2024年12月11日 (水)

年末の日常は忙しいのに

 例によって、朝、今日することをメモに書き出す。項目は格別たくさんあるわけではないが、先延ばしにしたい面倒なものもいくつか混じる。気合いを入れて片付けていけばどうということのないものが、先延ばしにしてたまると行き詰まり、そのことで気持ちが停滞する。例えば年賀状書きのようなものは、本格的に取り組めば一日でできあがるのだが、たぶん今年もクリスマスを過ぎてから泥縄式に作成することになるだろう。

 

 今度の年賀状を最後に、というものがぽつりぽつりとやってきて、私もそうしようと思わないではないが、この年賀状だけが互いの消息を伝え合うものである人も少なからずいて、やめるのはもう少し後にしようと思っている。但し、多少儀礼的な面のあるものを今年から打ち止めにしようと思い、枚数はだいぶ減らすことにした。

 

 今日は昼から泌尿器科の定期検診日なので病院へ行く。旅の疲れが後を引いているのか、なんとなく体が重く(実際に体重も増えているからあたりまえである)、散歩もあまり長距離を歩けなくて、その上歩くスピードも著しく遅くなっている。下肢が少しむくみ気味で、水分が体に滞留して水っぽくなっているようだ。尿の濁りはないが、色が濃いので水分を意識して摂っており、それも影響しているのだろう。本日の検尿の結果はどうだろうか。医師と相談しようと思う。

 

 北関東の友人からお誘いを受けていて、すぐにでも出かけたいところだが、雑用が飛び飛びにあって、なかなかいつ出かけるか決めかねている。急ぎではないが、千葉の弟のところへ行く用事もあるので合わせて予定を立てたいと思いながら何の連絡もしていない。弟も年末で忙しいだろうと思うと気がひけるところもある。

 

 車の定期点検もあるし、妻の病院へ行く用事が二度ほどある。一度は支払いと担当医師との面談。一度は妻の要望するセーターなどの衣類の買い出しに娘と行き、その足で妻との面会に行く予定である。どうということのないことがなんだか気重(きおも)である。気持ちと体調は裏表のように関係していて、すべてに鈍重な状態だ。心身の浮き沈みというバイオリズムはたしかにある。いまは低いところにあるのだろう。

トラウマに立ち向かう

 三年前の春、高速道路の渋滞の最後尾についてしまい、前方不注意のドライバーに追突されて死にかけた。首の骨を二カ所圧迫骨折したが、根が頑丈なのと愛車が代わりに命を落としてくれたおかげで命拾いした。

 

 それ以来テレビで車の衝突シーンなどを見ると事故の記憶が鮮明に蘇り、気持ちが大きくざわめく。いわゆるトラウマになっていて、なかなか薄れることがないようである。心持ち首が痛んだりする。幻痛というやつか。

 

 場所は東海北陸道の終点近く、名神高速に合流する一宮ジャンクションの手前だった。このジャンクションは悪名が高く、しばしば渋滞が起き、それにともない年に何度も追突事故が発生する。この二年くらいかけてジャンクションの再整備が行われ、ようやくのことにだいぶスムーズになったとのニュースを見ていたが、気持ちが悪いので決してこのジャンクションを通らないようにしていた。

 

 先週の土曜日、北陸からの帰り道に東海北陸道を南下してきて、いつまでも回避しているのもなんだと思い、ついに事故現場をあえて通ってみた。時間的なこともあったのだろうが、今までになくスムーズに通過することができた。これで少しはトラウマが減るだろうか。。

 

 同時に事故当時のことを久しぶりに思い出していた。ぶつけてきたのは日産のディーラーの若いおニイちゃんで、警察にはぶつけたときは時速80キロくらいだったと言ったそうだ。実際より低く言うはずもなく、その通りかもっとスピードは出ていたはずで、車は日産のトレイル、頑丈な車で、当てられたのが軽自動車だったら、車は潰れて搭乗者は即死だったろう。私の前の三台までが損傷を受けたらしい。私の他にけが人がいたかどうか知らない。

 

 昨日の市役所で、係の女性とその上司がふたりで頭を下げて私の方が恐縮したと書いた。その当てた車には若者の上司が同乗していたらしいが、若者だけ菓子折を下げて見舞いに来たが、その上司の人物も会社としても一言もなかった。その時はそれで仕方がないと思ったが、いまになって腹が立ってきた。

 

 しかもその自己処理の保険会社である住友海上のベテラン担当者の慇懃無礼であることは、いま思いだしても腹が立つ。誠意のかけらも感じられなかった。だから一部は私の保険会社に代行してもらい、そのおかげで途中からかなりスムーズになり、補償額も上乗せになった。

 

 だから日産が利益が上がらずに経営的に不調だ、などと聞くと内心暗い喜びを感じたりしている。それがトラウマ解消に少し寄与するかも知れない。

2024年12月10日 (火)

いい加減だと二度手間になり、さらに

 妻は長期入院中で、自分でマイナカードを作成しに行くことができない。入院しているから、当然病院で保険証が必要であり、もし保健証が使えなくなったら困るかも知れないので、少し前に市役所で、代行してのマイナカード作成の必要書類とやり方を教えてもらい、いろいろ面倒はあったがなんとか作成を完了した。

 

 それなのに、本人が暗証番号の扱いができそうもないから顔認証だけで好いと、ついいい加減に手続きしてしまい、考えたら私が代わりに手続きすることもあることを病院で確認した。それはそうである。市役所にといあわせたら、そうなるとカードの変更手続きが必要になるとのこと。市役所に行ってそのための申請書類に記入した。その申請により、市役所から本人(妻)の委任状の書類が郵送されてくるのだという。その用紙が旅行中に送られてきていたので、それを揃えて昨日市役所に提出し、無事カードは変更された。

 

 そうしたら、帰宅してすぐに市役所から電話があった。カードの内容は変更されているが、カードの表には顔認証専用の記入がされたままで、それも書き直さなければならないのだという。不手際で申し訳ありませんということだが、それほど腹も立たず、本日再び市役所へ。そうしたら係の女性とそのすぐ上司の人がふたりで、二度手間になり申し訳ないと謝られてしまい、こちらが恐縮してしまった。二度手間は、こちらが先であったのだから。

 

