「清末見聞録(清国文明記より)」・カムバリック①
西安の城壁と城楼。これも明の時代に作られた城壁。北京も同じような城壁があったがごく一部を除いて全て壊してしまった。今は自動車専用道路などになっている。
カムバリックは蒙古語で汗の都という意味である。元の世祖忽必烈(クビライ)の至元四年(西暦一二六七)都を金の中都つまり今の北京城の西部から東北三里の地に遷し、名づけて大都とした。これがつまりカムバリックである。あのイタリアのマルコポーロがはるかに中央アジアを経由してこの地に来たのは、ちょうど元の世祖の時で、彼は世祖に仕え中国に十七年間とどまった。彼の紀行は後世東洋学者の典拠とするところとなった。彼の紀行によるとカムバリックは四面各三個の城門を有する土城で、その城門だけは煉瓦で作られて、城楼があった。また四隅には角楼があると書かれている。しかし城の東西および南面は各三個の城門があるけれど、城の北門だけは二個であることが中国に残る文献で明白なので、これはマルコポーロの記憶違いであろう。この城北の両門は東を安貞といい、西を健徳という。
明の太祖洪武年間、元の大都を陥れた後すぐその北方五里を削り、城の東面で最も北の光熙(こうき)門、西面で最も北の粛清(しゅくせい)門の二つを廃した。成祖永楽十九年南京より遷ってここを都とした。その後、仁宗、宣宗を経て英宗の正統年間になって、あらためて煉瓦で城壁を築いた。今の北京は全く明朝時代のものである。いろいろな書物に断片的に書かれているところでは、元の土城は、今の徳勝門外五里にあったというばかりでその場所が詳しく書かれていない。小林学士はカムバリック考を文章にして、元の土城がはっきりしないことが残念だとしている。矢野学士と私とを含めて土城の実測をあらためて行おうと約束した。
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