2025年4月19日 (土)

「終活、お任せください」

 「終活、お任せください」などというチラシがときどきポストに投げ込まれる。いわゆる遺品整理代行会社で、「お坊さんもいます」と一言添えられている。引っ越しなどの際の全国身元保証後見人にも対応するそうだ。独り暮らしのお年寄りが増えている現在、こういう仕事が成り立つのだろう。こちらが独り暮らしであることを知ってのこととは思えないから、たぶん手当たり次第にチラシを放り込んでいるのだろうが、けっこう当たりが出るのではないか。このマンションも独り暮らしのお年寄りが多いのである。

 

 私の場合は、当てにはならないが、まだ子供たちがいるから仕方なしになんとかはしてくれるであろう。その際にこういうところに頼めば、金はかかるが自分で片付ける手間はかからない。自分がいなくなったあとのことを心配しても始まらないし、今すぐこのチラシをわかるところに貼っておくというほどの必要もないが、そう遠くない時期にその用意が必要になる。

 

 人間、いつかは退場を余儀なくされる。むかしは親族、向こう三軒両隣、そして町内会が冠婚葬祭の手助けをするのが当たり前だったが、いまはそういう習慣は消滅してしまった。そういう手伝いをした機会に家族に何かあったときのしきたりを学ぶことが出来たが、いまはそういうことを学ぶ機会がない。代わりにそれを商売にする会社が登場するということか。団塊の世代がすべて後期高齢者になり、これから退場する人も増えるから商売繁盛であろう。

ぼんやりする

 一日の過半をぼんやりして過ごしているが、朝食の後、今日はなるべくなにもしないでぼんやりしようと決めた。本も読まず、映画もドラマも見ないで、何も考えずに過ごそうと思った。今このブログを書いていることはそれに反するが、寝ていることに似てまるで違うのがぼんやりするということで、ほとんど意識せずに出来るルーチンはする。それにしても今日は好い天気だ。

 

 何も考えないようにしようと考えていると、そんなことを考えてはいけないと考える。なんでぼんやりしようとするのか。一度ゼンマイのネジを緩めきってしまうと、どうしても何かがしたくなる。いまは何かをしなければ・・・という焦りだけあって、何かをしたいという気にならない状態なので、したくなるようにネジの巻き直しを待つのだ。

 

 自分ながら面倒くさいことだと思うが、そうしないとなにをやってもおもしろくない。人生はおもしろくないと生きている甲斐がない。・・・・なかなかぼんやり出来ない。どうして出来ないのだろう、しかたがない、昼寝でもするか。

Dsc_0100_20250419071401

責任

 自分の言葉で相手と交渉するときに、その言葉に責任がともなわなければそもそも交渉は成り立たない。約束してもその約束が破られるのなら約束の意味がない。約束したらそれを守る、守ってくれると思われることが相手に対する信用と云うことである。そのことばが発するたびにコロコロ変わる人間と交渉は出来ない。交渉ではなくディールだという。ディールとは腕力任せの腕相撲か。腕相撲だってそれなりのルールがあって、それがくるくる変わったらそもそも勝負が成り立たない。

 

 そういえばゴールポストをコロコロ変える国があった。しばらくおとなしかったが、また心配な国になりそうだ。今のところ仲良くしよう、などといっているが、こんなもの、大統領選挙が終わったらどうなるかわかったものではない。よほどのバカでなければいままでのことを忘れるはずがない。忘れたふりをするのはそうすると懐が温かくなると思っている守銭奴くらいだ。しかしそのうまみももうあまり期待できないだろう。そういう国が信用されるはずがないからだ。信用を失えば衰退する。既に衰退しつつあるようにも見える。

 

 日本も情け無いことにそうなりつつある。信用の何たるものか、長いあいだ親も教師も誰も教えていない。何しろ責任はすべて他人にあると教えてきたのだもの。未だに「政府が悪い」と云えば何でもまかり通ると信じている連中がテレビで正義を語っている。

 

 こういう世界は見るに忍びない。まともな人が割を食う世界というのはディストピアである。末世である。この世に神も仏もいないという世界だ。たぶんあの世にもいないだろう。

2025年4月18日 (金)

まるで違う

 泌尿器系を常に洗い流すためにも、さまざまなお茶を飲む。緑茶、紅茶、白茶、ジャスミンティ、そしてプーアール茶。そのプーアール茶は少し前に安いのを買ったらあまりうまくない。もともとプーアール茶は美味しいお茶ではないが、それにしても、という味である。しかしプーアール茶は油を流すし血糖値を下げると信じていて、たしかに効果は感じたこともあるが、この安いのはどうもその効果もあまりないようだ。

 

 そういえば中国の雲南省で買ってきた、十年ものだったか十五年ものだったかの、高いプーアール茶があったはずだが、少し飲んだだけでしまいなくしていたことを思い出した。考えられる場所を探し回ったら、ようやく見つけることが出来た。まるで味が違う。安いものは土臭さが強いが、こちらはそれがなくて、ちゃんとうまみを感じる。寝かせるほどうまくなるといわれるプーアール茶だが、板状にしたものはもう発酵しないから、そういうことはないだろう。それでもこれなら薬効もありそうな気がする。今度の血液検査でどうか、試しにせっせと飲んでみようか。

「普洱茶清香獨絶也醒酒第一 消食化疾病清胃生津功力尤大也」と箱に書いてある。おぼろげにわかる。

 

 私は緑茶を軽く発酵させた白茶が好みだが、取り寄せたものももう残りが少なくなっている。このごろ神経がキリキリすることがよくあるので、気持ちを静めるためにハーブティでも飲んでみようかと思ったりもする。ネットで調べるといろいろあって、ひとつずつ試してみようかと思う。人はむかしからいろいろなものをお茶にして飲んできたのも、やはり心を静めるためだったのだろうか。

まぜご飯

 減量するために、揚げ物などの主菜を摂らないようにして、まぜご飯を食べることが多くなっている。まぜご飯はもともと好きである。炊き込みご飯はもっと好きだけれど、まぜご飯の方が簡単である。マコママ様のブログで、筍ご飯を炊き込みではなく、煮たものをあとで混ぜてまぜご飯で食べる話があったが、私もこのごろはそうしている。

 

 マイタケご飯なども、炊き込みが本来だけれど、ご飯が炊き上がったあとでまぜご飯にして食べることも多い。アラメなども、まぜご飯として食べる。神経に角が立って、そのせいで胃腸が不調なときにはおかゆを食べることもあるが、つい作りすぎる。まぜご飯なら作りすぎても冷蔵したり冷凍しておけるのでありがたい。

 

