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2019年5月

2019年5月31日 (金)

阿弥陀ヶ滝(2)

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阿弥陀ヶ滝全景。

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上側。

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下側。

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滝壺。

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滝の後ろ。濡れてもよければ行くことが出来る。実際はもっと暗いので少々気味が悪い。むかしは何度もこの下を見に行った。

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滝の横に不動明王がいらっしゃる。

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滝の落下口。

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上空を見上げる。

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少し離れてからもう一度振り返る。

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帰り道の渓流をワンショット。けっこう好い写真になった。

このあと156号線に引き返し、さらに北上して高鷲の先、湯の平温泉で汗を流そうと思ったのだが・・・・。

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阿弥陀ヶ滝(1)

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久しぶりに車で出かけた。一宮インターから高速に乗り、東海北陸道を行く。関の次の美濃インターで降りる。すべて地道で走っても好いのだが、各務原から関のあいだは渋滞することが多いのだ。目指すのは阿弥陀ヶ滝。国道156号線を長良川、そして長良川鉄道沿いに北上する。美濃から郡上市に入る。郡上美並、郡上八幡、郡上大和、郡上白鳥、そして長良川鉄道の北の終着駅北濃を過ぎ、左に折れる石徹白(いとしろ)への路へ移る。急勾配の道をしばし登れば、そこが阿弥陀ヶ滝だ。

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駐車場に車を置いて滝に向かう。左に赤い橋を渡れば流し素麺を楽しめる茶店がある。そちらには行かずに真っ直ぐ滝に向かう。そういえば帰りに四五人の初老の男女が滝に行こうか流し素麺を食べようかといっていたので、滝までそれほどかからないし、ぐるりと廻ってからの帰りにその茶店へ直接出られますよ、と伝えた。女性たちはそうしよう、と言ったのだが、一人の頑固そうな男性が「俺が腹が減っている」、と声高に言って、いらんことをいうなというような顔でこちらを見た。勝手にすれば好い。でも、ものを食べてからすぐに階段や坂を行くのはあまりお薦めしないけれどなあ。

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渓流沿いに滝への登り口に向かう。日差しが強いのでコントラストがありすぎる。

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滝への登り口。滝であるからこのような階段や坂道を行くが、それほどきつい道ではないし、この登り口から滝まで十分もかからない。

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こんな坂が少しつづく。古傷の左膝が痛む。むかし酒に酔って夜道で横の溝に足を踏みはずし、ひねって靱帯と半月板を傷めた。完治しているはずなのだが、階段を登るときに時々痛む。

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横手に渓流が流れ降りている。上の方の古木がこちらを見下ろしている。

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私は新緑よりも夏の濃い緑の方が好きだ。飛び交う虫を気にしなければ、このような緑の香りを吸いこむのはとても気持ちが好い。

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滝の音が大きく聞こえるようになり、滝が見えてきた。絞りを意識して開けて滝と木肌が見えるようにしたので緑は飛んでいる。

冒頭の写真の滝の下に到着。ずっと先の方までいけるのだが、滝直下の景色などは次回に。
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2019年5月30日 (木)

世代交代

 韓国の財閥企業のトップの世代交代が加速しているという。韓国の経済は良くも悪くも財閥に多くを依存している。起業し、また巨大化に尽力してきた財閥のトップも高齢化して心身も衰え、世代交代しなければならない時期が来ているようだ。

『売り家と唐様で書く三代目』と川柳に象徴されるように、辛酸をなめることなく、豊かに生まれ育った三代目は、親や祖父の財産を食いつぶす役割を担うことが多いのがこの世の通例である。その典型的な例を韓国のピーナッツ姫その他で見せられている。

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 日本は終戦後の進駐軍による財閥解体で、昔のような独占的な財閥は存在しない。財閥の子孫が経営を意のままにする大会社というのもほとんど存在しない。この財閥解体と農地解放は、敗戦と進駐軍の理念の先行した強行がなければ自然に行われることのなかったことで、多くの福音と多少の犠牲を伴った。

 財閥は総帥の強いリーダーシップを基盤として大胆な投資と素早い意思決定をすることが出来る。それは多くが雇われ社長や経営者である日本には出来ないことで、日本企業が中国や韓国に後れをとっている原因はここにあるともいえる。

 しかし時代は大きく変わり始めている。そのようなリーダーシップを発揮していた財閥のオーナーたちは情勢をどう判断し決断するのか、その岐路の中で世代交代を迫られている。交替すべき二代目三代目四代目たちは、どれほどの実力を発揮できるのだろうか。

 しかし韓国の財閥といえど、自社の株のほとんどを握っているというわけではないようだ。多くは海外の投資家が株を握っている。イチかバチかの勝負をトップが決断できる状態とはいえないらしい。その上いまは労働組合を偏愛する政権下にある。労働組合の暴力行為を伴う違法行為を規制するどころが、規制に動いた警察や検察が却って罪に問われるという、法治国家にあるまじき状況が野放しになっているとたびたび報道されている。

 財閥は存在そのものが悪であると盲信する文在寅大統領とその側近と取り巻きたちの社会主義至上主義者たちのある限り、事態は変わらないだろう。韓国経済の将来はいささか暗いようである。しかしそういう逆境にこそ、その闇を突き抜けてフェニックスのように立ち上がるものが現れるのもこの世の通例である。逆境を乗り越えた者は強靱である。他の苦労を見て笑うときではない。気を緩めずに恐れるべきだろう。
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独り暮らしのひきこもり

 このところ十日ほど、買い物で出かける以外はほとんど出かけることもなくひきこもり状態である。ひきこもって本を読んだり映画を見たり音楽を聴いたりしているが、以前ほど楽しめない。集中力が落ちているのを感じる。何もしないでぼんやりしていることも多い。

 ぼんやりしていながらも、もやもやした想念が頭を駆け巡り、それが次第にかたちになってくるのを待つ。それを文章にしていくと、考えていたことが少しまとまってくる、というのが私のブログの書き方である。ところがその想念がそもそも浮かばなかったり、浮かんでもかたちになっていかない。

 自分の頭の中の回路がところどころ機能しなくなり始めているような不安を感じている。ぼんやりすることが何かを生み出す前工程ではなくて、ただの空白になっているのではないか。それをどう確認したら良いのか分からない。自分自身の中側を見つめてみても何も見えない。もともと見えるものではないのに見えないことにさらに不安が増す。

 パソコンと囲碁の対戦をしても、数独パズルや大戦略のゲームをしても、いまのところ明らかな衰えを実感することはない。一時的なら集中は出来る。

 欲望が衰えている。特に衰えているのが食慾だ。食事を控え目にしているうちに食べる量が随分少なくなった。運動量も少ないから腹も減らない。人間の原動力はやはり欲望なのだなあ、などと実感している。
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2019年5月29日 (水)

狂気

 川崎殺傷事件の犯人は自殺してしまったので、どうしてあのような犯行をしたのか、犯人に聞くことが出来ない。しかし、もし生きていて犯行の動機を語ったとしても、それが得心できるものであるとは思えない。理解不能の言動をする者を狂人と呼ぶ。狂人は精神疾患と見做される故に正常な判断が出来ないとされ、罪が問えなかったり減じられることになっている。

 このような理解困難、または理解不能の殺傷事件が起こる度に精神鑑定が行われることになる。今回は鑑定のしようがないのは精神科の先生には残念なことだろうが、テレビに良く登場する専門家はまたしばらくあれこれいって稼ぐことが出来るだろう。

 人は突然そのような狂気にとらわれるものなのだろうか。しばしば日頃から言動が異常で、さまざまな兆候が見られたのに手をこまねいていたために凶行におよぶケースが多いように思うがどうなのだろう。精神疾患、特に統合失調症は妄想を伴うことが多く、そのなかに特に暴力におよんでしまう者もあるらしいが、もちろんそれは極めて稀なことだとも専門家は言う。だから精神疾患患者を即閉じこめろというのは暴論なのだそうだ。それはもちろん了解する。

 精神科の医師は、患者が支障なく社会生活を営めるようにすることを使命としている。その使命感による努力は崇高であろう。しかし社会に危害を加えて取り返しのつかない事態が起こるおそれがある者を専門家として見分けることも同時に重要なことではないか。それがひいては患者全体を偏見から守ることにつながるのではないか。

 今回の犯人がどんな前歴を持ち、どんな人間だっのか、それはいまのところまったく分からないが、防衛のための社会的コストとエネルギーを割くことと同時に、危険因子を暴発させないための方策も真剣に論ずることが必要ではないのか。

 人権をおろそかにせよとはいわないが、犯人の人権ばかりに偏った処置をし続けた結果がこのような事件の発生を生んでいないかどうか、そろそろ論じる必要があるとおもう。それでこのような事件が全くなくなるなどということはないだろうが、未然に防げるケースが一件でも増えればそれにこしたことはないはずである。

 亡くなった方の無念を思い、痛憤を込めて。
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剃刀(かみそり)

 昨日怖い話のことを書いたが、恐い話のほうでは、志賀直哉の『剃刀』という短篇がとても恐い。読んだことのある人も多いだろう。いま志賀直哉を読み直しているところだが、久しぶりにこの小説を読んだ。最後に向かってじわじわと話が進められて、最後の最後になにかがはじける。熱に浮かされた主人公に自分が乗り移って、自分自身が熱臭い息を吐きながら朦朧としてくるような心地がする。そして破滅を実感する前の主人公とともに、あり得ないはずの安らぎの気もちを体験する。

 私が床屋嫌いな理由はこの話にも原因があるかも知れない。
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2019年5月28日 (火)

怖い話

 ホラー映画は嫌いである。子供のときから恐がりで、夜の暗闇が怖ろしかった。映画館で観た『13日の金曜日』は座席から跳び上がった。確かに浮き上がった記憶がある。それでもシリーズの何作かは観た。『ファンタズム』という映画がそういう意味では最も鳥肌の立つ怖さだった。『リング』のシリーズは本で読んだ。怖かったけれど、読了した。しかし映画は途中でギブアップした。

 怖い映画としての私のベストワンはスティーヴン・キング原作、スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』だ。でもこれは三回くらい観ているから、怖いというよりも面白いということで、それは解釈のしかたがいろいろいあるからでもある。映画はラストは同じだが長さが違うものがあって、ホテルそのものの怪奇性と、ホテルに居着いているものの怪奇性という違いを際立たせているものとがある。

 本では中国の志怪小説をよく読むが、こちらは真剣に考えると怖いが、寝しなに読んでも寝られなくなるというほどのことはない。本で本当に怖くて読み通せなかったものとしては、やはりスティーブン・キングの『呪われた町』がある。これは本当に恐くて、半分近く読んだがギブアップした。ほかにも山ほど怖い小説や怖い映画はあるだろうが、積極的にチャレンジしようとは思わない。

 子供のとき白黒映画で見た時代劇で、怖いシーンがあった。そのシーンはいま思い出しても怖い。別に怪談ではなかったし、いま見たらどうということのないシーンだろうが、怖さが頭に刻みつけられてしまったようだ。

 人工物にあふれ闇のない都会は別にして、自然にあふれた田舎の民宿などに泊まって夜中になると、あたりの気配が一変する。見えないなにものかをひしひしと感じ、さまざまな怖い話がリアルに思い出される。私は想像力が豊かなのだ。
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ナレーション

 ドラマやドキュメント、紀行ものの番組を録りためて観ている。いま観ているドラマのお気に入りは『銀二貫』というNHKの時代ドラマの再放送でこんな面白い番組を見逃していたのかという思いで観ている。芦田愛菜の、少女の中に女の色気を感じさせる演技にこの娘(こ)の女優としての才能を感じる。

『刑事フォイル』の新作も素晴らしい。イギリスのドラマはとにかく出来の良いものが多いから見逃せない。フォイルは警視正で、刑事というのはおかしいし、いまは警察を辞めてMI5にいるから題名が変だが、いまさら変えられないのだろう。フォイル役のマイケル・キッチンははまり役だ。会社の大先輩に似ているひとがいて、つい思いだしてしまう。知的で品があり、冷静な人は尊敬に値する。

 ほかに『悪党 加害者追跡調査』も出来がいい。主演の探偵役を演じる東出昌弘の、陰のある役柄の演技が出色で、この人がこんなにうまい役者とは知らなかった。NHKBSの時代劇『大富豪同心』は見続けるのを止めようかと迷っているが、つい観てしまう。好きな新川優愛が出ているからでもある。新川優愛は『悪党 加害者追跡調査』にも出ている。

『新日本紀行』と『英雄の選択』も大好きな番組で、欠かさず観る。古いものの再放送もあるからそれぞれ週に二本ずつ観ることが多い。観たことがあるものでもついまた観てしまうのはそれだけ面白いということだろう。

