2026年2月14日 (土)

過剰

 私があまりスポーツに興味がないからであろうが、テレビのオリンピックについての報道は過剰であるように思う。盛り上がるのはけっこうだが、知りたいニュースが隅に追いやられてなかなか知ることができない。特にNHKが過剰であって、民放の方がまだましに思える。以前海外に詳しい誰かが、開催国でもないのにオリンピックをこんなに騒ぎ立てるのは日本と韓国ぐらいだと言っていた覚えがある。だからテレビでは、録画したドラマや映画を見たりしている。

 

 映画はアニメを二本見た。一本は鳥山明の『SAND LAND』で、こちらは以前テレビで放映していた連続アニメを映画化したものだった。テレビ版は見ていてほぼ同じだが、おもしろいからつい最後まで見てしまった。もう一本は『メアリと魔女の花』というアニメで、スタジオジブリから分派したスタジオポノックの制作である。最後まで見て、そこそこおもしろく見ることができたけれど、正直のところ期待したほどではなかった。細部に微妙な齟齬を感じたし、物語世界の奥行きも浅い気がする。原作のあるアニメだが、原作は多分もう少しきちんとしていると思う。

 

 声優として、杉咲花、神木隆之介、天海祐希、満島ひかり、小日向文世、佐藤二朗、遠藤憲一、渡辺えり、大竹しのぶなどと超豪華メンバーが起用されていて、その声が誰かを当てる楽しみはあった。

 

 夕方、広島から息子夫婦がやってくる。いまその支度をしている。

ようやく一冊

 ヘミングウェイの短編集、『ヘミングウェイ全短編』(新潮文庫)全三巻の内の第一巻をようやく読み終えた。この巻には彼の初期の作品集『われらの時代』と『男だけの世界』が収められている。彼の文章は、文章とか言葉という膜を通していることを忘れさせて、直に描かれている世界を五感に伝えてくる。色、音、匂い、触感、味覚に響いてくる。例えば登場人物がある街角を眺めたとすると、すべてが映画の映像のようにみえているけれど、彼の意識に入るのはフォーカスされた一断片であるだろう。その断片がクリアに語られ、視点が動くのに合わせてみえるものが変わっていくという手法は意識そのものを描くから、あたかもその人物の見ているようにその世界に引きずり込まれていくのである。怖れ、怒り、痛み、そしてその息づかいが感じられる。やはりすごい作家だと思う。

 

 巻末に訳者である高見浩の長い解説がある。私はキューバに行ってヘミングウェイの旧宅を訪ねたこともあり、そしてコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』でヘミングウェイを読む気になったのだが、その読みは『アウトサイダー』を基点にした読み方であった。しかしこの高見浩の解説をもとにヘミングウェイの年譜、彼がこれらの小説を書いていた時期の私生活などを知ると、違う視点を与えられた気がした。それを加えて読み直して、あらためてみえなかったものを見つけたいと思うけれど、いまはすぐに読み返す気になれない。第二巻に進みたいと思う。ここには『キリマンジャロの雪』という作品が収められていて、これは昔読んだことのある作品であり、大ファンであるグレゴリー・ペック主演で映画化もされていて、もちろん見たことがあるのだ。そのときに感じた世界と、今回読み直して感じる世界がどれほど違うか、それを楽しみにしている。

 

 昨晩、弟の手術が無事に終わったと義妹から連絡があった。 

2026年2月13日 (金)

手術

 弟が我が家に来てから胆石の痛みで病院に行くことになり、蔵開きに参加できなくなったことは少し前のブログに書いたが、大雪の中、千葉へ帰ってからのかかりつけの病院での診察で、やはり手術した方が良いということになって、急遽今日手術するようになったと連絡があった。夕方には結果がわかるはずだ。無事を祈るばかりである。

 

 その連絡があったあと、妹に電話する。弟の話もあり、また妹の亭主も誤嚥性肺炎で緊急入院したことでもあり、その後の話を聞きたかったのだ。さいわい危機を脱して峠を越していて、思いのほか回復が早いとのこと。しばらくは入院を続けなければならないが、在宅介護にもどれる見込みが高いと言うから、本当に安心した。

気分転換

 特に意識しなくても、次々にこなせていた日々のものごとが、一つ一つを手順とともにメモしておかないと忘れがちになった。忘れるはずのないことを忘れたりする。特に普段とは違うことがあるとそういうことが起こる。忘れたことをひどく深刻に考えて落ち込む。

 

 なんとかメモしていれば問題なく暮らせているのだから、それで良しとしたいところだが、これからどうなるのかと思うとつい悲観的になってしまう。全く問題なさそうに暮らしている同年配を見ると、自分は少し早いのではないかと思ったりする。独り暮らしなので、人に対する配慮、気遣いができなくなっている。相手が感じていることに気づけない。あとで気がついても遅い。

 

 そういうことに心がとらわれるとますます心の活性が低下する気がする。心の活性が低下すると好奇心やものに興味を持つ心の働きも低下する。低下した意識は時間を空虚にして、その進みをさらにはやめてしまう。少し頭の回転方向を逆にしないといけないのではないか、などとおぼろげに感じている。少し気分転換を試みなければ、と思う。三日坊主でもいいではないか。もう少しジタバタしよう。

2026年2月12日 (木)

生き残るもの

 強いから生き残るのだろうか。生き残ったものは生き残ったということで結果的に強いものと言えるのではないか。それはつまり、生き延びたものは礼儀正しいものだったからではないか、と内田樹が書いていた。礼儀正しい振る舞いをするものは敵を作らない。敵が少なければ生き残る可能性が高くなる。そういうのである。同感である。

 

 人間はそもそも動物としては弱いものだったが、仲間を作り社会を構成し、集団で事に当たることで成長発展し、滅びることなく生き延びてきた。現代世界を見れば、長い間に磨きあげられてきたその礼儀正しい振る舞いが捨て去られて、下品な力の世界に堕落しつつある。人類は生き延びる力を失いつつあるということか。

 

 放送大学の『進化心理学』という講座を見始めた。こんな学問があるとは知らなかった。どういう学問か説明できるだけまだ理解していない。わかりやすそうでけっこう難しい。知識として知っていたつもりのことが、実は間違いだったということがいくつも取り上げられていく。そしてどうして間違いと言えるのかが丁寧に論理的に説明される。今のところ、その講師の語る理屈が本当に正しいのかどうか疑念を払いきれていない。それだけ自分の思い込みの頭へのこびりつきが強いということかもしれない。

錯覚?

