2024年9月14日 (土)

生きていれば

 生きていれば避けようがない苦難や難問が立ちはだかることがある。些細なものから超難題まで、なんとか乗り切ったからいまがあると、この歳になって思う。乗り切ったのであって、乗り越えたわけではないので疵として残ったものも少なからずある。他の人から見れば何ほどもないことでも自分にとっては難問だったというものはあるものだ。

 

 もともとぐじぐじと考えるたちなので、とにかくとことん考える。そしてこうすればなんとかなる、などと答を見つけ出せることはまずない。答が見つかるくらいなら難問ではない。追い詰められると目をつぶって問題の中へ身を投じる。その時にはなにも考えていない。無というか、空っぽになって臨機応変で行くだけだ。自分がどれほどの人間か試されている。過ぎてみれば、その積み重ねが多少なりとも自分を強くした。

 

 自慢話をしているわけではない。よくまあなんとかなってきたものだという感慨を覚えているだけだ。もうあんな思いはしたくないということがいくつもある。だからもう一度人生をやり直す、なんてまっぴらである。違う道なら楽だなんて信じられない。もっと苦しいかもしれないではないか。

 

 人が何かを成し遂げたら、素直に賞賛したいものだ。おかしな揚げ足とりを見聞きすると、お前はどうなのだ、とつい思う。世の中は揚げ足とり、ヤキモチ焼きがあふれているように見えて情けない気がするが、もともと人間世界とはそういうところなのかもしれない。

はやければ

 はやければ夕方から雨が降るというので、スーパーへ買い出しに行く。トイレ掃除をしてから風呂で汗を流し、今度は風呂掃除をした。体調不良でサボっていたが、ようやくやる気になる。さっぱりした。これから久しぶりに鯖サンドを作ろうと思う。

 

 ベランダの朝顔は枯れ葉が増えてきて秋を感じるが、花はこぶりになりながら、それでも毎日二十から三十も咲き続けている。濃い色の花の割合が増えている。それにしても種がほとんどできないのはどんな加減なのだろう。ニラと松葉ボタンは花だらけである。こちらはたぶん種だらけになると思われる。ほんの少しあれば好いのだけれど。

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ニラの花。

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松葉ボタン。繁茂して鉢が見えない。

結果良し

 令和の米騒動、などとマッチポンプが未だにいうけれど、もともとそんなものはなかったのだと思う。未だにいう人間を覚えておいて、二度と耳を傾けない対象のリストに加えておくことにする。

 

 結果的に好かったと思うことが今のところ二つある。一つは農家からの米の買い取り価格が高くなったこと(つまり農家の収入が増えたこと)、そして米の消費量が一時的ながらも増えるであろうということである。どうして米の消費量が増えるのか。米は精米してしまうと味がおちていく。だから精米したものをたくさん抱えていても仕方がないからせっせと食べていくことになる。余分に買い込んだのだから、以前よりは食べる頻度が必ず上がるであろう。

 

 それに、高くなったとはいえ、他の主食、麺類やパンよりも米が高いということはないのである。主婦が炊くのが面倒に思ったりして炊く回数が少なくなり、給食で米を食べる機会も少なくなりと、そういう理由で消費が減っていただけであろうと考えている。それなら米を食べる回数が増えたから家計にずっしりと重くのしかかるなどということのあろうはずがない。かえって安くつくかもしれないほどだ。

 

 デフレ経済脱出にはなるし、農家の収入が増えることは農業を守り食糧自給率を上げるための第一歩でもある。そこまでの事態でもないのに、備蓄米を放出して米を安くしろ、などという人間は目先の大衆迎合者だと思う。もちろん、米の消費が増え、今度は本当に需要が増えてたりなくなったのなら、その時に備蓄米を放出すればよいのである。そうして減反で使わない田んぼのうちの、まだ回復可能なところで米を増産すればよいのである。

2024年9月13日 (金)

三日目

 自分は、現実世界を五感を通して認識し、考え、行動している。ところが、心身が不調になるとその五感と現実世界のあいだに膜のようなものが介在したようになる。その膜のために応答が悪くなり、世界はゆがんで見えにくく、そして感じにくくなる。

 

 今回の体調不良ではそんな感じをとくに強く感じた。発熱して本格的に不調になったのは土曜日からだが、それよりずいぶん前からその不調の膜が自分に張り付いていたような気分で、感覚が鈍いから、結果的に自分の行動も鈍くなる。なんとなく年齢による鈍さのように思えて、諦めの気分ももった。ますます厭世的になる。テレビで熱中症などによる精神的な不調について症状を説明していたがなるほどと思ったものだ。

 

 水曜日に検診を受け、本格治療が始まり、今日で三日目。時々微熱が出たりしたが、それもなくなった。それ以上に私の心身に張り付いていた膜のようなものが、次第にあるようなないようなものになり、薄れて消えつつあるのを実感している。世界がようやくクリアに見え、感じられている。いままではなんだったのだろうと思うほどである。些細なことなら、しようと思ったことはすぐすることができるようになった。

 

 この夏の猛暑は体だけではなく、体を通して心にもずいぶんと深刻なダメージを与えているらしい。ようやくこころからビールが飲みたいと思うようになっているが、まだ我慢している。

つながらなくなる

 ぼんやりカレンダーを眺めていたら、今日が13日の金曜日であることに気がついた。だからどうということはないが、どうということでもないからたいてい気がつかない。仏滅の三隣亡なんて、いまは気にする人はないし、そもそも知らない方がふつうかもしれない。

 

