねば・・・と子どもに思わせればそれで「任務完了」である。
だから、「よい父親」というのがいわゆる「よい父親」ではないことが導かれる。
「ものわかりのよい父親」は実は「悪い父親」なのである。
否定しにくいから。
「愛情深い父親」もあまりよい父親ではない。
その人のもとを去りがたいから。
「頭のよい父親」はさらに悪い。
子どもと論争したときに、理路整然博引旁証で子どもを論破してしまうような父親はいない方がよほどましである。
それよりはやはり「あんなバカな父親のところにいたら、自分までバカになってしまう」というようなすっきりした気分にして子どもを家から出してやりたい(それについて文句を言ってはいけない。自分だって、そう言って親の家から出たのである。父親がそれほどバカでなかったことに気づくのはずっと後になってからのことである)。
・・・人類学的な意味での親の仕事とは、適当な時期が来たら子どもが「こんな家にはもういたくない」と言って新しい家族を探しに家を去るように仕向けることである。

 私は中学の高学年頃から父とはほとんど口をきかなかった。どうしても口をきく必要があったときには最少の言葉ですませた。父は柔道の有段者で、戦争での修羅場も経験しているから、胆力でも腕力でもまったくかなわなかった。とにかく家を出ることが私の望みだった。だから大学に入って以来親と暮らすことはなかった。

 その父と和解らしきものが出来たのは三十を過ぎて息子が生まれてからである。父の男としての素晴らしさを本当に実感したのは父が死んでからだから、本当に自分はバカだったといまは思う。

 余談だが、志賀直哉が父親と激しく諍いをして、長い不和が続き、ついに和解するまでの気持ちの動きは、いくつかの小説で読み取ることが出来る。これに私は強烈な印象と同感を持った。それが分かったのは自分が父と普通に会話ができるようになってからである。

 いま内田樹老師のこの文章を読んで、あまりにも私の考えとシンクロしてることに驚く。ほとんど無意識のうちに私は「父親」の役割をきちんとこなしてきたことを教えられた。子どもたちが小学生のときに妻とは別居したので、私は「母親」の役もこなさなければならなかった。その役割の演じ方をまちがえると子どもに悪影響を残すことをおぼろげに感じていたから、そこだけは注意したつもりだが、かなり危ういことで、娘との関係に長いこと悩んだ。娘はずいぶん父親に腹を立てていたであろうことは鈍感な私にもわかった(息子はさいわい軽々と私を乗り越えて家を出て行った)。

 娘と互いに自立したおとなの関係になったことを最近ようやく実感できるようになった。そのよろこびについては何度かのろけ話のように書いている。

 そんなことを老師の「父親」論を読んで考えた。

張岱(ちょうたい)について(2)

 松枝茂夫氏は、「張岱の名は従来それほど一般的には知られていなかった。一九三四年、周作人(魯迅の弟)が「中国新文学の源流」という本の中で、明末文学の再認識を提唱し、張岱をもって公安・竟陵二派の文学の融合者、集大成者と規定してから俄に人の注目を引くようになったかと思う」と述べている。

 ちなみに周作人は張岱の同郷(紹興)人であるが、十三歳の時に祖父の元で張岱の「陶庵無憶」を見て愛読したという。

*ここで辞書が「陶庵無憶」を「陶庵無億」と誤変換した。まさかと思って前回の「張岱(ちょうたい)について(1)」を見直したらこちらも間違っていた。本の写真の表題を見れば一目瞭然なので、気がついていた人もいただろう。恥ずかしい。遅ればせながら直しておいた。  

松枝茂夫氏の、張岱の紹介文からの抜粋

 張岱、字(あざな)は宗子、一字は石公、号は陶庵、また蝶庵居士(ちょうあんこじ)とも号した。明の浙江省紹興府山陰県の人。彼は自らしばしば誇らしげに「蜀人」と称しているが、これはその遠祖が四川省竹篁県の人で、宋の咸淳年間、張岱の生まれるおよそ三百二、三十年も昔、江南に移ってきたからであった。(中略)

 張岱は万暦二十五年(一五九七)八月二十五日卯の刻に生まれた。父はまだ二十三歳の学生であった。母は陶氏。この幼な妻は白衣観音(びゃくえかんのん)に嗣子を得んことを祈って岱を生んだ。
  (中略)

 彼は七十四歳のとき、「自為墓誌銘」のなかにこう書いている。「少(わか)くして紈袴(がんこ:白い練り絹で作った袴、貴族の子弟のこと)の子弟たり。極めて繁華を愛した。精舎(数寄を凝らした園庭)を好み、美婢を好み、孌童(れんどう:美少年)を好み、鮮衣を好み、美食を好み、駿馬を好み、華灯(華美な燈籠、元宵節に掛ける)を好み、煙火(はなび:花火)を好み、梨園(しばい:演劇)を好み、鼓吹(なりもの:音楽)を好み、骨董を好み、花鳥を好み、かてて加えて茶淫(ちゃずき)であり、橘虐(みかんずき)であり、書蠹(ほんのむし)であり、詩魔(しきちがい)であり、ついにうかうかと半生を過ごし、すべては夢まぼろしとなってしまった」(中略)

 しかし張岱の豪奢な生活も、明朝の瓦解と同時に終わりを告げ、思いもよらぬ後半生を送らねばならなくなる。 
  (つづく)

佐伯泰英「声なき蝉 上・下」(双葉文庫)

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 副題:空也十番勝負 青春篇。

 佐伯泰英の時代小説は面白い。面白いけれど、多作すぎて読むのが間に合わない。全51巻で完結した「居眠り磐音 江戸双紙シリーズ」は2000万部も売れたと言うから楽しみに読んだ人も多いだろう。「密命シリーズ」や「酔いどれ小籐次シリーズ」も読んでいたけれど、読み切れないので途中までにした。ほかにもシリーズはたくさんあってそれぞれに人気がある。ほかの「吉原裏同心シリーズ」や「古着屋惣兵衛シリーズ」を楽しみにしている友人もいる。

 しばらく佐伯泰英から足を洗おうと思っていたところへ「空也十番勝負」と来た。空也といえば坂崎空也、あの居眠り磐音こと坂崎磐音の息子である。その空也が16才になって、自ら望んで武者修行の旅に出るのである。最初に選んだのが薩摩の示現流を訪ねることである。薩摩は他国者の入国を厳しく制限している。果たしてその修行の旅は如何に。

 こんな惹句を見れば読まずにいられようか。気がついたら購入して、気がついたら読了していた。好い気持ちで読み終わった。そう、佐伯泰英の本は読み終わったときに好い気持ちになるのである。これがあるからやめられなくなる。せっかく足を洗うつもりだったけれど、このシリーズも読むことになるだろう。何しろ登場人物のうち、江戸の人々達はみななじみなのだから。

 空也は薩摩に入国するにあたって自分に無言の行を課す。その空也を付け狙う集団がいる。薩摩への入国者を監視し、不法入国と見なすと襲ってくるといわれる影の集団だ。空也がたまたま国境付近で知り合った家族が、空也と親しく知り合ったために惨殺される。空也は自分の志がこの事態が招いたことを直感するが、まだ入国したわけでもないのにこの仕打ちは理解できない。

 彼を特別に付け狙う者たちの真の目的は何か、なぜこのような異常な殺戮をするのか、そして空也は目的を果たすことが出来るのか。

 空也が生死の境を超越して成長していく姿が、我が子の苦難のように感じられて、次はどうなる、この危機をどう切り抜けるのか、と先へ先へと読んでしまう。前半はどうしてこんなに苦労させるのだ、と作者を恨みたくなるが、空也が自ら選んだ生き方だから仕方がないのだ。だから後半の活躍が気持ちいいのであるが。

 蝉は地中で長い年月を過ごしてから飛翔する。空也の脱皮が感動的な物語である。若いさわやかな恋もあってこれからが楽しみだ。

2017年1月28日 (土)

名言

 「ひとりの男がアメリカを偉大にさせることなど出来ない。しかし、ひとりの男がアメリカを偉大ではない国にすることはできる」

 これはあるNHKBSのドキュメンタリー番組で、インタビューに答えた無名の黒人女性の言葉である。

 彼女は敬虔なキリスト教徒で、毎週日曜日には必ず教会に行っていた。その教会に集う人々の大半が白人だった。それでも彼女は人種差別などの不快感を感じたことはなかった。

 半年前に牧師が宗教の話ではなく、政治の話を始めた。大統領選挙戦がたけなわのときであり、牧師はトランプを讃え、彼の支持を訴えた。そのうちに周囲の視線が黒人の彼女に集まりだした。いたたまれない気持ちになって、それ以来敬虔な信者だった彼女はその教会に行くことが出来なくなった。

 トランプが取り戻したい偉大なるアメリカとは、黒人が差別され、同じ食堂で食事することも出来ず、バスの席も分けられていた時代のアメリカだ、と語る初老の黒人がいた。偉大なアメリカ、と云う言葉にその時代がよみがえってくると言う。そのことは黒人もそうだけれど、白人たちにもぴんときているはずだ、と云うのだ。

 そのときに忽然と分かったことがある。アメリカは人種差別は間違っている、と理念で理解した。白人たちはリンカーン以来長年かかってようやくそれを受け入れた。それはネイティブアメリカ人であるいわゆるインディアンへの虐待と同様にアメリカ人のトラウマとなった。

 そのトラウマこそがオバマ大統領の誕生の隠れた原動力だったのではないか。それは口にはしないけれど誰でも内心で感じていたことかもしれない。特にアメリカ人は。しかしオバマ大統領に8年間国を預けていたことに、もう良いではないか、と云う思いが高まったのだろう。

 アメリカは女性蔑視の国であると私は思う。それはアメリカ映画で繰り返し表現されている無知で愚かですぐ気絶したり騒ぎ立てる女性の姿に現れている。おんなは馬鹿である、と云う意識がアメリカの白人に根深く存在する。だからこそウーマンリブなのである。

 黒人大統領の次にその女性蔑視の代償として女性大統領を選ぶ、という選択肢があるとヒラリー・クリントンは期待したかもしれない。しかし黒人差別のやましさの裏返しとしてのオバマ大統領にうんざりしたアメリカの白人たちは、女性蔑視の裏返しとしてのヒラリー・クリントンを選ばなかった。もう本音で行こう、と云う白人の男たちの気持ちを掴んだのがトランプという男である。

 女性蔑視とも取れるトランプの過去の言動が、彼の支持にほとんど影響を与えなかったことを意外に思ったけれど、それが実はアメリカなのだと言うことをどれほどの人が気がついただろうか。だからそれらを暴露されたことは、ある意味でトランプにとって有利に働いたかもしれない。

 インタビューを受けた黒人たちが、これから人種差別が再び始まるという懸念を語っていたのは杞憂ではないと確信した。これから再び長い闇がアメリカに訪れる。日本人も白人ではない。トランプにとって日本人も種として格下なのである。その日本の自動車がアメリカよりも売れるのは許されることではないと彼が言うのは、彼にとってもアメリカの白人たちにとっても正しいことなのであろう。

ニュース雑感

 河野洋平氏が日本政府の駐韓日本大使と釜山総領事の引き揚げを批判したという。

読んだ記事の内容(韓国中央日報から)

 1993年に従軍慰安婦の強制性を認めた「河野談話」を発表した河野洋平氏が27日、日本政府による駐韓大使の一時帰国措置を批判した。
河野氏はこの日、共同通信が主催した講演会で「外交上どんな問題解決方法を持っているのか」と述べ、韓国に設置された慰安婦少女像に対する日本政府の対処は間違っていると皮肉った。
河野氏はまた。「帰れと言うことができず大使不在が続いている」と述べて駐韓大使の一時帰国措置がまねいた問題点を指摘した。
一方、日本政府が韓日通貨スワップ交渉を中断させたことに対しては「慰安婦問題を他の問題に拡大しないようにしようと言っているが、拡大させているのは日本」と批判した。
河野氏は官房長官在任当時の1993年、従軍慰安婦動員の強制性を認める談話を発表したことがある。河野氏は安倍晋三首相の慰安婦関連の立場について「人間性の問題と思う」と述べて批判してきた。


 この記事の通りに河野洋平氏が語ったのかどうか、実際に見聞きしていないので断定しかねるが、いままでの彼の言動から考えてたぶん事実であろう。この言説を支持する日本人は少ないと思うがどうだろうか。

 彼の安易な謝罪や、偏見に基づく韓国の一方的な主張を認めたことが、現在の日韓関係をこじらせた遠因であることを彼は自覚しているだろうか。自覚していればそれを恥じて公的発言を控えるだろうから、たぶん自分は正しいと思っているのだろう。自分のしたことは間違っていなかっただろうか、と自問することのない人間は社会的な役割を担うべきではない。私が野田元首相を強く批判し、嫌うのはそういう点であり、ある意味ではトランプと同じであると思っている。

 トランプ新大統領はメキシコ大統領との首脳会談が中止になったとき、アメリカに敬意を払わない国との会談はする意味がない、と言ってのけた。ここにトランプという男の傲慢な本性が見える。

 彼は自分は世界最強のアメリカ帝国の皇帝になったと考えている。彼がメキシコに求めた敬意とは、「アメリカに、つまりトランプ皇帝に拝跪せよ」、と云うことである。通常、現代では「敬意」というのは互いに相手を尊重するということである。トランプ新大統領は、メキシコに、そしてメキシコ大統領に敬意を払っているかどうか、彼の物言いを聞いていれば明らかである。

 これからトランプ新大統領は世界の国々と皇帝として接するだろう。相手はすべて目下である。拝跪させたい相手にはそれを求め、それを受け入れなければ報復するだろう。それがあり得ないことだなどと彼は一切思わない。ある意味では金正恩よりも倨傲な皇帝が誕生したように私には見える。回りは戦々恐々である。

 彼の思い込みに基づく大統領令の乱発を見ながらアメリカの株が上がり続けていることが私には信じられない。アメリカはやはり拝金者の国なのだと思った。

五分で終わる

 昨日の家庭裁判所の用事は五分で終わり。申立人側、相手側(私のこと)の提出資料(証拠という)の確認を裁判官が行って、申立人側の提出資料に追加提出の指示があってそれで終わり。裁判官は提出資料にどこまで目を通したのか(何しろ先方の提出したものが膨大で、私だってちらりと見ただけだ。読む必要を感じなかったからだ)、内容をどこまで理解しているのか不明。

 次回は三月である。この五分のために申立人側は弁護士と申立人の代理である義兄がわざわざ東京から名古屋に来たわけで、費用だけでも大変なことである。

 今回の申立人の提出資料はすでにざっと見ていたが、まだ見ていないものもあって裁判後に帰宅して読み直したら、私の知らないことが書かれていて驚いた。根本に関わるものだと感じたので、その旨弁護士に連絡したら、それについての見解をまとめるように言われる。

 相手人である当方は、ほぼすべてオープンにしてしまったし、もう出来ることはあまりない。今回の裁判官の口調から、心証はこちらに傾いた気がしたのは楽観的に過ぎるだろうか。気持ち的には首を洗って待つばかりという気分だ。

 願わくばどんな内容であれ、次回で裁定が下されてさっぱりしたいものだ。

2017年1月27日 (金)

法的書類の罠

 一昨日、弁護士事務所で打ち合わせをした。相手方の提出してきた書類について私の考えをまとめたものを弁護士に見せ、相手の要求する私の資産の資料の一部を渡した。

 話していて話しがかみ合わない。これはいままでにもしばしばあった。よくよく話をつき合わせると、先方の書類のレトリックに私が引っかかっていることに気づかされた。法的書類はくどいほど主語は誰であるかを明確にする。それの繰り返しの中にぽんと主語のない文章が組み込まれていて、そのまま読むと私の話にしか読めないようになっている。ところが、そう解釈して同意であると回答すると、実は先方の主張を認めたことになる、と云う仕組みになっている。具体的なものを見せられないのが残念である。このレトリックには裁判官も慣れているので当然と考えていて、一度同意するとその前提で話が進んでしまうようだ。恐ろしいのである。打ち合わせて良かった。

 こちらの感情や主張は正直に言いすぎると裁判官が誤解する。裁判官がどう受け止めるかを斟酌しながらものを言わないと心証を害する。人間は自分に都合の良いことをいうものであり、弁護士は信用できないもの、と裁判官は考えているのかもしれない。裁判官の心証が決定的な判断につながりかねない。

 こちらから見ると、今回の先方の主張がやや常識を欠き、矛盾も多いことに弁護士も呆れており、「落としどころを考えるよりも全面否認で行きましょう。ファイトが湧いてきました」という。

 さてこれから家庭裁判所で審問が始まる。どうなるか。胃がキリキリする。これで終わりになれば良いけれど、それは難しいようだ。

 まさか相手がこのブログを見ているとは思えないが、万一のことを考えて、審問が終わった頃アップするように設定する。

 結果はまた書くことになると思う。引き続きいやな思いが続くのか、いちおうの区切りがついてほっとするか、晴れやかな気持ちになるか・・・・。

 どちらにしても今晩はいつもよりちょっとだけたくさんお酒を飲むことにしている。

新しいお代官様

 アメリカ村に新しいお代官様が誕生した。このお代官様はいままでの慣例を無視することを何とも思わないので、近隣の村ともめることになりそうである。

 新しいお代官様は領民に大盤振る舞いすることを約束をし、そのかわり他領からのアメリカ村への出入りを制限すると決めるらしい。商売はすべてアメリカ村の中でやり、よそ者は関所で税金をたくさん納めなければ、物を持ち込むことを許さないそうだ。

 アメリカ村は圧倒的な力を持っていて、いままでもずっと自分に都合の良いルールを押し通してきたけれど、それなりに限度をわきまえて、見返りもなくはなかったから周辺の村も仕方がないと思っていた。それに仲間の村々の向こう側にはアメリカ村よりももっと阿漕な村がいくつかあって、そこから守ってくれることを約束していたから、仲良くしておくほうが得だとも思っていた。

 ところがこれからは自分の村であるアメリカ村が豊かになることだけを考えていくとお代官様は宣言し、次々に新しいお触れを出している。お代官様になる前からそれらしいことを言っていたけれど、ほとんどの人はいままでの慣例や約束事が生きているし、証文もあるからまさか本気だと思わなかった。けれど、新しいお代官様は自分の気にいらない約束は全部ご破算にすると言う。本気らしい。

 いままでの約束事はたいていアメリカ村にとって損だった、それが証拠にアメリカとの商売でアメリカよりも儲けている村があるではないかという。どんな商売でもアメリカより儲けてはいけない、アメリカ村にとって損になるようなことはあり得ない、それはあってはならないわるいことだから自分が正すのだ、といきまいている。

