顧炎武(こえんぶ)
白帝社という出版社の中国歴史人物選という叢書があり、全十二冊の内、六冊のみ所持している。きちんと読んだ本と読み囓っただけの本があり、『顧炎武』という巻だけは手つかずだった。この人は明末、清初の時代(日本でいえば江戸時代の初期)の人で、学者である。詳しいことはこの本を読むまではほとんど知らなかった。この時代のことは同時代に生きた張岱(ちょうたい)という人の本(『陶庵夢憶(とうあんむおく)』)に出会って興味を持っていた。
王朝が変わるということは世界が変わってしまうということで、ましてや清朝は異民族の王朝である。その中でどう生きるのか、自ら選び取っていかなければならない。そのことでその人自身の真価が明らかになる。あっさりと死んでしまう人もいれば、なにごとかをなして名を残す人もいる。自分だったらどうしただろう、と思う。その他大勢の中で埋没して終わるだけか。
個人の人生、生き方と、周辺の人間との関わり、その時代の変遷とが絡まり合い、まるでドラマを観ているように面白い。こういうさまざまな人たちが無数にいてこの世が回って来たのだなあと思う。
我ながら不思議なのは、面白いけれどさっぱりわからないまま読んでいるということだ。沢山の人物が取り上げられていくのだが、顧炎武だけでなくほとんど知らない人ばかりだから、それぞれの役割が理解しきれないまま読み進むしかない。むかしなら人物辞典を一人一人引いてイメージを加えていくのだが、手抜きしてそのまま読み進めている。わからないのはこちらの基礎知識がお粗末だからで、そのことを自覚さえしていれば、わからないことはそれほど苦ではない。
明という時代、清という時代をおぼろげにイメージしながら、世界がこうして変わっても、中国というのはいつまでたっても変わらないとも思う。中国だけではないのだろう。人間というのは、実は進歩などしていないような気がする。
蛇足ながら、張岱の『陶庵夢憶』は、私が離れ島に一冊だけ持っていっていいといわれたら選ぶ本である。できれば漢和辞典の持参も特別に許してもらいたい。この本は岩波文庫の大判で二冊持っている。一冊は風呂に入って読んでいて少し濡らしてしまい、よれよれになってしまったので、新しいのを買ったのだが、開くのはいつもヨレヨレの方である。そちらには私としてはめずらしく、多少の書き込みがある。
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