 何事も、選択のあるときはよく考えてからの方が良い。今さらだけれど。

傾国の美女

 尹大統領が戒厳令を発した理由のひとつが、夫人を守るためだったのだとの分析があり、傾城(けいせい)の美女だの傾国の美女だのと噂されているらしい。つい先日、象潟で西施の像を見てきたばかりである。傾国の美女と言われる西施と同様、尹大統領夫人も、韓国を傾けるためにどこかから送り込まれた美女だったのだろうか。それなら尹大統領夫人が疑惑を次々に提供し続けたのは、意図的だったのかも知れない。普通なら亭主のために自重しよう、表から少し身を引こう、とするのが普通だが、ことさら表に出ていたようにも見える。それほど陰謀論的ではないにしても、ことさら物議を醸すように仕向けられていた可能性はあるだろう。それなら、将を射んとすれば・・・というところか。ところで彼女が美人かどうかといえば、いまの韓国で流行(はやり)の人工的な美女であるようには見える。私にはもちろん縁がないし、あってもお近づきになりたくないタイプだが。

 

 小耳に挟んだ情報では、北朝鮮は一月も前に尹大統領の弾劾の可能性を予告していたという。根拠があったのか、希望的観測だったのか、とにかくあたることはあたっていた訳である。

 

 韓国の混乱が早めに収束するのか長期化するのか、そしてその結果が再びの左翼政権による反日に戻るのか。いろいろ心配されているけれど、どちらにしても韓国の衰勢基調が加速してしまうらしいことはたしかなようだ。いま正義のために興奮して涙を流しながら激高する韓国の人々を見ていると、触らぬ神に祟りなし、という気がしてしまう。日本との融和を喜んだ人たちが、これからひどい目に遭わなければ良いが。

2024年12月 9日 (月)

上越の水族館

この日(6日)の宿は魚津のビジネスホテルを予約してあった。宿から駅の方へ歩いたところに魚の美味しそうな居酒屋がいくつかある。以前泊まったときにも当たりの店があった。だから飲みに出るつもりであった。しかし、この日は台風みたいな暴風雨となった。これでは外に出る気にならず、ホテルのレストランで生ビールと冷酒と若干のつまみなどを頼んで外の雨をうらめしげに眺めて飲むことになった。

さて、話は前後するが、その日の昼、国道7号線で山形県から新潟県の村上へ、その先で再び日本海東北道を走り、新潟からようやく北陸道に乗る。そのまま魚津に行けるが、時間がたっぷりあるので上越で北陸道を下りて上越水族館に立ち寄った。ここでは残念ながら神通力は効かず、傘が使い物にならないほどの激しい雨風で、駐車場から水族館の入り口までのわずかな間に濡れ鼠となった。それでもちゃんと客がいる。

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岸近くの海岸能美の中の様子。

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おお、さかなクンがいた。

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ウマヅラハギ。本カワハギより味がおちると言うが、けっこう美味しい魚である。肝は絶品。

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小魚(多くはイワシ)が水面を覆うほどたくさんいて圧倒される。なんだかわくわくする。

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クラゲは水中で見るとほんとうにきれいに見える。そういえばこの日の出発地である鶴岡には、加茂水族館というクラゲがたくさん見られる水族館があったなあ。あそこのクラゲは圧巻である。

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たくさんの魚を食欲半分で眺め歩いていたらくたびれたのでイルカの水槽の前のベンチで休憩。

私の前に来るたびに背泳ぎになって、いくら待っても普通に泳いでくれなかった。

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ペンギンの水槽。月並みな言い方だが、飛べないペンギンが飛んでいるように見える。

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十分満足したので早いけれど宿に向かう。

これで今回の旅の報告は終わり。最後の日は、雪の中を走って帰ったことはすでに書いた。

荒れる日本海

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五日の朝、早めに鶴岡の宿を発って日本海東北自動車道に乗って南下。まだ全通していないので、温海で下りて国道7号線に移る。激しい雨と風である。風で車が揺れる。これが雪なら吹雪である。

荒れる日本海が見えているのだが、どこかで写真を撮りたいと思いながら走ってしばらくしたら、道の駅「あつみ」の手前で急に雨が小やみになった。そこで写真を撮った。

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荒れる日本海の雰囲気がわかるだろうか。

背中から風を受けると歩く気がなくても押されて前へ進んでしまうほどだ。また雨が強く降り出したので車に戻る。鼠ヶ関でも停めたかったが、とてもそんな状況ではない。

少し前なら、鶴岡から一気に自宅に帰るが、今回は自重して富山県の魚津のビジネスホテルに泊まることにしている。時間に余裕があるのでどこかに立ち寄りたいが、建物の中でなければとてもいられない。久しぶりに上越の水族館によることにした。今回の旅の報告は、その水族館で最後である。

本間家別荘・清遠閣

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清遠閣入り口。右手の玄関を入る。玄関の右奥に茶室があるが、見学はできない。

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一階の大広間入り口。

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床の間に掛けられていた水戸藩主、徳川斉昭の書。大きい。

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大広間から庭を望む。

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二階へ上がる。上だけブレるという不思議に写真になった。

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展示品。後陽成天皇の宸筆や、橋本左内の書、尾形光琳の絵、古九谷など、たくさんの名品がある。右の達磨の絵は狩野孝信。

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二階大広間から庭を眺める。

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灯りが好い。

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けっこうゆっくり拝見した。庭へ出て、さっきの二階を見上げる。雨が強くなってきたので慌てて車のところへ急ぐ。このあとまだ時間があったが、鶴岡の宿へ向かう。

2024年12月 8日 (日)

本間美術館の庭園

日本海沿いに南下して酒田にいたる。酒田はいつも通過するだけで立ち寄ったことがない。本間美術館と山居(さんきょ)倉庫には立ち寄りたいと思ったが、あいにくの雨である。美術館なら雨でもかまわない。しかし、この美術館で見たいのは庭園である。庄内地方の大地主で豪商だった本間家の別荘とその庭園を含めて見学することができる。美術館の展示品をひととおり見た後、雨が小やみなのをさいわいに庭園に廻った。

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入り口からすぐのあたり。

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別荘の建物、清遠閣。中が素晴らしいが、それは次回に紹介する。