 アメリカ村の領民は拍手喝采しているけれど、アメリカ村は得意な商売と得意ではない商売があって、不得意なところはほかの村から手に入れた方が良いから、物によってアメリカ村よりほかの村が儲かるものがあるのは当然だ。それに商売だから回りの村だってみんな儲けようと努力するのは当たり前で、アメリカ村だけ儲かるならしない方がマシである。

 ところが努力をサボっていたのに自分のもうけを増やしたい越後屋が、お代官様の耳元で、あいつらがわるいから自分は儲からない、退治して欲しいとささやいている。お代官様は満面の笑みで越後屋の言いなりになる。それはアメリカのためになることであり、正義の行為なのだから会心の笑みを浮かべている。

 こうして越後屋は儲かるようになるけれど、アメリカ村の領民はその分だけ高いものを買わなければならなくなって生活は苦しくなる。ほかの村から商売にやってくる者も、もうけが得られないからあまり来なくなる。いままで安いお給金で働いていた他国の貧しい人たちもアメリカ村に入ることができなくなったから、安いお給金の仕事をやる人がいない。もともとそういう仕事はアメリカ村の人がいやがる仕事ばかりだからなおさらだ。

 どうしてもその仕事をアメリカ村の人にやらせようとすれば、お給金をたくさん出さなければならなくなって越後屋も思ったより儲からないことになる。

 世の中は自分にだけ都合のいい話はないのだけれど、そのことに気づくのはずいぶん時間がかかるたろうから、新しいお代官様はしばらくアメリカ村でやりたい放題を続けることだろう。

 回りの村の迷惑はいかばかりか。仲間たちの村の外側の、あの阿漕な村がそれに乗じて何か画策してくるのも心配なことである。ところがあろうことか、アメリカ村の新しいお代官様は何とそれらの阿漕な村と仲良くしそうな気配まである。回りの村はいま不安でいっぱいである。

 この新しいアメリカ村のお代官様はいままでのお代官様と比べてご高齢である。ご高齢だが頭はわるくないのだとも言う。しかしその知識は三十年前で停まったままだと悪口を言う人もいる。ご高齢とご性格から、自分に都合のわるいことはまったく耳に入らないご様子である。すでに老化が進行しているかもしれない。

 もし認知症にでもなったらアメリカ村はどうなるのだろう。回りの村は心配である。すでに認知症だ!などと失礼なことをいう輩もいると漏れ聞くが、私が言っているのではないので念のため。

 生きていると世の中思ってもいないことが起きるものである。「まさか」は常にそこに潜んでいるようだ。 (おしまい)

エドテック

 ビジネスニュースでエドテックという言葉を知った。教育=エデュケーションとテクノロジーを組み合わせた造語である。いま教育が新しいビジネスチャンスなのだそうだ。

 外交を含めた政治をビジネスライクに進めて良いのかどうかの実験をトランプが始めた。教育はすでにビジネスマインドによって評価するのが当たり前になっている。

 しかし教育をビジネスマインドで進めることは間違いであることを、内田樹老師が強く指摘していることを何度かここでも取り上げた。ビジネスマインドで進めた教育からはノーベル賞は生まれにくいだろう。ただ、ノーベル賞そのものが変質してビジネスライクになりつつあるから、必ずしもそう言い切れないが。

 エドテックとは知識をより効率的に習得するためにテクノロジーを利用することである。ヴァーチャルテクニックを駆使して飛躍的に能力を高めることが出来るという。実際の効果が現れていて、今後どんどん活用されていき、教育ビジネスは大きな市場となるであろう。

 しかしそこで得られる知識は、ただ脳に擦り込まれたデータが効率的に増えるだけではないのか。ものを考えるときにベースになるべき知識が充分にあることは大事なことである。しかし問題は考えることそのことにある。

 論語に言う

 学びて思わざれば則ち罔(くら)く、

 思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。

 教育の本質は人を育てることである。知識を増やすことだけが教育であるわけではない。社会的な人間を育てることが教育の目的である。自分だけよければいいという人間ばかりでは世界は崩壊する。いまトランプをはじめとした、そういう意味でのきちんとした教育を受けなかった、非社会的人間ばかりが金に群がって狂奔する様はおぞましい。

 何がエドテックだ。

2017年1月26日 (木)

クーデター

 韓国の閉塞的状況を打破するために、韓国軍部がクーデターを起こすのではないか、と云う論がある。韓国は少なくとも二度、いまに似た国難のときに軍事クーデターを起こして立て直しをしているから、あり得ないことではない。1度目は朴正煕のとき、つまり朴槿恵大統領のお父さんのとき、2度目は全斗煥のときである。二人ともそれで政権を奪取して大統領になっている。

 次期韓国大統領の有力候補たちは北朝鮮にシンパシーの強い左翼的な人間ばかりである。しかも無根拠に近い反日を正義として掲げる者ばかりで、経済的衰退を加速することが見えている。軍事的にも現状では中国や北朝鮮の思うつぼになりつつある。

 真に国を憂え、反日が韓国人の踏み絵のような現状を打破しなければならないと思う者でも、それを口にすれば自分の身が危うい。それを強権で打破することが可能なのは軍隊だけであり、軍事クーデターの可能性を論ずることにつながっていくのだろう。韓国は民主主義ではもはや立ち直れないと絶望しているのだ。

 韓国は徴兵制である。だから男子は兵役義務がある。日本と違って韓国人にとって軍隊は身近な存在である。クーデターに対して受け入れる可能性は日本などよりもずっと高いのかもしれない。

 しかし韓国軍のゆるみがしばしば伝えられており、国のために立ち上がる気概を持った人間がまとまって行動を起こすような力があるのかどうか疑問である。

 可能性として私もクーデターを考えはしたが、とても韓国軍にはそのような熱気があるとは思えないので予測の外に置いていた。しかし、韓国の新聞に寄せられたコラムなどに言及があったので、ここに記しておくことにする。

張岱(ちょうたい)について(1)

 いまでも中島敦の愛読者は多いという。若い人も次々に新しい愛読者に加わるということは、わがことのように嬉しい。それは文語文と漢文という、日本人として大事な文化を知るための入り口に立つことでもあるからだ。そのリズムと格調は読む人を好い気持ちにさせる。それは読めば分かる。

 偉そうに言うのも、私自身が中島敦の「山月記」をきっかけにその楽しさ面白さを知ったからだ。

 少し前に清河八郎の「西遊草」を手に入れて、読むのを楽しみにしていると書いた。そのときに愛読書の一つとして言及したのが、張岱の「陶庵無憶」という本だった。中島敦の面白さを感じることの出来る人なら、少々歯ごたえがあるけれどこの本を是非とも薦めたい。実は紹介したときに取り出して読み始めたら、その面白さにあらためて引き込まれてしまった。私の持つこの本には文中に分からない言葉を漢和辞典で調べたものが書き込んであるので、なおさら読みやすいのだが(本に書き込むのは好きではないのだが、先般書いたように理由があって同じ本を二冊持っているのである。だから心置きなく書き込めるのだ)。

Dsc_2305 この本は風呂に入ったことがあるのでゴワゴワしている

 この本を読了しようと思ったらかなり骨が折れる。注釈が多いが、その注釈はある程度の知識を前提に書かれているので、注釈を読むためにちょっと勉強が必要なことも多い。書かれている中国江南地方一帯についての知識も必要であり、その景観、その時代だけではなく中国の悠久の歴史と物語と遺跡について素養が必要なのだが、それは読み進めながら蓄えれば好いと開き直れば済む。要は書かれていることに好奇心と興味を覚えようと努めることであろうか。一年もあればかなりの中国通になっているはずだ。ただし15世紀から16世紀頃の視点から見えることだけれど。 

 張岱本人について、訳者の松枝茂夫の前書きや張岱の詩文などから引用して紹介していきたい。(つづく) 

のび太はどうやってジャイアンと対峙するのか

 トランプがその本性を現し始めた。本性は無知なのかそれとも計算ずくの暴力なのかはまだ分からない。

 フォードのCEOと並んで昂然と胸を張り、日本をターゲットに自動車の貿易は不公平だと口角泡を飛ばしていた。フォードは日本での販売戦略に失敗し、しっぽを巻いて昨年日本から撤退した。その恨みがあることは関係者は誰でも知っている。日本で売れている海外車はたくさんある。道路を走っている車を見れば歴然としている。

 それなのにフォードが撤退せざるを得なかったのは、韓国の現代自動車が撤退したのと似ていて少々違う。韓国の車が日本で売れなかったのは、韓国の車を所有して乗り回すことに日本人は躊躇するという面があるから仕方がない。しかし、アメ車にあこがれる日本人は少なからずいるはずで、それでも売れなかったのは、メンテナンス管理体制の不備や、日本人の感性を読み取っての対応に努力しなかったからであることは明らかである。

 それを日本のせいにするのはおかしい。現にドイツ車はどんどん売れている。

 トランプ大統領はフォードに耳打ちされて、自分の30年前の思い込みのままに日本を非難していることは、日本人もアメリカ人も分かっている。しかしトランプ大統領はその思い込みのままにいて、たぶんすぐには考えを変えないだろう。ほとんど老醜の妄想を感じる。

 トランプ大統領のゲームのルールの異常さが感じられる。彼とゲームをするときは、相手は勝ってはならないという前提でゲームが行われる。トランプが、つまりアメリカが勝てないのは相手がわるいから勝てないのであって、それは不公平で正さなければならないということである。トランプが、つまりアメリカが勝てるようにルールを変更しなければゲームをしない、と公言している。

 アメリカは常に勝つのであって、勝つことが正しい、と云っている。そんなゲームをこれから世界は始めなければならない。およそあり得ないルールを彼はアメリカ国民に約束して実行していくことだろう。

 ドラえもんでは、ジャイアンが自分に都合の良いルールで取り仕切る場面が多々あって、極めて不公平である。しかしジャイアンは、自らの強引さをときどき自覚し、それを何らかの形で補填する。それがのび太やスネ夫がジャイアンと決定的に決別しない理由である。

 しかしトランプはジャイアンのエクスキューズを欠いた存在であるように見える。そのようなジャイアンと日本をはじめとする世界中ののび太たちはどう対峙していけばよいのだろうか。

 まずジャイアンもどきである中国が、ジャイアンとどう対峙するのか、それを見てみようか。その結果を待つ時間があればありがたいのだが、どうだろう。長期的に見ればエクスキューズのないジャイアンなどただの鼻つまみで、誰も相手にしなくなり、自滅するだけのはずなのだが・・・。殿の御乱心を止めるのは共和党か、トランプ支持者か?世界はトランプによってしばらく不遇を経験するだろう。

2017年1月25日 (水)

みんな日本が悪いのよ

 ネットの韓国のハンギョレ新聞をみていたら気になる部分があった。

 韓国の法曹界出身者のエリート意識が国民と乖離していることを述べた後に、その法曹界からたくさんの人間が政界に多数参加している実態を揚げ、その人達が今回のチェ・スンシルゲートにも関わっていると断じている。その後のこの部分に引っかかったので引用する。

 韓国の試験、エリート選抜制度の勝利者は、概して入試型、高等試験型人間だ。家庭や学校で試験点数には入らない正義感、共感能力、道徳性を学習する機会がなかった。日帝植民地以後今日まで、韓国の教育と試験制度は自身と家族の利益のために権力に服従し、汗を流して仕事をする人を見下げ、周辺の苦痛に鈍感なこのような人間を育てた。「一族には光栄」、「国家と社会には災難」だった。このような教育と試験制度では、勝利者であるほど利己的になりやすい。それで「学のある奴は日本の言うことを聞きやすい」と見て、「言うことを聞いても、無知な奴はあまり罪も犯さないが、博識な奴ほど罪を多く犯し、国を売り飛ばすものだ」と喝破した日帝強制占領期の在野の知識人たちの言葉が思い浮かぶ。

  寄稿(ハンギョレ新聞)の一部 (1/25配信)
 寄稿者:キム・ドンチュン聖公会大NGO大学院長、新たな百年研究院長

 この寄稿文を見て、何を感じるだろうか。この太字部分を書くことに込められた寄稿者の意図は何か。知識人こそ諸悪の根源であるというのが寄稿者の論理であり、それは日本が韓国を併合した以降に朝鮮に根付いたというのである。

  実はこの知識人こそが悪の根源だという論理こそ、文化大革命のときの精神そのものであり、マオイズム(毛沢東主義)を極端化したポルポト政権による大虐殺の論理である。ほかにも例を挙げればきりがない。

 ところで韓国の歴史ドラマを見れば、知識人がどのようであったのかよく分かる。まさに知識人達が同じことを語っているのを見るはずだ。知識人達は特権階級として利益を独占していた。つまり朝鮮にはこの精神が連綿とあって、日本が朝鮮半島を併合したからこのような精神が擦り込まれたのではないことを寄稿者自身は知った上でこう書いているのである。 

 つまりここにもわるいのはすべて日本だ、と云う論理がある。寄稿者は歴代の権力者の悪事には知識人というエリート層の精神に問題があり、それは日本という悪者に擦り込まれた精神であると言いたいようである。
 空があんなに青いのも、郵便ポストが赤いのも、みんな日本が悪いのよっ、てか。

 ここで私が言いたいのは、だから韓国がわるい、などということではない。この寄稿者のように、大衆におもねる言説を語るものこそまさに朝鮮の知識人の典型であると云うことなのだ。そして韓国の国民はそれに付和雷同する、または付和雷同してみせる。そうでないと身の危険を感じるというのが哀しい韓国の現実なのだろう。それはこの寄稿者も同じである。

弁護士事務所で打ち合わせ

 係争中の案件で今週27日の金曜日に名古屋の家庭裁判所に行く。前回裁判官から双方に宿題があり、書面でそれに事前回答したが、先方の回答書面がようやく手元にきたので、それに対する準備打ち合わせが必要となり、本日これからその打ち合わせで弁護士事務所に行く。

 こちらは早くから提出していたので、先方は後出しじゃんけんみたいな形になっていてちょっと不満だが仕方がない。ずいぶん手間暇掛けて作成したものらしく、金銭的なことが異常に詳細を究めて記載されている。

 私が妻の実家に行ったときに先方が出した酒や料理の食材の代金なども詳しく書かれていて、呆れた。私は手作りの料理で好いというのに上寿司をとったりしたことも記載されている。はあ、高級ホテルから突然請求書が来たみたいな気持ちだ。

 係争中の件というのは20年以上別居中の妻の生活費を過去にさかのぼって払え、と義母が申し立てているのである。義母本人の意志ではないと思っていたが、ここまで詳細だとすると私が見誤っていたのかもしれない。

 このような申し立てを裁判官がどう判断するのか、それが世の中というものがどうなっているのか知ることにつながると思ってご託宣を待っているところである。本来はこのような案件は一度で済むのに、長引いているのは裁判官がちょっと普通の人ではないかららしいことをちらりと聞いた。

 正義の人のようである。苦手である。ファイトが湧くけど。

草莽の志士とテロリズム

 清河八郎について考えているうちに、草莽の志士とテロリズムのことに思いが行った。幕末の政権を担っていた幕府側から見れば、倒幕を旗印にする草莽の志士はテロリストと見なされていただろう。そのテロリストが暗躍する京都で、テロを殲滅するための特殊部隊が新撰組ということである。その新撰組の成り立ちの発端に清河八郎が関わっていることは述べた。

 当時京都は暗殺が横行していた。人斬りと呼ばれたのは一人ではない。田中新兵衛、岡田以蔵、中村半次郎、川上彦斎などたちまち名前が並ぶ。彼等が標的にしたのはもちろん尊皇攘夷に反するものであり、守旧派である。しかし無能な人は標的にされない。有能で自分の役割を命がけで遂行する人が標的にされ、殺されていったはずである。

 生き残っていれば国家にとって財産となったであろう人たちがどれだけ功成り名を遂げる前に殺されたことであろう。それは逆も言える。その草莽の志士たちこそ有能な人たちが多かったに違いない。家族を捨て、故郷を捨てて命がけで来たるべき未来に向けて身命を賭していたであろう。それが思い半ばでどれだけ新撰組に殺されただろうか。

 少し前に読んだ長谷川伸の「相楽総三とその同志」(講談社学術文庫)をみれば、それらのほとんど無名の人たちが非命に倒れた話が満載されている。それぞれの人に人生があり、家族があり、熱い思いがあった。

 自分の損得を優先する人から見れば、志士たちは信じられない愚かな行動をしているように見える。その違い何なのだろうと思う。物事を日教組のように現代の価値観で善悪判断してはならない。その時代にはその時代の価値観がある。それを感じるには歴史にどっぷりはまってそこからものを見なければならないが、なかなか出来ることではない。

 自分が常にどんな視点でものを見て判断しているのかを問い続けることこそが歴史を知るためには必要だろう。そういう手がかりとして今は清河八郎のことを考えたというわけである。答えなどもともとない。

 ところで伊藤博文を暗殺した安重根は正真正銘のテロリストである。そしてISの戦士達もテロリストである。彼等と草莽の志士とはどう違うのか。そのことを考えるのは無意味なのだろうか。

 どうしても座標軸の原点がいまの自分自身になってしまうから、よく分からない。もともと二元論的な考え方に不信感をもっているから、原理主義的な思考様式であるテロリズムが分からないのかも知れない。旗幟をあきらかにしない人間はテロリズムの標的になりやすい。とはいえ大物でなければ標的にはならないだろう。佐久間象山や清河八郎は二元論では測れない人物だったと思う。だから暗殺された。

 妄想は続くがくたびれたのでこの辺にする。

2017年1月24日 (火)

じっくり楽しめそうな本を手に入れた

 人があまり読まないだろうと思うけれど、気にいっている本がある。ときどき手に取り、少しずつ読む。何度も読んでいる。少し自慢めいているなら申し訳ない。ちょっとその気もあるのは確かだから。

 一冊は桑原隲蔵著「考史遊記」(岩波文庫)という明治時代に書かれた中国旅行記である。このブログを始めた初期の頃、文語文で書かれたこの本を現代文に直して一部を紹介したことがある。桑原隲蔵は白鳥倉吉や内藤湖南と並んで東洋史学の創始者のひとりである。桑原武夫の実父であり、「くわばらじつぞう」と読む。

 「考史遊記」には著者自身が撮影した写真が後半にまとめて多数収められている。本文を読みながらその写真を見返し、当時の様子を想像する。当時の中国は、道路はもちろん舗装されておらず、ぬかるんで泥濘となった道を苦難して旅行したことが記されている。また貨幣が地域で違い、その両替も苦労のタネであった。宿も整備されていないから寝る場所を確保するのも大変だった。また太平天国の乱のあとでもあり、まだ殺伐とした空気が残り、その時代の現実が透かし見える。