 ところでこういう番組で感じるのはナレーションの善し悪しがとても大事であることだ。『新日本紀行』ではメインのナレーションではないが、松たか子が素晴らしい。それぞれのナレーションも皆好いが、私の好きなのは高橋美鈴さんだ。『英雄の選択』では松重豊が絶品。松重豊は『悪党 加害師や調査』の探偵所の所長役にも出ている。

『銀二貫』のナレーションは山口智充で、これはうまいというより語り口からドラマに好感をもたせてくれるところがいい。上手であることよりもドラマやその番組に対する気持ちがちゃんと伝わるのがナレーションの役割だろう。

 それで思い出すのは『鉄道 絶景の旅』のナレーションをしていた峠恵子だ。バスや鉄道による旅番組はもともと好きだが、この番組はそれ以上にこの人の声が聴きたくて観ていた。それが林家たい平になってからまったく見なくなった。このナレーションでは番組を魅力的に感じることが出来ない。私は林家たい平が嫌いなわけではないし、彼が下手だというわけでもない。ただ、峠恵子の、旅に、そして出会う人にわくわくする気持ちの伝わるナレーションと比べて、林家たい平の、無難に上手にこなすナレーションに魅力を感じないのだ。旅番組で旅の楽しさを感じさせなければ意味が無い。

そういえば『大富豪同心』のナレーションは林家正蔵で、なかなかうまくて悪くないのだが、私はこの人が小賢しく感じられてむかしから大嫌いなので、それもこの番組を見続けるかどうか迷わせている。
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2019年5月27日 (月)

降旗康男監督の死を悼む

 降旗康男監督が亡くなった。古くは『網走番外地』シリーズでおなじみの監督だが、私にとって監督の名前が忘れられなくなったのは、『冬の華』という映画に出会ったときからである。脚本は倉本聰。この映画を見たきっかけはテレビドラマの『拝啓おふくろ様』のシリーズに感銘を受けた、その倉本聰の脚本だったからで、監督名は観てから知った。

 高倉健、北大路欣也、田中邦衛、池上季実子、三浦洋一、夏八木勲、池部良、小池朝雄など、錚々たる出演陣であった。多くがすでに鬼籍に入っている。まさにやくざ映画なのであるが、この映画は和製あしながおじさんとも呼ばれる。特に忘れられないのが三浦洋一で、好感をもった。残念ながらこの人も四十代という若さでガンで亡くなってしまった。あとですぐ近くの愛知県の岩倉の出身であることを知った。この映画は傑作である。

 その後に作られた『駅 STATION』は監督降旗康男、主演高倉健、脚本倉本聰の映画で、私が日本映画不動のベストワンに推す映画である。冒頭のいしだあゆみの泣き笑いは数分で私の心をわしづかみにした。この演技を以て彼女は名を残すだろう。この映画での根津甚八も忘れがたい。

 さらに三部作といわれるもう一作が、『夜叉』。これは脚本は倉本聰ではないが、テイストは似ていると思っている。このときの高倉健の妻役がいしだあゆみ、そして主人公を惑わせる女役が田中裕子だった。ビートたけしが出演して重要な役回りを演じているが、私はこの人の演技がどうも肌合いが合わなくて違和感を感じてしまう。それよりも高倉健に可愛がられて、この映画にも出演していた小林稔侍が、不器用な彼の持ち味が生かされていてめずらしく好演していたのが忘れられない。

 降旗康男の映画はずいぶんたくさん観ているけれど、たちまち思い出したのがこの三作で、その想い出を書くことで追悼に代えたいと思う。
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好い人に戻る

「人がいい」の「いい」は、「良い」なのか「好い」なのか「善い」なのか、どれだろうか。岩波の国語辞典では、人の項の中で人柄の意味として「人がいい」「人が悪い」と用例が書かれていて、どんな漢字なのかが明示されていない。広辞苑(第三版)では「人が悪い」しか用例がない。

 

 私は「善い」が良いように思うが、ネットでの用例から見ると、お人好しの意味で「好い」が一般的なようだ。その意味で、自分で言うのもなんであるが、私は人が好い。

 

 私は深く考えるのが苦手で、直感的に生きてきた。お人好しが直感的に生きているとしばしば手痛い思いをさせられる。そういう経験を積み重ねていくと、さすがに人が好いだけでは生きるのが辛いことを学ぶ。善い人もいささか人が悪くなっていく。人の言葉の裏を読んだりしてしまう。

 善い人として生きるのは、案外楽なところもある。何しろ素直にあるがままに生きていればいい。人をとことん傷つけようとする人間は滅多にいないから、多少の損に目をつぶれればややこしいことに頭を悩まさなくていい。人につけ込む人間に正面から向き合うのもけっこう面倒なものだ。典型的にお人好しの人を見ていると歯がゆい思いをするが、当人はけっこう承知の上で面倒から逃げていることもあり、その方が楽だと考えているのかと思う。

 ときにそういう善い人が大胆な行動に出ることがある。気楽に見えて、それなりに鬱憤はたまっていたのだろう。

 私もリタイアして丸九年経つ。何よりありがたいのは、つきあうのにストレスを感じさせる人との関わりを自分の意思で避けることができるようになったことだ。つきあいたくない人とつきあわない。こうしてだんだんもとの「人の好い」人間に戻っている、と自分では思っているが、はて、他人はどう見ているのだろう。

 もともとお前はちっとも「人が好い」人間ではなかったではないか、と言う声が聞こえるが気のせいか。
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2019年5月26日 (日)

勝手読みをすると・・・

 しばらく遠ざかっていたが、最近また囲碁をすることが増えた。相手はパソコンで、古いソフトを使ってのザル碁である。若干の頭の体操になるし、勝つ快感もある。負けるとかなり口惜しいので、ときどき「まった」をするのは自分ながら恥ずかしい。

 負けるのは勝手読みをしたときである。相手が打った手の意味をよく考えずに自分の打ちたい手を打ってしまい、気がついたら大損をしている。ことほど左様に勝手読みは罪が重い。相手がいることを忘れてはいけないのだ。

 いまの韓国を見ていると、その勝手読みの連続である。自分が勝手読みをしているあいだに、どんどん不利になっていることにいまだに気がついていない。つまり敗着を連続して打ち続けているわけで、打ち手のレベルの低さが見える。

 トランプはいかにも勝手読みの連続のように見えて案外豪腕で、時々本当は強いのかも知れないなどと思わせる。これはアメリカの政治体制の手柄かも知れない。バカでもアメリカ大統領が務まることは歴史が証明している。韓国は誰がやっても務まらない。日本はどうか。
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ニュース雑感190526

 トランプ大統領が「貿易は公平であるべきだ」と述べたらしい。現在が不公平であるという認識なのだろう。しかし公平な貿易というのがアメリカにとっての公平な貿易であろうことは想像に難くない。相手の国のことはどうでもいいのだろう。そもそもどこの国も多かれ少なかれそうであることは昔から同じであろう。ただ基軸通貨を持ち、景気のいいアメリカが、強権を持って公平を謳うのは各国にとって極めて迷惑なことだ。他の人はしらず、トランプはそのことの自覚が欠片もない。

ライトハイザーと茂木大臣との貿易に関する折衝では合意に至らないどころか、合意に至ることは無理だ、という結論になってしまったと報じられていた。つまりライトハイザーには合意するための意思がない、と茂木大臣には見えたということだろう。合意の努力が必要なことはいかなライトハイザーでも分からぬはずはなく、彼には合意するための権限がないことを意味する。何か合意すれば悉くトランプに否定されてしまうと彼が恐れる限り、何も合意することは出来ないし、彼には存在意味が無い。ところがそういう意思のない人間は、ロボット的な言動をすることが多いから却って怖ろしいのだ。中国の王毅外相と同様、私には彼が気味悪く感じられる。

 

 これはニュースではないが、ハワイのアロハシャツの原点は諸説あるらしいが、日系移民が持参していた和服の生地をシャツに仕立て直してきたのが始まりだという説が最有力らしい。和服の絵柄には斬新で大胆な図柄が結構あるから、それがハワイに似合っていたのだろう。朝のテレビ番組の京友禅の説明の中で語られたエピソードで、とても興味深かった。パリコレにも京友禅の図柄がしばしば使われるという。
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2019年5月25日 (土)

損得

 損をするのが好きな人は滅多にいない。よほど達観しているか、自暴自棄か、多少の損にはびくともしないだけのゆとりがあるか、だろう。

 得をするのが嫌いな人も滅多にいないだろう。損も得も、その好き嫌いの度合いは人によって大きく差があるように思う。その度合いの大きい人は、他人との比較で特にそう思うようである。

 だから他人が自分より得をしたように見えるとき、その人は「損をした」、と感じるようである。自分は他人と同様に、または他人以上に得をする権利があると固く信じているようである。

 もう忘れているだろうが、私は子供に「損をしろ」、と教えた。それはひとと何かを分け合うときに、自分の分け前に多少の不満があっても気にするな、時には敢えて少なく受け取れ、という意味である。人は半々でわけあっても自分が少ないと思いがちなものである。多少損したと思ったときがちょうどいいことが多いものである。理不尽な他人のむさぼりを許せということでは決してない。同時に、さもしいことはみっともないことだと自戒を込めて繰り返し教えた。

 思えばむかしから親しく交遊してきた友人知人にはそのさもしさがない。みな損得や金の話をあまりしないし、得をした人や金持ちをあまりうらやましがったりしない。そういう人とはひとりでに疎遠になっていった。

 葬式の場などで親類の一部が部屋の片隅で財産や形見分けの話などで興奮し、故人が理由でないことで涙ぐんでいるのを見たことがある。人の本性を見る思いがする。直近の身内にそういう人はいないのはさいわいである。

 

 泣く泣くも 良い方をとる形見分け

 

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頭が悪いから良く分からない

 ふるさと納税というのがよく分からない。ふるさと納税した人には返礼品があるそうだ。しかしその返礼品はただではないのだから費用がかかるはずで、費用分は収税総額が減る理窟である。税金は役所の利益ではなくて、役所が公共の御仕事をするために使うものだから、総額が減ればその分出来る御仕事も全体では減る理窟だろう。どこかが増えればどこかがそれ以上に減っているはずである。

 頭のいい人が考えたのだろうが、ふるさと納税してこんな好いものをもらったと自慢する人ばかりが報道されていていかにもいいことのようだが、私にはどうしても理解できない。とはいってもこちらは年金暮らしで、ほかに収入がないからふるさと納税出来るほどの納税はしていない。しかし、もし出来てもふるさと納税はしないと断言できる。なにかくれると言われても、もらう理由が理解できないものをもらうのが嫌いなのである。それが真っ当な人だと思うが人それぞれでもある。

 過剰な返礼品が問題になっている。100の納税を返礼で半分にしても、200集めれば同じ100の収税で、これを300、500と集めればどんどん増える。どこか別のところが大幅に減ろうがどうしようがかまわない、自分さえよければ良いのである。そんなことがまかり通るふるさと納税が私には理解できないのである。もちろん理解できないのは理解しようとしないからで、理解したくないのである。

 税収の多いところと少ないところがある。ところが公的な費用は税収の少ないところもそこそこ必要であることくらいは分かる。それをできるだけ均そうとして地方交付税というシステムがあるらしいことは承知している。これだと絶対額が明らかになるから、不公平感が生ずる。東京などは地方交付税はゼロで、都知事はそのことで政府に対して強気になる。

 ところがそれをふるさと納税の美名に隠して地方に工夫を促して増収のチャンスを与えたわけである。年の収税が一億の町でも、十億にすることが可能になった。増収を真剣に考えればエスカレートするのは当然ではないか。しかしその陰で収税の減ったところは考慮されない。分散しているから増収は見えても減収は見えにくい。

 こうしてこれではならじと日本中の自治体が狂奔すれば元の木阿弥だろう。いまは誰かだけが得をする、そしていつか元の木阿弥になる、こんなものを考えた人は頭がいいのかも知れないが、私には小賢しいだけに見える。いま、ふるさと納税を苦々しく思う人がなんとか日本を支えているような気がする。
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2019年5月24日 (金)

有意義に疲れる

 残り少なくなったり、なくなって初めて本当のありがたさが解るものがある。

『いつまでも、あると思うな親と金』という。親が亡くなって初めて心から親のありがたみを実感する。もっと親孝行をすれば良かったと思っても『後の祭り』である。収入が年金だけになり、自分の持ち金が減るばかりになり当然残り少なくなって、お金のありがたさを実感する。もっと蓄えておけば良かったと後悔しても、これも『後の祭り』である。

 そういうものに寿命を加えたいと思う。思えば無駄に生きてきた。時間を浪費してきた。そもそも自分の寿命があとどれくらいか分からない。その寿命は減ることはあっても増えることはないものである。それなのに『いつまでもある』とつい思っているところがある。

 だから残された時間を有意義に生きなければならない。時間を無駄にせず、出来ることを出来るうちにしようと焦る。あれもこれもしようとする。時間の隙間を埋めて予定を立ててみたりする。そうして有意義に振り回されてオーバーヒートして、疲れている自分がいる。