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四阿(あずまや)。ものすごく太い松の木。

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散り残った紅葉。

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庭園の景色。石段の上り下りが多少あるのだが、つるつるの石段なので、危うく滑りかけた。たまたま見ていた初老のおじさんが、足腰が弱っているようだから気をつけなさい、と声をかけてきた。その通りだが人に言われたのは初めてで、ちょっとショックだった。なんだか一方的にしゃべってくるおじさんで、年を聞いたら72歳だという。なまりがひどい訳ではないが、言っていることが一部わかりにくくて曖昧に相づちを打っていたら、じゃあお元気で、と行きかけた。そしてそのおじさん(おじいさんか)もぬれた石で危うく足を滑らせかけた。気をつけてください、と声をかけたら、黙って行ってしまった。

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このあと庭園を管理している人が声をかけてきてくれて、いろいろ教えてくれた。この石灯籠の向こう側から穴を覗くと、借景にしている鳥海山が見えるのだという。じつはこの前の写真の中央の向こうには鳥海山が見えているはずなのだ。

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中央をアップする。よくよく見ると白いのは雲だけではなく鳥海山の裾野が見えているのだが、写真ではわかりにくい。

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清遠閣の中から庭園を見下ろす。

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清遠閣を見終わって外に出たら、また本降りの雨になった。

次回は清遠閣の中を紹介する。

留守にしていると寒い

 丸一週間留守にしていたので部屋が寒い。生活していれば暖房をことさらにしなくても、それなりの温度を保てたのではなかったか。さすがにこたつだけでは寒いのでガスストーブを出した。快適である。

 

 昨晩、留守中録画したはずの番組をチェックしたらWOWOWの番組だけ録画されていない。どういうことかWOWOWにチャンネルを合わせたら「契約ぎれ」のような表示が出て番組を見ることがそもそもできない。契約は継続しているはずだし、ちゃんと番組表も送られてきている。見たかった番組が録画されていないことに腹が立つ。ネットでWOWOWのトラブルチェックを見たら、そういうトラブルの場合の対処法が出ていたのでそれを試す。15分間待て、ということだが、実際には30分近くたって何事もなかったようにつながった。

 

 対処法がある、ということはこういうトラブルがある、ということでそれがどうして起こるのか、そうならないためにどうしたら良いのか、何も案内がないのに腹が立つ。そんなことを夜遅くにごそごそやっていたので眠れなくなってしまい、結果的に夜更かしの朝寝坊と言うことになってしまった。今朝改めてWOWOWを見たが、問題ない。あたりまえのことなのだが。

 

 世の中にはトラブルというのが必ずあるもので、それに対しての気持ちの収めようが歳とともに下手になってきて、感情の荒波を鎮めるのに時間がかかる。年寄りがかんしゃくを起こすのはそういうことで、かんしゃくを起こすのは精神のコントロール能力の劣化である。韓国の尹大統領に対してなんだかわめき散らし、暴れて見せている人がいるが、ああいうのを見せられると却ってこちらが落ち着く。こちらはあれほどひどくない。

150403-232だんだんこうなってきた

 世界情勢がますます混沌としてきたように感じる。シリアのアサド政権は崩壊必至のようだ。中東情勢がさらに激変しそうな気配だ。ヨーロッパの国々の内政も予断を許さない状態で、他国のことなどかまうことができないようだ。ここでトランプが登場したら、いったい世界はどうなるのか、良い方へ、つまり安定に向かうというのは考えにくく、ますます自分の国は自分だけで何とか生き延びる方策を考えないと行けなくなりそうだ。

 

 日本はずっとアメリカに頼ってきた。アメリカの言いなりにしていれば損得はともにあるが、得の方が多いと考えていたけれど、その得もこれからは期待できないだろう。つっかえ棒があることが却って損になりかねないなら、どうするのか。日本も初めて自立するのか、それともアメリカに吸収してもらうか。アメリカも、よその国は守らなくても日本がアメリカの属州なら、さすがに守るだろう。それがイヤなら中国に拝跪するのか。日本の政治家の危機感のなさはあきれるほどだ。どうせこちらは退場が近いから、どうとでもなれ、という気持ちだ。意識して隠者になろうか。しかし隠者と言うには世の中にあまりに興味関心を残しすぎているか。

2024年12月 7日 (土)

三崎峠

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予告していた三崎峠の写真があとになった。

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この看板の一番右手が三崎峠。遊歩道になっている。左手には、昨年訪ねた十六羅漢岩などがある。

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高台から日本海を望む。風が強いが、不思議なことにさっきまで降っていた雨がやんだ。

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こういう遊歩道になっている。左手は絶壁。灯台までは行かなかった。

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左奥に雲の切れ目でもあるのだろうか。海面が一直線に輝いていた。

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このあたりの岩は火山性のものであることがよくわかる。明らかに鳥海山の噴火によって飛ばされてきたものか、溶岩だと思う。

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見上げるとこんな岩が覆い被さっている。雲が一瞬切れて青空が覗いた。

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上に登ってみれば、全く違う様子であの岩が見える。

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雨の巨大なカーテンが向こうに見える。このあと急激にこちらに迫ってきた。

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ぱらついてきたので慌てて車のところへ戻る。走り出したら激しい雨が車をたたき出した。

雪の松ノ木峠

朝、魚津を出発して北陸道に乗り、小矢部から東海北陸道を走る。強弱はあるが、ずっと雨が降り続く。五箇山を過ぎたあたりから予想通り、雪に変わる。トンネルを抜けるごとに雪が強くなり、白川郷のあたりから本格的な雪。車の流れが悪い。冬タイヤ以外では通行できないはずだが、まさかノーマルタイヤで走っている車がいないだろうな、と心配になる。最高地点の松ノ木峠のパーキングでトイレ休憩。ここは1050メートルほどある。寒い。辺りの景色を何枚か写真に撮った。雪の写真はむずかしい。

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気合いを入れ直して出発。この先の荘川までは東海地区屈指の豪雪地帯である。途中でタイヤチェックがあった。

少し集中力が低下している気がしたので、ひるがの高原のサービスエリアで雪を見ながら軽い昼食。ここからはひたすら下りである。郡上あたりからは雨も雪もなく、景色も白くなくなった。車のスピードが一気に上がりだしたが、こちらはゆっくり走る。無事、先ほど帰着した。