 歴史学者だから訪ねるのは遺跡である。その遺跡は惨憺たる有様で、写真で見てもよく分かる。いまのように観光地の体裁はまだない。埋もれたものを埋もれたまま見ながら遙かな歴史を脳裏に浮かべる旅だ。その驚異的な博学が駆使される回想だから、わずかな文章の中に膨大な思いがこもる。

 もう一冊は張岱(ちょうたい)と云う人の書いた「陶庵無憶」という本。訳は松枝茂夫、これも岩波文庫に収められている。私はワイド版を二冊もっている。二冊あるのは、一冊は風呂で読みながらうっかりして湯の中に落としたので、ごわごわになっているからだ。それでも必死で頁がくっつかないように剥がし、重しで平らにしたからほぼ原型に復している。却って愛着があって、そちらを良く手に取るが、外に持って出るときは綺麗な方にしている。

 張岱は明の時代の大富豪の息子で、商売よりは文人としての才能のある人だったようだ。その博覧強記ぶりは想像を絶する。記憶力が尋常ではないのだ。やがて明が滅亡し、清の時代になり、財産は戦乱で失われてしまう。大事にしていた膨大な書画骨董はことごとく散佚し、栄華の夢から醒めた杜子春みたいな晩年を送る。

 彼の回想録がこの「陶庵無憶」なのだが、これはそのまま絶品の随筆集なのである。本文と同量の注釈があり、それが懇切を極めている。その注釈をさらに漢和辞典で調べなければならないほどこちらは無知なのだが、それが苦にならない面白い本なのだ。通読は二回だけだが、折に触れて開く本である。

 そして今回手に入れたのが、「西遊草」という本だ。書いたのは清河八郎。山形庄内出身の幕末の攘夷派の志士で、山岡鉄舟などと親交があった。そもそも新撰組が募られたのはこの清河八郎の幕府への建議による。幕府に金を出させて尊皇攘夷の志士を募集させるという奇手を思いつくのが清河八郎という男である。

 幕末について書かれた物語で、清河八郎はヌエのような、得体の知れない妖人のような書き方をされることが多い。策士過ぎて信頼されない人という評価のようだ。しかし藤沢周平は同郷の人として、あるがままの清河八郎を描き、その事跡を明らかにしている。

Dsc_8494 清河八郎生家跡・なにもない

 私も父の生まれが清河八郎の出身地である最上川沿いの清川から近いので、以前から清河八郎に興味をもっていた。一昨年清川に清河八郎記念館を訪ねたが、たまたま休館中であり、昨年春にもう一度訪ねて展示物を見ることが出来た。しかし撮影禁止のために展示物の紹介が出来なかったのは残念である。清河八郎の事跡を世に知らせるのが記念館の主旨であるなら、撮影をさせても良いのではないかと係の人に言ったが、館長不在のため、埒があかなかった。

Dsc_8485 清河八郎記念館

 ここには大きくて見事な山岡鉄舟の書がある。生涯の友だったようだ。清河八郎はその傲岸と見える性格のため、ついには暗殺されてしまう。ちなみに清川は松尾芭蕉が最上川を船下りをしたときの再上陸の地である。

Dsc_8486 芭蕉上陸の地

 この記念館で清河八郎に「西遊草」という旅行記があることを教えてもらった。若くしてふるさとを出奔し、迷惑をかけ続けた母だったが、あるときその母を連れて庄内から日本海、そして名古屋から伊勢参りをし、関西、四国、中国地方を経て京都、江戸、日光をめぐるという足かけ7ヶ月の大旅行をする。

 その旅行記が「西遊草」なのである。記念館で見せてもらったその本が案外読みやすそうなので、その後本屋で探し続けたが見つからずにいた。アマゾンで調べたら古本で何冊かあるのを知り、今回ようやく手に入れたのだ。

 読んでみると旧仮名遣いのままの本文ながら、古文の苦手な私でも苦労せずに読める。清河八郎は勉強家で素養が深かったから、文中にはいろいろの知識が散りばめられているけれど、それを丁寧な注釈が補ってくれるので分かりやい。校注は小山松勝一郎、こやまつ、と読むらしい、珍しい名字だ。

 紀行文は好きである。これも楽しみながら読める本として愛読書の一冊になる気がする。 

財閥改革

 サムスン電子の副会長の逮捕が裁判所に許可されなかったことで、先週21日のソウルのロウソクデモは「財閥改革」が韓国にとって必要だと訴える声が高まった、とハンギョレ新聞が報じていた。

 農地解放とともに、日本では進駐軍によって財閥は解体された。自らの手で財閥を改革することは極めて困難であるが、韓国はそれを達成できるのだろうか。

 繰り返し述べてきたが、韓国は技術改革をせずに部品を購入してそれを組み立てて製品を作り、輸出するというアッセンブリという手法で経済成長してきた。それは大量の原料や部品を安く買いたたき、安い人件費で価格勝負に勝つという行き方である。

 この場合、量的効果が一番大きい。巨大企業であるほど低コストで一番良いものを手に入れられる。だから日本は競争に負け、巨大財閥である韓国企業は競争に勝ち続けた。そのうえを行く中国の国営企業などがライバルとして台頭してきたために、いま韓国は苦戦している。怠っていた技術開発は泥縄では追いつけない。

 その財閥を改革するということはどういうことか、ロウソクデモの人々は解って言っているのだろうか。

 財閥企業の強みはまた、判断と決定が一部の人に委ねられていることである。日本の企業の多くがオーナー社長ではなく、雇われ社長のために決定が合議制となり、遅れがちである。韓国はそれが迅速で決断力に富んでいた。自らリスクが取れるからである。

 その量的メリットと権力の集中による迅速決定が、改革によって縛られることになりそうである。それが韓国の経済にプラスに働くかどうか。たぶん長期的には必要な改革であることは間違いない。しかしロウソクデモの人々が求めているのは明日の成果だろう。韓国の人々にその覚悟はあるのだろうか。

 このような改革や解体は国が破綻するような事態のときにしか出来ないのではないか。だからドイツや日本はそれを達成し、しぶとく生き抜いている。いまそれを経験していない韓国は自力でそれをすることは難しい。破綻が先に来るだろう。

そういう破綻を繰り返しながらついに学習することのない中国は、何を学んできたのだろう。アメリカは一度もそのような破綻を経験していない。そのことこそがアメリカの最大の弱点だろう。

 韓国の「財閥改革」の声は、案外世界のキーワードなのかもしれない。中東なら「宗教改革」、中国なら「共産党政権改革」、アメリカならそれこそ「ワシントン中央政府改革」だろうか。しかしアメリカのポイントは政治ではない。金融だろう。トランプが繰り返し指で丸を描いて見せたように、いまアメリカは金ですべてが支配されている。それをどうにかする気はトランプにはなさそうだ。

2017年1月23日 (月)

見た目が変わると自分も変わる

 「気の弱り」という私のブログにいただいたコメントに返事を書きだしたら、昔のことを思い出した。書いたコメントに重なるけれど、あらためて書いておくことにする。

 私はいまは身長183センチ90キロという巨体だが、子どものころはひょろひょろの虚弱児だった。運動が本質的に苦手であり、だから嫌いだった。懸垂は一度もできず、跳び箱をすれば頭から砂場に突っ込んで怪我をした。運動会は最後尾ではないけれど、三等賞を取ったのは一度だけ。それも信じられないラッキーなことで転げ込んだものだ。

 休み時間はひたすら教室の片隅で本を読んでいた。一番居心地の良いのが図書館だった。それではちょっと辛いな、と思ったので、中学に入ってから剣道を始めた。腕立て伏せ、懸垂も人並みにできるようになった。郡市の勝ち抜き戦で入賞するところまで行った。気がついたら鉄棒は得意技になっていた。

 それでも本質的に人と交わる方ではなく、クラスの中のグループに属するのを嫌い、いつも独りでいた。似たような性格の奴はいるもので、それが二、三人になることもあったが、全体的には孤立していた。

 どうもこのままでは生きにくそうだなあ、と気がついたのは大学受験の後だった。家を離れ、それまでの知り合いとも別れるのを機に自分の性格を改造しようと思った。端っこや一番後ろに自分の居所を定めて生きてきたが、電車に乗ればまん中に、教室では一番前に、トイレもまん中に入るようにした。形から入ったのである。大学では寮に入り、役柄に積極的に手を挙げた。一番苦手なことほどあえて引き受けた。先輩や後輩とどんどん飲みにいき、寮にOBが来れば知らない人でもおごってもらった。

 人のよく集まる先輩の部屋に常にたむろし、議論をした。そんな時代だった。自分の部屋を皆の集まる部屋として開放し、煙草の煙がもうもうとたちこめ、煌々と灯りのついた騒がしい部屋でも安眠できるように鍛えられた。私の手柄はそれでいて決して煙草を吸わなかったことだ。私が非社交的だとは誰も思わなかったに違いない。

 そんな生活だったからあまり勉強はしなかった。祖父を受け継いで化学屋を目指したが、気がついたら化学会社の営業になっていた。大学時代の不勉強は仕事に差し支えるほどではなく、専門外の歴史や文学や心理学、哲学の本を読み続けてきたことが大いに役に立った。

 性格は変えようと思っても変えられない。でも他人から見た性格は見た目だけ変えればよいのだから変えることができる。それを意識して続けて習い性になれば、それが板につく。無理する必要がなくなっていく。

 子供との関係も似ているところがある。子供をつい自分の意のままに出来るものと思い、自分の価値観を擦り込んでいると、子供が自立するころに手ひどい反発を喰らう。そうでなければ子供は自立できないからそれは大事なことなのだ。子供はそこからは勝手に成長していく。そこから今度は親としての自立が始まる。

 子供を自分とは別の一個の人格として受け入れるには時間と忍耐が必要だ。子供よりも親の方が自立が難しいかもしれない。そういう長い葛藤があって、子供はおとなとして親を見るやさしさを持てるようになり、親もそれを有難いと思えるようになって関係が安定する。

 今回のブログは、嬉しいことに私はそんな状態にありますよ、と云うのろけ話のようなものである。それはある意味で自分の気の持ち様で全く違うものでもあることは承知している。幸せだと思えば幸せなのである。

妄想

 北朝鮮の金正恩が何を目的として異常な行動をとっているのか分かるようで分からない。そのことが周辺の国々に不安を与えている。朝鮮戦争のときとは違って暴走すれば短期間で壊滅すると思うけれど、実際に暴走したらその短期間のあいだであってもどれほどの惨禍がもたらされるのか懸念されるからだ。

 アメリカも中国も韓国もそれをおそれて北朝鮮に強引なことが出来ずに来た。そうして手をこまねいているうちに益々その危険性が高まってきた。

 トランプも何をするか分からない。金正恩の排除のためのコストと、危険を放置し続けることのコストを比べて、排除のほうが低コストだと思えば強行手段を執る可能性がある。それがビジネスライクな考え方だからだ。

 たぶん中国は常に金正恩の排除を検討してきただろう。中国にとっては、そうして中国の傀儡政権を作り、中国に都合の良い状況が継続させることが望みだからだ。ただ世界がそれを受け入れるかどうか自信がないから逡巡しているのだと思う。

 オバマは強行手段を執ったりしないけれど、トランプは分からないと思えば先手を打って中国が強行手段を執るかもしれない。習近平とトランプが会談するとしたらそれを互いに了解することが最も重要な案件となるだろう。

 そのときにトランプは習近平の提唱するAIIBにアメリカが参加することを土産にするだろう。そして台湾を中国に献上するだろう。それがもっとも習近平の喜ぶことであるだろうからだ。ついでに日本の了解なしに沖縄も提供するかもしれない。そうすると日本ははしごを外されることになる。日本が困ることは、実は習近平だけでなく、トランプのよろこびでもあるから合意は容易である。

 そのとき韓国は?中国が主導権を持って北朝鮮をコントロールするなら自動的に北朝鮮主体の朝鮮半島統一に至るだろう。それなら韓国駐留の米軍は引き揚げられる。トランプにとってコストダウンとなってよろこびであろう。半島統一のコストは天文学的なものとなり、韓国経済は破綻するが、その破綻のコストを統一朝鮮と中国は日本に求めるだろう。そしてトランプはそれに賛意を示すだろう。

 そのような事態になれば尖閣など守っても意味がないし、沖縄も中国に帰属するのだからアメリカが日本に駐留する意味も薄れる。もともと日本を守るためのコストなどアメリカは想定していない。東アジアにアメリカの覇権を維持するためだけに日米安保条約は存在しているのだから。米軍基地がなくなるし、沖縄を大事にしない、大嫌いな日本とも縁が切れて沖縄の人々は大よろこびであろう。翁長知事は県民の大喝采を浴びるだろう。そのときは琉球国になっているから県民ではないか。翁長氏はそのときは琉球国王か。

 東アジアの覇権の意味を価値あるものと考えないトランプにとって、在日米軍はただのコストである。状況が変われば言葉どおり日本から引き揚げるだろう。日本は核武装でも何でもして自分で自分を守ればよい、アメリカは関知しない、と言うだろう。

 その頃にはどさくさ紛れに北海道はロシア領になっているだろう。どさくさ紛れはロシアのもっとも得意とするところである。

 こうして黒船によってアメリカにむりやりこじ開けられた日本の開国は、アメリカの撤退により長い長いアメリカのくびきを離れ、世界から孤立し、殻を閉じて太平の眠りにつくことになるだろう。

 めでたしめでたし。

 妄想なんだから、まさか本気にしないでね。

気の弱り

 先週末、娘のどん姫が仕事を終えて最終電車で独り暮らしのわが家に帰ってきた。酒と食べ物を用意して待つけれど、私は朝型で深夜は苦手である。

 料理の下ごしらえをした後にちょっとだけ飲み、少しだけこたつでうたた寝したころ、どん姫は颯爽と帰宅した。用意した酒はビールとマテウスのロゼ。このポルトガル産の発泡ワインは私もどん姫もお気に入りだ。

 つまみはどん姫が正月に持って来てくれたチーズアラカルト。ナチュラルチーズやスパイシイな黒胡椒入りカマンベールなどでビールにもワインにも絶品。さらに鶏肉を味付けしておいて野菜と炒めたもの。鶏肉を漬け込んだ汁から取り出して片栗粉を混ぜてから炒めたので、ちょっととろみはついたし、付け汁によって肉は軟らかくなり、美味い。どん姫も喜んでくれて馬鹿親父は美味いといってくれたことに手放しでうれしがる。その他にも温泉旅行で買ってきた土産を使った自分の作り付けの煮物なども楽しんでもらう。

 ちょっと好い気持ちになった頃合いに、正月に約束したグラタンをつくる。これはどん姫にも手伝ってもらった。二人ともグラタンが大好きで、でも一人で作ると作りすぎてしまうので、二人のときに作ることにしているのだ。

 気がついたら私は先に寝ていて、食卓はどん姫が片付けてくれていた。だんだんおとなになってくる。こちらがだんだん何にでも感激するようになり、過剰に反応するようになり、涙もろくなり、娘や息子に弱みを見せるようになり、それを優しく受け止めてもらえるようになり・・・。

 馬鹿親父は気の弱りを安心してさらけ出せる幸せを感じているのだよ。

2017年1月22日 (日)

測定値

 最新の豊洲の水質調査の数値がいままでと比べて大きく悪化していた。この理由には考えられることがいろいろあるようだ。

 ひとつは地下水位を下げるための本格的な汲み上げが始まったので地下水が攪拌され、地下の汚染物質が再びまじり始めたのではないかということ。

 もうひとつは今回の測定が間違っているという疑いである。測定には誤差がある。その誤差を大きく越えているのは測定に問題があったからだという考え方だ。

 さらにもうひとつ、今回の測定値こそが正しく、いままでの測定値に間違いがあったというものだ。それが間違いではなく、恣意的なものだったのではないかという意見もある。本当なら由々しきことである。

 とはいえ何が事実かということは、信頼できる機関が繰り返し測定をしてみれば分かることで、再測定をしているようであるから間もなくどれが本当か分かって来るはずだ。 

 まさかと思うが、いままでの問題なしという報告が測定値をいじったものであったなどということであれば、その責任者やそれに関わったものの社会的責任は重大である。厳しい制裁を受けることになるだろう。

 もともと東京ガスと云う化学物質を大量に扱っていた工場跡地に生鮮食品を扱う市場を移転させようということに問題があったのだ、と云う責任論に話が及んでいる。東京ガス側も土壌に問題があることをよく承知していたから難色を示していたという話もある。それを強行した背景に何があったのか。そのことを石原元知事は承知した上の移転場所の選定だったのか。

 それらの背後に利権などが絡んでいた、と云うことが明らかになれば、当然汚染物質の測定値に工作があったのではないかという疑いにつながるわけである。

 そういう意味で再測定、再々測定の数値の公表が待たれる。

失われた富を取り戻す

 1950年代、私がまだ小学校低学年だった頃、父親が食卓で「アメリカには一家に一台車がある」と言った。家族はみなアメリカはすごい国だなあと思った。そのあと父は「日本もいまにそうなる」と言った。まさかと思った。まだ洗濯機も冷蔵庫もテレビもなかったからだ。車など夢のまた夢だと思ったのだ。

 アメリカはあこがれだった。その後テレビが家に置かれると、アメリカのホームドラマでアメリカ人の豊かな暮らしを目の当たりにすることになった。本当に一家に一台車があるのが当たり前の生活がそこにあった。たぶん世界中の人がアメリカ人のような豊かな生活が出来ることを夢見て努力した。

 どうしてアメリカがそれほど豊かだったのか。世界が貧しかったからだ。世界の富がアメリカに集中していたからだ。世界の人々は歯を食いしばって貧しさに耐え、次第に豊かになっていった。

 アメリカにだけ集中していた富が世界に分散した。日本が、中国が、韓国が豊かになれば、その分アメリカの豊かさは損なわれる。豊かさは富があることであると同時に、相対的に貧しいものがいて自分の豊かさが実感される。比較の中で豊かさと貧しさは感じられる面もあるのだ。
 
 大きな家に住み、ぶくぶくと肥満して飽食していながら、自分は貧しい、とアメリカのプアホワイトといわれる白人労働者達は不満を漏らす。

 トランプ新大統領はアメリカの失われた富を取り戻す、と国民に約束した。彼は私より少し年上の世代であり、世界があこがれたアメリカだけが豊かだった時代があるべきアメリカの姿だと思っているようだ。