 昔読んだ本を読み直していると、以前はみえなかったことがみえた気持ちがすることがある。自分の読みが深まったようで嬉しい。しかし、実は前回読んだときもそれなりに本から受け取るものがあったのかもしれないと思ったりする。忘れているだけかもしれない。

 

 その、忘れていることについて、ざる頭としてはそういうこともあると、いままでは気にしていなかったのだが、この頃は少し不安を感じだした。忘れすぎではないか、忘れるはずのないことまで忘れているのではないかと感じることがしばしばある(感じるだけではなくて、現に忘れものが多くなった)。読みが歳とともに深まったと思うのは錯覚なのではないか。

 

 さまざまなことにたいして行動が遅くなっている。しなければならないと頭でわかっているのに、いつまでも放置している。スイッチが入りにくいのである。傍から見たら、自分で思うよりひどくなっているのかもしれない。年相応なのだと気を取り直すけれど、じわじわと、そしてまだら状態に感度が低下している。興味を感じたものに向けてテンションを上げて動いてみるのだが、すぐ疲れてしまい持続しない。

 

 老化とはそういうものなのだろう。これではいけないと無理をしても、その無理が不安を増幅させてしまう。いまはそういう状態を受け入れて、少しペースを落として暮らすしかないようだ。興味を感じるものがまだ多少はあるだけでも良しとするか。どうも泣き言が増えてきたなあ。泣き言ではなくて、誰も聞きたくない年寄りの繰り言か。

2026年2月11日 (水)

断片

 いま読了した養老孟司の本、『読まない力』(PHP新書)を読みながらメモしたものをいくつか。

 

未来 未来は、若者や中年以下の人にとっては自分の将来のこととしてみえて、年寄りにとっては自分の将来はもうないから、自分の国や世界のこれからだと考えてしまう。

 

辛抱 世の中が便利になったことで、辛抱しなければならないことが激減した。辛抱しなければならないことが減ったから辛抱できなくなった。キレやすい人間が増えたり、自殺する子どもが増えた理由かもしれない。
便利になったから利口になるというわけにはいかない。

 

 読まない力というのは、安易に解釈しないということか。いまは何でもかんでも「どうしてそうなのか」の解釈をしてわかったつもりになりすぎる。世の中は複雑で、簡単に解釈できないことがあたりまえなのに、それに耐えられないから単純化したおかしな言説にすぐ飛びついてしまう。 

日常

 来客があると家の中が日常と違った状態になり、片付けるのに少し時間がかかるものだが、弟夫婦が帰った後は義妹のおかげで整然としていてわざわざ片付ける必要がない。たちまち日常に戻る。

 

 先日読んだヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』との宗教というわずかなつながりで、内田樹・釈徹宗『はじめたばかりの浄土真宗』(角川ソフィア文庫)という本を引っ張り出して読み直した。仏教に興味はあるが、浄土真宗にはそこまで思い入れはないから、深いところまで考えるに至れない。それよりも「宗教と倫理」というテーマについての二人の考え方には多少は思うところがあった。常識というものを手がかりにものを考えること、考えるしかないこと、そこから原理主義に陥らずにすむかどうかが分かれるという。なるほど確かにそうだ。

 

 夜、アニメの『ジョゼと虎と魚たち』を見る。原作は田辺聖子の短編小説だという。実写版や韓国映画もあるらしく、それぞれの色合いはまるで違うのだそうだ。このアニメ版は子どもが見ても楽しめるし感動もできるもので、見終わったあとも気持ちがいい。

 

 武装した中国公船が日本の領海侵犯を繰り返しているという。選挙のどさくさ紛れを狙うといういつもの下品なやり方だ。それを非難しても中国は日本が悪いからだ、と言い立てるだろう。そうしてその中国におもねるものもいる。そういうものが不愉快で、その不快の蓄積が今回の選挙に影響しているのも事実だろう。

2026年2月10日 (火)

生活者

 生きていれば誰でも生活している。赤ん坊も働いている人も寝たきりで介護を受けている人も、それぞれの人がそれぞれの生活を生活している。生活者一番、生活者優先の政治をすると中道が訴えかけた相手にあたる生活者とは、だから日本国民すべてであって、それに対する訴えであったことになる。中道はそのつもりだったのだと思うがしかし、その日本国民にはその訴えはあまり届かなかったらしい。しかし生活者一番と言うからには二番や三番があるはずで、その二番三番を中道はひたすら批判していた。中道は誰に向かって牙を向けていたつもりだったのだろう。たぶんその敵が多くの人には見えなかったのだろう。
 
 旧立憲民主党は、大敗というよりも壊滅的惨敗をした。中道の選挙結果の中身を見れば、公明党はかえって増えていて、逆に元立憲民主党の衆議院議員だけ見ればさらに目を覆わんばかりの状態である。選挙直前情報によれば中道の敗北が予想されていたとはいえ、この結果には誰もが驚いただろう。

 

 そもそもの民主党発足時に、分裂した社会党の左派を取り込んだ時点で多分こうなることが運命づけられていたのではないか。今回の中道として新党を立ち上げするとき、安保法制や原発容認を謳ったのは、過去それらに強硬に反対してきたその左派勢力の切り捨てをもくろんでいたためではないかと私は邪推していたのだが、なんと言うことか、その左派集団はこぞって反対することなく合流してきた。それならいままでの強硬な反対は一体何だったのか。それをじっと見ていた国民は多いのではないか。踏み絵を平気で踏む人間の信義を見たのではないか。そんな新党に生活を託す気にならなかったのだと思う。

