2025年1月18日 (土)

気がついていないはずはないが

 中居某のスキャンダル報道をきっかけにした、フジテレビ非難の大合唱を横目で見て、テレビの衰退の象徴だなあと感じている。テレビの興隆期に、時事評論家の大宅壮一は「一億総白痴化」と喝破した。長い期間をかけてその「総白痴化」はすでに達成されて久しい。テレビもその点での役割が終わっているのだろうが、その金切り声とわめき声、CMの異常な氾濫など、お祭り騒ぎ、道化はエスカレートするばかりで、テレビというメディアが衰退していることにテレビ自身が気がついていないはずはないのに、衰退を踏みとどまるためにどうにかしようとしているように見えない。そのあげくがこの騒動なのだろう。ジャニーズ帝国崩壊のコピーに見えてしまうのは私だけだろうか。

 

 テレビが街頭に出現する前に生まれ、父に肩車されて電気屋の前の人だかりとともにテレビのプロレスを見た世代として、私はテレビとともに育ち、テレビ大好き人間であり、いまでも大好きである。どっぷりテレビに染め上げられて、自覚はないがおおいに白痴化していることだろう。だからこそテレビの現状について強い関心がある。

 

 なによりテレビ局は多すぎる。競争よりも共生で、同じような番組をならべて仲良くする時代はとっくに終わっている。しのぎを削って生き残りをかけ、ふるい落としをしなければならないのに、手をこまねいてきたことで、若者の多くはそっぽを向いてしまった。テレビを見るのは暇な専業主婦とリタイア済みの高齢者たちばかりになった。CM提供者はその費用対効果に失望しているだろう。介在して膨らんだ電通などが批判の対象になったのは記憶に新しい。いままで通用していたことが通用しなくなったのだ。それは力を失ったからで、衰退の表れだろう。

 

 テレビ大好き人間の私でも、いまは民放の番組は限られたもの以外はほとんど見ない。テレビの装置は、ニュース以外の多くの番組を録画してから見るので、ほぼモニターと化している。

 

 民放のありがたさは、無料で見られることであった。その無料であることが衰退につながったとみるのは飛躍に過ぎるだろうか。とはいえ今さら有料にすることも出来ない。新聞も衰退が著しい。マスメディアが危機にある。それは外部要因というより自滅なのだろう。

2025年1月17日 (金)

不便

 来週に片付けようと思っていたことが、予定が重なって狂ってしまったので、今日急遽妻の病院に行った。20キロ足らずのところの病院だが、大きな街の街中をぬけるので渋滞することが多く、あんがい時間がかかる。さいわい今日はそれほどひどくはなく、スムーズだった。病院の受付をしてくれる女性は常時三人いて、ふたりは若くて、ひとりはちょっと愛想の悪いおばさんである。ただ、若いひとりは要領が悪くてむやみに時間を食う、このおばさんはテキパキしている。どういうわけか、このおばさんが今日はいつになくにこやかで、感じが良かった。ようやく顔を覚えてくれたのだろうか。それともたまたまいいことでもあったのだろうか。

 

 ガソリンが軒並み180円ほどになっているようであった。政府の補助のおかげでいままで安く維持されていたのが、補助がなくなったからだと報じられている。政府としてはいままでの政府の補助のありがたみを実感してもらいたいと思っているだろうが、とんでもない。もともとガソリンにとんでもない割合の税金を掛けているのは政府であって、こちらはそれを今さらのように痛感しているのだ。とはいえ、たぶん何も考えていない人の方が圧倒的に多いだろうなあ。

 

 数日前から小銭入れが見当たらなくなっている。だから熱田神宮へ行ったときには小銭がなくて困った。仕方がないから自動販売機で缶コーヒーを買って小銭を作ったが、今度はポケットでじゃらじゃらして煩わしい。最後に小銭入れを出したときのことは覚えていて、そのあとは出していないから、家の中にあるはずで、いろいろ探したけれど見つからないのが不思議だ。昔よりも小銭を使うことは少ないけれど、それでもないと不便で、仕方がないから出かけたついでに小銭入れを新たに購入した。小銭入れには小銭しか入っていなかったからあきらめもつくが、もっと大事なものをなくすことがないようにしないといけない。大事なものをなくすとあとの始末が煩わしくてかなわない。

眠れなくて本を読み散らす

 夜更かしが続いたので、昨晩は早めに就寝したのに、足がつって目が覚めてしまった。左足の腿がまずつり、それほどひどくならずに治まってほっとして、念のために漢方薬を飲んだのだが、今度は右足の腿がつった。それがなかなか治まらず、もだえていたが、しばらくして薬が効いたのかそれもなんとか治まった。しかし完全に目が覚めてしまったからなかなか眠れない。静かに眠りを誘うクラシック集、などという音楽をかけてぼんやりしていたが眠くならない。

 

 仕方がないからスタンドの明かりを付けて本を読み散らした。なるべく読みにくい本を読もうと思って、張袋(ちょうたい)の『西湖夢尋』(東洋文庫)をまず開いた。この本の前半は詩文集で、漢詩が頻出し、私の力では読み切れない。読み切れないのは簡単に解釈しようとするからで、もっと腰を据えてイメージを喚起しなくてはならない。さいわい西湖には何度も行っているので、たいていの見所は承知している。西湖のある杭州には観光で五回、仕事で三回行っている。仕事で行ったときも、夜に西湖まで足を伸ばして湖岸のレストランで食事を摂ったりした。

 

 わからないなりに何とか齧り付いていて、読み疲れたので後半を開くと、こちらは詩文集というよりも湖岸風景や、そこにまつわる歴史などについて記した紀行文ふうで、それなら読みやすい。明の末期の時代を感じた。そういえば読みかけて遅々として進まない余秋雨の『文化苦旅』の中に西湖のことを書いた一文がある。それを読み直した。そこに張岱について言及していないのが残念だが、その少し先の『夜航船』という章は張岱について書かれたものだった。『夜航船』は張袋の書き残した百科全書といえる本で、そのことが記されている。『夜航船』という船が実際にあって、それについての余秋雨の子供のころの記憶が併せて回想されていて、なかなか好い。どうして張岱が『夜航船』などという題を付けたかについての余秋雨の考えも書かれている。