 そんなことをして詰めに詰めていると反動が大きくなる。何もしたくなくなってぼんやりする。頑張りすぎるほど反動のぼんやりも長くなる。ほどほどというのはなかなかむつかしいものだし、かといって自分を甘やかすと生来の不精者はずっとぼんやりしてしまう。

 有意義に疲れるのは自然なことで、追いまくられないように、適度に追いかけるくらいがちょうど好いのか。
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ニュース雑感

 戦争発言で物議を醸している丸山穂高議員が国会での事情聴取に出席できないと連絡してきたそうだ。信念があっての発言なら、そこで持論を述べた上で発言の過剰な部分を訂正して謝罪すれば済むことであるのに、その場を逃げるとはいささか意気地が無い。酒の場でしか元気がないのか、と揶揄されるだろう。

 酒癖の悪さを始め、さまざまな悪口が目白押しである。マスコミが水に落ちた犬を叩くのはいつものことで、彼は耐えられるのだろうか。酒の力を借りないと高言できないような性格だとしたら、案外逆境に脆いかも知れないが、そんなことをマスコミは斟酌しないのは御承知のとおり。

 インドのモディ首相を首班とする政権が選挙に勝利して引き続き政権を担うことになったという。日本に親和的で中国とは距離を置く政権がつづくことは日本にとってありがたいことだと思う。これはオーストラリアも同様で、政権交代必至といわれていただけに現行政権が継続することになったのはめでたい。オーストラリアは親中国政策を採る政権と親日本の政策の政権とが交互に現れて、ときに日本にとって望ましくない事態が生ずることがある。

 インド、そしてオーストラリアの選挙結果は中国にとって期待はずれだったのではないか。中国の一帯一路という覇権構想にとっては、両国が親中国に傾くことを望んでいたはずだからである。案外トランプの対中国強硬策が影響しているのかも知れない。一時的かも知れないが、中国が弱っていることを感じさせる。

 日韓議連の会合について、など韓国に関するニュースにもいろいろ思いはあるが、もう少し事態を見てから書こうと思う。
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2019年5月23日 (木)

何が起きているのか

 HUAWEIの排斥ともいうべき現象がアメリカの強引な恫喝のもとに進められている。何が起きているのか。

 少し前に、お粗末ながら情報戦争について考えたことを書いた。米中貿易戦争といわれるものの背後にあるものが、情報による支配権の抗争ではないかと書いた。内容が粗雑なのは、自分の考える材料がたぶん論ずるに不十分で、しかも偏っているおそれもあることが考えられるからだし、何より誰かの結論を口まねするのではなくて、多少はそれらを自分の頭で咀嚼して自分の考えに変えたからである。お粗末なシステムを経由すれば残念ながらお粗末な答えしか出ないが、足は地に着いている。

 古代から個人情報を国家が管理するようになって、国家というものが成立したという見方が出来る。最近興味をもって日本の古代中世の本や講座を囓っているが、戸籍や検地(耕作地などの測量による把握)によって人民を管理する支配構造が成立して、初めて国家というものが明確に成り立っていったことをあらためて教えられた。見方によれば管理はやはり情報に依ったのである。

 個人情報の主要な部分の多くはお役所に預けられている。人は社会的存在を危うくせずにそこから完全に離脱することはできない。その個人情報に値打ちがあることに気がついた者たちが、個人情報を売り買いし、収集し、個人を支配管理することを人々が直感的に恐れるのは当然である。しばしばプライバシーに敏感なのはそれを悪用されることを恐れるからで、悪用とまでいえなくても利用されることは不愉快だし、いつ悪用に転じるのか分からないという危険もある。

 もともと国家とはそういう情報を管理しながら国民を管理してきた。役所の書類の山(いまは電子データか)とはそういう情報そのものであろう。役所は情報そのものともいえる。国家が、そしてその下部構造の自治体が情報を管理するのはある意味で社会を維持するために必要なものといえる。その管理のしかたがその国の有り様だと言えないこともない。中国や北朝鮮を見れば分かる。

 それらはそれぞれの国という単位で管理され、それを逸脱することはないし出来ないというのが建前してあって当然だろう。だからそれを逸脱する行為は極秘に進められる。すでにそのような行為は世界を侵食し始めているのではないか。覇権を持つアメリカは正義の名のもとにアメリカの都合でそれを展開してきたと想像される。中国は自国の範囲を逸脱してアメリカとは違う情報収集をひそかに進めようとしている、と見ているのがいまのアメリカであろう。それがアメリカの妄想とは思えないことはものを識る人にとっての常識だろう。

電子化された情報を漏洩不可能にする方法はまだ見つかっていないようで、たぶんそもそもがそんなことは不可能なのかも知れない。つまりすべての情報は究極的に共有化されているといってもよく、それならそれを前提にしての情報管理を考えるしかないのだろう。悪用が無意味になる、という秘策はないものだろうかと夢想する。

 そういう時代にいま生きているということをこれを書きながら考えた。とりたててオリジナルなことを書いたのではなく、考えをまとめるために書いてみた。
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連日変な夢を見る

 連日変な夢を見て、夜中の二時三時に目が醒める。理由は分かっている。最近寝床で寝る前に読む本が中国の志怪小説集『子不語』全五巻で、志怪小説というのは化け物や鬼(日本の幽霊)の話を集めたものである。日本の怪談話の種本になってものもある。それほど怖くないとはいっても、悪夢に似たものを見ることになるのである。

 目が醒めても二度寝することが出来れば良いのだが、起きたのをいいことにまたつづきを楽しんだりしてしまうのである。おかしなものに取り憑かれないといいのだが・・・。

朝だと悪夢を見る自分を笑えるのである。
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2019年5月22日 (水)

漂白剤

 二三年前からキッチン用と衣料用の漂白剤(もちろんそれぞれ別のもの)を使うようになった。それ以前に使っていなかったのか、と驚かれる向きもあるだろうが、使っていなかった。茶渋などがよくとれてピカピカになるし、下着もいままでよりずっと白く洗い上がる。

 衣料用の漂白剤は、酸素系を使っていたのだが、ちょうど使い慣れたものがスーパーの棚になかったので、別のを買って使い始めた。どうせどれも同じだろうと思っていたのだ。

 ラベルの説明書きをよく読んでいなかったのが失敗だった。生成り(ベージュ)の綿のズボンに染みがついていたのでそこに振りかけて洗濯したら、振りかけたあたりだけ晒の白いズボンになってしまった。さらに濃灰色のシャツがその部分に触れていたのか、そのあたりが一部脱色してしまった。

 今度買ったのは塩素系のもので、白専用だったのである。酸素系のときは大丈夫だったことが塩素系のものだととんでもないことになることを思い知らされた。ズボンもシャツもお気に入りのものだったが、こんなもの恥ずかしくて外に着て出かけるわけにはいかない。

 腹が立つけれど自分が悪いのだからしかたがないのであるが、ちょっと落ちこんでいる。
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Newton(ニュートン)

『ニュートン』は竹内均先生が創刊した科学雑誌で、もちろんイギリスの物理学者であるニュートンに由来する。私は創刊号からバックナンバーを揃えてバインダーにファイルしていた。しかしどんどん増える(あたりまえだ)から置き場に困りだし、しかもファイルはとてつもなく重い。それに途中から忙しくなって丁寧に読むことが出来なくなった。それからは特に興味のある特集の号だけ購入するようにしている。

 数年前からそれを飛ばし読みしながら読んだものから処分している。ようやくあと五十冊たらずになった。ランダムに読んでいるので1984年のものがあるかと思うと2005年のものがあったりしていて、トピックスなどにその時代の科学の状況が垣間見えて面白い。

 1984年6月号から。ベッコウハナアブの幼虫は、あの獰猛なスズメバチなどの巣の中で餌の残り物や死んだ蜂の幼虫やサナギを餌にして育つのだという。巣の解散が近くなると働き蜂が幼虫の世話をしなくなるので死ぬ幼虫が増え、ベッコウハナアブの幼虫は餌が豊富になって急速に成長するそうだ。

 こんなこと、知らなかったしこの本で読まなければ知ることはなかったことだ。世のなかには不思議なことがあふれていて、知らないことの方がはるかに多いということを教えてくれる。
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2019年5月21日 (火)

ゆっくり見る

 50人以上の方のブログを毎日ほとんど欠かさず拝見する。出先にいるときは、さまざまな理由から多少見方が粗くなるので、自宅に戻ったらゆっくりと丁寧に見る。人によって興味のあるものが違うので、その方の視点でのブログはいろいろ教えられることも多いし、そこからいろいろ連想したり考えたりする。ありがたいことである。

「のんびり生きる」というブログも欠かさず拝見するもののひとつだが、文章のみのブログで丁寧に書かれていて、事実を自分なりに検証して、感情を交えずに良く考察されていて大変参考になる。ブログ名もないし、いいねもポチッともむかしからなく、コメント欄もない。だからいつも読むだけである。特に好きなブログである。

 今日読んだ中で、「チビクロサンボ」さんのブログにジャスミンの芳香について書かれていて、なんだかそれを実際にかいでいるような気分になった。

 花の芳香と言えば、梅、藤、ジャスミン、百合、金木犀などの芳香が思い出される。先日愛知県津島市の天王川公園の藤の芳香を思い出した。蓮の花の芳香も有名だが、この芳香はかいだことがあるようでないようで不確かである。ただ、ベトナムで蓮の花の香りを移した蓮茶を土産に買ったので、その香りは記憶に確かである。

 お茶に花の芳香を移すといえば、ジャスミン茶などはまさにそれだし、中国にはさまざまな花の香りを移したお茶があって、楽しんだこともある。バラの花の香りを移したバラ茶もあったが、少し香りが強すぎるように感じた。

 中国では桂といえば金木犀のことで、日本の桂とは違う。植物では同じ漢字なのにまったく違う木を指すことがある。山水画のような絶景を楽しむ漓江(りこう)下りで有名な桂林は、その名のとおり金木犀の多い街で、その時期には街が桂花の芳香に包まれるという。桂林にはその金木犀の芳香を酒に移した桂花酒がある。ここは鍾乳洞の多いところで、その洞窟でその酒を寝かせる。洞窟を見物したときにその酒を飲んだが、まことに絶妙な美味しい酒であった。

 ブログを拝見してさまざまに連想して楽しんでいるが、短い言葉で的確にコメントを入れられないので読むだけで失礼することが多い。
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日常のリズム

 昨朝早くに出発したので首都高もスムーズに通過でき、午前中に名古屋のわが家に無事到着。荷物を片付け、不思議なことに不在なのに出たときよりも散らかっているわが家(気のせいか)もちょっと片付け、一息入れてからそのまま座り込んで録画していた番組を片端から観る。

 延べにして五時間あまり、頭が飽和してきたので風呂に入ってから、本を読む気もブログを書く気力もないまま床に入り爆睡する。疲れていたのだろう。

 昨日帰宅したころは強風が吹き荒れていた。雨は思っていたよりも遅く夕方暗くなり始めたころに降り出した。朝のニュースでは愛知県の東部豊橋方面は大雨だったと報じていた。それでもあちらの水源のダムは貯水率ゼロからまだそれほど回復する見込みはないという。何十年ぶりかの枯渇らしい。梅雨で回復すると良いのだけれど。

 早く寝れば早く起きる。そこで気にかかっていたことをチェックしたら、ある振り込みを忘れていたことが確かになった。お金に関係するものはすぐ処理することに決めている。後回しにすると忘れるおそれがある。気にかかっているあいだはいいが、忘れたことすら失念すれば最悪である。人はお金は払いたくないもので、迷う前に処理すべきものであるし、遅れれば相手に迷惑だし、自分も不愉快だ。雨が止んだらすぐ振り込みに行くことにしよう。

 今朝は60年代の洋楽を聴きながらゆったりしている。日常が戻ってきた。一定枠内の限られた雑用を片付けながらやりたいことをする。飽きたらまた出かければ良い。
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2019年5月20日 (月)

雨の降り出さないうちに

 千葉を拠点にどこかに立ち寄って名古屋に帰ろうと思っていたのだが、今日明日は雨の予報。名古屋は午後降り出すらしい。今回はとんぼ返りのかたちで、雨が降り出さないうちに帰り着けるように朝早く出発する。それなら首都高も渋滞を回避できるかも知れない。
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2019年5月19日 (日)

生まれ変わり(2)

