2026年9月10日 (木)

何をやっているんだか

 中道だか、立憲民主党だか、公明党だか知らないが、一体何をやっているんだろう。いずれ泡沫党へ転落するだろうと思ってはいたが、これほどお粗末なていたらくを見せるとは想像以上で、みなあきれ果てていることと思う。野合しなければ選挙に勝てないとの判断の中道連立である。それでも勝てなかったからということで分裂するのだから、打つ手なしということか。泥船からそろそろみんな逃げ出して、四散するのも間近いことだろう。いっそのこと折り合いがつけられそうな議員は自民党に吸収してもらったらどうだろう。そうして自民党をお得意の技で分裂させて二大政党でも作ったらどうだ。これこそトロイの木馬式高等戦略である。

『ドライブ・マイ・カー』

 『ドライブ・マイ・カー』は村上春樹の短編を原作とした2021年の日本映画。カンヌ映画祭で脚本賞、アカデミー賞で国際長編映画賞を受賞している。見たいと思いながら、ほぼ三時間と長いので見そびれていた。しかし見始めたら途中でダレることもなく、集中して最後まで一気に見ることが出来た。

 

 内容をよく知ず、題名からロード・ムービーなのかと思っていたが、そういう部分はわずかであった。運転手役の三浦透子は見た目だけでも私は魅力的な女優だと思っていたが、思っていたとおり、無愛想な、複雑な過去を持つ女性を演じて素晴らしかった。だいぶちがうけれど、ある面で私の好きな田畑智子に感じるのと同じような魅力を感じた。

 

 劇中劇のシーンもあり、激しい性的描写のシーンもあり、これは大人の映画だ。人にはあたりまえだがそれぞれに人生があり、振り返りたくないけれどどうしてもそれにとらわれてしまう過去というものがあり、それを反芻しながら決して乗り越えることはできない。それを抱えて生き続けるしかないのだ。そのことが胸に強く響く。評判通りのよい映画だと思う。

2026年9月 9日 (水)

これからまた降る?

 本日も当地の尾張西部はときどき黒い雲が全天を覆い、暗くなってときどきすこし強めの雨が降ったが、おおむね小雨である。予報では夜になって大雨になる可能性があるといっている。これから本当にまた大雨が降るのだろうか。昨日の雨を心配して、昨晩には妹から、今朝には息子から、そのあとには弟から連絡があった。誰かが自分を心配してくれるというのはありがたく心強いものだ。娘のところにはこちらから電話した。テラスハウスに住んでいて近くに小さな川が流れているから心配だったのだ。大丈夫だったようだ。昨日は手伝えなくてごめんよ、といってくれた。

 

 今日は昨日の疲れでぼんやりしていたが、手持ち無沙汰なので、風呂掃除、トイレ掃除、流し回りの掃除に部屋の掃除と、体を動かして気を紛らわせた。さらに暇つぶしに録画してあった放送大学の心理学講座を三回分眺めた。比較心理学、発達心理学、臨床心理学について、おぼろげではあるが知ることが出来た。比較心理学はもともと進化論的な考えを導入して、人間と動物を比較しながら人間の知能や心理を研究する学問で、それを発展させたのが、進化心理学である。実は放送大学ではこの進化心理学の講座もあって、全15回を一度見たことがあり、もともと心理学には興味があるのでたいへんおもしろかった。心理学の基礎の基礎をこの心理学講座で学んで多少のレベルアップをして、もう一度進化心理学を受講し直そうと思っている。

 すこし元気が出てきた。

2026年9月 8日 (火)

線状降水帯の中

 本日は大変な一日となった。午前中早めに妻の入院先へ着いて、退院手続きや支払いを済ませて、さて転院先へ行こうとしたら、行かない、といいだして、歩行器にしがみついたまま頑として動かなくなった。看護師たちが説得に努めるのだが、何を思い込んだのか「この病院にいる」の一点張りである。なだめすかし、半ば引きずるようにして介護タクシーに押し込んだ。一時間あまりかかってしまい、介護タクシーの人も看護師も私も汗みずくであり、疲労困憊である。本当は介護タクシーと私の車と別々に行くつもりだったが、とても介護タクシーに任せられる状態ではないので、私も乗っていくしかない。雨が激しく降り出した。

 

 転院先では多少ごねたが、なんとか病室まで行くことが出来た。そのあといろいろな書類を例によって山のように書き、相談員との打ち合わせ、そして医師の問診があって、たちまち一時間以上が経過した。

 

 自家用車を取りに戻らなければならない。タクシーを呼んだが、混んでいるので時間がかかります、という。外を見ると土砂降りの雨である。しばらく待ってやってきたタクシーの運転手が、「街のそこら中が冠水していて、通れないところがあります。遠回りしますけれどよろしいですか」という。そんなにひどいことになっていたのだ。もとの病院へ戻る道も川のようになっているところがあちこちにあった。戻った私は、持参するように言われていた荷物が車の中にあったので、また新しい病院へ引き返さなければならない。考えていたルートを尋ねると、そこは冠水してあぶない、といわれる。そしてたぶん安全だろうという遠回りの道を教えてもらった。

 

 水のかぶった道路ばかりだったが、なんとか危険そうな冠水場所を迂回して、また転院先の病院へ戻ることが出来た。荷物を渡し、ようやく一段落したのだが、これから自宅へ帰るのも大仕事になった。雨は断続的に強く降っている。安全そうな道をたどり、いつもの二倍三倍の時間を掛けて、我が家から一キロくらいのところまで来たら、我が家方向へ曲がる道は、車が詰まっていて全く動かない状態になっていた。仕方がないので安全そうな大遠回りの道を行くことにした。信号ごとに数台分進む、というペースで、それでも思った通り逆方向に行くことで無事駐車場に入ることが出来た。

 