 

 それでも眠れないので(あたりまえか)、読み始めた永井荷風の日記『断腸亭日乗』(岩波文庫)を開く。ここにどんな本を読んだかも記されていて、興味深い。読んだことのある本や、知っている本があったりすると嬉しい。できれば読んでみたい本もある。大正七年に森鷗外についての言及があり、まだ会っていないと記述されていたので調べたら、森鷗外が死んだのは大正十一年で、存命なのであった。手を広げていくとキリがないし、読み疲れたと思ったところでひとりでに眠りについていた。

2025年1月16日 (木)

映画『トゥヤーの結婚』を見る

 映画『トゥヤーの結婚』は2006年の中国映画、ずいぶん前に録画しておいたものだが見そびれていた。そんな映画が山のようにある。舞台は内モンゴルであり、その土漠の中のテントで夫と息子、娘とともに羊を飼って暮らす女性トゥヤーが主人公である。

 

 プロローグでその女性の結婚式の断片が描かれる。彼女の再婚のシーンである。そして、なぜ彼女が再婚するのか、その再婚とはどういうものであったのか、丁寧に、そして淡々と物語が描かれていく。

 

 水場の水が涸れて、どんどん遠くなり、不便なので夫が井戸を掘り進めるのだが、その時に事故で怪我してほとんど半身不随状態なってしまい、トゥヤーは水運び、羊の世話、子供の世話と夫の世話で疲労困憊している。そんななか、トゥヤーまで腰を痛めて途方に暮れてしまう。

 

 夫の姉の提案で、彼女は夫と離婚するのだが、夫を引き取るという義姉の申し入れを断りそのまま彼女は夫とともに家族で暮らし続ける。そして夫を含めて家族を世話してくれるなら、という条件で夫を求めるのである。求婚がたくさんあるのだが、彼女の条件が変わらないことで、みな断りを入れてくる。

 

 そうして有力な結婚相手があらわれ、ほとんどきまりかけるのだが・・・。そこから二転三転して再婚に至る。それが彼女のしあわせにつながるのか、そうでないのか、それは誰にもわからない。

 

 彼女は賢く、働き者である以上に自立心を持ち、矜持を持つ女性であることが、見ていてどんどんこちらの胸にしみてくる。二胡の音色、モンゴルの詠唱、広々とした平原の風景、好い映画だと思う。トゥヤーを演じるのはユー・ナンという人だが、漢字で書くと余男であるのがおもしろい。もちろんれっきとした女性である。

正しくてよいことであるはずのことでも

 読みかけで本棚に戻してあった谷沢永一の選集第2巻の『日本史のバランスシート』という章を読んだ。この本は四章からなり、それぞれが単行本一冊のボリュームがある(実際にそれぞれが単行本だった)から、ほぼ四冊分の大部の本である。第一章は有名な『紙つぶて』を収録したもので、これは三度か四度読み直していて、この優れた書評は何度読んでもおもしろい。

 

 『日本史のバランスシート』は、もともと『「正義の味方」の嘘八百』という題で出版されたもの。私はその題名に惹かれてこの本を一度読んで、そのユニークな視点に影響を受けた。今回読んで、前回感じなかった感想や、新たになるほどと思ったことなど、いろいろあって考えさせられ、おもしろかった。このごろエンターテインメント小説があまり読めなくなった。それは、読みながら、そして読んだあとも考えさせられる本を、より面白く思うようになっているからであると気がついた。

 

 この『日本史のバランスシート』を読んで感じたことはいくつもあったが、それを引用して紹介するにはまだ頭が整理されていない。ただひとつあげれば、大正時代に普通選挙推進運動が盛んになった点が、結果的に昭和初期の軍部の暴走につながったという見立てにおもしろいものを感じた。もちろんそれにはいろいろな経緯があったので、制限選挙から普通選挙への流れが間違っていたというわけではない。正しくてよいことであるはずのことでも、その推移の中で悪いことの原因になるということを承知しておくことは、歴史を学ぶ上で大事なことかも知れないと思ったのである。

 

 そういえば、光州事件などをきっかけに盛り上り、激しくなって達成された韓国の民主化がいまの国民分断の原因であり、結果であるのだという見立てを、誰か韓国の専門家が言っていた。国民が政治に熱くなりやすいのもそこに発しているだろう。民主化が悪いなどという意味ではないのはもちろんである。

不審な電話

 昨日の午後、熱田神宮から帰宅して一息入れていたときに、固定電話にNTTから自動音声の電話が入った。おかしな電話がしばしばあるので、固定電話は留守電にしている。受話器をとらずに聞いていると、この電話番号は二時間以内に使えなくなります、オペレーターにつなぎますか?という女性の声でそう告げている。びっくりして電話に出そうになったけれど、待てよ、と思いとどまった。電話回線を打ち切られるような心当たりは全くない。そもそも事前に何らかの事情説明があるはずだが、一切なしのいきなりの通告である。絶対おかしい。

 

 不審電話があったらここへ掛けてくれというNTTのご相談窓口、というところに掛けてみた。こちらも出るのは自動音声で、こういう場合は1を、こういう場合は2をなどと、どんどん枝分かれをたどりながら、用件を伝えようとするのだが、その場合は別の電話番号に掛けてくれ、などと案内された。人間相手なら即座に通じる話が、自動音声だと通じないのである。私は気が短いので途中で打ち切った。

 

 どうせ二時間経てば迷惑電話かどうかハッキリする。回線を切るなら切ってみろ、その時は許さんぞ、と思った。三時間以上すぎてから、固定電話からスマホに電話してみた。携帯に電話することができたのはもちろんであるが、それでもほっと安心した。安心したのは多少は不安だったのである。

 

 似たようなことがあるかも知れないのでご注意を。

2025年1月15日 (水)

熱田神宮にお参りする

昼少し前に熱田神宮に向かった。昼ころから晴れるはずが、どんよりしている。最寄りの駅から電車で神宮前まで30分あまり、案外近いのである。

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歩道橋の上から。左手が神宮の杜。この中に拝殿や本殿がある。