すまなかった

 昨日昼過ぎに出発した弟から千葉に着いたという電話があったのは、夜の八時過ぎだった。静岡には立ち寄らず、しかも通行止めは解除するのではないかと期待した東名高速は通行止めのままで、仕方がないので御殿場から北上して中央高速経由で帰ったそうだ。最初から中央高速で行けば良かったのだが、私は静岡に立ち寄ると思い込んでいたし、中央高速は東名を迂回する車で渋滞するだろうと要らぬことを言ったので、結局長時間かかる帰宅になってしまった。ずいぶんくたびれたことだろう。

 普段独り暮らしなので私の段取りが悪く、弟夫婦はずいぶん居心地が悪かっただろうと思う。おまけに弟が胆石で体調を崩したことで二人ともずいぶん疲れたのではないか。十分それをいたわれなかったのは私の不手際である。本当にすまなかったと反省している。

 昨日には妹からも電話があった。自宅で介護中の義弟(妹の夫)が日曜日に誤嚥性肺炎で入院したという。にわかに発病し、救急車で病院に行くことになったそうだ。雪なのでたいへんだったようだ。一時は深刻な状態だったが、峠は越えたらしい。妹もずいぶん参っているようで心配だ。

 わたしはただ自分の生活ペースがしばらくの間変わったことによる疲れがちょっとあるだけで、今のところなんともない。週末には息子夫婦がやってくる。

 台所などの水回りその他、掃除を雑にしていたところがピカピカになっている。義妹が磨き立てていってくれたのだ。

2026年2月 9日 (月)

通行止め

 胆石の痛みで苦しんでいた弟は、今朝にはほぼ復調した。そもそも体調不良がなくても予定通りに昨日帰るのは無理だった。東名も新東名も大雪で通行止めだったからで、いま現在も通行止めが続いているようだ。開通しても当面は大渋滞だろうと思うし、中央高速は通れそうだが、そちらも迂回したトラックなどで渋滞していると思う。もう一泊してもらうことになりそうだ。

 いつの間にか弟の嫁さんが掃除や食事をせっせとしてくれていて、私は上げ膳据え膳状態である。申し訳ないことであるが、その方が遙かに手際よく片付いていく。

 弟の家の辺りもだいぶ雪が積もったらしいが、隣の人たちが駐車場まで除雪してくれていた、と様子を見に行った弟の娘が連絡してきた。だから心配ない。

 当地は朝は寒かったが太陽がでて、いまはぽかぽかと暖かい。

 弟がいて、本当は酒を酌み交わしたいが、さすがにそれは控えている(申し訳ないが、一人でちょっとだけ飲ましてもらっている)。

 追伸 このあと弟夫婦はやはり帰るということで、いま(12時過ぎ)出発した。静岡に義妹の実家があるので、そこに立ち寄って様子を見るという。渋滞がひどくなく、また通行止めが早く解除されることを願っている。

 

2026年2月 8日 (日)

急病と蔵開き

 昨朝、弟が腹痛で起き上がれなくなっていた。昨年末にやはりひどい腹痛で病院に行ったら胆石だと診断され、今回もその発作のようだった。直ぐに私のかかりつけの病院に行く。さいわい痛みは治まりつつあり、様子も落ち着いていた。一緒に蔵開きに行くことになっていたがそれどころではない。兄貴は蔵開きに行っても大丈夫というのでその言葉に甘えて家に戻り、支度をして友人たちとの待ち合わせに合流した。

 慌てていたので、せっかく準備していたのにいくつか忘れ物をした。それでも友人たちと絶品のうまい酒を飲み、歓談することが出来た。

 酩酊状態で家に帰ってその後のことを聞いたら、診察はさほど待たずに直ぐCTなどを撮り、やはり胆石であると診断され、痛み止めなどの薬を処方されたそうだ。弟はいささかぐったりとしていたけれど、朝よりはだいぶ楽になったようだった。今日千葉に帰ると言うが、途中、雪も降っているはずで危ないから、もう少し我が家でゆっくりするように言ったところである。

2026年2月 7日 (土)

彦根城の雪

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彦根城の立派な石垣。久しぶりに行ったら記憶より大きくて高かった。

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上から見下ろす。雪は融けかかっていたけれど日曜日にはまた降るかもしれない。

2026年2月 6日 (金)

琵琶湖へ行く

五日から弟夫婦が我が家に来ている。琵琶湖を見たいというので今朝は朝から長浜、彦根、そして大津へ行った。
長浜では長浜城、彦根では彦根城、大津では園城寺(三井寺)を見た。

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長浜城。ずいぶん久しぶりに来た。あいにくの曇り空であり、天守の最上階から見た琵琶湖は水平線も定かではなかった。

個別の報告は後日。

明日は弟と二人で友人たちと落ち合い、蔵開きに行く。その前に昨晩も今夜も結構酒を飲んでしまった。その接待に忙しくてブログを書く暇がない。結局洗い物などの片付けはほとんど義妹(弟の嫁さん)に手伝ってもらった。

2026年2月 5日 (木)

『シッダールタ』

 ヘッセの『シッダールタ』を読んだ。大昔、高校生くらいの時と、三十前にこの本を読んだことがあるが、内容についてはおぼろげな記憶しかない。そのときにどんなことを考えたのか。釈迦の本名はゴータマ・シッダールタという。この作品の中では、ゴータマという聖人と、シッダールタという魂の遍歴をして悟りを開いていく人物が別の人格として描かれていく。ヘッセは長年にわたって深く仏典を読み込み、この『シッダールタ』という作品を書くのに三年の月日を費やしたという。

 

 この本を読んだから仏教に詳しくなるというわけにはいかないし、そういう本でもないが、悟るということ、ある境地に達するためには、実際の人生をさまざまに生きなければわからないことがあるということについては共感する。最初からひたすら清浄に生きて、愛欲や金銭欲にまみれて生きるということがどういうことかを知らずにいては、人間そのものの絶望の深淵を識ることはできない、という考え方は理解できないことはない。

 