 まだまだいろいろあったのだが、とにかく明るいうちに無事帰宅できたので、一杯飲んで固まった気持ちをなだめようと思う。疲れた。ちょっとうんざりである。

雨が恨めしい

 本日は終日雨らしい。今日は昼いちで妻が新しい病院に転院するで、まず今居る病院での退院手続きや支払いを済ませておかなければならない。無理すれば私の車で行けないことはないが、転院時には万一のことを考えて介護タクシーを使う。私は自分の車で追いかけて、新しい病院の入院手続きなどを行う。受け入れの確認はしてあるのだが、今度の病院は少し離れているし、ちょっとわかりにくいところにあるので遅れないか心配。新しい病院から持参するように伝えられたものを忘れていないか、これから確認するつもりだ。転院時にひどい降りでなければよいのだが・・・。

 

2026年9月 7日 (月)

『果てしなきスカーレット』

 押田守原作・脚本・監督のアニメ映画『果てしなきスカーレット』を見た。生と死の間(はざま)に時空を越えた世界があることを前提に見ないと、意味がわからないことになるかもしれない。その間の世界のさらにその先には永遠の死、つまり虚無があるらしい。間の世界で死ぬと、肉体は四散して真に消滅してしまう。

 

 デンマークの王女だったスカーレットは、父を死に追いやった叔父に復讐するつもりだったところ、それを見抜かれて叔父に毒を盛られ、意識を失い、その間(はざま)の世界で覚醒する。そこでは生者の世界と同様戦いがあり、生き抜くためには戦い続けなければならない。そして死者が永遠に存在し続けることの出来る「見果てぬ場所」というところがあり、叔父はそこに居るらしいことを知る。

 

 さまざまな世界が混沌として混在するその世界での出会い、別れ、戦いが描かれる。そこで描かれる天空のふしぎな様子が映像的に素晴らしい。空であり、同時に海であるかのようである。風景は広い空間を細密に描いて、いままで見たアニメの中で最も美しい。

 

 シェイクスピアの「ハムレット」を思わせるような物語を縦糸に、生と死、死後の世界についての新しいイメージを描いている。簡単な解釈を許さない面があり、そのことがこのアニメの評価を上げたり下げたりしたようだ。少し押田守の独りよがりの部分がないではないが、私は一応高評価をしたいと思う。一部音声が極めて低くなって聴き取りにくい部分があった。

 

 声優が豪華である。芦田愛菜、岡田将生、役所広司、市村正親、斉藤由貴、柄本時生、吉田鋼太郎、松重豊、青木崇高、染谷将太、白石加代子等々。エンドクレジットを見るまでわからない人が多かった。

縁(えにし)

 仕事で全国あちこち歩いたので、友人知人がそこそこいた。現役時代とリタイア後しばらくは、年賀状も普通の人よりはたくさん出した。ときとともに疎遠となって、その数も減っていった。鬼籍に入ってしまった人も少なからず居る。会うことがなくなれば、そして交流が減れば、友人知人は思い出だけの人になっていく。思えば、あのコロナ禍というのが最悪で、そういう縁を断ち切ってしまうきっかけになったことは間違いない。身内でさえ会うことが減ったのだから、友人知人との交流も激減した。同時に自身の衰えから、自ら会いに行こうという気力が低下して、その結果、出す年賀状はどんどん減っていった。

 

 若いころ、先輩から、人との付き合いは自ら努力しなければ失われていくものだ、と教えられた。もともと無精で成り行き任せのところがあったから、そういう努力はあまりしない人間だったが、以後それなりに心がけるようにしての蓄積の結果の友人知人である。それが、こちらからの働きかけだけの付き合いの人から順に縁遠くなっていったのは、私の心がけが足らないのはわかっているが、それもいまはそれでいいのだと思うようになった。

 

 気にかかる人が何人か居て、会っておかなければと思う。あとで後悔するだろうと思う。しかし、いまはそれも自分自身のフェードアウトの一つの過程であって、仕方がないことだと静かに思えるようになってきた。人は突然この世と縁が切れるのではない。次第に縁が薄れていくのだろう。自分自身が誰かの思い出として残り、その思い出も次第にかすんでいく。それでいいのだと思う。

2026年9月 6日 (日)

雑感

 Eテレの世界史の番組を見ていて、ローマ帝国が滅亡し、主権国家が誕生した、というくだりで帝国というものの意味をいまさらながらに考えた。帝国というのは多民族多宗教を緩やかに束ねて支配するという体制であって、その支配は緩やかで移動もかなり自由だったが、主権国家は画然とした国境を境に支配が強固になり国家間の競争、そして戦争が常態化した。当初は王制だった主権国家も、フランス革命、続くナポレオンの出現で、その王制の主権国家は倒れていき、自由平等を旗印にする国民国家となっていった。それは同時に徴兵による国民皆兵体制へと変わり、つまり国力を賭けて国と国が戦う時代となった。軍隊対軍隊の戦いが、一般市民を巻き込む総力戦に、そして大量の死を生むようになった。

 

 国民国家よりも帝国の方が、いわゆる一般市民にとってしあわせだったのではないか、などとざる頭は考えたりした。ヨーロッパの世界への拡大が、宗教の押し売りと正義の押し売りにつながったという気がしてしまう。それは未だに続いているのではないか。主権国家というものが本当に帝国よりも好い体制だったのだろうか。主権国家の乱立こそがいまの世界の安定を損なう要因にも思えてしまう。だから理想的な世界統一国家を夢見たりした時代もあった。

 

 いま中国やアメリカが目指しているのは自国が他を圧倒的に支配することで、それはあたかも帝国体制へ戻ろうとしているように見えてしまうが、その目指す帝国は過去の帝国とは似て非なるものではないか。自国のみに正義があり、だから利益も独占しようという思惑が根底にあるようにしか思えない。だから帝国ではなく、帝国主義、というべき過去の亡霊(ナチスドイツなど)の再出現か。

 

 EUという体制は、主権国家乱立からゆるい帝国時代への回帰を目指したものなのかもしれない。各国の、極右と言われる政党の台頭は、主権国家を死守しようとする動きであり、他との交流を厳格に制限しようとする意思(移民排斥など)の表れだろう。だからEUから距離を置こうとする。

 

 ところで、中国の歴史を見ると、漢民族以外の民族が支配していた時代の方が版図が広く、しかも他民族との自由な交流が盛んに行われていたことに気づく。元や清がそうだったし、実は隋や唐の時代もその支配層は多分に北方民族系であった。外部世界の価値観を排除しない支配構造だった。中華思想はそもそも外部というものが存在しないという建前である。それを考えると、いまの習近平が目指す世界支配とは、中華思想どころか、まさに帝国主義でしかないのではないか。