 

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濃い緑の中、椿の赤が目立つ。

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正面の鳥居。今日は神事があるので、けっこう人がいる。

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参道。初詣のときほどではないが、露天もちらほら出ている。

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参道は突き当たりになり、そこから右手に曲がると拝殿への道である。

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奉納されているお酒と大楠。手水舎で清めてから拝殿に向かう。

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正面が拝殿。家内安全をお祈りした。

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巫女さんの赤い袴が目を引いた。

このあと拝殿後ろの本殿をぐるりと囲んでいる塀沿いに、熱田の杜を散策する。

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ここで弓の神事がある。すでに終わったのか、これからなのか。神事の時は通行が止められる。

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艶やかな振り袖姿はいいものだ。

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お守りやお札、破魔弓などをここで買う。私は事故を体験したので、交通安全のお守りを買った。

このあと域内にある上地我麻(かみちかま)神社が知恵を授けてくれるというので、お参りして帰路についた。

へつらい外交

 日本の政治家が大挙して中国に押しかけ、融和的に態度を変えた中国の要人とにこやかに対話をしていた。まさかこれで日中関係が善くなる、などと考えているわけではなく、中国にはそうする事情があることを承知のことであるだろうが、その中国へ行った面々の目的について、考えてみた。

 

 訪問の目的は日本の水産資源の輸入規制解除と、拘束されている日本人の解放であると報道されている。その通りであろう。しかし拘束されている日本人の解放はなかなか困難で、よほどのお土産が必要になる。しかし水産物輸入規制解除は簡単である。そもそも言いがかりによる嫌がらせの規制で、中国が勝手に行ったことで、それをただ中国が、やめた、といえば良いだけだ。

 

 どうもそれができそうだぞ、と感じた面々が、もし規制解除となれば「自分たちが行って規制解除を成し遂げた」と手柄顔に胸を張ることができると期待してのことではないのかと私は考えている。そもそも中国側が不当であるのに、感謝して頭を下げることになるとしたら、なんと情け無いことか。へつらい外交ではないか。どんなお土産を持って行ったのだろうか。中国は腹の中で日本をあざ笑っているだろう。また何度でもこの手が使えることを学習したであろう。中国には何の損失もない。魚なんか他の国から買えるし、いくらでも日本近海で獲れるのだから。福島沖で獲ったものだって、中国船で獲ったものならたぶん問題にしていなかっただろう。

雨に降られた記憶がない

 昨晩は久しぶりにシミュレーションゲームなどをしていたら、夢中になって夜更かししてしまった。おかげで朝寝坊である。

 

 今日、一月十五日は旧の成人式の日。そして息子の誕生日でもある。出産のために実家に帰っていた妻が産気づいたというので、車で病院に運んだ。そのころは休日で仕事ではなかったから、それができた。病室に運び込み、「立ち会いますか」と聞かれたが、外で待つことにした。看護師の励ます大きな声などが聞こえていた。さいわい安産で、運び込んでそれほどたたずに産声が聞こえた。

 

 息子が生まれた年の年末に名古屋に転勤したので、毎年この一月十五日に家族で熱田神宮にお参りすることにした。それ以来四十年、よほどよんどころない事情がない限り、お参りは欠かさない。この日が休日でなくなったころには、自分が「毎日が休日」になっていたから問題ない。もちろん今日も行くつもりである。

 

 先週の天気予報はあまり芳しくなかったが、さいわい雨に降られる心配はなさそうだ。このお参りの日に傘をさしていた記憶がない。雨に降られた記憶がないのだ。子供たちが小さいときには、お参りしたあと家族でウナギを食べたりした。ひとりでお参りするようになってからは、金山まで行き、駅前のボストン美術館に立ち寄ったり、大須の電気街をぶらついたりしたが、そのボストン美術館もなくなってしまったので、いまはとんぼ返りである。電車で乗り換えなしで行けるから有難い。

 インフルエンザなどにかからないよう、マスクを忘れないようにしようと思う。今日は風が少し強く吹きそうだ。

2025年1月14日 (火)

『心の傷を癒やすということ』

 2020年に製作されたNHKのドラマ『心の傷を癒やすということ』(全四回完結)の再放送があったので見た。神戸地震から今年で30年、このドラマは、その神戸で精神科の医師をしていた主人公(柄本佑)の物語で、ほぼ実話をもとにしているようである。

 

 精神科の疾患は実際に存在しているが、精神科医療というのは多分に砂上の楼閣の部分があるのではないかという気持ちが拭えないでいるのだが、この医師が目指すのは、砂上の楼閣を築くこととはまるで違う、精神的に苦しんでいる患者に寄り添うことで、その苦痛を和らげること、患者が孤独ではないのだと感じさせ、生きることに希望を持たせることに全力を注ぐことである。このドラマは精神科の医療には意味があるのだということを改めて教えてくれる。

 

 病院で医師と患者が接するのは、長い時間を待たされたあげくに、わずかな時間でしかなく、しかも医師は患者の顔も見ずにカルテを眺め、パソコンの画面を見るばかりという場合が多い。精神科ほど患者と向き合い、会話する必要があるのに、同様なのが実情である。

 

 この主人公は違う。しかも彼は在日であるという生い立ちをもつ。それに正面から立ち向かい、乗り越え、医師として苦悩しながらも静かに話を聞き続ける。阪神淡路大震災という、人々が身体と同様か、それ以上に心に傷を負ったとき、それを癒やすために彼がどうしたのか、それが静かに語られていく。見応えのある、とても好いドラマだった。

口を噛む

 噛むと言っても自分の口なのでご安心を。いまよりずっと肥満していたとき、睡眠時無呼吸症候群のために息が苦しくて無意識に口腔を噛むことがよくあった。口の中が傷ついているからときどき口内炎になり、不快であった。

 

 そのころよりだいぶ体重も落としたので、いまは睡眠時無呼吸症候群の兆候はなく、昼間突然眠くなったり、口腔内を噛むこともほとんどなくなっていた。

 

