2024年6月23日 (日)

紀行文(1)

 いわゆる紀行文といわれるジャンルがあって、紀行文とは旅に出て、その旅先でのことを記した本のことかと思う。いわゆる観光ガイドと違うのは、その旅先での記録が、主に個人的な感慨を記しているということだろう。私はそういう紀行文が好きであるが、私の考える紀行文は、一般的な紀行文より少し範囲が広いかもしれない。

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 紀行文には、ただ目の前に見えている景色を描写しただけのものもないではないが、それでは写真と何ら変わらず、やはりそこに時間の厚みのようなもの、そしてそこに自分の思いを重ねた、時間と空間の厚みを感じさせるものが優れた紀行文だと思うし、そういうものが読んでも印象に残る。
   
 本棚を眺め回すと、思った以上に紀行文の本が多い。作家の全集でも、その中に紀行文を含んでいるものが少なからずあるのは、誰でも旅をするからで、優れた作家の目の視力というのは常人を遙かに超えていることが多く、読み応えがあるものだ。思えば歴史を記した本を読むのも、ある意味で時空を超えた時間旅行ということも出来て、それに対する思いを記したものも、ものによっては紀行文になることもある、というのが私の紀行文についての考えである。

 

 一度整理したいと思っていたので、何回かに分けて、その紀行文について取り上げていこうと思う。

『心で見る世界』

 島崎敏樹『心で見る世界』(岩波文庫)を読んだ。一気に読んだのではなく、並行して読んでいた何冊かを順繰りに読み終えたというところだ。これで読みかけがほとんどなくなった。

 

 島崎敏樹は精神病理学者で、島崎藤村の姪の息子にあたる。島崎家に養子に入り、島崎姓となる。兄は同じく精神病理学者の西丸四方、弟は西丸震也。

 

 この本は思索エッセイとでも言ったらいいのだろうか、精神病理学者としての知見と自らの思索とを駆使して精神世界を渉猟し、その世界の紀行文を記しているように読み取れた。類例のない内容の本だといっていい。西丸四方などとともに日本の精神病理学を科学的な臨床治療の域にまで高めた功績はとても大きい。そして精神病理学というもの、精神疾患について、それが病であることの意味を啓蒙に努めたことでもその功績は大である。

2024年6月22日 (土)

ゆらぎ

 手持ちのレクチャーブックシリーズの最後の本、物理学者の武者利光とシンセサイザーの冨田勲の対談講義『電子のゆらぎが宇宙を囁く』(朝日出版社)を読んだ。読んだけれど、私のバカの壁がそこにあって、ほとんど分からなかった。もしこの本に書かれている音の世界を実際にひとつずつ聴くことが出来たら、分からないなりに感じることが出来たかもしれない。講義のテーマは『1/fゆらぎ講義』。

 

 世界は神秘に満ちている。不思議な共通性で宇宙は貫かれている。そういうことがたくさんの試みの中で明らかにされ、そして人間もその共通性を感性として無意識に感じていることを教えられたのだと思う。ゆらぎのない世界は死んでいる。生きているということとゆらぎは関係している。それはデジタル世界になりつつある今、案外重要なことなのかもしれないと、ざる頭なりに考えた。

時間、今

 哲学者の大森荘蔵と坂本龍一の対談本『音を視る、時を聴く』(朝日出版社)を読んだ。手持ちのレクチャーブックシリーズはこの本ともう一冊で読了する。この本は『哲学講義』というテーマだ。最初に「いま」について考察していく。過去、現在、未来、というときの現在には厚みがあるか、ということが論じられる。現在が写真の一齣のようにゼロ時間に閉じ込められているか、ということだ。そうではないという前提を私も首是する。では現在に厚みがあるとして、その幅はどれくらいか。そうするとどういう仮定も矛盾してしまう。だから現在には厚みはないのか。

 

 そこから思索が展開していくことにより、時間というものの不思議さに思いが至る。そのことは、私もむかしから考えていたことなので多少は分かるところがある。アインシュタインの相対性理論を持ち出すまでもなく、光には伝達速度があることを理解すれば、果てしなく遠い星からの光が地球上の私の目に届くまでに長い時間がかかっているわけだ。それなら私の見ている星は遙か昔のその星の光で、私は過去を、現在というこの瞬間に見ていることになる。過去と現在が同時に混在することになる。

 

 そこまで極端ではなくても、動くものと静止しているものとの時間はわずかなずれを生ずることは相対性理論で説明されている。学生時代にガモフの科学啓蒙書でざる頭ながら必死で理解しようと努めたことだ。それなら現在に厚みがないはずがあろうか、と思う。そうでなければゼノンのパラドックスが成立してしまい、宇宙は運動というものも成り立たない静止した世界になってしまう。

 

