何々主義者
これはそのまま高橋義孝先生の短文の引き写しです。
何々主義者というのは、精神的不作法者で、自分の神様の前に万人をぬかずかしめようとします。ひとが自分の信じている神様の悪口でもいおうものなら、事の是非はさて措いて、何が何でも自分の神様の絶対的な正しさと偉大さとを弁護しようとします。その様子には何かいじらしいものがあります。しかしいじらしいとこっちが思って、あれでは毎日毎日がさぞかし大変だろうと同情なんかしていると大変なことになる。そんなことをすると、その人も自分の神様の信者になってくれるのかと思われたりするから、何々主義者は敬して遠ざけるにかぎります。そうでないと必ずお賽銭をふんだくられたり、あるいは噛みつかれたりしますから、用心しないといけない。
しかし何々主義者になると、なかなかいい点もあります。とにかくそんな風に紐つきになってしまうのだから、自分で考えたり行動したり感じたりする苦労は要らない。どう考え、どう行動し、どう感じるかは、ちゃんと神様の方できめてくれるから、その通りにやっていれば、神様の方も御満足であるし、自分の良心も満足である。そのかぎりでは、ほかの人に迷惑をかけるということはない。しかし何々主義者には、異端の神々を奉戴している沢山の人々を、もうてんから仇敵視するという、はなはだ面白くない一面がある。自分の神様が一番えらいんだと思っているところは、自分の父親が一番えらいんだと思っている子供のようなものですが、ただ子供とちがうところは、ほかの人たちをも自分の神様の前に平伏させてやろうとすることと、ちがう神様を信じている人や、また神様なんか真っ平御免だといってどの神様にもお賽銭を上げずにいる人たちを、浅野内匠頭が吉良上野介を憎むように憎んでいて、狂犬のように何が何でも噛みついてやろうといつも身構えているということです。
それから何々主義者のもう一つ面白い点、はたから眺めていて面白いと思われる点は、神様の指図に催眠術にかかった人のように従順この上なく従って、はたから見ればひどい無駄手間と思われるようなことも一向に厭わないということで、何々主義者はこの点、例の強迫神経症者によく似ています。世の中には、はたから見れば全然無意味だと思われるようなことを「強迫的に」やる人がいる。例えば、手を一日百回以上も洗う人がいる。あれは、しかるべき心理的理由、病的障碍からしてああせずにはいられないのです。
そこで何々主義者は、第一に子供っぽい頭脳の持ち主であり、第二に強迫神経症者の隣人であり、第三に他人を有無をいわさず自分の神様の前にひざまずかせようとする精神的やくざ、暴力漢だということになります。そしてこの何々主義者のために、この世の中がどんなに不愉快なものになっているか知れたものではありません。しかしいったん何々主義者になってしまったらもう治らないものらしい。
どうです。高橋義孝先生の痛烈なこと。本当にきらいなんですね。全く同感です。だから先生の文章が好きなのです。ただしこんなに直接的な文章はほとんどありません。酒を飲み過ぎてゲロを吐いた話や、金のない話、女性のちょっとした仕草についての考察など、笑わせてくれるものが多いのです。その中に先生の美意識をちらりと感じさせてくれます。
高橋義孝先生が物故されて久しい(1995年没)。先生は大学教授でドイツ文学者、エッセイスト、横綱審議委員の委員長を長く務めました。内田百閒の弟子としてその系譜を受け継ぎ、さらに先生の弟子には山口瞳がいます。私はこの先生たちの影響を受けています。影響と言うより恩恵でしょうか。もともとあった考え方が大いに強化されたのですが、それを先生達の影響と云ったのです。ブログを読めばわかるでしょう?先生のエッセイの文庫はたくさんあります。母方の叔父は尊敬のあまり息子の名前を義孝としました。
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