« どうしてこれほど変わるのか | トップページ | 服を買う »

2017年10月19日 (木)

個性と差別

 差別とはなんだろうか、むかしからずっと考えている。人は自分が他人より優越であると自覚することに快感を感じるものらしい。その優越である理由が本人の手柄ではなく、なおかつ劣等とみなされたものに正当な理由が存在しない場合、差別というようである。問題は「正当な理由」にあり、なにを正当とし、何を不当とするかであろう。アリとキリギリス(イソップの原話はアリとセミらしいが)の話で、アリが冬にうちひしがれているキリギリスを蔑むとき、それを差別と呼べるのか。

 個性とはなんだろう。生まれた国、民族、家族、そして能力は生まれたときから与えられたもので、成長する中で刷り込まれる文化や知識はその境遇の中で限定される。男であるか女であるか、頑健か病弱か、好奇心旺盛か無関心か、社交的か内向的か、努力する性格か怠け者か、さまざま多岐に、それこそすべてにわたって人は自分以外の人と異なる。数学が得意な人まったく受け付けない人、語学が苦手な人得意な人、能力もそれぞれみな違う。美醜もあり老若も違う。すべてを含めて個性というのであろうか。

 それならすべてにわたって人と人は違い、個別のことについて差が厳然とあるのである。その優劣はどんな物差しを持って来るかの違いだけである。では差別はいけない、みな平等である、ということはどういう括り方によって成り立つ言説なのだろう。個性の差と差別をどこで区切るのか。

 優越感と劣等感は人間の本質に根ざすもので、それがあるかぎりその区別は永遠にあいまいではないか。世の中は区別があいまいなことが普通であり、しかしながら明らかに不当な差別というものがあるのも事実である。不当なものがしばしば正当を侵食する。それが理性によって正されてきたのが人間の歴史だろう。

 ところが同時に区切りが正当に食い込みすぎるとマスコミの言葉狩りのような異常な事態になる。言葉狩りはときに差別の隠蔽に繋がる。死を恐れるあまり死から目を背けて死の隠蔽が行われたために死が軽んじられてしまうように、差別は却ってひそかに増幅されていないか。

 差があることすら認めないような世界は、あの毛沢東思想が吹き荒れた文化大革命時代を想起させる。その理路を詳しく語るにはまだ考えが浅いようであり、うまく説明できなくて申し訳ない。

« どうしてこれほど変わるのか | トップページ | 服を買う »

「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

おはようございます
先日は私の稚拙な書斎論を見ていただきありがとうございます。
これは飽くまでも聞いた話ですから確かではありませんが、いじめというのは巷間言われている差別行為ではなく、むしろ逆に同じになろうとする同調圧力が引き起こすものだと言います。
ところで仰る通り差別と個性はその峻別が難しいものです。ですから私は「差別にはいい差別と悪い差別がある」ということで自分を納得させています。いい差別とはまさにこの個性のことであり、悪い差別は変更不可能なこと、例えば出自や国籍などで差別することと定義しています。
では、
shinzei拝

明末、李自成が農民反乱を蜂起したころのジニ係数は0.62に、清末の太平天国の乱の際には0.58までジニ係数が急増し、それが両王朝の滅亡を引き起こしたと歴史経済学は語っています。
http://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/2384/trackback

スティグリッツは『ピラミッドの頂点はしっかりした土台がなければ安定しない』と述べ、自分自身の為に不平等を是正すべきだと述べています。”The Great Divide” p145

個人的には、能力や努力により「格差」が生じるのは当然のことと考えますが、それが度を過ぎると社会が不安定になり、自分たちを含め社会の構成員すべてが危うくなると考えます。

shinzei様
同調圧力が差別行為をもたらすという考え方、とても興味深いと思います。
さらに、違っているものを排除するという行為は組織内部でさらに微細な差を言い立てることに繋がります。
これは歴史的にも実例があふれているように思います。
革命後の血の粛清は権力闘争だけによって起こるのではないのかもしれません。
今回の野党の分裂もそういう視点で見ることも出来ます。