 しかし、私はそういう体験をしなくても釈迦はすべてを見通す存在であったと思う。実際にさまざまな生き方を体験しなくても、体験した人以上にそれぞれの人生を理解していたのだと思う。悟るということはそういうことだと思うのだが、そう思えば、ゴータマであるためにこそシッダールタはさまざまな生を生きて見せたのであり、シッダールタはゴータマ本人の幻影であったのかもしれない。そもそも悟りは言葉で語ることができないものである。だからヘッセは、それほど長くないこの物語を美しい詩のように書き綴り、三年もかけて書き尽くせなかったのではないかと思う。

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 なんとなく、やはり西洋人の見る仏教だな、という感じを受けたけれど、それは私にそうであろうという先入観があるからかもしれない。だからこそいまの日本人にはわかりやすいところもあるか。

日本を守る

 今回の選挙で「日本を守る」と主張している党がいくつかある。確かに世界は今までになくきな臭い。日本が攻撃される恐れが妄想とばかり言えなくなっていることを皆感じ始めているから「日本を守る」というスローガンが有効なのであろう。

 

 ところで一体どこの国が日本を攻めてくるだろうか。日本を侵略して占領しようとするだろうか。中国、ロシア、北朝鮮がたちまち思い浮かぶ。しかし北朝鮮については攻撃してくるかもしれないが、日本へ侵攻してくることはいまの戦力では考えにくい。盛んに示威行為をしているのは、ただ自分が攻撃されることを恐れてのことであろう。妄想が破裂したとしても、まず韓国からであろうし、その瞬間に金政権は自滅するだろう。日本としては北朝鮮をおびえさせて暴発しないように注意すればいいのではないか。

 

 ロシアはいかにもあぶない。もともと膨張志向の国家である。しかしいまウクライナで手一杯だし、ウクライナはロシアの勢力圏であり、もともとは同じ国だったというプーチンなりの言い分がある。今のところ日本に対してその考えを適用するとも思えない。北方領土を取り返しに日本が動いたりしなければ向こうから攻めてくることはないのではないか。

 

 そういう意味では中国は恐ろしい。南シナ海の占拠の仕方を見ていると、自分勝手で国際法など無視する国だ。もし台湾に武力侵攻し、占領したとするなら、次に沖縄へ手を伸ばすことを躊躇するかどうかわからない。すでに沖縄はもともと中国の支配下の琉球という国だった、と公言している国である。そこで止まるかもしれないが、沖縄を日本が守ろうとすればそれを口実にさらに戦線を拡大しかねない。そのことは誰もが薄々感じているのではないか。

 

 そしてさらにもう一国、日本を侵略占領する恐れのある国があることを忘れてはいけない。アメリカである。すでに日本にはアメリカ軍が駐留している。占領しようと思えば簡単に占領できるし、日本がアメリカと本当に戦うかと言えば、まず戦わずしてお手上げであろう。大量の艦艇を日本周辺に展開し、参ったか、と言えばそれで終わりである。どうしてアメリカが日本を占領するのか。アメリカにとっては日本のさまざまな技術力や人的資産が魅力的であるだろうし、大義名分としては、中国の攻勢に対して日本はあまりに頼りない、アメリカに組み込めば、アメリカとして中国と対峙できるという理屈が思いつく。

 

 そういうことを本気で考えかねないのがトランプだということくらいは想像できないといけない。カナダやグリーンランドの話を人ごとだと思ってはいけないのである。

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 さて、「日本を守る」のはどこから守るのかなあ。

2026年2月 4日 (水)

OB会報

 会社のOBで作る会があり、親睦のさまざまなイベントがあり、年に何度か定期的に会報も発行している。年に一度みんなが集まる会があるのだが、本社のある大阪で行われるのでいつも失礼している。今回送られてきた会報には、近況を書き込む欄のあるはがきが同封されていたので一言書き添えて返送した。次の会報にはそれが掲載される。会員それぞれの消息を知ることができてありがたい。

 

 こういうことを引き受けて、会を継続してくれる人がいることは本当にありがたいことである。記事投稿の要請があったので、久しぶりに旅の話でも投稿しようかと思案している。

『AIの壁』

 養老孟司『AIの壁』(PHP新書)を読む。この本は四人の智者と養老孟司との対談集。テーマは題名通り、AIである。養老孟司は未来に対して私よりも楽観的である。私にしても悲観的に未来を見ているものの、どうせ自分が生きているあいだくらいは大丈夫、と高をくくっているところがないではない。その先のことはあの世からの高みの見物だから、どうなっても知ったことではないのである。

 

 AIがとことん進化して人間のように意識を持つようになるのかどうか。そのとき、意識を持つということはどういうことなのか、そのことを突き詰めて考えるざるを得ない。どうして人間は意識を持っているのか、そもそも意識とは一体何なのか。

 

 そんなこととは別に、新井紀子という情報科学の専門家で教育に関連するAIの研究をしている女性との会話の中で、おもしろい部分があった。

 

養老 人生って想定外のことが起きるんですよ。その常識がなくなってしまって、何でも想定しなきゃいけない、というのが圧力になってしまっていますね。子どもの育て方がそうです。わからないことがあっちゃいけない。
新井 まさにおっしゃるとおりで、拙著『AIvs.教科書が読めない子どもたち』に対して、「子どもたちが文章が読めないことはわかった。で、じゃあ、どうしたらいいのか書いていない」という批判がものすごく多いんですよ。それがショックでした。研究者として誠実にファクトを調査して報告したのだから、それを受け止めて各自、考えたり試行錯誤したりすればいいと思うんです。なのに、問題提起するなら処方箋をセットで寄こせ、と平然と言う。何にでも答えがあって誰かが教えてくれると思っている人があまりに多くて驚きました。
(中略)
養老 それが今の人に一番欠けていることですね。答えが書いていない、と不満を言うのはそういうことですね。
新井 「バカの壁」ってそういうことだと思うんです。「どうしたらいいか書いていない」と批判するのは、教えてもらわなかったら自分は何もできませんと告白しているようなものなのに、そのことに気がついていないんです。
養老 それ、僕もよく聞かれますよ。
新井 「バカの壁、どうやって乗り越えればいいんですか?」

