『太陽の帝国』他
百目鬼恭三郎の『解体新著』についてさらに続く。この本は古い本だし、探して読もうという人もいないだろうから、しつこく続ける。読んで私が何を感じたか、ちょっと想像していただければそれでいい。
J.G.バラード『太陽の帝国』(国書刊行会)を評している。バラードと言えば、SFのニュー・ウェーブ派を代表するイギリスの作家で、精神世界、つまり内宇宙を描く作家である。何作か私も読んでいて好きな作家だが、SFに縁のない人は知らないだろう。ただ、この『太陽の帝国』はSFではなくて、第二次世界大戦勃発前後の上海を、親にはぐれたイギリス少年がさまよう物語で、ほぼバラードの自伝である。
これはスピルバーグによって映画化されているので、この有名な映画を知っている人もいるだろう。いま調べたら少年ジェイミー役を演じていたのがクリスチャン・ベールだったのを知り、驚いた。知らなかった。あのとき上海を占領したのはもちろん日本軍だから、日本兵役で日本人の俳優もたくさん出ている。原作でも映画でも、イギリス少年から見た日本軍の戦闘機の幻想的な美しさがバラードの原点であることを知ることが出来る。映画館でも見たけれど、購入したレーザーディスクの記念すべき二枚目はこの映画(一枚目はメグ・ライアンの『恋人たちの予感』)なのである。
しかしそんなSFについても、そしてバラードの伝記についても目配りが効いているというのが、百目鬼恭三郎のすごいところで、読みどころだけを語って、珍しく酷評していない。かわりにそのころ出版された伝記物をやり玉に挙げている。
E.ポレツキー『絶滅された世代』(みすず書房)を、これは批評と言うより紹介している。ここで非難しているのはコミンテルンという国際共産主義革命の組織そのものである。
なぜならば、この『絶滅された世代』こそ、オーストリア領の一地方の少年グループの6人が、長ずるに及んで町が第一次大戦後ポーランド領に編入されたのを機に理想に燃えてポーランド共産党に入党し、その後コミンテルンに加わってヨーロッパで国際共産主義活動に従事し、その後たどった彼等の運命を克明に語った本であるからだ。
この紹介文の最後を百目鬼恭三郎はこうしめくくる。
このようないわゆる走狗烹(に)らるの事例は、歴史を繙けば枚挙にいとまがないほどであるにちがいない。日本の例でいえば戊辰戦争の際の赤報隊の処刑などはその典型であろう。が、その結果として成立した体制を是認するには、これらの冷酷理不尽の処置に目をつぶるか、反革命分子の粛清という名目を鵜呑みにしてしまうか、のほかはない。私は、こうした自己欺瞞は大嫌いだ。人間としてありたい読者は、耳を傾けてこの紙碑の語る声を聞くといい。
不肖私も、こうした自己欺瞞が大嫌いである。左翼を名乗る者はそれらから眼を逸らし耳をふさいでいる。そういう者ほど声高に歴史の正義を語る。
赤報隊、相楽総三以下の末路については、長谷川伸『相楽総三とその同志』(講談社学術文庫)に詳しい。草莽の志士というものを考えさせ、そこから歴史の中の、いわゆる烹られた走狗にも思いをいたすのが生きた歴史を考えることであると思う。
さらに蛇足だが、「走狗烹らる」とは『史記』にある越の笵蠡(はんれい)の言葉、「狡兎死して走狗烹らる」から。兎を追う猟犬も、用がなくなれば煮て食べられてしまうという意味で、功績があっても(あってこそ)功臣は身が危ういことをいう。
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