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2019年7月

2019年7月31日 (水)

連帯が苦手

 私が高校生から大学生だったはるかなむかし、いまと違って世の中は政治的な行動がとても盛んだった。高校時代には政治的なテーマでクラス会の時間を設け、交替で持論を発表し、批判を受ける。大学時代には活動家たちによってロックアウトがあり、授業がない期間もあった。そういう中でデモや集会に誘われることも多かった。

 

 そう言う場に行って、示威行動に参加すると、リーダーのシュプレヒコールに唱和して声を上げることを求められる。大声を出していると陶酔気分になるらしく次第にみな興奮していく。気分が良いらしいが、私は周りの様子について行けない。何度かそういう経験をしてから、自分はどうもそういう連帯が苦手らしいことを知った。私は回りが盛り上がるほど白ける。つむじ曲がりなのである。

 

 韓国のニュースを見ていたら、横並びでこぶしを握り、ロボットのように唱和して反日を叫ぶ人たちを見た。まるで北朝鮮の人々を見るような気がした。韓国はいま、国を挙げて連帯して盛り上がっているようである。文在寅大統領は心強いことだろう。
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来月は緊縮

 六月七月と続けて遠出して散財した上に、息子の結婚祝いを張り込み、いろいろと買い物をしたから自分の予算計画に大きく穴があいた。九月には海外へ行く予定になっているから、その費用の振り込みも控えている。来月八月は緊縮しないわけにはいかない。

 

 さいわいいまは以前買った本を読み直したり、古本屋で安く手に入れた全集の拾い読みをしているので新刊本をほとんど買わずに済ませている。それだけで月に数万円の節約になるからありがたい。買いためて読んでいない新刊が読まずにそのまま旧刊になっているものもたくさんあるから、新しい本が読みたければそれを読めば良い。

 

 どうせ八月は暑いし、どこも混むから出かける気にならない。読書三昧映画鑑賞三昧が必然的に楽しめるのだ。

 

 最近ブログを書くのが負担になっている。いままでは書きたいネタがいくつもあって、書こうと思えばよりどりみどりだったのに、いまは書かなければ、という思いからむりやりひねり出している。そんなもの読んで面白いはずがない。自分では一日二つずつくらいなら書き続けられるだろうと思っていたが、限界か。

 

 いわゆるインプットが足らないところへ毎日アウトプットを続けているうちに、ガス欠を起こしているようだ。精神の夏バテにならない程度にのんびりやろうかと思っている。これも充電のための緊縮というところか。
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2019年7月30日 (火)

省エネモード

 本を横に積んでゴロゴロしている。数ページ読むとうつらうつらして、飽きると別の本に移る。本を読むのに飽きれば映画を観るが長いのは一日一本くらいで、ほかに短いのを観ると一日が終わる。分散して昼寝しているせいか夜まで小間切れの睡眠になってしまう。

 

 体がまだ暑さに慣れていない。ほとんど外に出ないし、あまり汗をかいていないせいだ。代わりに長風呂して汗を流している。風呂でももちろん本を読む。風呂には入浴剤を入れる。入浴剤を嫌う人もいるが、私は嫌いではない。

 

 こうして身体も頭も省エネモードなのだが、部屋はエアコンをつけっぱなしだし、長風呂でお湯も使い放題にしているから、実はエネルギーを余分に使っているのだと承知している。エネルギーの浪費が可能だからこその省エネモードである。ありがたいことである。

 

本日の収穫、『グラビティ 繰り返される宇宙』という短い映画が掘り出し物だった。タイムループものとしては出来がいい。
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ろうそく集会は民主主義か

 先週土曜日、ソウルで日本を糾弾するろうそく集会が開催された。辺真一氏のレポートによると、主催者側の発表で596団体、五千人が参加したという。通常日本大使館前の反日デモなどは多くても百人程度の参加だというから、格段に規模は大きいが、一団体平均すれば十人足らずということで、これは文在寅政権の支持団体の集会という位置づけだという。

 

 しかし朴槿恵前大統領を引きずり下ろしたろうそくデモも、当初はそのような集会から始まり次第に盛り上がっていって広場を埋め尽くす大群衆になったことは記憶に新しい。韓国では日本製品不買運動が次第に拡大しているように、この反日デモに一般市民が加わって拡大していく可能性は高いという。

 

 ところで、今回の集会では「NO安倍!」などのプラカードが掲げられていたそうだ。そのことに強く違和感を感じた。安倍晋三首相は韓国の首相ではなく、日本の首相である。まさか他国の首相をこのような集会やデモで引きずり下ろせるなどと考えているのではないと思いたいが、本気のようである。日本で「NOトランプ!」などとプラカードを掲げて集会をしたら物笑いの種にしかならないだろう。ましてや「NO文在寅!」などという集会が開かれるとしても参加者は数人だろう。

 

 市民団体は集団の数を恃んで政治を変更することが民主主義だと考えているようである。いままで群衆の数によって政治がいともたやすく変更されてきたのが韓国という国のようである。それが民意であると見做される。しかしそれが市民団体という一部の集団の恣意的なリードで行われていることを忘れてはいけない。大衆はそれらの団体によってあおられて行動するが、ほとぼりが冷め、違う風が吹き始めるとまた違う行動をする。

 

 朴槿恵に拍手喝采して支持した同じ大衆が彼女をろうそくデモで引きずり下ろしたのだ。そのようなものが民主主義であろうか。文在寅はまさしくそのような市民活動家として政治活動を行ってきた。そうして市民という名の大衆を背景にろうそくデモで日本に譲歩を求めようというのだろうか。どうも彼にはそれ以外の方法が思いつかないらしい。
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2019年7月29日 (月)

非友好国から準敵国に?

 最近ずっと韓国からは友好国とは思えない仕打ちを受け続けてきたけれど、そもそも韓国は日本を友好国などではなくて非友好国と見做してきたらしい。それなら友好国に適用する優遇措置をやめるのは当然のことなのに、韓国はそれを経済侵略行為だと大騒ぎである。日本は韓国にとってついに準敵国になったらしい。

 

 つぎつぎに日韓友好の交流事業の中止のニュースが報じられている。いま私の知る限りでは、その中止を決めているのはすべて韓国側からであり、日本側からのものはないと思う。来るものは歓迎し、行く方は親睦を深めるために準備していた多くの人たちが、がっかりした様子を見せている。たぶん韓国側の人たちもそうだと思いたい。

 

 たぶん中止させている人たちがいるのだろう。その人たちはすべて日本が悪いからだといっていることだろう。繰り返し繰り返し言い続ければ、言っている方も確信は深まるし、聞かされている方も次第にそうなのかと思うだろう。日本側にはまだそういう人たちはいないようだが、これから韓国で、日本人だというだけで何らかの不都合が生じるとなると、これからは分からない。今のままならそうなる可能性はないとはいえないようだ。

 

 どうしてこうなったのか、両国の見立てはまったく違うから、事態の打開の方策も互いに相手が折れるべきだということになってしまっているので、短期的には手の打ちようがないだろう。いまこそ話し合いの好きな野党の人たちにがんばってもらいたいところだが、そもそも相手にしてもらえるのかどうか。話し相手として認められなければ話し合いも成立しない。
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休暇返上

 韓国の文在寅大統領が今日29日から来月2日までの休暇予定を取りやめるそうだ。こじれる日韓問題に対処するための対策を検討するためだという。日本側は事態を打開するような提案が韓国側から出されてこない限り、首脳会議をはじめとした話し合いには応じない姿勢を示しているから、本来はどんな提案をするのかを考えることが必要だと思うが、日本に対してのどんな譲歩案妥協案も韓国国民の反発を招くことになりかねない。

 

 内心では多少の妥協もしかたがないと思う韓国国民はけっこういると思うが、マスコミはここまで煽り立ててきた手前、妥協案譲歩案を非難するだろうから、だれもそれに賛同することが難しいだろう。

 

 8月15日は日本の敗戦記念日(終戦記念日)で、それは韓国にとっては日本の支配から解放された記念日であり、大々的にセレモニーが行われる日らしい。反日の機運が国民的に盛り上がり、日本製品の不買運動が展開され、日本への観光旅行のキャンセルが相次いでいるなかで、文在寅大統領が日本に譲歩妥協することは
よほどの理由付けが出来ない限りできないことだろう。

 

 強い方が先に譲歩するのが仁であるという。弱い方に強引に譲歩を迫ると恨みが残る。強い方が譲ることでことは収まるものだとある先輩にいわれたことがある。

 

 日本も韓国とのあいだでこれを実践した。繰り返し実践した。ところが韓国は日本が譲ったとは考えなかった。時々の政府は譲られたことを知っていたが、マスコミも政府も国民にはそれを報じないから、日本の譲歩は譲歩ではなく当然の行為であると認識した。譲られたと見えても韓国が譲らせたのだと考えた。強く出れば日本は譲るのだと学習した。譲るのは日本に非があるからだと考えた。

 

 その上での日本の衰退と韓国の繁栄である。日本は以前ほど強くないから譲歩が難しくなった。朝日新聞の贖罪的侮日論のプロパガンダにもかかわらず、日本国民もいい加減にしてくれと鬱積を溜めた。

 

 韓国は強く出れば日本は譲る、なにしろ日本は悪の国であるから後ろめたいので譲る、と考えてきたが、自分の国が実際に強くなったと実感したら、ますます強硬になった。だから日本の不満の蓄積など毛筋ほども感じなかったのだろう。

 

 韓国では今回の日本の措置は日本の開き直りと捉えているようだが、日本では一部マスコミとその論調に影響された国民以外は今回の措置について当然だと思っているのではないか。

 

 そのような背景の中で、文在寅大統領は悪化する事態にとるべき対処をまったくしないばかりか、さらに悪化させた。日本に対してお仕置きでもするつもりだったのだろうか。こじれにこじれるところまで悪化させておいて、さて、休日を返上してなにをしようというのか。

 

 日本の怒りをさそう理不尽な方策を打ち出すのではないだろうか。政権だけではなく韓国国民を乗せたままますます暴走する気配を感じる。
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2019年7月28日 (日)

補整が個性

 ニュースを報じるメディアによってその報道には色がついていたり変形されたりしている。たとえば韓国のニュースを報じる朝鮮日報とハンギョレ新聞では同じことがまったく違って伝えられる。そこにはさらに韓国という着色がされているから日本人として受け取るときにはそれを補整しなければならない。日本でいえば産経新聞と朝日新聞や毎日新聞ではまったく異なる。

 

 いま補整と書いたけれど、補整にするか補正にするか迷った。歪められ着色されたニュースを自分の尺度、価値観に合うようにする作業のことをいっているのだが、それは自分用で、他人にとっては時に正しい見方ではないかも知れない。だから自分用に調えるという意味で補整を使うことにした。

 

 こんなことは誰でも無意識にしていることで、殊更にいう必要はないかも知れないが、しばしば自分の見聞きしたものを補整を加えずに事実として受け取っているひとをみかける。うっかりすると自分も横着をしがちなので意識するように心がけている。

 

 自分が受け取りやすいニュースばかりを選択的に取り込んでいるとその色に染まってしまう。時に肌合いの合わない報道も我慢して読まないといけない。長い年月のあいだにその補整の好みが定着していく。そもそもなにが正しいかを測る絶対的なものさしなどない。こうしてものの見方に個性が生ずる。個性とはそうして作り上げられるものだろう。子どもにも個性があるというが、そしてないとはいえないだろうが、人生で蓄積されて初めて出来あがる個性という意味ではないに等しい。

 

 そういう個性を磨き上げるための基礎を作るのが教育であり、勉強の意味だろうと思うが、はじめから個性が確立されているかの如き前提で教育を論ずるから話がおかしくなっているのではないか。そうして個性的という名前の物まね口まねが横行する。

 

 補整、つまり考える作業の積み重ねこそが個性を作り上げるのだと愚考した。
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2019年7月27日 (土)

八角先生

 小学校一年生の通信簿を見て両親は絶句した。ほとんど2か3で、5が一つもないのである。そこそこの成績のはずだと期待していた息子が、思いのほか出来が悪いらしいのに驚いたのである。担任のM先生(♂)から母が聞いたのは、「分かっているはずなのに授業中に手を上げない。指すとちゃんと答えるが、授業を聞かずにぼんやりしている」という言葉であった。二年間教わったこの先生とは相性が悪くてなにをしても誤解されたような記憶がある。母の印象では、私が勉強や先生を馬鹿にしていると先生は感じていたようだ。

 

 どういうわけか私にはその一年生と二年生の時の記憶があんまりないのである。記憶に残るような楽しいことがあまりなかったのだろう。

 

 三年生になって小倉先生という女の先生になった。この先生は幸い私に対してそう感じなかったらしく、可愛がってくれたし、一気に通信簿の評価は向上した。そもそもテストは嫌いではなかったし、点数も悪くなかった。

 

 その小倉先生が結婚して八角(はっかく)先生になり、赤ん坊が産まれたというので級友何人かと先生の家にお祝いをもっていった。赤ん坊を見せてもらった後、庭の広い農家の、高い縁側に並んで坐って蒸かし芋をいただいた。八角先生は八代亜紀にちょっと似た顔で、眼がややつり目で鼻が高く、美人というほどではないが顔立ちがはっきりしていた。

 

 後年、キャバレーやスナックの、私がなんとなく気軽に話せて相性の良い女性は、他のひとと好みがだいぶ違うようであった。先輩や友人からは「どうしてああいうちょっと田舎くさいのが好きなんだ」などといわれた。そのときにはどうしてか分からなかったけれど、なんとなく八角先生の面影を感じていたのかも知れないと後で気がついた。八角先生が田舎くさいとはいまでも思わないけれど。

 

 先生によって日々の学校の楽しさや勉強する意欲が著しく違うことを体験した。小学校の低学年のころの先生の、子どもに対する影響力はとても大きい。
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幼時の思い出

 失職していた父親が、ようやく資格を得て中学教師になって里山の小さな中学校に赴任したのは、私が三歳の頃らしい。私が確かに自分の記憶として最初に記憶しているのはこの頃のものだ。

 

 その里山に移り住む前に千葉で危うく誘拐されかかり、電車のなかで発見されて船橋で保護されたときの話を繰り返し母親から聞かされたので、そのときの光景の断片が記憶に残されているが、母親の話から後で自分で作成したもののような気もしていて確かではない。

 

 その里山の家は高い杉の木に囲まれた小さな神社の隣の広い草原(くさはら)の中の平屋の家だった。草原はいちおう庭の体裁で、そこに風呂と釣瓶井戸があった。風呂場は家の外だったのだ。庭のむこうには田んぼがひろがり、更にその向こうに道路が見えた。

 

 ときどきその道を宣伝カーが春日八郎の「おとみさん」の歌を大音量で流しながら走ったりしていた。「粋な黒兵衛 神輿の松に 仇な姿のおとみさん」と私は聞きなしていた。実際は「粋な黒塀 見越しの松に・・・」だけれど当時はそんなことは知らないから聞いたままをおぼえていた。いまでも一番の歌詞なら記憶している。