 

 こんなことを考えたからといって何か意味があるわけでもないが、これから世界はどうなるのだろう、ということについて自分なりの見通しくらいは持ちたいではないか。世界史音痴ではあるが、それを考える手がかりの一つかと思っている。

2026年9月 5日 (土)

天気が好いので

Dsc_0045_20260905105001 Dsc_0035_20260905105001

シンガポールで、印度系の寺院や市場のあるあたりを散策したときに撮ったもの。こういう華麗な色彩とイメージのものに心惹かれる。

一度も行ったことがないけれど、たぶん印度に行ったら魅了されたかもしれない。一神教的な世界よりこんな偶像に溢れた賑やかな世界の方が好きだ。

天気がいいので久しぶりに洗濯をした。午後は妻の病院へ行ってくる。正直、精神的な負担である。それなりの何か気持ちの治まり用のある反応があれば救いなのだが、妻は自分がなにもかも面倒を見てもらうのが当然、という考えなので、むなしいのだ。だから二度ほど行った娘は、いまは一緒に行こうとしない。

2026年9月 4日 (金)

ボロブドール

書くことがないわけではないが、まとまらないので十年ほど前に訪ねたインドネシアのボロブドールで撮った写真を二枚ほど見ていただく。

140924-152

140924-172

仏像の後ろ姿ばかりで恐縮だが、ここで見たものは忘れがたい。

外は雨

 昨日も雨の一日だったが、本日も終日雨らしい。汗をかくとこまめに肌着を着替えるようにしているから、雨で洗濯物が干せないのは困るが仕方がない。さいわい大雨にはならないようだ。大雨で困っている地域もあるようで、申し訳ないような気持ちになる。

 

 そういえば、先日病院へ定期検診に行ったとき、病院周辺に残っている田圃の脇を通ったら、農業用水にたくさんの小魚が白い腹を見せて浮いていた。中には二十センチほどもある魚もあった。その日は特に猛暑の日というわけでもなかったから、暑さで酸欠、とも思えなかった。何か毒物が流れたのではないだろうか。この雨でその毒物が薄まり、流れ去っていればいいのだが。

 

 カイワレの種を蒔いては収穫して楽しんでいる。ようやく昨年採った種をすべて蒔き終わった。種がなくなったのではない。今年の春先に採った種がそれ以上にたくさんある。昨年の種でもほとんどすべて発芽していた。今年のものならさらに元気に発芽するだろう。さもしいけれど、ただで何かが得られるのがなんとなくうれしい。ニラに薹が立ってきたのですべて刈ってしまった。種を採るつもりはない。既に種を小ぶりの鉢に蒔いて、細い葉がだんだん成長している。いまのニラの鉢は二つあり、一つは数年たっているので根詰まりを起こしているから一度全部抜いてしまおうと思う。それにしても暑さにも乾燥にも強いニラには感心する。

 

 久しぶりに米を買った。久しぶりなのは、あまり米の飯を食べなくなっているからだ。夏だから冷や麦や冷やし中華、そば、スパゲティなど、麺類の回数が多い。さらに最近はパン食で済ますことが増えている。粒食から粉食にシフトしている。好きな炊き込みご飯や混ぜご飯は、夏は傷みやすいからいまはあまりつくらない。お米の方が体にいいだろうと思いながら、日本の農政のお粗末さにうんざりして、お米のせいではないとわかりながらなんとなく米そのものに嫌気がさしている。

2026年9月 3日 (木)

確かにそうかもしれないけれど

 開高健の文章をあれこれ読み散らしていたら、文化人類学について科学的とは言いがたく、空想的だというような意味のことが書かれていた。リアリズムに徹する開高健には文化人類学が砂上の楼閣に見えていたのかもしれない。そういうことを言い出せば、そもそも社会科学や人文科学というのは、リアリズムを根底としているつもりの近代科学から見ればいささかそう見えてしまうことは否めない。わからないではない。考古学も歴史も社会学も心理学もそう見られてしまいかねないところがある。科学的であることの基盤である検証が困難なものを扱うからだ。

 

 ところが私はそういう人文科学や社会科学を多少はおもしろく感じていて、もしかしたらそういう砂上の楼閣、空想の積み重ねを楽しんでいるところがあるのかもしれない。考えてみれば、しかし近代科学の二元論的世界観そのものが、実はリアリズムに見えていながらも、一つの思い込みではないか、と疑っているところもある。文化人類学は「人間とは何か」を追求する学問だと私は思っている。異文化を価値の上下の比較で捉えるという西洋的な上から目線ではない、それぞれの存在意味を見いだすという捉え方をするのが文化人類学だと思っている。ただ、そのフィールドワークから把握されたものを記述するときに、どうしても砂上の楼閣的分析が行われやすいということは仕方がないことかもしれない。

 

 放送大学で「人新世時代の文化人類学」(全十五回)という講義をちょうどいま見直しているところである。さまざまなテーマで、現代の人類の現状を考察し、人間とは何か、どうしてこんな風であるのか、これからどうなるのかを考察していくという講義だ。見直している、というのは一度リアルタイムで見たことがあり、それを録画したものをもう一度おさらいしているということだ。見直したものから消去している。消去しないとまた見ればいいというおざなりな見方になりかねないからだ。主任講師二人以外にもテーマによっていろいろな講師が講義をするが、とにかくみなよくしゃべる。立て板に水である。それだけ語りたい内容が溢れているということも出来るが、自分の積み上げたものをひたすら語るに忙しそうで、こちらは開高健の毒が回っているから、話にのめり込みきれないで居る。迷惑なことであったが、ただ、受け売りを得意とする身としては、待てよ、と一歩引くことも必要だとも思っている。

 

