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2017年8月

2017年8月19日 (土)

不穏

 ニュースを見ていると世界が不安定化しているのを感じる。トランプなどという人物が登場してアメリカ大統領になってしまったことがこの不安定化の一つの要因か、などとも思うが、それは原因というより結果なのかも知れないと思ったりする。世界が不安定化しているからこそ彼のような本音をむき出しにして恥じない人物が大統領になれたのではないか。

 さいわい日本はまだそれほど不安定化しているように見えない。日本人は他人事として世界で頻発する異常な事件を不安な気持ちで眺めているだけである。それだけ安定して平和な国だということであって有難いことである。

 世界が不安定化することをチャンスととらえる人びとがいる。世界はもう袋小路にいるのだから現在の秩序は一度崩壊させた方が良いと内心で思う人たちである。そういう人たちはますます人びとの不安を煽り立て、パニックになって狂気に走る人間を送り出そうとする。変革こそ正義と思う人びとである。

 これから世界の不安定化がますますエスカレートしていくのか、それともこれではいけないと人びとが気がついて再び秩序を取り戻そうとする動きに向かうのか、私には皆目分からない。過去の歴史を見れば、そのような不安の時代の結果として戦争が起こった。戦争の惨禍が人びとをパニックからようやく覚醒させて、これではいけないと思わせ安定を求めさせる。

 何のことはない、現在の世界はそのくりかえしのなかのまさにある局面、つまり戦争直前の時代にいるということなのではないのか。恐ろしいことであるが、誰かがこれを止めることが出来るとも思えない。悲観的だが、自分が巻き込まれないことを願い、神に祈ることしか一個人に出来ることはないのだ。

 日本のマスコミは正義のための変革を唱える人びとの尻馬に乗り、体制を不安定化させることを正義と信じてますます偏った報道を行うだろう。知らず知らず社会の不安定化をあおり、戦争へ大衆を追い込むだろう。まさに彼らが昭和の前半に行ってきたことを、いま同じ様にたどっているように見えてしまうのは私の妄想か。

 民主党が政権を取る前、マスコミはこぞって自民党の非を鳴らし、国民に政権交代後の夢を見せ、国民はそれに乗った。その結果がどうなったのか。まともな記憶力のある人びとはそれを忘れていないから、再び民進党に夢を見ることがないのは幸いである。あの頃の自民党は確かにひどかった。再び自民党があの時代のお粗末な党に戻ってしまっているのかどうか。

 安倍政権におごりがあり、能力に欠ける大臣をはじめ、知名度だけで人間的に問題のある議員を抱えていることは事実である。しかしこの政権の時代は、国民にとって、特に若者達にとって幸福な時代であるように見える。失業率は過去最低であり、飢えて死ぬ人間はまずいない。救いを求めれば救われるシステムはほぼ適正に機能している。

 マスコミや野党は不完全な部分だけを取りあげてすべてが機能していないが如く言い立てるが、この世に完璧なシステムなど存在しない。不完全な部分をどう解消していくかを問題にするなら建設的だが、不完全をただ言い立ててシステム全体を否定する姿勢は社民党的で、社会にとって害をなすだけである。同じように見えて全く違う問題提起の仕方なのである。いま民進党が旧社会党を抱えたまま存続することで、この悪弊を脱することが出来ないまま衰退しつつある。

 社会を不安定化させるかさせないかは、全否定か問題解決のための不備指摘であるかによる。共産党は本質的に革命を目指す党である。それを指摘されると必ず否定してみせるが、党是からその根本を外すことはしない。そもそもが全否定の党なのであり、それは徹底的に首尾一貫している。そのような党と共闘すること自体の是非が分からない枝野氏のような人が党首になるとしたら、民進党の命脈は尽きるだろう。

 いまマスコミや野党は問題点をあら探しして、それをいい立て続けている。問題点があることを明らかにすることは良いことである。しかしそれが問題解決のためではなく、政権を否定し、システムを否定し、社会体制全体を否定することに知らず知らず向かわせようとしているのであれば大問題である。

 彼らは変革を夢見る。変革にはまず社会をゆるがし、不安定化させる必要があり、それこそが正義だと確信している。せっかくの日本の安定と平和をゆるがそうとしているのは誰なのかをよくよく考える必要がありそうだ。

2017年8月18日 (金)

あなめあなめ

 天明の大飢饉のときにみちのくでは餓死者が大量に生じた。『菅江真澄遊覧記1』でその餓死者たちの白骨の山を見た菅江真澄が思わず「あなめあなめ」とつぶやいたことを引用した。その「あなめあなめ」の意味をあとで説明する、と書きながら後回しにしていたのでここに書いておく。「ブログ記事8/15付け・飢饉の餓死者(『菅江真澄遊覧記』より)」

 在原業平がみちのくを旅したとき、夜更けに女の声が聞こえてきたので野原にさまよい出ると、そこには髑髏が転がっており、「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ」と髑髏が歌っていた。

 「あなめ」とは、「ああ眼が痛い」という意味である。髑髏の眼窩には薄(すすき)が生えており、それが秋風が吹くと揺れて眼窩をこするのが痛い、と嘆いていたわけである。

 この髑髏が小野小町のものであることを知り、在原業平が薄を抜いてやると声は止んだという。

 小野小町には美女であるが故の美女変相の話がある。絵物語になっている。絶世の美女である小町、やがて歳とともに容色が衰えていき、老婆となり、死に、死体は腐爛し、朽ち果て、最後は白骨となる。人の世の無常を表す絵物語である。

 それと在原業平の伝説が組み合わさってこのような「あなめあなめ」の話になったのであろう。業平は髑髏の歌う「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ」に対して「小野とは言はじ薄生いたり」と返している。

 その意味は薄が生えているくらいだから小野(小さい野原)とはいえない、ということだが、もちろん小野小町を掛けているわけである。

 菅江真澄は白骨を見、この歌を思い出してつい「あなめあなめ」とつぶやいたわけである。

最初は別だけど

 強い毒性を持つヒアリが全国で見つかっている。たまたま見つかったけれど、実はかなり以前から日本にやってきていたということだろうか。それにしても突然これだけ頻繁に見つかりだしたのも不思議だ。ニュースを見ていると、ほとんど中国から移送された貨物に付いてきたようである。

 もともとは南米原産のアリであるが、中国から、または中国経由の貨物に付随することが多いのは、それだけ中国の検疫や駆除がいい加減だということを表しているのだろうと最初は思っていた。

 しかし、まさかとは思うが、日本で騒ぎになったのを知って意図的に荷物にヒアリをしのばせているなどということはないだろうなあ。今回狭山市で発見されたヒアリの女王アリなど、コンテナからとり出した荷物の梱包のなかから見つかっている。わざと入れたと勘ぐるのは考えすぎか。

 餃子に農薬を入れて送ってくる国だからなあ。

 そういえば武装漁民を乗せた大量の漁船群が尖閣諸島に向かっているらしい。中国政府は正式に尖閣諸島海域での漁を許可したそうだ。関連してさまざまな嫌がらせを繰り返すことになりそうだ。それに対して日本が強硬な態度に出れば、それを口実にさらに行動はエスカレートするだろう。やくざの手口である。

2017年8月17日 (木)

さびしくもあり・・・

 娘のどん姫は昨日の朝、そして息子は今朝、自分の住処に帰っていった。盆休みは終わりである。いろいろな話をしたけれど、話したいと思っていたことのほんの一部しか話していない気もする。子どもたちの話を聞くよりも、つい自分の話が多くなってしまうのはいつものことである。話し足りない思いが次に彼等が来ることへの待ち遠しさにつながる。

 いつも以上に連日よく酒を飲んだ。二人とも若いからよく飲みよく食べるので、私がひとりで食べ過ぎることはない。おかげで思ったより体重が増えていないのは幸いである。今回はあまり手のかかる料理は作らず、席に座る時間が確保できるスピード料理を数多く用意したのは正解であった。冬なら鍋だから下ごしらえすれば坐ったままですむから便利だ。

 それでも独り暮らしの自由気ままというわけにはいかないから、わが息子と娘とはいえ気を遣うことはつかう。だから彼らがいなくなってさびしくもあり、いささかほっとしているところもある。

 どん姫のくれたひとり用の電気サイフォンでコーヒーを淹れて一息ついている。ちゃんとした入れ物がないのに気付いた息子が、コーヒーが酸化しないような簡単な抜気式の豆入れをネットで取り寄せてくれた。むかしもらってしまい込んでいた手動式のコーヒーミルを引っ張り出して来たので、これからは豆を買ってきたらその都度粉に挽いてコーヒーを淹れることができるようになった。ちょっと贅沢な気分を楽しめるのである。ありがとう、子どもたち。

 来週弁護士事務所で最終打ち合わせをしたら、しばらくぶりに東北地方に旅に出ようかと思っている。まだ細かい訪問先はなにも決めていない。今回は移動よりは滞在を考えている。格安の湯治宿に一カ所に二泊とか三泊しながら、温泉と読書三昧をしようといまからわくわくしている。

2017年8月16日 (水)

無責任

 リーダーはチームの責任を負う。責任者はその責任を引き受けることで権限も与えられている。

 昨日の終戦記念日に、NHKがインパール作戦を特集していた。いつもブログを拝見している方々の中にもこの番組について言及されている方が見受けられた。それぞれのご意見についておおむね賛同する。

 日本は国家として戦争責任者を裁くことをしなかった。連合国による東京裁判というかたちで戦犯を特定し、彼等の罪で戦争が起こった、彼等が悪くて国民は悪くなかったというかたちで収めてしまったから、本当の日本人自身による戦争の反省はなされていない。

 それがゆがんだかたちで顕れているのが自虐史観なのではないかと思う。特にA新聞をはじめとする大手新聞社は、戦争へ国民を煽り立てる役割を担っていたのに、それについての反省を私はあまり見聞きしていない。何しろ戦犯が悪い、そして国家が悪かったという論法で自らの責任をあきらかにせずに口を拭ったままである。