Hiroshi様
格差が度を超すと社会が不安定になるということは間違いないと思います。
先進国は資本主義が極端にならないために社会主義的手法を採り入れて安定化を図ってきましたが、貧困国の成長で自国の経済の伸びが鈍化すると資本主義の手綱を緩めて成長を回復させようとしました。
それが世界的な格差の拡大の要因であり、同時に不安定化の要因になったと言えるかもしれません。
だからこそ再配分の適正化が必要ですが、それも極端に走っては社会の活力を削いでしまいます。
そのバランスをどうとるのか、何を優先順位にするのか、試行錯誤しながら隘路をたどるしかなさそうですね。
それを担うのが政治家だと思います。

条件の違い・能力差などを認められないで攻撃する人は、よけいに自分を貶めてる気がします。
情緒的な思考ではいつまでも満足感は得られません。
差があることを認めなければ平等感も得られない気がします。

久しぶりに戦う理論を覗き見して・・熱くした若いころを思い出しました。生きてきた中で自分が差別と感じている事柄は差別に位置付けていますが・・・一般的であっても、自分がそう感じない(例えば学校での出席簿の男女混合)ものに対しては個性ととらえています。

けんこう館様
差別は排除が伴いますから良いことではありません。
しかし人はそれぞれ違うということすら差別だとして糾弾する正義の味方は、どんな社会を理想としているのでしょうか。
ますます微に入り細を穿って差別狩りを続けていくと、社会は成立しなくなり、個だけが砂粒のように残る世界が見えてしまいます。
ほどほどというのも生きる知恵だと思うのですが。

かすみ風子様
個性に基づく差と差別の区切りは截然とつけることができません。
人により何を差別と感じるかが違うからです。
差別は相手を排除する働きを伴いますが、不思議なことに差別を悪だとしてとことん追求し、差別をすべてなくそうとすると、みんなが疎外されて個に分解されてついには社会が成り立たなくなるような気がしています。
そのへんを極端に走らずにバランスの良い生き方をするのが智恵だと思いますが、知識はあってもそのような智恵のない人が正義の御旗を振っていることに少しうんざりしています。

ちょっと堅苦しい話題にしてしまったので、差別に関わる実際に経験した笑い話?を1つ入れます(笑)

米国留学時、シェアードハウスを経験しました。カルフォルニアのSF近辺だからということもあるでしょうが、男女一緒に住むスタイルで、最初はびっくりしましたが、これは差別で「女性が家が借りれない」という問題をなくす為と聞きました。とても一般的で大抵の借り家はこのスタイルでした。
http://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/173/trackback

さらに、その延長?で ゲイ、レスビアンも排除しないOpen mind houseというのもありました。さすがにこれは個人的借家リストから外しましたが、それが理由でやめたと公言するのは憚れる環境でした。

そのように一見、とても公平で平等な社会のように見えますが、その実、アジア人や黒人差別は表に見えない形で根づよくありました。例えば、アジア系の住民が増えると突然家賃を大幅に上げて「合法的」に住民全員を追い出し、その後から白人だけを入れることなどは暗黙のうちに行われていました。
http://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/4817/trackback

Hiroshi様
同性婚や性的マイノリティの社会的な公認が当たり前になりつつありますが、個人的にはいささか行き過ぎているように感じています。
マジョリティが本音の部分では納得していないのに、逆差別の特権化が進むと必ずどこかに歪みが生じて、反動があるような気がします。
Hiroshiさんが例に挙げたような同質者だけの囲い込みが蔓延するでしょう。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« どうしてこれほど変わるのか | トップページ | 服を買う »

最近のトラックバック

カテゴリー

  • アニメ・コミック
  • ウェブログ・ココログ関連
  • グルメ・クッキング
  • スポーツ
  • ニュース
  • パソコン・インターネット
  • 心と体
  • 文化・芸術
  • 旅行・地域
  • 日記・コラム・つぶやき
  • 映画・テレビ
  • 書籍・雑誌
  • 経済・政治・国際
  • 芸能・アイドル
  • 趣味
  • 音楽
2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