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2017年3月

2017年3月31日 (金)

無料とフェイク(2)

 新聞の購読数が減少しているのは、ネットニュースなどに奪われているからだ、という解釈が為される。多分それは事実であろう。しかしそれだけだろうか。冒頭に言ったようにメディアが劣化しているように感じる購読者が離れているからだともいえるのではないか。新聞代に見合う内容が新聞紙面から得られていないという不満が知らず知らずに購読者減少をもたらしているのではないか。

 そもそもネットニュースと言ったって、たいていが主要メディアが取材して提供してくれたものを適当に切り貼りしたものに過ぎない。ネット自身が取材などしているわけではない。少なくとも私のニュースソースであるヤフーやニフティのニュースはそのようである。

 ただ朝日新聞デジタルのみは出だしが少しだけ読めてあとは有料である。朝日新聞の記事に信頼性があれは対価として支払っても良いが、朝日新聞に対する私の信頼は損なわれているので有料記事に金を払いたいと思うことが出来ない。見出しだけ見ていても、首をかしげることがあり、だからこそ本文全部を読みたい気がするときもあるのだが。

 話が長くなった上に横道に逸れかかったけれど、ニュースには取材する主体が絶対に必要で、そのためにはたくさんの人員と努力が必要であり、当然それに膨大な経費がかかる。そしてその人員もそれなりの人格見識のある人材が必要である。つまり報道することに価値を感じ、その場に身を投ずることに生きがいを感じるような人材である。

 そういう有能な人を集めるにはそれなりの報酬も必要であろう。無料で広告収入だけで経営することには本来は無理がある。

 今ネットを中心に情報はデジタル化されて収集され、拡散されているけれど、もとの情報は生身の人間が現地で取材したものでなければ信頼性に欠けることは昔と変わりはない。事件は人間に起こるもの、人間に関わるものだからである。そしてそのためには経費は絶対に必要なのである。

 ここに本当のニュースと嘘ニュース、つまりフェイクニュースの厳然たる違いがある。机上で、流通するニュースを解釈して想像で意味づけして語るフェイクニュースは、本当のニュースよりしばしば面白い。ネットにはそれらが入り乱れて、フェイクをもとにさらに変形していくから、何が本当か分からない世界が出現しつつある。面白いニュースを追い求めるとそういうところにはまり込む。

 無料のニュースには対価としての責任がない。何しろ無料なのだからそれを信じる側の自己責任である。しかし有料のニュースには責任がある。信頼のもとに対価が払われたのであるから。

 その有料メディアが正義の名のもとにフェイクニュースを流せば責任を問われるのが当然で、私が朝日新聞をつい批判するのはそれが理由である。しかも朝日新聞にはその自覚があるのかどうかよく分からない。
(申し訳ありません。まだ続きます)

無料とフェイク(1)

 メディアが劣化していると巷間言われて久しい。私も尻馬に乗って受け売りの言葉をブログに書き連ねたりしている。事実そうとしか思えないことがそのニュースの伝え方の中に読み取れるから、間違ったことを言っているとは思わない。

 新聞の購読部数がずっと減少して止まらないと聞く。私もあるきっかけで新聞の購読をやめて数年になる。必要なときはコンビニで買うだけで不都合はない。テレビでリアルタイムで見るのはほとんどニュースばかりである。それにネットのニュースをときどきチェックしていれば、いちおう新聞を読んでいた時代とあまり違いはない気でいる。

 新聞を読まなくなって残念なのは、週刊誌のCMが読めないことである。週刊誌はあの見出しだけでほとんど読んだ気になれる。芸能人のゴシップもたいていそれで十分である。それと書評欄や新刊の情報が新聞から得られないことだ。新刊の謳い文句にはそれぞれ工夫があって、それが本を買う動機になるけれど、今は書店の店頭で本にじかに接して直感で選ぶしかなくなっている。まあたいていそれで十分であるけれど、読む値打ちがあるのに見逃す本が昔より多いかも知れない。本の入れ替わり方が激しすぎるからだ。

 新聞は購読料を支払って読むものである。ただ、購読料だけでは新聞社は経営を維持できないから、広告をふんだんに入れる。今は広告料の方が購読料より多いともいうが本当だろうか。それなら本文に対して広告がとても多いのは仕方がない。

 テレビの民放にいたっては視聴は無料である。全てCMの収入でまかなっているのだから、CMの割合が増えるのは当然なのは理屈では分かる。しかし新聞なら見たくないものは飛ばせるけれど、テレビでは出来ない。その出来なかったことが今は録画しておくことで飛ばすことができるようになったのは有難い。

 そのかわりに民放のBS番組では番組全部がCMというのを恥ずかしげもなく流している。それでも見る人がいるのが不思議だ。見る人がいないのに広告を出す者はないから、それに見合うだけの人が見ているのであろう。

 人は金を支払ったらその対価を求める。対価が得られると思うから支払うので、それが支払いに相応することを期待する。期待とは信頼である。普通の人は信頼の出来ないものには支払わない。
(長くなったのでここで打ち切って次回に続きます)

平岩弓枝「新・御宿かわせみ 青い服の女」(文藝春秋)

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 待望していた「御宿かわせみ」の新刊が出た。江戸末期が舞台のシリーズが一度幕を閉じて、明治初期が舞台の「新・御宿かわせみ」として新シリーズになったが、それももう第7巻である(その前のシリーズは何と34巻)。新シリーズで世代交代しているのだけれど、前シリーズを通じての主人公である「かわせみ」のおるいさんはもちろん、嘉助やお吉さんは健在である。

 東吾の忘れ形見である麻太郎が今回も活躍するが、それは彼の人を見る目が表面的ではなく、深く優しいから出来ることであることが、それがこの物語をあたたかいものにしている。それは父親である神林東吾という人物の性格を受け継いだものであり、もちろんおるいさんの観音菩薩のような慈愛に満ちたやさしさの影響を受けたものでもある。

 それにしても行方不明のままの東吾はどうしたのか。もちろんほぼもうこの世にいないことは分かりながら、一縷の望みを抱かせたまま物語は進行している。奇跡のようにひょっこり、というシーンがないものかと夢見るのはこのシリーズを愛読している人がひそかに思っていることであるはずだ。

 「かわせみ」は同心だったおるいさんの父親が引退してから始めた旅宿である。そこの客に絡んだものや、麻太郎が勤める寄留地のバーンズ医院の患者に絡んだ事件が語られていく。人がたくさん関わればいろいろな事件にも関わろうというもので、明治の初めという激動の時代には、人はさまざまな浮き沈みを経験せざるを得ない。

 それぞれの人生が事件のかたちで顕在化してかわせみに関係する人の前に姿を見せる。今回は最後にかわせみに関わるふたりの人物の意外な行動で幕を閉じるが、それは唐突でしかも尻切れトンボである。それには大きな意味があり、それはこういうわけであった、という推理が私にはあるけれど、それはお楽しみに取っておくことにする。

2017年3月30日 (木)

悲鳴

 少々眼を酷使しすぎたのか、眼に異常が生じている。おキヨさんのように治療を要するような(おキヨさんのブログがいつまでも再開されず、まことに心配である)事態にならないために、ちょっと自重しようと思う。

 眼の異常は眼の悲鳴だと思う。どんな不具合かはうまく説明できない。ちょっとしたことでも眼の異常は気持ちの悪いものである。しばらくテレビ画面を見たりパソコンに向かう時間を半減させるつもりだ。

 異常が治まらなければ、来週月曜日が定期検診日なので、眼科の検診も受けてみることにする。さいわいかかりつけの病院の眼科は定評があるので安心だ。酷使によるものか、糖尿病によるものか、ストレスによるものか、どうなのであろうか。

 昼頃から異常を感じてしばらく眼を休めていたら、夕方になってだいぶ良くなってはいるのだが・・・。

毒蛇

ジョーク


 アメリカ人と日本人と中国人が毒蛇のいる穴に落ちた。日本人は恐怖でショック死した。アメリカ人は戦ったが咬まれて死んだ。中国人も咬まれたが・・・死んだのは毒蛇だった。
 よくできたジョークだ。中国人にはすでに体内に毒蛇を殺すほど毒がたまっているというわけだが、でも自然に生きる動物は危険を察知する能力がある。中国人には近づかないだろう。

映画「アンドロイドコップ」2014年アメリカ映画

 監督・マーク・アトキンス、出演・マイケル・ジェイ・ホワイト、デヴィット・S・ダットン他。

 題名通り、「ロボコップ」のパクリである。しかしロボコップのようなロボットになってしまった主人公の内面の悩みが描かれているわけではない。それに治外法権的に隔離されたゾーンがある近未来世界や、市長の娘を救出に向かうところなどは、「ニューヨーク1997」、自分がアンドロイドに気がついてないという設定などは「ブレードランナー」が思い出される。つまりいくつかの映画のストーリーをところどころピックアップして組み合わせている。詳しい人ならもっと具体的にいくつもの映画の名を挙げるかも知れない。

 こういうカルト映画にしては台詞も全体的にはそれほどひどくないし、アクションも丁寧である。真の悪人は権力者側であった、などというのはこういう話のお決まりであるが、あまり賢くないのもお決まり通り。ただ、アンドロイドなのに撃つ弾が敵にほとんど当たらないのはお笑いである。普通の人間並みならアンドロイドが警官になる必要などないのだから。

 などと突っ込みを入れるところが満載なのがこういう映画の楽しみ方である。時間の無駄、というほどひどくなかったのは幸いであった。

2017年3月29日 (水)

映画「ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります」2014年アメリカ

 監督・リチャード・ロングレイン、出演・モーガン・フリーマン、ダイアン・キートン他。

 原題は「5 FLIGHITS UP」であり、名作映画「眺めのいい部屋」原題「A ROOM WITH A VIEW」とは全く違うので、「眺めのいい部屋」を意識して作られてはいないと思う。もちろん邦題は全面的に意識して付けられているだろう。

 アレックス(モーガン・フリーマン)とルース(ダイアン・キートン)はニューヨークのブルックリンのアパートの最上階の五階に住む初老の夫婦。五階までの上り下りが次第に苦痛になってきている。

 画家であり、一時は人気のあったアレックスも自己流を貫く姿勢のために時代に取り残されつつある。ふたりが結婚した頃は黒人と白人が結婚することなど珍しいことで、州の多くは法律でそれを禁止さえしていた。しかし今は誰もそれを特別と思わない。そんなふたりだから夫婦の絆はとても固い。意見の衝突は絶えないけれど、互いを尊重する心がそれらを乗り越えさせてくれる。

 ルースの姪が不動産屋で、彼女はこのアパートを売り、別の場所への移住を提案する。エレベーターのないこのアパートが苦痛になっているアレックスを心配したルーシーはその話に乗る。当初乗り気ではなかったアレックスもそれに同意する。

 購入希望者に部屋を見せる内覧の前日、近くでテロ騒動が起こり、交通渋滞などで周辺は騒然とする。やってくる客たちはそれぞれ好き放題を言い、不動産屋の姪の応対の口舌の言葉にも喧しさを感じる。

 やがて次々にオファーが入るが、当初の希望価格よりはだいぶ低い。ここから駆け引きが始まる。せっかちなルーシーは適当なところで手をうとうとするが、アレックスは待てという。そこに姪のけたたましい指示が飛んだりして落ち着かない。

 次の住処は郊外にでも、と思っていたが、やはりニューヨークが離れられないふたりは、エレベーターのあるアパートを探しに歩く。そこでいろいろな物件を見たふたりは一つの物件を選び出す。条件も価格もいちおう満足だ。だがただひとつ、眺めがあまり良くない。

 ふたりにとっての大騒動がこうして次から次に起こっていき、その騒ぎの中にふたりはやがてふたりの原点を見つめ直すことになる。そこで得られた結論は如何に・・・。

 モーガン・フリーマンの声は深味のある本当に好い声だ。好い声の人がうらやましい。女性でも、今は容姿より声や語り方に魅力のある人に惹かれる。今は、というのは昔はそうではなかったから。若いときはそんなことも分からないほど愚かだったのだ。

 喧噪のニューヨークの中で自分のペースを失わずに静かに生きる初老の夫婦に、人生の積み重ねの重さとやさしさを見ることが出来る映画です。

ご都合主義

 中国でも森友問題が頻りに報道されているらしい。筑波大の名誉教授で中国ウォッチャーの遠藤誉女史がその報道の仕方を論評していて面白い。

 中国は日本が右傾化している、と常々批判している。特に安倍内閣になって以降はその右傾化がひどくなっている、「極右である」と非難してきた。しからば森友学園の教育方針などはもっとも其の典型であろう。

 日本の野党もどういうわけか中国とほとんど同じ視点らしく見えることは、日ごろの主張を見ていれば分かる。いつも思うが不思議である。中国が日本の野党の視点に合わせているのだろうか?まさか。

 ところが繰り返しブログに書いたように、野党の面々はその森友学園の理事長である籠池氏の言葉を全面的に信頼し、それを論拠に安倍首相を糾弾しようとして、私から見れば「極右」の人物と肩を並べてほほえんでいるのは異様である。まあ「極右」と言っても「似非極右」だけれど。

 遠藤誉氏の見るところ、その日本の野党と同様に、中国は森友氏を非難するどころか肩を持ち、安倍首相を非難しているという。全ての問題を籠池氏ひとりに押し付け、彼だけを悪人に仕立て上げようとしている。彼は被害者で、悪いのは籠池氏ではなく安倍首相だ、という決めつけだという。

 なるほど「敵の敵は味方」の論理である。味方か敵か、という論理は左翼に特によく見られる傾向だと先日書いたけれど、世の中を単純化するとこのような分かりやすいことになる。しばしば矛盾に見えるけれど、そこはご都合主義の国である。

 あの木で鼻をくくるような受け答えの外交部報道官同様、内心信じていないことでも平気で語れるのが今の中国らしい。

住野よる「よるのばけもの」(双葉社)

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 気になる小説というものはあるもので、本屋の店頭で目にして手を出すかどうか迷うことになる。「君の膵臓をたべたい」という小説がその一冊だった。じつはいまだに手にしていない。手にしたら購入しただろう。

 この「よるのばけもの」は同じ作者の小説である。こちらの方が強く私を呼んだらしい。

 僕は受験を控えた中学三年生男子。クラスメイトからアッチーと呼ばれる。僕には秘密がある。夜になると僕は化け物になる。黒くて眼が八つもあって大きくも小さくもなることが出来て・・・。

 僕は夜の学校に侵入して、教室でクラスメイトの矢野という女子生徒に出会う。不思議なことに彼女は僕を見ても驚かない。彼女はクラスで完全に無視され、嫌がらせを受け続けている。僕も昼間は彼女を無視している。そうでないと自分が標的にされることが分かっているからだ。現にそうして矢野と関わって標的にされる子もいる。

 それなのに夜の教室で化け物になって彼女と会うときには、ほかに誰もいないから普通に会話が出来る。その彼女は不思議なしゃべり方をする。

 そうして夜な夜な彼女と化け物になった僕は会話を交わすけれど、彼女は人の話を最後まで聞こうとしないしこちらの質問にもそのまま答えることがないから、彼女が何を感じ何を考えているのかよく分からない。

 こうして彼女と僕との昼の関係と夜の関係が続いていく。

 物語の中では昼の教室の中の生徒どおしの緊張関係が詳細に語られ、「僕」の目を通してそれぞれの人間の感じていること考えていることが透かし見える。

 ついに「僕」が自分自身を「発見」したとき、世界は変わる。

  この小説でいじめについて考えてもいいし、そういうところもある。思春期の少年少女の心の動きが詳しく語られているから、青春小説として読んでもいい。なにかが残る小説だ。私は誰だ。

 いじめと言えば、私はいじめを受けたことはない。それだけ上手にそのような危険を回避したということだろう。それは少しも自慢できることではない。運が良かっただけだ。

 小学生のときにいじめをしたことがある。自閉症気味の女の子(今だからそうだったと分かる)が転校してきたことがある。その子があまりにも口が重く、人と関わりを持とうとしないことがじれったくて大声で彼女をなじった。彼女は目を一杯に見開いて瞬きせずに私の顔をじっと見つめ、ぽろりと大粒の涙を流した。

 今でもその涙が私を非難する。一生消えない記憶である。私は私が正しいという確信が持てなくなった。そのことは有難いことだと今は思う。この本はそんなことを思い出させてくれた。

2017年3月28日 (火)

至福

 先日浜松で会食した若い友人に手土産としてお酒をいただいた。普通なら帰ってすぐ飲むのだが、ちょっと体調が変だったので控えていた。体調が悪くては美味しいものも美味しくいただけない。

 そうこうしているうちに四国は徳島にいる先輩から地酒が送られてきた。こうなると味あわないわけにはいかないではないか。

 一本は静岡県袋井市の「国香」という酒、もう一本は徳島県三好市の芳水の「山廃純米酒」。「国香」は韓国で買ってきた愛用の青磁の盃で、「芳水」は先日出石で買ってきた白磁のぐい呑みで飲み比べた。

 それぞれが「俺の方が美味いだろう」という。どちらが上などといえるわけがない。どちらも美味いけれどまったく味わいが違うのだ。

 こういう飲み方はあまりしたことがないけれど、こんなのもいい。適度に好い気持ちになったので、打ち止めにした。

 肴は今気にいっているスナップ(スナックだったっけ?)豌豆と蒸(ふ)かしナスなど。豌豆はいつもは湯がいてマヨネーズで食するけれど、今日は酒を損なわないように藻塩で食べる。ナスは油で炒めるのが好きだが、今日は蒸かして生姜醤油を少し付けてたべる。こうすると酒が際立つ。至福の時である。

 のこったお酒を娘のどん姫を呼んで飲もうかな、などと考えている。

 明日は名古屋で、ある事情があって若い友人達と会食する。気をつけているつもりでも偉そうに独りでしゃべることになるかも知れない。それを許してくれる優しい友人達であるから本当に有難い。今月末で名古屋を去る人もいて、その会食でしばらく、または二度と会えないかも知れない友人もいる。人生はまことに一期一会なのである。

映画「X-コンタクト」2014年アメリカ映画

 監督・アレック・ギリス、出演・ランス・ヘンリクセン他。

 アラスカ沖のベーリング海。極寒の海で蟹漁をする漁船には漁師の他に男女三人の大学の研究者たちが乗船していた。彼等は地球温暖化の調査を行う予定である。

 その研究者のひとりが船長の孫で、見習い学者である。その彼女の投じた調査用の水中偵察機が、漂う氷塊の下の点滅する光を発見する。要請によりその氷塊が引き揚げられ、その氷塊の中にソビエト時代の宇宙船が閉じこめられていることが分かる。

 調査隊を率いる教授といろいろとゴタゴタがあるのだが、それはあとの伏線である。彼女はひそかにその氷塊の中の宇宙飛行士の遺体を暴き、その体表に異常が見られることから組織を検査して驚くべき事実を知る。

 そこから次第に話は映画「エイリアン」や「遊星から来た物体X」の様相を呈し始める。これに類似した映画はいくつ見たか知れないが、嫌いではない。やがて感染とも侵入とも知れないかたちでひとりまたひとりと乗員が死んでいく。

 クリーチャー(ここでは化け物)は液体にも固体にもなることが出来、姿も次第に変貌していく。はたしてこのクリーチャーを倒すことが出来るのか?何人生き残れるのか?