 それがまたときどき口を噛むようになった。昨晩は夜中にその痛みで起きてしまった。口をゆすいだら血が混じっている。口内炎にならないように口腔内を清潔に保つようにしなければ。睡眠時無呼吸症候群の再発か、または昨年末に抜歯したことによる噛み合わせの狂いによるものだろうか。

 

 息子が、オーダーメイドの高い枕を買ったらよく眠れるようになったし、首や肩のこりや痛みが改善したという。枕の問題も大きいかも知れない。いろいろ考えられる対策を講じてこれ以上ひどくならないようにしたいと思う。

連絡があって楽しみ

 蔵開きについて酒蔵に問い合わせていた返事があった。早速いつものメンバーに連絡した。すぐに連絡があった人もあり、少し間を置いた返事もあり、まだの人もいる。たぶんいつもの顔ぶれがそろうであろう。弟も昨年に続いて今年も来てくれる。

 

弟は、夫婦で我が家に来てくれるかも知れない。以前そのように誘っている。弟の嫁さんはまったく飲まないので、酒蔵には来ない。ただ、せっかく来てくれるのだから、私の家を拠点に行きたいところはいくつもある。娘にはその時に接待するように頼んでいるので、来てくれるはずだ。いつも弟夫婦には世話になっているので、ささやかなお返しをしたいと思っている。

 

 友達に会えるのはとても楽しみだ。

2025年1月13日 (月)

映画『スリーパーズ』を見る

 1996年製作のアメリカ映画『スリーパーズ』を見た。内容は承知していて、一度見たつもりでいたのだが、映画の詳細がどうしても思い出せない。そこで見始めたらどう考えても初見である。あらすじを何かで読んだことがあるだけだったようだ。

 

 幼なじみの悪ガキ少年四人組が、たちの悪いいたずらのつもりで人を殺しかけてしまう。その罪で少年院に送られた少年たちが、そこでどんな凄惨な目に遭ったのか、正視に耐えない様子が描かれていく。その仕打ちとは、看守による、性的なことも含めての暴行だった。やがて刑期を終えて出所した四人はそれぞれの道に進み、成人する。互いの交流は続くが、自分の体験したことは決して口にせず、彼らの中で封印される。

 

 この様子を見て、ジャニーズを連想するのは私だけだろうか。

 

 四人のうちの二人はギャングになり、一人は語り手でもある新聞記者シェイクス(ジェイソン・パトリック)に、一人は検事補(ブラッド・ピット)になっている。そのギャングとなった二人が、たまたま看守の中のもっともたちの悪かった男(ケヴィン・ベーコン)に遭遇し、目撃者のいる中で射殺してしまう。

 

 その裁判を検事補の男が自ら望んで担当する。彼がギャングたちと知り合いであることは誰も知らない。あえて検事役となることで有罪に持ち込むふりをしながら無罪に導こうとするのだ。そして弁護を引き受けるのはアル中の弁護士(ダスティン・ホフマン)である。誰が見ても勝ち目のないこの裁判が始まるが、すべてを裏で誘導しているのは検事補であった。そして彼にはシェイクスと組んだ、とっておきの切り札が用意されていた。

 

 どんな人生もかけがえのない人生である。虫けらのように生き、死んでいった人間にもそれなりに友人がいて、それぞれにかけがえのないものが胸の内にある。不条理で残酷な世界にも、輝きとともに記憶される瞬間がある。それを見つめる眼こそが優しさというものなのだろう。それがあるからこそ、たとえば『ゴッド・ファーザー』で描かれていたマフイアの世界にも美しさが感じられたりするのだ。

贅沢な料理

 野菜たっぷりの野菜炒め(ウインナ入り)を作った。中華鍋にたっぷり作った。材料費をざっと考えると、贅沢な料理だなあと思った。こんな事を思うようになるとは思いもよらないことである。それほど野菜が高い。野菜も果物もみな高い。仕方のないことだとわかっていても、わかったからといって財布にこたえることにはかわりがない。

 

 こんな日本でも、海外から来た人には、日本は何もかも安いと言われているらしいから、海外はどれほど高いのだろうと思う。もちろんそれに見合った給料ももらっているのであろう。ただ、それが十分ではない人もいるだろう。そういう人が増えれば政府に対して不満が高まるのは自然の成り行きである。誰かのせいであると皆が思えば、代わりに糾弾してくれる人に支持が行く。

 

 何かに対して糾弾するのがいまの流行みたいだ。些細なことのように見えても対処を間違うとすぐ糾弾される。それだけ不満がたまっているのだろう。ロサンゼルスの山火事のように、不満という乾いた山林に火が付けば手が付けられなくなるだろう。誰かが意図的に火を付けるのが何より怖い。

返事がない

 毎年二月初めに、親しい友人たちと、ある酒蔵の新酒会に参加する。毎月にでも会いたい、一緒に飲みたい友人たちだが、この日だけしか会う機会がない友もいる。私が酒蔵に一番近いので常任幹事を自任している。酩酊するほど絞りたての原酒を飲んで歓談するのが毎年一度の楽しみである。

 

 その酒蔵に今年の開催日をメールで問い合わせたのだが返事がない。来週くらいには公式に蔵から発表があるはずだが、大阪や京都から来る友もいるので、早めに知らせてあげたい。千葉から弟も参加するつもりでいるはずだ。

 

 いま新酒の仕込みで忙しい時期だから、あまり邪魔をしては申し訳ないので催促はしたくないのだが、今朝もう一度問い合わせのメールをいれた。待っているだろう友もいるし、幹事の役目でもある。返事、もらえるかなあ。

2025年1月12日 (日)

映画『散り椿』を見る

 葉室麟の同名の小説を原作とした、時代劇映画『散り椿』を見た。主演の岡田准一は古武道を身につけているだけあって、体捌き、剣さばきがほんもので、それだけでも見応えがあった。

 

