「清末見聞録(清国文明記より)」・カムバリック②
明治四十年二月二十一日朝十時、矢野氏の西単牌楼劈楼芝胡同(シータンパイロウピーチャイホトン)の宿を出て、西安門へ行き驢馬を雇い、徳勝門を出てちょうど五里(清の里・約2キロ)行ったところで元の土城健徳門の趾(あと)に到着した。土城は東西に亘って延々と続いている。幅は基礎のところで三間あまり(5.4m)頂上のところで三尺あまり(0.9m)あり、高さは約一畳(3m)あまりである。馬を下りて城の上に上る。西部に煉瓦で築かれた高台の、半ば毀れたのがあった。これがマルコポーロの云う煉瓦で作った城門の遺跡ではないかと思ったが、その台上に上ってみると、円形で中央に方形の部屋がある。これはその形から多分墩台(とんだい)といい、昔は五里に一堡(ほ)十里に一墩(とん)を置き、盗賊などの襲撃の備えとして供えたものの跡であって明代のものである。ただし月墻(ユエチャン)と良い、今の北京城なども、城門のところは城壁の外の方に別に半月形の壁があるが、その月墻の跡は今も残っていて城門の左右に両腕を伸ばしたように土壁が突き出している。そのほか道路の中央には大理石造りの橋がある。現地の人間に聞くとその名を天安橋(?)と云う。ロックハルト氏はこの地を探検して元朝の城門のアーチ形の跡が残っていて、城外には元朝の橋をそのまま今も使って通行していると云っているが、この天安橋は元朝のものかどうかは分からない。この道路は明代には昌平州の帝陵に通じる大道であるから、明代のものかもしれない。しかも城門の月墻はあるがアーチ形の部分がない。
これから外側を土城に沿って東に行くと、いにしえの護城河(ごじょうが)の名残をとどめて小さな流れがあり氷が張っている。さらに二十町(2.2Kmくらい)ほど行くと安定門通りに出る。これが元朝の安貞門趾である。城門や月墻は建徳門ほど明白ではないが、その面影はいくつも見つけることが出来る。さらに東に十町(1.1Km)ほどで東北の隅に到達する。土城の上部は約五間(9m)四方で、角楼の趾がはっきりと見て取れる。城上に立って南方を望むと土城は遙かに南に続いており、北京城の東北角楼および東直門などが一直線上に見える。明代にカムバリックの北五里(2Km)を削ったとき、城の東面はもとのままにして増減しなかったことがこれによって明らかである。城上の女墻(ニュイチャン)つまり城堞(じょうちょう・城の上の低い物見の塀)は崩れてはっきりしないが、垜子(トーズ)すなわち将台のことをいい、これは城の外側に突出す土壁の部分で、その跡が三十間(54m)ごとに歴然と残っていて、あたかも波がうねるようである。
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