映画『スリーパーズ』を見る
1996年製作のアメリカ映画『スリーパーズ』を見た。内容は承知していて、一度見たつもりでいたのだが、映画の詳細がどうしても思い出せない。そこで見始めたらどう考えても初見である。あらすじを何かで読んだことがあるだけだったようだ。
幼なじみの悪ガキ少年四人組が、たちの悪いいたずらのつもりで人を殺しかけてしまう。その罪で少年院に送られた少年たちが、そこでどんな凄惨な目に遭ったのか、正視に耐えない様子が描かれていく。その仕打ちとは、看守による、性的なことも含めての暴行だった。やがて刑期を終えて出所した四人はそれぞれの道に進み、成人する。互いの交流は続くが、自分の体験したことは決して口にせず、彼らの中で封印される。
この様子を見て、ジャニーズを連想するのは私だけだろうか。
四人のうちの二人はギャングになり、一人は語り手でもある新聞記者シェイクス(ジェイソン・パトリック)に、一人は検事補(ブラッド・ピット)になっている。そのギャングとなった二人が、たまたま看守の中のもっともたちの悪かった男(ケヴィン・ベーコン)に遭遇し、目撃者のいる中で射殺してしまう。
その裁判を検事補の男が自ら望んで担当する。彼がギャングたちと知り合いであることは誰も知らない。あえて検事役となることで有罪に持ち込むふりをしながら無罪に導こうとするのだ。そして弁護を引き受けるのはアル中の弁護士(ダスティン・ホフマン)である。誰が見ても勝ち目のないこの裁判が始まるが、すべてを裏で誘導しているのは検事補であった。そして彼にはシェイクスと組んだ、とっておきの切り札が用意されていた。
どんな人生もかけがえのない人生である。虫けらのように生き、死んでいった人間にもそれなりに友人がいて、それぞれにかけがえのないものが胸の内にある。不条理で残酷な世界にも、輝きとともに記憶される瞬間がある。それを見つめる眼こそが優しさというものなのだろう。それがあるからこそ、たとえば『ゴッド・ファーザー』で描かれていたマフイアの世界にも美しさが感じられたりするのだ。
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