« 解るということ | トップページ | 暑さに慣れる? »

2019年8月 5日 (月)

芸術

 子どもの時から本が好きだったが、手持ちの本は少ないし、そうそう買ってももらえなかったから図書館に入り浸るようになった。小学校の図書館はおもしろそうなものは殆ど読み尽くしてしまい、歩いて十分足らずの市の図書館に行くようになった。吉川英治などを読んだし、中国の話などの少しわかりやすく抄訳した本を探しだして読んだ。図書館のどこにどんな本が並んでいるのか、どういう分類法で配架されているかひとりでに覚えた。

 

 中学校の図書館は小学校よりだいぶマシだったが、これもおもしろそうなものはすぐに読み尽くし、そこで見るようになったのが美術全集だ。まさに思春期の少年にとって魅惑的な裸体画が満載のその全集に魅了された。繰り返し見ているうちに次第に画家の名前を覚え、有名な絵を覚え、絵画の時代による変遷を覚え、覚えるごとに興味も増していった。裸体画が取り立てて興味の中心ではなくなった。

 

 1970年の大阪万博には、開業直後の三月二十日から弟と行って延べ三日ほど入場したが、そのうちほとんど半日以上は万博美術館にいた。弟は飽きてしまったので、別の展示館を歩いていた。私は大学一年から二年になるところ、弟は高校生になるところで、春休みに合わせてやって来たのだ。金は毎年もらうお年玉を貯めておいたものでまかなった。

 

 美術全集でしか見たことのない、実物の絵や彫刻を見た感動は忘れられない。そしてそのときに見た現代美術に特に感銘を受けた。そのあと、なけなしの金で『現代の美術』という全十二巻の全集を一冊ずつ揃えた。いまでも私の宝物で、眠れない夜などに開いて眺める。

 

 そのなかにデュシャンの『泉』という作品の写真が収録されている。マルセル・デュシャンはフランスの芸術家で、この『泉』という作品は渡米して発表したもので、実物はふつうの男性便器である。レディ・メイドのオブジェを作品として発表するという行為に美術界は震撼した。

 

 デュシャンは既存の芸術というものの枠を破壊したかったのだという。実際それ以後、あたりまえに使用される日常品をさまざまなかたちで作品とする作家が続出した。もちろん二番煎じにならないためのそれぞれの作家の主張が込められた作品だけが評価され、残されている。

 

 芸術や芸能は人間の情念の沸き立つばかりのエネルギーの発露であり表現である。しかしそれは過去さまざまな制約のなかにあった。その制約という壁を突き崩さなければ芸術は立ちゆかなくなるとデュシャンは考え、それに多くの芸術家が賛同したのだ。それ以後現代芸術は(美術界ばかりでなく)なじみのない人には混沌の世界に見えているかも知れない。

 

 そういう意味で津田大介氏が慰安婦像を『愛知トリエンナーレ2019』で展示したことは、芸術なのかどうか。彼にあふれる情念のエネルギーがあって、慰安婦像を展示することでそれを表現しようとしたのかどうか。私にはそうは思えない。ただの話題を呼ぶための売名行為だったとしか思えないのだが、私は芸術がわかっていないのだろうか。そんなものまでわからなければならないなら、いっそわからなくてもかまわない。

 

 いま美術品の一部は金の余った金持ちたちの投機の対象になってオークションを行うと想定価格の十倍百倍の値がつくことがあるという。その真価が評価されているのではなくて、希少性や知名度で評価され、作家のこめた情念などそっちのけである。たぶん『泉』の男性便器も実在すれば法外な値段で売り買いされることだろう。なにをか言わんやである。
ポチッとよろしく!

« 解るということ | トップページ | 暑さに慣れる? »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 解るということ | トップページ | 暑さに慣れる? »

2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

カテゴリー

  • アニメ・コミック
  • ウェブログ・ココログ関連
  • グルメ・クッキング
  • スポーツ
  • ニュース
  • パソコン・インターネット
  • 心と体
  • 携帯・デジカメ
  • 文化・芸術
  • 旅行・地域
  • 日記・コラム・つぶやき
  • 映画・テレビ
  • 書籍・雑誌
  • 経済・政治・国際
  • 芸能・アイドル
  • 趣味
  • 音楽
無料ブログはココログ

ウェブページ