 

 父に教えられて田んぼでセリを採ったこと、近くのため池で笹竹に白い木綿糸を結びスルメを餌にしてザリガニを釣ったこと、たけのこの皮に梅干しを挟んでしゃぶったこと、隣家の私の一つ歳上のケイコちゃんの家で生卵の白身をすすったこと(黄身はケイコちゃんが食べた)、父が蕨やゼンマイを大量に採ってきて母親から邪魔がられていたこと、庭によく出て来る蛇を父がスコップで殺したこと、ケイコちゃんの家は隣家ではあるが竹藪のあいだの細い道を行かねばならず、そこにもしばしば青大将が出てきて恐かったこと、しかもその途中に小川があり、丸木橋を渡らなければならなかったこと、一度蛇に追われてその小川に落ちたこと、弟が生まれたこと、母がいつもおやつのためにお菓子を用意していて、近所の子供たちがそれを目当てに良くやってきたこと、それらが走馬燈のように思い出された。

 

 しばらくして母方の祖父母の住んでいた隣街の家に引っ越したので里山の生活は二年足らずだったが、そのときの、すべてが豊かでしあわせだった記憶が私の原点のような気がしている。
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2019年7月26日 (金)

乱れ読みに乱れ観

 頭がちょっとオーバーヒート気味で、次から次にいろいろな本を読み散らし、手当たり次第に映画を観ている。

 

 そんな読み方ではどれかをじっくり読むことは出来ない。泉鏡花の小説を読み、随筆集を読み、紀行文集を読む。泉鏡花の紀行文は文章の調子が良いので、喉の調子を整えるための朗読用にしている。並行して芥川龍之介の随筆集を読む。この中の、彼の子供時代の記憶の断片をあげたものを読んでいたら、自分の子供時代の記憶のいくつかが思い出された。そのことはまた後で書くかも知れない。

 

 柳田國男の『故郷七十年』を読んでいても自分自身のふるさとの記憶とオーバーラップしてくる。併せて『遠野物語』を拡げて拾い読みしたりしている。どんどん手がひろがってきて、収拾がつかない状態だ。

 

 雨が多かったので映画を観ることも多い。在宅していればほとんど一日二本は観るので、ブログに取りあげていない映画が何十本もある。おもしろかったもの、あまりのひどさに腹の立ったものなどさまざまだ。今日観たばかりの『アニー・イン・ザ・ターミナル』は大満足の映画だった。最初は各カットの意味がさっぱり分からない。それらが次第に関連していき、予想をはるかに超えた展開になっていく。わざと観客に予想させてその通りに話が進みながら、実はそれ以上の物語が用意されている。こういう当たりが出ることがあるから、無名の映画を観るのはやめられない。
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嫌い

 民放のアナウンサーやコメンテーターのなかに、いわゆる苦虫を噛み潰した顔でニュースを語る者がいる。苦虫を噛み潰した顔の人がすべて嫌いというわけではないが、テレビで見る何人かは見るだけで不愉快になる。世の中の正義をひとりで背負い、汚濁にみちた世界を嘆いてみせるその姿に虫酸が走るのだ。たちまち「あああのひとか」と思い当たることだろう。たぶん他人に対してだけではなく、自分自身も常に品行方正で、世のため人のために生きているのだろう。
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2019年7月25日 (木)

ルトガー・ハウアーの訃報からおかしな連想を

 ルトガー・ハウアーが病死したとニュースが報じていた。主な出演作として、あのSF映画の名作『ブレードランナー』がとりあげられていたが、これ以外にも出演作は多い。風貌そのものが印象的で好きな俳優であるから彼の出演する映画はずいぶんたくさん観た。つい最近も2017年の『リミット・オブ・アサシン』というイーサン・ホーク主演の映画に脇役で登場していて、まだ健在なのだなと喜んでいたところだったのに残念だ。

 

 彼のことを回想していたら、個性的な風貌でいい男系では決してないから大好きな俳優をつぎつぎに思い出していた。古くはジャン・ギャバンから始まって、リノ・バンチュラ、ジャック・パランス、リチャード・ウィドマーク、アーネスト・ボーグナインなどがたちまち頭に浮かんだ。この顔ぶれにルトガー・ハウアーを入れるのはいささか違う気もする。彼はいい男系の顔である。

 

 そんな好みだからジャニーズ系で私が好感が持てる人は極めて限られることになるわけである。三十過ぎているのに男の顔になりきれていないのは、かえって醜く感じてしまう。一般的な女性と感性が合わないのは当然であろう。その分(若いときは別だったけれど)女性にはあまり美人であることに価値をおかずにきたつもりだ。そんなことわざわざ口にしたことはないので、めったにもてなかったのはあたりまえか。
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被害者意識による恨み

 長く暑い日々が始まった。それでも出かけなければならない用事がなければエアコンの効いた部屋で過ごしているのでなにほどのこともない。それでもつい冷たいものを飲みすぎるので体が重い。最近映画かドラマで聞いた台詞で「水気が出ている」というのがあったことを思い出した。糖尿病か腎臓病が原因でむくみが出ているという意味だった。

 

 私もときどき足にむくみが出ることがある。水分を摂り過ぎて、しかも汗をかかないとそうなる。甘いものは糖尿病にとって最悪なので、いまは甘いものは摂らないで水にしている。それでもビールを飲んでいるのだからなにをか言わんやである。お茶やコーヒーにして水分摂取量を減らそうと心がけるようにしている。汗をあまりかいていないから塩分補給は気にしなくても好いだろう。

 

 そんな暑いさなか、京都アニメーションの放火事件をはじめとして頭が熱くなるような事件がつぎつぎに起こっていて、そちらをクールダウンすることが出来ずにいる。放火事件については犯人が治療中ということで供述が得られていないから、動機はよく分からない。いまは、身柄を確保されたときに喚いていたという言葉から想像するばかりである。

 

 その言葉から想像するのは、彼の妄想の世界では彼の書いた小説、または物語の構想が無断で京都アニメーションのアニメに使用されたことになっているようである。そんな事実は全くないらしいし、たぶん彼にはそのようなかたちのある作品もないのではないだろうか。彼がアニメを見て創造した世界がいつか彼自身が創造したものだという妄想へ転換したのかも知れない。

 

 彼は世の中から正当な評価がされずに不遇であることの恨みを晴らすために、あのような凄惨な事件を起こしたのか。どんなかたちでも危害を加えられるのは耐えられないことだが、焼き殺されるのは最も耐えがたいことで、焼き殺される側の人のことを少しでも考えたら焼殺など出来ることではない。犯人の被害者意識による恨みはそういうすべての他者への斟酌を吹き飛ばした。

 

 またぞろ精神疾患が原因の犯行で、その証拠は彼の妄想だと弁護されるのかと思うとうんざりする。彼が京都へ赴いて犯行用の材料を購入し、着々と準備をしていたときの行動が防犯カメラなどに捉えられている。明らかに社会的に問題のない正常な行動にしか見えない。彼は積年の恨みを晴らすための正しい行動を準備しながら、生まれて最も強い生き甲斐を感じていたのではないか。

 

 いま、そのような被害者意識をつのらせている妄想者が千人にひとり、または何万人にひとりはいるのではないか。あなたは不当に差別されている、あなたは損をしている、というのが世のリベラリストたちの大衆向けの惹句である。被害者意識を膨らませてしまう人はむかしからいたけれど、それを助長する風潮がいまは正義である。このような事件は起きて欲しくないけれど、残念ながらこれからもつぎつぎに起きるだろう。それを少しでも減らすためにどうしたらいいか、正義の味方から弾劾されそうなことをいいそうになったからやめておく。
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2019年7月24日 (水)

思い違い

 十年以上、あることを思い違いしていた。娘のどん姫にそのことを知らされて愕然とした。勘違いではない。思い込んでいたことが違っていたことのショックは大きいが、呆けによる勘違いではないのは救いか。

 

 恥ずかしいのでなにを思い違いしていたのかは言わない。ふつうそんな思い違いをすることはあり得ないことだから、言っても信じてもらえないだろう。もしかしてまだいくつかそんなことがあるのかも知れない。自分が嫌になる。
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自分で考えたのだけれど

 録画していた昨晩のプライムニュースを午前中に見た。ロシアの竹島領空侵犯について書いた朝の私のブログとほぼ近いことが語られていた。ブログはそれを見て書いたわけではないが、そう取られてもしかたがない。

 

 自分なりに考えたことが専門家の見立てに近いことに自己満足することで良しとしよう。
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水に落ちた犬を叩く

 弱みを見せると同情しないでさらに叩くのが国際常識らしい。韓国が領有権を一方的に主張して占有している竹島の領空をロシア軍機が侵犯した。それに対して韓国空軍が警告射撃を行ったという。ロシア軍機と中国軍機の数機が当該地域を飛行し、そのうちロシアの一機が領空侵犯したというのが韓国の説明である。韓国軍の発表は時に事実ではないことを公言することがあるが、たぶん今回は事実だろう。

 

 韓国の抗議に対してロシア政府は、そのとき中国と共同訓練をしていたが領空侵犯はしていないと主張している。こちらは平然としらを切るのになれているからいつものとおりの答えだ。これがたまたまのアクシデントではなくて、命令による確信的行動であることは子どもにでも分かることだろう。

 

 ロシアも中国も、現下の韓国軍の統率の乱れや士気などを推し量ろうとしたのだと思う。竹島上空なら日本との関係もあるから米軍は関与することはないと読み切っての行動だろう。これはそのままアメリカが韓国に対してどこまで防衛しようとするのか、そのことを推し量ることにもつながる。

 

 日本との貿易問題で混乱している韓国にとって弱り目に祟り目で、これもアメリカに泣きつくのだろうか、すでに泣きついたか。ちょうどアメリカの強硬派のボルトン氏が韓国を訪問中である。そのタイミングに合わせての中国とロシアの共同作戦だというのなら、巧妙である。

 

 今回の日本の韓国に対する貿易優遇措置の中止が、貿易自由化に反する行動で問題だと主張する韓国の要請でWTOで議題に挙げられる。韓国の代表は、前回日本が負けるはずのないといわれた日本からの食料品輸入規制を韓国が行ったことに対する日本の提訴が韓国の勝利に終わったときの韓国の英雄である。

 

 日本政府は検討を重ねて今回の措置を開始していて、WTOの規則にはまったく抵触せず、負けるはずはないといっているが、負けるはずのないものに前回負けたのである。日本の外務省の主張する力、説得力、根回しは、負けるはずのないものに負ける程度のお粗末なものだということは前回証明済みである。今回どうしてかならず勝てるなどと安心できようか。

 

 今回の日本の優遇中止の措置は、経産省が主導で進めたもので、外務省は蚊帳の外だったようだ。そのことは外務省OBのコメンテーターの多くがこの措置に批判的であったことで想像できる。外務省担当者がWTOでどれだけの性根を据えて弁舌するのか、それがまことに心配である。自分が信じるものだからこそ強く主張できるが、他人事のような担当者だったら前回の二の舞を踏むだろう。

 

 WTOがまともな組織であるなら、前回の韓国の勝利はさすがにおかしかったという反省をしている者もいるはずで、本気度の危うい日本外務省のたすけになることを願うばかりである。

 

 韓国は負けるなどとは思っていないだろう。韓国は日本が悪の行動をとったのだから国際社会は正義の韓国を助ける判定をすると信じているだろう。ただ、韓国は柳の下の二匹目のドジョウを期待しすぎているから、その期待が外れたときの韓国国民の反応がみものである。

 

 WTOがこの問題を審判として取りあげるかどうか、そしてもし取りあげたとしてそれに要する審議期間は何年もかかるというから、その間は日本の措置は続けられる。韓国は経済的に大きなダメージを受けるだろう。水に落ちた犬を叩くように、再び三度、ロシアが、中国が、そして北朝鮮が韓国をさまざまな形で威嚇し、挑発するだろう。アメリカはともかく、そのときいままでなら助けになったはずの日本はそこにいないのである。文在寅政権は自ら招いた孤立と経済衰退をどうしようというのだろう。どう見ても無策に見えるが、それに韓国国民がいつ気がつくのか。
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2019年7月23日 (火)

長い真夏がやって来た

 数日前になって、ようやくセミの声がにぎやかになってきた。初めて名古屋に移り住んで三十数年になるが、移り住んだころはアブラゼミがほとんどだったのに、今はほとんどクマゼミの声である。生まれ育った千葉ではクマゼミなど見たことはなかった。名古屋に来ても、めったにクマゼミなど見なかったのに・・・。世の中がどんどん温暖化してきているのを象徴するようだ。

 

 昨晩の驟雨があけて、今日は朝から青空が見えている。ようやく梅雨が明けたようだ。梅雨が明けたといっても傘をささずに外に出られるだけで、気温は一気に真夏日の連続になるから、散歩に出る気にもなれない。世の中は夏休みモードのはずなのだが、不思議なことにこどもたちの声があまり聞こえない。休みといえば小学生たちがうるさいくらいのはずなのにどうしたことか。普段はすぐ近くの幼稚園から聞こえる子どもの喚声がするから却って静かなのである。

 

 こどもたちは家にこもって宿題でもしているのか。まさか。たぶんどこかの涼しい家にたむろして、会話もせずにそれぞれのゲームに夢中なのだろう。子どもが自然からどんどん引きはなされているのなら、生命力がどんどん衰退していくにちがいない。未来が心配だ。

 

 商社に勤めて世界中を飛び回っていた叔父が、21世紀はまず中国の時代、そして次はアフリカの時代だといっていた。アフリカには生命力があふれている、というのがその理由だった。いまはまだまだアフリカが世界をリードするようには見えないが、人間の生命力という意味で、その予言がいつか現実化するような気がする。子どもの静けさを見ていると、日本はそういう意味ですでに衰退期に入ったのかも知れないなどと思う。
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境目の扱い

 むかし、といっても私の学生時代だから五十年近く前の大昔のことだが、暮らしていた米沢・上杉公園の祭を見に行ったことがある。多くの露店が出ていたのだが、なんとなく違和感を感じた。最初その理由が分からなかったのだが、やがて祭特有の喧噪があまりしないことに気がついた。特に子どもの声が少ない。静かで妙な緊張感を感じた。

 

 当時、酒田北港の建設をめぐってその利権争いがあるといわれていた。今でいういわゆる反社会的勢力も水面下で抗争をしており、それに神戸の大組織が絡んできている、などと噂されていて、酒田からは遠い、普段は静かな米沢の街も、地元のなんとか組と遠征してきた勢力のあいだに争いが始まりそうだと、身内にそういう関係のいる男が教えてくれたりした。飲み屋でまさかのピストルをチラリと見た気がするが、あれは夢だったのか。

 

 実際に抗争があったのかどうか知らない。水面下のこと、いわゆる裏社会のことには縁のない私には知るすべはなかったし、知りたいとも思わなかった。時代も大きく変わったから、もちろん今の米沢にはそんなことはないだろう。祭には子どもたちの歓声が聞こえているものと思う。