 ところで葉室麟といえば、彼の小説の舞台が見たくて日田に行った。その時にお世話になった方に年賀状を書いたら返事をいただいた。またおいでくださいとあって、心が動いた。九州は遠方だから、他のところよりもなじみが少ない。それでも仕事も含めれば十回近くは訪ねている。とはいえまだまだ行きたいところはたくさんあるので、できれば年内に、四国と九州にはまた行きたいと思っている。今度は鹿児島を中心に走り回ろうかと思う。

Dsc_0212_20250112105401日田城址の石垣と堀

 葉室麟は九州在住だったから、九州が舞台の小説が多い。この散り椿は架空の藩が舞台なので九州とは限らないが、そう思って見ていた。藤沢周平が庄内地方の架空の海坂藩が舞台であることが多いのに似ている。

 

 故あって妻とともに藩を離れていた男(岡田准一)が、妻(麻生久美子)の病死のあと、藩に戻ってくる。妻との約束を果たすためなのだが、藩では過去の人と思われていて、しかも戻るはずがないと思われていたこの男の目的がわからず、藩の内部に波風が立ち始める。この男がどうして藩を離れたのか、そのいきさつとなる事件が映画の進行とともに明らかになっていく。

 

 男は妻の実家、いまは妻の両親も亡く、妻の妹(黒木華)と弟(池松壮亮)が暮らしている家に身を寄せる。男が動くごとに藩内が騒然となり、やがて男の目的が、もと友人であり、むかし妻と恋仲だった藩の重鎮(西島秀俊)を助けるためであることがわかってくる。藩を牛耳る家老(奥田瑛二)派との確執、新しい主君を迎えようとする中での藩内の権力闘争が激しくなっていき、ついに実際の武力衝突が起きてしまう。

 

 絶体絶命の状況の中、男の豪剣が振るわれる。

 

 東映の時代劇を見て育ったので、時代小説や時代劇映画が好きである。その期待を裏切らない映画であった。麻生久美子も黒木華も好きだし、もっと好きな富司純子が脇役で出ているのも嬉しかった。この人の和服姿は本当に凜として美しい。

まだ残っているが

 私のパスポートの期限は、今年もいれればあと五年弱残っているが、もう海外へ行くつもりはない。海外旅行は結構体力が必要で、その体力に自信がなくなったし、さまざまなことがデジタル化していて、それらがよくわからないので煩わしい気もする。それでも未だに旅行会社から送られてくる海外旅行案内のパンフレットを打ち切りにせずにいる。それを眺めて夢想するのもささやかな楽しみであるからだ。

 

 昨日届いたパンフレットにはかなり心が動いた。「シルクロードの旅、ウルムチ・トルファン・敦煌・西安の旅」というパック旅行に、である。敦煌から先に、いつか行こうと思いながらかなわないままなので、最後の海外への旅として行きたい気持ちになった。見せられる西域しか見ることはできないだろうが、それは仕方がないことで、想像の目で過去を重ね合わせて見れば良いだけだ。とはいえ習近平政権下の中国に出かけるリスクはとりたくない。どんな言いがかりが加えられるかわかったものではない、というおびえがこころに浮かぶ。わかっていながらの危険を冒したいと思わない。

 

 安心して行けるときに行っておけば良かったと、心から後悔しながら冊子を閉じた。

0403710二十年前の敦煌

 

お茶と漬物

 昔、もう五十年以上前のことだが、新人時代に地方の繊維関係の工場や地元の代理店を担当していた。繊維製品を作り上げるにはいろいろな工程があり、私の就職した会社の一部門では、その工程で必要な資材を生産販売していて、その営業で廻っていたのだ。その繊維生産の工程は長い歴史の中で分業化されていて、産地と言われる地区が全国にあり、全体で有機的に生産が行われていた。

 

 小さな工場や代理店は家族的で、担当者や経営者などが手が空くまで待たされることがしばしばあり、その間事務所や場合によって社長の家の座敷で待つ。その時にお茶を出され、たいてい茶菓子ではなくて漬物が供される。お茶も漬物もとても美味しい。そこで茶飲み話でいろいろささやかな情報を聞いた。私はもともと漬物がそれほど好きではなかったけれど、次第に美味しいと思うようになった。

 

 そういう産地も過当競争の時代になり、さらに海外との競争の中で次々に縮小し、壊滅していった。そういうものを見続けた。

 

 いまお茶を淹れて、自分で漬けた白菜の漬け物などを箸で摘まみながら、その時代を思い出したりしている。懐かしいというのとは少し違う気持ちである。今回の白菜は少し漬かりが浅いようだ。気温が低いからだろうか。塩をきかせすぎたのかも知れない。

2025年1月11日 (土)

手の平側の指の根元を

 暮れにうっかりして皿を割ってしまった。変な割れ方をしていて、それを注意せずにうっかりと拾い上げたときに右手の人差し指の根元を切ってしまった。慌てて傷口を洗ったが、押さえていても血がしばらく止まらなかった。手の平側でしかも屈伸するところだから傷テープもとまりにくい。血が止まるのにしばらくかかった。娘や息子がいてくれたときは洗い物はほとんどやってもらったので、問題なかったが、一人になってからは、自分でやるしかない。しばらく不自由したが、さいわいきれいに傷は塞がった。

 

 安い台所洗剤を使っているせいか、冬はお湯と洗剤のせいで指先がガサガサになる。とくに親指の先の角が硬くなって小さく割れてしまい、沁みて痛い。指先はやはり傷テープでは留めにくい。とはいえ手袋をするのは面倒だ。横着をして、二回分、または三回分の洗い物をため込んで一気に洗うことで回数を減らし、よく手当てしていたら、何とかひどくならずにすんでいる。

 

 わずかな傷で大の男がイライラしている。

 

 新しいコーヒーメーカーが配達されてきたので、早速使ってみた。違うメーカーなので(タイガーから象印に替えた)使い勝手が悪いが、慣れればどうということはないだろう。思ったより出費は大きくなかったので、助かった。

 

