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2018年11月

2018年11月30日 (金)

法隆寺(3)

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西院伽藍の中に入る。回廊の格子のあちこちから紅葉が見える。遮るものが無いままに見るよりも鮮やかに見えるのは不思議だ。世の中とはそういうものなのかも知れない。

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中心部の金堂。この建物も不思議な構造をしているらしいが、中には入れないので確認できない。

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五重塔を見上げる。本当は中をライトで照らして見てみたい。

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中を覗いても暗くてよく分からない。カメラで撮ることはもちろんできない。

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塔の四隅にこのような邪鬼のようなものが置かれている。

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支え柱には龍が巻き付いている。

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正面、大講堂と大きな燈籠。大講堂には薬師三尊像と四天王像が安置されていて拝観できるが、どれが何という仏像なのか表示されていないので分からない。

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先ほどとは反対側から金堂と五重塔を撮る。

このあと大宝蔵院に行き、法隆寺のさまざまな宝物などを見る。最後が百済観音像。いつみても素晴らしい仏像だ。お顔はやはり半島系の顔か。

さらに今回特別展として収蔵庫で秘宝展が行われていたのでそれも見学。丁寧に見ていたらあっという間に一時間以上が過ぎていた。

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収蔵庫。ここが展示場になっていた。残念ながら展示は11月30日まで。

中国に当分行かないことにした

 先日、いつも一緒に海外へ行く友人達と会食した。今年のウズベキスタン旅行の反省会(特に私が水に当たって激しい下痢になり、みなに迷惑をかけた)をしたあと、来年の候補地を打ち合わせた。いつも中国、中国という私が今回はそれを言わない。なぜ言わないのか、それを説明した。ほかの二人も賛同する。

 今年の春に中国の江南地帯に行った。昨年の秋には中国雲南省へ行った。いずれも私の提案である。そのときに中国についてなにを感じたのか。監視カメラだらけの管理社会を実感したのである。そして最も行きたいシルクロードのあるウイグル自治区の情報である。百万人単位の人々が拘束され、思想教育を受けさせられ、反発すると行方不明になるという恐ろしい状況らしいことが漏れ伝わっているのである。

 外国人であっても、日頃中国についてブログなどで苦言を呈していると、中国訪問中に突然身柄を拘束されるおそれがないとは言えないのである。まさかと思うが、そのまさかが起こりそうな気になるほどの徹底的な管理状況が中国では進んでいるのである。習近平体制が続く限り、たぶんこの状態が強化されることはあっても緩和されることはないだろう。

 私は文化大革命について繰り返しさまざまな本で読んできた。毛沢東がどれほど異常な恐怖社会を現出させたのか(朝日新聞は理想社会であるかのように文化大革命中の中国を絶賛していた)、多分普通の日本人よりずっと詳しく、しかも強く実感している。そしていま習近平は大躍進や文化大革命時代の毛沢東のようになろうとしている。そんな時代を再現しようとしている。そもそも資本主義的な経済と全体主義的な政治体制がいつまでも両立するはずなどないのである。その無理を強行すればするほど問題点を指摘する言論を弾圧しなければならなくなる。

 そんな中国に、中国が大好きな私が行きたくないのである。中国が好きだからこそこうであって欲しいという気持ちが強くなるし、問題点を指摘し苦言も言うのである。それが身の危険につながるというのは哀しいことである。

2018年11月29日 (木)

法隆寺(2)

こんな石仏があった。もちろん新しいもので聖徳太子だろう。

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三経院。鎌倉時代の建物で、もともとは聖徳太子がお経を講義した場所だという。梅原猛によれば、法隆寺は再建されていて、現在の法隆寺は聖徳太子の死後に建てられたものだし、ここで講義をしたというのは考えられない。法隆寺再建論はむかしからずっと賛否が論じられていたが、いまはほぼ再建されたことが確実のようである。法隆寺自身はどうも再建論に否定的なようだが。

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三経院の後ろ側は西室となっている。西院伽藍の西側に三経院や西室があり、東側には聖霊院と東室がある。
左上に見えているのが西円堂。

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三経院前の弁天池。

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やや高台にある西円堂。

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前廂があるから分かりにくいが八角のお堂である。
中には薬師如来が安置されている。案外大きなものである。

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本当に八角形かどうかぐるりと回って確かめた。
八角形なのになぜ円堂というのか。六角形以上の建物は円堂ということになっているそうである。

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西院伽藍方向を望む。

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樹木が邪魔するけれど、下から見上げるのではなくて横から眺められる、ここから見る五重塔が好きである。

このあといよいよ西院伽藍内に入る。

永遠の謝罪要求

 韓国も北朝鮮も日本に対してしばしば「永遠に謝罪せよ」と要求する。謝罪とは、謝罪をしたら謝罪が受け入れられて関係が修復されることが多少は期待されるから行うものかと思っていたが、「永遠の謝罪要求」をされた場合での謝罪とはどんな意味があるのだろうか。

 謝罪をしてもしなくても永遠に謝罪を要求するぞ、といっているのであるから、謝罪をしても意味が無いぞ、といっているのとおなじではないか、などと屁理屈屋の私などは考えてしまう。

 韓国に詳しい人などによれば、韓国人は上下関係に強くこだわるのだという。身内や仲間は例外として、他者との関係では自分が相手より上位であることを常に希求する。ましてや相手が自分より目下であるとすでに認識している場合などは、相手が上位である事態は絶対に許すことができない。

 日本が朝鮮を併合したことなどは、そもそも下位であるはずの日本がした最も彼等にとって不愉快な記憶であろう。その不愉快さを解消するためには、日本と戦争をして勝つしかないほどの思いだそうだ。しかしそんなことは出来ないから、永遠に謝罪を要求する、つまりお前より私が上だ、ということを常に確認し続けることが精神のバランスを取るために必要なのだという。そして同時に過去の不愉快な歴史を否定する。そもそも朝鮮併合などはあり得ないことであり、朝鮮国は併合前、そして併合されていたあいだも正統な政府が中国で存続していたという歴史を語る。

 そういう国で、そういう国民で、そういう国民の支持で大統領となった文在寅が日本に対しての国際常識とはかけ離れたさまざまな判断を続けているのは韓国では当前のことであり、そうでなければ彼も朴槿恵の轍を踏むことになる。ではそれによって大きく損なわれてしまった日韓関係をどうするつもりなのか。多分なにも考えていないのだろう。成り行きをただ傍観しているようにしか見えない。関係が悪くなっているのは日本が永遠に謝罪すべきなのにしないからだ、と日本のせいにするかも知れない。

2018年11月28日 (水)

法隆寺(1)

法隆寺を訪ねた。梅原猛の『隠された十字架 法隆寺論』という本にいろいろ教えられて実際に見に行きたくなったのだ。


JRの法隆寺駅を降りて歩く。約20分。

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マンホールの蓋に法隆寺の五重塔が。
下部左に「いかるが」とある。この辺りが斑鳩の地なのだ。

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法隆寺に到着。南大門を背にして参道を振り返る。法隆寺はとても大きな寺なのだ。

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中央入り口にあたる南大門。ガイドに連れられた団体さんがいる。日本の人たちなのであまりやかましくない。修学旅行生や中国人の団体などもいてけっこう混んでいた。西洋人はたいてい一人か二人連れくらいで団体の人は少ない。

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法隆寺の外塀。本当に広いのだ。中に入らずにこのまま塀に沿って進むと藤ノ木古墳があるらしいが、今回は行かず。

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何と今回最も見たかった中門は工事中。門の真ん中に柱のある特殊な門で、法隆寺の七不思議の筆頭である。それを実見したかったのに残念である。また来いということであろう。

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境内は紅葉の盛り。

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西院伽藍の外壁。このなかに五重塔、金堂、大講堂がある。すぐ右のスロープを上がって中に入る。

西院伽藍の中に入るのを後にして、さらに西側の建物、三経院や西円堂を見に行く。少し高台にあるこの西円堂がお気に入りなのである。それは次回に。

わが家が遠い

 最寄りの駅まで歩いて約10分。しかしこの駅は普通電車しか停まらない。急行の停まる一駅むこうの駅には歩いて約20分。名古屋に出るには本数が倍以上のその駅まで歩くことが多い。

 昨日は朝早く奈良まで行った。法隆寺を訪ねるためである。法隆寺には10時半過ぎには着いていた。それから2時半頃までじっくりと、そしてたっぷりと法隆寺を堪能した。丁度法隆寺の秘宝展(11月30日まで)が開催されていて、今まで見る機会のなかったものを見ることができた。大変な分量で、丁寧に見ていたら時間があっという間に過ぎていた。

 4時から近鉄八木で友人と待ち合わせ。法隆寺前からバスで王寺まで出て、JRで高田へ、そこで乗り換えて畝傍まで行く。畝傍から八木駅まで歩いて10分ほど、これは前回飛鳥や樫原神宮を回ったときに歩いているので位置関係は承知している。それにしても法隆寺と近鉄沿線とはいささか不便な位置関係にある。

 友人が予約してくれていた店で飲む。海のない奈良なのに魚が絶品の店だった。酩酊する。そのあとすぐ帰ればいいのに盛り上がってもう一軒行く。最終に乗って名古屋に帰り着いたのは12時過ぎである。そこからわが家への最終電車にすべりこみセーフ。

 最終電車は急行である。歩き疲れ酩酊している身には隣駅からの20分の距離がとてつもなく遠かった。

2018年11月27日 (火)

いまごろになって

 本を読むこと、映画やドラマを観ること、写真を撮ることが趣味で、パソコンを常に開いていてネットニュースを見たりブログを書いたりしてと、とにかく眼を酷使している。さすがに眼が悲鳴を上げて休ませてくれと言いだした。

 そういうわけで二三年前から音楽を聴く機会が増えた。何度も聞けばなじみ、好きになっていく。クラシックは限定された好きな曲があってそれだけを聞いていた。ジャズはスタンダードナンバーを少々、というところだったのだが、何度も書いているようにデジタル音楽(ハイレゾ)を聴くようになって音楽の好さが少しだけ分かるようになったようだ。

 六十代の後半のいまになってにわかに音楽がとても心地好いものになっている。私の粗雑な耳でも、いい音で聴くと感じるものがある。そういえば、若いころFMのアンテナを立てて音楽を聴いた時期があった。いい音で聞こえるのでそのときにはクラシックも好いなあと思ったものだ。

 いい音とは何だろう。原音こそがいい音だという人もいるし、オーディオの能力を上げて原音以上の心地好いと思う音を追求する人もいる。私などはあとの口の方か。たとえばNHKBSのクラシック倶楽部という番組を録画してBD(ブルーレイディスク)に録画しておく。それをステレオで聴くか、5チャンネルのドルビーサラウンドで聴くか。

 私はドルビーサラウンドの方が心地好い。それもある程度の音量が必要だ。多少近所に迷惑をかける心配のあるくらいが良いが、限度を超えては苦情をいただいて却って音量を上げることができなくなってしまう。過ぎたるは何とやらである。

 最高のオーディオでモノラルで聴くのが原音に近いという意見もある。そう言う意味では私の心地好いと感じるのは作られた音なのかも知れない。まだ音楽を聴くことでは駆け出しなのである。お蔭で眼の方はときどき休養できている。

『2019長谷川慶太郎の大局を読む』(徳間書店)

 長谷川慶太郎翁のこの『大局を読む』をはじめとする世界情勢の分析と来年以降の予想について書いた本を何冊か読むのが毎年の年末、特に大晦日の恒例にしていた(高校二年生のときから紅白歌合戦は見ないことにした)のだが、出版されるのがだんだん早まってきて、今回は十月末の出版である。

 こういう本は生ものなので、早く読まないとピンぼけになる。逆に何年かしたあとに予測が当たったか外れたかをもう一度読み直すのも面白いので、以前は処分せずに十年分をまとめて読み直したりして愉しんだけれど、いまはさっさと処分している。 

 たびたび書いているが、翁の予測は日本やアメリカについて楽観的で、中国や半島については悲観的である。こちらの気持にも合致する。気持とはそうなると好いな、ということであって現実とはいささか異なる。とはいえ翁の予測は推移のスピードは別にして比較的に良く当たると思っている。それは彼が立てる予測の根拠が的確だからだろう。

 いままでは崩壊が近いとしていた中国が、今回の本では崩壊するとは明確には書かれていない。予断を許さない状況であることはさまざまな根拠をあげて述べられていて、それは同感するところである。中国の巨大な負債を習近平政権がどのように対処していくのか。その結果次第であろう。

 中国の負債とは、中国の国有企業が抱えている負債、国有銀行が抱えている潜在的不良債権、そして地方政府が抱えている債務であり、いずれも想像を絶する巨額のものだ。それでも中国のバブルがはじけないのは、ひとえにアメリカに対する貿易黒字が支えているといえる。それを問題視され、減らさなければならないとなれば、習近平政権はどのような手立てを講じるのだろう。

 アメリカへの報復でアメリカ国債を売るという手法はとることができないこと(詳細はこの本に書かれている)、元安に誘導して負債を減らし輸出を増やそうとすれば貿易黒字がまた増えてしまうし、今以上にインフレにおちいる可能性がある。お金をどんどん発行して元の価値を下げることを続けてきたが、もうその手法もとれない。

 いま中国が情報管制を強化し、極端な管理社会に進みつつあるように見えるのは、来たるべき経済危機に国民の暴発を防ぐ準備なのかも知れない。

 アメリカは今回は徹底的に中国を叩くつもりだという。本当だろうか。どこかでころりと態度を変えるのが得意なトランプ大統領だし、年齢からいっていつまでも大統領でいるとも思えない。しかし中国に対しての強硬姿勢はトランプ以外の大統領も続けるだろうと予測する。それがアメリカの国益だからだ。そしてアメリカはシェールオイルやシェールガスがある限り当面安泰だという。

 中国は技術的にアメリカに追いつこうとしてさまざまな方法でノウハウの入手に努めてきた。自ら開発するのではなく、中国進出企業に対して技術提供を強要したり、甚だしくは産業スパイが盗み出すなど、やりたい放題だったけれど、その損失が甚大なものであることにようやくアメリカも気がついたようだ。

 中国は技術開発を自力でやるしかなくなっていく。翁によれば、情報管制を徹底的に行いながら技術開発など出来るわけがないという。自由な情報の交流があって初めてイノベーションが可能なのである。それなら中国はイノベーション大国になることは現体制では不可能であると断ずる。その通りだろう。

 この本ではEUのゆるやかな衰退を予見する。そして半島情勢についてはわずかしか言及しない。南北統一は進展していくだろう。拉致被害者は日本が半島統一で必要な厖大なコストのひきかえでしか戻らないという。

 日本人にそのコストを払う用意があるか。何兆円か何十兆円という金を出すことを受け入れられるか。覚悟があるか。それはつまり各家庭がそれぞれ何十万円を南北朝鮮に拠出するということなのだ。これは近々あり得る現実のことなのだ。

2018年11月26日 (月)

明日は

 明日は奈良へ行く。初夏に飛鳥寺を中心に飛鳥を訪ねたが、今回は斑鳩の法隆寺を訪ねようと思う。

 梅原猛の法隆寺論を読了したので、その先入観を抱えて(すでにできてしまった先入観を脱ぎ捨てることはできない)法隆寺を見ようと思う。五年ほど前になにも知らずなにも考えずに法隆寺一帯を歩いた。今回は先入観を持ちながら、でも見えるままの法隆寺を眺めたいと思う。なにが見えるか、なにも見えないか。

 夕方からいつも海外に一緒に行く友人二人と会食する。気心が知れていてなにもストレスなく話ができる貴重な友人達との貴重な夜を楽しみにしている。


 歯医者に無理を言って治療をお願いした。予約なしだから場合によって一時間は待ってもらいますよ、ということだったが、丁度キャンセルがあって、ほとんど待たずに診てもらうことができた。

やはり歯が折れてしまっているという。となりの歯とブリッジを架けて歯を作るか、残りの根元の歯を抜いてしまうか、どうしますか、ということであった。このまま放置することはできませんか、と訊いてみたら、それもありです、とのこと。そのかわり常に清潔にしていないと歯茎と残りの歯の根とのあいだに雑菌が入るおそれがあるそうだ。

 残歯のキザギザをけずってもらい、当分様子を見ることになった。

台湾

 台湾の統一地方選挙で民進党が大敗したと伝えられている。台湾は二大政党だから国民党が勝利したということで、国民党は馬英九政権時代に中国に擦り寄って台湾が中国に吸収されかねないような危うさを感じたけれど、国民党にはその意思が続いているとしか思えないのに、どうして台湾の人々は国民党を支持する方向に舵を切ったのだろう。それほど民進党の蔡英文総統政権に不満があるということなのだろうか。

 それにしても国民党が韓流ブームを利用して大いに盛り上がり支持につながったなどという見方もあって、何だそれは、などと思ってしまう。たまたま選挙前の選挙運動たけなわのときに台湾に行ったことがあって、そのお祭り騒ぎを目の当たりにしたことがある。お祭り騒ぎの盛り上げ方が国民党の方がうまかった、などというのが勝利の要因だったなどということがあるのだろうか。それも韓流を使って。

 中国は、つまり習近平は台湾を虎視眈々と狙っている。地政学的に台湾を抑えれば太平洋は中国の庭先となる。それは長年の中国の夢であり、もし不動産バブルがはじけて中国の政権が揺らぐことがあっても、台湾を取り込むことで習近平は絶大な支持を受けて永久政権は盤石になることが想像される。

 習近平は手柄らしい手柄がないからAIIBを打ち出したり一帯一路構想などを強引に推し進めている。しかしどちらも当初の期待とは裏腹に、しだいに世界は背を向け始めている。あまつさえ外交の失敗でアメリカの逆鱗に触れて貿易戦争を仕掛けられ、敗戦濃厚である。いまはまだ直接的な被害は見えていないが、アメリカに妥協しないと来年には大きなダメージを蒙るのは明らかだ。

 すでに中国はアメリカに妥協案を提示したらしいが、その内容は明らかではない。アメリカは嵩にかかって要求をエスカレートさせてくるし、明確に中国に「ごめんなさい」と言わせようとするだろう。そんなことをすれば面子の国である中国では致命的である。尖閣国有化問題で懇願したのに一蹴され、あの野田首相に舐められた胡錦濤は結局主席退任後には何の力も残すことができずに終わることになった。いまだに野田という愚か者は自分のしたことに気がついていない。愚かであるとはある意味でしあわせなことだ。鳩山由紀夫という人を見ていると良く分かる。何の悩みも悔いも感じずによく眠れていることだろう。

 経済は悪化し、しかも面子がつぶれそうな習近平の起死回生の方策は台湾の取り込みだろう。まともな軍事侵攻はアメリカが許さないだろうが、破れかぶれになればなにをするか分からない。その危機感が台湾の人にはないのだろうか、というのが今回の選挙結果を見て感じたことである。