 

 裏社会と反社会的勢力というのは同じ意味ではないけれど、その区別はよく分からない。我々普通に、まっとうに暮らしている人間は表社会に暮らしているなどとわざわざ云うことはない。しかし明があれば暗があるように、表があれば裏がある。古来より、まっとうな社会とは違うルールで動いているらしい世界が存在してきたようだ。

 

 その明と暗、表と裏の境目は截然としているわけではなく、曖昧模糊としているようだ。その境目に接して芸能界という世界があったらしいことを本や映画で見聞きしている。今回の吉本興業の話もそういう境目の話かと受け取った。世の中はその境目をはっきりとさせようとしているらしいが、出来るものなのかどうか私には分からない。ただ、そんな境目などないかの如くに論じる脳天気なコメントを聞くと、境目はますますあいまいになりそうだと危惧する。

 

 今回の騒動が、芸能界の向こう側にその境目を置くため、芸能界をクリアな表社会に完全に組み込むための契機になれば何よりとも思うがどうか。週刊誌にこれらのスキャンダルの情報を流したのがそもそも向こう側の勢力だという噂も語られていて、既得権を確保するための反撃もありそうな気がする。

 

 あまりさわりたくない話題で興味もそれほどあるわけではないが、あまりに繰り返し報道されるので、つい一言書いてしまった。
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2019年7月22日 (月)

葉室麟『影ぞ恋しき』(文藝春秋)

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 読みだしてしばらく主人公たちの置かれている状況や性格が良く読み取れなかった。というよりもそもそもあまり書き込まれていないように感じた。葉室麟を読んでこんなことを感じたのは初めてである。やがてこれが雨宮蔵人を主人公とする三部作(『命なりけり』『花や散るらん』に続く)の三作目であることに気がついた。前作を下地にして読む前提で書き進められているのであろう。そのことをすっかり忘れていたのである。

 

 ようやくそのへんが頭の中でオーバーラップして、一気に物語世界に没入した。六百ページ近い大部の小説を読み切ったことは先般の旅の報告の中に書いた。この物語が葉室麟の残した最後の長編小説だという。

 

 忠臣蔵の物語の裏面、政治的な背景を葉室麟なりに想像力で組み立てている。赤穂浪士の討ち入りの後日談を描きながら権力者たちの暗闘とそれに巻き込まれていく主人公たちの生きざまを通して、人が真摯に生きるとはどういうことか、語りかけているようである。

 

 人は欲にしたがって生きざるを得ないと思われている。それは昔も今も変わらない。しかしその欲よりも大事なもの、かけがえのないものをもつことのありがたさ、強さをこの物語は教えてくれている。絵空事だと言わば言え、である。読めば一時的な涼風を感じて好い気持ちになれるのである。それだけでも救いではないか。
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座椅子

 この数年で座椅子を二つ壊した。壊そうとして壊したわけではないが、壊れたわけではなくて私が原因で壊した。

 

 こたつの台をそのままテーブルにして、そこでブログも書き、本を読み、テレビ番組を見たり、録画した映画を観たりしている。身の回りには本や薬やお茶などさまざまなものが座ったまま手にできるようになっている。

 

 座り続けていると腰が痛い。やはり座椅子は必需品である。ネットで頑丈そうなものを探したら良さそうなものがあったが、値段が高い。しかし高いものの方が大事に使うだろうし、しかも壊れなければその方がいい。

 

 発注して到着した座椅子を見たら、思っていた以上に大きい。座面が少し高いのである。それでもテーブルの下に足は納めることができる。大きいだけではなくて重い。掃除のときにどかすのが大変だ。

 

 座っていると、たった一人の王国のたった一人の王様が玉座にいるようだ。腰の部分に腰当てがあって、それがちょうど痛くなる腰の部分の支えになるので快適である。しかしながら長時間使っていると多少違和感があって疲れる。座面の高さが疲れにつながるようだ。

 

 何よりの難点は、そのままごろりと横になれないことで、横になるためには椅子から降りないとならない。この場所塞ぎの代物と折り合いをつけるのにしばらくかかるかもしれない。
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2019年7月21日 (日)

一海知義ほか『漢語いろいろ』(岩波書店)

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 日本も漢字を使うが、同じ言葉が違う意味であることが多い。その違いは違う民族が長い歴史の果てに辿り着いたものであるから、その違いには互いのさまざまな文化の違いも現れる。それを興味深く取りあげて分かりやすく書いた本である。

 

『日中友好新聞』という旬刊新聞に『漢語の散歩道』というタイトルで連載しているコラムを本にまとめたもので、一海知義、筧久美子、筧文生の三人の共著である。各コラムごとにだれが書いたのか日付と共に「知」「久」「文」と添えてあるので分かるようになっている。互いの関係について詳しくは知らない。一海知義氏には若いころたくさんの中国古典の翻訳本でお世話になった。

 

 この本は『漢語四方山話』の続編と言うことになっている。そちらも手に入れようとアマゾンで調べたら在庫があるようだ。ただ、多少中国に肩入れしすぎの政治主張が強いところもあってそれが気になり、まだ注文していない。

 

 著者たちはさまざまな場所で不勉強による言葉の解釈の間違いに出くわすようである。そのことを取りあげて苦言を呈している。同時に、自分も思い込みの間違いで失敗したことなどを正直に告白していて厭味が無い。間違いを認めることが出来る人は案外少ないものである。そういう人ならばこそ他人の間違いを指摘する資格があるというものだ。

 

 分かりやすくやさしい文章ではあるが、もともとの発表場所が場所なので、まれになじめない部分もあるだろうが、もともとそういうのを読むのが好きな人しか読まないだろうからそれで良いのだろう。そういうところにもほとんど注釈はないのでそのつもりでどうぞ。アマゾンで見たら、中古本がとても安く手に入るようだ。
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出口調査

 朝食を食べてすぐ、八時前に投票に行った。投票所まで五分あまりのあいだに行き違う人は、ほとんど投票に行く人または行った人のようだ。大半が朝の挨拶をしてくるから気持ちが好い。普段はあまりないことである。もちろん私もはっきりと「おはようございます」という。朝早くに投票するような人はそういう人たちなのだ。

 

 投票を終えて出たところにタブレットをもった男が近寄ってきた。「NHKです。出口調査にご協力ください」。誰に投票したのか、など10問ほどの質問に答える。出口調査とはこんな風なはっきりとした質問をするのか。初めての経験である。これなら嘘をつかない限り、かなり正確な調査になるだろう。

 

 私一人の回答は統計的に何人分に該当するのだろう。なんだか面白い気がした。
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日常を見直す

190712-28_20190721044601日本海のの夕焼け

 旅に出る前のときめきは楽しいものだ。しかし旅はいつか終わる。終わってみるとまたたく間のことである。わずかな期間の旅なのに、帰るときには我が家へ、日常へ帰ることが喜ばしいものに思われている。日常に倦んで旅に出たはずなのにどうしたことか。

 

 どうやら旅に出るのは日常を見直すこと、その値打ちを思い出すためにあるらしい。歳とともにその旅も見慣れたところ、なじみのところが多くなっている。今回もブログに一度ならず報告したことのあるところが多かった。「ふるさとへ廻る六部は気の弱り」である。年齢とともに新奇なものを求めるこころが縮んでいる。それを無理に奮い立たせようとは思わない。見慣れたもののなかに見落としていたものを見ることの方に喜びを感じるようになっていると自分を納得させている。

 

 そういう意味では、海外旅行は精神的なエネルギーを必要とする。以前は一人旅もしたが、今はその気力がない。親しい仲間と出かけることでようやく楽しめている。一人旅は気楽な日本国内が何よりで、車を安全に運転できるあいだは自由に行動できるので、せいぜい走り回りたいと思っている。それがあと何年続けられるか、思えばあと何百回も行けると思っていても、実はもう知れた数しかいけないことに気がつく。どうせそれほどの長生きはできないと思い定めているので、金銭的なことはあまり考えない。それだけでも気楽である。あるだけ使い、なくなったら使わないだけである。

190712-34_20190721044601残照

 

日常と旅は等価かと、この頃思い始めている。
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2019年7月20日 (土)

口まねか

 私が山本夏彦のエッセーが大好きなことは、繰り返しこのブログで取りあげているので御承知のことと思う。ほとんど心酔している。またか、と思われているかも知れない。旅先に二冊もっていった山本夏彦も、二度または三度読んだことのあるものだった。帰ってきてからも続けて別の本を読んでいる。

 

 山本夏彦はすでに鬼籍に入って久しいし、いま読んでいるものは昭和の三十年代から五十年代に書かれたものばかりだからかなり古い話だけれど、そこに取りあげられている世相の話題についての彼の見方考え方は少しも古くなくて、そのまま現代の話題に適用して間然するところがないように思われる。

 

 私は彼の考え方にとても親和性が高い、と感じているけれど、なに実は彼の影響を受け、彼の言葉を繰り返し読んで刷り込まれての結果であるともいえるのだ。読み終わったばかりの『変痴気論』のあとがきは彼のものの見方の一端がわかるものなので一部引用する。

 

 大きいことはいいことだというが、本当は悪いことで、大銀行大会社大デパートなど・・・およそ「大」と名のつくほどのものなら、悪いにきまった存在だと、私は書いたことがある。いいことばかりして、あんなに大きくなれる道理がない。
 同じく「世論」といって、大ぜいが異口同音に言うことなら、眉つばものである。大ぜいが流す涙ならそら涙で、大ぜいが口にする正義なら正義ではない。
 なぜかと人に問われて、また問われないで書いたのが本書である。出来るだけ短く書いた。言葉は電光のように通じるもので、千万言をついやしても、分かりたくない人には通じないものである。理解は能力ではなく、願望だからである。分かりたくない人には、奇弁または怪弁と思われようし、そういう人も多かろうと、私は私の発言を変痴気論と称している。(以下略)

 

 私は山本夏彦の口まねをしているのだろうか。しているつもりの時には似ても似つかないものとなり、意識しないときにかすかにそれらしくなっているような気がしないことはない。まだまだ修行が足らないか。

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最近読んだ三冊。引用したいところに付箋を貼っていったら、付箋だらけになったので、これ以上の引用はやめた。
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「愚」の無償販売

 兄貴分の人と話しをしていたら、「今の若い人たちはものを知らないにもほどがあるとしか思えないほど愚かにみえるけれど本当だろうか」と言う。テレビのインタビューに答える若者たちが、学校でなにを学んできたのだろうか、と首をかしげさせるほど無知であるらしいことを言っているのだ。

 

 私もかねがね不思議に思っていた。私のこどもたちも、その友人も、そして甥や姪たちを見ても、あれほど無知で、しかもその上無知であることに平然としているような人間はいない。たくさんの若い人たちを知っているわけではないけれど、あれほど馬鹿であることに胸を張る若者に出会うことはめったにない。

 

 今はなんでも手軽に調べることができるから、知らなくても問題ないという考えもあるかもしれない。しかしものを考えるためには最低の知識を持ち合わせなければ、そもそも考え、そして判断することができない。調べるためには調べようとする事柄についての最低限の基本的な知識は必要である。

 

 テレビを見続けていると、ほとんどものを知らない若者ばかりが目につくけれど、インタビューした若者の中にはきちんとした受け答えをした若者もあったのではないかと私は思っている。しかし選ばれて放送されるのはあのような愚かな若者ばかりなのではないかと勘ぐっている。

 

「みんなこんなふうに愚かだからあなたも愚かで良いんですよ」と猫なで声で言っているのが聞こえる気がする。みんなを安心させることがマスメディアの役目だと確信しているようである。マスメディアは代わりに自分が考えて導いてやるから心配ないといわんばかりである。

 

 私は近頃、テレビというのは「愚」の無償販売をするところに見えてしかたがない。もちろん自分が賢いから周りが愚かに見えるという傲った考えから言うのではない。自分が愚かだからなんとかもう少し知り、そしてもう少しまともに考えたいと思っているから、「馬鹿でも良いんですよ」の猫なで声に虫酸が走るのである。良いはずがないではないか。

 

 テレビのコメンテーターなどに出て来る教授に二種類ある。「近頃の学生は驚くほどものを識らない」と言いながら、テレビでよく見る若者のような実例を話す人、逆に「若い人の中にもずいぶん勉強していてしっかりしているのがいますよ」という人である。正反対だけれどたぶん同じことを言っている。全体の何を見て語っているかの違いだけである。

 

 そうして「馬鹿ばかり」という教授はテレビに出続け、「しっかりした若者もいる」という教授は疎んじられる。「愚」の販売所としては当然の選択なのだろうと思う。

 

 極端なことをいっているのは承知しているが、そう考えないと今のテレビやメディアの報道が私には理解しがたいのである。要するに馬鹿にしているし、馬鹿にされているのである。誰の意志か。両方の意志なのだろう。

 

 見方を変えると、テレビで取りあげられるためには無知であることを見せた方が取りあげられる可能性が高いのである。若者は直感的にそれを感じてインタビューには無知を演じて見せているのかも知れない。無知が恥ずかしいものではなく、売り物の時代らしいことはテレビを観ていれば分かる。
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2019年7月19日 (金)

報復から侵略へ

 韓国の、共に民主党内に設置された日本経済報復対策特別委員会が、名称を日本経済侵略対策特別委員会に変更したと韓国の中央日報が報じていた。

 

 報復というのは報復される理由があってのことで、韓国には報復される理由などないのであるから、今回の日本政府の措置は日本による経済侵略だというのが名称変更の理由らしい。

 

 そもそも日本政府は今回の措置は安全保障上の懸念にもとづくもので、報復措置ではないというのが建前であるが、立場の違いや見方にはいろいろあるから報復ととる向きもあるし、それについては否定は仕切れないだろう。日本の新聞のなかには政府がいくら否定しても「報復」だと決めつけているものもあるほどである。せめて得意の「いわゆる」くらい頭につけたらどうかと言いたいけれど、それは置いておく。

 

 日韓の関係を修復する意志があれば、報復の原因について何らかの話し合いと妥協を双方で模索するしかないところで、韓国にその意思が見えれば日本だってこの措置の見直しをすることにやぶさかではないと思うが、このように報復ではなく侵略だと言い換え、原因はまったく韓国側にないとしてしまうと、話し合いの余地はなくなってしまったわけで、この状態は長期化とエスカレートが避けられないことになった。韓国は自らはしごを外したわけである。

 

 韓国では、今回の措置は安倍政権の支持回復を狙ってのパフォーマンスで、参議院選挙が終われば事態は変わると見ていたようで、今もそう言い続ける新聞もある。しかしそれなら日本の参議院選挙でこの問題が争点にならなければおかしいはずだが、日本の野党が韓国問題を取りあげたという話は寡聞にして知らない。日本国民の多くがさほど韓国に対する輸出規制変更の措置を問題として認識していない。多くが安全保障上であろうが報復だろうがどちらでもかまわなくて、当然の措置だと思っているから、争点になりようがない。すでに韓国の文在寅政権やマスコミにうんざりしているというのが多くの日本人の本音だろう。