 ようやく本を読む元気が出てきた。

正しいことを否定するのは困難だが

 ポリティカル・コレクトネスということばがある。社会的弱者に対する配慮のことで、たとえばマスコミのことば換えはそれを根拠とする。めくらを眼の不自由な人、などとするようになったのをはじめ、保健婦を保健師、看護婦を看護師、スチュワーデスをキャビンアテンダントなどと言い換えるのがそれだ。母子手帳はいつの間にか親子手帳に換わっているらしい。いまはそれが微に入り細を穿ち、マスコミのことば狩りは、あたかもことばの魔女狩りのようである。

 

 そう私が感じるのは、そのことば換えの神経の使い方が異常に過敏であるように感じるからで、しかもその過剰さは弱者に対する配慮という本筋以上に、ことばにいちいち目くじらを立てて糾弾する、ほとんどカスタマー・ハラスメント的な連中に対する防衛のための面が多いように思うからである。どんなことばも悪意を持って使えば差別的になることがあるが、それが全くないのに糾弾されることのなんと多いことかと思う。

 

 お客様は神様です、を私が毛嫌いするのは、カスタマー・ハラスメントを助長するからで、カスタマー・ハラスメントの差別意識ほど虫唾が走るものはない。何しろ客は王様どころか神様になってしまうのだから。

 

 世の中のある程度の見識のある人たちはうんざりしている。ことあるごとにだれかのことばの切れ端を取り上げて騒ぎ立てる風潮に、である。しかしそれは一見正しいことを正しく言っているかのようなので、よほど論理的な知能がないとなかなか否定しきれない。そしてそのような正義にもとづく揚げ足とりの人は、論理的なことばに耳を傾けないのが普通だから、空しいことになることが多い。

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 トランプの出現に拍手喝采が起きていることの一因に、そういうイライラがあるのではないかという気がするが、飛躍しすぎだろうか。なかなか否定しにくいけれどもちょっとやり過ぎではないか、ということに、トランプは無神経にかみついて否定してみせる。論理もなにもないけれど、論理がないゆえに、論理に聞く耳持たない正義の味方に言い勝ってしまうのが、痛快だと思う人がそれだけ多いということではないかと感じてしまうのだ。

 

 民主党は、どうして正しいほうが負けるのか理解できずに呆然としているように見える。世界中のあちこちで正しい者が負けて、論理などくそ食らえの政権が誕生しつつあるように見える。マスコミは正義の味方だから凋落していくばかりだ。立て直すにはもう少し強靱な、不条理な現実を直視した上での視点に立つ必要があるのではないかと思う。正義の味方であることが商売になった時代は終わりつつあるようだ。

米沢の雪

 大学二年生から四年生の三年間を米沢で過ごした。雪の多いところだった。昨日や今朝の米沢の降雪の景色をテレビで見て、当時のことを思い出した。大学受験も米沢だった。当時山形大学は二期校なので受験日は三月の後半で、私の地元の千葉ではもう春になっていたけれど、米沢の宿に着いたら雪景色だった。そして夜からまた雪が降り始め、もともとの雪に、その晩だけでさらに30センチ以上積もった。宿が大学まで歩いて行けるほど近かったからよかったけれど、車や列車の人は遅れてたいへんだったと聞いた。見たこともない大雪だった。

 

 実際に米沢で生活したときには、冬はそういう中で暮らした。寮生活をしていたが、その寮が郊外にあり、大学のキャンパスには近いが街中からは遠くて、さらに雪が多かった記憶がある。米沢は盆地で、すり鉢の底にある。壁のような斜平山(なでらやま)から雪が吹き下ろし、雪が上から降るというより下から吹き上げる。一年間だけ暮らした山形は、雪が降るときは風が止まり静かに降る。米沢は雪が降るときは風が吹く。寮から冬だと歩いて30分以上かかる街中に、吹雪に背中を押されて飲みに行き、帰りは山から吹き下ろす吹雪に向かって帰る。大酒を飲んでも寮に着くと醒めていたりする。コートのポケットには雪が勝手に積もる。風で吹き込むのだ。

 

 雪はいつでも一メートル以上道路脇に積まれていた。寮に雪下ろしのアルバイトの募集があったりする。何度か応募したが、一度高い建物の屋根で怖い思いをしてから、いくら時間給が高くても雪下ろしのバイトはやめた。山岳部の連中は嬉々として学校の体育館などの屋根に登っていたようだ。

Img223寮友だったジュンゾウ

 卒業してからも、何度か冬の米沢に行った。だんだん雪の量が少なくなっているなあ、というのが実感だった。今回の雪でも、むかしなら話題になるほどの量でもないように見えた。もちろん、本格的に積もるのはこれからだろうけれど。

2025年1月10日 (金)

世の中が理不尽であることを直視する

 闘う哲学者・中島義道の本を読みながら、以下のような一節に、頷いたりしている。

 

「大人の要件として挙げたいのは、現実の社会における凄まじいほどの理不尽に立ち向かう能力である。自分を棚に上げて「この社会は汚れている!間違っている!」と叫んで周りの者を弾劾し続ける少年、「人生不可解!」と叫んで華厳の滝から飛び降りる青年は掛け値なしの子供である。大人とは、他人を責め社会を責めて万事収まるわけではないことがよくわかっている者、人生とはある人は理不尽に報われある人は理不尽に報われない修羅場であること、このことをひりひりするほど知っている者である。(いわゆる)正しい人が正しいゆえに排斥されることがあり、(いわゆる)悪い奴がのほほんとした顔でのさばっていることもあり、罪のない子供が殺されることもあり、血の出るような努力が報われないこともあり、鼻歌交じりで仕上げた仕事が賞賛されることもある。いや、そもそも人生の開始から、個々人に与えられている精神的肉体的能力には残酷なほどの「格差」があり、しかもこれほどの理不尽にもかかわらず・・・なぜか・・・「フェアに」戦わなければならない。こうした修羅場に投げ込まれて「成功している奴はみなずるいのさ」とか「世の中うまく立ち回らねば」という安直な「解決=慰め」にすがるのではなく、この現実をしっかり直視する勇気を持つ者、それが社会的に成熟した大人であるように思う。」

 