 すでに台湾の企業家は中国に進出している工場を縮小撤退を進めている。さらに本人や家族の海外移住が進むだろう。それは本土化の進む香港ですでに起きていることである。中国が台湾の実権を握る事態になれば、身の危険を感じた台湾の人々は雪崩を打って世界に逃げ出すだろう。日本にも大量の難民としてやってくることが考えられる。そのことを日本人は理解した上で今回の選挙結果を見ているのだろうか。

小川糸『針と糸』(毎日新聞出版)

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 小川糸さんに出会ったのは『食堂かたつむり』という映画の原作者としてであり、これは映画しか観ていない。ついで『つるかめ助産院』。これはNHKのドラマとして観ている(仲里依紗がとても良かった)。本を読んだのは『ツバキ文具店』が最初である。続編の『キラキラ共和国』、そして『サーカスの夜に』、『にじいろガーデン』なども読んだ。

 それぞれについて感じたことなどをこのブログで書いた。今回の『針と糸』は小説ではなくエッセイである。やさしく分かりやすい言葉で簡潔に書かれたこのエッセイは小川糸さんの小説の原点を教えてくれる。母親との関係については初めて明かしたと書いているけれど、その気持ちの揺れ幅にさまざまな思いが込められているようだ。

 それは『ツバキ文具店』でのポッポちゃんの母親との関係、そして祖母との関係に反映されている。ポッポちゃんを演じた多部未華子さんは大好きな女優さんなので私にとってポッポちゃんは多部未華子のイメージだし、このエッセイの小川糸さんは年齢を重ねたポッポちゃんとしてイメージしてしまうところがある。

 そういえば江波杏子さんが亡くなったとき、すぐにバーバラ夫人としての江波杏子さんを連想したけれど、このエッセイにはバーバラ夫人の原型のような女性も登場する。

 いまはベルリンが暮らしのベースになっていて、そこで感じるドイツ人と日本人との違い、目に映るベルリンの風景が描かれていて、それらが自分自身を見つめ直すことにつながっているようだ。人には直視したくないことがあるけれど、それを敢えて見つめ直したとき、案外に思い出したくない事柄を克服することができたりするものだ。自分自身の原点がそのことのなかにあったりする。それを乗り越えたとき、自分が再生する。それは彼女の小説のようである。

2018年11月25日 (日)

平原綾香

 昨日は平原綾香デーだった。

 デヴュー直後から平原綾香のファンになった。歌だけではなくその容姿、雰囲気がすべて好きなのである。一時期は旅のお供でカーステレオでかけるCDは平原綾香ばかりのときもあった。アルバムは6枚ほど持っている。何百回と聞いているのにいまだに飽きることがない。

 昨日も朝からずっと平原綾香を聞きながら本を読んでいた。テレビの番組表を見たらミュージックフェアに平原綾香が出る。この番組は以前の司会が嫌いだったので敬遠していた。昨日は森山良子、サラ・オレイン、新妻聖子、それに平原綾香の共演で、それぞれ抜群の歌唱力を披露していて歌の素晴らしさを堪能させてくれた。

 そうしたら何とNHKのSONGSでも平原綾香が歌っているではないか。一日中、というほどではないが彼女の歌声をたっぷりと聞くことが出来て大満足であった。

 ただ、SONGSで「歌に悩んでいた」と語っていたのが気になった。「~いた」と云うことはもう大丈夫といっていると受け取りたいところだし、本人もそのように言っていたけれど、なんとなくまだ悩みのなかにいる気がした。

 その大好きな平原綾香だけれど、WOWOWでステージライブを見たりするとちょっとしっくりしない気持になることがある。手放しで楽しめない。なんとなく無理している気がして、以前から気になっていたのだ。多分大人数の前のショー的な場所になじまないのかも知れない。スタジオなどで歌うときの方がずっと活き活きしているように見える。それはあくまで私の感想である。

 彼女のそばにいて悩みを黙って聞いてあげたい、などと年甲斐もなく夢想した。

歯が取れた

 昨夕、左奥上の歯が取れた。歯そのものというより被せものが取れたのだけれど、どうも根元からすべてがぽろりと取りてもともとの歯の痕跡らしいものだけが残っている状態になった。少し前から噛み合わせが変だなと感じていたが、それは前兆だったようだ。

 歯医者はもちろん土曜の午後から休みだし、来週は予定がいろいろあってゆっくり治療することができない。人気のある歯医者で、最近は予約がなかなか取りにくくて早くて十日先などと云うこともある。

 歯が取れたら噛み合わせの違和感がなくなって却って調子が良い。この歯が入り口で菌に侵されるおそれがあるから治療は必要だろうが、いまのところ不都合はない。口中を常に清潔に保ち続けて時間ができたら治療することにしようなどと考えている。

 ひきこもりから脱してそろそろ出歩こうと予定を立てて予約を入れまくったらこんなことになるのである。人生そんなものか。

2018年11月24日 (土)

不思議な世界

 ティム・バートン監督の描く不思議な世界が好きである。こんなわけの分からない映画ばかりをお金をかけて大真面目に作り上げる彼のエネルギーに喝采を送りたい。失敗作もあるけれどこうして作り続けることが可能なのはそれなりに彼の映画を愛する人がいる証拠だ。そのことがなんだか嬉しい。

『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』2016年アメリカ映画を観た。エヴァ・グリーンがミス・ペレグリンである。ほかにテレンス・スタンプやサミュエル・L・ジャクソンが出演している。特にサミュエル・L・ジャクソンは悪役のボスを嬉々として怪演している。名優は悪役をするとき、どうしていつもこんな風に嬉しそうに演じるのだろう。観ているこちらも嬉しくなってしまうではないか。

 それにしてもこどもたちの目玉をえぐり出してそれを食べると永遠の命と無限の力を得るなどと云う設定がすさまじい。ただ、ふつうの子供ではダメで、特殊な能力を持つ子供の目玉が必要なのである。そのこどもたちの特殊能力というのが奇想天外なものでそのことが理由で現実世界から迫害を受けることにつながってもいる。

 そのこどもたちを護るのがミス・ペレグリンであり、彼女の能力の一つが鳥になることであり、もう一つが時間をコントロールしてループ世界を作ることである。そのループ世界のなかで子供を護り続けているのだが、その結界が破られる。

 ミス・ペレグリンとこどもたちが圧倒的な力を持つ悪たちとその特殊能力を駆使して戦う様子が後半のクライマックスである。命がけなのに奇妙にコミカルで楽しいのだ。ついにペレグリンはとらわれてしまう。絶体絶命のピンチをどうきりぬけて逆襲に転じるのか。まことに楽しい時間を過ごすことができた。消さずに息子や娘に見せようかと思ったが、キリがないので初期化した。

梅原猛『隠された十字架 法隆寺論』(新潮社)

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 刊行は昭和47年で、私のものは昭和50年の第25刷である。当時ベストセラーになったことがこれで良く分かる。

 日本の古代に興味が起きて梅原猛の本を再読し始めたのと飛鳥を散策したのをきっかけに、久しぶりにこの本を開いた。それから足かけ二ヶ月以上かけてようやく読了した。一気に読む本ではないし、開かない日も多かったから後半に至るまではずいぶん時間がかかったが、最後は一気読みとなった。著者の興奮がこちらにも伝わったからだ。

 壮大な仮説の楼閣を見る思いがする。そもそも過去は実見することができないのだから仮説による再現しかできない。いままでの法隆寺関連の歴史の解釈を根底から覆すこの仮説は学者達には驚くべき暴論だったに違いない。当然嘘八百だとの反論を想定しているから、仮説の根拠となる資料と考察は次から次にこれでもかと云うほど呈示されている。そしてその仮説が次の仮説を支え、壮大な物語となっているというわけである。

 この本を初読したときに私はなにを受け取ったのだろう。どんなことを感じ、考えたのだろうか。四十年以上前のことで忘却の彼方である。そしてベストセラーとして多くの人がこの本を読んだはずだが、どれほどの人がこの本をきちんと読んだだろうか。いまの私も中途半端にしか読めていないことは承知しているが、それは私の無知のなせることで、無知は無知なりにむかしよりは少しだけマシになっていると思いたい。

 砂上の楼閣と云いながら、この楼閣は堅固だ。この楼閣から古代日本を見直す足がかりとするのに十分である。ものを理解する手がかりにするべきものを手に入れることのよろこびを感じている。

 今、聖徳太子の存在を抹殺しようと日教組関係などのサヨクが教科書の改変を進めていて、聖徳太子という名が歴史の教科書から抹消されつつあると云うが本当だろうか。聖徳太子とは云わずに厩戸皇子ならまだしも厩戸王などと記述させているそうだ。歴史を改変することが正義だと信ずることにおいて韓国や中国と同じである。彼等の手先か。そのことについてはいろいろ論じられているのでこれ以上そのことには触れない。

 この本では聖徳太子の直系の山背皇子一族の虐殺、そして蘇我氏の抹殺という血塗られた歴史と、その怨念の鎮魂としての法隆寺の存在意味が検証されている。残された文書や伝承に著しい矛盾がある。さまざまな矛盾が著者の仮説で説き明かされていくのだ。法隆寺のさまざまな謎の解明が鮮やかに進められ、さらに精霊会の意味するものがそれに重ね合わされてすべてが統合されるとき、著者も興奮の筆運びとなり、読む方もそれに合わせて血が昂ぶる。

 法隆寺には聖徳太子の怨霊が鎮められている。その聖徳太子を貶めるものにはいまに呪いがかかるであろう。

 ちょっと私にもなにかが降りてきてしまっているかな? 

2018年11月23日 (金)

いいところを見つけたいのだが(3)

 面白くなってきたのでついでにもう一本。

『英国特殊空挺部隊 オペレーションV』2017年イギリス映画
 いかにも戦争映画のようなタイトルであるが、そうではないのである。WOWOWガイドによれば、「イギリス特殊部隊と吸血鬼の戦いを描いたホラーアクション」だそうだ。空挺部隊と云えばパラシュートで降下するようなシーンがありそうだが、全くそういうシーンはない。

 ある森のなかの一軒家で、50年に一度の吸血鬼たちの会合があるという情報を入手した特殊部隊が深夜、三々五々集まる吸血鬼たちを監視、包囲網を以て殲滅しようと構えている。吸血鬼たちはそれを知らない。

 吸血鬼たちの会合で話し合われているのは縄張りの確認であり、欠員の補充である。互いに勢力争いがあるらしいことが分かり、あまり仲が良いというわけでないことも分かる。そこへ美女の吸血鬼が一人の人間を伴ってやってくる。欠員補充要員候補である。これがまた脳天気な男で、あり得ないリアクションと台詞が笑わせてくれる。この映画は実はコメディであった。

 コメディ映画は嫌いだから原則観ないことにしている。特に外国のコメディはどこがおかしいのかよく分からない。だから面白くないのはコメディの方ではなくて私のせいである。けれどこの映画はときどき笑えた。

 不思議なキャラクターがつぎつぎに登場するし特殊部隊も強いのか弱いのかよく分からない。ついに殲滅戦が始まり、超人的な能力を持つ吸血鬼もひとりまたひとりと倒されていき、特殊部隊も大量に死んでいく。夜明けが来れば吸血鬼は闘えない。それまで持ちこたえられるか。

 結末は教えない。それはルールである・・・というより私の意地悪である。

いいところを見つけたいのだが(2)

 世の中は三連休でのんびりしていることだろう。毎日が日曜日の私も、世の中がのんびり休んでいるときの方が遊んでばかりいる後ろめたさが多少は薄らぐ。

 というわけでひまにまかせておすすめしない映画をもう一本。

『Xibalba シバルバ エイリアン・オブ・マヤ』2017年アメリカ・メキシコ映画
 最初に英文字、続いて同じことをカタカナで書いた題名が最近多い。たぶん私が英文字が読めないと思って親切にカタカナを付けてくれているのだろうと思うが、よけいなお世話だ。こうして映画の題名を書くときに面倒で仕方がない。バカなことをするものだ。

 三千年(だったかな?)ごとにやって来て地球に災厄をもたらす異星人がいる(らしい)。幸い前回は善の異星人とマヤの人々が共同でそれと戦い、彼等を封印したので事なきを得たと云うのがユカタン半島に伝説として残されている(らしい)。その封印は地下の水底洞窟のなかにあるのだが、その存在を知った古代研究の博士がその探検に乗り出す。研究費不足に悩む博士は金持ちに資金提供を呼びかけ、金持ちはそこに金の匂いをかいだのかそれを受託する。

 こうして密林のなかの洞窟の探検行が始まるのだが、その前にプロローグがあり、それがいかにも思わせぶりでありながら、無意味に全体を矛盾だらけにしてしまい、その上そのシーンが時間つぶしのように繰り返されるのでうんざりする。

 もちろんお約束通り封印が解かれてしまい、怪物(半漁人みたいな連中)が現れ、しかも彼等は人間に触れると人間も彼等のようになってしまう。ああ恐ろしい・・・となるはずだが、なんだか洞窟の暗闇のなかでちらちらと化け物が見えるだけであとはワアワアキャアキャアと騒ぐばかりである。

 これなら特撮も適当で良いわけで、お面のようなものを瞬間的に見せれば良いから経費もかからない。省エネ省経費なのである。地球に災厄をもたらす怪物があの程度ならとりあえず次の異星人の来訪は心配いらないようである。 

 洞窟は暗くてなにが潜んでいるのか分からない恐ろしさを感じさせるので、私は恐がりなくせに大好きである。横溝正史の『八つ墓村』や江戸川乱歩の『孤島の鬼』が傑作だと思うのも、クライマックスの舞台が洞窟だからである。その洞窟がちっとも恐ろしくない映画を、洞窟を舞台にしながらよく作れるなあ。それに感心した。

いいところを見つけたいのだが(1)

 久しぶりに複数の映画を観た。いわゆるカルト映画で、人生の残り時間が少ないのに時間を無駄にすることが多いけれど、ときには意外な発見があって楽しめることもある。なにより長いものはめったになく、100分以内に終わるのがありがたい。

 どうせそれほど時間を大切に生きているわけでもなく、たまにある当たりを見つけるなどと云うのは自分にふさわしい。美味しいものだけ食べていると美味しいものに感激しなくなる。粗餐に美味を感ずるのも生きる楽しみである。

『ゴッド・ウォーズ』2017年・アメリカ
 トロイ戦争に端を発し、英雄オデッセイアが呪いを受けて不思議な世界をさまようというギリシア神話を題材にしているのだが、ひどい出来である。そもそも長大で壮大な神話を、やっつけ仕事のテレビドラマ以下の陳腐な話しに作り替えている。制作者たちはギリシャ神話を子供向けの絵本で読んだだけではないだろうか。アキレウスもアキレウスらしくないし(弱点を射られて最初のほうで死んでしまうが、もとからその話を知っている人以外はその意味をこの映画で理解する人はいないだろう)、主演もちっとも強くない英雄で、ともに冥界をさまよう兵士達も数人だけというお粗末さ。これでは船を操船させて航海することなど出来ようはずがない。

 などと突っ込みを入れさせてくれるのがこういう映画の唯一の救いである。それにしてもいいところを何一つ取りあげることができない不思議な映画で、いくら安上がりに仕上げたとしてもこれでは興行も成り立たなかっただろう。それともアメリカ人にはこういう粗雑なギリシア神話がふさわしいのか。WOWOWも時間潰し用に安く買いたたいたのだろうなあ。

2018年11月22日 (木)

川島博之『習近平のデジタル文化大革命』(講談社+α新書)

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 習近平にカリスマがあるのかどうか、私はカリスマを感じないが、中国国民は彼をカリスマとみているのかどうか。

 習近平は毛沢東を信奉し、毛沢東になろうとしているように見える。それは可能なのか。習近平は毛沢東のようになれるかどうか、不安である。毛沢東だからできたことで、ほかの人間には無理ではないかという見方もあるだろうが、そもそも毛沢東も不安を抱えていたはずである。自分がいつ権力を失うかおびえていたに違いないと私は思う。

 権力者は不安である。不安が大きいほど強権をふるって支配を強化して反対するものや抵抗するもの、力が強くなりそうなものを粛清する。不安は権力の大きさに比例して増大するらしいのは不思議なようで当然ともいえる。

 中国共産党はソビエト崩壊のときに体制崩壊するのが本当は歴史的な必然だったのではないか。それが天安門事件によって民主化が頓挫してしまい、資本主義社会でありながら共産党独裁というそもそもあり得ない状況を生み出してしまった。それを維持するには支配を強化するしかない。

 経済が右肩上がりであれば不満を抱く人間は多くない。格差が大きくなっても、それなりの生活ができれば体制にそれほど怒りを向けることはないのが大衆というものだろう。

 いま中国は時代錯誤的に情報統制を異常なほど強化している。それは習近平の不安のなせるわざであり、異常ないまの体制を維持するための方策である。それがどれほど歴史に逆行することなのか、そしてその逆行が通用してしまうのかどうか、これから数年で結果が出るだろう。

 経済が右肩下がりになれば不満の内圧は一挙に高まり、それを抑えるためにますます強圧を以て統制しようとする。その強圧は犠牲者を生み出していくことになるだろう。すでに多数の人が犠牲になっているが、それは表にはまだ顕れていない。そしてそれはなかなか顕れないだろう。外圧が分裂の原因ではない。強圧こそが分裂や破綻のエネルギーなのである。

 この本では中国でなにが進行しつつあるのか、それがいくつか明らかにされている。習近平は共産党独裁という王朝の最後の皇帝になるのか。彼は失脚したら命の危険がある。身を守るために永遠に独裁を続けるつもりのようである。それは無理なことだと思うが、歴史はどういうドラマを用意しているのだろう。高みの見物をさせてもらおうか。

『荒神』を観る

 宮部みゆきの原作はすでに読んでいる。大好きな伝奇物語であり、大迫力のストーリーは大満足だったのだが、さてそれをドラマで描くことなど可能なのか、と疑問に感じながらも、NHKでドラマ化したものを録画してありながら、観るのを逡巡していた。

 思った以上の出来栄えで、おおむね満足だった。内田有紀はますます魅力的で、クライマックス前に背中に呪文の文字を書くシーンで諸肌脱ぎになるが、肌が匂うように感じられた。美しい。平岳大の少しオーバー気味の演技は自己中心的な人物の役柄を演じて相変わらずうまい。この人物の狂気こそがこの物語の肝なので、これがお粗末だとこういうドラマでは全体が張りぼてに化してぶちこわしになるものだ。

 やはり狂気の男、絵師の役を柳沢慎吾が演じている。役柄からおふざけは抑えているのだが、本質的なキャラクターがにじみ出てしまって唯一違和感があった。明らかなミスキャストだと思うが、この人を私が嫌いなので偏見かも知れない。しかしこの絵師の狂気が全体の狂言回しになるのであって、それが上滑りしてしまっていて彼に関連するところだけはすべて嘘くさくなっている。彼は彼しか演じることができない役者に思えるがどうだろう。それならそもそも役者ではない。

 CGは良くできているが、化け物の通過したあとの田の稲穂が無傷だったりしているところがあって残念だった。ドラマのためとはいえ実っている稲穂を潰してみせるのはさすがにできなかったのだろう。