 考古学や歴史の面白さも、深く考えるほどどうしても空想的になってくる面から来る面白さかもしれない。そういうのが、繰り返すけれど、私は好きである。

騒音

 二階上の階で工事をしている音が聞こえる。先月、盆前にチラシで案内があった。マンションはコンクリートと鉄筋で出来ているから音が響く。あたかも階上すぐの部屋で工事をしているように聞こえる。工事の内容に依るのかもしれないけれど、ほとんど聞こえない日もある。案内のチラシには盆明けから今月後半までの予定だと書いてあった。古いマンションだから傷んだ部屋も多く、工事は頻繁ではないにしてもしばしば行われる。それにしても一ヶ月も工事をするというのは今までないほど長い。

 

 たぶん床、風呂、台所など、全面的な改装なのだろうと思う。床をさわるときと、特にうるさいのは風呂の工事のときだ。コンクリートをはつる音は嫌な音で、その音がするときは本を読み続けることが困難になる。先日は二日ほどその音がしていた。ヘッドフォンで映画を見たり音楽を聴いているとだいぶましなのだが、いまは病院からしばしば電話がかかってくるのでそれを聞き逃しかねず、ヘッドフォンでの対策はとれない。昨夕もそんな騒音の中、今度転院する病院から転院時に忘れず持参すべきものなどの連絡があった。

 

 自分の部屋もだいぶ前ではあるが、全面フローリングや風呂のリニューアル、台所のリニューアルをしたので、お互い様だとは承知している。それにしても一ヶ月は長い。いまも床をトントンと叩いている音が断続的にしている。逃れて遠出の旅をしたいなあ。

2026年9月 2日 (水)

体力が衰えている

 つい先ほど、予約していた泌尿器科(慢性疾患を抱えている)の定期検診から帰ってきた。一時黒い雲が湧いていたが、さいわい降られることはなく、無事に帰宅した。検査結果は特に問題なし。ただ、前立腺に耐性菌が棲み着いているので、過労、発熱などで体力が低下するとそれが暴れ出すから注意するように指導されている。何度かつらい目に遭っている(炎症が起こり、激痛を伴う排尿困難で脂汗を流す)のでよくわかっている。

 

 その病院に行く前に床屋に行こうと思い立って、少し早めに出て、隣駅の向こうの床屋に立ち寄った。床屋から病院はそれほど遠くない。床屋は満員で、待っている人が十人居た。格安床屋だからあまり時間はかからないはずで、大して待たないだろうと思ったら、どうもいつもよりも理髪師の数が少ないようで、回転がすこぶる悪い。少しイライラする。シニア割引があるからほとんどおじいさんである。それもかなりありがたくなりかけているおじいさん(たぶん私もそう見られているだろう)が多い。なかなか床屋もたいへんだ。いつものように丸刈りにしてもらう。

 

 そういえば、病院のあと処方箋の薬をもらう薬局で、ほとんど耳が聞こえないらしいおばあさんと、若い薬剤師のやりとりが延々と繰り返されているのを聴いていた。薬剤師のお嬢さんはルールに則って客に正しく必要なことを伝えないとならない。ところがおばあさんはほとんど同じ事だけ繰り返すだけで聞こえないのか聞こうとしないのか、全く話がかみ合わないままである。薬剤師は困り果てていたけれど、おばあさんは面倒くさくなったのか、わかった、といった。何がわかったのか知らないけれど、それで話は終わったようだった。あれでは生活が大変だろうなあ。話の様子では息子が居るらしい。補聴器を買ってやったらどうだろうかと他人事ながら思った。

 

 我が家に帰り着いたら全部で八千歩弱歩いている。この頃ほとんど外歩きをしていないから、帰り着いたら汗みずくで、なんだかクラクラする。あわてて少し塩とポッカレモンをたらした冷たい水を飲んだら少し恢復した。どうもかなり体力が衰えているようだ。

『悠々として急げ』

 先日、たしかEテレで開高健とベトナム戦争についてのドキュメントを再放送していた。開高健の本は私に日本文学の扉を開いてくれた恩義があるとともに、ベトナム戦争について考えるという手がかりを与えてもくれた。書棚にも十冊あまりの本が並んでいる。

 

 久しぶりに開高健を読もうと思ったが、小説を読むのは少し重く感じたので、対談集である『悠々として急げ』という本を棚から引き出して読んだ。特異な人ばかり十二人が対談相手に選ばれていて、彼が世界中を歩き回って仕入れたアンダーグランドなものまで含めた膨大な知識を駆使して相手と渡り合っている。十二人の最後は自分自身であり、「けん」と「たけし」の対談である。限界を超えた世界を嬉々として生きている人たちは、たしかに生きることを楽しんでいて、そうありたいと思いながらもがいている開高健の、彼らをうらやむ気持ちがなんとなく感じられた。

 

 そのあとブラッド・ピット主演の『フューリー』という戦争映画を見た。第二次世界大戦末期、ドイツまで侵攻したアメリカ軍が最後のドイツ軍の猛反撃の中で苦戦する様子が描かれている。凄惨なシーンが連続した、戦争というものの現実を思い知らせてくれる映画で、たぶん開高健もベトナム戦争に従軍したときに、このような世界を眼前にしたのだろうと思った。この経験の前と後とでは、開高健はたぶんちがう人間になったのだと思う。

2026年9月 1日 (火)

なりゆき

 妻の入院している病院に行って、頼まれたものの一部を渡してきた。受け入れ先がないだろうと思っていた妻の一時転院先が見つかってしまった。見つからなければリハビリを打ち切ってもとの病院に帰るしかなく、私には面倒がないのでありがたいというのが本音だったが、リハビリを継続しながら短期だけ受け入れてくれる先が見つかったということは、また転院転院を繰り返すということで意に反するが、リハビリをなるべく長く続けることは、本人の今後の日常生活維持のためには良いことであるからなりゆきに任せることにする。

 

 来週転院することが決まった。問題はそのことで本人が混乱してしまうことだが、わかっているのかいないのか、私にはわからない。わからせたつもりになっても、翌日には聞いていない、というだろう。退院手続き、支払い、入院手続きなど、いろいろと面倒であり、そういうことがいまの私にはとてもわずらわしい。もう少し前ならどうということのないことでも、いまはひどく億劫に感じてしまう。些細なことであってもイレギュラーな出来事がひどく苦痛で、それによる心の乱れがなかなか治まらない。精神がひどく衰えている。