 まあたいていリプリー独りだけというのが定番だが。

 クリーチャーが具体的なかたちで姿を現してしまえば、危険にさらされている登場人物以外(つまり私)は恐くなどなくなってしまう。姿が分からないから不安で恐怖を感じるものだ。

 「エイリアン」で人造人間を演じていたランス・ヘンリクセンがここでは船長役で渋いところを見せている。

 極寒の海上の漁船の船中状況は上手く描けているのだが、いかんせんクリーチャーがいささかお粗末であるのが残念だ。そもそも出だしの引き揚げられた氷塊の重量感のなさにちょっとがっかりする。あんな氷の塊を網で引き揚げることなど出来るはずがない。リアリティが感じられないのだ。まあそんなに真剣に論ずる映画ではないけれど。

案の定

 韓国の新聞で日本の森友問題が取り上げられていた。その論調は予想通りで、首相のスキャンダルなのになぜ支持率はあまり落ちずに政権は安泰なのだろうか、というものである。野党が次の政権の受け皿として信頼されていないからと鋭く指摘もしている。

 だが内心として盛り上がらない日本国民に不審を感じてもいるようだ。これは日本のメディアの伝える森友問題が、あたかも安倍首相が国有地の払い下げのダンピングを裏で指示したのが事実であるかのような報道をしているのを見て、そのままに受け取っているからでもあろう。

 マスメディアは可能な限り自分でも事実の検証をしてから報道するのが責務であろう。それをほとんど当事者が行った自分に都合の良い発言だけをもとに報じている。実際に検証した工事関係者の発言(見積もりを三種類作成したことなど)を過小に報道していることもおかしい。

 韓国のチェ・スンシル事件は長い間記者のあいだで公然たる事実であったようだ。ただ、実際の大統領への関与を示す証拠がないからそれは報じられなかった。証拠が出て来たから初めて報じられたのである。その証拠も記者が努力してつかんだもの(らしい)だ。

 翻って日本のマスメディアはどうか。

 最近のマスメディアはしばしば当局の発表をそのまま報道する。記者クラブで仲良し仲間になって、スクープがほとんどなくなり、週刊誌に抜かれることばかりが続いている。たくさんあっても殆ど一つか二つしかないことはテレビ局と同じである。

 野党も国会質問でマスメディアの記事などをあたかも検証された事実という前提で質問をしているのを見ることがある。新聞に書かれたから事実に近いものであったのは昔の話で、いまのマスメディアは検証が不十分でも平気で報道する(ように見える・・・いちいち言い訳がましいなあ)から信用できない。特に新聞はテレビと競争するという本来不可能なことをしようとするから間違う。

 テレビは検証不十分でも平気で報道する(しているようにみえる・・・以下同文)。ニュースを録画して繰り返しみる人間はいない。皆忘れるから次に違うことを言ってもあれっと思わせる程度で看過される。しかし新聞は印刷されたものだ。繰り返し読み返すことが出来、かたちで残される。時間の競争よりも、その信頼性をこそ大事にしなければ存在意味がないのに、購読部数低下をカバーしようとテレビと張り合って裏付けをとることを怠って拙速を選んでいるのではないか。

 調査結果に基づく日本の言論の自由度のランキングが意外と低いことに驚く。それが日本のマスメディアの現状によるものではないかとこのブログに書いたことがある。記者クラブの弊害が、日本人よりもずっと海外の記者に実感されていることが背景にあるのではないか、というのが私の考察だ。

 自由度の評価が低いのは、言論者の一部であるマスコミが自らの自由度を束縛しているからではないのか。これはしばしば右翼よりも左翼に見られる傾向であることは歴史を知る人なら分かることだ。教育界やマスコミに左翼的傾向が著しかった時代が長く続いた。冷戦以後、世の中は左翼など見向きもしなくなったのに、いまだにマスコミに亡霊が数多く居残り、正義の味方を標榜していることが弊害として現れていないか。

 第二次世界大戦前、ヨーロッパ情勢を報告してくる現地記者の記事を握りつぶし続けた編集長が姿を変えて居座り続けている。

 話が脇にそれて暴走したが、マスメディアは海外でも見られていることをもう少し意識して矜持をもつべきではないのか。韓国の記事を見てそう感じた。

 案の定韓国では日本も同じようなスキャンダルがあったことを悦びとし、争乱が起こることを期待していたらしいが、案に相違して日本国民が平静なことにがっかりしていることが記事から読み取れた。

映画「しあわせへの回り道」2014年アメリカ映画

 監督・イザベラ・コイシェ、出演・パトリシア・クラークソン、ベン・キングスレー他。

 イエローキャブ(タクシー)に男が乗り込む、それを追って中年過ぎの女がそのタクシーに乗り込む。ふたりは諍いをしているらしい。ののしり合い、互いに相手を非難するのをタクシーの運転手は呆れて見ている。

 その運転手は髭を伸ばし、頭にターバンを巻いたインド人である。やがて乗り込んだ男女が夫婦であり、夫が浮気をして家を出て行くところだったことが分かる。男が去り、女はうちひしがれてそのタクシーで家へ帰る。

 この運転手を名優ベン・キングスレーが演じる。女はじつはテレビにも出演する書評家として有名な女性で、パトリシア・クラークソンが演じている。映画のメインはふたりの交わす絶妙な会話である。

 このインド人はタクシー業のかたわら個人レッスンの自動車運転教習をしている。女性がこのタクシーに忘れものをしたことで再びふたりは出会う。彼女は運転が出来ず、いままでは夫が車に乗せてくれていたが、夫が出て行ったために遠出が出来なくなる。たまたま娘が遠くの農場に暮らすことになり、そこを訪ねるには自分で運転するしかない。そこでこのインド人に運転の講習を頼むことになる。

 原題は「Learning to Drive」であり、この方がストレートで好い題だ。

 ふたりは運転講習でいろいろ会話を交わすのだが、それが愚痴だったり人生論だったりととりとめがない。このインド人は敬虔なシーク教徒で、インドで迫害を受けてアメリカに政治亡命をして10年あまり、貧しいがストイックな暮らしをしている。元大学教授だっただけに極めて知的であるから、最初は異文化の出会いのようなぎこちないものだったが、その会話も次第にウイットに富んだものになり、その時間をふたりは楽しむようになっていく。

 やもめ暮らしだった彼にインドから花嫁がやってくる。初対面でそのまま翌日には結婚式をあげることに彼女は不思議を感じるが、彼にとっては普通のことである。愛し合い、永遠の愛を誓ったのに浮気されて別れる夫婦。初対面で互いを知らずに結婚する夫婦。

 この二つの愛のかたちが交錯する中で、物語は迷走しながら進んでいく。迷いは人の心。その迷いを乗り越えたとき、ふたりはそれぞれのしあわせを見つけて走り出す。人は他人にサジェッション出来るのに、自らの迷いを抜け出すことができない。他人との関わりの中でその出口を見つけることができるのである。

 この映画、なかなか佳品であった。

2017年3月27日 (月)

何を妄想?

 森友学園問題で、野党は振り上げたこぶしの落としどころが分からなくなっているのではないだろうか。安倍首相の失陥を狙っての森友問題の取り上げ方をしてきたが、国民は、誰がどういう理由で国有地の払い下げをあそこまでダンピングしたのかが知りたいのであって、いまの照惠夫人の関与ばかりを追及する野党の言動に、多くの人は野党はいささか的外れだと感じているのではないか。

 野党が妄想するのは、照惠夫人をチェ・スンシルに、安倍首相を朴槿恵元大統領になぞらえるもののように見える。日本国民がこぞって怒りの声を上げ、国会議事堂前にロウソクを持って集う姿を期待しているのだろうか。

 多少でも見識のある日本国民ならその違いが分かるはずで、それを同一視して妄想しているのならその知性は疑わしいと言わざるを得ない。それでも、どうしてこんな大問題なのに国民は韓国のように盛り上がらないのだろうか?と首をかしげている野党議員が多いように見えるのは私だけだろうか。それ以上いうと言葉がエスカレートしそうなのでやめておく。ただ見るに堪えない気がするばかりである。


 それなのに、またそれを繰り返し繰り返し報じてそれをしたり顔に解説したり推論したりするマスコミにもうんざりしてきた。いくらニュース風味のバラエティ番組とはいえ、検証無しのことをあたかも事実のように語るのはおかしいのではないか。これではトランプ大統領のように「フェイクニュース」と言いたくなる。

映画「寄生体X」

 2012年フランス映画。監督・デヴィット・チョレワ、出演・ファビアン・ウルフロム、ブランディン・マーミゲール、ジョン・ファロン他。

 地球の近傍を彗星が通過した際に何者かが地球に侵入し、その影響で狂気に陥った人間による殺人が起こった(らしい)。主人公の少年(もう酒も飲める程度の青年に近い少年)は幼少だったそのときに父が母を惨殺するのを目の当たりにするという記憶を持つ。

 11年後の現在、再び彗星が地球に接近することで世間には不安がひろがり、人類は今度こそ破滅するという噂が蔓延して騒然としている。最接近の日、乱痴気騒ぎを始めたり、暴力行為に及ぶものが続出する。いったい11年前に何が起こり、少年はどうして生きのびたのか、その顛末がどうだったのかはまったく知らされない。ただ、少年が異常に闇をこわがるという事実だけが繰り返し表現される。やがて夜がやってくる。

 同じアパートに住む女性から、この夜を過ごすためのパーティに誘われていたが、少年は夜の街に出かける勇気はない。部屋を煌々と照らし、不安に震えていると、照明が点滅を始め照明が微弱になる。

 勇気を振り絞り、彼はパーティ会場に向かう。そこでは乱痴気騒ぎの真っ最中である。その乱痴気騒ぎは次第に異常さを増していき、醜怪で恐ろしいものに変貌していく。

 やがて街は次第に闇に包まれていく。何者かが街を支配して人々を異常な世界に追い込んでいく。少年の見る世界は血まみれの完全に狂気の世界に変貌する。

 これは本当に起こっている事実なのか、少年が狂気の世界に閉じこめられて妄想しているのか。そのことは最後まで明らかにならない。ただ暴力と異常な性的妄想の氾濫が描かれるばかりである。

 映画の解説には彗星はハレー彗星だとされているが、ハレー彗星は1986年に地球に接近し、約76年周期なので、次は2061年までやって来ない。この映画の彗星がハレー彗星のわけはないのである。

 いくつも、というよりほとんどの部分が突っ込みどころ満載の映画で、カルト映画にしてもこれはひどい、と酷評されている映画らしい。確かにエログロ血まみれを描くことだけが目的だったのかも知れない。台詞は無意味に陳腐。でもこれが狂気の世界をイメージしたものだとすると、いろいろと連想するものがないわけではなかった。

番組表

 毎月25日前後にWOWOWから翌月の放送内容の案内が書かれた番組表が送られてくる。その冊子がくるのをいつも楽しみにしている。特に映画については映画の題名、原題、時間、制作年、制作された国、監督、主な俳優、そして簡単な内容が書かれていて、それに全て目を通す。

 他のドラマや音楽番組についてもその簡単な紹介があるが、こちらはめぼしいものだけをチェックして、録画するものを選ぶ参考にする。

 映画は全て目を通して録画するものに印を付けていく。時間があればなるべく多くの映画が観たいけれど、昔と違ってどんなに好きでも体力的に一日二本が限度だ。だから迷いながら厳選しているつもりなのに気がつくと印だらけになる。こうして観るよりたまることになる。

 昔よりその冊子が薄くなった。経営も大変で、経費節減なのだろう。映画紹介は四角の枠にずらりと収められているのだが、その四角が小さくなり、情報量が少し減ったのだが、なにより字が小さくなった。こちらの眼が衰えているのもあるけれど、海外の俳優の名前が「パ」なのか「バ」なのか、肉眼では読み取れない。

 繰り返し録画できるブルーレイディスクにその映画をダビングして観たいときに観る。リアルタイムで観ることはほとんどない。録画するとその冊子の情報をもとに、ディスクのケースのタイトルカードに書き込んでおく。これは専用のブランクカードが売られているので、それを大量に買い込んである。

 観終わったら、再度観る可能性のあるものをのぞいて全て初期化する。それが新たなダビング用のブランクディスクになるのだ。タイトルカードはそのまま自分の観た映画の記録カードとなる。

 数ヶ月前に、たまりすぎた映画から観る優先度が低そうなものを選定して、数十枚を泣く泣く観ずに初期化してブランクディスクを作った。いまはディスクは安いから新しいものを買っても知れているけれど、現在の持ちディスクの中で廻すことにしたのだ。そうでないとたまることに歯止めがきかなくなる。

 最近はドラマをひたすら観ていてあまり映画を観ていなかった。だから録画された映画が増えるばかり。そのブランクディスクの在庫も底をつきそうだ。ようやくせっせと観ていた「相棒」シリーズもほぼ見尽くしたので少し余裕が出来た。「科捜研の女」もそろそろ見尽くす見通しが立った。WOWOWドラマも面白いのだが、最近は特に観たいものに絞ることにした。

 ということで再び映画を観ることに専念できそうだ。そこで大作や名作を観るかというと、へそ曲がりのわたしはカルト映画や小品から見始めるのだ。カルト映画や小品は当たり外れがあって、ときに時間の無駄にもなるけれど、なにより初期化して消去することに迷いが生じない。たまに当たりがあると、期待していなかっただけにとても嬉しい。宝探しの楽しみだ。もちろん観たくもない映画を無理に観るようなことはない。いちおう選別して録画はしているのだ。

 二月三月は比較的に録画したい映画が多くなかったのでほっとしていたが、四月は多い。うれしいようなこまったような気持でWOWOWから送られた冊子に印を付けた。

2017年3月26日 (日)

米澤穂信「愚者のエンドロール」(角川文庫)

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 古典部シリーズとして文庫化されていて第四巻まで購入してある、これは第二巻。

 神山高校は文化祭に向けて、夏休み中にかかわらずその準備に忙しい。そこで古典部の面々は不思議な依頼を引き受けることになる。あるクラスがミステリーのビデオ作品を作ることにしているのだが、脚本家が前半だけ作成したままで病気になり、後半の部分についてのいろいろな案を言う者があり、その優劣を決めてくれというのだ。

 釈然としないながら、もともと暇で好奇心もある面々、次々にその案を聞くことになる。なかなかそれぞれに面白いのだが、前半部分やシチュエーションとのあいだに違和感がある。ついに奉太郎が矛盾がない案を自ら提案する事態となる。

 結局古典部、つまり奉太郎に推理をさせて矛盾のない話を作らされた形になる。

 ところがその奉太郎の案にもじつは傷があった。

 プロローグに不思議な会話文があり、エピローグにも会話文が添えられている。そしてそこに全体の全てを仕組んだ者のおぼろげな姿が透けて見える。

 不思議な物語で、なにかが解明されてすっきりする、という話ではないのだが、そこに奇妙な味の面白さがある。

回復

 一昨日、天気はいいが寒風の中、ドライブに出て日帰り温泉に長湯したら体がちょっと変調を来した。昨日も今ひとつ本調子ではなかったので、晩は缶ビール一本だけにした。ただし私の缶ビール一本は500ミリリットルである。350ミリにしたら、などと言われるが、それだと間違いなく一本では物足らず二本飲んでしまうから、500でいいのだ。

 久しぶりにチキンライスを作ったら、食べたかった分だけ旨く感じた。残りもののバラ肉を炒め、キャベツとネギを加えてからそれをコンソメでスープにした。刻みニンニクのバター炒めの瓶詰めからニンニクを少し加え、黒胡椒をたっぷり振りかけ、ちょっと油がくどく感じたので、ポッカレモンを滴下したらそこそこの味になる。

 布団乾燥機で布団を温め膨らませてある。風呂上がりのあとしばらく雑誌などを読んでから、渚ゆう子のアルバムを子守歌に寝る。渚ゆう子を嫌う人もいるけれど、私はあの高い声が好きだ。若い人は知らないだろうなあ。

 お陰でぐっすり眠れて今日は本調子に回復した。天気も悪そうだし、まだ寒そうなので、今日はドラマや映画を観て過ごすことにしよう。そういえば今日は世間もおやすみである。ちょっと音量を上げて映画を楽しんでもいいか。

龍門寺

ドライブに出たついでに撮した龍門寺。


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正しくは臨済宗龍門禅寺。七宗町の道の駅のすぐ先、麻生町から国道41号線は飛騨川を横切るために右へ大きく曲がるが、それを渡らずに県道64号線を北へ直進する。さらに標識によって脇道に入り、たどりつくのが龍門寺。目の前の門が総門で、ここに或るものがある。

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飛騨匠・左甚五郎の木彫りの龍である。

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見あげれば確かに龍らしき彫り物が。

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龍の顔をアップする。補修もほとんどしていないのであろう。かなり傷んでいる。日光東照宮の眠り猫といい、この龍の彫り物といい、なんとなく左甚五郎の彫り物に感動をあまり覚えない。出来たばかりのときには素晴らしかったのだろうか。

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門を入ってすぐの、池の前に置かれたこんな石の彫り物になんとなくほほえみを感じてしまう。

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龍の彫り物を裏側から。

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境内の片隅にこんなのも置いてある。無心のまどろみとでも言おうか。

本堂は閉まっているが、扉に拝観はご自由にどうぞ、と張り紙がしてある。階段を登り、靴を脱いで扉を開けて中に入り、本尊を拝む。

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手を合わせてから尊顔を撮影させてもらった。とても暗いし、背後が金箔なのでこんな写真になってしまった。これでもストロボを焚いているわけではない。

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横の庭に太宰府天満宮の実生だという豊後梅の梅の花が咲き残って、ほのかに香っていた。

2017年3月25日 (土)

石平・宮崎正弘・福島香織「日本は再びアジアの盟主になる」(宝島社)

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 「再び」などというと、一度は盟主になったことがあるように聞こえるが、そんなことがあったという記憶がない。いつのことなのか。アジアの国々が戦後次々に独立を成し遂げ、敗戦で荒廃した日本がめざましい勢いで復興したすがたをみて、それをモデルに頑張る気持ちに多少ともなったであろうことを言っているのであろう。

 その日本の成長も頭打ちとなって久しい。しこたま貯め込んだ金を、鵜飼いの鵜のようにアメリカに上手いこと吐き出させられて足踏みしているあいだに、日本よりもはるかに金を貯め込んだのが中国で、世界中がその金を目当てに中国に擦り寄ってきたが、奢るものは久しからず、上がれば落ちるのは世の習いである。

 アメリカの栄華の果てが、金融という空虚なものに溺れて実体経済を見失い、信用の喪失が実力の喪失を招きつつある。それを強引に昔へ戻すと公言したのがトランプ新大統領であろう。だからいうことは30年以上前の世界観になるのはいわば当然か。

 自分の上位にある者が落ち目になれば、自動的に自分の地位が上がると錯覚しているのが中国だろう。世界が中国の金を目当てに蝟集しているけれど、じつはそれほど中国には金がないらしい、などという情報もある(この本にも書かれている)。大盤振る舞いの約束をしまくり、ちやほやされていい気になっている中国も、金がないのが分かればみな蜘蛛の子を散らすように逃げていくだろう。すでにアフリカ諸国の中には約束を履行せずに資源ばかりを持ち出す中国に腹を立てている国が出始めているとも聞く。

 現在の東アジアについて詳しい三人が、トランプ大統領の出現で日本を取り巻く情勢がどう変わるかを予測したのがこの本である。それぞれの人が一章ずつ受け持って書き、最後に三人が対談するという形式になっている。いつものようにとても分かりやすい。果たして三人の予測はどこまで的を射ているだろうか。もちろん違う人だから似たようなことをいってるように見えてかなりニュアンスが違う。それも読む楽しみだ。

寸又峡プロムナードコース②

夢の吊橋からさらに上流の飛龍橋へ向かう。


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あとでぐるりと回り込んだあとで撮った写真。左下が夢の吊橋。吊り橋を渡ったら急な階段を登り、右上の四阿のようなところにたどりつく。大汗をかく。

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これが飛龍橋。もともとは山で切り出した木材を運搬するトロッコ鉄道のための橋。

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飛龍橋から夢の吊り橋を遠望する。

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アップで。左手に人の姿が。

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こんなところを渡ったのだ。

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飛龍橋を渡りきる。

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神秘的なすばらしい水の色。

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これにて美女づくりの寸又峡温泉をあとにした。

期待以上に美しい景色で大満足した。旅はいい!