 アメリカだけが豊かだった時代から次第に他の国にアメリカの富が奪われたからいまアメリカの労働者達は貧しいと言う。それを取り戻すと言うことは、あのアメリカだけが豊かな時代にもどらせてみせると約束したのだ。

 それはすなわち、アメリカ以外の国を再び昔のように貧しくさせてやる、と公言していることに外ならない。それが出来ると本気で思っているし、熱烈な支持者たちはそれを期待している。そんな時代がこれから来るのだろうか。

 もし来なければ、つまり約束が守れなければ、トランプに対する熱狂的な支持は、怨嗟と反感に変わるだろう。

 新大統領就任式のとき、トランプに反対する人たちの一部は暴徒化し、破壊行為を行い、多数の逮捕者を出していた。同じことがトランプ支持者によってさらに激烈に行われる日が来るような気がする。そのとき彼は暗殺されるだろう。

 その前にトランプが約束を履行しようとすることによって世界は混乱を来しているだろう。

 こんな予言は当たって欲しくないとは思うけれど・・・。

2017年1月21日 (土)

生誕110年、没後80年

 今年は中原中也の生誕110年、没後80年にあたる。それを記念して中原中也の故郷である山口発地域ドラマ「朗読屋」がNHK山口放送局で作成放映された。

 実はそれを録画してあってまだ観ていない。それにちなんだ番組が何本もこのドラマの前に放映されたので、それを観ているところである。ドラマを観るため、楽しむための準備中というところか。

 繰り返しこのブログで述べているように、私は詩について素養もなく、それを感じる感性も人より著しく劣る。そんな私でもすばらしいと感じる数少ない詩人のひとりが中原中也である。そのことは先日萩原朔太郎を訪ねて前橋に行ったときにちょっとだけ言及した。

 その準備として観ている番組には10年前、つまり中原中也の生誕100周年を記念して山口放送が作成した特集などもある。また、ドラマの脚本を書いている荻上直子さんと中原中也記念館館長との公開対談もあった。こういうきちんと中原中也を識り、深く詩の解釈の出来る人たちの話を聞くと、見えなかったものが見えてくる気がする。

 中原中也の詩は声に出して読むことを前提にされているという。そして中原中也の詩の朗読は絶品だったようだ。そもそも詩はむかしから声に出して読むものなのだと言うことを思い出させてもらった。黙読していてはその世界、言葉の響きは見えないし聞こえない。感興を覚えにくいのは当然なのである。

 そうしてドラマは「朗読屋」という題となるのだ。ここで主人公(吉岡秀隆)は中原中也の詩を朗読する。その詩の朗読に込められたものは、中原中也の思いであり、同時に読み手である主人公の人生に対する思いであり、それを聴く聞き手の感応につながっていく。

 これはまだドラマを観ないうちだから、勝手な思い込みだが、ほとんど外れてはいないだろう。もう少し準備の番組が残っている。それを見終えたらドラマをじっくり楽しむことにしよう。

呉善花・加瀬英明「呆れた哀れな隣人・韓国」(WAC)

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 失敗した。この本がいつ発行されたのか奥付を見ると2017.1.3となっているので、新しい本だと信じ込んで購入したのだ。発行は新しいが、内容は2011年から2013年にかけて行われた二人の対談をまとめたものだったのである。

 内容は時事的なものでは全くないので、特に古いから間違っていたりすることはない。韓国人、いや北朝鮮の人々も含めた朝鮮人の思考様式を本質的なものと長年に亘って擦り込まれたものを合わせて語り尽くしているものなのである。

 すでに何度も読んだことのあるような話が繰り返されているので目新しいものではない。

 ただ、特に印象に残ったことがある。韓国に迎合している河野洋平や朝日新聞を韓国人は心から軽蔑している、ということである。安易に迎合し、謝罪する人間を韓国ではもっとも蔑む。自分の上か下かで相手を見ることを習性とする韓国人にとって、自己主張することなく謝る人間は最下等だと見なされるからだ。

 このことを知っただけでもこの本を読んだ意味はあった。

 今回の釜山の慰安婦像問題で日本が韓国に対してとった行動は、だから表向きは反日の火を燃え上がらせることになっただろうが、日本を見直すきっかけにもなった可能性がある。韓国も初めて、あれっ、日本も言いなりにならないこともあるのだ、と感じたに違いないのだ。そこから先はどうなるのか、様子を見る楽しみがあるだけだ。

山のようにいて、一握りしかいない

 判じ物みたいな言い方で申し訳ない。山のようにいるのは好きな人で、一握りしかいないのは私が嫌いな人である。わざわざ私が、と付けるのは誤解を招きそうだからである。嫌いなのは全部ではなく、嫌いになる理由があるからで、好きになる理由といわば同じである。足の先から頭のてっぺんまで嫌い、というのはそうそうあることではない。

 以前私のこのブログは延々と続く私の自己紹介である、と記したことがある。私の目から見たもの、私が感じたこと、私が考えたことを駄文にするのは、すなわち私がどんな人間かの表明に外ならないからである。

 面白いのはその駄文を読み直すと私が私を識ることが出来たりする。自分で自分を他人として見ることが出来る。書いた人と読む人はおなじだけれど違う人である。欠いたときと読むときとでは時間の経過とともに自分自身は変わっているのである。しかも書いているときには書くことが勝手に湧いてきて、考えてから書いているわけではない。書いている自分と考えている自分も違ったりするからややこしい。

 脇道にそれた。

 いま好きな人。平原綾香、吉田羊、麻生久美子、木村カエラ、多部未華子、内山理名の顔が浮かんだ。山ほどいるのに浮かんだのはこれくらい。連想力が貧困なのだ。女性ばかり。たいていの女優は好きである。魅力があるから女優なので当たり前と言えば当たり前か。書いていたらきりがない。

 いま嫌いな人。嵐(グループだけど全部嫌い)、木村拓哉、香取慎吾、中居正広、藤田まこと(「はぐれ刑事」、「必殺仕事人」、「剣客商売」すべて嫌い)、EXILE、前田美波里、大地真央、蓮舫、鳩山由紀夫、野田佳彦、菅直人、社民党吉田党首、これも思い浮かんだのがこれだけだった。じっくり考えるのも面倒だ。基本的に恥ずかしげもなく男が激しく踊ってみせるのを見るのが嫌い。明治生まれの祖父がチータカタッタだ、と軽蔑の眼を向けていたのに子供のときに共感したので、この歳ではもう変更がきかなくなっている。政治家は善と悪、正義と悪者という二元論で語る人が嫌い。正義を標榜する朝日新聞が嫌いだが、朝日新聞は人格ではない。

 なんだか嫌いな人のほうがすらすら出てきて、書いているうちに何を言いたいのか分からなくなった。嫌いではない人は基本的に嫌いになるまでは好きと云うことにしている、ということにしようか。

 昨晩飲みながら思いつきで書いていたら少々酔いが回ったようだ。

2017年1月20日 (金)

忙しい

 忙しいといっても、御仕事ではなくて遊びに忙しいのだから申し訳ないことである。そういえばリタイアして毎日が日曜日になったばかりの頃、普通の日にぼんやりしていると焦燥感にあぶられる思いがしたものだ。なんだか仕事をさぼっているときのやましさのようなものに襲われるのだ。だから土日になるとほっとした。

 だんだん薄れているとはいえ、その気持ちはたぶん一生消えないかもしれない。

 と言い訳をした上で、本文に入る。

 NHKBSで「雲霧仁左衛門」の第三シーズンが始まった。映画では仲代達矢が演じた雲霧仁左衛門を中井貴一が演じている。わるくない。欲をいえばもう少し影が欲しいところだが、中井貴一は軽みが持ち味だから、ない物ねだりだろう。以前、七化けのお千代を演じている内山理名をほめた。映画では岩下志麻が演じたこの役を、全く違うキャラクターとして演じている内山理名がとても魅力的で今回もうっとり見ている。

 映画ではほとんど池波正太郎の原作に忠実に描いていたけれど、このドラマではかなり脚色されている。この第三シリーズはほとんど原作と離れてしまう気配だ(まだ第二回までしか見ていないので)。しかしストーリーが離れるだけで、キャラクターは忠実なので、知らない新しい話として楽しめそうだ。

 原作と離れると言えば、「陽炎の辻(居眠り磐音)」シリーズの完結編をNHKが正月のスペシャルドラマとして放映していた。佐伯泰英の原作を読んでいない人にとっては、これはこれで面白かったことだろう。しかし原作を知っていると興ざめである。連続ドラマのときのキャラクターがその後どれほどの辛惨を舐めたのかが描かれていないので、敵役の田沼意次への恨みの深さが表現できない。恨みが深いところを暴挙に出ずに耐えるエネルギーこそが磐音の真骨頂であり、その暴挙を決行してしまう佐野善左衛門との対比こそが物語の肝であろう。

 スペシャルドラマではシリーズのキャラクターイメージを壊さないよう連続性をもたせているけれど、時間とその間の成長が描かれていないのがこの物語を愛する人間として不満であった。

 その坂崎磐音の息子、空也が主人公である物語が始まった。「声なき蝉 上・下」が双葉文庫から出版されたのだ。空也十番勝負・青春編と銘打たれている。佐伯泰英を読むのにも飽きてきたので当分手を出さないつもりでいたのに、気がついたらレジの前に持って行っていた。ドラマを観なければいけないし、旅番組も観なければいけないし、本も読まなければいけないし、忙しいという訳である。

不明を恥じる

 共産党の小池氏が天皇陛下の退位について意見を述べていた。

 内容は別にして、この意見を聞く限り共産党は天皇制を認めているようだ。そんなことは当たり前で、以前からそうだったと言われるとしたら、私は不明を恥じるしかない。共産党は天皇制を否定しているものと思い込んでいたからだ。確か昔はそうだったはずだとそう思い込んでいたのだ。

 昭和天皇が崩御される前後で朝日新聞の報道の仕方がくるくると変わったことを思い出す。最終的に崩御という、天皇の死についての言葉を使ったのかどうか知らないが、最初はそうでない言葉を使い、批判を浴びると次第にレベルの高いことばに換えていったが、そのことがまた批判されていたことを思い出す。とにかく自国の国家元首に対しての敬意を欠いていたことだけは明確に記憶している。決まった言葉をあえて使わないことでおかしな主張を盛り込もうとしたその真意がみなに見え見えだったのである。

 あのときに赤旗はどう報じていたのだろうか。まあ考えてみればどうでもいいけれど、共産党は天皇制も皇室の存在も認めているのだ・・・。そうだったのか。

 ところで民進党の野田幹事長が天皇退位について暫定法でなくて皇室典範そのものの変更をすべきだと主張していることに頭にちょっと血が上った。

 この人が無知で状況を読めないことであの尖閣問題が先鋭化したことについては繰り返し述べてきた。そのことは今回は置いておく。もうひとつ思い出したのは、あの韓国の李明博大統領が国内の支持率低下に進退窮まった政権末期に、あろうことか歴代大統領の誰もしなかった竹島上陸をしたことは誰もが記憶していることである。あの少し後のウラジオストックで行われたAPECで野田首相と李明博大統領が出会った。そのとき野田首相はにこやかに李明博大統領に近寄って手をさしのべて握手した。

 これは韓国国民はみな知っていることだが、日本人は知らない。なぜならマスコミはそのように報道していないから。野田首相はそのとき日本の国を代表して韓国に舐められたのである。

 その私が嫌いな野田氏が天皇退位についてコメントを述べるだけでも不快なのに、皇室典範の変更が筋であると述べたことに腹が立つのである。

 今上天皇は高齢で、身体の衰えを感じているので退位を表明したのだ。皇室典範を変更するためにどれほどの議論が必要か想像力を働かせれば分かることで、今上天皇にそれまで待てというのか。そもそも筋論を言うのであれば、退位は認めるべきではないのである(だから私は退位には反対で摂政を置くべきだと思っている)。今上天皇のお身体を心から心配するからみな早く結論を出そうとしているのである。筋ではなく御心にそうことを優先しようとしているのである。

 野田幹事長が鈍感で状況の読めない無神経な人間であることをまたまた知らされて私は不快に感じた次第である。

今日のニュース雑感(2)

 釜山の日本総領事館前の慰安婦少女像は自分たちが守る、と大学生たちが発足式を開いたそうだ。彼等は誰からこの像を守ろうというのだろうか。日本政府は韓国政府に善処を求めているが、日本政府が釜山に軍隊を派遣して撤去することはあり得ない。そんなことをしようとしたら日本人はあげて反対するだろう。しからば地元当局か。地元当局は当初撤去を強行したが政府の支援もなく孤立無援となり、もう匙を投げてしまった。韓国外交部か撤去を地元に要請したら、外交部が勝手にやってくれ、と開き直っているという。

 外交部が身命を賭して撤去に動くとは考えられない。では誰も撤去する人がいないではないか。誰も撤去しようとしないものを守る、と息巻いているとすると、それは自分の身の安全を見越して騒いでいるだけなのか。

 しかしそうしてソウルの日本大使館前の像と同じように既成事実化すれば、日本も振り上げた拳を降ろしようがなくなるだけである。日本はあげたままでもかまわないと思っている。だから安倍首相の支持率は上がっている。その安倍首相の支持率が上がっていることに韓国は日本以上に神経を尖らせている。

 通貨スワップの交渉中断が韓国に禍根となることを見越して、日本側は韓国の出方によって穏便に納めるつもりだが、学生達はそれを阻止することになっていることに気がついていない。

 韓国は日本との通貨スワップはたいした問題ではないと強がりを言っている。なぜなら中国との巨額の通貨スワップがあるからだと説明している。その中国との通貨スワップの契約は今年の秋に期限が来る。中国は当然自動延長する、と韓国側は決めてかかっているが、中国が延長するかどうか分からない。中国にも余分な金がないのだ。しかもいまは韓国に経済的な締め付けを繰り返しているのだから、一番効果的な通貨スワップ打ち切りを伝家の宝刀にしないとは思えない。

 韓国は日本との通貨スワップ交渉の窓口は閉ざすつもりはないという。しかし自分から交渉再開を働きかけることはしないと明言している。つまり、日本が頭を下げたら交渉してやってもいいと言っているのだ。まるで日本のための通貨スワップででもあるように言い、韓国の国民の多くはそう思わされている。

 韓国でも分かっている人はみな分かっているのに、誰もそのことを深刻に考えていないように見せている。韓国は中国と心中するつもりなのだろうか。中国は韓国を突き放すだろう。たぶんアメリカのFRBの利上げの後に韓国は本当の危機を迎えることになるだろう。韓国はもしかしたら地獄を見るかもしれない。

2017年1月19日 (木)

今日のニュース雑感(1)

 5月に北京で多国間サミットが行われるのでそれに参加する、とフィリピンのドゥテルテ大統領が表明したそうだ。先日安倍首相と対談して巨額の援助を取り付けたばかりでさっそくこれだから、したたかというか鉄面皮というか。

 しかしこの多国間サミットとはいったい何なのか。そしてどこの国が参加するのか。中国の習近平主席の提唱する「一帯一路」構想を推進するためのものらしいから、あまり一流国が参加するとは思えない。アリが甘いものに群がるように、中国共産党帝国皇帝陛下から何かを下賜されるのを期待して蝟集する国々があるのだろう。もちろん日本には声がかからないと思う。

 竹島に慰安婦少女像が設置されそうだ。しかしいまの竹島は事実上韓国によって不法占拠されており、実効支配されているから、日本人は本来竹島に上陸することは避けるべきである。なぜなら韓国にパスポートをもって入国した上で竹島に行くことになり、韓国の竹島領有を日本人として認めることになってしまうからだ。

 竹島に慰安婦像を置くことの意味があらためてわかる気がする。何回か言っているように、やはり慰安婦少女像は日本人という魔物を除けるためのものであるらしい。魔除けで不法占拠した竹島を守るつもりなのだ。

 潘基文元国連事務総長が、韓国大統領に立候補するつもりであることが確実になっているが、日を追うごとに支持が減り、勢いが失速しているようだ。その行動が行き当たりばったりで、何か批判されるとすぐそれに対して補おうとするために一貫性がないことにみな呆れているという。身内の汚職でかなり減点されているからよほどのことがないと再浮上はないのではないだろうか。

 韓国ではいざ知らず、史上最低の国連事務総長ともっぱらの噂で不人気だったから、地がでたのだろう。しかし大統領になってから汚職が明らかになると命取りになるから、その前で却って本人のためには良かったのではないだろうか。だいたい国連事務総長が中国の軍事パレードに参加するなどあり得ないことをする人である。その時点で公人失格だろう。(つづく)

スパムコメントに注意

最近おかしげなコメントが入る。

英語だったりロシア語らしきものだったりしてアドレスが貼り付けてある。
私は日本語のまともなコメント以外は読まない。
そもそも横文字のコメントは読めない。
日本語の私のブログを読んでコメントを入れるなら、外国人であっても日本語でコメントするだろう。
だからたとえ善意のコメントだったとしても横文字のコメントにはお返しはしない。
怪しいコメントとして気がつくと削除しているが、必ずタイムラグは生ずる。
間違ってそのようなコメントのアドレスを開くようなことをされないように注意して欲しい。
どこにどう飛ばされるか分からない。
繰り返すがくれぐれも注意して下さい。

宮崎正弘・渡邉哲也「世界大地殻変動でどうなる日本経済」(ビジネス社)

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 中国ウォッチャーとしての宮崎正弘の本と出会い、その後もときどき読んできた。中国ウォッチャーはときに中国についてはとても精通しているけれど、世界全体という視点を複眼的にもっているという点でこの人にはかなう人はいないのではないか。何しろ中東でも、ヨーロッパでも、南北アメリカでも目配りが効いていることに驚かされる。もちろん日本についてもである。

 渡邉哲也という人は経済という視点から世界を絵解きする立場で宮崎正弘と対談している。やはりその目配りは行き届いていて、宮崎正弘に引けをとらない。

 この二人の対談では、これからの、つまりトランプ次期大統領が誕生する前後から先の見通しを語り尽くしている。世界はどう動きつつあるのか、例えばイギリスが離脱後のEUはどうなるのか、そしてイギリスはどうなるのか、中国はどうなっていくのか、それはどうしてそうなるのか、ということを語っているのだ。世界はグローバリズムの終焉を迎えようとしているというのが二人の見立てだ。

 そのような背景の中で日本経済はどうなるのか、最後にそれがまとめられているけれど、それはあまり悲観的なものではない。なぜならそもそも日本にはグローバリズムというものがなじまないからではないかと思われる。グローバリズムというのがただたんなるアメリカンローカリズムでしかなかったわけで、アメリカが世界をリードする意志を失えば、かげろうのように消え去るものだからだろう。