『子不語』から生まれ変わりの話をもうひとつ。

 江蘇省揚州では、奴隷は多く細という名で呼ぶ。細九というものは商人鄭氏の奴隷であった。
 鄭家の主人の老母が病気になり危篤に陥ったが、息を吹き返し、むっくりと起き上がって言った。
「可笑しなことがあるものだねえ。私が死んだとて不思議はないけれど、細九の子として生まれ変わるってことはないだろう。私の魂が戸口を出てしばらく行くと、そんなことを言うのを聞いたもんだから、わたしゃ、付き添いのものを打ちのめして帰ってきてやったのさ」
 そのあと喉がかわいたと言って、青菜の湯(スープ)を欲しがった。家人がそれを煮て与えてやると、ちょっと飲んでからまた床に倒れ、瞑目して逝った。しばらくすると、細九がやって来て、うちで男の子が生まれたが、口に菜っ葉を含んでいて泣き声がひどくやかましい、と言った。
 その後、鄭氏はすこぶるこの子を慈しみ、奴隷の子として扱うことはなかった。
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千葉にいる

 いま千葉の弟の家にいる。ここは両親が同居していたので、私にとっての実家である。昨日は妹夫婦もやって来て両親の墓参りをした。弟の末娘夫婦も子供二人を連れて泊まりに来ている。二人とも女の子。上がまだ幼稚園の年少さん、下が乳飲み子で、最初から人見知りされなかったのでとても可愛い。私の子供たちもこんな時代があった。

 晩はその姪の旦那の誕生日だというのでバーベキューパーティをした。誕生日の当人が大活躍で、焼きものがかり、大いに盛り上がり、大いに飲んだ。隣家の住人が最近替わり、若い夫婦になった。夫人は姪の知人でもある。姪が参加するように声をかけたら子供二人を連れてやって来た。年齢が近いから子供たちも大いに盛り上がっていてにぎやかだ。

 隣家の旦那は遅れてやって来た。酒も持参してさらに飲むことになった。話の上手な人で気兼ねもしない。気がついたら11過ぎまで食べ続け飲み続けた。今朝はいささか胃が重い。こういう交流が出来るのも弟夫婦の人柄のゆえである。有難いことである。
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2019年5月18日 (土)

生まれ変わり

 中国・清の時代の袁枚が著した『子不語』の中から短くて面白そうなものを取りあげたことがあるが、そのつづき。子不語とは論語の中で孔子が『子は怪力乱神を語らず』としたことに由来する。この本は志怪小説と言って、怪異譚などの不思議な話を集めたものである。

 江蘇省塩城の東北郷の草深い水門のあたりに、小関営村という村があって、そこに孫自成という村民がいた。その妻が子を生んだが、除夜のことだったので、年子(ねんし)と名をつけた。年子が十八歳のとき、天秤棒を担いで鶏を売りに街に出かけた。途中まで来たら、突然旋風が起こり籠の鶏をみな吹きとばした。鶏は空に舞い上がって飛び去った。年子は大いに驚いて家に帰って寝込んでしまう。病が危篤状態のとき、たまたまその母が産気づいた。家中そっちの方に気をとられ、年子を看護する者がいない。彼は昏睡におちいり身は風のまにまにたゆたい、やがて朱塗りの門から万丈の深淵に落ちこんだように思われた。だがなんの痛みもない。ただ体が小さくなったような感じで、いつもと勝手が違うのである。両目は閉ざされていてあけられない。耳に聞こえてくるのは両親の声のようである。夢幻の境に安んじて身を任せていた。そのとき、孫は妻が安産したので、やっとのことで年子の様子をのぞきに行った。見れば、年子はすでに死んでいる。思わず大声で泣き叫んだ。年子はびっくりして目が醒めたが、何が何だか分からない。ただ母が泣きじゃくりながら、くどくど言うのが聞こえた。
「この赤ん坊を産んだばっかりに、大きく育った私の年子を死なせてしまったんだわ」
その泣き声がいつまでも止まない。年子はそこでやっと自分が転生したのだと知り、母が悲しみのあまり容体が悪くなるのではと恐れた。
「ぼくは年子だ。年子は死んじゃいないよ!」
 母は赤子が大声でしゃべるのを聞いてびっくりした。とたんに中風を起こして数日にして死んだ。孫は赤子に乳がないので心配で、粥を作ってはこれに与えるのだった。その後、三ヶ月で歯が生え、五ヶ月で歩き出した。名前は再生といい、今年十六になる。
 以上は、塩城の県令、閻公が私(袁枚)に話したことである。
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飛鳥板蓋の宮跡

岡寺をあとにして、細い山道を降りているうちに方向を見失った。

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こんな小さな畑がなんとなく不気味に見えたりしたから、自分ながらすこし変な気がした。

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伝飛鳥板蓋宮跡の前に出た。ここは飛鳥浄御原宮跡ともいわれている。

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飛鳥板蓋宮といえばあの中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を誅殺した場所である。このあと実権は藤原氏に移る。

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説明板の左横に石碑がある。読めないことはないが間違っているかもしれないのでどう読んだのか書かない。

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板蓋宮跡を後にする。

あの石舞台に眠っていた蘇我馬子は天皇の外戚として権勢をふるい、甥にあたる泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を崇峻天皇として擁立。しかし崇峻天皇は政治の実権を蘇我氏が握り続けることに不満を持つ。

それを察知した馬子は崇峻天皇を暗殺し、姪の額田部皇女を推古天皇として擁立する。史上臣下による天皇暗殺はこれ一度のみ)であり、その推古女帝の子が聖徳太子(いまは厩戸皇子というらしい)で、摂政として蘇我氏とともに政治を行う。ただ、崇峻天皇の死による宮廷の動揺が全くなかったらしいことが分かっており、蘇我馬子の独断の暗殺ではなかったと見られている。

推古天皇の崩御の後、厩戸皇子の子である山背大兄皇子を推す一派と、敏達天皇の孫・田村皇子を推す蘇我馬子のあとを継いだ蝦夷とが争い、山背大兄皇子を推す一派は粛清され、田村皇子が舒明天皇として即位する。

のちにこの山背大兄皇子一族全員は殺されてしまう。ここに聖徳太子の血筋は絶たれてしまったのである。これらの事件の責任を問うかたちで蘇我入鹿は乙巳の変で殺され、蘇我氏本流は滅亡するのである。

しかし表面に現れた事件の背後には実は複雑な事情があったらしく、ある面での蘇我氏の内部分裂もあったとされる。日本書紀などに書き残されていることがそのまま史実ではなかったようだ。

そんなことを思い出しながら板蓋宮跡をあとにした。そのあとも方向を見失い、雨の中を歩き回り、歩き疲れてしまったが、写真がないので第三回目の飛鳥はこれまでとする。

 

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2019年5月17日 (金)

岡寺(2)

 本堂のご本尊、如意輪観音などを拝観したあと、奥の院の石窟への階段を登る。覚悟していたほどの段数はなく、途中で休憩せずに一気に登ることができた。

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 石窟の中の弥勒菩薩像。実際に暗いし、だいぶ奥にあるので撮るのが難しい。

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石窟から三重塔へ山沿いに抜けられるとの案内があり、こういう路を歩いた。

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路脇にいろいろな石楠花が植えられていた。

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 写真では分かりにくいが、この石楠花の花は随分大輪だった。

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上から本堂を見下ろす。

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 雨に濡れる岡寺三重塔。

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 塔の前が開けていて、飛鳥の里が眼下に見下ろせる。これにて岡寺はお終い。

 

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岡寺(1)

 治田神社の横から岡寺の山門に向かう。

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 西国七番札所・岡寺山門。

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 やって来た治田神社の方を振り返る。

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 途中にあった大きい石。なにかに見えないことはない。どうしてここにあるのか分からない。

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 漱ぎ場。美しい花が浮かべられている。

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 すぐ先の小さな池にも花が・・・。なかなかしゃれている。

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 もともとこの寺は草壁皇子の岡宮を義淵僧正が譲り受けて寺としたのが始まりだという。その義淵僧正が、飛鳥一帯の民を苦しめていた悪龍を退治したことが石版に描かれている。なかなか勇ましい坊さんだったようだ。

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 悪龍を池に封じ込め、石で蓋をした。それがこの池らしい。この寺の正式名称は龍蓋寺である。

 岡寺には塑像としては日本で一番大きな如意輪観音の座像が鎮座している。いまその像が本堂内に自由に入って拝観できる。ほかに不動明王や愛染明王など、立派な仏像があって、開基1300年記念でそれも拝観できるので今が訪ねるチャンスだと思う。もちろん写真を撮ることは出来ない。

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2019年5月16日 (木)

亀卜

 ネットニュースをぼんやり眺めていて、「大嘗祭で使う米の生産地を「亀卜」で決定、宗教色に批判も」というニュースの見出しを見た。そのときは見過ごしていたが頭に引っかかっていた。亀卜で栃木県と京都府の米が使われることになったこと、亀卜の亀がアオウミガメの甲羅を使うことはNHKのニュースで見ているから承知している。引っかかっていたのは「宗教色に批判も」という部分である。誰がどのような批判をしているのか。

 見出ししか見ていないので記事の内容を見ようとしたが見つからない。そこで「大嘗祭」をキーワードにして検索したら見つかった。朝鮮日報の記事だった。記事ではこの亀卜について詳しく記述したあと、「日本は第二次世界大戦で国教だった神道の影響で、天皇が儀式を行うことは日常化している」と述べ、いまも「天皇制」に神道の影響が強く残っていると説明したあと、このような亀卜などの神事は宗教的色彩が強いとの批判があると報じている。

 例によって「一部の学者」が「天皇は憲法に基づく象徴的存在にすぎないのに、一連の儀式に国費を使うことを批判している」と書いているが、なんという学者が批判しているのかそれは明らかにしていない。朝鮮日報記者大学名誉教授かも知れない。

 さらに昨年、秋篠宮が「天皇の祭祀行為は天皇家の私的生活費である「内廷費」を充てるべきだ」と発言したことを取りあげている。

 まず、この記事の首をかしげるところは「国教だった神道の影響で天皇が儀式を行うことが日常化している」という部分だ。天皇陛下は古代から儀式を行ってきた。国家神道というのは、江戸時代の国学などの影響を受けた人たちが明治以後につくりあげたもので、その「国家神道の影響」で天皇陛下が祭祀を行うことが日常化したわけではない。どうしてそういうことをいうのか想像はつく。

 皇室の祭祀が宗教行事であるかどうか。政教分離を原則にする憲法の下で、国費を祭祀の費用に充てることが正しいかどうかは論のあるところであろう。大方の国民は別にかまわないではないかと思っているはずだし、それでいいと思うけれど、厳密に考えてみれば秋篠宮のいう通りになってしまうのも理解できる。この記事の見出しが私の頭に引っかかったのはそのことである。

 祭祀は宗教行事であると考える方が自然だし、それなら政教分離の原則から国費の支出はできないことになるという批判は間違いではないことになる。

 このような批判が公言されることは、私は天皇制そのものの存続意味を問うことにつながると感じている。だから批判するなというつもりはないが、批判にはそういう意味がこもるということで、朝鮮日報がことさらそれを記事にすることの意図も感じたという次第である。
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治田神社

 前回飛鳥を歩いたときに飛鳥駅前の観光センターでもらった地図を見ると、石舞台から岡寺まで歩いていくことができそうだ。ただ、岡寺は高台にあるらしい。見ている地図はすでにかなり傷んでいる上に雨に当たってだいぶくたびれてきた。石舞台から舗装道路の峠を越えて岡寺に向かう。途中の高架橋から案内に従って下へ降りてそこから少し登り道を行く。高架の下の少し開けた場所に自転車のおばさんたち五六人がたむろしている。レンタサイクルで廻っていて、雨が本降りになって雨宿りしているらしい。にぎやかである。

 坂をそのまま登れば岡寺のようだが、途中に急な階段があって、ここからは見えないけれど上に何か建物があるらしい気配である。もちろん登る。なんだか体がいつになく重くて階段が辛い。

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 こんな階段を登ってきた。

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 神社の入り口のようである。

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 治田神社とある。由緒書きによると、詳細は不明ながら、岡寺(龍蓋寺)の鎮守神らしい。もともとここに治田氏と云う一族がいてその祖神を祀っていたらしいが、それをそのまま鎮守神社にしたのだろうという。だからここも岡寺寺域である。

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 神社本殿。大きくないけれど佇まいは好い。銅ぶきの屋根が雨に濡れる。

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 入り口横にあった石像が気になって写真を取りに戻る。たきぎを背負って本を読んでいるから二宮金次郎だと思う。本が雨に濡れてしまうよ!