思ったほどの好天ではなく、北側からどんよりした黒い雲が被さってきている。気温からもし降り出しても雪になることはないだろう。

片付けをして、冷蔵庫に生鮮品がないから、これから食料の買い出しである。

ところで留守電に、総務省の電波監理局とか言うところから留守電が入っていて、この電話は二時間以内に通信が一切遮断されます、問い合わせは云々、と言う。二時間以上過ぎているので、試しに自分の携帯に電話したらちゃんと着信があった。もちろんすぐ消去した。おかしな電話が入るものだ。しかも二回あったようだ。

さあ、これからまた日常が始まる。といっても、ただ上げ膳据え膳がなくなって自分で食事を用意することになるだけである。早く自分の生活リズムを取り戻さなければならない。何しろ師走である。

今朝は雨

 いまは富山県の魚津にいる。明け方前、窓から外を覗くと本降りの雨が降っている。予報通りなら北日本は雪だろう。秋田の温泉で今年初めての降雪を体験した。その雪から逃れるように日本海沿岸を南下して、いま富山県にいる。明日か明後日にはこの富山県も雨が雪に変わるだろう。今日はこれから東海北陸道で我が家へ帰るが、途中は雪の可能性が高い。そしてたぶん郡上あたりを過ぎてしまえば太平洋側のカラリとした景色を見るだろう。

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写真は一昨日の日本海の荒波。

 昨晩は夕食を摂ってからすぐに眠ってしまった。連日の長距離運転、しかも雨の中の運転にいささか疲れていたのだろう。昨日は台風の中を走るような強い雨と風だった。それが夜中過ぎに目が覚めてしまい、読みかけの小説を読み始めてしまったらやめられなくなった。いま(朝の五時)読み終えたところである。

 

 読んだのは高嶋哲夫の『チェーン・ディザスターズ』(集英社)という本で、ごく近未来(数年内)に日本を東南海地震が襲うというシミュレーション小説だ。さらに急激で巨大な地殻変動の影響により、首都直下地震が連動して起きて、さらに・・・という、あの小松左京の『日本沈没』を思い出させるような日本を描いた物語である。日本がその危機から立ち直りつつあるときに起こる「さらに・・・」の出来事は絶望的状況をもたらすが、若くしてこの危機を乗り切る舵取りを任されることになった女性の総理大臣の苦闘に感情移入してしまって、読むのをやめられなくなってしまったのだ。

 

 ここでは巨大災害に対してやるべきこと、そしてその優先順位、基本になる考え方が提示されている。だからシミュレーション小説と呼ばれるわけだが、東南海地震などの、必ず起こると予測されている大災害にこのような対策がとられているのかどうか、どうも心許ないところがある。政治家もこの小説を読んでくれると好いが、読んでほしい人ほど読まないのだろう。ただのパニック小説ではない。おもしろいので是非お勧めしたい本だ。まず国民の意識が変わってそれに備えなければ、政府の緊急時の指示もうまく機能しない。

2024年12月 6日 (金)

蚶満寺の山門

象潟の蚶満寺の蚶の字を、私は坩と書いてきたが、でんでん大将様からご指摘をいただいて蚶と言う字に書きあらためたいと思う。

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蚶満寺山門。この山門の彫物が素晴らしい。その前に、左下の木標に注目。

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お寺がそう表記するのだから、これが正しいと言うことだ。

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説明がないからどんな説話が描かれているのかわからない。昔の人なら常識として知っていたのかも知れない。

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いつもこういう動的な彫物に感心する。

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この流れるような龍の優美さ。

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扁額に文字がない。彫刻はたくさんある。

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内側にあったもののひとつ。これは雪の中で筍を採っているのか。たしかそんな話があった。

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内側から参道の方を眺める。なかなか好い。

堂内は以前拝観したので、今回はここで失礼して先を急いだ。

このあと、たぶんでんでん大将様もご存じの筈の三崎峠(有耶無耶の関)のあたりで荒れた日本海を眺め下ろす。その写真は次回に。海鳴りもしてすごい景色でした。

象潟の坩満寺(きさかたのかんまんじ)

思い立って象潟の坩満寺に立ち寄った。駐車場に車を停めたときには、小降りにはなっていたものの雨が降っていたが、しばらく様子を見ているうちにやんだ。

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坩満寺の入り口。右手に駐車場のスペースがある。雨が散り敷いた落ち葉をぬらしている。石標の坩満寺の坩の字が削られているのはどうしてなのだろう。

 

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坩満寺と言えば芭蕉の『奥の細道』で有名で、芭蕉翁の像もある。

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芭蕉がこの象潟で詠んだ句。

  象潟や 雨に西施が ねぶの花

西施は中国の戦国時代、呉越の戦いの話に登場する絶世の美女である。ねぶの花は合歓(ねむ)の花のこと。初夏に咲く。雪交じりのいま、芭蕉が梅雨時に東北を歩いたのか、わかった気がした。秋に歩いて景色を楽しんでいたら、冬になって雪に降りこめられて旅が続けられなかったであろう。彼は西行の後を慕って奥の細道を訪ね歩いているが、西行は本州の北限の青森まで歩いているのに、この象潟までで南下しているのも、同行の曽良の事情もあったが、やはり冬になるのを危惧したのではないか。そんなこと、芭蕉を知る人には常識なのかも知れないが。

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西施像ももちろんある。

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あとでぐるっと庭内を廻ってから、後ろ姿の西施の姿も撮った。像だと太って見えることが多いが、西施のイメージは細めの美女である。この像はそういう意味であまりイメージを損なっていないように思える。

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庭内の松の周りの水たまりが、あたかも海の中の松のように感じられた。

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象潟は、芭蕉が訪ねたころは松島に並ぶ、海に点在する小島が美しい景勝地であった。のち地震で隆起してこのような景色に変わってしまったが、名残はある。

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六地蔵。濃い緑の中の赤が目を引く。

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苔むした仏様は自然に帰りつつあるように見える。

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ここにも濃い緑の中の赤があった。

坩満寺の山門の彫物が素晴らしかったので、次回その写真を掲載する。

2024年12月 5日 (木)

案に相違して

宿の玄関を出たら雪が降っている。

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泊まっていた宿。駐車場も車も雪が積もっていて、雪下ろしが必要だったが、新雪なので案外簡単に払うことができた。雪用の道具はちゃんと載せているのだ。