 物語だから化け物は実体として現れるが、実は化け物は人の心であることは観ていれば分かる。その、人の心は恐るべき力を発揮して破壊をもたらすことは過去も、そしていまも現にわれわれが目の当たりにしているところである

2018年11月21日 (水)

管理社会と言葉狩り

 NHKBSで少し古い(5年以上前のもの)ドキュメントの再放送が深夜などにかかるのでときどき録画して観る。私が特に興味があるのは中国なので、それに関連したものが多い。一度観たものもあるけれど、観始めると最後まで観てしまう。いまさらながら、よくこういうものを撮ることができたなあと感心する場合が多い。

 いまこういうドキュメントがどこまで撮れるだろう か。ほとんど不可能なのではないか。たいていは中国のスタッフが、対象に密着して撮ったものと思われる。それがもう撮れないだろうと思うのは、いま中国政府が自国の暗部を外国人に見せることを極度に嫌っているようだからである。そしてそれ以上に自国民にはそのようなものを見せないようにしているようである。身の危険を顧みずにそんなドキュメントを撮ろうという人はいないだろう。それは人権弁護士たちの姿をみれば歴然としている。

 いま中国のネットでは使用不能の言葉がどんどん増加しているという。いま読み始めた川島博之『習近平のデジタル文化大革命』という本によれば、「習近平」という言葉がブログやネットに書き込めないという。「敏感詞」の扱いなのだそうだ。「皇帝」という言葉も「敏感詞」、「肉まん」も「敏感詞」だという。ともに習近平を連想させ、揶揄させることがあったからだという。

「くまのプーさん」も習近平を連想させるから「敏感詞」、そんな風だから「文化大革命」「天安門事件」「大躍進政策」「毛沢東」も「敏感詞」の扱いであるのはもちろんである。若者用語では公安警察を隠語で「パンダ」と云っていたのだが、そうしたらいまは「パンダ」も「敏感詞」だというが本当だろうか。

 多分それだけでは引っかからない(そうでなければ不便で仕様がない)けれど、当局に批判的な文言に関連させて行くとセンサーが働くのかも知れない。そしてそのセンサーは以前は人がチェックしていたけれど、いまはコンピューターが管理しているのである。そうなると「敏感詞」の出現頻度が高いだけで要注意人物との烙印が押されることになる。

 中国はいま恐ろしいほどの勢いで超管理社会に突き進んでいる。国民は信用度という項目ですべて一元管理され始めている。交通違反をすればマイナス何点、納税額が多ければプラス何点とさまざまに採点され、持ち点が少ないと移動が制限され、パスポートも発行されない。そのときに「敏感詞」がどのように信用点に影響するのか誰にも分からない。コンピューターの判断で思ってもいない減点が行われているのか分からないのである。

 いまは中国国内で中国人だけにそれが適用されているけれど、その網が海外にもひろがらないとは言えないのである。日本で中国の悪口や中国にとって不都合な情報を脳天気に書いていると、いつの間にかマイナス点が勝手に貯まって、中国の土を踏んだとたんに・・・などと妄想してしまう。それはこのネット社会では少しも不可能なことではないからだ。

 そんな妄想が現実になった世界がG.オーウェルの『1984年』という小説で、若いときに読んで寒気がしたことを思い出す。その本はSFコーナーの隅にまだ列んでいる。また読み直したいと思いながら棚から下ろしていない。

 ところでそれだけ「敏感詞」が増えていけば、それを本にしたら電話帳のようにぶ厚くなっていることだろう。一冊で済むのだろうか。たちまち連想するのは日本のマスコミの、差別語を使わないためと称する言葉狩りだ、ずいぶん前に電話帳のように厚くなったと云っていたが、その後どんどん増えているのだろう。いまは上下だったり上中下になっていはしないだろうか。

 差別語をなくすことが管理社会の言葉狩りと酷似していることに符合を感じてしまうのは私の妄想だろう。そうに違いない。むやみに言葉を制限する社会が善い社会とは思えないのだが。

加藤達也・呉善花『韓国・北朝鮮はこうなる!』(WAC)

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 加藤達也氏と云えば韓国によって理不尽に軟禁され続けたあの産経新聞のソウル駐在特派記者だった人である。現在は産経新聞の社会部論説委員。呉善花(ウ・ソンファ)女史は済州島生まれ、日本に帰化している。彼女は韓国のことを愛するがゆえに韓国に対して苦言を呈したことが憎まれて韓国に入国が許されず、身内の葬儀にすら参加することができない。

 韓国の人よりも韓国の置かれている実情をよく知る二人が互いの持つ情報を出し合っていまの韓国を分析し、韓国、そして北朝鮮のこれからを予測する。それは悲観的なものである。すでにたびたびそのような悲観的な予想を語ってきた二人だが、それが外れるどころか予測通りに推移していることにいまさらながら驚かされる。

 多分韓国内にいる韓国の人々にはこれらのことがあまり見えていないのだろう。そういうものである。自分たちがいわゆる茹でガエルの状態だと気がつくのはいつのことだろうか。

 書かれている内容が二三ヶ月古いので、この本に書かれている以上に事態は進展している。いまの時点でふたたび二人が情勢分析したものを読んでみたい気がする。

 二人は韓国が嫌いなわけではないと思う。韓国がこうであって欲しいという思いが人一倍強いからこそ現状に辛口にならざるを得ないし、悲観的になってしまうのだろう。その悲観論は決して呪いの言葉ではないのだと信じる。

 ところでこの本とは離れるが、企業は不遇を経験するとそれで自滅するところも多いけれど、それをバネにして強靱になることがある。いまの韓国の企業は様々な不遇の事態に遭遇しているように見える。しかしそれを乗り越えた企業は端倪すべからざる企業に脱皮するだろう。それは日本の企業が経験してきたことでもある。不遇をざまあみろなどと侮っているとあとで痛い眼を見る。最近の不祥事つづきの日本の企業の体たらくには甘えが見えて情けない。いまに煮え湯を飲むことになるだろう。

2018年11月20日 (火)

映画『天空の草原のナンサ』2005年ドイツ

監督ビャンバスレン・ダバー、出演ナンサル・バットチュルーン、ウルシンドルジ・バットチュルーン、バヤンドラム・ダラムダッディ・バットチュルーンほか

 ドイツ映画だが、舞台はモンゴル。登場人物もほぼ草原のゲルに暮らすバットチュルーン一家のみ。言葉もすべてモンゴルの言葉のようである。

 休みで学校から帰省してきたナンサという娘を中心に、淡々とモンゴルの草原の暮らしが描かれていく。小学生くらいと思われるナンサだが、ゲルの暮らしでは学校へ通うことはできないからふだんは寄宿舎にいるのだろう。

 ものに囲まれて暮らしている私たちから見れば、非常にシンプルなその生活が私からは却って豊かに見えてしまう。それぞれの仕事の分担が明確で、それぞれの役割を当然のものとして引き受けている。それは子供でもそれなりに家族のために必要とされると云うことである。生きがいというのは他のひとから必要とされているというそのことのなかにある。そんなことを別に知らなくても登場人物は心を通わせあってしあわせなのである。

 時代が変わりつつあることを父親は感じている。いまの生活がずっと続くことはないだろうと分かっているのだ。自分の娘にはそのことが分かってその変化に対処できる大人になって欲しいと思っているだろう。そのような変化はあからさまには描かれていない。

 街へ行くという夫に新しい柄杓が欲しいというささやかなのぞみを伝える妻。夫の買ってきた柄杓はプラスチックの柄杓である。きれいだし軽いと喜ぶ妻だが、その柄杓は生活にそぐわない異質なものに見える。 

 ナンサが羊を追っているときに洞窟で子犬を見つける。父親は犬を飼うことを許さない。近所に住む祖父母の元へ遊びにいったナンサは祖母から不思議な黄色い犬の話を聞く。父の言いつけを守らずにあくまで犬を飼おうとするナンサ。

 やがて移動の日がやってくる。ゲルを解体してたたんでいく様子がかなり克明に描かれていく。それらをそりに積み込み、ヤクに引かせて家族の移動が開始される。犬は父親によって繋がれたまま置いて行かれる。

 楚のあとにある出来事が起こり、ささやかなクライマックスがある。こういう静かなしみじみした映画も好い。


 ところで、ココログに繋ぐと、最近「保護されていない通信」という表示が出る。ココログとつながっているときはパスワードや知られたくない情報は打ち込まないように、と注意が入る。どういうことか。気がついたのは最近で、もとからそうだったのだろうか。対処法が分からない。
 先日はビットコインらしきナンバーがズラズラと表示されたメールが送られてきた。送ってきたのは自分である。どうしてこんなことになるのかわけが分からない。そのうちメールやココログを根本的に変更する必要があるのかも知れない。

曽野綾子『人生の値打ち』(ポプラ新書)

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「孤高」を愉しむ、という姿勢は意識して暮らさないと維持できない。そのためには自分というものを、価値観を統一して独自の世界観を確立しておかなければならない。なにも無理に他人と違うことを考えたりしたりする必要はない。人と同じでも自分が選んだ生き方であれば良いのだ。結果も、だから自分が引き受ける。他人(ひと)のせいにはしない。

 曽野綾子がしばしば一部の人に毛嫌いされるのは不思議なことだ。彼女を毛嫌いする人と出会ったら、たぶん私も毛嫌いされるのだろう。でもたぶん私はそういうひとの意見や考えを聞く用意があって、毛嫌いしたりしないと思う。そういう風に生きてきたし、無理をしなくてもそれができる。自分がどの程度の人間なのか「身のほど」を承知していて、自分と違う意見にも興味があるし、影響を受けることを恐れたりしない。

 とはいえ私の話を全く違う受け取り方をされたりするとちょっと感情的になる。誤解されるのは耐えられない。人はしばしば自分が聞きたいように聞き、自分が読みたいように読んだりしがちなものだが、それにしたってなにを聞いているのか、なにを読んでいるのかと腹が立つ。私はまだまだ人間ができていないのだ。

 昨年二月に夫の三浦朱門を亡くし、文字通り独り暮らしとなった著者が、独り暮らしについて辛口のアドバイスをしている。そもそも人は独りで生まれ、死ぬときも独りである。それならば独りで生きる能力を身につけなければならない。親は子供に独りで生きるための基礎を教えるのが務めだろうし、自らもそれを身につけるように努めるのは人として当然のことだ。

 しばしば妻を亡くしてしまったら自炊することもかなわないと当然のように云う男がいる。それを自慢そうに云う者までいて、甘えるのもいい加減にしろと思う。それが当たり前だった時代もあった。しかし時代は変わったのだし、その時代が変わったことすら受け入れられないのは、自分が愚かであることを公言しているようなものであることに気がついていない。

 子供に自活能力を持たせることを怠る親も同類だろう。しかしその能力を持たずに問題なく暮らせる人を、ひとはしあわせな人と云ったりする。そういうしあわせな人は「孤高」に生きることの意味を知ることはないのだろう。それなら「孤高」を愉しむことなど(たぶん)できない。

2018年11月19日 (月)

髙山正之・和田政宗『こんなメディアや政党はもういらない』(WAC)

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 内田樹老師のメディア論を読んだばかりだから、この本の表題が目にとまった。内容は朝日やNHKや野党をこき下ろす文言の氾濫だけれど、すべてがすべて嘘偽りとも思えないし、それなりにつじつまも合っていて、なるほどと頷いてしまうことも多々あった。

 これをトンデモ本として全否定してしまう人も多いだろう。しかしそういうこともあるかも知れないという気で読めばそれなりに面白くないことはない。全肯定するのはさすがに如何かと思うが。

 いささかシンパシーを感じてしまうのは私のスタンスがなせるところであるが、批判されているメディアや野党がいかにも偏っていると思うことがしばしばある。ただ、朝日新聞でも読む値打ちのある記事もあるし、NHKのドキュメントの多くは知らなかったことを掘り下げて教えてくれて、いろいろ考えさせてもらうことも多いので、何でもかんでも考えなしに丸呑みにしなければいいのであって、そのためにもきちんとした歴史を知り、自分の考えを持たなければならないことはもちろんだ。

 そういう意味でこういう本も自分を鍛えるにはいいかも知れない。

 急に肉が食べたくなった。焼き肉屋に行くのは散財が過ぎる。それにむかしほどたくさんは食べない。自宅で焼き肉をすることにする。買い出しに行ったらずいぶん冷たい風が吹いている。アメリカのD.C.の藤子さんはもうこたつを出したという。私も出そうかな。

真実直視を

 ソウル市内で開かれた韓日・日韓協力委員会合同総会で、文在寅大統領が「植民地時代は両国にとってつらい過去だ。しかしつらいからと云って真実から目を背けるわけにはいかない。持続可能で堅固な韓日関係のためにも、われわれは真実を直視しなければならない」「両国が相手の立場に立って、正義と原則を構築すれば、心からの友人になれる」と呼びかける書面を寄せたそうだ。

 揚げ足とりはしたくないが、ここで文在寅大統領が「真実から目を背けるな」と呼びかけている相手は、いかにも両国に呼びかけているように聞こえても、いままでの経緯から考えて韓国国民が含まれているとは思えないし、含めてもいないだろう。もし含まれているのだと彼が認めたら彼は大統領を引きずり下ろされるだろう。

  彼が云う真実とは彼の思っている真実であって、日本が事実から導いて考える真実とは全く違うものだ。そもそも日本から云えば彼の云う真実など真実とはほど遠いと思えるが、そう思う日本は真実から目を背けているらしい。「心からの友人」になることができるためにはどうしたらいいのか、彼こそが胸に手を当てて考えて欲しいものだが、「正義と原則」は彼の手に有ると思い込んでいるのだから如何ともしようがない。

 パプアニューギニアでラガルドIMF専務理事に対して文在寅大統領は「新興国から資金が流出し、世界的に流動性が不足すれば世界経済がふたたび金融危機に直面する可能性を排除できない」と語ったそうだ。韓国はリーマンショックのときに金融危機に陥りかけた。その韓国は「いまは外貨建て債務の規制強化などで健全性を強化している。各国も外貨市場の健全性を強化して先制的に未来に備えなければならない」と胸を張ったと云うことだ。そして「新興国や開発途上国は現在の世界経済の状況におおきく影響を受けかねない」と懸念を示したそうだ。

 なかなか頼もしいではないか。韓国は新興国でも開発途上国でもないし、現下の状況に万端の準備ができているとの前提の言葉に聞こえる。何かあっても韓国は大丈夫と云うことで、間違っても日本を頼ることはなさそうて安心した。

2018年11月18日 (日)

労働組合

 労働者の権利を守るために労働組合があるとされている。それならこの世に労働組合は必要なものだろう。労働者と使用者側はそもそも対等ではない。だから組合ができた。しかし労働組合がしばしば政治活動を主体に行動し始めると労働者が置いて行かれてしまう。イデオロギーが優先し、労使は正義と悪という立場の対立として構造化されてしまう。

 しかし労働者は労働組合から労働の対価として報酬をもらうわけではなく、使用者側からもらうのであって、その報酬を決めるとき、個では弱いから組合という組織で交渉する。また雇用そのものも使用者が会社という組織を維持しているから成り立つ。こんなことをあらためて書くのは、韓国の最近の労働組合の話しを見聞きするからである。

 労働組合の幹部が組合活動という名の政治活動を職業化し、ついには会社の経営を傾けてしまうと云う異常な事態が韓国で頻発しているように見える。会社は利益を生み出せなくなれば報酬としての給与が十分に払えなくなるし、ついには雇用そのものも維持することはできなくなるのは資本主義社会では自明のことだと思うのだが、韓国ではちがうようである。

 韓国の自動車会社、造船会社では会社の利益を損なうような組合活動がますますエスカレートして、経営を著しく圧迫していると報じられている。労働者の権利を守るためとして要求をエスカレートさせることでそれらの会社では世界水準よりもはるかに労働生産性が低下してしまった。それならそれらの会社は世界での競争力を失う。競争力を失えば利益も確保できず、会社は存続の危機に陥る。

 それでも労働争議が止まらないのがいまの韓国だという。不思議なことである。会社がなくなればそもそも雇用も報酬も失ってしまい、労働者にとって不利益そのものだが、それでも突っ走っている。

 すでに債務超過に陥っている造船会社に巨額の公的資金を投入することで安価な受注を可能にしている(日本はそれを不当だとしてWTOに提訴した)。自動車会社もすでに傾き始めていて、その兆候はまず下請けの倒産の続発に現れているという。それに対して造船と同じように韓国政府は公的資金を投入するだろう。

 文在寅大統領政府は労働組合と親和性が極めて高く、企業を悪とみなしているかのようである。ますます公的資金は投入され続けるだろう。そして労働組合が不当行為や暴力的な行動をして検挙されても、次から次に無罪放免となり、却って検挙した方が更迭されるという異常事態だという。これでは誰も労働組合の暴走は止められない。最近は警察は見て見ぬふりだという。これでは韓国の企業はもちろん韓国に進出している海外企業も韓国から脱出するだろう。

 ソウルの市長は「労組活動をしやすいソウルを作る」と公言したそうだ。その結果であろうか、ソウル市の雇用悪化が全国平均よりも大きいという。ふつう首都はそれだけ経済規模が大きくて雇用数を確保する能力が高いのがふつうである。だから大都市に人が集まる。しかも雇用が減るばかりでなく、正規雇用が大きく減少し、日雇いや臨時職が増加しているのが実情だという。質も低下しているのである。

 そんななか、ソウルの交通局の労働組合がソウル市長と交渉したところ、正規職への転換、さらに昇級が一挙に認められたという。公務員についてだけはいくらでも市長の裁量が可能なのだろうか。そして市長にとってはそれが正義なのだろう。韓国はいったいどうしてしまったのだろうか。企業が回復可能な限界を超え始めているとしたら恐ろしい。サムスンだけでは国を支え切れまい。

話せば分かるか?

