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2017年4月17日 (月)

とりとめのないことですが

 ブログを始めた当初からしばらくして、一日複数回のブログを書いていた。整理し直してみると、多いときには五回も六回も更新している。アクセス数は少なかったから、まともに読んでもらっていなかっただろうけれど、丁寧に読んだとしたらくたびれたことだろう。我ながらエネルギーに満ちあふれていたのだ。

 ブログを書くということは私にとって、こんな比喩で申し訳ないが、体液の放出に似ている。いささかの快感と空しさを伴う疲労があとに残る。空しさは書いている内容についてのお粗末さへの悔いである。

 ネタとそれについての具体的な思いがあればすぐ書き出すことが出来る。構成するほどの長文でもないから構成など考えたことはない。書いているうちに勝手に文章になっていくから、書き出せばそれほど時間がかからずに書き終わる。それを下書きとしてそのあとにいちおう読み直す。全くの他人として読むことは出来ないが、なるべく自分以外の人間として読み返してみる。読む人として想定している人は何人かある。

 想定されている読み手は実際の読者や友達や子供たちだけではなく、たぶん私がブログをしていることすら知らない人たちも含む。だから最低一回は読み直して、間違いや言い回しのおかしなところを直すが、全くの他人の目で見ていないから、文意を先取りして読んでしまって直すべきものを見逃すことも多い。構成はしないが校正はいちおうしている。

 昔中学生時代や高校時代に雑誌や新聞を出すのに関わったことがあるので、校正という仕事のやり方を教わった。だから他人の文章の間違いを探すのは普通の人より得意である。それが却って気になりすぎで、肝心の書かれていることを読み損なう。なかなか両立はしにくいものなのだ。

 ニュースから、特に韓国や中国のニュースからネタを拾うことが多い。自分の、つまり日本人としての私の常識と照らし合わせて違和感を感じたものを見つけると、どうしてそう感じたのか考える。それが相手の問題なのか自分の問題なのか、それとも両方なのか。それを考えるのは案外楽しい。違いを考えることこそ相手を知る手がかりでもあるからだ。

 ところがいくらニュースを見ても、ひとつもこちらのセンサーに引っかからないことがある。それはそういうニュースが存在しなかったからなのか、こちらがそれを感じ取れないからなのか。確かに多少の数の違いはあるだろうけれど、それはたいてい自分自身の問題である。

 そういうときは碌なブログが書けないし、そもそもネタがあっても文章が湧いてこない。放出するなにかがまだ貯まっていないのである。そういうときは好奇心も低下しているし、ものを面白がるエネルギーも低下している。

 書きたいという欲望より、書かなければと思う義務感が優ったときには無理矢理書き上げても快感はなく、疲労と空しさがより強く残る。

 精神は高揚しているときと沈滞しているときとがランダムに訪れる。いまなんとなく沈滞のなかにいて、どうも沈滞する回数が増えて、その期間も長くなっているような気がしていて不安である。

 そこから脱する方法をいくつか持っている。それは奏功するが、以前より一時的になりつつある気がしている。なんだか人生の新しい局面に入りつつあるようだ。それは新しい平安のための前段階なのかも知れないと勝手に夢想している。

 いま、大事にしているもの、手に入れるために苦労したもの、二度と手に入らないものを捨てるべきかどうか迷っている。人にあげるようなものではなく、自分だけに意味のあるものだが、それが自分を重くしているものでもある。それを捨てることは必ず後悔することだと思うが、精神のざわめきを修めて身軽になるために必要な儀式かと思い始めている。そのタイミングをどこに置くのか、考えている。

 新しい自分への脱皮のためには、脱ぎ捨てなければならないものもあるはずだ。書いていてようやくなにかが見えてきた。

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コメント

おはようございます
先日は私の拙い文章を見ていただきありがとうございます。
おっしゃる通り韓国や中国には違和感を感じさせられます。中国についてはまだわからないところがありますが専門で勉強し、長期間滞在したことのある韓国には、私も相当な違和感を感じています。
「人間みんな基本的には同じだ」「じっくりと構えれば分かり合える」などという人もいらっしゃいますが、そういった人たちはえてして韓国人が周囲にいない人であることが多いのが実情です。
生身の韓国人を見た私に言わせていただけば「あの連中は宇宙人のようなものであり分かり合えない」です。
では、
shinzei拝

shinzei様
海外旅行に行ってその国を見てきたつもりになっていても、異邦人として通り過ぎただけなのですね。
そこで暮らしたり、そこで育った人と家族になって、違いの中から初めて同じ人間としてのなにかが見えてくるのでしょうか。

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