 その姿は、あの慰安婦問題についての誤報を指摘され続けても抗弁し続けて、30年も過ぎてからようやく自らの非を認めざるを得なくなった姿に重なる。戦争反対を叫びながら、明日また戦争に国民を煽らないという保証はない。

 インパール作戦が如何に無謀で兵士の命をないがしろにした作戦であったのか。それは番組でも報じられていたように、補給をまったく想定せず、敵の武器や食糧を奪って補給せよなどという命令に顕れている。各方面軍の師団長が敗勢必死で作戦の遂行は不可能と報じてきているのにインパール作戦を遂行した総責任者である牟田口中将はそれを弱腰であるとして罵倒して、つぎつぎに師団長の首をすげ替えた。

 当初三週間の予定の作戦が頓挫したのに作戦中止の指令が出たのは四ヶ月も過ぎてからであり、泥濘のジャングルのなかを食糧もなく、マラリヤや赤痢にかかってつぎつぎに兵士は死んでいった。驚くべきことに戦闘で死んだ兵士よりも病死や餓死の兵士の方がずっと多いという惨状だった。

 番組が牟田口中将ばかりに作戦の責任を負わせているという指摘をしている方もあったが、私の見る限りでは当時の東条英機以下のトップも含めての司令部全体の精神論の横行する無責任さもきちんと言及していたように思う。

 ただ、あのときに牟田口中将のすぐ側にいた斉藤中尉という人の
残した克明な手記がインパールの実態を明らかにしているとして、番組はそのことにウエイトを置いていたので、日本軍そのものの問題について突っ込み不足だという指摘になったものと思う。

 この番組を息子と二人で観た。ラストに斉藤小尉が生存していることが明かされ、自分の手記を見ながら過去を思い、感極まって絶句している姿が強烈にこちらの胸に迫ってきた。

 息子に「戦争反対を謳うなら、このような番組こそが必要だろうな」と語った。インパール作戦とガダルカナルの惨状については、学生時代から知っておくべき戦史だと思っていたので、いろいろな作家のいろいろな立場の文書で繰り返し読んだ記憶がある。そこで学んだ自分の記憶していることを息子に話したけれど、そういう意味では終戦記念日にふさわしい夜になった。

 日本のトップの無責任体質は牟田口中将に象徴されるけれど、それは原発事故の時の東京電力のトップや、東芝、三洋電機のトップの姿にそのままつながっているような気がする。原発事故の時の菅直人首相や枝野氏の時々刻々変わる言動にもそれを見たと私は思っている。日本が日中戦争、太平洋戦争を真に総括できないままであることが日本のトップの無責任体制を生み出しているという点は間違いない事実であると考える。

 当たり前のことだが、責任者は責任をとらなければ責任者ではないのである。

2017年8月15日 (火)

飢饉の餓死者(『菅江真澄遊覧記』より)

 (天明四年八月)十日 朝早く(鰺ヶ沢を)出立する。高い家の二階にならんで、戯れうたを歌う女がいた。この村のゲンボ(この地方で安女郎をこう呼ぶ。鰺ヶ沢は港で、遊女がたくさんいた)という遊び女であるという。

 道をしばらくきて浮田というところへでた。卯の木、床前(にと津軽群森田村)という村の小道をわけてくると、雪が消え残っているように、草むらに人の白骨がたくさん乱れ散っていた。あるいは、うずたかくつみ重なっている。頭骨などの転がっている穴ごとに、薄(すすき)や女郎花(おみなえし)のおいでているさまは、見る心持がしない。「あなめあなめ」とひとりごとをいったのを、うしろの人が聞いて、
「ごらんなさい、これはみな餓死したものの屍です。卓天明三年の冬から四年春までは、雪のなかに行き倒れたもののなかにも、まだ息のかよう者が数知れずありました。その行き倒れ者がだんだん多くなり、重なり伏して道をふさぎ、往来の人は、それを踏みこえ踏みこえ通りましたが、夜道や夕ぐれには、謝って死骸の骨を踏み折ったり、腐れただれた腹などに足をふみ入れたり、その臭い匂いをご想像なさい。
 直も助かろうとして、生きている馬をとらえ、首に綱をつけて屋の梁にひきむすび、脇差、あるいは小刀を馬の腹に刺して裂き殺し、したたる血をとって、あれこれの草の根を煮て食ったりしました。荒馬の殺し方も、のちには馬の耳に煮えたった湯を注ぎ入れて殺したり、また、頭から縄でくくって呼吸ができずに死なせるといったありさまでした。その骨などは、たき木にまぜて焚いたり、野をかける鶏や犬をとらえて食ったりしました。
 そのようなものを食いつくしますと、自分の産んだ子、あるいは弱っている兄弟家族、また疫病で死にそうなたくさんの人びとをまだ息の絶えないのに脇差で刺したり、または胸のあたりを食い破って、飢えをしのぎました。人を食った者は捕まって処刑されました。人肉を食ったものの眼は狼などのようにぎらぎらと光り、馬を食った人はすべて顔色が黒く、いまも生きのびて、多く村々にいます。
 弘前近くへ娘を嫁にやっていた女があって、戸の娘が、自分の母はこの年の飢饉にどうしているか会いたいと、道のりは一日のうちに歩いて行けるところなので、夕方近く着き、互いに無事をよろこびあった。そのあとで母のいうことに、お前がまるまると肥えているようだ、食べたら、うまさはかぎりないであろうと戯れていうのを、娘は母の空言ではありながら薄気味わるくなって、母の寝たすきをうかがい、ひそかに戸をおし開けて夜の間に逃げ帰ったという話もあります。
 このような世間のありさまの恐ろしさは、みな人間のなすわざとも思われません。まるで、羅刹、阿修羅など悪魔のすむ国などが、このようなものではないかと思われ、死ねるものならば死んでしまおう、生きてつらい目にあう苦しさよりもと諦めましたが、天の助けか、わたしどもは藁を搗いて餅とし、葛蕨の根を掘って食い、いままでの命をながらえてきました。今年も先日の暴風に災いされて、農作物が被害を受けました。またも飢饉になるのではないかと案じられます」
 と泣きながら語って、別の道に去って行った。この話は真実であろうか、本当にありとあらゆる家はみな倒れ、ある家は骨組みばかりで、柱だけが立っているのを見ながら、過ぎ去った日の惨状をしのんだ。

 森田、山田、相野、木造を過ぎて、岩木川にでた。綱を引いてわたす船渡しである。この夜は五所川原というところに泊まる。

 菅江真澄が「あなめあなめ」と独り言を言った、その意味が分かるであろうか。小野小町伝説を知る人は承知であろう。このことについては項を変えて説明する。

2017年8月14日 (月)

想像するとシュールだ

 韓国が徴用工の像をソウル市内のどこかの駅前に設置したそうだ。どうやら日本大使館前の慰安婦像のとなりにも置く計画が進められているらしい。ソウル市内を走るバスの座席に、慰安婦像の等身大のレプリカが乗せられて市内を走り、ソウル市長がわざわざ視察しに出かけたという。

 いまにバス停や駅前に、つぎつぎに慰安婦像と徴用工の像が建てられかねない気配である。誰もそれに表だって反対できないのが韓国という国らしい。反対すればもちろん親日的売国奴と決めつけられて社会的に糾弾されることになるであろう。

 さらに像の設置がエスカレートすれば、各会社の門前の左右に慰安婦像と徴用工の像の設置が暗黙の強制となり、さらにさらにエスカレートして各家々の門前にも慰安婦像と徴用工の像を置くことが当然となるであろう。見わたすかぎりに像が建ち並ぶさまを想像するとシュールだ。

 それが韓国にとってどんな意味があると考えているのか、もはや理解不能である。そもそもどんな利益があるのだろう。利益は像の制作会社にだけはあるであろう。しかしチョコレート会社の思惑でバレンタインデーが盛り上がるのとは意味が違う。

 唯一明らかなのは、そんな韓国にまともな日本人は誰も行きたいと思わないだろうということだ。中国人の観光客も減少しているというし、韓国を訪れる外国人のリピート率は日本を訪れる客のリピート率と比べて格段に低いという。一度行くともう行きたくないという人がもう一度行きたいという人よりはるかに多いということだ。

 海外からの観光客が、慰安婦像と徴用工の像をずらりとならべた韓国を訪問して何を感じることだろう。反日を学んで帰ってくれると韓国の人びとは思うのだろうか。

 そのような像は確かに魔除けの効果があることは間違いがない。鬼畜である日本人を韓国から追い払う効果があるだろうから。

 いまに日本と商売をしている企業は、韓国で売国会社と非難されるかも知れない。それならそれを見越してそろそろ韓国に足場を置く日本の企業は撤収を検討する必要があるだろう。まともな会社ならたぶんもう準備は進めていることだろう。気がついたら韓国に日本の企業はいなくなるに違いない。魔除けの効果が出ることになるわけで、韓国にとっては願ったりであろう。
 魔物として韓国から退散した日本は、韓国なしで生きていかなければならないという試練をたぶん乗り越えることであろう。半島と無関係というのは有史以来なかったことであり、想像を絶する苦境であるが、案外なんでもないことかもしれない。頭を永遠に下げろ(何しろ「千年経っても許さない」、と大統領自らが公言している国である)といわれるよりは気持ち的に楽になる。経済的な損失とプライドは比べようがないけれど、お金のためにプライドは捨てられないのが矜持というものであろう。

内田武志・宮本常一編訳『菅江真澄遊覧記1』(東洋文庫64)

 東北地方などの海岸や峠で菅江真澄の石碑を何度か目にした覚えがある。どんな人なのだろうと思っていたが、数多くの日記体の紀行文を残していることを知り、一度は読んでみたいと思っていた。

 東洋文庫は本棚にけっこう並んでいるが、ほとんどが中国関係の本である。だから東洋文庫に菅江真澄の遊覧記が収められているのを知ったのは、百目鬼恭三郎の本で紹介されているのを見てからだ。あわてて東洋文庫の目録を確認したら全五巻で収められている。

 名古屋の大型書店や古本屋では端本しか見つけられなかったのでアマゾンで調べると、書店はばらばらではあるが全巻揃えられる。手配して入手し、先月末くらいから一日10頁くらいずつ楽しみながら読んだ。