 この本の帯には「<私>はいない」とある。「見る私」主体と、「見られるもの」客体という考え方を大森荘蔵は否定する。ある意味での二元論否定であり、そして西洋哲学の「私は考える、故に私は存在する」という前提の見直しを提唱する。世界はただそこに立ち現れる、という。なんとなく分かる気もするが、理解するには遙かに遠い。哲学というのは、ものの見方を根底から見直すことを求めるものなのだということを改めて教えられたということしかできない。

 

 この本で論じられていることで理解できたことは少ないが、時間というものの不思議さを久しぶりに考えることが出来た。

ゆがみ

 少し大きな座椅子を使っている。購入して数年経つ。座面が私の重みで少しへたってきた。人工皮革もざらざらしてはげ始めた。見苦しいのでカーシートにすっぽり掛けるシートカバーを買って掛けてある。少し滑る。本を読むのもパソコンに向かうのもテレビを見るのも音楽を聴くのもその座椅子に座ってのことである。

 

 座椅子のゆがみが体をゆがませているのだろうか。さらにスマホ首によるゆがみも連動して、首、肩、腰、背中が痛む。背筋を伸ばしたり肩を回すような運動をときどきするが、痛みがどんどんひどくなっている。ついにあばら骨までときどき痛むようになってきた。

 

 重くて大きなその座椅子をどかして、座布団だけにしてみた。なんとなくではあるが、すこし楽である。整体でも受けに行こうか。整体も、下手な人にやってもらうとさらにひどいことになることもあると聞くしなあ・・・。

 

 東海地方も梅雨入り、夕方からは雨がしばらく続くらしい。

2024年6月21日 (金)

近代日本語の運命

 作家で評論家の丸谷才一と、劇作家で評論家の山崎正和の対談集『日本語の21世紀のために』(文春新書)という本を読んだ。じっくりと考えるテーマがたくさん提示されているが、少し飛ばし読みしすぎてしまったので、また少しあいだをおいて読み直したいと思う。再読再再読をする値打ちの本というのはそうあるものではないが、この本はそういう本である。ブログの表題はこの本の帯にあったもの。

 

 ことばというのは時代につれて変化していくものではあるが、そのことばの変化は浮ついたものになりやすい。だからその変化にあらがって、言葉遣いにこだわるということも必要なのだという。それがことばを大事にすることであり、ことばを磨くことでもある。変化は必然でも抵抗はすべきだ、その抵抗する者になるのだ、という二人の覚悟に私は共感する。

 

 ことばには、相手に伝達するための道具としての役割と、思索の道具としての役割がある。そして伝達の役割としてのことばを磨くためには、相手と私と、さらに第三者が存在する必要があるのだという指摘には教えられた。日本語には一対一の対話構造しかなく、鼎談というものが存在しない。そうするとことばは第三者を排除した対談を基盤とするものになって、客観性を生むことが出来ない。そういう背景から話し言葉を作っていくと隠語の氾濫を招いてしまう。

 

 若者ことばとか業界用語の隠語の氾濫はまさにその結果だろう。私はそれを見聞きすると不快である。それがどうしてなのか分かったような気がした。

 

 さらに思索のためのことばという役割を、教育界はまったく認識できていないという指摘にも同意する。ことばを伝達のためとしか見ない教育がずっと続けられてきた。それは日本語だけではなく、英語教育の会話重視にも見ることが出来る。ものを考えるときに、ことばなしで考えることは出来ない。それを見失った日本語の世界がどうなっているのか、それはテレビを半日見ていればよく分かる。

 

 決まり文句の浅薄さ、陳腐さを、自国の首相の口から毎日聞かされるのは苦痛である。

カルシウム

 爪が弱くなって、細かく割れる。カルシウムが足りない。牛乳をよく飲むから、カルシウムは摂取しているのだが、取りこんだものが骨や爪に再生されていないのだ。取りこんだカルシウムはビタミンDの働きで骨となる。ビタミンDは太陽光線をあびることによって生成されるという。引きこもっていれば太陽光線をあびないから、骨や爪が十分に生成されないのだ。紫外線の強い時期ではあるが、ときどきは外を歩かなければならない。

 

 昨日は十分太陽光線をあびた。今日もあびておかないと、梅雨に入ってしまってしばらく雨続きのようだから太陽光をあびる機会がない。ところでヴァンパイヤの骨はビタミンDがなくても大丈夫なのだろうか。

2024年6月20日 (木)

繋がらなくなる

 床屋へ行ってスポーツ刈りにしてもらってさっぱりした。格安床屋は最寄りの駅のつぎの駅の向こうなので、行きは電車で行き、帰りは散歩がてら歩いた。行きも歩くと汗だくで床屋の椅子に座らないといけない。久しぶりにたっぷり歩いた。

 