神社の横を抜ければ先の方に岡寺の山門が見えてくる。

 

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2019年5月15日 (水)

石舞台古墳

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飛鳥遺跡の代表的なものにこの石舞台古墳がある。古墳といわれるように、もともとはこれは墓であり、石室の中に死者が葬られ、石の上には盛り土がされていた。その土が失われて石室がむき出しになったものだという。被葬者はたぶん蘇我馬子だろうといわれている。


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やや後方から見る。


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石室に入ることができる。


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石室の内部。


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正面の壁。上方から外光が入る。


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石室内部から入り口方向を振り返る。

 

蘇我氏が専横したために中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)に誅殺されたとむかし歴史で習ったが、そんな風に単純なものではないらしい。
そもそも聖徳太子の死後、その一族を皆殺しにしたことが蘇我入鹿の殺された名目上の理由だが、蘇我氏が自らの権力基盤を自ら葬るというのもおかしなことである。いまは蘇我入鹿を殺し、父親の蝦夷を自殺に追い込んだ事件を乙巳の変というそうだ。

 

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いろいろあった

 昨日は三回目の飛鳥散策をした。天気予報は夕方から雨ということだったのに、名古屋から近鉄で奈良に向かう朝の車中の窓に雨滴が・・・。大和八木に着き、乗り換えて橿原神宮前駅からのバスを待つころには、小雨とはいえ傘をささずにはいられないほどに降り出した。

 終点の石舞台で降りる。飛鳥では最も有名だけれど初めて訪れる。傘をさしながら片手で写真を写す。撮りにくい。雨のイジワル。

190514-20石舞台の中から。

 夕方奈良の友人二人と会食の約束があり、その場所も予約してもらってあるので、雨だから日延べというわけにも行かなかったのだ。

 夕方友達二人と合流し、三人で大和八木の駅近くの店で飲む。この友達はいつも海外へ行く仲間だ。キューバやウズベキスタンやあちこちに十五回以上一緒に行っている。今年の旅行の打ち合わせも今回の会食の目的の一つだ。もちろん大いに盛り上がり、楽しく語らっているうちに時間はあっという間に過ぎていく。九時過ぎの名古屋行きにギリギリセーフで飛び乗った。

 ところがところが、この列車は定刻を少し遅れていると思ったら、なんと80分遅れの特急であった。大阪で人身事故があってずっと運行が止まっていたらしいのだ。楽しく飲んでいたからちっとも知らなかった。

 指定席に向かうとそこには女性がリラックスした状態で坐っている。間違いを指摘しようと思って、待てよ、と思った。実は自分が間違っていることもある。切符を確認する。席は間違いない。しかし、なんと私のは時間が一時間後の車両の切符であった。

 自動発券機で「すぐ乗る」というボタンを押したから当然九時のものだと思い込んでいたが、ギリギリだったから次の列車の切符が発券されていたらしい。巡回してきた車掌に事情を説明する。「そのまま乗っていてけっこうです」と了解してもらう。列車は空いているのだ。

 名古屋駅で列車があふれていて、前を走っているいくつもの列車が入線できないという理由でたびたび停車する。今日中に帰れるだろうか。

 わが家には日を跨いだが、無事帰ることができた。

 飛鳥の写真は次回に報告する。
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2019年5月14日 (火)

個人情報と支配(下)

 しかしその民主主義を脅かすものが生まれた。情報社会である。情報を管理するものが社会を支配し、国を支配し、世界を支配することが妄想でなく現実となり始めていることをこのドキュメントは警告している。分かっていてもその利便性ゆえにその支配から逃れるのはすでに困難になりつつある。

 中国とアメリカが表で貿易戦争をしているが、じつはこの支配権を争う戦争こそが真の戦いなのではないか。中国の情報化の進展が世界で最も著しいのは、人民支配に情報管理が最大最有用な武器であることをすでにどの国よりも承知しているからである。共産党政府によってむかしから個人情報を档案(ダンアン・戸籍のようなもので個人の出自をはじめとするすべての記録が収載されている公文書、パスポートも就職もすべてこれを参考にする)として記録管理して国民を支配してきたという実績が積み重ねられてきたのである。情報が増えるほど支配は完璧になっていく。その中国がこの支配権についてアメリカに譲歩することはあり得ない。交渉が合意しないのは当然である。中国については一度別の機会にあらためて考えてみたい。

 アメリカも大統領選は情報戦になっていることはすでにたびたび報道されて御承知だろう。ドキュメントでは個人に対してプロファイリングされたその人の性向を元に、その人向けのサブリミナル的な情報が繰り返し流されているという怖ろしい事実を伝えていた。選挙動向に微妙に影響を与えているのである。これはますます巧妙に、そして強力になって行くであろう。

 人はすでにそのような特定情報を選択的に送りつけられることで影響を受け続けている。自分が選んだと思って手に入れている情報は、実は管理する側から選択的に選ばれて送らされているのかも知れないのだ。

 情報を管理してプロファイリングするのは人間である。そしてそれを超高速でAIが処理している。AIの最も得意な仕事であり、ますます巧妙化し、ついにはAI自らがプログラムをさらに巧妙化するだろう。支配者は愚民を支配していると思いながら、実はAIにコントロールされているという未来が見える。AIの究極に発達した未来は、『ターミネーター』で描かれるようなかたちではなく、このようなかたちでのディストピアであろう。

 情報社会は人間社会の仕組みを大きく変えることになることをこのドキュメントを観て感じた。そのつもりでニュースを見ると違う世界が見えるかもしれない。そのニュースも私向きのものが選ばれて配列されて送られてきているらしいのだが・・・。
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個人情報と支配(上)

 書いていたらちょっと長くなったので二回に分けて掲載する。

 NHKBSのドキュメント『個人情報が世界を変える』を観て考えさせられた。ビッグデータと呼ばれるさまざまな情報が収集管理され、それが解析されている。ここでは特定の個人がどのような情報を見ているのか、またどのような情報を発信しているのか、それもすべて収集されている。

 こうして集められたデータをもとにしてプロファイリングという手法によって個人の性向がたちどころに推定されていく。人種、趣味、政治的傾向等々あらゆることが把握されている。情報が多いほど確かになっていく。少し前まではそれらの情報は厖大すぎて、すべての人のことを瞬時に分析してみせることなど不可能だったが、科学の進歩はそれを可能にした。

 プログラムはさまざまな結果をフィードバックしていくことによってさらに進化していく。精度が上がっていくのである。こうして電子的な情報のやりとりに関わる人すべての情報が、取り出そうと思えば簡単に取り出すことが可能になりつつある。そもそもスマホなどでその情報社会の利便性にどっぷりはまってしまった人々がそこから逃れることなど可能なのか。個人情報の保護は言葉では言えてもすでに困難になりつつある。法的な規制は果たして可能なのだろうか。

 ヨーロッパでは巨額の罰則金を伴う規制で個人情報の保護をしようとしている。逆にアメリカや中国はその規制はほとんど野放しである。そのことの意味に思うところがある。

 古代ギリシャに賢人政治という時代があった。ギリシャだけではなく中国古代にも同様の時代があった。三皇時代の鼓腹撃壌の時代がそうである。公司があこがれた周公もそういう人として幻想されていたのであろう。優れた人が政治を行えば、世の中は平和でおだやかな暮らしが出来るという。

 そういう理想の人はなかなかいないし、いたと思っても権力を持つとそうでない人に変わったりしたのだろう。さまざまな紆余曲折を経て、いまは民主政治がとりあえず一番マシだということになっている。根底にそもそも大衆は残念ながらバカだという思考があるのではないか。バカではあるが、システムとしてバカでも出来る体制を作ればやっていけるようにしてあるのが民主主義ということではないかと私は理解している。

 そういう意味でアメリカという国はバカでも大統領になれるという最も民主的な国といえるのだろう。

注:私もバカな大衆の一人であることを自覚しながら書いています。けっして朝日新聞のような啓蒙的上から目線ではないので御承知置き下さい。
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2019年5月13日 (月)

斜めに見る

 カレンダーから見ればまだ五月で衣替えにはやや早いように思うが、温暖化のせいかすでに何カ所かで真夏日がやってきていることもあり、涼しい服装に替えたくなるのは自然なことだろう。それはそうなのだが、このところNHKのニュースでクールビズが繰り返し報じられているのはどうしてか。

 素直に暑くなったから、と受け取ればいいことだが、そもそもクールビズを採り入れているのはお役所と大企業の一部のように感じる。政府の省エネのためのクールビズ推進をNHKもその意向を受けて協力しているということで、つまりクールビズがちっとも普及していないことの表れなのではないか。一度なら知らず二度三度かたちを変えて報じられるとさらにそう思う。

 NHKはオリンピックを盛り上げるための番組や番宣が異常に多いように感じるのは私だけだろうか。これでは民放のCM並みである。そこまでせっせとやられると、却って引くのが人の常だろう。日曜夜の大河ドラマが不評なのはそれが理由の一つにちがいない。しつこいのはみな嫌いなのである。

 ヴィーガンという肉食反対、動物愛護を標榜する集団があるらしい。当人たちが肉食をせず菜食をするというなら勝手にしたら良いことであるが、この世の肉食そのものに反対して屠畜場の廃絶や食肉キャンペーンの場所などに屠殺された動物の市街の写真などをこれ見よがしに掲げてデモ行進をするとなると、これは如何かと思う。

 人の行為に異議を唱えてそれをやめさせようとすることは、同時に自分の行為に介入することを許すことにつながる。自分は正義だから問題なく相手だけを非難する、というのは自分を特別視することに他ならない。

 しかしそんな大げさなことではなくて、ただ彼等の多くは目立ちたいから、ニュースに取りあげてもらいたいからこのような行動をしているように見える。こうしてニュースに取りあげられ、ブログに書いてもらってさぞ喜ばしいことだろう。

 反捕鯨やイルカ保護を喚く人たちもたいていはそうだと思うけれど、なかには狂信者がいて、狂人であるからその精神のスイッチが常人とまったく異なるわけで、相手の立場など毛筋ほども聞く耳持たず、当然社会のルールなど無視するから怖ろしい。

お許しは出たが

 本日は糖尿病の定期検診日。朝一番で病院に行き、採血検尿をする。それが早ければ血液検査や尿検査の結果も早く出るわけで、医師の診察も早くなる。ところが今朝は受付が大行列。思えば先週の月曜日まで連休だったから、月曜に診察する人は本日に集中することになったようだ。

 お陰で待ち時間にゆっくりと佐藤信編『古代史講義』という本をじっくりと読むことが出来た。編者は東京大学大学院の教授だが、実はBSの放送大学の講座『日本の古代中世』の先生も引き受けている。梅原猛の本を再読しているうちに、自分の最も知らない日本の古代から中世に興味が湧いてきて、BSキャンバスのこの講座を録画して勉強しているのだ。

 この本のことは読了してからまとめて書くけれど、古代史は大きくかわりつつあることを知ることが出来て面白いのだ。

 検査結果を見ながらの美人の女医さんのご託宣は、「血糖値が少し上がっていますが薬を増やすほどのことはないでしょう。少し節制してください」というものであった。この三年で一番悪いけれど、hA1cの値は7を超えていないからOKと言うことらしい。

 そういえば最近甘い物が強烈に欲しくなることがある。血糖値が低いときはそういうことは少なくて、血糖値が上がると空腹がきつくなったり甘い物が無性に欲しくなる。悪循環にはまる兆候である。辛いときほど我慢が必要というのを忘れないようにしなければ。

 薬局も満員で待たされる。一度家に帰り、自動車税の通知書が来ていたので郵便局に支払いに行く。いつも待たされるのにたまたまだろうか、すぐ呼ばれて用事が済んだ。

 夕方は歯医者である。いまのところ大過なくいるけれど、なんとなく病巣が蠢き出すのを虎視眈々と窺っている気配を感じる。歯や歯茎を丁寧に磨くように努めているが、それだけで大丈夫なのだろうか。

 ところで救急歯科で化膿止めのために抗生物質をもらったのだが、その効果のせいだろうか、その後、尿の色がいつもよりずっと薄く透明に近くなったり、ゆるかったお腹が治ったりしている。もし副作用なら大変ありがたい副作用である。

 

映画備忘録(6)

『フューチャーワールド』2018年アメリカ
監督ジェームズ・フランコ、ブルース・ティエリー・チャン、出演ジェームズ・フランコ、スーキー・ウォーターハウス、ジェフリー・ウォールバーグ、ミラ・ジョボビッチ、ルーシー・リューほか

『マッド・マックス2』や『マッド・マックス3』を下敷きにしたような、荒廃した近未来を描いたディストピア映画だが、ここで狂言回しになっているのが若い女のアンドロイドである。しかしこのアンドロイドには特別な能力があるわけでもなく、弱いし格別闘争力があるわけでもないので、なんのための存在なのか意味不明である。

 ミラ・ジョボビッチがカルト集団の女親分として怪演している。彼女の方がよほどアンドロイドのようだ。平和主義者のグループのクィーンと呼ばれる女統領がつり目のルーシー・リュー、彼女が病に倒れ、息子のプリンスがその薬を求めて危険な旅に出るという話なのだが、時間と距離の関係がご都合主義に見える。つまりリアリティに欠けるのである。