 楽しめるけれど読みにくい。原文ではなく現代語訳されているので、読めることは読めるのだが、原文が擬古調のやまとことばにこだわって書かれていることと、やたらに歌(和歌)が散りばめられているせいかもしれない。なにより肝心なところにふりがながなかったりすると気持ちが治まらない。注も不要なところに詳しく、分からないところにはなかったりする。調べても分からなかったのか、当然知っているはずのことを私が知らないのか。

 それでも後半に入ると、それに慣れてきたせいか読み進む速度が上がってきた(ただ雑に読んだだけだが)。リズムがつかめた気がする。同じような時期に、同じように東北や北陸を歩き回った橘南𧮾の東遊記(東洋文庫では『東西遊記全二巻』に収められている)を比較のために読め始めているが、こちらは原文(正し現代仮名遣い)だが総ルビ付きで、原文なのに却って読みやすい。原文そのものが分かりやすいからかも知れない。こちらは日記体ではなく、項目別の小文を集めており、訪問先や時間順になっていない。旅で経験したり聞いた話、見たものを事項ごとに思いつくまま書き連ねてある。

 二つの紀行本を比較したかったのは、天明の大飢饉についての記述である。天明三年(1783)に始まり繰り返し全国を襲った飢饉は、特にみちのくに地獄の惨状をもたらした。

 あとで菅江真澄の遊覧記のその部分を一部紹介するつもりだが、彼は津軽まで歩き、そこから蝦夷地(北海道)に渡るつもりだったが、飢饉のために三年待つことになるのである。

 菅江真澄は三河地方(愛知県岡崎)出身らしく、もともと白井秀雄と名乗っていた。薬学者であり、医師であって国学にも傾倒して交遊した人は数多い。若い頃より各地を旅して歩いたが、31歳の時(天明四年)越後を経て奥羽地方へ旅立つ。そして75歳に秋田県の仙北郡で没するまで、ついに故郷へ戻ることがなかった。

 この本の冒頭は編訳者のひとり、内田武志による菅江真澄の伝記風の紹介である。内田武志は生涯を菅江真澄の研究にかけた人であり、血友病と闘いながらほとんど寝たきりのまま研究を続けた人だという(1980年死去)。名前を連ねている宮本常一は監修的な役割であったのかと思われる。

 菅江真澄は多量の文書を各地に残しており、紀行文も再三書き直している。それでも当然あるはずのものが欠けている部分があり、のちに発見されるものもあるので、研究は続けられているようだ。

 ここに挙げられている地名を元に、彼が訪ね歩いた神社や寺、旧跡をたどる旅がしてみたいと思っている。これから詳細をノートに作り直そうと思う。面白い。

2017年8月13日 (日)

バカなことを

 どんな動物も子孫を残すためにせっせと交尾に励む。たいていの動物はその発情の時期は限られているが、人間は年中発情が可能な特殊な動物だという。

 人間は子孫を残すためよりも快感を求めて行為するから、とめどがなくなりがちで、それをコントロールするために恥じらいという心の働きも備えている。

 「不倫」「不倫」と世間は喧(かまびす)しいが、欲望が人より強くてコントロールの甘い人間をやり玉に挙げて非難するのは古くからの大衆の大いなる娯楽である。

 勝手にすれば好いと思いながら、特に不快感を感じるのは、人のセックスをひたすら追いかけて、それをネタにして正義漢面をする連中である。人の下半身のことにばかり意識を集中させてそれを暴露することに夢中になる人間がいても需要があるからでかまわないが、それは下司である。レポーターというのはこの世の醜業の最たるものだと思うが、それが正義漢面しているのが不快なのである。

 またそれを話題にしながら得々と人のあるべき姿が論じられたりすると虫酸が走る。何のことはない、うらやましいだけではないか、などと思ったりする。知名度や金がある人間が不特定多数のお相手とのチャンスが多いことは確かだろう。金も知名度も優れた容姿もない人間がやっかむのは当然だが、それを人倫で論じるのは恥ずかしい。

 マスコミが多くの時間と経費を割いてそれを報じてコメントしているのを見るとバカではないかと思う。そしてそれをわざわざブログに書くのもバカなことであるのだが。

2017年8月12日 (土)

自家中毒

 自家中毒とは主に子どもに見られる症状で、食中毒のような嘔吐感を伴うことが多い。血中に脂肪が分解して生ずるケトン体という物質が多量に作られ、それにより代謝異常が起こる症状であるが分かっているが、なぜケトン体が多量に作られてしまうのか、明確ではない。過度なストレスがあると自家中毒が起こることが多いことが特徴である。心的要因が大きいのだ。多くはおとなになると共に改善する。

 これは本来の自家中毒についての説明だが、私には韓国の反日が自家中毒症状を引き起こしているように見えている。

 自国の国内に、国の屈辱の象徴である慰安婦像をつぎつぎに建て、日韓合意という、世界に公表されている国と国との約束を国民の気持ちが伴っていないという理由で反故にすることを当然として、マスコミも政界も盛り上がり、すでに戦時中のことは全て解決済みとした日韓条約も、個人の補償は別であるとして三菱重工を訴えた訴訟で、韓国の裁判所はその訴えを認めるというあり得ない判決を下した。

 朴槿恵の父親の朴正煕大統領の時代に結ばれた日韓条約では、当初日本はドイツにならい個別補償を提案していたが、韓国側がその補償は韓国政府が国家として行うので、国に賠償金を払って欲しいと要請されてそれを受け入れたという経緯がある。韓国国民の個別補償は韓国政府が行うと明記されているのだ。かわりに日本が韓国に残した施設や権益全てを放棄することで合意している。韓国はその賠償金で漢江の奇跡といわれる復興を成し遂げて今日がある。

 韓国映画『軍艦島』は事実と異なる部分が多い。確かに苛酷な労働があったことは事実だが、その時代の炭鉱労働とはそういうものだったし、朝鮮人だけがことさら苛酷な労働を強いられていたわけでもなく、また強制的に徴用されていたわけでもない。高給が得られることから自発的に働いていたのである。待遇は良く、日本の一般国民よりはるかに豊かだったのだ。

 この映画について問われた菅官房長官が「事実と異なる創作映画だと考える」と穏やかに答えたことに私は同意する。この映画ですら、韓国内ではマスコミも国民も声を揃えて「親日的な映画だ」と非難している。当時の日本人はもっとひどい人たちだったといいたいのであろう。その非難に対して、監督は「親日的とされるのは心外だ。この映画は骨の髄まで愛国・反日映画だ」と反論していることからも、誇張された反日映画であることが明らかなのに、韓国は親日と見做すのだ。

 日本がナチスよりも悪逆非道であったと思い込んでいるのが韓国なのだろうか。いや実はそうでもないらしいと気がついているらしい。だから韓国から日本に来る観光客はますます増加している。そうして自分たちが思い込まされていることが違うと感じているのだ。

 しかしそうなるとほとんどアイデンティティとして刷り込まれてしまった反日が崩れてしまい、精神の安定を失うことを恐れているのではないか。だから戦後70年を過ぎてますます反日が強化され、幻想が膨らんでいる。それを私は自家中毒と見做すのだ。すでに反日は日本が原因ではないのである。自ら生み出した毒で自らが嘔吐に苦しんでいる。韓国が反日で得るものなどなにもない。

 過去、韓国の反日に迎合、または助長する日本のマスコミもあったが、特殊な日本人を除いて韓国の反日にうんざりして相手をしなくなったのを見て、マスコミも迎合することが少なくなった。読者を失うのは身の破滅である。彼等の正義などそんなものである。

 日本が反論する気も失せて、相手にもしてくれなくなってきたことから、韓国の自家中毒はさらに悪化しているのかも知れない。皮肉なことに、日本でヘイトをする人間はある意味で韓国の自家中毒の解消に役立っているのである。何しろ反日の相手をしてくれるのである。だからヘイトは二重に愚かなのである。

 ところで中国は、伊藤博文をハルビン駅で暗殺したテロリスト(韓国では英雄)安重根の像を韓国に寄贈したそうだ。安重根の像はすでにハルビン駅前の安重根記念館に一体置かれていて、それと同じものらしい。これも日本大使館の前にでも置くつもりなのだろうか。この記念館はあの朴槿恵が反日を旗印に中国と異常に親密になったときに、習近平が建設を約束したものだ。

 その後中国は韓国がアメリカのTHAAD設置を認めたことに反発して情勢は一変し、事毎に韓国に対して嫌がらせをしているが、安重根の像を贈呈するような、韓国がよろこびそうなことをどうしてしたのだろうと思っていたが、韓国の自家中毒を悪化させるための、時間をかけた遠回りの悪意が秘められているのかも知れない。中国とはそういう国である。

 韓国の反日という自家中毒は言葉通り自分自身を蝕んで何の利も生み出さない。それでもそれに囚われているのは、北朝鮮の脅威、いまにも起こりそうな戦禍に対する恐怖から眼を逸らすためのものだ、という解釈もある。しかしそれは理由ではなく結果のような気もする。

2017年8月11日 (金)

楽しい呑みすぎ

 昨日は昼過ぎに車で息子が帰省してきた。朝、混むと思って5時頃に広島を出発したけれど、大事なものを忘れたので一度ひきかえしたために、結局渋滞にはまることになった。京都あたりではずっとのろのろ運転だったそうだ。

 愛車のアクセラをついに買い換えたという。白いロードスターだそうだ。盆休み中はマンションの来客用駐車場はくじ引きになる。くじ引きの日には用事でいなかったので、駅前の駐車場に置いてもらった。だからその白いロードスターをまだ見ていない。

 それでも昼過ぎにはやって来たので、二人で映画『レヴェナント 蘇りし者』を観た。ディカプリオ主演の凄まじいサバイバル復讐映画だ。映像が素晴らしい映画だという評価は承知していたので、見るのを楽しみにしていた。私も息子も大自然の映像の素晴らしさと、描かれるドラマのすさまじさに圧倒された。大迫力の素晴らしい映画だ。