このあと浜松で降り、若い友人(私から見て若いだけで、50才を少し過ぎている)と浜松で会食した。会食といってももちろんメインは酒である。彼とは久しぶりである。私が一方的にしゃっべったような気がする。年上が歳下の話を聴くのがおとなのあるべき姿なのに、大人げないことであった。

こりずにまた遊んでね!

2017年3月24日 (金)

大事をとる

 列車旅を続けてしたので、しばらく愛車を動かしていない。使わなければ愛車もすねし、運転しなければ勘も鈍る。というわけで少しドライブした。

 ドライブの目的は日帰り温泉への入浴と石を見に行くことである。七宗町というところに日本最古の岩石が展示されているのだ。ところが・・・。

 地図を見ると、七宗町の先に龍門寺という寺があり、その総門に左甚五郎の龍の彫り物があるという。そこに行ってみることにした。

 龍門寺については明日写真を紹介する。そのあと飛騨金山(いまは下呂市)のぬく森の里温泉に行く。露天風呂はややぬるめのお湯で、北風が吹いているので顔は冷たく身体は心地よく、いくらでも入っていられる。風呂から出たらふらっとした。のぼせたのだろうか。

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 なかなか身体が元に戻らない。途中の白川のピアチェーレという道の駅に立ち寄り、休憩する。ここのレストランの食事は美味しいし、ソフトクリームも美味しい。ソフトクリームを食べたら少し気分が回復した。日本酒の品評会で一位だったという日本酒を購入した。白川はお茶が名産で、しばしばここで買うが、いまはちょっと好いお茶がほとんど手つかずで残っているので次回とする。

 七宗町のロック・ガーデンという岩石展示館に立ち寄る気力がない。横目でパスして帰路についた。

 夕方は缶ビール一本だけにして、ぼんやりしている。不調というほどではないが、なんとなく本調子ではない。大事をとって早めに寝ることにする。

個人情報

 個人情報とはある面で社会との紐帯を表すものであろう。完璧に個人情報を秘匿したければ、社会と完全に絶縁しなければならない。そこに存在しない人間になれば個人情報そのものが存在しなくなる。

 具体的にいえば山にこもり、自給自足して人とまったく交わらず、誰にもそこにいることを知られなければ個人情報は完璧に守られる。そもそもそのとき個人情報は意味を成さない。個人情報は本人のためにあるものではなく、他人が彼を識別するためのものだからである。個人情報保護を声高に叫ぶ人は、個人情報は完璧に保護されるべきだと信じているようだが、そのことが分かっているのだろうか。

 社会で生きていく上で、他人との識別のために個人情報は必ず必要である。問題なのは、悪意のある人間がその個人情報を利用することである。だから個人情報保護の判断の境目は極めて難しい。その困難のために、短絡的に完璧な個人情報秘匿などという夢想をするけれど、それは不可能である。

 私はこういう人間である、ということを隠さないとならない社会とは嫌な社会だなあ、と思う。どうして個人情報を悪用するような人間が横行するようになったのだろうか。

 電話という匿名性の高いものが出現し、さらにそれをはるかに超えたインターネットという匿名性の高い手段が生み出され、大量の情報を簡単に扱えるようになった。しかしその社会は、思ったよりバラ色ではなかったようだ。

 いつの時代にも悪意というものは存在したが、いまはその悪意がいかにも手軽に、しかも匿名で横行する。ついには人類は悪意の海に溺れてしまわないか心配している。悪意の海を泳ぐ能力のない人は大勢いる。その不安が過剰な個人情報保護を叫ばせているのかも知れない。

大沢在昌「夜明けまで眠らない」(双葉社)

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 久方ぶりにハードボイルドらしいハードボイルドを読んだ。

 主人公はアフリカで傭兵をしていたという過去を持つタクシーの運転手。その過去が夜のあいだ彼を眠らせない。だから彼は深夜のみを担当としている。その彼のタクシーに乗り込んだ男は血の臭いをさせていた。その男は一言語りかけるが、その一言で彼の過去を知るらしいことが分かるものの、見覚えは全くない。

 その男をおろしたあと、男が携帯を忘れていったことが判明するが、それがきっかけで彼は再び悪夢の世界へ引きずり込まれることになる。彼が引きずっていた過去が彼を襲う。

 その携帯のことで呼び出された彼は、携帯の引き渡しを求められるが、相手は見るからにやくざであり持ち主ではない。彼は引き渡しを拒否する。するとやくざたちは、彼が世話になっている仕事先の上司を人質にして携帯の引き渡しを迫る。

 卓越した闘争能力を持つ彼は、理不尽にその携帯を奪おうとする者たちに反撃し、上司を奪還する。相手を負傷させた時点で彼は警察に携帯を届けることが出来なくなる。やがてその携帯が残された意味を調べる彼は、なぜその携帯が残されたのかその意味を知ることになる。それは知りたくない真実であり、もっとも彼が望まない悪夢の世界への道に通じていた。

 ついに彼をしのぐ戦闘能力を持つ敵が登場してくる。彼は悪夢を乗り越えられるのか。

 美女も出てくるし、申し分のない楽しめるエンターテインメントであった。

2017年3月23日 (木)

恐怖の「夢の吊橋」

今回のハイライト、夢の吊橋。


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急ではあるが、しっかりした階段を降りて夢の吊橋のたもとにいたる。こちら半分が山の陰になり、向こう側は日が射しているのでコントラストが強すぎる。一見なんということのない吊橋。

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新緑のときや紅葉のときは行列になり、なかなか渡れないそうである。そしてこの橋はすれ違うことは出来ない。

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吊橋全景。少し先が白くなって見えるのは霜が凍りついているからで、滑る。最初はそれに気がつかなかった。

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幅は約30センチ、高さは10メートル前後だが、スケスケなのでちょっとこわい。

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つかまれるのはこのワイヤーのみ。低めなので、長身の私には頼りない。

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水はあくまで青く透明である。

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渡りきった側から振り返る。激しくはないが、歩くごとに揺れる。ちょっと人より重い(かなり重い)私だから、多分普通の人より揺れる。それが縦に揺れるだけならまだいいのだが、足を踏み換えるのに合わせて左右にも揺れる。右を踏めば右に揺れ、左を踏めば左に揺れる。

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だんだんこわくなってくるが渡りきらなければどうしようもない。そこで写真を撮るのである。ズームレンズを触るのは片手では出来ないから、ロープから手を離すしかない。誰もいないからいいようなものの、見ていたらへっぴり腰でみっともない姿で笑われたであろう。

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ここは大間ダムのダム湖。ダムはまだ日陰の中。

茶番

 右翼というのは自分よりも国家を優先するというのが建前かと思っていた。だから国のために死ね、などと人に言えるわけである。共産党や社民党は(多分民進党も)某籠池氏という嘘つきを右翼と見ていることは間違いないし、某籠池氏自身も自分は立派な右翼だと考えているだろう。

 しかし彼の言動は、日本という国を貶め、世界の笑いものにすることに貢献している。マスコミは彼の言い分を裏付け無しに繰り返し報じて、愚か者が勘違いして事実だと思い込むことを内心で笑っている。そもそも私には某籠池氏などただの嘘つきの道化師に見えるが違ったのだろうか。国民の多くもそう感じていると思うし、マスコミだって内心ではそう思っているはずだ。

 これを書いているのは某籠池氏の国会証人喚問の前(9時頃書いた)であるから、思わぬ事実が明らかになって状況が変わるかも知れないが、多分国会議員の質問などたかが知れているから、某籠池氏の支離滅裂さが明らかになるだけのことに終わるだろう。それすら明らかに出来ないとすれば、政治家という言論の徒としては失格であろう。

 そもそも野党側にも質問のための裏付けなどない(多分)から、野党にとって都合の良い言葉を彼から引き出そうとすることに終始するであろう。そしてその答えはいままでと同じ妄想的なものとなるだろう。そのうえその矛盾すら追及出来なければ、野党は無能力を国民に知らせることになりそうだ。

 そもそも野党の追求の目的は事実を暴いて間違いを正すことではない。ただただ安倍晋三に傷を付け、打ち倒すことだけが目的で、今回の質問もそれをいわせることに終始するだろう。

 さすがに民進党の中には偽メール事件をようやく思い出して、このままだと逆に引っ込みがつかなくなり、さらに国民の信頼を落としかねないと気がつきだしている人もいるようだが、いまさら遅い。今回の証人喚問を設定したのは与党自民党である。その鉄壁の前に野党が無能力をさらし、某籠池氏の妄想に振り回される姿を国民は目の当たりにするだろう。

 この予想が大きく外れたらとても恥ずかしい。言い訳するわけではないが、今回の国有地のダンピングに政治家が関わっていないなどとは思わない。多いにあり得ることだが、こんな虚言癖のある尋常とはとても思えない人物が教育者を自称し学校を建てるのを、なにかの思惑で後押しをした人物がいたなら呪われたら良い。某籠池氏のような人物がこのような報道によって自滅した(まだしていないが多分するだろう)ことは結構なことであると思っている。

 私自身は不正は嫌いだし、そのことで大きな利得が目の前にあったとしても決して不正は行わないと断言できる。不器用で臆病なのである。しかしこんなことはざらにあることで、あまりにも目に余るものだったから浮上したのだろう。世の中はそんなもので、行き過ぎをただせば丸く収まるものだ。私は不正を暴くことが自分の正義の証明かどうか迷う人間でもある。しばしば不正を激しく糾弾する人が、内心では他人の得た利得に対する嫉妬に燃えているのを見ることがあるからだ。

シンシアリー「韓国人による北韓論」(扶桑社新書)

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 北韓とは北朝鮮のことだ。

  シンシアリーはペンネームで、著者は韓国に住む韓国人。韓国人としての立場から、現在の韓国の人々の反日を批判し続けている。しかし韓国でそのような著作を出せば袋だたきに遭うことが目に見えているので、日本語で、日本で何冊も本を出版している。

 書かれていることはしごくまともで、歴史のとらえ方も冷静である。冷静なのは、正義と悪という論理で歴史を見るという韓国の悪弊を持たないからである。韓国人が全て善悪で歴史を見ているわけではないのだろう。しかし韓国の言論界、マスコミ、教育界、政界で社会的立場を確保するには、歴史を善悪で語ることが必要であるようだ。やむにやまれず善悪論ではない歴史的事実を語ったが故に袋だたきに遭って社会的生命を失う人の話をときどき報道で知る。韓国で親日とは即売国奴と見做されるようだ。

 著者のシンシアリーは、韓国人は線による分割の論理で世界を見ている、という。線を引いて、こちらは味方で向こうは敵、こちらは正義であちらは悪、という世界観である。中間は存在しない。ある意味でとてもシンプルで、判断に迷わずにすむ。これは戦時に必要な論理かも知れない。そういえばまだ北朝鮮とアメリカや韓国は北朝鮮と休戦中であって、ある意味で戦時である。

 世界を単純化する見方は為政者にとって扱いやすい。あれが敵だ、と指させば国民はそれに従って敵を倒すことを厭わない。悪くいえば愚者の論理である。白と黒のあいだにある灰色を認めないのだから。いや、時に色があることすら認められない。しかし、じつはそんな線の論理は変だとみんな気がついている。

 著者はその線の論理の危うさを韓国のみんなに知らせたい。しかし韓国では線の論理が支配しているから、それが間違っていると語れば身に危険が及ぶ。だから日本で語るしかないのだ。哀しいことである。

 さて、今回は北朝鮮について著者は語る。それは過去の歴史的な情報と、韓国にいて知ることの出来たいろいろな最近の情報から著者が想像する北朝鮮である。どうしてそう考えたのかはその都度理由を明らかにしている。著者も言っているが、北朝鮮が韓国でどう伝えられているか、脱北者がどういう扱いを受けているか、日本どころではない多くの数の国民が拉致されているのに何の手もうたない韓国政府の姿も紹介され、北朝鮮を語りながら韓国そのものを語っているのだ。

 これはあくまで韓国の市井の人が、韓国を思う気持ちが誰よりも強いが故に書かずにいられないで書いている本なのだ。ただ、日本で出版するために、若干日本寄りの文言はあるが、それは商売上致し方ないであろう。それはこの本を含め著作の傷ではない。そのことが韓国では危険を呼ぶことは間違いないが。

 こいつは魔女だ!と決めつけられると逃れることができない世界に著者はいる。仄聞するに、著者も日本に移り住むしかない状況に追い込まれているという。

 ただ一つ今回の著作の難点は、日本語が少し乱れていることである。早書きのために添削が不十分な気がする。よほど差し迫る状況があったのだろうか。それともただ出版が拙速に過ぎただけなのか。

2017年3月22日 (水)

寸又峡プロムナードコース①

寸又峡プロムナードコースを歩き始めて数百メートル行くと寸又川は深い谷になる。道から見下ろすと、眼下に猿並橋という吊橋が見える。


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もともと温泉から眼下の猿並橋へ行く道もある。標高1827メートルの朝日岳への登山道はこの橋を渡っていく。

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なんということのない吊橋に見える。

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アップしてみると、手すりらしい手すりのない幅の狭い吊橋なのである。揺れるだろう。それをのちに実体験する。

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温泉からは吊橋を左から渡り、右手が登山道へ通じる。橋の下には渓流が流れ込んでいる。

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さらに歩きつづけると、天子の香和屋と看板の掛かった建物がある。なかなかシャレている。ここで安堵する人もいるだろう。

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そのすぐ先に天子(てんし)トンネルがある。子ども連れの若い夫婦が少し前を歩いていた。子どもがせがんで父親に肩車してもらった。

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天子トンネル。いちおう照明はある。

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トンネルを抜けてしばらく行けばもうそこは目的地の夢の吊橋が眼下に見えてくる。

宿で尋ねたら、この吊橋に下る階段が急であること、さらに対岸の崖を登る階段が険しいことを口々に言われた。

さあどうする。とにかく階段を降りることにしよう。
(つづく)

百円ショップ

 私の住むマンションのすぐとなりにスーパーがある。たいていのものはそこで揃うので重宝している。何ヶ月か前からそのスーパーの中に百円ショップが入ったことは承知していたが、一度も利用したことはなかった。

 冬はときどき鍋をするので、使い終えて空になった卓上コンロのガスボンベがたまる。ドライバーとハンマーで穴をあけて資源ゴミ(ちゃんと専用の籠が出る)に出すのだが、ベランダで穴をあけるときに音が響くし、不器用だから上手く穴をあけるのが難しい。簡単な穴開けの出来るものがないかなと思っていたら、どん姫が「簡単なものなら百均にあるはずだよ」と教えてくれた。

 百円ショップの品々を眺めていると面白いもの、あっても好いな、と思うものがたくさんある。どうしようかなと思っても、どうせ百円だと買う決心が簡単につくのである。他のところで買うつもりだったものがいくつかあったけれど、それが百円で売っている。ベランダを掃くためのほうき(持っているけれどだいぶへたってしまっている)、ちりとり、如雨露、トング等々。ところが肝心の穴開け器がない。店員に問うと端のほうにあるそれを持って来てくれた。えっ、こんなものなのか、と思うような簡単なものである。中国製。

 さっそく帰って、たまっていたボンベの穴開けを行う。栓抜きが縦についたようなものか。ボンベのかどにひっかけて小さな刃が刺さり、ボンベに穴をあける。頼りないような小さな穴だがガスが抜ければそれでいい。七八本のボンベの穴をあけていたら、たちまち刃がくにゃりと曲がってしまった。ペンチで簡単に補修。

 いくら百円でもお粗末にすぎるけれど、使えないことはない。なるほど、百円ショップの商品だなあ、と納得した。でも百円ショップ、面白い、また覗いてみよう。

2017年3月21日 (火)

寸又峡温泉

バスで寸又峡温泉に入ったのが三時過ぎ。ガイドブックによると、寸又峡プロムナードコースというハイキングコースは一周1時間半ほどだという。時間的に行けないことはないのだが、今日はとりあえず温泉に入りたい。明日にゆっくり廻ることにする。


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お世話になった宿。温泉街の入り口にある。シーズンだと結構な値段だが、いまはシーズンオフなので割と値打ちで泊まれる。

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部屋の床の間にこんな額がかかっている。なるほど、寸又峡の峡か。ゆっくりと風呂に入って外を見たら、空模様が急変している。しばらく本など読んで食事に行ったら外が濡れている。かなり強い雨が降ったらしいが気がつかなかった。
散策に出かけなくて正解だったらしい。それに夕方はまだ冷える。

ちょっとお酒を飲みすぎたけれど爆睡。夜明け前に起きてしまったのでゆっくりと朝風呂に入る。今日は天気が良いらしい。

宿の女性や布団を敷きに来た男性にそれぞれに寸又峡のプロムナードコースについて聞いてみた。思ったより上り下りのきついところがあるようだ。少し余裕を持ってゆっくり行けばなんとかなるだろう。

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宿に荷物を預けて出発。荷物は小さなカメラバッグだけ。

道の脇の祠の奥に遮光器土器のような石像があった。そういえば大井川鐵道井川線の奥泉駅には縄文人の遺跡がある。

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温泉から山道への曲がり角にカモシカがいた(石だけれど)。

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天狗の大きな面が掛かっている。

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なんだかいろんなものがありそうなお店。まだ朝なので開いていないようだ。

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車はここから先には行けない。人だけが通り抜けられるようなバリケードがある。とりあえずの目的地は「夢の吊橋」。
さあ本格的に出発!

