2024年10月13日 (日)

『哭声/コクソン』

 『哭声/コクソン』は韓国のスプラッターホラー映画。スプラッター映画もホラー映画もそれほど好きではないが、準主役として國村隼が出ているので、いつか見ようと思い、録画してあった。彼の怪演はさすがである。この映画も國村隼も韓国ではたいへんな人気だったそうで、当時一番有名な日本人になったという。韓国映画はこういう映画を作るときに徹底してやるから、すさまじい。

 

 ある韓国の村に不思議な事件が次々に発生する。突然家族の一人が狂ったように家族を惨殺してしまうという事件だ。主人公はそんな村の、少し臆病な警察官である。仲間と、少し前から山の奥に棲みついた日本人が来てから奇怪な事件が起こり始めた、などと冗談に噂をするのだが、それが次第に冗談ではない状況が続いていく。

 

 そして彼の小学生の娘に異常な行動が見られはじめ、ひとごとではなくなっていく。同僚と、同僚の甥の少しだけ日本語がしゃべれる牧師見習を連れて、山の奥のその日本人の元へ捜査に向かう。そこで彼らが見たものは・・・。それ以後彼は悪夢で安眠できなくなり、娘の様子はますますひどくなっていく。妻の母親が祈祷師によるお祓いを提案し、有名な祈祷師を呼び寄せて、お祓いをするのだが、娘は祈祷のためにもがき苦しみ、見るに堪えないことになってお祓いは中断される。

 

 その辺は映画『エクソシスト』を思わせるが、はたして日本人は悪魔なのだろうか。ゾンビのようなものも出現し、事態はますますすさまじいことになっていき、ついに娘は・・・。最期に牧師見習が洞窟に潜む日本人を追い詰めるのだが、そこで見た彼の正体は神か悪魔か。

 

 この映画は解釈がどうとでもなるように作られていて、見る人によって違う受け止め方がされそうである。かなり猥雑でショッキングなシーンが多いので、見るには覚悟が必要だ。

レム『ソラリスの陽のもとに』

 先日、ソダーバーグ監督、ジョージ・クルーニー主演の映画『ソラリス』を見たので、原作のスタニスラフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』を読み直した。タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』ももちろんこのSF小説が原作である。若いときに読んで、たぶん五十年ぶりの再読である。たしか学生時代に雪下ろしか何かで金を工面して買った本である。箱入り、製本は極めて丁寧で堅牢、装丁も美しい。むかしはこういう本が普通だった。愛書として残したくなる。

 

 映画ではほとんど描かれていないが、私のおぼろげな記憶の通り、原作ではこのソラリスについての不思議な現象が詳細に、しかも膨大に描かれている。すでにこの惑星が発見されて百年が経過し、人類の英知を駆使してさまざまな仮説の下にこの惑星の現象の解明が試みられた。しかしその仮説はことごとく覆され、ついにその解明に挑戦するものもほとんどなくなって、惑星には数人が残るのみとなった状態からこの物語は始まっている。

 

 人類が働きかけ続けたことの積み重ねが原因であるのかどうか不明だが、惑星の駐留ステーションに驚くべき現象が発生する。そしてその通報に応えて調査に派遣されたのが主人公である。駐在員の中に友人がいるということも彼が選ばれた理由であった。ステーションに到着した彼を誰も迎えることのないことがまず異常事態である。そして彼の友人は、つい最近自殺していた。残った人員は二人のはずだが、彼らは部屋に引きこもっていて、一人とはなんとか意思疎通することができたが挙動はいかにも不審である。そして彼の元に予期せぬ「客」があらわれる。

 

 「客」はむかし彼の恋人だった女性で、彼女は自殺してこの世にいない。この女性は惑星ソラリスの何らかのメッセージなのか。こうして主人公とこの「客」とのやりとり、過去のソラリスについての膨大な研究論文の渉猟が行われていく。彼が見たものは現実なのか、ソラリスに見せられているものなのか、その判別は。

 

 彼が行ったことは何か、その結果は何をもたらすのか。

 

 惑星の不思議な現象の数々は映像的なのだが、こちらの想像力の貧困のせいで、うまくイメージしきれないことも多く、もどかしい。それにしてもレムの想像力の大きさには敬服した。文句なしに面白かったけれどくたびれた。

2024年10月12日 (土)

雑用

 昨晩は鏡を見てもそう思わなかったのだが、今朝腫れぼったい目の自分の坊主あたまの顔を見たら、ちょっとだけ細川たかしみたいに見えて、イヤな気がした。

 

 先延ばしにしていたことや怠りがちだったことがどんどん片付けられるようになってきた。心身の調子が元に復調してきたようである。ただ昨日の床屋からの帰り道の足取りの重さと歩くスピードの遅さは、まだまだ自己リハビリが必要だと感じさせた。

 

 何もする気にならない期間が長く続いたが、そういうときは、やらなければ、という気持ちがありながら、そんなことをしても意味がないという思いとがせめぎ合って、結局動かない、という状態だった。人間はやることがないと無気力になるという。また、無意味なことを続けると無気力になるともいう。無気力というのは、生きる意味を見失った状態のことかと思う。

 

 引きこもりの若者(いまは中年も多いという)が部屋に引きこもって何をしているかといえば、ゲームなどをしているらしい。引きこもっていればやることがないから、いつまでも寝てばかりもいられず、時間つぶしであろう。ゲームはそれなりに面白い。しかし内心ではゲームが自分の現実の人生にとって無意味だと気がついているはずだ。現実の人生があっての楽しみ、気晴らしとしてのゲームのはずである。生きる意味を見失っている、というのはそういう状態で、そこに気がつかないと引きこもりからの脱出は不可能だろう。

 

 復調とともに、いまは雑用を次からつぎに思いつく。メモ用紙に次々に書き出して、片付くと消していく。面倒なものは先延ばしにする。消えずに毎日残っていくものもある。いつかやると信じて残し続ける。そういうものもひとつずつ消えていく。そして、よりハードルの高そうなことを書き加えたりしている。

久しぶりに聴く

 早朝六時前に、テレビをつけたら『あの人に会いたい』という番組で柳ジョージへのインタビューと歌が放送されていた。好きな歌手である。むかしテレビドラマの主題歌を唱っているのを聴いて、一度で好きになった。再起中の競輪選手役を演じていたのが萩原健一で、いしだあゆみがヒロインとして出ていた番組だった。珍しく可能な限り見た(当時は録画するものがなかった)。これが縁でふたりは結婚したと記憶している。最初萩原健一が歌っているのかと思ったが、ずっとうまいし、よく聴けば声質も違う。