 ディカプリオはもともと好きではない。ところがいい映画に出ていることが多いので、ずいぶんの本数を観ている。俳優として素晴らしいからオファーもあるのであろう。この映画でディカプリオの評価を「好き」に変えることにした。それだけの映画である。

 そのあと息子と呑んだ。つまみは居酒屋風に品数を揃える献立にした。シシトウの醤油煮、オクラのおかか醤油和え、真鰯の煮付け、厚揚げの煮物、息子のみやげのママカリの酢漬け、玉葱と挽肉のパイ風卵とじなどである。酒はビールのあとに、広島から息子の持参した「雨後の月」ブランドの純米大吟醸「吟風咏月」と云う酒を飲む。フルーティな酒である。フルーティすぎるくらい香り高い。「雨後の月」は広島の飲み屋では「賀茂鶴」より一般的な酒だそうだ。知らなかった。

 話がはずんだのでとめどがなくなり、そのあとジンレモンの炭酸割りをぐいぐい呑む。息子の瞼が次第に降りてきて、半分寝た状態で私の話を聞いている。先に寝せる。疲れたのであろう。長時間運転にか、私の長話にか知らないが。

 私はそのあとも燗酒などを飲んでしまった。おかげで今朝は少々酒が残ったが、楽しい酒は二日酔いにはならないのが不思議だ。

 息子は夕方から豊田の友人と合流し、泊めてもらったあと明日から北陸へ小旅行に行くといって出かけた。若いから元気である。帰ってくる頃には娘のどん姫もやってくるので、また酒盛りなのだ。

2017年8月10日 (木)

昨日は

 昨日、旅行会社との打ち合わせ中に、携帯に宅急便から届け物の連絡があった。果物なので今日中に届けたいという。別に用事もあったが、急ぐことでもないのでそのまま帰宅。間もなく荷物が届けられる。

 弟から梨が送られてきた。早めに出来る幸水である。さっそくむいて食べてみると果汁たっぷりでとても甘い。弟が帰宅する頃合いを見計らって礼の電話をする。この梨のお礼がなくても電話しようと思っていたところである。

 昨日は母の命日なのだ。一昨年の8月9日の夜明け前、私の兄弟たち、そしてその子どもたち、さらに孫たち(母にとってはひ孫たち)が見守る中で母は最後の息をひきとった。

 すでに三回忌は済ませてあるが、盆にはお坊さんがきて経を上げる。今年は行けないことなどを弟に伝えたかったのだ。妹の家族は来るという。弟の家族の消息などを聞く。互いに酒を飲みながら話しているから少し長くなる。

 盆があけたら8月末には遠出をする予定であり、その足で弟の家に泊めてもらうことにする。そのときに両親の墓参りをするつもりだ。弟の家族は盆明けに大洗や那珂湊などに一泊旅行に行くという。

 間もなくわが息子がやってくる。

テレビ三昧(2)

 少し前のWOWOWドラマ『山のトムさん』。原作は石井桃子、あの名作『のんちゃん雲に乗る』の作者だ。映画化されたときの主役は鰐淵晴子。子どものときに見たので詳しいことは覚えていないが、母親役は原節子だった。『山のトムさん』のトムさんとは猫のことである。作者と覚しき主人公ハナ(小林聡美)は東京暮らしをやめて、娘と二人で田舎暮らししている友人(市川実日子)の元で暮らし始めている。そこにハナの甥のアキラが加わり、四人の暮らしが淡々と描かれていく。

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 あの『パンとスープと猫日和』のスタッフと出演者が作ったドラマであり、脚本が群ようこ、音楽が大貫妙子であるからその雰囲気が分かろうというものだ。盛り上がりはほとんどない。そのふんわりとした世界を楽しむか、何だこれは!と思うか、評価は人によって大きく別れるだろう。私は猫が好きだし小林聡美が好きだから自然体の演技を見ているだけで気持ちが好くて癒やされた。

 台詞も観客に聞かせるような気配を完全に絶ち、ただ普通に暮らしているなかでの会話になっている。市川実日子のクールなやさしさが見るたびに好きになっていく。もたいまさこが田舎の雑貨屋の女店主で出演しているが、いてもいなくても好い存在を、楽しそうに演じている。この人が空や彼方の山をぼんやり見つめる立ち姿が好い。

 ほとんどなにも事件らしい事件が起きない(アキラが面倒を見ているヤギが逃げたして、近所の畑を荒らすという事件はあるが、それもそういうことがあったというだけであり、激怒したというその人達は登場しない)ドラマの極地の作品だった。田舎暮らしに対するあこがれはあるが、自分のペースで生きられるとはいえ、生き物相手であるからサボることが許されない日常を引き受けるのは、怠け者の自分には無理かなあ、などと思う。

 そういえば、彼女たちの暮らしを取材にきた女性記者が、手伝うというのでお米を研ぐシーンがある。何と彼女は泡たて用の攪拌棒でお米をかき混ぜていた。これで二人の子どもを持つ母親だというのだ。たぶん石井桃子の体験した実話ではないか。松居一代なら、グッジョブというかもしれないが、主人公達はあっけにとられていた。

 これもWOWOWのドラマ『人質の朗読会』(2014)。原作は小川洋子。小川洋子と云えば『博士の愛した数式』を思い出す。これは映画化され、寺尾聰と深津絵里が出演していた。不思議な小説を書く人で、短編集を持っているが、まだ完読していない。『人質の朗読会』には久しぶりの大谷直子が出演している。

 ラジオ局の記者(佐藤隆太)は、尋ねてきた女性(波瑠)から録音データを託される。南米でテログループに日本人が襲撃されて人質になり、監禁され続けるのだが、その様子を盗聴していたときのテープから起こされた音声データであった。

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 人質たちはどのような日々を暮らしたのか。やがて人質のなかに作家がいることから、気力が萎えるのを奮い立たせるためにそれぞれの人の心に強く残っている出来事を文章にして、それを順に朗読するという試みを始める。

 こうしてその出来事を通してそれぞれの人間の人生が、つまりその人そのものが描かれていく。本当に人の人生はさまざまである。この人質のなかに女性(波瑠)の母親(大谷直子)がいたのである。

 ラストに記者(佐藤隆太)はこの盗聴を続けていた兵士のひとりに会いに南米まで出かけていく。ここで渡されたものは、プロローグで兵士が拾い上げた文字の書かれた一枚の板だった。人質たちは政府軍の強行突入の際に全員亡くなっているのである。彼等は死んだが残された音声データは彼等の生きた証として残されたのである。人が生きたということの意味を考えさせられた。

2017年8月 9日 (水)

慣れたのか

 毎年友人達と三人で海外旅行に行く。弥次喜多道中だが、気の置けない仲間なのでこの上なく楽しい。今年は私が幹事で中国の雲南省へ行くことになっている。旅行会社からようやくほぼ手配が完了したとの知らせがあり、最終確認の打ち合わせのために夕方名古屋駅前の旅行会社へ行った。

 三時過ぎの日盛りに出かけたので、最初は熱気で顔が膨れるような気がしたけれど、思ったほどはげしい汗はかかなかった。暑さにようやく身体が慣れたのかも知れない。

 旅行の件もこれで一段落したし、家庭裁判所の審判もこちらから異議を申し立てするような結果ではなかった(おおむねこちらの言い分が認められた)ので一段落である。明日には息子が帰省してくるので、いろいろな用事が片付いて良かった。あとは部屋の片付けと掃除、そして酒の肴の買い出しである。明日の午前中にやることにしよう。

 明日の晩は息子とゆっくり飲める。嬉しいなあ。

 ところで旅行会社の窓口になってくれたお姉さんは、私と誕生日が一緒だそうだ。「初めて誕生日が同じ人と会いました」と嬉しそうに言うのでこれらも嬉しくなった。私はほかに二人同じ誕生日の人を知っている。

自分では分からない

 しばらくぶり(と云っても数日ぶりだが)に「ひるおび」を観ていたら、キャスターの恵俊彰がますます気になりだした。以前からレポーターやコメンテーターの言葉に自分の言葉をかぶせる傾向があったけれど、それがますますひどくなっている。特に出先のレポーターの言葉は技術上ワンテンポずれるから、少しだけ待たないと会話が成立しない。そんなことは長年キャスターをやっているから恵氏も承知のはずだが、ほとんどメチャクチャである。

 お笑い出身(もちろんホンジャマカとしていまも現役)ではあるが、お笑いの突っ込み役をキャスターとしてもやっているつもりなのだろうか。この番組は昼の時間帯としては最も人気が高いらしいけれど、最近だんだん批判が多くなり、視聴率も下がり気味だという。コメンテーターに落語家や赤ちゃんしゃべりの女流作家など、わけの分からないことをいい、見るに耐えないのが並んでいたりして、私が観るのをやめることにした理由でもあるが、番組自体がかなり劣化しているようだ。もともと恵俊彰自体は嫌いではなかったのにどうしたことか。本人には自分の状況は分からないのだろうか。

 外は猛暑だが、出かけさえしなければクーラーの効いた部屋のなかにいるから快適のはずである。それなのにボーッとしている。スランプで集中力を欠いているらしい、などと自分で言い訳している。なにかが空回りしている気分なのだ。しかし、待てよ、と思ったりする。そもそもボケの始まりとはこんな空回りなのではないか。集中力を失い、世の中を紗のカーテンを通して見ているような実感のなさというのは、まさに脳の働きの衰えなのではないか。

 自分では分からない。

やることがあるのに

 やらなければならないことがあると、それではないことに夢中になる。ふだんはそれほどでもないのにやめられなくなる。

 まにあわなくなりかけてあわててやらなければならないことをやるからやっつけ仕事になる。考えたらむかしからそうだ。親にせかされれば「いまやろうと思ったのに!」と決まり文句を言ったものだ。

 いまはせかしてくれる誰もいない。

2017年8月 8日 (火)

テレビ三昧(1)

 眼の調子が少し回復してきたのでテレビを観る。暑くて出かけるのが大儀なので家でゴロゴロしてテレビを観る。頭が空回りして、本を読む集中力がなくなっているのでテレビを観る。家の中の片付けや掃除などの雑用をしなければならないと思いながら、その気にならないのでテレビを観る。