言い争うことではない

 東日本大震災から6年経った。テレビでは(特にNHKでは)震災のドキュメントをよくやる。積極的に見ることはないが、民放はCMの氾濫に堪えられなくなっているので、ついNHKがつけたままになっていて、ぼんやり見ていると、ああ震災の話か、と思うことがある。

 うつらうつらして気がついたら、父親を津波で亡くし、ふたりだけになった母子の話を放映していた。母親は小学校の低学年の息子の手をしっかりと握って送り迎えをする。子どもは次第に成長する。他の子供たちの手前もあり、子どもを離さない母親に息子は多分反発はあるだろうが、母親の自分を思う気持ちも分かるやさしさもある。

 教師は子どもを抱え込みすぎる母親を心配し、そして抱え込まれている男の子を心配する。すべての危険なことを排除しようとする母親が、息子の成長の機会を損なっていると感じているのだ。子どもには危険なことを乗り越える勇気が必要であるし、それを乗り越えたときに褒め称えられる経験も必要不可欠なのだ。

 母親と離れて祖母の元で、母親なら決して許さないかも知れないような、ちょっと冒険的な遊びに男の子が挑戦する。尻込みする男の子がついに勇気を出す。成し遂げた男の子を祖母が抱きしめる。「よくやった」とほめる祖母に、マイクが向けられる。「いつも母親があれをしてはダメ、これをしてはダメと言うからこの子は少し臆病になっていた。それが勇気を出したから嬉しいのだ」と祖母は言う。

 ここで脇にいた同じような年齢の女性が、「仕方ないだろう。津波を乗り越えて拾った命なのだから、母親が子どもに危険なことをさせないのは当然だ」と言う。あたかもその男の子の勇気を称えることが、男の子を抱え込む母親を非難することであるかのように言う。

 私はここでとても考えさせられた。ふたりの老婆(それほどの高齢ではないので、こう言うのは申し訳ないのだが)は互いに正しいことを言っている。父親を亡くした男の子の健全な成長を願う気持ちと、夫を亡くし、かけがえのない息子の安全を思う母親の気持ちを、それぞれの老婆が互いにわが事として思っているのである。言い争うようなことではない(現に言い争いはない)。ただ思いの重さがどちらにあるかだけの話であるのだから。

 私が言いたいのは、これはどちらが正しいという話ではない、ということだ。人は同時には受け入れられないようないくつもの思いの中で生きていく。それぞれの思いを拾ったり拾わなかったりする。

 いま世の中はそのわずかな複雑さが耐えられずに、どちらが正しいのか、という論議ばかりに明け暮れているような気がする。白でなければ黒、という単純化した善悪論で語ることばが氾濫しているような気がする。特にマスコミにその弊害が大きい。

 正義か悪か、敵か味方か。どうしてこんなに思考がお粗末になったのか。韓国の反日の論理に通じるこのような思考の劣化は、先日読んだ橋本治の本に書かれていた「心のない論理」「心のある論理」「心の論理」というキーワードを思い出させてくれた。このことをずっと考えている。だからいつかその言葉の意味を自分なりに咀嚼して説明してみたい(出来るかなあ・・・)。すごく大事なことのように思っている。

 見ていた震災のドキュメントは、ここで取り上げたシーンで感じたことを書きたくて、そこでテレビを消したのでそのあとのことは知らない。震災から6年、その男の子は成長してたくましくなっているに違いないと思う。

2017年3月20日 (月)

大井川鐵道井川線④(帰り)

ミニ列車は窓を開けることが出来る。しかし杉の花を見てしまったので、行きにはほとんど窓を開けず、ガラス越しに写真を撮った。帰りは思い切って窓を開けて写真を撮った。ただ、北風が吹きはじめ、入ってくる風はとても冷たい。しばらくすると足元から冷えてきた。


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あの鉄橋からまた写真を撮る。なんだか不思議な景色だ。

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あのどこにも行けない無人の尾盛駅の横にある小屋。これが工夫が寝泊まりした小屋なのだろうか。これもその一つなのかも知れない。いくら何でもここではせいぜい10人くらいしか寝泊まりできない。もっとたくさん小屋があったと思われる。

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長島ダムのダム湖だったと思う。日が傾きだし、風も吹いているので少し湖面がきらめきだした。

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対岸に鉄橋が見える。上には線路がある。これは昔の工事用のトロッコ線路の跡だと車掌が説明した。

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この右手のトンネルを抜けるとあの鉄橋にいたる。

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トンネルの前の線路はもうない。ダムが満水になると、このトンネルは水没するのだそうだ。線路は撤去したのか流れてしまったのか。いま私たちが走っている線路は、長島ダムが完成してから敷設し直したものだそうだ。

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風が吹き渡ると湖面がサアーッと波立ち、きらめく。

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大井川がこんなに綺麗なところだとは知らなかった。しかし、こんなものではなかったことを翌日知ることになった。

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水のきらめきはうっとりするほど美しいが、写真でそれが上手く伝えられているだろうか。

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千頭の駅に戻る。ミニ列車は床が低く、ホームも低いから路面からの段差もあまりない。

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千頭から新金谷まではときどきSL列車が走る。土日は数本、普通の日は不定期で、1本かときに2本くらい走ることがあるらしい。ちょうど出発待ちの列車が入線していたが、私は千頭から寸又峡温泉にバスで向かう。今晩は寸又峡温泉で泊まりだ。

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千頭駅。ここから寸又峡温泉までバスで約40分。
(つづく)

大井川鐵道井川線③

大井川鐵道井川線の終点、井川駅から歩いて5分ほど階段と坂を下ると井川ダムがある。

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ダムが好きだ。人間がこんな巨大なものを作れることにいつも感動する。自然に手を入れることの是非はあるけれど、自然はあるがままが正しいとはいえないと思う。もしそうなら文明の否定だし、人間そのものの否定だろう。

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否定すべきなのは過剰なもの、不必要なものなのであり、そういうものがあったからといって全否定するのは短絡的すぎる。人は考える煩わしさについ単純化して白か黒かの論争に走る。世の中を百点か零点かで見るべきではない。

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何かを得るために何かを失う。失われるものにこだわっていながら、得ることも当然だと考えるのは自分勝手に過ぎるだろう。

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人の営みの集積がどれほど偉大なものなのか、分かりやすく見せてくれるのがダムなのだと私は思う。

ダムの存在が時に自然に対する暴力になるとしたら、それはダムが悪いのではなく、当たり前のことだが人間が悪いのである。ダムに反対ではなく、ダムを造るものに傲慢が見えたらそれに反対すべきだろう。

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中部電力井川展示館。こういうところは案外面白いのだが、寄っている時間がない。

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こういうところに人間の温もりを見てしまう。

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なかなか色っぽいのである。

ダム湖畔から対岸へ渡し船があるそうだ。そこから散策路もあるという。どこか宿泊できるところがあるのだろうか。

次の列車を逃すとその次は二時間以上待たなければならない。何しろ上り下りとも一日5本か6本しかないのだ。

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帰りの列車が待っている。


2017年3月19日 (日)

誉田哲也「ドンナ ビアンカ」(新潮文庫)

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 先日読んだ誉田哲也の「ドルチェ」に続く、女刑事・魚住久江を主人公とする警察小説で、前回は短編集、今回は長編である。

 物語はある男のモノローグと、魚住久江が招集された誘拐事件の捜査の様子が交互に語られていき、次第に収斂していく。人生とはまことに不思議な出会いとふれあいに満ちたものかと思う。

 人生はしばしば悪意に充ち、善いことなど一つもないように見える。もともとこの世は善いことに充ちているわけではない。ときに悪意に充ちているからこそ、それに染まらずに生きるのは難しい。そして悪意に染まらないのは必ずしも強いからではなく、弱いものがしばしば矜持を持って生き抜き、強者が奈落に落ちる。矜持を失わないで生きる弱者こそ本当のやさしさの持ち主であることをこの小説は教えてくれる。

 これは警察小説でありながら、純愛小説である。このような生き方をすれば、私にももしかしたらもっと好い出会いがあったのだろうか。いい女はたいてい私を避けていくように見えるのはひがみだろうか。残念なことであった。

 先日の「ためしてガッテン」は「声」がテーマであった。それを録画していて今日観た。メインの話は声帯と大動脈瘤の関係についてであったけれど、声帯の異常は胸部のいろいろな疾患と関係があるというのが科学的に説明されていた。

 私も数年前からときどき声がかすれることがあった。しかし医師に診断を仰ぐ必要がある声のかすれは、①原因に思い当たることがなく、②一週間以上かすれが続き、しかもだんだん悪化する、③大きく息を吸い込んだ上での発声を10秒以上続けられない、という場合であるという。

 私の場合はそれほどかすれが長期間続くわけではないが、電話で話そうとすると声がかすれて出にくいことがしばしばあった。老化でも声がかすれたり震えたりするのは、高齢の人と話したことがある人なら承知しているだろう。自分の場合もそうなのかと思いながら、とても気になることもあった。

 一昨年亡くなった母は、晩年の数年間は上手く発声できなくなっていた。発語障害という診断で、当初はリハビリに通ったが、寝たきりになってからはそれも叶わず、次第に会話が出来なくなった。自分の思いを人に伝えられずにずいぶんじれったい思いがしたことだろうと思う。

 年齢なりの脳の萎縮はあったが、大きな脳の器質障害は見られなかった。つまり意識はある程度クリアなのに、言葉だけがうまく話せないのである。最後は私が大きな字でカードを作成し、それを指さしてもらうことで要求を伝えてもらった。水、とか食事、とかテレビ、ラジオ等々の言葉をカードにした。

 いま後悔しているのは、「ありがとう」というカードを作っておかなかったことである。どんなにそれがいいたかったかと悔やまれるのである。そしてそれを指さしてくれることで、介護するこちらがどれほどの励みになったかしれないのである。

 そういう母を見て来たので私も声を失うことが恐ろしい。声が突然かすれて上手く話せないのは、私の場合は何日も誰とも話さないからである。そうなったときに大阪へ、松本へ、群馬へ千葉へ友人や弟に会いに出かける。時には娘のどん姫に声を掛けて泊まりに来てもらう。会話をしていると一時間足らずで完全回復する。不思議なほどである。そうして一度回復すると当分は大丈夫である。

 さいわいこの半年ほどそのような声のかすれがほとんどなくなった。それだけいろいろな人を訪ねたり、旅に出て人に積極的に話しかけたりして発声しているということかもしれない。

 歌を歌ったり、詩を朗読することも良い。これは母のリハビリの時に側にいて教えてもらった。意識して歌うこともある。

 最後は母のように発語が困難になるかも知れないけれど、努力すればそれは先延ばしに出来るし、パソコンを手元においておけばカードの代わりにキーを叩くことで意思は伝えられる。

 番組の後半でも、老化による発声障害のことが取り上げられていた。意識して声を出すことが肝要らしい。老化というのは使わないと進むのだとあらためて感じた。

大井川鐵道井川線②

ミニ列車の車窓のスナップから。


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ハイキング用の遊歩道が大井川鐵道の横に作られているが、こんな吊り橋もときどき見られる。

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無人駅が多いが、特にこの尾盛駅は有名。この駅に通じる道はなく、人家も全くない。つまり、降りてもどこにも行けない。もともとはダム工事の作業者たちの小屋があったところだそうだ。車掌によると、そんな駅だからこそわざわざ降りるマニアがけっこういるという。帰り道の時に、反対側の小屋らしきものの写真も撮った。それは後ほど。

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鉄橋の上からちょっと身を乗りだして。下から70メートルだか100メートルだかあるそうだ。柵も枠もない。昔のあの余目の鉄橋を思い出した。

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カーブで前方を撮る。激しい軋み音と共にときどき継ぎ目でガンという衝撃音が聞こえたりする。大丈夫か。

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終点の井川駅に到着。見えているのは乗ってきた列車。これが折り返しする。中を掃除したりするので30分程度ある。その間にすぐ近くの井川ダムを見に行くことにする。

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駅の前にこんな標識があった。

井川ダムは次回に。

2017年3月18日 (土)

大井川鐵道井川線①

千頭駅でミニ列車に乗り換えて井川線を終点の井川駅まで行く。大井川の絶景はこの千頭駅から先にある。


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ミニ列車というだけに、車幅は狭い。片側二人掛け、片側独り掛け。全線ふたり掛けの側が大井川に面していて、景色はほとんどがそちらがよろしい。

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車窓にはこんな絵になるところもある。

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とにかくトンネルが多い。そもそもがダム工事のために敷設された路線である。揺れるし、レールの軋み音や車両の軋み音がすさまじい。

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この路線は日本唯一のアプト式鉄道である。最大が1000メートルで90メートルの急勾配なのだ。アプトいちしろ駅とながしまダム駅のあいだだけ、専用の機関車が牽引する。線路のあいだに付けられた刻みを機関車の歯車が噛んで走るのだ。

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前に回って撮る。客車と比べて機関車はずっと背が高い。

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ここが急傾斜のところなのだが、こちらも傾いているのでよく分からない。

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やがて長島ダムの威容が眼前に。

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放水しているところをアップで。手前にある釣橋を渡ることが出来るそうだ。いまちょうど長島ダムは内部を見学できるらしく、ダム湖の上野駅で降りる人も多かった。

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これがダム湖。

列車はとてつもなく遅い。自転車並みか。ゆっくりとさらに上流に向かっていく。
(つづく)


大井川鐵道(千頭まで)

Dsc_2591神尾駅でスナップ

大井川鐵道は東海道本線の金谷駅から大井川に沿って北上し、千頭駅まで走っている。さらに千頭駅から井川駅までミニ列車が運行されていて、こちらは大井川鐵道井川線。線路幅が違うので千頭駅で乗り換えである。有名なSLが走っているのは新金谷駅(金谷のとなり駅で、SL展示館がある)-千頭駅間。

少し朝早めに名古屋を出て浜松で乗り継ぎ、金谷から大井川鐵道に乗り換える。今回は急に思い立ったので事前になにも調べていなかった。頼りは古いガイドブックのみである。宿は寸又峡温泉に予約を入れてある。

大井川鐵道の金谷駅の窓口で詳しいことを教えてもらった。千頭から先の井川までのミニ列車は本数が少ないが、いまなら千頭で乗り換えて井川まで行って戻り、寸又峡温泉に余裕で入ることができるとのことだった。パンフレットなどをもらい、お薦めの周遊券を購入。これなら大井川鐵道の列車やバスに乗り放題で、2日間有効、4400円。結果的にとてもお得だった。

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JR金谷駅。左奥のポストの向こうが大井川鐵道の駅舎。こじんまりしている。金谷は旧東海道の宿であり、周辺にちょっと寄りたいような場所もあるようなので、今度は車でそのへんを歩きたいと思う。

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大井川鐵道金谷駅ホーム。

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立派な列車が入線してきた。写真を撮るためにどっと人が繰り出したのでその間から撮影。

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車両内部。大変きれいなのだが、椅子はギシギシいうし、列車の走行音がやかましい。

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金谷駅からしばらくは大井川は見えないが、やがて右手に広い河川敷のある大井川が現れた。

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川幅は広いが水は少ない。上流に数多くのダムがあるからだろう。江戸時代など、この川幅のまま流れていれば渡渉は大変だったと思われる。

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この辺は川根町、川根茶の産地である。沿線はずっと茶畑が続く。

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杉の花が満開らしく、赤茶けている。車窓のガラスに写りこみがあるのがどうしても避けられないので見苦しくて申し訳ない。

千頭駅まで約一時間10分。本を読んでいたらあっという間に到着した。ここからバスで寸又峡温泉に行き、ハイキングするつもりだったのだが、駅員の勧めどおりさらに先まで、井川駅まで往復することにする。ハイキングは明日にしよう。

千頭駅で井川線に乗り換えた。
(つづく)


まともな判断

 昨日、前橋地裁の原発避難民賠償についての判決がくだされた。避難民は賠償額が少ないとして多いに不満だというが、そのことの是非はいまは置いておく。それよりもあの東日本大震災での福島第1原発事故が人災であるとの明快な判断が出たことに多いに同感した。

 他にもそのような判断や判決があったのかどうか知らないが、あの事故が未然に防ぎうるものだったこと、対策をとればあのような甚大な被害になることはなかったという、初めてまともな判断が下されたと私は思う。

 このことの意味は大きい。原子力発電と原子爆弾の区別がつかずに、まったく同列の、危険で排除すべきものと決めつける論調は科学的には間違っていると私は思っている。

 あの原発事故がなければ、世の中は全く違ったものになっていたことを想像する。あのような千年に一度の未曾有の地震と津波にもかかわらず、原発の被害がほとんどなかったのなら、日本の原発の安全性は高く世界に評価されたことであろう。同様の震度にさらされながら女川原発や、福島第2原発のようにびくともしなかった原発が現にあった。

 つまり、今回の判決のように、津波対策を講じて電源喪失を招かなければ、事故は起きなかったという判断は科学的に正しいと確信する。つまり明らかに人災であり、東京電力とそれを監督管理する政府に然るべき処置を講じなかったという怠慢があったから責任があるという判断である。

 こんな判断は原発事故後すぐにでも調査報告でなされているべきことではなかったか。

 こんな事態になったのは、当時の政府が民主党政権だったことがおおきく影響しているように思う。責任追及をうやむやにすることが目的なのかと思うような調査報告を許したことの責任は大きい。

 中国大陸への歯止めのない関東軍の暴走に始まる先の戦争責任をA級戦犯だけの責任にして国民は免罪され、戦争をあおったマスコミは口を拭って平和を口にする。懲罰は別にして、責任は自らが為すべき役割を怠ったことに起因するのではないか。

 責任者が責任をとらないのが日本の悪弊である。その典型が官僚だともいわれる。大会社のトップにもいつの間にかそのような人間が居座るようになった。東芝の長年にわたる無責任体制はあちこちにほころびが出ていたのに放置され続けて、このような体たらくになった。東芝といえば、原発事故がなければ原子力事業のここまでの不調はなかったから、その破綻は遅れただろうが、時間の問題だろう。

 某籠池などという三百代言に振り回されて、共産党の小池氏、社民党の福島瑞穂氏、もう一人見るだけで不愉快なので名前が思い出せない女性代議士が、その籠池某とにこやかにテレビカメラの前で並んで映っている姿を見ると、これらの人々は皆同類なのだろうな、と国民の目に映っていることに思いが及ばないのだろうかと唖然とする。

2017年3月17日 (金)

まだ終わらない

 少し早いが酒を飲み始める。

 今日は家庭裁判所に行く日で、今日が結審になるのではないかと淡い期待を抱いていたのだが、またも10分足らずで終了。今回も宿題は申立人である先方にのみ与えられた。当方はほぼ出せるものは出しているのに、さらに詳細なものを出すよう相手が求め、その理由をあきらかにするように、というのが裁判官からの宿題なのである。

 つまり通帳その他の金の出入りを全て一年前まで遡って開示しろというのが先方の要求である。私は犯罪者ではない。当然不愉快だから断った。その要求にどのような根拠があるのか示せ、という裁判官の質問に相手は答えられないので、次回までにそれを文書にして提出するようにということなのだ。相手は、私が巨額の金を隠匿していると妄想しているのだろうか。ここまで来ると少々気味が悪い。

 これでまた一ヶ月宙ぶらりん。

 しばらくはそのことを考えずにすむので、ささやかながら酒の肴を用意して、いつもより早めに、いつものように独り酒宴を始めた。

 実は15日、16日と小旅行に行っていた。以前から行きたいと思っていた、大井川鐵道の旅である。さいわい天気にも恵まれ、段取りもしていないのに案外効率よく廻ることが出来た。本数が少ないので、下手をすると思ったように回れないところだった。駅員や車掌にこまめに教えを請うたことが正解であった。皆本当に親切なのだ。嬉しいことである。日本は好い。ただし冷たい海外もそれなりに好いけどね。

 その旅の話は明日からゆっくりと写真付きで報告することにして、本日はこれにて閉店。いただきまーす。

魚住和晃「『書』と漢字」(講談社学術文庫)

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 高校時代に選択科目だった芸術で、私は書道を選んだ。音楽はもともと苦手だし、絵心もない。では字が上手かといえば親に似ず(父はとても端正できれいな字を書いた)悪筆である。しかし字はせめて読みやすい字が書けるようになりたいと思っていたのだ。

 そのときの先生が、種谷扇舟先生というすばらしい先生だった。先生の書は千葉県の学校の書き初めのお手本に使われていた。『書』の歴史についても造詣が深く、当時文化大革命真っ盛りだというのにつてを頼って中国に乗り込み、破壊されまくっていた石碑などの拓本を身の危険も顧みずにとりまくって来た。