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自分で悩み、考えることはおもしろいのに・・・。今はそれをAIに聞くのであるか。

2026年2月 3日 (火)

突っ張り棒をセットする

 大小いくつもの本箱があり、寝ているあいだに大きな地震があってその本箱が倒れてきたら、全集などのかなりの重量の本も多いので本と本箱の下敷きになることが必至である。天井と本箱の間に突っ張り棒をセットして、その危険を回避しなければとかねがね考えていて、四組ほどを取り寄せた。一組で本箱の上部左右に取り付ける。人間の上に倒れてくる可能性が高くてしかも大型の本箱が四本あるのだ。

 

 一月以上前に取り寄せたのに取り付けずに飾ってあった。今週弟夫婦が来るので、それに間に合わせようと、今日ようやく取り付けた。私は人一倍不器用で、こういうものを組み立てたり作業するのが苦手なのだが、思ったよりも簡単に取り付けることができた。問題は踏み台である。高いところでの作業になるからしっかりした踏み台が必須なのだ。以前、椅子の上で高所の作業をしていて転げ落ちたことがある。そのあと場所塞ぎにはなるが、しっかりとした踏み段つきの踏み台を購入してあるからそれも心配ない。それでも作業しながら自分の平衡感覚が怪しくなっていることを実感する。

 

 かなりしっかりと固定はされたが、本当に大きな地震にどこまで耐えられるかは心許ない。何もしないよりはいいだろうと思う。

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このほかに北側の部屋に大小の本箱が五本ほどあるが、そのうちのガラス引き戸式の大型の本箱が特に危険なので、それだけ突っ張り棒を取り付けた。

『こんな日本でよかったね』

 内田樹『こんな日本で良かったね』(文春文庫)を再読した。副題は『構造主義的日本論』であり、内容は内田樹の2000年代の頃のブログを編集改筆したものである。この時期の彼のブログはたいてい読んでいたけれどほとんど忘れている。おかげでブログで読み、この本を買ったときに読み、今回読んでいつも新たな出会いになっている。記憶力がお粗末なのはこういう点でありがたい。無限に読めてしまう。

 

 構造主義などと言うと大げさのようだが、現代フランス哲学専門の著者が「ある種の知的な『構え』のことです」とくだけた言い方で説明している。「どういう『構え』か、一言で言うと、『自分の判断の客観性を過大評価しない』という態度です」、つまり「自分の目にはいつもウロコが入っていることをいつも勘定に入れて、『自分の目に見えているもの』について語るということです」・・・なるほど。

 

 誰もが自分の目の中のウロコを通して世界を見て、世界を認識している。そのウロコは剥がすことができない。できるのは自分がウロコを通してみているらしい、ということを他人のウロコを通しての認識から表明された言説と突き合わせ、自分とそれとの違いはどうして生ずるのか、と考えるところから察知することだけである。まことにそうなのである。自分と他人は違うのである。そのことに本当に気がつくのはまことに難しい。私も世の中の真実のほんの一端を気がついたのは、私は私であり、他人とは違うということからだった。

 

 無限に読めるから、処分するのは惜しい本だがきりがないので退場してもらうことにする。

2026年2月 2日 (月)

スマホ鏡

 週末に毎年恒例の新酒会がある。名古屋に移り住んでから、よほどよんどころない事情がない限り必ず、この蔵開き行事には毎年出かけているから、おおよそ四十回は参加していることになる。昔は酒造組合が主催し、組合の指示する蔵に出かけていたからいつも違う蔵を巡ることになった。その組合主催もなくなって、いまは各蔵が独自にやっていて、この二十年は毎年同じ蔵に友人と連れだって参加する。現役中は仕事関係の人も声を掛け合って集まったから、結構な大人数になったものだ。今は親しい友人だけで名古屋駅に集合し、デパ地下でつまみを見繕ってから名鉄電車で酒蔵に向かう。

 

 大阪や京都から参加する友もいる。何年か前から弟も参加するようになり、そういうことでは弟は千葉からだから一番遠方からの参加である。参加するために今週弟夫婦がやってきて数日滞在する。だからここ二三日は散らかった部屋の片付けをしなければならない。その前に先延ばしにしている散髪に出かけることにした。寒いけれども久しぶりに丸刈りにしてさっぱりした。格安の床屋は隣駅の先にあり、ついでだからその駅から一昨日行きそびれた鶴舞の古本屋に足を伸ばした。控えめに二冊だけ購入して帰路についた。

 

 電車の中で、スマホを手鏡みたいにして髪を直している若い女性がいるのを見た。スマホに手鏡機能があるのかと一瞬思ったが、聞いたことがない。自撮り機能で自分の顔を見ているのかもしれない。自撮りの映像は鏡の左右反転の像と違って正像であろう。そうするといつも見慣れた鏡に映る自分の顔と違うはずで、それでも鏡の役目をするのだろうか。鏡機能のあるスマホ、というのも面白い気がした。

でたらめ

 NHKのドキュメント、『真実を巡る攻防 アメリカファクトチェックの最前線』を見て、世も末だなと思った。自分は正しいのだから相手は悪であり、悪なのであるからどんな攻撃をしても許されると考える輩が横行すれば、この世は融和も妥協もあり得ない、分断だらけの世界になってしまう。間違っているのは自分かもしれない、と考えることができることこそが知的振る舞いであると思うのだが、そうでないことの方が利得が得られるのがいまの現実らしい。

 

 根拠がない、疑わしいことを事実のように言い立てるのさえ恥ずべきことなのに、明らかに間違っていること、でたらめなことを言い立てて平気であるのは、いかなる理由があれ許されることではない。それがまかり通るとしたら、その社会はおかしい。アメリカにだってまともな人は数多くいるだろうに、それが力を持ち得ていないのは残念なことだ。アメリカは全体として明らかにおかしな方向に突き進んでいるようだ。日本にもその影響が及んでいて、アメリカの後塵を拝しつつあるような危惧を感じる。でたらめを安易に信じる妄者たちの標的にされたら終わり、というのは恐ろしいことだ。