 先日、妹にもらった「柿安」の「すき焼き丼」や「牛肉丼」なども、ただかけるのではなくて、まぜご飯ふうにして薬味(さらしネギとゆずがらしなど)を少し加えて食べた。少々贅沢な味がする。一緒に入っていた「牛めしふりかけ」も、食べ方として握り飯やまぜご飯にして食べることを勧めている。まぜご飯にして食べたらうまかった。まだ残っている。このあいだの東北の旅の土産として買ってきた秋田の「比内地鶏ごはんだれ」という瓶詰めも、まぜご飯として食べている。ネギや林檎果汁、鶏肉、もろみ味噌、その他いろいろ入っていて、あまり鶏肉の味はしないが、甘めの味がそこそこいける。まぜご飯としてよく食べるのが、「鮭ほぐし」という瓶詰めで、しっとりした焼き鮭の身がとても美味しいので好みである。これは娘のお気に入りで、それを真似して食べ始めた。

 

 こういうまぜご飯に使えるものは、ちょっと小分けして酒をちびちび飲むときのお供にも使える。ただ、瓶詰めはなかなか使い切るのにたいへんで、封を切ればいたむのも早い。これからは半分以下になったら小袋に入れて冷凍しておくことにしよう。

 マンションにはたくさんの桜の木があって、毎年目を楽しませてくれる。その桜も桜吹雪とともにすっかり葉桜になった。ソメイヨシノはクローンだから結果しないが、それでも実になろうとした小さな花軸が風に吹き落とされてたくさん散っている。思えばそれも哀れなことだ。

 

 少し前までは、桜を追ってあちこち車で出かけたものだ。子供の時、近くに江戸時代に作られたらしい周囲一キロ弱の人工池があって、護岸を固めるために桜がぐるりと植えられていた。花見の時期には人出も多い。花の下で茣蓙を敷いて宴会する人たちもたくさんいるし、露店も並ぶ。子供心にもその時期はウキウキしたものだ。その楽しさが桜と結びついて桜が好きなのだろう。

 

 東京営業所時代には有志を募ってそこで宴会をした。私の家族も合わせてそこそこの人数が集まって、とても楽しい観桜会になった。酒を用意し、料理を作る母や妹は大変だっただろうが、それでも母は人が集まるのが好きなので、それなりに楽しんでいたと思う。父は普段無口だが、私の先輩たちとは楽しそうに喋っていた。私との会話よりずっと楽しそうだった。本当は私ともそういうふうに話したかったのかもしれない。

 

 桜で思い出すことは山のようにあるが、その桜を今年はそれほど見ていない。車で通りすがりに見たり、散歩で見る程度で、わざわざ見に行かなかったのは、初めてだったかもしれない。散ってから、そういえば毎年欠かさず見に行った名古屋城の桜も見ていないなあ、と思った。

120408-50

2025年4月17日 (木)

隙間に落ちる

 ズボンの左ポケットにいいかげんに入れた車のキーがポトリと座席の横の隙間に落ちて、どうやっても取れずに困ってしまった。痛い右肩も動員し、さまざまな道具を駆使して悪戦苦闘すること十五分、何とか救出に成功した。キーが車の中にあるままでは、誰でもいつでもドアを開けることができる。それはまずいのである。最悪、ディーラーに行こうかと思ったが、そこまでしないで済んで助かった。今日はそれでなくとも気温が高い、汗をかいた。

 

 早めに風呂で汗を流してゆっくりしようと思う。いまは月末の糖尿病検診に備えて自発的休酒期間に入ったところだが、慰労のため特別に濃いめのハイボール一杯を許可することにした。人間はときとして邪悪な世界にポトリと落ちてしまうことがある。車のキーなら何とか取り出せるが、悪の世界にはまり込むと抜け出すのはほとんど絶望的らしい。落ちたのが車のキーで良かった。

追うのは好きだが追われるのは嫌い

 追うのが好きで追われるのが嫌いなのは、別に私に限ったことではないだろう。自分の意志でするのは好きでも、させられるのが嫌いだということである。させるのが自分自身であってもだ。

 

 予定を立てるのが好きで、予定を立てると既に出来たような気になってしまう。段取りが狂うと気分が悪い。どんな本をどんなペースで読み進めようか考えてメモしておくが、なかなか予定どおりに行かない。ものに対する興味や集中力は予定には従ってくれないものだ。そうなると予定が自分を追いかけることになる。楽しみでしていることが、楽しみではなくてノルマ消化の仕事みたいになっていく。そうなると興ざめで、再び楽しみに引き戻すのに苦労する。

 

 堰(せ)かれてつのる恋心、などという。障害があるほど恋は燃え上がる。自由な時間があるときよりも、多忙な中の隙間時間に読む読書の方が、集中できて夢中になれたりするものだ。だから現役中よりもリタイアしたあとでは、読書量がもっと増えると思ったらあんがい同じ程度だったりしているが、そんなものなのかもしれない。

 

 暇すぎると怠惰になる。だからといって尻をたたくために予定を立てるとその予定に反発する。なかなかむずかしいものだ。

書見台

 スマホ首により、身体全体が歪んで、首は痛いし肩はこるし腕の付け根も痛くなるし、腰や股関節まで痛んできた。前屈みで本を読んだりスマホを見ているのが良くない。このごろスマホでニュースを見ることが多くなっているが、スマホはもともと目にも悪いから必要最小限しか見ないようにすることにした。せっかく買った書見台を使うことが少なかったので、なるべく使うようにした。テーブルの横に置いておいて、本を読むときはテーブルの上に置いて、そこに本を載せて読む。顔を起こし、姿勢を正して前方を向いて本を読むことになるから、多少は良いようだ。

 

 それでもこのところドラマなど、テレビを視聴する時間も増えて、目を酷使しているので眼の奥の痛みが引かない。疲れ目用の目薬が欠かせない。しばらく眼を休めて回復させる必要がありそうだ。

 

 團伊玖磨の『パイプのけむり』シリーズは第十四巻をようやく読了し、手持ちは十七巻までなので、あと三冊、さらにそれとは別に三冊ほど團伊玖磨のエッセー集があるので、あと六冊ですべて読み終える。永井荷風の『荷風随筆』という随筆全集にもとりかかりたいが、それは團伊玖磨を済ませてからにするつもりだ。永井荷風は小説の方の『荷風小説』という全集の第二巻の最後が『新帰朝者の日記』で、それをようやく読み終えて、第三巻の冒頭の短編、『すみだ川』にとりかかったところだ。『すみだ川』の次が、山崎正和が取り上げていた、課題にしている長編の『冷笑』で、腰を据えて読むつもりの作品である。

 

 先日読む予定にした作品を少しずつ読了していて、出来れば夏目漱石の『道草』、『こころ』、それに開高健や志賀直哉も読み進めたいが、焦ると読み方が雑になるので休み休みにしたいと思っている。