 

 韓国の反日が盛り上がり、アンケートでも日本が嫌いな人の割合が史上最も高かったと報じられていたけれど、いま日本が好き、などといえる雰囲気が韓国にあるとは思えない。公然と聞かれれば嫌いと答えるしかないはずである。特に韓国の場合は変なレッテルを貼られると生きにくい国らしいからなおさらだろう。

 

 日本製品の不買不売運動が盛り上がっているらしく、韓国に物を売っているメーカーや商社には災難だが、日本国民にとってそれほどの危機感は感じられない。「へえ、そうなのか」という程度の感想だろう。そもそも韓国とはこういう事態になる可能性がこの二年間で急激に高まっていたことは予測できたことで、それに対する準備をしていなかったなら甘すぎたと言われてもしかたがない。

 

「侵略」という言葉に言い換えることで韓国国内が盛り上がるなら、文在寅政権にとってめでたいことだろうが、日本が韓国を侵略しているなどという妄想につきあういわれは日本側には全くない。韓国の反日による実害は多かれ少なかれもともとあって、それが少し大きくなるだけだろう。日本側は韓国マスコミが期待するほど熱くも不安にもなっていないのである。そのことを日本に観光にやって来た韓国国民は感じているはずだと思いたいがどうか。人はときに見たいものしか見ないから、見えても見えないことも多い。
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樋口一葉『にごりえ』

 樋口一葉は明治五年(1872年)生まれで、明治二十九年(1896年)、二十四歳の若さで死去している。今回は現代仮名遣い、注釈たっぷりの集英社文庫で読んだ。前々回の「大阪慕情」というブログに書いたように、この文庫は全体の題名が『たけくらべ』で、そのなかに『たけくらべ』とこの『にごりえ』と『十三夜』とが収められている。

 

 まったく異質の三作品である。『たけくらべ』が少年少女が子どもから大人へと変わる淡い哀しみと甘さを描いたものであるのに対し、『にごりえ』は銘酒屋(前々回の「大阪慕情」参照)の女お力を中心に、私娼窟というどん底の世界で絶望の淵に立つ男女と、それを際立たせるような高等遊民の男を対比させて描いていく。

 

 絶望の淵から暗黒をのぞきこんだ男と女が、その暗黒に自ら身を投じてしまうその瞬間に何を見たのか。想像できないものを想像させて虚無感だけが残る。

 

 そういえば、永井荷風の『墨東綺譚』の視点は高等遊民から観た私娼窟の女の世界である。それははかなげでそれゆえに美しい。視点を変えると違う世界がある。永井荷風はもちろんそのような高等遊民の視点のみで世界を観ているわけではない。書かれていないことにこそテーマがある。

 

 ついでに書けば、『十三夜』は玉の輿に乗って良家に嫁いで子どもまでなした女が、実家に駆けこんで離縁したいと訴えるところから始まる物語である。ここにも絶望がある。同情する母親、諭す父親、その言葉に絶望の淵から立ち上がり、自ら子どものために辛苦の道を選ぶ女。もちろん物語はそれだけではない。嫁ぎ先への帰り道で意外な出会いがあり、人生の不思議さ、運命と、生きる意志との葛藤の危うさのようなものを垣間見させる。ある短時間の経緯を描くことでさまざまなひとのたどる人生の過去と未来を想像させる。

 

 この三作品が樋口一葉の死の前年である明治二十八年に相次いで発表されたものであることに驚く。言われているように樋口一葉は天才だったことを実感した。
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2019年7月18日 (木)

ふやけている

 昨日は大阪の兄貴分の人の家を訪ねて歓談した。いろいろと好みは違うのだが、世の中に対しての価値観は比較的に近い。相手の話の端緒を聞いただけで互いに何が言いたいのかすぐ分かるのである。日頃頭でぼんやりと感じていたことを言葉にすることで明確になっていくことを楽しむ。会話を楽しむとはこのことかと思う。

 

夕方は友人と天王寺で待ち合わせして飲む。兄貴分の人は医者から許可されている酒の量が僅かなので残念だがご一緒しない。飲み始めるとうれしくなって定量を超えてしまうことが明らかだからである。夕方から飲んだ友人とは定期的に待ち合わせて飲むのだが、私と同年なのに彼はまだ働いている。彼が休みの日にすればよかったのだが、事情があって仕事の後に合流した。

 

 こちらも楽しく飲んだが、いささか彼も疲れている気配で、比較的に早めに切り上げることになった。おかけで名古屋での大雨に遭わずに自宅に帰ることができたのはさいわいだった。

 

 なんとなく物足らない気がして夜中にまたビールを飲んで夜更かししてしまった。お陰で今日は頭も体も少しふやけている。
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大阪慕情

 渚ゆう子が好きで、ベストアルバムのCDを持っている。その中のいくつかあるお気に入りのひとつが『大阪慕情』という曲で、以下にその詩をあげる。実はこれは樋口一葉の『にごりえ』についての長い前振りである。

 

大阪 南の川の辺りの
ぶらり入った 飲み屋の女は
手持ち無沙汰の 人待ち顔で
一人 グラスを傾けていた

 

  酔いにまかせて 女が言うには
  外は雨だし お客も来ないし
  なんやあんたに 優しくしたいわ
  よけりゃ二階で 遊んでゆかないかと

 

椅子にもたれて 片肘ついて
身の上話は 九州訛りで
あんたは最初の 男に似てるわ
うそかほんとか 悪い気もせず

 

  今夜は悪いが きっと又来ると
  心残りで 勘定済ませりゃ
  首にすがって かぼそい声で
  ほんとうに あんたが好きだと泣くよ

 

三日とおかずに 二枚目気取りで
店の女を 訪ねてみたら
あの娘は二階で 今忙しいと
太ったおかみが 片目をつぶる

 

  大阪 南の川の辺りの
  ぶらり入った 飲み屋の女は
  客はみんな 最初の男で
  よけりゃ二階で 遊んでゆけとゆう

 

 これを渚ゆう子がからりと軽妙に、しかし色っぽく唄う。実に好いのである。

 

 これは昔話なので私は実体験はないが、会社の先輩達はそういう飲み屋があるあたりを知っていて、新人たちは一人前になるために連れて行かれたという。もちろん病みつきになって通い詰め、入れあげる男もいたという。

 

 樋口一葉の『にごりえ』というタイトルは、濁った入り江という意味である。江であって絵ではない。

 

 東京の下層社会に銘酒屋街というのがあり、一階が飲み屋になっていて、二階は酌婦が売春をするところだという。飲むことよりも遊ぶことが主の店である。まさに『大阪慕情』の、南の飲み屋の世界と同じなのである。次回はその『にごりえ』について。
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2019年7月17日 (水)

正義が苦手

 そういう本ではないはずなのに、突然著者の政治的主張や心情が書き込まれている文章に出会うと鼻白む。最近そういう本を読んだ。そういう場合は大抵その立場が正しく、それ以外は間違い、と当然のようにされていて、異論を持つものは置いていかれる。それ以外がとても興味深く読めていたのに残念な気持ちになる。読者には様々な考えの持ち主がいるのである。異論のあるものは読まずにけっこう、ということだろうか。

 

 中国や韓国に関連した本でしばしばそういう文章に出会う。中国も韓国も日本とは異質な国である。それらの国と日本は歴史的に不幸な関係があった。それは正当化できるものではないが、時代はすでに二世代以上過ぎている。共感も反発も過ぎると冷静さを失う。話が正義という論点から論じられ出すと、引っ込みがつかなくなる。異質であることを受け入れるためには、正義というどちらかだけが正しいという物言いは控えた方がよいと思っている。

 

 もちろん事実に関しては妥協すべきものではないが、ときに事実すら正義の名の下にねじ曲げられるので、気をつけなければならない。幸い日本では様々な本を手にすることができるから、事実について自分なりの判断をする材料に事欠かない。ただ、韓国や中国ではそうではないらしいから、話はときに通じないのは仕方がないことかもしれない。そのことを承知で付き合う必要がある。

 

 不思議なことに中国はそれを自覚している知識人が普通で、韓国の場合はその自覚がないように見える。たくさんの本があっても、同じことが書かれていれば一冊の本でしかない。異論を唱えにくい二つの国で、かたや自覚があり、かたや自覚がないのが不思議だ。もちろん建前は中国も一色であることが多いのは、身の安全から仕方がないのだろう。

 

 そういう国の正義を正義として語る日本人の文章に出会うと鼻白むのは、あまりに相手に肩入れしすぎているように見えるからだ。戦争反対を叫んだところで戦争がなくなるわけではない。戦争とは何か、どうして起こるのか、どうしたら起こらないようにできるのか、それを考えるためには歴史をよくよく知らなければならないし、相手の国のことも知らなければならない。戦争は相手があって起こることだから。

 

 国会議事堂前で、ラップを歌い踊りながら戦争反対を叫んでいる若者(実は若者はほんの一握りで、多くは団塊の世代らしいが)などを見ると、無意味とまではいわないがむなしさを感じてしまう。どこまで戦争について本を読み、考えたのだろう。ああいう人たちほど、正義の名の下にいざとなると率先して戦争に走るのではないか。そう思えるのは、歴史がそのことを教えてくれるからである。

 

 朴槿恵を大統領の座から引きずり下ろし、文在寅に喝采を浴びせた大群衆が、たぶん今に文在寅を引きずり下ろすときが来るだろう。それは同じ人々だ。こんな予言は韓国の歴史を知るものなら誰にでもできることで、わかりやすい例としてあげておく。
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眠れない

 眠れないのは眠くないからで、起きていればいいのであるが、生活のリズムが狂う。リズムが狂うと様々に波及していき、定常に戻すのに時間がかかる。それが煩わしいからなんとか眠ろうとして、かえって眠れなくなる。

 

 外は雨。冷たい飲み物を飲んでぼんやりしていたら昔の飼い猫のことを思い出していた。寝ていると鼻先に息を吹きかけてくる。懐を空けると潜り込んでくる。最初はなかに潜っているが、暑くなると顔を出してきて並んで眠っている。猫にも私にも至福の時間である。そういうときは気持ちが安らかになっているから眠りは妨げられない。

 

 私の子供たちは小さな頃からクールでベタベタしない。それでも何か精神的に参ったらしいときには寝床に潜り込んでくることがまれにあった。何も話さなくてもぬくもりが互いに伝わると安らかな気持ちになる。

 

 そういう幸せな時間があった。

 

 子供を害する親というのが信じられないが、それなりに事情があるのだろう。しかしどんな事情があるにせよなんとか回避する方法はなかったものかと思う。歌の文句ではないが、言葉で伝わらなくてもぬくもりを通して伝わるものがあるのにと思うが、そんな生やさしいものではないのだろうか。

 

 窓を開けると雨音がしてひんやりした風が入ってくる。どうも眠れそうにない。読みかけの樋口一葉でも読むことにしようか。今日は昼間ゴロゴロしながら過ごすことを特別に許可しよう。いつも許可しているのだが。
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2019年7月16日 (火)

リズムで読む

 樋口一葉の『たけくらべ』を読んだ。集英社文庫に収められたこの小説を以前読みかけて読み切れず、ようやく通読した。読めなかったのは読む能力がなかったからで、最近泉鏡花の小説や戯曲を拾い読みして、こういう文章を読むことになれてきた。こういう文章はリズムに乗って読まなければ味わえない。今回はそのリズムに乗ることができた。

 

 文庫で百ページ足らず、しかも脚注がびっしりと書き込まれている。確かに花柳界特有の言葉などもあるので、脚注を見なければわからないことがたくさんある。しかしその脚注を拾いながら文章を読んだりしたらこの小説は読めない。読めないというのは言い過ぎか。味わいを著しく損なって、読んだことにならないというべきか。

 

 わからない言葉があっても、物語の流れに乗れば自ずから通じるものである。

 

 主人公の少女、美登利は数え年十四歳、色街では子供から女に変わる年頃で、彼女に関わる男の子たちもそれにつれて男になっていく。永遠に子供でいることはできず、避けられない。その境目の淡い気持ちを描くことで、女になり、男になることの、ある哀しみのようなものを感じた。それぞれの子供たちが、やがてどういう大人になるか。それぞれの性格が書き込まれているから想像することができる。次に読むつもりの『にごりえ』はそういう男と女の世界だと想像している。

 

 そういえば、山本夏彦の文章で読んだと思うが、樋口一葉を文壇に引き入れ引き立てた女性が、あまりに樋口一葉が高く評価されたことで嫉妬したという。山本夏彦はその女性を非難したのではない。人とはそうしたものだと言ったのである。
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映画でも観ようか

 温泉でゴロゴロしながら読書をしようと本を十冊ほど持参していったが、山本夏彦を二冊、樋口一葉の『たけくらべ』(『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』の三作品を収録)、一海知義氏らの『漢語いろいろ』、葉室麟の『影ぞ恋しき』の五冊しか読めなかった。ただ、『影ぞ恋しき』は六百ページ弱の大部で、二冊分くらいに匹敵するから六冊分読んだといえるだろうか。出掛ける日もあった割りにはまあまあか。

 

 昨日午後、夕方になる前にわが家に無事帰着した。洗濯物を洗濯し、空になっている冷蔵庫の補充の買い物をして、一段落したところで一杯飲みながら予約録画したものの中からドラマや新日本紀行、そしてプライムニュースなどを片付けた。

 

 だんだん面白くなってきた『大富豪同心』も第十回を以て終了した。甘々のラストだが、それはそれでこのドラマらしくて心地のよいものだった。プライムニュースは面白くないテーマのものは飛ばし見をしたけれど、もともとは二時間枠のものだから、けっこう時間を食う。

 

 韓国への貿易優遇措置一部停止の件について、外務官僚出身の人々の物言いが面白かった。国民感情をエスカレートさせるような政治的な行動はよくないことだ、という立場で語っている。外務省は今までそうすることで友好を保ってきたのに、今回の措置はそれをぶちこわしにしているといわんばかりである。立場によってものの見え方が変わることは当然だが、今回の措置が経産省の主導で行われ、外務省が蚊帳の外であることに反発し、不快の念を持っているという気配がうかがえたけれど、私の深読みしすぎか。

 

 あの田中均氏をもってもこの物言いかと驚いた。こういう姿勢が日本の譲歩の繰り返しにつながり、韓国の勘違いを生んだのではないか、との視聴者からのコメントがあったが、そうだそうだという声も多かったのではないか。感情的になる素地を作ったのは誰か、といいたくなる。

 

 確かに最近の韓国に不快感をもつ日本国民は多いだろうけれど、感情的とまではいえないように思うがどうだろう。それより報道だけ見ていると韓国がエキサイトしているようにみえる。確かに文在寅大統領が国民をあおっているのははっきり分かる。韓国国民はそれらあおられて報道のとおりに感情的になっているのだろうか。どうも韓国のマスコミも日本のマスコミも、本当の実態を伝えているのかどうか最近信じにくい気がしている。事実がどうであるかよりも、問題が大きくなることを望んでいるかのようである。ニュースを作ろうとしていないか。