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2026年2月 1日 (日)

『敗れざる者』

 『ヘミングウェイ全短編』(新潮文庫・全三冊)の第一巻には、初期作品集『われらの時代』と、次いで出版された作品集『男だけの世界』がおさめられている。先日『われらの時代』を読了し、『男だけの世界』を読み始めた。冒頭が『敗れざる者』という中編小説である。盛りを過ぎて親しい者からは引退を勧められている闘牛士が、自分のプライドをかけて猛牛の前に立つ。彼は大けがから立ち直ったばかりである。読んでいるうちに、自分が主人公そのものになってしまうほど臨場感に溢れている。やはりヘミングウェイはすごいと思う。獣の臭い、砂ぼこり、観衆の喚声、猛牛の激しい鼻息、喧噪が一瞬途絶え、時間が急にゆっくりと流れたりする様子が五感を通してリアルに迫ってくるようである。

 

 コリン・ウイルソンが『アウトサイダー』の中で、「ヘミングウェイの功績は、文学の世界に肉体感覚を復活させたことである・・・」と記した言葉を実感した。そこに栄光があるか喪失があるか。すべてのことを捨てた一瞬に輝くなにかを見せられた気持ちがした。

 

 モーリー・ロバートソンの訃報を聞いた。つい最近テレビの番組で元気な姿を見たのに信じられない。ユーモアを含んで感情的にならずに、しかし自分の主張をきちんと話す彼の語り口に好感を持っていたから残念だ。

お茶を挽く

 お茶を挽くと言えば、手元の国語辞典によれば茶の葉を粉にして抹茶を作る、転じて芸妓・娼妓が客が取れないでいることとある。昔、遊里で手があいていた女に茶を挽かせたからだという。

 

 もともと好きであるし、持病のために常に水分を摂取するように医者に言われているのでお茶をよく飲む。その茶殻がなんとなくもったいない気がしていた。茶葉の料理などというものもいろいろあるようだ。それならすべて摂取することになる。普通の茶葉を粉にする機械を電気器具の量販店で見たら、思いのほか高いので驚いた。ふと思い立ってネットで調べたら、ハンドル手回し式の小さなお茶挽き機というのが安価で売られている。つい購入してしまった。

 

 簡単なものだが分解して洗えるというのが嬉しい。粗く挽くことも細かくすることもネジで調整できる。試しに飲んでみると、あたりまえだけれど粉っぽい。お茶をすべて飲むという喜びはあるが、感激するほどうまいと言うことはない。安い茶葉だからだろう。茶葉の量と煎れる温度をいろいろ加減して試している。

 

 いま私はお茶を挽いている。

2026年1月31日 (土)

本屋へ行く

 このところ新刊も古本もネットで買っていたが、どうしてもいま読んでいる本などから芋づる式に本を選ぶことになって、本との新たな出会いがない。まだ知らない本が、本屋の棚から「わたしを読んで!」と声をかけてくれるという、心ときめく遭遇をしばらく味わっていない。そこで久しぶりに名古屋まで本を買いに出かけた。目的の本がないではない。

 

 まず名古屋駅から五分ほどのジュンク堂へ行った。少しレイアウトが変わっていて、心持ち手狭になったようだ。目当ての本はすぐ見つかったので、そのあと書棚を探索して歩く。おもしろそうな本がたちまち目に飛び込んでくる。あれも欲しいこれも欲しいと目星をつけていくと、たちまち十冊を超えてしまったが、しかし今回は文庫本を五冊買っただけで打ち止めとした。『聊斎志異』の物語を膨らませて連作小説に仕立て上げた中国の作家の分厚い本など、喉から手が出るほど欲しかったが、また今度にすることにした。その本が五千円近くしたから買わなかったわけではない。いま読みかけの本の山が減らないうちにそんな本を読み始めたら、山はいつまでも山のままであることが目に見えているからだ。

 

 このあと鶴舞まで行って古本屋を冷やかしに行くつもりだったのだが、この調子だとまた読み切れないのに抱えるほど買いそうな気がしたので日を改めることにした。それに寒いし。

 

 いまはコリン・ウイルソンの『アウトサイダー』をベースに、そこに取り上げられた作家の作品を系統的に読み比べている。ヘミングウエイもそこから読み直しをした。今回買った本は、三冊がヘルマン・ヘッセ、二冊がドストエフスキーで、まだ大人になるかならないときに読んだことがあるものだが、残念ながら処分して手元にないので改めて買ったのである。特にヘッセは一時期夢中で読んで、文庫ででているものはすべてそろえていた。波長が合って私には読みやすい外国文学である。またドストエフスキーもふしぎなことに比較的に読みやすい。ドストエフスキーは『罪と罰』も『カラマーゾフの兄弟』も完読できたのは我ながらふしぎである。しかしトルストイは全く読めない。最後まで読めたことがない。

 

 『アウトサイダー』の論じている視点からの読み直しで何を得ることができるのか、楽しみにしている。当分読むものに困らない。

再始動

 二十日あまり、あまり本に集中できない日が続いていたが、ようやく溜まっていた読みかけの本が少しずつ読めるようになってきた。後半を読み残していた池内紀(いけうちおさむ)の『ひとり旅は楽し』を読了した。読むのは何度目になるだろう。この本を読むといつもどこかへ出かけたくなる。後半は特にそういう気持ちをかき立てる文章となっている。池内紀は私より十年年上のドイツ文学者だが、もともと若いときから本格的な山歩きをしていたから健脚だし、ひとり旅の行動範囲の広さはとても及ばない。残念ながらすでに物故しているが、もっと彼の文章を読みたかった。この本を読んだだけでも、彼の見たもの感じたことを共有できるはずで、出かけたいけれど出かけられない人は一度読むことをお薦めする。

 