 話せば分かるはずだと云いながら、自分の言い分は決して譲らない。そもそも分かるためには相手の言い分を聴かなければならないし、合意することを前提にしなければ話し合いはあまり実りのあるものとはならない。

 しかるに世の中はディベートという名の喚き合いである。自分の声の大きさで相手の言葉を遮り、揚げ足を取り、勝った負けたという。ディベートとは相手を言い負かすことなのか。

 立場も意見も違えば言い負かしあいが不毛なのは当たり前なのに、そういう人間ほど話せば分かるから話し合おうという。そして言い分が100%通らなければ腹を立て、ふてくされる。

 本当に話せば分かるのか?自分と相手とは違う立場と利害を持っていることを理解して、話しても分からないとあきらめたところから話し合いを始めるしかないというのが「話し合い」というもののようだ。だから合意はそれだけ奇跡的だし尊いのだと思う。そして正義の名のもとにその合意を踏みにじる人たちがいて、さらにそれでもその人たちと話し合えと云う人もいる。

2018年11月17日 (土)

内田樹『街場のメディア論』(光文社新書)

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 内田樹(うちだたつる)老師の本はたいていでてすぐ買うから、2010年発行のこの本はもちろん一度読んでいる。(めったにないことだが)読む本が足りなくなって旅先の本屋で目についたこの本をどうしてもすぐ読みたくなり、購入して再読した。

 帯にあるように、「メディアの不調は、日本人の知性の不調と同期しています」という言葉に私は強く同感する。世のなかは他人の揚げ足とりばかりである。政治家も、メディアもこぞった誰かの言葉尻を捉えて正義の名のもとに断罪することに狂奔している。それがクレーマーの猖獗とオーバーラップして見えるのは私の錯覚だろうか。

 この本は「メディア論」と謳っていて確かにメディアについて論じているのだけれど、メディアを論ずるためには日本の社会の現実を論じなければならないとして、日本文化論を展開しているのだ。「仕事論」「クレーマー論」「正義論」が語られたあとにメディアの現実とあり方、「出版文化論」「贈与経済論」と話は進み、未来を展望していく。

 2010年に出版されたこの本は、老師が神戸女学院大学の教授としてこのテーマで講義したものを下敷きにしているから、日本社会の背景は少し古いのだが、全く時代遅れとなっていないことに驚かされる。古くなるどころかますます新しいのである。問題がいまの方が顕在化しているからだ。一読の値打ち「大いにあり」の本だ。

ペギー・リーを聴きながら

 ペギー・リーを聴きながらボンヤリしている。夜中の三時前に目が醒めたら眠れなくなってそのまま起きている。昨晩は八時過ぎに眠くなって、そのまま寝床に転がり音楽を聴いていたら寝てしまった。だからとくに寝不足ということはない。

 おおむかしペギー・リーを初めて聞いたときからいいなあと思っていたけれど、特にレコードやCDなどを捜すこともなかった。ネットで検索したらペギー・リーはすでに亡くなっていることを知った。先日思い立ってe-onkyoでハイレゾを捜したらアルバムはジョージ・シアリングとのコラボが一つあるだけだった。もちろんそれを購入してダウンロードして愉しんでいる。さらにCDを二枚ほどネットで購入。これをCurio-soundでハイレゾ変換してNASに取り込み、AVアンプで鳴らしている。聴けば聴くほど好きになる。そういうものなのだろう。

 少しずつ出掛けたい気分が膨らんでいる。月末くらいからしばらく鳴子あたりの湯治宿を拠点にしてどのあたりまで脚を伸ばそうか、などと地図を眺めている。

2018年11月16日 (金)

村松剛『死の日本文學史』(中公文庫)(1)

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 もともとは新潮社から1975年に発刊されたもの。文庫化は1994年(私の手元にあるものはこれ)。著者の村松剛は女優の村松英子のお兄さん。いま村松英子といっても分かる人は少ないだろうなあ。

 著者が昭和46年(1971年)にカナダのトロント大学の招きでトロントに行き、日本文学についての講義を行った。日本人の死生観がテーマであったが、その講義をもとにしたのがこの本である。

 すべて旧漢字、というか正しいもともとの漢字が使用されている。いま日本でふつうに使用されているのは戦後簡略化された日本独特の漢字である。中国の簡体字は中国独特の漢字で、もともとの字を繁体字などという。このすべて繁体字の文章は慣れないと読み難いけれど、書かれている内容は逆に分かりやすいかも知れないと私には感じられた。著者のこだわりはそれを意識しているのだと思う。

 幕末史がテーマの、著者の『醒めた炎』(中公文庫で五分冊)という本を読んで感激して、この『死の日本文學史』を購入したのだが、拾い読み程度でちゃんと読み切れていなかった。13章に章立てしていてそれぞれ一章が本一冊に十分匹敵するような濃密な内容なのである。二十数年ぶりに三ヶ月以上前から精読を始めて、ようやく読み切った。こんなに読了後に満足感、達成感を感じた本は久しぶりである。

 興味深いところがありすぎて一度で紹介するのは無理である。しかし詳しく内容を紹介して自分の感じたことを書いていると当分の間この本のことを書き続けることになるおそれがある。

 気の向くままにときどき取りあげることにしたい。

 とりあえず出だしが柿本人麻呂論である。第一章の章題が『人麻呂とオフィーリア』、オフィーリアはハムレットの許嫁で、狂って水死する女性である。美少女の水死といえば、絵画ではしばしばテーマになる。たとえば・・・と脱線していくとキリがない。そして人麻呂と水死との関係を知る人は知る。いま並行して読み始めている梅原猛の『水底の歌 柿本人麻呂論』が偶然とはいえ相関してくるのである。万葉集など全く無知な私が、いつの間にか村松剛や梅原猛に誘われてその世界を垣間見ることになる。本とはありがたいものだ。

川合伸幸『凶暴老人』(小学館文書)

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 駅や役所や銀行の窓口などで大声を上げる老人を見かけることがある。歳を取ると耳が悪くなって聞こえにくくなるし、相手の言葉を理解するまで時間がかかるのは自分自身で実感しているところだからその苛立ちが分からないことはないが、それにしても周りがまるで見えないあの怒りようはどうしたことかと思う。

 だから「なぜ高齢者ばかりがキレるのか?」と帯のあるこの本に惹かれたのだが、読み始めるとすぐにこの表題は読者を引きつけるためのものであることが分かる。こんな凶暴な老人がいるという実例が次から次に挙げられている本ではないのである。

 著者は認知科学の研究者(認知症の研究ではない)。巷間高齢者の凶悪犯罪が急増しているように報道されることがしばしばあるが、それは事実かどうかを著者は統計的に解析していく。その結果はただ高齢者が急増しているから絶対数がそれに伴って増えているためにそのように見えるだけで、凶悪犯罪に限れば年齢層別の割合で見てほかの年齢層とさほどかわらないのである。

 ただし犯罪件数そのものは確かに高齢者の割合が高いのも事実である。それが高齢者の忍耐力の低下、精神の自制の衰えによる社会性の低下によるものであるだろうことはすぐ想像のつくことであろう。ここから著者の専門の認知科学から分かる老化と脳の働きの変化についての研究が述べられていく。こういう臨床研究は脳の老化のメカニズムを説き明かすことにつながり、そしてそこからどうしたら脳の老化を食い止められるのか、その答えを模索していくことにつながるのである。

 それこそがこれから(もうすでに)脳の老化を迎える私にとって知りたいことだ。著者によれば認知力は鍛えられるし衰えを防ぐ方法もあるのである。たとえば脳トレはどれほど有効か、という調査などは興味深いところだろう。有効ではあるが限定的、という答えはそれに期待している人にはちょっと残念かも知れない。有酸素運動が、たとえば散歩などがとても有効であることなどが実験結果から明らかにされている。

 高齢者の認知能力の低下は孤立から加速される。これは誰でも思い当たるであろう。いまの日本がどれほど高齢者に冷たいのか、そのことに日本人はあまり気がついていない。海外での様々な経験から著者はそのことを嘆いている。高齢者が増えているのにそのケアに冷たい日本は今後どういう国になるのだろうか。現代の姨捨現象が進行しているのである。凶暴老人とは、それに対する老人の抵抗におびえる社会の予感なのかも知れない。

2018年11月15日 (木)

ちょっと甘やかす

 三日坊主にならずに本日散歩継続四日目のご褒美に、いつもより晩酌を多くいただいた。酒をゆっくり飲みながら葵わかな主演の広島発のドラマを愉しんだ。神楽がテーマのドラマで、なかなか良かった。

 しばらくひきこもり状態だった。気がついたらもう秋も終わりに近い。汗かきの私にとっていまの陽気での散歩はとても気持ちが好い。こんな時期はとても短い。大切に味あわなければもったいない。

 いくつかの散歩コースがあって、今日は本屋に立ち寄るコースである。目当ての欲しい季刊の雑誌が見つかった。ほかにちょっと目につく本を物色していたら、たちまち両手に本を抱えている。ほとんど病気である。帰ってシャワーをあびて酒の肴をしつらえて一杯いただいた。好い気持ちがずっと持続している。

 少々自分を甘やかしているけれど、それが出来ることをしあわせと思わないとバチがあたるのかも知れない。

 金沢の若い友人から近々会食しようとのお誘いがある。そしていつも海外へ行く友人達と奈良で会食をしようと私から声をかけて、予定をそろそろ決めるところだ。いま梅原猛の『隠された十字架』という本をじっくり読んでいて、それに触発されて法隆寺に行きたいと思っている。そのあとに会食のつもりである。奈良はこれからじっくり散策したいと思っているのだ。

 それは日帰りのつもりだけれど、一息入れたら前から考えていた東北への湯治旅行に出掛けようかとわくわくしながら考えている。冬用のタイヤに交換済みだから冬の東北の峠道も心配が無い。いつもの鳴子あたりを拠点に、日本海や逆に震災のあった牡鹿半島などを車で散策したり、天気が悪ければ温泉に入りながら読書三昧を愉しみたいと夢見ている。素泊まり超格安の宿に泊まり、自炊をしたり近くの居酒屋で一杯飲んだりするのも楽しいだろうなあ。

 紅葉のシーズンも終わり、世間も師走の忙しさに入るから宿もとりやすいに違いない。あとは出掛ける決心をするかどうかだけだ。それがなかなか出来ないのだけれど。

ピアノ

 子どもの頃はまとまった休みがあればほとんど母方の祖父母の家にいた。母がだいじに残していた夏休みの絵日記などを見るとそれを思い出す。私を育てた両親は二組あったといっていいほどで、明治生まれの祖父母にしつけられた部分がずいぶん多い。バスで一時間ほどのところだったけれど、乗り換えの必要もないところだったから小学校の一年生頃からは一人で行き来した。

 その祖父母の家の前の路地の向かいがピアノの先生の家で朝から晩までピアノの音が聞こえた。生徒が弾いているときもあったはずだが、記憶にあるのは先生の弾くクラシックの曲ばかりだ。音楽センスがほとんどない私だがうるさいと思ったことは一度もない。祖父母も音楽には全く興味が無いひとだったが、ピアノの音についてなにか苦情めいたことを言った記憶はない。

 一番下の妹がピアノを習わされた。母は自分が琴を習っていて、それが大好きだったそうだ。しかし祖父の転勤などで続けられなくなって、大事にしていた琴も手放すことになった。そのことを繰り返し聞かされたものだ。だから自分の娘に音楽を習わせたいというのが夢だった。父の薄給を顧みずに縦型のピアノを購入して、そこそこ有名なピアノの先生に教えを受けさせた。妹が中学生になる頃には音楽学校に入れる、と決めてグランドピアノを買い、家を改造してグランドピアノをおける専用の床と防音の洋間を増築した。

 なけなしの貯金をはたいたはずだが、日本経済は右肩上がりの好景気の時代だったから、そんな無理もきいたのだろう。妹はそれを嫌がりもせず、母の望むように音楽学校に行き、ちゃんと卒業した。だから家にはいつもピアノの音が聞こえていた。

 そう言うわけで私の耳はピアノにだけはとてもなじみがあって、ジャズやクラシックでもピアノ曲が特に好きである。眼を休めるために音楽を聴くときの半分はピアノ曲かも知れない。そういえば祖父母の向かいのピアノの先生が弾いていた曲の一つがシューマンのアラベスクハ短調作品18番だと大人になってから知った。聞きながらときどき子どもの頃のことを思い出したりする。

 NHKBSでウイークデーの朝五時からクラシック倶楽部という番組がある。聞きたくなりそうなものを選んでBDに録画しているが、たいていピアノ曲である。それをテレビを消して音だけにして聞きながらボンヤリする。気持ちが落ち着くし、なかなか快適である。

事実を知らなすぎることはときに不利益を招く

 事実を知らなすぎることはときに不利益を招く。このことは経験上明らかなことだ。そして誰だって不利益を蒙ることは避けたいはずなのに、事実を知る努力を怠って事実を知らないまま無知でいることに何の自覚もない人の多いことに驚く。

 そんなこと教えてもらわなかった、などと平然という。教えられても聞いていなかったり、そもそも知ろうとする気もなかった人ほどそう言う。そう言う自分自身だってかなり危ういが、それなりに知ろうと努めているつもりだ。

 同じことを知り、それについての意見が正反対になることがあるが、少なくとも知ろうと努めた上での意見には耳を傾けることができるし、時にはその影響も受けて自分の意見を修正することもある。やりきれないのはひとの意見を鵜呑みにして一方的感情的に語る人々だ。こういう人は反対意見に耳を貸そうとしない。実は正しいことを言っていたとしても賛同を得ることが却って難しくなる。

 これが政治的なことや外交のことになると特に甚だしい。政治的なことや外交について、正義だけを基準において論じていると実は相手は正義など基準においてなどいないことが多い。交渉ごとでは正義は建前であって、目的は自分の利益の確保であり、相手の譲歩の引き出しである。互いがその目的でとことん主張し合って、最後の妥協の上に成り立つのが条約というものだろう。

 だから条約は互いにとって不満なものとなるのは当たり前である。条約はそれでも互いに守る、という前提のもとに成立する。正義に反するからという理由でその条約を守らない、ということは条約を破棄するということに等しい。

 その条約の文言と主旨を多少は理解していまの事態を考えて欲しいと思うけれど、どうもそのような人は少数のように見える。マスコミも珍しく今回の判決に批判的な論調のようだが、あらためて日韓請求権協定という条約の内容の解説をしてみなに知らせる努力をして欲しいものだ。あわせて日本政府はそれを世界の国々にきちんと伝える努力をして欲しい。

 韓国の文在寅大統領政権はいまだに大法院(韓国の最高裁)の賠償判決に対しての判断も行動も見せていない。もしかしたら日本が何らかの行動を起こすべきだ、などと思っているのだろうか。それとも様子を窺って韓国国内の盛り上がりや意見統一を見た上でそれに乗ろうとしているのか。そもそもこんなことは些事であるからなにも考えていないという見方もある。北朝鮮のことで頭がいっぱいなのだそうである。

 彼にとっては日本が困ることが快感なのかと勘ぐりたくなるが、困るのは韓国の方だと思ってもらうにはどうしたらいいのだろう。それにしても日本側にも感情的で相手の思うツボみたいな反応をする人々も見受けられる。反対に、正義の立場から今回の判決を履行せよという日本共産党のような主張もある。まことにご立派なことである。誰が何を言うのか、よくよく聞いておく必要がありそうだ。その意見が政治家やメディアのリトマス試験紙になりそうだ。
追記
 けんこう館様のコメントで共産党が判決を履行すべしといったのか、というご質問がありました。直接聞いた話ではなく、記事のなかで読んだことなので心配になり、志位さんのホームページからそれに関連する部分を読みましたので、引用して主旨をご判断戴きたいと思います。

 1965年の日韓請求権協定では両国間の請求権問題が「完全かつ最終的に解決」されたと述べているが、「被害者個人の請求権は消滅していない」ということは、日本の政府と最高裁、韓国の政府と大法院の4者が一致して認めているとして、「日韓両国政府、該当企業は、この一致点にもとづいて真剣な話し合いを行い、前向きの解決のために努力すべきです」と述べました。
 これを共産党が今回の判決を履行せよといったことになるか微妙なところですが、私から見てそう取れるものに見えます。なにしろ個人の請求権は消滅していないというのですから賠償判決は正当であり、その解決とは判決を履行することであると受け取れますからね。

2018年11月14日 (水)

いまさらだけれど

 いまごろこんなことを書くのは恥ずかしいのだが、あいまいなままながらなんとなく分かったことを書く。詳しい人には噴飯物の珍説に見えるかもしれない。

 元安だとどうして中国政府はなけなし(とはいっても3兆ドルもあるけれど)の外貨準備を取り崩してドル売り介入するのだろうかと疑問に思っていた。日本は円安だと株価は上がるし、日銀がドル売りして介入したりしないではないか。中国だって元安なら輸出はしやすくなるし、アメリカの追加関税のダメージを緩和することにもつながるはずである。

 いま中国政府が最も懸念しているのは、中国から海外への資本流出であり、それが中国にとって最も恐ろしいことらしい。中国はアングラマネーの割合がとても高いといわれている。もともと賄賂の国である。それは中国人の文化として何千年ものあいだに染みついてしまっていて、なくすことはなかなかできない。告発された高官の貯め込んだ金の額の巨大さに絶句させられることがいままでもしばしばある。

 それが中国の潤滑油としてうまく機能していればそれはそれで問題とされていなかったのだろう。ところがその金が中国国内から海外に流出しているとなると問題なのである。そして流出している金はどれほどあるのか誰も分からない。習近平はその流出している資本があまりに巨額で中国を食いつぶしかねないことを恐れているのではないか。

 彼が汚職を摘発するのは正義のためではない。多分彼だってのし上がるのに巨額の汚い金を出し入れしているに違いない。権力闘争のためには敵方、彼にとっては上海閥である江沢民派の金づるを抑えることが自分自身の権力基盤を固めることでもあり、保身のためでもある。

 ところがその江沢民派をはじめとする連中の金が恐ろしいほど海外に流失している可能性があるのだと思う。それが明らかになると中国経済に不安が生じ、さらに海外に資本が流出し、外資も逃げていく。その目安が1元7ドルだとささやかれている。それを超えて元安になると、元安がさらに加速するかも知れないとみているのだろう。

 中国はGDPの成長率の目標を6.7%などとしている。私はその6.7%のなかにブラックホールに呑み込まれるようにアングラマネーとして消えているお金が含まれているのだと思う。それが中国を蝕み始めていて中国はいま元安を見過ごすことが出来ないのではないか。だから虎の子の外貨準備高を取り崩してドル売りをせざるを得ないのだと思う。

 これが私が思い至った中国の保有外貨準備高の急減の理由についての答えである。上海株価と元ドルレートを同時に見ていると面白い。

映画備忘録(6)

 とりあえず今回で映画の話しは締める。

『デンジャラス・ドライヴ』2015年オーストラリア
監督ジェイ・ホッグ、出演サム・ヤング、ピーター・マーシャルほか。

 これもシチュエーション映画というのだろうか。シチュエーション・スリラーというのは不条理な状況に突然置かれた主人公がその情況の意味を何とか解こうとしてもがくなかで起こる出来事を描く映画ということになっているようだが、けっこうおぞましいものも多い。ホラー映画など、ある意味ではその範疇と言えないことはない。

 主人公は車のトランクに閉じこめられた状態で目覚める。なぜトランクの中に閉じこめられたのか、そもそも自分がどういう人間なのか、そして閉じこめた人間はいま運転中の男らしいのだが、その目的は何なのかが全く分からない。

 全く同じシチュエーションの映画を見た記憶があるのだが、題名が思い出せない。その映画を意識しているのかいないのか、物語の展開は全く違い、結末はどう考えてもそれまでの展開と矛盾するものになっている。結果的にシチュエーションスリラーというよりもただのロードムービー風なものになってしまっている。