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駐車場は雪で真っ白。

ナビでルートをチェックしたら、案に相違して日本海沿いを走るルートを指示した。ナビに従うと決めていたのでその通りに走る。まず秋田方面に向かって協和インターから秋田道を南下する。途中角館を通るが、雨なので通過。雪景色なら寄りたいところであった。

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山をおりると雪から雨になり、ときどき激しく降る。これでは外に出られないし、写真も撮れないとあきらめていたら、協和インター近くの道の駅で小やみになったのでここでトイレタイムと土産物の購入。宿の方が品揃えがあったが、荷物を持って車のところまで歩くのが面倒だったので買わなかった。悔やんでも仕方がない。ここには雪がないが、雲が山におおい被さっている。

時間に余裕がありそうなので、象潟(きさかた)の坩満寺(かんまんじ)に立ち寄ることにした。いつも拝見しているブログ仲間の、でんでん大将様の地元である。にかほを通ることからでんでん大将様を思い出し、そこから象潟によることにした、と言うのが実際の順番である。現地で雨に降られなければ良いのだが。

不快な理由

 皇室に関するニュースに特に関心がある訳ではないが、ネットニュースを拾い読みしていればイヤでも目に入ってくる。女性週刊誌の皇室関連の記事の見出しには不快感を感じることが多い。敬意が感じられないからである。敬意がないというのは品位が欠けているということだ。下品なものには不快を感じるのは自然な感情である。もちろんそれは私自身の感情で、他の人のことは知らない。

 

 人と接するとき、愛情や思いやりも大切だが、まず相手に対する敬意というのが何より大切だと思う。勝ち負けや損得で曇った目には、敬意というものが見失われやすい。そういう社会は生きやすい社会とは言えない。それは世界中どこでも一緒だろう。トランプが不快に感じられるのは理由があるのである。

 

 日本ではその敬意を払うべきもっとも象徴的なものが皇室である。その皇室を芸能人を扱うように報じるということは、当然のことに皇室の存在意味を毀損する。敬意を払うべきものに敬意を払わないことがあたりまえの世界に、どうして皇室の存在意味があろうか。こうして象徴が意味を失えば、日本人から敬意の観念が失われていく。いや、すでに失われているのかも知れない。

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日本を支える重みがなくなる。日本人が自ら択んだことで、それならそれで仕方がないのかも知れない。

帰路

 いまいる地域の天気予報は雨。しかし宿のあるところは山腹なので、窓を透かしてまだ暗い外を見れば、道路が白くなっているようだ。積もっているというほどではないが、慌てて走るのは危険だ。もちろん冬用タイヤではあるが、雨では景色を眺めるのもかなわないだろうから、ゆっくり食事をしてから出発することにする。

 

 これから山形県の鶴岡に向かうが、日本海経由で行くか、横手経由で内陸周りにするか迷う。内陸周りなら、新庄を経由して最上川に沿って西に向かうことになり、先月兄弟で旅行したときに時間切れで行けなかったあたりを通る。どちらをナビが択ぶか、それに従うことにしよう。行きは元気だから一気に走った。帰りは名残を残し、後ろ髪を引かれながらゆっくり走る。気がついたらもう帰路なのであった。

 

 雨中を走りながら、何を見、何を感じるのか。太平洋側は好天らしい。この地は明日あたりからは本格的な雪になる。長い冬の到来である。

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もうすぐこうなる。

2024年12月 4日 (水)

無知

 無知というのは、単に知識が欠けているということではない。そうではなくて、無用の知識が頭に詰まっているせいで、新しい情報入力ができない状態を「無知」と呼ぶのである。

 

 これはロラン・バルトの定義だそうで、これを紹介してくれた内田樹は「私もその通りだと思う」と賛同している。

 

 多くの情報源をもち、それによって多量の知識を持って、自分はあなたよりもものを知っている、と上から目線で語る人がいる。あまりものを知らない私としては、畏れ入るしかないのだが、上から目線であることによる感情的な反発を除いても、その人に敬意を表する気にならないことがある。そういう場合、たいていその人は他人が自分と違う見方をしたときに、まず否定的な反応を示す。なるほどそういう見方もありますね、という受け止め方はしない。知りすぎていることによる「無知」というのはそういうことかと思う。

 

 ソクラテスの「無知の知」を引き合いに出すまでもなく、自分は何でも知っている、と思ったときに、その人は知的ではなくなるということだ。月並みな言い方ながら、自分はまだまだ無知であると自覚する人が知識人だと思う。私の場合はそういうレベルではなく、ほんとうにものを知らないから論外であるが。

 

この三日間(温泉三昧の期間)で読了した本

 

養老孟司『人生の壁』(新潮新書)

 

谷原つかさ『「ネット世論」の社会学』(NHK出版新書)

 

内田樹『だからあれほど言ったのに』(マガジンハウス新書)

 

 まだ五冊ぐらい持参しているが、さすがにあと一冊か二冊読めれば十分か。

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宿の部屋から見た景色。窓が開かないから窓越しである。寒い。

ふてくされるにもほどがある

 「ふてほど」と言うことばが今年の流行語大賞だそうだ。見たことがあるけれど、いったいどこから出たことばなのか知らないし、知りたいとも思わない。日本人はことばを縮めるのが好きだ。しかしこのごろはあまりにそれがいきすぎで、そもそもの元のことばがなんだかさっぱり見当がつかないものが多い。こういうのは仲間内の隠語みたいなもので、わかる人だけわかる、というので仲間意識を確認し合っているのだろうか。

 

 私はこの「ふてほど」から、ふてくされるにもほどがある、と言う意味かなと想像したがどうも違うらしい。私が流行から外れているのは承知しているが、流行の方もどこかへ飛んで行っているような気もする。

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知らなくても別にかまわない。

雪が珍しいらしい

 泊まっている宿は山の中腹にあり、あたりはすでに雪景色である。昨夕、宿に着いたときにその雪が珍しいのか、スマホで写真を撮り合う人たちがいた。話していることばから、中国の人たちだと思われた。中国だって北の方は雪が降るから、たぶん南の方の地域の人たちだろう。観光バスが駐まっていたから団体で来たのだろう。みぞれの降るあいにくの天気だが、それでも雪を喜んでいるから好かった。

 

