「清末見聞録(清国文明記より)」・遼・金の土城
2000年元旦初日の出。万里の長城から。凄い人出だった。零下十一度。
明治四十年三月二日、私は矢野・小林両文学士とともに、遼・金の土城趾(どじょうし)を調査するため、順治門を出て外城を横切り、右安門を過ぎ、驢を走らせて済南に約四里(清の里・1600mくらい)で万泉寺(ばんせんじ)に着いた。その西方に一帯の丘陵があるがこれが金の故城の西南の隅の一部である。高いところは約二丈(6m)あまり、その基礎の幅は約三間(5.4m)あまりある。東西相連なること約二里(800m)、南北は断続してその痕跡のみが残っていて、その間約三里(1200m)、またその土城の外側には、今もいにしえの護城河(ごじょうが)の跡が残っている。歴史書によれば遼朝の城は周囲三十五里あり、金はその上にさらに拡張して七十五里のものを作ったとある。この古趾は金が遼の基礎を使った部分である。
「春明夢余録(しゅんめいむよろく)」によると平則門を出て白雲観に到る途中に、白雲観の北の方向に金の故城があったという。今も白雲観の北方に一つ土の山があるのこそ、「春明夢余録」で云っている金の土城の跡だろう。
金城の南西北の三面は以上の調査で明らかとなった。そこでさらにその東面を調査するため、三月九日、また矢野・小林両学士と場首を並べて、東便門を出て城壁に沿って南下し、左安門に到着。ここから東に向かって約一里あまり、古老に尋ねることで城趾を知ることが出来た。ここはつまり粛王墳(しゅくおうふん)の東になる。
これによって想像の線を引くと、金の中都の南面は今の北京外城よりも四里、東西は各一里広く、北面は今の北京内城壁よりもやや北方にあったようだ。ただし東面の土城は延びて遙かに朝陽門外にまでおよんでいる。これがなぜかは今のところ分からない。要するに、遼・金の故城は今の北京外城の西南部を主要部としていた。明朝の外城を築くに当たって、付近に散在していた古い宮殿の礎石を運んできてこれを使用したものと見られ、外城壁の西面の外部と南面の西方には、数多く雲龍などを彫刻した大理石を用いている。東便門外には石碑の基礎に使用した亀頭などを使用したところが二、三カ所あるけれど西方ほどたくさん見られるわけではなかった。
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