永井荷風の『深川の唄』という短編小説を読んだ。アメリカ、フランスに滞在して、帰国後まもない頃に書かれたものだ。日本に住んでいるものには当たり前のものが、荷風には常にアメリカやフランスとの比較で目に映る。この小説では、四谷見附から市電に乗ってそこで目にした風景が移動とともに描かれ、同時に車内に乗り込み、そして降りていく人々の様子、些細な出来事が、詳細に語られていく。ニューヨークの高架鉄道、パリの乗合馬車などの、動くものに乗って街を眺めるということが、自分には快感であり、習慣になったのだと、冒頭で語られる。
「然し日本の空気の是非なさは、遠近を区別すべき些少の濃淡をもつけないので、掘割の眺望(ながめ)はさながら旧式の芝居の平たい書割としか思われない。」
「数年前まで、自分が日本を去るまで、水の深川は久しい間、あらゆる自分の趣味、恍惚、悲しみ、悦びの感激を満足させてくれた處(ところ)であった。」
と、ことさらに日本、ということばが強調され、同時に
「電車はまだ布設されていなかったが既にその頃から、東京市街の美観は散々に破壊されていた中で、河を越した彼の場末の一劃ばかりがわづかに淋しく哀しい裏町の眺望(ながめ)の中(うち)に、衰残と零落との言い尽くし得ぬ純粋一致調和の美を味あわして呉れたのである。」
と、江戸の風情の残った東京は失われ、わずかに深川にその名残の残渣を感じているのである。
「それらの景色をば云い知れず美しく悲しく感じて、満腔の詩情を託したその頃の自分は若いものであった。煩悶を知らなかった。江戸趣味の恍惚のみに満足して、心は実に平和であった。硯友社の芸術を立派なもの、新しいものだと思っていた。近松や西鶴が残した文章で、如何なる感情の激動をも言い尽くし得るものと安心していた。音波の動揺、色彩の濃淡、空気の軽重、そんなことは少しも自分の神経を刺激しなかった。そんな事は芸術の範囲に入るものとは少しも予想しなかった。日本は永久自分の住む處、日本語は永久自分の感情を自分の感情を自由に云い現して呉れるものだと信じて疑わなかった。」
日本は変わった、そしてそれを見る自分自身も変わった、日本が自分の居場所でありながら居場所ではないという疎外感を、どう自分と折り合いをつけるのか。
深川を歩きながら、荷風は「塵埃(ほこり)で灰色になった頭髪(かみのけ)をぼうぼうに生やした」盲人が、三味線で歌澤節を歌い出すのを聴く。その見事な唄に江戸の残滓をしみじみと懐かしく感じるとともに、
「自分はふと後ろを振り向いた。梅林の奥、公園外の低い人家の屋根を越して西の大空一帯に濃い紺色の夕雲がものすごい壁のように棚引き、沈む夕日は生き血の滴るごとくその間に燃えている。真っ赤な色は驚くほど濃いが、光は弱く濁り衰えている。自分は突然一種悲壮な感に打たれた。」
「自分はいつまでも、いつまでも、暮れゆくこの深川の夕日をあび、迷信の霊境なる本堂の石垣の下に佇んで、歌澤の端唄を聴いていたいとおもった。」
「ああ、然し、自分はついに帰らねばなるまい。それが自分の運命だ。河を隔て掘り割りを越え坂を上がって遠く行く、大久保の森のかげ、自分の書斎の机にはワグネルの画像の下にニイチェの詩ザラツストラの一巻が開かれたままに自分を待っている・・・。」
彼の「ついに帰らねばならない運命」が帰国のことでもあったのはいうまでもない。そしてその日本は既にむかしの日本ではない。
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