 

 転院の少し後に、過日亡くなったK君を、旧友たちと偲ぶ集まりがあるので大阪に行く。飲み過ぎるかもしれない、つまらぬことを口にするかもしれないと少し心配している。

『良心的』

 頭が生ぬるくなりかけているので、久しぶりに山本夏彦を読んだ。二ページから三ページの短文のコラムをぎっしりと詰め込んだ『良心的』(新潮文庫)という本で、短い中に意を詰め込んでいるのでレトリックは二転三転して、それについていくうちに、そのわさびの辛さが効いてくる。ぼんやり読んでいては意味がつかめないのだ。こういう文章が書けたらいいなあと思うが、この文章を形にするためにどれだけの推敲を重ねているのか、それを想像するととても私に出来るものではない。せいぜいそれとなく影響を受けて似た部分がたまたま出現するとうれしい、というところでまでである。

 

 諧謔に紛れさせることはあっても、あまりプライベートなことをストレートに書かない著者が、いつもよりは自らのことを書いていたりするのは、このコラムを書いている途中に細君を亡くしているからで、さらりとした言葉がかえって埋めようのない何かを強く感じさせる。喪失感、などと書いたら、そんな言葉は嫌いだ、と叱られそうだ。

2026年8月31日 (月)

もっと早く知っていたら・・・

 高校生時代(遙かなむかし)、最も苦手な科目は世界史と古典であった。西洋式に言えば、世界史と古典に嫌われていた。私の頭の中に、世界史や古典の知識は全く入ってくれなかった。私のバカの壁であった。

 

 さいわいあるきっかけがあって中国に興味を持ち、のめり込んでいくうちに、中国学の泰斗である宮崎市定の本に出会い、その面白さに惹かれていき、そこで『アジア史概説』という素晴らしい本を読んだ。歴史とは何か、この本によって教えられたことは多い。その中に

 

「歴史の進行にとって最も重要な要素は民族、土地とともに相互間の交通ということがある。一地域に成立した民族はその血縁的あるいは歴史的に祖先から受け継いだ稟性をもって行動し、これをめぐる自然的環境がまた彼らの行動を啓発し、制限することが多いものであるが、しかし歴史はそれだけによっては動かされない。むしろ外界との交通が重大な作用を及ぼすものである」

 

「現在、地上の人類の中で、いちじるしく進化の遅れた人種は、長い歴史時代において常に世界交通の圏外に放置された民族である。・・・彼らの知的後進性は世界の交通から除外された文化上の無刺激性にもよるものである」

 

 歴史は、文明は、交流によって進化するものだ、ということを、この本はユーラシアの交流を軸に詳細に展開し、記述していく。強烈なインパクトを受けた。ある国や地域の歴史という視点で描かれた歴史ばかりを読んできたが、この本には新しい視点を与えられた。

 

 いま、Eテレで、『三ヶ月でマスターする世界史』という番組を見ているが、その番組ではまさにユーラシアの交流という視点から、東アジア、中央アジア、中近東、ヨーロッパを常に同時に概観しながら歴史を語っていく番組となっている。ヨーロッパ的視点からの脱却があたりまえのことのように語られているのを見るのは目からウロコの連続で、原因と結果が逆転していることを教えられたりもする。

 

 もっと早く歴史の面白さを知っていたら好かったのになあ、とつくづく思う。

何度も聞いたことがあるけれど

 水害で自宅が浸水被害を受けた経験のある人が、「ニュースで水害の被害を何度も見てきたが、まさか自分がそんな目に遭うとは思ってもみなかった」と語っていた。これに似た言葉を何度聞いたことだろうか。それを聞いたのは私だけではなく、ニュースを見るほどの人(ニュースを見ない人というのが居て、その人たちには災害の事実は存在しないかのようである。詐欺に遭う人、闇バイトに応じてしまう若者も同様である)はみな災害のたびに聞いた言葉だろう。

 

 能登南部で、そして千葉で、さらに福井で、そうしてネパールで、今までになかったような大水害が起きている。そうしてそれはいまは他人事だが、いつか自分も経験するかもしれないのだということに人は考えが及ばない。だから安穏と暮らせているのだけれど、今回はその人の言う「まさか自分が」という言葉が今までになく現実味を持って心に届いた。自身についても、地震対策として本棚だらけの我が家を突っ張り棒でこの春ようやく補強したところである。インフラが機能しなくなったら、つまり電気や水道が止まってしまったらどうする、ということについていままでも考えないではなかったが、本格的に、システム的に対策を考えなければと遅ればせながら考えている。システム的に、というのは一時的なものではなく、生活の中にそれらの対策を組み込むにはどうするか、ということである。

 

 余分なものを持たない、という考えから、常に少し余分なものを用意しておくという生活にシフトし、しかもその余分なものを無駄にしないための方策もしておくということだ。知的能力の低下が進行中の身としては、それをきちんと自覚できるように、考えたことをメモして忘れないようにすること、古いものを使いきるようにすることを心がけようと思う。「まさか自分が」ではなく、「いまに自分も」が明日にもあるかもしれない。

2026年8月30日 (日)

『ノア 約束の舟』

 『ノア 約束の舟』は2014年のアメリカ映画。あの旧約聖書の「ノアの箱舟」の話をドラマ映画化したもので、ラッセル・クロウがノアを演じている。共演にジェニファー・コネリーやあのハーマイオニーのエマ・ワトソンやアンソニー・ホプキンスが出ていた。

 

 箱船に乗り込むのは、動物以外には、人間はノア夫婦と三人の息子、養女(長男の恋人)のみである。人間はそれ以外乗せない。しかも養女はこどものときに受けた傷によって子供を産むことが出来ない。だから洪水のあとには人類は死に絶えることが運命づけられている。

 

 雨が降り出して箱舟が浮かび上がる前に、乗り込もうとする人間がいないはずはない。ノアは一人の例外もなく乗せることを拒否する。そうしてある例外を残したまま世界は水没する。旧約の神話世界から集団格闘ドラマとなり、後半は家族の葛藤の話になっていく。最後まで飽きずに見ることが出来たが、もう一度見たいほどの映画でもない。