 この地のホテルに泊まるのは五回目くらいだが、以前泊まったことのあるすぐ近くのホテルは、二軒がすでに閉鎖されていた。今回泊まっているところは二度目だが、大きなチェーンホテルに身売りして生き延びたホテルだ。おかげで部屋は広いのに安く泊まれる。例によって一番安い部屋を予約したから、今回も食事場所や風呂からはいちばん遠い。大きなホテルだから迷子になりそうである。

 

 食事はバイキングで、その前に泊まったところよりも格段に美味しい。ただし酒が高いのがつらい。飲み放題を択べば確実に元が取れそうで値打ちだが、それでは飲み過ぎてしまう。自分のさもしい性根が表れるのがイヤだ。中国の人たちは食欲旺盛で健啖である。しかしひところの中国人よりもやかましくなくて、仲間内で楽しげに談笑していてもあまり気にならなかった。私の隣には訛りの強い英語をしゃべる男ふたりが座っていた。アメリカかオーストラリアあたりからでもきたのだろうか。私は語学が不得意だからほとんど話の内容はわからないが、食事には満足しているようだった。ふたりとも三十歳前後、ラフな格好でゆったりと食事を楽しんでいる。

 

 珍しいことに、ジビエの鹿の料理のコーナーが一角にあって、私はそれを楽しんだ。肉類が多くて魚が少ないのは山の中のことだから仕方がない。その肉を食べながら高清水の冷酒をゆっくり味わう。仕上げに普段は自分に禁じている甘いものを特別に解禁して、コーヒーとともに美味しくいただいた。

 

 風呂に入りながら、いったい自分はなぜここにいるのだろう、などとぼんやり考えた。理由なんてないのだ。そんなことを考える必要はないのだ、とつまらぬ疑問は湯に溶かし流して、私も湯に溶けた。

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溶けてる私。

2024年12月 3日 (火)

大湯温泉散策の続き

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温泉の中をぶらぶら歩いていたら、こんなものを見つけた。手作りのようだ。

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こんなのもあった。これは他でも見たことがある。斜めというのが好い。

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雪の支度をしている人があちこちにいたが、このおじいさんは何か山仕事をしに出かけるようである。この姿を見たら、熊が出ないだろうか、などと思った。

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温泉の外れに大湯公園というのがあって、立派な建物があった。使うことはあるのだろうか。

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天気が好くて、歩いていると汗ばんできた。一回りしたら六千歩ほど歩いていた。

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なんという川か知らないが、温泉街を通っている川である。屈曲があちこちにあり、橋もたくさん渡ることになる。

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逆光に川面が輝く。

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笹は冬でも元気だ。

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紅葉の名残。

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宿の前の紅葉の名残。

今日はここから東北へ走ったのだが、ナビの設定がおかしかったのと、雨風が強いのとで、思ったよりも時間がかかってしまった。秋田県に入ったら、まだ四時前なのに夜みたいに暗くなった。

安全運転に努め、無事宿に着いた。くたびれた。ここでも連泊。以前きたこのある宿で、ここも安い。天気が悪いのでゴロゴロして本を読むつもり。たぶん明日はみぞれ交じりになるだろう。もうすぐ本格的な雪が降る。

自分の本性

 昨晩の食事の後、ぼんやりしていたら眠り込んでしまい、夜中に目が覚めた。夢とも現(うつつ)ともつかず、自分が自分の思い込んでいる人間ではない、醜い人間なのだという思いが噴き出して恐ろしくなった。

 

 自己中心的で欲張りで、他人に冷たくて愚かで、勘違いばかりしてすぐ感情的になり、気が小さくて臆病で、図体は大きいが自分の重みで膝や腰が耐えきれずによろよろし、首から上の、口も目も耳も鼻もみな悪い、つまり付き合いにくい怒りんぼのヨレヨレ爺(じじい)なのだ。

 

 とくに他人への思いやり、つまり優しさを失って久しい気がする。体力があり、気力があったときは、すべての自分の欠点をそれではいけないといろいろとカバーして鎧の中に住んで世間を生きてきたが、すべてから解放されてカバーが緩み、本性が現れてしまったのだが、自分ではそれに気がつけないでいただけのことだった。真実に気がつくのは恐ろしいことで、それに直面させられるのはつらいことだ。

 

 こんな風な思いがどっと押し寄せてきたからしばらく眠れなくなった。今朝は・・・少し気を取り直しつつあるというところか。カバーの緩みを締め直し、口の利き方に気をつけ、人にもう少し優しくしなければと思っている。できるかどうかわからないが。

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あの世に行ったら閻魔様に怒られるだろう。

2024年12月 2日 (月)

温泉散策

天気が好いので、温泉の周辺を散策した。

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遠くに雪山が見えた。なんという山かわからない。正確な地図はないし、方向も定かではない。駒ヶ岳(2003)かと思うが違う山かも知れない。

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温泉街の中を流れる川の方へ下りていき、小さな橋を渡る。急坂だったので怖かった。

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けっこうたくさん建物があるが、あまり人はいない。

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共同浴場を発見。

 

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少し上に登る。源泉の建物と、右手が共同浴場の屋根。

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日陰には雪が残っていた。いつ降ったのだろう。

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ここは奥只見へ向かう道の途中にある温泉なのだ。すぐ先に栃尾又温泉があり、そこにも行ったことがある。どんな宿に泊まったのか、覚えていない。その時はそのあと檜枝岐経由で会津へ抜けたが、もう峠は通行止めらしい。

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この建物は閉鎖されていて、廃墟になり始めていた。

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スナックらしいが、やっていないと思う。でも夜見ると違う様子になっているのかも知れない。

さらにうろついたが、それは次回に。

寒い

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宿の部屋からの風景。もっと上の階からなら、向かいの宿とのあいだの川が見られてもう少し好い絵になったかも知れない。さすがに朝は寒い。今日は出かけるつもりがないので、思いのほかの好天が恨めしい。

宿は思いのほか混んでいる。お年寄りの二人連れが多いのは平日の宿ならいつものことで、やはり安ければ混むのだ。その分食事は、量は十分ながら味が今ひとつなのは致し方ないか。風呂はとても広くてゆったりできる。のびのびと湯につかれれば他は贅沢は言わないことにしたいところだが、湯質がどうもさらりとしすぎて温泉らしくなくて、ただの大きな公衆浴場に入っているみたいだ。