 ややこしい本を三冊、わけが分からなくなりながらも、強引に読み進めた。今はこういうことも出来る。分からないなりに何かがわずかでも頭の隅に引っかかってくれればそれでいい。バカの壁は厳然とあって、分からないものは分からない。でも何かのきっかけでちょっとだけ分かったりすることもあるのだ。本当は二度三度読むと、より分かることが多いのだが、それがもう待てない年齢になったのが哀しい。

 

 夕方、ネットが繋がらなくなった。去年、そういうことがときどきあったので、古いルーターを新しいものに交換したら、ネットは早くなったのだけれど、繋がらなくなるというトラブルの頻度が高くなった。今は月に一度くらいか。ルーターの電源を落としてしばらくおくと回復する。今回もそれで回復した。根本的な原因は分からない。マンションの光回線を利用しているが、これは個別ではなくて共用である。個別に変更する工事の案内もあったが、結構高いことを言ってきたので導入しなかった。

 

 個別にする代わりにホームルーターにしようかな、などと考えている。そうするとせっかく買った新しいルーターが無駄になるので迷っているのだが、今のマンションでの共用の光回線に何か原因があるような気がして、それならホームルーターにすることでこういう面倒なことが起きなくなるのかもしれない。

自分しか見えない

 世の中には自分しか見えない人というのが常に一定数いるようだ。問題は、そういう人の割合が増えているのかどうか、ということだ。増えているように思うのは、ニュースとしてそういう人の起こす事件などがことさら報じられているということかもしれない。

 

 『岳飛伝』の集中読みが終了して、五冊程度の本を並行して読み進める読み方に戻っている。自分としてうれしいのは、ずっと読めなかったエンターテインメント本が読めるようになったことだ。今はSFが先行しているが、ミステリーや時代小説も戦列に加えていくつもりだ。すぐ読めるつもりで買って、そのまま読めずに積まれている本が大量にあるので、これからそれを消化できると思うとうれしい。読書に勢いがついているので、歯ごたえのある、哲学や啓蒙書などの本も少しずつ片付けていこうと思う。

 

 冒頭の感慨を書いたのは、今読み進めている武者利光・冨田勲の『電子のゆらぎが宇宙を囁く』という、レクチャーブックシリーズの一冊を読んでいて、本筋とは関係ないが、以下の一節を読んだからだ。四十年ほど前に出版された本だ。

 

武者-この間、秋葉原へ行ったら、すごいんですね。小学生が、もう目つきが変なんですよ。どいてくれって言っても、全然聞こえないんですね、人の言っていること。「ちょっとそこに置いてあるもの見たいんだよ。ちょっとどいてよ」って言っても・・・目がすわっちゃっててね。

富田-コンピューター・ショップの前でですか。

武者-そうです、秋葉原の。だけど、あれを買って家に持って行ったら、どういうふうになるのかなと思った、ああいう子は。

富田-新しいタイプの人たちですね。

 

 髪がうるさくなってきたので、午後は床屋に行こうと思う。

六つの太陽

 若いとき、アシモフやガモフの科学啓蒙書をよく読んだ。当時はそういうものが結構読まれていたと思うが、今の若い人はそういう科学啓蒙書を読んでいるのだろうか。あれはただの流行り物だったのか、それとも必要なことで、その必要なことが今は失われているというのなら、残念なことだと思う。

 

 ロボット三原則を確立したアシモフの、『夜来たる』という中編SFを読んだ。アシモフのごく初期の頃に書かれた傑作である。六つの太陽を持つ惑星に、二千数百年ぶりに夜が訪れる。この星ではその夜が訪れるごとに文明の崩壊に近い事態となり、その夜の記憶が正確に記録されていない。そのために夜が恐れられている。その星の住人たちは夜空の星というものを見たことがない。伝承に残されている夜空の星というものを信じることが出来ないのだが・・・。その世界に夜が迫る。

 

 エマーソンの詩の一節

 もし星が千年に一度、一夜のみ輝くとするならば、人々はいかにして神を信じ、崇拝し、幾世代にもわたって神の都の記憶を保ち続ければよいのだろうか。

をもとに発想されたこの小説を味わえるかどうかは、夜のない異星の世界というものを、どこまで自分の世界として考えることが出来るか、ということにかかっている。同時に、その星の人間として、地球の世界というものをどこまで異質な世界としてみることが出来るのか、ということでもある。当たり前を、当たり前ではない世界から眺め直すという意味で、この小説は優れた発想を持っている。

2024年6月19日 (水)

『小松左京ショートショート全集』

 『日本沈没』などで有名なSF作家の小松左京の作品をずいぶんたくさん読んだが、彼は多作だったから、私が読んだのはその一部に過ぎない。この『ショートショート全集』は全三巻で、その第一巻を読了した。彼の初期の作品をまとめたもので、辛みの効いたものばかりでそれなりに面白かったが、正直なところアイデアは良いけれど文章としてはいささか不満が残る。