 

 それにしても、アダムとイブがエデンの園を出て、長男のカインが次男のアベルを殺して・・・ という話の後、カインの子孫たちは繁栄して地に満ちたとされている。しかしカインは神に呪われている。その繁栄は文明を生み、世界は争いと収奪の世界となっている。それとは別に三男のセトの命脈が残り、その末裔が神に祝福されているノアなのである。

 

 ということであるが、ところでカインはどうして子孫を増やすことが出来たのであろうか。伴侶となり、子供を産んだ女性はどこから来たのだろう。そもそもアダムとイブしか神は作らなかったらどうして人類は増えたのか。それが昔からの私の疑問である。

 

 そうして、この映画のテーマは、神の大洪水を生き延びたのあの一家がどうしたのか、そして今ある人類はその子孫ということであるから、それが滅びなかったのか、ということについての答えとなっている(あんまり納得できないけど)。

とりとめなく

 病院にいる妻から看護師を通していくつか注文があった。面倒なことで、女性用のものだから私では手に負えない。娘に手伝いを頼むしかない。娘もいまいろいろ忙しいので申し訳ないことであるが、付き合ってもらうつもりだ。

 

 久しぶりに録画していた歌舞伎を見た。『積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)』ともう一本、『一谷嫩軍記(いちのたにふたつぐんき)』。『一谷・・・』の方は熊谷次郎直実にまつわる話で、その後半はあの敦盛を泣く泣く討ち取る話であって抄録であった。『・・・関扉』の方はいささか不思議な話で、中村勘九郎、七之助、尾上菊五郎が熱演していた。最終的に薄墨桜の精と大友黒主との立ち回りになっていく。語りの言葉がこちらにはあまりよくわからないから、ほとんど想像で眺めていた。字幕でもあると助かるのだが。七之助の女形はなかなか好い。勘九郎がいい役者であることを初めて知った。

 

 NHKのドラマ、『団地の二人』の放送を毎週楽しみにしている。小林聡美は大好きだし、小泉今日子も好きである。前回の放送で、堺正章の『さらば恋人』の歌を二人が口ずさんだあとで、歌詞の最後の部分、「悪いのは僕のほうさ、君じゃない」を「悪いのは君のほうさ、僕じゃない」とつい歌いたくなる、というシーンで笑ってしまった。私もそうだからである。

2026年8月29日 (土)

デジタル音楽

 久しぶりに1959年にペギー・リーがマイアミでジョージ・シェアリングとコラボしたコンサートを聴いた。194kHzのデジタル音源だから、CDなどよりも格段にクリアでいい音である。ペギー・リーがたまたま好きで、デジタル音源を探したらこのアルバムがあったからソフトを購入したのだがあたりであった。クラシックのさわりの部分だけ集めたアルバムや、ジャズのスタンダードナンバーを集めたものなどもある。やはりデジタル音源だといい音で聴くことができる。何もしたくなくてぼんやりしたいときにはこういう音楽を聴くのがいい。少し新しいものを仕入れようか。上田正樹なんかが好いかなあ。

 

 冷蔵庫の、賞味期限切れ、それもかなりすぎた食材や調味料や、傷みかけた野菜などをゴミとして捨てた。以前はそういう状態になる前にそれを使った料理を作って消化に努めたものだが、いまはその融通性、知恵の働きが衰えはじめていて、わかっているのに使えなくしてしまう。もったいないと思うより、面倒くさいが先に立ってしまうのは良くない兆候だ。今ある食材で何が作れるか考え、それに基づいた料理を二三書き出しておいた。無駄を少しでもなくすことが自分のためでもあり、世の中のためでもある。そういう知恵の働きを維持することが老化の進行を多少は遅らせることにもつながる。わかっているのだけれど・・・。

自然の恐ろしさ

 ネパールの土石流の映像は想像を絶するすさまじいものだった。被害者の実数は、村がまるごとのみ込まれたりしているのでつかみようがないという。もともとそれほどの人口が住んでいたとも思えないところでの、報じられている多数の行方不明者の数は、この土石流がどれほど壊滅的だったかを示している。

 

 地球温暖化によって氷河がどんどん溶け出し、氷河湖がいくつも形成され、それが大きくなり、いつか決壊して甚大な被害を起こすだろうとずいぶん前から警告されていた。今回の場所だけではなく、他にも氷河湖があるようだし、しかも今回の流れ下った土石流も新たに下流で滞留湖を形成しているらしい。それもまた決壊する恐れがあるという。つまり今回のような災害が次々に起きるかもしれないということだ。しかもそれを物理的にとどめることは今のところ人の力では不可能に見える。自然というものは牙をむき出すと恐ろしい。

 

 しかしこの状況は、考えてみれば地球温暖化という原因から発しているのであって、それはある意味で人為的なものでもある。そのことは多くの人にはわかっていることであってしかもどうしなければならないかもわかっているが、どうしようもない状態である。人のすることもまた自然の働きの一部だ、などとうそぶいても、何かが解決するわけではない。人類の向かう先についてつい悲観的になってしまう。人類もレミングの暴走段階に入ったのだろうか。その兆候ばかりが目についてしまう。

2026年8月28日 (金)

中国関係の本

 若いときから本屋を見て歩くことが好きで、どの本屋はどんなレイアウトで、どこにめぼしい本があるか、ほとんど把握していた。だからレイアウトがいじられるとまごついてしまう。自分の食器棚の食器がいじられると戸惑うのに似ている。

 

 ある時期から中国関係の本なら片端から購入した。物語から歴史書、評論、ことごとくを大人買いした時期があった。そうして読み散らしているうちに、著者の好みが明確になり、内容についての見当もつくようになり、自分との相性も想像できるようになり、買っても読まないだろう本がわかるようになっていった。読むより買う方がずっと多い時期かあったが、それも治まって、そのあとは片っ端から読むことに専念した。

 

 そうして何度も引っ張り出して読む本というのも出来た。以前にも書いたが桑原隲蔵の『考史遊記』とか奥野信太郎の『随筆北京』、そして張岱の『陶庵夢憶』などである。もし孤島に限られた本だけ持参して漂流するなら、これらの本が無聊を慰めてくれるだろう。