 

 柳ジョージは横浜生まれで私より二つ年上、2011年に63歳であの世に行ってしまった。私は『青い瞳のステラ』が一番のお気に入り。一度カラオケで唱ったことがある。いまも付き合いのある一回り年下の友人がたまたま聴いていて、私も大好きです、といったので彼に一層好感を持つようになった。アルバムを二枚か三枚買ってもっている。ドライブ中にときどき聴いたものだ。

 

 午前中は雑用でバタバタしていたが、これから久しぶりにまた聴いてみようと思う。

丸刈り

 昨日の午後、床屋に行った。行かなければ、行かなければと思いながらいつものように先延ばしにしていた。髪が長かろうが短かろうが、あまり気にしないたちなのだが、襟足が伸びてむさ苦しいのはいけない。

 

 最寄りの駅のもうひとつ名古屋寄りの駅の近くに格安の床屋がある。安いことよりも散髪の時間が短いのがありがたい。「どうしますか?」と髪型を聞かれたので、「丸刈りにしてくれ」と答えた。「長さは?」というので「五ミリ」にした。本当の丸刈りは生まれて初めてである。

 

 学生時代格闘技の部活をしていたのでいわゆるスポーツ刈りにしていた。丸刈りとはだいぶ違う。前回と前々回はそのスポーツ刈り程度に刈り上げてもらっていたのだが、今回は本当の坊主頭である。額が頭頂部まで広がり、自分の顔は四角いと思っていたら人並みに縦長になった。
 
 いつもしてもらう洗髪はするまでもないと思ったので、散髪とひげそりだけにしたから二十分あまりで完成。行きは電車で行ったが、帰りは四十分ほどの道を歩いた。風があったので気持ちが好い。つぎはもっと早めに来よう、などと思うが、床屋にはたいていなかなか行かない。

2024年10月11日 (金)

甘酒

 お茶、紅茶、ジャスミンティーやプーアル茶、コーヒーに牛乳などをとっかえひっかえよく飲む。医師から水分をどんどん摂取せよと言われているからで、冷たい水は腹を緩くするから、なるべく温かい飲み物を摂るようにしている。ときどき甘酒を飲む。甘酒は寒いときに温まるために飲むものと思っている人もいるかもしれないが、江戸時代などは、夏バテ防止に夏に飲むものだったらしい。

 

 昔私の生まれ育った街に、母のいとこの家があって麹屋だった。その家は母の母、つまり私の祖母の実家でもある。同い年のはとこがいたからよく遊びに行った。麹屋だから当然麹を発酵させるためのむろがあった。麹で甘酒も造る。私の記憶では、そこで飲む甘酒が一番美味しかった。

 

 いまは一杯分ずつパックになった、麹から造った甘酒を買って飲む。一杯分といっても普通の湯飲みでは薄くなる量しかはいっていないので、私は大きめのぐい呑みに入れて湯で割って飲む。ぐい呑みは旅先でいくつか買ってきたものがある。普段は煮豆や佃煮、塩辛などを晩酌用に小分けするのに使う。そのぐい呑みの中に、たぶん萩で買ったと思うのだが、明るい茶の地に白い釉薬のかかったこぎれいなものがあり、それを甘酒用に使う。白い釉薬に地の茶が少し透けて薄いクリーム色でちょっとピンクがかっていて、しゃれている。萩焼らしい清楚な華やかさがある。

 

 焼き物が趣味というわけではないが、旅先ではついお店をのぞくし、そうなると買いたくなる。それでほとんど使わずじまいのものもあるし、愛用するものもある。食器類が恥ずかしいほどバラバラなので、瀬戸にでも行って、安めのものでいいから揃え直したいような気がしている。

映像が心にしみる

 テレビの風景の映像を見ていると、さすがにプロの撮ったものだけあって美しいし、心にしみる。行ったことのあるところなら一入(ひとしお)だし、そうでなくても連想する場所が思い浮かんだりすることも多い。そうして思うのは、実際にあちこちを訪ね歩いたときにこういう思いを感じただろうか、ということだ。多少は感じたけれど、映像で感じるほどではなかった気がして、どうしてなのだろうと思う。

 

 風景だけではなく、過剰なさまざまなものと次からつぎに接していると、心にしみにくい。読書でも音楽でも、それにいかに集中できるかで感じる深さも違ってくる。その一瞬一瞬をかけがえのないものとして感じる、ということを心がけないと、もったいない年齢になっていることを自覚しなければ、と思う。あれもこれもと焦ることで、かえってどれも心に感じることができにくくなっているようだ。

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今日の夜明け前。

やっているふり

 福島第一原発の燃料デブリ取り出しを東京電力はやりたくないし、やるつもりもないのではないか、と取り出し試験の時にこのブログに書いた。スケジュールが遅れに遅れていたことを見ていると、そう思うしかない状態だったのだが、案の定つなぎ方を間違えただの、そのあとにはそのつなぎ直しをだらだらとやっていたり、今度はカメラが不調だから取り出し試験はできなかった、などというお粗末が続いている。

 

 普通、何か不手際が起こるのは何回かに一回のことであり、これほど立て続けにしかもすべてトラブルとなる、などということは普通考えにくい。実施前に予備的な負荷試験やシミュレーションをしないはずはないのである。

 

 そもそも燃料デブリの取り出しなど不可能なのではないか。とにかくスケジュールが設定されてしまったからやっているふりをしないわけにはいかないけれど、できないものはできないのだろう。それに、もしとりだしてもそれをどうするか決まっていないのかもしれない。だからひたすらわけの分からない理由で先送りを続けているようにみえる。できないのがわかっているからやりたくないけれど、それを言うわけにもいかず、みんながあきらめてくれるのを期待しているのかもしれないけれど、見ている方はどんどんイライラがつのるので、あきらめるどころではない。

 

 今度はどんな言い訳をして先延ばしにするつもりなのだろうか。

2024年10月10日 (木)

