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2017年6月

2017年6月30日 (金)

出口の光が・・・

 本日を以て裁判所の審問が終了した。結果は八月はじめに裁判所から通知されるそうだ。異議がなければその裁定に従うだけである。よほど理不尽な裁定でなければ従いたいと思っている。

 裁判所での審問は簡単なものだが、その前にはそのことばかり考えるのでストレスが大変である。その時間とエネルギーはとても負担に感じる。だからどうあれ終わりが見えてきたことに祝杯を挙げたい。

 弁護士先生に心からお礼を言った。先生もお礼を言われたことに素直に笑顔で答えてくれた。ご苦労様でした、そしてありがとうございました。結果はどうあれ一段落つきそうなことが嬉しいです。

 今晩は久しぶりに酩酊するほど飲もうと思います。

進展があれば良いのだが

 本日は家庭裁判所に行く日。すでに双方の言い分は裁判官に呈示されつくしているように私は思うけれども裁判官はまだ不十分だと考えているのだろうか、なかなか裁定が降りない。

 そういうわけで精神的にブログを書く気がしない(書いているけど)。何らかの進展があれば良いのだが・・・・。

 夕方一息着いたあとのお酒が美味ければ有難いのだが予測がつかない。少なくとも裁判所に行く直前の眠れない数日は終わる。

2017年6月29日 (木)

分からないものは分からないのか

 高校生の時に「世界の名著」という全集が刊行された。確か第一巻がニーチェだったと思う。倫理社会という科目で思想・哲学というものに生まれて初めて出会った頃だったから、そういう本を読めば自分が識らなかった世界のこと、人間のことなどが分かるのではないかと思った。

 なんとなくニーチェには食指が動かず(だいぶ後に買った)、キルケゴールの巻を買った。キルケゴールは思想の詩人と言われるデンマークの実存哲学者で、書かれている言葉はあまり難しくない。言葉が難しくないということと書かれている内容が分かりやすいと言うことは別である。特にキルケゴールは敬虔な無教会派のキリスト教徒だから、常に神の存在が想定されている。キリスト教的な世界観を知らないと解りようのない部分が多い。

 根を詰めて読んだわけではないけれど、二年間くらいの間、折に触れて頁を開いて、なんだか大事だと感じたところを繰り返し読んだ。どうしてそんなに飽きもせず眺めたのか分からない。意味が分からないけれど、大事だと感じたのである。

 森本哲郎老師は大学で哲学を学んだときのことをこう云う。

どうしてこんなにむずかしい文章が書かれているのだろうか。
このような文章をむずかしいと思い、理解できないでいるのは、自分の頭が悪いせいなのだろうか。
それとも、何かを説明するに際して、こんな文章でしか書けないという哲学者のほうに責任があるのか。
もし、それをやさしい表現におきかえてみたら、どういうことになるのだろう。
だが、やさしくいいかえてみるには、少なくともこの哲学者が何をいおうとしているのか、それをつかんでいなければならぬ。
じゃあこの哲学者はいったい何をいおうとしているのか・・・。

 師が取り組んでいたのは、カントなどの、キルケゴールよりもずっと難解な文章だったからレベルは違うが、思うことは同じであって、そのことは心強い。

 では分からないことは分かりようがないのか。では分からないことに、なぜ大事なことがありそうだと感じるのだろう。なぜそれが大事だと分かるのだろう。

 この堂々巡りが私自身を少しだけ鍛えてくれた気がする。放り出さずにいたキルケゴールの言葉の断片にある啓示を受けた。自分なりの解釈が突然降ってきた。世界の見え方が変わるほどの衝撃だった。

 その解釈はたぶん、いや間違いなくキルケゴールの云いたいことと違う。違うと思うけれど、私が彼の言葉からもがいてたどりついた世界についての解答だった。

 見えている世界が見えているままではないこと、そして他のひとに見えている世界は自分とは違うことを識った。自分と他人は違うことを識った。もともと知っていることを識る、と云うことの意味を識った。

 いまだに分からないものは分からない。他のひとには解っているらしいのに分からないことだらけだ。でも、ときどき大事なことらしいと感じるものには食らいつく意欲を失わないようにしている。もがいたあとに自分で解答を見つけ出す喜びを少しだけ経験したことがあるから。

コメントへのお礼その他

 拙ブログ『泣き言』にたくさんコメントをいただいて感謝しております。ありがとうございます。

 心当たりのある方も多いようで、それで心強くなっても失敗が減るわけではありませんが、いつまでも気にしないことにすることにします。もともとあまり引きずる方でもありませんし、いままで以上に注意するしかありません。

 ところで、このブログに対するコメントばかりではありませんが、最近しばしば横文字のコメントがあります。恥ずかしながら読み取る力がないので読む気がせずに削除するように努めていますが、不愉快な文言が含まれているような気がします。

 いままではスパムコメントに振り分けられていたのに、それをすり抜けるものも出てきました。うっかりアクセスして万一ご迷惑をおかけしても申し訳ないので、気がついても開いたりしないで無視して下さい。

 もしかして海外の方で私のブログにコメントを本当にくれていたとしても、私は横文字だったら読みませんのでコメントしても無駄です。わざわざ辞書を引いたり翻訳ソフトを使うつもりもまったくありませんのであしからず。

 日本語であれば必ずお返しのコメントを書くようにするつもりでおります。

泣き言

 つまらないことだし、自分が悪いのだから泣き言をブログに書いても仕方がないのだが、ちょっと同情を買いたい気持がないわけではない。

 昨夕、スーパーへ買い出しに行ったのだけれど、食料品その他いろいろ買ったついでにレンジフードのカバーが汚れているのを思い出して、それも購入した。アルミのフレームに不織布がついていて排気の油分を吸い取ってくれるやつだ。

 それは大きいのでレジ袋には入らない。レジ袋にせっせと買ったものを詰める。レジ袋は大事に使えばひと月ぐらいは使えるが、品物の入れ方が悪いとたちまち裂ける。たった3円のレジ袋だけれど、無駄にするのは嫌いだ。

 マンションの郵便受けにアマゾンから送られてきた古本が何冊か届いているのを出がけに確認している。それを早く見たいなあ、などと思いながら帰宅する。

 部屋で、まず郵便受けから取り出した古本数冊を眺めてにんまりする。しばらくこれで楽しめる。そして買ったものを冷蔵庫やその他然るべき場所に収納して、はてな、と気がついた。レンジフードカバーを忘れてきたではないか。

 あわててスーパーに戻る。10分あまりしか経っていないのに、置いたはずのところにない。近くのレジの女性に尋ねてみる。もしや忘れものとして届けられていないかと思ったからだ。連絡してもらったけれど店には届けがないという。一応こちらの連絡先を伝えて悄然として帰宅した。

 残念ながら連絡がないのであきらめるしかない。誰かがこれ幸いと持ち去ったのだろうか。

 金額的にたいしたものではないのでそのことは仕方がないのだけれど、こういう失敗が次第に増えていくのだろうなあ、その一つなのだろうなあ、と云うことにものすごく傷ついているのである。

 先日は久しぶりにナポリタンを少しよぶんめに作り、鉢植えの自家製パセリをたっぷり刻んで乗せて、テーブルに置く直前に皿をひっくり返してしまった。赤いスパゲティナポリタンと緑のパセリがカーペットにぶちまけられた。さあ食べよう、と心が浮き立っていたのに。

 その天国から奈落の底への落胆はしばし回復不能だった。

 あああ、本当に哀しくて自分が情けない。

2017年6月28日 (水)

取り返しのつくこととつかないことがある

 稲田防衛大臣の発言を非難して、蓮舫民進党代表が、「発言を撤回して謝罪したら済む問題ではない。即刻大臣を辞めよ」と息巻いていた。蓮舫女史の云うことはまったく正しい。

 今回の稲田防衛大臣の発言は(少なくとも日本では)政治家としてあるまじきもので、公務員の政治的中立という建前を根底から否定するものとなっている。これは認識の相違とか、勘違いというようなものと違うから「撤回して謝罪します」、ですまされる話ではない。

 それをすまそうとせざるを得ない菅官房長官も惨めそのものだ。何しろ蓮舫代表に正しいことを言われてうつむくしかない事態など、自民党としてはあってはならないことで、稲田大臣の責任は重い。政治生命が終わってもおかしくないのだが、自民党はどうもそうしないで何とかするつもりらしい。

 首に筋を立てて声をからして相手に非を鳴らす蓮舫女史が私は好きになれない。正しいことを云えばいうほどうんざりするのはどうしてだろうか。個人的な感情はともかくとして、今回の処置を誤れば、いままでに大きく傷ついていた自民党の屋台骨が大きく揺らぐことになりかねない。まさかの事態もありうるのが世の中だ。

 安倍首相は都議会選挙の応援演説に姿を見せていない。体調が思わしくないという噂もあるようだ。自宅に複数の医師が駆けこんだのも目撃されているという。心労によって持病が悪化したのか、それともただ休養に努めているだけなのかは分からないが、もし体調が本当に悪いなら、由々しき事態である。

 逆に体調が悪いために党内に対する睨みがきかなくなって、ゆるみが出ているということもあるのか。そんなときに稲田大臣の発言である。安倍首相も情けない思いでいることだろう。しかしそこには彼自身に原因がないとはいえない。

 日本はシャープ、東芝、タカタと相次いで巨額な資産を失うことになった。失われた資産が国内の問題であればまだ救いがあるが、それが海外に支払わなければならないのであれば、国の損失であり、国民の損失である。何兆円という資産が流出するのなら、これは国民一人あたり何万円もの金を海外に奪われることに等しい。その責任の多くは経営者にあるようである。まさに大日本帝国の官僚や軍隊のトップたちとうり二つの無責任な精神論に終始した事態先送り体質がこの事態を招いたように見える。

 家貧しうして孝子顕わる、と云うけれど、孝子はどこにいるのやら。

 日本は貧しくないから、貧しさから奮起する孝子が出現するにはもう少し貧しくならなければならないのか。それならその来たるべき貧しさへの心の用意が必要なのかも知れない。そんな気配がする。

苦手

 興奮しても(感情が激しても)声を荒げることが苦手で、相手に怒っていることを伝えることがうまく出来ない。たいていの人はこちらが怒っていることを察知してくれるけれども、まったく察知できない人に対してこそこちらは怒っているのであるから、声を荒げないと怒りを伝えられないので困る。

 だから感情をあらわにする人を見てうらやましいかというとそういうことはないのであって、そのような人は苦手である。だから蓮舫氏のように、森何とか女史のように、豊田某議員のように激した物言いをする女性を見るとうんざりする。

 映画やドラマでは怒りをあらわにする女性が登場するシーンがしばしば見られる。しかしたいていその怒りには、なるほどこの状況なら怒るだろうなあ、と云うような極端な背景が描かれている。日本人はたいていそれでもそんなふうに怒りをあらわにしないことが多いけれど、それではドラマにならないから、それでいいのだ。とはいえそういう怒りの表し方の似合う人とそうではない人がいて、似合う人が何となく好きになれない。

 テレビで金切り声を上げて激高する豊田議員の声を繰り返し聞かされているが、豊田議員を擁護する発言もちらほら聞かれる。あれだけ怒るからには怒る理由があったのであろう。その理由の説明も聞いた。聞いたけれども、私は彼女を見直す気持になれない。

 腹の立つ状況の時に、困惑して哀しい顔をする女性が好きだ。男が奮い立つべき時を教えてくれる。『みおつくし料理帖』で澪(黒木華)がそんな顔をして見せていた。ドラマではその澪がさすがに怒りを爆発させて敵の料亭に乗り込むが、その啖呵も可愛い。彼女の怒りは自分のためのものではないし、ドラマだからいいのだ。

 いろんなことを同時に云おうとして、何が云いたいのか分からなくなった。

映画『シティ・オブ・エンジェル』1998年アメリカ映画

 監督ブラッド・シルハーリング、出演ニコラス・ケイジ、メグ・ライアン他。

 1987年のヴィム・ヴェンダース監督作品『ベルリン・天使の詩』のリメイクだが未見。大幅に変わっているという。この映画に関してはネタばらしは御法度である。

 天使は街のそこら中にいる。天使があえて姿を見せようとしなければ、人間にはその姿は見えない。人は死ぬときに天使の姿を見る。そして天使はその人を天国へいざなう。

 その天使の一人、セス(ニコラス・ケイジ)は病院で一人の患者の死を待っている。心臓の手術を受けているその患者は手術がうまくいったかに見えたのに、突然容体が急変する。必死で救命しようとする女性医師マギー(メグ・ライアン)。そのとき見えるはずのないセスを、彼女は凝視する。セスはそれに思わずたじろぐ。

 手術の成功を祈っていた家族に患者の死を告げるマギー。悲嘆にくれる家族の姿をみて自分の無力さにうちひしがれるマギー。それをすぐ横に寄り添って見つめ続けるセス。セスはマギーから目が離せなくなり、ついにその姿をマギーの前に現してしまう。

 セスが天使とは知らないマギーだが、セスに心ひかれていく。しかしセスには真に愛するということ、愛する者たちがふれあうことの意味が分からない。そのことをマギーも感じ取る。

 マギーは同僚の医師から求婚される。それを知り苦悩するセス。

 そんなとき、セスはマギーの患者のメッシンジャーが自分の姿を見ることが出来るのを知る。メッシンジャーは天使から人間になった男であった。メッシンジャーは妻も子もいて楽しい生活をしている。メッシンジャーは、天使は人間になることが出来ること、そしてその方法をセスに教える。

 それは人間の愛を得ることができるようになることであるけれど、永遠の生命を失うことでもある。

 セスは人間になることを選んだのか。そしてマギーの愛を得ることができたのか。奇跡は起こるのか。

 愛とは何か、生きるとは何か、生きる喜びとは何か。突き詰めればそういうことを天使の永遠の命を引き合いに出して語る映画なので、理屈で考えるといくつか天使が安直に見えてしまうのは致し方ないところか。


 とにかく約20年前のメグ・ライアンはすこぶるつきにチャーミングである。この人の茶目っ気のあるほほえみには、セスだけではない、私だって魅了される。

 メグ・ライアンに初めて出会ったのはビリー・クリスタルと共演した『恋人たちの予感』という映画だ。これは私が生まれて初めて買ったレーザー・ディスク(LD)ソフトである。どうしてふだんあまり興味のない恋愛映画を買ったのか不思議なのだが、メグ・ライアンに惹かれたのだろう(この映画を見るまで知らなかったから不思議なのである)。この映画の話とLDの話になるときりがないのでやめておく。

 一瞬が永遠である、と云うことを永遠に生きるものは知らず、限りあるものだけがそれを知るという逆説が本当かどうか。あなたはどう思いますか。

2017年6月27日 (火)

末路

 上海のロッテマートが開店休業状態だそうだ。客はほとんどおらず、店頭の品揃えも不十分で、生鮮品などはほとんど入荷がされていないらしいと報じられていた。中国全土にはロッテマートが100店舗以上あると云うが、それらがみな同じ状況なのだろうか。

 この事態はTHAAD設置に反発する中国がロッテを消防法などを理由に集中的に攻撃し、処分を行ったことに端を発している。五月末には70店舗以上が休業状態だったという。

 ロッテは先日創業者が引退して経営から身を引いた。長男はすでに実権を失い、次男が実権を握っているが、朴槿恵との癒着が疑われて韓国本国でも身動きがとれない状態のようだ。

 THAAD問題でロッテが標的にされたのは、THAAD設置場所の引き受け手がないので、ロッテのゴルフ場を用地として提供したからである。勘ぐれば、その用地提供の見返りが多分あったのかも知れない。ロッテはもともと日本で菓子メーカーとして創業され、韓国でコングロマリット(複合企業体)として財閥にのし上がった会社である。

 創業者は韓国人であるとはいえ、韓国の反日風土の中でのし上がるには人に知られない苦労があったことと想像される。他の財閥以上に政官界との癒着も必要だっただろう。THAAD用地の提供もそのような背景があったと考えられないことはない。

 中国にとっては名目上叩きやすい企業の筆頭であり、しかも韓国内の反発も多少は少ないことも見越せる。恰好の標的なのである。文在寅政権は朴槿恵に近づきすぎたロッテを助けようとはしないだろう。見殺しである。ロッテマートが中国から撤退せざるを得ないからと云ってロッテ本体がどうなるか知らないが、創業者の父親には会社の末路がすでに見えているのではないか。

 菓子メーカーとしての日本のロッテが、今後その影響を受けるのかどうか知らない。シャープと云い、東芝と云い、タカタと云い、世の無常を感じる。

余計なこと

 小林麻央さんの死去の知らせは多くの人の悲しみを呼んだ。何とか奇跡が起こって回復して欲しいとみなが思っていたはずである。私も、夫君の市川海老蔵が子どもとともにこの悲しみを乗り越えて力づよく生きていくことを願っている。

  その市川海老蔵がブログを更新して、自分自身を励ます言葉を連ねたことを批判する人がいると知って驚いた。いわく、「せめて初七日が過ぎるまでは沈黙するべきではないか」「普通はこんなときにブログなど書かない」と云うのだ。

 喪に服する、と云う大事な儀礼がある。その間は世間との交渉を極力減らして故人を弔い続ける。ブログを書くというのは、その喪に服すると云う儀礼に反するのではないかと批判したつもりなのであろう。それも一つの考え方であり、間違っているわけではない。

 しかし、そう批判している人は儀礼をたてにしているだけで、実は批判したくてしているだけであり、自分が正しくて相手が間違っていると言い立てることに快感を感じるためにしているということはないか。

 市川海老蔵は役者であり、ブログに自分の気持ちを書くことにいささかの計算もないとは言い切れない。しかしそれを言うのはゲスの勘ぐりである。彼のブログを読む人は彼の気持ちを知りたい人だからそれで良いのである。しかし世の中には要らぬことを言う人間が多すぎる。こんなことを書いているのも余計なことかも知れない。自分も気をつけなければ。

映画『この愛のために撃て』2010年フランス映画

 監督フレッド・カヴァイエ、出演ジル・ルルーシュ、エレナ・アヤナ、ロシュディ・ゼム他。

 腹部に傷を負い、必死で逃げる男、そしてそれを追う二人の男。冒頭はその追走のシーンがしばらく続く。逃げる男はようやく仲間に連絡を取り、車で迎えに来るよう指示する。合流しようと走り続けるが、迎えの車の男の目前でバイクに跳ね飛ばされる。人だかりを見て追ってきた男たちは逃げ出す。

 このプロローグのあとは病院のシーンである。逃げていた男は瀕死の状態で救急治療を受けている。救急治療室の看護士がこの映画の主人公のサミュエル(ジル・ルルーシュ)である。妻はいま身重で臨月も近い。その男に災難が降りかかる。

 サミュエルが患者の様子を見て回ると、あの瀕死の男の救命チューブが切断されているのを発見する。サミュエルの応急処置で辛くも命は取り留めるのだが、看護士の仕事を逸脱したとして医師から叱責を受ける。彼はまだ勤め始めて間もないために立場が弱いこと、医師との関係も良好でないことがほのめかされる。

 警察は身元不明のこの男を調べ始めるのだが・・・。

 サミュエルの身重の妻が誘拐される。要求されたのはあの重傷の男を病院の外に連れ出すことであった。警察に知らせたら妻の命はないと言われる。不可能としか思えないその指示に従うためにサミュエルの孤独で苛酷な闘いが始まる。

 重傷の男は誰なのか、なぜ彼の身柄が必要なのか。警察はついにその男が誰なのか突き止める(調べるように指示された女刑事が翌朝、上司から「調べたか」と聞かれて、「まだです」と平然と答えるあたりがフランスの警察の状況を知らせてくれる。これも伏線なのである。この怠惰さがつぎつぎに解決を遅れさせて、事態を悪化させていく。しかもこの女刑事は任務に熱心なまともな刑事なのである。うそーっ)。病院にやって来た警察にも追われる身となったサミュエルは、つぎつぎに訪れる危機をどう切り抜けるか。

 ノンストップのサスペンスアクション。闘うテクニックを持たないただの男が、プロの男たちを相手にぼろぼろになりながら、ただただ妻のために、生まれてくる子どものために闘う。

 世のなかには理不尽なことがある。悪者は真っ当な人間の生活や幸せなど何とも思わない。たいていの人間はその理不尽につぶされて破滅してしまうものだが、映画はその理不尽に絶望せずに闘うことで必ず希望はあることを伝えようとする。希望は持たなくてはいけないという気持にさせてくれる。理不尽に対する怒りこそ正義なのだと思わせてくれる。普通の男がここまで頑張らなくてはならない社会というのは、本当はちょっとこわい話なのだけれど。

2017年6月26日 (月)