 世界はこういう理由でこうなった、そしてこれからこういう理由でこうなるだろう、というご託宣が書かれた本は本屋に行けば山のように積んである。ではそれらの本とこの本はどう違うのか。それは時間のスケールが違う、と云うことだろうか。

 テレビや新聞で語るコメンテーターたちは、あたかも明日の天気予報を語るように世界を語る。世間はせっかちである。明日どうなるかを知りたがり、それが即答できないコメンテーターは退場を迫られる。解釈はしばしば理屈として毛嫌いされる。どうしてこうなったかはどうでもいいから明日どうなるのか知りたがり、当たった外れたとギャンブルのように評価する。

 今回読んだこの本から得た知見は、そのような短期的なものとは少々違う。未来は無数の分かれ道に満ちている。その分かれ道のどちらが選ばれるかで未来は大きく変わってしまう。その分かれ道がいま我々の目前にいくつも待ち受けている。その分かれ道がどうして生じたのか、そしてどちらを選べばどのような可能性が高いか、それを示しているのがこの本なのだ。

 不確定な未来を、すでに生じたさまざまな事実から予測するのが未来予測者の役割であろう。そのことを良くわきまえて、必要な情報を揃えて見せた上で、こうなるだろう、と推定しているのがこの本である。短期的には外れることも多々あるかもしれないが、たぶん大筋ではここに書かれた予測は現実となる可能性が高い気がする。

2017年1月18日 (水)

競争が嫌いなのか苦手なのか

 ゲームをするとき、自分に有利な武器を手に入れることで勝利が容易になる。勝つためにその有利な武器を探すことに必死になる人と、苦戦を楽しみ危機を打開することを楽しむ人がいる。

 ゲームに勝つ瞬間の快感を味わうことがゲームの目的ではあるけれど、ゲームそのものの楽しみを楽しむか、ただひたすら勝つことのみに執着するかで楽しみ方もずいぶん違う。

 気力が落ちているときはただ勝つことに執着することが多く、気力が横溢しているときは自ら危機を楽しむようだ。

 トランプ次期大統領はイギリスのEU離脱を歓迎し、EUやNATOについて批判的である。同時に中国の擡頭も不快に感じているようである。そのついでに日本までやり玉に挙げられている。

 世界は競争で発展してきた。その競争はときに戦争という悲劇をもたらしたが、いま世界の多くの人が昔より豊かであるのは競争の末にもたらされた科学や政治システムのお陰に負うところも大きい。悲惨な失敗の果てに自由な競争こそが世界に利益をもたらすことを知ったのだと思う。

 トランプはアメリカファーストだという。これは小池都知事の都民ファーストとはずいぶん意味合いが違って、アメリカさえ良ければいいという考えのようだ。いままで築かれてきた自由な競争というルールを変更し、自分たちだけが勝てるようなゲームを始めようとしているように見える。

 そもそも彼は自分に敵対するものを嫌う。今は次期大統領としてアメリカに敵対するものを嫌う。EUも中国も日本もアメリカの敵だと思っているのだろう。その敵に力があることが不愉快なのである。自分と対等であることなど許せないと考えているようだ。

 そんな考えであれば、EUもTPPも存在が許せないものに見えることだろう。たぶんロシアや北朝鮮は泡沫敵対者で、敵として認識していないに違いない。敵と認識したら攻撃するだろう。

 然らばトランプは競争に強い人物なのだろうか。競争に強い人物なら相手が強いことを嫌ったりしない。たぶん競争が嫌いで苦手な人物なのだろう。だから絶対に勝てるルールを打ち立てようとするし、正当な競争ではないところで相手を貶めて蹴落とすことに努力する。それでたまたま結果的に成功してそれを成功体験として身につけてしまった人物なのではないか。競争の問題ではないけれど、あの記者会見のときに記者の質問を聞こうとせず、相手を「嘘つき」と決めつけていた姿に彼の正体が見えた気がする。

 つまり実際には弱い人間だということだ。弱い人間が都合がわるくなって窮地に立つとどんなに卑劣になるか、それは人生経験のある人間なら想像がつく。

 彼が失敗して窮地に立ったとき、彼がどんな行動をとるのかと思うと恐ろしい。アメリカ人は彼を強者と勘違いしている。その化けの皮はすぐ剥がれるだろう。

せっせと観ているのだが

 しばらく家を空けていたので、昨日は忙しかった。何に一番忙しかったかといえば、予約録画していた番組がブルーレイのハードディスクにあふれていて、それをせっせと観るのに忙しかったのだ。

 ドラマを二本、旅番組を三本ほど消化した。ドラマは正月スペシャルなどが何本もあってみな長いから後回し、一時間以下のシリーズものから消化する。旅番組も二時間前後の長いものばかりなのだが、それほど集中して観なくても良いのでこちらを先に片付けている。

 東北の旅を主に観たので自分のよく知っている景色が次から次に現れる。そのなじみの景色の合間にその番組を観て初めて知った場所や店を知る。ああ、行ってみたいなあ、と思う。

 旅はくせになる。画面で擬似的な旅をしているだけではもの足らない。また出かけたくなる。しかし今回の旅ではかなり出費してしまった。大変満足はしたけれど、しばらくは出かけるのを控えないと歯止めがきかなくなりそうだ。

 一度歯止めを外すととことん行ってしまうところがあるので、いまはやり立つ心を必至でなだめているところである。

 それにしてもこんなに録りためてしまって、消化するのはけっこうしんどいなあ。

養老孟司「骸骨考 イタリア・ポルトガル・フランスを歩く」(新潮社)

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 養老孟司は解りにくい。解りやすいと思って読んでいる人がいたら、よくよく読み直して欲しい。長い時間を掛けて深く思索したことを元に世界を解釈しているのだけれど、その根底をよくよく解った上でないとその論理展開についていくのが難しい。

 言葉がとても平易なので、解ったような気にさせられてしまうということもある。しかししばしば常識とは違うことを言っているので、あれっと思うと迷路に踏み込んでしまう。そこをとことん理解しようとすると実はとても解りにくいのであり、そのかわりそれがどういうことかを得心したときの感激はとても大きい。 

 この本にはヨーロッパの人々の思考と日本人の思考についての深い比較考察がされている。膨大な思索が短い文章に込められていて、過去の著者の文章を多少理解していないと、ただ骸骨のある納骨堂や教会を見に行った紀行文としか読めないだろう。

 しかしおびただしい骸骨が人の眼に触れる形で納められている納骨堂というのは日本人には想像を絶する光景だろう。それに圧倒されて思考停止にならず、そこにその骸骨たちが納められ陳列されていることの意味を読み取ることが出来るのは、養老孟司が優れた思索家であるからだろう。

 この本の冒頭には数十葉のカラー写真が納められていて、それぞれの写真のナンバーをもとに参照しながら文章を読んでいくようになっている。ここで繰り返し写真を見ることになる。最初にただ眺めていただけの写真が次第に意味をもってこちらに迫ってくる。

 この本は「身体巡礼 ドイツ・オーストリア・チェコ編」の続編となっており、前作は今回新潮文庫に納められた。探して読むことにしよう。

 ザル頭なりに、生と死についていささか考えさせてもらった。

2017年1月17日 (火)

無駄な主張

 岸田外務大臣が、竹島は日本の固有の領土であるとあらためて主張したことに対して、韓国外交部の報道官が「日本政府は明白なわが固有の領土である独島に対する無駄な主張を直ちにやめるよう求める」と述べたそうだ。

 それぞれが自国の主張が正しいと述べ、相手の主張は間違っていると述べるのはよくある話で、意見が一緒ならそもそも問題は起こらない。

 ところでこの報道官の、「間違った主張」という言い方ではなく、「無駄な主張」という言葉に引っかかった。間違った主張に反論するのはいわば当然である。しかし無駄な主張に反論するのはそれこそ無駄ではないのか。そもそも相手は無駄なことをしているのだからつき合う必要はないのである。

 反論するのは、相手の主張が「無駄な主張」ではないことを認めていることに外ならないのではないか?などとこの屁理屈屋(私のことである)は考えてしまうのである。

怨敵退散

 韓国が竹島にも慰安婦少女像を設置しようとしているらしい。

 韓国は魔除けとしてあの慰安婦少女像を認識しているらしいと少し前にこのブログに書いた。何を魔として除くのか。日本であり、日本人であるらしい。

 すでにソウル市内だけで20カ所以上、韓国全体では60カ所以上にこの慰安婦少女像が設置されているという。こうなればとことん全土に設置したらよろしいではないか。韓国全土に数万の慰安婦少女像が設置されている図を想像すると壮観であろう。

 日本という怨敵退散の魔除けとしてそこまで徹底されれば、魔物である日本人としては、韓国のほとぼりが冷めるまでは韓国と関わらない方がよろしいようである。

 韓国の新聞が、韓国に対して強硬姿勢をとったことにより、安倍内閣の支持率が上昇して過去最高になったと報じていた。そうなのか。もしそうならば日本人も(某朝日新聞以外は)韓国の少々頭に血が上った様にうんざりしていると言うことであろう。

 韓国は自国の経済と政治の危機的状況を日本という魔物を祓うことで打開できると考えているようだ。少なくとも次期大統領候補たちとマスコミは、あげてそのように考えているようである。韓国国民は反日の大合唱をして盛り上がり、そして何が解決されると考えているのだろうか。私にはまったく分からない。韓国の人々にも分からないだろう。

 たぶんおかしいと感じている韓国人も多数いるはずだが、韓国国内にいてはそれを口にすることは絶対に出来ない。これこそ裸の王様の寓意そのものである。「王様は裸だ」と叫ぶ子供は、韓国には今のところ出てくる可能性はなさそうだ。

 魔物である日本人のひとりとしてしばらく退散しておくことにしよう。みんなしばらくそうしたらよろしいと思う。

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 こんな像なら良いのにね。

丸山昇「上海物語」(講談社学術文庫)

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 近代の上海を語り尽くそうと試みた本である。もちろん膨大な出来事があり、たくさんの人がそれに関わっており、しかも立場によってその解釈は千差万別であろうから語り尽くすことなど出来ない。しかしその意図は充分に果たされていると思う。この本は忘れられない本になるだろう。上海に関わる記述のある文章を読んだらこの本を思い出すし、この本を参照することになるだろう。

 じっくり味わいながら読んだので、300ページ足らずのこの本を読み終わるのに1ヶ月以上を費やした。

 副題は「国際都市上海と日中文化人」である。魯迅が出てくる、陳独秀、郭沫若、茅盾、丁玲、郁達夫を始め多数の中国文化人が、そして上海を訪ねて文章を残した芥川龍之介が、谷崎潤一郎が、佐藤春夫、金子光晴が、さらにそれらをつなぐ人物として内山完造がいる。

 それらの人々が見て感じた上海が近代の中でどのように変遷していったのか、させられたのか。日本の中国侵略が始まり、抗日運動が盛んになり、それでも太平洋戦争まではかろうじて租界は文化人たちを庇護する場所でもあったが、太平洋戦争の後は租界は事実上消滅してしまった。そして日本が上海を完全な支配下に置いたときから日本と中国との絆は断ち切られてしまったのである。

 そのようなことを激することなく淡々と事実のみを述べているけれど、そこに痛切な作者の思いがこもっているのが読み取れる。

 この本は1987年に集英社から出版されたもので、2004年に講談社学術文庫に収録された。

 上海には仕事も含めて10回以上行った。私が上海を初めて訪ねたのは1992年。その頃は自動車よりもはるかに自転車が多い時代で、建物も含めて多少この本に書かれたような上海を見ることが出来たが、その後すさまじい勢いで変貌してしまった。蘇州河を見下ろす古いホテルから上海のスクラップ&ビルドを見下ろして幻視した上海がこの本にはリアルに描かれていて、見たことのない世界なのに懐かしく感じた。

2017年1月16日 (月)

大雪からの脱出

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今朝の水上温泉。

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回廊の向こうの車の上の雪は昨晩から今朝までのもの。私の車はもっとたくさん雪が乗っている。

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こんな風に積もると何が何だか分からない。

水上はこの数日で1メートル以上積もったのである。

ホテルの人が少しだけ除雪を手伝ってくれたけれど、ほとんど自力で脱出するまでに、30分以上かかった。

水上から高速に乗り、前橋、高崎を過ぎて上信越道を走る。前橋には雪があったけれど高崎にはほとんどない。妙義山がくっきりと見えた。その妙義山には雪がまったく見られない。

軽井沢を過ぎたら多少雪があるがそれほどではない。ただ、浅間山は雪雲にすっぽりと覆われていて見えない。場所によってずいぶん違うものだ。

休み休み走り、無事3時過ぎにはわが家に帰着。さいわい道路はどこも通行止めがなかった。

さっそく荷物の整理と洗濯。さあ今晩から日常が始まる。

前橋に立ち寄る

前橋に立ち寄る。寄りたかったのは萩原朔太郎記念館。私は詩が苦手で、詩の好きな人よりも詩から感応することが少ないと思っている。そんな私でも記憶に残る詩人はいて、萩原朔太郎、中原中也、島崎藤村などがそれである。

その萩原朔太郎が前橋の生まれで記念館があることは知っていたのに一度も訪ねる機会がなかった。

ナビに道案内を頼むと前橋のバラ公園に連れて行かれた。途中どこにも萩原朔太郎記念館の案内表示がないのを不審に思った。

公園の地図を見るとたしかに記念館が園内にあるらしいので一安心。

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バラ園とはいえ、冬だからバラは咲いていない。

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幼児たちの銅像が並んでいる。

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ようやく一輪だけ咲いているのを見つけた。けなげである。

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萩原朔太郎の、
我が故郷を謳った詩碑があり、そこに記念館への矢印もあるのだが、記念館が見当たらない。

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地図の位置とは違うけれど、それらしき建物が見えた。喜び勇んで行ってみると、蚕糸記念館であった。しかも4月~11月の土日だけの開館である。もちろん閉館中。

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入り口の案内板を探してよく読むと、萩原朔太郎記念館は閉館中であり、別の場所で再開されることになっているとある。そういうわけで道の途中の案内も撤去されていたのであった。残念。その後突然雪が降り出した。あわてて車に逃げこむ。外気温-2℃。

帰ったら朔太郎の詩集を読み直すことにしよう。

上神梅駅に立ち寄る

わたらせ鉄道の駅の一つに上神梅駅がある。レトロな駅だ、と地図にあるので立ち寄ることにした。


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レトロと言えばレトロだけれど、ただ古いだけに見える。

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上神梅と書いて「かみかんばい」と読む。

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駅舎の中に子供の絵が掛けられている。神梅小学校の生徒達が書いたものだそうだ。

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わたらせ鉄道、この上神梅駅に停車するのは上下各11本。

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ホームに出てみる。遙かむこうが足尾であり、そのさらに先が日光である。

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上空は晴れ上がっている。これが関東の冬の空だ。ここからわずか二、三十キロ北方の山に大雪が降っているとは思えない。

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駅の横にこんな看板があった。渡良瀬川周辺の遊歩道の案内であり、北の山を登れば小平鍾乳洞があるという。山道の全長14.5キロはもう少し若いときに行けばよかったと悔やまれる道だ。もうその元気はない。

2017年1月15日 (日)

ホテル窓外の景色

朝、窓から駐車場を見下ろす。9階の窓からだが、外気温が低いので窓を拭いても瞬時に曇る。


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駐車場はほぼ満杯。どれがどれだか分からないほど雪が積もっている。車の下は融雪路になっているから雪がほとんどない。

昼過ぎにもう一度下を見下ろす。

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残っているのは二台だけ。左側が私の車。車で来た人の連泊はもしかしたら私だけ?

夕方、また続々と車がやって来た。

ホテルの食事は良いが広すぎて迷う。露天風呂は快適だが、午後は3時からしか入れないのが不満。連泊する人が少なければ仕方がないか。

仕方がないからゴロゴロしながら本を読む。温泉に行ったら絶対連泊である。このゴロゴロする時間こそが温泉の醍醐味なのだから。

草木ダムに立ち寄る

渡良瀬川に沿って渡良瀬街道を下る。いまここを銅山街道と名乗ろうとしているようだ。


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草木ダムに立ち寄る。

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このダムは発電用と言うより水量のコントロールのためのもののようだ。

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ダム湖を見下ろす。

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ダム湖の湖岸の木々は冬のたたずまいで寒々しい。晴れているけれど、上空を雪雲らしき雲がときどき横切る。

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ダムの心臓部。

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こういう無機質のものが圧倒的なボリュームで存在すると、それが人間に作られたと思ってそのことだけで感動する。

足尾に立ち寄る

足尾と云えば銅山で、銅山観光は見ものだが、それが見たかったのではない。


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足尾駅。赤い郵便ポスト。誰もいない。

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足尾銅山に勤めていた人たちの社宅。たくさん残っている。

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いまこの社宅に住んでいる人は10所帯を切っていると、前回ここに来たときに聞いた。

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この地域唯一のスーパがここにあった。

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生協渡良瀬売店である。

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昨年9月末に閉店した。

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スーパー跡の向こうに見える山。山は光り輝き、足尾周辺は暗く沈んでいて象徴的。

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渡良瀬大橋。日本最古の鉄橋としてつくられたという。現在はコンクリート製の橋に掛け替えられている。川の向こう、青緑の屋根は掛水倶楽部。

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橋から見下ろす渡良瀬川は澄んでいる。

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足尾の迎賓館だった掛水倶楽部。土日だけ開館している。

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入り口から中を覗く。

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橋のたもとに馬頭尊がある。

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この橋の上流150メートルから渡良瀬川と呼ばれる。

橋の横から河原まで下りる遊歩道がある。

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掛水倶楽部を下から見上げる。

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足尾は銅山で多くの富を生み出し、足尾鉱毒水で多くの人を苦しめ、自然破壊もあった。しかしそれもいまは過去の歴史に埋没し、渡良瀬川は清流を取り戻している。

手が冷たい。小雪が舞いだしたので切り上げた。

2017年1月14日 (土)

日光に立ち寄る(3)

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眠り猫の下をくぐって奥の院、家康の廟所へ向かう。たいていここへ来るときは二日酔いなので、階段が辛そうで登ったことはない。

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二百段以上の階段を登る。一気に登ると息が切れる。粉雪が舞い始めた。

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奥の院。みなお賽銭を上げているけれど、家康が祀られていることを思うと願い事をする気にならない。

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階段下にベンチがあるので一休み。目の前に角のある狛犬がいた。