 だから歴史上有名な石碑の拓本を数多く実見させてもらった。顔真卿、欧陽詢、虞世南をはじめ、書道の本に出てくる名人たちの字の実物の迫力を教えてもらったのだ。墨の匂いのする大きな拓本を大事そうに開いて見せてくれたときの先生の嬉しそうな顔が忘れられない。

 実家には私が卒業したときに先生が青墨で書いてくれた「麗日」という書を額にして掛けてある。

 先生がどうして文化大革命の最中に中国を歩き回ることが出来たのか、そしてそんな文化大革命の趣旨に反するような危険なことが可能だったのか分からない。しかしその冒険談のような話をするときの先生の得意そうな顔はいまでも覚えている。先生の拓本にのみ残り、いまは失われてしまった石碑も多分あるに違いない。

 西安に「碑林」という場所があり、そこには中国の有名な石碑が集められていて、それこそ林のように並んでいる。ここには三度行った。そこで購入した王羲之や顔真卿の拓本を持っているのが私のひそかな自慢である。種谷先生に見せたらにやりとするだろうなあ。

 肝心の本の話が後回しになったが、そういう「書」についての思いがあるので、この本を興味深く読んだ。内容は日本の書についてなのだが、飛鳥時代、奈良時代、平安時代の書であれば当然中国の書の影響がとても大きいのである。日本書道史の名品について、歴史家としてではなく、書道家としてその解析をしていくのだが、ミステリーを読むようにわくわくする。

 空海の「風信帖」などは真筆が残っているのでそれを臨書したことがある(もちろん手本は印刷物だが)。具体的な運筆を語りながら解析して、従来の説に新たな視点をもたらしたに違いないこの本は、私にとって興味深く楽しい本であった。ただし読むのに時間はかかったけれど。実際に自分で筆で書いてみると、もっと実感できただろうと思う。

2017年3月16日 (木)

橋本治「たとえ世界が終わっても」(集英社新書)

 その先の日本を生きる君たちへ、という副題がついている。

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 橋本治が初めて語ったものをそのまま本にしたそうだ。いままでも語ったものを、編集者がそのまま文章に起こしたものはあったがみな一から橋本治自身が書き換えてしまうので、語り起こしらしい語り起こしは初めて、ということらしい。

 とはいえ彼の文章は語りかけるような、文字通りの口語文なので、いままでとそれほど違うわけではない。彼の語ることばを五十代の編集者と三十代の若い編集者が聴き取り、よく分からないときには聞き返す、という展開になっている。聞き返さないと橋本治の話は一見飛躍しているのでどこにいるのか分からなくなる。世代の違う人が聞き取ることには大事な意味があるのである。

 彼はこの表題の企画をイギリスの国民投票でEU離脱が決まった時に思いついたが、実際に本になるころにはトランプ大統領まで出現してしまった、とわらう。しかし時間が経過したからといってなにも問題ないのである。

 橋本治がこの世界をどう把握しているのか、それがこの本に書かれていることである。こんな世界の認識の仕方は彼しか出来ない。古代から中世、そして近代、さらに現代へと歴史を概観し、東洋と西洋の世界観の違いを彼なりに大づかみする。

 その世界観からイギリスのEU離脱の意味を解釈すれば「世界は終わった」のである。しかし世界は終わったりしない。彼の言う世界とは、皆が当たり前だと思っていた世界である。そういう世界が終わり、次の世界が当然来るけれど、その新しい世界をどう生きるか考えるために、いままでの世界を橋本治流にとらえ直して総括しようというのがこの本の試みであろうか。

 この本に述べられた橋本治流の世界のとらえ方はユニークではあるけれど、矛盾がない。私は教科書から習い覚えた世界観より彼の考え方の方をとりたい。彼の考え方に賛同するかどうかは別にして、精神にフレキシビリティを持っていると自信のある人は、是非この本を読んでみて欲しいものである。必ず得るものがあるだろう。

 以前橋本治の本を初めて読んだ頃は、何だこの人はと思うこともあったが、次第に感化されていた。私と同年の内田樹老師も橋本治を敬愛している。ちなみに橋本治は私の二歳年上であり、難病をかかえているが、生き方の自由さはけた違いである。世の中にはすばらしい感性と知性を持っている人がいるものだ。

2017年3月15日 (水)

水に落ちた犬を叩く

 朴槿恵大統領は弾劾されて失職し、大統領府を追われて元大統領になった。大統領罷免の運動を主催してきた市民団体は、自宅に戻った朴槿恵大統領の私邸を捜査すべしと主張している。重要な証拠を大統領府から私邸に移して隠したに違いないからだそうだ。

 日本人ならば大統領府を追われた時点で哀れを覚え、惻隠の情からそれ以上の攻撃は控えることだろう。もちろん捜査は当局が継続することについては当然ではあるが。しかるに罷免運動が奏功して罷免したにもかかわらず、市民団体がさらに攻撃を続けるところはいかにも韓国らしいと思える。

 多分日本人が甘いのだろうが、私は日本人だから、その方が人情として良いように思うが世界は違うのだろうか。

 このような韓国人の心性が、日韓の間のいろいろな交渉過程で結果してきたのだなあと思う。相手に譲ることで妥協点を見出そうとする日本に対して、譲るのは自分が悪いことを認めた証拠であるとばかりにさらに要求をエスカレートさせてきたのが韓国のように見える。そしてひたすら謝罪を求め、謝罪すればやはりお前が悪いのだといい、さらに謝罪を求め、まだ謝罪が足りないといい、際限がない。

 ようやく妥協点を見出したかに見えた慰安婦問題が、再度蒸し返されるのは必至であろう。過去の条約で、賠償金を支払えば戦争責任は問わないと決めていても、個人は別だという論理でその責任を個別に請求するのも同じだ。条約では個人の請求は韓国政府が一括して引き受ける、と明記されているのに、である。日本政府は個別補償をするつもりでいたが、それを一括して韓国政府に支払えば引き受けると約束したのは韓国自身である。

 これでは交渉そのものが意味を成さず、なにも決められない。それを当然と考えるのは、韓国人の自分は絶対的に正しく、日本は全面的に間違っている、という考え方によるようだ。正義は常に悪を懲らしめる権利があるということだろう。

 これでは悪と決めつけられた方は永遠に立つ瀬がない。もし反論すれば、開き直った、とさらに怒りをつのらせる。

 こういうところは相手にしない、という選択肢もある。相手が困難にいたるのを傍観し、ひそかに溜飲を下げるというわけだ。しかし相手のこちらへの怨みはさらに募って全ての責任を転してくるばかりとなるおそれが大きい。

 理想をいえば、相手が自分の思い込みに自分で気がついて修正することを促すことだが、なかなか困難だ。こういう相手には強く出るしかないのだろう。相手が自分の下位にあると信じるからこその強気であろうから、そうではないとはっきり知らせることだろう。本来は対等であるのだが、時にはこちらが上であるような態度も見せる必要があるのかもしれない。

 その意味では日本が大使を引き揚げたことは韓国にとって多分驚きであるに違いなく、韓国が何らかの手をうたざるを得ない状態においておくのは一つの有効な方法であるかもしれない。ここで安易に妥協すればもとのもくあみであろう。

 朴槿恵大統領は水の中で叩かれ続けるだろう。仮にも自国の国家元首として仰いだ人物をどこまで叩き続けるのか、それを見とどけるのは、これから韓国との関係をどうすべきかの大きな教訓になるのではないか。

彼等が悪とみなしたものに対してどのように際限なく攻撃を続けるのかよく見ておくことにしよう。

誉田哲也「ドルチェ」

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 「ストロベリーナイト」や「ジウ」のシリーズの人体破壊的な暴力シーンや流血シーンはあまりない。殺人事件を扱う捜査一課でそれなりに優秀だった女刑事、魚住久江は所轄に移動して10年、現在は練馬署の強行犯係に勤務している。古巣の捜査一課からはしばしば戻ってくるように声がかかるが、彼女はそれを断り続けている。

 口に出さないが、殺人事件そのものにあまりたずさわりたくないというのが本音であった。その彼女が所轄の刑事活動で出会った事件のいくつかが短編集としてまとめられている。捜査一課の扱う殺人事件ではなくても刑事活動は同じである。そこには事件に関わった人たちの人生の断面があり、そしてそれを捜査のためにあきらかにすることで刑事そのものの人生にも影響が及んでいく。

 いろいろな人がいていろいろな軋轢があり、時にそれが暴走して事件になってしまう。そのことに怒りや哀しみを感じながら自分自身を見つめ直す彼女にちょっと惚れる。登場人物のキャラクターが文章から次第にイメージ化されてきて動き出す。なかなか面白いシリーズになりそうだ。続編となる長編の「ドンナ ビアンカ」という本も同時に購入した。近々読むだろう。

長谷川慶太郎「大局を読む[緊急版]大転換」

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 トランプの政策が見えてきた!とおっしゃる長谷川慶太郎先生が、まずトランプが大統領になった理由を解説し、そのトランプ大統領が今後どのような経済政策をとるのか推測する。そしてアメリカの世界との関わり方の変化の見通しを述べる。

 当然それにおおきく影響を受ける日本の今後についても予測する。特に日銀の黒田総裁の異次元緩和は失敗であったようだ、と断定する。デフレ経済を見誤り、不可能なインフレ目標を立てたけれどもまったく効果がなかったことが明らかになったという。これは世界の情勢が大きく変わったからではなく、そもそもが見通しを読み違えていたと言うことらしい。

 ヨーロッパ、そして中国、ロシア、さらに韓国がどうなっていくのか、いつものように明快にその悲観的将来を予測する。いままでほぼ先生の予測に近いかたちで世界は動いていると私は認めているので、今回の予測は遅かれ早かれその通りになるのではないか。

 世界は大きな戦争が起こらない限り、デフレから脱却することはない。そして大きな戦争はもう起こらない。というのが先生の予測のベースである。

 多少苦しむ事態はあるであろうが、いつものように日本は大丈夫、他の国よりずっとマシ、とご託宣を垂れておられるのでほっとして元気が出るのである。先生は現実に自らが得た具体的な情報に基づいて予測しているので凡百の経済学者などのような机上の空論ではない。

 東芝の現在の事態やサムスンの事態は10年以上前から明確に予測していたのである。今度も当たるであろう。

2017年3月14日 (火)

昔はお粗末だった

 本格的にブログを始めたのは2011年の1月から。2010年に試しに二三回書いたが、やり方がよく分からずにそのままにしていた。しばらくして知り合いがやっているのに啓発されて本格的に始めた。

 いまアーカイブを作成している。古いものを読みやすいように日付順に編集し直して月別にファイル化している。画像はそのまま文章と一緒にコピーできないので、画像は画像で個別に貼り付け直す。それが少し手間である。

 読み直すと面白いのだが、字は小さいままだし、レイアウトは空間無しできちきちだし、まことに読みにくい。しかも文章はです、ます調だったり、である調だったりと、一定していない。これではたまたま覗いた人も継続して読む気にならないだろう。やたらに写真だけが貼り付けてあり、その説明もなかったりして不親切である。

 しかもいただいたコメントにきちんとお返しが出来ていないものも多いようである。まことに失礼なことであった。

 丸五年を過ぎて、まだまだ不十分ながら、以前よりは多少は読みやすくなっているらしいことは分かった。2011年と言えば大震災の年である。その三月のことも書かれているが、その三月に中国の雲南省や桂林に行った記事があって懐かしかった。

 そのへんの写真を時に断片的に紹介したこともあったが、旅行の順番に従ってもう一度掲載したくなった。来週以降くらいにときどきアップすることにしてみようかと思っている。

わざわざ言及したから却って疑わしいとは何たることか!

 某学園の某理事長が、記者会見の場で独演会を演じていた。いや、今回は絶縁したと報じられていた長男と一緒だったから独演会とはいえないか。この長男は父親のコピーのような物言いをして人の話を遮り、およそまともな人間に見えなかった。

 彼は父親を援護するつもりだったと思うが、この父親にしてこの子あり、と人を肯かせるだけの役回りを演じていた。彼は自分のアイデンティティを獲得するために父親と絶縁しながらそれに失敗したものと見える。いまは気がついていないが、報道の映像をあとで見たら自分の姿に愕然とするだろう。

 この場で某理事長(もう元理事長か、しかし学園を離れるつもりがないというから実質は変わらない)は安倍首相及び夫人の照惠氏の学園への関与について「一切関わっていない」と言明していた。

 その言葉が本当かどうかは知らない。誰かの何らかの関与がなければこのような異常な人物がこんなにスムーズに国有地を取得し、学園創設を進めることが出来ないらしいことを専門家が言い立てているからである。

 しかしながら、具体的な証拠や根拠がないのに「わざわざ安倍首相と照惠夫人の名前を出して否定したことこそが怪しい」などという一部マスコミの報道が見受けられたことに怒りを覚えた。

 マスコミはいまだに自分が天の声だと錯覚したままらしい。これでは韓国や中国のマスコミとどう違うというのだ。裏を取らずに憶測で物を言い出したらマスコミの自殺であることにいまだに気がついていないらしい。

 自分で調べて根拠を示せ!

2017年3月13日 (月)

訓練は挑発?

 韓国軍とアメリカ軍の合同訓練が予定されているが、アルカイダの指導者だったウサマ・ビンラディンを殺害した、アメリカの特殊部隊が参加するとのことだ。

 この訓練で北朝鮮有事の際に金正恩を排除する訓練を実施すると見られていると韓国の聯合ニュースが報じている。

 韓国軍は1000人規模の特殊任務旅団を創設するとされており、その準備のための訓練だろうとのことである。

 トランプ大統領なら、口実さえあれば作戦を実行に移すだろう、と誰もが考える。多分中国もそう考えているだろう。アメリカが韓国と合同で北朝鮮を制圧してしまえば中国の影響力は低下してしまう。北朝鮮には多くの中国の権益がある。それが失われ、軍事的にも後退を強いられる。それは中国の望むことではないだろう。

 そうなれば中国は先制攻撃を仕掛けないと損だ、と考えるかも知れない。それを見越しての韓国とアメリカの訓練ではないかと私は思っている。そうして中国が挑発に乗って北朝鮮を制圧し、傀儡政権を立てれば現状より少しマシになるし、その軍事行動の非難は中国にだけ向けられる。ババ抜きのババを中国に引かせたいのではないか。

 しかし韓国の新大統領はそのような事態をどう考えて行動するだろうか。それは韓国の国家的行動基準である民意によるだろう。そしてその民意はほとんど正常を失っているように見える。それは金正恩の暴発のきっかけとなりかねないものでもあって、誰がどう先手を取るのか、そして最後は誰が主導権を握るのか、その駆け引きが始められているような気がする。

 ちょっと面白がりすぎだろうか。つい他人事なので・・・申し訳ないことである。

先延ばし

 昨夕、先延ばししていた床屋にようやく行った。今までになく混んでいる。日曜日だからか子供も多い。初めて待たされたが、席数も多く、回転が速いのですぐ順番が来た。格安の床屋なので、調髪、ひげそり、洗髪が30分あまりであっという間に終わる。多少雑でも自分の髪は自分自身にはよく見えないから、さっぱりしさえすればかまわないのだ。

 土日はシニア割引がないので一割ほど高いが、普通の床屋の半額以下である。普通の床屋は値段が高くなりすぎた。丁寧だけれどそんなに高くてはデフレ時代に合わなくなっているのに、理容師組合で協定値段が決められていて下げられないのかも知れない。競争のないことは衰退を招くから、客は減るだろう。格安床屋のますますの繁盛はそれを示している。待合室の壁には理容師の求人のポスターが掛かっていた。

 話は変わるが、ある雑誌(SAPIO四月号)で大前研一氏と落合信彦氏のふたりがそろって「先延ばし」を提案していた。ふたりは専門分野が違うから、異なる観点から世界を見ているけれど、結論が同じことが面白い。

 ふたりはそれぞれにトランプ新大統領の短命を予測している。その根拠はニュースを見ている人なら皆知っていることである。政権内の意見不統一が続き、ついにまとまることが出来ずに崩壊するだろうというのだ。

 そこで日本は、つまり安倍政権は、トランプ大統領の提唱する、TPPに替わる二国間交渉については安易に乗るな、というのである。拒否しては感情的になりかねないから、強要されたら「のらりくらりと結論を先延ばしすべし」、と言うのである。

 まことにその通りであると思う。アメリカと日本は対等ではない。そんなことは誰でも承知しているけれど、建前は対等として交渉することになる。そうして過去どれほどアメリカの無理な要求を呑まされてきたか。だからTPPは妥協の産物とはいえ、アメリカとの二国間の交渉よりはマシだったと私は思う。

 アメリカは再び一方的で理不尽な要求を突きつけてくることは火を見るより明らかである。それが証拠に、日本の自動車輸入に非関税障壁がある、というトランプ大統領の時代錯誤でしかも事実に反する言葉がある。売れないのはアメリカの車に問題があるのではなく、日本が買わないように仕向けているからだ、というのである。そして多分まず何万台以上のアメリカ車を買え、というばかげた数量要求をしてくることだろう。

 古い話だが、日米繊維交渉でアメリカの繊維産業は守られたか。結局はほぼ消滅してしまった。そして日本の繊維産業はそのダメージをひきずって苦難の道を歩まされた。こんな理不尽な要求を飲んだのは現代では日本だけである。屈辱の歴史である。

 アメリカは繰り返し日本にそのような要求を行い、日本はそれを呑まされ続けた。ではアメリカが日本の要求の何を呑んだか、記憶にない。二国間交渉をするとなれば、しかも30年前の記憶の世界観のままで頭が固まったトランプのもとで交渉するとなればその悪夢がよみがえるだけである。

 だから大前研一氏も落合信彦氏もいま日本に出来ることはトランプ政権の自滅を待ちながら「のらりくらりと結論を先延ばしすべし」というのである。全く同感である。日本にとって結論を急いでいいことはなにもないのである。理不尽な要求は呑む必要はない。建前上アメリカの植民地ではないのだから。

2017年3月12日 (日)

姫路城(3)

ようやく姫路城天守閣である。


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この道は映画などで江戸城に模して使われる場所だとテレビで言っていた。確かにそれらしい。

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さまざまな形の狭間が設けられている。

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テレビで姫路城を紹介したガイドの人が、ここからのお城の姿が好きだ、という場所から撮影。

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ぐるぐる廻りながら小さな門をいくつもくぐる。なかなかたどり着けない。門の足元には瓦が埋め込まれている。

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城内に入り、しゃちほこを見る。しゃちほこは水に関わるもので、火除けなのであろう。

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城内はとても広い。

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賴山陽の書。

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使われている材木の太くて立派なことに感心する。こうして周囲をぐるぐる廻りながら、階段を何回も登って行く。

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この太い柱を見て欲しい。実際はとても暗い。

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こんなところもあった。

階段が滑りやすいので私はスリッパを断って靴下はだしで登った。天守最上階は外に出られないので、見晴らしが良いというわけにはいかなかった。

上まで登ったので満足して降りる。

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正面から天守閣をもう一度。とにかく大きい。来てよかった。

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すぐ下から見あげて、その重量感あふれる迫力と美しさをあらためて感じた。