明日には北の方へ移動する。ナビは東北道を指示するが、私はのんびり日本海沿いを走るつもりだ。その明日は天気がまた悪くなるらしい。荒れた冬の日本海を見ながら走ることになりそうだ。

いま養老孟司の『人生の壁』という本を読んでいる。養老孟司の本はしばらく読み直しが続いたが、これは新刊だ。なんだか胸に響く内容がたくさんあって、読み終わったらまた少し間を置いて読み直そうかと思っている。とても大事なことが書かれているのだ。癌から復帰しての本なので、思うところがあるようだ。

2024年12月 1日 (日)

新潟へ走る

朝、明るくなるとともに長駆、新潟まで走る。いつもなら小牧のインターまではトラックが多くて走りにくいが、今日は日曜日、信号待ちもほとんどなく快適に高速に乗る。小牧ジャンクションからは中央道に移る。朝日が正面でまぶしい。まだ多治見あたりは工事が続いていて、車線制限がある。車が多い。天気が好いからみな繰り出してきたようだ。南アルプスが右手、南側の見える。

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早いけれど、駒ヶ岳のサービスエリアで休憩。木曽駒ヶ岳の前山が輝いている。青空が素晴らしい。

岡谷から長野道へ移る。だんだん空が曇ってきた。日本海は雨の筈だ。北アルプスが雲間からチラチラと見えるが、写真を撮るほどの景色はもうない。姨捨を過ぎたあたりから雨。強く降ったり小雨になったりで、止み間はない。

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黒姫・野尻湖パーキングで二度目の休憩。この写真が撮りたかったのだ。太平洋側とはまったく天候が違う。

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パーキングには、野尻湖で発掘されたナウマン象にちなんだ像が置かれていた。

しばらくしたらまた雨が強く降り出した。

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黒姫を過ぎ、妙高あたりから、雨がずっと強く降り続く。長野道は二車線になったのでとても走りやすい。このあと、そのまま宿までずっと雨。今晩の宿は魚沼の、尾瀬へ向かう山の方の温泉宿。アウトバスの安い部屋なので、二食ついて一泊一万円でおつりが来る。風呂にも食事場所からも一番遠いけれど、トイレはあるのだ。迷子になる恐れはあるが馴れれば問題ない。それなら文句はない。ずっと雨らしいので、ゴロゴロしながら温泉と読書に専念するつもり。早めに着いたのですでに一風呂あびて、缶ビールを飲んでいる。

まず、はい、と言え、はい、と

 なにか言われて、はい、と言う人のなんと少ないことか。はい、と言うことは相手に負けたとか、服従することだと思っているのだろうか。それとも、はい、と言うと相手の言い分を認めたことになり、損をするとでも思うのだろうか。もちろんそういう場面もあるだろう。そんなときにまで、はい、と言え、などと言っているわけではない。

 

 はい、は相手の言うことを聞きましたよ、ということであって、いささかの相手への敬意を含むものでもある。しかるのちに自分の言いたいことを言えばいいのである。そういう私だって必ずしもはいとばかり言うわけではないが、比較的に抵抗なく、はい、と言ってきたほうだと思う。あまり愛想のいい人間ではないけれど、附き合いにくい相手や目上から嫌われることが少なかったのは、素直に、はい、と言うことが多かったからだと思う。

 

 たまに、はい、と自然に返事があると、その人に好感を持つものだ。それがわかっているから、接客マニュアルなどに従って、とってつけたような、はい、が使われるのだろう。しかし中身がすかすかの、はい、は、はい、ではない。それが却って、はい、を使いにくくしているのだろうか。

 

 息子は比較的に素直に、はい、と言っていた気がする。娘は・・・言わないことはないが、少し口惜しそうに、はい、と言う。言うだけマシか。むかしは女性は、美しく、はい、と言う人がいたものだが、いまは却って女性ほど、はい、と言わない。意識が高くなったのだろう。皆が言わないから、あえて言うと値打ちが上がるのに、と思うけれど、だからこそ死んでも、はい、と言わないことにしているのかも知れない。

 はい、と、ごめんなさい、すみません、を決して言わない人がいる。言えないのだろう。たいてい、ありがとう、も苦手に見える。

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はい、と言わずに、べぇっ、と言う。

2024年11月30日 (土)

ケチると辛くない

 秋になって、白菜の塩漬けを切らさずに漬け続けているが、少し辛いのが好きなので、その時に干した唐辛子を多めに入れて漬ける。干した唐辛子は山間部の道の駅などで手に入るから購入し、たっぷりある。漬けたあとの唐辛子はもちろん食べないから捨てるのだが、元よりも赤色が鮮やかになっていて、また使えるような気がしていた。試しに捨てずにとっておき、また使ってみた。発酵は、もしかして加速したかも知れないが、辛さはだいぶ減っている。はっきりいってあまり辛くない。連用はできないのだと知った。

 

 来年の準備として、カレンダーと手帳を買いに行った。カレンダーは大判で紙の厚い、日付だけのもので、その日の用事を書き込むことができる。それを定席の斜め前の壁に掛けてあるので、予定が一目でわかるようになっている。なければ忘れて困ることが増えているので必需品だ。済んだことでも大事なことは記入しておく。息子夫婦がきたのはいつだったかな、富山へ旅したのはいつだったかな、などと見返すことができるようにしてある。

 

 現役時代はもらう手帳が何冊もあったし、営業所でもらうものがあったのでよりどりみどりだったが、世の中がケチりだしたらどんどん少なくなっていった。とはいえ仕事に使うためのものは別にすれば、私用には二冊あれば十分である。一冊は読書記録で、これは三十年以上継続していて保存もしている。だからいつどんな本を読んだのか、何冊読んだのかが判る。もう一冊は備忘録や雑感を記録するものだったが、いまはブログを書いているので不要になった。読書記録用の手帳は革張りのしっかりした少し高いものを毎年購入する。もったいないからきちんと使う。そういうものである。

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辛いものを食べたバケモノ?