レモンタルタル

 タルタルソースを自分でつくってもいいが面倒だ。しかし出来合いのものは味がいまいちである。最近気がついたのだが、キューピーの「具だくさんタルタル」というのがあんがい美味い。「具だくさんレモンタルタル」というのもある。

 

 冷凍の塩鯖で骨を処理したものが売られているので、それをガスオーブンでそのまま焼き上げる。パンに溶けるチーズのシートを乗せてトーストし、そのチーズの上にレモンタルタルを絞り出して載せ、焼いた塩鯖をほぐして乗せて、さらにその上にレタスを山盛りに載せてもう一枚のトーストしたパンで挟んで我流の鯖サンドにする。

 

 最近のお気に入りのランチである。

ノーベル賞と財閥

 スーパーに買い出しに行く間隔は昔と変わらないはずなので、その都度の支払額がどんどん大きくなっているのは物価上昇を反映していることになる。私のその支払いから見て、その上昇率は世の中でいわれているよりもかなり高い。歳とともに食べる量は減っているし、間食も極力しないようにしているし、飲酒量も減っているのに、どうしてこんなに出費が増えているのだろう。酒代を減らし、本代が減っているから全体がなんとかおさまっているというところか。とはいえ、生きてもあと十数年と思っているので、使い切るつもりならなんとかなる。世の中や政治を恨むほどのことはない。いや、今回はこんな話を書こうと思ったわけではない。

 

 韓国は日本に迫る勢いで技術も経済も伸びているのに、どうして科学系のノーベル賞と縁がないのか、と嘆いているらしい。国力とノーベル賞が相関すると思っているのだろう。サムスンやヒュンダイがこれだけ世界に冠たる会社になったのは、韓国が近道を通って経済発展をしたのだという、本質的なところがわかっていないのだ。家電やICや自動車というのは、巨大資本を投下して巨大化することで高い価格競争力を持つ。基幹技術は育てるのに長い蓄積が必要で、時間がかかる。それなら技術を買えばいいのだ。人を、システムを買ってしまえば遅れは一気に取り戻せる。

 

 その巨大資本を投下することができたのは、韓国は日本のような財閥解体を経験していないので、財閥が存在していたからである。財閥のトップは、日本のような雇われ社長ではないから決断も早いし、鶴の一声で一気に設備投資を行うことができた。その違いが大量生産品での価格競争力となり、日本を一気に凌駕した理由でもある。

 

 そういう技術力なのであるから、基礎研究は自力ではなく他国のものを導入してきた。そんな国にノーベル賞に値する科学者が育っているならその方が奇跡だ。だから中国のように、韓国の上をいく巨大資本で競争されれば必然的に韓国は優位性を失い、その席を譲らざるを得なくなる。折しも財閥は創業者を継いだ二代目から、さらに三代目へと代替わりしつつある。「売り家と唐様で書く三代目」という川柳にあるように、ナッツ姫のような三代目の時代になって、衰退が始まっている。ノーベル賞はますます遠いだろう。

 その日本も韓国や中国に負けじと価格競争をして、基幹技術育成はコストだと勘違いした経営者ばかりになって、過去の研究者に続く気鋭の技術者が育っていないともいう。たまに優秀なものがいても、海外へ行ってしまう。日本もノーベル賞から遠のくだろう。

『ソラリス』

 ソダーバーグ監督の映画『ソラリス』を見た。主演はジョージ・クルーニー。原作はポーランドのSF作家スタニスラフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』であるが、この小説は映画に描かれているものよりもずっと詳細で膨大なものである。この小説を映画化したロシア(当時はソビエト)のタルコフスキー監督の作品『惑星ソラリス』をベースにしたものといった方がよいだろう。私は若いときに原作に感銘を受けており、だから映画の『惑星ソラリス』も見ているが、違う作品だと感じた。というよりも、タルコフスキーがレムの原作から、その認識論的な側面を抽出して描いたものだと感じた。

 

 生かじりで引用するのは気が引けるが、ショーペンハウエルが「世界は私の表象である」ということばの表すもののことである。ここで「表象」とは「目前に見るように心に思い描くこと。心像、創造、観念など広い意味を含む」と注釈にある。五感によって得られた情報をもとに脳は世界を現実として認識しているが、本当に現実は存在するのか。それはただ脳の働きに過ぎないのではないか。映画では描かれていないが、それは、情報だけをもとにしているAIは現実を認識、把握してるか、という話にも通じていく。

 

 今回見た『ソラリス』は原作よりも『惑星ソラリス』をベースにしていて、さらに絞り込んでそのテーマを描いている。ソラリスは表面が海に覆われた惑星で、その調査観測のために設置されている宇宙ステーションからの連絡が途絶えたため、精神科医の主人公(ジョージ・クルーニー)が派遣される。最後に連絡してきた人物が彼の友人だったことも派遣された理由の一つである。宇宙ステーションに乗り込んだ彼が見たもの、体験したことは現実ではあり得ない、信じられないものだった。惑星ソラリスの表すもの、その意思が、前作よりもわかりやすく描かれているかもしれない。

 

 もう一度原作を読み直したくなって、早川書房の『世界SF全集』のレムの巻を引っ張り出してきた。

2024年10月 9日 (水)

『雷桜』

 2010年の日本映画『雷桜』を見た。主演は蒼井優と岡田将生で、ふたりとも若い。公開時は日本版の『ロミオとジュリエット』などと話題なったそうだが、『ロミオとジュリエット』は敵対する家の息子と娘が出会い、愛し合うことで起きる悲劇であり、この『雷桜』は身分違いの男女の悲恋であり、少し違う。それに『ロミオとジュリエット』では二人は死んでしまうから悲劇だが、『雷桜』では二人は死なないし、後日談もある。原作は女流時代劇作家・宇江佐真理の同名小説。

 

 蒼井優は好きな女優で、笑顔がとくに好い。顔立ちは違うのだが、私の姪に雰囲気が似ている。笑顔が似ているのだ。赤子のときに拐わかされ、天狗が棲むという山で育てられた雷と呼ばれる娘(蒼井優)が、精神を病んでいる、ときの将軍徳川家斉の息子と出会ってしまい、さまざまないきさつから慕い合うようになる。その過程で彼の病は次第に癒え、立派な武士に成長していく。しかしそのために彼女と別れなければならないことになってしまう。受け入れられない事態にもがく二人だが、運命は必然的に二人を引き裂いてしまう。

 