 

 今日は妻の入院している病院に例月の支払いと面会に行く。他に雑用で出かける必要もあって、じっくり本を読んでいられないのが残念だが、目を休めるためにはそれもいいかもしれない。

2025年4月16日 (水)

只一人の恋

 永井荷風の『歓楽』の中で「先生」が語ったことばの中から引用する。

 

 得ようとして、得た後(のち)の女ほど情無いものはない。この倦怠、絶望、嫌悪、何処から来るのであろう。花を散らす春の風は花を咲かした春の風である。果物を熟(みの)らす日の光の暖かさは、やがて果物を腐らす日の光ではないか。現実がなければ産まれない理想は決して現実と並行しない。何たる謎、矛盾であろう。昨日まで男の絶賞した女の特徴は、尽(ことごと)く変じて浅間しい短所になってしまう。初めて逢った時、彼の女(かのじょ)の如何にも打ち解けて、人に怯(お)じない物言いは、快活ならずして不謹慎となり、斜に座り、首を傾(かし)げ、肩をゆする其の態度は、男の心を魅する女らしい、柔い、美しさではなくて、猥らな厭らしいものの限りであった。休みない心の苛立ちと恋の悶えは条理のない女性の嫉妬からとしか思えなくなった。私は途方に暮れて、唯だぼんやり其の様子を打眺めるばかり、女が此後(このご)の身の振り方を問い迫っても、私はなんとも即座に回答を与えることが出来ない。すると女は直ぐ泣きはじめた。

 

 こういう恋が恋であろうか。そうでないのなら、荷風の恋は恋ではないことになる。だから、荷風が本当に女性に恋したのは、只一人、アメリカに残したロザリンのみであったと云われるのだ。しかし只一人こそ本当の恋といえないことはない。只一人の恋すらない人生もあるのだ。

大根の花

 今日は資源ゴミを出す日。爽やかな青空の好天だ。ベランダの大根の花は咲き続け、パクチーも花が次々に咲いている。

Dsc_3462

大根の鉢、二つある。

Dsc_3460

大根の実。

Dsc_3459

大根の花。花びらがとれて、めしべの部分だけが残り次第に膨らんでくる。

Dsc_3458

だんだん枯れて、殻の固いサヤになる。中の種を蒔けばカイワレになり、そのまま育てれば大根になる。

Dsc_3457

パクチーの花。小さい。これも種が取れる。種はスパイスのコリアンダーとなる。

Dsc_3461

下の方の、これがもともとの食べるパクチーの葉。花をつける薹の立ったものは、葉の形がまるで違う。

明日から気温が高くなるらしい。

ニュースが遠くなる

 ニュースに報じられていることが以前よりも実感が伴わなくなり、遠くに感じられるようになった。トランプ関税の話など、一時はどうなるのかと丁寧に見ていたが、これだけコロコロと云うことが変わると、真剣に後を追うのがバカらしくなった。開幕された大阪万博も、開幕前はあれほど無視に近い扱いに見えたのに、開幕したとたんの大騒ぎにうんざりしている。名古屋からだから日帰りも可能だろうから、行けば行けないことはないが、気持ちが盛り上がらない。

 

 もともと傍観者として世の中を眺めているから、出来事はみな他人事(ひとごと)ではあるが、それがますます遠くなっている気がする。短いスパンでものを考えられない。進行中に一喜一憂してもなにがどうなるかわかったものではない。一ヶ月後、三ヶ月後、さらにその先になって振り返れば結果は明らかだろう、などと眺めているうちに、あれよあれよと事態は悪い方へと転がり落ちていくようだ。もちろん私など結果だけを身に受けるだけで、なにに対しても関与することがないから、どうであるべきかなどと考えてもしかたがない。ただ、どうしてそうなったのかということを、おぼろげにでもいいから把握しておきたいという気持ちは持っている。

 

 世の中が遠くなるとともに現実が希薄になり、時間がどんどん早く進んでいくようだ。迷惑メールがますます増えてきた。デジタル世界の非現実性が現実を侵食しつつある気がする。

2025年4月15日 (火)

『歓楽』

 永井荷風の短編小説『歓楽』を読んだ。「先生」とよぶ人物に、恋愛について問うた「私」が聞かされた、先生の語る恋愛についての考え方、恋愛遍歴(それは性的遍歴そのものでもあるのだが)が記されている。明治四十二年の作品で、荷風がフランスから帰って一年ほどの頃に書かれたものだろう。雑誌に発表してすぐにその雑誌は発禁となるが、この小説が発禁の理由ではなかった。ただ、その後風紀を紊乱する恐れがあるとして、この小説そのものも多くの伏せ字を強いられることになったという。

 

 当時は狭斜(きょうしゃ)の世界を描く小説が流行(はやり)であった。狭斜とは花柳界のことである。この小説もその気配を漂わせながら、自然主義的(荷風はフランス仕込みだから本物だ)でかつ私小説的なものになっている。いままでに海外を意識して日本を見ている作品が続いたが、ここでは海外との対比は語られない。十代の片思いの時代、二十代のはじめの花柳界の女性との命がけの恋愛、そこから海外(中国)に逃げ出し、ほとぼりが冷めてから帰国して出会った金持ちの妾との恋愛、そしてついには夫婦同然の暮らし、その後の顛末が語られて、「先生」の恋愛観が示される。これを読んで、女性の肌のぬくもり、匂い、触感、衣擦れの音など、荷風のその描写力はさすがである。この小説は意図的であろうが、センテンスが長い。花柳小説や、硯友社的な美文調とはいえないが、意識しているように思う。

 

 荷風は「先生」よりは若かったはずで、まだそのような暮らしをしていなかったはずだが、そのあとここで書かれたような「先生」の跡をたどっていった。自らの恋愛観、女性観を既に見切っていたのだろうか。

 

 このあと『新帰朝者日記』を読む予定。帰朝者としての自分についての締めくくりの小説であろう。これで全集の第二巻までを読了することになる。

『シビル・ウォー アメリカ最後の日』

 『シビル・ウォー アメリカ最後の日』は2024年のアメリカ映画。アメリカの分断が進んでついに内戦に発展する。アメリカ大統領の暴走が内戦を生むのだが、特に映画では大統領のプロパガンダ演説が繰り返し描かれるだけで、それを示すところはないものの、もちろんこれがトランプのことを下敷きにしているのはまちがいないだろう。

 

 戦局が劣勢下にあるその大統領にインタビューをするために、記者たちがワシントンD.C.のホワイトハウスをめざす。映画は内戦下のアメリカの悲惨な状況を全体的ではなく、まさに目の前に見えた事実のみを描いていく。そのリアルさは、戦争映画を見慣れた私にも衝撃的である。カンボジアの内戦下の大虐殺を描いた『キリング・フィールド』以来の衝撃であった。