映画『カリキュレーター』2014年ロシア映画

 監督ドミトリー・グラチョフ、出演エフゲニー・ミロノフ、アンナ・ボスカヤ他。

 人類が宇宙に雄飛して数千年後、銀河には人間の住む植民星が数多く出来た。そのなかに、未知の生物が棲む、沼地に覆われた惑星があった。周りを厳重に囲い、都市国家が造られて人びとはそこに暮らしているが、そこでは重罪の人間を死刑のかわりに沼地に放逐する。

 女性のモノローグでその星の状況が語られていくが、やがてその女性が、今回沼地に放逐される中のひとりであることが分かって来る。10人ほどの放逐者の中には犯罪者もいるが、管理国家に批判を唱えた政治犯もいる。

 彼等は沼地をはるか越えた300キロ先に「幸福の島」があると伝えられていて、そこをめざすことになるのだが・・・。

 彼等は出だしから二手に分かれることになる。そして彼等をつぎつぎに未知の生命体が襲う。

 こういう映画のお決まりとして、この未知の生命体を描くことが主な見せ場になっている。なかなかユニークなクリーチャーが出てくる。二つのグループ(と云っても片方は二人だけなのだが)のリーダーはそれぞれ沼地についての知識を持っており、犠牲者を出しながらもそれらの襲撃を切り抜けていく。

 モノローグの女性はその二人の方の組のひとりである。積極的にそちらのリーダーを選んだわけではないが、結果的にその選択は正しいことが分かって来る。

 こういうカルト映画の楽しむためにはあまり理屈っぽく考えないことである。突っ込みどころ満載なので、それを見つけて一人でにやりと笑っていればいい。ましてこれはロシア映画である。管理国家について、ロシア式の捉え方を見ることも出来る。ソビエト時代のトラウマがあるのか、それともいまもそうなのか。

 この映画で驚いたのは、モノローグを語っている若い女性(これがアンナ・ボスカヤであろう)が、ワアワアギャアギャアと喚きどおしで不平たらたら、自分の愚かさが相手を危険にさらすことになることなどお構いなしの言動に終始する。まさにアメリカ映画に登場するおバカヒロインそのものなのである。

 これはロシアの女性もそういう風であるということなのか、それとも映画のヒロインとはそういうものだと監督や脚本家が思い込んでいるのか、どちらだろうか。

 知能の高さや低さの問題ではなく、賢さと品位のないヒロインは、しかしついにはヒーローの求愛を受けるのである。ヒーローはおバカヒロインが好きだという決まりでもあるのだろうか。これではヒーローもただのバカである。

 こういうヒロインが出てくるとうんざりしたものだが、あまりにも定番化してくると、そういうものがどうしてこう繰り返し描かれるのか、興味が湧いてきたりする。なかなか慣れないけれど。

日本経済新聞社編「中東崩壊」(日経プレミアシリーズ)

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 この本も読みかけで(読書スランプで)半年も放り出したままになっていた。今回めでたく読了したけれど、とても読みやすくてどうして一気に読めなかったのか不思議だ。

 ここには目新しい情報はあまりない。しかしそもそも中東という場所について自分にほとんど知識がないのである。恥ずかしながら各国の位置関係を地図なしに示すことが出来ない。世界情勢を知りたいと思ってこの地域について書いた新書を何冊か読んだけれど、読んだ尻から忘れている。シーア派もスンニ派もどういうもので、どの国はどちらの勢力が優勢なのか、すぐ分からなくなる。

 知らないままでいいや、と思わないでもないが、世界の変化の大きな渦の一つがここにあるとなれば、多少は知らないとニュースの意味が分からない。

 そういう意味で、この本は基礎的なことをとても短い文章で適切にまとめてくれているから参考になる。ただし詳しいことを知りたい人にはもの足らないだろう。そういう人はそもそも読者に想定されていない。一度聞いたことをもう一度思いだして、そういえば聞いたことがある、という程度の人にむいている本だ。私のように。

 ところで本を読んで思ったことは二つ(もっとあるけれど、思ったすぐあとにもう忘れている)、一つは中東に石油が産出されることの幸福と不幸ということ、もう一つは欧米が中東に介入したことの罪の重さである。

 そのことについて考えたことを書いていくと長くなりそうだ。それにまだ考えは表面的で浅薄(いつもそうだが)なので、もう少しまとまってからあとで書くことにしたい(いつになるか分からないけれど)。

2017年6月25日 (日)

「は」の呪縛

「は」は“わ”と読む、助詞の「は」である。この「は」が気になって仕方がない。

 以前、「ハンパない」と云う言葉がどうにも聞き苦しくて嫌いだと書いた。「半端でない」「半端ではない」という言葉がいつから「ハンパない」などという言い方に変わったのか。気がついたのは芸人がテレビでそんな言い方をしているのを聞いたときだが、とても気になった。ところがいまではだれも彼もがそう言う。もともとそういう言い方があったのだろうか。私が知らなかっただけなのだろうか。

 むかしは「は」をそんなに気にしなかった。

 クラシックの作曲家の團伊玖磨がアサヒグラフという雑誌に『パイプの煙』というエッセイを連載していて、それが朝日新聞から文庫本としてシリーズで出版されていた。「続」「続々」「又」「又々」「まだ」「まだまだ」と延々と続いて何巻出たのか分からないが、出る度に買っていたからたいてい読んだはずである。

 余談だが、加山雄三の作曲者としての名前の弾厚作は、團伊玖磨の「だん」と山田耕作(山田耕筰)の「こうさく」を組み合わせたものだと聞いたことがある。

 その團伊玖磨の『パイプの煙』のなかに「嫌いな言葉」という文章があって、彼が虫の好かない言葉がたくさん並べられている。おおむね私の感性と合致することが多かったのだが、そこに、「は」について書かれていたのだ。

「まことに由々しき問題である」

「いやはやお賑やかなことである」

などの、たまたま手元にあった新聞からの用例をあげて「鳥肌が立つ」と云う。絶対にそういう「は」は使いたくないし、使おうとしても気持ちが悪くて使えないとまでおっしゃる。この「は」は私の感性に引っかかるものとして感知されていなかった。

 それからである。このような「は」に出会うと気になって仕方がない。世の中にはそんな「は」があふれている。この「は」は必然性があるかないか、不要だというものにはセンサーが働いて、読んでいる文章全体がぐらぐら揺れて見えてしまう。そうなって30年以上が経つが、死ぬまで気にし続けるだろう。

 だから自分の書く文章にそんな「は」が紛れ込んでいたりすると慚愧に堪えない思いがするのだが、よく見るといくつもあったりして死にたくなる。「は」の呪縛である。

 呪縛の言葉は他にもたくさんある。たいてい名文家は言葉にこだわるもので、それらを読むごとに気になる言葉が増えていき、身動きがとれなくなる。それでこの悪文か、と云われると一言もないが。

葉室麟「風のかたみ」(朝日新聞出版)

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 葉室麟が好きなので、店頭で新しい本を見かければ迷わずすぐ買う。書店で手に入るものは全て持っているつもりである。もちろん買えばすぐ読む。

 ところが読書スランプでこの葉室麟すら読めなくなった。結果、三冊の未読の葉室麟が積まれることになった。その一冊が今回読んだ「風のかたみ」である。めでたく読書スランプを脱することができたのである。

 この小説に出てくるのは、ほとんど女性である。その女性たちがそれぞれ個性を持ち、封建時代の武士の妻や母としての制約の中でその個性に従って志を貫く。

 藩主の係累につながりながら藩主や藩の意志に異を立て、屋敷に立て籠もり、ついに上意討ちになった武士の一家。そして女たちが残される。藩の処分を待つまでのその女たちのもとに、女医である主人公の桑山伊都子は住み込みで派遣される。病人がいるからでもあるが、彼女には密命が下されていた。

 そして女たちにも果たすべき目的が残されていた。

 一気に読めたのだから面白かったのである。さはさりながら、私の評価はあまり高くない。もちろんどんな名作家だって書くもの全てが素晴らしい作品というわけにはいかないけれど、この作品を書きながら葉室麟はいつものように熱を込めることが出来たのだろうか、と考えた。

 主人公の伊都子の気持の高まりが感じられない。存在感が薄いのである。そして目的のためにあえて悪役をふるまってみせる初という女性に共感があまり出来ない。だから全てが終わったあとに明らかになった真相を知ることで覚えるはずの感動を軽いものにしている。

 これは私が粗雑な読みをしたのか、ポイントを外したまま読んだからかも知れない。そうであれば申し訳ないことである。

映画「ラスト・クライム 華麗なる復讐」2017年フランス映画

 監督パスカル・ボルドー、出演ジャン・レノ他。

 題名から受けるイメージに反して痛快コメディだと云う。コメディはあまり好きではないが、ジャン・レノ主演ならあまりひどい作品ではないだろう・・・と思ったのだが。

 ITの仕事をしているちょっと鈍くさそうな女性、そしてスタイルも良く華麗な外観なのだけれど、なんとなく品性にちょっと欠ける女性の二人のもとに、同時に父親の死去の知らせが届く。

 お互いにまったく知らない相手なのだが、実は母親違いの姉妹なのであった。

 その前のプロローグで、実は二人の父親である大泥棒のパトリック(ジャン・レノ)がバイオリンの名器、ストラディバリウスを見事に盗み取るのだが、仲間に裏切られて車ごと川底に落とされてしまうシーンがある。

 父親の資産を管理する弁護士から、アルプスの山小屋に父親の遺品があるので確認して二人で分けるように言われた姉妹はその山小屋に向かう。

 もちろんパトリックは死んではいない。死んだと見せかけて二人の娘の協力を仰ぎ、裏切り者に報復するつもりなのである。ここからドタバタ劇が始まる。

 ジャン・レノは楽しそうに演じているのだが、おふざけがすぎて緊張感がない残念な映画になってしまった。よほど暇な人以外にはお薦め出来ない。

2017年6月24日 (土)

新刊書でなくてもいい

 たいした蔵書があるわけではないが、欲しくて揃えているシリーズ物や、何巻にもわたる本の中に欠本のあるものがたくさんある。例えば『酉陽雑俎』という面白い本も、本屋を探し回って四巻まで集めたのに第五巻がない。ところがアマゾンで探せばあっという間にそれが見つかる。

 何より嬉しいのは、古本屋では全五巻のその『酉陽雑俎』の第五巻だけ買うことはふつう出来ない。欲しければ五巻全て買うように求められる。ところがアマゾンではバラで買えるのである。これはとても嬉しい。

 しかしそうなるとあれもこれも欲しくなって止めどがないのだが、哀しいことに懐には止めどがある。だから廉価な中古の本を探す。形ではなく、中身が欲しいので、新刊ではなくてもまったくかまわない。状態が可より良の方が有難い(分かるひとには分かる)のは、経験的に両者にそれほど価格の差が大きくはないからである。

 図書館で読めば良いではないか、とブログでいろいろ新しいことを学ばせていただいているHiroshiさんはおっしゃる。本物の人は形ではなく、中身で学んでおられるのだ。だが私は形の人間で(ちょっと開き直っているようだが、その通りである)、形にこだわって生きることができる程度のぎりぎりのゆとりがある。

 むかしは図書館が好きで、よく利用していた。テーマを決めて関連図書を調べたり読んだり、図鑑を見たり美術書などを眺めるのに図書館ほど素晴らしいところはない。しかしいまは図書カードを持っていてもほとんど利用することがなくなった。住んでいる街の図書館のお粗末さは哀しいほどである。名古屋市の図書館のカードもむかし作ったけれど今どこにあるのか解らない。

 いまは自分の蔵書の中で、自分の世界で浮遊することに忙しいのである。ほとんどその中味が自分で分かっていない。自分の蔵書の世界の広がりが私自身の想像力をはるかに超えていて、もうそれ以上広い世界が必要ではなくなったのである。私には許されている時間の限度がある。それは多分自分が思っているより少ない。

 いまは自分の世界のほころびをうずめながら、世界の密度をほんのわずか上げることにだけ喜びを感じている。拡げることより中身だと知りながら、ひろがりすぎて収拾のつかない自分を楽しんでいる。その宇宙を探索して生きることが私の生きがいであり、喜びなのだと思っている。人間の想像力と創造力はすごいなあ。

2017年6月23日 (金)

龍應台『父を見送る』(白水社)

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 『台湾海峡一九四九』に続いて日本で出版された龍應台の本である。訳は共に天野健太郎。龍應台は中国語圏では著名な作家で、訳者のあとがきによれば、出版された著作はことごとくベストセラーになっているらしい。この二冊を読んだ限りでもそれが頷ける。中身が濃厚で、素晴らしいのである。著作は多数あるらしいが、まだ翻訳されているものはこの二冊だけなのだろうか。

 実はこの『父を見送る』のほうが先に書かれた作品で、『台湾海峡一九四九』のほうが後に書かれている。内容を読んでもそれは明らかだ。さらにこの『父を見送る』は三部に別れているけれど、書かれた順番は後の方が一番新しい。それは現著書がそういう構成になっているからのようだ。

 短い文章が、表題付きでたくさん連ねられていて、詩のような随筆のような、しかも幻想的な創作小話のような文章で、一つひとつがしみじみとして深味がある。人生の深味が少ない言葉にこめられていて重いのだ。

 彼女は台湾生まれの台湾育ち、海外留学を経験してから国に帰り、ドイツ人と結婚して夫君とドイツに移り住んで長く暮らし、男の子を二人もうける。その後台湾に帰国して大学の教師となる。台湾と香港の大学を掛け持ちして教鞭を執った時期もある。請われて行政文化部の局長や部長を歴任し、初代の文化大臣に就任もしている。

 彼女の父親も母親も大陸の出身であり、国民党とともに台湾にやって来た外省人である。外省人としてどのような苦労をしたのかは文章から推察するしかない。ついに大陸に帰ることのかなわなかった父を看取り、晩年故郷に帰りたがる母を大陸に帰し最後まで看護した。両親は四人の子どもをもうけたが、長男は大陸生まれで祖父母の元に置いて行かざるを得なかった。残りの三人は台湾生まれ。

 これらの本は家族の物語でもあり、彼女の息子との関係もそこにオーバーラップする。そしてそれは台湾と中国との関係の物語でもあり、苛酷な歴史の物語でもある。

 深い素養に裏打ちされ、古い漢詩もふんだんに引用されているが、適切な訳が添えられているから読むのに苦労は要らない。読んでいて原著との文章リズムが適切なのだろうと思うけれど、たまに首をかしげる部分があった。わずかなことであり、原著と比較しているわけではないので私の思い過ごしかも知れない。

 読みごたえがある本だけれど、素晴らしい本なので、機会があれば一読をお勧めしたい。ちなみに表紙の写真は彼女の母親である。

どうでもいいことではあるけれど

 いつものことだが、とりとめのないことを感じたり考えたりしている。他のひとにとっては、だからなんだと云うことも多いけれど。

 前回の定期検診にあわせて大慌てで減量したけれど、じわじわとデッドラインを超えつつある。酒量を控えたら摂取する食事量が増えた。当たり前なのだが、太る。食事量を元に戻すだけでは現状維持になるだけなので、しばらく量を減らして我慢することにする。こうして公言しておかないと、つい自分で自分に言い訳しながら飽食を続けてしまう。何しろ食べることも飲むことも大好きなのだ。

 今月末に久しぶりにストレスフルなことがある。今回は電話審問なのだが、ついそのことに心がとらわれてしまう。心理的にそれが飽食につながっているのかも知れない。

 友人からもらったミニトマトの苗がめでたく生長し、つぎつぎに花が咲いているが、結果しているのが少ない。少ないながらそれでもよく見るといくつか少しずつ大きくなっている実がある。いつも拝見している『棚田のブログ』tanadaさんに、コメントでそのことを書き込んだら、tanadaさんのミニトマトは三月に植えて六月に実が実ったという。私のトマトがいつ実るのか分かりません、とのご返事であった。当前である。実際に私のトマトを見ているわけではないし、写真すら見ていただいていないのだ。専門家だからといって分かるわけがない。

 ただ、多分あとひと月くらいで自分のミニトマトが食べられそうなことは分かった。tanadaさん、ありがとう。

 自民党の女性議員が秘書に暴言を吐き、暴行したとして騒ぎになっている。暴行と云っても怪我をするほどのことではなかったようだが、そのときの録音が公開されて、その中で「運転中ですからやめて下さい!」という言葉を確かに聞いた。秘書が運転中に肩か背中でもはたいているのだろう。危険きわまりない。

 暴言と云うより我を忘れての喚き声である。ほとんど狂気の状態が想像される。人は我を忘れた状態を他人に見られるほど恥ずかしいことはない。だから他人の前で我を忘れた状態にならないように自省する。それがまともなおとなである。そんなものが公衆に暴露されたら死にたくなるだろう。豊田某議員は自民党に離党届を提出した。人に言われなくても、議員をみずから辞職するしかないと私なら思うが、本人はどうか。自分一人の立場ではないから慰留もあるだろう。しかし残ればただ恥をかき続けるだけである。

 それにしてもいつも騒ぎ立てるお馴染みの野党の面々が「議員を辞めるべきだ」と口を尖らせて語っていた。そんなことをカメラの前で語れば、豊田某議員と同じレベルに並べて見られるだけである。マスコミもその絵を狙っているのであるから人が悪い。こういうときは鼻で笑って黙っていれば良いのだ。国民や有権者の多くはわざわざ云われなくたってもうそんな議員を支持したりしない。

 ところで河村元官房長官が、「あんなの、男の代議士にもいっぱいいるよ」とおっしゃっていたらしいが、その発言を撤回した。撤回するとそういう事実はなくなるのだろうか。撤回できるのは本人の見解の間違いを指摘された場合で、今回の発言は見解ではなくて事実についてのものである。もし撤回するなら、「私は嘘つきです。嘘を言いました」ということになる。豊田某代議士の援護をしたつもりであったのかも知れないが、援護すべきでないものを援護したばかりではなく、自分を愚か者と明らかにしてしまった。

 俳優の小出恵介がバッシングを浴びているが、交渉を持った17歳の少女の背後関係を警察が調べているそうだ。実はこのことについては高額(一千万円くらいとみられているそうだ)の示談がすでに成立して法律的には処理済みだったのだが、このネタで小出恵介を恐喝しようと企んでいる男たちの影がちらついているようだ。だから小出恵介はただの被害者だ、というわけにはいかないだろうが、少女側にかなりあくどいバックがついていたとすれば、事件の様相がガラリと変わってくる。多分そんなことだろうとは思っていた。

 だから一部芸人が小出恵介の酒癖の悪さを暴露してマスコミに受けていると云うのを聞くと、最低の屑だなあ、と内心思っていたところだ。

 以上どうでもいいことを並べてみました。

フランス映画『ザ・クルー』2015年フランス映画

 監督ジュリアン・ルクレール、出演サミ・ブアジラ、ギヨーム・グイ他。

 ギャング映画だけれど、こう云うのをクライムアクションと呼ぶらしい。フランス映画はけっこう非情なストーリーが多く、甘さがほとんどない。その感情移入しにくいぎりぎりのキャラクターが、ハリウッド映画などのバイオレンスタッチの映画の主人公よりも魅力的だったりするのだ。

 ヤニス(サミ・ブアジラ)と云う男が率いる凄腕の強盗団が装甲車を襲い、大量の白紙のパスポートを奪う。難民であふれるフランスではこれが大きな金になるのだ。いつものように襲撃に使用した武器や車を処分して足が着かないように完璧に事後処理したはずだったのだが・・・。

 今回引き入れたヤニスの弟アミンが、小遣い稼ぎのために、処分するはずだった銃を一丁だけ横流しして、そこから凶悪なギャングたちに素性がたどられてしまう。そして彼等に麻薬の強奪を強要させられる羽目に陥る。

 仕事を完遂しても逃げても破滅しかない事態に追い込まれたヤニスたちの反撃が始まるが、それはさらに凄まじい闘いへの道であり、警察からも追われる絶望的な破滅への道であった。

 こういうクールで救いのない事態に追い込まれながら自分の矜持を貫くヤニスに男らしさを感じてしまう。もちろん真っ当に生きるのが正しい行き方であるのは承知の上で、最もそれから遠い生き方に美学を見てしまう。映画の力だろう。

 これも好みが分かれるだろうが、私は嫌いではない。

2017年6月22日 (木)

映画『タイム・ループ』2016年セルビア映画

 監督フィリプ・コヴァチェヴィチ、出演ストヤン・ジョルジェヴィチ他。

 こういうのもSFといえばいえるのか。解釈がどうとでも出来る不条理映画であって、どう解釈してもいいと云うことは決まった解釈は不能ということでもある。

 主人公が街の真ん中の広場のベンチで目覚める。意識がはっきり戻らずに朦朧としながらあたりを見まわしていると突然白い仮面をした四人の男が彼をめがけて発砲してくる。苦痛にもがきながら見あげる彼を四人の男たちは見下ろし、とどめの弾丸が彼を貫く。