これにて姫路城は終了。

大満足して名古屋に帰った。

床屋が苦手

 行かないですめば床屋に行きたくない。なにより出かけるのが億劫だし、鏡の前になにもせずに坐らされて自分の顔を見続けるのがいやだし、時間がもったいない気もする。

 それでも三ヶ月あまりも過ぎて、襟足が伸びてむさ苦しいようになると、行かずにいるわけにもいかないと思う。そう思いながら先延ばししている。

 顔の周りを刃物が行き交うのもどうも落ち着かない。志賀直哉の「剃刀」という短編小説を思い出してしまうではないか。

 とはいえいまさら後ろで髪をくくるような長髪にするまで伸ばし続ける気もしない。いい歳をして長い髪をくくっている男を見るとたいてい嫌な気がする。似合っている人がいないことはないが稀である。長髪とは別の、何かその人の全体のコーディネーションが恰好がいい人はいるが、私がそのようになる可能性は残念ながら(というか幸いというか)全くない。

 ああ面倒くさいなあ、と思いながら、まだ先延ばしを考えている。

2017年3月11日 (土)

お金の使い方

 お金を使い切れないほど持ってるのに使わない人と、お金があまりないのにせっせと使う人のあいだには限りなくバリエーションがある。たくさんあるからせっせと使う人が本当の金持ちで、使わずに抱え込むのはいくら財産があっても金持ちとはいえない。

 贅沢をしなければ生活に不自由ない程度のお金があって、自分の寿命が来た時には葬式代程度が残るように使い切れる人が、本当にお金の使い方の名人かと思う。

 将来が不安だからとせっせと蓄える人がいるけれど、必要をはるかに超えて使いようがないほど残しても、後に禍根を残すばかりではないか。子孫に美田を残さず、である。90才を過ぎているのに、老後が心配だ、などと話す老人を見ると呆れてしまう。いったいいつまで生きるつもりなのだ。

 寿命の範囲で使い切れる程度の金を残し、寿命の残り加減で使い方を調整しようと常に考えている。さいわい今のところ人に頼らなくても暮らせているけれど、何かあったらそのときである。息子や娘もいる。地震や事故、病気はいつ身に降りかかるか知れない。それを考えすぎても眠れなくなるだけで、心身に良くない。

 これだけ残っている、と思うか、これしか残っていない、と思うかで人生はずいぶん気持ちの有り様が違うだろう。

 ちょっと理由があって、いまさらのようにこんなことを考えた。

他人事(ひとごと)

 韓国の憲法裁判所は、全員一致で朴槿恵大統領の弾劾が妥当だという判断をして即日朴槿恵大統領は失職した。憲法裁判所の判断は法律にもとづくというよりも民意にもとづくことが多いので、全会一致の判断は予想外とはいえ驚くことでももない。

 それよりも憲法裁判所の前に集まった弾劾賛成派と朴槿恵大統領擁護派の様子は私には異様な光景に見えた。見ていると弾劾賛成派は歓喜に沸き、擁護派は身内が理不尽な目ににあったかのような激しい怒りと哀しみを表し、涙を浮かべるというよりも泣きわめくものが少なからずいたようだ。

 しからば彼等はわが事としてこの結果を歓喜したり悲嘆にくれているのだろうか。

 韓国(だけではないが)の昔の葬式の光景では、大声で泣きながら地を叩き天を仰ぐものたちが見られる。これは身内というよりも、雇われた泣き女や泣き男であることが多い。本当に悲しんでいる身内よりも真に迫って悲しんでみせるのが彼等のプロの技であり、その演技に応じて報酬を得る。

 夫婦喧嘩も家の中ではなく、外に出て互いを激しくののしり合い、他人に自分が正しいことを訴える。これは中国も同様のようである。日本人は普通恥ずかしいからこんなことはしない。ドラマなどでそういうシーンを見ると、見ているこちらが恥ずかしくなる。

 朴槿恵大統領は僅差で勝利したとはいえ国民に選ばれた大統領である。大統領を罷免に追い込んだ人のなかには朴槿恵に票を投じた人も多いだろう。自分の判断が誤っていたことに忸怩たる思いを持ちながらロウソク運動に参加していたのだろうか。

 彼等の激しい気持ちの表明の仕方を見ていると、つい泣き男や泣き女を思い出す。実は大統領などどうでもいいのではないか。なにかの不満をかたちで表したいだけなのではないか。いや、そもそもそんなものすら実感としてどこまであるのか。ただパフォーマンスとして他人に見せているだけの演技に見えてしまうのは、私がそれだけ無感情の人間だからだろうか。

 これで左派の大統領が選ばれる可能性が高くなった。そうなれば新大統領は確実に北朝鮮に歩み寄るだろうと見られている。日本との慰安婦合意など吹き飛ぶだろう。アメリカは韓国に圧力を掛けてそれを阻止しようとするだろうが、新大統領にとって国益よりも民意である。民意に反すれば滅ぼされるのを見て来たばかりなのだから。

 サムスンは統率者を失い、これからどうすれば良いか分からずいっそう停滞するだろう。財閥の強みは思い切った投資の決断がトップダウンで可能であることだ。それがなければ烏合の衆である。しからば韓国経済には当面明るい見通しは立ちにくい。

 新大統領は北朝鮮寄りに大きく舵を切り、日本とますます反目し、そのことで民意を統一することを狙うだろうが、なに、民意など実はパフォーマンスのなせる技であった、となれば、経済停滞で暮らしの先行きが暗くなった責任の矛先を新大統領に向けるだろう。

 こうして為政者は、あるものであるようであるものでなく、常にかたちの変わる、そもそも不定形の実体のない民意というものに振り回されて、再び三たび哀れな末路を迎えることになるだろう。

 申し訳ないことに、私は他人事で韓国の状況を見ているが、実は韓国国民も他人事で騒いでいるだけなのかと思っている。それは日本でも多分同じだろう。そもそもデモで先頭のシュプレヒコールに唱和している人々の姿を見るのが私にはどうも恥ずかしくて苦手なのである。安保法制反対の時の議事堂前の群衆の中で、若者のラップらしきものを踊るパフォーマンスをしている姿などは反吐が出そうな気がする。安保法制に反対の気持ちがあったとしても、あれを見たら逃げ出すだろう。

姫路城(2)

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豊臣家が滅亡し、秀頼と死に別れ、生き残った徳川家康の孫娘である千姫が、本多家に嫁いでこの城の西の丸にいた。

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ここが百間廊下入り口。金沢城の五十間長屋などでも長いと思うけれど、ここはそれよりはるかに長い。ただ、つくりは石垣の上の細長いものであるけれど。

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百間長屋の明かり取りの窓。

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百間廊下を歩く。左手は堀であり、右手には小さな部屋がずっと続いている。


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鍵の手になった窓から外を見る。ずっと向こうまで廊下が続いているのだ。

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狭間。敵が来たらふたを開けて鉄砲や弓で攻撃する。

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ところどころにある非常口。

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曲がりくねり、階段でつながれながら延々と続く廊下。

ようやく一番はし、天守閣側の化粧櫓に到る。

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真田丸の時に後藤又兵衛が身に付けていた甲冑。良く出来ている。

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こちらは千姫が身につけていた衣装。

この化粧櫓の階段を降りると出口になる。さあ天守閣に向かおう。
(つづく)

2017年3月10日 (金)

姫路城(1)

倉敷の夜の肴。蛸の刺身、牡蠣のがんがん焼き、特大のコブダイのカマ、新竹の子の天ぷら、スナックエンドウ等々。それぞれが結構ボリュームがあったので、ちょっと食べ過ぎ、それに合わせて飲み過ぎ。


翌朝はゆっくり起きて朝食を食べ、普通電車で倉敷から姫路に向かった。一本では行けず、岡山と相生で乗り換え。

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姫路駅を出ると正面に姫路城が見える。城の入り口まで約1キロ。近く見えるけれど、それはお城が大きいから。

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この橋でお堀を渡り、大手門から場内に入る。しかし本当の入場口はずっと先である。お堀には大きな鯉がうようよいる。

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広い前庭から天守閣を臨む。まだ本来の城郭内に入っていない。それにしても想像していたよりもはるかに大きい!とてつもない大きさだ。

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私はへそ曲がりなので、天守閣方向と反対側へ歩いて石垣の上に登ってみる。そこからお堀の外側を眺める。石垣の上には桜の樹がならんでいるから、今月末頃はきれいだろう。

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今手元に城でもらったパンフレットの地図をおいて見ている。これは百間廊下の入り口あたりを下から見上げているらしい。

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その下に梅が咲いている。もう盛りを過ぎた頃か。右手の櫓(やぐら)はカ(カタカナのカ)の櫓。西の丸の隅の櫓だ。

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カの櫓を下から見上げる。

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入り口に当たる菱の門の前から天守閣を見上げる。修理したての真っ白けの色合いが少し落ち着いたように思える。とはいえ出来てすぐに見たわけではない、テレビで見ただけだ。天気もどんよりしていたので、それで落ち着いて見えるのかも知れない。あんまり真っ白けでは風情がない。

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菱の門をくぐる。とにかく広い。これからあちこち歩き回った。へそ曲がりだから天守閣の反対側の西の丸へ向かう。
一番西の端の百間廊下入り口(靴を脱がされる)から中に入り、ヲの櫓、ルの櫓、化粧櫓まで、約300メートル近くあるという。廊下には小さな部屋がたくさん並んでいた。
(つづく)



ルール違反とマナー

 法律のように、違反すると罰せられるものもあるけれど、それほど公的ではないルールというものもある。神社仏閣や美術館、博物館での写真撮影禁止のことである。私のブログにときどき撮影禁止を知らずに撮ってあとで知ったものや、分かっているのにこっそり撮った写真がある。ルール違反しているのだから非難されても仕方がないと承知している。

 これがルール違反を奨励しているような受け取り方をされたら大変申し訳ないことである。

 自分なりにルール破りをすることを許す基準というものを持っているつもりである。その基準はあいまいなので、説明しにくい。あえて云えば、誰にも迷惑を掛けないし、撮影したものにいささかも悪影響を与えないということだろうか。だから決してストロボを焚くようなことはしないし、人がいるところで時間を掛けて立ち止まることはしない。私がシャッターを押すまでにかかるのはほとんど一瞬である。その前に自分の目で見て対象をイメージとして記憶に留めたら、即座にシャッターを押しておしまいである。暗いところでは感度を限度一杯に上げておいて手ぶれ覚悟で撮る。その設定はそのようなところに入る前にしておく。

 旅から帰り、思い出を反芻する。今はブログにそれを載せる。自分が見たものを文章だけでは分かってもらうほどの文章力がないので写真は有難い。それにしばらく経って写真をじっくり見ると、自分が見たつもりで何も見ていなかったことを思い知らされることが多いし、薄れた記憶を呼び覚ます効用もある。

 なんだか言い訳じみたことばかりいっているけれど、出来れば撮影禁止の場所が少しでも撮影可能になればありがたいなあ、と心から思っている。気にはしているのである。

倉敷(4)

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倉敷の駅裏にはチボリ公園があると聞いていた。

ヨーロッパには特に行きたいと思わないが、デンマークはもし機会があれば行きたいと思う。アンデルセンが、そしてキルケゴールがいた街だ。彼等の歩いたその石畳は見てみたい。

チボリ公園はそのコペンハーゲンやデンマーク風景を見ることが出来るテーマパークらしい。

ところがチボリ公園はなかった。今は三井アウトレットパークという巨大なショッピングモールになっていた。

ホテルのチェックインは四時からだという。その前にチボリ公園を見ることにしようと思っていたので、当てが外れた。

駅裏にはそのチボリ公園の名残のようなものがある。寒風の中、それをぼんやりと眺めた。

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倉敷の駅裏には大きな空中回廊がめぐらされている。中央に時計台の尖塔が建ち、四隅でバイキングが睥睨している。

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尖塔の周りは公園になっている。空中回廊には人がたくさん通っているのに、そこから降りて公園に立ち寄る人は誰もいない。

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下へ降りる階段の途中には尖塔を見つめるアンデルセンがいる。童話を抗争しているのであろう。

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時計台の足元の噴水前には人魚姫がいる。なんだかバカに肉感的な・・・。

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この方向から見ればいかにも人魚姫だ。足元が人魚の名残を留めている。もうすぐ完全に人間になってしまう。彼女は人間になることを後悔しただろうか。

子どもの時に人魚姫の絵本を買ってもらって最後に泡になってしまう彼女の運命に不条理を感じ、何度読んでも哀しかった。

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三時ちょうどに鐘の音と共に塔の一部がせり上がり、童話の場面が現れた。正面はマッチ売りの少女で、左手が人魚姫。

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これは裸の王様。

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しばらくすると再び時計台は降りてきて・・・。

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元に戻ってしまった。

寒いので時間つぶしに喫茶店にでも行って暖まろう。

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誰も見てくれないことを嘆いているようなアンデルセンの背中をあとにした。

これで倉敷はおしまい。翌日は姫路城へ行く。


2017年3月 9日 (木)

倉敷(3)

街角風景。


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ボテロの絵みたいな張りぼて。こういうの、嫌いじゃない。

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卯建(うだつ)のあがっているのは地酒を売る店。車で来ているのなら必ず立ち寄って買うのだが、今は手に荷物を持ちたくない。あきらめる。

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横道に賑わっている通りがある。こちらも浮き浮きする。

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子どもが小さいときに連れて来たのなら寄ってみるのだが。

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どう見てもおばあさんなのにネームプレートは判次郎。

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自分で作陶できるところ。そういえばこの辺は備前焼の産地でもあるのだ。

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その備前焼の店頭で目についたもの。この青色が気にいった。しかも安いではないか。フリーカップの大を購入。これでビールを飲むことにしよう。

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飲み屋の軒下で見かけた彫り物。なかなか凝っている。

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閉店中の喫茶店のショーウインドー。面白い。

倉敷、なかなかやるではないか。金沢もそういえばそういう面白いものがよく目に入る街だった。

このあと駅裏に見に行きたいところがあるので駅に戻る。
(つづく)


倉敷(2)

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こういう景色がそこかしこに見られる。ただ、テレビなどで見てきた倉敷と実際とは少し違う気がするのだが、どうしてなのだろう。考えているけれどまだよく分からない。

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人力車も数台いて、乗りながら写真を撮りませんか?と声を掛けられた。笑って断る。大男が人力車に乗ったら、見た人は面白がるかも知れないが、こちらは恥ずかしい。

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今橋という石の橋。図柄のデザインは児島虎次郎のものだと記念館で読んだ。

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今橋近くの岸辺に青鷺(だと思う)がいた。人馴れしているのか、すぐ側によっても悠然としている。口に赤い小さな魚を咥えているので、それに夢中になっていたからかも知れない。

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露地のこういう道こそ倉敷らしい気がする。
(つづく)


倉敷(1)

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倉敷美観地区。街の案内板はとても分かりやすく、迷うことなく行くことが出来る。掘り割りに沿って白壁の蔵があると言うことは当然水運によって物流があり、栄えたと言うことなのだろう。

対岸右手に花嫁らしき姿が見えた。

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アップにすると花嫁さんらしい女性が小走りに急ぎ、花婿があわてて後を追うかのように見えた。女性は笑い顔なので、逃げているわけではないらしい。嬉しくてはしゃいでいるのかなにかの撮影会か。

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結構人出もあるし、外国人らしき人も多く見かける。

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川から街を眺めると言うこともできる。乗船する客がないらしくちょっとヒマそうだったが。

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まん中に肩を寄せ合う若いふたりがいた。花嫁衣装を着るのはまだ先か。

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こういう立派な蔵もある。絵になるけれど写真は下手だと自分で思う。

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のれんのそば屋で昼食を食べた。近くに中国人の団体がいたのだけれど、大声で騒ぐ声は聞かれなかった。台湾の人だったかも知れないし、やはり中国人だったかも知れない。
最近の中国人も状況をわきまえるようになったのかも知れない。

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まことに天気がよい。しかし寒い。寒風が吹き、手がかじかむ。ときどき風花のようなものが舞い、晴天なのに一時的に小雨がぱらついたりした。
(つづく)

2017年3月 8日 (水)

倉敷にいる

今倉敷駅裏のホテルに入ったところである。

歩き疲れた。

倉敷に来た目的はあの白い土蔵造りの建物の並ぶ道と、大原美術館見学である。

Dsc_2360 倉敷駅

倉敷駅を降りて真っ直ぐ太い道路を進めば一キロ足らずで美観地区にいたる。あの有名な景色の見られるところだ。

そこを散策する前に大原美術館に行くことにする。あとにするとくたびれて丁寧に見る気がしなくなるおそれがあるからだ。

Dsc_2413 大原美術館正面

立派な建物である。入館料1100円は一見高そうだが、本館、別館、東洋館・工芸館、そして児島虎次郎記念館の全てを観ることが出来るから全部見る人には大変お得なのである。

もちろん私も嫌いではないので全部廻った。それで疲労困憊した。

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本館と東洋館・工芸館を廻るとここに出る。別館はここから少しだけ歩く。

このあと遅い昼食を食べて児島虎次郎記念館に行く。ここはさらに離れている。といっても10分とかからない。

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児島虎次郎記念館は倉敷紡績の工場跡らしきところにある。
倉敷紡績は日本でも最も早く紡績を始めたところだと聞いたことがある。この倉敷が発祥なのだ。

何しろ美術館はどこも撮影禁止である。だから館内の写真はない。

それにしてもすばらしい作品がたくさんあって、一点一点絵の側に寄ってみることが出来るのが嬉しい。若干照明がガラスに反射してうるさいところもあったが、おおむね雰囲気はよろしい。それに観光客がたくさんいたのに、美術館にはそれほどいないのはなにより有難かった。

倉敷の倉敷らしいところの写真は明日掲載する。

私はこれから倉敷の魚で一杯飲むことにする。


ゴミが投棄されている?