 

 ショートショートだから人間を描くというようなものではないのだが、それにしてもなんとなくそこに温かい血が通っているという感じがしない。冷たいのである。小松左京は宇宙の真理のようなものを、違う次元から見つめているようなところがあり、それがそう思わせてしまうのかもしれない。

ちょっと出かけるつもりが・・・

 引きこもって本を読み続けていたら、自分の心身の平衡感覚がとりにくくなっているのに気がついた。そういうときは出かけるのが良いのだが、治療中の奥歯の歯茎が腫れたり引いたりし始めた。歯が割れていて、そこから菌が入っているのだろう。いささかそのあたりが原因の口臭もある気がして気持ちが悪い。歯を抜かれるのを覚悟して歯医者に行った。しかし歯医者はまだ手入れをすれば延命できるという。詰め物をして、抗生物質を渡された。一週間後にどうなっているのか様子を見ましょうということである。

 

 月末にマンションの防災訓練がある。ちょっとした行きかがりでお手伝いをすることになった。妻の病院へ行く用事もあったりして、今月内にまとまって不在というわけにはいかなくなった。出かけるなら七月になってからということになる。読了した『岳飛伝』などを手土産に、北関東の友人のところへ行くのも来月ということにせざるを得ない。もうちょっと待ってもらおう。

『人狼原理』

 クリフォード・シマックの『人狼原理』(ハヤカワ文庫)というSF小説を読んだ。中学生の頃に月刊のSFマガジンが創刊され、ほぼ初期の頃からなけなしの小遣いをはたいて買い続けた。シマックの小説なども掲載されていたものだ。小学生の頃からジュール・ベルヌやコナン・ドイルのSFに出会って、かなり本格的なSF少年になった。この『人狼原理』はだいぶ後、就職して大人買いできるようになって買った本で、今回読み直しておぼろげにその頃のことを思い出していた。

 

 人類が別の惑星で暮らすとき、その星を人類が住めるように改造するよりも、人類そのものをその星の状態に対応できるように変えてしまう方が簡単ではないか、という論議がテーマになっている。その時変化させられたその人間は人類と呼べるのか、形態と心の問題なども含めて、論じられるのだが、実際のストーリーは想像するものとは少し違う。

 

 宇宙で発見されたカプセルで眠る男が主人公で、やがてその男が二百年前に人類によって送り出された人造人間であることが判明する。その男が地球で何を見て、何を感じ、考えたか、という点に力点が置かれている。しかもその男は見た目の存在だけではない、もう二つの形態を備えていた。結局彼は人類に受け入れられず、再び宇宙へ帰って行く。

 

 未来の地球がどんな風かが想像力豊かに描かれているのが面白い。アパートに住む人々は一戸ごとに家ごと移動することが出来る。その家の中の自動化された生活の様子も面白い。一番面白かったのは、その時代でも電話ボックスがあるということだ。そして携帯はないようだ。

2024年6月18日 (火)

『妄想を見る女』

 トマス・ハーディ(1940-1928 イギリスの小説家・詩人)の短編小説『妄想を見る女』を読んだ。新潮社版の世界文学全集・第四十五巻、イギリス作家作品集の中に収められている。この本にはスウィフトの『ガリヴァ旅行記』やスティーヴンソンの『ジーキル博士とハイド氏』が収められていて、それを読むために中学校のときに買ったものだ。奥付きでは1964年発行となっている。もちろん目当ての二作はその時に読んだが、そのほかのハーディやマンスフィールドやコンラッドやハクスリィの短編はよく覚えていない。

 

 その頃から大学生までに買って読んだ本がたくさんあったが、ほとんどは転居したときに母が図書館に寄贈してしまったので、残っている本はごく一部である。先日弟の家で、残っていたこの本を見つけたので持ち帰ってきたのである。もうすぐ読み終わるシマックの『人狼原理』もその時に見つけたものだ。

 

 『妄想を見る女』は中流階級の妻の物語であるが、夫婦子供連れで避暑に出かけて借りた屋敷に滞在し、そこの一部屋を借りていたという詩人の男に対して妄想を深めていく様子が克明に描かれていく。その詩人とはついに会わずじまいであるが、ラストは冷酷である。自然主義的作風の作家ということで、そう分類されるのは分かる気がする。ハーディは何度も映画化された『テス』の原作者である。

 

 こういう短編に心動かされたりすると、世界文学も好いなあと思ったりするが、今は手を広げないように自分を抑えないと、古本屋で安い本を何冊も買って、抱えて帰ってくることになりそうだからあぶない。たぶん古い全集など、二束三文で買うことが出来るはずだ。

 

 蛇足だが、妄想を見る、という言い方は少し変だと思う。妄想する、とか妄想を抱くとか言うのが普通ではないだろうか。

人を怒らせる方法

 C.D.シマックというアメリカのSF作家の『人狼原理』という本を読み始めている。その中のこんな一節を読んで思わず苦笑いしてしまった。

 