 ネットが突然つながらなくなることがある。一年ほど前からだが、以前は二三ヶ月に一度、それが月に一度になり、いまは月に二三度になった。ルーターの電源を落としてしばらく置いてからつなぐと元に戻る。ルーターを新しくしてから速度が目に見えて向上したのだが、代わりにこの現象が起こる。大した手間ではないものの煩わしい。最初はプリンターでつながらなくなったので、プリンターとの相性かと思った。しかしいまはたいていニフティを開いていて、そこから何かを開き、さらにまた、というのを立て続けにした時に起こった。ビジー状態になるとルーターが接続を切るらしく思われるが、知識がないからたしかなことはわからない。

 

 マンションの光回線でつないでいるのだが、マンションが古いので共同回線である。本来の光回線の驚異的なスピードは望むべくもない。だからビジーに弱いのであろうと思う。i二年ほど前に個別光回線ができるように業者が設備を入れてくれているが、自宅につなぐには業者に工事費などの料金を払う必要がある。どれほどの経費と手間がかかるのか、案内があった時の資料を失ったのでわからない。昔ポケットルーターにして、旅先にも持参して便利に使っていたが、容量制限があるのでプログラムの更新などでパンク(容量オーバー)すると異常に遅くなり、それに閉口して光回線に戻した。

 

 ホームルーターはいまは容量無制限で、それにするという考えもある。困っている度合いが低いので、費用が必要な新たな手立てを講じるメリットに得心がまだない。もっとトラブルが頻発するようなら手を打とうと思う。

『パイプのけむり』

 このところずっと、寝入って二三時間で目が覚めてしまい眠れなくなる。昨晩もそうして寝床で輾転反側していた。起き出すともう明け方近くまで起きていることになるので、スタンドの灯りをつけて寝床で團伊玖磨の『パイプのけむり』を読み出した。途中でいつの間にか眠っていたが、朝寝坊をしてしまった。自分に遅刻で、遅刻は嫌いだがいまは体調回復に努めている時期であり、ルーチンにはこだわらないことにしている。

 

 文庫版の『パイプのけむり』は作曲家の團伊玖磨のエッセイ集で、1964年(東京オリンピックの年)から雑誌『アサヒグラフ』に連載(毎週)が開始され、シリーズになり、まとまると本になって出版された。私の手許には20冊ある。軽い読み物が多いが、ときにずしりとくるものが混じる。團伊玖磨は生き方に断固たるこだわりがあって、決して軽くないのだ。そこにふれるとときに気持ちが引き締められる。人はこだわりを持つほどの生き方をしなければならないと教えてくれるようなエッセイが好きだ。好いエッセイはたいていそうであり、残してあるものはすべてそうだといえる。

 

 第一冊目の目次には鉛筆でいろいろと薄く印がつけられている。それを懐かしく思いだした。この本を読み始めた頃、まだ世の中はパソコンの黎明期で、ソフトでワープロを使うなどというほどの能力はなく、高価だった専用のワープロ機がようやく普通のサラリーマンにも買えるほどになり、私も大枚をはたいて東芝のRUPOというワープロ機を買った。その頃はまだインクリボンを使うから、その消耗費も高い。

 

 『パイプのけむり』が面白いから、と両親に勧めたけれど、字が小さくて読むのがつらい、といわれた。そこで思いついたのが、自分のキーボードの習熟と両親のために、ワープロで文字を大きくしてプリントすることだった。そのためにどれが両親に面白く読んでもらえるか、どれが読んで好かったと思ってもらえるか、内容を考えて選別し、せっせとワープロに写し取っていったのだ。その選考のあとが目次の印なのである。これを冊子状にして、しばらく続けたから何冊もあった。あれはどうなっただろうか。懐かしい。おかげで文章を読む力も少しは身につき、キーボードもそこそこ使いこなせるようになった。それ以来の仮名漢字変換なのである。わたしのこだわりである。

2024年9月12日 (木)

スタンドライト

 灯りは天井に取り付けられているものだという思いがある。その灯りで部屋中を煌々と照らすのが文明的生活だと思っている。しかしホテルなどではスタンドライトの明かりがメインの部屋がある。海外ではたいていスタンドライトしかない。明るさがたりない気がするが、西洋人はむやみな明るさはムダだと思うようだ。

 

 蛍光灯からLEDに替えた部屋とまだの部屋とがある。蛍光灯の寿命待ちのところがあるのだが、寝室の灯りは棒状四灯式の蛍光灯で、これをLEDに替えるのは専門の工事が必要なようだ。寝室なので部屋中を明るくする必要がないと考えて、ホテルみたいにスタンドライトがないかネットで調べたら、さまざまなものがある。ライトは別で、スタンドだけなら大した出費でもない。択んだのは、一本のスタンドの二灯式でひとつは天井に向けた間接照明、ひとつは下向きのスタンドライトになっている。これなら本も読めるし、てもとのスイッチでそれぞれの消灯もできて楽である。早速手配した。

 

 布団での寝起きをしているが、次第に起き上がるのが大儀になりつつある。いつか簡易式の電動ベッドを置くことになりそうだが、その時もスタンドライトの方がふさわしく感じる。ベッドを考えたのは、部屋の壁面に本箱が立ち並んでいて、転倒防止はしているものの、大きな地震では本も本箱も倒れるものと覚悟している。それならベッドの方がだいぶそれによる傷害の危険が小さいと思うからだ。壁の掛け時計は外れて飛んできそうな気がして先日下におろした。私としては、本に埋もれておだぶつになるのは理想ともいえるが、痛い思いはしたくない。