 ところで、こんな荒廃した世界なのに車が縦横無尽に走り回っているけれど、ガソリンは誰が精製して生産しているのだろうか。どこかに湧いているのだろうか。まさか。

 どうも意味不明のパクリ映画であった。

『ダブル・ミッション 復讐の銃弾』2018年アメリカ
監督D・A・アームストロング、出演ジャスティン・チャットウィン、マーク・トンプソン、ロビン・トーマスほか

 日本人は復讐話が好きだからこの映画にも題名に復讐が使われているが、復讐話ではない。あえて云えばまともな新米刑事が・・・というのはアメリカのカルト映画でほとんど警察ものでまともな警官が出てこないから・・・任務を忠実に執行していく中で警察内部の不正に気付き、その妨害に振り回されながら成長を遂げ、ついに事件を解決するという物語り。

 黒幕に依頼された冷酷非情で不気味な暗殺者の暗殺がリアリティがあり、映画を締めている。だから原題は『The Assassin's Code』となっている。ダブルミッションも復讐もないのである。なんなのだこの題名のセンスは。

 最初の主人公への感情移入がし難いのが響いていまいちなのだが、観て時間の無駄ということはなかった。経過とともに主人公が一人前になっていくのを見せるためにはこれでいいのかも知れない。
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2019年5月12日 (日)

志賀直哉『菜の花と小娘』

 志賀直哉の最初期三部作といえば、先日紹介した『或る朝』、『網走まで』、そしてこの『菜の花と小娘』の三作である。この『菜の花と小娘』は最も早くに書かれたものだが、一度没にされたためか発表は一番遅い。没にされたと思われる草稿も残されていて、全集に収められている。やはり発表された文章の方がはるかに出来がいい。

 題名から想像されるようにこれは童話である。ちょうどアンデルセンの作品を集中して読んで、それに励起されたと執筆時の日記にあるそうだ。志賀直哉のほかの作品とは毛色がかなり違う。もしかして未読の作品にもっとこのような童話があるのかも知れないが。

 菜の花の視点から世界が見える。娘によって春の小川の流れにのせられ、菜の花は流れ下る。その水の音、春の空気、虫や換える、鳥のすがたがそこにある。思えばむかしはこんな草原(くさはら)があり、小川があたりまえに流れていたのだ。もちろんいまでもこういう景色はあるだろうが、人工物に取り囲まれた箱庭のようにして残されているところが多いのではないだろうか。

 私も幼いころ父の仕事の関係で里山に暮らしたので、それをイメージして読むことが出来た。いまは土にじかに触れたり、小川に手を浸したりすることはあまりなくなっている。自然と接することがなくなって、人間はだんだん生命力を失いつつあるのかも知れない。ブログに草花や虫や鳥のことなどを書いている人たちがお元気なのは自然に接しているからだろう。そんなことがこの童話に書かれているわけではないが。
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映画備忘録(5)

『スティール・サンダー』2018年アメリカ
監督パシャ・パトリキ、出演ジャン=クロード・ヴァン・ダム、ドルフ・ラングレン、アル・サビエンサほか

 最近観たヴァン・ダムの出演映画はつまらない役柄のものばかりで、たまにシリアスなものがあっても悪役だったりしていてがっかりする。若いときの颯爽とした姿が忘れられないけれど、確かに顔は随分悪相になってしまった。この映画は久しぶりに彼のアクションを生かす映画で、潜水艦の中というかぎられた設定の中での活躍が楽しめた。

 この潜水艦はCIAの極秘のテロリスト収容施設なのだが、工作員のヴァン・ダムはそこへ拉致される。そこは裏切り者に乗っ取られた施設に変貌し、極秘情報資料とともに敵に引き渡されんとしている。孤軍奮闘するヴァン・ダムは、やはり拉致されて幽閉されていた謎の男(ドルフ・ラングレン)を解き放ち、味方につける。この二人が組めば向かうところ敵なしである。お薦めするほどではないが、ヴァン・ダムが好きならどうぞ。

『復讐者のメロディ』2018年ベルギー・フランス
監督ジェレミー・グエズ、出演フィーラ・バーテンス、ローラ・ル・ラン、ローランド・ムーラー、ルブナ・アザバルほか

 期待していなかったのに思いのほかの掘り出し物だった。やはりヨーロッパ映画には出来がいいものが時々ある。仮釈放で刑務所から出所した男は安宿に居を定め、宿の雑用をしたり、近くの食堂の皿洗いとして働く。脚には通信機の着いた足かせがはめられていて、定時連絡を怠ったり、宿から指定時間以上離れると仮釈放が取り消されることになっている。

 そんな男が次第に安宿の女将と女将の娘である少女と心を通わせていく。無口なその男と、年頃でもある拗ねた生き方の少女がぽつりぽつりと言葉を交わしていく様子が、ダークな映像の中に描かれていく。

 そんな中で事件が起きる。静かで真面目に見えた男の怒りの爆発がすさまじい。彼がなぜ刑務所に服役になったのかその理由が垣間見える。人は真面目に生きても災厄に見舞われることがあり、それが悪意によるものであればそれに報復をせずにはいられないもののようだ。

 ついに足かせをたたき壊す男。絶望へ一直線であるが男の熱い心に見ているこちらも熱くなる。救いのない逃亡が始まる。ラストにかすかな曙光が射す。男に生きる希望が湧いたことであろう。
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2019年5月11日 (土)

ちょっとした整理

 旅に行くときの、予約した宿の情報、出かけた先で訪ねた場所のパンフレット、宿の領収証や料理の献立表など、さまざまなものが紙袋に雑然と放り込んである。それらが幾袋にもなってきたので整理した。

 宿に関するもの一袋、旅先の情報に関するもの一袋にとりあえずまとめた。見ているとその旅のことが思い出されてつい手が止まる。これは来週弟と会って彼のリタイア語の旅行の参考にするためだ。

 これらを大まかな地区別に分けたいところだが、そこまででくたびれた。東北、中部、西部の三つに分けようかと思っているが、また今度にする。海外旅行の資料は別の袋に旅先毎にまとめてある。こちらは回数がかぎられているから一目で分かるようになっている。

 旅の資料はリタイアした60歳頃からのものがほとんどである。それ以前のものは残っていない。それなのに、学生時代に親友と佐渡、能登、山陰を野宿旅したときの資料が出て来た。四十五年以上前のものである。思い出として残したのだろうが、残してあったことすら忘れていた。といってもわずかなものしか残っていないが。

 なんだか思い出を整理しているようで、複雑な心境だ。以前は行ったことのないところを目指していたが、だんだんお気に入りの場所に繰り返し行くようになっている。冒険する気力が衰えているということだろう。なじみの場所、なじみの宿に泊まり、その範囲で見たことのない細部を訪ね歩くことに面白さを感じている。

 こういう心境だと、以前のように中国や台湾に一人で出かけて歩き回るというのはなかなか出来ないだろう。さいわいいまは海外に行くときは親しい友人二人と行くので、冒険するのも心強いのである。今年も秋に行くことが決まっていて予約も済んでいる。
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本当に情勢が変化しつつあるのか

 ネットニュースはいつも見るニュースが優先的に出るらしいから、韓国のニュースというと私がまともだと思う保守系の朝鮮日報や中央日報の記事が多くなる。政権寄りのハンギョレ新聞などは違うのかも知れない。

 そのニュースを見ていると、いまの文在寅政権の対日政策があまりに問題がある、との論調が韓国内で増えているようである。いままでは大っぴらに言うと袋だたきに遭いそうな言説が、知日派の人たちを中心に展開され始めているようだ。いい加減にしろ、ということのようだ。

 その微妙な空気を感じてだろうか、文在寅大統領が日本に対していままでとは少し融和的な物言いを始めたと韓国通の人から評価されているようだ。天皇陛下の即位に対しての祝意の言葉や日本に対しての言葉にいままでとそれほどの変わりがあるようには私には思えないのだが、専門家、特に韓国と仲良くしなければならぬと固く信じている人たちは、その微妙な変化を読み解くことが出来るらしい。

 歴史認識を政治問題化するのをやめるように文在寅大統領は日本に対して繰り返し言い、いまも言い続けていてそこはまったく変わっていない。日本が、つまり韓国から見れば安倍政権が歴史認識を政治問題化していると非難しているのだが、安倍首相が歴史認識を政治問題化した発言を繰り返していると思う日本人はいるのだろうか。まともな日本人なら歴史認識を繰り返し政治問題化して発言しているのは文在寅大統領であり、韓国与党のともに民主党の面々ではないのか。

 韓国の人々は文在寅大統領のその言葉をそうだそうだと賛同しているのだろうか。文在寅大統領は本気でそう思っているのだろうか。それなら彼と我とはあまりにも認識が違いすぎる。

 そこまで違っていると話し合って分かりあうのははなはだ困難であろう。前提になる認識が違えば、話し合っての合意が簡単に踏みにじられるのはいままでそれこそ繰り返し日本が経験してきたことだ。

 その文在寅大統領がG20で安倍首相と是非会談したいと申し入れているという。話し合うことはいいことだという日本人の幻想を打ち砕いてきたのは韓国であることをまず自覚してもらわないとならないだろう。これまでの経験から、安倍首相が「会談には意味が無い」と申し入れを蹴っても当然だと思う日本人は多いのではないか。蹴れば蹴ったで「日本が蹴った」と国内で言い立てることだろう。別にそれでお互いにかまわないのではないか。

 敵対していても外交には相手に対する敬意というものが必要だろう。その敬意を北も南も全く欠いているように見える。礼儀を重んずる儒教の国を標榜してきたはずの国なのに、礼儀がないようにしか見えない。常に支配され続けてきた民族のコンプレックスから生ずる宿痾だろうか。そんな理由があったとしても、だからしかたがないというものではないけれど。
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2019年5月10日 (金)

父の誕生日

 そういえば今日は父の誕生日であった。私と二日違いなのである。大正三年生まれだから生きていれば105歳である。それでも97歳の誕生日を迎えてから10日後に亡くなったのだから長命であった。

 酒も煙草も生涯嗜まず、早寝早起き、死ぬ数日前まで好きな庭いじりをしていた。私の子供たちをことのほか可愛がり、私が子供たちを連れて会いに行くことをとても楽しみにしてくれていた。私が男手ひとつで子供たちを育てていたので、出張などで家を空けることもあり、ときどき両親が二人でわが家に滞在して子供の面倒をみてくれた。ことのほか可愛がってくれたのはそうやって面倒をみたからでもあろう。いつも気にかけてくれていた。

 今日は父のことを思いだしていた。普通なら父に献杯するところだが、来週定期検診なので昨日から休酒中であり、酒は飲まない。
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さわやかな朝とくもった頭

 昨朝、そして今朝ともさわやかな朝である。窓をすべて開け放つ。空気がひんやりしていてまことに気持ちが好い。こういう快適な気候は短いから、よくよく堪能しておかないともったいない。ベランダで深呼吸する。

 空気がさわやかなら自分もさわやかかというと、残念ながら頭の中は霞がかかったように朦朧としている。天気でいえば曇りである。こういう状態のときは集中力が持続しない。集中力が持続しないことで苛立ちがつのる。一番楽しみなはずの読書に集中できない。しかたがないから短いものを拾い読みしている。

 バイオリズムだろうか。集中力が湧き出て、雑念が雲散霧消していくらでも本が読めるときと、遅々として読み進めないときが交互に訪れ、その交替が歳とともに早まり、しかも望まない方が長くなっていくような気がする。

 そういうときは録りためてあるドラマや映画を観る。随分何本も観たけれど、そのことをブログに書き留めようと思いながら書いていない。忘れてしまわないうちに少しずつ書くことにしようかとぼんやり思っている。
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2019年5月 9日 (木)

志賀直哉『荒絹』

 志賀直哉の小説はほとんど読んだと思っていたが、全集を読み進めていくとまったく記憶にないものに出会う。私が読んだ文庫に収められていなかったのか、私が忘却したのかも知れない。

 この『荒絹』というごく短い小説は、しかし一度読んで忘れるというようなものではない。印象が強烈だからだ。山の女神の嫉妬が、愛し合う阿陀仁という好青年と美しい荒絹という娘の仲を引き裂く。阿陀仁に頼まれて荒絹を捜しに山中深く分け入った隠者が見た荒絹の変わり果てた姿はおそろしい。

 それで物語は終わりである。救いはないのである。愛し合う二人が愛に盲目になるとき、女神の嫉妬が燃え上がるが、人は愛に盲目になるものであって、打算的な愛は愛とはいいがたい。しからば常に女神の呪いはそこにあるのである。あまりにも理想的な男女の愛は、却って成就しないのかも知れない。男女の仲は多少打算的な方が安全で、まったく打算的ではない恋は危ういということか。知ったようなことをいう私は、哀しいことに本当の恋を経験しているとはいえないから、女神の呪いも受けたことがない。それはしあわせか。

 これを長編にしたら泉鏡花の小説になりそうだ。
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独り酒

 昨日は69歳の誕生日だった。娘や息子から祝いのメールをもらう。妹からも電話があった。弟にはこちらから電話した。今月20日が父の祥月命日なので、その前に弟の家のある千葉へ行く。妹と打ち合わせて兄弟が合流するすることにしたのだ。弟が今月末で定年退職する。リタイアしたら一緒に旅行に行こうと約束しているので、その打ち合わせもする。