 

 新人カメラマン、そしてベテランカメラマンの、ふたりの女性カメラマンを主軸に据えながら、彼女たちが撮った写真をストップモーションに使い、現実と映像との違い、そしてうったえるものの伝わり方の違いが示される。報道とは何か、それはリアルを越えられるのか。

 

 はじめはうろたえ、自分勝手なために足手まといだった新人が、次第に試練を乗り越えて成長していく。それを見ているベテランは自分の若き日の日々を回想するのだが、そのベテランの方が、自分の過去の体験を越える過酷な現実に打ちのめされ、すくみ始め、新人はますます生き生きしていく。そうしてついに反乱軍側とともにホワイトハウスに突入した彼らは大統領に出会うことになる。そこでなにが起こったのか。

 

 人間の理性がいかに簡単に失われるのか、そもそも理性の下にはそれをはるかに凌駕する量の暴力衝動が潜んでいる。これは人類の本質でもあり、もともとそういう傾向がどこの国より強いのがアメリカという国の本質なのではないか、などと考えてしまった。これがフィクションで終わるという保証はない。

老化の目安

 老化の目安と云っても、自分が老化しているのはたしかな事実ので、その目安というのは、これがおろそかになったら自分としてはまずいと思う境目になる目安ということである。

 

 料理というほどのものを作っているわけではないが、今のところ、ほぼ自炊を続けている。時には料理の本を見て、ちょっと料理らしい料理も作る。食べることが好きなので、料理は嫌いではない。食べることが好きなのはいちおう健康であると云うことであろう。ただ好きすぎて、つい食べ過ぎたり高カロリーのものを食べたりするのが却って自分の健康を損なうのが哀しいところだ。その料理を作るのがおっくうになり、出来合いのものばかりを食べるようになり、しかも食べたものの片付けがおろそかになるようになったら、それが老化の目安ということになる。

 

 ベッドではなく、布団で寝ているが、その布団をたたむように心がけている。ときどきおっくうでたたまないときがある。これが万年床になったら、老化の目安に抵触する。

 

 出かけるのが好きである。運転するのも好きである。人に会うのも嫌いではない。もともとの性格は独り静かに本を読んでじっとしているのが好きなのだが、意識して出かけるように心がけているうちに外界への興味が勝るようになった。それがときどきテンションが落ちると出かけたくなくなる。そして、そういうときこそ何も考えずにどこかへ出かけるようにしている。出かけるときはテンションが高いのではなく、低いときなのである。そして動き出せば、いまのところさいわいエンジンがかかる。それがどうしても尻が重いまま動かなくなったら、老化の目安を超えたということだろう。

 

 こまごましたことは他にもあるが、あとはブログを書けなくなったときが老化が限度を超えたときだと考えている。老化防止に駄文を連ねているが、それでも私なりに日頃ものを考えていて、その浮かんでは消える考えを書き留めることで、その考えの一部を形にしたものが私のブログである。そのブログが書けなくなったら、それは私がものを考えなくなったということである。頭が作動しないのだから、これこそ老化の極地で、由々しきことである。ブログを書くのはそれなりに時間もエネルギーも消費するが、私にとって大事なことなのである。

2025年4月14日 (月)

『ゴールドサンセット』

 WOWOWのドラマ『ゴールドサンセット』全六話を見た。これで少し前に録りためて見残していたドラマはすべて見終わった。後はリアルタイムで進行中のものばかりである。すっきりした。このドラマは白尾悠の同名の小説を原作としていて、配役も良いから、なかなか見応えのあるドラマとなっていた。内野聖陽、小林聡美、風吹ジュン、和久井映見、坂井真紀、津嘉山正種、三浦透子、安藤珠恵をはじめ、たくさんの演技派が演じている。

 

 冒頭は高校一年生の少女が、いじめを受けていた友人が自殺したことで、それを教師に告げたために自分が今度はいじめの対象にされ、登校できずに自宅に籠もっている。両親が離婚して、母がパートで働いて不在であることが多く、自宅も替わったために、転校生である。だから友人は自殺したその子だけだった。というよりも友達と思っていた子たちこそがいじめの背後にいたのだ。

 

 そんなときに、安アパートの隣の部屋から聞こえてくる、男の異様な大声に聞き耳を立てたことから、その男に興味を持ち、関わっていくところから始まる。この少女役の毎田暖乃がとてもいい。調べたら朝ドラの『おちょやん』の子役だったらしい。そしてこの男(内野聖陽)が劇団の俳優で、リヤ王役を演じることになっていることを知る。その劇団を主宰する演出家を小林聡美が演じている。その劇団は五十五歳以上の人限定の劇団で、アマチュアではあるがそれなりに厳しいオーディションを受けて選ばれている。

 

 物語はここから演劇の稽古の様子、その進展、それぞれに関わる人々のサイドストーリーへ展開していく。それぞれの人にそれぞれの人生があり、その体験が吐き出されることで演技が研かれていく、という演出家の考えなので、それがむき出しになるときには自然にドラマとなっていくのだ。そして少女の隣室の男・阿久津こそ最も大きな葛藤を抱えている人物だった。

 

 最後の第六話で、その阿久津の秘密が明らかにされていくドラマと、開幕された演劇の様子が交互に描き出され、感動のクライマックスへ至る。好いドラマであった。

 

 好きな俳優ばかり出ていたが、個人的には、むかしから小林聡美、坂井真紀が特に好きである。

最近もらって重宝しているもの

 最近もらったもので重宝しているものが、姪にもらった「しじみ汁」と、娘にもらった「ゆずがらし」である。「しじみ汁」は濃縮タイプで、そのままおすましに使えるし、味噌汁やうどんの隠し味に加えてもうまみが増してたいへん美味しくなる。今朝の味噌汁で使い切ったので、ネット注文をした。明日配送される予定だ。ついでに娘にもあげようと思って、娘の分も手配してある。先週娘に電話したときには、風邪をひき、それをこじらせてしまったと云っていたが、直ったら来てくれることになっている。

 

 もう一つ気に入っているのが、娘が四国で買ってきた「ゆずがらし」だ。室戸産で、小さな瓶のラベルには「土佐のゆずがらし」とある。味噌汁の具によるが、加えると柚の香りがいいし、けっこう辛い。うどんや蕎麦にも良く合う。餃子のタレにラー油の代わりとして入れてみたらこれはこれでいけた。こちらはまだ少し残っているが、なくなったら注文するつもりだ。薬味はどれも大好きで、出来合いのものでも自分のお粗末な料理でも、それなりに美味しくなるのがありがたい。