完璧な人間ではないからまちがいもある

 兵庫県の知事が言い訳のつもりであろう、「自分は完璧な人間ではないからまちがいもあり・・・」などと述べていたのを聞いて、何が言いたいのだろうと思った。自分がまちがいを犯したと認めているのだろうか。どうもそうではなくて、完璧ではないのだからまちがいを犯すのは仕方がないのであって、それをいちいち追求するな、といいたいようである。たしかに完璧な人間などいない。完璧ではないから間違うのは仕方がない。しかしまちがいはまちがいとしてその責任を取るのがこの世の理(ことわり)というものであって、完璧ではないから責任は取らなくていいかの如き言い方はとんでもない論理の飛躍である。詐欺である。こんなことが通用したら、この世は放置されたままの間違いだらけになってしまう。

 

 このひと、ほとんど現実から遊離して、あらぬ彼方に飛んで行ってしまったようで、腹が立つよりあきれ果てるしかない。さすがに売名のために逆張りして彼を擁護する人も、今回はほとんどいないようだ。知事としていかに地位にしがみついても知事の任期が来れば退任しなければならない。それくらいはわかっているだろう。そうでなければ狂人だ。そのあとは・・・政治家として彼はもう終わっている。そしてこのままでいれば、人間として終わっている、と誰もが思い、誰も相手にしなくなる。

賑やかなことで

 選挙がますます人気投票になる傾向があるのは残念なことだが、そういう価値観からしか選べない人も多いらしいから、これも民主主義の宿命か。投票するヒトの意識を高めなければならない、などと声高に言ってみても、そうだ、と賛同するのは意識の高い人だけである。

 

 自民党の総裁選の報道が賑やかで、党員ではない人が何を言おうが考えようが選挙には関与することはできないのだが、それなりに誰がよいのかと考えたりしてしまう。やはり国のあり方に見識を持ち、自分が何をするのか確固たる信念を持ち、人望のある人が善いのは当然として、あの田中真紀子の小泉進次郎批判はいささか不快に感じた。政治家としての彼女がどういうことをしてきたか、という記憶をたどると、よく言うよ、と思う。彼女は林氏がもっとも総裁にふさわしいという。何のことはない、親中国、配慮の姿勢を支持しているようにしか聞こえない。

 

 石破氏は言っていることが明晰で論理的であるから一般の人気があるが、政治家の中での人望がない。トップに立つにはそれを支える人たちを集めなければならない。一人でできることは限られている。小泉氏が軽い、というのはたしかだけれど、それなりの担ぐ人が集められているのかどうかが問題で、本人もそれをちゃんと理解しているようだ。重みと意欲のあるブレインがそろえば善いのだが、人気に頼る人ばかり集まっているなら田中真紀子のいうとおりになってしまう。

 

 役割を与えられて、意外に実力を発揮する人もいれば、見かけ倒しで役割の重みに潰れる人もいる。つまり、なってみなければわからないところもあるわけで、総裁選とその結果、その後、と見ていくことにしよう。

 

 立憲民主党の党首選は野田氏がリードしているように見える。泉代表があまりにもお粗末で党勢をますます衰退させてきたから、再選はあり得ず、枝野氏はあのくちばしの先でピーチクパーチクいう語り口にもうんざり(あの原発事故の時の、知っていながら事実を伝えない嘘八百にも腹が立つ)だから、野田氏のリードは当然に見えるが、この人に私は偏見がある。尖閣国有化に関してのいきさつと、中国胡錦濤との折衝が現在の習近平独裁への道筋を開いた、と考えているからだ。このことは何度も書いたのでいまはやめておく。立憲民主党は、誰が党首になっても旧社会党の凋落の轍を踏むようにしか見えない。批判しか武器がない政治家など、面白いけれども信頼されるわけがない。そういう意味で多少は野田氏にそれを期待してのリードなのだろう。

 

 体調不良で伏せっていたので、もともと乱れがちだった睡眠がさらに乱れてしまった。夜中に目が覚めて眠れなくなってしまう。安眠できにくいのは体調復活に好くないと承知しながら如何ともしがたい。泌尿器に棲みついた菌との戦いは継続中。来週の検診で効果が確認できればよいのだが・・・。医師は今回の発熱を意外に深刻に捉えていて、それで私もこれは大ごとらしいとあらためて感じている。

2024年9月11日 (水)

点滴を受ける

 病院での経緯はほぼ想定通り、医師には「発熱の件は承知しています。場合によって入院処置が必要とも思いましたが、熱が下がったというのは珍しいことです。発熱すれば行くところまで行ってしまうのが普通ですから」といわれる。「とにかく抗生物質で菌をできるだけ減らしましょう」とのことで抗生物質の点滴を一時間弱受けた。少し楽になった気がしたのは横になっていたからか。とにかく病院までのあいだに大汗をかいて、きているものがぬれている。病院の冷房で途中から少し肌寒くなった。

 

 一週間分の抗生物質を処方される。前回、前々回は一種類だったが、今回は二種類だ。ダブル攻撃というところか。一週間後に血液検査も含めて再検査し、その結果でつぎを考えるそうだ。点滴を済ませて薬局で薬を受け取ったらもう五時近い。帰って夕飯の材料を仕込まなければならない。夕方でもとても暑い。帰り道に日陰がないので、歩いて20分の道のりがつらい。

 