 

 何度目かの『陶庵夢憶』を読み直ししていたら、張岱が曲阜の孔子廟を訪ねたときの話にこんなことが書いてあった。

 

 崇禎二年、曲阜に行き、孔子廟に詣でた。門番に金を握らせて門からはいったが、塀の上に楼がそびえ出ていて、扁額に「梁山伯・祝英台が読書せし処」とあったのには、度肝を抜かれた。

 

 梁山伯も祝英台も、ともに人名である。梁山伯はあの水滸伝の梁山泊とはちがう。梁山伯は男性、祝英台は女性であり、その悲恋事件は物語としてよく知られていた。ただし、二人が親しくしていたのは杭州でのことであり、曲阜とは全く方角も含めてちがいすぎており、それに張岱があきれた、ということである。その悲恋事件については機会があれば記す。名所というのはときにこんなことがあり、しかもいつの間にかそれが事実のようになっていくから気をつけないといけない。

 ちなみに、崇禎とは明朝最後の皇帝で、明が滅びたために張岱は身代を失い、膨大な蔵書を失い、身一つとなってたいへんな辛惨を嘗めることになる。彼の親類や友人、先輩などの多くは明朝再興を願い、清との戦いに身を投じて憤死している。この『陶庵夢憶』は、博覧強記だった張岱がその過去を追憶して書いた随筆なのだ。

未覚醒

 夜中の二時前に腹に響くような雷鳴と稲光、続いて激しい雨音がして目が覚めてしまった。灯りを点けず、起き上がらずにしばらくじっとしていたが、もう眠れない。諦めてリビングへ行き、窓を開けて外の様子を眺めた。音の割に雨は激しくない。しばらくして雷は遠のき、雨もやんでしまった。こういう激しい気象がエスカレートすると、千葉や北陸の豪雨のようになるのだろう。東北北部でも大雨になるかもしれないと伝えていたがどうなのだろう。湯を沸かしてお茶を飲み、録画していたプライムニュースや呑み鉄旅を見たりしていた。四時過ぎにようやく眠くなったので再度就寝。つい先ほど起きた。まだ未覚醒でぼんやりしている。

 

 窓を開け放って風を通す。朝の外気を取り入れるのは久しぶりだ。昨日は八日ぶりの猛暑日ではない日で、それ以上に久しぶりに熱帯夜でもない日だった。多少は秋に向かっているということか。昨日は用事で少し外出した。猛暑日ではないが34℃を超えていたからしばらく動いているうちに汗が噴き出した。

 

 妻の病院の相談員に訊くと、転院受け入れ先がなかなかきまらないそうだ。短期間の受け入れというのは互いに面倒なことのようだ。本当は昨日までに転院できればすることになっていたが、転院先がきまらないということで、可能な限り引き延ばして転院せずにリハビリを続け、もとの病院へ返すという方向で進めようというのが相談員(ケースワーカー)の魂胆のように感じられた。魂胆というのは、病院としては早くリハビリを打ち切りたい意向だからだ。私としてはそう願えれば大変ありがたいので、そう伝えた。引き延ばせれば九月の半ばまでともくろんでいるようだ。そうなれば一時転院も必要がなくなる。それまでに、私の都合の悪い日を伝えた。来週か再来週にはまた忙しくなる。なんとなく見通しが立って安心した。

2026年8月27日 (木)

『生と死の考古学 縄文時代の死生観』

 山田康弘『生と死の考古学 縄文時代の死生観』(東洋書店)という本を読了した。170ページほどの本であるが、中身が濃いし読み飛ばせるような本ではなく、少し読んでは考え、また読み進めては考えるというような読み方をしたので、読了するのに一週間以上かかった。たいへん素晴らしい本であると思う。それに取り上げられている遺跡や遺骨が私が見たことのあるものも含まれていて(奥松島の前浜貝塚から出土した女性の遺骨など・多賀城市の東北歴史博物館にある)、より身近に感じられた。

 

 縄文時代といっても、一万六千五百年前くらいから弥生時代までの一万数千年もの長い期間なので、その埋葬の仕方、集落の形、その大きさなどさまざまあって、もちろんひとくくりに出来ない。しかも遺骨というのは時間とともに地中で次第に劣化して消失してしまうことが多い。特に日本は酸性土壌の場所が多いので、それが顕著である。貝塚で発見される遺骨が現存するのは、貝の石灰分、つまりアルカリ成分によって保存が出来たからである。貝塚に埋葬されるというと、あたかもゴミ捨て場に遺体を埋葬したように誤解する人が居るらしいが、貝塚はゴミ捨て場ではないし、そこに埋葬することにはそれなりに意味があったことがわかっている。それでも発掘された遺骨はかなり強度が低下しており、頭蓋骨や大腿骨、上腕骨のように、密度の高い硬い骨はともかく、骨盤などはひどくもろくなっていて、形のまま取り出せることはほとんどないようだ。

 

 さまざまな埋葬形式や遺体の状況など、それらから一体何がわかるのか。それは想像以上に膨大な情報を持っていて、そこから描き直される縄文の人びとの暮らしや世界観はとても興味深い。この本を読んでもう一度縄文の出土品などを見直してみたい気持ちになった。こちらの世界観が少し変わったから、見えるものも違う気がするからである。

 

 いい本を読んだ。  

心配

 今朝のニュースによれば、能登半島の付け根あたりに線状降水帯が居座り、被害が出ているようだ。七月に能登の先端部にある須須神社や変わり果てた見附島を見に行き、その晩、氷見に泊まったばかりだ。その氷見も水害が出ているようだ。十年ほど単身赴任で金沢に暮らし、能登は仕事でもプライベートでも走り回ったところであり、被害の起きている地帯の地名はなじみのあるところばかりだ。他人事とは思えないので心配しながらテレビのニュースを見ている。

 