 

 それはそれとして、今日はその残りをやっつけて、あとは映画でも観ようかと思っている。外は雨だし。それにしても涼しいのはありがたい。
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鶴岡へ

鳴子の逗留が終わり、一気に名古屋へ帰るのは大変なので、一泊を上越の温泉ホテルに宿泊することにした。最上川船下りのときに通った道を再び走る。峠を過ぎた山形側、新庄に近いところに瀬見温泉がある。ここは義経や弁慶が頼朝に追われて平泉へ落ち延びるときに泊まった温泉だ。
その瀬見温泉の手前に瀬見峡があり、その前にドライブインがある。


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ドライブインの裏手に鮎の梁がある。まだシーズンではないのでなんだかわかりにくい。


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水が勢いよく流れている。もちろんこの川も最上川に合流する。この前で母の写真を撮ったのだが、それが母の遺影に使われた。その写真の母は穏やかないい顔をしている。


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早くも鮎釣りの姿が見られる。

 

一気に新庄まで峠を下る。新庄を過ぎると左手に月山、さらに先へ行けば遙か右奥に鳥海山が見えるはずなのだが、あいにくの曇り空で何も見えない。清川を過ぎて鶴岡を目指す。


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鶴岡市内はいつものように渋滞しているが、程なく鶴岡の城址公園に到着。目的は藤沢周平記念館へ行くこと。


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城跡の鶴岡公園は桜の老木がたくさんある。春はきれいであろう。


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鶴ヶ岡城のお堀。


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目的地の藤沢周平記念館。二月にここを訪ねたのだが、あいにく休館日だった。そのときは私の大好きな作品の『清左衛門残日録』の特集だったから見たかったのだが残念であった。いまは『又蔵の火』という作品の特集である。珍しい結末に終わった仇討ちの話で、実話が元になっている。藤沢周平を堪能して、日本海を新潟方面に進む。

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2019年7月15日 (月)

出羽街道・尿前の関

鳴子温泉を過ぎて峠にさしかかるあたりに尿前の関がある。
国道47号線脇に駐車場があって、そこから階段を降りていくと尿前の関に至る。


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こういう階段を降りていく。


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木が覆い被さり、この先を通ることができることを知らないと、ちょっと降りていくのが躊躇されるだろう。


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降りてきた道を振り返る。


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熊に注意するように言われても・・・。そういえば中鉢さんも山菜採りなどで最近熊に出会うことが増えたと言っていた。果物の畑なども荒らされているそうだ。


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芭蕉の句碑がある。


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芭蕉翁という字が読める。


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裏面には句も刻まれているらしい。

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裏面。拓本でも採らないと読み取るのは困難。

 

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尿前の関にある芭蕉の像。暗いのでストロボを炊いた。関所では芭蕉がなぜ出羽国に至るのか、なかなかわかってもらえずに通るのに時間がかかったらしい。このあたりでは用のないものが旅をするなどということはなかったのだろう。


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関のなかから門の方を撮影。


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出羽街道を上っていく。私は逆に降りてきた。


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こういう道を昔の人は歩いて行ったのである。
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封人の家

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分水嶺のある堺田は仙台藩と新庄藩の藩境でもある。その堺田の庄屋である有路家の邸宅が再建されて当時の様子が再現されている。


芭蕉が奥の細道でここに泊まったことを、封人の家に宿泊したとして書き残している。封人とは国境を守る役人のことをいう。


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邸内には当時の品物などが展示されている。


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上段の間。やや身分の高い人の泊まった部屋である。この右手には神棚のある部屋もある。芭蕉は私が写真を撮っている真ん中の部屋に泊まったらしい。


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廊下。


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入り口には馬がいた。芭蕉の句『蚤虱馬が尿する枕元』はここで詠まれた。尿は「ばり」または「しと」と読む。それぞれの説があるが、私は情景として、馬の小便の勢いに驚いている芭蕉を想像するので「ばり」と読みたい。

「のみしらみうまがばりするまくらもと」


「しと」を主張する説は、ここに来る前に通過した「尿前の関(しとまえのせき)」を意識している。それを考えて芭蕉はこの句を作っているのは間違いのないところだろう。


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今この封人の家を管理しているのは中鉢(ちゅうばち)さんという人で、お目にかかるのは二度目である。とても話し好きで話し出すと止まらない。おいしい蕎麦屋、おいしい饅頭の店、おすすめの温泉宿などを教えてくれる。今回もお茶をいただきながらこの囲炉裏の前に座り込んでいろいろ話を伺った。


このあと尿前の関に行く。
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2019年7月14日 (日)

堺田の分水嶺

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 宮城県と山形県の間の分水嶺を見ることができる。堺田の分水嶺といい、封人の家(次回紹介)の前の駐車場に車を置いて歩いて行ける。


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駐車場の前に色の美しい萼紫陽花が咲いていた。


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こんな道を三百メートルあまり歩いて行く。高低差がないからゆっくり行っても五分である。


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この水がやがて分水嶺で太平洋と日本海に分かれる。


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途中の小さな池の小さな睡蓮の花。


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色合いの鮮やかな紫陽花。


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絵に描いたようにわかりやすい分水嶺。


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日本海側は最終的に最上川となる。太平洋側の江合川は鳴子の横を流れている川で、旧北上川に合流する。


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藤沢周平の文章が引用されている。これを見て鶴岡の藤沢周平記念館に行きたくなった。


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分水嶺のすぐそばに陸羽西線の堺田駅がある。


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ホーム。周辺の緑が濃い。


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歩いていて、とても強く桜の匂いがしていた。普通桜は匂わないが、匂う桜の種類があるらしい。この桜の木の葉を嗅いだら強く匂った。桜餅の葉のにおい、桜茶のあの匂いである。

 

戻って封人の家へ行く。

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清川

最上川船下りの乗り場の古口からさらに下流に庄内町清川(旧清川村)がある。芭蕉が本合海から乗船して、下船したのがこの清川だった。芭蕉の船下りは、だから現在の船下りの距離の倍ほど長い。この清川といえば、清河八郎の生地である。明治末に維新の功労を認められて叙勲した際に、清河八郎をまつる清河神社が建てられた。清河八郎は本名を齋藤正明といい、庄内藩の郷士の長男で家は豊かだった。

 

山岡鉄斎などとはかり、幕府に京都守護を名目に浪士隊の結成を献策した。それは幕府を利用して浪士隊を勤王に引き入れようという奇策であった。そのために彼はその後あまりいい評価を得られていない。頭脳明晰だったが、傲岸だったと評するものもいる。多分庄内出身ということで、言葉が通じにくく誤解された面があったのではないかと私は考えている。浪士隊は分裂してその一部が新撰組になった。残りは江戸に連れ戻されている。

 

のち、清河八郎は江戸で佐々木只三郎たちに暗殺される。享年34歳。その功績が認められたのは明治末年であった。

 

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清河八郎の像。清河神社内にある。父の生まれ故郷に近い庄内出身ということで、清河八郎には不思議と親しみを感じている。庄内出身である藤沢周平も清河八郎には思い入れがあって、『回天の門』という小説を書いている。ほかに司馬遼太郎や柴田錬三郎も清河八郎を取り上げた本を書いている。

 

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清河神社。今はあまり祀る人もいないのだろうか。

 

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神社の敷地内にある清河八郎記念館。訪ねるのは三度目で、改装されたと聞いていたので楽しみにしていた。改装されたのは中だけで、外は相変わらずだ。中は天井の高い大広間になっていて、清河八郎自身の遺物、彼に関係した人の遺物などが展示されている。レイアウトが変わっていた。以前は私の好きな落款も雑然と並べられていたが、点数を少なくして説明書きが加えられていて見やすい。手紙類が多い。筆まめな人であって父や母にたくさん手紙を出している。

 

特に今回うれしかったのは、『西遊草』の原本が展示されていたことだ。これは清河八郎が26歳の時に、母(41歳)をつれて庄内から日本海、長野、名古屋、伊勢、京都、さらに安芸の宮島まで足を伸ばし、江戸経由で半年かけて庄内に戻っている、その旅日記である。岩波文庫に収められていて、私も今読みかけである。面白い。

 

もちろんここも写真撮影禁止。あまり知られていないのだから、写真を撮ってもらって多くの人に知ってもらう方がいいと以前案内の人に言ったのだが、役場の人がだめだと決めているから、という返事だった。

 

案内してくれた女性が「どちらから」と聞くので「愛知から」と答えると、びっくりしていた。父の生まれ故郷が角川だというと、よく知っているらしく笑顔になった。

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2019年7月13日 (土)

最上川船下り

鳴子から峠を越えて、宮城県から山形県に至る。新庄を過ぎれば最上川沿いに西へ向かう。芭蕉が船下りに乗船した本合海を右手に見て、古口に至る。古口は現代の最上川船下りの乗り場。


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五月雨の五月は旧暦だから、現在なら六月の終わりか。梅雨の雨で増水した最上川の水流が早いことを芭蕉が詠んだのである。


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思ったほどの水量ではない。後で聞いたら、農業用水に採られているからだという。酒田まで約拾里とある。このあたりでとれた米、そして紅花がこの川の水運を利用して運ばれた。


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今日はいつもの下船場所が強風のため危険なので、回遊コースだそうだ。つまり出発地に戻る。車のこちらとしてはありがたいがどこまで行くのか。川の様子はそれほど風があるように見えない。


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結構客をたくさん乗せて出発。


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雨が降り出したらビニールのカバーが掛けられるそうで、そうすると景色は見られなくなる。


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年中無休なので四季の景色が楽しめるが、今は夏の深緑。本当に濃い緑が楽しめる。


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最初上流に向けて船は行く。本合海にまで行ってくれると好いのだが、この先はかなり浅そうで、この船では無理なのかもしれない。


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しばらくして船は下り出す。昨年八月に豪雨のため、堤防が決壊寸前になったという。元々水害の頻発する川だったのである。流木を処理する重機が今も働いていた。

 

四十前後の若いガイドはなんだか軽薄で、聞いていてイライラする。以前は老練で歌の絶品なガイドだったので、その差に驚く。若い女のグループだけがそのガイドの言葉に笑い転げていた。


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ここは最上川の支流である角川が流れ込むところ。角川をここからさらに遡った場所が我が父の生まれ故郷である。すでに近しい親類はおらず、墓もそこから千葉に移してあるので生家跡の記憶が私にだけ辛うじて残っている。覚えているうちに弟や子供たちに教えておきたいが、機会があるかどうか。

 

この後、清河八郎記念館に立ち寄ることにする。
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瑞巌寺

松島といえば名刹瑞巌寺である。遊覧船乗り場のすぐ前にある。


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山門を入ると長い参道がある。右手には岩窟が並んでいる。


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昔修行僧がこの岩窟で座禅を組んで修行したのだ。


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冷えるし、体にはよくないと思うが、信仰の力というものはすごいものだ。そういえば莫高窟にも無数の修行用の岩窟があった。


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東日本大震災の津波がここまで来たのだ。

 

この後本堂を拝観したが、もちろん撮影禁止。中はとても立派で、伊達家にちなむものが多い。伊達政宗の死に殉死した家臣たちの供養の部屋もあった。

 

 

 延命地蔵。ぼけずに健康で長生きさせていただけるならありがたい。


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緑が美しい。

 

松島を少しだけ堪能して帰路についた。

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2019年7月12日 (金)

松島周遊

松島で遊覧船に乗るのは、小学生のとき家族と、そして学生時代と、に次いで三度目である。思えばずいぶん久しぶりである。前回二度の印象は、芭蕉や先人たちが絶賛するほどの景色だろうか、というものだった。


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遊覧船は二階建てで、一階は1000円の普通席、二階はさらに特別料金600円のチケットを必要とする。なんとかと煙は高いところが好き、というようにわたしも二階席へ上がる。


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いよいよ出航。


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望遠を持参しなかったのでわかりにくいが、一本の松を乗せた小島が伊達の殿様のお気に召したそうで、これを庭園に移したものには千貫やるといったそうだ。褒め方を金で置き換える言い方は冗談にしても品性に欠ける。


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たくさん見た島の中で最も印象に残った島。


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松島湾の島はもっとたくさんあったように思っていたが、思ったよりもまばら。俗に八百八島というが、実際は二百数十だそうだ。


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別の遊覧船とすれ違う。五大堂では中国の人たちがたくさんいたが、その人たちは別の遊覧船にまとめて乗っているのでわたしの乗る船にはいない。その分静かかといえば、その代わりに奇声を発する子供がいて最後まで叫び続けていたが、どこか具合でも悪いのか。泣いていたわけではないようだが。


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島の横手の地層の傾きがよく見えて興味深い。


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一頃は松島周遊のハイライトだったこの仁王島も、ずいぶん前だが、ついに頭が落ちたとか落ちかかったと話題になった。だから今は補修されておかしげな様子で乗っかっている。なまじ補修などしたために無惨な姿である。


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この辺ではすでに外洋に出ている。波も少し出てきて風もさらに強くなった。


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地層を見るとうれしくなる。タモリほどではないが。


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松島湾名物の牡蠣の棚。ここの牡蠣は大ぶりで生食すると旨い。ただし今はオフシーズン。


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帰りを急ぐ船。約五十分の周遊を終えて乗り場に帰着した。
印象は・・・以前とあまり変わらない。

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松島・五大堂

松島へ行くことにする。鳴子の宿から松島まで80キロ足らず、二時間かからない。


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松島に到着。ここも日本三景の一つ。そういえば、二月に天橋立を見ている。そして先月、安芸の宮島へ行った。そしてここ松島に来たので、半年ですべて訪ねたことになる。


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遊覧船に乗るつもりだが、出航まで少し時間があったので、五大堂を見に行く。


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岸から五大堂を見る。


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五大堂には小さな赤い橋を二つ渡る。


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このおじさん、橋の手前でいつまでも立ったまま動かない。ちょっと邪魔。たぶん・・・。


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自撮り棒が振り回され、日本語ではない言葉が飛び交う。すべて中国からの人たちのようである。


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このとき日本語の会話は聞こえなかった。


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この橋は・・・


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というのだそうだが、そんなに大きな隙間ではないのでどうということはない。


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橋のたもとの売店のこのTシャツの文句が気に入ったけれど、買わず。


時間になったので遊覧船乗り場へ戻る。

2019年7月11日 (木)

鳴子温泉散歩

温泉神社の周りには大きなホテルが並んでいる。


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そのホテルの一つ、その裏側で温泉システムの様子を見ることができた。そこにいるのはここの湯守さんか。


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そこから急な階段を降りていく。青い紫陽花が美しい。


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眼下にこけし製造販売の店が見えた。首の鳴る鳴子こけしは東北のこけしの代表だ。


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こけし通りとあるが、なんだか寂れた気配がある。


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店を覗かせてもらった。製造実演もするらしい。


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駅へ下る道の途中に足湯の場所がある。こういう絵が好きだ。