「あの方には、なにかしら堅実なものがありながら、しかも情熱を持ち、なにかに打ちこむというところがありますね・・・」
「ええ、そうね。打ちこむたちだわ。それには敬意を表すべきね。たいていの人が、それは認めると思うわ。でもね、どういうわけかしら、父は相手のまちがいを指摘して、大勢の人を怒らしてしまうことがあるのよ」
ブレイクは笑った。「それ以上に、うまく人を怒らす法はありませんね」

 

 私も、見過ごしたり聞き過ごせばいいことを、見過ごしたり聞き過ごしたり出来ずにまちがいを指摘して、たくさんの人たちを怒らせてきた。

『いのちの姿』

 宮本輝のエッセイ集『いのちの姿』(集英社)を読んだ。宮本輝はエッセイにも人一倍精魂傾けるので、このエッセイ集も読みやすいけれど、中身はぎっしり詰まって濃厚だ。プロの作家というのがどれほど厳しいものなのか、それを強烈に感じさせてくれる。順風満帆な人間には本当の人生を知ることが出来ない。ましてや他人の人生を感じることなど出来ないし、それを語る言葉も生み出せない。苦難を経た後でそれを乗り越えよみがえって初めて見える世界があり、感じる世界があるということだ。人の痛みを知る人間になるためには、人は成長しなければならないし、変わらなければならない。

 

 このエッセイ集の中に富山県の北日本新聞から懇望されて新聞連載小説を書くに至った経緯と、その取材旅行の様子が『田園の光』という一篇で語られている。黒部川の扇状地でインスパイアされた宮本輝が書いたのが『田園発 港行き自転車』という小説だ。私もその小説の舞台を見るためにその周辺を訪ね歩き、宇奈月温泉や愛本橋などを見た。この文章でそれらが鮮やかに脳裏に思い浮かんだ。

2024年6月17日 (月)

目が霞む

 若いときなら土日の休みに五冊六冊を一気読みするのはなんともなかったが、さすがにその元気はなく、精一杯頑張っても一日に二冊読むのが限度になった。それを数日続けたので眼が悲鳴を上げ、視界が霞んでピントの合う範囲が狭くなってしまった。目薬を差して様子を見ているが、元に戻るにはしばらくかかりそうだ。それでも活字を読まずにはいられないのは、やはり活字中毒者の禁断症状か。

 

 奥歯が割れていて、詰め物をしてもらっているのだが、かむ力が強いのでさらに割れが進み、ばい菌が入り込まないようにこまめに歯を磨いたり含嗽剤で消毒している。歯医者からは、もし歯茎に腫れが見られるようになったら治療に来るように言われている。その腫れが多少あるので歯医者に予約を入れた。根本的な治療は神経を抜いて穴を塞ぎ、かぶせ物をするということになる。歯の寿命ということだ。そうなると何回か治療に通わなければならない。お出かけの虫が騒いでいて、来週ぐらいから出かけようかと思ったが、少し先延ばししなければならないかもしれない。

国力をそぐ

 アメリカは第二次世界大戦のあと、とにかく日本の国力をそぐことに全力を尽くした。その例を挙げていけばたくさんある。日米繊維交渉、半導体交渉、自動車交渉、日本独自の航空機開発に対する表と裏の露骨な干渉等々は明白なものだが、見えない形で精神的な部分にまで及んでいるものもあると思うのは私の妄想だろうか。その結果が今日の日本の衰退の最大原因であることは、明白なのだけれど、それを日本は自ら招いてきた経緯もある。そろそろ目を覚まさなければならないだろう。

 

 日本という国が復興し発展し、豊かになっていくことで日本の国力は増大していく。それによって国民は豊かになっていく。国力を増大させるということはそういうものだと単純に考えている。『プロジェクトX』や、『新プロジェクトX』に胸が熱くなるのは、そのような日本人の努力が結果的に日本の国を支えてきたという歴史を再確認することだからで、自分もその日本人の一人だと思えば誇らしいからであろう。

 

 世の中のさまざまな事柄を見るときに、それが日本の国力をそぐことに繋がるようなものであると感じられると、非常に腹立たしく感じられる。一見そのように見えないけれど、よく考えれば足を引っ張るような行動をとっている者、国力をそぐような働きをしている者に怒りを感じる。日本人を自称しながら、愚かだからそんな行動をとっているのか、それとも日本の国力を密かにそぐことを使命として行動しているのか、知らない。