できれば

 山崎正和の評論『不機嫌の時代』の第二章に挙げられた作品の数々は以下の通り。読んだことのあるものはできれば読み直しして、できればすべて読みたいところだが、他に手が回らなくなるので、限度がある。先へ進めなくなってしまう。

 

森鷗外『渋江抽斎』    読みかけ
森鷗外『半日』      読了
夏目漱石『道草』     読み始めた
夏目漱石『吾輩は猫である』 再読予定
夏目漱石『こころ』     再読予定
永井荷風『冷笑』 これから読む予定
里見惇『君と私と』     未読だが読む予定なし
島村抱月『序に変へて人生観上の自然主義を論ず』 読む予定なし
志賀直哉『或る朝』     再読済み
志賀直哉『網走まで』    再読済み
志賀直哉『大津順吉』   再読済み
志賀直哉『剃刀』     再読済み
志賀直哉『范の犯罪』 再読済み
志賀直哉『クローディアスの日記』 再読済み

 

 志賀直哉の作品は短編ばかりだし、古本屋で超格安で手に入れた全集を揃えているので、ほとんどの作品は既に一度は読んでいる。好きな作家なので再読するのは苦にならないし、読むほどに深く読めるようになって楽しい。

 

いまはこの山崎正和の評論をベースに本を読みながら、それと並行して永井荷風の全集を時代順に読み進めている。随筆の全集も、これも古本屋で格安に入手できたので、こちらにも手を付けようと思っている。これから山崎正和の別の評論では開高健が論じられているので、そちらも手をつけていて、いささか手が広がりすぎてオーバーヒート気味である。オーバーヒートするとそのせいで一気にテンションが低下する恐れがある。そうなったら連休明けにでもまた旅に出るつもりだ。

2025年4月13日 (日)

『半日』

 山崎正和の文芸評論『不機嫌の時代』を少しずつ読み進めている。何しろそこに挙げられたたくさんの小説をできるだけ併読しようとしているから、ブルドーザーで本を読むような読み方になる。いま第二章をようやく読み終えたところだが、第二章の前半『「私」と「公」の乖離』では、森鷗外の『渋江抽斎』を比較の基準に置き、夏目漱石の『道草』と森鷗外の『半日』が論じられているのだからたいへんだ。『渋江抽斎』は以前読み始めて三分の一ほどで挫折したままである。引っぱりだして脇に置いているが、イメージは少しながら捉えているのでいちおう読んだことにして、鷗外の『半日』という短編を読んだ。さらに漱石の『道草』に取りかかっているが、こちらは長編小説である。こちらはほぼ漱石についての実話に近いものと言われていて、このあと取りかかったその発展形の長編、『明暗』につながるものとされている。ただし、『明暗』は執筆途中で漱石が亡くなったために未完であり、『道草』は漱石の最後の長編小説ともいえる。こちらは読了したらまたここで報告する。

 

 『半日』という短編小説は初めて読んだが、ここでの夫婦のやりとりはきわめて現代的である。戦前の家庭の妻というのは、封建的な社会で不遇に生きたかのように云われているが、じつはそんなことはないのだ、ということを教えてくれる。現代と同じか、それ以上に自由気まま、自己中心的に生きていたこと、それに夫が振り回され、論理で言い負かしてもそれが何の意味もなかったことが、意外にも森鷗外によって小説にされているのである。

 

 「私」と「公」との乖離、という視点から見れば、『渋江抽斎』で描かれるきちんとした家を構えている家の主婦は、「公」に開かれていた。しかし明治の後半になると、閉じた家庭の中で主婦は「公」との関わりを見失っている。そして主(あるじ)である男性は自分が生まれ育ったときの価値観を元に生きて、社会と関わっているから、妻とのやりとりがちぐはぐなものになり、論理的でありながら、ついにその論理が通用しない苛立ちに不機嫌になり、感情を爆発させるか、黙ってそれに耐えるしかなかった。その極端な様子が描かれているのがこの森鷗外の『半日』という小説である。短いものだし、わかりにくいところは飛ばして読んでもかまわない。とてもおもしろいから、是非探して読んでみることをお勧めする。ネットで全文が公開されていたようなのでそれで読めるかもしれない。

 

 蛇足だが、現代の女性は再び「公」に開かれた生き方を迫られている、と捉えることもできる。そしてそれを受け入れられないまま生きる女性のいかに多いことか、という思いもある。フェミニズムがときにとても時代錯誤であるのは、そのような背景に対する理解がないからなのだろう。

 

 山崎正和がこの『不機嫌の時代』の第二章で、そこだけで、挙げた作品については次回に列記する。

出発点に戻る

 この二ヶ月あまり、不摂生によって数キロ体重がリバウンドしてしまった。旅から帰り、多少節制を続けていたら、ようやく元に戻った。下がったのではなく、出発点に戻ったのだ。冬は出かけることも少なく、こたつの主(ぬし)になって読書や映画、ドラマの鑑賞をして、しかも口寂しいからお茶を飲みながら常に何かを口にしていた。私は豆類が好きだから、安い大袋のナッツ類をこれだけにしておこう、と思いながらつんまりさんまり食べ続け、気がつくと腹が膨れているという状態を続けていたのだから、当然たちまち太ってしまったのだ。

 

 陽気がいいので、少しずつ散歩に出るようにもなった。足が衰えているのを実感しているので、無理のない範囲で小刻みに歩くようにしている。一日に合計で五千歩程度がいまの私には適度なようだ。それをもう少し増やせるようにしたいと思っている。なんだかこのごろ背筋が伸びていない。こうして腰の曲がったおじいさんになっていくのだろうか。杖でもつこうか。

 

 大根の花が咲き続け、実が少しずつできはじめた。あと一月ほどでこの大根たち(三本ある)も寿命であろう。実を取ってサヤから種を取り出すのが楽しみだ。パクチーはどんどん薹(とう)がたち、小さな小さな花がポツポツと咲いている。こちらもいまに種が取れるだろう。細ネギの根を植えたら十本ほどがどんどん伸び出した。蕎麦やうどんの薬味にするには十分である。今年は朝顔を蒔こうかどうか迷っている。また五月以降にはフラフラと遠出するだろうから、晴れの日が続くとかわいそうなことになる。

 

 世の中はジェットコースターのように乱高下しているようだ。私の周りはなにも変わらない。世間の風波がなかなか届かない。ありがたいような申し訳ないような気持ちである。マンションの自治会の役は、誰かが引き受けてくれたようで、こちらにお鉢は回ってこなかった。来年もまたもめるだろう。