 そのへんの矛盾を愉しみたいなら見てもいいが、あまり出来がいい映画とはいえない。思い出せない方の閉じこめ映画の方がずっと出来が良かった。

ほかに『ザ・サイキック 覚醒の賢者』2017年カナダなどという映画も観たが、題名から期待するほどのものではなかった。シリーズにするつもりらしい終わり方だが、続かないだろう。お粗末で語るにたらない。本当にカナダ映画は外れが多い。

映画備忘録(5)

『ザ・ボディ・ガード(2017)』2017年アメリカ・スペイン・ドイツ
監督ジョナサン・モストウ、出演サム・ワーシントン、オデイア・ラッシュ、アレン・リーチほか。

あのケヴィンコスナー主演の『ボディガード』のリメイクではないし、ストーリーも関係がない。マフィアのボスが自分を裏切った弁護士一家の殺害を殺し屋に指示する。弁護士の一人娘エラを殺害するはずだった主人公は彼女を殺すことができずに彼女を助けることになってしまう。ボスは最強の殺し屋を彼等の殺害のために派遣する。

 その逃避行と、次々に襲ってくる殺人者たちの攻防の物語である。絶体絶命の情況の中で主人公がどう行動するのか、そして逃げ続けるなかでただの世間知らずの少女だったエラがしだいに成長していく姿が描かれていく。文句なしに楽しめたから出来は悪くないと思う。それ以上にエラ役のオデイア・ラッシュが魅力的であったのが印象に残る。

2018年11月13日 (火)

映画備忘録(4)

 若いときと違って俳優の名前や映画の題名がなかなか出てこない。若いときは毎年ジャンル別のベストテンを選定していたのだが、観た映画をしばしば思い出せない今となってはそれもかなわない。ブログに観た映画をすべて書き出しているわけではないので多くが忘却の彼方である。まあ映画を楽しめているのだからそれでもいいか。

『ダーク・クライム』2016年イギリス・ポーランド・アメリカ
監督アレクサンドロス・アヴラナス、出演ジム・キャリー、マートン・ソーカスほか。

 顔面がびっしりと髭で蔽われていたのでジム・キャリーとは思えないが、よくよく見ればそうである。ジム・キャリーはあまり好みの俳優ではないが、この映画で見直した。シリアスな映画を好演している。

 異常殺人事件を追及していたが犯人を挙げられずに内勤になった主人公が、その捜査を打ち止めにしてから出世した上司が実はこの事件に関わっているのではないかと疑いを持ち、暴走していく。

 細かく書くとネタバレになるので、真相が分かったとき、彼が自分の「ダーク・クライム」(クライムとは罪のことである)に気付いて絶望の叫びを上げるのがラストであることだけ明かしておく。

映画備忘録(3)

 今回もスティーヴン・キング原作の映画から。

『ダーク・タワー』2017年アメリカ
監督ニコライ・アーセル、出演イドリス・エルバ、マシュー・マコノヒー、トム・テイラー、キム・スヒョンほか。

 大部のスティーヴン・キングのダーク・タワーシリーズを95分の映画にまとめることなど不可能なのだが、長すぎる原作を読む気力がもうなくなった私にはこうしてその世界観を覗かせてくれる映画はありがたかった。多分原作のほんの一部を抜粋した物語になっているのだろうが、映画として面白かったから出来は悪くないと思う。

 マシュー・マコノヒーが黒衣の男ウォルターを演じている。ウォルターは世界を滅亡させて魔物たちの異世界に支配させるために、ダークタワーを破壊しようとするすさまじい能力を持った悪魔である。ダークタワーとは多重世界すべてを護る塔なのだが、それを破壊するためにはある特殊能力を持つ少年が必要で、その少年と塔を護るガンスリンガーがウォルターと戦うという物語である。キングの物語はその設定を受け入れないと愉しむのが難しい。もちろんそのへんは実に巧みに導入してくれるのだが、ここでそれを再現するのは不可能だ。

 このウォルターを演じているマシュー・マコノヒーを観ていたら、『エンド・オブ・デイズ』(主演はアーノルド・シュワルツェネッガー)のサタン役を演じていたガブリエル・バーンや、『ゴッド・アーミー 悪の天使』でやはり悪魔を演じていたクリストファー・ウォーケン(大好き)、『エンゼル・ハート』(主演ミッキーローク)でルシファー(堕天使つまり悪魔の一人)を演じていたロバート・デ・ニーロ、『ディアボロス 悪魔の扉』(主演キアヌ・リーヴス)で悪魔を演じていたアル・パチーノなどがたちまち思い浮かんだ。

 名優たちが嬉々として悪魔役を演じているのは、観ているこちらも楽しい。マシュー・マコノヒーもなかなか悪くなかった。ちょっと怖さに欠けるけれど。

2018年11月12日 (月)

映画備忘録(2)

 ダイナブックは蘇生したというよりゾンビ化した。起ち上がるときにときどき「ディスクを修復するのでお待ち下さい」、などという表示が出るようになり、短いときで数分、下手をすると30分以上作業ができない。ときどきは何の支障もなく起ち上がる。正気に返るときもあるのだ。七八年前になにをしても全く動作しなくなったDELLのパソコンみたいな壊れ方ならあきらめもつくのだが、まだ使えるときもあると迷う。こういうときに限ってすべてを引き受けているAcerのモバイルパソコンに負荷がかかって突然アウトになるなどという最悪の事態も起こりかねない。方策を考えておかなければ。

映画の話しである。今回はスティーヴン・キング原作の映画を。

『キャリー(2013)』2013年アメリカ
監督キンバリー・ピアース、出演クロエ・グレース・モリッツ、ジュリアン・ムーアほか。

 監督ブライアン・デ・パルマ、シシー・スペイセク主演の傑作『キャリー』のリメイクであり、おおむね大きな変更は加えられていない。スティーヴン・キング好きとしては小説はもちろん前作の『キャリー』も映画館でリアルタイムで観ている。ホラーは苦手だが、この程度なら楽しめる。

 この物語は原作を読めば分かるが、母親が恐ろしいのである。その母親に抑圧され続けたことでたまりにたまったキャリーの超能力が爆発するラストがすさまじいのだが、そのキャリーは美しくても可愛くても似合わない。その似合わなさこそが企まれたクイーンに選ばれるという悲劇を盛り上げる。シシー・スペーセクはまさにそのようなキャリーを演じていた。

 しかし2013年版はクロエ・グレース・モリッツなのである。あまりにも可愛すぎるではないか。もちろん演技派の彼女のことだからそれをひたすら隠すように演じているが、彼女のあの口もとはたいていの若い男を引きつけるはずで、いじめに遭うキャラクターではない。私だって彼女をとてもチャーミングだと思う。

 母親役をなんとジュリアン・ムーアが熱演していて圧倒されるが、確かに魔法使いのおばあさん的には演じられても、狂気の様子がいささかもの足らない。狂信者の狂気が説明的ではまずい。その点デ・パルマは全く説明的ではない狂気を描いていたように思う。

 多分物語を知らずに初めてこの映画に出会った人にはそれなりに記憶に残る映画だと思うが、前作と比較してしまうと残念であった。

映画備忘録(1)

 この二週間ほどほとんど遠出もせず、散歩もせず、家に引きこもっている日が多かった。瀕死のダイナブックの蘇生その他で忙しい日もあったが、おおむねボンヤリ過ごしていた。録りためたドラマを観ていることが多かったが、その間にぽつりぽつりと映画も見たのでその一部を備忘録として書いておく。

「ブレンダンとケルズの秘密」2009年フランス・ベルギー・アイルランド、アニメ映画、監督トム・ムーア

 原作はアイルランドのアニメ作家であり監督のトム・ムーア。実在するケルト装飾写本「ケルズの書」にまつわる物語である。この「ケルズの書」はアイルランドの国宝だそうだ。

 アイルランドについてはアーナルデュル・インドリダソンのミステリー、『湿地』『緑衣の女』『声』という傑作を読んでイメージが頭にできあがっており、思い入れがある。いま翻訳第四作目の『湖の男』が積みあげられた本の中で順番を待っている。

 このアニメ映画は日本のアニメとは全く違う。意識して遠近法を排して絵画的に描かれており、緻密な文様がとても美しい。それがそのまま『ケルズの書』の素晴らしさにつながっている。主人公は少年修道士で、修道院の院長の甥にあたる。バイキングが猛威をふるっているという噂が流れ、修道院もその防御のために高い壁を設けることに注力している。

 そこへ院長のむかしの知り合いであり、失われたケルト装飾本の写本の作成を生涯の仕事にしている男がやってくる。彼はバイキングが来たらこんな防御ではひとたまりも無いと忠告するのだが、逆に院長によって幽閉されてしまう。

 未完成の写本を書き続ける彼の依頼で少年は禁断の森に赴く。特殊なインクの材料の木の実を捜すためである。そこで危険に陥るのだが不思議な少女(妖精)に助けられて友達になる。やがてバイキングがやってきて・・・。

 最後に成長した少年が完成した『ケルズの書』を携えてこの修道院にやってくる。それまでの様々のドラマが凝縮された『ケルズの書』は素晴らしい輝きを放っていた。とにかく息を呑むほど美しい。物語のなかに宗教的なものが含まれている。一神教のキリスト教によってもともとの土俗的な汎神的な聖霊たちが滅び去りそうになりながら『ケルズの書』のなかに生き残ったのではないか。だから国宝なのだろう。

 アイルランドには思い入れがあったが、さらにそれが強まった。

熱気が苦手

 私が小学校三年生か四年生の頃だから、おおよそ60年近く前のことである。近所の主婦に誘われた母と一緒に公民館に行った。なんだか良くしゃべる背広を着てネクタイを締めた男がマイクを持って雑貨を捌いていく。せいぜい100円程度のものだが、それを5円とか10円、とか言って、手を上げさせてつぎつぎに渡していく。多くの人が手を上げるのだが、手に入れられるのは数人なのでだんだんみんな夢中になる。次から次に別のものが捌かれていく。会場は熱気に包まれていくのが子供心に感じられた。

 当時は100円ショップなどないし、いまほど豊かでもなかったから、必需品でもある雑貨が安価で手に入るのは主婦にとってなにより嬉しいことである。続いて少しだけ値の張る物が置かれる。何だったか忘れたが、とんでもなく安い。ただし、たいてい一つしかない。みなくじが当たるかどうかというような気分である。しかも一刻でも早く手を上げた人に手渡されるのだから、もう欲しいかどうか関係なしに夢中で手を上げる。

 最後に出されたのが羽毛布団のセットであった。夢中で手を上げ続ける主婦たち。たちまち何組ものセットが売れていく。母は最初こそ手を上げて、うまいことザルかなんかを二つ三つ手に入れたが、途中から黙りこくって手を上げなくなった。後ろをそっと見ると、男が三人ほどじっと会場の主婦たちを見ている。なんとなく気持ちが悪くなった。

 興奮のあと、母とそそくさと会場を後にして、しばらく歩いたあと母が「こわかったねえ」とぽつりといった。

 ああいうのが催眠商法というのだとあとで知った。高価な羽毛布団を買った主婦たちはそのあとどうしただろうか。目が醒めて断ろうとしたときにあの後ろに立っていた男たちがどのような行動に出たか、いうまでもないだろう。見てないけど想像はできた。

 催眠商法をはじめとする詐欺に敏感になれたのは、母とのその体験があったからだ。もともと母は新興宗教の勧誘などを毛嫌いしていた。自分の意思ではないことを勧められたり強制されることが大嫌いなのである。

 ジャパンライフのニュースを見て、健康器具のうさんくささに輪をかけた、それを投資の対象とした資金の募集に応募した人たちはいまどんな顔をしているのだろうか。彼等は健康器具が有効であることを信じたのではあろうが、それ以上に信じたのは、健康器具の効果を信じるだろう多数の人たちがいて、その人たちからお金がたくさん自分に回ってくるという幻想だったのではないか。

 熱気に包まれた市民運動や政治の場にも、あの子供のときのザワッとするものに似たものを感じてしまうのはいささか過敏かも知れない。母譲りで熱くなれない性分なのである。幸い詐欺にはまだあったことはない。

2018年11月11日 (日)

映画「アンダー・ザ・ウオーター」2017年スウェーデン、デンマーク、フィンランド

監督マックス・ケストナー、出演カーステン・ブィヤーンルン、ソフィア・ヘレンほか

 私のこの映画に対する評価は二重丸であるが、そのように評価する人は少ないと思う。なんだか画面は陰鬱そのもの、びしょびしょしているし希望というものがない。それ以上になにを表現したいのかさっぱり分からないかも知れない。私だけはそれが分かった、などと自慢したいわけではなくて、私にも分からないところがあるけれどそれを自己流に解釈すること、分かろうとして考えることがとても楽しく感じたのだ。

 この映画はSF映画のジャンルだろうが、娯楽映画とはいえない。金もあまりかけていないし、盛り上がりもあまりない。タイムパラドックスがテーマの一つだろうけれど、どうして時間を移動できるのか、ほとんど説明らしい説明もないのである。

 いまから約80年後、地球は海水面の上昇でほとんど水没した世界となっている。真水がほとんどなくなり、高濃度の塩分に常にさらされることによって人間以外の生物はほとんど死に絶えている。それでも科学は進んでいて、時空移動が可能となっているのだが、それを行うごとに時空に歪みが生じてしまい、時空移動は禁止されることになる。

 そんなとき80年前に海水を真水に買える画期的な技術が開発されかかっていたことが分かる。そして同じ頃ほぼ最後の時空移動のために選ばれたのが主人公である。彼の目的は、それを開発した科学者(実は彼の曾祖母)と「接触せずに」その技術情報を未来へ送ることだ。どうしてその技術が日の眼を見なかったのか。彼女は技術を確立した数日後にその資料とともに飛行機事故で亡くなってしまったのだ。

 面白いことに時空移動しても元の場所に本人は残るのである。そして移動先にも本人が出現する。本人が二人の人格として存在することになる。そのことでタイムパラドックスを逃れられる点もいくつかあるけれど、逆に矛盾もさらに増えてしまうが、それは映画のなかの言い分をそのまま受け入れないとドラマが進行しない。

 二人の人格が違う時間のなかに存在してしまうと、二人の再統一は不可能となるのではないかと思うが、そのへんが物語の進行に大きく関係してくる。分裂した自分とはすなわち精神病の人間そのものではないか。

 笑ってしまうのは、過去に行った自分が再統一のために開かれたゲートに現れないことで、過去に行ったきりになってしまうのだが、それを迎えにこちらから本人がふたたび行くのである。そうなるとまた自分が二人になって都合三人になりはしないかと心配するが、そうはならないようだ。

 まあとにかく接触してはいけない自分の曾祖母やその娘に接触してしまうことで時空に様々な異常が起こり出す。そうなると主人公の記憶にある過去からつながる現実と、実際の現実に乖離が起こることになる。当たり前のことだが、それをうまくまとめる、などということはこの映画では起こらない(そもそもあまり考慮していないように見える)。プロローグの海面に浮かぶ男のイメージがラストでふたたび現れて終わりである。観念的にこの状況をどう受け止め、どう感じるのかか問われているらしい。あまり良く分からないけれど分からないことが面白いなあ。

 なんだかこのブログを書くために映画を反芻していたら、もう一度観直したくなったのだが、実はもう消去してしまった。忘れた頃に再放送でもあったら、もっといろいろ面白い突っ込みどころを見つけられそうで楽しみだ。

また中国のニュース

 中国税関の発表によれば、10月の中国の対アメリカ貿易黒字は前年同月比で19.4%増加したが、9月が過去最高だったのに比べれば6.8%減少した。同月の対アメリカ輸出は対前年同月と比べて13.2%の伸びだというから、考えてみればアメリカからの輸入が減っていることになる。中国が発動したアメリカに対する追加関税が影響しているのか。

 当局は今後のアメリカのさらなる追加関税を見越しての駆け込み需要が輸出を後押ししたのではないかとみていて、今後はその反動による落ち込みの可能性があるという。アメリカへの輸出に急ブレーキがかかるのか、それでもさらに増えるのか、もう少し様子を見なければならないのだろう。

 トランプ大統領は目先で判断するところもあるから、中国も悩ましい。アメリカの商務省は中国産のアルミニウム板材に新たなダンピング関税(96.3~176.2%)をかけると発表している。中国政府は経済減速につながらないように、ここは面子を捨ててアメリカ以外の国との経済的なつながりを強化したいところだろう。日本との関係が見かけ上宥和に動いているのはそういうことだ、くらいは誰にでも分かっているだろう。日本にとっては悪いことではないと私は思う。日本もトランプ大統領のターゲットのひとつであることは間違いなさそうなのだから。

 ところで中国の外貨準備高が3ヶ月連続で減少している。8月、9月、10月の減少総額は日本円で約7.8兆円の減少、現在の外貨準備高は日本円で約345(3兆530億ドル)兆円だそうだ。短期的な結果で全体を論ずるのは危ういが、元が対ドルで下がっているなかで、推移のグラフを見ていると突然上がることがある。いろいろ理由があるとは思うが、私から見れば政府がドル売り元買い介入をしたのだろうとしか思えない。

 それにしても3兆530億ドルの外貨準備高はとてつもない金額だ。ところが問題はその中身である。今年の6月時点での中国対外債務残高は1兆8705億ドル、つまり準備高の6割が外債なのである。また、同じく6月末時点の外国企業による直接投資残高は5960億ドルだという。

 中国政府が為替介入などで自由に市場に介入できるのは、外債と海外からの投資額以外だから、なんと5800億ドルくらいしかないのだ、というのが専門家の見立てらしい。その通りなら、案外懐はさびしいことになる。中国の外貨準備高が、3兆ドルを切るとかなり危ういとしばしばいわれるのはそういう理由らしい。

 いざとなればアメリカ国債を売ると脅しをかければいい、などという話も聞くが、それは可能なのだろうか、よく分からない。

 そんななかで今回日本と中国は円と元との通貨スワップを再開することになった。その額は3兆4千億円、中国から見ればわずかな額かも知れないが、従来の額が3300億ドル程度であったし、それも中断していたので、中国にとってはとてもありがたいことなのではないか。とにかく日本が中国の元に対して信用保証をしたことになるのであるから。中国メディアはこの通貨スワップを「人民元にとって非常に有効だ」と報じている。

 ここで思い出すのは韓国との通貨スワップの話しである。韓国が2008年の経済危機の時に、日本との通貨スワップが危機を切り抜けることのできた大きな要因のひとつだったはずなのだが、その後日韓の関係悪化によりスワップは解消された。最近再開が検討されたが、一連の韓国のいささか異常な対日姿勢から、再開は絶望的になっている。それでも韓国政府は日本が望めばいつでも再開できる、などと公言している。恩を忘れたうえに舐められたものだ。

 韓国政府はスイスやカナダや中国とスワップを結んでいるから大丈夫と強がりを言っているのだが、中国は朴槿恵のときに結んだ巨額の通貨スワップが延長されている、ということを公には認めていない。もし約束があっても中国が韓国の危機の時に日本のように韓国を助けるかどうか分からないし、助けられるかどうかも分からない。危うい命綱だ。