 とはいえ普通の番組はCMだらけなので観ない。最近はNHKまで番宣という名のCMが氾濫し始めた。だからリアルタイムで観るのはNHKのニュースくらいで、ほとんど録画してから不要部分を飛ばして観る。これでかなりの時間の節約になる。それだけ無駄な部分が多いということだ。
 
 『相棒』シリーズや『科捜研の女』シリーズをだいぶ消化したと思ったら、再び連日の再放送である。すでに観たものもあり、観ていないものもある。観たものかどうか実際に観てみないと分からない。始まってすぐ判断がついてすぐ消去することもあるが、このシリーズはたいてい面白いので、そのまま観ているとつい一度観たものでももう一度最後まで観てしまう。これではきりがないのである。

 WOWOWの海外ドラマは韓国もの以外はたいてい面白いが、今は録画するものをとことん絞り込んで『リゾーリ&アイルズ』のラストシーズンのみにしている。NHKのドラマもいまは単発以外は全て録画しないことにしている。『伝七捕物帖』の第2シーズンは田中美佐子が出ているから観たいけれどこれも断念した。

 こうして何とか古い録りためたドラマや映画に取りかかれるようになったところである。藤沢周平のドラマなどを立て続けに観た。BSフジの『遠いしあわせ』『冬の日』『果たし合い』など、なかなか配役も良いし出来もよくて楽しめた。現在は山本周五郎の原作を毎週放映しているけれど、配役がお粗末で出来も悪く、最初の頃は我慢して観ていたけれど、時間の無駄なので観るのをやめた。

 同じく北大路欣也の『三屋清左衛門残日録』も良かった。原作は藤沢周平の作品の中で私が一番好きなものである。NHKは以前これを『清左衛門残日録』としてシリーズで放映していた。こちらは仲代達矢主演でみさ役のかたせ梨乃が良かった(北大路欣也版では麻生祐未)。私はNHKの仲代達矢の方が原作のイメージに近い気がして好きであるが、北大路欣也も悪いわけではない。

 思えば大好きな北原亞以子の『慶次郎縁側日記』シリーズも隠居老人の話である。NHKでドラマ化したときは高橋英樹が慶次郎を演じていた。上に上げた『果たし合い』でも主人公(仲代達矢)は隠居老人のようなものである(この場合ちょっと違いはある)。これらの初老の主人公が、自らの衰えとたたかいながら次第にそれを受け入れていく姿に共感を感じている自分がいる。同時に衰えたりといえど立つときは立つという気概は失わないところにも感動するのだ。

 そういえば、父はよく口ぐせのように「死してのち已む」と云っていた。 
(つづく)

美人

 顔の造作が整っている人は美しい。出来れば肌もきれいであれば申し分はない。美人は三日見ていると飽きる、などといわれるが、飽きるのは理由があると思う。

 あまり整いすぎている美人は冷たく見える。微妙なアンバランスがありながら全体として調和していたりすると魅力が加わる気がする。人の顔が決して左右対称ではないのはじっと見ていると分かることで、真ん中に鏡をおいて右も左もまったく同じだったら、もしかしたら気持ちが悪いかも知れない。韓国の整形美人は、確かに整っているけれど、少し気持ち悪く見えるのもそんな理由だろうか。本来自然であるはずのものが人工的だと違和感を感じるのだろう。

 顔のかたちそのものが整っているかどうかは本人の責任ではないが、かたちとして美しい人がそれほど美しく感じられないで、美人ではない人がとても魅力的で美しく見えたりする。これは写真では分かりにくい。

 人には表情というものがある。本人の反応が表情として顔に表れる。それが活き活きとしている人は美しい。計算ずくの媚びというのもあるけれど、計算ずくに見えさえしなければそれは魅力である。

 若いときには見た目の美しさに目が行って、表情の魅力に気がつきにくかった。いまは活き活きとした表情の女性に美しさを感じる。若いときにそうだったら良かったなあ、と思ったりするが、結果は変わらないだろう。昔も今も見るだけである。

 先日『サワコの朝』でギタリストの村治佳織さんの美しさに目を奪われた。彼女のグラビア写真をたびたび見て、美しい人であることは知っていたけれど、映像としてみたのは初めてだ。表情の輝きを感じて本当に美しい人だと思った。

 女は愛嬌、などというと矢が飛んでくるかも知れないけれど、どう言われても愛嬌のある女性こそが美人であり、当人にとっても回りの男にとっても幸せであることは揺るがない真実のように思う。

 それは松居一代や泰葉を例に出すまでもあるまい。

風が涼しい

 昨晩の台風は台風らしい台風であった。あけがた、窓を開け放つと北側からの吹き戻しの風が強く吹き抜けていく。久しぶりに朝の風が涼しいと感じた。今朝は富山あたりでまだ活躍しているようだ。

 台風がいつまでも衰えないのは、海水温が高いことでエネルギーが日本に近づいても供給され続けるからだという。それならば温暖化が止まらない限り同じようなことがおきる。台風の発生する場所がだんだん日本に近いところに移っているようでもある。日本は次第に亜熱帯化しているのだろう。

Dsc_0196 石林

 昨夕旅行会社の女性から電話があった。観光先とスケジュールを決めて依頼していた秋の雲南省の旅行の最終予約の連絡が、まだ現地の旅行会社から来ないのだそうだ。こちらが連絡がないことを気にしているだろうと察して電話をくれたらしい。何度か打ち合わせで会っているので台風を話題にして互いに軽口をきく。ころころと明るく笑う彼女の声を聞いてなんとなく気分が晴れた。

 そういえばしばらく誰とも口をきいていなかった。ふだんなら盆前に小旅行くらいに行って、旅先で見知らぬ人と会話をするところだが、ちょっとした雑用がランダムに続いていたのでずっと家にいる。おかげで金がほとんどかからずに暮らしているのは好いのだが、もの言わぬは腹膨るるわざ、という通り、物理的にも精神的にもたまらなくてもいいものがたまっている気がする。子どもたちの来るのが待ち遠しい。

Dsc_0305 麗江にて

 旅行といえば、海外に行っても日本食を求める人がいるようだが、私はずっと現地食が続いても平気である。特に日本食が食べたくなったりしない。これが現地駐在ということになれば話は別だろう。仕事で中国の日系企業に勤める人を訪ねたことがしばしばあったが、よく日本食の店で会食することを希望された。たいてい一人か二人で頑張っている人が多かったから、日本語で会話して日本食を食べるいうことがとても嬉しいことなのだと言われた。

Dsc_0426 玉龍雪山

 旅行や出張でする食事と、現地駐在で食べ続ける食事は違うようである。あまり食べるものにこだわらない私でも、食べられないと思えば懐かしく思い、食べたくなる日本食というものもあるかもしれない。友人達との旅行ではまず日本食を食べない。誰も日本食が食べたいなどといわない。それが平気な連中だから楽しいともいえる。何しろ精一杯異国を楽しみ、里心を忘れることの出来る元気ななかまであることがありがたい。

 雲南省は中国の田舎料理ばかりで、素朴だがやたらに辛いものや塩っぱいものはないから結構いける。海の魚がないのは仕方がないが、なければないでもかまわないのだ。いまガイドブックを眺めて楽しみの予行演習をしている。

2017年8月 7日 (月)

台風近づく

 ここ、名古屋の北でも朝から雨が断続的に降っていたが、昼頃から強い雨に変わってきた。昨日から風は梢を揺らし、その揺らぎ方も強くなってきた。これから急激に強くなるおそれがあるという。

 テレビの台風情報を見ていたら、わが街にも避難準備警報が出された。私の住むマンションの周囲はもともと田んぼだったところであり、川(新川)からも近い。豪雨のときには水が新川の堤防を超えることがある。川に近い人は万全を期して非難した方が良いだろう。

 実際に何度か川の周辺で洪水被害があったけれど、住まいのマンションはいままでまったく大丈夫であったし、場所的に駐車場も冠水することはないと思う。

 それよりも心配なのは停電である。むかしはこういうときに停電することがあったものだ。いまはめったに停電などしないけれど、何でも電化されているから、万一停電すると大変だ。この暑いのにエアコンは使えないし、テレビを見ることも出来ない。電灯がつかなければ夜は食事の仕度も出来ない。冷蔵庫が停まったら大変だ。マンションの水道も電気が止まるとタンクからの給水が出来ないはずだ。

 そういえば将来ガソリン車は禁止になって電気自動車になるというが、発電所に何かあったら自動車はいっせいに使えなくなるわけである。そのときはどうするのだろか。ガソリンなら運べるが電気は緊急車両で運ぶことも出来ない。電源車が活躍することになるのだろうか。それは想定されているのだろうか。

 不謹慎ながら、子どものときのように天変地異にはちょっとわくわくするところがある。ときどき強い雨を窓越しに眺めながら、いっそのこともっと降れ、などとちらりと思ったりしている。

この違いはなぜか

 朝日新聞の行った世論調査によると、安倍内閣の支持率は内閣改造前が33%、改造後が35%とほぼ同じ、横ばいであった。これだけ読めば、そうなのか、と思うばかりである。当然紙面ではすでに安倍内閣は信頼を失い、改造したところで変わらないと述べられていたことであろう。

 ところで、すでに朝日新聞以外の各メディアの、内閣改造前後の内閣支持率の調査も発表されている。そこでは、軒並み内閣改造後に10%弱の上昇(改善)が見られている。驚くべき違いである。この違いはなぜか。

 朝日新聞の読者は、安倍内閣をもともと支持しない人が多いからだろうか。しかし改造前の支持率33%はほかのメディアとあまり違わないのである。あれだけ安倍政権の非を鳴らす朝日新聞であるけれど、読者はそれほど偏っていないようである。

 しからば考えられるのは、朝日新聞が内閣改造そのものを評価しない論調であっただろうということである。紙面で代わり映えしない、弥縫的である、好戦体質や腐敗構造を隠蔽するための内閣改造だ、と謳っていたのではないか。それならば内閣改造前後で支持率は変化しないのは当然である。