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鳴子温泉駅。閑散としている。


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こういう怪しげな看板のある裏道は魅力的だ。


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こんな路地を抜けていく。


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路地を抜けた先にあった店の看板。宮城の地酒といえば、わたしの好みは浦霞、友人と兄貴分のために二本購入した。しそ巻きくるみ揚げ、というのがこの鳴子の名物だが、くるみが入っているわけではない。店によって味が著しく違う。外れるとがっかりする。

 

始めたら安易に引くな

 韓国は軍事転用可能物質の不正輸出について、きちんと管理していると主張している。その証拠として不正輸出の摘発件数と仕向先を公表した。その摘発件数が年々増加していることが明らかになっているのだが、北朝鮮向けはのものはないという。

 

 しかし北朝鮮向けがない、という主張は疑わしい。あったけれど摘発されている、というのならわかるけれど、「なかった」というのがそもそも変である。あってもなかったことにしているのではないか。勘ぐりすぎだろうか。

 

 日本政府は昨年来、度々この不正輸出についての疑義を韓国政府に問い合わせていたはずだ。ところが全くなしのつぶてで、その問い合わせを韓国政府は無視してきたという。それが今回の優遇措置の停止につながっている。そのときに何らかの誠意ある回答をしていればまだ話し合いの余地があっただろうが、今更北朝鮮向けの摘発はなかったというだけでは誰が信用するだろうか。

 

 韓国は、どうせ日本はいつものように何もしてこないと高をくくっていたら案に相違したというところだろうが、まだまだ突っぱね続ければなんとかなると期待している気配がある。アメリカを、そして世界を巻き込んで日本の非をならしてごまかそうというのだろうが、日本も準備に準備を重ねてのことであろうから、そうは問屋が卸さない。

 

 始めたけんかは下手に引くとそもそも始めなければよかったことになってしまう。始まってしまったのに始めなければよかったと騒ぐ一部マスコミの無責任さに腹が立つ。始めないですめばその方がよかったけれど、始めずにはすまないわけもあるのだろう。それならこちらの言い分をきちんと言い切らなければ筋が通らないではないか。この件に関しては日本政府を応援したい。

 

 今回の日韓の対立は多くが文在寅政権の異常な約束無視、ごまかしに端を発している。日本政府は韓国そのものとことを構えたいとは思っていないはずだ。文在寅の異常さに韓国国民が気がつけば、それなりの納めようもあるだろうが、韓国国民がただ反日で盛り上がるようなら、事態は長引くだろう。日本製品不買不売を言い立てる人たちがいるようだ。日本へ旅行に行かない、と明言して喝采を浴びているタレントがいるというニュースもある。彼らはただ喝采を浴びるだけが目的に見える。愚かである。人の振り見て我が振り直せ、である。真似しないようにしよう。

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鳴子の温泉神社

鳴子を散歩した。鳴子は東から川渡温泉(かわたびおんせん)、東鳴子温泉、鳴子温泉、峠の上の中山平温泉、北側にある鬼首温泉を総称して鳴子温泉郷という。鬼首温泉以外はみな定宿がある。今回は中心の鳴子温泉に泊まっている。宿にはWiFiがないのが不便で、トイレもウォシュレットではない。安いから仕方がないのである。でも湯はわたしの好みの硫黄の匂いの強い濁ったお湯で、不満はない。


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鳴子温泉神社入り口。右手の啼子之碑とある木標は、横の石碑のことで、江戸時代に鳴子温泉の湯守が鳴子の由来や伝説も含めて書き残したもの。石碑の一部は摩滅してよく読めないが、この木標には要約が記されている。

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こんな階段を上ると高台に温泉神社がある。


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階段の途中にガクアジサイが咲いていた。

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神社の手前に源泉がある。大抵の宿が自前の源泉を持っている。


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鳴子の温泉神社。温泉神社は大抵こじんまりしたものが多いがここは立派な神社である。

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温泉前に相撲の石碑がある。大相撲も原点は草相撲だ、などという文章が刻まれていて微笑ましい。

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鳥居の横に龍神がまつられている。火災よけであろう。

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神社の狛犬の顔がとても好い。

 

このあと駅の方へ行ってみる。

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2019年7月10日 (水)

北へ走る

 千葉から東関道を東に走り、佐倉を過ぎて大栄(たいえい)JCTを圏央道に移って北上し、つくばに向かう。つくばの先から常磐道に乗り、ひたすら北上する。圏央道は一車線でしかも大型トラックが多く、スピードは出ないが東京経由のように渋滞するほどのことはない。

 

 常磐道は快適に走れるのだが、日立を過ぎるとこちらも一車線になる。福島県に入るあたりから車の数も減りだしたと思ったのだが、今度は震災復興用のダンプが増えてくる。遅い。50~70キロで走る。その上隊列をなしているので、所々設置された追い越し用の部分でも何台も抜くことができないから、もがいても事態は変わらない。

 

 やがて楢葉や浪岡など、原発被害のあった地区に入り、海岸のほうに福島原発が見えた。この目で見たのは初めてである。ダンプは次々に高速を降りていく。現場が近いのだろう。ナビはいわきから郡山へ走るよう指示するものと思ったら、そのまま常磐道を北上するように案内する。まだ遅いトラックがいるから信号のない地道を走っているようなペースで進んでいるが、渋滞して止まってしまうわけではないので、案外早めにつきそうである。

 

 仙台の先、利府(りふ)からようやく東北道へ移るようナビからお指図があった。ここだと10キロほどで東北道へ移れる。確かに距離にすれば近いが、もっと早くに東北道に移っていればどうだったろうか。同時に二つは走れないからわからない。もう降り口の古川インターはすぐである。

 

 インターから鳴子へ向かう途中の、伊達政宗の生地である岩出山にある有備館に立ち寄ろうかとも思ったが、とにかく宿に入って風呂に入りたい気持ちの方が勝ってスルーした。ここなら宿から15キロほどだからいつでも来ることができる。無事到着。約420キロ。

 

 夕食前に少し散歩した。その写真は次回。
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出かける

 定期検診の結果は、血圧も血糖値もいつもより高め。しかし美人の女医先生はその結果を一瞥して、「きちんと節制しているようですね。この調子で頑張ってください」と、にこやかにおっしゃる。前の先生なら、「いけませんね。このままなら薬を増やしますよ」というのではないかとおかしかった。無罪奉免であるが、自分としては少し自重する必要があると感じた。その思いを忘れずにどこまで生活に反映できるか。

 

 というわけで無事に出かけることができた次第である。目的地のいつもの鳴子温泉に一気にいくのはハード(800キロ以上ある)なので、千葉の弟の家を中継地にさせてもらう。一週間以上の休酒をようやく解き、弟と飲む。弟の長男の家族もやってきて、賑やかな夕食となった。来年高校受験だという姪は顔が急に大人びて見えた。そういう年齢なのだ。

 

 弟夫婦はこの姪とその下の甥が夏休みになったら、この二人の孫を連れて松島と山形へ行くのだという。

 

 先月弟夫婦と中国地方を走り回った旅行で撮った写真をUSBメモリにまとめておいたので、弟がそれをコピーした。その旅行の話や息子の相手などが話題となる。息子は先日入籍したので、正式に結婚した。結婚式は後日とのことだが、しないならしないでかまわないとわたしは思っている。二人で決めればいいことだ。

 

 弟の家を中継地にできたので、明日はゆっくり東北に向かうことができる。気軽に泊まれるのは本当にありがたい。
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2019年7月 9日 (火)

夏彦節

 非は常に他人にあって、みじんも自分になければ、経験が経験にならない。他人の痛みはおろか、わが子を失った自分の体験も体験にならないから、昔ながらの惨事と新しい惨事はこもごも至る。
 いくら至っても、そのつど人のせいにすれば、惨事もさるもの大挙しておしよせる。
(『毒言独語』の『みんな世の中が悪いのか』から)

 

 大衆の潔白は不本意の潔白である。その証拠に、上役になれば豹変する。そして、あらゆる上役の不正は、下役の正義のなれの果てである。
 嫉妬はしばしば正義を装う。にせものの潔白は、本ものの潔白だと主張する。
 この世は、この種の正論に満ちている。私はこの種の正論からなにものも生まれないと思うが、まじめ人間は思わない。そしてまじめ人間は大ぜいで、大ぜいなら衆寡敵しない。
(同、『まじめ人間の天下である』)

 

 論より証拠と言うけれど、証拠より論である。論じてさえいれば証拠はなくなる。
 これはすこぶる好都合である。いつ、いかなるときでも、我々は恐れ入らないですむ。
 ただし、一人ではいけない。徒党してがんばらなければいけない。がんばればたいていの証拠はうやむやになる。その善し悪しは、むしろ各人お考えいただきたい。証拠より論の時代は、当分続く。
(同、『論より証拠と言うけれど』)

 

 だから私は、正直者は馬鹿をみるという言葉がきらいである。ほとんど憎んでいる。まるで自分は正直そのものだと言わぬばかりである。この言葉には、自分は被害者で潔白だという響がある。悪は自分の外部にあって、内部にないという自信がある。
「へーえ、そんなら貴君は正直自身かね」と問うと、男は一瞬たじろぐが、女はたじろがない。人はみなジキル博士とハイド氏だと私は思っているが、まじめ人間は思わない。そしてこの世はまじめ人間の天下なのである。
嗚呼。
(同、『正直者は馬鹿をみるか』)

 

 山本夏彦の『毒言独語』(中公文庫)の中からいくつかの文章の文末を取りあげました。前文を読みたければ是非ご一読を。
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これからどうなる

 韓国観光公社の調べでは、1~5月の韓国から日本への観光者数は325万人で、対前年で4.7%の減少だったそうだ。もちろんこれは日本政府の韓国への輸出規制優遇措置の一部停止が理由ではない。とはいえすでに日韓政府間がギクシャクしはじめたムードを敏感に反映したものだという可能性はある。

 

 この数字を以て、さらに減少するぞ、と韓国は脅し、日本のマスコミは、減ったら大変だ、政府の責任だ、と騒ぐことは目に見えている。確かに1~5月でさえ減っているのだから、これからさらに減るだろうし、増えるとは考えにくいけれど、果たして1~5月に減少したのは日韓の関係悪化ばかりが理由だろうか。

 

 じつは韓国からの訪日観光客は去年からピークアウトして僅かずつだが減り始めていたというのである。ところで韓国のそもそもの海外への総旅行者の数は殖えているのか減っているのか。これがどこかの国への旅行者数は増えて、日本だけが減っているというのなら、日韓関係の悪化が理由であると見做すことが出来るし、そうではなくて全体的にも減少傾向だというのなら、とりたてて騒ぐことではない。それなら韓国の国民の余裕がいままでよりなくなり始めているということかも知れないのである。

 

 もし問題にするなら、これから年末にかけての減少が顕著に表れてくるかどうかであろう。日本に来た韓国の観光客が他国の観光客に比べて不当な仕打ちを受けることは考えられない。日本はそういう国ではない。来たことのある韓国人ならそれを承知している。だからリピーターも多い。もちろんおかしな日本人もなかにはいるから注意が必要だが、日本では適正に処罰される。逆に日本から韓国へ行く旅行者数が増えるかどうかは、行った人がどういう仕打ちを受けるかで決まるだろう。快適で不愉快なことがなければ日韓の間がどうだろうと、再びそして三度行くだろう。

 

 大変だ大変だ、と騒ぐ一部マスコミを見ていると、あたかも750万人の韓国からの観光客が、明日から一人も来なくなるかのような言い方である。そして必ず金のことを真っ先に言う。金より大事なことがあるだろう。韓国の観光会社の話では、今回の輸出規制強化の話の後に日本への旅行のキャンセルは特に見られないという。
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2019年7月 8日 (月)

こらえ性がなくなって

 参議院選挙があるので、いつもなら党首討論などを熱心に見るのだが、見始めてしばらくするとうんざりして見続けることが出来ない。いったいなにをしたいのか、さっぱり分からない党首がいる。生活を破壊されている国民を破壊から守るだとか、暮らしに安心を取り戻すだとか、妄想的言辞を重ねるが、そのためになにを目指すのかといえば、悪の権化である安倍政権を打倒するという。打倒するとひとりでに国民の暮らしが豊かで安心になるらしい。

 

 世界情勢や経済に対する認識も昔からちっとも変わっていない。世のなかの変化をちっとも見ていないかのようである。国民の暮らしがバブル崩壊前と比べれば豊かでないのは事実である。あたりまえである。それを国民の生活が破壊されている、というのか。夢をもう一度というのか。中国や東南アジアの人々が豊かになれば、日本だけが豊かに暮らせるわけがない。富は彼等にも分配されているのである。アメリカの国民の恨みと同じ恨みを国民にあおろうというのか。

 

 アメリカだけが豊かだった時代を取り戻そうと、トランプはアメリカ国民に夢を語っているが、そんなことが叶うわけがない。世界は平準化する。エントロピーは増大することになっているのである。エネルギーは平衡に向かうのがこの世の理である。西洋だけが豊かだった時代を日本が台頭することで切り崩した。日本はとことん叩かれた。日本だけが世界の景気回復の波に遅れたのは日本政府の責任ばかりではない。そして日本が衰退し始めると中国が台頭した。当然中国をアメリカはとことん叩こうとするだろう。しかし殆ど手遅れである。

 

 そんな背景などまったく考えずに、生活が破壊されている、などと妄言を弄する政治家はアジテーターにしか見えない。それを聞いているのに耐えられなくなった。こらえ性がなくなったのである。もっとまともな野党はいないのか。国民のために現実的に出来ることを語る政治家はいないのか。

 

 私は抜本的なことより、現在の問題の具体的な改善策を呈示してみせる政治家を評価したい。いま極端な変革は求められていない。選ぶなら、どんな問題も一つずつ地道に解決していくしかないことを自覚している政治家を選びたい。世の中とはそうしたものである。
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2019年7月 7日 (日)

イギリスのミステリードラマ

 ミステリーに限らず、小説も映画もドラマも、同じレベルの作品なら、日本のものと海外のものでは日本のものの方が面白く感じられる。さはさりながら、少なくともミステリーに関しては八割方海外の作品を読む。レベルが違うというのが私の評価だ。イギリスやアメリカの作品は日本のものと比べてはるかに濃密だ。もちろん日本の作品にも優れているものはあり、平均的なことをいっているだけで、日本の作品も面白ければ読む。

 

 ミステリーといえばイギリスが本場で、コナン・ドイル、F.W.クロフツ、アガサ・クリスティ、ルース・レンデルをはじめとして、優れた作品を残した作家がひしめいている。一時期はイギリスのSWA賞とアメリカのNWA賞の毎年の受賞作品(長編賞や新人賞など複数ある)を必ず読んでいた。まず外れはなかった。最近は北欧の作品を読むことが多くなった。

 

 いまはイギリスのミステリードラマを楽しんでいる。残念ながら先日遂に完結してしまった『刑事フォイル』シリーズ、そしてつい先月末にWOWOWで第22話23話が放送された『刑事モース オックスフォード事件簿』などは、警察ものとして実に丁寧に作られていて、ミステリーを心から楽しむことが出来た。