 とにかく水分を思い切り摂りなさい、抗生物質で腹が緩くなる可能性もありますが、気にせずどんどん水を飲み、小便が透明になるように努めなさい、といわれている。それならどこへも出かけられない。これからの一週間は引き続き菌との戦いだ。

玄関をパスできるかどうか

 これから泌尿器科の検診のために病院へ出かけるので体温を測ったら、36.9℃と微熱である。到着するまでに体温が上がると、玄関での検温がパスできずに別室へ連れ込まれてコロナ検査をさせられる恐れがある(前回、三年前はコロナ禍の最中の救急外来だったからそうだった)。しかしそれを回避できるかどうか心配しても仕方がない。煩わしいけれど指示に従うだけである。検尿が遅れ、検診が遅れ、帰るのが遅れ、くたびれて体調が再び悪化しないかどうかが心配なだけである。

 

 たぶん抗生物質を処方され、それを飲み続けて来週再び検査して結果を調べ、改善が見られればそれで終わりだが、そうでないともう一度最初から、ということになる。最悪発熱状態で病院に行くたびにまたコロナ検査からということである。いやだなあ。つい悪い方に想像が行ってしまう。

大したものは要らない

 養老孟司の『ヒトはなぜ、ゴキブリを嫌うのか?』(扶桑社新書)という本の帯に「大したものは要らないことを、そろそろ学びましょう。」とある。たしかに一個人として本当に必要なものをはるかに超えて、身の回りにはものがあふれている気がする。そのことについて考えた。

 

 私の場合はあふれているのはとにかく本である。エンターテインメント本は、読んだ尻から処分しているからお気に入りの作家のごく一部と未読の本が数百冊だけであるが、評論、随筆、歴史、思想、古典、文学などの本は、繰り返し読むことを想定しているので増えていくばかりである。頑張っても年にせいぜい二百冊程度の本しか読めないが、以前と違って娯楽本をあまり読まないから減らずに増えるばかりである。

 

 数千冊の本を眺めて、物理的に全部読むのは無理だとため息をついている。「大したものは要らないことを、そろそろ学びましょう。」ということばに、うなだれるばかりである。だが言い分はある。

 

 本には繰り返し読む値打ちのある本がある。こちらが書いてあることを完璧に理解できれば一度読めば好いけれど、何しろざる頭であるから、その何十分の一かが荒いざるの目に引っかかるだけである。何度も読んで次第に全体が見えることもしばしばである。とはいえ、一度目に感激したのに二度三度読むうちにそれ以上のものがくみ取れなくなることもある。ときには時間の無駄だったと思うものもある。それらは本の問題ではなくて、こちらのレベルや好み、興味のあり方の問題である。本当の駄本はこれだけ年季が入るとあまり摑まなくなった。

 

 本当に要るものは数少なくて、それだけあれば十分だが、残念なことにそれは読まなければわからない。そして一度読んだだけではわからないことの方が多いのである。必要なものを見つけるために、必要ではないかもしれないものの山ができてしまうのである。だからこの本の山は、私にとってすべて必要なものなのだ。

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今朝の夜明け。

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少し明るくなってきた・・・、じつは露出を少し変えただけ。

今日は午後から病院へ行く。暑すぎないと好いが・・・今日も、そして今週は連日猛暑日予想。

2024年9月10日 (火)

病膏肓

 病気になって治らない状態になることを「病膏肓(やまいこうこう)に入る」という。本当の病なら深刻な事態であるが、この病が「悪癖」という意味で使われることが多い。病にはそういう意味があるのである(辞書にも載っている)。

 

 発熱して伏せっていて、体温が38℃近辺のときはさすがにただじっとしていたが、37.5℃を切る頃になると辺りをキョロキョロし始める。手持ち無沙汰なのである。音楽を聴いてみるとうるさい。ところが本を開くと少し読める。十ページか二十ページ読むとさすがに疲れて本を閉じ、うとうとする。一眠りするとまた違う本を開いて少し読み、また一眠り。気がついたら七八冊の本が横に積まれている。

 

 エンターテインメント本は読めない、というよりもそういう読み方になじまない。森本哲郎や、養老孟司、西部邁(すすむ)、高島俊男、山本七平などの本を読み囓った。読みながらぼんやり書かれていることを考える。考えると疲れるから眠ってしまう。眠るために考えているようなもので、ほとんど何かまとまったものになるわけではないが、意識が働いていることを確認して安心しているようなところがある。

 

 養老孟司の本の帯にあったことばについて、ちょっと考えたことがあるが、これ以上書くのが少ししんどくなったので次回にする。

ほぼ平熱に戻る

 おかげさまでほぼ平熱に戻った。明け方に悪夢を見て目覚めたが、そのままじっとしていたら再び眠りに入る。シーツがじっとりするほど寝汗をかいていたので、下着やパジャマなどとともに洗濯している。

 

 熱が下がったのにフラフラする。からだに力が入らない。今日一日おとなしくして、明日には普通の状態に戻れれば好いのだが、油断すると夜になってまた発熱、という経験もあるのでおとなしくしていることにする。

2024年9月 9日 (月)

微熱程度に

 汗をかいては下着を交換してひたすら安静にしていたら、午後になって少し楽になってきた。体温を測ると37℃あまりの微熱にまで下がっている。このまま平熱まで回復するするために、栄養を補給ながら安静に努めることにする。いろいろ心配いただいてうれしい。

 

 三年程度の周期で起きる持病(慢性前立腺炎)の発熱とほぼ同じ症状と思われる。ただ、いつもよりは症状が軽微なのでありがたい。自分勝手な診断はまずいので水曜日に泌尿器科の検診を待つ。とにかくいまはその検診に病院まで自力で行けるようにならないといけない。