 先崎彰容『知性の復権』(新潮新書)は先日読了した養老孟司と内田樹の対談本とともに取り寄せた本で、少し前のプライムニュースでゲストとして語っているのを見て、久しぶりに彼の新刊を読むことにした。この本の前半はプライムニュースで彼が語っていたことそのもので、保守とリベラルという構図で世界を見るのは時代錯誤だということがよくわかる。いまの世界は民主主義と権威主義という確執の中にあり、その権威主義の象徴であるアメリカのトランプの生みの親がリベラルの存在ではないかという見方があることを手がかりに、リベラルとは何か、革新とは何かを改めて考察している。そして民主主義の劣化が起きていて、民主主義が本当に正義であるのかを懐疑することで、これからの国のあり方を考えてみている。

 

 人びとがどんどん個別化し、砂粒のようにバラバラになった世界は、本当に人びとを自由にしたのだろうか。生きるしがらみのないことは本当に自由と呼べるものなのだろうか。それに対する答えは、実は先日読んだ『日本人が立ち返る場所』で養老孟司と内田樹が語っていたこととほぼ同じてあるように読めた。日本は明治以来西洋に追いつけ追い越せでしゃかりきになっていたが、気がついてみたらその西洋はすでに衰退の局面になっていて、その原因こそ西洋的価値観にあることにそろそろ日本人は気がつかなければならないということである。日本古来の日本人の価値観をもう一度見直す必要がある。日本人には古いものは悪いものだという考え方がすり込まれ、染みついてしまった。もう一度歴史を見直し、金銭だけを基準にした豊かさとは違う豊かさがあるのではないかと考える必要がある。

 

 私が縄文から古代日本を見直そうとしているのは、自発的だと思っていたけれど、実はこういう論客たちの影響を深いところで受けているからなのかもしれない。

2026年1月30日 (金)

『日本人が立ち返る場所』

 『日本人が立ち返る場所』(KADOKAWA)は養老孟司と内田樹の対談集。二人とも私の敬愛する思索家であって、私の考え方に大きく影響を与えてくれている。それは同時に、わたしが過去蓄積してきた考え方が、二人のものの考え方に共鳴するものがあるから影響を受けるのだと思う。それにしてもこの本はおもしろい。おもしろいというのはわかるからであり、なるほどと思うことが多いからである。あまりにもおもしろいので、本来もっとじっくり読むべきところをどんどん読み進めてしまった。少しあいだを置いて、今度は考えながら精読したいと思う。

 

 引き際、辞去の作法について、私はそのタイミングが読み取れないところがある。場が自分が存在すべきではない場所に変わるそのときを、的確につかむことの難しさを実感した経験が何度もあって、たまたまこの本にそのようなことが書かれている部分を読んで、そんなときのことを思い出したりした。人生もそうだと思う。

 

 危機管理という言葉の矛盾を指摘していた。管理できないから危機なのであって、それが管理できると思うことの愚かしさを笑っている。日本は天変地異や国際情勢で、多分この十年から十五年くらいのあいだに壊滅的危機を体験する可能性がある、と二人は危惧している。私も全く同感である。備えてもどうしようもないような事態が起こりえる。そのときにどうするか。そのときには退場の時期が早めに来たと諦めるしかないのかもしれないと思う。

キューバ

 アメリカ大陸全体を支配下に置きたいというトランプのもくろみの一端が、ベネズエラのマドゥーロ大統領の拉致であった。明らかに国際法的に問題があると思うけれど、トランプの言い分には「盗人にも三分の理」程度の大義名分がないことはないようだ。しかしその他の中南米の国々が今まで以上にトランプのアメリカ合衆国に対する警戒心と反発を増加させたことは間違いない。中国がそこをチャンスと捉えればうまくやれないことはないと思うが、いまの中国にはどうもその余裕がないようだ。ベネズエラでアメリカは何を得て何を失ったのか。その結果が人ごとながら興味がある。

 

 トランプにとってグリーンランドもアメリカの一部であるらしい。その領有化の意思を見せたが、ヨーロッパの反発を招いただけに終わっている。さらにカナダはそもそもアメリカの一部であるかのような発言をしてカナダの激しい反発を招き、カナダの首相が習近平と親しく会談することになった。アメリカの盟友だったイギリスも同様の行動に出ている。アメリカがアメリカ大陸を支配するというもくろみは、今のところ逆にアメリカの孤立という結果になっている。アメリカが信頼できない国だと皆が考えるようになった。信頼できない国からは次第に離れていく。ドルが基軸通貨であるのはそのアメリカの信用に基づいているはずで、信用が失われればドルはその特権的地位を失うことになるだろう。

 

 ところで心配なのはキューバである。十年ほど前に友人とキューバに行ったことはこのブログに何度も書いた。ゲバラについてささやかながら知ることがあり、それをきっかけにカストロの革命政権の樹立に至る歴史も少しは知るようになった。それにヘミングウエイについても思い入れがあった。それらをもとに現地でいろいろ見聞きして学んだことは深く記憶に刻まれている。キューバの国民はひどく貧しい。貧しいけれど陽気に見えた。それは自分だけが貧しいのではなく、皆が貧しいからそれほどそれを恨んだりしていなかったからだと思う。そして為政者も国民同様貧しい暮らしをしているようにみえた。そして貧しいのはアメリカが経済封鎖をしているからであることを皆が承知していた。

 

 たまたまわたしが行った頃は、そのアメリカの締め付けが緩められた時期であり、それを機に観光客がどっと押し寄せていた。特に日本人が急増したとも言う。首都のハバナでは古く傷んだ建物が次々に壊され、新しい建物が立てられつつあった。観光客によって一気に外貨が流入し、観光に携わる人たちはにわかに豊かになって行った。そのときに感じたのは、この偏った豊かさが貧富の差の感覚を生み出し、それについての恨みを増大させないだろうか、という危惧だった。そのあとのことは知らないが、アメリカが再びキューバを締め付け、キューバはまた行きにくい国になったらしい。

 

 アメリカは、キューバ国民はキューバ政府の圧政に苦しめられていると言い立てている。しかしキューバ国民が貧困にあえいでいるのはアメリカが経済封鎖をしているからなのだ。いまベネズエラからの石油の供給が止まり、エネルギーの不足によって電気も不足し、流通も困難を極めているようだ。キューバでもわずかであるが原油は産出するが、重質油であり、量的にも少ないから自活はできない。それに重質油を採掘し精製するための設備も技術もない。深刻な状態であろうと心配している。

