「清末見聞録(清国文明記より)」・飛鳥技
フィルムから取りこんだままなので色が悪いが背景は抜けるような青空だった。
中国人の娯楽としてはカルタや氷滑りなど数々の遊戯かあるが、そのうち最も興味深いのは飛鳥技(ひちょうぎ)であろう。
中国人はだいたいがとても鳥が好きで、行住坐臥いつも鳥を伴っている。そこここに鳥かごを携えて悠然として立っている人が少なくない。あるいは職人たちが、工場の傍らの木の枝や軒端に鳥かごをかけておいて、仕事の傍ら鳥のさえずるのを聞いて楽しんだり、また風呂敷で鳩を包んで携えているのもいる。鳩は風呂敷から首を出して可憐な目をして左右を見回している。鳥の頸の辺りを糸で結んで撞木に載せて持ち歩く者もいる。ある日、私の下宿で中国語を習っている真っ最中に突然コオロギが鳴き出した。不思議なことだと思っていると、語学教師が懐中から小さな壺を取り出した。コオロギはその壺の中で歌っていたのである。コオロギを懐中に入れているような中国人が、鳥かごなどを持参するのは不思議なことではない。
ある日例の驢(ろ)を走らせて郊外への遠乗りをしたとき、たまたま飛鳥技を見た。北清の常として一点の雲もなく澄み渡った小春日和に(北京でもそんな空気が澄んだ青空の時代があったのだ)同行者数名で、後になり先になり楽しみながら馬の歩みに任せてすすんで行くと、開けた野原に出た。ここに二、三十人ほどが集まって、空には数多くの鳥が飛び交っている。何事かと思って驢を止めてみていると、鳥はくちばしが黄色、羽は灰黒色を帯び、百舌鳥(もず)よりやや大きい椋鳥である。彼等はこの鳥を手の上に載せ、木の実を空高く投げあげると、鳥はそれと同時に木の実を追って飛び、これをついばんではまた飼い主の手の上に飛び帰ってこれを食べている。人も鳥もともに二、三十が集まって、木の実は空に乱れ、鳥はこれを追って入り乱れて飛ぶけれども、一糸乱れずそれぞれ飼い主の手に帰ってくる。もちろん飼い主の手を離れて空高く飛び去ってしまうものはない。夕刻になれば彼等は鳥の頸を糸で結んで撞木に載せて家路につく。
最初にこの芸を仕込むには、自分の家の庭か、あるいは人のいないお宮か寺院、郊外などで、鳥の頸に長い一条の糸を結んで飛んで行ってしまわないようにしておいて、気永く何十回も教え込むのだそうだ。十分馴れた後、このようにみなで集まって楽しむのだという。中国人が家畜を飼い慣らすのが上手なことや馬車の馬を操ることの巧みなことは前に述べた。家畜ばかりではなくこのような小さな生き物を馴らしてこれを手足のように操るのは見事なことだと感心する。
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