2024年9月 8日 (日)

しばらく休みます

 熱が下がりません。しばらく安静を続けて回復を待ちますので、ブログはしばらく休みます。

体調不良、発熱

 ここ数日、だるい状態が続いていたので、夏バテかと思っていた。昨日にはどうもおかしいぞ、という状態になっていた。風呂に入り、早めに寝たが、夜中になって背中や腰が痛くなり、発熱しているのではないかと思って体温を測ってみたら、なんと37.8℃もある。どちらかというと発熱には弱い方なので、その体温を見てさらに具合が悪くなった。喉が痛いわけではなく、咳もまったく出ない。呼吸器系の疾患ではないようだがわからない。

 

 泌尿器科の慢性疾患が持病で、治療中であり、何年かに一度、過労や睡眠不足などで体調が低下すると、棲みついた耐性菌が暴れ出し、発熱する。たちまち38℃を超えてしまい、排尿痛、排尿困難という状態になる。いまは少し出にくい程度で最悪の状態の手前のようである。前立腺などが腫れて、尿道を塞いでしまうのだ。その痛みとつらさは経験しないとわからない。脂汗を流しながら時間をかけて少しずつ排尿することになる。

 

 昼前にかかりつけの病院の救急外来に電話してみた。排尿困難がひどくなったらすぐ来なさい、まだそこまで至っていないようですね、ということであった。泌尿器科の専門医は名古屋大学からくる医師なので、水曜日の午後しか来ない。じつはその日に診療を予約しているのである。それまで安静にして水分をせっせと取るようにしてみてほしいとのこと。治療は抗生剤をある期間投与することになるが、耐性菌になっているので、以前とは違うものを次々に投与するが、その辺の判断は経過をよく承知している専門医でないとわからないようだ。

 

 アイスノン枕をして、ゆっくり寝て、汗をかき、着替えをして体温を測ったら少し下がっていた。この程度でおさまって、水曜日までもてばありがたいのだが。

知的レベルが低い

 小泉進次郎氏の総裁選出馬の会見で、ある記者から「あなたは知的レベルが低い。それなのに首相を務めることができると思うのかどうか」という質問があったそうで、それが物議を醸している。およそたくさんの人がいる前で、当人に知的レベルが低い、と言ってのけるのは非常識で失礼極まりないから、いろいろ批判があるようだ。非常識であるかどうかといえば、ほとんどの人が「非常識で失礼だ」と考えるだろうが、記者という人たちの多くは、非常識とか失礼とかいう感性を押さえ込まないと成り立たない商売らしいことは、私が長い経験で知らされ続けてきたことで、その是非についてはさまざまに論じられているようなのでそちらに任せる。

 

 問題は、「知的レベルが低いのに」首相が務まると思うかどうか、という質問の中にある罠である。首相が務まるかどうかの質問に、すでに知的レベルが低いことが前提されているのである。務まると答えるしかないのに、そう答えた時点で知的レベルが低いと認めさせる力がある。問題は、知的レベルが低いという事実が、正しいかどうかという次元を超えている。これは事実か否かということが問われるべきで、事実であるなら根拠、その判断基準を示さなければならない。どういう基準の下に知的レベルが低い、と決めつけるのか、それを示さなければならないはずだが、あまりそれが問題視されていないこと、そのことに危惧を覚える。

 

 そもそも印象や感想は人それぞれで、論争になじまない。印象操作と事実か否か、という問題がごちゃ混ぜにされて、どういう基準でそういうことを言うのかという本質を問われないまま騒ぎになっていることに、相変わらずだなあと思って見ている。

2024年9月 7日 (土)

笑えないのは

 むかしはお笑い番組を見て腹の皮がよじれるほど笑い転げたこともあったが、いまはまったく笑えない。笑えないのは、私が笑いに鈍感になったせいだろうか。もちろんそれもあるが、お笑いの芸そのもののレベルが下がったということはないだろうか。コント55号を見て笑い、クレージー・キャッツを見て笑い、ドリフを見て笑った昔が懐かしい。いまはわずかに『笑点』を見て時々笑うくらいだ。

 

 むかしから落語が好きで、何人かの昭和の落語家のCDをときどき聴くことがある。間の取り方の絶妙さ、そして同じ話を何度聞いても笑える芸の深さと楽しさ。いまでもそれなりに面白い落語家はいるが、名跡(みょうせき)が乱れていて、そのことがつい頭に浮かんで素直に楽しめなかったりする。江戸前の落語では正蔵の名跡が私的な所有物みたいになって、正蔵の名を地に落としてしまって以来、芸の重みのようなものが雲散霧消したように見える。関西では、あの、もと三枝とかいう、間が悪くていかにも聞き苦しい男が文枝、などという名跡を継いでいるのを見ると、 いまは名跡と芸とは関係ないのだと思い知らされる。

 

 ときどきは腹を抱えて笑いたいけれど、つい苦虫をかみつぶして鼻先で笑う笑いばかりが浮かんでしまう。笑いは長命のための百薬の長らしいが、これでは長生きできそうもないなあ。

人間性

 人間性というのは、会った瞬間にわかることもあるけれど、しばらく付き合って初めてわかることが多い。

 

 兵庫県知事の人間性らしきものは、報じられているものを見ていると、どうしてこんな人間が知事になってしまったのか、してしまったのかと思うけれど、それまでわからなかったのだろうか。わかっていたけれど、これほどとは思われていなかったということなのだろう。ここまで自己肯定感の強い人は、なかなか自分の行動を振り返って見直す、もしかしてやはりまずかったかなと思う、ということができない人のように見える。