 主人公は街の真ん中のベンチで目覚める。あたりの光景や行き交う人の姿は記憶のまままったく同じである。そして彼が呆然としていると白い仮面を被った男たちが迫ってくる。彼はあわてて逃げ出す。辛くも脇の小道に逃げこんで一息ついた主人公だったが、行きずりの女性を人質に、彼に出てくるようにと白い仮面の男たちが彼に迫る。無視するに忍びずに姿を表した彼に銃弾が降り注ぐ。

 主人公は街の真ん中の石畳の広場のベンチで目覚める。同じことの繰り返しにいらだつ彼は、ベンチの下に新聞紙に包まれた四角いものが貼り付けられていることに気がつく。この事態を知る手がかりではないか。そして注意深くあたりを見まわして、自分の行動を決める。そのことと包みの中から出て来た石のブロックは関係があるような気がしてそれをたどるのだが・・・。

 主人公は街の真ん中のベンチで目覚める。フラッシュバックのような記憶がよみがえる。そしていままで出てこなかった男が彼から逃げようとするのに気がつき、彼を追う。彼を知っている男のようである。不思議な建物に逃げこんだ男を追うが、なぜ追うのか彼には解っているわけではない。迷路のようなその建物の内部で彼はいろいろなものを見るのだが、やがてそこにも白い仮面の男たちが現れ・・・。

 そして彼はベンチで目覚める。

 こうして無限に目覚めては殺されることを繰り返しながら、この事態の新たな手がかりらしきものが、そして彼自身の正体が次第にわかっていく。やがて知る驚くべき事実と、そのループから抜け出すためにとった彼の行動とは・・・。

 不条理映画だから結末も釈然としないし、だからどうしたのだというところだが、それを面白い物語と思うかわけが分からんと投げ出すか評価が別れるだろう。珍しいセルビア映画と云うのを見たということで、良しとしておこうか。

内館牧子『終わった人』(講談社)

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 長い読書スランプに入り始めた頃に読みかけたままになっていた。ようやく再び読み始め、読了することが出来た。

 東大を出て銀行マンとしてエリートコースを歩んでいた主人公は、まったく心外なことに途中でそのエリートコースを外されてしまい、傍系の会社へ役員として出向して定年を迎える。

 仕事人間だった主人公は定年後の生き方を模索するのだが、自分が仕事の意欲がまだまだ旺盛なことに気付く。しかし再就職の道は開けない。スポーツジムに通ったり、カルチャースクールに通ったりするが心は満たされない。カルチャースクールでは恋の如きものを経験して心ときめいたりする。

 妻は子育てを終えてから始めた美容師への道を生きがいにして、自分の店を持つ夢を叶えようとしている。夫にかまっているヒマはない。そんなとき、若い経営者から顧問として会社を手伝って欲しいという誘いがある。まだ規模は小さく、社員たちも若いが、調べてみると内容に問題はなく、自分が役割を担えそうであることを感じてそれに応じることにする。

 ここで主人公は心から生きがいを取り戻すことが出来、当初積極的に賛成していなかった妻も了解する。久しぶりの海外出張も経験し、会社は活気にあふれ、全てはうまく運んでいたのだが、好事魔多し。

 主人公に大きな責任を引き受けるかどうかの選択が迫られる。彼が選んだのは・・・、そしてその顛末は。意外な顛末に運命は二転三転する。

 定年後の男のものがたりと言うことで感情移入するところがあると思って読み始めて、途中でしばらく読み進められずにいたのは、主人公があくまで仕事が生きがいだと感じる男であり、私とは違うからだった。私だって仕事をしていたときは仕事に生きがいを感じていた。幸いなことに定年前の10年間は特に充実していた。

 しかし定年の60歳ですっぱりと仕事から離れた。理由はいろいろある。しかし定年ですっぱり辞めることは若い頃から決めていたことで、まったく悔いはないし仕事に未練もない。あえて云えば社会的な役割を十分果たし終えていないという思いはないことはないが、自力で老後を全うできるように心がけているつもりだ。

 仕事を辞めると、いろいろやりたいことを考えていても半年もすると息切れがして風船がしぼむように空しさが押し寄せてくるものだ、などと聞くことがあるが、いまのところ私にはそのような思いは全くない。強がりではなく、日々楽しいし幸せである。独り暮らしだから淋しく思うこともあるけれど、だから友達や子どもたちにときどき会うことに大きな喜びが感じられもする。満足である。

 主人公がリタイア後の自分の人生に一つの結論を見出して諦観をつかむまでの紆余曲折は、しかし思ったより面白かった。それだけお話として良く出来ているし、主人公の枯れ切れていない生臭さのなごりのようなものにいささか身につまされる思いもしたからだろう

 それが生きていると云うことなのだと思い、人それぞれの人生があるのだとあらためて思った。

2017年6月21日 (水)

開高健の『パニック』を読む

 先日開高健の評伝本『開高健--生きた、書いた、ぶつかった!』を読んで、久しぶりに手持ちの昭和文学全集の中に収められた『パニック』を読んだ。本当は『日本三文オペラ』や『裸の王様』、『流亡記』なども読みたかったのだが、全集に収められていないので残念である。

 小説の面白さを教えられたものとして、思いつくままに挙げれば、少年少女向けのものは別として、小学生時代で吉川英治の『水滸伝』、石坂洋次郎の『若い人』、柴田錬三郎の『孤剣は折れず』、中学生時代ではM.ミッチェルの『風と共に去りぬ』、芥川龍之介の『羅生門』、『地獄変』、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』、江戸川乱歩の『孤島の鬼』、そして開高健『パニック』と『日本三文オペラ』などがある。

 その中でも開高健は私にとって別格であった。

 ある地方都市周辺で笹の花がいっせいに咲いて実をつける。笹は通常は根を延ばしていくことで繁殖していくが、60年または120年に一度必ず花が咲き、そして世代交代する。そのとき栄養価の高い実を食べてネズミが異常発生することがある。研究者の予測をもとに主人公は役所の上司に強く対策を進言するのだがとり合ってもらえずに無策のまま年を越す。

 笹の実をたらふく食べて飽食し、雪の下で大繁殖したネズミたちは春になって飢えて暴走していく。もう笹の実はないのである。主人公達が思いつくさまざまな対策は後手後手に回り、被害が次第に深刻になり、ついに赤ん坊の犠牲者まで発生する。

 汚職まみれの上司の想像力のなさと無責任さに手をこまねくしかない主人公に同情し、上司や役所や代議士たちにわが事のように熱い怒りを感じる。上司の口臭の描写にはそれが臭ってくるほどである。事態はエスカレートして題名通りパニックになるのであるが、意外な結末が待っている。

 二重三重の人間の狡猾さに背筋が冷たくなる思いがする。主人公も実はただの正義の味方であるわけではない。そしてそれが世の中であること、人間社会であることをこの小説で教えられたのである。

殺すつもりはなかった

 殺人事件や殺人未遂事件の時にたいていの犯人は「殺すつもりはなかった」と言う。まれに「殺すつもりだった」などと犯人が言ったりすると、マスコミは大騒ぎで大々的に騒ぎ立てる。マスコミは普通ではない珍しいものにとりたててニュース性を感じるものであるから、それほどまれなことなのだともいえる。

 人の心の中など他のひとには解りようがない。明らかに殺意があったようにしか見えなくても本当に殺す気はなかったのかもしれないし、ほとんど事故にしか見えない場合でも実は殺す気だったこともあるだろう。「相棒」シリーズでもそんなテーマの話があってよくできていたから興味深かった。誰もが殺意を感じていないのに右京が誘導して最後に犯人が殺意を自発的に認めたが、認めたことが誰にとっても空しいことのように見える切ないドラマだった。

 ところで犯人が「殺すつもりはなかった」かどうかは殺されたり殺されかかった人にとって直接関係ない。事件の罪は同じである。ただ、罰を受けるときに殺意の有無が情状酌量に値するかどうか考慮されるだけである。

 問題は、「殺すつもりがなかった」ら、あたかも罪が軽くなったり、あるいはなかったことにされかねないことである。繰り返すがそれが認められても軽くなるのは罰だけである。マスコミの論調を見ていると罪と罰の区別があいまいで、殺意がないことが犯罪そのものをなかったことにしかねない危うさを感じる。それを承知で弁護士の中にはそれを利用して罰を軽くしようとし、さらには罪そのものを否定しかねないような人物も見受けられて恐ろしい。

 しばしば法律を破った人間が、そんな法律は知らなかったと抗弁して無実を訴えているのを見る。法律は知っていたか知らなかったで適用が変わることはあり得ない。人は社会的に地域や国の法律の枠内にあるのだ。そういう言い訳をする人間は必ずいるものだが、それが少数ではなく、大勢になると世の中の秩序は崩壊する。

 平然とそういう言い訳をする人間をみて、それでもいいのか、と真似をする人間が最も恐ろしい。それに歯止めのきいていない社会が恐ろしい。

村山早紀『桜風堂ものがたり』(PHP)

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 帯には2017年・本屋大賞ノミネート作品とある。この本は書店と書店員の話であるから、書店員が選ぶ本屋大賞には有利かも知れない。目利きで読み巧者の書店員が選ぶのであろうから、そんなひいきはしないか。

 書店というのがどんな役割でどんな仕事なのか、今どんな状況に置かれているのか、そしてそこで働いている書店員の巧拙と本に対する知識の優劣がどれほど違うものなのか、とても良く描かれている。

 本好きとしては(特に紙の本)、書店はとても大事なところである。街を知りたいと思ったら、その街の書店を探し、その書店のレイアウトと並べられている本を見る。本屋の少ない街の文化度は低いと私は断じてしまう。並べられている本が雑誌やコミックばかりなら長居はしない。レイアウトを見ればその書店の緊張感の有無を読み取れる。緊張感のない本屋はいくらたくさん本があっても値打ちがない。多分遠くない将来つぶれるだろうと感じる。

 小さな本屋でも、意外な発見があったりするととても嬉しい。本好きが出入りする書店は本もぞんざいに扱われないからきれいである。本を雑に扱う人間をみていると怒りを禁じられない。書店で子供が本をおもちゃにしているのを見るとつい叱ってしまう。そんな子供の親はたいていあまり知的に見えない。

 肝心のこの本の話から離れてしまったが、本好きならこの本を楽しく読めるだろう。主人公は中都市の百貨店の中の銀河堂書店という本屋の文庫コーナーをまかされている無口な青年だ。彼は書店で働くことに生きがいを感じているし、店長も同僚も本好きで善い人ばかりである。そんな彼がある事件をきっかけに銀河堂をやめることになる。

 そして失意の彼は、ブログがきっかけで知り合った桜風堂という地方の小さな町の本屋の店主を訪ねる。その店主から意外な頼みがあり、それは彼にとっては大きな喜びとなる。彼は再生する。彼が必ず売れると見込んだある本を中心に奇跡が起こる。

 とても楽しい本である。一つだけ残念なのは、主人公の青年の恋の行方がほとんど書かれないことである。二人のとても魅力的な女性からひそかに慕われているのに彼はそれを知らず、何も進展しない。最後までなにもないのは歯がゆいほどである。

 多分続編が書かれて、そのへんが描かれるのではないかと思うがどうだろうか。

 この作家の本をまた書店で探すことになりそうな気がする。窓口がまたひろがって収拾がつかないけれど、面白いから仕方がないのだ。

2017年6月20日 (火)

内田樹『内田樹による内田樹』(140B)

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 本の表紙に名前が三つもある。

 内田樹老師の本は100冊を超えて、本人も数えるのが面倒になったと前書きにあるが、この本が出版されたのが2013年だから今はもっと多いわけである。

 その数ある著作のうち、11冊を取り上げて8章に分けて解説しているのがこの本だ。解説は著者自身がするのが一番だという見方も出来るし、自分の著書をそこまで客観的に見ることが出来るだろうか、と首をかしげる向きもあるだろう。

 しかしもともと老師は自分の著書を他人の本のように読むことが出来ると公言している。だから自分の本を読んだら面白かったとしばしば書いている。私だって以前の自分のブログを見て面白いと思うのだから、分からないことはない。

 本そのものの解説のはずが、書いていたときより深化した見方で本の内容を補足しているのが面白い。ここにとりあげられた本はフランスの思想家でユダヤ人のレヴィナス(老師の、哲学科の教授としての研究テーマがレヴィナスなのである)に関連した三冊の著作以外は一度ならず読んでおり、私にはお馴染みである。レヴィナス関連の本は飛ばし読みしかしていないし、十分理解できていないので、この本の解説で多少はとりつきやすくなったかも知れない。

 全体としては、やはり教育問題に関する部分が最も力の入っているところで、繰り返しさまざまな言葉で意見が述べられており、教育についての熱い思いと現状に対する危機感が伝わってくる。そしてその解析から日本が、そして現代が見えてくるのである。

 内田樹の入門書としてこの本を読んでもいいだろう。比較的に彼の業績を網羅しているから適しているかも知れない。入門書を読んで、あらためてこの本の中にとりあげられた本を読んでも必ず得るところがあるのが老師の本の優れたところだ。

 老師は他人と同じことを書かないよう心がけていると云う。他人と同じことを書くならわざわざ老師の本を読む必要はないわけである。しかし世の中は他人と同じことを語る人や書かれた本であふれていて、みな良く飽きないものだと感心する。私のブログも同様である。何とか少しでも違うことが書きたいと思う。そうなるとつい自分自身のことを書いてしまうが、それは少しずるいのかも知れない。

 他のひとになるほど、と思わせるような切り口で物事を語れるようになりたいものである。それにはもう少し深く物事を考えないといけないのだけれど、直感で生きてきたからなあ。

 この本で取り上げられている本
『ためらいの倫理学』
『先生はえらい』
『レヴィナス序説』
『困難な自由』
『レヴィナスと愛の現象学』
『街場のアメリカ論』
『街場の中国論』
『日本辺境論』
『昭和のエートス』
『「おじさん」的思考』
『下流志向』

放送中止

 日本テレビが『バトルシップ』という映画を放映する予定だったが、中止したという。この映画にはエイリアンとアメリカ艦隊が戦うシーンがあり、先日のイージス艦とフィリピンコンテナ船の事故を連想させるからだそうだ。

 しばしば映画に現実の事件や事故を連想させるものがあると、公開が延期されたり中止されることがある。確かに犠牲者に対する配慮が必要なことがあるのは理解できる。しかしその事件や事故のことを、話題がホットなうちに映画やドラマにしたいという思いもあるだろう。話題狙いも、時には事件や事故を風化させないために必要なこともある。

 そもそも映画の扱う事件や事故が、なにかの事件や事故を連想させるのは当然なのである。まったく今までに類似の事例のない事件や事故はない。あるのは犠牲者の違いとその数だけである。

 それなら現実の事件や事故を連想させることを理由に放映を中止していたら、事件や事故のシーンのある映画やドラマは放送することが出来ない。戦争映画は間違いなく戦争を連想させる。それも放送を中止するのだろう。

 それにしてもエイリアンとの闘いという、これこそ前例のないものが事故を連想させるから放映中止とはどういうことだろう。フィリピン船籍のコンテナ船はエイリアンか。

 日本テレビはクレームがあることをそれこそ「連想」して配慮したのであろう。そのクレームに対するおびえは過剰というか異常である。それほどクレームが異常なのか、それともクレームに対する恐怖が自家中毒を起こさせているのか。

 マスコミの自主規制も限度を超えて、ほとんど戦時中の検閲に近いように見えてしまう。それを生んでいるのは正義の味方のクレーマーか、放送局自身か。

たまる

 本が好きだから読みたい本が多い。懐の許す範囲で面白そうな本を購入するが、読むよりも買う方が多いから、少しくらい処分してもどんどんたまる。

 少し大きめの状差しには三つポケットがあり、一つは手紙類、一つは領収書など、一つは公的お知らせで一時的に保管しておいた方が良いと思うものを入れているが、すぐ一杯になる。

 机の引き出しはそれぞれ入れるものを仕分けしているが、不要になったものの整理をしていないので、開け閉めに差し障りが出始めている。

 ゴミ袋は何よりもすぐ一杯になる。スーパーの食料品はたいていプラスチックのトレイに載っていて、中身を食べてもかさばるゴミが残るからである。

 不要なものがあふれて必要なものが見つからなくなる。

 何もかもたまる。たまらないのは智恵とお金だけ。

 明日から梅雨も本格化して雨が続くらしい。状差しと机の引き出しでも片付けようか。

2017年6月19日 (月)

汗をかく

 このところほとんど散歩らしい散歩をしていない。ほとんど家にこもって遠出もしていないから、汗をかくのは家の中を片付けたり掃除をしたり風呂に長いこと浸かって本を読んでいるときくらいだ。

 髪の毛も伸び放題でむさ苦しい。ひと月前くらいから床屋へ行こうと思っていたけれど、ちょうどそのころから花粉かなにかに反応しているらしく、やたらにくしゃみは出るわ鼻水は出るわ涙は出るわ目のまわりは痒いわで、床屋に行くどころではなかった。

 ところが数日前からぴたりとそれが止んだ。不思議なことである。そこで昼から、一駅となりの駅の近くの格安床屋へ出かけることにした。平日ならシニア割引もある。どうせ髪の毛も少ないし、どんな仕上がりになっても私はあまり気にしない。

 私の髪は月代を剃ったように真ん中がとても淋しい。床屋に行くとそれが自分の頭と思えなくて思わず感心してしまう。格安床屋は仕事が早い。髭を剃り、洗髪まで全てを含めて30分かからない。料金の安さよりもその迅速さが大変有難い。

 睡眠時無呼吸症候群の時は椅子に坐ったとたんに爆睡したものだが、格安床屋でそれをしたら迷惑になるけれど、今はまったく眠くならないから大丈夫である。

 さっぱりしたついでにわが家に帰らずに、地下鉄で名古屋の鶴舞公園の近くの古本屋を覗きに行くことにした。以前行ったことがあるのに場所が分からず、公園側に出てしまったのでウロウロした。ようやく二軒ほど古書店を発見。以前気にいったところとは違う気がするが、周辺を見まわしても見つからないのでそこで物色する。

 一軒は波長の合う本が少ない。全集本にちょっと食指が動いたが、重いのをかかえるほどの欲しさではなかったのでパス。もう一軒の方がそこそこいける。東洋文庫が床に積み上げてある。その下の方から、三冊ほど引っ張り出してレジのおねえさんのもとへ。

 鈴木牧之(すずきぼくし)の『秋山紀行・夜職草』、橘南𧮾(たちばななんけい)の『東西遊記』(全二巻)である。手に入れようと思っていた本だ。帰りの電車で両方の序文だけ読む、あやうく乗りこすところであった。

 汗もかいたし欲しい本も買ったし、満足である。それにしても歩く速さがとても遅くなっていることと、暑さがこたえてふらふらすることに愕然とする。これは少し暑さに体を慣らさないと、えらいことになると実感した。

 とにかく汗をかいたご褒美に、ビール!ビール!

みんなで渡ればこわくないか?