 この物語は若いふたりの恋の物語であるとともに、大人への脱皮、成長の物語でもある。

 

 脇役に小出恵介や柄本明、時任三郎、変わったところで池畑慎之介(ピーター)が出演して物語を締めている。とくに柄本明が好い。ただし、天狗が出るから入ってはならないことになっているという山にきちんとした道があるというのがどうもお粗末な気がするが、そこを蒼井優や岡田将生が馬で走り回る場面があるので、開けた道がないとあぶないのだろう。仕方ないか。

 ブルーレイディスクに保存していた映画だが、10数年も時間が経っているので最後の方の画像が少し乱れていたのが残念だった。やはりディスクは劣化するらしい。大丈夫なものもあるが、他にもそういうディスクがあった。別に劣化する理由でもあったのか。どんどん見ておくか、HDにダビングしておく必要がありそうだ。

好きな街

 トランジットをのぞけば、わずか10カ国あまりだけれど、海外を訪ね歩いたことがある。一度しか行かなかったところも多いけれど、中国には10回以上行っているし、台湾には5回ほど、韓国とベトナムには2回行った。

1310-182ハノイにて

 昨晩の『ふれあい街歩き』ではハノイの街を歩いていた。樹々が多くて花にあふれた緑の多い街で、湖や川もたくさんある美しいところだった。食べ物は美味しいし、とにかく人々に活気があり、よく働く。また行きたいと思う街である。

1310-104ハノイにて

1310-36ハノイにて

 また行ってみたいところ、好きなところというのがあり、好きなところといえば、多少の金さえあれば住んでみても好いなと思えるところでもある。その好きな街といえば、このハノイと、シンガポール、台北、イスタンブールだろうか。若ければたぶん一人で滞在できる気がする。

 

 また行きたいところは中国にたくさんあるが、いまは事情が許さないし、行きたいけれど行けない、というところか。キューバやインドネシアのバリ島、トルコやウズベキスタンなどは、もう一度丁寧に歩きたい。それだけ行ったときの印象が格段に良かった。

 

 いまは海外旅行へ行く元気がない。海外旅行はけっこうたくさん歩くので、それについて行けないと疲労でダウンする。いまは思い出の世界になってしまった。いまに国内旅行もそうなりかねないので、とにかく行けるだけ行こうと気持ちだけ焦っている。

累卵の危機

 累卵ということばがある。「積み重ねた卵が不安定で、崩れて壊れやすいように、物事が非常にあぶない状態にあること」と手許の岩波国語辞典にある。

 

 日本のニュースを見ていると脳天気なものばかりだが、海外ニュースを見れば、その累卵が崩れたかのようながれきの山が映し出される。累卵の危機というけれど、すでに累卵は崩れ始めているのか。それとも累卵の山があちらにもこちらにもたくさんあるのがこの世の中というもので、それが次々に崩れてはまた積み上げるというのが人類の歴史だったのだろうか。積み上げるよりも崩れる方が早くなり、追いつかなくなったところから滅亡していく。積み上げた累卵の山の高さを競い、それをまた崩すのが止められない、というのが人間というものなのか。

2024年10月 8日 (火)

『Dr.パルナサスの鏡』

 テリー・ギリアムの映画『Dr.パルナサスの鏡』を見た。テリー・ギリアムの映画で描く世界はゆがんでいるので、なかなか説明がしにくい。見たらわかるというものではないし、見なければさらに内容を伝えようがない。そういう映画を作るのがテリー・ギリアムである。

 

 初めて見たのは『バンデットQ』という映画で、いたく感銘した。見たこともないタイプの映画だったからだ。傑作だと思う。ショーン・コネリーが出ていた。つぎに見たのが『バロン』で、バロンは男爵のことである。『ほら吹き男爵』の話はご存じだろうか。私は子供の時に読んだ。大人になってからも読んだ。お気に入りの話である。その話を元にして映画にした。

 

 今回見た『Dr.パルナサスの鏡』は旅芸人一座の出し物であり、パルナサス博士が見せるそれぞれの人の心の中の欲望の世界が描かれる。博士は不死であり、実年齢は1000歳なのだが、悪魔との賭けにより不死なので死ねないのだ。一座は博士ともうすぐ16歳になる博士の娘・ヴァレンティーナ、小人のパーシー、娘を密かに慕う若い団員のアントンの四人。じつは悪魔との契約で16歳になったら娘を悪魔に渡さなければならないことになっている。その日が迫っているのに、娘にそのことをいえずに悩む博士に、悪魔がさらなる賭けを申し入れてくる。

 

 そんなときに一座が通りかかった橋で、首をくくられて死にかけた男が彼らに助けられ、一座に加わることになる。怪しげなこの男をめぐってドタバタ劇が展開していく。この男を演じるのがなんと四人の俳優。ヒース・レジャー、ジョニー・デップ、ジュード・ロー、コリン・ファレルと、それぞれ主役級の四人である。男の悪魔的な面やいかがわしい面、正直な面など、その性格によって顔が変わるのである。

 

 テリー・ギリアムの奇妙な世界を久しぶりに楽しんだ。

 

 それとは別に『マーベラス』というプロの女殺し屋(マギー・Q)が活躍するアクション映画も見た。なかなか面白かった。共演がマイケル・キートン、サミュエル・L・ジャクソンで、殺伐とした殺戮シーン満載の映画であった。マギー・Qはスリムで美人なのでアクション俳優に見えないが、なかなか格闘シーンは見事である。

腹が立つのは

 いくつかのネットニュースをさらりと眺めて、多少は世の中のことを知ることができている気になっているが、中にはAIで私が興味を持つだろう記事を過去の閲覧から類推してくれているらしいものがある。ところが、どういうわけか、芸能やスポーツの記事の割合が次第に増えている。私があまり興味のない分野なのだが、たまたま大谷選手のことなどを見たりしたことなどが反映しているのだろうか。私はミーハーな面はあるけれど、それほどではないつもりだ。それより海外のニュースの方が見たいのに、その割合が減っていく。

 

 そういうニュース欄ではないが、ニフティのトップページのニュースの見出しに「Koki 、両親の悪口は不愉快」というのがあった。Kokiというのが木村拓哉と工藤静香の娘であることくらいは、承知している。何しろ私はミーハーであるから、などと胸を張ることでもないか。

 