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奥の院を回り込むと銅製の扉があり、その奥に墓がある。

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もともとは木製だったものを青銅製に作り替えたという。

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なかなか芸術的である。

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木陰から東照宮の建物を見下ろす。

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粉雪舞い散る中を獅子吼する。

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仁王様に挨拶して東照宮を切り上げた。寒い。

このあと国道122号線で足尾に向かう。昨年渡良瀬鉄道で訪ねたところをもう一度見に行くのだ。(つづく)

二日酔い

 ふだん醸造酒ばかり飲んでいるので、蒸留酒はペースが分からない。昨晩はその蒸留酒で酔った。酔った勢いであらぬ事を口走ってしまい、後で後悔することが多いが、昨日は少しだけですんだ気がする(あまり自信がないが)。

 だから朝は二日酔いだった。話題はいつものように昔話が多かったけれど、トランプ次期大統領の話などもまじり、店のママさんもその話に加わって盛り上がった。やはりアメリカ人ではなくても気になることなのである。

 昨晩一緒に飲んだ周大兄とは四十年来のつき合いである。彼に会うのは何より楽しい。周大兄は自分の意志で北京に語学留学したことがあり、中国語が話せる。会話の中にも当たり前に中国語が混じる。若い中国人の友達もたくさんいるという。今年久しぶりに彼等に会いに北京に行く予定だそうだ。だから中国の現状を誰よりも心配している。

 中国人はやかましい。中国人は列に並ばない。そういう言われるし、実際に目にする。例えば中国でタクシー乗り場にならんでいると、後ろの人間が勝手にやって来たタクシーに先に乗り込んで、なかなか列が進まない。それを誰も咎めない。しかし泰然として列に並んでいる中国人もいるのだ。

 日本では列に並び、順番に乗り込むのが当たり前だからみなそれに従う。ところが中国人のきちんと列に並ぶ人は、列に並ばない人がたくさんいるなかで、自分の意志で並ぶのである。日本人だって割り込みが横行して咎められなかったら、ついそれになびいて我先に行動してしまうだろう。

 そういう意味では中国人の並ぶ人の方がより根性が坐っている。古来中国の歴史の中の礼儀に篤い人というのはそういう人なのだろう。誰かの真似でしていることではなく、正しく行動する人こそが本物だと思う。ちょっとそんな話もした。

 周大兄も私も中国が好きで、いまの中国を心から憂えているのである。

Dsc_2278 ホテルの窓から桐生駅前を遠望。

日光に立ち寄る(2)

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 陽明門の修復が終わるのはまだだいぶ先。

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右側二つの鉄の燈籠は伊達政宗が寄進したもので、鉄はわざわざポルトガルから取り寄せたいわゆる南蛮鉄だそうだ。この燈籠が東照宮でもっとも有名なものだと看板にある。知らなかった。

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こちらの石の燈籠は自然に同化しつつある。

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縦横をまちがえているわけではない。鐘楼の屋根のかどの銅の彫刻。象であろう(見れば分かるか)。

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こちらの燈籠の水煙が見事だと思ったら、葵のご紋が刻されている。

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陽明門横の塀の上の彫り物が見事なのでいつも感心している。たくさんあって見飽きない。

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蝋燭立てか燭台立てか。ものすごく蝋燭がたくさん必要だ。

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陽明門より好きな唐門。

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この門柱に彫り込まれた龍の眼の迫力に圧倒される。

このあと眠り猫の下をくぐって徳川家康の墓所である奥の院まで登る。(つづく)

2017年1月13日 (金)

日光に立ち寄る(1)

那須高原から群馬県の桐生は近い。どこかに立ち寄りながらでないと時間がもたない。日光と足尾に立ち寄ることにした。


那須から高速で宇都宮まで走り、そこから日光道をいく。

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日光インター手前の日光口パーキング。標高471メートルだそうだ。右のお花畑は片品村とあるから尾瀬の湿原だろうか。戦場ヶ原では栃木県のはずで片品村ではない。

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標高の木標の横にこんな木彫りが・・・。素朴で好い。

日光といえば東照宮。雪の東照宮を撮りたかったのだけれど、どうも雪はなさそうだ。

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いつもの一番北側、二荒山神社との間にある駐車場に車を止める。写真左手は東照宮の外壁。路面に少し雪が残っている。小雪がちらついているのだが、写真には写らない。

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仁王門前でチケットを渡し、中に入る。これは内側からの写真。

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とにかく寒いのである。それでも観光客はそれなりにいる。中国語や東南アジアの言葉が聞こえる。彼等も寒そうだ。

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燈籠も寒そう。

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看板に「こうやまき」と書かれている。高野槙ということであろう。槙の木も大木になるのか。

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お馴染みの見ざる言わざる聞か猿。なんだか色が鮮やかである。色でも塗り直したのかなと思ったら・・・。

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ということであった。

ほかの猿の彫刻はすべて取り外されて写真が架けられていた。陽明門はまだ当分補修中。この続きは次回に。

天井が低い

 鳴子のホテルもそうだったけれど、那須高原のホテルも和室。和室は嫌いではない。何しろゴロゴロしやすい。ところが同じ和室なのだけれど雰囲気が全然違う。片方が高級旅館のたたずまいなら、かたや連れ込み宿風である。何が違うのだろう。何しろ那須高原の方は天井が低いのである。しばしば下がっている灯り(ぶら下がっているのである!)に頭をぶつける。鳴子ではもちろん天井にはめ込みだったから広く感じた。天井が低くてしかも頭にぶつかるものがあれば狭苦しくて場末の雰囲気になるのは当然である。

 部屋の畳がギシギシいう。廊下の物音がそのまま聞こえる。階下か階上の物音まで聞こえる気がする。作りがいかにも安普請だ。鉄筋コンクリート(懐かしい響き!)なのにどうしてこんなに安っぽいのか不思議だ。外観は鉄筋だが、中は木造?まさかとはおもうが・・・。

 温泉は鳴子よりも種類も濃度も上である。ただ、温泉があちこちにいくつもあるのは物珍しいけれどうるさい気もする。それぞれ試してみたいから入浴するのもせわしい。ゆっくり湯治するような雰囲気ではない。

 食事はバイキング。料理は美味い。安いバイキングの雑な感じはないからけっこうなのだが、どうしても客は美味いものを食べ損なわないように眼がきょろきょろする。それがなんとなくせわしない。もちろん私も凡人なので眼がきょろきょろしていた。

 全体に悪口になってしまったが、比較してのことである。鳴子のホテルはまた行きたいけれど、この那須高原のホテルは二度と来るつもりはない。

 外は数センチの積雪。思ったより積もらなかった。関東は土日に平地でも雪が降るという。名古屋も雪が予想されている。今晩は桐生で周御大と歓談する。いつも翌日は二日酔いとなる。その翌日である土曜日と次の日曜日は水上温泉に宿をとっている。その水上は大雪が降り続けているようだ。日本海側の大雪が谷川岳を越えて降っているのだろう。大丈夫だろうか。行くことが出来て降り込められたらもっといることにしようか。ところで懐は大丈夫か?

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 窓外の景色。那須岳方面は雪雲の中。悪口を書いた後で場所が特定できる写真を載せて申し訳ないが、嘘を書いたわけではない。若い人には居心地の好いところかもしれないのである。

独断と偏見

 歴代のアメリカ大統領には反知性主義であったり品性が疑われる大統領も少なからずいたらしい。大統領の権限は強大であり、それを手にした人物に問題があれば暴走するおそれがあるのだが、それでもアメリカが破綻しないで来られたのは、アメリカの統治システムにはそのような人物が大統領になることもあり得るという想定が組み込まれているからだという。

 日本のように上に立つ人間は善意の人に違いないなどという幻想は抱いていないのだ。善意の人だと勘違いするから「裏切られた!」などと騒ぐ。そして韓国の方がもっと甚だしいことは現在の韓国をみれば分かる。

 劣悪な大統領に対してもアメリカの統治システムが機能して破綻しないというのは本当だろうか。それは結果を見ていままで破綻しなかったのだからシステムが機能している、と考えているだけではないのか。

 トランプ次期大統領(もうすぐ新大統領)の記者会見を見ていて、この人の独断と偏見に寒気がした。恐ろしいのは、自分がものをよく知らない、という自覚のないらしいことだ。自分の世界観を絶対視してそこから何事も判断し、発言する。一私人であれば害も少ないが(かなり迷惑な人間であるけれど)世界一権力を持つ立場が与えられているのである。その言動の影響力は計り知れない。

 選挙中は選挙用の極端な発言をしたが、それは票集めのためで、実際に大統領になれば現実路線に変わる、としばしばいわれていた。しかしまったく変わることがないように見える。ただの七十過ぎの迷惑じいさんがたわごとを喚き散らしているだけに見える。

 こんな裸の王様は願い下げだし見たくないけれど、これから連日のようにニュースで見ることになるのだろう。アメリカのシステムは国が始まって初めて破綻するのではないか。

 今年は混乱の年になりそうだと不安を感じている人が多いことだろう。目新しいオリジナルなことをいっているわけではないけれど、いわずにいられないから書いた。

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昨晩の部屋の窓からの景色。中央下部分、かすかに見える白いセダンが私の車。うっすらと雪が乗っているのだが、明日の朝にはどうなっているだろうか。

2017年1月12日 (木)

久しぶりの雪道

 鳴子温泉界隈は積雪10センチほどで、道路も全面が冠雪している。どの車も慎重に走っているから、いつもなら30分あまりで行ける古川インターまで一時間近くかかった。本当なら岩出山の有備館の雪景色でも写真に撮りたかったが、足元がわるすぎるので次回にすることにした。

Dsc_2153 パーキングエリアの雪、枝が白くて美しい

 東北自動車道は融雪剤をまいているから路面に雪がない。しかしトラックが多いから水しぶきをまき散らすので車は汚れる。融雪剤と泥が混じったハネは乾くと汚いのだ。車検のときに車の底部には処理をしてもらっているので、融雪剤による錆は多少マシだろう。

Dsc_2154 峠道の木々は真っ白に雪化粧。ほとんど無彩色の世界

 さすがに福島県を過ぎると雪はグッと減る。小雪はちらついているが、積雪はない。快調に飛ばしすぎたので早く着きすぎる。パーキングで食事がてら思い切りゆっくりする。今晩は那須高原である。

柚月裕子「慈雨」(集英社)

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 私は涙もろい。実際に涙腺がゆるい(興奮するだけで涙が出る)し、映画やドラマを観て感激して涙ぐむこともしばしばある。そしてこの本には泣かされた。  

 本や映画やドラマの何に感じて涙ぐむのだろう。そこに人生が見えたときだ。人の人生(ちょっと変な言い方になった)には起伏がある。それらが垣間見えたとき、瞬間的にそれを追体験したような気分になる。それを感じたとき感情が激しく震える。その結果が涙なのだ。

 優れた小説、映画、ドラマには登場人物の人生がリアルに幻想される。それが実際に詳しく描かれなくても(実際にくだくだしく描かれないからこそ)、それをリアルなものとして想像できるものだ。登場人物はそのとき生きている。

 この小説の主人公は群馬県警を定年退職した警察官。過去に携わった事件の被害者に対する鎮魂のために四国八十八カ所の巡礼の旅に出る。独り旅のつもりだったが、いままで刑事の妻として常に独り待つ身だった妻が、もう待つばかりはいやだといって同行する。

 主人公には過去どうしても悔いの残る事件があった。その後味の悪さは彼をずっと苦しめ続けていて、しばしばその事件に関わりのありそうな悪夢を見る。巡礼の旅はそれを見つめ直す旅でもあった。

 そんな時、その事件と酷似した女児誘拐殺人事件が発生する。一般人になった彼だが、思わずかつての部下に電話してその事件の詳細を聞き出してしまう。

 こうして実際の捜査(群馬県)の現場と主人公の巡礼の旅が並行して語られていく。

 主人公が彼の人生と事件の数々、そして妻や娘との関係、彼の交友した人々の人生などが回想していくうちに、それぞれの人の熱い思いに胸を打たれる。

 事件の真相が彼の懸念するものであることが次第に明らかになるに連れ、彼はある決断をする。そして事件の解決と巡礼の旅の完遂の後に、彼はどのような心境に至ったのか。その気持ちを忖度して思わず涙があふれる。

 泣く私がおかしいのかどうか、試しに読んでみませんか。

面白変換

 ワープロがときどきおかしな変換をする。いろいろな理由があると想像されるのだが、それは置いておいて面白かったものをいくつか列記する。本当はもっとたくさんあるのだが、残そうとすると文章の流れが狂うので、つい正しく変換し直してしまって残らない。面倒を押して残したものの一部である。

 そのような報道が当局によって厳しく帰省されているのではないかと推察する。(その前に帰省という言葉を使ったのだろうか、もちろん正しくは規制である)

 GDPの清澄予測は対前年6.5%だという(清澄などという言葉はふだん使わない。成長はよく使う)

 中国はWTOの第三国情交を継続されたことを不当であるとしてWTOに逆提訴した。(三面記事の話はあまり取り上げないので情交もふだん使わない。条項である)

 中国の大気汚染は北部23都市で最高レベルの「赤色警報」が髪令される事態であると報道された。(髪令などという言葉はないと思う。発令である)

 17日には1キロ先の建物も貸すんでしまうほどであった。(どうしてこの場合に貸すんで、となるのか理解できない。霞んで、である)

 毎年近衛紀伝書かさず見ている。(すごい造語能力だ。この駅伝、である。さらに書かさず、と云う言い方は普通しない。欠かさず、である)

 たくさんの超された手帳には(こんな区切りはあり得ない。残された、である)

 私の考えハムから生じたわけではない(もしかしたら私の考えはハムから生じたのかもしれない。考えは無から、である)

 その約束によって関係が少しでも改善するという来たいがあるからだ。(期待!こういうのはあまりにひどいので腹が立つ)

 デビュー作の「哄う合戦屋」ガオも白かったので、(ガオって何だ?)

 寝具が身体にフィットしてとても快適でよく眠れるのだが、どういうわけ過去史がいたくなってきた。(文がつながらないだろう!なんという区切り方だ。先に過去史、を変換し前と矛盾してもそれを優先するとは馬鹿か!どういうわけか腰が、である)

 こうして眼が点となり、ときどきイライラし、腹を立てながら入力しているのである。かなり使い込んだ辞書なのだが、使い込みすぎて発狂しているのかもしれない。

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 今朝の鳴子温泉。ようやくいつもの冬景色となった。

2017年1月11日 (水)

これから積もるだろう

 雪は終日降りつづいているが、地面がまだ温かいからだろうか、ほとんど数センチより積もらない。溶けては積もり、と云う状態のようだ。

 しかし夜になれば気温が下がる。降っただけこれから積もるだろう。長居したこの鳴子温泉から明日には移動である。車は大丈夫だろうか。

 風呂に入り、ゴロゴロしているだけなのになんだか疲れてうつらうつらしている。人間はある程度緊張感が必要なようで、すべてをゆるめてしまうと歯止めがなくなるようだ。

 柔らかいだけでは形にならない。

 身体の中から溜まった澱(おり)が少しだけ流れ出たような気がする。こんなものまたすぐ溜まってしまうけれど、ときどきは吐き出さなければ溜まるだけだ。「千と千尋の神隠し」で、溜まりに溜まったものを吐き出した神様の、あの呵々大笑が思い出される。

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 大浴場の屋根につららが下がっている。天井から抜ける湯気で雪が溶けてそれが冷やされてつららになっているようだ。しばらくしてからバサッという音ともにつららが落ちた。


北沢秋「二人天下」(河出書房新社)

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 デビュー作の「哄う合戦屋」は面白かった。シリーズで三部作のはずだが、第二作までしか読んでいないと思う。作者に惹かれてこの本を今回読んだが、期待通り楽しめた。

 結城秀康という名はしばしば時代小説に登場するので知っていたが、詳しくは知らなかった。徳川家康の長男は信康という麒麟児だったが、信長の命令で母親の築山殿と一緒に殺された。

 秀康はその築山殿の侍女に家康が手をつけて生まれた息子である。築山殿という女性は恐ろしい人で、事実が知られれば殺されることが明らかだったため、懐妊が分かると隠された。

 徳川家康は生まれた男の子が自分の子供であることを疑っていたようだ。だから秀康は不遇であった。のちに秀吉に人質を出さなければならなくなったとき、二つ返事で秀康は大阪城に預けられた。そして秀吉の猶子となる。だから名前が家康の康と秀吉の秀を合わせた秀康なのである。

 この不遇の生い立ちの秀康が、殺された信康に劣らぬ文武に優れた麒麟児だった。そしてその傑出した才能こそが彼を苦しめた。自分の実力を発揮する機会がついに与えられないまま飼い殺しに終始する人生が彼を不完全燃焼させ続けたのだ。

 ここに黒田官兵衛の息子、黒田長政がいる。父が謀才の人なら長政は武の人、とみられているが、じつは長政も謀才にかけて父に劣らぬ人物だったというのがこの小説である。

 黒田如水(家督を長政に譲った後の官兵衛の名前)が天下を取ろうとはかりごとをめぐらしていた、というのはよく知られる話だが、息子の長政もワンチャンスにかけ、天下を狙ったというのがこの小説で、そのときに担ぎ出したのが結城秀康なのである。

 二人で大阪城に乗り込み、すべてに口出ししていた茶々を表舞台から退かせ、実権を掌握していく。もともとの豊臣恩顧の大名たちを味方に引き入れることにも成功し、もくろみどおりであれば、再び天下分け目の戦いが起こり、西軍の勝利が見えてきた。

 果たしてその結果は如何に。

 あの真田信繁(幸村)が活躍した大坂冬の陣、夏の陣に先立つこと数年前とされているこのような話が、実際にあったかどうかはもちろん記録にない。しかし残された史実とつじつまが合うように物語は記されている。

 黒田長政の側女である初音、結城秀康が初めて女を知った紅葉、これらの女性が魅力的。本当にこんな女性がいて知り合えたら、男は命をかけても惜しくないだろう。彼女たちも男に選ばれるのではなく、男を選んでいる。自立した女は美しい。

雪、少し積もる

Dsc_2128 もうすぐ夜明け

 朝まだ暗い中、外を見ると白くなっている。昨夕からの雪が積もったようだ。そのまま風呂に行く。露天風呂から眺めたら、積雪は3センチ程度で、思ったほどではない。屋根もあり周りは囲われているけれど、冷たい風が吹きもれてくる。身体は温かく、頭はひんやりして、いくらでも入っていられる。湯面から立ちのぼる湯気が風で吹き流れていくのが面白い。