藪の中に

 山間部を車で走っていた。林のあいだから、左手だけ開けた場所に出た。その藪の中、少し奥の方に黒いものがうごめいているのが見えた。向こうを向いているが、熊のようだ。背筋がザワッとする。急いでそこを通り過ぎて再び林の中を進み、また開けたところに出た。茶色い塊が見えた。まさか、と思ったらやはり熊で、座り込んでこちらを見ている。さっきのよりも大きい。向こうが動き出す前になるべく進もうとスピードを上げる。バックミラーを見たが追いかけてきてはいないようだ。ほっとして前を見たら、道の真ん中にさらに大きな、ヒグマほどの黒い熊がいて・・・。

 

 そこで目が覚めた。

 

 熊や、イノシシや、猿や鹿までが一斉に人家周辺に出没するようになったように思える。彼らの領分に進出しすぎていた人間が、過疎化によって後退し、再び彼らが自らの領分であると主張しているのだろうか。彼らは何かの意志によって連動しているのだろうか。

 

 先日の『新・プロジェクトX』はスーパーコンピューター開発ストーリーだった。資源がないが故に技術立国として生きていくしかない日本が、リストラの中でどんどん開発部門を縮小していった末に惨めな後退を余儀なくされていく中で、世界最速コンピューター開発で気を吐いたストーリーで、溜飲の下がる話である。まさにあの蓮舫女史が「一位でなければならないんですか、二位ではだめなんですか」と自らの無知と愚かさを世に知らしめた迷言を吐いたのはこのスーパーコンピュータの開発に関してのことだった。

 

 どうして無知で愚かなのか、日本という国が、技術立国として生きていくしかない国であるという、そのことが理解できていないこと、そして予算削減の優先順位について、最もしてはならないのに安易なところから手をつけるという点においてである。つまり、金の卵を産むニワトリが餌を食べるのがムダだから餌を減らしましょう、といったのだ。そういう人が東京都のムダを削減すると言うときに何に手をつけるつもりなのか、たぶん同じようなことを始めることだろう。

2024年6月16日 (日)

『岳飛伝』読了

 北方謙三『岳飛伝』(集英社)全十七巻を読了した。この数日は一日二冊のペースで読んでいて、頭の中は岳飛軍、梁山泊軍、南宋軍、金軍の立てる戦の土煙や雄叫びが渦巻き、血臭が漂う日々であった。

 

 『水滸伝』全十九巻、『楊令伝』全十五巻と合わせて全五十一巻の、宋という時代の壮大な戦乱絵巻が一段落した。宋は遼や金に追われて一度滅びてしまい、南宋という国として再建されたが、もとの宋の北半分を金に奪われて弱体化してしまった。その宋を再興するために『尽忠報国』の旗印を挙げ、抗金のために戦い続けたのが岳飛である。

 

 しかし南宋の宰相秦檜は、国家の延命のために金と結んで岳飛を粛正してしまう。中国では、日本での源義経以上に岳飛は悲劇の英雄として誰もが知る人物だ。そして義経が平泉で討たれて死んだのを、じつは生き延びて大陸に渡ったという伝説が残されたように、この『岳飛伝』ではじつは殺されずに生き延び、戦い続けたという物語になっている。この物語では藤原秀衡も登場するし、たぶん平清盛ではないかと思われるような人物も登場する。

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 南宋の都とされた臨安は、今の杭州であり、あの西湖のある美しい古都である。古都であるけれどじつは最先端の大都市でもある。私は杭州が大好きで、仕事も含めて五回ほど訪ねている。思い入れのある街だ。西湖のほとりには岳飛廟があり、そこには秦檜夫婦が縄を打たれてうずくまっている像がある。中国人の秦檜を憎むことはすさまじいものがあるのだ。

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 金はその後、北方からの蒙古軍に押されて弱体化していく。この物語にもそのきざしが描かれている。このあと北方謙三はジンギスカンの物語を新たに書き綴っているが、この岳飛伝の時代と連続しているのである。今はいささか疲れたので、その物語をさらに読もうという気がしていない。南宋はやがて蒙古に飲み込まれ、蒙古は元と名を変えてヨーロッパの東にまでまたがる巨大な帝国を築き上げる。

2024年6月15日 (土)

少し涼しい

 昨日は33℃を超えたという。夜は蒸し暑かった。本を読み続けていて、細切れにしか眠らなかった。半分徹夜だったので、頭がぼんやりしていて目がかすんでいる。『岳飛伝』は第十三巻に入った。こんなことでは生活のリズムが狂ってしまう。

 

 今朝は窓を開け放つと少し涼しい。背中と肩が凝り固まって、ストレッチをすると痛みがある。今日は少しクールダウンして、散歩でもして気分転換しようと思う。

2024年6月14日 (金)

暑い

 今日は昼前から室温が30℃を超えたので、窓を閉めてクーラーをかけっぱなしにした。『岳飛伝』を夢中で読んでいて、すでに十巻を読了、あと七巻である。ゴロゴロと横になっただらしない格好での読み方で、ちょっと目が疲れると目をつぶり、気がつくと眠っている。これなら来週には読み終えるだろう。本に集中してほかのことがなにも考えられないので、ブログを書く余裕がない。何もなくて無事であることを伝えるためにこのブログを書いた。