 ところで「両親の悪口」が不愉快だというのはたいていの子供の共通の感情で、不愉快ではないというのなら、よほど問題がある親であるか、またはその子供が特殊な事情でも抱えているのだろうを思われる。そんなあたりまえのことを記事として取り上げたのであるから、そこにあえて読者に伝えたい何かがあるのかと、記事を読んでみたら、テレビ番組で「腹の立つことはありますか?」と問われたのに対して彼女がそう答えた、というだけのことであった。

 

 番組の一言をあえて記事にしたということの意味が理解できないが、あえて理解しようと考えてみれば、彼女の両親である木村拓哉や工藤静香はしばしば悪口を言われている、ということについて、この記事を取り上げた人は、そんな両親だけれど、それでもさすがに娘は腹を立てているらしい、けなげだ、とでも言いたいようである。そうでなければ記事に取り上げる意味は皆無だ。それとも、まさかと思うが、子供が親の悪口に腹を立てるのが今の時代では普通ではないと思えるのだろうか。

 

 かように芸能記事には意味不明の読むだけムダなものがあふれているのだが、見出しが不思議なほど常識外れだったり、あまりにも常識通り過ぎたりするものだったりするので、なんだろう、とつい読んでしまうのである。それが向こうの狙いなのだろうが、つい引っかかってしまう。我ながらバカである。つまらないことを書いてお目汚しの段、ご容赦ください。

変化を演出する

 国民に人気はあるらしいが、自民党内議員の支持は少ないというので、石破茂新首相誕生は意外な結果だったと思う。結果に理由はついてくるので、その意外性は必然だったかのようにテレビで説明されている。自民党の国会議員たちが、国民の人気を選挙と絡めて考慮したということか。

 

 その国民の人気というのは、マスコミがそう言っているから人気だったという面が大いにあると思う。それが証拠にマスコミがしきりに新首相の問題点を次々にあげつらうと、たちまち人気だったはずの石破首相の支持率は意外に低いなどと報じられる事態になっている。もちろんマスコミがマスコミ自身のことばで何か言っているのではなく、マスコミが取り上げる人物たちが言っているのだが、それを択んで取り上げているのはマスコミだから、マスコミが言っているのだ。

 

 マスコミは変化が大好きで正義が大好きである。小泉氏や高市氏ではマスコミの思う正義と見なさなかったのか、石破氏の方が正義に見えたのか。何より石破氏は最終的に勝てないという政治評論家のことばをしきりに取り上げておいて、それなら石破氏を勝たせて見せよう、などという意思が無意識に働いたのではないかと想像している。マスコミは変化を好み、変化を演出するのが大好きだ。あの民主党政権誕生のときはそれが見事に成功して、国民の多くはそれに乗せられた。

 

 私も乗せられた口である。大いに反省し、今度は安易に乗せられないようにしようと思っているが、テレビを見るのが好きだから影響は受けるので、心許ない。それにしても新政権誕生の初期くらいはもう少し様子を見たらどうかと思う。まだなにもしていないうちから応援から批判に転じて見せ、もともと石破氏を応援する気のなかった私にさえ、石破氏がかわいそうに見えてしまう。どこかの誰やらが、あんなにゆっくりではなく、もっと早くしゃべれ、などというのを取り上げたりしていた。聞いていてイライラするのだそうである。あのしゃべり方はずっとむかしからの石破氏のしゃべり方で、私は岸田氏のギクシャクした間の取り方の方が気になっていたが、岸田氏は元々はそうではなかった記憶がある。首相になって次第にそれがひどくなったと思ってみていた。

 

 マスコミは変化と正義が大好きで、それを演出するのが自分の天職だと思っている。それが国民のためになるというだろうが、本音はそんなことはあまり考慮していないだろう。考慮したらあんなに無責任でいられるはずがない。そもそもマスコミが責任を感じるはずもない。常に国民の思いを国民の代わりに謳っているだけなのだから。

2024年10月 7日 (月)

最近の読書

 映画をせっせと見ているのであまり本が読めていない。最近読んだ本。

 

森本哲郎『すばらしい旅』
 旅の思想家・森本哲郎の本は読むと心が癒やされる。繰り返し読んでも飽きずに何度でも読める。他にも読みかけが数冊ある。

 

團伊玖磨『パイプのけむり』『続 パイプのけむり』『続々 パイプのけむり』
 作曲家の團伊玖磨のエッセーは、シリーズ以外も含めて二十冊ほどある。それを少しずつ読み直している。彼のちょっと人並み外れたこだわりが面白いと思って昔はそれを楽しんだが、丁寧に読み直すと少しちぐはぐなところもあって、面白くするための誇張である部分も見えてきたりする。

 

諸井薫『この日本における少数異見ノート』
 編集者の諸井薫のコラムを集めたもの。時事ネタを数ページごとに論じている。主に1994年に書かれたもので、その時代を思い返したりした。もうあれから30年も経ったのか。初めて読んだときはけっこう新しい視点をもらった気がしたが、今回はそこまで感心しなかった。自分は30年経っても変わらないところもあるし、30年経てばずいぶん変わったところもある。この本は時事ネタを扱っているから、変わった自分が読んでいた。

 

 引き続き『パイプのけむり』シリーズを読んでいくつもりで、読み終えたら処分する。エッセーや随筆は残しているものが多いが、文庫本はあまり古くなると紙質も劣化するし、背の糊も劣化して、私は本をきちんと開いて読むので割れてしまい、ついにはページがバラバラになってしまうのである。出版社によってその劣化の具合が違う。

 

 年金に対して物価の上昇が大きく、生活維持のために新しい本は極力買わないことにしているが、つい二冊ほど取り寄せてしまった。先崎彰容の全訳『福沢諭吉著 文明論之概略』、同じく『批評回帰宣言』の二冊である。『批評回帰宣言』は坂口安吾、夏目漱石、和辻哲郎、福沢諭吉、中江兆民、そして江藤淳などが論じられていて、読まずにはいられない面白そうな本だ。

虐待児は虐待する

 親から虐待を受けて育った子供は、子供を持つとその子供を虐待してしまうという。必ずそうなるということではないだろうが、そういう傾向があるらしい。哀しいことだが、ありそうなことにも思う。

 