本文とは関係ありません。変な夢を見たりしているので、気分転換に出かけることにしました。

『男女驚学』

 江國滋の『男女驚学』(旺文社文庫・副題は『娘たちに贈る覚書』)を読了した。この本のことは別にして、旺文社文庫は1965~1987まで出版が続いたが、いまは事実上ない。この文庫には内田百閒の作品が四十巻ほどで網羅されている。これは旧漢字旧仮名遣いであるのも優れていて、内田百閒はできればこれで読みたいところだ。内田百閒は福武文庫(のちにベネッセ)でも出版されていて、こちらは新漢字新仮名遣いだ。私は両方もっているが、福武文庫版は処分するつもりでいる。

 

 旺文社文庫には、ここでしか読めない作品がいろいろあって、それは特殊なことではなくて、見識が高くて本当に優れたものを扱ったからだと思っている。それだけいまはどうでもいい文庫本が氾濫し、腰を据えた、内容のある文庫本が少ないということでもある。

 

 江國滋の一端を知るために二三引用する。

 

 (買いだめについて縷々述べたあとに)
 イヤな感じの正体は何か。一言でいえば「あさましさ」である。
買い占めは投機、買いだめは防衛。そうして買い占めは「悪」、買いだめは「あさましい行為」であるなあ、とつくづく思う。人間、あさましくなってはいけない。

 

 ものごとの本質から目を逸らすことによって、確実にもたらされるものは平常心の欠落であり、平常心の欠落はまちがいなく精神の荒廃を招く。

 

 人間の「老い」というものの姿を直視することはすこぶる勇気を要する精神作業だが、その勇気を持つことがほんとうの「敬老」の第一歩なのである。敬愛したくても、とてもじゃないけどそんな気になれないというのが、老いというものの本質的な実相であり、長寿を祝うどころか、早く死んでもらいたいとさえ思うような、そういう悲惨な状態をハッキリ認識した上で、なおかつ老人を見捨てないという忍耐が、老人問題のすべてである。
(小略)
 老いというどうにもならない無残な訪問者によって、確実に破壊されてゆく肉体と精神の、そのボロぎれのような姿もまた人間の尊厳の一つにほかならない。

 

 べつにどこといってからだに故障があるわけできないのに、妙に気がめいるような、何もかもおもしろくないような、神経がイライラするような、いうなればふさぎの虫にとりつかれたようなあんばいになって、会社に行くのが気が重い。そういう日が、あってあたりまえなのである。

 

 わかるなあ。

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先日読了した『男性作法』とともに。表紙の絵は江國滋本人が書いたもの。本人は、子供の絵、などと謙遜するが、なかなかどうして。

2024年11月29日 (金)

発作的に出かけることにした

 長野県の友人から毎年送られてくるリンゴが今年も届いた。甘くて香りが高く、美味しい。一箱送られてくるので、とても食べ切れないから娘にお裾分けした。私は酒好きなその友人に毎年正月用の酒を送る。その友人も何年か前に会って飲んだら、ずいぶん弱くなっていた。口が重かった男が少し饒舌になって、しかも同じことを何度も言う。お互い様であるが、私は語りたりなかった。そろそろこういう贈り物の交換も打ち止めにしよう。礼状にその旨書いて送ろうと思う。

 

 なんだかこのところ気持ちがくすぶっている。妻の面会に行って、今回は前回よりも多少意思疎通できたのは好かったのだが、ことばに注意しすぎてくたびれてしまった。次回の12月には娘と一緒に、買ってほしいと妻に頼まれた衣類などをもって面会に行くつもりだ。

 

 昨晩、発作的に出かけることに決めて、安い温泉宿に予約を入れた。新潟と東北を連泊するつもりである。天気は悪い。今回は景色を楽しむというより、かねがねしたいと思っていた、温泉に浸かりながら読書三昧をすることが目的である。肩や腰が痛い。それを癒やすとともに、精神のリフレッシュもできれば何よりだ。宿は思いきり安宿を択んだ。食事は質素でかまわない。ぼんやりできれば良いのだ。だから旅の写真はほとんど撮らないと思う。ブログの更新はできればするつもりだが、判らない。

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冬の日本海。

『含笑花の木』

 陳舜臣の随筆集『含笑花の木』(朝日学芸文庫)を読んだ。さまざまなところに掲載された小文を集めたもので、主に1980年代に書かれたものだ。身辺の雑事、世相雑感、古今の歴史、紀行文、交友、推奨本への献辞など、さまざまな文章が含まれていて、しみじみと胸にしみるものも少なくない。この人のとても穏やかで心優しさが判るとともに、その底にある、頑とした芯のようなものも感じられる。穏やかそうに見えて、やり場のない怒りも燃えているのだ。それは彼の体験してきたさまざまな不条理に対して感情を抑え込んできた積み重ねによるのだろう。

 

 含笑花(がんしょうか)というのは中国式の呼び名で、生薬名でもある。モクレン科の樹木で、正式名はカラタネオガタマという。花は甘い優しい香りがする。中国ではその香りをお茶に移して楽しむ。陳舜臣にとっては、その花の香りは母の香りだという。母は含笑花の花を髪に挿したり、胸にかざったり、部屋に枝を置いたりしていた。彼の子供の時に母の匂いとして刻み込まれていたのだ。その含笑花の木について語りながら、彼が生まれ育った神戸の街の変遷も語られる。大事なものが容赦なく失われ、変化していく。

 

 ごく短い表題と同じ『含笑花の木』という一文を読んだだけでも深い余韻のあるものになっている。

 

 珍しく現実の政治について論じた『政治は倫理の「技術」』という一文の中から一部を引用する。

 

 理想がほんもので、それが高くかかげられておれば、私たちは現実の政治技術面について、かなりのことに目をつぶる。権謀術数はおぞましいものだが、不完全が宿命の政治にはつきものだと、だれもが知っているからだ。
 理想が高いとは、倫理性が高いことにほかならない。政治家が自由に思う存分腕をふるいたいのであれば、倫理性を高めるべきである。私たちは彼らに多くのことを許す。
 許容の限界をひろげてもらおうと、理想をより高くみせかける詐術もおこなわれるであろう。それを見破るには、賢明でなければならない。倫理をはかる物差しは、国民が賢明であればあるほど正確になる。
 懸命になるためには、判断のための資料を多くもたねばならない。ことに倫理にかんしても、やはり言論の自由が基本であるという結論になる。
(小略)
 民は倫理を欠く政治家を信頼しないものなのだ。

 

 中国の歴史を知り、近現代の歴史を身をもって体験してきた陳舜臣が語ることばは、観念を越えて深い意味がこめられているのだ。

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敦煌の鳴沙山から月牙泉を見下ろす。

«要注意と言われても

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