「赤信号、みんなで渡ればこわくない」、というのはビートたけしのブラックジョークだけれど、本当にみんなで渡ればこわくないのだろうか。世の中には赤信号で渡っている方が悪いのだ、とばかりに突っ込んでくる輩が必ずいる。何しろ青信号で渡る人間や歩道を歩いている子供ですら跳ね飛ばす輩がいる時代である。このジョークも通用しない時代になったのかもしれない。

 みんながしているから、と言う言い訳が通用せず、自分で考えないといけない時代になったのだともいえる。そのことは善いことでもあると思う私はおかしいのだろうか。

 ビートたけしが付和雷同する世相を皮肉って云っていることは承知である。

ミーハー

 新聞の購読をやめて数年になるが、一番寂しいのは週刊誌のCM欄を見ることが出来ないことである。通勤で電車に乗れば吊り広告を読むことも出来るが、いまはその機会もない。芸能ニュースは新聞下面の週刊誌の見出しの数々を読めばほぼ分かったつもりになれる。聖人君子ではないので興味はあるのだ。自分がミーハーであることは承知している。

 しかしテレビで芸能ニュースを見るのは嫌いだ。何しろあの芸能レポーターという方々が得々と語る語り口に嫌悪を感じるのだ。世の中の仕事に貴賤はないと理屈では承知していても、この世にこれほどの醜業はあるだろうか、と思うのである。それしか仕事がなくてそれをしないと生きていけないとしたら、死んだ方がマシとすら思う。芸能レポーターがベテランになるほど表情が下卑て見えてくるのは私の偏見に違いないが、そう見えてしまうのだから仕方がない。

 以前は日曜日の昼に放映される和田アキ子の番組を観た。これを観るとほとんど主要な芸能ニュースを知ることが出来る。微に入り細を穿ち、言えないことを言えないこととして、生放送の中で身内話をにおわせるながら話題にするのを楽しんでいたけれど、和田アキ子にも飽きてきたので観るのをやめた。

 今朝、ネットを見て目についた芸能ニュースについて。

 あの17歳淫行事件で騒がれている小出恵介が、芸人を暴行していたというニュースがあった。どれほどのことかと思えば、泥酔して呼びつけた芸人に暴言を吐き、絡んだという程度の話のようだ。ただ、相手が抵抗したり向かってこないのを見越した上での、プライドを無視した言動であったのだと想像される。そんな人間はいつか世の中から排除されるのは当然で、淫行事件はきっかけにすぎないことが分かった。小出恵介がでるドラマをいくつか観たけれど、そんな俳優とは思わなかった。もちろんドラマの役柄を観ているだけだから分からないのは当然なのである。

 もとSMAPの草薙、稲垣、香取(以下敬称略)の三人が九月を以てジャニーズとの契約満了となるらしい。NHKでも例によってうだうだとこのことを報道していた。馬鹿ではないか。これからこの三人は自分の実力で生きのびていくしかないのであるが、ジャニーズ事務所に慮ってかれらを起用しないテレビ局は多いだろうから、ゼロからの出発ではなく、逆風の中のマイナスの旅立ちである。大変だろうがそれが彼等の糧になることを祈る。

 むかしはSMAPが好きだった。キムタクの整った顔にも好感をもっていた。まず中井がなんとなく虫が好かなくなり、年齢を経ても子供じみている香取にうんざりし、だんだん顔に品性の失われていくキムタクが嫌いになった。木村拓哉は演技が評価されることもあるようだが『武士の一分』で初めて観て、学芸会以下の演技で映画をぶちこわしにしていた。そこには役柄ではなく、木村拓哉しか居なかったのである。だから彼の出演する他のドラマや映画は絶対に観ない。

 今は稲垣吾郎、草薙剛の両君の個性が芸能界で生かされることを願うばかりである。

 和田アキ子が泰葉に逆襲するのではないか、と云う記事を見てなにごとかと思ったら、泰葉を番組内で批判した和田アキ子に対して民事訴訟を起こすと公言したことに和田アキ子が激怒しているという話であった。ある程度の知識のある人なら、泰葉が精神を病んでいるらしいことは分かっているだろう。小朝もずいぶん苦労したに違いないと同情する。病人のためを思えば違う接し方があっただろうが、小朝も芸人である。出来ることと出来ないことがある。ずいぶん忍耐した末のことだっただろうが、理由を明らかにして言い訳しないのは彼の矜持であろう。

 泰葉の言動をまともに取り上げるのは彼女の妄想につき合うことで、芸能リポーターには面白いかも知れないが、常識人のなすべきことではない。彼女が可哀想だと思うのは、母親に原因を感じてしまうからかも知れない。事実を何も知らないので、このように感じるのは間違っているのだろうが、しばしばこの病には身内の対処が関わることが多いからである。

 ミーハーぶりをつい披露してしまった。

2017年6月18日 (日)

ナイトメア

 好きなドラマがつぎつぎに終わる。あまり続くと飽きてしまうからそれで好いのだが、「リゾーリ&アイルズ」シリーズのように第7シーズンになっても続いて欲しいと思うドラマもある。これも今回始まったばかりのこのシーズンで終了である。

 「ナイトメア 血塗られた秘密」と云うゴシックホラーのシリーズが第三シーズンを最終章として終了した。録画して録りためていたその第三シーズン全9話を一気に見た。

 ナイトメアとは悪夢のことである。もともとは悪霊である夢魔が睡眠中の人の上に乗って息苦しくさせて悪夢を見させることを言うのだそうだ。

 物語の舞台が世紀末の霧のロンドンなので、てっきりイギリスのドラマだと思っていたが、アメリカのドラマなのである。ただし、制作はロンドンやダブリンで行われているからテイストはイギリスのゴシックホラーそのものである。

 見た人は分かっているからくだくだしい説明は不要だし、こういうのに興味のない人、嫌いな人にとってはもっと不要だろう。それでもこのドラマのことが書きたくなるのは、この拙い説明でも「ああ、観れば良かった」と思う人がいるはずだからである。

 なまじな映画でも見られないようなセックスシーンがある。テレビでこんなの放映して良いのだろうかという気もするが、良いのである。主演のエヴァ・グリーンは役柄が乗り移ったような鬼気迫る熱演で、とても強い精神力ととても脆い部分を併せ持つ不思議なキャラクターを完璧に演じている。彼女なしではこのドラマはあり得ない。

 第一シーズンでは悪魔と闘い、第二シーズンでは魔女を倒すのだが、第3シーズンの今回の敵はドラキュラである。そのドラキュラが、実はルシファーと共に天国から追放された堕天使であるとされている。つまり悪魔のひとりであり、この世を暗黒の世界にするためにヴァネッサ・アイヴス(エヴァ・グリーン)の愛を必要としているのだ。ヴァネッサが愛するイーサン(ジョシュ・ハートネット)に去られ、家族と思っていたマルコム卿も去り、一人ぼっちになってうちひしがれたヴァネッサはその心の弱みにつけ込まれていく。

 魔女や吸血鬼、狼男にフランケンシュタイン博士、さらにそのクリーチャー(普通はこちらがフランケンシュタインと誤解される)、あの永遠の生命を持つドリアン・グレイ(『ドリアン・グレイの肖像』の主人公)まで登場するのだ。今回は端役でジキル博士まで登場した。

 今までのシーズンはほぼロンドンが舞台だったが、今回のシーズンではイーサンの故郷であるアメリカの砂漠地帯のシーンが多い。イーサンの凄まじい秘密が全て解き明かされる。これこそが彼がヴァネッサの元を去った理由なのである。

 アフリカへ探検に出かけていたマルコム卿の危機を不思議な男が救う。彼はアパッチ族の最後の生き残りであり、イーサンとは深い関わりを持つ男で、マルコム卿をイーサンのもとへ導く。

 拡散していた仲間たちがついにヴァネッサのもとへ集まったとき、すでにロンドンは暗黒の世界となりつつあり、疫病は蔓延し、夜の獣たちが人をつぎつぎに血祭りに上げていた。

 ヴァネッサは救われるのか・・・。

 エヴァ・グリーンはいろいろな映画に出演しているが、特に印象的なのは『007カジノロワイヤル』でジェームズ・ボンドの奮闘空しく、ヴェネチアの水底に沈んでいくあの美女だといえば分かるであろう。あの神秘的な大きな瞳はインドか中近東の美女を思わせるが、フランス人である。

 忘れられない大好きな映画に『ラスト・オブ・モヒカン』がある。少年の頃、原作(抄訳)を読んでいて、それを映像化したこの映画になつかしさと震えるような感動を覚えた覚えがある。あのときの主演のダニエル・デイ=ルイスと彼を宿敵として付け狙うインディアンを演じたラッセル・ミーンズが強烈に印象に残っている。

 そのダニエル・デイ=ルイスとマルコム卿を演じたティモシー・ダルトンがどことなく似ている気がしている。しかもアパッチ族の生き残りで重要な役回りをする役者(俳優名が分からない)がラーせる・ミーンズにそっくりなのである。

 ドラマとは関係ないけれどストーリー的なキャラクターとしては無関係でもないような気がしている。アメリカで西部開拓という名のどれほどひどい殺戮が行われたのか、それを知っているからである。そういえば先日アパッチ族の最後に関する古い映画を二作ほど観たばかりだ。

 なんだか話がとりとめもなくなったが、世紀末(もちろん19世紀末)という時代が、やがて20世紀という科学の時代への幕開けにつながり、闇がこの世から失われていくことをこのドラマは伝えている。そのことは悪いことではないと思いたいけれど、人の心の闇は却って深まったのかも知れない。

水不足よりも

 韓国で降雨量が少なく、水不足の深刻な地域があるというニュースを見た。天候は人為的な力では遺憾ともしがたいことだけれど、韓国が砂漠化するほどの事態ではないはずで、それが今後も長期にわたるものとも思えず、いつかは解消するときもくるだろう。

 記事によればその水不足よりも深刻なのが、水不足によって住民のいがみ合いが生じているらしいことだ。古来水争いは流血の騒ぎになることもあり、それをエスカレートさせないためにいろいろな社会的な仕組みが作られて来た。

 記事は水不足の深刻さを伝えるためにことさら水をめぐるトラブルを列記しているのだろうが、その様子はどうもそのような社会的な仕組みが機能していないのか、そもそも韓国のその地域にはそのような仕組みそのものがないかのようである。

 近所の人が来ていたときに食器を洗っていたことを咎められたり、干上がった畑に自分の生活用水をまいていたら、他の住民が水田に水がないのに畑に水をやっていたとして喧嘩になったとか、地下水の豊富な地区で大型の井戸を掘ることを当局が許可したら、その地下水が別の地区の水脈につながっているとして争議になり、許可が取り消されたとか。水不足は天候によるものとして我慢するしかないが、自分だけが損をしていると思い込むと怨みが生ずる。

 このような争いが、水不足が解消したあとにも禍根を残すことがあると、水不足以上に恐ろしい気がする。何しろ日本人のようにあきらめの良い人間よりも、韓国人は怨みを忘れない人間が多いらしいから。そしてその怨みの矛先を誰かに向けるのが得意な国だから。

疑心暗鬼

 まことに不思議なことに、迷惑メールやスパムコメントの数が周期的に増えたりなくなったりする。対策をしているので実害はないが、何らかの悪意が働いているのであれば恐ろしい。その周期があることと関連しているので、もしそこに関係があるのであれば(だんだんあるような気がしてきている)いやなことだと思っていて、それが払拭できないだけでなく、だんだん確信につながりつつある。

 どうもそのような知識とテクニックのある人が関わっているのではないか、などと疑心暗鬼にとらわれ始めている。そんなこと思い当たる人に聞くわけにはいかない。認めるはずはないし、もし違ったときには激怒するか、してみせるだろう。

 私の思い込みであるのがどうか、だから解明する手立てがない。

2017年6月17日 (土)

『子連れ狼』

 私は小池一雄原作で小島剛夕画のこの劇画を学生時代にリアルタイムで読んでいた世代である。小島剛夕の劇画はそれ以前にもいろいろな作品でなじんでいた。ペン画ではなくて筆で書いていたのだと思う。独特のリアリズムがあった。

 映画化は1972年から始まり、全部で六作作られたようだ(少し前にWOWOWの時代劇特集で一気放映された)。映画館で観た記憶があるが、全ての作品を観たかどうか記憶が定かではない。

 テレビでは萬屋錦之介が子連れ狼こと元公儀介錯人・拝一刀を演じていたが、私にとっては最初に映画の若山富三郎の拝一刀が刷り込まれている。劇画の絵面から云えば、萬屋錦之介がイメージに合うけれど、殺陣の迫力と剣捌きは若山富三郎が優れているし、血潮がふんだんに振りまかれて手や足がばらばらと切り払われ、胴が切断されるシーンが満載の、映画のほうに分がある。

 若山富三郎の体術と剣捌き、特に納刀の見事さは他に比べる者がいないほどである。居合いのシーンではこの人の右に出るものはない。弟の勝新太郎の座頭市の居合いの見事さとは違う、本当に斬るときの剣の重さが感じられるのだ。

 若山富三郎を初めて見たのは彼が演じた中村半次郎のテレビドラマであった。東京12チャンネル、今のテレビ東京で長期間放送をしていた。薩摩での芋侍の時代のむさ苦しい姿と凄腕の居合いの技に目を見張った。やがて西郷隆盛たちと京都へ出て暗殺を繰り返す鬼気迫る姿と、飄々としてしかも稚気あふれる愛嬌を併せ持つ役柄を演じて不思議な魅力があった。あんな姿で美しい女性にもてるのが不思議でもあり、うらやましくもあったりしたものだ。

 ここ数日で全ての作品を見たけれど、血まみれシーンが満載であると同時に女優の乳房丸出しの裸のシーンも満載である。どうもそれをあまり記憶していないのは不思議なことである。女武芸者やくノ一が女体を武器にするのはお約束なのであろう。ああいうシーンはその場限りで忘れるものなのか。

 敵の数がどんどん増えていくにしたがって、息子の代五郎の乳母車が戦車みたいに武器満載になっていくのは、拝一刀が如何に超人的な戦闘能力があるといっても限界があり、仕方のないことなのであるが、だんだん漫画チックになる(もともと漫画だけれど)。

 面白いのは敵の首魁の裏柳生総帥、柳生烈堂が毎回のように配役が替わっていることで、最初が伊藤雄之助で、遠藤太津朗、そして大木実が演じている。まあ顔面が白い髭やら何やらで覆われていて元の顔がほとんど分からないから、誰でも好いのであるが。

 けっこう有名な俳優が使われているのに、出てきたとたんにあっさりと拝一刀に斬り殺されてしまうのが驚きである。そんなこんな、楽しい時代だった。映画を作る方も演じる方も体を張って危険なシーンを演じながら、しかも楽しんでいたような気がする。

 チャンバラ映画、好きだったなあ。

ぐるぐる廻る

 本を読むのに集中していたら、ドラマや映画をまるで観ることが出来なくなって、録りためたものがあふれ出した。そのドラマや映画を見始めたら本が読めなくなっただけではなくて、ブログを書く余裕がなくなった。それぞれを適度に配分すれば良いのだが、今は極端から極端に走っている。

 ネズミ花火のような状態にいると云うことで、ブログに気持が集中できない言い訳を。

2017年6月16日 (金)

いきいき人生クラブ

 家に帰り、PCを開いたら、遠方よりメールが届いていた。
「十年前、私は、ゆるやかに死にいく父を見送りました。寝たきりで八年間苦しみ、最後、吸った息を呑み込んだまま、死にました。八年のあいだ、彼の体を洗い、寝返りさせていたのは私でした。壊死していく体を持ちながら死ねない父を、ずっと見ていたのも私でした。
だから私はある考えに行きつき、「いきいき人生クラブ」を結成いたしました。みなさんには、こうなったらもう生きていたくないという状況を洩らさず、詳細に書き綴っていただき、会員同士でそれを実行し合うのです。会員がひとり減れば、新会員をひとり見つけます。これは秘密結社なのです。
ご安心下さい。当クラブには医者、弁護士などが参加しており、決して殺人罪などで起訴されることはありません。もちろん、ご家族には秘密です。知られてしまったら、ことですから。」
返事を書く---
 申請書をお送り下さい。

 今、龍應台(りゅうおうたい)と云う人の『父を見送る』(白水社)という本を読み始めている。龍應台は台湾の女流作家。日本で出版された前作、『台湾海峡 一九四九』が素晴らしい本だったので、一年ほど前にこの本が目について購入して数頁ずつ味わって読み進めている。そこから一部を抜粋したのが上の文章である。

 どこまで本当の話かそれとも彼女の想像か分からない。そんな話が無数に散りばめられた不思議な本である。外省人である彼女が父親とどのような苦労をしたのか、そして大陸に残された母親が晩年をどのように過ごしたのか、自分の幼少の時の原風景と共に詩のような文章が綴られている。読み終わるのはだいぶ先になると思うが、そのときにはあらためて紹介するつもりである。

 探してでも読む値打ちのある本ですよ。

『西遊記』に関連して

 今朝のブログ、「映画三昧」の中で『西遊記 孫悟空vs白骨夫人』と云う映画を紹介した。それについていただいたコメントで、中野美代子『西遊記』(岩波新書)のことをご紹介いただいた。

 中国関係の研究家としての中野美代子の著作には昔からお世話になっているので、お返しに彼女の孫悟空に関する読みやすい本を二冊ほど紹介したい。

 一冊は『孫悟空の誕生』(岩波現代文庫)で副題は「さるの民俗学と『西遊記』」、もう一冊は『なぜ孫悟空のあたまには輪っかがあるのか?』(岩波ジュニア新書)である。共に読みやすい。中国や台湾や東南アジアに行けば、孫悟空の原型の石像をそこここで見ることが出来る。

06112324_104 バンコクにて

140925_56 バリ島にて

 インドの『ラーマーヤナ』には猿神が登場するし、それがインドネシアのバリ島に伝えられてケチャの舞踊ダンスにも登場する。

140925_186 ラーマーヤナに登場する白猿

 それらを見ると、ああ、ここにも孫悟空がいる、と思うのである。

映画三昧

 ここ数日、映画三昧である。

 まず2015年の中国映画「モンスターハント」(監督ラマン・ホイ)。3Dアニメと実写が組み合わされた映画である。アメリカの3Dアニメ「シュレック」などに参加していたという監督の作品なので、登場する妖怪は中国風なテイストはまるでなく、アメリカのアニメそのもの。

 むかし人間と妖怪は棲み分けて暮らしていたが、次第に人間が妖怪の住処を侵食し、妖怪を駆逐するためのモンスターハンターが活躍している。妊娠している妖怪女王(肥満したカエルみたい)はモンスターハンターに追われて逃げているが、ついに追い詰められ、瀕死となり窮余の一策を講じる。

 胎児(と云うか卵)をそこで出会った若い男の腹に移すのである。ここから主人公の若い男の腹がふくれていき、やがて・・・。臨月の男がどのように子供を産むのか。

 生まれた妖怪王子を狙う者たちから逃げる男とそれを助ける人たちのドタバタが続く。CGは大変よく出来ているのだが、何を考えてこんな映画を一生懸命作るのかがどうもよく分からない。面白ければそれで好いと云っても、何かちょっとくらいコンセプトがあってもよいのではないか。余計なお世話か。

 そしてもう一本、2016年の中国と香港合作映画「西遊記 孫悟空vs白骨夫人」(監督ソイ・チェン)、妖怪である白骨夫人をコン・リーが大真面目に演じていて、妖怪の怨みとずるがしこさと支離滅裂さが表現されている。

 西遊記であるから三蔵法師に孫悟空、猪八戒、沙悟浄に竜馬の一行の天竺への取経の旅が描かれるわけで、数ある妖怪退治の中で、この白骨夫人の話が三蔵法師と孫悟空の別離のシーンがあることで重要な部分である。

 普通は孫悟空に打ち倒された妖怪はいかにも妖怪でしたという形で抜け殻を残したり消滅するのだが、この白骨夫人は人間の死骸を残すのである。その為に孫悟空が人間を殺したように見える。孫悟空には妖怪が見えるが三蔵法師には見えないのである。ついに孫悟空は三蔵法師に破門を言い渡されてしまう。

 原作の中でも読んでいて三蔵法師のかたくなさに腹が立ち、歯がみするところなのである。どうして孫悟空を信じてやらないのかと。もちろん別れたままでは話が進まないから三蔵法師の危難に孫悟空が駆けつけて関係は修復する。

 白骨夫人がなぜ妖怪になった理由が明らかにされたり、白骨夫人以上に悪い奴が登場したりする。戦いも次第にエスカレートして孫悟空もたじたじとなるが、やはり主人公は最後は勝ちを収めるのであった。

 しかしこの映画の最大の問題は孫悟空を演じる役者が猿の仕草や武術は実に巧みなのだが、西洋人風の顔でおよそ猿らしくないのだ。猿顔ではない孫悟空など孫悟空に見えない。

 他にも「子連れ狼」全六作を観始めているがまだ途中である。

2017年6月15日 (木)

正義について

 正義の味方をしばしば揶揄しているので、私が正義を無意味なものと考えているように誤解する人がいるかもしれない(現にそのように受け取ったらしいコメントをいただいたこともある)。私は多くの人と同様、世の中の秩序が維持されて人びとが平和に暮らすためには正義が行われることが必要だと信じている。

 しかし正義はしばしば相対的である。ある人には正義でも、ある人には正義でないこともある。その違いによる摩擦が世界中で起こる争いのエネルギーとして備給(内田樹老師流に言えば)されているように思う。自分が正義だから相手の正義は間違いであり、悪である、と決めつけることが世の中を不安定化させていると思う。

 それを感じるからこそ、自分だけが絶対正義だ、と言い立てる人を疑うことにしているし、時にその言い立てそのものを憎むこともある。戦争はたいてい正義のための戦いであることは歴史に明らかである。

 谷沢永一翁や山本夏彦翁は「正義の味方の嘘八百」と世の中を喝破した。敬する二人が正義を無意味だと思っていたか?とんでもない、多分誰よりも世の中に正義が必要であるという思いがあるからこその言葉だ、そう私は信じている。

 むかし山崎正和の本に「状況倫理の可能性」という本があった。ちゃんと読めている自信はないが「状況倫理」という言葉に衝撃を受け、頭に焼き付いて離れない。世界は時に相対的なものであり、価値観は人によってさまざまだ、と云う当たり前のことを思い知らされた。