 イスラエルの中のパレスチナ人の暮らす地域には、いま多くの人(四万一千人を超えた)が殺されたガザ地区と、ヨルダン川西岸地区との二つがある。そのヨルダン川西岸地区ではパレスチナ人の農地などにイスラエルから入植者と称する者たちがやってきて、パレスチナ人の住まいを重機で破壊し、土地を奪い、住人を追い出している。抵抗すれば銃で脅し、ときには実際に発砲して殺傷する。入植者保護のためとしてそばにいるイスラエル兵は見ていても何もしない。これは国際法違反の暴挙であると国連で認められているが、それに対しての制裁はアメリカの拒否権行使によって成立しない。

 

 それをNHKがレポートしていた。アメリカという新天地に西部開拓と称してインディアンの住む土地に入植し、抵抗すればインディアンを殺し、それを騎兵隊が守って入植地を拡大し、いまのアメリカができた。まさにそれをなぞっている。それがアメリカの正義であり、イスラエルの正義だ。

 

 ナチスはユダヤ人の生活を脅かし、ユダヤ人の財産を奪い、ドイツ人はユダヤ人を暴行し、抵抗すれば拘束した。ユダヤ人とわかると壁に大きな落書きがされ、標的にされた。チャップリンの『独裁者』という映画を思い出す。ヨルダン川西岸地区ではまさにパレスチナ人の住居の壁にペンキで落書きされ、入所者たちに集団で暴行され、家を破壊され、追い出され、入植地は拡大し、イスラエルだけではなく、世界中からユダヤ人が入植者として押し寄せている。彼らにマイクを向けると、我々の祖父母はアウシュビッツなどに送られて殺されたのだ、と異口同音に語る。だから自分たちの行動は正当であると語る。

 

 昨年の10月7日にハマスがガザ地区から越境して襲撃を行い、人質を奪ったことで、報復のためにガザ地区では無差別としか思えない爆撃が続けられ、ガザ地区はがれきの山と化した。その10月7日を境目にして、ヨルダン川西岸の入植者たちの行動はエスカレートしたという。彼らの国際法違反の行動は正当化されたかのようである。

 

 専門家によれば、ネタニヤフは易々とハマスの越境攻撃を許し、人質を取られるという失態を問われないためにガザへの爆撃を続けるしかないのだという。そのガザへの攻撃による死者の数を見て、国際世論がイスラエルへの批判が高まった。それではまずいと思っていまはその攻撃も控えめになっているが、戦争が終わると退陣要求と一連の行動の責任が問われるのが必至なので、今度はレバノンへの攻撃を激化させている。勘ぐれば、そもそももっとも問題視されているヨルダン川西岸の暴挙隠蔽が真の目的なのではないのか。ガザもヨルダン川西岸もイスラエルのものだ、とイスラエル右派は主張する。すべてのパレスチナ人を追い出すか殺し尽くすつもりのようであった。

 

 これがインディアンを殺したアメリカ西部開拓や、ユダヤ人に対するナチスの行動をなぞっているように見えるのは妄想か。祖父母が殺されたことが暴挙の免罪になるというのはなんたる論理か。

2024年10月 6日 (日)

すぐ決まる

 妹が、また兄弟で旅行に行こうと声を掛けてきて、弟と電話で相談した。妹はあまり長い旅ができない事情があり(亭主がリハビリ入院中)来月の半ばに、二泊三日で宮城県と山形県を走り回ることにした。千葉を起点にできるし、みな強行軍は平気なので、私さえ体調を整えておけばかなりのところを見て回れる。

 

 任されたので、早速宿を予約した。東北だと少し紅葉には遅いかもしれないが、遅くまで夏だったから、もしかしたらいい景色が見られるかもしれない。昨日は知多を一回りしてくたびれたけれど、気分的にはかなり吹っ切れた。あとは足慣らしをして体力を回復させようと思う。

 

 任せればあとは文句を決して言わない、そういう兄弟だからこういうことはすぐ決まる。

 ところで白川郷辺りの紅葉は今月17日以降くらいからが見頃だという。それならいつも行くせせらぎ街道のウレ峠辺りの紅葉もそのころが見頃だろうか。

引っ込みがつかなくなる

 ロシアのプーチンやイスラエルのネタニエフを見ていると、下世話なことばで言えば、引っ込みがつかなくなってしまった状態に見える。どうしてそうなったのかについては、いろいろに過去の事情やいきさつがあるだろうが、それがわかったところでいまの状態が周辺にとっても、それ以上に自国にとってもなにもいいことがないと思う。

 

 とくにイスラエルについては、周辺のイスラム国の人々に怨みを積み上げるばかりに見えて、ユダヤ人に対しての怨恨とはこういうものか、というような気にさせる。自分たちは虐げられてきた、というけれど、虐げられるには虐げられる理由があるのではないかとさえ思ってしまう。どんなことにもどこかでの妥協は必要で、それでなければ永遠の戦い、つまり敵対する存在を根絶やしにするまで戦いを続けるしかないことになる。そんなことができるはずがないと思うが、できると思う人もいるのだろう。そういう思いが大きな戦争につながるのだ。

愚かさに気がつかない

 アメリカのカルフォルニア州で、タコの養殖を禁止する法案が成立したそうだ。動物愛護協会などは「タコは知的な動物で、その養殖は虐待に当たる」のだと主張しているそうだ。タコを保護したい人間はそもそもタコを食べたことなどないし、タコとは無縁な人間だろうと想像する。それならタコについてあれこれ言うのはやめてもらいたいものだ。

 

 こんな理屈で動物愛護を論じていれば、食用の動物はすべて虐待されているという話になりかねず、愚かな話だ。それなら牛も豚も鳥もタコに比べて「知的」な動物ではないのか。しかしそんな法律に賛成した人間は、自分が食べるものは問題はなく、自分が関係のないものは保護してその贖罪の正義を主張したいのだろう。迷惑な話だ。そういう正義がどれほど傲慢なものか、などとは毛筋ほども気がつかない。こういう愚かさはアメリカのいまの精神的惨状を象徴している気がする。そんなバカな法律は成立させない、という理性がないのだから。そういえば、移民がペットの犬や猫を食べている、などという、有力大統領候補、そして副大統領候補の、どう考えても異常な主張がまかり通っている国であった。

 

 動物愛護主義者というのは、もしかしたらヴィーガンとやらいう菜食主義者たちか。菜食主義者であることは当人の勝手である。だから他人も動物を食べるな、というのは価値観の押し売り、正義の押し売りで傲慢である。激しい怒りを感じる。

