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2012年1月23日 (月)

「清末見聞録(清国文明記より)」・雍和宮①

 雍和宮は城北にある。崇文門大街を挟んで文廟と相対している。もと雍正帝がまだ王子であったときの邸宅だが、即位の後これを喜捨(寺社や貧乏な人に施しものをすること)したので、今はラマ教の霊場である。ラマ教はチベット化した仏教の一種である。チベットでは法王政治が行われ、ダライラマ、つまり法王がチベットの首府ラサにいて宗教および政治を統括していることは誰もが知っていることである。雍正帝が自邸を喜捨してラマの霊場としたのは、主としてチベットおよび蒙古を統治する政策上のものである。なぜならばチベット人はもちろん内外蒙古人は全員ラマ教を信じ、ダライラマの命令はすなわち神の命令であって、神聖にして犯すべからずとされている。故にダライラマの歓心を買えば外藩統治上に非常に都合がよいからである。近来清朝のラマ教に対する態度はやや冷めてきていて、雍和宮に対しても従来から若干の支給があったものを、国費多難のためこれをやめているとの話である。露西亜はラマ教と蒙古の関係を熟知しているので、蒙古を併合し、チベットに入ってインドを窺い、イギリスの死命を制するという大きな抱負をたくましくしているので、いわゆる人を射るには先ず先に馬を射よ、とばかり、しきりにダライラマの歓心を買い、また蒙古の庫倫(クーロン)に居るラマ教の活仏を手なずけているらしい。活仏はロシア人のことを露西亜の兄弟などと云っていると聞く。革命軍が武漢で立ち上がり、庫倫独立に次いで活仏が蒙古王になったとの報道が伝えられた。ただしその背後にあるもののことは想像に難くない。ものの分かるほどの人は着眼点を見失ってはいけない。(注・これが書かれているときは明治四十年。明治三十八年日露戦争終戦後、ロシアでは血の日曜日事件などが起こった後、第一次ロシア革命が勃発している。この年孫文が日本で革命委員会を立ち上げた。辛亥革命で清朝が倒れるのは四年後、明治四十四年である。その後第一次世界大戦中にロシアは倒れ、ソビエトが成立した。蒙古は辛亥革命の時にロシアの庇護のもと独立してモンゴルとなったが、弱体政権のため、中国が再支配に動き、中国、ロシア、モンゴル政府との話し合いにより、北モンゴルは中国の支配権のある自治区となり、南モンゴルは従来通り中国領となった。さらにソビエト革命後は北モンゴルはソビエトの庇護を仰ぎ、ソビエト庇護のもとに再独立を果たした。現在のモンゴルである。再独立のとき南モンゴルもモンゴルとして独立の意向もあったが、かなりの漢民族がすでに流入しており、意志がまとまらずに中国領として残ることになった。そもそもモンゴルが中国を嫌ったのは漢民族の意図的流入である。これは今も続けられている中国政府の政策で、チベットやウイグル自治区、満州地区も同様である。民族紛争の最大の原因だ)

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