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2017年9月13日 (水)

趙曄(佐藤武敏訳注)『呉越春秋』(東洋文庫)

 春秋時代末期の呉越の戦いは『史記』の中でもハイライトの部分であるが、史記が前漢時代に書かれたのに対し、この『呉越春秋』は後漢の時代に書かれたとされる。実際に著者とされる趙曄(ちょうよう)が書いたものはその後改変が甚だしく現在残されているものは原本とはずいぶん異なるものだと解説にある。

 呉越の戦いは日本の源氏と平家の戦いなどになぞらえられるだろうか(これは平清盛が頼朝や義経などの兄弟を、幼いからと命を助けたことを念頭に置いている。呉王夫差は命乞いを入れて越王勾践を助けた)。さしずめ平氏が『呉』で、源氏が『越』か。常用句もいろいろと残されている。呉越同舟、臥薪嘗胆、ひそみにならう、などという言葉はよく知られている。ひそみにならう、というのは西施という絶世の美女が胸の痛みで顔をしかめている姿を見て、みなが美女は顔をしかめていても美しいというのを聞いた醜女が、西施の真似をしたら、みなが逃げたしたという話が元になっている。

 私は「ときに笵蠡無きにしも非ず」という太平記(読んでないけど)の言葉が好きだ。越の賢臣、笵蠡を引き合いに出して後醍醐天皇が隠岐の島に流されるときに、児島高徳が伝えた言葉だ。呉越の話を知る人は笵蠡の賢さとその出処進退の鮮やかさに感ずるところがあるはずである。

 この趙曄の『呉越春秋』は『史記』で知っている呉と越の話ともちろん同じである。歴史であるから違うわけはないのだが、その面白さは多分に『史記』に劣る。ただ、越王勾践という人のいやらしさが強調されているように思う。敗北して王でありながら奴隷のようにして恥を忍んで生きのび、歯を食いしばって再起を図り、ついに最後は宿敵の呉を滅ぼすのだが、その隠忍自重の姿があまりに不自然で、そこまでして生きのびたいのか、と思ってしまう。

 そこまでして生きのびたいという生命力は、同時にひとたび勝利したときには爆発的にそれを取り戻すための行動へ転換する。笵蠡がそれを良く承知して、功を捨てて勾践の元を去って行方をくらますことに痛快さを感じる。勾践の艱難辛苦がこれでもかというほど書き綴られているところに、それなのに勾践に感情移入させない仕掛けがあるような気がする。いちいち臣下に自分のあるべき行動について問う。その会話のくどくどしい記述がわずらわしいのだが、そこに仕掛けがあるのだろう。

 笵蠡は戦いが勝利に終わったあと、同僚である功臣の文種(ぶんしょう)に「命が永らえたければ勾践の元を去れ」、と勧めるのだが、文種はそれが信じられなかった。人生にとても参考になる話である。「狡兎死して良狗煮らる」はむかしからある話なのである。

 呉の側も、呉を隆盛に導いた伍子胥が結局侫臣である伯嚭(はくひ)に讒言されて死ぬ羽目になった。伍子胥の死によって呉国は衰退に向かったと言っていいだろう。

 宮城谷昌光の『呉越春秋 湖底の城』(全七巻・読みかけのまま)ももちろんこの呉越の戦いの顛末が描かれたものだ。

 もともと中華の国々からは、呉や越は野蛮な国として蔑視されてきた。その呉が勃興し、強国だった楚の国を打ち破るようになって、ついに呉王は春秋五覇のひとりになるまで台頭した。時代が変わりつつあったのだ。

 この呉越の戦いの時期は孔子が魯の国の経営に苦心していたときである。魯の国も権力が王から季桓子などの豪族に移りつつあったときで、孔子はそれを食い止めるために腐心していた。中国全体がそういう時代であった。

 やがて下克上が当然の世となり、春秋時代は戦国時代という混沌の時代となる。そしてそれを遂に統一国家にまとめ上げたのは秦の始皇帝であるが、それはこの呉越の時代のずっと後のことである。

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コメント

范蠡の出奔と聞いて頭に浮かぶのは空想上の「稲の道」です。

日本の稲の遺伝子解析からは長江下流領域で発掘された稲との共通性が指摘されています。
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また、史記の中には、
『楚や越の国は… 稲を植えて水を入れてから除草する…』 という一節があるそうですが、これはまさに水耕そのもの。
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越は楚に大敗したあと、越王は斉に頼って山東半島の瑯邪に移ったとも言われていますから、越人はもともと山東半島とは交流があった。
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そう考えると、長江由来の稲が沿岸ぞいに山東半島まで伝わり、さらに直接にか、あるいは朝鮮半島を介して、渡来人が稲を携えて日本列島にやってきたという仮説が一番私にはしっくりします。実際、吉野ヶ里は斉、呉越文化と関係深いと考える研究者もいるようです。
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…そこから、さらに妄想を逞しくして、

『狡兎死して良狗煮らる』と悟った范蠡が山東に亡命したとき、彼の荷物の中には稲籾があった、と考えるのは余りにも妄想が過ぎるでしょうか? (汗)
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Hiroshi様
笵蠡は越を離れてから商人として貿易で財をなしたといわれます。
そのあと身元が判明してしまい、彼を召し抱えようとする各国の招請から逃げるために財産をすべて捨てて逃げました。
そして再び巨額の財をなしたという伝説があります。
そのとき、傍らには美女が常にいた、というのも夢があります。
もちろん西施のことです。
稻は中国南部から直接日本に渡ったという説もあるようですし、笵蠡がそれに関与していたというのも空想として面白いですね。

おはようございます
この本は本屋に取り寄せを依頼して間もなくやってきます。
内容が楽しみの本ですね。
では、
shinzei拝

Shinzei様
物語として読むには面白さが欠けますが、越王勾践の性格を考えるのを楽しんで下さい。
Shinzeiさんはこういう人物をどう思うでしょうか。

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