 

 そこへいまNHKでアガサ・クリスティの作品のドラマが放送されている。第一部が『検察側の証人』で二話完結。第二部が『無実はさいなむ』で三話完結。次が有名な『ABC殺人事件』でこれも三話完結である。

 

『検察側の証人』のラストのどんでん返しは、ある程度予想していたものではあったが、その予想を想定してのさらにもう一段裏をかくもので、うならされた。そして今日録画してあった第二部の『無実はさいなむ』を観終わったところである。同じシーンが繰り返し繰り返し出て来る。しかしその同じシーンが、真実が一つずつ明らかになるごとに違う意味を見せる。だからまたかとは決して思わない。ここまで複雑な人間関係を設定し、それぞれの個性が絡まり合うシチュエーションを興味深く見せる力量はクリスティならではのものだ。

 

 やはりクリスティは凄い。次はおなじみの『ABC殺人事件』だが、ポワロものは殆ど高校時代に読んでいるから、この作品も読んだ記憶がある。クリスティの代表作中の代表作だ。しかしどんな話だったか忘れた。トリックを思い出さないように、初めて見る作品として楽しむことにしよう。今週土曜日が第一話の放送である。見逃す手はない。
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鉢植えが心配

 鉢植えと言っても今年は松葉ボタンとパクチーの鉢だけである。松葉ボタンは連日二十以上も花を咲かせて、種もできつつある。小さな種から小さな芽が出てここまでになるのは本当に不思議なことだと思う。

 

 パクチーは難しい。鉢の土をいままでのまま、いい加減にして種(いわゆるコリアンダーの元)を蒔いて水だけやっていたが、一つだけ元気に成長し、ちょっとずつサラダにパクチーの香りを移すことが出来ている。ただ、それも終わりを告げて葉が違うかたちに変わり、花がつぎつぎに咲き、いまは種をつけている。もうパクチーはとれない。

 

 別の鉢の土を腐葉土を加えてやわらかくして種を蒔き直した。ようやくいくつか芽が出て、早いものはパクチーの葉らしくなってきた。

 

 パクチーとは違う双葉の小さな芽も一斉に芽吹いているが、見つけると抜いている。土がよくなると満を持してつぎつぎに芽吹くのだ。出て来るものはみな成長させてあげたい気がするが、狭い鉢の中ではそうもいかないのが残念だ。雑草ではなく、以前蒔いた、なにかの種のような気がする。大きくなったらなにになるのだろう。

 

 しばらく出かければ、乾いても水をあげることが出来ない。適度に梅雨の雨降りを期待するばかりである。
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2019年7月 6日 (土)

ニュース備忘録

 韓国に対して一部商品の貿易優遇措置を取りやめるという措置が執られることになった。これが日本の報復だ、と韓国は騒いでいるが、韓国が報復と見なすということは、報復されるような事態であるという自覚があってのことなのだろうか。

 

 問題は日本のマスコミのこのことに対する報道の姿勢だ。快哉を叫び、遅きに失したというもの、逆にこんなことをすると報復の連鎖を生み、日本も大きなマイナスとなる、といういささか脅しめいた自重論とに大別されるようだ。それぞれ、そのマスコミそれぞれのカラーが鮮明に出ているようだ。

 

 まだ実際の適用による何らかの結果が出るまでには時間がかかりそうだから、どんな意見も今は推測の域を出ない。ただ、様々な推測の中で、私が信じられそうな推測から感じるものを元にすると、日本に対する実害は、一部マスコミが騒ぎ立てるほどのことはなさそうである。何より日本には韓国製のもの以外の選択肢があるらしいからだ。韓国製が手に入らなければ、国産か、台湾製か、場合によって中国製でしのげるだろうということだ。

 

 それよりも、どうやら今回の背景にはアメリカの要請があるらしいとの情報が本当らしく思える(by BSフジのプライムニュース)。戦略物資に関連する材料として、管理物質とされる今回の規制物質が、韓国経由で某国に渡っているのではないかとアメリカが疑っていて、日本に確認を求めてきたらしい。それを受けて日本は韓国に納入量の使用実態の確認を要求したが、再三の求めに韓国は全く返事をよこさないという。

 

 某国が北朝鮮を指すのは当然である。もしそれが事実なら、安心して韓国に輸出できないという判断は当然のことである。使い先を明らかにしなければ輸出しないということである。

 

 文在寅政権はそれらを糊塗するために日本が理不尽な報復を行っているというキャンペーンを国内にも海外にも展開するだろう。一層の反日を国内で盛り上げ、事態を隠蔽するだろうという見立てはおおいにあり得ることのように思える。

 

 何より今回のような貿易規制強化は、アメリカの同意なしに行ったとは思えないからである。もし実害があるのなら、実害は日本だけでなくアメリカにも及ぶことは明らかだから、アメリカからクレームがつくはずだが、今のところそんな気配はない。いつものように仲良くしろとも言ってこないではないか。

 

 韓国はアメリカに泣きつくに違いないが、そのときにアメリカがどう答えるのか、まずそれを知りたいところだ。韓国が日本に妥協してくるとは今までの経験から考えにくいから、日本からの貿易規制第一弾は実際に進行していくだろう。始まってしまった事態はもう元に戻せない。それならぶれずに進むだけであろう。内心で今回の政府の措置に賛同している人は結構多いのではないだろうか。
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 月曜日がほぼ二ヶ月に一度の定期検診日なので、数日前から休酒している。これは血糖値を下げる目的もあるが、それよりも体重を落とすのが狙いである。飲むときは麺類やご飯を食べないようにしているけれど、元々つまみがないとあまり飲めない質なので、どうしても栄養過多、水分過多になる。酒を飲まなければ多少だが体重が下がるのだ。

 

 夏はどうしてもたくさん水分を摂る。熱中症にならないためにも水分摂取は適度にしないといけないが、あまり汗をかかないのにせっせと摂ると水ぶくれになる。体内の水分が多いと、なんとなく体がむくんだようになってだるい感じもする。体はその辺のコントロールが年とともに下手くそになっている気がする。意識して自分で管理しなければならないようだ。

 

 検査の後、ちょっと遠出をするつもりだ。安い宿に湯治に行く。雨が多いだろうから、本をたくさん抱えていき、温泉と読書三昧をして体調を整え、英気を養うつもりだ。何しろ夏休みに入ると子供連れの家族旅行が増えて、宿は取りにくいし道も混むので、毎年その時期は出かけずに我が家でゴロゴロすることにしている。

 

 盆休みにはたいてい息子も娘も帰省してきたが、今年は来るだろうか。我が家もわたし用に特化されすぎていて、あまり居心地のいいところでもないしなあ。
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2019年7月 5日 (金)

井上ひさし『新釈 遠野物語』(新潮文庫)

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 岩手県釜石から内陸を西に向かい、そこからやや北に遠野がある。古い日本の田舎を再発見したければ遠野に行くといい。ただし、手ぶらで見に行っても山に囲まれた普通の田舎の町であり、里山がひろがる田園を見るばかりである。日本を再発見するには柳田國男の『遠野物語』を携えるべし。そこでイメージした遠野を現在の遠野にオーバーラップさせることで、なにかが見えてくればあなたは時空を超えることが出来る。

 

 『遠野物語』は一つひとつの話がとても短いものが殆どである。それを膨らませて冬の木枯らし、夜の闇、獣の匂い、馬のいななき、虫の声、それらを感じるようになれたら世界は変わる。以前にも書いたけれど、この中の『寒戸の婆』という話を、渥美清が朗読したのをラジオで聞いたことがある。光景が頭に浮かび、私は話のなかにいた。

 

 遠野物語は文字で読む物語である。柳田國男が、遠野が地元の友人、佐々木喜善の記憶していたり集めたりした話を聞き書きしたものだ。だから本来言葉で聞くべきものだったろう。出来れば地元の方言で古老に語ってもらうのが一番であろう。遠野に行けばその語りを直接か録音かで聞くことが出来る。

 

 ここまでが今回読んだこの本の前置きである。『新釈』と銘打っているが、柳田國男の『遠野物語』から物語りを取りあげたわけではなくて、全くの井上ひさしの創作である。全部で九つの話が収められている。語り手は岩屋(洞窟)に棲む犬伏太吉という不思議な老人で、聴き手は大学を休学して遠野に近い山中に新設された国立療養所に務めることになった青年である。岩屋はその療養所の近くにあり、トランペットを吹くその老人に惹かれて親交を深めていく。

 

 大学を休学し、新設の国立療養所に務めたという経歴は、井上ひさし本人のものである。つまり聴き手としての役割の本人がこのはなしを生み出したともいえる。そしてそれらの話の全体には仕掛けが施されていて、最後にそれが明らかになる。

 

 そのオチは、私はそれほど重要とは思わないが、これらの話が文章で語られながらそのまま語り言葉で語られた話となっている点が重要である。むかし祖父から寝物語で狸に化かされる話を聞かされた。とても面白いので何度も話をせがむ。毎回同じなのに息を呑んで聞く。忘れられない思い出だ。いまどれだけの子どもが年寄りからそのような不思議な話を聞く機会があるだろうか。

 

 この井上ひさしの『新釈 遠野物語』は傑作だと思う。遠野を訪ねるときに持参すべき本とは言いがたいが、『遠野物語』で遠野にイメージが多少でも出来たら、この本を読んでその不思議な世界観を楽しむことをお薦めしたい。

 

 本当に面白い本です。
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金棒引き

 前回のブログの話(松たか子の歯が黒いとか黒くないとかいう話)で、金棒引きという言葉を思い出した。金棒引きとは、ちょっとした事を大げさに触れ回る人のことで、隣近所の噂をして歩く人のことをいったりする。

 

 こどもの頃、よくわが家の縁側に座り込んで延々としゃべるおばさんがいて、たいてい誰かの噂話だった。母は内心では嫌い抜いていたが、邪険に扱うと自分がよそでとことん悪口を言われる心配があるので我慢していたようだ。そのときに「あの人は金棒引きだから」と嫌そうにいっていたので、その言葉をおぼえた。

 

 私は、金棒引きに軽蔑の意味が込められているようにイメージした。なんだかガラスを引っ掻くような鳥肌のたつ嫌な音を伴うイメージである。そもそもは金棒引きとは、鉄の輪のついた杖上の金棒を夜番がひきずって歩いて、戸締まりや火の用心を触れ回ることをいったらしいから、私のイメージはずいぶん違うようである。

 

 私のイメージする金棒引きが最近世の中にあふれているように見える。あることないことを「誰かが云っていた」という体裁で、自分の偏見で感じたことをいかにも本当らしく言い立てる。週刊誌の記者や芸能ジャーナリストという人たちの仕事を私が賤業と感じるのはその品性の下劣に見えるところから来ている。それがそういう賤業に従事しているわけでもないのにせっせと言い立てる輩が多すぎる。もともといたのか増えたのか知らない。言う場と機会が増えているということだろうか。
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2019年7月 4日 (木)

些細なことだが気になるし不愉快である

 NHKの『新日本風土記』にときどき挿入される松たか子のナレーションが好きである。彼女の父親も弟も大嫌いだが、彼女には好感を持っている。

 

 その彼女の歯が黒いの黒くないのという話がネットで取り上げられていた。歯が黒いのを放置している彼女の好感度が大きく落ちている、などという書き込みもあるようだ。どんな根拠でそんなことを言っているのかわからない。アンケートでも採ったのか。彼女がヘビースモーカーだから歯が黄ばんだり黒くなっている、などという情報もあった。

 

 余計なお世話だし、もし彼女の歯が体質的に白くなりにくい(そういう人はたくさんいる)のだったら、この騒いでる連中の最も非難する差別ではないのかとあきれてしまう。もちろんヘビースモーカーであろうとなかろうとよけいなお世話である。

 

 まあ相手にする必要もないような話だけれど、そういう言葉の飛び交うネット世界というのに呆れる。誰もが何かひと言言いたい。私だってこうしてブログを書いているのもその一人であるからだが、そのひと言が正論風の体裁を装いながら無意味でときに人を不愉快にさせるものに出会うと、いい加減にしてくれ、と腹が立つ。

 

 些細なことのように見えて、実は他人に配慮するという精神の働きを喪失してしまった、深刻な精神の荒廃を感じてしまうのは私の妄想だろうか。週刊誌ネタをはじめとして、こんな話が巷にあふれている。現代は人に受ければ何を言ってもいいという時代なのか。
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寝床のラジオ

 今日は7月4日、参議院選挙公示の日であるが、そういえばインデペンデンスデイ、アメリカの独立記念日でもある。これをおぼえていたのはトム・クルーズ主演の『7月4日に生まれて』という映画を観たからだ。アメリカでは自分がアメリカ人であるという自覚を刷り込むためにさまざまな方策を講じている。もともと寄せ集めの移民の国だから、そういう方策は必要であろう。

 

 日本はそういう刷り込みがなくてもひとりでに日本人だと思うことの出来るしあわせな国だったけれど、戦前、極端にいえば戦争で死ぬことを厭わない兵隊を生み出すため、そのことを過剰に刷り込みすぎたために、戦後はその反動から日本人であるという自覚そのものまで希薄になった。そのへんが適度でない状態のままだと、突然ナショナリズムの嵐が吹き荒れるという極端に振れないとは限らないので心配だ。いままでの、そしてこれからの韓国の行動と反応はそういう意味では反面教師として注視する必要があると思っている。

 

 最近久しぶりに寝床でラジオを聞き始めた。以前はオーディオ用のチューナーを持っていたのでそれを聞いていたが、いまはどこへ行ってしまったのか、処分してしまったのか。音楽を聴くだけなら無線LANで寝床のパソコンをUSBからオーディオに流して聴くことが出来るが、時には話し声のラジオも聞きたい。

 

 それでパソコンにradikoをダウンロードした。これはインターネットを介してラジオを聞くことの出来るソフトで、無料である。日本全国、いや世界中のラジオ番組が、FMも含めて自由に聞くことが出来る。お気に入りに何局か登録しておけば選局も必要ない。さらに凄いのは、聞き逃した番組も遡って聞くことが出来ることだ。むかしはFMの音楽番組をエアチェックして、聞きたいものを録音したりした。これなら録音など必要ないのだ。音はデジタルだから雑音などないのでとても好い。便利になったものである。

 

 最近は寝床に就くのを早めにしているので、朝四時過ぎには目が醒める。そんなときにラジオを聞きながら頭が働き始めるのを待つ。なかなか好いものである。
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2019年7月 3日 (水)

あまりにも雑然としているので

 私の回りはさまざまのものごとが雑然としている。本体がそもそも雑然としているから当然といえるが、不都合なことが多い。なにしろなにがどこにあるのか分かりにくいから、探すのに無駄な労力と時間が必要である。似たようなものがあちらにもこちらにもあったりする。

 

 こんな無駄が生じているのも多少はゆとりがあるからで、ありがたいことなのだが一番貴重な時間が損なわれるし、無駄な出費につながってささやかな貯えを食いつぶしているのである。

