« 養老孟司&名越康文『「他人」の壁』(SB新書) | トップページ | 敗戦のコメントに危惧していた »

2017年9月10日 (日)

自分との関係

 私は日本人で、特にキリスト教的な環境とは縁がなかったから(家のすぐ近くに教会があり、付属する幼稚園があったが、母は少し離れた小学校の隣にある公立の幼稚園に私たち兄弟を入れた。日曜日には賛美歌が聞こえていたけれど、日曜学校に行ったことはない)、東洋的な思考様式(それも日本的な)、つまり汎神論的な宗教観を当然とする考え方を身につけたから、一神教にはまったくなじめないように育った。

 そんな私は、高校の時になかばいい格好をしたいために哲学の本を読むことにした。そのときに選んだのが世界の名著というシリーズの中の『キルケゴール』の一冊だった。四つの文章が収められていて、その中の『私にいたる病』というのが目をひいたのだ。ちょうど死の不安について考える年頃である。ほかに『不安の概念』などというやはり興味を引く文章も収められているではないか。

 早速『私にいたる病』を開いて読み始めると、本文のはじめは「第一編 私にいたる病とは絶望のことである」とあり、「A 絶望が死にいたる病であるということ」と章立てされ、文章が始まる。

「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか?自己とは、一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである(後略)」

以後文章は延々と続く。

 突然何のことかと思われるかも知れないが、この文章の「自己」、というのは「自分」のことであろう。この一読して何のことかさっぱり分からない文章を私は何十回と読み直し、頭にそのまま刷り込むほど読んで考えた。

 これが「自分との関係」という、このブログの表題につながっていく。

 キルケゴールはデンマークの哲学の詩人といわれる思想家である。敬虔なクリスチャンで、彼の思想の基本は神と自分との関係である。もちろんこの『死にいたる病』もそこから描かれているのであるから、絶望とは信仰を失うことといってもいいのであるが、私には出だしのこの部分しか眼に入らないし、ここを突破しなければならないという強い思い込みがあった。

 こんなわけが分からないものは普通ならすぐに放り出すのが常なのに、私が執着したのはここに自分にとって大事なことが書かれているに違いないというなんの根拠もないけれど確信があったからだ。分からないけれど、分かると必ず自分に良いことがあるという確信である。分からないのに分かるということがある。本当に分かっているなら分かる必要がないのである。分からないけれど分かるといいことがあると感じられるものにこそ分かるための努力の価値がある。

 結局いまだに『詩にいたる病』の全文を本当に読んだとはいえないままである。ただ、この冒頭の部分だけは私なりに解釈をすることに成功した。それはキルケゴールが云いたいこととずいぶん違っているかも知れないけれど、私にとってはようやく探り当てた真実なのである。それが「自分との関係」として語りたいことである。

 なんだか前置きばかりが長くなった。

 「自分とは何か」と考えるとき、自分を世界の中で位置づけるという捉え方をしてみる。「自分はどこにいるのか」と考える。これは空間だけのものではないけれど、考えることは出来るであろう。仮に自分の位置を原点として世界という空間を考える。世界はあらゆるもので満ちている。世界、というのは言葉では存在してもここに呈示することの不可能なものだ。

 そのときこの世界という空間の中に具体的なものを思い描く。父でも母でもいいし、ある本でもいいし、あるゲームでもいい。その考えたものと自分との関係を考える。ものとの関係の中で自分の位置がおぼろげに限定される。次に別のものについても同様の行為を繰り返していく。これが「関係」である。自分となにかとの関係、そしてものとものとの関係、それを又自分の原点把握に反映させていく。それらが収斂するのか、それとも極めてあいまいなままであるのか、それは分からない。

 それが世界を認識するということであり、なおかつ自分自身がどこにいるのか、自分とは何かを知ることである、と私は考えたのである。 

「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか?自己とは、一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである(後略)」

 そういう解釈の元にこのキルケゴールの文章を読み解くと、私には神抜きで「自分とは何か」についてどう考えればいいのか分かった気がしたのである。答えなどないけれど、考え方さえ分かれば世界は私のものだ。「分かる」とはどういうことか。その切れ端をつかんだ気がしているのである。

 駄文の長文で申し訳ないが、今日は日曜だからご迷惑のかけようもいささかは少ないと勝手に言い訳して終わりにする。

« 養老孟司&名越康文『「他人」の壁』(SB新書) | トップページ | 敗戦のコメントに危惧していた »

「書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

>自分を世界の中で位置づける

我々の世代はわかりもしないのに、背伸びして実存主義や構造主義の本を齧ってみたりした時代でしょうか? (1952年生まれなので同じ世代だと思いますが?)今でも理解していませんが、その頃の習慣が今、役にたっているのではないかと思うこともあります。 

つまり判らずともとにかく読んでみる。少しでも理解したと思えばそれを記録し(私のblogはまさにそのものですが)、それでよし。そのうち理解できると期待してさらに進めていける。そのうち少しずつ理解したような気になる。
http://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/3779/trackback

もっともハイデッガーの「das In-der-Welt-sein」を長いこと「歴史内存在」と間違って覚えていたりした私ですが(笑)
http://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/1549/trackback

Hiroshi様
自己流ですが、考えること、考え続けることを楽しむことにしています。
しばしば珍奇な論を語ることもありますが、今さら不勉強を取り戻すこともかなわず、御寛容をいただきたいと思います。
Hiroshiさんが同世代(私は1950年生まれ)とは存じませんでした。
もっとお若いと思っていました。
貴ブログを理解し切れていないところもありますが、毎日楽しみに拝見しております。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 養老孟司&名越康文『「他人」の壁』(SB新書) | トップページ | 敗戦のコメントに危惧していた »

最近のトラックバック

カテゴリー

  • アニメ・コミック
  • ウェブログ・ココログ関連
  • グルメ・クッキング
  • スポーツ
  • ニュース
  • パソコン・インターネット
  • 心と体
  • 文化・芸術
  • 旅行・地域
  • 日記・コラム・つぶやき
  • 映画・テレビ
  • 書籍・雑誌
  • 経済・政治・国際
  • 芸能・アイドル
  • 趣味
  • 音楽
2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