2024年10月 5日 (土)

知多行

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ほとんど二ヶ月ぶりに車を走らせた。夜半の雨が上がったのを確認し、朝七時前に知多へ向かう。天気があまり良くないが、車はそこそこ多い。名古屋高速の合流、路線変更などは久しぶりなのでちょっと緊張する。知多道路をゆっくり走って一時間あまりでついた南知多は、少し薄暗い。

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雲間に光が差して海面がちょっときらめく。沖堤のテトラの上にいるのは海鵜のようである。

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いつも魚を買う魚ひろばに行く。豊浜港にある。港を見に行く。

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堤防には釣り人がいる。昔ここに何度か来たけれど、ここではあまり釣れた覚えがない。

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豊浜新港から伊勢湾を望む。大きな貨物船が行く。

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はるか沖にかすんで見えるのは伊勢湾フェリーのようだ。

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また別の突堤に行く。

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こんなのんびりした休日も好いなあ。

ずいぶん久しぶりに行った魚ひろばは、店が少し変わっていた。えびせん屋が増えている。15~20センチの小ぶりのイシモチが五匹で600円、10~15センチの中アジ八匹がやはり600円だったので両方買う。

無事昼前に帰着したので、これからイシモチのおおきめ二匹とアジ二匹を塩焼き用にする。残りは煮付けにするつもりだ。このサイズのアジなら私は手開きできるが、イシモチは手では捌けない。捌くための小出刃をまず研ぎ直すことにする。

久しぶりのドライブは快適で、いい気分転換になった。

きっかけ

 単身赴任時代以来、二十年以上、冬用のタイヤを金沢のタイヤ屋にあずけてある。そのタイヤ会社からタイヤ交換予約の案内が来た。タイヤ交換にあわせていつも金沢の魚を食べ、北陸地域を少し走り回ることにしている。能登へ行くことも多いのだが、今回はそういうわけにもいくまい。福井か富山の温泉に行こうか。

 

 今年が四年目の冬タイヤで、もうワンシーズンは走れそうだという。月末の週に糖尿病の定期検診がある。それが済んだらすぐにタイヤ交換に行こうかと思う。雪にはだいぶ早いけれど、とにかく出かけるきっかけにしようと思ったのだ。その前に少し足慣らしを始めなければ。

2024年10月 4日 (金)

映画を捨てて時間を拾う

 八月から年末までに映画を100本見ると決めて、すでに50本を超えた。長い映画もあるからなかなか時間を食うし、くたびれるけれど、もともと好きなものだからせっせと見続けている。そうなると録りためた大量の映画をすべて見るのは無理だということを思い知る。新しいものも厳選して少しは録画しておきたい。

 

 そこで外付けのハードディスクの中のものや、ブルーレイディスクの山から、優先順位で選別することにした。まだ一二割程度だけだけれど消去したり捨てている。それでもそれを見るために必要だったはずの時間が代わりに拾えた気持ちになっている。もっと厳選し直しても好いなと思っている。

 

 本も読了したものがだいぶたまったので、売り払うものと捨ててしまうもの(文庫本で少し変色が始まったものは、どうせ一円にもならない)とを選別しようと思う。映画ほど簡単にいかないが、それでも少しづつ作業を進めている。

 

 妹から体調を心配して電話をもらった。同時にそれは、早く体調を戻してまた兄弟で旅行に行こうというお誘いでもある。話をしていたら少し元気が出た。しのぎやすくなってきたから体も復調しているようだ。なにより体以上に精神的にテンションが下がっていたのが我ながら不安だった。気分転換したくてもその気分転換への行動のスイッチが入らないのである。なんとか散歩、そしてちょっとしたドライブに出かけようと思う。

前回に続いて

 映画『フック』でスピルバーグは何を伝えたかったのだろう。自分の子供たちを救うために命がけで戦うという、男の役割を思い出させることか。つまり家族というものが何よりも大切だということか。そのためにピーターパンであった自分を思い出し、その力を取り戻したのか。家族をほったらかしで仕事に明け暮れている男を戯画化し、女性(妻)に恨み言を言わせるアメリカ映画の典型としか思えないこのような映画は、そもそもピーターパンの物語とはもっとも極北の価値観の産物ではないのか。

 

 ピーターパンシンドロームということばがある。ずいぶん昔にこのブログに取り上げたような気がするが、いつのことか思い出せない。大人になりたくない少年たちは、大人であることの責任を引き受けないという点でだけピーターパンであろうとした。彼らが青年として社会に輩出されていくことへの危惧がピーターパンシンドロームということばの意味であろう。この世界はネバーランドではないから、それでは世界は成り立たない。

 

 ピーターパンは子供である。歳をとらないから大人にならない。子供はそもそも責任を引き受けない。引き受けることはできないことになっているし、そういう思考そのものをもたないと見なされている。だから、そもそもピーターパンはそういう大人の価値観で行動しない。ピーターパンの物語はその中に大人になりかけの思春期の少女ウェンディという存在が混ざることによるネバーランドの波乱の物語ではないか。

 

 子供が大人になることを拒否するという物語は、ピーターパンだけではなく、『ブリキの太鼓』というドイツ映画(同名の小説を原作としている)でも描かれている。大人にならないままの少年は、ネバーランドではなく現実世界に生きている。大人にならないということのさまざまな歪みが、ドイツが置かれたある時代を描くためのものであることは映画を見ればわかる。彼の中で収拾がつかなくなったときの絶叫は破滅をもたらす。

 

 大人にならないと決めたピーターパンがその節を曲げて大人になったとき、その大人が子供に返れるのか。大人である自分を体験して記憶にもってしまった大人が子供に返ることができるのか。そんなことが可能なら、そもそもピーターパンの物語そのものを否定することになってしまわないか。何より自分の子供を持った、ピーターパンだったというピーター・バニングが、その子供のためにピーターパンに戻れること自体がピーターパンという存在を否定することになってはいないか。

 

 ピーターパンの物語を否定しているとしか思えないこの物語を、スピルバーグが作るということにアメリカという国の底の浅さを感じてしまうが、もしかしたらスピルバーグはそれを百も承知で、受けることを計算済みの仕立てにしてアメリカ人向けにこの映画を作ったのかもしれない。

