「清末見聞録(清国文明記より)」・カムバリック③
土城に沿って西に引き返し、安貞、健徳門趾を過ぎ、西北隅に行けば、、ここにも角楼の跡があって、布目瓦が多く散乱している。南方を望むと今の北京西直門が一直線上に見える。つまり西面ももとのまま増減しなかったことが分かる。あの垜子(トーズ)はさらに明瞭に見えている。角楼の南約三町(330m)城上に亭がある。その屋根は風雨に崩れて四壁だけが残っており、中に大理石の碑があり、乾隆帝の御筆で表に薊門煙樹と題し、裏には七言律が刻まれている。乾隆辛未御題とあるから乾隆十六年(西暦一七八一)のことである。ここはすなわち北京八景の一つである。見渡す当たり西方には北清には珍しく常緑樹が多く、その梢の上には西山が緑にかすんで見え、眺めがとても良い。
ちなみに北京八景というのは
西山霽雪(せいざんせいせつ) 薊門煙樹(けいもんえんじゅ)
金台夕照(きんだいゆうしょう) 廬溝暁月(ろこうぎょうげつ)
瓊島春雪(けいとうしゅんせつ) 玉帯垂虹(ぎょくたいすいこう)
玉泉挺秀(ぎょくせんていしゅう)滞易秋波(たいえきしゅうは)
である。強いて云えばどこにでも八景はあるだろう。この類はたいてい無意味なものが多い。八景のことをいちいち説明する必要はないと思う。あえていえばこの薊門煙樹というのは、いにしえの薊(けい・この地区の古名)の故趾であると云われる。しかし「畿輔通志(きほつうし)」には薊の故城趾は大興県の西南にあると書かれているからここではないのではないか。
城壁に沿って南に行くこと二里(800m)ほどで粛清門趾に着いた。月墻(ユエチャン)もありありと残っている。この日はこれで探検を終えて夕刻に宿に戻ったが、翌月六日に再びまた土城の東を探れば明らかに門趾がある。現地の人間に尋ねると今も光熙門(こうきもん)といっているようだ。しかし月墻は跡形もなくなっている。あのロックハルト氏が元朝の土城は北方には明らかに門趾を確認できるけれども、東西には何の痕跡もないと云っているのは、この東面を見て粛清門もまた同じだろうと憶測したものだろう。廃滅した門趾のうち、粛清門が最も明瞭にその痕跡を残して現存しているのはここに述べたとおりであった。
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