 人はそれぞれ違うのである。絶対正義を唱える人は、人は平等だといいながらしばしばその違いを否定する。それが私をいらだたせるので揶揄する言葉になるのである。

 普遍的な正義というものがあることを私は信じる。しかし普遍的な正義を信じるからこそ相対的な正義を絶対的と言い立てることに首をかしげるのである。

2017年6月14日 (水)

中央アルプス・駒ヶ岳ロープウエイ

 昨日は娘とドライブに行く約束だったが、ちょっと朝は起きるのが辛かった。だから出発したのは10時頃、どん姫の要請でちょっと寄り道などをした。

 以前行った園原ヘブンズのロープウエイに行き、その足で昼神温泉の日帰り温泉でゆっくりすることにしたのだが・・・。

 園原インターを降りて園原ヘブンズのロープウエイ駅に行ったら休業中の標識が出ているではないか。7月初めまでロープウエイのメンテナンス工事なのだという。天気が良いのに残念だが仕方がない。そこで昼神温泉に向かう。空気はさわやかで、新緑が緑に変わりかけている。

 温泉に入るといつもどん姫は長湯なので、こちらもゆっくり入ってから待っていたのだが、待てど暮らせど出てこない。遅いことにイライラしはじめ、やがてあまりに遅いので少し心配になりかけて、さらに待つことしばし、ようやく洗い髪の彼女が出てきた。

 とにかくマイペースで、時間を合わせようなどと云う細かい気遣いなど、どん姫はしないのだ。親に似ず小顔の彼女はふだん髪をひっつめにして後ろで結んでいるのだが、洗い髪の娘はちょっとまぶしいおとなの女であった。

 そのまま帰るのも残念なので、足を伸ばして駒ヶ岳のロープウエイに行くことにした。駒ヶ根インターを降りて、バスセンターに車をおいてバスでロープウエイの駅のあるしらびそ平まで行く。思ったより時間を食う。ロープウエイの駅に着いたのは三時を過ぎてしまい、今から登る人は誰もいないのである。快晴だった空には雲が湧き出しているではないか。

 しらびそ平の駅は標高1662メートル、終点の千畳敷駅は標高2612メートル、共に日本一の高度のロープウエイ駅なのである。上は寒いだろうなあ。

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ロープウエイから見下ろした景色。ゴンドラはどん姫と二人の貸し切りである。

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頂上の駅の手前は大雪渓である。

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こんなゴンドラに乗っていたのだ。

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千畳敷駅の標高と気温。気温は9.4度。寒いのである。

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外へ出ると山の上に雲がかかりだしている。

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どん姫が指さす方を見れば、雪渓を登って行く三人が見える。これから登ったら山の上につくころには暗くならないだろうか。

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どん姫はあまり写真を撮らせてくれないけれど、珍しく被写体になってくれた。

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ますます雲が湧いてきたし、風はとても冷たい。すぐに下りのロープウエイに飛び乗る。

しらびそ平の駅でも気温は13.4度、下界とは違うのだ。

しらびそ平の駅で目をつけていた日本酒をみやげに買う。それをおみやげに帰途につく。どん姫はもう一泊せずに晩ご飯だけ食べて「じゃあ、またね」と元気に自分の住処に帰っていった。





マイペース

 わが娘・どん姫は何度も言うがマイペースである。しかし親のひいき目でいうわけではないけれど、決して無神経ではない。心やさしいけれど、そういう性格なのであって、そのマイペースで周りを振り回しながらニコニコしている。ちょっと腹が立つこともあるけれど、なかなかにくめないのである。そういう意味ではまだおとなでないところもあるのかもしれないが、自分のことには自分で責任を引き受ける覚悟はちゃんとあるので、実はふところの深い大人(たいじん)なのかも知れない。

 一昨日は連絡してきた時間からはるかに遅れて(いつものことだか)やって来た。先日姪の結婚式があったが、どん姫とは同い年の従姉妹である。結婚式で撮った写真を見せて刺激を与え、ところで・・・と水を向けたが、ない、ないと全否定された。まあこちらも是非結婚すべきである、ということもないので、それで終わりである。彼女がその気にならないのは私のせいなのだろうか?

 飲み始めたのが遅かったので酒宴が終わったのは夜中の二時過ぎ。アペリチフとして、奈良の酒造会社「梅の宿」の果実酒であるミカン酒を飲んだが大変好評であった。息子の友人が「梅の宿」で酒造りをしているので、わざわざ手に入れてくれたものである。どん姫と飲むように、ということであったので、独りで飲んだりせずに今回初めて封を切ったのである。もちろん酔うための酒ではないから残りはまた今度にする。

 なんとなく料理の段取りが狂ったけれど、二人ともビールとワインで好い気持ちになった。翌日はどん姫が休みだというので、ドライブに行くことを約束して就寝。続きは次回。

2017年6月13日 (火)

小玉武「開高健--生きた、書いた、ぶつかった!」(筑摩書房)

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 「かいこうたけし」が正しい読みであるが、私は最初に「かいこうけん」と読み為してしまったのでいまだにそのままで訂正が効かないでいる。

 何度も書いたが、私が文学というものに衝撃を受けたのは開高健の「パニック」という中編小説を読んだときである。それまでに図書館で日本文学全集や世界文学全集を片っ端から借りだしてわけも分からず読んで見たけれど、面白くてインパクトがあるものというのはあまりなかった。それはこちらがまだそれらの本を読む能力のない読み手だったからであるのはもちろんである。それにその文学全集にはまだ現代の作家のものは殆ど収録されていなかった。

 そんな時に学校の図書館に現代文学全集が新しく配架された。そこで大江健三郎や、石原慎太郎、そして遠藤周作、開高健たちに出会った。「パニック」を読んだのはそのときである。

 初期の「パニック」や「裸の王様(芥川受賞作)」、「流亡記」、「日本三文オペラ(大傑作)」などの小説は読んだが、ルポ風の小説「輝ける闇」やそれに続く「夏の闇」は読んでいないのだから開高健の熱心な読者というほどのこともないけれど、彼のお陰で何か別の世界への入り口を通過できた気がしている。学生時代に古本屋で開高健のルポ全集や対談集を買いあさり、それが今も宝物である。

 今回読んだこの本は壽屋、現サントリーの宣伝部に在職していた開高健の後輩(他に年上でしかも後輩の山口瞳もいる)である小玉武が、精力を傾けて表した開高健の姿である。ここにはほとんど開高健のすべてがあると思う。もちろんその見方は著者の小玉武の目から、または彼が取材した人たちの目から見た開高健だけれど、私には十分な気がする。

 何より、開高健夫人の牧洋子について感情を排して書き留めていることがありがたい。詩人であった牧洋子は、今までかなりエキセントリックな存在として、そして悪妻として開高健を苦しめたように書かれてきた。それは開高健の畏友だった谷沢永一や向井敏が彼女を激しく嫌っていたからである。嫌っていたには嫌う理由が厳然とあるけれど、小玉武は冷静にその牧洋子と親交している。

 開高健の生い立ち、学生時代の生活、そして交友、さらにそれを通して啓発を受けた先輩達との関わりから説き起こされていく。彼が天王寺中学の一つ先輩である谷沢永一が主催する同人誌「えんぴつ」に加わったところから彼の文筆活動は始まったようである。牧洋子とはそのころ出会い、そのまま同棲し、子供が出来た(ひとり娘の道子)ので結婚することになる。

 余談だか、牧洋子については私には思い出がある。若い頃、営業活動で車で走り回っていた頃ラジオを良く聞いていた。しばしばかかる人生相談の番組が好きで、ときどき突っ込みを入れながら自分なりにその相談について考えたものだ。その回答者のひとりに牧洋子がいた。彼女は当たり前の回答とは違う、相談者の本音を鋭く突きながら自分で答えを見つけ出すための相談を行っていたように思う。だから面白かったし牧洋子は嫌いではなかった。その牧洋子が開高健夫人であることはしばらくあとに知った。

 話は戻るが、無職だった彼には収入の道は無く、そのころ壽屋の研究員だった牧洋子に食べさせてもらっていた。やがて牧洋子の口利きなどもあり、佐治敬三と運命的な出会いをして壽屋に勤めることになる。

 彼の生涯を本にしたがって書いていくときりがないので、もし開高健に多少とも興味があるのならこの本を読んで欲しい。開高健はアラスカやアマゾンで釣りをしながらウイスキーを飲む姿をCMで見ている人も多いことだろう。ただし亡くなってかなり経つ(平成元年没)から、覚えているのはそこそこの年齢の人か。大声でかつ早口に話し、その外見は頑健に見えるけれど、実は生涯鬱病をかかえて苦しみ、しかも体は丈夫ではないので入退院をしばしばしていた。

 死因は食道ガンからの肺炎併発によるもの。開高健はベトナムに何度か訪れてベトナム戦争の従軍ルポをものしている。九死に一生を得るような経験もしているし、散布の直下で枯れ葉剤にまみれる経験もしている。枯れ葉剤の散布を浴びた米軍兵士や従軍記者達が、みなガンにかかって四十代五十代で亡くなっているのは偶然ではないだろう。枯れ葉剤には大量のダイオキシンが含まれているからだ。

 開高健の作家としての評価は私から見れば物足りない気がする。著者も同感のようである。残された文章はもっと高く評されても良いと思う。

 それにしても、開高健の死後五年で娘道子が自殺(牧洋子は事故だと主張して譲らなかった)し、その牧洋子も独り暮らしの果てに急死している。死後しばらく経ってから発見された。

 作家の一生をここまで詳細に知ることがいままでなかったので、読後感は重い。しかし、開高健をもう一度読み直してみようかと思っている。

2017年6月12日 (月)

嬉しいけれど、それにしても

 ファンの方には申し訳ないが、ジャイアンツが嫌いである。だから徳光某と云う、巨人を手放しで好きだというアナウンサー崩れのおかしな男が嫌いである。そしてその甥とかいう性別不詳のタレントも大嫌いである。ちょっと言い過ぎたか。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、であるからお許しあれ。

 アンチジャイアンツとしては巨人の絶不調は喜びである。とはいえ高橋由伸監督に対する厳しいバッシングを見ていると、敗軍の将として当然とはいえいささか哀れみを覚える。アンチジャイアンツの人間から憐れまれるようになったらそれこそ終わりだろう。屈辱をバネに出来るか高橋由伸!

 勝っているときにはファンを自称し、負けが込むと知らぬふりをする人もいる。阪神ファンや広島ファンには少ないが、巨人ファンにはどうもそういう人がけっこう多いような気がする。そういうファンをかかえての巨人というチームだと理解している監督と、それを理解できない監督では厳しさが違うのかも知れない。

 もともと私は千葉県生まれで、子供の時は郷土の有名人の第一は長嶋茂雄で、彼の活躍はわが誇りであった。彼が選手を引退し、監督になってチームが何度も優勝したとき、すでに野球にあまり興味がなくなっていたけれど、長嶋が好きだからうれしく思っていた。

 ところが負けが混み始め、巨人の成績の低迷が続いたら長嶋は退団に追い込まれた。その仕打ちに怒りを覚えて、その日から私は巨人嫌いになった。しかし長嶋への思いは変わらない。彼が浪人生活に入り、当時の大洋ホエールズの監督の関根氏が、自分が身を引いてでも彼に大洋の監督になってもらいたいと呼びかけた。だから関根さんが好きになったし、それからは大洋を応援することにした。

 にわか仕立ての大洋ファンだから、いい加減なもので、いまだに横浜ベイスターズが勝てば嬉しいけれど、選手の名前もよく知らない。こんなのはまったくファンなどとといえないことはよく承知している。でも勝とうが負けようがベイスターズが好きだし、これからもずっとそうだろう。

 長嶋は大洋の監督への誘いを歯牙にもかけなかった。何年かして再びあんな仕打ちをされたのに巨人の監督に返り咲いたとき、長嶋が嫌いになった。だから二重に巨人が嫌いなのである。思い入れがあった分だけしつこいのである。

 その私がバッシングされている高橋由伸監督に哀れみを感じるのだから、よほどのことであり・・・・本音を言えば内心嬉しくてたまらない。巨人ファンの方、まことに申し訳ない。腹が立つだろうなあ。

現象が現れたときには・・・

 朝起きると空気がさわやかで快適である。本格的な梅雨の前に、こうしてとても気持ちの好い日がある。

 今晩、娘のどん姫がやってくるので(彼女にとっては「ただいま」と帰ってくるから帰宅である)、その「ただいま」の声を聞けるのが楽しみだ。今日は部屋をざっと掃除して、後で買い出しに行き、何か美味しいものでも作ろうと思う。お酒も二人で飲むには残り少ないので用意しなければ。

 ところでネットニュースを見ていたら、韓国の自動車の販売が不振であると伝えていた。この兆候はすでに報道されていたけれど、中国がTHAAD問題などで韓国に経済的プレッシャーをかけていたことの影響で、一時的なものかも知れないとも思われていた。だから少し様子を見ていたのだけれど、今回の聯合ニュースの記事ではどうももっと深刻なもののようである。

 何か事態が悪い方向へ推移するときにはその兆候があるもので、実際に結果が表面に現れたときにはすでに問題は対処が困難になっているというのは世の常である。登り坂を登り詰め、下りになり、下り坂に従って加速してしまうと止めるのが難しい。

 韓国の自動車は中国とアメリカでたくさん売れている。日本車と張り合うデザインと価格の安さで販売台数を急激に伸ばしてきた。日本が円高で苦しんでいたときは、その「時の利」を大いに謳歌していた。しかし中国はドイツや日本やアメリカの会社と合弁して、国産の自動車をどんどん性能のよいものに向上させていた。そうなれば、中国市場では安価ゾーンの車は国産車にしめられていくばかりである。韓国自動車メーカーは対応策として、魅力的なSUV車などを投入すると表明しているが、手を打つのが遅すぎたといわれている。

 中国での販売が低迷の兆候を示したとき、韓国の自動車メーカーは事態の本質に気がつくのが遅かったのではないか。さらにTHAAD問題で中国の経済的圧力があるのを販売不振の言い訳にして問題から眼を逸らしていたのではないか。そして気がついたら下り坂を転げ始めていた。

 問題が本質的なものであることは、アメリカでも韓国車の販売が不振であることだ。対前年のマイナス幅が次第に大きくなっていて、5月には対前年度比-11.5%というから深刻である。中国でもアメリカでも販売がマイナスなのは韓国車だけのようである。

 世界の自動車の専売台数のランキングはアメリカ、日本、ドイツの三強に、中国が急追している。それに次いでいた韓国は、すでにインドに抜かれて今は6位。しかも7位のメキシコとの差はわずかで、間もなく、またはすでに抜かれているのかも知れないという。

 自動車のようなアセンブリ産業は、コスト競争にはまると利益を確保するのが困難となる。特に低価格ゾーンでの戦いは企業の体力を奪う。韓国は電子部品でも自動車産業でも、国内の販売価格を維持することで利益のベースを確保し、海外には薄利多売でシェア拡張を進めてきた。量が売れればそれで採算はとれたのである。ところが韓国国内に海外車がどんどん進出(ドイツ車や日本車が販売を増やしている)し、競合すれば価格を下げなければならない。なぜドイツ車や日本車が売れるのか。外国車を持つことのステイタスの喜びもあるけれど、やはり海外から進出しやすいような構造、つまり国産車が割高であるという点があるのではないか。

 韓国の人口は五千万人ほど。だから市場規模として大きくない。ここまで拡大した韓国経済を内需だけで支えるのも難しい。しかも背に腹は替えられない、とその大きくない韓国市場にも海外からの攻勢がかけられている。利益を確保していた韓国企業の韓国国内市場の収益率は低下せざるを得ない。

 韓国は経常収支の黒字が続き、外貨保有高は増え続けている。だから経済は問題なく、上向きでもあるのだと韓国政府は主張している。しかしその経済収支の黒字は、数字を見ると急激に収縮し始めているようである。すでに坂を転げ落ちだしているのか、まだ下ったり上がったりの場所にいるのか。文在寅政権がどんな手を打つのか高みの見物をさせていただこう。

映画「ジョーイ・ナードン 不屈の一撃」2009年アメリカ映画

 監督ジェームズ・クアトロッチ、出演トニー・ルーク・Jr、ポール・オランティア、ウィリアム・フォーサイス他。

 題名からこの映画がどんな映画か想像がつくだろうか。WOWOWから録画した映画だが、ちょっと前なのでどんな映画だかまったく分からずに観た。ストレートなストーリーで、悪くなかった。人間は哀しい。アメリカは特に生きにくくて哀しいことを知るけれど、でもそれを生き抜いていかなければならない。力があることの意味、暴力はなぜ否定しなければならないかについて分かった上で、不条理と戦うには力が必要なこともある。

 刑期を勤め上げて刑務所を出所する肥満した男、ジョーイ・ナードン(トニー・ルーク・Jr)。迎えに来た男との会話で、ジョーイが元ヘビー級のボクサーであることが分かる。しかし迎えに来た男が驚くように、当時の面影は全くなく、闘志も筋肉も失われている。

 裏筋の誘いもあるがジョーイはそれにとりあわず、真っ当に生きる道を選ぶ。もといたボクシングジムにたのみこみ、そこの雑用係として働き出す。世話してもらったアパートの部屋にはなにもなく、みすぼらしいが、刑務所とはまったく違う自由を感じる。

 ジョーイは他の少年達からいじめを受けている少年を助ける。その少年ヘスースにボクシングを教えようとするのだが、母親から拒絶される。その少年の家族はジョーイのアパートの隣室に暮らしていて、父親が母子を虐待しているのが筒抜けに聞こえてきてジョーイはいたたまれない。

 やがて少年はジョーイを訪ね、いじめた少年達に勝つためにボクシングを教えて欲しいとたのむ。ひそかにヘスース少年を指導し始めるのだが、それが母親の知るところとなる。しかし少年の懇願に負け、母親はジョーイの指導を受け入れる。

 ジョーイはなぜ刑務所に服役することになったのか。物語の進行と共に明らかになる。彼のこぶしがひとりの人間の命を奪うことになったのだ。その贖罪の為に彼は苦しみ抜いているのだが、ついに被害者の父親から彼の謝罪が受け入れられる。もう自分自身を許してもいい、という言葉はかれにとっては神の言葉なのであった。
 
 まさにそんなとき、悲劇が起きていた。それを知ったジョーイは怒りに我を忘れ、彼の封印していたこぶしが炸裂する。

 すべてが終わって二ヶ月後、ジョーイはヘスースにプレゼントを用意して部屋に来るように誘う。しかしヘスースの代わりに部屋に現れたのはジョーイを憎悪する悪魔だった。そしてジョーイ・ナードンは「不屈の一撃」を相手に見舞う。

 さらに八年後・・・。

 
シンプルだけれど観たのは時間の無駄ではなかった。つまり悪くなかったと云うことである。虐待は見ていて不快で不愉快だが、実際にそれがあるということが本当に哀しい。

2017年6月11日 (日)

映画「シェルター」2009年アメリカ映画

 監督モンス・モーリング、ビョルン・ステイン、出演ジュリアン・ムーア、ジョナサン・リース・マイヤーズ他。

 サスペンス・スリラーと称されているけれど、明らかに宗教が絡んだオカルト映画である。ホラー映画は人をびっくりさせる仕掛けだらけで心臓によくないからあまり好きではない(それでも怖いもの見たさでずいぶん観た)けれど、西洋のオカルト映画はこちらに宗教的思い入れがないだけにどこか他人事に見ることが出来て怖さが少々少なくて済む。

 精神分析医のカーラ(ジュリアン・ムーア)は三年前に夫を強盗に殺害されて、ひとり娘と二人暮らしをしている。仕事で娘の面倒を見られないときは、父と二人暮らしをしている弟(娘には叔父)に預ける。そんな彼女が出張から帰るのを飛行場で待ち受けた父が彼女に自分の患者を診て欲しいと依頼する。

 父も精神科医で精神病院の医師である。その患者は多重人格障害(解離性同一性障害)なのだという。カーラはそもそも多重人格障害などと言うものは作り上げられた病気で、患者の妄想であって認めないという考え方だが、父親はそうではない。

 気が進まないままその患者・デヴィット(ジョナサン・リス・マイヤー)と面談したカーラは何も父の云うような異常を見ることが出来ない。ところが父親があっきっかけを与えたとたん、デヴィットは変貌する。映像ではその変貌は見えなくなっており、カーラの驚く様子だけが映される。そのときデヴィットはまったく別の人間となっている。

 しかしカーラは軽々に多重人格など認めない。これをきっかけに彼女はデヴィトのこと、そして彼に発現した別の人格の人物について調査を始める。そしてその発現した別人格の人物が残虐な殺人事件で死んでいることを知る。さらにデヴィットの住んでいたという廃屋のような家でとんでもないものを発見する。

