「清末見聞録(清国文明記より)」・文天祥祠
城北安定門大街の東に育賢坊(いくけんぼう)という名の牌楼(パイロウ・中国の市街地にあるやぐら門)がある。ここが府学胡同(日本式に云えば府学横町というところか)でその北に順天府学と文廟がある。文天祥(ぶんてんしょう・南宋の政治家、南下するモンゴル軍(元の軍隊)と戦い続けた。講和交渉中にとらわれたが脱出、南宋が滅びた後、元朝に出仕を要請されたが拒絶。死刑となる。獄中で作った正気の歌は日本でも有名)の祠(ほこら)は文廟の東、府学の中にある。ここは元朝の菜市口(さいしこう・青物市場の入り口)の趾で、文天祥が授命(意味が不明・生まれたのは江西省だし南宋の都は現在の杭州なので、北京に遺跡があるとすると、再三出仕を促した忽必烈汗の命令のことと考えられる)の場所である。祠は明初め、北平按察副使の劉崧(りゅうしょう)がこれを創設した。のち景泰年間に天祥に諡(おくりな)して忠烈といい遺像を改塑して丞相の衣冠とした。遺像の上には遺帯の銘を刻んである。曰く、
孔曰成仁、孟曰取義、惟其義尽、所以仁至、
読聖賢書、所学何事、而今而後、庶幾無愧、
想うに当時宋の皇祚(こうそ・皇位)は絶えてはまた続き、その勢力は日ごとに縮小し、大きな建物がまさに倒れかけて一本の木では支えきれないという状態だった。それなのに公(文天祥)は敗残のわずかな弱兵を率いて、百勝の強敵に当たり、刀挫け、矢折れ、力尽きてついに生け捕りとなった。これが嘆かずにおられようか。公は捕らわれて獄中にあり苦難に遭いながらいささかも挫けずに正気の歌を賦してその志を述べた。元人(忽必烈汗のことか)は公の忠義を重んじ、丞相の位と王侯の土地や財産をやると持ちかけたが全く取り合わず、一死を以て国に殉じた。その忠義を貫く心は年月を貫いて千年の後も凛々としてなお生きている(その忠肝養胆、日月を貫き、千載の下、凛々としてなお生気あり)。いま公の授命(どうも死刑になったことを表すようだ)のところに来て、公の遺像を見て、公の遺風を謹んで感じれば、感懐が泉のように湧いて、その辺りをむやみに歩き回りながらなかなか立ち去りがたかった。
*正気の歌は吉田松陰や藤田小四郎など、幕末の志士にも大きな精神的影響を与えた。
« 中国ウオッチ・ハンティング | トップページ | 映画「あしたのジョー」 »
コメント