『フック』

 映画『フック』(1991年アメリカ)を見た。スティーヴン・スピルバーグ監督のファンタジー映画で、もちろんフックはあのピーターパンの宿敵、ネバーランドの海賊船の船長である。つい最近亡くなったマギー・スミスが出ている。「あのハリー・ポッターの・・・」という取り上げ方ばかりだが、彼女はここにもいる。

 

 ピーターパンは正しくは「ピーター・パン」だが、私はピーターパンにこだわりたい。幼稚園時代だったと思うが、父が誰かにもらったらしいアメリカのコミック冊子をくれたのだが、それが「ピーターパン」だった。色刷りのそのかなりくたびれた薄い冊子は、吹き出しが英語だから物語は絵で想像するしかない。あとでちゃんと物語として読んでいるが、緑色の服を着て空を飛ぶ、私のピーターパンのイメージはそのコミックの絵による。物語で読んだときに私が想像していたとおりだと思ったけれど、それは記憶の前後の転換が起きているからだろう。

 

 大人にならないと決めて生きているピーターパンに誘われて、子供たちが妖精のティンカーベルの魔法の粉の力で空を飛んでネバーランドに行くシーンは夢のようだ。その子供たちの一番年かさの少女がウェンディ。映画「フック」ではウェンディが歳をとっておばあさんになっている。それを演じているのがマギー・スミスだ。ピーターパンをロビン・ウィリアムス、フック船長をダスティン・ホフマン、ティンカーベルをジュリア・ロバーツが演じている。

 

 大人にならないと決めたピーターパンが大人になり、ピーター・バニングとして家庭を持ち、仕事に追われる実業家として生きている。すでにピーターパンとしての記憶は失われている。ところが彼の子供たちが何者かに誘拐されてしまう。誘拐したのは宿敵フック船長だった。

 

 大人になってしまったピーターパンがピーターパンの記憶を取り戻す物語というのがスピルバーグらしいともいえるし、やはり彼はアメリカ人なのだなと思った。大人になることの哀しさを強調することで、ピーターパンの物語の意味を、大人になった我々に思い出させようというのだろうが、こんな形で思い出させられたことに、本音を言えば残念な気持ちがある。ロビン・ウィリアムスが熱演すればするほどそう思った。

 

 そういう意味ではネバーランドに住み続けているフック船長にこそ思い入れが湧く。ダスティン・ホフマンはまことに楽しそうに怪演していて、だからこその題名が『フック』なのであろう。

 

 ピーターパンはもともとイギリスの物語で、アメリカ的な感性とは根底のところでなじまないのだと思った。こんな形で子供がピーターパンに初めて出会うというのはいかがかと思う。

2024年10月 3日 (木)

信じられない

 他人に向かって「殺すぞ」などと、冗談にも言うべきではないし、そんなことを言えば、反社会的な人間だと見なされても仕方がない。ドラマや映画でも、そういうことを言うのは悪者に決まっている。それを警察関係者が部下に言ったという。それも一度ならず、少なくとも二度言ったのだという。本人も認めていた。人格的に問題があるとしか思えない。本部長を更迭されたと言うが、警察にこういう人間がいること自体が問題だと思う。

優先順位の問題

 石破新首相誕生後の言動について、さまざまな論評が加えられている。丁寧に見ているわけではないが、好意的なものはあまり見られず、期待外れ、過去の言動と不一致だ、という批判的なものが多いようだ。普通は新首相に対しては、しばらくの間はあまり強い批判は控えるというのが礼儀だったように記憶しているが、いまはそういう慣らし運転のあいだへの優しさなどというものは失われているようだ。

 

 期待が大きかったのが裏切られた、という見方もできるが、集団を率いる役割を引き受けるとなれば、それぞれの意見も聞き、反発をなるべく少なくしようとするのを裏切りとまでいうのはいかがかと思う。石破新首相の行いたい政策の優先順位と、党内の優先順位はもともと大きく異なっていたから党内野党などと言われていたのであって、そのすりあわせのために妥協するのは仕方がないと私は見ている。

 

 首相は独裁者ではないのだから、ギクシャクした党内をまとめることで初めて自分がしたいことができる力が持てるようになるのであって、まずその段階なのであろう。延命のために志をまったく失ったと思われたときに批判すればいい。それにしてもマスコミの相変わらずの、批判が正義という姿勢は見ていて、ではどうしたらいいのだ、といいたくなるようなところがあってうんざりである。

 

 それにしても、大向こう受けを狙った野党のレッテル貼りの頻発は、品位のかけらもない情けないものだと思う。社民党の福島瑞穂党首のことばはとくにひどかった。貧すれば鈍するで、仲間には受けるだろうが、普通の感覚の人なら目を背けてますます離れていくばかりだろう。

 

 それでもこれだけ批判が氾濫すれば、解散後の衆議院選挙結果に影響するかもしれない。マスコミは誰が首相になっても引きずり下ろし続けるつもりなのだろうか。民主党政権を生んだような何かの変化を、国民のためというよりも、自らの力の誇示と勘違いしてその力を行使しているように見える。そういう動きに対して石破首相は案外恐ろしい反撃をするような気もする。

チダイ

 今朝、まだ降り出していないが、これから雨が降り始めて午後は本降りになるらしい。久しぶりに真夏日ではないというが、あまり涼しく感じない。涼しく感じないのは、猛暑の夏にマンションの駆体が暖まっていて、その熱が外気で冷えるまでは当分室温が高い状態が続くからであろう。冷え込みの時期にはありがたいが、今の時期はありがたくない。

 

 昨夕、スーパーの鮮魚コーナーにチダイが並んでいた。二十センチあまりのものが二百円ちょっと、三十センチ近くのものが三百円ほど、眼を見ても鮮度は悪くなさそうなので、その大きなものを購入して煮魚にした。平たい煮物用の鍋に尻尾を折り曲げて押し込んで、落とし蓋をして煮込む。思ったよりもうまくできた。

 

 煮魚は食べられるところをとことん食べてしゃぶり尽くせるところが好い。もちろん眼の周りや口の周り、首の後ろも丁寧に食べる。体の骨は硬いが、大きければ取り分けやすいからありがたい。豚汁を作ってあったので、それと白菜の漬け物と鯛とで酒を飲み腹がいっぱいになった。満足、満足。

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