 紙面を見て言っているのではないから無責任な想像である。しかし他紙とあまりに違うらしいので不審に思い、理由を考えた次第である。朝日新聞を読むとそれだけ違いが出るならば、朝日新聞の今回の内閣改造批判は成功したのである。読者は朝日新聞に影響されたのである。そのことを朝日新聞購読者は認識しておいた方が好いように思う。余計なお世話かも知れないが。

2017年8月 6日 (日)

絶体絶命

パソコン上で猫に取り囲まれ、絶体絶命のネズミ。

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 世界は魑魅魍魎で満ちている。

 子どもたちが小学生の頃から、私は男手ひとつで子どもを育てることになった。彼等のために結界を張り、城壁をめぐらせた。城壁の内部は安全地帯であり、外部の魑魅魍魎から子どもたちを護る。

 やがて城壁は子どもたちを護るものであると同時に、閉じこめるものでもあることに成長した子どもたちは気付いていく。

 息子は城壁を見上げ、そこらのがらくたを積み上げて坂とも階段ともつかないものを作り、それをよじ登って城壁を越えていった。

 娘のどん姫は物理的な行動をとらない。魔道士として空間を歪め、そこに裂け目を作りだして壁を抜けようとした。城壁は父親である私自身である。空間を歪め、破壊することは私にとってダメージであるから修復に努め、どん姫との戦いが始まった。

 やがて私が白旗を揚げ、城壁に出口を設けた。彼女は傲然と胸を張って出て行った。

 彼等が盆休みで帰省する。

 息子は勇者となり、私の城壁を軽々とまたぎ越えて自分の居場所に腰をおろし、私に外界での冒険談を語る。

 どん姫は、いまは彼女が自由に出入りする出入り口から私の世界に戻ると、居心地の良さそうなところに横になり、安心しきった猫のようにすやすやと眠る。

2017年8月 5日 (土)

夏祭り

 本日はこれからマンションの夏祭り。600所帯2000人を超える少し大きなマンションなので、夏祭りもけっこう盛大なのである。夜店もいろいろ出るし、催し物もあって参加者も多い。住人には若干の割引券の配布もあるので、小生も生ビール二、三杯とヤキトリなどを楽しむつもりである。福引きもあるけれど、これにはエントリーしない。福引きがあるのがけっこう遅い時間なので待っていられないのだ。楽しみにしている人も多いし、景品はけっこう豪華なのだが・・・。

 自治会の主催で、実行するのはとても大変なのである。何年かに一度それに参加しているのでよく分かるが、それでも人出が多いと嬉しく楽しいものだ。だいたい収支とんとんになり、ご苦労様の一杯ぐらいは飲める。

 毎年子どもが喚声を上げて楽しんでいるのがよろしい。子どもがわくわくするようでなければ祭りとはいえないのだ。

 さあ無粋なカメラなど持たず、涼しい恰好で出かけようか。

「間違っている」のか「違っている」のか

 久しぶりに夜八時からのBSフジプライムニュースを見た。これはバラエティニュース番組ではない。昨晩は韓国の慰安婦問題の現状と韓国の新政権が今後日本に対してどのような行動に出るのか、新しい安倍政権の河野太郎新外相は韓国でどのように報じられているか、などについて報じていた。

 コメンテーターとして、韓国に詳しい木村氏という学者の人と韓国の学者らしき陳氏という人が座っていた。木村氏は穏やかに韓国での自分の調査に基づいた事実をもとに語っていたが、あの日本から提供された10億円を慰安婦に渡すための組織の理事をしているらしい陳氏は、観念的な言動が多いように感じた。

 ここで陳氏が語った言葉が気になった。キャスターの反町理氏が韓国の報道や日本の報道を伝えた上で、それについて質問をするとしばしば「それは間違っています」とまず言うのだ。その報道が事実と違うという意味なのか、それを取りあげるキャスターの反町氏の受け取り方が間違っているというのか、その根拠を語るのかと思って聞いていると、ほとんど理解不明のコメントが語られて話題のすり替えに転ずることが多く、非情にイライラした。反町氏もしばしば頭を抱えたり、苦笑させられていた。

 木村氏が一生懸命取りなして、なぜ陳氏がそういうのか、と云う説明を加えるのだが、それに対しても「間違っている」というのである。では何が正しいというのかは最後までよく分からなかった。

 途中で、陳氏の「間違っている」というのは、「それは私の認識と違う」という意味らしいと分かってきた。その「私の認識」というのは、彼によれば「韓国の人びとのほとんど大多数の人の認識」でもあるらしかった。縮めてしまえば、韓国の大多数の人びとが思うことと違っていればそれは「間違い」なのである。

 日本の安倍政権はもちろん、日本のマスコミも日本国民の大多数もそういう意味で「間違って」おり、それは正さなければならないことであると確信しているらしいのである。前後の話の様子から、陳氏はたぶん韓国内でも日本寄りと見られているらしく思われる(げんに日本語で普通にしゃべっているほどである)。その陳氏をもってしてこの思考様式であるということは、多くの韓国人がそれがおかしなことだと気がついていないと言うことではないかと感じさせる。

 人はそれぞれ違う。違うからさまざまな意見があり、考えがある。自分と違うから間違っている、と云う思考様式は一種の信仰であり、教条主義と近く、理性的なものとは到底いえない。異なる意見を聞いて互いにその違いを知ることで新しい認識がうまれる。自分が正しいから、自分と違う意見である相手は間違っているという論理はおよそ私には受け入れがたいものである(まともな人なら皆そうだろう)。

 個別の話もあるが、一つだけ強く記憶に残ったことがある。韓国は政権が交代すると一時的に日本と融和的な態度をとるが、政権末期で支持が衰えると支持率回復のために反日を煽る傾向がある、と反町キャスターが語ると、陳氏が「それは間違っている」と指摘した。

 韓国の80%以上の人が反日であり、政権が反日を煽ったからといって反日が増えるようなことはない。支持率は一時的に回復しても3%程度だということはいままでの事実が示している、と陳氏はいう(これには事実誤認の疑いがあるが、彼はそう断言する)。反日である韓国国民は岩盤だから反日を煽られても、いまさらなのだといっているのであれば、そもそも日本と韓国は融和がほとんど不可能だ、と言明しているようなものなのである。それが事実だとすれば、まことに日韓の関係修復の努力は不毛であり空しいものだということになる。

 では陳氏は番組の中で、なぜ安倍首相の謝罪を繰り返し強く要求したのだろうか。それをしないと日韓の関係改善は始まらないというが、そもそも改善は不可能だと自分で言っていたのではなかったのか。謝罪には意味がないから謝罪はしないであろう安倍首相を非難することで、日本との現在の政治的敵対関係を維持し続けることこそが韓国の目的になっているようである。不思議な行動であって、韓国になにも利益を生み出さないどころか、不利益となっていると思う。

 私のこのような受け取り方は「間違っている」のに違いない。韓国は不可解である(不可解だから面白かったりして!)。

連絡があった

 昨晩息子から10日に帰省する、と連絡があった。用のあるときしか連絡をしてこないのは、こちらをまるで心配していないからだろう。まだ心配するような状態ではないと安心しきっているのだ。それはそれでかまわない。向こうも父親に特にぼやくほどの心配事がないのであろう。有難いことである。

 五月の連休以来久しぶりに顔を見る。会うのが楽しみだ。どん姫にも息子の帰省日を知らせたから合わせて帰ってくると思う。しばらく家の中を放置しているのでだいぶ散らかっている。片付けなければいけないけれど、一度にするのは無理だからボチボチやろうかと思う。ふだんの横着のツケがこういうときに祟る。


 民進党の細野豪志氏が離党するようだ。私は民進党に批判的な立場だけれど、何人か一目置く議員もいる。そのひとりが細野氏で、党内にも人望があると思っていた。ところが彼の離党に同調する議員はいまのところいないという。そのことに民進党の有志の覇気のなさを感じた。

 離党して新党の結成をもくろむというが、そのときには同調する意欲のある議員が出ると期待したい。寄らば大樹の陰というけれど、いまはもう民進党は寄るべき大樹ではないと思うがどうだろうか。これが解党再生の一歩だったとあとでいわれるようなものになれば幸いである。

 そのときには合流を受け入れる議員の選別を厳にして欲しいものである。市民運動上がりの正義の味方は加えないで、日本のため、日本の人たちのために働こうという人たちの集まりであって欲しいものだ。時間はかかるだろうが、志を失わずにいて欲しい。若いのだから時間はある。時間をかけてよく勉強し、力を蓄えてもらいたい。

 民進党は枝野氏と前原氏が党首に立候補するようである。枝野氏はあの原発事故の時の悪い印象が拭いきれない。当初は汗をかきながら一生懸命やっているように見えたが、実は菅直人首相(当時)と組んで真実隠しに汲々としていたことが次第に明らかになっていった。

 国民に真実を知らせるのは不安を与えるからまずいと判断したようだが、それが本当に社会不安を抑えるためだったのかといえば、真実が明らかになるにつれて「実は・・・」という話が続出し、かえって社会不安の元となったように見えた。枝野氏は国民を愚民と見做す感直人氏と同じ認識の人物に思えた印象が拭いきれないのである。そういうつもりで見るから、安倍政権を非難する口調が、口先で相手をののしるだけの徒に見えてしまう。

 まだ前原氏の方がまともに見えるけれど、彼には党内での人望がないように見える。彼の考えはそもそも民進党の左派とは相容れないものだ。しかしながら今回は人望がなくても民進党の危機であれば党首になることが可能と計算したのであろう。確かに十分勝機があると見える。とはいえ党首選に勝つためには意見のまったく異なる議員達を味方につけなければならない。それは迎合である。ここで迎合することは民進党の本質を抱えたままにしておくことで、民進党の寿命を縮めることでしかないかもしれない。

 勝っても負けても前原氏は苦難の道を歩かざるを得ないだろう。それをしたくないから細野氏は離党したのかも知れない。

 それにしても党の危機的状況だというのに、党首選は9月だというから恐れ入る。党を立て直すのは一刻も早いほうがいいと誰も言い出さないのだろうか。この空白の長さは国民からの期待をさらに失う冗漫な一ヶ月になるかも知れないと感じないのだろうか。その鈍感さに驚いている。