 さらに松戸の兄貴分の人といつものように船橋で会食することも決めた。来週は前半にまた飛鳥を歩く予定。本命の石舞台へ行くのを最後のハイライトにしてあったのでそのあたりを歩くつもりだ。今回は奈良の友人二人と現地で会食する。これも連絡済み。

 連休が終わり、世間が日常にもどったのを見計らってふらふらと動き出すわけである。

 晩酌は自分としては控え目にしている。独りで酩酊するほど飲んでもあまり美味しくない。しかし昨晩は一人ではない気分で好い気持になり、ちょっと好い肴を揃えていつもより少し余分に飲んだ。

 息子の彼女がこのブログを見るようになったそうだ。一人読んでくれる人が増えたわけで嬉しい。
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2019年5月 8日 (水)

多すぎても友

 手に入れるのが嬉しくて集めているもの、本と映画の録画。ほかにも小物が少々あるがとるに足らない。それぞれ読むこと、観ることを目的にしているのはもちろんだが、読むにも観るにも一定の時間を必要とする。自分の持ち時間を遙かに越えての蓄積は自分を困惑させるものであることをいま感じている。芥川龍之介の『芋粥』の「某という五位」の心境というところか。

 ただ、彼と違うのは、図書館ほどの本に埋もれているわけでもフィルムセンターほどの映画のソフトが積まれているわけでもないから、まだ歯止めも利くし、選択することの楽しみもあるのだと思える状態だということだ。食傷してしまったり、食傷した自分を想像してげんなりしたりしてはいない。

 今日は誕生日。いつも通り静かにひとりの時間を過ごしている。そのときに何よりの友が身の廻りにあるのだから、幸せとしなければならないだろう。
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心の師

 いい文章を書きたいと思い続けているけれど、そのためにはまずきちんとした文章を書けるようにならなければならない。いい文章を学ぶのはとても困難なことだが、きちんとした文章はちゃんと学べば誰にでも書けるようになることを学生時代に教えられた。

 多少文章にこだわりがあるので、きちんとしていない文章にはどうしても抵抗がある。そういう自分がお粗末な文章を書いていることにも無念な思いを抱いている。

 三十代のときにたまたま六十代の人と親しくなった。小学校を出てすぐに下駄屋に丁稚奉公に入り、二十歳前に招集を受けて中国戦線に往き、終戦とともにソ連の捕虜としてシベリアに抑留されたという。いまのウズベキスタンのあたりにいたようだ。そこでの苦労談や秘密の話などをいろいろ教えてもらった。

 その人は教育を受けられなかったことを残念に思い、NHKの教育講座などをいくつか受講していた。俳句や文章の講座の話を聞き、そこで作った句や作品を見せてもらったり、批評を求められたりした。思えばおこがましいことだが、二人の間では年齢差など感じなかった。

 そのときにNHKの文章講座がどんなものか知って、自分も一度本格的に文章を勉強したい気持ちが湧いたが、ちょうどその頃に仕事の担当範囲が急激に拡がり、責任も重くなってその機会を失した。

 その人とは、あることで誤解されて、会わなくなってしまった。そのことはいまでも痛恨の記憶である。その人の生涯学ぼうとする姿勢、学ぶことを喜び、楽しむ様子は忘れられない。ひそかな私の師である。
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2019年5月 7日 (火)

歯を殺さない

 朝九時に開くかかりつけの医者に、十分前に行ってみたら、ちょうど受付の女性がドアの鍵を開けているところであった。さっそく歯の状況を説明して診療を依頼する。予約が満杯であることはすでに承知なので、待つのは覚悟の上である。「一時間ほどは覚悟してください」といわれるが、それくらいなら御の字である。

 電話が次から次にかかる。ほとんどが急の依頼のようである。早く来てよかった。待つほどもなく、九時前に名前を呼ばれる。何と一番初めの診察なのである。いきさつの説明を聞き、医師は歯と歯茎をじっくりと診る。

 結論は、「腫れは引いているし、いまは痛みがないことから自己治癒力が働いているようです。歯の神経を抜いて中を綺麗にするのが根本治療ですが、神経を抜いた歯の寿命は少なくとも五年は縮んでしまいます。私はなんとか周辺からの治療で持たせたいと考えます。殺菌消毒とレーザー照射をしてしばらく様子を見ましょう」とのこと。

 痛い思いをしないで済むならそれに越したことはない。とにかく来週経過観察して最終判断するらしい。来週はすでに予約済みなのでありがたい。ただし定期的なメンテナンスはいままで以上に必要だし、また化膿したとき用の薬も常備していることになった。

 歯はなるべく殺さない、というかかりつけの医者と、根本治療が必要という救急で診てもらった医者と、どちらが正しいか私には分からない。たぶんどちらも正しいのだろう。とりあえずかかりつけの医師の方針に従うことにする。
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恐れる

 医学的に検証されているかどうか知らない。検証されていれば注意喚起がされるはずだと思うが、世のなかは必ずしも善意的ではない。

 歳を重ねていくと次第に物忘れが増え、わずかな段差やあるのが分かっているものに躓く。誰かと話をしていて、一番肝心な人や物の名前、忘れるはずのない名前がとっさに出てこなくなってうろたえる。自分はどうなってしまったのか、と思い始める。

 いわゆるボケ症状を加速するものとして、アルミ鍋で煮炊きするときに溶け出すアルミや、胃腸薬の一部成分が疑われているという。いままではそんなもの気にもしていなかった。しかしいまは少しでも疑わしいものは敬遠したい気もちだ。

 私も人並みにいろいろと思い悩むと胃腸の調子に影響する。だから愛用している胃腸薬もある。以前は常用していたが、いまは糖尿病やら高血圧用やらのいろいろな薬を服用しているので、必要に応じて飲むようにしている。その胃腸薬が認知機能に影響するという妄説に接してから、服用を控えているのである。考えれば胃腸薬が本当に必要だったのは、営業職というストレスと暴飲暴食がつづく現役時代の話で、いまはそれほどのダメージを胃腸に与えることは少ないのである。

 妄説でも疑わしいものは控える。何しろ独り暮らしで一番怖いのは認知症で、自分のことが自分で出来なくなることである。いつかは来ることだが、できる限り先延ばししたいから危ういものを恐れるのである。
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2019年5月 6日 (月)

制裁論

 韓国の日本に対する理不尽な行動の数々に対して、報復するべきである、という制裁論がしばしば提案されている。それに対して制裁論は感情論に他ならない、韓国に対して制裁を行うことで韓国がダメージを受けるのは間違いないけれど、同時に日本もダメージを免れることが出来ないのだから制裁報復はするべきではないという反論もしばしば目にする。

 確かに報復や制裁を行った側が無傷で済んだものが過去にあったとも思えない。これからもないだろう。報復乃至制裁を行うということは日本も傷を負うことを覚悟の上で行うことになる。つまりそれを実施するなら、日本にとって筋を通すことであることを自国にも他国にも公言し、しかも相手には大きな、そして自国にはなるべく小さなダメージになることを冷徹に計算することが必要となる。

 恨みを買うことはもとより覚悟の上である。制裁を受けて、韓国が自分が悪かったなどと思ったり反省する国であるかどうか、すでにみんな身に沁みて承知している。つまり報復論は感情論ではなく、冷静に長期的な政治的、経済的な考量を必要とする行為なのだと思う。つまり制裁や報復を真剣に考え論じるなら、それは感情論では絶対ないはずのものである。

 憤懣を解消するために行うのはまことに愚かなことである。自分も損をするからやるべきでない、という粗雑な論が主流だが、それを見越して韓国が高をくくっているのも見えている。私が恐れるのは、あまりに憤懣のエネルギーがたまると暴発するのが日本人だということで、それを忘れてはいけない。理想論だけでは人間の感情を抑え続けることは難しい。最悪を避けるための風穴が必要な気もしている。韓国が自滅するような、何か巧みな方策はないのだろうか。これは冗談だが、韓国経済の破綻を加速するために韓国の労働組合でもこっそり支援しようか。失政必至の文在寅を褒め殺しするにはもう遅すぎるかなあ。
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お返し

 子供たちが独り立ちする前には両親も健在だったので、冬休み、夏休み、そして五月の連休には千葉の実家に必ず揃って帰省した。子供たちもそれが当然だと思ってくれていたのか、嫌がりもせずについてきた。両親は弟たちと暮らしていたから、たいへんだったろうと思う。特に弟の嫁さんは三度三度の食事その他を仕度しなければならないのであるからてんてこ舞いである。

 子供たちが独り立ちしてからは私ひとりで帰省した。迷惑の掛けっぱなしであるが、弟の嫁さんは、人の来るのを喜ぶ、という最高のおもてなしをしてくれる女性なので居心地がいいのである。弟も今年五月の終わりに定年退職する。私のようにたびたびあちこちへ旅行するということがなかったから、リタイアしたあとは旅行したいという。

 旅行の参考コースをいくつか考えて渡してある。西の方面を特にに知らないというから、わが家、つまり名古屋を起点にして歩き回るのもいいかも知れない。一緒に行ってくれと弟はいう。ガイドブックの名所ばかりではない、兄貴が良かったと思うところに行きたいという。それならまかせておけというところだ。弟と嫁さんにささやかながらお返しをすることが出来ることを心から楽しみにしている。

 世間は十連休最後の日。渋滞も今日で終わるだろう。長すぎる連休に批判が多かったが、これだけ長いと連休疲れというより、連休を充分堪能できて休みも取れて、案外長い連休もいいものだということになれば良いと思う。批判的な言葉をマスコミが並べたてていたのは、自分たちが休めないことのひがみではないか、などと私は見ていたのだが。
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2019年5月 5日 (日)

志賀直哉『或る朝』

 志賀直哉の小説には、唯一の長編の『暗夜行路』に代表されるような私小説風の一群がある。『暗夜行路』はもちろん創作だが、志賀直哉の私生活が強く反映されていることは読んだ人なら知っているだろう。その一群の最も初期の短篇が『或る朝』という作品だ。

 これを初めて読んだとき、これはなんだろう、と思った。強烈に印象に残ったのに、何を作品から受け取ればいいのか分からなかった。祖父の三回忌の当日、祖母の家で朝寝をしている主人公が、繰り返し祖母から起きるように催促されて、催促されたことそのことに腹を立てて意地になってなかなか寝床からでない、という小説で、それだけである。

 祖母との関係、弟たちとの関係が垣間見えるが、断片的である。実は祖父、そして父との関係がその背後に強く影を落としているのだが、それはここでは語られていない。感情が激しながらの祖母に対しての言葉や態度に、自分自身も傷ついているのである。こういう関係は生活の中ではしばしば経験する。いつも人に優しく出来るほど人は強くない。繊細な人ほどそうだろう。

 自分の言葉で祖母がどう感じたのか、それが祖母のこぼす愚痴などでかれに突き刺さっているのだ。彼はもう甘える歳ではないが、まだ大人になりきれてもいない。祖母が彼の甘えを受けられるほど、もう祖母も強くないことも互いに感じている。ここから長い大人への旅が始まる。

 このごく短い小説と、『和解』(この小説で彼は世界を、そして父を受け入れる。つまり大人になるのである)という短篇とが私にとっての志賀直哉の小説の橋頭堡である。この二作品の間にたくさんの途中経過を書いた作品がある。さらにそれらをてがかり、あしがかりとして『暗夜行路』を読む、志賀直哉を読む。この小品が私の出発点なのだ。

 だからこそ全集が必要だった。全集には一部の作品の草稿も収められている。下書きである。面白いし興味深い。残念ながらこの『或る朝』の草稿は残っていないらしく、収められていない。
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単なる私感だが

 新天皇陛下の即位に対しての各党の祝意の表明で、社民党の祝意は身の程を弁えない、上から目線のものであった。この党はもう愚か者の集まりに成り果てたことはすでに承知しているとはいえ、祝意のなんたるかも理解できていないお粗末さにあきれた。あれは祝意の名を借りたただの自己主張である。しかしもうだれも相手にするところもないらしく、それを非難すらされないのは哀れをとどめる。

 私は韓国の文在寅大統領の祝電に同じような印象を受けた。いままで「天皇」を「日王」などと呼んできた韓国がめずらしく「天皇」の呼称を使ったことを、韓国の対日宥和のしるしではないか、などと読み解くジャーナリストなどがいたようだが、中身を読んだ上で本当にそう思っているのだろうか。

 よその国がどのような呼称で呼ぼうが、その国内で使っているぶんには勝手である。しかし韓国は公式な日本に対しての文書にもいままで「天皇」を使わずに「日王」を使用してきた。今回「天皇」という呼称を使ったということは、いままの「日王」という呼称をどういう意味で国家として使用してきたかということを却って明らかにしているということではないか。