 ここから次第に物語はオカルトふうの色彩が濃くなっていく。

 デヴィットにさらに別の人格が発現し、そして彼は失踪する。そのデヴィットがカーラの娘に関わりだし、カーラの身の廻りに次第に危機が迫っていく。しかしカーラはさらに調査を進めていき、捨てられたような山奥の集落でついに驚愕の事実を知ることになる。題名の「シェルター」の意味が明らかにな。これらの事態の原因は、はるか百年前に遡る頃に発していた。

 そのとき危機はカーラの父親を襲い、さらにカーラの娘にも危機が迫る。カーラは娘を救えるのか。カーラは何を知ることになるのか。

 こういう映画のお約束通り、最後にカーラの娘がほほえむ顔がとてつもなく恐ろしい。

梨木香歩「雪と珊瑚と」(角川書店)

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 自分が自分をどう見ているのか、他のひとがどう自分を見ているのか。人はみな違うし、ときと共に、経験の積み重ねによってもどんどん変わっていく。そうしてそれらを受け入れて自分自身が少しずつ成長していく。人が自立するということは、他人の手を借りないということではなく、ときに他人に頼り、他人に好かれたり嫌われたりしながらも、他人との関係を懐深く考えられるような心のゆとりを持つ生き方ができるようになることだとこの小説を読んで思う。

 珊瑚という名の女性が、母に捨てられ、高校を中退し、若くして妊娠して結婚し、まだおとなになっていない夫とたちまち離婚することになり、雪と名付けた娘を一人で出産し育てていく。

 そんな珊瑚が生き生きとして魅力的なことは不思議なほどだ。

 彼女が魅力的なのは、彼女が自分自身と向き合い、あるがままの自分をきちんと認識しているからだ。自分が思わず発した言葉が相手にどう受け止められたかを瞬間的に理解することで、相手に自分がどう見えているのか、どう思われているのかを感じることが出来るからである。

 こういう心の働きは誰にも多少はあるものだけれど、彼女の場合は育ちの中でそういうことに鋭敏にならざるを得なかったのであろう。

 赤ん坊をかかえていても生きるために働かなくではならない。物語は珊瑚が雪をあずかってくれる場所を探すところから始まる。そこで出会ったくららという初老の女性、そして働くことになるパン屋の店主夫妻、アルバイトの由岐という女性、そしてアパートの部屋の向かいに住み、雪を取り上げてくれた那美という助産師、自然農園を営むくららの甥の貴行、その手伝いをする時生などなど、やさしく、しかしときには珊瑚に厳しい現実を思い返させてくれる人びととの出会いが彼女を成長させていく。

 何より彼女の成長の原動力は娘の雪との暮らしである。そこで経験するさまざまなことが彼女のものの見方を鍛えていく。それは彼女自身と母親との関係を繰り返し思い返すことでもある。

 女性は子供を産み、育てるという経験を通じてどれほどのことを学ぶのだろうか。自分自身の分身でもあり、同時に別の人間でもあるわが子との関係の中で、いやでも自分自身を見つめることになるようだ。

 赤ん坊の目は、自分を覗き込む自分の目でもあるかもしれない。

 珊瑚は働いていたパン屋が閉店するのを機に、勧められて食事を提供するカフェを始める決心をする。そこで本当の彼女の自立のための戦いが始まる。

 彼女を覆っていたものごとがその中で一つずつ解決していく。彼女はそのとき本当のおとなの女になっている。そのことを心から嬉しく感じて思わず胸が熱くなるのだ。

 この本は一度読んでいるのだが、ちょっと開いて読み始めたらやめられなくなった。なんだか生きる元気がもらえる本なのだ。男の私よりもずっと感じるものが多いはずだから、女性には是非読んでもらいたいと思う

2017年6月10日 (土)

映画「シャングリラ」2008年台湾・中国映画

 監督ティン・ナイチョン、出演チュウ・チーイン他。

 目の前で車にはねられて一人息子を失った母親が主人公の映画である。彼女は事故のあと二年が過ぎても息子を失った事実を受け止めきれずにいる。加害者夫婦は事実を認めようとせず、その裁判は証拠がないとして遅々として進まない。支え合うべき夫婦の仲も冷え切っている。

 その主人公、ジー・リン(チュウ・チーイン)は夫との諍いの果てに家を飛び出し、持っているだけで行く気のなかった友人のくれた旅のチケットを手に雲南省のシャングリラに単身で旅立つ。きっかけは息子の残した宝探しのヒントとなるメモに描かれた山の絵だった。息子は常々彼女に宝探しで遊ぼうというのに彼女は忙しくてとりあわなかった。そして息子の宝探しのヒントだけが残されていたことに気がついたのだ。

 シャングリラとはイギリスの作家によって描かれた理想郷のことである。中国雲南省、チベットとのあいだに聳える6000メートルを超える梅里雪山の麓の中甸(ちゅうでん)という一帯が、訪れたひとに「まさにシャングリラのようだ」、といわれたことから今は中甸は香格里拉(シャングリラ)と名前を変え、観光地になっている。

 彼女を正体不明の若い男が後をつける。シャングリラの街に着いた彼女が民芸品を値切っているうちに、台に置いた彼女のバッグが台ごとなくなってしまう。台は荷車だったことが分かるがその荷車に追いつくことが出来ず、彼女は途方に暮れる。

 危うく彼女をはねそうになった車の運転手、そしてとっさに彼女を助けたあの若い男、彼等が彼女のそれからに深く関わっていく。

 彼女はひたすら梅里雪山を目指す。麓の小さな村にたどりついた彼女は、言葉がほとんど通じないチベット民族の人びとに助けられ、言葉の通じる少年に出会い、彼を通して豊かで美しい自然を知る。

 やがて彼女が体験する不思議な世界、そしてそれを通して彼女は再生する。

 全編会話は少ない。沈黙の中で表情と風景で語りかける映画であり、俳優も演技が難しかっただろう。それをどう感じるか観客によって違うと思う。私はこういうしみじみした映画も好きだ。

 中国と香港と台湾の女性監督が雲南を舞台に映画を作る、と云う企画の第一作がこの作品なのだそうだ。他の作品も機会があれば観てみたいものだ。

ものの見方

 同じことが人によって全く違う見方になる。それぞれの人の考え方の違いや見方はさまざまだからである。

 中国で、日本の立ち食い店の増加を不思議なものと見る報道がされていて面白いと思った。たしかに立ち食いソバや立ち食いのうどん店ばかりでなく、最近は立ち食いのステーキ店まであるというから驚く。

 もともと立ち食いは屋台から発展したものかと思う。スペースも少なくて済むし、店を始めるにも投資が少なくて済む。同様の屋台は世界中にある。ただ、みな椅子を置いている。椅子が普通にある生活だからだろう。だが日本の場合はふだんの生活では靴を脱いで床にじかに座る生活だったから、椅子はあまり一般的ではなかった。

 時代劇などでは居酒屋で、椅子に坐って卓に酒や肴を置いているのが当たり前に見られるけれど、実はあれは事実と違うという。縁台のようなものにみなが座り、卓はなく、その縁台に酒や肴を置いていたようである。個別の椅子など普通はなかったようだ。今NHKの「みをつくし料理帖」では正しくその様子が描かれている(それにしてもこのドラマの黒木華は絶品のはまり役で、ほれぼれする)。

 だから日本の立ち食いはそういう事情も背景にあるのだろう。しかし日本の立ち食いを奇異なものとしてみる中国では、歩きながらものを食べる人の姿をよく見る。日本では歩きながら食べるのは行儀がわるいとされているけれど、中国では別に普通のことらしい。しかし日本で、中国の歩いて食べる姿を奇異だ、などととりたてて言うのを聞いたことはない。

 ところで大阪では立ち飲みの店が多い。カウンターに男たちが並んで、酒とちょっとした肴をおいて飲んでいる。東京でもないことはないが一般的ではない。酒を飲めば長尻になるから、立ち続けるのは苦痛であるが、大阪ではそれを苦にしないようである。

 よく誘われたし、立ち飲みの梯子までつき合ったことがあるけれど、それには閉口した。これも西と東の大きな違いなのだろうか。

 まったく話が違うが、加計学園の問題が喧しい。この問題が安倍首相のおごりから生じた不正なものなのか、ことさら悪辣な行為だと騒ぎ立てて印象操作に走っている野党の過剰反応なのか、立場によって見方が全く違う。

 恐らく両方とも事実なのではないかと、騒ぎを呆れて見ている多くの人は思っているかと思うが、私は野党が印象操作に血道を上げすぎているような気がする。私は正義をことさら言い立てる方が、どちらかというとあまり好きではない。逆に正義が大好きな人たちは違う見方をしていることだろう。世の中はあまりきれい事を言いすぎると暮らしにくいと思うか、すべてを清く正しくしないと耐えられないと思うかどうかの違いか。

 小池都知事も清く正しい大衆の支持受けを狙いすぎて隘路にはまり込んでしまい、身動きがとれなくなって無駄に時間と経費を浪費しているように見える。正義の立場に立ちすぎるとこういうことになる。時に正義の味方は正義のために捏造まですることがあるのは朝日新聞を例に挙げるまでもない。

 世の中は落としどころを見つけ損なうと無駄ばかりが生じて不幸なことになる、と知るのが世間の智恵ではないのだろうか。田沼意次のあとの松平定信の清く正しくつましい生活の強要を進めた政治(寛政の改革)の時代の人びとの生きにくさを言うまでもあるまい。

  白河の清きに魚も住みかねて

    元の濁りの田沼恋しき

 蛇足だが、松平定信は白河藩の藩主、ワイロも奢侈も厳禁したことで経済は停滞し、暮らしに明るさも活気も失われたことを嘆いた狂歌である。

2017年6月 9日 (金)

映画「コララインとボタンの魔女」2009年アメリカ映画

 監督ヘンリー・セレック

 3Dアニメはあまり得意ではないが、良くできていることにいつも感心する。この映画はコララインという少女が両親と共に引っ越したピンクパレスアパートで体験する出来事である。

 新しい家には壁紙で封印された小さな秘密のドアがあった。探し当てた鍵でママがそのドアを開けるがそこは煉瓦の壁である。ところがコララインは夜中にそこにネズミが出入りしているのを発見する。扉の向こうには不思議なトンネルが開けていた。そしてそのトンネルの向こう側には現実そっくりな世界が開けていた。そこにはパパもママもアパートの住人たちも存在する。ただし唯一違うのはみな目がボタンで出来ていることだ。

 そこではみな優しくて、楽しい世界が開けていて、居心地がいい。ボタン目のママはこちらで住むように勧めるのだが、なんとなく奇妙な不安を感じてコララインは元の世界へ帰る。

 何度か行き来するうちにますます向こうの世界の魅力にはまるコララインだが、やがて向こうの世界の恐ろしい秘密を知ることになる。ボタンのママは実は世界を支配している魔女なのだ。

 向こうの世界がやがてこちらの世界を侵食しそうになってくる。ある朝目が覚めるとコララインは一人ぼっちである。現実のパパとママは異次元にとらわれてしまったのだ。そして、魔女に追われて逃げこんだ場所で、むかし行方不明になった子どもたちの魂に出会い、彼等はコララインにある頼み事をする。

 コララインは、パパとママを救い出すために、そして子どもたちの魂を救済するために立ち上がる。絶望的な戦いは異次元からこちらの世界に及ぶが、その結末はいかに・・・。

 他愛ないけれど楽しめた。

 プロローグの、ボタンの目玉の人形が作られていく過程が絶品。これももちろん3Dアニメである。

百目鬼恭三郎「読書人読むべし」(新潮社)

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 この本は実家に置いてあったので、母の介護の最中に久しぶりに読み、そのときブログにも簡単に紹介した。わざわざ今度久しぶりにまた読み返したのは、この本の中にあげられている書籍を見直して、手に入れて読んでみようかと思ったからである。

 ジャンルを分けて推奨本と駄本(読む必要がないか、読まない方がいい本)が挙げられている。分野は「日本の古典」、「中国の古典」、「飲食の本」、「歌舞伎の本」、「旅の本」、「探検記と地誌」、「神話」、「伝説と昔話」、「伝記」、「辞書」。およそ人間業とは思えないほどの数の本を比較対照して、その良否、優劣を論じている。読んでも良く分からなかったものは正直にそう書いているが、読んだからそう言えるのであって、レベルの違う次元でのコメントである。

 古典については、日本も中国も一部と二部に分けてあり、日本の一部は詩である。日本の詩といえば主に和歌、そして俳句である。私は詩が苦手だが、漢詩は嫌いではない。そして日本の和歌や俳句が漢詩を下敷きにしている部分が多いことを今なら承知している。漢詩を知らずに日本の古典を理解するのは難しい。この本を読めば和歌に興味が湧いて、どうして和歌をもう少し勉強しなかったと悔やまないことはないけれども、あらためてその世界に踏みいるには他にやりたいことが多すぎて、いまさら無理である。

 中国の志怪小説を好んで読んできた。この本にもたくさん取り上げられているが、私の読んだ本や読みかけの本も多い。というよりも思えばこの本で推奨されていることが念頭にあって選んでいたような気がする。紹介されている「捜神記」、「遊仙窟」、「酉陽雑俎」、「剪燈新話」、「聊斉志異」、「閲微草堂筆記」、「子不語」などは棚に揃えてしかも大半は読んでいる。これはこの本のお陰である。

  今興味があるのは旅行記である。すでに何冊か読んでいるが、紀行文としての旅行記に興味がある。この本では今読みかけの清河八郎の「西遊草」も取り上げられている。東洋文庫版と岩波文庫版のどちらを手に入れようかと迷った記憶があるが、東洋文庫版は現代語訳してあって不可であると記されている。私は岩波文庫版を持っているので良かったと胸をなで下ろしている。清河八郎のふるさとにある清河八郎記念館においてあったのが岩波文庫版だったから、それを手に入れたのだ。

 この本で紹介されていて是非手に入れたいのが菅江真澄の「菅江真澄遊覧記」である。これは東洋文庫版(全五巻)に収められている。菅江真澄と同時代の古川古松軒の「東遊雑記」も東洋文庫にあるという。古松軒には「西遊雑記」という本もあるらしいが、これは出版社がないところを見ると今は手に入らないのであろう。

 さらに橘南𧮾の「西遊記」と「東遊記」も「東西遊記」として東洋文庫に収められているらしい。あの「北越雪譜」で有名な鈴木牧之の「秋山紀行」も手に入るらしいので探してみようと思う。まだ訪ねていないが、平家の落人部落の秋山郷を訪ねたときの紀行文である。今は観光地として白川郷と同様に人気の場所らしい。

 他にもたくさんあるが、あまり揃えても読み切れない。

 飲食に関する本はずいぶんたくさん読んだ。たいてい二回以上読んだので先日段ボール箱ひと箱に詰めて処分してしまった。若いときよりも食に対する興味が衰えた(普通の人よりはまだ食い意地は張っているが)のである。

 それぞれの本が手に入るのかどうか、そしてそれが読了できるのはいつのことになるか分からないが、面白かったらその読後報告をするつもりである。

言論統制

 芸能界のゴシップネタのニュースなどに私は興味がない。テレビに映る芸能レポーターたちの話し方や外見に野卑なものを感じてしまうのは、私の偏見の故であろう。しかしそういうものに興味をもち、それを知ること、批判したりすることに快感を感じる人がいるのは、人それぞれであるからとやかくいうつもりはない。

 中国のニュースによれば、中国で芸能人のゴシップネタを提供してきたSNSやアプリがインターネット上からいっせいに姿を消すことになったそうだ。「インターネット安全法」という法律が6月1日から施行され、政府に批判的な言論の統制が強化されているが、それがゴシップネタにも及んできたということである。

 「捏造や低俗な噂の拡散、名誉毀損が深刻だから」というのが当局の説明らしい。人気俳優や有名女優の不倫ネタで人気のあったいくつかのアカウントも閉鎖された。

 共産党政権の有力者たちが芸能人に絡むゴシップネタもないことはないから、それの予防策なのかも知れない。権力闘争の道具にこのゴシップ情報が飛び交うことも多いから、それを防ぐためにもなるのであろう。捏造されたり歪曲されたりするものもあるだろうが、実は事実であることも多いような気がする。

 これではパワハラなどやりたい放題になるのではないかと心配するが、まさかそれが目的でもないだろう。わざわざこのことを取り上げるのは、とにかく権力に少しでも批判的な言論を封じようという中国共産党政府の強い意志の表れにみえるからだ。

 ゴシップさえも封じられのである。些細なことでも罪に問われるようになれば、国民はなにを語っていいのか恐れ、口をつぐまざるを得ない。習近平は言論統制を強めることで毛沢東に並ぶ存在を目指しているのだという。もともとそれほどのカリスマ性のない人間がそのような地位を目指すときには、このような恐怖政治で支配を強化するもののようである。オーウェルの「1984年」をはじめとした小説や映画に表現されたディストピアが現実に生じそうな気配を感じるが、大げさにすぎるだろうか。

 北朝鮮の金正恩を見習ってでもいるのだろうか。

2017年6月 8日 (木)

映画「クラバート 闇の魔法学校」2008年ドイツ映画

 監督マルコ・クロイツパイントナー、出演ダフィット・クロス、ダニエル・ブリュール、クリスチャン・レドル他

 魔法学校などというからハリー・ポッターに似せたドイツ映画かと思ったらまるで違った。かなりダークで、確かに魔法を修行するには違いないけれど、学校というような代物ではない。魔法を使う親方にこき使われる弟子は十二人でそれ以上でも以下でもない。

 弟子に何かあって欠員が出ると、どこかから少年が新たに加わる。その欠員が出る理由が恐ろしい。

 原作はドイツ児童文学の名作だそうだ。主人公のクラバートは14歳の孤児で、似たような少年二人と共に物乞いをしてかろうじて生き抜いている。時代は17世紀、ドイツでは30年戦争の真っ最中であり、そのうえペストが猖獗を極めている。クラバートの両親もペストで死んだのだ。みな生きるのに必死でそんな少年達を助ける者などいない。

 物乞いの生活に嫌気がさしたクラバートの耳元に誘いの声がささやく。彼は仲間を捨てて声に導かれるように大きな水車小屋にやってくる。そこでは食べ物に不自由はしない。仕事はきついがクラバートは満足する。

 しかしクラバートは次第にそこでの暮らしに秘密があることを感じ始める。そこでは親方から黒魔術を授かることが出来る。そのことにクラバートも他の少年達も何の不思議も感じていない。必死で修行をする。

 やがてさらに恐ろしい秘密が垣間見られるようになるが、そのことを口にすることは出来ない。クラバートに親切で面倒見の良いトンダという若者にはひそかにつき合っている恋人がいる。しかしそのことを親方に知られると大変なことになるという。特に恋人の名前は決して知られてはならない。

 しかしついにそのことは親方の知るところとなり、恐れていたことが起こる。

 クラバートは親しかったトンダを失い、新たに少年が加わる。何と以前クラバートの物乞い仲間だった少年だ。クラバートは変わった、と云われる。確かに物語の最初の頃とは顔つきがまったく変わっていることに気がつく。なんとなく覇気がなかった少年クラバートは精悍な若者に変貌しつつあったのだ。そのクラバートに恋人が出来る。

 クラバートは生き抜くことが出来るのか。恋は成就するのか。

 恐ろしい魔法使いの親方との戦いが始まる。

 ダークでぬかるみのグチャグチャした感じが全編に漂い、ヨーロッパの17世紀というのがどういう時代だったのかが分かる。こういう時代なら魔法も普通にあり得たのだ。

避難訓練

 軍事行動は隠密に行うものだ。敵の防御が万全でなければ攻撃効果も高いし、味方の被害を少なくすることが出来る。真珠湾攻撃もそういうものだった。ハワイには少なくない日本人がいたであろうけれど、事前に連絡しておいて港に集め、岸壁に船を着けて乗せて還って来るというようなことはなかった。

 在韓米軍は、北朝鮮の攻撃に備えて5日~9日にかけて韓国に居住する米国の民間人の避難訓練を実施している。これは年に二度ほど実施されてきたもので、従来は、春は4月乃至5月だった。4月に軍事行動がありそうだという憶測が飛んでいたので、誤解されないようにそれを遅らせたのではないかという。

 避難先は日本だそうである。対象者はおよそ20万人だが、今回の訓練では1万7千人が参加する。全員の訓練を行うことは無理らしく、そもそも現実に非難するときにはどれだけの人が無事避難できるのか。

 それにしても避難訓練をするということは却って軍事行動がないというサインだと受け取って良いのか、そのようにサインを読み違えることを期待して、実は本当は軍事行動に踏み切る為の準備なのか。北朝鮮はどう受け取っているのだろうか。