 韓国釜山の慰安婦像の周辺にゴミが捨てられているという。ゴミの詰まった袋が慰安婦像にガムテープでくくりつけられていたこともあるという。慰安婦像の移転を要求する横断幕も掲げられたりしたことから慰安婦像に反対するものの仕業だと見られているらしい。

 慰安婦像を守る会は釜山市当局にゴミや横断幕の撤去を申し入れているらしいが、そのようなものだけを選択的に排除することは断る、と木で鼻をくくる解答があったという。釜山市はそもそも慰安婦像そのものを撤去したい気持ちがあるのだから当然と言えば当然の回答である。釜山市はそれでなくとも韓進海運の倒産で衰運にある。日本からの観光客が減るような慰安婦像など迷惑であるに違いない。

 慰安婦像を守る会はゴミなど自分で捨てたらよいのである。見張りを24時間おいたらよいのである。そうしてそんなこといつまでもやっていられなくなってひとり減り二人減りするだろう。その潮時に慰安婦像を移動すればよいのである。不愉快ではあるが日本には何の実害もない。彼等はただ騒ぎたいから騒いでいるのであって、誰も見向きもしなくなればやめるだけだ。無視するのが一番だろう。ネットで馬鹿をする連中とおなじで、喝采を受けなければその行為は空しかろう。

 セウォル号沈没事故の時の朴槿恵大統領の空白の7時間はついに迷宮入りするようだ。この件を調査していた特別検察チームは真相究明に至らなかったという。

 そもそも噂されていたような愛人との密会や、美容師や整形外科の話は全て憶測であった。それを調べたけれどなにもなかったことが明らかになったということだろう。いまだに死んでも隠し通している、とか逃げ隠れしている人物がいる、などという声もあるらしいが、調べてもなかったのであれば、なにもなかったのだろう。

 問題はなにもなかったのに空白だったことではないかと、私などは思う。すべきことを目の前にしてどうしていいか分からずに呆然と時間を浪費していたことこそが彼女の最大の問題ではないのか。いわばパニックになって思考停止していたのが、ようやく気を取り直すのにかかったのが7時間だということであろうと思う。

 こういうか弱い女性を大統領に選んだ韓国国民こそが今その咎を引き受けることになるのだろう。

 韓国のJTBCテレビは、名門の梨花女子大の在学生、100人以上が精神科の治療を受けていると報道した。原因は昨年あのチェ・スンシル女史の娘、チョン・ユラの問題に関して抗議する学生と大学側が対立したときの長期にわたる摩擦によるものだと言う。

 大学側の、デモ参加学生に対する恐喝的な言動があったことが、学生に精神的な傷を負わせたということらしい。「デモに参加した学生一人一人の顔を覚えておくからな」と脅した教授もいたという。ああ恐ろしい。

 普段日本のテレビで拝見する韓国の女性はとても弱そうには見えないけれど、実は普通はか弱いのだろうか。知らなかった。

2017年3月 7日 (火)

他人事(ひとごと)で申し訳ないが

 ニュースは自分に直接関係なければ全て他人事である。だから申し訳ないけれど、どうしてこうなったのだろう、これからどうなるのだろう、と思わせてくれるニュースは興味深く面白い。

 そうしてなにより韓国のニュースはそういう意味で面白いので、ついこのブログに取り上げてしまう。上から目線で日本を露骨かつあしざまに言い続けてきた韓国が、苦難に陥っていることを心配しないわけではないけれど、きれい事を言えば、自分でまいた種をどう刈り取るのだろう、と興味をもって注目しているのである。これは日本のこれからのことを考える上でも参考になる。私が参考にして考えたって屁の突っ張りにもならないことは承知している。とはいえ語弊があるかも知れないが、本音は面白ければ好いのである。

 毎年一月、スイスのダボスで開催される経済フォーラムはダボス会議と言われる。この会議で習近平国家主席は「自由貿易体制の守護者になる」と公言した。国家主席の公言であるから、中国という国がそう明言したということである。

 ところが連日のように韓国のTHAAD配備に対する報復が報じられている。まことに中国の面目躍如、言うこととやることが違っても恬として恥じるところがない。矛盾など毛筋ほども感じないのである。

 韓国は政界、マスコミ挙げて「中国は大国としての風格がない」などとその報復行動を非難している。アメリカ国務省もさすがに「中国の報復は非理性的かつ不適切だ」と批判した。韓国のために一言言ったという履歴が残したかったのだろうか。

 上海のロッテマートはがらがらで化粧品売り場以外は客がいない、という。これは中国国民が韓国のTHAAD配備決定に対する怒りの「理性的愛国行動」であると中国では報じていた。なるほど言い方はあるものだ。

 ところがフランスの中国語ニュースサイトによれば、別のロッテマートには客が殺到しているという。閉鎖されていない、残ったロッテの小売店がいつ閉鎖されるか分からない、そうすると手持ちの買い物カードが使えなくなってしまう、大変だ、というわけらしい。こちらは「理性的愛国行動」とはちがい、かしこいい経済活動をしているようだ。

 中国の韓国に対する報復行動は経済的なものだけではない。五月に開催される、一帯一路(親シルクロード経済圏)首脳会議」に韓国が招請されないらしい。中国は60カ国の首脳乃至閣僚級の人物を招請している。すでに主な国だけでも20カ国以上の首脳がそれに応じている。一帯一路にあまり賛同していない日本やオーストラリアなどにもいちおう閣僚級の参加を招請している。

 それなのに、以前なら優先的に声がかかるはずの韓国には声がかかっていない。なぜなのか。単に報復的なものであるばかりか中国は韓国を国家として認めない、といっているように見える。韓国は中国を対等の国家と考えてきたが、実は中国はもともと対等だなどと思ったことなどなかったのかもしれない。

 そのことに気がついていないか、気がつきたくないのが今の韓国のようである。当然韓国と中国のスワップ延長はないだろう。そして日本とのスワップ再開も今のままではあり得ない。トランプ大統領が強硬な手段でアメリカの国益を優先した経済行動を起こせば世界に経済的な激震が走る。そのときに真っ先に経済的に困難を生ずる国の一つが韓国だろう。どうなるのだろう。いまもっとも次期大統領として有力なのは文在寅氏らしいが、彼にその認識があるのかどうか。半年もすれば明らかになることだが、不謹慎ながら待ちきれない思いがする。何しろ他人事だから。

釜山港

 韓進(はんじん)海運の破綻によってハブ港としての釜山港が大きくダメージを受けて、深刻な事態になっていることがNHKBSのドキュメントで報道されていた。韓国政府はさまざまな対策を講じているようだが、あまり成果が出ていないようだ。韓進海運の破綻に手をこまねいて手遅れになったことが批判されていたけれど、倒産させてしまってからその対策を取るのと倒産する前に何らかの有効な手を打つのとでどちらがコスト的に少なく済んだのか。

 韓進海運が破綻すればその影響は世界の物流に影響が出る。すぐに困ったのは世界中の荷主であり、それを待ち受けている配送先である。日本でも過去、海運会社の破綻があったが、政府は物流が滞って迷惑がかからないように即座に対策を講じたので大きな混乱は生じなかった。韓国政府はそれを怠ったように見えた。大混乱が起こり、その影響は長期に及んだ。

 これは一海運業者の破綻にとどまらず、釜山港のハブ港としての役割に対する不信につながった。今ハブ港としての釜山の役割は中国の青島港に移りつつある。青島港は巨額の設備投資によって荷役能力を急拡大している。それに引き替え釜山港はじわじわと衰退しつつある。釜山港に対する不信は韓国という国に対する不信をも招くことになることに韓国政府は思いが及ばなかったようだ。まああの状態ではそれどころではないのだろう。

 水に落ちるものを叩くことの急な韓国が、今水に落ちて中国に叩かれている。中国政府は中国国民の韓国への旅行を制限する動きを見せている。中国に展開しているロッテグループの小売り店舗99店舗のうち23店舗が再三の消防法チェックなどを受けて操業できなくなって閉店状態の憂き目を見ている。韓国から中国に輸出した化粧品や食品などが厳しいチェックを受けて廃棄されたり送り返されたりしているという。

 もちろんこれはTHAAD配備を進める韓国に対する中国の嫌がらせである。ロッテの用地がTHAADの配置先になる(政府と用地交換に応じた)ことが、特にロッテが狙われた理由であろう。

 少し違う見方もある。もともと韓国からの輸出品には中国の規制にそぐわないものがあったけれど、大目に見られていた。それがいままで以上に厳格にチェックされだしたのであって、特別に韓国製品に対して既存の規制以上の基準が適用されているわけではないらしいということだ。

 旅行会社に対し韓国旅行の販売を控えるように、という指示が出ているらしいが、これは口頭であって明文化されたものではない。つまり当局からの要望を旅行会社が命令として励行しているもののようだ。中国政府としては抗議されても知らんぷりが出来る。

 ロッテに対しての嫌がらせは露骨だが、あくまで消防法などの法令遵守を建前にしている。

 本当にこわいのはこれからで、THAAD配備が具体的に進展していけば、中国の行動はエスカレートしていくだろう。相手が屈服しなければ仕方がないとしてあきらめるということのない国である。今度は本当に韓国だけに適用する、悪意のある規制が実行されるかも知れない。

 朝貢国だった韓国が裏切ったのである。皇帝陛下はそれを許さないだろう。日本はもともと朝貢国ではない、という態度を明確にして行動してきたから、今のところそのような理不尽な嫌がらせを受けることはわずかで済んでいるが、韓国は自ら首を差し出したことのある国である。その国に対する報復は止めどがないだろう。

 このことを見ても朴槿恵大統領の行ってきたことの災厄が韓国に及ぼすものが見えてくる。プライドを失うと国を失うのだ。

 ポスト朴槿恵の次期大統領は親北朝鮮、親中国を方針とするのだろうか。それならますます歴史に学ばない国である。そしてそれを選ぶのは韓国国民である。しかし朝鮮半島に関わることで日本は大損をした。中国も半島に関わることで大損をするかも知れない。これは過去再三中国王朝が経験して来たことである。それなら中国も歴史に学ばない国である。

散らかる

 自分の身の廻りが少しずつ散らかりだす。「出したらしまう」と心がけているつもりでも、すぐ使うから、また読むから、とついそこに置いたままにするので、散らかって見苦しくなるのだ。

 散らかるのは心の乱れがかたちになったものだ。片付いていれば気持ちが好いし、散らかっていれば心が鬱屈する。それは逆でもある。かたちと気持ちは表裏一体である。

 今のところその散らかりかたはそれほどひどくないので、修復が可能だ。手を付けるのに一大決心が必要なほどではない。私としてはしばらく出かけていないので、気持ちの方をさっぱりさせることを試みることにする。心に引っかかっていることがまだ片付いていないので、本当にさっぱりするのは少し先になるが、心の中がゴミ屋敷にならないようにしなければと思う。

 前から行きたいと思いながら、行ったことがないところがたくさんある。倉敷と姫路にも行ったことがないので、思い立って明日出かけることにした。明日は倉敷、そこで泊まって翌日姫路に行く。さっそく倉敷に宿をとった。今回は散策が主体なので車ではなく鉄道で行く。

 そう決めるとやる気スイッチのようなものが入った気がした。

2017年3月 6日 (月)

無罪放免

 消化器の医師のご託宣は、「ポリープまったく問題なし、ピロリ菌検出できず」。胃カメラ検査をした医師と同じように、「比較的にきれいな胃ですね」とにっこりされた。いつも具合の悪い胃を見なれているからそう見えるのだろう。

 検査結果に問題がないことを告げたあとに、たいした異常がないのに病院に来るな!、といわんばかりの医師の態度に出会った経験をコメントで下さった方があったが、さいわい私を診た医師はそういう人ではなく、「検査結果が良好だからと過信せずに、具合が変だと思ったらいつでも来て下さいね」とおっしゃった。

 胃腸薬は糖尿病のクスリと違って必要ないと思ったら飲まなくても好いとのこと。処方されたものが少し残っているので、今度具合が変だったらそれを飲んで様子を見てから病院に来ることにしよう。そもそも胃の薬は安定剤の成分を含んでいたりすることがあり、脳の働きにはあまり良くないと聞いた気がするけれど、聞き違いだろうか。

 歳を取って脳の働きをコントロールする薬を飲むと、認知症になる可能性が若干ながらあると私は思い込んでいる。いずれにしても不必要な薬は飲まずに済めば飲まない方が好い。

 ところで熟睡することが血糖値を下げる効果があるという話が「ためしてガッテン」という番組で報じられ、それに最適の副作用のない睡眠薬が開発されたと紹介していた。

 これが問題になって騒がれていたようだ。安易な睡眠薬の使用を勧めるなどとはもってのほかである、と非難されているのだ。

 もちろんそのような睡眠薬は医師の処方に従って服用すべきで、自己診断で睡眠薬を飲むなどは論外だろう。ただ、あの番組では問題のない睡眠薬というのが、ほとんど分かるかたちで放送されていたので、勝手にその薬を買いに走る人が出てくるおそれがあったかもしれない。

 事実効果があるなら、医師も積極的に処方してみても好いのであって、こんなきっかけでその処方が躊躇されるようなことになっては残念である。私はストレスをかかえて時に眠れないことを医師に訴えていたので、睡眠薬を処方してもらっている。必要最小限に留めているので、飲んでも週に一度飲むかどうかである。それでも効果はあると感じている。昨朝は悪夢を見たので、昨晩は久しぶりに飲んだ。入眠は急激に訪れるものではなく、いつの間にか静かに寝入ることが出来る。安眠は確かに大事なことだと思う。

結果を聞きに行く

 本日は、先日の胃カメラによる検査の結果を医師に聞きに行く。その後、違和感は完全には解消していないが、不安を感じるほどではない。多分処方されて服用している胃薬が効いているのだと思う。

 良性の小さなポリープが本当に大丈夫なものかどうか、そしてピロリ菌が検出されていればその除去の処方が決まる。

 特に問題が見つからなければ、午前中に帰宅できると思うが、どうであろうか。

2017年3月 5日 (日)

増田悦佐「米中地獄の道行き大国主義の悲惨な末路」(ビジネス社)

 ずいぶんおどろおどろしい題名で、普通の人なら却って買うのを躊躇してしまうだろう。誰のセンスでこんな表題を付けるのだろうか。

 以前この著者の本を読んだ記憶があり、ちょっとユニークだった覚えがあるので購入した。こういう本は生もので、時期が過ぎればほとんど読む値打ちがない。トランプが登場した理由、その必然性、そして世界はどうなっていくのか、ということが書かれている。

 実際にトランプの政治が具体化していけば、その予測が外れるか当たるかだけのことで、競馬の予想屋と同じく、レースが済んでから聞いても何の値打ちもない。

 とはいえ著者の世界観は本当にユニークな世界観なのである。デフレ時代は戦争が起きないし、戦争がないからデフレが必然的である、というのは長谷川慶太郎と同様の見立てである。だから現在の日銀の金融政策も、アベノミクスもほとんど意味がないと断定する。あがくことで却って損失が生じていると、統計的な証拠を挙げている。

 世界はすでに第二次産業の時代が終わり、今は第三次産業の時代だ、という見立てはいまさらの話でその通りだろう。そこから、株式相場や金融で一喜一憂している時代はもうすでに終わっているという見立てがユニークなのだ。株式市場というのは生産設備の投資のために広く金を集め、生産規模の拡大によってコストを下げて競争に打ち勝ち、投資してくれた人たちに儲けを還元するというシステムだ。

 ところが今アメリカでは株式の自社株買いが増大しているという。すでに設備投資などして生産拡大しても、ものが売れない時代である。それで株価を上げる方法は、自社株を買い戻すことで流通株数を変動させるのである。こうして株価をつり上げて株主たちに直接利益を還流するというのである。会社も投資家もグルである。これが今のアメリカの株高のメカニズムだと言うが本当だろうか。

 アメリカは会社そのものよりも株主を優遇するという、普通の日本人には理解できないようなことが当たり前であることは、知る人は知っている。すでにアメリカの多くの製造会社は設備に投資し、雇用を増やし、業容を拡大するという役割を放棄しているのだ。

 だからトランプ大統領が一生懸命海外に出て行った製造会社を呼び戻して雇用を増やそうとしても、その効果は期待できない。低賃金のサービス業での雇用だけが増大していくばかりだろう。そして金持ちはひたすら金を貯め込みどんどん資産を増やしていく。これがアメリカの目指した金融立国の姿である。だが蓄えられた巨額の資産は使われずに死蔵されていく。

 何千億とか何兆円という金を貯め込んだ上位1%の大金持ちたちはその金を使いきれない。これは異常なことであると私も常々感じていたことだ。著者によれば腐海のように資産が淀んで腐臭を放っているのがアメリカの現実だというのだ。

 アメリカは株価も上がり、好景気である。しかし実態はどうであるか。なぜトランプが大統領になったのか。それはほとんどのアメリカ国民の所得が増えずに、実質的に目減りしているからだ。見かけの好景気の利益は大金持ちの懐だけに流れ込み、ほとんどのアメリカ国民はその恩恵を受けていない。その不満のエネルギーがトランプに流れ込んだ。

 政治家もマスメディアもエスタブリッシュも全て嘘つきだ、というトランプの言葉は多くのアメリカ人の実感なのだ。

 こんな世界がいつまでも続くものか、と著者は言う。金が廻らずに死蔵され続ければ経済はついには停滞する。日本で高齢者に金が偏りすぎて経済が停滞するどころの話ではない。その淀んだ金を動かすために有効な手を打たなければ、アメリカは破綻してしまうだろう。普通はこういうときは戦争を仕掛けるものだが、まさかそれはないだろう。局地戦に終わる補償はないのである。下手をしたら元も子もなくしてしまう。

 デフレ時代に高消費のままでいるアメリカが、どんな運命をたどるのか。日本の低消費、浪費をしない風潮は今後とても大事な行き方かも知れない。

 世界には大きな経済の波があり、その波長が84年周期であるという。1932年前後の第一次世界大戦後の大きな経済波乱に続く、まさに次の大きな転換点が現在であり、世界は大きく変化するだろうというのがこの本の前半部である。

 しからばアメリカの退潮に中国は覇権を獲得できるのか。

 この本の表題は、「大国主義の悲惨な末路」である。大国であることが今後の世界経済状況にとってどれほど足かせであるかが著者一流の統計値をもとに解説される。国土が広く、国民が分散していることが非効率なシステムとして大きな負担になっていくだろうと見るのだ。

 ここで思ったのは、なぜ過疎化が起こり、地方から人が都市部に集中してしまうのかということだ。コンパクトシティ構想で明らかなように、面に広がりのあるなかで点状に分散している住民にインフラ整備をしようとすれば極めて高いコストが必要である。集中して住んでもらえばインフラ整備も楽である。インフラコストがかかりすぎて税金が高くなれば地方都市は次第に衰退していくのは必然なのである。こうして大都市とその周辺に人はひとりでに集中してしまうものなのかも知れない。

 そうなれば、人口が増え続けていると都市整備が追いつかない。ところが人口が微減し続けている日本は、国家として比較的に容易にコンパクトシティ化しつつあるということかもしれない。

 そこから考えれば、中国やアメリカという巨大国家が、今後そのインフラのための投資にかかるコスト増に耐えられるのかどうか。特に資源の異常な浪費を続けている中国はすでに限界を超えてしまっている。極端な例としてあげられているのが、アメリカが20世紀の100年で使用したセメントと同量を、中国一国が、たったこの3年間で消費したという驚くべき数字である。これはあまりにも異常である。その他世界に対する中国の人口比をはるかに超えた資源が中国で浪費されている。いつまでもこんなことが続けられないことは明白である。

 このようないろいろな実態を著者の解釈に乗せて世界の姿を絵解きしているのがこの本である。

 結論については同意しかねるところもあるが、自分の思い込みに揺さぶりを掛けてくれる本であったことは間違いない。紹介したのはほんの一部のみ、それも私のザル頭に引っかかったものだけで、少し本文を勘違いして受け取っているところもあるかもしれない。

悪夢

 久しぶりに仕事の夢を見た。本社に出張中に、納期遅れで得意先の仕事が滞り、激怒しているという。営業所の女の子が困り果てて貴君を探しているから連絡するようにとのことである。

 そういえば特殊な原料を使った試作品を薦めていたその得意先の工場で製品の中量生産をしたはずだが、いろいろ取り紛れてその結果を聞きに行けていなかった。そのオーダーが突然入ったに違いない。特殊な原料だから入手に時間がかかるし、こちらも生産が急には出来ないから納期を催促されても困る。

 得意先というのはそのような事情を聞いていても、実際に製品生産の話が進むと、紹介したからには供給するのはそちらの責任だ、と一方的に攻め立てるものだ。これは担当者として社内調整をして出来ることをした上で、得意先に飛んでいかなければならない。それにはまず連絡を取ることだ。

 ここからは悪夢である。本社工場の現場の中で迷い、次第に見たことのないような迷路の中に迷い込む。薄暗い現場で知らない人たちが働いている。中には機器を使って製品のチェックをしているものもいる。ときどき知った顔のひとが通り過ぎながら、営業所の女性が君に連絡が欲しいと言っているよ、早く連絡をしなければ、という。ところがどこへ行ったらいいか分からない。

 気がつくとワイシャツとズボンしか身につけておらず、カバンも携帯もない。汗みずくになりながら薄暗く気味が悪い、見たこともないような工場の現場らしきものの中を出口を探して歩き回るうちに、突然重役たちの会議室に迷い込んだり、ドアを開けるといきなり階段に出て、そこから登ろうが降りようがもとへ戻れなかったり、行き止まりになったりする。

