「清末見聞録(清国文明記より)」・貢院①
貢院とは科挙試場つまり高等文官試験場である。天下に数カ所の貢院を設けて受験者を収容できるような設備がある。しかし今や新しい学問が台頭し、千余年来の習慣であった科挙を廃止し、日本および各国の留学生を殿試といって皇帝自ら試験の上、進士及第を賜うこととなったのでもはや貢院の必要はなくなった。特に北京の貢院は拳匪の乱(義和団の乱)に某国人がこれを破壊した(どこであろう、後で調べたい。アメリカか、イギリスか、フランス辺りであろう)から、その後はこれを使用することは出来なかった。あるとき、貢院はやがて取り壊されて学堂を新設する計画があるから早く行ってみなさいという服部博士の話があり、急いで小林学士と共に行ってこれを見てきた。
北京貢院は東城内にある。例の門番に門を開けてもらい、進むこと二十間(36m)ばかりで左へ回れば場の中央とおぼしきところに高楼がある。名づけて明遠楼という。その左右には軒の低い長屋のようなものが、東西に幾十の平行線をなして立ち並んでいる。この楼もかの長屋もすっかり毀れて寂れ果て、煉瓦の破片がゴロゴロとそこここに散乱して、いかにも荒涼としている。楼を過ぎてその北方に一棟の家がある。その内に乾隆帝御筆の詩を大理石に刻んだものが昔ながらに立っていて、今は軒から漏れる雨露にさらされている。
明遠楼は試験の際、監督官の居るところで、このほか場内の四周にさらに四高楼があり、同じく監督官の居るところである。今はわずかに東北隅の一楼だけ残っていて、他の三隅の高楼は跡形もない。前に云った軒の低い長屋は受験者を収容するところである。この長屋は煉瓦造りで、一棟を数十室に分けてある。そして、その一室の大きさは間口も奥行きも約三尺(90cm)で、軒の高さは私の耳くらいまで、室の奥のところで拳を握って差し上げた高さである。室の両壁には上下二段に穴が開けてあり、下の穴に板を差し入れて椅子とし、上の穴に板を差し入れて机とする。まことにわずかに膝を容れるに足りるだけしかない。かかる室が場中に約一万五千ある。
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