 

 本人に自覚してもらうために、よってたかって問題点を指摘しているが、畏れ入る気配はない。こういう人は時々いて、ときに有能だったりする。その精神の強靱さ(鈍感さ)にはこちらが畏れ入る。今さら引っ込みもつかないし、下手に弱みを見せると損だと計算しているのだろうか。鈍感さが強さであるかのような世界は生きにくいなあ。

とことんだらける

 いまでも十分だらけているのだが、それでも長く続いた引きこもり生活に、心身ともになんとなくくたびれていて、その疲れがとれないで、さらに蓄積しつつあるような気がしている。中途半端な焦りがよくないのではないか。だから、もうこれ以上だらけてはいられない、と思うまでとことんだらけてみようと思う。さいわいそれができる。ますます泥沼にはまるかもしれないが、自分の復元力に期待して。

2024年9月 6日 (金)

もう少しましだと思っていたのに

 世界は欲望で動いているらしい。そこに多少の理念が関わっていると信じたいし、それによって少しは良い方向に向かうものと希望していたが、いまはますます欲望がむき出しになってきて、理念など吹き飛んで行きつつある。損得である、金である。

 

 誰だって損はしたくないし、少しでも余分に手に入れたい。損をしたくないから人より多く取る。自分が欲張りだなんて少しも思わない。取られたくないから自分のものにしたという。行き着く先はしれているけれど、どうしようもない。いまに起こるべくして何かが起こる気がする。

 

*理念・・・それによって理性の働きが統一されるところの概念
**事件は「起きる」のか、「起こる」のか。「起こる」、であった。

戦争に当てる光

 戦争というものにさまざまな方向から光を当てて、その原因や経緯、その結果などについて少しでも立体的に把握したいという思いがある。そうして知ったから何ができるのか。何もできはしないが、何も知らずにいるよりは知っている方がいいと信じている。

 

 高島俊男『ことばと文字と文章と』という本の後半は、角田房子の『責任 ラバウルの将軍今村均』、『閔妃暗殺』の二冊を元に太平洋戦争についての考察がなされている。以前このブログでも取り上げたけれど、戦犯というものについていろいろ思うところもあり、それを高島俊男が補完してくれた。人間が運命に翻弄され、殺されたり助かったりする。善悪とは無関係に、である。それが戦争というもので、世の中というのはそもそもそういうもので、戦争はその極端な状況がゴロゴロしているといえるだろうか。ウクライナを見ているとそう思う。

 

 日清戦争は朝鮮をめぐっての日本の意図的な進出がきっかけになっていて、仕掛けたのは日本だと言われても仕方がない。その勝利の結果、中国から巨大な権益を得たが、それを覆したのはロシアをはじめとした列強であった。それを見て朝鮮王朝はロシアになびいた。朝鮮王朝を動かしていたのは王ではなく閔妃だったから、日本はその閔妃を排除した。暗殺どころではなく、公然と殺したけれど、それが知られないと暗殺者たちは考えたらしい。関連者数百名、主に働いた人物たちは、起訴されたが全員無罪で、のちみな要職に就いて余生を全うしている。『閔妃暗殺』は読みたいと思いながら未読の本である。

 

 戦後、日本は変わった。よくもこれほど変われると思われるほど変わった。しかし表は変わっても中身は変わっておらず、いうことがただ反対になっただけであると、その時代を知る人はいう。そのことは父や母にも聞かされたし、さまざまな人の本を読んで頭ではわかっている。

 

 国体ということばの意味がよくわからない。もちろん国民体育大会のことではなく、「国体の護持」というときの国体である。それが護持されるなら降伏を受け入れるとしたらしいが、無条件降伏ではなかったのか。護持された国体とは何か。天皇のことか。いろいろ書かれたものを読んで、それなりに理屈がついているけれど、ざる頭は理解できないでいる。皇室というものについてもいろいろ思うけれど、いまは皇室の人たちほど人権を無視されている人たちはいないという印象だけを強く持っている。

不満居士

 昨晩、先日の秋田県大曲の花火大会の録画を見た。リアルタイムで見ないのは、アナウンサーやゲストなどの長々としたお話を聞く気がないからだ。それを飛ばしながら花火だけ見れば好い。マンションなので、思い切り大音量で聞くわけにはいかないからヘッドホンで聴く。がっかりだった。重低音がカットされていて抑制された音量では迫力なし。お話の音量の方が大きいくらいのお粗末。クリアで高精細の花火の映像は、臨場感があるはずなのに、花火全体を映そうとするあまりに遠目の小さな花火の映像ばかり。つまり、遠い花火を見ている状態なのだ。ごくたまに画面いっぱいに映すとさすがに迫力満点だが、それはほんのわずかであった。現地に行ってみたいけれどそれも叶わないからせめてテレビ中継で、という人にとって、残念なことであったと思う。花火を楽しむ、ということがどういうことか、番組プロデューサーはわかっていないのではないか。おまけに花火大会の途中で番組は終了。たいてい花火大会の最後に盛大に打ち上げる大玉の乱れ打ちがあったのではないかと想像すると、なんだこれは、である。いままでの花火中継で最低ではなかったか。

 