 とりとめもないことを湯につかりながら考える。今日は客が少ないのか独り占め状態である。ほてった身体に湯上がりの冷たい水が甘露である。

 食事が美味しいのでつい食べ過ぎる。正月の深酒を反省して酒を控え目にしているので、やめておかなければと思いながら御飯のおかわりをしてしまう。御飯がとても美味しいのだ。この辺も米どころである。

 大きなホテルなので食事処がいくつもあり、毎日違うところで食事する。ホテルの方から当日案内がある。まだ二日だけだけれど、それぞれ多少個性がみられる。数組が食事しているが、中年や老年の夫婦が多い。みな静かに会話を交わしている。人生のご褒美を楽しんでいるのだろう。うらやましくないこともない。

 寝具が身体にフィットしてとても快適でよく眠れるのだが、どういうわけか腰が痛くなってきた。ふだんせんべい布団で寝ているからそれに慣れた身体がとまどっているのだろうか。

2017年1月10日 (火)

予報どおり雪

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 夕方になって雪雲が下りてきた。最初はみぞれだったけれど次第に白くなり出した。この写真は降り始めたばかりの時だけれど、昼と違って止む様子はないからいまに窓外は真っ白になるだろう。本来の真冬の鳴子温泉の景色に変わるのだ。

 宿泊しているホテルは大きい。けれど部屋は一部屋挟んでエレベーターが近く、そこから大浴場に下りられるのでとても便利でありがたい。迷子になるような風呂の遠い宿はかなわない。食事も美味しいし、量も適度である。仲居さんたちもにこやかで感じがよろしい。作りもしっかりしてほかの客のもの音なども聞こえないから静かである。

 今朝のことだが、露天風呂にひとりで入っていたら内風呂の方が馬鹿に騒がしい。若い人たちのようである。早朝からやかましいな、と思っていたらどやどやと露天風呂に移ってきた。私がいるのに人無きが如き、けたたましい馬鹿笑いをする男がいる。良くいる、ひとりで仲間に馬鹿話をしてひとりで笑う奴である。その他の連中もつまらなそうに一緒に笑っている。

 そういうおどけ者が私は苦手である。私がそういうことが苦手だからだけれど、おかしくないのに笑うのはもっと嫌いだ。そういうおどけ者はたいてい太った奴か、いかにも貧弱貧相な男のことが多い。朝の騒がしい男は太った男で、声がかん高い。上がろうとしてもその連中が出口の前に入っているからその間をすり抜けなければならない。ひとりだけ気がついてよけてくれたから良かったけれど、鈍感な若者たちである。

 今回はふだんの安い民宿と違ってそこそこ張り込んだホテルに泊まっているのである。彼等のような若者がどうして泊まれるのか。客が少ないから団体で格安なのかもしれない。たぶん成人式の流れかな、などと思う。もう少しおとなになって欲しいものである。

 ちょっと不満だったのはそれくらいで、快適にゴロゴロしている。これでも御仕事をしている人たちには心から申し訳ないことだと、思うだけは思っているのである。

天気晴朗なれど風強し

 昨晩の鳴子温泉は、雪は降らなかったけれど風が強く吹いていた。暖かい部屋の窓から外を眺めていても、その空気の冷たさを感じた。部屋の灯りを消すと空には星が見える。夜半寝床で、するどい風切り音を時々聞いた。どこで鳴っているのだろう、と思いながらいつの間にか寝入っていた。久しぶりの速やかな寝付きだった。温泉は心を安らかにしてくれる。

 朝、露天風呂に入り、朝食後、晴れた外界を眺めていたらときどき白いものが飛ぶ。風花のようだ。天気予報では夕刻以降に雪が降り出すというけれど、山の方はすでに降り始めているのかもしれない。

 寝転がって本を読んでいてふと気がつくと、その風花が本物の雪に変わりだしている。まだ日はさしているけれど家々の屋根が白くなり出した。これから降ったりやんだりしながら夜半には本格的になり、降り積もりそうだ。(このあとまた晴れてきて雪は消えてしまった。本格的な降雪はやはり夜からのようだ)

 鳴子はここより西で峠にいたる。分水嶺は近い。それを越えれば山形県である。日本海側は朝から激しい雪だと報じられている。峠の手前に尿前(しとまえ)の関があるけれど、そこも雪で白くなり出しただろうか。日本こけし館も冬期は閉鎖、芭蕉の泊まった封人の家も冬期は閉鎖される。皆雪に降り込められ、閉じこめられる。

 峠を越えた先は山形県の新庄、そこには叔母が住んでいて、学生時代は小遣いがなくなると転がり込んで腹一杯食べさせてもらったものだ。その叔母ももういない。新庄も雪の深いところだ。叔母がいつも送ってくれたくぢら餅の味が懐かしい。

長谷川慶太郎・田原総一朗「トランプ新大統領誕生で世界はこうなる」(SBクリエイティブ)

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 田原総一朗が、長谷川慶太郎はただひとりトランプ新大統領の誕生を予測した、と持ち上げている。そうだったのか、知らなかった。

 アメリカのマスコミがトランプを嫌悪して報道がゆがめられていることを承知していれば、そのことを割り引いてトランプの勝利を予想することはあり得たのかもしれない。しかしその真偽の検証はいまさらしても意味がない。すでに起こったことは起こったことで、どうしてアメリカ国民がトランプを選んだのか、そしてその後どうなるかを考えることだ。

 オバマ大統領はリベラリストとして自分の信念に基づいた行動を行ってきたけれど、世界はいまリベラリストを歓迎しない。もっとも歓迎しない国はじつはアメリカなのだろう。しかし極端な保守が続くと、それに反発してリベラリストの大統領を求めるのもアメリカだ。

 ではトランプは保守なのだろうか。従来の保守とはずいぶん様相が違う。ポプュリズムが保守であるかどうかは、この極端なポピュリストであるトランプが今後どのような政策を進めるかで評価されるだろう。

 まずトランプはオバマケアの見直しとTPPの拒否を宣言している。日本のような国民皆保険を目指したオバマケアが議会によって(保険業界や製薬会社によって)徹底的に骨抜きにされ、国費は使われるけれど当初の理想とは似ても似つかないものになっていることを日本のマスコミは報道しない。この本でも、もっとも保険の必要な医療を受けられない貧しい人々こそが置き去りにされていることを伝えている。

 オバマ大統領はもしかしたら、あまりアメリカのためにも世界のためにもならなかった大統領だったのかもしれない。わたしもそのことはずっと感じてきた。シリア問題がここまで泥沼になり、結果的にアサド大統領を存続させ、ロシアを軍事的に復活させてしまい、中国の海洋進出を黙認して暴走させてしまった。

 抑止力とはいざというときには断固として軍備を使うぞという意思表示の裏付けがなければただの張りぼてである。アメリカはそのいざというときの軍事力行使を行ってきた(たいていとんちんかんだったけれど)。だからアメリカは世界に睨みをきかせることが出来た。

 オバマは譲歩を繰り返した。北朝鮮もシリアもロシアも中国も、どうせアメリカは口先だけだ、とアメリカを舐めきることになった。ついにはフィリピンのような弱小国の大統領であるドゥテルテまでアメリカに言いたい放題である。日本人からみても呆れるほどであるから、アメリカ国民からすれば腹に据えかねていただろうと思うが、日本ではまったくそんな話は聞こえてこないし、アメリカの報道もおおむねリベラリストであるからそのオバマ大統領を評価していた。

 トランプは何をやるか分からない。何をやるか分からないアメリカこそ抑止力になるのかもしれない。北朝鮮や中国は、何をやっいも手を出さないオバマ大統領よりはトランプのほうがこわいだろう。

 世界のポピュリズムの台頭は特にEU諸国で著しい。イギリスのEU離脱もその現れだし、それは各国に波及して、ドイツやフランスもその波に呑まれるかもしれない。じつはEUは経済的に、特に金融的に危機状態にある、と長谷川慶太郎はいう。ドイツの銀行が危ないのだ(昨秋に危機を乗り切った、持ち直したという報道はあったが、当座をしのいだだけだともいう)、というのは彼の以前からの指摘するところで、それが表面化すればEUは崩壊してしまうかもしれない。

 中国の外貨保有高が急減している、と云うことを最近ようやく日本のマスコミも報道し始めた。かねてから長谷川慶太郎が指摘してきたことである。今年そのデッドラインである3兆ドル(!)を切るのは確実ともいわれている。3兆ドルもあれば大丈夫と云う見立てをして、各国は中国に金の無心をする。習近平は外交的成果を自分の手柄にするために大盤振る舞いの約束を続けてきた。

 ところが世界中で約束したその援助と称するお金がほとんど支払われていない。見かけだけ派手な約束で始まったプロジェクトがほとんど停滞したままであることが次々に明らかになっている。つまり中国にはじつは金がないらしいのだ。

 AIIBを覚えているだろうか。一時ニュースに取り上げられていたけれど、いまは全く聞くことがない。AIIBに参集した国々は中国の金を当てにしていたことは明白である。しかしその金がないとなればAIIBは実働することが出来ない。それが何より中国に金がないことの証拠である。

 人民元が対ドルで下がり続ければ結果的に物価が上がり、国民から不満が出てしまう。だから買い支えなければならない。そのために外貨を切り崩し続けているとみられる。人民元の対ドルレートをときどき見ていれば、その買い支えの跡が歴然と見て取れる。

 世界はポピュリズムの嵐の中に入りつつある。それのもっとも象徴的な存在がトランプである。彼は国民に迎合しながらビジネスマインドで政治を行うだろう。それは損得を基準に是非を考えるということである。拝金主義が世を覆うだろう。そして何をやるか分からない新大統領が間もなく誕生する。

 肝心なことを忘れていた。長谷川慶太郎は世界のポピュリズムの台頭はデフレが続くことが根底にあるという。そのことの理路はこの本を読んで欲しい。インフレは戦争によって起き、平和が続くとデフレ状態となる。それは良いことなのだが、世界はまだデフレに対する対応ができていない、ただ日本のみが先にその洗礼を受けて先行している、その強みが日本を支えている、と元気づけてくれる。相変わらずの長谷川慶太郎節はなんとなくこちらを勇気づけてくれる。

2017年1月 9日 (月)

ボーッとしている

 最近拝見するようになった瑠璃さんのブログ「ひとりごと」の昨日のお題「ぼー」を真似するわけではないが、いま鳴子温泉のホテルの部屋で外を眺めてボーッとしている。早めに到着して風呂上がりである。

 昨日は予定どおり弟と夜遅くまで酒を飲みながら話をした。父や母の生い立ちや親類の昔の話を知る限り話したのだけれど、弟はほとんど知らないようだ。すでに父方母方の祖父母、伯父&叔父、伯母&叔母たちの多くはこの世にいない。彼等の昔話を記憶しているのは私だけなのかもしれない。

 お陰で今朝はやや酒が残った状態での運転になった。慎重に休み休みで走ったけれど、本当は完全に酒が抜けてから運転すべきであろう。すまぬことであった。申し訳ない。

 約500キロ弱を走破して温泉に入り、いまボーッとしているというわけである。ここには三日滞在する。湯治気分である。周辺をうろつくことも考えたが、本でも読みながら思い切りゴロゴロすることにした。その手始めの「ボーッ」である。

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窓からの眺め。下のトタン屋根が大浴場の屋根。やぐらは湯元のようだ。広くて快適。今年は雪がない。今晩あたり降るかもしれない。

2017年1月 8日 (日)

久しぶり

 下手をすると山間部は雪という予報だったので、朝6時過ぎに名古屋を出発した。通行止めでもあったら困るし、三連休中だから渋滞するかもしれない。

 案に相違して道路はまったく混んでいない。何しろ連休中なのでトラックが少ないのが有難い。天気もわるいから皆出かけるのを控えてもいるようだ。正月の移動疲れもあるだろう。

 曇り空なのに富士山がくっきりと見える。遭難が相次いでいるようだが、あの雪と風の中を登るのは危険だろうと思う。足柄のサービスエリアで休憩がてら写真を撮ろうとしたら、にわかに雲が出て富士山は顔を隠してしまった。

 ゆっくり走ったのに千葉の弟の家には昼前に到着。昼飯をご馳走になり、弟夫婦と歓談。しばらくしたら早起きしたので眠くなって気がついたらこたつの中で寝ていた、

 これから弟と久しぶりに晩の酒盛りである。私が蘊蓄を傾けてしゃべり倒すので、弟夫婦はただ聞いているだけ。それでも二人は人間ができているからニコニコしている。ありがたいことである。

 外は氷雨が降っている。マンションと違って一軒家は冷える。明日の朝は、起きたらそのまま東北方面に出発するつもりだ。首都高さえ通過できれば東北で雪に降られるのは覚悟している。

 次の更新は明日の晩になる予定。鳴子温泉からである。

約束

 約束は守らなければならないと子供のときに教えられた。約束を守ることが信用を生み、信用が社会の秩序を維持する。

 やむを得ざる事情が生じて約束を守れないこともある。そのときには約束した相手に事情を説明して了解してもらい、約束を解消する。相手の了承なしに約束を破ることは信頼を失うことだからだ。

 こんなこと、誰でも理屈で分かっているし身に沁みていて、生理的に約束を破ることは不快を伴う。ところがそうではない人々がいる。約束を破る正当な事情があれは相手の了解なしに約束を一方的に破棄することは当然である、と云う人々だ。そしてその正当な事情というのは自分の価値観によるものである。

 そうなるとそもそもそういう人々とは約束はできないのだが、世の中はそういう人とも約束せざるを得ないことがある。その約束によって関係が少しでも改善するという期待があるからだ。仲良くするほうが互いに利益が得られるのが社会というものであって、互いに角突き合わせていては生きにくい。

 しかし好き嫌いというものもあって、どうしても虫が好かないとなると仲良くすることが却って不快を伴う。どうもそんな間柄が日本と韓国との関係であるようだ。もともと近い隣国との関係とはそういうものであって、そんな例は山ほどあり、日本と韓国が特別なわけではない。

 そういうときは敬して遠ざける。つまり礼儀をもって互いに距離を置くということである。礼儀とは形である。心のありなしよりも形で対面することで冷静さを保つことができる。世界の隣国は長い諍いの果てにそのような知恵を身につけた。

 いまは韓国との関係は敬して遠ざけるべきときのようである。

 約束を破るといえば、日本の敗戦直前、日ソ不可侵条約の失効を待たずにロシア(当時ソビエト)は満州地方に進撃し日本軍に襲いかかり、満州に入植していた日本人たちを襲い、略奪強姦を行った。日本軍の抵抗による被害を想定し、先遣されたのは犯罪者たちが多かったともいう。

 多くの日本軍人たちは捕虜となり、シベリアに送られ、強制労働をさせられた。中にはシベリアよりはるかに西まで連れて行かれた者もいる。私の叔父はカスピ海の近くまでいって帰国したのは昭和25年であった。捕虜に対する明らかな国際法違反である。

 そのあげくが北方領土の一方的な占有である。彼等は北方領土を戦利品と公言していることは承知の通り。

 ロシアとはそういう国であると、祖父や父から繰り返し聞かされて育ったから、約束を破る、と云うとそのことが反射的に頭に浮かぶ。

 TPPは各国が交渉で合意したけれど、それぞれの国での、特にアメリカでの議会承認を受けていない。トランプ次期大統領は就任したら即日破棄すると公言している。いやしくもこれも国と国との約束である。破棄には破棄するだけの説明が必要だが、彼にとっては破棄することがアメリカ国民との約束だから、と云うのが理由らしく、他の国に対して説明する気などないようだ。

 しかしカナダやメキシコと結んでいるFTAという二国間の約束はすでに施行されている約束である。その約束を破棄するなら相手の了解を取り付けなければならない。その交渉もなしに一方的にFTAの取り決めを無視するようなことを公言してはばからないトランプという人物は、約束を破ることが平気な人物のようである。彼はアメリカ国民に数々の約束をした。その約束はその前に約束されていたことを破らないとできないことが多い。普通ならできない約束である。

 ところが彼は自分の約束を守ることを優先するのが当然だと考えているようである。約束を破らなければ守れない約束をして平然としている人物と、どうして新たな約束ができるのだろうか。アメリカ国民に公言した約束も破られるに違いない。

2017年1月 7日 (土)

壁は牢獄か

 「ニューヨーク1997」(1981年・アメリカ)と云う映画がある。ジョン・カーペンター監督、主演カート・ラッセル、私の好きな映画である。この映画では犯罪者の激増に業を煮やしたアメリカ政府が、マンハッタン島を収容所にして島の回りに高い壁をめぐらせている。そこに大統領専用機が墜落、それを救出に向かうのが脱走の名人スネーク・プリスキン(カート・ラッセル)というお話である。

 いまメキシコではガソリン価格の高騰をきっかけに物価が上がり、それに対する抗議デモが頻発、そしてそれがエスカレートして暴動が発生し、商店の略奪が横行していると報じられていた。

 メキシコはアメリカと結んだFTAにより、豊かになったのかと思っていた。世界中の大手企業が安価な人件費と、アメリカへの関税のないことからメキシコに工場を建てている。たぶんメキシコ全体は経済的に豊かになったのだろう。しかしその富はご多分にもれず偏在している。そうなれば豊かになったひとの隣に住む豊かにならない人々は相対的に貧困感を抱く。同じ収入なら物価が上がったことで生活は苦しくなる。国が豊かになったことで、却って自分が貧しくなるのは不当であると考えるのは当然の成り行きである。

 いまトランプはメキシコとのFTAを解消し、壁を築こうとしている。他の国に対しても同様のことを繰り返すだろう。それが彼の公約である。そうしてアメリカの回りに高い壁をめぐらせようとしている。壁の中ではアメリカファーストである。アメリカしかないからアメリカが一番である、最強で最悪だが。

 そのめぐらせた壁は「ニューヨーク1997」のマンハッタンの壁に似るであろう。その壁はアメリカを守るためのものか、アメリカから世界を守るためか。

 トランプは壁の中で吠え続けるであろう。聞こえないけど。

おかしな論理

 トランプ次期大統領の言動におかしなものが現れている。就任前で自粛するかと思われていたのにこの異常さは予想以上だ。 

 情報トップ(CIAやFBI、NSAなど)とトランプ氏の会合で、ロシアが大統領選挙に介入したとの結論が出されたことが説明された。これに対してトランプ氏は「選挙結果には影響がなかった」とコメントした。

 問題は選挙に他国が介入したことであって、その報告に対して「結果に影響がなかった」と述べることが、介入を容認するが如き伝わり方になることをこのトランプという人物は考慮しないのか。

 自分に都合が良ければ不正は黙認すると受け取られかねないこの言葉は正義の国、アメリカの次期指導者の言葉として不適当である。法を自分の都合で解釈すると公言したのとおなじではないか。