 これは全くの想像だが、文在寅のことだから今回も「日王」で行こうとしたような気がする。さすがに周囲に諫められて「天皇」にしたのではないか。「日王」宛の祝電の、呼称だけを「天皇」に換えたからあんな変な祝電になったのだと思うのである。

 社民党の党としての祝意の愚かさをはじめに笑ったのは、これをいきなりいうのを控えたためである。

ところで新天皇即位当日の朝の新聞各紙の大見出しをずらりと並べたニュースを見たとき、「天皇陛下」とある新聞と「天皇」となっている新聞があって、それぞれの色分けがあらためて明らかになっていて面白かった。
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2019年5月 4日 (土)

池波正太郎『夜明けのブランデー』(文藝春秋)

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 柴咲コウのライブの録画を聴きながら、久しぶりに池波正太郎を読んだ。これはエッセイである。60歳を過ぎていくつかの病気を乗り越えたころの話が一話四ページほど、全四十話が、彼の好きな自筆の絵を添えて収められている。二度ほど読んでいる本だが、自分がそのころの池波正太郎と同年かそれ以上になったいま読むと、さらりと書かれていることの中に込められたさまざまな思いが以前より伝わってくる思いがする。

 彼が子供のときから絵が好きで映画好きであること、特にフランス映画やイタリア映画が好きであること、そしてフランスには何度も出かけて滞在していることが、時代小説作家という顔と矛盾なく彼の中で混在していることを素直に読み取れる。

 彼は人を描く作家である。描かれた人物に血肉が通っているかどうか、創作であってもリアルであることは当然だという思いがこもっている。だから黒澤明の大作映画『乱』については手厳しい批評をしている。私も池波正太郎同様、映像美には感心するものの登場人物達のリアルさに欠けることにはがっかりしたので、意を強くするのである。

 彼の日常が病を乗り越えたり病と折り合いをつけるために次第に変わっていく様子をたどると、なんだか自分自身とシンクロするのもしみじみと楽しい。

 池波正太郎の小説はほとんど読んだ。作品によっては五度十度読んでいるほど好きだ。その蔵書の半ば以上をすでに処分した。江戸前のややシャイであり、こだわりを持っているその筋のとおった生き方に憧れ、いささかなりとも真似をしてきた自分をあらためて思い出し、残っている本の中から、『真田太平記』や『剣客商売』、『鬼平犯科帳』のどれかを久しぶりに読んで見ようかと思っている。
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美味しい酒だったのだが・・・

 昨夕、息子が伴ってきたのは実はつきあっている女性である。結婚するつもりであることの報告にやって来たのだ。彼女はにこやかでこだわりのなさそうな大人の女性だった。どん姫に手伝ってもらって、ささやかな宴の用意をして迎えたのだが、なんでも美味しそうに食べるし、おかわりもする。気持ちよくものが食べられる屈託のなさは好感が持てた。

 息子からの銘酒の恵送もあり、こちらが準備していた酒もあり、どれも絶品の味で至福の時間を過ごすことが出来たのだが、例によって自分のペースで酩酊してしゃべり散らしてしまい、今朝になってもっと彼女に聞いておきたいことがあったことに思い至った。息子にまた確認すればいいことだが、もう少し酒を控え目にすべきだったと反省している。化膿している歯根の膿が頭に廻ったのであろう、いつも以上に働きが悪かったのが恥ずかしい。後悔先に立たずである。

 歯の痛みは抗生物質と痛み止めとアルコールの麻酔作用でまったく感じなかったのだが、夜中の二時頃、気味の悪い夢とともに目覚めた。歯が疼き出していた。痛みでおかしな夢を見たらしい。痛み止めを飲んでしばらくしたら治まり、そのあとまたぐっすり眠ることが出来たのは幸いであった。

 今回は段取りは私がしたが、あしらいはほとんどどん姫がしてくれた。あしらいをしながら自分も美味しそうに酒を飲んでいたのはいつものことである。どん姫も大人の女になっていた。
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2019年5月 3日 (金)

長期治療が必要

 歯痛の話ばかりで恐縮であるが、何しろいま私の一番の懸案である。

 朝、救急歯科の開院を待ちかねて診察を受ける。状況を説明後、かなり丁寧な診察を施されて原因を特定。レントゲン写真を見ながらの説明によれば、歯の根元が化膿しており、それによる腫れと痛みが起きているとのこと。本格的な治療には問題の歯の中をとことん洗浄しなければならないのだそうだ。数回は通わなければならず、一ヶ月以上の治療が必要とのこと。

 救急医師は応急処置のみで本格治療はかかりつけに申し送りすることが建前だということで、簡単な診察シートをもらう。抗生物質と痛み止めの薬も併せて戴く。深刻な状態の手前なので、酒は絶対駄目とは言わないが、また痛みますよ、と笑われた。薬が効いて腫れが引くには二三日かかるだろうとのこと。

 今日息子が来るのに、好い酒があるのに・・・どうしよう。
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調子に乗ったら・・・

 娘のどん姫は無口である。女性で無口なのはめずらしいが、子供のときからそうだった。無口でどんとしているからわたしは「どん」と呼びかけるようになり、本人も別にそれを嫌がる様子がない。「どん」と呼びかけると「う」と答える。

 もちろん大人になってからは名前で呼んでいる。そのどん姫もいまは人妻である。

 そのどん姫が昨日の午後帰ってきた。話は八割から九割を私がしゃべる。考えたら私が必要以上にしゃべるから、どん姫は無口なのかも知れない。しかしさすがにどん姫も大人になったから、適度な相づちをうち、自分の考えを簡潔に返すようになった。バカ親としてはそれがとても嬉しい。

 そういうわけで歯が不調なのに調子に乗って酒を飲んでしまった。夜遅くなって歯の痛みがぶり返し、辛いことになった。冷やそうがどうしようがまったく治まらずに痛みで眠れない。ようやく眠って、朝起きたら痛みはほぼ治まっている。治まっているが、今日はこれから救急歯科に行くつもりである。簡単に治療が終わることを願っているがどうだろう。

140920-243こんな悪相ではないが

 何しろ今晩は久しぶりに息子も帰ってくるのである。たぶん今日だけはどんなに辛くとも飲むだろう。飲んで調子に乗ってもがくだろう。懲りないのである。
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2019年5月 2日 (木)

小康状態

 さいわい今日になって歯の痛みは治まっている。だが右頬は腫れたままで、鏡を見るとみっともない顔である。咬んで食べるものが食べられないので、パンを牛乳に浸してやわらかくして呑みこむようにして食べている。野菜ジュース(甘くない100%のもの、医者の推奨)を飲み、卵豆腐を食べていちおう栄養バランスをとっているつもりである。

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 たった数日で体重が3キロ近く減った。酒を飲まず、食事の量も少ないとはいえ、たちまちの減少である。体もなにかと戦ってカロリーなどを消費しているのかも知れない。

 子供たちが帰って来るので午前中は泥縄式に部屋の片付けをした。息子からメールで「酒を送った」と連絡がある。明日友達とやって来て飲むためのものだろう。おつきあいできるほど回復していればいいが。

 今日夕方には娘のどん姫がやって来るので、明日の仕度のための準備の手伝いをしてもらうつもりである。ようやく元気が出て来たのは幸いである。
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続・歯が痛い

 歯の痛みは治まらない。昨晩になって右頬が腫れてきて熱を持ってきた。痛みは耐えられないほどではないが、何もする気がしない。今日は娘のどん姫(泊まる)、明日は息子が帰ってくるのに、家の中の片付けが全然出来ていない。意気地が無いことにその元気がないのである。冷凍庫に入れてある保冷剤を濡れタオルで巻いて頬に当てて我慢している。

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 歯科の緊急医療は今日二日は遠方、明日の三日には近くの歯医者で診療できるようだ。とにかく今日一日耐えて、明日の朝一番でその歯医者へ行こうと思う。

 間の悪いときに間の悪いことになった。日頃の行いの報いか。
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2019年5月 1日 (水)

歯が痛い

 平成から令和への記念すべきときに右下奥歯が痛くて辛く情けない。ここは二ヶ月ほど前にも痛んだところだが、そのときには「虫歯ではないので我慢していればおさまります」と歯医者にいわれたところだ。あのときは痛みで眠れないほどだったが、だんだん我慢できるようになり、三日ほどでほとんど痛みがなくなった。今回もそうなのかも知れない。それに今回は痛くても眠れる。

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 どちらにしても歯医者は休みだから我慢するしかないのである。だんだんどの歯が痛いのか分からない状態になったが、リンパ腺が腫れたり熱を持っているようではないから、今回も虫歯ではないのだと思い込もうとしている。それにしても痛みというのは不思議だ。たかが歯の一本が痛いだけですべてに厭世的なる。

 ところでリニューアルのあとに更新が止まったり、頻度が激減している人が増えていて、ココログから離れる人もぽつりぽつりと現れだした。ココログがささやかながら同好の士の交流の場であったものを、今回のリニューアルは大きく損なってしまった。記事を見てコメントを入れるほどではないけれど、それなりに、なるほど、と思えばいいねやポチッとが簡単にできたのに、それがやりにくくなり、新着記事の通知もなくなってしまった。

 これでは新たに面白いブログに出会うことが難しくなった。既存のなじみのブログのみを見ることばかりになって、それが減っているのだからアクセスも互いに減るばかりであろう。

 新着記事を通知しない、ということにした時点でココログは本来の役割を放棄したに近い。しかもそのことに思いが至らないのか、または承知のうえであるか知らないが、この利用者に対する説明のお粗末さを見ていると、早晩ココログも閉鎖されるおそれがあるのかも知れない。

 いまのところ私はなんとか使いこなせているのでこのまま続けるが、不愉快でないことはない。そういう不愉快さは解消しないままで、きっかけがあればやめるか移るか、簡単に決心することになるだろう。続けているのは移るのが面倒なだけだからだ。

 話が戻るが、いまは歯が痛くてものがあまり食べられない。明日には娘のどん姫が、そして明後日には息子が友達とやってくるというのにテンションが低いのである。こういうときは酒を飲む気にならないし、酒は痛みを一時的に麻痺させてくれるが、そのあとの反動で倍加することは経験済みだ。

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非寛容の社会

「平成時代は戦争がなかった時代」という点では評価できるが、「経済的には低迷した時代」で「平和だったが幸せなことはなかった時代」だと、ある(日本の)五十代のジャーナリストは平成時代を要約した。

 というような主旨のネットの記事を見た。

 これはもちろん日本のことであるが、記事は韓国のハンギョレ新聞のものである。ハンギョレ新聞に対してそのジャーナリストは「昭和期は戦争があったが、敗戦後に高度成長があり、人々には希望があった」と語ったという。つまり平成には希望がなかったといいたいらしい。私にはささやかながら希望があったけれどなあ。友人身内にも「希望がない」などといっていた人は見当たらないし。

 また安倍政権に批判的な上智大学の中野教授が「日本の政治がアイデンティティを強調するかたちに変わり(意味がよく分からない。政治が個人主義を増長させたといいたいのか?)、それによってヘイトスピーチに象徴される排外主義的ムードが拡散している。アンケート調査によれば、平成期は非寛容になった時代だという答えが多かった」と語ったそうだ。ヘイトスピーチは昔からあることで、とりたてて平成になって増えたわけではない。後で述べるようにネット時代のゆえであろう。

 韓国の新聞は、朝鮮日報や中央日報が保守系、ハンギョレ新聞は革新系ということになっている。ハンギョレ新聞と言えば日本の朝日新聞のような新聞社か。ただ、日本と逆でハンギョレ新聞は文在寅政権擁護派である。政権が左派だから当然だけれど、極端に立場に固執して是々非々ではないところ、保守や親日は悪、左派政権はすべて正しくて北朝鮮にはなにも悪いところはないといわんばかりなこと、朝日新聞に似ていると言えないことはない。

 そのハンギョレ新聞が言うから首をかしげるところがないではないが、現代日本が「非寛容な時代」であるというのを一概に否定が出来ない気がする。一言半句を取りあげて瑕疵を問い、弾劾することが正義であるかのように横行していることは、日頃誰もが感じているいやな世間の様相であろう。

 しかしながらどうもそれは日本にかぎったことでもないような気もする。誰もが自分の考えを世界に表明することが可能になったネット時代はまさにそういう「非寛容の時代」を生み出したように思える。ヘイトスピーチが増えたように見えるのはローカルなその声がネットに取りあげられるからだろう。声高に自己流の正論を主張する人はしばしば他人の話を聴く耳を持たない。他人には世界が違って見えていることを認める寛容を持たない。

 面白いと思ったのは、最も非寛容に見えるハンギョレ新聞が日本の非寛容をとりたてて報じることそのことである。それを報じながら、「では韓国社会は寛容なのか?」と問い返す視点を持たないこと、それこそ非寛容そのものかと思うからである。非寛容とは自分を振り返る精神を持たないことか。自戒したい。
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