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2017年7月14日 (金)

引用の引用ですが

 内田樹老師の『最終講義』という本を読んでいたら、福沢諭吉の『福翁自伝』の文章が引用されていた。ものを学ぶ、という事の本質に関わることについて参考になる部分を引用しているのである。「努力と報酬の間に相関がない」のが本来の学問であって、それでこそ学ぶことは楽しいのだというのである。

(前略)考えてみると、今日の書生にしてもあまり学問を勉強すると同時に始終我身の行く先ばかり考えているようでは、修行は出来なかろうと思う。さればといって、ただ迂闊に本ばかり見ているのは最も宜しくない。宜しくないとはいいながら、また始終今もいう通り自分の行く末のみ考えて、如何(どう)したらば立身が出来るだろうか、如何したらは金が手に這入るだろうか、立派な家に住むことが出来るだろうか、如何すれば旨いものを食い好い着物を着られるだろうか、というようなことにばかり心を引かれて、齷齪(あくせく)勉強するということでは、決して真の勉強は出来ないだろうと思う。

 子供は「どうして勉強しなければならないの?」と問う。それに答えて「いい学校に進学し、いい会社に入り、豊かに暮らすことが出来るようにだよ。それがあなたのためになるのだ」というのがおとなの常套句である。そのことを誰も疑わない。

 それこそ学ぶことにも「努力と報酬には相関がある」という確信にほかならない。それならば、「報酬は要らないから努力はしたくない」というこどもの反論を跳ね返すことが出来ない。

 老師が言い続けているのは、学問は、そして教育とは経済活動ではないのだ、ということである。その出発点が間違っているから今の日本の教育は危うい状態にある、と繰り返し警告しているのである。

 その本質的な問題点に気付かないと社会は荒廃し、全てが自己責任という言い方で格差は固定化されていくのだろう。老師は教育は安定した社会を構成するおとなを送り出すためのものだと喝破する。今の経済論理の教育では、社会的役割を自覚する「おとな」が供給されないことになると危惧しているのである。自分だけ良ければいい、というのは、本来おとなとは見做されない者の行動なのである。

 しばしば中国人が傍若無人で、騒いだり自分勝手な行動をして周りから顰蹙を買うのは、彼等がおとなではないからである。子供なのである。そう考えると分かりやすい。中国や韓国の拝金主義的な傾向、今はアメリカもトランプを支持して中国化しているが、社会を安定化させる「おとな」が敬意を持って遇されない幼児化する社会だといえないか。

 教育が経済論理でいじり倒されれば倒されるほど、社会は不安定化して差別は大きくなり、ひとは生き難くなる。学問とは、そういうものではないよ、損得ではないからこそ夢中になれるものだよ、と福沢諭吉は100年以上前に言っているのである。そのことを今の教育行政は見失っているのではないか、と老師は言っているのである。

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