「子供は自分が他人を理解する努力をしないで、他人が自分を理解してくれないと駄々をこねる。他人の悪口を散々言いながら、自分がちょっとでも悪口を言われると眼の色を変える。濡れ衣を着せられると、もう生きていけないほどのパニックに陥る。いじめられると、あっという間に自殺する。だが、大人は、他人を理解する努力を惜しまず、他人から理解されないことに耐える。悪口を言われたら、その原因を冷静に追求する。濡れ衣を着せられたら、いじめに遭ったら、あらゆる手段でそれから抜け出すように努力する。このすべては・・・誤解しては困るが・・・「善いこと」あるいは「立派なこと」をする能力ではなく、この世で生きるための基礎体力なのだ。私はわが列島の津々浦々に響き渡る「思いやり」や「優しさ」の掛け声に反吐の出る思いであるが、こうした体力に基づいてこそ、他人に対する本当の「思いやり」や「優しさ」が湧き出すように思う。」

 

 こういうことは、大人から子供へ代々伝えられてきたことだったと思う。子供はそれを実社会で体験して大人となり、さらに次に伝え続けてきたはずだが、いつしかそういう伝達が失われてしまったようだ。いや、伝わっている人がたしかにいて、その人たちが、いまのところ、何とか社会を支えているのだと思う。もともとすべての成人が大人であったことなどなかった。しかしその割合が減り、それが本当に失われると、怨みと妬みにあふれた、分断の深まった社会を招来するのだろう。まさにそうなりつつある。

Dsc_2564_20250110154301大人の背中

調子が悪い

 だましだまし使っていた古いラップトップパソコン(Acer)がおかしな動作を始め、いろいろ手を尽くしたが回復せず、ついにご臨終となった。そのパソコンにだけあったデータは、つい先日、すべて別に移しておいたのでとくに大きな問題はない。きわどいところであった。デスクトップもwindows11には移行できない古いものなので、遠からず今後まともに使えるのは少し不満のある現在のノートパソコンだけになる。

 

 コーヒーを飲もうと思ったら、五年あまり使っているコーヒーメーカーが作動しかけては中断して、ついには動作をしなくなった。何かが詰まっているのかといろいろ弄り、クリーニングなどを試みたが、うんともすんとも言わなくなった。こういう機械の五年使用というのはまあまあもったほうかな、という気はする。しかし突然のことなので、困るし腹も立つ。

 

 何より自分自身の気力がいま低下している。さらに、泌尿器科の疾患を抱えているが、しばらく問題なかったのに、このごろ再び尿が濁るようになってきた。棲みついた耐性菌が眠りから覚めて活動を始めかけている気配だ。それによって体調が損なわれて気力が低下したのか、そこのところの関係がよくわからないが、いまはつまらないことが気になりやすい状態にある。そしてその結果、私がもっとも大事だと思っている集中力が低下していることが私を苛立たせている。そういうときは長く本が読めない。

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(悪いのはおまえ自身のせいじゃ!そんなこともわからんのか、バカ者め)

今シーズン初めての雪

 夜半から明け方に、雪がちらつくかも知れないという予報だった。

 いつもなら五時前後に起きるのに、今朝は七時前で、もしやと思ってカーテンを開けると一面が白くなっている。すでにやんではいるが、うっすらと雪が積もっているのだ。雪が降るときは音が吸収されて静かだから、それで目が覚めなかったのかも知れない。

 この程度の雪では子供たちが雪合戦したり雪だるまを作るというわけにはいかないだろう。とにかく寒い。これから出勤、通学する人はたいへんだろう。不要不急の外出は控えるようにということだから、私は今日も引きこもり。

2025年1月 9日 (木)

ただいまテンション激下がり

 ただいまテンションが激下がりし、なにもする気か起きない。読書と映画鑑賞にのめりこみすぎて、エネルギーが切れたようだ。こういうときはなにもしないでぼんやりする。昼からうつらうつらとして、なにもしないで過ごした。正月に年甲斐もなく少し過ごしたので、数日酒を控えめに飲んでいたけれど、今日は酩酊するほど飲もうと思っている。

 

 ポテサラを山盛り作り、肉じゃがも作ってつまみはたっぷり、酒も飲みきれないほどある。さあ酒盛りだ。

人間のロボット化

 人間の身体の動きを検知してデジタル化し、映像化したり機械操作をするセンサーの技術革新がめざましいようである。さらに一歩進めて、脳にセンサーを埋め込み、脳から発する情報を取り出すこともできるようになっているという。脊椎損傷などで動くことができないだけではなく、口をきくこともできない人が、脳に埋め込まれているセンサーによって、モニターからことばを発することができているというニュースを見た。ことばが発せられるくらいなら、すでにかなりのことができるようになっているということであろう。画期的なことである。

 

 日本はロボット好きだから、機械をどんどん人間化することに熱心であったような気がする。しかしいま世界では、人間を機械化することに熱心なようである。それが良いことか悪いことか、いまはまだわからない。善いことがたくさんあるだろうことは想像できる。しかし、そうではないこともあるだろうことが想像できないことはない。善くないことへの歯止めが考慮されているのかどうか、寡聞にして知らない。

あたりまえの発言

 ドイツのシュルツ首相が「国境不可侵の原則を守れ」とトランプ次期大統領の発言に対して苦言を呈した。あたりまえのことである。当のデンマークの代表はともかく、どこの国の代表であれ、トランプのあのような発言には即座に苦言を呈するのは当然ではないか。シュルツ以外にもたぶん同様の発言はあったのだろうが、日本のマスコミはそれを報道しない。少なくとも私の耳にはまだ達していない。日本はどうか。アメリカに苦言を呈しにくい立場の日本政府については百歩譲ったとしても、野党がそれについてコメントしたという報道を聞かないのは不思議なことだ。マスコミが訪ねれば「言語道断」というかも知れないが、問われることもなく、自発的な苦言もないのか。

 トランプはグリーンランドが安全保障上重要だから、中国やロシアからアメリカが守るためにアメリカのものにすべきだ、という。それなら台湾もアメリカのものにするのか、日本もアメリカのものにするべきだというのか、朝鮮半島もアメリカのものにすべきだというのか。世界をアメリカのものにするのか、その論理がプーチンや習近平とどこが違うのか。