 中国でさえ、いざというときのために日本と通貨スワップを結ぶなど、対策を講じているのである。その方策を自ら閉じている韓国に万一経済危機が発生したら、事態はかなり深刻だと思うが文在寅には北朝鮮しか見えていないようである。

2018年11月10日 (土)

ちょっとイヤな中国のニュース

 大紀元時報(多国籍のネットメディアらしい)によれば、ベトナムの警察が中国との国境付近で臓器奪取を目的とした誘拐が相次いでいるから注意するようにと小学校に呼びかけたそうである。奪われたのは肝臓、腎臓、心臓、眼球などだという。腎臓や眼球はともかく、心臓では代わりを入れてくれていれば別だが、命も奪われていることだろう。襲われるのは「高齢者、子供のいる家族、学校の課外活動中の生徒、一人で牛追いする子供」だというから恐ろしい。高齢者以外はすべて子供である。

 世界の臓器移植の需要は高いけれど、合法的に臓器を得るチャンスは極めて少ない。いくら金を出しても良いから臓器が欲しい人がいれば、非合法で臓器を売買する組織が暗躍することになる。まして不治の病の子供の臓器なら親は非合法でも何とか移植用の臓器を手に入れたいと奔走する者もあるだろう。

 先日観た法輪功の人たちを取りあげたドキュメントでは、多くの信者が強制収用されて再教育され、従わなかったものが激しい拷問を受け、命を落としたり処刑されたらしいと伝えていた。刑死したり拷問死した人たちの遺体がひそかに売買されているとの噂はあった。

 その遺体がまだ新しいうちに臓器が抜かれ、売買されることも多く、大きな利益をもたらしていたと国際的なニュースで報じられるにいたって、中国は刑死者の遺体は売買してはならないと通達したといわれる。

 需要は旺盛なのに供給が途絶えたのである。そのために暴利が忘れられずにベトナムに越境して商売を続ける輩がいたということかと思う。あくまで推測である。臓器売買は買い手とのネットワークがなければできないことで、組織的でなければ不可能な犯罪であろう。

 推測ついでにいえば、いま新疆ウイグル自治区などで百万人単位のイスラムを信ずるウイグル人が再教育のために強制収容所に入れられていると報じられている。行方不明者がたくさん出ているというし、それらの情報元だった人々はことごとく当局に連れ去られて連絡不能になったと人権団体が告発していた。いま中国は徹底した監視社会となっているから、当局は外部との通信をたどればこれらの人々をすぐ見つけ出すことができるはずだ。彼等も法輪功信者と同じ運命になっているのかも知れない。

 そういえば本物の人体をプラスチック化して人体模型として展示をするという催しがあるが、いつも盛況らしい。最近その遺体があまりにも若い人のものが揃いすぎていると問題になって展示会が中止に追い込まれたというニュースを目にしたように思うのだが、いつどこの話しなのか調べたが分からなかった。これも中国由来の遺体ではなければいいのだが。

久しぶりに中国のニュース

 中国に興味があって初期の頃の私のブログは中国のニュースを取りあげることが多かったのだが、ここ数年は中国からのめぼしいニュースがとても少ない状態が続いていた。それがつい最近になって多少増え始めた気がする。ニュースが少なかったのは中国が面白そうなニュースを制限していたからだろう。

 私が面白いと思うものは中国の特異性を現しているようなニュースで、それは中国政府としてはあまり海外で面白がられることそのことが面白くなかったのだろう。それがまた少し緩んでいるように見えるのは何か理由があるのだろうが、まだそれがなにか分からない。どちらにしてもいくつかひろい集めていたら久しぶりに中国関連のニュースについてのブログが書けるほどになったので取りあげる。

 中国の東方網が「日本酒と白酒(パイチュー)」を比較してその違いを論ずる記事があったらしい。それを紹介したネットニュースによれば「日本酒と白酒を比較する人がいて、日本酒は白酒を模倣して失敗したものだなどといっている。ときには日本酒は白酒より優秀だなどと評価する人もいる。両方とも断片的な見方である」と述べているから、つぎにまともなことが語られるのかなと思ったら・・・。

「歴史や政治的な要素は抜きにして、技術なら技術だけを比較すべきである」と続く。あれっ、何を言い出すのか。「元の時代から始まった蒸留技術で白酒は長時間熟成することで味に深みが出てくる」しかし「日本酒は保存が利かず、何十年物などの長期間熟成品は存在しない」などと違いを述べている。それはそうだろう。片方は蒸留酒で、片方は醸造酒である。焼酎と日本酒、あるいはウイスキーとビールを比較して熟成期間の長さを論じても意味が無い。そもそも日本酒のことを知らないか、お酒のことをよく知らずにゴチャ混ぜで語っているように見える。

だから、「白酒はコウリャンをはじめとする各種の穀物などが用いられ、その分様々な味わいを楽しむことができるのに対し、日本酒の原材料は米に限られており、基本的な味はみな同じである」などというトンチンカンなことを言い出すのだ。

 このあと中国の白酒の嗜好と日本の日本酒の嗜好とをその文化的背景と関連させて論じているらしい(もとの記事を読んでいない)。出だしがそもそも比較するのが無茶なことから始まっているからとても歯がゆくてムズムズする展開になっている。文化の違いをいいたいからその引き合いに日本酒と白酒を使っただけのことで、結局記事を書いた人の固定観念の披瀝だけに終わっているようだ。まあ、「日本酒は白酒より明らかに劣っている」とは結論づけていないようなのが救いか。本当はそう言いたいのが見え見えだけれど、踏みとどまっているのは日中宥和ムードの兆しのゆえか。

2018年11月 9日 (金)

池田清彦『いい加減くらいが丁度いい』(角川新書)

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 著者は養老孟司師と親交があり、内田樹老師とも親しい。この本の中にも「敬愛」しているとわざわざ書いている。歳は池田清彦の方が三歳ほど上なのに、である。それぞれにユニークな言説の人であってその著作や対談はとても面白く、影響を受けてしまう。ユニークということは人まねではないということだ。誰かの受け売りではなく、自分の頭で考えた上で自分の言葉を語っている人と云うことである。

 そう言う人にはなかなか出会えないものである。自分もそうでありたいと切に思うけれど、自分のブログを見れば、ほとんどが誰かがすでに語っていることや語りそうな言葉に満ちていて、オリジナルのものはかけらほどしかないことに情けない思いがする。

 著作から引用して面白さの一端を感じてもらう。

「耄碌の程度は個人差が大きく、頭が先に耄碌する人、体が先にダメになる人、どちらもパラレルに耄碌する人、超高齢になっても自立可能な人等々、様々である。周囲の人にとって一番厄介なのは頭がボケた人である。認知症などというふざけた名前が付いている。認知障害というならわかるが、認知症は名付けた奴が認知症だ。そのうち勉強ができない奴は学習症、運動ができない奴は運動症、歩けない奴は歩行症ってことになるかもね」

 思わず笑ってしまう。先生(つい最近まで著者は早稲田大学の教授だった)これで本気で怒っているのだ。

「加齢とともにボケ(認知症)が進行するスピードはすさまじく、ボケの割合は65~69歳までは3%、70~74歳4%、75~79歳1割強、80~84歳2割強、85~89歳4割強、90~94歳6割、95歳以上8割となる。90歳以上はボケているのがふつうで、ボケていないは異常ということになる。100歳まで生きれば、ほとんどの人はボケ老人になるわけだから、長生きはしたいけれど、ボケたくないというのは無体なのぞみである」

「物心ついてから出現した機械と、物心ついたときにはすでにあった機械とでは、接し方が違う。私が10歳になる頃までは、洗濯機や掃除機やテレビはもちろん、電話も自家用車もふつうの家にはなかった。これらの機械の出現は人びとの生活を大きく変えたが、そのことを実感したのは、物心ついたときにこれらの機械がなかった人々である。私の年代が丁度境目くらいで、私よりも10歳以上の上の人たちはこれらの機械の出現に目を回した口で、10歳より若い人たちは、はじめから当たり前だと思っていた口である」

 先生は1947年生まれ、つまり団塊の世代で、私(内田樹老師も同年)より三年だけ年上で、だいたい同世代であり、同様の感慨を持つ。

「私は71歳である。自分では老人と思っていないけれど、世間的には立派な老人である。若いときも老人とはどういうものか、なんとなく理屈では分かっていた。実際に老人になってみると、思っていた通りになったところと、想像とは全く異なるところが出てきて、客観的に観察する分には面白いが、主観的には面白くない。体は徐々に衰えてくるというのは予想通りだが、衰えるというのがどういうことか、実際に経験するまでは分からない」

「それでも、脳は、脳以外の体とはとりあえず分かれているから、体の衰えを自覚することはさほど難しくないが、脳が脳自身の衰えを自覚するのは難しい」

「若いときはど忘れということはまずなかった。脳の長期記憶の領域に蓄えられている記憶量が少ないということも原因の一つなのだろう。テレビのクイズ番組などで一番早く正解できるのは、高校3年生から大学の初年度くらいの年齢の人である。脳の中の記憶量がそれほど多くなくて引き出す力が強いからだろう。それが年を取ってくると、クイズには役に立たないような個人的な記憶量が徐々に増えて、あまつさえ長期記憶を引き出す能力が衰えてくるものだから、クイズ番組で立派な成績を上げることは不可能になる」

 そうか、それでしばらく経ってから正解が思い出せることが多いのか。引き出す力が弱まっているだけなのだ。忘れているわけではない。でもだんだんかかる時間が遅くなり、いつまでも出てこない、いまに出てこなくなりそうでこわい。迷宮入り、コールドケースである。

 最初は老化について語っているのだが、しだいに話はあちこちに飛び、やはり著者が敬愛する(私も敬愛している)哲学者の中島義道先生を引き合いに出したりして持論を展開していく。

 生命というもの、人間の集団というもの、言葉というものについての先生独自の、つまりユニークな考えが語られてとても面白い。面白いのは多分同じ感性が多少は私にあるということなのだろう。

 ただ、先生の安倍首相を嫌うこと蛇蝎の如くで、どうもその部分だけは賛同というわけにはいかない。安倍首相が日本を亡国に導く人だと決めつけているのは不思議だ。たとえばいまの韓国との問題が民主党の鳩山、菅、野田の元首相の政権の時代だったらと思うとぞっとしないだろうか。そういう点だけでも私は安倍首相を一概に否定はできないし、しない。そのへんも「いい加減」でいてくれると「丁度」いいのに。

如何かと思う

 今回の韓国の徴用工(正確にいうと徴用工ではなく、自発的な就労者だったという)裁判の判決について韓国でも日本でもさまざまな意見が発せられているが、そんななかで日本商工会議所の三村会長が「できるだけ早急に両国関係が正常化するように願う」と話したと報じられた。

 経済団体の代表が経済の点から係争を避けて仲良くしてほしいという気持ちはわからないことはない。係争すれば必ずいま韓国とのあいだの経済に損失が生ずるからである。いままでの投資や韓国にある資産、韓国への輸出による利益が損なわれる。

 正常化というのだからいまは正常でないという認識なのだろう。そこでいう「正常化」とはなんだろうか。この判決が出る前の状態を正常とみているのだと想像される。しかし「正常ではない」状態をもたらしたものは韓国であって断じて日本ではない(韓国側は全面的に日本が原因というに違いないが)。

 しからば三村会長は「正常化」するためにどうしたら良いと考えているのだろうか。

 ここで注目すべきは、この三村会長というひとは新日鉄住金の名誉会長だということだ。今回の裁判の被告側であり、賠償金を払えと言われている側の立場の人である。

 日本政府は判決は受け入れられず「拒否」するという姿勢である。心配なのは、目先の利害にとらわれて安易な妥協をしてしまうことである。日本はいままでずっとそうして妥協してきた。そのたびに韓国はゴールポストを自分の都合の良いように動かし続けてきた。今回は「ゴールポストが壊された」とまでいわれる事態だ。日本がゴールする場所がなければ日本は永遠に韓国に得点を許し続けることにつながりかねない。だから今回は「拒否」である。

 それなのに「正常化」という名の妥協を示唆しているように聞こえる。その心底に自分の会社の利害が優先されていないと断言できるのか。一人一千万円、四人で四千万円、それを直接でなく両国の基金という名の名目で払えば安いものだ、くらいに考えているのだろう。もしそうならとんでもない了見である。すでに35件以上のの裁判が進行中であり、それで賠償金がもらえると知ればつぎつぎに名乗りを上げるものが現れるのは火を見るより明らかである。日本としては、この際には正義とは関係なしに「拒否」しかあり得ないと私は思う。

 それなのにこの三村会長の言葉である。政府の最も懸念していたことは経済界の安易な妥協提案だろう。自分の会社の利害が関わるとき、安易に国の方針にコメントするのは控えるべきではないか、と私は感じてしまったのだ。

2018年11月 8日 (木)

なにをしてくるのかが分からなければ対処の仕様もない

 アメリカの中間選挙で下院は民主党が多数を確保した。これがこれからのトランプ大統領の行動にどう影響してくるのかはまだ全くわからない。さまざまな予測が書かれ、語られているが、なによりアメリカの株価がこの結果を受けても上昇しているところをみると、多分それほど劇的なマイナスなどないと思われているのだろう。

 韓国の徴用工裁判の結果が出てからしばらく経つが、大統領府はなにも具体的なコメントも行動も起こしていない。日本側は、政府もマスコミもほぼこの裁判をあり得ないものとして拒否的な反応をしている。それを見て、思った以上の反発に驚いて、どうしていいか分からないのだろうという気がする。

 さすがに韓国のマスコミもこれが日韓関係に大きな悪影響を及ぼすことをそれとなく報じている。ただし、問題点をしっかり挙げた上でまともなコメントをしているものと、日本の反応が異常だという論調とがあるようだ。新聞の傾向がはっきり出ている。ところで韓国の首相や代議士の多くが日本の反応は異常だという視点であるようだ。この政権がどちらに傾いているかよくわかる。

 韓国の国民の大勢はどうなのだろうか。よくわからない。日本がこれほど強い反発していることに国民も驚いていると思われるが、だから一層反日的になるのか、それとも今回の判決はちょっとやり過ぎだと考えているのか、それを知りたいところだ。

 それにしても韓国政府が判決に従って新日鉄住金の韓国の資産の差し押さえやアメリカの司法に提訴してアメリカにある新日鉄住金の資産の差し押さえに走るのか、それとも従来の韓国政府の意向を継承して具体的な行動には出ないと明言するのか、それが分からないことには日本政府も韓国政府に対してどのように対処するのか決められない。日本はいまは黙ってそれを待っているだけであろう。それしか仕様がないし、おかしな妥協案など小賢しく提示したりしない方が良いと思う。

 大統領府は雪隠詰めであろう。自らまいたタネである(こういう判決をするとわかっている判事を文在寅大統領が指名したのであるから)。日韓関係がさらに悪化して破綻に瀕するような行動をとればアメリカからお灸を据えられることは間違いない。といって判決の履行をしなければ司法からは難詰されるし、政界あげて文在寅大統領は非難されるに違いない。本音のところは国民があげてこの判決を支持して盛り上がってくれると踏んだのだろうが、韓国国民は今ひとつ無反応に見える。日本に来る韓国人観光客は少しも減らないし、韓国にいる日本人がいやな目にあったという話も聞かない。

 文在寅大統領の支持率は少しずつ低下してとまらないようだ。いままの大統領は支持率が低下すると反日に舵を切って支持率回復に努めるのだが、この大統領は最初からめいっぱい舵を切りきってしまっているでこれ以上の手が打てないようである。アメリカにも中国にも日本にも泣きつくことが出来ないようにしてしまって、さて頼るは北朝鮮だけのようだ。多分大変な金がかかるだろうけれど同じ民族なのである。せいぜい仲良くすればよろしい。

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禍転じて福となす

 昨晩はどん姫がやって来て、日帰りでなく泊まりになったので酒盛りとなった。昼前に旦那(本日休みだそうだ)が迎えにやって来て帰ったところである。どん姫はとても聞き上手になって(というより無口な方なので自然と聞く側に回る)こちらが思っていることを気持ちよくしゃべることが出来る。嫌がりもせずに聞いていたが、「寝る!」といって自分で布団を敷いて先に寝てしまった。

 後片付けをして、まだ飲み足りないので残っていた「菊姫」を飲んでいるうちに私も寝ていた。

 そういうわけで朝もどん姫といろいろ話をして様子も確認したが、それなりに元気で暮らしているようで安心した。

 一度ほぼご臨終になったダイナブックは特定機能の箱として復活し、USB-DACを通しての音楽用機器としてどうにか機能している。

 実は大昔に買ったYAMAHAのAVアンプはしばしば不具合が生じてきたし、HDMIも装備していないので、後継機として一年ほど前にDENONのAVアンプを購入した。映画やドラマなどを観るのにおおむね満足している(本音をいえばもっと高級な機種を買いたがったのだが、聞こえると機嫌を損なうので内緒である)。

 いまの中級機以上のAVアンプはネットオーディオ機能が装備されていることが多い。もちろん私の持っているものもその機能がある。ところがパソコンとネットワークでリンクさせているはずなのに、パソコンに保存した音楽ファイルがごく一部しか開けない。極めて限定した曲しか聴けないのである。

 なぜそんなことになっているのか、それについては二三心当たりがあるが、それを直すにはどうしたらいいのか分からない。

 ダイナブックが使えないとなればパソコンを新調することになるはずだったが、それがとりあえず不要となったので、見に行ったパソコンコーナーで見つけたNAS用のハードディスクを先日購入したのである。NASは昨年ころは数万円以上するのが当たり前だったのに、はるかに安くなっていたのである。一万円台で大容量のものが買えたのである。

 昨朝はほとんど寝ずにダイナブックの再生を成功させ、NASを私のネットワークに組み込み、さらにそれぞれのパソコンにNASとアクセスできるように設定、そのあとNASに自分の持っている音楽ファイルをすべて放り込んだ。CDをハイレゾ化したものやe-onkyoから取り込んだハイレゾ音楽、雑誌の付録に付いていたハイレゾ音楽データをことごとく入れても余裕である。

 さて、それがAVアンプで読み込めて再生できるかどうか。そのときにはどん姫も来ていたので二人でドキドキしながら試してみた。大成功である。やった。これで家中どこにいてもパソコンもUSB-DACもアンプもNASとアクセスできてNASに放り込んだ音楽は再生可能となった。

デジタル音楽について知らないと何の話をしているか分からないかも知れないが、同様に無知だった私も一年かけてここまで来たのである。感激ひとしお、めでたいことである。あとはスマホにすれば、スマホからAVアンプやNASをコントロールできる。ガラケーからスマホにする理由が出来てしまった。さてどうする。

2018年11月 7日 (水)

奇跡は起きるか

 これからアメリカの中間選挙の状況の情報が入り始めることだろう。興味があるが、それよりも今日は娘のどん姫がやってくる。しばらく連絡が無いので元気でいるのかとメールしたら、お父さんは大丈夫か、と逆に聞き返された。それで様子を見にやってきてくれるというわけである。