ドラマ三昧で忙しい

 今朝は雨。それも風をともなう雨で、薹の立ったベランダの大根やパクチーが風にあおられて大きく揺らいでいて、せっかくの花が吹き散らされている。今年は強めの風が吹く日が多いような気がする。

 現在、ドラマに婬しつつある。NHKでもWOWOWでも、おもしろそうなものがたくさんあって、こういうものは見ない、と決めていても録画するものが増えてしまい、見るよりためる方が多い状態だ。こういうものは見ない、の基準は、単純な恋愛もの、タイムシフトもの、入れ替わりもの、コメディ、やたらに長いもの、嫌いなタレントが出るもの、そして韓国ドラマ。もちろん例外はあって、基準を超えるおもしろそうなものは見る。

 

 NHKでは、『しあわせは食べて寝て待て』は第二話まで見たが、たいへんおもしろい。評判にもなっているようだ。これからも楽しみである。『アストリッドとラファエル』の第五シーズンも始まった。期待通りの出だしである。次が待ちきれない。今年の大河は見ていないが、そこで評価が高いらしい小芝風花が主演の『あきない正傳』の第二シーズンが始まった。このドラマの第一シーズンはとてもおもしろかったので期待していたが、期待通りである。小芝風花の和服姿は美しい。『地震の後で』というドラマが始まっているが、録画だけしてまだ見ていない。たぶんおもしろいと思う。『私ってサバサバしてるので』という15分の連続ドラマは、第一話だけ見たが、私の好みと少し違うので、録画予約を取り消した。おもしろいと思う人も多いと思うが、無理してみる必要もない。『御宿かわせみ』も再放送が始まった。これはある程度回数をまとめてじっくり見直したいと思っている。このドラマの山口崇がもう一度見られるのが嬉しい。もちろんおるい役の真野響子も見たい。平岩弓枝の原作はすべて揃えている。大好きな物語だし、このドラマの配役が私の登場人物のイメージである。

 

 WOWOWでは、『ジャッカルの日』が佳境に入ってきた。エディ・レッドメインは名優だと思う。おもしろい。暗殺者ならもっとスマートで完璧であって欲しいと思うけれど、危機があってこそのドラマだから、これでいいのだ。『アーサー教授の事件簿』という、心理学で謎を解くミステリードラマも始まった。表面に見えていることで隠されている真実を暴くという、ミステリーの王道を行く探偵もので、ちょっとテンポが速過ぎる展開が、雑な展開にならなければ良いのだがとりあえず見続けることにする。『災』という、香川照之が主人公のサスペンススリラーらしきドラマが始まった。まだ見ていない。内野聖陽が主演の『ゴールドサンセット』という全六話のドラマを録画してあるが、これは一気見したいので、その時間がとれたら見るつもりだ。来週、『凍てつく楽園』という北欧サスペンスの第二十話から二十二話が放映される。北欧のリゾート地の島で起きる事件はおもしろいので、最初から見続けている。今回も楽しみだ。アメリカのものより私にはヨーロッパ製のミステリードラマの方が当たりが多い。

2025年4月12日 (土)

『エンド・オブ・パリ』

 録画してあったWOWOWの『エンド・オブ・パリ』という全八話のドラマを昨晩から見始めて、今日すべて見終わった。パリが舞台のエスピオナージドラマだが、主人公の大統領護衛官、そしてイギリスMI6の女性エージェントがコンビを組んで、恐ろしく強力なテロリストと対峙する。敵はアフガニスタンでの元フランスの外人部隊に所属していた部隊長で、フランス政府の裏切りにより兵士のほとんどは戦死、自らはタリバンの捕虜となって拷問の長い日々を生き抜いた男である。そして奇跡的な生還を果たすが、フランス政府は彼に秘密を暴露されたくないために抹殺しようとするが、犠牲になったのは彼の妻と子供たちだった。

 

 主人公たちになんとなく感情移入しにくいところがある(とくに女性エージェントのクールさと私生活との矛盾が理解しにくい)のだが、最初のパリの英国大使館をテロリストが襲撃するシーンから、物語のスケールの大きさとテンポの良さに引き込まれて、たいへんおもしろく見終えることができた。もちろん最後には敵のテロリストを倒すのだが、そのテロリストを脇で補助する女性は逃げ、その背後に存在する者もときどき登場していたので、たぶん続編が作られるのではないだろうか。放送されたら必ず見るつもりだ。

 WOWOWの宣伝をするつもりはないが、海外のおもしろいドラマが見られるので、ありがたい。たぶん海外では番組中にCMが挟まれているのだろうが、WOWOWは番組中にはなにも挟まれないから、それもありがたい。だから有料放送の方が無料よりも貴重な時間を浪費しないので安くつくのだ。ただほど高いものはない、というのを民放を見るたびに思う。

いろいろあって、あることを知らなかったものだらけ

 すぐ近くのスーパーの二階に百均の店ができたことは娘に教えられて知っているが、めったに立ち寄ることがない。たまたまカーテンを吊り下げるフックが二つ三つと劣化して割れてしまったので、あるかもしれないと久しぶりに探してみた。かなり広い店内を物色していると、こんなものがあるのだ、と思うものが山のようにあって、今度ゆっくり丁寧に見て歩こうと思った。目当てのものはなかなか見つからず、もしやと思ってレジの横の棚を丁寧に見たら発見した。もちろんちょっとおもしろそうなものもあったので、それらも購入。わずかな出費でいろいろ試してみることができるのはおもしろい。ただ、同時に、作っている人はこの値段で納品するのは大変だろうなあ、と元メーカーに勤めていた人間としては、ついそんなふうに考えてしまう。

『監獄署の裏』

 永井荷風の短編『監獄署の裏』は今年初めに読んでいるが、『あめりか物語』、『ふらんす物語』 、『狐』、『曇天』、『深川の唄』に続く作品として、一連の作品の流れに沿って、帰国者・永井荷風の視点に立ち、もう一度読み直してみた。

 

 永井荷風は当然ながら帰国して父の家に住む。操觚者(そうこしゃ・詩や文章を作る人)として生きるつもりだが、生活のために新聞記者や雑誌記者となることを父は体面上許さないし、荷風自体もそれで身を立てたいとも思っていない。大きな庭のある家の離れに独りで暮らし始めている。その庭の様子、そこで起きた出来事を子供の時の視点で描いたのが『狐』であり、それは一家の長男としてつまり次の家長としての役割と、父との相克が、上から重くのしかかっていることを描いたものでもある。『曇天』も『深川の唄』も、そこを基点としての過去の自分の記憶する東京と大きく変貌した東京とを、ニューヨークやパリとの比較も交えながら受け止めた文章である。

 