 一触即発の状況が続くと、ストレスに耐えきれず、しびれを切らして手を出す者が出るのは世の習いである。何しろアメリカは大義名分が立つから北朝鮮が手を出すのを待ち望んでいるのだ。トランプ大統領は、イギリスのチャーチル首相の懇請があった第二次世界大戦へのアメリカ参戦を画策し、日本を追い詰めて日本の攻撃を待ち望んだルーズベルト大統領の気持であろう。日本が真珠湾攻撃をしたときには、まさか真珠湾とは想定はしていなかったようだが、大義名分が出来て快哉を叫んだと云われる。

柚月裕子「合理的にあり得ない」(講談社)

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 「上水流(かみづる)涼子の解明」と副題されている。主人公は罠にはめられて有罪判決を受け、資格を失った美貌の元敏腕弁護士。現在は探偵事務所を開設しているが、依頼者は厳選している。

 そこで引き受けた依頼案件の処理が五件、それぞれが別の話で短編集となっている。どれも知力の限りを尽くしたもので、あまりに現実離れしているからある意味で現代のお伽噺のようなところもある。それだからこそその案件の解決にはあっと驚くような仕掛けが施され、それが決まるのが痛快なのである。

 詐欺師の知略のさらに上を行く策略を立てて相手に仕掛けていく話「確率的にあり得ない」など、直接的に殺しや傷害事件にはつながっていないので血は流れない。しかし暴力団が関わる案件もあるから、そのあとに罠にはめられた者がどんな運命となったかは主人公の関知するところではない。

 主人公の助手は、ある意味で主人公以上の能力を持つ貴山という男で、その特異のキャラクターが物語を盛り上げる。

 物語が進むうちに、主人公の涼子がどんな罠にはめられて弁護士資格を失ったのか、それが次第に明らかになっていき、貴山が助手になったいきさつも語られていく。

 著者の柚月裕子は「孤狼の血」、「慈雨」の二冊でお馴染みである。どちらも面白かったので、ついこの本も買ってしまい、読んで予想通りに面白かったのである。こうして手を広げていくからどんどん収拾がつかなくなっていく。

 何しろ書く人はたくさんいて、読むのは私ひとりなのである。間に合うわけがない。

2017年6月 7日 (水)

小さな少女像設置

 韓国聯合ニュースは、高校に慰安婦を象徴する小さな慰安婦像を設置する運動が高校生達によって進められていると伝えた。すでにある高校には高さ30センチの少女像が据えられ、添えられた銅板には「忘却も許しも奢侈である。怨みの血がめぐるのを感じたのなら、鉄のたわしでこすっても磨いても決して消せない深い傷跡、反人倫的な罪悪を忘れられないため、この少女像の前に跪いて涙を流す」

 ものすごい文言が添えられているものだ。ところで書かれているのは日本語ではないから、訳がおかしいのかも知れないが「奢侈」とは身分不相応な贅沢のことである。どうしてここに「奢侈」が出てくるのか理解に苦しむ。そもそもこの文章は誰に語りかけたものかといえば、韓国の人たちに対してであると読める。

 韓国の高校生が、永遠に日本に対する怨みを忘れないために像を設置したのだということらしい。それなら日本からとやかく言う筋合いではないからどうぞご自由にというしかない。

 それにしてもこのような像をこれから韓国中の高校に広めたいようで、賛同する人も多いと記事には記されている。日本ではむかし二宮金次郎の像が各学校におかれていたけれど、同じようなものか。あの二宮金次郎の像も、歩きスマホと同じで危ないから設置はやめろという声があるそうで、世の中には何にでもクレームをつける人がいるものであるなあ、と思ったりする。

 この銅板の文章を作成したのは高校の国語教師だといい、「慰安婦問題について、『許しはするが忘れないようにしよう』などと言う人がいるが、私は『許しも忘却もあり得ない』と思ってあの文章を書いた」そうである。

 韓国が許しも忘却もあり得ないのに謝罪を求めているとすると、その謝罪にはどんな意味があるのかと私なら思うが、この高校教師は違うらしい。謝っても決して許さないと言われると謝る気が失せるものだ。実際に私の記憶では何度も日本は謝ってきたのだが、韓国では謝罪と受け取っていないのかと思っていた。しかし謝罪があったことを承知の上で韓国が要求したらそのたびに永遠に繰り返し謝り続けるのが当然だということのようだ。

 そういう国とどうつき合えば良いのか私には分からない。

 繰り返し述べて来たけれど、韓国が言う通りに韓国の少女たちが二十万人も慰安婦にされたというのなら、そのとき韓国の男たちはいったい何をしていたのか。黙って指をくわえてみていたのか。強制的に連行されたときに抵抗して殺された韓国の男の話は寡聞にしてまったく知らない。

 なるほど、だから「この少女像の前に跪いて涙を流す」わけだ。無力だったことを反省しているのだろう。

梨木香歩「ピスタチオ」(筑摩書房)

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 不思議な物語である。最後に主人公が書いた文章はやはり不思議な寓話であるが、全体としては彼女が呼び寄せられるように訪ねた、アフリカのウガンダでの体験の形をしたリアリティの感じられる小説である。

 主人公の女性のペンネームは「棚」、編集者にペンネームを求められたときにたまたまそこに画家のターナーの絵が掛かっていたからそう名乗っている。

 彼女の日本での日常生活と、飼い犬の病気の話が語られたあと、アフリカへ取材旅行に行く話が持ち込まれる。彼女は以前アフリカを訪ねたことがあり、現地で出あった日本人の知り合いもいる。その中で特に印象に残った人物の書いたアフリカの呪術医の本を読んだばかりであった。

 ところがその片山という人物が日本に帰ってきて死んだと云うことを知る。さらに片山に関わる人物も事故で亡くなっていた。彼女は片山の仕事がまだ未完成なのを感じていて、それをさらに詳しく調べるためにもアフリカに行くことを決心する。

 片山たちが使っていた現地ガイドを頼るつもりで連絡すると、何とそのガイドも亡くなっているというではないか。ただそのガイドの弟が代わりに同行を引き受けるという。

 ウガンダの自然を訪ね、そして呪術医を訪ねる旅が始まる。しかし旅ははじめから齟齬の連続である。アフリカは日本ではないからと承知していても、あまりのことに棚も不安を募らせる。

 そこから物語は次第にディープになっていき、不思議なことが少しも不思議ではない世界がそこに顕現する。

 アフリカの現状について多少の知識がある方が良いかも知れない。その悲惨な実情が当たり前のことのようにそこにある。読み進める中で、ばらばらの情報が次第にまとまりはじめ、ついに奇跡的な光景が眼前に現れる。このとき題名の「ピスタチオ」の本当の意味が分かる。

 そして棚が書いた寓話は、捨て子でピスタチオと呼ばれていた少年が「鳥検番」という不思議な仕事に就き、そのピスタチオが鳥の語ることばを通して世界を、そして自然と人間の関係を、世の中の事象を彼なりに理解していく様子が描かれる。彼は自分の運命を受け入れる。

 その物語を書くことが棚のアフリカの総括でもあったのか。

 カケスは呼びかける。

    ピスタチオ。
  ピスタチオ。
  いい一生を生きた。
    安心しておやすみ。

日本に戻った棚の目に映る自然はアフリカに行く前と変わったようだ。しかし自然はもともとそこにあったのである。

2017年6月 6日 (火)

子供の虫歯の原因

 虫歯になりやすい人とそうでない人がいる。私の父などは97歳で死ぬまでに一本も虫歯にならなかった。残念ながら60歳を過ぎた頃に歯槽膿漏になり、生まれて初めて歯医者に通うようになった。そのとき、30歳をとうに過ぎた私に「歯はきちんと磨かないといけないらしいぞ」と大真面目な顔で言った。

 父はもともと口腔内の唾液の性質が虫歯になりにくいものらしく、さいわい私もそれを受け継いで四十をすぎるまで虫歯はなかった。そのために却って口腔ケアが不足して歯槽膿漏になったと思われる。

 富山大学の調査によると、長時間メディアを利用する子供や寝不足の子供、朝食を欠食する子供に虫歯が多い傾向が見られたそうだ。ところが間食の摂取頻度と運動習慣などには虫歯との関連が見られなかった。

 虫歯と唾液の量やその性質には有意な関係があることが分かっており、その唾液分泌には自律神経が関係しているのだそうだ。長時間のメディア利用、睡眠不足、朝食の欠食がストレスにつながり、自律神経活動が興奮状態になるために唾液の量や質が影響を受けて虫歯になりやすいのではないか、というのがこの調査結果の分析である。

 へえそうなのか、と思わないこともないが、このニュースの記事の最後には、そもそもそのような子供は生活習慣が乱れているわけで、当然歯磨きもいい加減で、そのことが虫歯になりやすい要因かもしれないと書いてあって笑ってしまった。

 私も自律神経よりは習慣の問題が大きいように思う。体質は大きく関係するだろうけれど、長時間のメディア利用や睡眠不足を許している親なら、生活もいい加減かも知れず、それなら朝食も食べさせないこともあるだろう。そして食べるものも虫歯になりやすかろうが何だろうが気にしないだろう。その結果虫歯になりやすいので、自律神経を持ち出すほどのことはないのではないか。

 それとも、父も私も鈍感なのでストレスをあまり感じることがなく、自律神経が安定していたので虫歯になりにくかったのだろうか。父はいざ知らず、私は自分ではデリケートだと思っているけれど違うのかなあ。

文化を奪う?

 中国メディアが「中国の文化であり、日本に奪われ、そして日本を代表する存在になった文化は数多く存在する」とする記事を掲載した。「日本が中国から奪った文化の中には、日本を象徴する存在になったものも少なくない」として、畳、和服、相撲、芸妓、下駄、京都、桜、茶道などを例に挙げている。

 しばしば驚くのは、中国の分類の不思議さだ。どうして京都が含まれるのか首をかしげる。平安京が中国の長安の街を模した点を想定しているのだろうか。また、それぞれの起源がたしかに中国起源であるかどうかは意見の分かれるところだろう。

 何より、文化が日本に「奪われた」と主張する思考の論理が分からない。文化は奪ったり奪われたりするものではないと思うからである。起源が中国なのに、日本オリジナルなものであるように語られることが不満だということなのだろうか。別に日本は韓国と違うから、それらの文化が中国の影響を受けているといわれれば多くのものは確かにそうだと同意することにやぶさかではない。だが同時に日本独自の文化に洗練させてきた歴史があることも分かって欲しいところだ。

 歴史的に洗練させていくこと、そしてそれを継承していくこと、そのことこそが文化というものなのではないだろうか。だから中国が同じものを中国独特の仕方で洗練させ継続していれば、それも文化として尊重したいと思う。

 文化を「奪う」という思考様式には文化大革命が関係しているのだろうか。私が高校生の時代から10年あまり、中国には文化大革命の嵐が吹き荒れていた。毛沢東によって扇動されたこの運動は、燎原の火のように中国全土を覆い、遺跡などではそのときの傷跡が今も残されているのを見ることがある。

 この運動は権力闘争だった、階級闘争だったなどといろいろな解釈がされているが、実際に行われたのは知識人や文化人への攻撃と、古い文化財や遺跡などの破壊行為だった。過去の権力者や金持ちや歴史的に残された遺物を排斥することが正義だと考える者たちが狂気のような行動をした。

 それは結果的に文化の破壊だった。だから文化大革命というのだろうと思った。中国の歴史と文化に強い興味と親和性を感じ始めていた頃だったから私はその破壊行為を空しく見ていた。

 そのときに中国人は文化の継承を否定することを正しいと思い込まされたのかも知れない。結果的に多くの文化が失われた。文化が奪われたと云えば、まさにそうだろう。

 しかしそれは新生中国建国のシンボルである毛沢東の主導によって行われたものである。文化大革命が、つまり毛沢東が文化を奪ったというわけには行くまい。それならば、中国のすべてを奪ったのは日本であり、その日本と戦って駆逐したのが共産党であるという神話を建前とする国のメディアとしては、「日本に文化を奪われた」と主張するのは自然なことなのだろう。そんな主張をしている方もそれを読む国民も、たいていはそんなことを本気にしていないと思う。もし本気ならば、恐ろしいことである。何しろ文化は返せ、と云われて返せるものではないからである。

 そうか、韓国が仏像を奪って返さなかったりすることにもそのような論理があるのかもしれない。韓国も、日本に奪われた文化を取り戻そうと思っているのかも知れない。空しいことのように思う。失われた文化を嘆いて誰かを恨むより、その復元に努力したり、新たな文化を創造していく方が好いのに。

西加奈子「i(アイ)」(ポプラ社)

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 著者の本は以前から気になっていた(多分読んだら面白いだろうと予感が働いていたから)が、手を広げすぎると収拾がつかなくなるので読まずにいた。読書スランプから脱しつつある今、気がついたらこの本が手元に来ていた。

 主人公の名前はワイルド曽田アイ、父はアメリカ人で母が日本人である。だが彼女はシリア生まれのシリア人である。物心のつくころに両親に養女として引き取られ育てられた。小学校卒業まではアメリカで、そして中学校からは日本で、普通の日本人として生活していく。

 繊細で知的な彼女が周りの世界(つまり世間である)とどう関わっていくのか。彼女の出生がもたらす屈折と、その屈折こそが彼女を苦しめながら実は彼女に深い思索をもたらし強さを与えていく。

 その彼女が生涯の親友のミナに出会うあたりから物語が始まる。彼女は次第に成長していき、その間に世の中は大きく変わっていく。世界は不条理に満ちていて、無意味に人が死んでいく。

「この世界にアイは存在しません」という言葉が常に物語の通底音として響き続ける。もともとは虚数のiのことについて数学教師が語ったことばなのだが、そのことばにアイは衝撃を受け、自分の存在をリアルな実感として受け止めきれずにいる。

 ひとりの女性が自分の存在を否定したり肯定したりしながら、世界とは何か、そしてその世界の中に生を受けた自分とは何かを深く深く掘り下げて考え続ける。そしてこの小説を読む読者もそれを彼女の意識にシンクロさせながら考えることになる。

 彼女がある絶望的な事態に直面してうちひしがれた末に、ついにある境地に達したとき、世界の見え方が大きく変わるのを読者は彼女と共に目の当たりにするだろう。世界に光が射すかのような思いは、私には聖書の神の言葉、「光あれ」を想起させた。感動した。

2017年6月 5日 (月)

可愛い

 弟の娘(姪)の子(一歳七ヶ月)がとても可愛い。女の子で、誰にも愛想は好いのだけれど、私には特に愛想が好い。彼女は今月初めに両親の法事の時に会ったことを覚えているらしく、弟の家で満面の笑みで迎えてくれた。

 私の息子が似たような性格で、幼児の時には愛想が良くて誰にも好かれた。愛想が良いことは得である。娘のどん姫は・・・あまり愛想は良くないけれど、私は大好きである。さいわい息子はそのままに育ち、どん姫は愛想は相変わらずだけれど、マイペースであることが嫌われることになっていないらしいようだ。本物のマイペースは相手をあるがままに受け入れて何かを決めつけないから、嫌われることにつながらないのだろう。どちらも本物である。

 甥や姪の子どもたち(弟の孫たちで五人いる)の名前は一応分かっているのだけれど、その名前がどんな漢字だったのか覚えていない。今回全部書き出してもらった。呆け老人予備軍としては、そういうものがないと、これからおぼつかない。

 その弟の孫たちもどんどん大きくなり、世代交代は着々と進みつつあるのを感じる。それがなんとなく嬉しい。

いじめ再考

 先般中学三年の女子生徒が自殺した件についてブログに私見を書いた。コメントもいろいろいただいた。それぞれの経験からいろいろな見方がある。

 いじめは集団の中では古来から有るもので、今突然始まったものではない。先般のブログでは、その事件の教育委員会の処理に対する批判を書いたつもりである。その中でなぜいじめがなかったことにされようとしたのかを非難するつもりであった。

 いただいたコメントのなかにいじめた生徒についての情報があり、その返事などで教育委員会の対応について、在日の生徒や、日教組について言及することになった。個人的な理由があるが今はそれは置いておく。

 これが、在日や日教組がいじめの原因である、と私やコメントをくれた人が主張しているように受け取られたようである。もちろんいじめたのはいじめた生徒であって原因は個別のその生徒にある。私が言いたかったのは、いじめを直視せずに隠蔽しようとした教育委員会の行動の批判であり、いじめそのものの解析ではない。

 そもそもいじめというレベルを超えた、明らかな犯罪すらいじめと言い換える傾向は問題だと思っているし(そのことにも言及したつもりである)、今回は事なかれ主義でいじめがなかったことにされるそうになったことが問題で、その背景に観念的な、子どもは無垢で罪がないから護られなければならないという、裸の王様的な決めつけがないか、と云いたかったのだが、犯人は日教組だ、と云ったようにとられたのは、こちらの文章のつたなさであって申し訳ないことであった。そんなつもりはなかったのである。

大佛次郎「猫のいる日々」(徳間文庫)

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 多いときには15匹の猫が大佛次郎の居宅の中をうろついていたという。結婚当時、妻女は猫嫌いだったがしばらくしたら著者よりも猫好きになっていた。そうでなければこれだけの猫とは暮らせないだろう。一匹や二匹ならいざ知らず、それだけの数になると猫中心の生活になっていたに違いない。

  こういう本を買って読むのは猫好きだからである。犬と猫とどちらが好きかと問われたら、私は躊躇せず「猫!」と答える。

 猫は自分勝手である。猫が飼い主に媚びるのはたいてい何かをしてもらうためで、目的無しに媚びる猫はいないことはないが珍しい。そういう珍しい猫の話も書かれている。私もたまたまそういう猫を飼っていた経験があるので、よく分かる。その猫が死んだときには十年くらい喪失感がなくならなくて、似た猫を見ると心臓がどきんとしたものだ。ひそかに恋うる人に突然会うのに似ている。

 しかし実は自分勝手で愛想がないからこそ猫好きは猫が好きなのである。何しろ猫はそこにいてもうるさくない。干渉しないし干渉を嫌う。それが良いのである。著者もその点を愛している。著者の記す猫の生態は、なんだか身内の話のようにうれしくて楽しい。

 短いエッセイふうの文章がたくさん収められている。戦前から戦時中、そして晩年までの長い間の猫にまつわる思い出、猫を介しての交遊などが書かれている。時に正直に煩わしさを語るけれど、その言葉と裏腹にのろけのようなものが読み取れて、幸せだっただろうなあと心から思う。これも妻女が猫好きに変わってくれたからであろう。うらやましいことである。

 以前どなたかのブログでこの本のことが書かれていた。そのときには私もこの本を購入して手元においていたが、ようやく読了した。猫好きならこの本はとても楽しめるだろう。読まないともったいない猫たちとの話のかずかずである。

2017年6月 4日 (日)

どうして中国に来ないのか

 相変わらず中国人は大挙して日本にやってくる。以前は団体客が多かったが、最近は個人でやってくるリピーターも多いという。一時期の爆買いはおさまってしまったが、あれは異常な一時的な現象で、あれが継続的なものだと見誤ったお店もあるようだが、残念であった。

 中国から外国へ旅行に行くのに日本は手頃なのだろう。それに、似ているようでまるで違うことを来日した中国人は経験して帰るようである。それが口コミでさらに別の観光客を呼び、リピーターを生む。文化の違いこそが観光客の体験したいことであるなら、回数が増えれば文化の違いも少しずつ理解されていく。違いはとても大きいから時間はかかるが、違うことがまず理解されることが大事なことなので悪いことではない。

 観光客の急増で観光地は受け入れ体制が間に合わない事態になっているようだが、需要があれば必ず供給がそれに伴うのが経済で、遅ればせながらそれも解決していくことだろう。懸念ばかり言い立てても始まらない。中国人も次第にマナーをわきまえるものと期待しようではないか。

 中国のあるメディアが「中国人は日本を旅行しているのに、日本人はなぜ中国に来ないのか」という記事を掲載した。その理由として「以前は中国の物価の安さや距離の近さ、日本文化の起源であることに対して魅力を感じていた日本人が、日本経済の低迷と中国物価の上昇、政治的な事情など」によって最近は魅力を感じなくなったとしている。

 日本人はハワイ好きだから、とか、日本人は中国より西洋に価値観が近いから、という意見もあると伝えているが、どの理由もあながち間違いとは言えない。

 私も中国旅行が好きで、一時期は年に二度くらい行っていた。リタイア前は時間的な制約があったから上海周辺が多かったけれど、定年後は長期旅行が出来るのを楽しみしていたものだ。それが雲南省や桂林への旅行を最後にほとんど行かなくなったのは、もちろん理由がある。