 ところで一昨日の晩からもがいていたダイナブックの蘇生作業なのだが、すでに手を尽くしても生き返らないのであきらめていた。しかし文字通りの起死回生の手(以前DELLのパソコンを蘇生させるために手に入れていたWindows10のシステムソフトディスクが見つかって)を使って初期化してみたら、何と目を覚ましたのである。もちろんそれまでに紆余曲折があり、無駄に時間を浪費したけれど、すべての設定や入っていたソフト、データはすべて消滅。全くの赤子の状態での再生である。

 まあSF的にいえば遺伝子情報だけをもとに記憶のすべてを失った上でのコピー人間を生みだしたということである。残念ながら映画のように消え残ったデータをもとにもとの人格を取り戻すということもなく、必要最小限のネットの設定とセキュリティソフトの再導入(幸い複数のパソコンで利用できるマカフィーが使える)を行い、さらにUSB-DACの設定を行って、ネットとデジタル音楽を聴くためだけの箱として復活した(と思われる)。

 それで使えれば十分なのである。あとはいままで起動だけでも無駄な時間を要していたのがスムーズ行くのかどうか、作業が快適にいけるのかどうかである。これからそれを試してみる。忍耐は宝を見つけるために絶対に必要なことだと実感している。

 ところでどん姫が来るのにそこら中が散らかり放題になっているのをどうしよう。眠い。

2018年11月 6日 (火)

観た人にしか信じられない世界

 NHKBSで放送された『馬三家からの手紙』というドキュメントを観た。9月に放映されたものの再放送のようだ。制作はカナダの制作会社。この番組名でネットを検索すれば内容を知ることが出来る。

 20世紀末ころ、法輪功という気功を主体にした宗教組織のようなものが中国で大流行した。伝えられている情報だけだと、特に狂信的だったり排他的だったり強制的な勧誘の組織ではなく、ごく穏やかな清く正しくやさしく生きることをすすめる団体のように感じられた。だから中国の共産党員も数多く入信したようだ。しかしついに信者が7千万とも1億人ともいわれるようになって、中国政府は規制に乗りだした。

 当初、ときの朱鎔基首相は融和的だったが、江沢民が一方的に弾圧に乗りだし、それに抵抗する信者たちを強制収容所につぎつぎに送り込んだ。しばらくして無事に収容所から帰るものも多くいたが、そのまま消息不明となったものも少なからずいた。馬三家というのはその強制収容所のあった場所のひとつである。

 そこに収容されて激しい拷問にあっても屈せず、生き抜いた主人公が、強制労働の際に作業で作らされたハロウィーンの飾り物のなかに収容所の実態を書いた手紙を忍ばせて知らせようとした。それがたまたまアメリカの家庭で見つかり、それがきっかけで欧米のマスコミがそれを大々的に取りあげ、中国の人権弁護士によって数年後に彼は解放される。解放後も彼は馬三家の事実を訴え続ける。そのとき迄の彼の独白による再現と、その後の彼の行動をドキュメントは追う。

 ますます身の危険が高まったため、彼は中国脱出を試みる。艱難辛苦の末、ついに彼はインドネシアに逃れることに成功する。

 そのあとどうなったのか。衝撃の結末に言葉を失う。主人公を救った人権活動家は消息不明となり、のちに当局に拘束されたことが明らかになる。いつものパターンである。そして主人公は・・・インドネシアに亡命申請してその許可を待つ間に中国の公安と覚しき人物達の訪問を受けた。間もなく彼は突然病死する。

 この法輪功の強制収用、再教育という名の人権侵害はその当時世界中で話題になっていたが、中国のことであるから詳しい話はほとんど不明のままである。拷問や死刑で死んだ遺体の臓器をひそかに売買していたという話しは信じ難いと思っていたが、それが欧米で問題視されるようになったあと、中国政府が死刑囚の臓器は売買してはならないと通達したことが明らかになり、事実らしいことを知った。

 このドキュメントのような事実は少なからずあったのかも知れない。同時に身の危険を感じて再教育を受け、法輪功とは縁を切り、政府の意に服した人間がほとんどだったろうと思う。中国の歴史は、このような宗教活動がきっかけで王朝が倒れるというパターンの繰り返しである。江沢民が恐れたのはそういう理由であろう。

 いま新疆ウイグル自治区で百万人単位のひとが収容所に送られて再教育を受けさせられていると伝えられている。再教育という名の洗脳であろう。そこで起きていることがこの『馬三家からの手紙』で明らかにされているようであることは想像できる。中国の監視社会はますます強化されている。権力が人民を恐れているのだろう。こんなこと書いていると当分中国に行くのが心配になる。

物欲減らず

 毎月初めに片付けることにしている雑用処理のため、名古屋駅前まで出掛けた。ついでに購入したい本があったのでゲートタワーの三省堂に立ち寄った。目指す本(NHKブックスの『中国文学十二話』と講談社学術文庫の『女妖啼笑 はるかな女たち』の二冊、ともに奥野信太郎の本)は残念ながらなかったが、宮城谷昌光の『湖底の城』第九巻と浅田次郎の『天子蒙塵』の第四巻があったので購入。どちらもこれで完結である。特に『天子蒙塵』のほうは『蒼穹の昴』、『珍妃の井戸』、『中原の虹』、『マンチュリアン・レポート』に続く長い物語のラストでもある。ようやく終わるのだ。

 新書の棚と文庫の棚を眺めていたら欲しい本がつぎつぎに見つかって、気がついたら両手で抱えてレジに列んでいた。いつものことである。これでも予算オーバーなので欲しい本の半分はあきらめたのである。

 12月から4K、8Kの放送が始まるという。8階の三省堂の上の9階10階がビックカメラなので見に行く。現役が健在なので当分買う予定はないが、どのくらいの高画質なのか見てみたいではないか。つい70インチや80インチの大きなものに目が行く。こんなに大きいと電気も食うし、部屋にそぐわないのはわかっているが、無性にほしくなる。

 つぎにパソコンのコーナーをウロウロする。ダイナブックの代わりの格安パソコンを物色。もちろんまだ買うことは決めていないし、絶対に必要という状況でもない。それでも見ていればほしくなる。

 この歳で物欲は衰えるどころかますます盛んなことを我ながら笑いたくなる。いま、少しテンションが高いようだ。断捨離はどうした!「見るべき程のものは見つ」(by平知盛)と思ったりしていたが、まだまだ枯れるのは少し先のようだ。やりたいことがあるのはしあわせなことかも知れない。我慢する必要もない、などと思い始める。ちょっと危ない。

2018年11月 5日 (月)

ご臨終

 ダイナブックの蘇生を試みたが、ほぼこちらの呼びかけに応じなくなり、リカバリーディスクを使用しようとしてもそれも受け付けない。電源を入れて10分ほどおいておくと起ち上がらないことはないが、なにも受け付けないのだから生きているとはいえない。

 昨晩からずいぶん無駄な時間を過ごしてしまった。疲れ果てた。寿命約6年の命であった。代わりをどうしようか。

ダイナブックは仮死状態

 今朝は寝不足である。不具合が続いていたダイナブックは私の精神をずっと苛立たせてきた。このことは以前書いたことがあるが、ついにほぼ仮死状態になり、怒りがおさまらないのでふたたび書く。

 東芝のパソコン・ダイナブックをメイン使用の目的で購入した。当時のいちばん高速のCPUを装備させ、メモリーもたっぷり追加して(だいぶ高くなった)快適な使用を期待したのだが、案に相違して起動は遅いし終了にも時間がかかってイライラさせられ続ける。我慢していたけれど、二年ほどしたらキーが変になった。タッチを受け付けなくなったり(リターンキーが反応しないのだから深刻である)、一度しか押さないのに二度も三度も押したように反応する。いささか埃まみれにしたことはあるが、コーヒーや牛乳や味噌汁を浴びせた記憶は無い。キー入力がふつうに出来なくなったので、仕方なく外付けのキーボードを購入した。

 何とか使いこなそうと、あまり使わないソフトを削除し、データ類は安全のために外付けのハードディスクに待避させた。一時的に改善したように見えたが、危険なので別のパソコンを購入してそちらをメインに替えた。Acerの一番安いパソコンである。ダイナブックの3分の一の投資だったが、低速のCPU装備でメモリーも増設していないのにダイナブックよりもはるかに起動は速く、快適に使える。

 ダイナブックのハードディスクは容量が大きいしデータの多くを待避させてあるので空きが多い。ダイナブックはデジタルオーディオシステムのUSBDACに繋ぐストレージ用(音楽データの倉庫みたいなものである)とインターネット閲覧用のみに限定して使用していた。

 ところがとみに起動が遅くなって苛立っていたダイナブックが、昨晩は特に遅い。ようやく起ち上がったが、突然GoogleChromeがつながらなくなった。MicrosoftのEdgeはつながるから不思議である。そこでなにか新しいプログラムが不具合の原因かも知れないと思って少し前の復元ポイントを設定して復元を試みた。しかし「復元は出来ませんでした」とのご託宣。ポイントを変えて二度三度試みるも結果は同じである。

 頭が熱くなったので、インターネットはともかく音楽でも聴こうとしたら「音楽デバイスが見当たりません」とのご託宣が出た。音楽も聴けずネットも出来なければこのダイナブックはただの箱である。いろいろメンテナンスを試みたけれどそのたびに再起動するのが遅くなる。最後には「ディスクを初期化してリセットを試みて下さい」とのアドバイスが出た。つまりすべて消去してウインドウズを入れ直すしかないという判定なのである。

 夜間の数時間をこのただの箱と格闘したあげく、疲れ果てて眠りについた。それで今朝は寝不足である。あとはパソコンの初期化とウインドウズの入れ直しでただの箱が仮死状態から蘇生するかどうかであるが、なんだかくたびれ果てていていまやる気にならない。

 東芝の製品とは相性が悪いことは以前にもこのブログに書いた。もちろん問題ないものもあるが、むかしビデオやDVDの不具合で東芝のサービスセンターに問い合わせしたときのあしらいがあまりにも腹が立った記憶が消えないのである。問題点を散々しゃべらされたあとに一方的に使い方が悪いからだというような言い方をされた。そして結局どうすればいいのか全く解らなかった。

 現に不具合で相談しているのに、自分の会社は悪くない、といいたいだけの窓口の応対だったのである。その経験が一度ではないのである。人生では極めて不愉快な経験をすることがあるが、あまり多くないそのうちのすくなくとも二回が東芝の窓口の応対だった。もちろん違う時期だし違うひとである。おそらく会社のマニュアルに沿っているものと思われる。昔のことで、その後東芝のその姿勢が問題視されてだいぶバッシングされていたからいまはマシになっているのかも知れない。東芝が傾いたときにはひそかに手を叩いていた。当たり前だと思ったのである。

 いまその不愉快な記憶がよみがえり、このただの箱をベランダから投げ落とそうかと思ったが、そんなことをしたら危ないので思いとどまっている。

2018年11月 4日 (日)

テレビドラマを楽しむ

 ドラマや映画、ドキュメントに旅番組など、観たいものを毎日予約して録画する。WOWOWは別にして、いまは民放の番組は観ないことに決めている。プロ野球もシーズンが終わったので、いままで見続けていた『相棒』や『科捜研の女』の新シリーズは気になるが、リアルタイムではなくて、将来まとめて再放送されたときに見る気になるかも知れない。

 NHKの『新日本風土記』と『英雄の選択』はお気に入りで、リアルタイムのものと過去の再放送とを観るので、毎週二本ずつ観ることになる。BSドキュメントや『アジアインサイト』もおもしろそうなものがしばしばある。こうして観たい番組が増えすぎて、しばらく不在にすると、観るのが追いつかずに録画したものがたまる一方である。

 ドラマに限れば、最近ようやく観ることが出来たNHK広島開局90年記念の『夕凪の街 桜の国』が出色であった。広島だからやはり原爆がテーマである。常盤貴子を主人公にして、その父を橋爪功、姪を平祐奈、父の姉(ずっと昔になくなっているが)を川栄李菜、祖母をキムラ綠子が演じていたが、ズシリと胸に来る名ドラマだった。ひとはそれぞれ無数のドラマを抱えていて、それが生きることそのものであることを感じた。

 姪役の平祐奈は、今週金曜日から始まる『立花登 青春手控え』の第三シリーズで、千絵役を演じる。藤沢周平の原作のこのドラマは今回のシリーズで完結するそうだ。これはむかし中井貴一主演で放送されたがいまは溝端淳平が立花登を演じてとても素晴らしい。むかしの千絵役だった宮崎美子が今回は千絵の母役というのも楽しい。藤沢周平のこの原作(文庫本で四冊)は私が特に好きな作品であるし、ドラマの出来も良いのでおすすめだ。

 やはりNHKのドラマ『フェイクニュース』も面白かった。わけあって大手新聞社を辞めて、いまはネットメディアの記者をしている主人公を北川景子が演じている。脇を光石研、永山絢斗、新井浩文、杉本哲多などが固めていて、フェイクニュースの拡散の恐ろしさと、それを拡散させている人間の罪障感の全くないことへの怖さをとことん思い知る。意外などんでん返しがこれでもかと繰り返されるのでうっかりしていられない。フェイクニュースを裏で利用する者も存在して、正義の味方もときにそれに踊らされてしまうのだ。

 WOWOWの『コールドケース』の第二シリーズが始まっている。コールドケースとは長期未解決事件いわゆるお蔵入りの事件のことだ。これはアメリカで大人気の同名のドラマのシリーズのリメイクである。アメリカ版も以前WOWOWで放送されて、全て観た。とても面白かったし考えされるものがあった。日本版では主人公の女刑事役を吉田羊が演じている。脇を固める同僚役は光石研、滝藤賢一、永山絢斗、上司役は三浦友和である。毎回の犯人役に豪華な配役がされていて、それも魅力だ。昨晩で第四話まで進んだが、まだ二話しか観ていない。

 イギリスで大人気の『刑事モース』のシリーズもWOWOWで楽しんできたが、今回は最新作の第20話と21話が放送された。それに先だって14話から19話も再放送された。再放送分はすでに観たはずだが、つい録画してしまった。このドラマは何度観ても面白いのである。ただ、一作90分あるから一気に観るのはちょっと大変である。そういえばこのシリーズを最近NHKでも放送していたようだ。それだけ時代設定の味わいと張り巡らされた伏線を楽しめる深味のある傑作なのである。

 ほかに映画も観ているし、本も読むし、ブログも書かなければならないし、そういうわけでとにかく忙しい。でも忙しいけれど楽しい。時間がもっとほしい。

江波杏子

 女優の江波杏子が亡くなった。急死されたという。

 若いころ、私は口の大きな女性にあまり魅力を感じなかったけれど、ソフィア・ローレンの強烈な魅力にやられて少し好みが変わった。江波杏子も人一倍口が大きな女優さんである。

 映画好きだから彼女の出演作は山ほど観た。『女賭博師』シリーズも何作か観た覚えがあるが、彼女が素晴らしいと思ったのは、仲代達矢主演の『出所祝い』という映画で、仲代達矢の相手役を演じたときである。この映画は私にとって日本映画のなかで記憶に残る作品だ。

 最近では小川糸の『ツバキ文具店』を原作にしてNHKがドラマ化した『ツバキ文具店 鎌倉代書屋物語』に、ポッポちゃん(多部未華子・・・大好き)の隣家に住むバーバラ夫人役として出ていたのが強く印象に残っている。自由でしかもエレガントな老婦人を演じて相変わらずの魅力を感じさせていた。私にとってバーバラ夫人は江波杏子しかいないほどなので、続編をドラマ化されたときに誰が演じても戸惑うことになりそうだ。

 ご冥福をお祈りする。

2018年11月 3日 (土)

安川峰俊『さいはての中国』(小学館新書)

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 著者の本は、顔伯鈞(安田峰俊編訳)「『暗黒・中国』からの脱出」(文春新書)という本を以前読んでいる(2016/8/1のブログ)。

 今回の本は2018年10月出版の新しい本で、主に『SAPIO』という雑誌の企画で書いたものである。『SAPIO』はかなり保守寄りの視点で編集されている雑誌で左派の人からは毛嫌いされている。内容はピンキリだが、リベラル誌よりも新情報が得られることが多いので、私も特集に興味があるときにときどき購入する。ああ、『SAPIO』を読む人か、と思われるケースもないことはないが、私には面白い。

 残念ながら来年から不定期刊になるという。事実上の休刊だともいう。サヨクから見ればネトウヨを煽動している雑誌と思われるかも知れないが、ネトウヨの妄想的世界観とは一線を画して、事実をもとに編集されていると思うが、多少偏った事実ばかりが選ばれていることはサヨク誌とおなじである。読む方がそれをしっかり弁えるしかない。

 さて肝心のこの本だが、中国についてディープな取材を重ねたドキュメントである。8章に別れていて、それと別にコラムが二つほど添えられている。こういう取材は中国政府の最も嫌うところだから、ずいぶんきわどい経験もしている。私には某安田氏よりも著者の方がジャーナリストとして評価したい気がする。取材の目的意識がはっきりしていて、相手にもそれを明確に伝え、リスクも構えながらなんとかできる限りの取材を敢行している。

 第1章は中国のシリコンバレーといわれる深圳市の三和人力市場の取材。この人力市場はNHKでもドキュメンタリー番組を放送していた。サイバールンペンプロレタリアートと揶揄されるネトゲー中毒者のたまり場での取材である。ゲーム中毒者のなれの果てのほぼ廃人に近い若者や中年男性たちが最先端サイバーシティの深圳の底辺で蠢いている。なぜ彼等はそこまで落ちぶれたのか、その理由も説明されている。彼等に果たして未来はあるのか。

 第2章では10万人が住みつく「リトルアフリカ」の存在する広東省の広州市の取材である。中国がアフリカに莫大な投資をしていることは最近特に話題になっている。これはずいぶん以前からのことで、そのパイプに乗って貧しいアフリカからこの広州市に多くのアフリカ人がやって来て商売をしているのである。この「リトルアフリカ」についてもNHKのドキュメントを見た記憶がある。

 一時期よりも数は減少し始めているとはいうが、10万人は驚くべき数字である。その特殊な閉鎖社会で成功した人、貧困であえぐ人、そこで生まれた子どもたちの状況などが、命がけでルポされている。

 第3章は「習近平の生地」というテーマで、いま中国で進められている習近平への個人崇拝の意味を考えさせられる。第4章では、「突如新首都候補にされた田舎町」というテーマで、河北省の雄安区を取材している。田舎町がどのように翻弄されていくのか、すべては習近平の命運にかかっているようである。第6章は内モンゴル地区を中心にした「鬼城」の現在の取材である。いわゆる人の住まないゴーストタウンが延々と続く姿は、これもNHKのドキュメントなどで紹介されている。