 そして改めて我が家、一族、そして自分の立ち位置、立場というものを違和感とともに過ごしている様子がこの『監獄署の裏』で描かれていく。最終的には、この後の『新帰朝者の日記』にまとめ上げられていくのだろうと思う。その後、まだそこまで読み切れていないが、『断腸亭日乗』などを囓り読みしたところでは、永井荷風は長い沈潜の時期を迎えるようである。

 

 この『監獄署の裏』の中で、外遊前と帰国後の母の変わりように驚いている様子が描かれている。若く美しかった母が、六七年の間ににわかに容色が衰え、老化したように見えたのである。母は若く美しくあって欲しい、という強い思いは、実は母を表に出しながらの、江戸的な美の衰弱、喪失を嘆いているのだと思う。

2025年4月11日 (金)

『ダークネスマン』

 スギ花粉よりもヒノキ花粉に反応するようで、外気に顔をさらすと涙、鼻水、そしてくしゃみが出る。タイヤ屋に行ったときに涙目だったので、なじみのお姉さんに、疲れているの?涙目だねえ、などと言われた。私ももうすぐ後期高齢者になる。あと何年車を運転するのか、そして冬用タイヤをいつまで頼むのか考えなければならない。あと一年はいまの冬用タイヤで支障なく使えるという。まだ元気に遠出できているのだから、来年には新しい冬タイヤに履き替えたらどうかといわれてその気になりつつある。ノーマルは新しくするつもりでいる。いまの予定では、79歳か80歳で車を手放し、免許も返納するつもりだが、それは自分の調子で延びもするし早まりもするだろう。

 

 じっくり見たい映画がたまっているが、それを見るには集中するためのエネルギーがいる。今日は金沢から帰宅して、ぼんやりするかわりに肩のこらない映画が好いだろうと思って、ジャン=クロード・ヴァン・ダムの主演する『ダークネスマン』という映画を見た。アメリカ映画だが、コリアンタウンが舞台というちょっと異色の映画で、まあ云えばカルトのアクション映画だ。ヴァン・ダムも、ひところのアクションの切れがないのは致し方ない。展開はいささかテンポがのろいし、主人公の賢さもいまいちだ。ヴァン・ダムに免じて我慢して、いちおう最後まで見ることができた。

 

 ヴァン・ダムはベルギー生まれの格闘家兼アクション俳優で、『ユニバーサル・ソルジャー』というSF仕立ての映画が特に印象に残っている。この映画は続編も作られていて、両方とも見た。とにかく出演作品の多い俳優で、私も何本見たか数え切れない。近年は悪役も演じたりして、なりふり構わずどんな映画にも出ているように見える。映画が好きなのだろう。そういうところが嫌いではない。

カメラもパソコンも持たず

 昨日はタイヤ交換をするため、金沢に行っていた。遅めになったのは、北東北の旅を終えて冬タイヤがようやく必要なくなったからだ。日帰りもできなくはないが、せっかく金沢まで来たのだからと、久しぶりに駅の近くの安いビジネスホテルに泊まり、駅の近くの居酒屋で一杯飲んだ。単身赴任中になじみの店がたくさんできたが、リタイアしてもう15年、年に二度くらいは金沢で飲むが、さすがになじみの店とは縁は切れている。特にコロナ禍の影響が大きい。なくなった店も多い。

 

 金沢に単身赴任したのを機会に、金沢の貸しタイヤ屋を地元の人に教えてもらって、それ以来そのままタイヤを預けておいて交換を依頼している。気がつけばもう二十年以上の付き合いだ。いまは貸しタイヤではなく、購入したタイヤを預ける方式に変わっている。金沢に置いたままなのは、それを理由に金沢で飲むのが楽しみなのである。そこからまたどこかへ行くことも多いが、今回は東北から帰って間もないので、一泊だけで帰ってきた。

 

 一泊だけだし、雨模様の天気だったので、カメラも持たずパソコンも持参せず、下着と本だけ持っていったので、ブログの更新はできないし、写真も撮れなかった。行き帰りに散りかけや咲き始めなど、さまざまな状態の桜の眺めを楽しんだ。今回は行きは北陸道を走ったが、帰りは地道で帰った。単身赴任時代は、高校生の娘が独り暮らしだったので、ほぼ毎週末、金沢と名古屋を往復した。会社からは月に一度しか帰省用の手当が出なかったので、その出費は応えたが、娘が心配だからしかたがない。

 

 途中の白川郷から御母衣湖を通って荘川への道は、途中にあるダム建設用のトンネルをそのまま生かした道なので、狭い。トラックはすれ違うことができないトンネルが九カ所ほどある。普通乗用車でもトラックとすれ違うときはサイドミラーが壁面すれすれになるくらいである。さいわいいまは東海北陸道が全通して、トラックの数は当時よりずっと少ないから、ハラハラするようなことはなかった。それにしても冬の夜、雪の中、凍結したこの道路をよく走ったものだと思いながら走った。御母衣湖は雪解け水を集めて、いつになく水が多かった。

 

 そこから荘川、そしてひるがの高原の分水嶺を越えて、長良川沿いに南下する。北濃から長滝白山神社あたりは雪がまだたくさん残っていた。

2025年4月10日 (木)

『深川の唄』

 永井荷風の『深川の唄』という短編小説を読んだ。アメリカ、フランスに滞在して、帰国後まもない頃に書かれたものだ。日本に住んでいるものには当たり前のものが、荷風には常にアメリカやフランスとの比較で目に映る。この小説では、四谷見附から市電に乗ってそこで目にした風景が移動とともに描かれ、同時に車内に乗り込み、そして降りていく人々の様子、些細な出来事が、詳細に語られていく。ニューヨークの高架鉄道、パリの乗合馬車などの、動くものに乗って街を眺めるということが、自分には快感であり、習慣になったのだと、冒頭で語られる。

 

「然し日本の空気の是非なさは、遠近を区別すべき些少の濃淡をもつけないので、掘割の眺望(ながめ)はさながら旧式の芝居の平たい書割としか思われない。」
「数年前まで、自分が日本を去るまで、水の深川は久しい間、あらゆる自分の趣味、恍惚、悲しみ、悦びの感激を満足させてくれた處(ところ)であった。」
と、ことさらに日本、ということばが強調され、同時に

 

「電車はまだ布設されていなかったが既にその頃から、東京市街の美観は散々に破壊されていた中で、河を越した彼の場末の一劃ばかりがわづかに淋しく哀しい裏町の眺望(ながめ)の中(うち)に、衰残と零落との言い尽くし得ぬ純粋一致調和の美を味あわして呉れたのである。」

 

と、江戸の風情の残った東京は失われ、わずかに深川にその名残の残渣を感じているのである。

 