 

2024年6月13日 (木)

犬かい

 少し前から気になっていたのだが、政治家らしき人のポスターがあちこちにあって、そこに大きな字で「犬かい」と印刷されている。名前であることは承知してはいるのだが、どうしても「犬かい?」と問いかけられているように感じてしまう。

 「犬だよ」というわけにはいかない。私は人間であるから「犬じゃないよ」と思う。見たら分かるではないか。

 犬飼を「いぬかい」と読めない人はあまりいないと思うけれど、わざわざそれを「犬かい」とする感覚がどうしても理解できないので、ポスターを見るたびに「犬じゃないよ」と心の中で思う。

入れなくていい

 車検のためにディーラーに車をあずけに行ってきた。完了して取りに行くのは夕方の六時過ぎになる。代車は今までデミオだったが、今回は愛車と同じCX-30だ。乗り慣れているから楽だ。往復だけだから、といったら、それだけなら燃料の補充は結構ですということだ。ありがたい。

 

 つぎの二年間のパック型のメンテナンスをどうしますか、というので頼むことにした。車は快調だし、まだ免許返納の予定もない。ただしさらにその先のことは分からない。つぎの車検は受けるつもりだが、その時に自分自身と相談することにしよう。夕方に支払う金額はかなりになるが、予定した出費である。現在の大きな楽しみは、車での遠出だから、それを万全にするためだ。ケチるつもりも必要もない。

順調に

 昨夕、息子から燻製ソーセージなどのギフトセットが送られてきた。鳥取県の牧場へ遊びに行ったそうだ。夫婦仲が良さそうで何よりである。そういえば、先日やってきた娘が、いささかふくよかになっていた。もともと細身だったのでちょっと太ると目立つ。私も妻も太めなのでそうならないようにしろよと言ったが、笑っていた。

 

 本日は車検の予約日なので、ディーラーに行く。とくに不調の部分はない。車検の費用とは別に、つぎの車検までの半年ごとの定期点検をセットで頼んでおく(その都度よりもだいぶ安くつく)ので、それなりの金額を用意しなければならない。丸一日かかるから、代車で行き帰りするが、慣れない車の運転は嫌いである。行き来だけならほとんどガソリンは減らないが、それでも満タンにしなければならないのが煩わしい。

 

 『岳飛伝』を読んでいて、面白いのでほかの本が読めずにこればかり読んでいる。現在、全十七巻の第九巻に入った。ほぼ一日一巻読了のペースである。読み終わるまでとまらないだろう。今月終わり頃には読み終えていると思う。

2024年6月12日 (水)

『司馬遼太郎が発見した日本』

 松本健一『司馬遼太郎が発見した日本』(朝日新聞社)という本を読了した。副題は--『街道をゆく』を読み解く--である。『湖西の道』から『濃尾参州記』までの全四十三巻におよぶ『街道をゆく』をベースに、朝日新聞社がビジュアル版の『街道をゆく』全六十回(当初は五十回)で発刊したのだが、松本健一がその解説を書いた。その全六十回分の解説をまとめたものがこの本である。

 

 司馬遼太郎『街道をゆく』はハードカバーで全巻揃えて棚に列んでいる。もちろん通読していて、それらは父が健在の時に実家に持参して置いておいた。父も母も気に入った巻を何冊かは読んだようだ。両親とも亡くなったので全て持ち帰った。どこかへ旅に行くときの参考にしよう、などと思って開いたりするのだが、丁寧に再読は出来ていない。だから時間があるときに全て読み直そうとは思っている。

 

 松本健一は解説とともに、司馬遼太郎がこのシリーズを書き出した動機のようなもの、そして日本の過去というものをどう見ていたのか、それを自分なりに考察している。司馬遼太郎が訪ねたところも大事だが、あえて訪ねなかった場所があって、そこに司馬遼太郎のこのシリーズに対しての思いへのヒントがあるという指摘は鋭いと思う。たしかに私の故郷である千葉県などはまったく言及されていないのである。

 

 先般ブログに書いた近江について、この『街道をゆく』を読み直して訪ねてみたいと思ったりした。

 新生姜も少しひねたものが混じりだしたから終わりかと思っていたが、そこそこ美味しそうなのがあったので今年最後になるだろう酢漬けを仕込んだ。これで前の残りと合わせてあと十日くらいは楽しめるだろう。白菜も、値段は下がっていないがしっかりしたものがあったので塩をしてビニールの袋に詰めた。これでいろいろな料理に使える。

 