 第7章では中国を離れ、カンボジアの現状が取材されている。長期政権フン・セン首相の中国傾斜の現実が報告される。日本がカンボジアに投じてきた、そしていまも現に行っているカンボジアへの援助がないがしろにされて、中国のスタンドプレーが奏功している現状は、実は世界のあちこちで見られる姿でもある。一帯一路の最も優れた友好国カンボジアの現状を知ることが出来る。

 この本で最も恐ろしいと感じたのは第8章である。取材をしたのは意外な場所、カナダのトロントである。カナダの反日組織の取材なのだが、そのリーダーは大変穏やかで、人道的な数々の功績が国の内外で高く評価されている人物なのである。そんな人物がどうして反日の中心となっているのか、知れば知るほど恐ろしい。このリーダーがいる限り、多分カナダはどんどん反日に染まっていくことは間違いない。しかもそれはヨーロッパにも波及しはじめているという。そしてそれは中国や韓国の狙うところにぴたりと符合している。ところがその運動をしている当人は意識してなのか無意識か知らないが、中国とは関係がないと主張する。

 信念を持った正しい人がその信念に従って行動するとどういう災厄が起こるのか、この第8章だけでもすべての日本人に読んでもらいたいと思う。正義はときにイヤなものである(by山本夏彦)という私が繰り返している言葉の意味を強く実感するであろう。人は話せば解る、というのは幻想ではないかと思ってしまう。

ネットニュースを拾い読みする(2)

 書き切れなかったので昨晩のつづき。次から次に新しいニュースも入るから、これで終われるかどうかわからない。

 11月1日に文在寅大統領は国会演説を行った。北朝鮮との三回の会談が行われたこと、それにより衝突が回避されたことを成果と強調、南北朝鮮と米国との信頼関係のなかで、半島の非核化と恒久的平和を成し遂げようと述べたそうだ。しかし前日に出た徴用工裁判の判決には一言も触れなかった。当然の判決だから語るに値しないと思ったのか。

 韓国の中央日報は文在寅大統領の演説は現在の韓国経済の認識について危機意識が見えないと批判的な記事を書いている。確かに韓国の経済はいろいろな指標が将来に悲観的な数値となっているものの、見かけ上まだ好調である。だから対策をとる必要がまだ迫っていないと考えているのだろうか。韓国の経済専門家は実はあまりに悲観的に韓国の将来を見すぎているのか。来年以降の韓国経済をみるのがとても楽しみだ(不謹慎かも知れないが、悲観的な予測があたるか外れるか知りたいではないか)。

 日本の実業界や経済専門家は今回の賠償命令が両国間の経済関係を損ないかねないと口々に語る。みなこれからの韓国経済の見通しが悪いことを前提としていて、それは取りようによっては「このままなら韓国経済がどうなっても知らないぞ」と言いたいのを手前でとどめているようにも見える。
 
 駐日韓国大使は「難しい状況だが破局はない」と語ったそうだ。彼の言う破局とはなんだろう。国交断絶のことなら、日本側から実行することはたぶんないだろう。韓国がつぎつぎに賠償判決を続けても日本がそれを拒否していくだろうから、腹を立てるのは韓国であって、断絶するなら韓国からに違いない。同大使は「韓国政府が対応策を打ち出さなければならない」と語ったというが、それは韓国政府の対応策が決まらないと彼もどのように日本政府と協議していいか分からないからそう言っただけで、それ以上のことではない。「両国が冷静になるために時間が必要だ」そうだが、ホットにさせたのは日本側ではない。熱くさせておいて「冷静に」というのもおかしな話しだ。いちばん解っているのは大使だし時間がほしいのも同大使なのだろうからそう言っただけか。

 朝鮮日報によれば、今回の判決についてアメリカのマーク・ナッパート次官補代理(アジア・太平洋担当)は「両国が前進する道を探るよう心から願っている」とコメントしたそうだ。何が言いたいのか理解できない。仲良くしてくれということなのだろうが、仲良くしにくい事情についてアメリカがどう考えているのかコメントを語って欲しいものだ。「今後の問題を解決すれば、両国はより良い未来に進むことになるだろう」とはなにも知らないしなにも考えていません、と言っているに等しくて、バカではないかと思ってしまう。

 中央日報は「徴用工の”恨”は晴らしたが・・・日本に反論する外交戦は今から」と題する長文の記事を書いている。やはり「恨」なのだと韓国が自ら認めているのだ。「反論」とは、日本側から「韓国がゴールポストを動かした」と批判されている論理に反論するために、「国際社会を説得していかなければならない」と書いている。今回は日本側は「韓国がゴールポストを壊した」と非難しているし、そうとしか言いようがないのだが、それは置いておく。 

 御承知のように、どんな条約だろうが、「植民地支配は悪であった」という事実の前には否定されるというのが今回の判決の根拠である。そもそも条約の担当者が悪いのだ、とこの記事には書かれているから笑ってしまう。担当者は朴槿恵元大統領のように国を誤らせたとして非難されるようである。これなら何でもありである。誰がどんな条約に関わっても、あとで条約を結んだ人間が悪かったから条約は無効だ、といえるのであるから無敵である。

 「実際に韓国が受け取った3億ドルは被徴用者の要求額にはるかに達し得ないために、補償として受け取ったことにはなっていない」と読めるようなことが書かれている。1965年時点の3億ドルと現在の3億ドルを全く同じに語るこの愚かしさとインチキには怒りを覚える。まあ韓国の人をうれしがらせ、日本人を怒らせるのが目的だから成功しているのだけれど。

 ある国際法専門家は「要求した金額をすべて受け取ることが出来なかったからといって資金の性格が変わるわけではない。交渉過程で要求した金額が貫徹されることはほとんどない」と当たり前のことをことさらに言ったあとで「したがって、交渉担当者が述べる言葉はすべて訓令を受けている政府の見解であるため、個人的な発言として片付けるのは無理という意見が出るかも知れないだけに」と、さらに当然のことを言っていると思ったら、「これを克服する外交的論理を作らなければならない」と仰天することを語ったそうだ。

 つまり政府の指示で政府の意向に沿って交渉しても、正義に反すれば後世で担当者の責任を問うことは可能であり、条約そのものを否定することができるような「外交的論理を作らなければならない」と言っているのである。信じ難いがこれが国際法の専門家だというのだからおそれいる。

 韓国政府がこのような意見を背景に、どのような行動をするのか、あまりまともなことにはなりそうもないようだ。

 韓国の聯合ニュースは、行政安全部の長官が国会で「政府の消極的な対応は、難しい決定をした大法院(最高裁)の判決が持つ歴史性を損なう可能性があるという意見を首相に伝える」と答弁したことを伝えている。同長官は「意見をとりまとめる際は断固として積極的な対応が必要だという意見を出す」と言明したそうだ。

2018年11月 2日 (金)

ネットニュースを拾い読みする(1)

 韓国の徴用工問題について韓国最高裁が日本企業に賠償命令を出したことに関連して、日本で、そして韓国でそれがどう捉えられ、どういう反応をしているのか総覧してみた。11月2日の分だけでずいぶんたくさんあるし、これからも増えるだろう。

 韓国最高裁は国際関係など考慮しないことはいままでも前例のあることなので驚かない。彼等は彼等の正義をもとに法律を解釈しているので、如何ともしようがないのである。彼等の正義は特定の国に行使されているように見えるが、悪に対して断固たる判断を下したと評価する人びとがいることも報道されている。韓国議会は反目しているはずの与党野党が口を揃えて今回の判決を高く評価していた。まことに反日はみごとに国を結束させる特効薬である。

 しかし賠償命令を実行するのは韓国政府であるから、韓国政府がどういう判断をしてどのような行動をとるのか、それがまだ明らかではないので 「韓国は・・・」というのはまだ早いだろう。韓国政府だって日本との関係に損得を考えることもあるのだ(めったにないが)。

 今回の新日鉄住金への訴訟に続いて、次は三菱重工への「女子挺身隊」判決が12月5日に光州の高裁で言い渡されることになっている。ハンギョレ新聞の記事の見出しは「死ぬ前に願いを叶えさせてほしい・・・勤労挺身隊被害女性の涙の訴え」である。彼女は三菱重工の名古屋航空製作所で働かされ、1944年末の昭和東海大地震で一緒に働いていた従姉妹を亡くしたそうだ。このときに勤労動員されていた多くの日本の女学生たちも亡くなっている。知多の半田市にあった中島飛行機でも多くの学徒動員された人たちが死んでいる。しかし地震は直接的な損害請求の理由としては如何なものか。

 ところでこのようにいままでも次から次に訴えがあったところへ、今回の賠償命令の判決でさらに次から次に訴訟が起こされるに違いない。一説によると22万人だそうだ。一人1000万円で概算2.2兆円だという。それも当人ではなく、子供や孫でも訴えられるようだが本当だろうか。

 韓国の弁護士はずいぶん忙しくなるに違いない。大変な特需が法曹界をうるおすわけで、連日裁判所はこれらの裁判で溢れかえるのだろう。ふつうの事件は隅に追いやられるに違いない。負けるはずはないのである。なにしろ正義はわれらにあると、そう国を挙げて信じているし、最高裁もそう判決したのだから。

 そのフィーバーが当分韓国で続くだろう。捕らぬ狸の皮算用である。韓国にある日本の資産は次から次に接収されることになるのだろう。日本も韓国も朝日新聞に感謝しなければならない。

 日本が韓国にある資産を失うことと2.2兆円を覚悟することと秤に掛けたら資産を失う方がずっとましであることは明白(だと思うが)だからその前提で日本は対応するしかないのであって、まさか中国のように日本人を人質にとって脅しをかけてくることはないと思うが・・・。

 それにしても22万人が22万人であるかどうかなど誰にも分からない。韓国の国民のほとんどが被害者だと訴えるかも知れないし、北朝鮮も同調するし中国も金になるとわかればつぎつぎに名乗りを上げる者が出るだろう。なにしろ南京だけで30万人だから。

 日本のある市民団体が、今回の判決を高く評価すると表明していた。ここにも正義の味方がいる。正義の味方はときにいやなものである。

今日の雑事

 今日の雑用メモのリストは少し長いものになった。15もある。すぐ片付けられるものもあったので、せっせと片付けて、これを書いている時点で10件が処理済みとなっている。残りは少し先送りしようと考えているので繰り延べである。こたつを出すのもそのひとつ。もう一つは眼鏡の新調である。眼の老化が進んでいるようで、持っているどの眼鏡も合わない。かけているとくたびれる。といって安いものではないし、ちょっと考慮中というところである。

 久しぶりに墨を磨って筆を持ったら恐ろしくお粗末な字になった。書き続けてうまく書こうという気持が消えた頃合いを待つと下手なりに味のある字になることがあるのだが、今回はそれ以前の子供の字である。手本が可哀想だ。あきらめずにまた書いてみるようにしよう。慣れればいつか無心の瞬間がくるかも知れない。筆と硯を洗う。

 その前に座卓回りを簡単に片付けた。まず本を棚に戻すとそれだけで半分以上が片付く。手元ですべて処理しようとして積んだままになっているものを、時間の過ぎたものから捨てていく。いままでやらなかったらこれからもやらないものである。多少はすっきりした。

 頼んでいたインターフォンを受け取りにいって取り付けた。今度のものは無線であるから工事は不要。厚いドア越しだと無線がつながりにくいことがある、などと説明書にあったが、幸い支障なく使える。音を大きめに設定。これでうっかりすることもないだろう。安いものだが、いちおう画像も見ることが出来るし録画も出来る。宅配便のお兄ちゃんに迷惑をかけることもなくなるわけだ。誰か来ないかな。

 思い立っておでんの材料を大量に買い込んだ。鍋の大きいのは底が薄くなって危ういので処分したが、特大の鍋が冷蔵庫の上で眠っている。下ろしてみたらずいぶん久しく(何年も)使っていないから埃まみれだ。ホーミングで全体を磨き立てたら嬉しくなるくらいピカピカになった。それに材料を放り込んでコトコトと煮込んでいる。晩にはこのおでんで一杯いける。楽しみだ。これで数日はメイン料理が決まった。本人が雑だからカレーとおでんは何日も食べ続けても平気なのだ。

低位安定

 仕事をしていたときは、朝、当日処理するべきことをメモに書き出すことを習慣にしていた。若い時は多くても10件ほどだったが、年齢とともにそれが15件になり、20件になった。10件以上を片付けるのはかなりハードである。

 夕方、片付いた案件をチェックする。すべてが片付いていればとても気分が良いが、ほとんどそういうことはない。残ったものを翌日分の冒頭に書き込んでいく。何日も片付かないものはその理由をよく考えて、自分がしたくないから後回しにしているのか、重要度が本質的に低いのか、それを判断して優先的に片付けるか、または抹消する。できないことをいつまでも並べているのは精神的によくない。

 その習慣は仕事を辞めたいまでも続いている。ただし書き出す案件はまことに少ない。無理矢理ひねり出しても数件である。それでも翌日以降に繰り越すものがしばしばあって、自分の怠惰さに呆れる。緩んでいるのであるが、誰にも迷惑がかかるわけではなく、よく考えればそんなに焦ることもないさと開き直る。開き直れる自分のいまを心からしあわせだと思う。本質的に怠け者なのである。

 そういうわけで生活上の処理量は低位安定している。

 今日は習字の日、書道の日なのだそうだ。どうしてそうなったのか知らないが、久しぶりに墨でも磨って王羲之の臨書でもしてみようか。筆と硯は息子と娘が学校で使っていたものを丁寧に洗ってあるからすぐ使える。中国で買ってきた良い墨を使うか、子どもたちの使いかけを使うか、いま迷っている。

 旅のレポートも終わってしまい、しばらく家で映画と読書三昧するつもりである。それに飽きたらまた出掛ける。今度は東北に湯治旅か。今年は雪が多そうなので、タイヤもすでに冬用に替えた。いつでもスタンバイである。

 こたつをいつしつらえようか。その前に少し丁寧に部屋を掃除しておかなければならないなあ、などとボンヤリ考えている。もちろんやることのリストとしてメモをした。

2018年11月 1日 (木)

平凡社東洋文庫

 東洋文庫、東洋文庫とたびたびブログで取りあげてきた。平凡社東洋文庫のことである。第一巻のヘルマンの『楼蘭』(この巻は古本屋で手に入れて私の蔵書にある、読了済み)が刊行されたのが、1963年10月で、現在すでに1000巻を超えている。

 東洋文庫は日本をはじめアジア全般に関連する本を集めた、ほかにはない叢書である。中国、韓国、東南アジア、インド、中東とアジア全般を網羅している。ヨーロッパの人がアジアについて書いた本なども収められている。ハンディーであり、しかも箱入りなので旅などに携えて行くのに手頃であり、しかもどの本も中身が濃いから一冊で長期間楽しめる。

 私が初めて東洋文庫に出会ったのは高校の図書館で、そのときは『今昔物語集』をこの文庫で楽しんだ。芥川龍之介を読んでいたので、その小説の原典の一つでもある今昔物語を読んでみたかったのだ。そのときはずっと昔からあるものだと思っていたけれど、思えばこの叢書が刊行されてまだそれほど経っていなかったのだ。

 ぽつりぽつりと買いそろえているうちに書棚にはおおよそ150冊ほどが列んでいる。読了した本は20冊にも満たない。ほとんど読み始めてもいない本の方が多いけれど、いつかすべて読むのが夢である。そう思いながら買い足しているから夢はなかなか達成しない。それで好いのだ。

 この東洋文庫に『東洋文庫ガイドブック』という別巻があり、700巻刊行を記念して出版されたものと750巻刊行を記念して出版された『東洋文庫ガイドブック2』の2冊があって、それが目録となっているのだが、それと別にさまざまな東洋文庫を愛する人たちが文章を寄せていて、それがとにかく面白いのである。東洋文庫との出会い、そしてそこから自分のゆく専門がきまった話などもあって、影響の大きさも分かる。私もずいぶんと勉強させてもらった叢書なので共感するところが大きいし、ここに文章を寄せるような人は碩学が多いから、その高みに身のすくむ思いもするが、同じものを楽しむ仲間の端くれにいるようなあつかましい気持もないことはない。

 それらの文章から自分の読んでいる本からどのように新しいものに展開したらよいのか教えられたりもする。厖大な本が紹介されるけれど、一つひとつ繙いていったら何年かかるかわからない。何回分かの周回遅れの亀さんだが、それでもかまわない。金沢の石川門の裏にあった荀子の言葉「學は以て已むべからず」である。

 ところで卑賤なことながら、この東洋文庫ガイドブックの新しいものは出ていないだろうかとヤフーで調べたら、見つからない。代わりに『東洋文庫ガイドブック』が古本で5880円、『2』が3800円から4200円もしている。私の持っている本は、それぞれ税別で1500円と1550円だからずいぶんとプレミアが付いている。あまり部数が出版されなかったのだろう。

白川郷

金沢から名古屋への帰り道、白川郷に立ち寄った。東海北陸道の五箇山で降りて五箇山の合掌集落にも立ち寄ろうかと思ったが、白川郷だけにすることにした。


Dsc_9133

冬の準備で道路は工事箇所だらけ。片側通行になるのでこうして横の景色の写真を撮ることが出来る。

Dsc_9135

白山の裏側が見えた。雪が降るのもそう遠くないだろう。

Dsc_9141

白川郷の村営駐車場に車を置く。このギャルたちは中国人。最近は服装も垢抜けてきて、話を聴かなければ中国人だとわからない。

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合掌集落の側に渡る、であい橋を遠望する。

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橋の上から庄川を撮る。

Dsc_9150

白川八幡神社鳥居。

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お参りする老夫婦。となりにはどぶろく祭の館があるが、飲めないのでパスする。

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こんな楽しい夫婦旅も良い。日本の人ではない。

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構図をとってカメラを構えていたら突然写界に入りこまれてしまった。韓国の方らしい。五十人ほどの集団で来ていてにぎやかだった。大きな旗を持ってあちこちで集合写真を撮っていた。引率の背広のお兄さんが声をからして汗をかいていた。

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糸瓜が良い姿をしていたので。

Dsc_9171

面白いので遊んでみた。

Dsc_9174

西洋人の団体というのは見ない。たいてい夫婦連れか家族連れである。古い日本に興味を持ち、楽しんでいるのがわかる。

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建物の向こうに白山が覗いている。

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あの高台からだと集落が一望できる。駐車場があって車で行くことも出来る。

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流れているのは澄んだ清流。この澄んだ水に観光客は喚声を上げていた。鯉がふつうに泳いでいたりするのが珍しいらしい。

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出会い橋より下流側の橋(名前を忘れた)の上から庄川を撮る。だいぶ外れの方まで歩いた。

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白川郷秋色。間もなく木枯らしが吹く。冬支度が急がれる。

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五箇山などでは観光用にかまくらを作る。白川郷でも作るのだろうか。左の赤いのはなんというキャラだろう。高山のサルボボとは違うようだが。

Dsc_9191

出会い橋に人がひしめいていた。人が通るのなどものともせずに立ち止まって写真を撮る人が多いので、歩きにくい。

帰路についた。

これで今回の小旅行は終了。長いことおつきあい戴いてありがとうございました。

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