 カナダやメキシコと結んだFTAを無視した恫喝とも見える方法でクーラーメーカーや自動車会社の海外進出計画に介入して点数稼ぎをするが如きは、法律は自分であると豪語する独裁者そのものではないか。あろうことか他国の自動車メーカーであるトヨタに対してにまで同じ方法で恫喝して騒ぎになっている。

  しかしトヨタのメキシコの生産能力とメキシコからアメリカへの輸出台数はいまのところわずかである。しかも今回のメキシコ工場はカナダ工場の能力不足分をメキシコに増設するということらしい。アメリカ工場からの移転ではないのであって、非難されるいわれはない。

 ではそれなのになぜ名指しされたのか。自分のところの火の粉を払うために、トヨタ憎しのアメリカの自動車メーカーが焚きつけたと想像するのは考えすぎだろうか。

 トランプは心配されていたほど異常な男ではないらしいと楽観視した論調があったが、その見立ては早すぎたのではないか。このところの無根拠で影響を考慮しない軽率な言動は極めて危険な気がするではないか。大丈夫か。

違法コピーとノーベル賞

 日本で人気の日帰り温泉の全くのコピーのような施設が中国・上海で開業して、それが契約で了解されているとかいないとかいうことが話題になっていた。いまに本当のことが明らかになるだろう。

 ところで中国では海賊版が横行していることはずいぶん前から問題になっている。映画も封切りになった翌日には画面からコピーしたと思われるビデオが店頭に並ぶ。音楽やアニメも同様である。中国では正規のソフトが流通することはほとんど期待できない。

 安価に手に入るものを、わざわざ正規の値段で買おうとする者などいないのは当然である。

 このことがオリジナルを尊重しなくても良いという社会的風潮を生み出し、定着させてしまった。良いものがあったら盗んででも真似をして儲ける、それが賢いことだ、という意識が国民の中に拭いがたく染みついてしまった。これは違法コピーを放置して対処しなかった国家の責任である。

 中国にノーベル賞学者がほとんど出ないことを中国人はどう思っているのだろう。あれだけの人口を抱えているのである。頭の良い人間は山ほどいるだろう。それなのにノーベル賞がほとんどないのは、何かノーベル賞に細工があるのではないか、などと考えているかもしれない。日本が最近受賞者を続けて出しているのも、たぶん裏金でも使っていると思っているかもしれない。

 ノーベル賞の対象はオリジナルなものに限られる。当たり前である。前人がなしえなかったことをブレイクスルーして社会に貢献した人の中から選ばれて与えられる。オリジナルに敬意を払わず、真似して楽することが賢いと思う国からはノーベル賞は出にくいのは当然と言えば当然なのである。

 オリジナルが評価されない国からはオリジナルを生み出す人は生まれない。しかしそのことがこれからの中国にとって致命的であることに、中国自身は気がついていないようだ。

2017年1月 6日 (金)

そのとき男たちは何をしていたのか

 韓国のあの慰安婦像はすでに韓国国内に数十カ所設置されているという。いまにどの小さな町や村に行っても見ることができるようになるに違いない。それほど日本に対する恨みは骨髄に徹している、と誰に訴えるために慰安婦像を置いているのだろう。

 そんなにあちこちに慰安婦像を置いて恨みを燃えあがらせ続けていれば、日本人を見れば罵声を浴びせるようになるだろう。恨みのない人も罵声を浴びせて見せないと肩身の狭い思いをするだろう。そうなれば日本人は韓国に行かなくなるし、進出している企業も撤収するだろう。それこそは韓国の望むところかもしれない。

 そのときには慰安婦像を撤去するのだろうか。

 では慰安婦像はあたかも魔除けのように日本人を韓国に入らせないためのものか。

 ところでいたいけな少女まで強制的に連れて行ったと言うけれど、そのときに韓国の親兄弟たちや回りの男たちは何をしていたのだろうか。きっとぼんやり見ていたのだろう。

 当時朝鮮は日本に併合されていたから、敗戦の色が濃くなるにしたがって朝鮮の壮丁たちは日本軍に徴兵されていった。彼等は武器を持っている。日ごろ恨み骨髄であればその武器を日本軍に向けるだろう。しかしそんな話はどこにも残されていない。むしろ勇敢に戦ったという話のほうが残されている。

 韓国の男たち全員がふぬけだったのか、そもそも従軍慰安婦は皆無とは言わぬまでも、それほどそこら中で多数あった話ではなかったかどちらかであろう。

 もともと日本でも少年少女が兵器や軍服などをつくる手伝いをさせるために徴用された。それが韓国も同様であったから多数の少年少女が徴用された。それがすべて従軍慰安婦だったかのように誤報したのはA日新聞である。それを指摘されてもそれを認めず、いつの間にか20万人の従軍慰安婦があたかも歴史的事実であったかのように一人歩きしだした。

 韓国の男たちは慰安婦像を見て恥ずかしいと思わないのか。当時の男たちとは世代が交代しているのは確かだから、彼等は親をそして先代たちを貶めている。それに気づかずに何をやっているのだ。慰安婦像にかけた呪いは日本ではなく、自分たちに降りかかるかもしれないのに。

対抗処置

 釜山の日本領事館前に慰安婦像が設置されたことを遺憾であるとして、日本政府は韓国大使と釜山の総領事を日本に帰国させた。さらに現在協議中の日韓スワップ再開交渉も中断することとした。その他経済的な打ち合わせも休止、釜山の領事館員の韓国の行事への参加を見合わせるよう指示したという。

 このことをどう捉えるか、人それぞれであろう。しかし国と国が互いに合意したことを、たかだか一年で反故にするというのはおかしい。その当たり前の感覚を持たないと、ずるずるとなし崩しに現状肯定を続けてきりがない。逆に日本国内で韓国に対してさらに強い反感を醸成することになりかねない。

 韓国は、日本は何をしても何を言っても大丈夫、と云う思い込みがあるらしいことにいらだつ日本人は多いだろう。けじめとしてきちんと異議を申し立てるのは当然であろう。むしろ遅きに失しているくらいだ。

 今回の対抗措置で私が喝采をおくりたいのは、スワップ協定再開協議の中断である。そもそも韓国の懇請で始めた通貨スワップで、韓国に大きな利があったのは事実であり、日本にとってはなにもなかった。そして日本は何かを利するためという意識もなく、ただ韓国との関係がいささかでも改善すれば、と云うだけを期待した。

 それを韓国が一方的に協定の継続を破棄すると通告してきたのだ。日本はそれに反対する理由がないから、そうですか、とそれを受け入れた。そのとき、韓国ではあたかも日本が頼み込んできた通貨スワップを、日本に対する制裁として破棄するが如き論調で伝えていた。日本人はほとんどそのことを知らないが、韓国ではそれを快哉を持って評価した。

 恩を仇で返すとはこのことである。そして韓国は巨額の通貨スワップを中国と取り結んだ。これで韓国経済は安心、というわけである。ところがその巨額の通貨スワップにより、韓国ウオンは人民元の紐付きのような形になってしまった。人民元が対ドルで下がり続ければウオンもそれに自動的に引きずられる。

 輸出が好調ならウオン安は追い風だが、いま韓国輸出は低迷している。見かけ上輸入も減少しているから差し引きでは今のところ黒字で外貨は入ってくる。しかしその外貨は人民元安によって目減りしてしまう。ウオンの価値を維持しようとすれば手持ちのドルを売らなければならないからだ。

 中国にはまだ外貨がふんだんにある(実際にあるのかどうか誰も知らないが)ということで今のところ危機にはなっていないが、外貨準備高があまりにも減ってしまえば一気に中国経済は困難におちいる。

 ところが韓国の外貨はもともとそれほど多くない。その外貨を減らせば世界中の巨大投資家から経済的な攻撃を受けて韓国経済は崩壊してしまう。あの1990年代のIMF危機の再来である。そのときの塗炭の苦しみを韓国の人々は忘れていないはずだ。

 そしてそのような危機になっても支えとなるのが通貨スワップである。いわば韓国の裏判を日本が押すようなものである。それによって韓国はIMF危機を脱し、栄華の春を謳歌し、停滞する日本をあざ笑った。そのあげくが中国へのすり寄りであり、日本との通貨スワップ破棄である。

 いま再び韓国は経済的に危険な状況に向かいつつある。だからなりふり構わず日本と通貨スワップの再開を持ちかけた。普通ならどの面さげて、と恥ずかしげに申し入れるところだが、そんなこと日本に対して何とも思わないのが韓国である。あろうことか、日本から通貨スワップの再開を持ちかけたかのような言い訳を国内でしていたようだ。

 その通貨スワップ再開のための交渉を中断する、と云う今回の韓国に対する対抗措置は、だから韓国にとって痛恨のことなのであるが、過去のことを知らされていない韓国国民は何とも思わないであろう。

 私思うにたぶん慰安婦問題の合意と通貨スワップ再開はバーターだったのだと思う。だから世論の反対を無視して、韓国は慰安婦問題について日本と合意したのであろう。そうせざるを得ない切羽詰まったところにいることを承知していたからだ。あの反日おばさんである朴槿恵大統領が慰安婦合意に沈黙したのはそれが理由であろう。

 つまり今回日本側からの通貨スワップ再開交渉中断の対抗措置は当然のことなのだろう。さて、このことで韓国がどのような反応を示すか。知らぬが仏の韓国国民はますますエスカレートして、反日を繰り広げ、自らの首を絞めることになるのではないか。

 事実を国民に告げず、面子にこだわってきたことのツケがいま韓国に回りつつある。A日新聞はこのことをどう報道するのだろうか。

百田尚樹・石平「『カエルの楽園』が地獄と化す日」(飛鳥新社)

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 副題は「中国は本気だ!」。

 中国の海洋侵略に対する世界の対応は常に現状の追認に終始してきた。そのことが何をもたらすのか、それを寓意的に書いたものが百田尚樹の『カエルの楽園』であるらしい。らしい、というのは未読だから。その現状追認型の対応が「茹でガエル」の様相であるということには同感である。

 その『カエルの楽園』を読んで、いたく共感し、感激したのが石平で、この対談の中では尖閣に対して中国がどのようなもくろみをもっているのか、今後どのような行動をするか、ついにはどうなるのか、ということを二人がシミュレーションして見せたのがこの本である。

 日本が歴史に遅れて列強に互すようになり、その列強の過去のふるまいを真似して見せたのが中国大陸への侵攻だと見なすこともできる。ヨーロッパは中東やアフリカ、そしてアジアで先に利益を得たものと遅れたものとのせめぎ合いを続け、その果てに大小の戦争を繰り返した。その争いにくたびれ始めていたときであったから、日本のふるまいには眉をひそめた。そのことに鈍感だったのが日本だった。

 いま、その中国が日本のふるまいをなぞろうとしている。二重に遅れているのだ。だから中国の今後のふるまいは歴史を振り返ることによって予測することができるかもしれない。

 その予測のもっとも最悪なものを百田尚樹と石平は語る。

 この本に書かれているシナリオはまさかここまでは、と云うような最悪なものであるが、世の中にはそのまさかが起こりうるのも事実である。それに対してどうすべきか、と云う論を対談では語られているけれど、私はそのことでなにかをプロパガンダするつもりはない。

 それよりもこの本で語られている中国の行為の追認の有り様と、「カエルの楽園」で描かれているという侵略者に対する弱者側の自己釈明の有り様である。まさに平和を唱えていれば敵は攻めてこないと盲信するいまの日本のマスコミや平和主義者の姿そのものであるからだ。

 戦いは敵の侵攻に抵抗するから起こるので、抵抗しなければ戦いにはならない。だから平和であるという論理は正しい。なまじ防衛などしようとして武器を持つから攻められるのだ、ということになるといささか首をかしげざるを得ない。侵攻する側が同じ考え方である可能性はまずないからだ。同じならそもそも侵攻してこない。

 無抵抗で相手のなすことに理屈をつけて受け入れていれば、その結果どんな幸せな未来があるのか、そのことについて考えることだけは必要だろう。そのときにいまの中国の世界観を受け入れる覚悟があるかどうかであろう(すでにA日新聞は準備万端だろう)。

 トランプ新大統領の出現によってアジアのパワーバランスが大きく変わるかもしれない。そのとき中国がどうふるまうかを予測するには、中国の国内情勢をある程度知らなければならない。だから中国のニュースについて今年はいままでに増して注視していきたい。そこから自分なりに考えを述べることにしたいと思っている。

 母にはよく「下手な考え、休むに似たり」と言われたけれど。

2017年1月 5日 (木)

仁木英之「僕僕先生 神仙の告白」(新潮社)

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 「僕僕先生」シリーズの第十弾、「旅路の果てに」という副題がついており、帯にはラスト直前とあるから、次巻が最終巻となりそうである。

 いままでは、西遊記で言えば物語の中盤の個別の地区での妖怪や異界との戦いであったが、前回あたりから神仙界と僕僕や王弁との、存在をかけた戦いに転じつつある。西遊記の序盤の孫悟空の戦いの様相を呈し始めている。さらに仏界までその戦いに関わり始める。だからすでに佛によって悟りを開いたはずの孫悟空や猪八戒、沙悟浄もこの物語に関わってくるのだ。それはこの世界、つまり宇宙の存亡がかかる戦いになりかねない。

 そもそも外観は美少女の姿をした仙人である僕僕が過去に実際に関わった宇宙の存亡をかけた戦いの再現のように神仙界の神々や仙人には見えるのだ。だから僕僕を亡き者にしてこの宇宙を存続させるのだ、と云う一派と、この世界を一度終わらせて作り直そうという一派に別れての戦いにもなっていく。

 その中で、無敵の僕僕はなぜか無力となり、ただの人間だったはずの王弁が宇宙存続の鍵となるかもしれないという、いままでからでは信じられないような展開がやってくる。

 こうなると光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」の描く宇宙ではないか。宇宙にも興亡がある。無限のときの中で生じ、そして滅する。この銀河宇宙もたかだか130数億年前に突然生じたのだ。突然消滅することもあるだろう。

 その因果は何に起因するのか。そんな(おおぼら)話を楽しませてもらっている。僕僕が、そして王弁が真に目覚めたとき、世界はどうなるのだろうか。次巻が待ち遠しいではないか。

思い切って出かける

 十二月は蟹を食べに行っただけで、あとは家でくすぶっていた。出かけずに家でゴロゴロしていることに慣れると、出かける意欲が減退してしまう。無理をしても日常を離れることは精神の健康のために必要だと私は思っている。

 そういうわけで日曜から出かけることにした。千葉の弟のところ(元の実家)、群馬の友人のところなどを訪ねる。そのついでというか、そちらがメインだけれど、温泉をいくつか廻る。昨晩すべて連絡し、予約も入れた。留守は娘のどん姫に頼んだ。

 いつもの鳴子温泉にも行くので雪に出会えるだろう。せっかくスタッドレスをはいているのだ。走らなければ可哀想だ。さあ温泉で読むための本の選定でもしようか。

2017年1月 4日 (水)

ビジネスモデル

 内田樹老師のブログの2009年の分をプリントアウトして、眠る前や早朝の寝床で読んでいる。興味のない部分は読み飛ばしているが、毎月A4で四十ページ前後あるので読み出がある。

 この頃の記述で、教育をビジネスモデルで評価するな、ということが繰り返し語られている。まことに同感である。彼は当時現役の神戸女学院の教授であったから、教育のプロである。彼の意見は現場の実感から語られていて、同じことの繰り返しのようだが、次第にその意見は深化している。

 何のために学ぶのか?としばしば問われる。その学問は世の中のどんな役に立つのか?という質問が当たり前のように問われ、それに答えることが教育者に要求される。

 突き詰めていえば、教育が金になるかならないかで評価されているのである。その結果、文学部系の学部を閉鎖していく大学が多いと聞く。実際に高等教育で学んだことが実際の人生でどれだけ役に立ったのかと問われれば、ほとんど必要なかった、と云う人が多いだろう。

 だからまだ学ぶことの初心者である子供までが賢しらに、なんで勉強しなければならないの?などとおとなを見上げて問う。それに答えられないおとながほとんどであろう。

 老師は、おとなになるために学ぶのである、と云う。社会はおとなが一定数供給され続けなければ崩壊する。子供だけの社会は運営が困難である。そして損得でしか世の中を見ることができないのは、見かけはおとなに見えても、「何で勉強しなければならないの?」と聞く子供そのものである。   

 学問することが労働と同様なものであると考え、苦役の対価を要求する思考は、学びとは相容れないものである。

 そのことを私は大学に入って感じたから、目的のある学問ではない学びを楽しむことができた。そしていまも楽しんでいる。目的のある学問は就職のため、そして歴史や古典、心理学などは楽しみとしての学びだった。それがいまの私を形成している。

 学ぶことは本来楽しいことなのである。それを金銭との等価交換で捉えるというビジネスモデルでは学問は衰退するだろう。いま少子化によって大学は人員の確保に苦労している。そのときに、大学の存続のためにビジネスモデルの思考で若者を呼び込もうとしてことごとく失敗しているように見える、と老師は喝破する。

 いまトランプは政治をビジネスモデルで捉えるという手法で支持を得た。政治もビジネスモデルで、つまり損得だけで考えれば、自分だけ良ければいい、と云う考え方になるのは当然である。

 それはおとなの出る幕ではない、子供だけの社会を目指すものになりそうである。そんな社会は社会とはいえるものではなくなるに違いない。それがいったいアメリカに何を招来するのか、他人事ではいられないのだが、それを見ることになりそうである。

 すでに中国はそのような世界になりつつあるように見え、世界が、そして日本もそのような世界に向かっているとしたら、その先は恐ろしい。  

 金がないことが不幸で、金があることが幸福だ、という考え方に私は与しない。

140920_267 幸せな人

2017年1月 3日 (火)

明けましておめでとうございます

 遅ればせですが、新年のご挨拶を申し上げます。

 三が日は朝から酒を飲み続け、昨日には用意していた酒をすべて飲み干し、酩酊状態で追加の酒を買いに行くことになりました。息子は夕方から大学時代の友人達と飲むために出かけていきました。さすがに若いだけあってタフです。

 私は娘のどん姫とだらだらと飲み続け。とてもブログを更新できる状態ではありませんでした。

 いまようやくアルコールが躰から抜け始めた気がします。息子は今晩も別の友人達との飲み会だそうで、二人でぼんやり箱根駅伝を眺めておりました。

 健康で酩酊できることのよろこびとありがたさを噛みしめています。今年はなるべく出かける機会を増やしたいと考えております。その報告などを拙ブログに綴りますので、今年もよろしくお願いします。

Dsc_1912 おにぎやかしに

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