「清末見聞録(清国文明記より)」・蒙古来
元の世祖忽必烈汗(クビライカン)が父祖の遺業を承けて世界を席巻したとき、中国本部はもちろん北は満州から東は朝鮮を併せ、南は交趾(こうち・ベトナム北部)安南(ベトナム)を兼ね、西は中央アジアを経て遙かに欧州に入り、トルコ、ハンガリーを取り、モスクワなども元朝に隷属した。ただ唯一日本だけは相模太郎がいて良く十万の元寇を殲滅したけれども、蒙古人の勢力は隆々として天をつき、天下にこれと雄を争うものがなかった。時代は幾星霜、時は移って当時の遺業はついに一場の夢と消え、元は滅んで明の支配するところとなり、明も滅んでさらに清の支配するところとなった。その清に支配されている蒙古人の古今盛衰の跡を回顧すれば、また蒙古人のために一掬の涙を禁じ得ない。
蒙古の王公は朝覲(ちょうきん・天使にお目にかかること)のために毎年一回北京に来るのを習わしとしており、鴻雁(こうがん・白鳥や雁)と同じように冬に来て春に去る。あわれ昔は自分の国の都として周囲の朝貢を受けた北京で、今は他人の鼻息をうかがうために入貢する蒙古人は果たしていかなる気持ちでいるであろう。十二月になると朝覲した蒙古王公部下の蒙古人が、駱駝に跨がって市中を往来するものが少なくない。容貌魁偉な彼等は、見上げるほどの大きな駱駝に騎乗して、何十頭もの駱駝を従えて、威風凛凛辺りを払い、帝都を脚下に見下ろして大路を進んでいる。彼等は今は猫のように屈従しているけれども、その風采は堂々としていて昔欧亜の野を蹂躙したときの遺風を偲ぶに足りるものを感じ、思わず「蒙古来」という言葉を思い出した。
蒙古人が北京に来ると、王公部下のものは外館または裏館に宿泊する。外館は城北安定門外にあり、裏館は城内にある。もとは東交民巷(とうこうみんこう)の御河橋の西にあったが、その地は今は英国公使館所在地になって、東安門内の北池子胡内に移った。蒙古人は土物、例えば毛皮類、獣油、毛織りの敷物、などを携えて来て、自分の欲しい物と交換する。外館および裏館では、冬期中は蒙古人との交易で一年間の生活を支える。故に遺風天下を圧し、蒙古が来るといえば泣く子も黙ったという「蒙古来」の言葉も、いまはかえって屈辱服従の意味とともに、二、三の蒙古貿易業者の福音でしかなくなってしまった。
*清朝は満州人、愛親覚羅氏が興したもので蒙古人ではない。念のため。
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