 マンションで宅配荷物の置き配のトラブルがあったらしく、置き配はしないようにという回覧板の連絡が回った。置き配は重宝で、たまたまちょっと用事のための不在などで配達の人に迷惑をかけることを考えれば、置き配はありがたいのに、どうしてこんなことになったのか。わずかな不心得者と、些細なことを騒ぎ立てる人との存在がこういう不便さへ繋がっていく。世の中を狂わせていくのは誰なのだろうかと考えてしまう。悪いことをついしてしまう人間と、正しいことを声高に主張する人というのは普通に暮らしている人間にはうっとうしいことである。

『僕は、そして僕たちはどう生きるか』

 梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』(理論社)を読了した。十四歳の少年・コペル(ニックネーム)君がある一日で体験し、そこで考えたことを彼の視点と思考だけで綴ったもの、いわゆる一人称小説である。

 

 物語は淡々と進むのにどんどん引きつけられていく。それはコペル君の見ているものが詳細で細部に目配りが行き届いていること、思考が立体的でうわべだけではないこと、そして繊細な感性がこちらに伝わるからだ。読むほどに彼にシンクロしていく。

 

 そうしてこの物語での一日の、いかに盛りだくさんで濃厚であることか。読み終わったときに不思議なほどずしりと心に残る。読み進めることで出会う驚きと感動を損なうので、内容についての言及はしないことにする。この感性に共感できるかどうか、試しに読んでみてはいかが。

2024年6月11日 (火)

テレビ離れ

 以前よりも一層リアルタイムでテレビ番組を見ることが減っている。リアルタイムで見るのは定時のニュースぐらいか。その定時のニュースも見るのはNHKばかりだが、同じニュースを同じ台本でアナウンサーが繰り返すばかりだから、一日に二度も見れば十分である。民放はCMの中に番組があるという状態だから、ほとんど見なくなった。

 

 私はテレビ大好き人間である。テレビが家庭に置かれるようになったのは、私が小学生になってからのことで、我が家ではほかの家より少し遅れて五年生になってからだったかと思う。うれしかったのを今でも鮮明に覚えている。

 

 テレビの画面を見なくなったということではない。録画した番組を見たいときに見ているから、延べ時間では普通の人より見ているかもしれない。それでも録画するものがひところの半分以下か三分の一になっている。それ以上録画しても見切れない。

 

 民放のドラマはよほどのことがなければ見ない。細切れにされ、しかもCMの後にその前のシーンをわずかとはいえダブらせるという手法が無性に腹立たしいのだ。録画してCMを飛ばすから、なおのことそう感じるのかもしれない。CMはだいたい二分くらいである。その二分のあとに、その前のシーンを念を押すように繰り返すのは無意味で、時間の無駄であり、ニワトリ並みの頭だと馬鹿にされたように感じる。たぶん馬鹿にしているのであろう。

 

 テレビ番組はもう暇な人しか見ない、不採算で存在意味が薄れた存在になりつつあるのではないか。CMがあまり有効でなくなればスポンサーは減るばかりである。無料で提供することで貴重な人の時間を無駄にするのも限度を超えている。いい加減にしてもらいたい。思いきって統合してしまい、有料チャンネルにすればいいのだ。

『闇の都市、血と交換』

 栗本慎一郎・笠井潔『闇の都市、血と交換』(朝日出版社)はレクチャーブックシリーズの一冊で、『経済人類学講義』と副題がつけられている。私の世代から上の人なら栗本慎一郎を覚えているかもしれない。独創的な論でマスコミに取り上げられることも多く、著作も多かったしテレビでもよく見た。

 

 当時は「経済人類学」というのはいったい何なのかさっぱり分からなかった。おかしな学説を唱えて人を煙に巻いているとしか思えなかったのだが、今回この本を読んで、多少はこういうものであろうと理解できた気がする。少なくとも彼の論を一つの視点として世界を見直すとき、今まで思いもよらなかった側面が見えることだけはたしかである。

 

 対談相手の笠井潔は作家で、やはり論客である。代表作は『ヴァンパイヤーウォーズ』シリーズでSF伝奇小説と呼ばれていた。もちろん私はそういう話が好きなので読んだことがある。平井和正よりも半村良テイストといっていいだろう。この人も博覧強記のうえにズバズバ相手に切り込む人なので、この対談は濃度が高く、読者はしばしばおいて行かれそうだ。

 対談の最後に栗本慎一郎は「最後に、皆さん勉強してください」と締めくくっている。

 

 「交換」というのは哲学や人類学では非常に重要な概念で、通常思い浮かぶものよりも、人間の社会活動の原点に関わるものである。そして「交換」は外部との「境界」で行われるものなのだ。ここでこの前のブログで書いた『境界の発生』と話はシンクロしていくのである。「境界」を考えるということでは視点が変わるだけで、その見つめているものは同じだといえる気がする。「交換」と「境界」・・・だから経済人類学なのである。

«『境界の発生』

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