 そういうわけで昨晩のニュースを見ていないので、五時からの朝のニュースを見た。NHKの冒頭は、日向灘沖地震に発した東南海地震警戒の顛末である。早朝のニュースなら、昨日あった出来事を報じるものだろう。それがそうでないものを延々と報じている。他の局に変えたらちゃんと三面記事的ニュースを報じていた。それは好いのだが、殺人事件の取材に、近所の人へのインタビュー、「こわいですねえ」「このあたりでこんなことが起こると思いませんでした」を聞かされる。こんなインタビューをわざわざ報じる意味があるのか。おまけにすぐCMの猛攻である。

 

 朝から腹を立てていても仕方がないが、もう少しまじめにやってくれと思う。

 

 そういえば、たまたま見た昨日の昼のバラエティニュースで、米がないとかあるとかいう話を取り上げていて、スーパーの店長が「自分の三十年の経験で、こんなに米が売れるのは初めてです。今までになかったことで、異常です。通常の入荷は続いているし、これから新米が続々と入ることが決まっているので慌てて買う必要はありません。今はとくに高値になってしまっていますが、次第に価格も落ち着いてくるでしょう」と説明していた。それに対して恵俊彰が「でも現にいま店頭に米がなくて、買いたい人が買えないのは事実でしょう」といっていた。何を聴いておるのだ、この男は。だからマッチポンプだというのだ。

 流通業者や生産者は米があることを知っている。たまたま需要が集中していて供給が滞っているだけであることを知っている。そしてこれから新米が次々に供給されることもわかっている。マスコミだって取材しているから知っている。しかし、現に店頭にない、この店もないしあの店もないではないか、「朝にはあった」といっても「今ないではないか」と言い立てて庶民の不安をあおっている。こうして余分な米を買い込んだ人たちは、高い米を買わされ、米びつに入りきらない米を抱えていつまでも前の年の米を食べさせられるのだ。農家の米の買い取り価格が上昇している、ということだけが救いか。農家だけ収入を上げられないのはおかしいのだ。農家が土地持ちであることへの焼き餅は、いま地方の地価が下がっているからもう意味がないのだ。農政やJAについても思うことはあるが、詳しく知らないことなので、今のところ語る資格はないと思っている。

2024年9月 5日 (木)

ことばと文字

 『ことばと文字と文章と』(連合出版)という本をようやく読み終えた。これは高島俊男『お言葉ですが・・・』シリーズの別巻第四巻にあたる。最初の三分の一が表題とおなじ、ことばと文字と文章に関するもので、中間に富永仲基(とみながなかもと)を取り上げながら平田篤胤の国学を批判的に論じている。平田篤胤の国学は、戦前の神国日本の基調とされたもので、天皇が神になった原点がここにあるともいえる。見方によってはゆがんだ日本の歴史の創作者とでもいおうか。それに続いてラバウルの戦犯裁判、そして閔妃暗殺、昭和十年代の外地の国語教育について調べたことをまとめて、それに自分の意見を添えている。どれも非常に興味深いものであった。

 

 戦犯裁判や閔妃暗殺以降については別に回をあらためるとして、ことばと文字については、たまたま並行して読んでいる魯迅文集の中に、彼が一般大衆(つまり知識人ではなく庶民)に向けて語ったことばと文字に関する講演を元にした『門外文談』という文章が、私の中では響き合うように感じて面白かった。まずことばがあり、文字ができた。しかし日本に文字ができる前に中国から文字が入ったために、日本ではついにオリジナルな文字は作られず、漢字が日本の文字とされた。ひらがなやカタカナはオリジナルというよりも漢字の表音化、簡略化である。

 

 漢字が知識階級のもので、文字が大衆化しにくかったのは、漢字の難しさにある。同時に知識人の特権階級化にも寄与した。明治以降漢字をなくすか簡略化する方策が試みられ、中国では漢字が意味を失って簡体字になってしまい、日本でも新漢字になって、もともとの意味と漢字が即応しなくなっている。もし簡略化するにしても、もう少し丁寧に本来の意味を考慮したら善かったものをあまりにもお粗末な簡略化だったことによる問題点を、高島俊男は繰り返し批判している。それは旧漢字擁護派のようにとられそうだが、決してそうではない。

 

 たぶん魯迅も、漢字の簡略化には反対しなかっただろうが、いまの中国の簡体字を見たらびっくり仰天して、なんだこれは、と嘆くだろう。中国の古典の本を北京の王府井や上海の書店で何冊か買って帰っていまも何冊か棚にある。むかしは中国の本はとても安かった。それはもちろんみな簡体字で書いてあるのでほとんど読めない。日本で出版された旧漢字(本字)の同じ本と比べて楽しんだりした。しかし、簡体字しか知らない若い中国人は古い文字で書かれた古典が読めない。それは残念なことだろう。それ以上に韓国の人は、自国の漢字の本または漢字交じりの本が読めないのである。それもどうかという思いがするが、余計なお世話なのであろう。

今年の初サンマ

 昨夕、サンマを買った。二匹で350円あまり、実質一匹200円ほどか。北海道産とあり、これなら思ったより高くない。一匹を昨晩焼き、今朝、もう一匹を焼いて食べた。昨年は二匹しか食べなかったと思う。一匹は買って自宅で焼いて食べた。もう一匹は旅先の食堂で食べた。買ったものは小ぶりで細身であまり脂がなかったが、それなりに美味しかった。旅先のものは脂ののった、これぞサンマというものだった。今年のものは・・・スリムだった。まあこの程度の値段で食べられるなら、あと何回か食べられるな、と思った。