2025年1月 8日 (水)

先祖返り

 NHKのドキュメント番組『バタフライエフェクト CIA 世界を変えた秘密工作』を先日見た。CIAが、つまりアメリカが、イラン、東欧、チリなどで、どのような謀略行為を働いたのか、当時の秘密資料が期限が切れて公開されて明らかになったことをもとに再構成していた。それは公然たる秘密だった。なぜ中東で、そして東欧で、さらに中南米で、アメリカがかくも嫌われているのか、その理由がこの番組からも明確に読み取れる。アメリカの正義とは、それはイギリスなどのヨーロッパの先進国も同じだが、いかに自己中心的な利権確保のための建前であるか、改めて教えられた。

 

 キューバに行って、アメリカがキューバに何をしていたのか、そしてなぜかくもキューバを敵対視しているのか、そのことの裏側を知った。行く前に本を読んで勉強したし、帰ってからもキューバ革命の背景についての本を読んだので、キューバで聞かされたことを鵜呑みにしたわけではない。だからチリのアジェンデ政権が軍事クーデーで倒されたのも、キューバでの失敗から学んだアメリカの謀略だったこともよくわかるし、ペルーのフジモリ大統領の失脚も、たぶんCIAが背後にいたのではないかと私は思っている。

 

 ベトナムもそうだし、アフガニスタンでもそうだった。アメリカは結局すべてで失敗した。人心を摑むことができなかっただけではなく、嫌悪される存在になった。それはアメリカがその国の利権を権力者と分け合う構造から脱却できなかったからだ。

 

 トランプはグリーンランドをよこせ、とデンマークに言った。よこさなければ経済制裁を科すぞ、と言い、軍事行動も排除しない、と言った。パナマ運河についても脅しを掛けて、戻せ、と言った。これのどこがプーチンのウクライナ侵略と違うというのか。カナダはアメリカに帰属しろと言った。仮にもよその国である。その国に向かって脅しを掛けて自国に従えというのは、異常なことである。その異常さを承知で公然とそんなことを言う。たぶんトランプ支持者たちは拍手喝采だろう。アメリカの本音の侵略主義が先祖返りで現れた。

 

 冗談ですむ話ではない。これからは武力のある国が弱い国を切り取り放題、などという世界がやってくるというのか。恐ろしいことである。

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映画『湖の女たち』を見る

 吉田修一の同名の原作をもとにした映画『湖の女たち』を見た。監督は大森立嗣、出演は福士蒼汰、松本まりか、福地桃子、浅野忠信など。

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 学生時代、日活映画が立ちゆかなくなりかけ、起死回生のために路線を日活ロマンポルノに変更した。そのころ、そのロマンポルノのさまざまな作品をリアルタイムで見た。この映画を見て、その時代を思い出した。この映画はある意味で社会派のロマンポルノという見方ができる。どちらをメインに表現したいのか、そして受け取る側はどちらをメインに受け取るのか。

 

 私は松本まりかという女優があまり好みではない。好みではないのは、たまたまいままで見てきた彼女の役柄からの印象が大きいが、そういう役柄が誰よりも彼女に似合うとも思う。彼女しか演じられない役柄を見事に演じているということは評価する。

 

 施設入居の寝たきり老人の殺人、人体実験をしたといわれる731部隊事件、薬害事件、それらが絡んでいるようないないような曖昧な展開が続いていく。何かを解明していくというよりも、起こった事をそこに提示してみせるという視点で物語は展開していく。そうして目星を付けた人物を徹底的に尋問して暴走していく刑事たち。

 

 思わせぶりな真犯人のほのめかしで映画は終わってしまう。すべてが絡まり合っているようでもあり、ただ出来事がたまたま並んで起きていっただけとも取れる終わり方だ。たしかなのは、この映画での松本まりかは猥褻であるということだけだ。屁理屈で愚考すれば、人間の業を描きたかったのか。そうとれないことはないが。

こんなことがあった

 團伊玖磨の『パイプのけむり』シリーズをゆっくり味わいながら楽しんでいる。冊数を重ねるほど内容が濃厚に感じられるようになっていくのは、もともとクラシックの作曲家である著者が、文章家として成長しているからなのか、または彼の世界観に、読んでいる私が共鳴していくからなのか。

 

 こんな一節があった。

 

「こんな事があった。遠い親戚のような人から電話で、急に頼みたいことがあるので、銀座でお茶が飲みたいと言う。そこで指定の時間に指定の喫茶店に行ったら、モーニングを着込んだその人物が忙しげに現れて、すぐ自分に付いて来て呉れと言う。付いて行くと、そこは結婚式場で、いまや結婚の披露宴が酣(たけなわ)だった。その人物は、その宴の司会をしているらしく、こちらには何の説明もせずに、アナウンスをして、新郎新婦の将来を祝福して、自分の親戚の音楽家が駆け付けて来たので、これから、結婚行進曲を演奏させます、と言っているのである。魂消(たまげ)た僕が棒立ちになっていると、すでに拍手が沸き起こって、僕は、まったく名前も知らぬ新郎新婦に祝福の結婚行進曲を弾いた。無論、祝福の祈りをこめて弾いたけれども、こういう乱暴な依頼法を執るこの親戚のような男の頭脳構造は、一体どうなっているのかと考えた。その男は、呆然として帰った僕に、その夜電話を掛けて来て、有難かった、自分が面目を施した、面目を施した、と、自分の面目が立った事だけを繰り返して嬉しそうに電話を切った。」

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 こういう話を読んでどう感じるだろうか。いま並行して読んでいるドイツ文学者、中島義道の『人生、しょせん気張らし』(文藝春秋)では、他者との関わりを極力排する生き方を貫く姿勢が描かれている。独り暮らしの私などは、その偏屈さでははるかに及ばないものの、その生き方に共感する部分が多いし、團伊玖磨の生き方も、他者との関わりに対しての節度にひときわ厳しいところがあるので、こういう羽目にあってどれほど呆然としたのか、そしてどれほどの怒りと侮蔑の気持ちがわいたのか、想像する。

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