 そしてようやく迷路を脱出したと思ったとき、眼前に開けた光景は、深い谷間のこちら側から向こう岸に見える工場の夜景であった。

 これは夢であると途中でかすかに気がついている。なにより心にあるのは納期遅れをどうしようということなのだが、こんなことは夢であって欲しいと思うのは、事実から逃げようとする自分の弱さだ、と非難する声も聞こえていて、夢であると確信できない。

 どうしてこういう夢を見たのか、自分なりにいくつか理由が思いつく。目醒めたときに、やはり夢であったと安堵しながら、なんだか目醒めたことこそが夢のような、一瞬いやな気持ちがした。

2017年3月 4日 (土)

公人か私人か

 国会で安倍首相夫人の照惠さんが公人か私人かという論争をやっていた。そんなもの、質問している方にすらきっちりした区別がついてもいないことを鬼の首でも獲ったように喚き立ててどうするのだ(特にあの山本太郎という人物はどうにも鼻持ちならない)。

 そもそも夫人は奥様であり、家内である奥を取り仕切っていたものである。それが鹿鳴館時代以来、西洋人の猿まねをして夫人同伴で宴会に参加するようになった。昔から夫人同伴が当たり前だった西洋と違って、日本にない習慣だから板についていない。

 西洋人に夫人は公人か私人か問えばきょとんとするだろう。そもそもそんな質問に意味があると思っていないし答えようがない。公人たる人物の夫人である、というだけのことだ。

 安倍照惠夫人が多少出しゃばったからといって、彼女自身に権力などないのであって、あると思って利用するのは利用する方が悪いのである。それに彼女が権力があると錯覚して、チェ・スンシルのように権力を行使したとは思えない。

 もし照惠夫人が全くの私人であるというなら、政府専用機に乗って海外に同伴することはおかしいのではないか。しからば政府専用機に同行する記者団は公人か私人か。その飛行機の搭乗費用は支払われているのか。そもそも公人と私人の区別など付けようがないし、靖国参拝でもさんざんやって来たことではないか。あいまいなものを理由に相手を謝らせようとしても謝るはずがない。そもそも謝らなければいけないと思わないのだから。

 今回の森友学園の件は、誰かが権力を行使した疑いが大きいが、それは行使された側に訊くべきで、行使した側に訊いても「はい私が権力を行使しました」などと答えるはずがないではないか。そもそもその自覚すらなかったかもしれない。

 しかし口利きを受けた側は、あの人に言われたなら仕方がない、と融通を利かせたのであろう。その人間を問い詰めるのがもっとも確かであって、それを明かさないなら責任を取れと迫ればよいのである。役人は責任を取ることを死ぬほど嫌うらしいのだから。

 こういう問題の時にはたいていそのポイントを外したままにしてうやむやにする。役人が責任を取らされることはめったにない。そうして口を拭って退職金をがっぽり受け取り、天下りし、年金をもらって安楽に暮らすのである。

いい仕事だなあ!

「逃避行」

 麻生よう子のヒット曲「逃避行」を知っている若い人はあまりいないだろう(そもそも麻生ようこそのものも知らないかも知れない)。良い曲だけれど誰かが取り上げて歌うこともないし懐かしのヒット曲として取り上げられるのも見たことがない(あまり熱心にそういう番組を見ないので、見ていないだけかもしれないが)。

「あの人から 言われたのよ
   午前五時に 駅で待てと
 知らない街へ ふたりで行って
   一からやり直すため
 ・・・・・・・・・・・・・・」

 という出だしで始まる。

 しかし時間になっても男は来ない。やがて乗るはずだった列車を彼女は見送る。どうして男は来ないのか。

 ああだろうか、こうだろうか、理由が思い浮かぶ。そういう男なのだと思う。思いながら彼女はひたすら待つ。

 時間はただ過ぎていく。待ちきれずに彼女は切符を買い、ホームに出る。今にも男が遅れてやってくるのではないかと振り返りながら。

 また列車がやって来て、再びそれを見送る。

 遅れたなら先に行く、と彼に言ったのだ。それは別れを意味することでもあるのよ、と彼女は思う。

 しかし男はやって来ない。

 ついに彼女はやって来た列車に乗り込む。

「女のひとに 引きとめられてるのだわ
   おそらくあのひとのことよ
 それがなきゃいい人なのに
   あきらめたわ 私ひとり
 汽車に乗る・・・・」

 彼女はあきらめることによって未練を断ち切り、一歩を踏み出したのだ。

 アルバムには「終着駅」という、やはり駅のシーンが歌われている奥村チヨのヒット曲を、麻生よう子が歌ったものがおさめられている。知らずに聴いたら奥村チヨが歌っているように聞こえる。歌い方を真似ているのだが、そっくりである。

 何度もこの麻生よう子のアルバムを聴いていたら、声質が誰かに似ているような気がした。よく考えたら、西崎みどりに似ている。もちろん歌う歌の種類も全然違うし、歌い方も違うので、それが似ているなどと言っても「どこが?」と言われそうだが、そう感じるのだ。

 私の好みなのか、それとも男の感情を刺激する、つまり快感を感じさせる歌声なのかも知れない。つまりセクシーなのである。

2017年3月 3日 (金)

聴けば聴くほど好きになる

 聴けば聴くほど好きになる音楽というのがある。私にとっての代表格は平原綾香だ。特に「クラシック」というアルバムは何回聴いたか分からないけれど、ますます好いなとと思うばかりだ。

 古いところでは西島三重子とか白井貴子がお気に入りで、繰り返し繰り返し聴いた。少し前は西崎みどりを繰り返し聴いていた。今は最近手に入れた麻生よう子のアルバムを繰り返し聴いている。繰り返し聴いていると最初は良いと思ってもだんだん飽きてくることがないこともないが、麻生よう子は格別のお気に入りで残りそうだ。歌とは関係ないけれど、あの唇がセクシーでうっとりするなあ(もうずいぶん歳だろうけれど)。

 じっくり聴いたら好いものが多いのだろうけれど、それほど知らないので日本の女性歌手ばかりが選ばれている。海外の歌手では、久しぶりに聴いているイタリアのジリオラ・チンクエッティとフランスのミレイユ・マチュー。まだそれほど何回も聴いていない。

 なにごとも、何度も出会い、細部まで知ると好きになるものなのかも知れない。なじみとはそんなものか。

重なる

 一日に一度、だいたい昼前後にお気に入りに登録しているいろいろな方々のブログを閲覧する。毎日こまめに更新する人と、ときどきの人がいるけれど、不思議にその更新が重なる。みないっせいに更新のある日と、いっせいに更新のない日があったりすることが多い。もしかしたら世の中全体に何か忙しいことがあって、ただ私がそれを知らないだけかも知れない。

 ところで楽しみに拝見していたおキヨさんのブログ「正直ばあさん記」が中断して久しい。眼の手術をすませて回復し、医師から許可が出たら再開するということだったけれど、もう二ヶ月になるので心配だ。

 私も今テンションがちょっと下がっていて(特に大きな理由はない)、ブログのネタが以前のようにひとりでに湧いてこなくなっている。しばらく家にこもっていて煮詰まっているようであるが、そうなると不思議に出かけたい気持ちもなかなか起きない。悪循環である。

 春である。いろいろ頭に浮かぶところがあるのに、思うだけで行動に移さない。あまりに家の居心地が良すぎるのだろうか。何かきっかけが必要である。さてどうしようか、こたつにこもったまま考えている。

雑感

 BBC放送でイギリスのホームレスのことが報じられていた。マイクを向けられたホームレスの一人が「気がついていたらホームレスになっていた」というような意味のことを語っていたのが印象に残った。

 廃棄された食べ物を口に出来るかどうかがホームレスになる踏み絵のようなものだという。それは越えがたい壁のようでもあるけれど、動作としてはしごく簡単なことで、それを乗り越えてしまうとなかなか後戻り出来ないのだろう。ある日その壁を越えてしまったあと、振り返ってみれば「気がついたらホームレスになっていた」らしい。

 どう生きようとその人の生き方で、直接的に社会の迷惑にならなければかまわないようなものだが、実際にホームレスの居住している周辺を見ればそのゴミの散乱はゴミ屋敷の住人と変わらない。そのような人々が生きられるのも世の中が平和でゆとりがあるからであることは承知しているが、それほど楽な生き方とは思えない。

 人としての生き方の価値観に穴があいてしまう人と、普通に生きている人にはどんな違いがあるのだろうか。

 大阪の森友学園の国有地取得価格が不審であるとして騒ぎになっている。報道だけ見ていると確かにおかしい。こんな価格で売ったからにはそれに関わった責任者がいるはずで、その当事者がどのような理由でそこまで値引きしたのかをあきらかにすべきだし、それしか事実に近づく方法はないだろう。当たり前のことだが、それが責任者の役目である。

 ところが野党は名前が出たことを安倍首相打倒の好機と捉え、その追及に血道を上げている。その追求からこの件の事実が解明されるとは誰も思わないだろう。そのためには逃げようのない証拠となるものを用意しなければただのパフォーマンスである。野党にとって、この問題の解明は二の次であるようにしか見えない。ただ安倍首相の非を鳴らす機会を得たことが嬉しくて喚いているだけに見える。

 森友学園は資産内容からも実績からも学校運営や土地取得の能力がないと判断する人が多かったのに、どういうわけか国有地は信じられないような低価格で譲渡され、法律を変えてまで学校事業の認可(幼稚園では学校運営が認可されているが今回の小学校事業は認可されていなかった)が下りることになった。

 そこにそれを強引に推し進めたなにかがあっただろうから、誰がそれを推し進めたのかはっきりさせればいいのである。そしてそれは誰かの口利きだったと釈明されればそのとき初めてその口利きをした代議士なり官僚なりの黒幕が判明する。

 手順はそれしかないはずなのに、野党の動きはどうもそちらに目が行かないように騒いでいるように見えてしまう。それとも共産党などは隠し球をすでに持っているのだろうか。

 それにしても森友学園の籠池理事長という人はこの騒ぎがあったからこちらに偏見があるのかもしれないけれど、かなり怪しげな変な人に見える。はっきり言ってあまり賢そうに見えない、ただの声の大きなごり押しの人である。こんなのが世の中でまかり通っていることが信じられない気がする。まかり通らせていたのは誰なのか私も知りたい。

 幼稚園児に安倍首相を賛美させ、安保法制賛成を叫ばせたりして、狂気の沙汰である。安倍首相でなくとも却って迷惑である。却って安倍首相のイメージがマイナスになるだけなのは誰にも分かることだが、野党はそのことをあたかも安倍首相がやらせていたが如き非難を繰り返している。安倍首相がそこまで馬鹿だと言っているのだけれど、そこまで馬鹿なわけではないことはすでに国民はみな承知しているので「馬鹿という奴が馬鹿」ということになっている。

2017年3月 2日 (木)

勘違い

 ニュースの見出しに「就活のヒール強要に不満噴出」というのを見て、就活に何でビールが強要されるのだろうと思った。新入社員の歓迎会ならいざ知らず、酒を飲ませて本性を知ろうというのだろうか。それともビール会社での話なのか。

 そうしたらビールは勘違いで、ヒールであった。

現代の纏足? 就活女子へのヒール強要に不満噴出 「なんでこう苦痛を強いるような真似を」、
というのが正しい見出しで、就活の時にヒールを履くのが就活女子の定番の身だしなみであることに、女子学生達から不満が出ているという話であった。

 就職に関して現在は売り手市場である。買い手市場ならこのような不満があってもそれは声として取り上げられることはないだろう。それが理由で就職できなかったら困るから黙って風潮に従うだろう。

 確かにハイヒールというのは曲芸みたいな履き物で、馴れなければ歩きにくいことだろうし、だいいち転びやすくて危なっかしい。足を長く見せ、スタイルを良く見せるという効用があるやに聞くが、どうなのだろう。

 黒いマスクにハイヒール、そして網タイツにムチを手にしていれば、ちょっと危ないおネエさんの典型的な姿として漫画に良く登場する。本来は女性の自由を束縛するハイヒールを履いて、男をムチうつサディスティックなおネエさん、というのは倒錯の絵姿だ。ムチうたれたいという男性の気持ちが理解できないけれど、そういう人たちがいることは承知している。男の都合で夢想された存在である。

 女性の足元を不自由にするというのは世界中にあるのではないか。たちまち思い浮かぶのは中国の奇習である纏足であり、極端なハイヒールであるピンヒールもそうだろうし、日本の遊郭の妓女が履く、高くて重い塗下駄(でいいんだろうか?)などである。それらが全て美意識に結びつけられていることにあらためて驚く。

 就活女子はヒールを履くべきか否か。そんなこと知らない。好きにしたら良いだろう。それが自由というものだ。ヒールを履いているかどうかで評価する会社もあるかもしれないし、そんなこと全然気にしない会社もあるだろう。入りたい会社に迎合することがあっても、それは自分の自由を捨てるなどという大げさなことではなくて、方便である。

 ビールで就職の合否が決まるなら、私は学生時代に鍛え抜いたから有利だったのになあ、とバカなことを考えた。

「グレイト、グレイトウオール」

 トランプ大統領は、南の国境に巨大な壁を建設すると明言した。乗り越えることの出来ない巨大な壁の建設というと、最近観た「進撃の巨人」という映画を思い出す。アニメ版と実写版を続けて観るという暴挙をしたので頭が若干混乱している。酷評されていた実写版をそのつもりで観たが、それほど酷いものでもなかった。アニメ版も合わせて、長い物語の出だしを観たようだ。

 壁そのものに意味がありそうなその物語同様、トランプ大統領は象徴的なそのメキシコとの国境の壁の建設にすぐ着手すると明言した。

 トランプ大統領の言う「グレイト、グレイトウオール」が、「進撃の巨人」の壁に見えている若者は少なくないと愚考する。その意味は、考えてからまた述べることにしたい。

  「鼓腹撃壌」という言葉を思い出している。

呑んだ

 いやなことがあったときは飲まないことにしている。そしてなにもなければこれだけか?と自分に問うほどささやかに(昔の私を知る他のひとから見たらどうか分からないけれど)飲むことにしている。

 昨日はそのつもりで、いやなことがあったわけではないのにちょっと飲み過ぎた。

 いろいろ思うところがあって、中途半端に我慢している。別にそれで平気なつもりなのだけれど、実はそうでもないらしい。間食はしないと決めているのに、つまみのつもりで買ってあったものを完食していたりしている。

 三月にはいろいろと思うことがある。そのことから逃れて旅に出ても良いのだけれど、自らそれに関わりたいこともある。それが誰かの迷惑になることかも知れないけれど、悔いがないように関わりたいと思っている。

 迷惑なOBとして、自分に縁があった人に挨拶をしたいと思っている。知らんふりをすれば済むことなのだけれど・・・。

2017年3月 1日 (水)

呆れる

 就職戦線が売り手市場であることは承知している。だから就職先を探すに当たって、インタビューを受けた学生達が上から目線の物言いをしているのは善しとしよう(まだ彼等は社会を知らない)。彼等は会社に入れば、それなりの教育を受けると期待できる。今日ニュースで見たのは、就職を決めるときに大きな決定権を持つと思われる親に対する企業の説明会があった、というものだ。

 説明会を聞きに来たその親(父親)が、「子どもは何も言ってくれないからまったく分からない」と言っていた。そして、希望としては「子どものために」・・・!、「大企業に就職して欲しい」と当たり前のように言ってのけたのを見て、唖然とした。

 大学、または大学院を卒業したとき、子どもはすでに立派に成人している。その子供は自分なりにどこに就職しようか考えぬいて就職活動していることであろう。私の時代はもっと脳天気だったから、そこまで考えてはいなかったけれど、親に相談などしなかったし、相談するべきだとは毛筋ほども思わなかった。

 そういう私の息子と娘だから、自分の就職は自分で決めて、詳しいことは酒を飲んで語るうちに始めて知ることばかりであった。それでまったくかまわない。それで当たり前だと思っている。自分の子どもとはいえもう対等なおとなである。子どもというのはそうであるべきだと私は思っている。

 母親ならいざ知らず、父親として親に対する説明会に参加すると言うことになんの恥ずかしさも感じずにインタビューに応じ、「大会社への就職を希望する」と言ってのける。自分の語ったことがニュースに流れることについて、何の恥ずかしさを感じないこの父親を、彼の子どもがどう思っているのか。「何も言ってくれないのです」という言葉に全ての答えがある。

被害者がいて加害者が見えない

 昨日は2月28日、戦後台湾で起きた2.28事件の記念日だ。この事件で数多くの人が殺された。昨年行った九份はその発端となった争議のあった場所で、顛末はホウシャオシェン監督の「非情城市」という映画に描かれている。

 この追悼式典で蔡英文総統が「被害者がいて加害者が見えないこの事件について明らかにする」と語ったということである。国民党の独裁政権が続いたために、台湾では事件について語ることはタブーであった。現在の外省人と本省人との根深い対立が解消されないのもここに原因があると見る人もいる。

 国民党の一党独裁を李登輝が解消した。民主化後の国民党と民進党との対峙の構図にもこの事件が影を落としていないとはいえない。

 いったんタブーになったものを語ることは勇気の要ることである。21世紀になってから、ようやくその事件が語られだしたけれど、当事者は高齢になって次第に数も減っている。誰が加害者であり、どうしてこの事件が起きたのか明らかにしないと台湾内部の対立は解消されないと蔡英文は言っているのだ。

 歴史の闇をあきらかにすることは、その歴史を乗り越えることに外ならない。歴史を乗り越えるには歴史を直視しなければならないからだ。

 思えば済州島の4.3事件も同様の事件である。2.28事件と同じ頃、済州島でも島民の大量虐殺が行われた。事件が公然と語られるようになったのはこちらも21世紀になってからで、政権の性格によってひそかに、時に大っぴらに語れるようになった事件である。何万人も殺されたというのに、こちらは被害者すら明らかではない。

 昨日周恩来のドキュメント番組を観た。周恩来についてはまた語る機会があると思うが、昨日しみじみと思ったことは、文化大革命とそれに先行する大躍進政策という毛沢東の大失政のことである。これに反対し、なんとか被害を少なくすることに腐心していた周恩来は身の危険のなかにいた。

 中国は文化大革命も大躍進政策の話も語ることをひそかに禁止している。ひそかだが、公然と語れば拘引されて本人のみならず家族にも危険が及ぶことは中国人なら誰でも知っている。

 中国人が歴史を乗り越えて前へ進むためにはこの時代のことを明らかにし、それを直視しなければならないと思う。

 歴史を知るということはそういうことだろう。台湾は2.28事件を明らかにして国民はその歴史を知り、直視することが必要だと蔡英文総統は考えた。

 韓国は済州島事件を知り、直視することから始めなければならないが、本土の人たちの心の底に根を張った済州島出身者への蔑視は消すのが困難だろう。それが実は長年に亘って済州島事件を隠蔽するために醸成されたものであるにしても、だ。

 では日本人は?南京大虐殺?それについて自分の意見を語るために、近代史をもう一度勉強する必要があると思うのだが。

 もちろんどの国でも歴史を振り返り、顔を背けてきたものを直視する勇気と知識を持とうとする者は一握りである。一握りでかまわないし、全員がそうすべきだとも思わない。ただそういう人に敬意を持ち、耳を傾けてくれさえすれば良いのだが。

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