気象予報士

 天気予報を見るのが好きである。バラエティニュース番組の中の、天気予報の部分だけなら全部見たいくらい好きである。もちろんNHKの天気予報はとくによく見る。全国の天気だけでなく、東海地区の天気予報も見る。そんなにいろいろ見たところで、違うことをいうわけではないのだが、好きなのである。気象予報士にはみな好感を持っている。嫌いな人というのが、気象予報士に限って言えば、いないのが不思議である。 天気予報が好きだからであろう。いまはNHKの晴山さんや淵岡さんがとくにお気に入りである。

 

 自分なりに天気の予測をしてみる。私が考えるのに必要な程度の情報は気象予報士が教えてくれる。詳しいほどうれしい。どうして天気の予報が可能なのか、などということもいろいろ教えられてなんとなく納得している。どうしてあたらなかったのか、などという後知恵の説明も、納得するから外れても非難する気が起きない。それよりも旅に出た時の天気が、良い方に外れることが多かったりするととてもうれしい。自分の念力を密かに信じたりする。

 

 天気予報が好きである。天気こそ自然であるからだろう。人間社会のいやな部分がそこにはない。

2024年9月 4日 (水)

『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』

 NHKの『ザ・カバーズ』という音楽番組があって、たまに見る。先日は好きな「ちあきなおみ」だったので、録画しておいて今日見た。プロの歌手はさすがにプロだな、などあたりまえのことを心底感心しながら番組を堪能した。この番組の案内役がリリー・フランキーで、そのリリー・フランキーの自伝的な小説を映画化したのが、前から見たかった『東京タワー オカンと僕と、時々、オトン』(2007年)である。

 

 日本アカデミー賞を総なめにしたこの映画は評判になっていたが、見そびれたままになっていた。今回見て、たしかに記憶に残るような好い映画だと思った。オカンを樹木希林が、そして若い時を内田也哉子が演じている。あたりまえだけれど、親子だから不思議なほど似ている。オトンは小林薫で、この人はどんな役でもまったく役になりきってしまう。名優といって好い。出演する俳優がみな素晴らしい。脇役やカメオ出演の人たちが、この映画をより一層盛り上げているのがうれしい。ボクはオダギリジョーである。

 

 見終わったあと、この映画に、そして樹木希林の名演に、一人で拍手した。

ただのスプラッター映画

 本を読むとなると読書三昧、映画を見るとなると立て続けに何本も見たりする。適当にいろいろ楽しむというのが苦手なのだ。この一週間で十数本の映画を見た。といっても七本は『バイオハザード』で、六本はアリス(ミラ・ジョボビッチ)が主役、もう一本は派生もので、これはアリスが出てこないし、ただのスプラッター映画の駄作であった。こんな作品をつくると、たぶん次々につくるつもりの当てが外れたのだろう、さいわいそのあとの作品はないようだ。

 

 そういえば『十三日の金曜日』のシリーズも、第一作は意外な真犯人とともに、それなりの怖さがあったが、二作目以降のジェイソンが主人公のものはただのスプラッター映画になってしまった。見ていて好感の持てない、またはただのバカな被害者から殺されていくという、見ている方がジェイソンに乗り移りかねない展開が、このシリーズの、そしてこういうスプラッター映画の定番であろうか。

 

 昨晩はブラッド・ピット主演の『ブレット・トレイン』というちょっと風変わりなコメディアクション映画(殺し屋の殺し合い)を見た。主な舞台が(日本の)新幹線の中で、京都が終点であった。着くまでにずいぶん時間がかかっていて、夜行の新幹線という奇妙なものだったが、俳優がみな大真面目に演じていて楽しめた。なんとなくフランキー堺の旅行シリーズで、彼が夜行列車の車掌を演じていた映画を思い出したりした。

 

 『殺し屋』(2018年アメリカ)はあの異相の(失礼ながらそのまま猿の惑星の類人猿を演じられる)ロン・パールマンが、盛りを過ぎてやや落ち目の暗殺者という主役を演じていて、珍しい映画だった。初めて彼を見たのは、ショーン・コネリー主演の傑作映画、『薔薇の名前』である。一度見ると忘れられない顔で、嫌いではない。

 

 そのほか『コード・ブルー ドクターヘリ緊急救命』という日本の映画も見た。新垣結衣がキラキラしていてそれだけで合格。というより、それがなかったらところどころ展開のテンポに乱れがあって、あまりいい印象が残らなかっただろう。なんとかおさまるようにおさまった。

 

 映画を見るのにいささか息切れし始めた。今度は読書だ。

違うものをまとめる

 世の中のことは個別のことで成り立っている。たいてい一度限りで、まったく同じことの繰り返しということはないものだ。人も違う、状況も違う。そしてその出来事についても見る人によって違う受け取り方がされる。だからといって一つ一つを具体的に取り上げていったら切りがないから、大まかにまとめてそれについて自分の考えを語ることになる。それを抽象というのだと思う。

 

 抽象されたものには必ず例外が存在するもので、それでいちいち反論されると抽象するという行為が成り立たない。抽象が成り立たないと、考えるという行為がしにくくなる。さすがにマスコミはその辺がわかっているから、例外は例外として扱っているように見える。しかしネットニュースはその辺がしばしばごちゃ混ぜで、そればかり見ているとあらぬ方向に持って行かれかねない。例外はひとつだけではないから、例外だけ次々にあげられると、それはたしかに事実でもあるから全体がそうであるかのように見えてしまう。

 

 わかりにくいことを書いているが、どうも世の中のきな臭さというものの出発点がそういうものではないかと、ちょっと考えた。

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