「それらの景色をば云い知れず美しく悲しく感じて、満腔の詩情を託したその頃の自分は若いものであった。煩悶を知らなかった。江戸趣味の恍惚のみに満足して、心は実に平和であった。硯友社の芸術を立派なもの、新しいものだと思っていた。近松や西鶴が残した文章で、如何なる感情の激動をも言い尽くし得るものと安心していた。音波の動揺、色彩の濃淡、空気の軽重、そんなことは少しも自分の神経を刺激しなかった。そんな事は芸術の範囲に入るものとは少しも予想しなかった。日本は永久自分の住む處、日本語は永久自分の感情を自分の感情を自由に云い現して呉れるものだと信じて疑わなかった。」

 

日本は変わった、そしてそれを見る自分自身も変わった、日本が自分の居場所でありながら居場所ではないという疎外感を、どう自分と折り合いをつけるのか。

 

 深川を歩きながら、荷風は「塵埃(ほこり)で灰色になった頭髪(かみのけ)をぼうぼうに生やした」盲人が、三味線で歌澤節を歌い出すのを聴く。その見事な唄に江戸の残滓をしみじみと懐かしく感じるとともに、

 

「自分はふと後ろを振り向いた。梅林の奥、公園外の低い人家の屋根を越して西の大空一帯に濃い紺色の夕雲がものすごい壁のように棚引き、沈む夕日は生き血の滴るごとくその間に燃えている。真っ赤な色は驚くほど濃いが、光は弱く濁り衰えている。自分は突然一種悲壮な感に打たれた。」

 

 「自分はいつまでも、いつまでも、暮れゆくこの深川の夕日をあび、迷信の霊境なる本堂の石垣の下に佇んで、歌澤の端唄を聴いていたいとおもった。」
「ああ、然し、自分はついに帰らねばなるまい。それが自分の運命だ。河を隔て掘り割りを越え坂を上がって遠く行く、大久保の森のかげ、自分の書斎の机にはワグネルの画像の下にニイチェの詩ザラツストラの一巻が開かれたままに自分を待っている・・・。」 

 彼の「ついに帰らねばならない運命」が帰国のことでもあったのはいうまでもない。そしてその日本は既にむかしの日本ではない。

2025年4月 9日 (水)

簡単なことのはずなのに

 弟などから登録を勧められていたけれど、ずっとしないできたLINEというものを、今日初めて登録してみた。とにかくスマホでの文字入力が苦手である。キーボード以外での文字入力はしたくない。しかしあるところとのやりとりには今後LINEしかできないと通知され、しかたがなく登録を試みた。誰でもできる簡単なことのはずなのに、つまらない勘違いを二つ三つしたために余計な手間をくってしまい、二時間あまり悪戦苦闘した。ついでにスマホだけではなく、パソコンからも連携できるようにした。これならパソコンからキーボードで入力できるだろう。

 

 くたびれた。同時に自分の不手際さに苛立ち、自己嫌悪を感じてしまった。

足がつって

 夜中の二時前に足がつって、その痛みで目が覚めた。足がつるのは脳の勘違いによる筋肉のけいれんであると何かで聞いたが、本当にそうであるかどうかはわからない。その勘違いしている脳の持ち主は私だから、私の脳に勘違いだからやめるように命令するのだが、それで何とかやり過ごせることもあり、ますます狂ったようにひどくなるときとがあり、昨晩はそのひどくなる方で、しかたがないから起きて漢方薬を飲もうとしたが、足に踏ん張りがきかない、立ち上がるときの正しい筋肉の使い方を見失っているのだ。

 

 それでも何とかものに掴まりながら立ち上がり、漢方薬を飲んでしばらく呆然としているうちにおさまった。そうなるともう完全に起きてしまっているから眠れない。無理に寝ようとしても眠れないから本を読んだ。團伊玖磨の『パイプのけむり』(シリーズの第十四巻)をほんの少し読み進め、そのパイプのけむりの中で、團伊玖磨の住んでいた三浦半島が舞台だという泉鏡花の『草迷宮』という、美文調の不思議な長編物語を取り上げていたので鏡花全集の中から引っぱりだして少し読み、さらに永井荷風の『深川の唄』という短編を、これは短いから全部読んだ。

 

 そうこうしているうちにやや眠くなったので寝床に戻り、ネットストリーミングで久石譲のアルバムなどを静かに枕元に流して聞いているうちにようやく眠ることができた。朝からリズムが大幅に狂い、今起きても頭はぼんやりしたままである。もしかして今日は一日ぼんやり過ごすことになりそうだ。

 

 『深川の唄』については後でブログに書くつもりだ。

2025年4月 8日 (火)

縮んで暮らす

 午前中にスーパーに買い出しに行った。二日か三日に一度行く。支払う金額が年々増えていき、このごろは月々に増えていく。スーパーはポイントが付くのでプリペイドカードを使って支払う。小銭の出し入れがなくて助かるし、支払いにかかる時間も短くて楽である。そのプリペイドカードへの補充の頻度が、当たり前のことだが早くなっている。贅沢をしているわけではない。食べる量も昔のように大食いではなくなったので減っているはずである。それだけ諸式が高くなっているということだ。ここでつく溜め息は、私だけではなく、多くの人のつく溜め息だろう。

 

 固定資産税の納付請求が送られてきた。中古というより古マンションだから、たぶんずいぶん少ないのだろう。それでも年金暮らしには、この出費はこたえる。先月は旅で散財し、ちょっとした大きな買い物もしたから今月はそれらが預金から引き落とされる。金額をざっと確認するとがっくりする。得たものが大きいから後悔はしないけれども、ますますデッドエンドが近づいてきた気がした。そういえばもうすぐ自動車の重量税も請求が来るだろう。

 

 今月は少し縮んで暮らそう。なるべく遠出はしない、酒も控え、間食は引き続きやめ、食事は質素にして、とにかくあるもので何とかまかなうことにしよう。たぶんその反動が突発することになるだろうが、なるべく自分をなだめなければ。

 

 上がって喜んでいた、そして唯一持っている、自分の元在籍していた会社の株も大幅に下落した。これがこれからの頼みの綱だったのに・・・。トランプ恨むべし。

«『曇天』

2025年4月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

カテゴリー

  • アニメ・コミック
  • ウェブログ・ココログ関連
  • グルメ・クッキング
  • スポーツ
  • ニュース
  • パソコン・インターネット
  • 住まい・インテリア
  • 心と体
  • 携帯・デジカメ
  • 文化・芸術
  • 旅行・地域
  • 日記・コラム・つぶやき
  • 映画・テレビ
  • 書籍・雑誌
  • 経済・政治・国際
  • 芸能・アイドル
  • 趣味
  • 音楽
無料ブログはココログ
フォト

ウェブページ