 映像で見たり、ニュースで報じられているトランプ大統領の様子からは、見苦しく衰えた老人の老醜しか私には感じとれないのだが、アメリカ人はどう感じているのだろうか。人はさっき言ったこととちがうことを、間をさほど置かずに平気で言っている人間の言うことを信じられるのだろうか。そもそもトランプ自身がそのことを自覚できているのかいないのか。自覚しながら平然としているとしたら、強靱な精神というよりも異常である。自覚できていないならまさに統合が失調している人であろう。そのことで振り回されている世界がどれほどの被害を受けているのか、受け続けるのか心配だ。世界はあたかも裸の王様を見るようにトランプを見ているようだ。裸の王様は、裸の王様の存在だけで裸の王様の世界が成りたっているわけではない。

 

 妻の病院からの連絡が既に来てもいいころなのに未だにない。リハビリ病棟は空き待ちの人が多くてすぐにも他へ移って欲しそうだったから、それが遅れているのは転院の受け入れ先が見つからないのかもしれない。私に出来ることは今のところない。転院先がきまれば介護タクシーで連れて行き、その病院でのしきたりを訊き、必要なものを揃えるだけである。そのスタンバイをしているが連絡がない。転院先がなければもともとの病院へ戻るだけである。どうしていいかわからずに連絡待ちというのは身動きがとれず、それもなかなか気持ちが落ち着きようがなくていやなものだ。

2026年8月26日 (水)

渥美清の俳句

 種田山頭火の句に感じるものがあってから、自由律俳句に興味を持っている。山頭火の句集を持っていて、ときどき開いて独り旅への誘い(いざない)を感じたりする。旅先で見る空や草花、山や川は、普段とはまるでちがって心に深く沁みる。そういう思いを山頭火の句は追想させてくれる。

Dsc_0230

 渥美清が句作をしていたことは、なくなってしばらくしてからNHKで特集していたから、知っている人も居るだろう。その句を読めば、車寅次郎とはちがう渥美清が見えるとともに、やはり寅さんでもあるというような視点を感じる。森英介『風天 渥美清のうた』(文春文庫)は渥美清の残した句をさまざまな手がかりをもとに苦労して探し出し、同時に関わりのあった人たちの見た渥美清の実像を句と重ねて記した本だ。2010年に出版されてすぐに購入して、渥美清を偲んだものだ。その本を久しぶりに開いて飛ばし読みしながら、その句から連想するイメージを思い浮かべた。その中からいくつか取り上げる。

 

  テレビ消しひとりだった大みそか

 

  たけのこの向う墓あり藪しずか

 

  ヘアーにあわたててみるひるの銭湯

 

  陽に焼けた日除けの家の店じまい

 

  うつり香の浴衣まるめてそのままに

 

一番有名な秀句

 

  お遍路が一列に行く虹の中

 

自分自身がそこに居るつもりになりきって感じてみたりしている。

『故宮 4』

 当地の本日の最高気温予想は38℃で、これで7日連続の猛暑日である。少し歩くだけでクラクラするから、特に用事のあるとき以外は外を歩いていない。階段の上り下りをすると脚の筋肉が衰えているのを実感する。

 

 『故宮 至宝が語る中華五千年』全四巻の最後の巻は、元、明、清の時代で、そもそも故宮の至宝の多くは清の時代の乾隆帝が蒐めたものである。元の時代と清の時代は異民族が中国を統治していた時代で、その時代が最も版図が広い。隋や唐の時代にしても、ほとんど異民族をルーツにした北朝系の出身の支配者であり、そういう時代ほど多民族が共栄し、多様性を重んじ、だからグローバリズムの時代であり繁栄した。

Dsc_5832_20260826093301

 このシリーズは、ものから時代を、歴史を見る、という構成になっていて、普通は歴史は史を、つまり残された文書に書かれた記録をもとに語るものを、この本はものから語るという構成になっていておもしろい。それだからか観念的な思い入れも時に入り込んでしまうところがあるが、それには目をつぶることにした。

 

 歴史をたどるとさまざまな想像が膨らんでくる。それがおもしろい。人類の歴史は地球の歴史から見ればほんのわずかな時間に過ぎないが、その人類が加速度をつけて地球に影響を与え、自らにすら災厄を与えはじめている。環境の変化は既に地球の自己修復力の限界を超えてしまったとも言われる。そうして人類もまた、幾多の既に滅びたある種の生物のように、滅びの運命の途上にあるのではないかと感じている。

2026年8月25日 (火)

少しずつ恢復

 ここ数日、体調が不良で食欲もなく、腹も下り気味で、そうなると何かおいしいものを食べようという気にもならないからマンネリの、つくるのが楽なものを繰り返し食べるばかりだからますます体力も低下してしまった。悪循環である。体重も三キロ近く減少してしまった。それなのに酒だけはやめられない。睡眠のリズムも狂ってしまって、昼寝て夜中に起き出すこともしばしばとなった。そうしてついに病人みたいに昼に思い切り寝てみたら、次第に本を読んだり放送大学の講義を見たりする元気が戻ってきた。

 

 読みかけの本をもう一度テーブルに積んで(十冊以上ある)、ふたたび少しずつ読み進めている。『三国志 外伝』を読み終えて、もう少しで『故宮4』を読了するところだ。何もなければ、明日中には山田康弘『生と死の考古学 縄文時代の死生観』も読了するだろう。素晴らしい本だ。縄文時代についていままでよりも少しだけ深く知ることができてきたような気がする。

 

 明日か明後日には、いま調べてもらっている妻の転院受け入れ先の連絡があるはずで、そうなるとまた忙しくなる。その前に体調と気力が恢復してきたことはさいわいであった。もしかすると今日連絡が来るかもしれないと思っていたが、今のところ連絡がないので、当初の見込み通り、転院は27日かそれ以降になるのかもしれない。

«『三国志 外伝』

2026年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

カテゴリー

  • アニメ・コミック
  • グルメ・クッキング
  • スポーツ
  • ニュース
  • パソコン・インターネット
  • 住まい・インテリア
  • 心と体
  • 携帯・デジカメ
  • 文化・芸術
  • 旅行・地域
  • 日記・コラム・つぶやき
  • 映画・テレビ
  • 書籍・雑誌
  • 経済・政治・国際
  • 芸能・アイドル
  • 趣味
  • 音楽
無料ブログはココログ
フォト

ウェブページ