 まず政治的な理由である。意図的な反日プロパガンダによって、不愉快な目に遭うおそれを感じ始めたからだ。むかしは金を持ち込むことを純粋によろこんでくれて手放しで歓迎されたけれど、今は笑いの底につい何かありそうな気がしてしまう。それに中国の観光地は、以前は外国人ばかりだったのが、次第に中国人ばかりになってこちらがなんとなく肩身が狭い気持がするからでもある。

 団体ならあまり感じないだろうけれど、一人でうろついていると以前ほど気楽な感じがしなくなっている。向こうは厳しい生活を生き抜いてきたつわものだが、こちらは平和な日本でのほほんと生きてきた。精神の気構えの違いに気押されるのだ。

 とはいえ日本から中国に観光に行く人数は以前から見れば減っているとはいえ、まだまだ多いのである。中国から日本へ来たのが600万人、日本から中国へ行ったのが250万人で、それぞれの人口から見ればずいぶん多いのである。私などから見れば、こんな状況でもよく行っていると思う。

 中国に行くのを逡巡するのは、中国に逡巡させる原因がある。それが解消に向かうのか、さらにひどくなるのか。そういえば邦人がスパイ容疑でつぎつぎに拘束されているというニュースも報じられている。まさに政治的事情である。

 中国で生活していたもなさんが、中国の問題点をリアルタイムで伝えたことからだろう、インターネットのアクセスを制限されたらしいことなどを知っているから、どうも中国はあまりよくない方向に向かっているような感じだ。私などもしばしば中国の問題点を面白おかしく取り上げている。まさか眼をつけられてはいないだろうが、絶対ないとはいえない。

 それでも行けるときに行かないと悔いが残りそうなので、今年こそは久しぶりに行こうと考えている。

計見(けんみ)一雄「統合失調症、あるいは精神分裂病」(講談社学術文庫)

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 著者は精神科の医師で、精神科救急医療分野の草分け的存在。この本の副題は「精神医学の虚実」であり、少々戦闘的なのだ。戦闘的であるとする意味は本を読んでもらわないとならないが、空論と臨床の乖離に苦慮してきた著者の、多数の患者と接した上での膨大な臨床経験からの本音が現れている。

 この本はもともと精神医療にたずさわる現場のスタッフの人びとに対する講演をもとにしたものである。だから専門家向けの業界用語もしばしば出てくるけれど、理論ではなく実際の症例をもとにした話なので、よく読めば分からないことはない。

 ところで、テレビのコメンテーターとして心理学者と精神科の医師が出ていたときに、どれだけの人がその違いを分かるだろうか。私だって多分あやふやである。そもそも精神科の医師でテレビに出るような人は、臨床などあまりしていないのではないかと私は思っている。どんな事件でも一般化して理屈づけしてしゃべるようなコメンテーターは臨床の個別の事例とはなじまないものだ。

 しばしば偉そうな坊さんが、漢字をばらして屁理屈を付けてご託宣を述べる姿に私は辟易する。たいてい漢字そのものの成り立ちや意味とは関係ないことを言っていることが多くて、ただのとんち話にしか聞こえない。感心するほどのことではない。角が立たないようにとりあえず感心して見せて、心の中で笑っていれば良い。

 同じように、心理学者などが絵を描かせて性格を絵解きして見せたり、夢占いをしたり、色の好みなどからその人を分析したりするのを見ていると、お前は占い師か、とつい言いたくなる。面白ければそれでいいにしてもほどがある。

 この本の著者などはそれとは極北の、本物の精神科の医師である。分からないことは分からないこととして、精神疾患はただの病気であるということを原点にもがいてきたのだ。「統合失調症」とは「精神分裂病」という病名が誤解を招きやすいとして言い換えられたもので、今はそう呼ばれる。病気の本質は変わらない。

 精神疾患についてはずいぶん昔から興味があって、分かりもしないのにそういう本を何冊か読んできた。著者の書いた他の本も以前読んだことがあり、観念的理念的ではなく、臨床的なところが本物の感じがした。それに分かりやすい。

 世界的に例外なく、人口の一定の割合で「統合失調症」の患者は発現する。少なくとも2%というから、クラスにひとり程度の割合か。もちろん軽度だったり重度だったりする。治療が適切ならほとんど普通の生活に問題がないことも多い。最近は薬もよくなっているから長期入院が必要な患者は減っている。

 著者が扱っているのは救急医療で運び込まれた患者ばかりだから、重度であることが多く、そこには人間の本質に関わるところまで掘り下げないと相手との接点が見出せないこともある。真剣勝負なのだ。

 最近は脳の働きが詳しく解明されてきているし、どうして薬が効くのかも少しずつ分かり始めている。そういう点から今までの精神疾患が根本的に見直されつつあるようだ。そこから答えが出るのはまだまだ先だと思うが、前へ進んでいるらしいことは希望である。

 冒頭で、医師が患者の顔、特に目を見ながら話していないことを強く批判している。そのような医師に限って、患者は疾患をかかえていて相手の目を直視することが出来ない、などとカルテに書き込むそうだ。それなら疾患があるのは医師の方ではないか、と笑う。確かに今の医師はパソコンの画面やカルテばかり見て患者を直視しないことが多い。良い医師かそうでないかを見分けるポイントだと思う。

 統合失調症のような病気があることを知るために、そしてそういう病気に興味がある人なら読む値打ちがあるだろう。ただし、理論的な部分も多々あるので、基礎知識がないと読めないところもある。そういうところは飛ばして読んでも良く解ると思う。なかなかこういう専門の本が一般の人に簡単に読めることがないので貴重な本である。

2017年6月 3日 (土)

期待と懸念

 調査によると、文在寅大統領の支持率が84%と極めて高率だった。歴史的な事実として、韓国大統領の支持率が高いときほど反日がおさまるという。これは支持の低い大統領ほど反日を利用するということの裏返しであり、支持が強固なら初めて日本とまともな交渉に臨めると云うことでもある。

 しかしこのあまりにも高い支持率は異常である。まるで独裁国家のようである。あの、国民を挙げての朴槿恵引きずり下ろしの、これも裏返しだと云うことなのだろう。誰にも強制されないのにこうして足並みを揃えるというのも民族性なのだろう、ちょっと怖い気がする。

 朴槿恵元大統領に対するレッテルの一つに「親日朴槿恵」というのがあるのを見て驚いた。日本人から見れば、歴代の大統領の中でも指折りの反日に終始した朴槿恵大統領が「親日」だったと見做されているのだ。多分慰安婦合意がそのまま親日のレッテルにつながっているのだろう。

 新政権下の韓国外交部の論調が次第に慰安婦合意見直しに傾きつつあるようだ。外交部が国民の意向を汲んでいることもあるだろうが、新政権の意向が見直しであることの表れなのだろう。間違いなく再交渉の申し入れが為される気配である。日本側はどう対応するのか。

 勧告の裁判所は日本に関係した事案になると(他の事案については知らない)常識を外れた裁定を下すことがしばしばあるけれど、このたび日韓の慰安婦合意の文書を公開するように命じる決定をしたという。韓国の弁護士会が公開を求めていたそうだ。

 外交文書を公開するよう求めることが法的に正しいことなのか異常なことなのか知らないけれど、韓国では相手のある外交文書を相手の国の合意も無しに裁判所が公開の命令を下すことが可能らしい。これが韓国だけに、特に日本に関する案件だけにまかり通る話だとすると、日本も韓国となかなか交渉ごとが出来にくくなる。

 しかし国際的に韓国の非を鳴らすことをあまり日本はしないから、他の国はそんなことは知らないだろう。もし知ってもそれで黙っている日本はそれだけ疚しいからそれを認めたのだと見做すだろう。

 しかし北朝鮮が破綻して半島統一になるとき、韓国が救いを求めるのはたぶん日本であろうと思う。日本が助けるのが当然と思っているからである。しかし日韓の間の溝があまりにも深まれば、日本国民は手をさしのべることに反対するだろう。

 韓国にとってはあまり日本と離反するのは将来的に得策でないはずだと思うけれど、韓国ではそう思わないのだろう。

 韓国の反日が、支持率の高い大統領によって多少は緩和される期待もあるが、今回はさらに悪化する懸念もある。日韓の関係が悪化して困るのは韓国の方だと私は思っている。支持率が高すぎるのは期待が高すぎると云うことかも知れず、期待通りではないというだけで支持が急落することもあり得る。いつも通り高みの見物をしようか。

大論争

 朴槿恵元大統領の収監されている拘置所のトイレをめぐって大論争が起こっているというニュースが報じられた。

 もともと朴槿恵元大統領は他人の使った便器を使用することを極度に嫌う潔癖症なのだそうだ。大統領在任中は行く先々でトイレの改装を命じたので、ネットでは「便器姫」とあだ名されていたのだという。

 そんな彼女なのであるから拘置所の便器を新品に変えてやるべきだという支持派の議員たちに対し、法の前ではトイレも平等であり、清潔さを求めるなら自分で磨けば良い、と反論する議員たちと大論争になっているのだそうだ。

 もし潔癖症なら、拘置所の便器を使用しなければならないのは辛いことだろう。しかしそれが罪を問われて罰を受ける立場というものであって、わが家にいるように暮らすというわけにはいかないだろう。拘置所ではけっこう特別扱いされているようだし、その程度は我慢するしかない。おそらく韓国人特有の、罪を反省するよりも怨みをつのらせることに心が向いているのだろうが。

 それにしても便器をめぐって「大論争」とは!

野澤千絵「老いる家 崩れる街」(講談社現代新書)

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 著者は東洋大学理工学部の建築学科教授。

 日本全国に空き家が増えていて、問題になっていることをご存じだろう。持ち主がなかなか特定されずに自治体も処分に困り、ゴミの捨て場になったり木や草が生い茂って浮浪者が入りこんだり、恰好の放火の標的になったりしている。街を再開発したくてもそういう家は交渉相手が所在不明なので進まなくなっている。

 帯にあるように、現在全国に800万戸の空き家があり、15年後には2100万戸を超える空き家が生まれると推計されている。それなのに新築マンションや新築家屋は増え続けている。特に著者が懸念するのは超高層マンションである。超高層マンションは設備もよく、見晴らしもよく、交通アクセスもよい場所に立てられることが多い。マンションの中にいろいろな付帯施設も備えられるからとても快適に見える。しかしそこには大きな問題点がある(本文参照)。

 規制緩和により、住宅の建設場所の規制も緩み、どんどん新築住宅の供給は増え続け、日本は完全な住宅過剰社会になってしまった。もちろんそれは人口減少と超高齢化社会の必然的な結果である。そしてその現象はこれからさらに加速する。あと十年足らずですべての団塊の世代が後期高齢者となり、つぎつぎに死んでいくのである。

 彼等の住んでいた家やマンションはその子どもが住まない限り空き家になる可能性が高い。子どもは親と同居していることが少ないから別に家を構えていることが多い。わざわざ親の家に移り住まないのだ。そうなると親の残した家は固定資産税を払い続けていかなければならない「負動産」と化す。売り払おうとしても住宅そのものが過剰なのであるから売り払うことが難しい。撤去しようとすればそれなりに費用がかかる。こうして空き家は放置されることになる。

 この本にはどのような問題があってどれだけの対策費用が必要なのか、これからどのようにしていくべきかの提言が詳しすぎるくらい詳しく書かれている。そしてそれはすべてその通りなのであって、政府や自治体はどうすべきか、住民はそれにどう協力すべきかも書かれている。

 ところがそれを実行することは大変な困難を伴うことも著者の体験上のこととして正直に述べられている。言うは易く行うは難し、なのである。それぞれの立場でこれほど利害関係が対立する案件はないのである。しかしそれを放置することでどのような未来が待ち受けているのか、想像力のある読者なら自ずと分かるように書かれている。

 多分現状は画期的に改善されることはないであろう。それぞれのひとはこの本を読んで自分自身の家について思いをいたし、どうすべきかを考えておくことが必要だと思う。

 少々説明が丁寧すぎてくどい部分があるが、それは著者の思いを何とか伝えたいという熱意によるものと解したい。誰もが目を通すべき本だと思う。

2017年6月 2日 (金)

結婚式

 日曜日が姪(妹の次女)の結婚式なので、明日から弟の家に行く。式場は千葉県の柏で、10時から挙式。その前には式場に着いていなければならないから、朝早くから出発する必要がある。ちょっと大変である。姪の相手には今度初めて会う。どんな仕事をしているのか、妹に聞いたような気もするが忘れた。

 そういうわけで明日は千葉まで車で走る。その足で東北まで温泉旅行にでも行こうかと考えていたが、ちょっと雑用が出来てしまったし、翌週には娘のどん姫もゆっくり遊びに来るという。何よりベランダの植物たちに水をやらねばならない。梅雨に入ってしまえば成り行きでなんとかなるけれど、この時期にかんかん照りが三日続けば致命的だろう。そういうわけで用事が済み次第とんぼ返りする。

 だから生き物を身の回りにおくことをためらうのだ。独り暮らしでは誰も代わりに面倒を見てくれる人がいない。わたしは心やさしいのだ。

老い先短いから温暖化など関係ない

 トランプ大統領はもうすぐ(6/14生まれ)71歳である。多分あと15年くらいしか生きないと思う(憎まれっ子世にはばかる、と言うから100まで生きるかも知れないが)。

 だから20年以上先のことなど考えないのであろう。次世代が、そして世界がどうなろうと知ったことではないのである。彼の言うアメリカファーストというのは、アメリカのことだけ考えてアメリカさえ良ければいいというように受け取られているが、私にはもっともっと狭い限られたもので、自分を支持する人たちが自分を支持し続けさえすればよいのである。それなら大統領として居座ることが出来る。

 つまり自分が大統領であること、自分さえよければいいのである。他人のことなど知ったことではない。

 TPP?!、自由貿易?!、地球温暖化?!、何のことだ、俺には関係ない。交渉ごとはすべて差しでやるものだ。一対一の勝負、勝つか負けるか、それしかないのだ。雑魚がひしめいてとやかく言うな、鬱陶しい。

 少々放っておいてもどうせ生きているあいだは世界はなんとかなっていくはずで、そのあとのことは知らないし、何かあればそのあとはそのあとの人間が何とかすればいいのである。

 まあ世の中の人は大抵がそう思って生きている。それではならないから、問題が取り返しがつかないことにならないうちにきれい事を言い、きれい事を言った手前それを何とか少しでも実行するような人を代表に選んで世の中を託すのである。

 それを何たることか、アメリカはきれい事すら言わないで恬淡とする人間を代表に選んでしまったのである。トランプは老い先短いから温暖化対策など知ったことではないのである。そんなきれい事でアメリカの経済活動が多少でも阻害されるのはいやなのである。

 トランプ大統領はアメリカをパリ協定から離脱させると決めた。

向井敏『本の中の本』(毎日新聞社)

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 戦後四十年間(この本は1985年に頃に書かれ、1986年に出版された)で読んだ膨大な本の中から著者がお薦めの本を、二頁で一冊取り上げて紹介している。もちろん比較参照する本も紹介されているから、全体としてはかなりの本の数になる。

 読んだことのある本がけっこう多い。これは著者の向井敏と読書志向が同じだと言うよりも、この本で著者お薦めの本を読んでいったことによるものだろう。ただ、当時苦手だった古典は避けている。

 向井敏を知ったのは、谷川永一の本からだったと思うが、二人とも開高健と親しかったから、その縁もある。小説を読んで初めて強烈な印象を受けたのが開高健の『パニック』で、そのあと『日本三文オペラ』にも圧倒された。中学生の時である。ただのエンターテインメントではないものを面白いと知った最初の体験だった。

 宮崎市定や桑原武夫、山本七平、会田雄次、森銑三などに出会えたのは向井敏や谷沢永一のお陰である。そして古典の全集の中には救いがたいひどい本もあることを教えてもらったのもこの二人によってである。古典の学界にはボスがいて、自分の取り巻きに仕事を分け与える傾向があり、能力も知識もないものが現代訳しているので、間違いだらけのことがあることを知った。先日読んだ中島義道の『東大助手物語』を読んでも人文科学系には得てしてそういうことがあるようだ。

 そもそも人文科学や社会科学などと、「科学」がつくのが大学時代から疑問であった。『空想から科学へ』で思想が科学であるかのように主張されたところから始まったのかと思っている。

 この本ではタイトルとして150冊、多分その倍以上の本が紹介されている。この本を最初に読んでから三十年も経ったのに、いまだにほんの一部しか読んでいないことに読書量の差を思い知らされる。それに読んだと言っても読みの深さがまるで違う。

 とはいえ読書の幅を拡げることが出来たのはこういう本を読んだお陰である。感謝に堪えない。

2017年6月 1日 (木)

やっぱり

 いつも楽しみに見ていて、再放送があればまた見てしまう「ローカル路線バスの旅」は、太川陽介と蛭子能収が卒業して、前回から新しいメンバーに替わった。ところが視聴率が最低で、もう一度もとのメンバーにする話が出ているという。

 それはそうだろう。私も新しいメンバーの番組の冒頭を見ただけで、すぐ見るのをやめた。多分新メンバーは二人とも旧の番組をあまり見たことがないようであったし、楽しそうな感じがしなかった。他の旅番組のように、ただ騒げばいいと勘違いしていたような気がする。面白くない。最初しか見ていないからそのあとどうだったか知らないけれど、不評だというのだからそのまま最後まで面白くなかったのだろう。

 もし新メンバーで第二弾が放送されても多分誰も見ないだろう。あまりにも違いすぎる。ゲームは夢中で楽しまなければつまらない。

かびたお米

 日本のお米は美味しいし安全だとして中国で人気であるという話は一再ならず見聞きしていた。中国のお米に対してかなり割高だからもちろんお金持ちが購入するだけであろうけれど。

 その中国で、「お米には発がん性があるから、日本人はあまりお米を食べなくなっている」という怪情報が流れているという。

 確かに日本人は昔ほどお米を食べなくなっているけれど、発がん性があるからだという話は聞いたことがない。むかし有機水銀やカドミウムなどに汚染されたお米で健康被害が起きたことがあったけれど、それとお米離れが直接関係しているとも思えない。

 中国の専門家も、お米には発がん性物質は含まれていないと明言している。ただし、保存が悪いためにお米にカビが発生すると、カビ毒によって肝臓ガンを発症することはあり得る、と語ったそうだ。

 しかしカビの生えたお米など私は見たことはない。日本人ならまず見たことはないだろう。しかしわざわざそう言及するのだから、中国ではカビの生えたお米が流通しているのであろう。それを報じた記事では、実際に市場にカビの生えたお米が流通しているし、幼稚園や学校の食堂で供されていることが問題になっていると云う。

 それよりも中国の土壌汚染は深刻で、垂れ流しされた排水の化学物質をお米が吸い上げている可能性が極めて高い。そんなお米を食べていればガンにもなろうというものだが、では日本のお米を食べることにしようといわれても、中国人に供給するほどは作られていないから無理だ。

中島義道『東大助手物語』(新潮文庫)

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 こんな本を出して大丈夫なのかな、と思うところがあって、読んでいてハラハラする。もともと著者の中島義道氏は頑固じいさんであるから、世渡り術などほとんど持ち合わせていない人物であって、阿諛追従など出来ない。しかしいわゆる大学や学界というところは権力亡者がひしめいているところらしく、その権化という人物に眼をつけられてしまったから大変なことになる。

 この本は著者が東大の助手として採用されてから、おとなのいじめを受けた日々をこれでもかとばかりに書き記しているものだ。読みながらパワハラとはこういうもので、世界とはこういうものが横行するところでもある、と云うことをあらためて思い返していた。

 私はこの本で著者をいじめ抜く槽谷教授のようなひどい人物には出会わなかった。いや、蛇蝎の如く嫌われる人たちとも折り合いを付けることが出来た。折り合いを付ける方が生きるのが楽だから、意地は張らなかった。ただ、折り合いを付けたつもりでも気がついたらなんとなく変なポジションに追い込まれていたという経験がないこともない。見かけがやさしくても根に持つ人というのはいる。私だって時には意地になる。それが不愉快だったのだろう。

 著者はある意味で開き直っているが、生活がある。ようやくつかんだ東大の助手という立場を失うことは、学術的な世界から追放されることを意味するという恐怖がある。だからさすがの著者も妻女に尻を叩かれて必死に教授との関係修復を測ろうとするが、何が原因で相手が怒っていていじめてくるのかさっぱりわからない。

 彼にとっては屈辱的な対応を余儀なくされて耐えるのだが、そもそも心がこもっていないから顔に出るのであろう、相手はエスカレートする。そしてある日どうしたら良いかが明らかになる。それを覚悟したとたん、道が劇的に開けるのだが・・・。

 人をあまりバカにすると恨まれる。私も経験がある。それは自分が悪いと今なら分かる。自分だってたいした人間ではないのだから。

 それにしてもよくここまで書いたものだ。そしてそれを本にするのだから恐れ入る。しかし実に面白い。人生は不思議だ。

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