 

 そのことに急に思い至り、なにを始めたかといえば、さまざまなファイルの整理である。パソコンやハードディスクやUSBやSDカードに同じようなデータが整理されずにあちこちに収まっている。つい新しく大容量のものが欲しいと思う気持ちを抑え込み、バックアップ用も含めて全面的に整理しようと思い立ったのである。

 

 写真のファイル、音楽ファイル、手紙、書類、ブログ関連データなど、厖大なデータがばらばらに散らばっている。それを整理するのは大変な作業だが、なに、暇つぶしのお遊びであるのはご推察のとおり。この思いつきおじさんが、いつかはしなければと思っていたことにようやく着手したということである。もう手遅れ気味だから収拾がつかなくなるかも知れないが、どうせ外は雨だし、暇だし。

 

 そうやって朝からごそごそやって、とにかく全体の保存データ量は無意味に重複していたものを消去しまくったから、多少縮小したものと思う。まさか増えたりしていないだろうなあ。もちろん作業はまだ終わらない。
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今西錦司+吉本隆明『ダーウィンを超えて』(朝日出版社)

『今西進化論講義』と副題がつけられていて、思索家である吉本隆明が、進化論についての持論をひっさげて今西教授に疑問を投げかけながら、今西進化論について明らかにしていくという体裁をとっている。この本は古い本(1978年出版)で、『LECTIURE BOOKS』と言うシリーズの中の一冊である。このシリーズでは自然科学、社会科学、人文科学、についてテーマを決めて、専門家にたいしてそのテーマに興味のある知識人が質問をぶつけ、そのことによってそのテーマを深く理解していく。たしか第一集から第四集まであって、それぞれ十冊以上あるのだが、特に興味のあるものを選んでそのうちの十数冊を揃えている。

 

 若いときの浅読みと知識不足の読み方で殆どなにも残っていないけれど、その後思い出すごとに時々拾い読みをする。今回あらためて丁寧に読み直してみようと思い、まず手にしたのがこの一冊である。

 

 今西錦司と言えば生態学者、文化人類学者、登山家にして探検家、京都大学の教授で、岐阜大学の学長も務めた。モンキーセンターの設立にも関わる。日本の霊長類研究の草分けであり、霊長類学を確立した。ある意味で専門馬鹿ではないオールラウンドの知の巨人である。西丸震哉というユニークな学者とともに、私が尊敬する学者の一人だ。

 

 今西錦司はダーウィンの進化論を批判し、今西進化論を唱えている。この本はその今西進化論とダーウィンの進化論の違いとはなにか、それをマルクス、エンゲルスに詳しい吉本隆明がその社会学的な視点から今西教授に教えを請うかたちをとっている。今西進化論はなかなか分かりにくい。なにしろダーウィンの進化論があまりに人口に膾炙しているので、その思考方法から離れるのが難しいのである。

 

 私の雑な認識で言えば、ダーウィンの進化論はある個体の環境適応が有利であると生き残る確率が高くなり、それが結果的に種の進化につながっていく、というものである。進化論とはそういうものだと誰もが考えていることであろう。今西進化論では、進化は種全体で同時に起こる、と考える。それは宇宙も、そしてそれに含まれる生命もシステムとして存在し、全体でバランスをとりながら進化するようになっている、という考えから進化を考えるものである。

 

 そのへんの根拠、論理展開は私の力では分かりやすくまとめることは出来ないが、この考えにはずいぶんと影響を受けたような気がする。ヨーロッパ的な進歩史観という考えから自由にならないと理解できないところがある。進化は進歩ではないのである。進歩史観は人類の驕りである。

 

 人間には種としての進化の形態がほかの生物と違う点があること、それも重要なポイントだ。つまり生物は個体自身の変化で環境に適応するが、人間は本体を換えずに外面を、つまり服を着たり道具を使うことで適応する点が大きく違うといえる。

 

 この世界がシステムで動いているという思想はヨーロッパの個を重視する考えとは相容れない。世界は個を重んずることが極端になっていくことで地球というシステムを破壊しつつあるのかも知れない。人間の限界はそこにあると見た反省から20世紀末に東洋思想に学べ、という運動が起こった。それがタオリズムやスーパーサイエンスのようなものに変形し、異常な方向に流れ流れて、やがてオウム真理教のようなものに堕落していった。

 

 そしてその運動は忘れられ、個はますます絶対化され、拝金主義がはびこり、地球のシステム全体が危うくなっているらしいという予感だけがささやかれている。地球温暖化など妄想だ、と公言し、環境問題など知ったことかという、某トランプ大統領のような人間が世界をリードするというあり得ないような世界が出現している。人間は地球というシステムから逸脱しつつある。人類はいつか逆にシステムから排除されるという手痛い仕打ちを受けることになるだろう。
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2019年7月 2日 (火)

気になる

 香港の立法府が占拠された。占拠したのは中国へ容疑者などを引き渡す法律に反対している市民達の一部と報道されているが、ものを破壊したり、道路にバリケードを築いて通行を妨げたり、立法府内の机や壁にスプレーでペンキを吹き付けたりしている様子は明らかに暴徒である。

 

 これが香港政府に対する抗議のエスカレートしたものであることは見た通りだが、誰かが裏でエスカレートさせているような不自然なものを感じるのだが、考えすぎだろうか。この暴徒たちは官憲によって排除されたようだが、これから官憲はデモ隊を規制し、時に市民を拘束することがいままで以上に多くなるだろう。同時に市民運動に参加していた市民達は反対運動から離れていくだろう。今回の暴動は香港政府にとって、つまりは中国政府にとってまことに願ったりの状況を生み出すだろう。それを見越してのたき付けが巧妙に行われたのではないかと考える所以である。

 

 昨日、久しぶりにどん姫がやって来た。泊まるかと思っていろいろ準備していたのだが、夕方帰っていった。人妻だから当然といえば当然である。今度は二人でやって来て泊まるように言ったのだが、以前泊まったときに私の酒攻勢に恐れをなしているらしい。「お父さんほど酒に強くないから!」とどん姫に言われた。今度は考慮しよう。

 

 ところでなにがあってもどんと構えてものに動じないのが私が娘をどん姫と呼ぶ所以だが、そのどん姫が涙もろくなっている。殆ど涙など見せたことはない娘なのにどうしたことか、気になる。「大丈夫か」、と声をかけたらもちろん「大丈夫」と答えているけれど、いろいろ自分のペースで生きられないのが堪えているらしい。もともとマイペースで生きる生き方を貫いて生きてきたけれど、旦那がいればそうも行かないのだ。父親にはわがままが言えても、旦那にはそうも行かないのだろう。

 

 いつでも帰っておいで、などと心の中でバカ親は呟くのである。
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北朝鮮帰国事業

 鹿児島の陶芸家・沈壽官氏(十四代)が先日亡くなった。司馬遼太郎が『故郷忘じがたく候』という小説の主人公のモデルにしたように、先祖、つまり初代の沈壽官は豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に半島から連れてこられた陶工だった。亡くなった沈壽官氏は司馬遼太郎と親しく交流していたことは、『街道を行く』などの紀行エッセーなどでもよく分かる。鹿児島にはこうした半島時代の名前をそのまま代々継いでいる人たちがいるという。出自に誇りを持っているということであろう。在日の人たちは差別に苦しんできた。その差別こそが日本に溶け込むことを拒否させ、彼等に矜持を与えているという面もあるだろう。ハンディはときに人を強くする。

 

 録画していたBS1スペシャルの『北朝鮮への“帰国事業”知られざる外交戦・60年後の告白』というドキュメントを観た。一昨日再放送もされていたようだ。こういう番組を観ておくことは北朝鮮について考えるためには必要かと思うが、韓国の人はこういう番組を観る機会はないのだろうなあ、と思って同情に堪えない。まあ韓国のマスメディアがこんな番組を作ることもないだろうが。

 

 幻想的な北朝鮮を夢みたことにおいて、「帰国事業」が推進されていたときの北朝鮮を「地上の楽園」と美化した日本のマスコミや朝鮮総連の人々の思いと、いまの文在寅とその側近たちとの思いは酷似しているのではないだろうか。

 

 大阪鶴橋に住むヤン・ヨンヒという在日の二世の女性がいる。映画監督であり、自らの家族を主題にしていくつかの映画を作っていて、それを以前観る機会があった。『ディア・ピョンヤン』、『愛しきソナ』、『かぞくのくに』の三部作で、彼女の家族がどういう運命をたどったのかがリアルに分かる。彼女の両親は総連に尽くした。ヤン・ヨンヒの兄三人は総連の命令ですべて北朝鮮に渡った。日本に残ったのは両親と彼女だけである。その兄たち、その家族がどういう暮らしをしているか、いま彼女には知るすべがほとんどない。映画を公開したことで彼女は北朝鮮から入国を拒否されることになったからだ。

 

 総連に、そして北朝鮮の息子たちに財産の殆どを送り続けた末に、彼女の父親は死んだ。そして母親は認知症となり、彼女が面倒をみている。そのヤン・ヨンヒが母親の前で、自分たちがなにをしてきたのか、そのことを少しでも自覚してくれたら、とつぶやく。もちろん彼女の両親は後悔していたにちがいないが、それを口にしなかった。ヤン・ヨンヒは心から両親を愛しながら、しかし兄たちの運命を思って両親を心からは許せないのだ。そういう悲劇が無数にあったはずである。

 

 私の小学校の同級生は両親と妹とが北朝鮮に帰国し、彼と祖父だけは日本に残った。その後の彼の荒れ方はすさまじかった。詳しくは知らないが病死したらしいと風の便りで聞いている。

 

このことについてはもっとたくさん考えたことがあるが書ききれない。
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2019年7月 1日 (月)

映画『白鯨 前編 冒険者たち 後編 因縁の対決』

監督マイク・パーカー、出演ウィリアム・ハート、イーサン・ホークほか。2011年、ドイツ、オーストリア映画。

 

 高校生の頃、この映画の原作であるメルヴィルの『白鯨』を図書館で借りて読もうとしたのだが、はじめの数十ページで挫折した。購入して読んだのなら読めたかも知れない。映画化したものでは大好きなグレゴリー・ペックがエイハブ船長に扮したものをビデオで借りて観たけれど、最初の三十分で寝てしまった。山場が後半にあるので、前半は興味を持ち続けるのが難しいのである。

 

 今回見たこの映画は前編と後編に分かれていて、合わせて三時間を超える大作である。私は初めて『白鯨』の全部を知ることが出来た。そしてこの作品が傑作であることを知った。エイハブ船長に扮するのはウィリアム・ハート、「モービー・ディック」と呼ばれる白鯨に片足にされただけでなく魅入られてしまった狂気の男である。

 

 捕鯨船に乗っている個性あふれる男たち。物語の語り手は初めて捕鯨船に乗る若き青年イシュメール、そして宿で相部屋となり彼と親友になっていく全身に刺青のある異人種の銛打ちクイークェグ、一等航海士で船長の片腕スターバック(イーサン・ホーク)。

 

 彼等が捕鯨船で「モービー・ディック」を追い続けるなかで起こるさまざまな出来事、男たちの葛藤がドラマを盛り上げていく。エイハブの狂気がみなに乗り移っていくなかで、一人船長を諫めようとするスターバック、船長に心酔しながらも船内で起きる出来事を冷静に観察している若きイシュメールはたぶんメルヴィル本人であろう。

 

 悲劇の予兆がいくつも起きていく。諍いも生ずる。そしてラストの白鯨との壮絶な戦い。その果てはどうなったのか。イシュメールがクイークェグのために作られた棺桶につかまって海原を漂いながら、海中に見たエイハブ船長の姿は、宗教的な神々しさと無惨を感じさせる。

 

 いまならメルヴィルの『白鯨』を読めるような気がする。船出前には女性が登場するが、その後は一切女性は画面に現れない。まさに男だけが登場する映画であり、物語である。こういう映画を観ると反捕鯨運動などというのが如何に茶番かとおもう。だからアメリカの物語なのにドイツとオーストリアの映画としてしか作れなかったのか。

 

 エイハブ船長の数々の言葉には宗教的暗示が込められていて、味わいがある。特に印象に残ったのが「逃れられない運命から逃れようともがくこと、そこにわれわれの自由がある」。いい言葉ではないか。スターバックを演じたイーサン・ホークが素晴らしい。
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恩人

 トランプ大統領がG20の後の韓国訪問に合わせて、突然南北朝鮮の軍事境界線で北朝鮮の金正恩と会うことになった。これがほんとうにトランプ大統領の突然の思いつきからの面談なのか、実は水面下で準備されていたことなのか、今のところ分からない。少し前に、互いに「興味ある申し入れだ」と賛美する親書を交換したことが報じられていたから、そこにそれらしいことが書かれていたのかも知れない。

 

 互いに相手に譲るつもりなどなさそうに見える二人だが、万一こんな会談で思いつきの合意や妥協があってはおそろしい。どんな合意や妥協がされるか知れたものではないからだ。相手に会うことが互いの国の一触即発の状況回避に役立つというのなら、いささかなりと意味があるのかも知れないが、そもそも北朝鮮が本気で事をかまえる気などあり得ない。戦を仕掛けるための軍備も燃料も金もありそうに見えない。

 

 トランプはそれを見越しているから、自分の選挙に向けて上から目線でパフォーマンスに利用しているとみる評論家も多い。それが実態だろう。それにそれにつきあうことで金正恩も国内的に点数稼ぎが出来るから、失うものがない。

 

 それよりも笑顔でトランプのそばで嬉しそうにしている文在寅韓国大統領の姿が私にはとても印象的だった。あの場に立ち会うことで韓国国内での彼の支持率は急回復するにちがいない。彼がなにかしたというわけではないが、あたかもなにかしたように見えるではないか。

 

 これで低落気味の韓国経済がどうであろうと、日韓関係が危機的状況であろうと、文在寅政権はしばらく盤石であろう。韓国に対して、特に文在寅政権に面白くない思いを抱いている日本の多くの人にとっては意外なことで、ある意味で残念な気もしたかも知れない。

 

 しかし私はもっと意地が悪い。文在寅政権がこのまま延命して盛り返したとしても、この政権が韓国にとっての災厄であることはちっともかわらないのである。それなら、これではまずいというマスコミや専門家の警鐘はますます抑え込まれ、危機的状況は放置されたままになる。国としての災厄は突然やってくるが、それが先送りになるほど大きな災厄になる。その災厄が今回のトランプのパフォーマンスで先送りされたと私は見るのである。

 

 自分たちがどんな方向に連れて行かれつつあるのか、韓国の国民がそれを経験して身に沁みるためには災厄はある程度大きな方が良いのかも知れない。そのためには文在寅の、戸惑いながらもあまりの幸運に笑うしかない誇らしげな笑顔を見て、私も笑うのである。文在寅は日本を無視することで、日本をこのドタバタ劇に巻き込んでくれないようにしてくれている恩人かも知れない。
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