Dsc_7046_20260130092301ハバナにて

 今こそキューバ解放のチャンスである、とトランプは豪語する。解放されたキューバが、私の見た貧しい国よりも豊かになるとは想像できない。革命で解放される前の、アメリカに収奪され続けたキューバに戻るだけの未来が見えてしまう。

キューバ

 アメリカ大陸全体を支配下に置きたいというトランプのもくろみの一端が、ベネズエラのマドゥーロ大統領の拉致であった。明らかに国際法的に問題があると思うけれど、トランプの言い分には「盗人にも三分の理」程度の大義名分がないことはないようだ。しかしその他の中南米の国々が今まで以上にトランプのアメリカ合衆国に対する警戒心と反発を増加させたことは間違いない。中国がそこをチャンスと捉えればうまくやれないことはないと思うが、いまの中国にはどうもその余裕がないようだ。ベネズエラでアメリカは何を得て何を失ったのか。その結果が人ごとながら興味がある。

 

 トランプにとってグリーンランドもアメリカの一部であるらしい。その領有化の意思を見せたが、ヨーロッパの反発を招いただけに終わっている。さらにカナダはそもそもアメリカの一部であるかのような発言をしてカナダの激しい反発を招き、カナダの首相が習近平と親しく会談することになった。アメリカの盟友だったイギリスも同様の行動に出ている。アメリカがアメリカ大陸を支配するというもくろみは、今のところ逆にアメリカの孤立という結果になっている。アメリカが信頼できない国だと皆が考えるようになった。信頼できない国からは次第に離れていく。ドルが基軸通貨であるのはそのアメリカの信用に基づいているはずで、信用が失われればドルはその特権的地位を失うことになるだろう。

 

 ところで心配なのはキューバである。十年ほど前に友人とキューバに行ったことはこのブログに何度も書いた。ゲバラについてささやかながら知ることがあり、それをきっかけにカストロの革命政権の樹立に至る歴史も少しは知るようになった。それにヘミングウエイについても思い入れがあった。それらをもとに現地でいろいろ見聞きして学んだことは深く記憶に刻まれている。キューバの国民はひどく貧しい。貧しいけれど陽気に見えた。それは自分だけが貧しいのではなく、皆が貧しいからそれほどそれを恨んだりしていなかったからだと思う。そして為政者も国民同様貧しい暮らしをしているようにみえた。そして貧しいのはアメリカが経済封鎖をしているからであることを皆が承知していた。

 

 たまたまわたしが行った頃は、そのアメリカの締め付けが緩められた時期であり、それを機に観光客がどっと押し寄せていた。特に日本人が急増したとも言う。首都のハバナでは古く傷んだ建物が次々に壊され、新しい建物が立てられつつあった。観光客によって一気に外貨が流入し、観光に携わる人たちはにわかに豊かになって行った。そのときに感じたのは、この偏った豊かさが貧富の差の感覚を生み出し、それについての恨みを増大させないだろうか、という危惧だった。そのあとのことは知らないが、アメリカが再びキューバを締め付け、キューバはまた行きにくい国になったらしい。

 

 アメリカは、キューバ国民はキューバ政府の圧政に苦しめられていると言い立てている。しかしキューバ国民が貧困にあえいでいるのはアメリカが経済封鎖をしているからなのだ。いまベネズエラからの石油の供給が止まり、エネルギーの不足によって電気も不足し、流通も困難を極めているようだ。キューバでもわずかであるが原油は産出するが、重質油であり、量的にも少ないから自活はできない。それに重質油を採掘し精製するための設備も技術もない。深刻な状態であろうと心配している。

 

 今こそキューバ解放のチャンスである、とトランプは豪語する。解放されたキューバが、私の見た貧しい国よりも豊かになるとは想像できない。革命で解放される前の、アメリカに収奪され続けたキューバに戻るだけの未来が見えてしまう。

2026年1月29日 (木)

リベラル?

 リベラルはなぜ衰退したのか、という問いかけには注意が必要である。ここでは衰退が事実として設定されていて、この問いかけこそが衰退を認定したことにつながってしまうからだ。こういう問いかけがいまさまざまな形で横行していて、知らず知らずに「そうなのか」と思わされ、事実としてすり込まれる。ネットニュースの見出しなど、気をつけてみていると頻繁にお目にかかる。

 

 それはそれとして、リベラルは確かに衰退しているように私には思える。そう思うにあたって、そもそもリベラルとは何かあらためて考えると、自分がそれほどよくわかっていないことに気づかされる。現代社会でのリベラルをみて思うことは、リベラルとは差別を言い立てること、そして言い立てている人たちのようにわたしには見える。差別は悪であり、その差別を糾弾し、是正することが正義である、と言う思考法、価値観がリベラルのように見える。差別があるのは確かに良くない。だからその主張は正しい。ではそれなのになぜその考えを進めるリベラルが衰退するのか。

 

 それはその差別撤廃のための正義を遂行しようとするあまり、細部にわたって過剰に差別を言い立てることに皆がうんざりしたからであろう。それくらいはいいじゃないか、という部分まで差別を言い立てるから、世の中をよくするための差別撤廃が、マスコミの過剰な言葉狩りにあるように、世の中を生きにくく面倒くさくさせてしまっているからであろう。正しくても生きにくくなるのはごめんだ、と思う人が増えたからリベラルが衰退したのだと思う。田嶋陽子女史がこの世に溢れたら、誰でもうんざりするだろう。彼女の場合、多分に色物としてうまく生きているようにもみえるから愛嬌だが、本気でいちいち言い立てられたらと想像すれば、うるさくて仕方がない。

 

 それが現実の世の中のきな臭さとは遙かに乖離した部分での正義の言い立てになっていることに、リベラルはあまり気がついているようではない。細部にこだわりすぎて全体がみえなくなっている。それどころではない、もっと恐ろしいことが起こっているらしいと皆が気がつき始めたということだろう。

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