2017年8月 4日 (金)

晴らしようのない恨み

 八月といえば広島、長崎の原爆投下、そして終戦の記念日が再びやってくる。戦争のことを考える。

 古来終わらなかった戦争はない。だから戦争は始める前にも戦争中にも、戦争が終わったときのことを考慮しなければならないのは自明のことである。だから戦争当事国は趨勢が判然としてきたら手打ちを模索する。趨勢が明らかなのに手打ちをしないと敗勢側の被害は甚大となり、惨禍は取り返しの付かないものになり、恨みが大きくなりすぎる。

 恨みが大きくなりすぎれば雌伏して再び相手を倒そうとひそかに牙と爪を研ぐことにつながることになる。古くは中国の古代、呉越の戦いなどを思い出させるし、新しくは第一次世界大戦後のドイツがある。ナチスドイツがなぜ台頭し、第二次世界大戦が起きたのか。

 戦争は負けたほうが勝ったほうを恨むのが普通である。だから戦勝国はその敗戦国の恨みを如何に巧妙に和らげるかに腐心する。敗者側の戦死者を鎮魂するのは古来から行われる大事な儀式であり、それは欠かすベからざるものである。死者は祟るのである。

 太平洋戦争で、日本は戦争が終わったあとのことを考えていなかったといわれる。まったく考えていなかったとは思えないが、終戦に至る前の無意味な時間の浪費は、なにも考えていなかったと譏(そし)られても仕方がないものであった。空襲、沖縄、そして原爆と兵士ではなくて一般市民が無辜に大量に殺されるという事態を招いた責任はとても重い。

 殺したのは連合軍であり、アメリカ軍である。しかし進駐軍は賢かった。東京裁判という方法で戦争責任を問い、戦犯に戦争の責任を負わせた。日本国民は戦争の惨禍を恨むならその責任は戦犯にあるとしたのである。だから日本国民のアメリカに対する恨みはあれほどの一般市民の大量殺人があったにもかかわらず、少ない。それにアメリカにさいわいしたのは日本人はとてもあきらめが良いことだ。

 自己責任をこれほど引き受ける国民は少ないのかも知れない。先進国の中で自殺率が高いのもそんなところに理由があるのかもしれない。ただ、最近は人のせいにすることを当たり前だと洗脳するマスコミに影響されて、だいぶ変わってきているようだ。自殺も減っている。

 言いたいのはここからである。

 戦勝国は敗戦国を恨まない。それなら中国は日本に勝ったと言っているから戦勝国であるのになぜ日本を恨むのか。理由は二つあると思う。日本は連合国に負けたのであって、そもそも中国は日本に勝ったわけではないということ。つまりある意味で中国は日本に対してほぼ敗戦国である状態のまま宙ぶらりんで独立してしまったから、敗戦国として日本を恨み続けていると考えることも出来る。

 そもそも戦後、中国を建国した共産党があまり日本軍と戦わなかったことは歴史的事実である。主に戦ったのは蒋介石の国民党軍だったのである。人民解放軍は来たるべき国民党との戦いのために兵力を温存し、日本が敗戦と決まったときにいちはやく日本軍の兵器を接収して兵力増強に努めている。

 建国の歴史として中国憲法の冒頭に掲げられている日本に戦勝した、という歴史認識に無理があると思うのは私だけではないであろう。

 それ以上に大きな理由がある。戦勝国は敗戦国に巨額の賠償を求めるのが古来からの戦争の手打ちの条件である。だから戦勝国は敗戦国に恨みをあまり持たないものなのである。償わせた、と云う思いが恨みを和らげる。

 ところが中国は日本に賠償を求めなかった。周恩来は請求を放棄したのである。これは結果的に中国にとって大きな利権と中国共産党の建国の歴史の正当化に寄与した。戦勝国であることを謳い、同時に恨みを持ち続けて日本を非難し続けることを可能にした。

 日本は敗戦国でありながら中国に恨まれ続けという奇妙な立場に追い込まれたままになっている。これは再び中国と戦火を交えて雌雄を決し直さない限り解消しないものだが、それはとうていあり得ないことでもあり、ずっとこの状態が続かざるを得ないらしいことに絶望感すら感じる。  

 ところで韓国である。韓国と日本は戦争をしていない。日本と戦ったと主張するのは金日成だけで、日本軍と戦った韓国軍など存在しない。韓国は日本と共に連合国と戦った国であり、そういう意味では敗戦国である。敗戦の恨みを抱くとしたら連合国に対して抱くべきであろう。それが日本に恨みを抱き続けることの破綻した論理性の中にこそ韓国の矛盾がある。

 韓国が独立したのは自力ではない。日本が敗戦で撤退して茫然自失した中で、アメリカに亡命していた李承晩を連れ戻して傀儡政権として連合国が独立国として作り上げた国だ。どんな植民地でも独立のための戦いを経て独立しているのに、韓国にはそのような歴史がない。

 韓国は日本に負けて植民地になった、日本に敗戦したという歴史を作り上げて日本を恨んでいる。日本は韓国と戦ったことなどないからどうしてそのような恨み方をされるのか理解に苦しむが、韓国では子どものときからそのように教え込むから、戦わなかった戦いの敗戦の恨みを刷り込まれている。

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 韓国がその恨みを晴らすためには日本に戦いを挑み、日本を打ち負かし、日本を韓国の植民地にすることが必要である。だから韓国の日本に対する恨みは現実をはるかに超えた深いものであり、その恨みを晴らすことは叶わず、永遠に日本を恨み続けることになるのであろう。

 中国の場合は共産党政権が倒れたときに日本に対する恨みが解消する可能性がある。そもそも中国国民に、日本に対する恨みがそれほど根深くあるようには私には思えない。しかし韓国にはそのようなきっかけが見えない。隣国とはなかなか仲良く出来ないものだと言うが、これほど絶望的に不仲の要因を抱え込んだ隣国というのも珍しいのではないだろうか。

 以上の妄想的な私の歴史認識から考えるに、韓国の反日は永遠に解消しないだろう。

2017年8月 3日 (木)

映画『あなたその川を渡らないで』2014年韓国映画

 監督チン・モヨン、出演チョ・ビョンマン、カン・ゲヨルほか。89歳の妻と98歳の夫の二人の田舎暮らしを淡々と映像で綴っていく。添い遂げるということがどういうことかを教えてくれる。それが普通でありながら、しかもどれほど奇跡的なことかを思い知らされる。

 相手がかけがえがないと心から思うことこそが愛するということだということを知りながら、それを互いに確かめ合い続ける生き方はなかなか出来ることではないのである。
 
 観ていて父母のことを思い出していた。父母もたぶん互いがかけがえがない存在であると思い合っていたことを私は確信している。自分がそうでなかったことは残念だが、そのことはいまさらとりかえしのつくことではない。夫を喪い、老妻が雪の中で愁嘆にくれるシーンが映画の冒頭とラストにあるけれど、その哀切さが胸に沁みる。人が生きて死ぬということがどういうことなのかをあらためて深く考えさせてくれる。

ドラマ『學』

 WOWOW開局20周年を記念して、2012年の正月に放映されたドラマである。脚本は倉本聰。彼がむかし構想したドラマだが、製作が実現するとは思っていなかったらしい。それは主な舞台となるカナダロッキー山脈の山麓の中のロケがどれほど苛酷なものだったのか、映像を見れば分かる。主演は風間學という名の少年役の高杉真宙、そして祖父風間真一役の仲代達矢。ドラマの出来は素晴らしく、名作映画として劇場で上映する値打ちがある。

 ゲームに夢中の少年・學は、近所の小さな女の子が自分の部屋に入りこみ、ゲームをむちゃくちゃにし、保存データも失わせてしまったことにかっとなって衝動的に女の子を突き飛ばしてしまう。女の子は頭の打ち所が悪く死んでしまい、困った學は遺体をトランクに詰めて廃棄する。

 当然事件は発覚し、間もなく學は犯人として補導される。マスコミは(いつものことだが)狂気の集団となって學の両親を攻め立て、それにいたたまれずに學の両親は自殺してしまう。學はそのとき13歳、少年法により彼は拘束されない。學を引き取ったのは祖父の真一だった。

 年寄り夫婦で山暮らしをしていた真一は學を何とか立ち直らせようとするが、學はまったく口をきかず、スマホを手にして画面に見入っているか、イヤホンで音楽を聴いているのみである。真一は南極の越冬隊に参加したこともあり、冒険でサバイバルを体験している山男である。一年間かけて、信州の山に繰り返し學にサバイバルの方法を伝えようとするが、學は上の空である。

 そして一年が経過し、學は14歳になっていた。真一は學を伴ってカナディアンロッキーの山麓に住む親友の元を尋ねる。そしてそこからヘリコプターでさらに奥地に送ってもらい、一週間の山ごもりをする予定である。

 実はドラマはここから始まる。そこまでの経過は回想シーンで断片的に語られるのである。どうして學が誰とも打ち解けず、口さえきかないのか、次第にわかってきてドラマが本格的に始まるのである。祖父の真一にはある目的と覚悟があった。それは信じ難いものであった。

 ここから始まるサバイバルは想像を絶するもので、厳しい自然の中で孤立無援であることがどれほど苛酷なものであるかがこれでもか、と描かれていく。生きるのに必死になればスマホも何もあったものではないのである。

 何が起こるのか語るのはこれからドラマを観る可能性がある人に申し訳ないのでやめておく。これは少年・學の再生の物語である。再生とは文字通り、一度死ぬ思いをしてそれを乗り越えてこそ達成できることであることをこれほど明快に示したドラマはないだろう。リセットでは人は再生できないのである。生き返るには死ななければならないのである。

 思い出すのは、『北の国から』(もちろん倉本聰脚本である)で、頑固老人(大友柳太郎・このドラマでも役柄として死ぬが、そのあと間もなくして本当に亡くなってしまった)の孫が、四六時中携帯を見続けているというシーンだ。そのときにはその孫に背筋が寒くなるような異常さを感じたのだが、いまそれは周りを見まわせばそこら中に見ることが出来る。バーチャルにのめり込むことで生き物としての生命力を失いつつある人たちに対する倉本聰の警告がこのドラマのテーマだろうか。

2017年8月 2日 (水)

真保裕一『暗闇のアリア』(角川書店)

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 真保裕一といえばベストセラー作家で、あの映画『ホワイトアウト』の原作者だ。私は出版されてすぐに原作を読んでいたけれど、映画もそれなりに面白かった。あの極寒の中を超人的に危難を乗り越えていく主人公(映画は織田裕二が主演。そういえば同じ原作者の映画、『アマルフィ 天使の報酬』や『アンダルシア 天使の報復』も織田裕二が主演だった)の不屈の闘志に感動したものである。

 プロローグはいきなり紛争地帯のアフリカが舞台である。混乱の中でのエピソードが語られていくが、物語とどうこの話が関わるのか、それは中盤にならないと明らかにならない。

 中堅官僚の死体が発見される。死の前に、娘が本人からそれを伝える電話を受けていることから、自殺であると断定される。しかも彼に不審な振り込みがなされており、何らかの不正行為に関わったことが露見することを恐れたものと見做される。

 回りもみなそれで納得する状況なのに、雑誌記者である妻だけが頑として自殺を認めない。本人を最も知るものとして自殺などするはずがないと確信している。繰り返し警察に掛け合う中で、ある理由からほぼ干されている刑事に相手をするようお鉢が回ってくる。

 刑事の妻も過去自殺している。それを頼りに妻は捜査を要請するが、刑事は冷たいあしらいをする。絶望した妻は独力で調査を開始する。やがて彼女はわずかな手がかりを発見する。それを伝えたとき、眠っていた刑事のセンサーが起動する。

 やがて自殺を巧妙に偽装するカラクリの可能性が見えてくる。ついに警視庁はこの事件だけではなく、過去の自殺扱いの事件に共通するような事案がないか、特別チーム三人での調査命令がなされる。そして謎の鍵を握ると思われる男が浮上するのだが、すでにその男はアフリカで死んでいた。

 こうしてプロローグに物語はつながっていく。つぎつぎに明らかになっていく類似の事件、しかしトップからその捜査に対してブレーキが掛かり出す。そんななかあの雑誌記者の妻の独自の調査からまったく新しい展開が生み出される。彼女は単独でパリへ飛び、さらに他の国にと足を伸ばす。

 特別チームも新しい展開から遂に犯人と覚しき人物を絞り出すことに成功する。操作の輪は次第に絞り込まれるのだが・・・。

 このラストは不本意なところもあるけれど、これはもしかしたら続編につながるのかも知れない。

雑感

 見かけは重要である。人は見かけによらないことがあり、知り合うと最初の悪印象が拭われて好感に変わることもある。しかし知り合うことの出来る人の数は限られている。そうなれば見かけで人を判断するしかないのであり、見かけは大事なのである。

 見かけといっても半分以上は顔の印象であろう。その顔に本人の責任はないのか。美醜は生まれつきのものもあって如何ともしがたいが(韓国ではそれを整形するのが普通のことらしく、女性はみな似たような顔になっているのは驚くほどである)、どんなに整っていても内面の卑しさが浮かび出ているように見える人は確かにいる。それでも、私にはそのように映って見えているのに、それをそのまま美しいと見る人もいるから世の中は丸く収まっているのだろう。

 そういえばトランプ大統領政権の報道官がつぎつぎに辞めたり辞めさせられたりしている。報道官というのは政権の顔、ある意味でその国の顔ともいえるから、見た目を大事にするものかと思っていたが、あまり賢そうに見えなかったり、どうしてこんな人をと思うような人が報道官になり、そして辞めていく。あの女性の報道官の顔は、申し訳ないが美醜以前に顔を背けたくなるようなところがある。

 よほどトランプ政権には人がいないのだろうか。もし要請があっても、まともな人なら引き受けたくないような役割だと思われているとしたら、トランプ大統領が政権内部でどう思われているかが分かりそうだ。トランプにもともと人望があったとも思えないし、時間と共に失望に変わりつつあるというところで、任期を全うするのは難しいのではないか。

 中国の外交部の報道官を見ていると、無表情で明らかな無理筋を平然と言ってのけている。まさに習近平政権の顔(共産党独裁政権の顔)としてふさわしい顔である。北朝鮮の報道官はあのお馴染みのアナウンサーなのだろう。あの大仰な語り口はたぶん命がけなのだろう。そうでなければ恥ずかしくてやっていられるわけがない。

 それらと比べれば、わが菅官房長官はまともな方ではないだろうか。ちゃんと感情を表に出すこともあるし、言葉遣いはときに不適切だが丁寧だ。会見場の記者達の、国民に替わって、を自称したつもりの失礼千万な物言いに良く対応している方ではないか。私は彼の顔に悪印象は持たない。

 パソコンがしばしばフリーズに近い状態になる。なにもしていないのにファイルの開くのが遅い。ホストとして使っている東芝のダイナブックだ。これはi7が使われているから本来高速動作をするはずなのだが、ずっとそうである。ハードディスクにいろいろな物を詰め込みすぎているからかと思い、大きなデータはほとんど外付けハードディスクに移したから身軽なはずである。

 持ち歩き用に10.5インチの極安のACERを使っているが、同じことをさせるとはるかに早い。こちらのハードディスクには出先で使うためにデータが詰め込まれているのだが問題ない。ダイナブックのキーボードはそれほど酷使しているわけでもないのにキータッチを受け付けないキーがいくつも出てきて、仕方がないから別付けのキーボードを購入して使用している。

 東芝製品を問題なく使用している人も多いようだが、私とはまったく相性が悪いようで、買う製品はたいてい不具合になる。東芝に嫌われているらしいのでもう二度と買うまいと思うが、まだ動作するパソコンを買い換えるほどのゆとりはないのでだましだまし使っているが、そのストレスにだんだん頭が熱くなっているところである。

 不要と思われるプログラムを一部削除したが変わらない。次はもしかして必要だが不要かもしれないプログラムをばっさり削除してみようか。もうやけくそである。何かあったらそのときのことだ。すでにデータはたいてい待避させてあるし。

2017年8月 1日 (火)

捨てることにした

 長年愛用してきたMDのミニコンポを処分することにした。CDも聴けるのだが、ずいぶん前から機嫌が悪いとときどき音飛びする。知り合いからCDを借りたりしてこのコンポでMDに落としたコレクションがたくさんある。だからそれを聴くためにだけ使用していたが、スピーカーはミニコンポだから音はそれなりで、ハイレゾなどを聴き出したらこのコンポで音楽を聴く気にならなくなった。

 カセットデッキとしても使える。だから古いカセットテープのコレクションも聴けるのだけれど、オートリターンの調子が悪くなってきたし、わざわざカセットで音楽を聴くこともなくなった。そもそもカセットテープのコレクションも以前ほとんど処分してしまった。むかしFMアンテナを立ててエアチェックしたクラシックのテープなどもあったはずだがもう残っていない。

 そういうわけで、カセットテープの残りとMDのコレクションを全て廃棄した。いつか片付けようと思っていたのでさっぱりした。またカーステレオ用にCDのバックアップとしてコピーCDを数十枚作ってあったけれど、こちらも場所をとるだけなので処分した。オリジナルがあればわざわざコピーは不要なのだ。

 こうしてメディアをゴミとして処分して、ミニコンポはお蔵入りとした。あとで燃えないゴミとして処分する。ミニコンポのあった場所とその周辺を掃除してレイアウトを変えたらさっぱりした。

 あって困っていたわけではないが、ほとんど使わないものを思い切って片付けるということが、これからしなければならないことではないかと愚考するけれど、なかなか思い切るのは難しい。人には未練というものがある。手に入れるために投じた金のことも頭をよぎる。撤収の道のりはまだまだ遠い。

葉室麟『潮騒はるか』(幻冬舎)

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 久しぶりの葉室麟。未読の本がまだ三冊も残っている。これがいちばん新しいのだけれど、読みやすそう(ページ数も少ない)だったのでこれから手をつけた。

 舞台は幕末の長崎。脇役として平野国臣やオランダおいねが登場する。脇役ではあるが、著者が書きたかったのはこの人たちを核としたその時代の人びとであり、攘夷や勤王、そして倒幕の動きにどう対応するのかで翻弄されていた各藩の様子だったのではないか。

 平野国臣といえば筑前黒田藩出身の勤王倒幕の志士で、「わが胸の燃ゆる思いにくらぶれば、煙はうすし桜島山」という有名な歌を残している。熱血漢であったことがこの歌でもよくわかる。もちろん燃ゆる思いとは日本という国家に対する思いである。この本の中ではこの歌は紹介されず、別の歌が取りあげられている。

 佐久間象山を暗殺した肥後の川上彦斎とも親交があり、そのことは彦斎を主人公にした葉室麟の別の本にも書かれていた。私がいまこだわっている出羽の清河八郎とも交流があった。この本では西郷隆盛の依頼で僧月照を薩摩に送り届けている。僧月照は結局薩摩領に受け入れられず、西郷隆盛と月照は抱き合って入水する。月照は死に、西郷隆盛は助けられる。そのこともこの本の最後に平野国臣の口から語られる。

 オランダおいねはドイツ人医師のシーボルトの娘である。シーボルトが長崎の出島にいたのでオランダおいねと呼ばれるが、正しくはドイツ人の父と日本人の母との混血である。彼女のことについては吉村昭の「ふぉん・しいほるとの娘」や、司馬遼太郎の「花神」に詳しい。日本で最初に西洋医学を学んで女医になった女性である。

 この本のストーリーとしては筑前黒田藩の陰謀により翻弄される女性と、それを助ける人びとの物語であるが、それはこの本を読んで楽しんでもらいたい。陰謀によって人は翻弄されるが、それより大きな、時代という渦が人びとを翻弄する。しかしその中で流されずに生きるためにはどうあるべきか。そのことが長い人生か短い人生かということよりも大事なことであるとこの本は語りかける。

 生きることに意味を見出して生きる人は強い。そして美しいのである。

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